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(ジリチン毛/ジリチンモー)沖縄本島中南部にある浦添市「前田集落」に「ジリチン毛/ジリチンモー」と呼ばれる丘陵の森があります。「毛/モー」とは「野」の当て字で野原や広場を意味し「毛遊び/モーアシビ」という若い男女が野原や海辺に集まり飲食を共にして歌舞などで交流した集会にも「毛/モー」言葉が使われており、恩納村の「万座毛/マンザモー」の名称にも「毛/モー」という字が使われています。「前田集落」の「ジリチン毛/ジリチンモー」は県道38号線(警察署通り)沿いの「浦添グスク」や「浦添ようどれ」がある「浦添大公園」の南東端と「浦添市消防本部」に挟まれた丘陵の森に位置しています。「ジリチン毛/ジリチンモー」の西側には入り口の階段が丘陵の内部に続いています。(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷)(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷のウコール)(ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷の火の神)「ジリチン毛/ジリチンモー」入り口の階段を登ると左手に「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」の拝所があり、社の内部には石造りの古いウコール(香炉)と霊石が祀られています。拝所に向かって左側にはブロックで囲まれた「火の神/ヒヌカン」があり数個の霊石が供えられています。「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」は「前田集落」発祥の地で、初めてこの地に住んだ「根人/ニーチュ」の屋敷(根屋/ニーヤー)がありました。「前田」は「浦添グスク」の前方に広がっていた田畑の土地から名前が付けられたと伝わり、首里の士族がこの地に移り住み「ウチャーギウヤシチ/ウチャーギ御屋敷」に住み始めたのが「前田集落」の始まりだと言われています。現在は「前田集落」発祥の地たして人々に拝されています。(前田髙御墓/前田タカウファカ)(前田髙御墓の石碑)(前田髙御墓の手水鉢と霊石)(前田髙御墓のウコール)「ジリチン毛/ジリチンモー」の頂上付近には「前田髙御墓/前田タカウファカ」という墓があり、丘陵の高い場所に設けられた墓である事から「髙御墓/タカウファカ」と呼ばれています。この墓は県道38号線の改良工事のため、旧暦昭和50年乙卯12月13日に「前田名川原頂上1468番地」から現在の「前田山川原1962番地」に移転改修されました。この墓の前方に隣接する場所には「前田髙御墓」と刻まれた石碑、手水鉢、霊石が設置されています。さらに「前田髙御墓」の門石には霊石が祀られ、墓前には陶器製ウコール2基と石造りのウコール1基が祀られています。この石造りのウコールには「奉寄進/恵祖按司/前田按司/はか君加那し/恵祖子あや/久米きつは/てる君加那し/咸豊十一年辛酉九月/大里間切大城村/嶋袋筑登之親雲上」などの文字が記されています。(火の神/グフンシジの拝所)(火の神/ウミチムン)(グフンシジ)「前田髙御墓」の北側に隣接する小高い丘には「火の神/ウミチムン」と「グフンシジ」が祀られる拝所が建立されています。「火の神/ウミチムン」には3体の岩がカマド型に組まれており、4基の石造りウコール(香炉)と数個の霊石が供えられています。「ウミチムン」とは「3個のカマド石」を意味する言葉で、琉球古来から伝わる信仰で「火の神/ヒヌカン」が祀られています。一方「グフンシジ」は神が宿るとされる「ビジュル/霊石」を集落の守護神として崇めるのが一般的で、この拝所には数体の霊石と石造りのウコール(香炉)が祀られています。「火の神/ウミチムン」と「グフンシジ」のウコール(香炉)にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられ、現在も集落の住民により拝されています。(後之御嶽/クシヌウタキ)(まさら神)(ふえしじ之御嶽)「前田髙御墓」の西側には「後之御嶽/クシヌウタキ」「まさら神」「ふえしじ之御嶽」の合祀拝所があります。「前田髙御墓」と同様に県道38号線の改良工事のために「ジリチン毛/ジリチンモー」の丘陵に移設された拝所であると考えられます。もしくは「前田集落」は沖縄戦の激戦地でもあったため、戦争で破壊された御嶽や拝所がこの地に移動して祀られているとも考えられます。「後之御嶽/クシヌウタキ」にはウコール(香炉)2基が祀られており「まさら神」には、神が宿るとされる琉球石灰岩の岩塊とウコール1基が供えられています。更に「ふえしじ之御嶽」にはウコール(香炉)1基が設置された合祀拝所となっています。(ティーダウカー)(ユーアキガー/男泉)(ユーアキガー/女泉)「ジリチン毛/ジリチンモー」の南東端で「沖縄消防本部」に隣接する崖の上に「ティーダウカー」と刻まれた石碑が立つ井戸があります。「ティーダ」は沖縄の言葉で「太陽」を意味し、この井戸は見晴らしの良い南西方面に向いています。「ティーダウカー」の南側に隣接して「ユーアキガー/男泉」と呼ばれる井戸があり、円形の石で蓋が施された井戸の脇には石造りのウコール(香炉)が1基設置されています。この井戸は「ジリチン毛/ジリチンモー」の西側に隣接する位置にある「ユーアキガー/女泉」と対になっており、丘陵の森の地下に流れる同じ水脈から湧き出ていると考えられ「ジリチン毛/ジリチンモー」の「ミートゥーガー/夫婦井戸」とも呼べる古井戸となっています。この「ユーアキガー/女泉」には霊石1体と石造りのウコール(香炉)1基が祀られています。(前田大屋の墓/前田大王の墓)(前田大屋の墓/前田大王の墓の石碑)「ジリチン毛/ジリチンモー」の北西側の丘陵中腹には2基の「平葺墓/ヒラフチバー」と呼ばれる掘り込み墓が並んでいます。向かって左側が「前田大屋の墓」右側が「前田大王の墓」となっています。「平葺墓/ヒラフチバー」の古墓は主に士族層の墓で、首里から「前田集落」移住した士族がこの古墓に祀られていると考えられます。墓前の石碑には次のように記されています。『前田大王 昭和三九年 甲辰 旧八月十六日 (一九六 四年) 浦添市字仲間稲俣原一三二三番の墓より 前田 山川原一九五九番の墓に移転する 前田大屋 昭和三九年 甲辰 旧八月十六日 (一九六 四年) 浦添市字仲間稲俣原一二六六番の墓より 前田 山川原一九五九番の墓に移転する 平成十五年十二月十三日 戌申 旧十一月二十日』
2022.07.17
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(玉城朝薫/邊土名家の墓)沖縄本島中南部の浦添市前田にある「前田トンネル」の上部に「玉城朝薫/邊土名家の墓」があります。「玉城朝薫/たまぐすくちょうくん(1684-1734年)」は琉球独自の歌舞劇である「組踊/くみおどり」の創始者です。「玉城朝薫」の家系は代々、玉城間切の総地頭職を務めていた事から「玉城」を名乗りましたが、子孫の代に「邊土名/へんとな」と実名が変わりました。「玉城朝薫」は中国からの「冊封使/さっぽうし」を歓待するために琉球王府より踊奉行に命ぜられ、この時に生み出された「組踊」は1719年に初めて首里城で演じられました。「組踊」は音楽、舞踊、所作、台詞で構成され、その創作には琉球の故事をもとに物語が作られています。(三味台/サンミデー)(墓庭/ハカナーにある三味台/サンミデー)「玉城朝薫」が作った『二童敵討/にどうてきうち』『執心鐘入/しゅうしんかねいり』『銘苅子/めかるしぃ』『女物狂/おんなものぐるい』『孝行の巻/こうこうのまき』は特に「朝薫の五番」と呼ばれ高く評価されています。「組踊」は2010年に「ユネスコ」の無形文化遺産リストに登録されました。「玉城朝薫/邊土名家の墓」は沖縄特有の堀込式「亀甲墓/かめこうばか」で、墓の入り口である「門石/ジョウイシ」の正面は「三味台/サンミデー」と呼ばれ「香炉/ウコール」や御供物が備えられています。この古墓に向かって「墓庭/ハカナー」の左側には「三味台/サンミデー」の石台が設置されており、石造りの香炉、花瓶、湯呑が備えられ、普段から多くの参拝者に拝されています。(門冠い/ジョウカブイと相方積みの鏡石/カガミイシ)(亀甲墓に使われる実際の石柱)(玉城朝薫/邊土名家の墓下を通る前田トンネル)この古墓の内部は石を積んで壁や天井を組み上げており、天井は4本の柱で支えられています。「墓庭/ハカナー」の石積みは撥状に跳ね上がる形に開くなど、石積みに曲線を多用しているのが特徴です。「玉城朝薫/邊土名家の墓」は亀甲墓が成立してゆく17世紀後半から18世紀前半に造られたと考えられています。この墓の敷地には亀甲墓の内部に実際に使われた石柱のサンプルが展示されており、沖縄の古墓を知る上で非常に重要な資料となっています。墓下には2000年に開通した「前田トンネル」が通り、墓の東側には沖縄都市モノレール「ゆいレール」のレールが空中に敷かれています。このレールは墓の地点で軌道が不自然にカーブしており「玉城朝薫/邊土名家の墓」を迂回するため特別に建設されたと言われています。(メーヌハルガー/前ヌ原井戸の井戸跡)(メーヌハルガー/前ヌ原井戸の大岩)(ジングスク/銭グスク跡)「前田集落」の北東部に「メーヌハルガー/前ヌ原井戸」と呼ばれる井戸跡があります。かつて集落の農業用水として使われた「ハルガー/原井戸」で、集落の前方にあった事から「メーヌハルガー/前ヌ原井戸」と呼ばれていた考えられます。現在は井戸は塞がれていますが、井戸の脇に鎮座する大岩は現在も残されています。更に、集落の東側丘陵上に「ジングスク」と呼ばれるグスク跡があり、グスクを形成した巨岩の集落側崖下には墓があったと言われています。現在は丘陵が削られて公務員住宅が立ち並び、巨大な貯水タンクが建設されています。「ジングスク」の遺構や遺物は発見されていなくグスクの詳細は全く不明となっています。古老の伝承によると「ジングスク」は「銭グスク」の意味で「金蔵」があった場所だと伝わっています。(井の大人川/ヰのウシガー)(井の大人川/ヰのウシガーの拝所)(井の大人川/ヰのウシガー)「前田集落」の最西端に「井の大人川/イノウシガー」と呼ばれる古井戸があり「ヰのウシガー」とも表記されます。「大人/ダイジン」と書いて「ウシ」と言う尊い言葉から『井の中でも尊い井戸』の意味を持ち、その昔に琉球王府から授かった名称だったと伝わります。そもそも「前田」とは「浦添グスク」の"前"に広がっていた"田"から付いた集落の名前であり、周辺は水が豊富な土地でした。明治時代には7ヶ月も日照りが続いても井戸が枯れなかったと言われています。「井の大人川/ヰのウシガー」に向かって右側には井戸の拝所が設けられ、霊石が数体祀られており、水への感謝と水の神への祈りの場となっています。井戸の正面に立つ2つの石柱にはそれぞれ蛇口が設置され、井戸水が出る非常に珍しい仕組みになっています。(井の大人川/ヰのウシガーのウコール)(井の大人川/ヰのウシガーのコカコーラ商標)(社長 ウイリアム E. マチェットの刻銘)井戸に向かって左側にはウコール/香炉が設置されており、こちらも井戸に拝する場となっています。戦前は半月状に切石で縁取られた水溜めから湧き水を汲んでいましたが、戦後の1959年(昭和34)にコンクリート製のタンクに改修され蛇口から水が出るようになりました。この時「井の大人川/ヰのウシガー」の改修工事の費用を寄付した人物の名前が現在もタンクに刻まれています。総工費用は480ドル53セント(約17万3,000円/当時1ドル=360円)と記録が残されています。井戸のタンクには『Coca Cola』の標識ロゴが彫られており、その下には『社長 ウイリアム E. マチェット』と記されています。ウイリアム エドワード マチェット氏は当時「沖縄ソフトドリンクス」の社長を務めており、この会社は1968年(昭和43)に沖縄コカコーラボトリング株式会社として生まれ変わりました。「井の大人川/ヰのウシガー」は長い歴史を経て、現在も変わらず豊富な水が湧き出ているのです。
2022.07.12
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(前田の権現)沖縄本島中南部の浦添市「前田(まえだ)集落」の西部に「前田権現」と呼ばれる拝所があります。「キッチャキ石」と呼ばれる霊石を権現として祀られ、旅の安全や家内安全が祈願される拝所として人々に崇められています。「キッチャキ石」は「つまずき石」を意味する霊石で、四方をコンクリートで囲い正面に2箇所の覗き穴が設けられた祠の内部に「キッチャキ石」が祀られています。「前田権現」の祠には2つの石造りウコール(香炉)が設置されており、ヒラウコー(沖縄線香)と共に小さな霊石も供えられています。祠に向かって右側には中型の霊石も数体祀られており「前田権現」に於ける沖縄の霊石信仰の文化が現在も大切に継承されています。(前田権現/向かって左側の灯籠)(前田権現/祀られるウコールと霊石)(前田権現/向かって右側の灯籠)「前田権現」の祠には2基の灯籠が建立されており、左側の灯籠の3面にはそれぞれ「奉寄進」「嘉利二拾 庚戌 吉日」「阿氏 佐久田親雲上守祥」と彫られています。「阿氏/あうじ」とは琉球三国時代(南山・中山・北山)の南山王国の王族の血筋であり「佐久田」は前田集落に多く見られる姓です。さらに「親雲上/ペーチン」とは琉球士族の事で、その中でも地頭職という行政区域の領主を務めた士族は「親雲上/ペークミー」と呼ばれて区別されていました。「前田権現」には次のような伝承が残されています。『その昔、首里を往来する人々がこの地を通るたびにキッチャキ(つまずく)する石がありました。いくら片付けても石は元の場所に戻り、再び人々がつまずくので「キッチャキ石」と呼ばれるようになりました。(前田権現/向かって左側の灯籠)(前田権現/古井戸)(ハンタタイガー)そんな時、ある役人が使者として中国に赴く事になり「もしキッチャキ石の神様が権(かり)の姿であるならば、役目をきちんと果たし、何事もなく無事に帰国できるという私の願いをきっと叶えて下さるに違いない」と一心に祈りを捧げました。その後、役人は中国で役目を果たし、無事に沖縄に帰る事が出来たのです。』以来「キッチャキ石」は権現として人々が崇拝するようになり、古老によるとこれが「前田権現」の起源となり今も語り継がれています。「前田権現」には古い井戸があり権現の地から湧き出る水として住民に崇められています。井戸には古い石造りのウコール(香炉)と霊石が祀られています。「前田権現」の西側には「ハンタタイガー」と呼ばれる井戸があり「前田権現」の丘陵の地下を通る水源から湧き出ていたと考えられます。(トゥンチガー)(トゥンチガー向かいのヒヌカン/火の神)(トゥンチガー向かいのヒヌカン/火の神祠内部)「前田権現」から南東に60メートル程の場所に「トゥンチガー」と呼ばれる井戸跡があります。この井戸の北側には1基のウコール(香炉)と1体の霊石と思われる石が祀られています。「トゥンチ/殿内」はドゥンチとも言われ、脇地頭以上の家柄や親方(ウィーカタ)及び士族の家柄の屋敷を意味します。「トゥンチガー」はその屋敷で使われていた井戸の事で、そこから南側に道を挟んだ場所にある古い「ヒヌカン/火の神」は、かつてこの地に建てられていた「トゥンチ/殿内」の敷地に祀られていた「ヒヌカン/火の神」であると考えられます。北側に向けて造られた「ヒヌカン/火の神」の祠は3つの琉球石灰岩を組んで造られており、祠内部には古いウコール(香炉)と霊石が祀られています。(ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川)(ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川の拝所)「トゥンチガー」から東側に150メートル程の場所に「ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川」と呼ばれる古井戸があります。屋号「ナカミーヤー/仲新屋」の屋敷前にあった井戸であると考えられ、井戸の北側に向けて霊石が祀られており古い石造りのウコール(香炉)が設置されています。比較的に井戸の敷地が広いため、水量が豊富で様々な用途に使用されていたと考えられます。沖縄の屋号は「ヤーンナー」と呼ばれ、家の方位、位置、地理、家主の職業、本家か分家、兄弟の何番目など様々な事柄や特徴に因んで名付けられました。「ナカミーヤー/仲新屋」は屋号「ミーヤー/新屋」の一つの呼び名で、他にも「ミーヤーグヮー/新屋小・イリミーヤー/西新屋・ウシミーヤー/牛新屋・メーミーヤーグヮー/前新屋小」など多種に渡ります。(石川門中/川端の拝所)(石川門中/川端の仏壇)(石川門中/川端の位牌/ウチナーイフェー)(石川門中/川端のヒヌカン/火の神)「ナカミーヤーヌメーヌカー/仲新屋ヌ前ヌ川」から東に20メートル程の場所に「石川門中/川端の拝所」が建てられています。「石川門中/川端」と記された表札の建物の内部には仏壇があり3基のウコール(香炉)が設置され、それぞれに花瓶、酒椀、水椀が供えられています。向かって一番左端には「石川門中/川端の位牌」が祀られており、中央に『石川家先累代之 霊位』右上から『自得宗寿信士/釋浄徳信士/木覚道全信士』右下から『徳室妙寿信女/貞室豊雲信女』と名前入れされています。沖縄の位牌は「ウチナーイフェー」と呼ばれ、位牌札は上段が男性で下段が女性と決められています。仏壇に向かって左側には「石川門中/川端のヒヌカン/火の神」が祀られ、石造りウコール(香炉)に花瓶、酒椀、水椀が供えられています。(カーバタガー/川端井戸)(瑞穂の泉の石碑)(カーバタガー/川端井戸のウコール)「石川門中/川端の拝所」敷地の南側に面して「カーバタガー/川端井戸」があります。この井戸はこの土地に昔から住んでいた「川端家」の屋敷で使われていた井戸で、隣接する拝所はその後「旧姓川端の石川門中」として受け継がれたウガンジュであると考えられます。円形コンクリートの蓋が施された井戸には「瑞穂の泉」と彫られた石碑が立っており「昭和十八年四月二十二日改修」とも記されています。さらに、井戸の北側には石造りの古いウコール(香炉)が設置されています。「前田集落」に点在する井戸のウコール(香炉)はいずれも北側を向いており、その北側の先には「舜天王・英祖王・察度王」の3王朝が10代に渡り居住した「浦添グスク」の丘陵が構えています。「前田集落」では井戸からの水の恵みを王様からの恵みと重ね合わせて敬意を込めて拝していたと思われます。
2022.07.07
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(真地大権現堂/前田の普天間グヮー)沖縄本島中南部の浦添市「経塚(きょうづか)集落」に「真地大権現堂」という洞窟の拝所があり、一説によると権現八社の1つであると伝わっています。この土地は「経塚子の方原」と呼ばれる小字の東側丘陵で「前田/経塚近世墓群」に分類される古墓群に位置しています。この古墓群からは1701年に洗骨された「我謝筑登之親雲上」と女房、さらに1757年に洗骨された「那氏平敷筑登之親雲上」と同人妻の骨が発掘されました。「親雲上/ペーチン」とは琉球士族の事で、その中でも地頭職という行政区域の領主を務めた士族は「親雲上/ペークミー」と呼ばれて区別されていました。この丘陵にある「真地大権現堂」は別名「前田の普天間グヮー」と呼ばれており「普天満宮」の女神が休憩した伝説の洞窟として知られています。(真地大権現堂の鳥居)(真地大権現堂の石獅子/向かって左側)(真地大権現堂の石獅子/向かって右側)沖縄には「普天間グヮー」と呼ばれる拝所が6ヶ所あり、その内の5ヶ所は首里と普天間の間に点在する洞窟となっており女神が休憩した場所とされています。琉球八社の1つである「普天満宮」には首里桃原に女神が出現され、のちに「普天満宮」の洞窟に籠られた縁起伝承があります。 1「普天間グヮー/女神の生誕地」那覇市首里桃原 2「普天間グヮー/西森御嶽洞窟」那覇市首里儀保 3「普天間グヮー/真地大権現堂洞窟」浦添市経塚 4「普天間グヮー/前田権現洞窟」浦添市前田 5「普天間グヮー/嘉数ティラガマ」宜野湾市嘉数 6「普天間グヮー/神山ティラガマ」宜野湾市愛知 (旧神山/普天間基地内)(真地大権現堂の龍柱/向かって左側)(真地大権現堂の洞窟)(真地大権現堂の龍柱/向かって右側)次のような「普天満女神」由来の伝承が残されています。『昔、首里の桃原に美しい乙女が住んでいました。 とても優しく気品に満ちたその容姿が人々の評判となり、島中で噂となりましたが不思議なことに誰一人その姿を見た人はいません。彼女はいつも家で機織りに精をだし、決して他人に顔を見せませんでした。彼女の神秘的な噂に村の若者達は乙女に熱い想いを寄せていたのです。ある日の夕方、彼女が少し疲れてまどろむうちに荒波にもまれた父と兄が目の前で溺れそうになっている夢を見ます。乙女は驚き二人を必死で助けようとしましたが、片手で兄を抱き父の方へ手を伸ばした瞬間、部屋に入ってきた母に名前を呼ばれて我に返り、父を掴んでいた手を思わず放してしまいました。幾日か過ぎ、遭難の悲報とともに兄は奇跡的に生還しましたが、父はとうとう還りませんでした。(真地大権現堂の賽銭箱とウコール)(真地大権現堂の洞窟内に祀られた霊石とウコール)(真地大権現堂の燈篭と手水鉢)乙女はいつものように機織りをしていましたが、その美しい顔に愁いが見えます。 神様が夢で自分に難破を知らせて下さったのに、父や船子たちを救うことができなかった悲しさが乙女の心から放れません。以来、旅人や漁師の平安をひたすら神に祈り続ける毎日でした。 乙女の妹は既に嫁いでおりましたが、ある日夫が「姉様は美人だと噂が高いが、誰にも顔を見せないそうだね。私は義理の弟だから一目会わせてくれないか。」 と頼みました。暫く考えた妹は「姉はきっと断わるでしょう。でも方法があります。私が姉様の部屋に行き挨拶をしますから、そのとき何気なく覗きなさい。中に入ってはいけません。」と答えました。(御神託拜聞記念/陳氏比嘉門中の石碑)(真地大権現堂鳥居建立/奉納者/施工者)(真地大権現堂の土地に関する案内板)「姉様しばらくでございます!」 妹の声に振り向いた乙女は、障子の陰から妹の夫が覗いているのを見つけ、途端に逃げるように家を飛び出しました。末吉の森を抜け山を越え飛ぶように普天間の丘に向かう乙女に、風は舞い樹々はざわめき、乙女の踏んだ草はひら草になってなびき伏しました。乙女は次第に神々しい姿に変わり、普天間鍾乳洞に吸い込まれるように入って行ったのです。そして、それ以来再び乙女の姿を見た人はありません。 現身の姿を消した乙女は「普天満宮」の永遠の女神となったのです。』この時に乙女が暫し休憩を取ったとされる場所が、那覇市首里から宜野湾市普天間にかけて現在も点在する5ヶ所の「普天間グヮー」と呼ばれる洞窟となっています。(真地大権現堂/鳥居の額束)(真地大権現堂の前田/経塚近世墓群の丘陵)(比嘉家納骨堂)「真地大権現堂」の土地は戦後の所有者確認作業(1946-1951年)にて所有者が確認出来なかったため、現在も「所有者不明土地」となっています。しかし「真地大権現堂」には「乾隆四拾六年 辛丑 九月拾貳日 御神拜聞記念 陳氏 比嘉門中」と彫られた石碑が建立されており、鳥居建立の奉納者は「比嘉仁和氏」であり、更に「真地大権現堂」南側の丘陵中腹には「比嘉家納骨堂」があります。「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」第62条により、この120平方メートルの土地は浦添市が管理を行なっていますが「真地大権現堂」には「比嘉家」が深く関連している事が見て取れます。ちなみに「門中/ムンチュー」とは沖縄に於ける始祖を同じとする血縁集団の事です。17世紀後半、琉球王府による士族の家譜編纂の開始以降、士族階層を中心に沖縄本島中南部で「門中/ムンチュー」が発達したのです。(比嘉門中の墓/2号墓)(比嘉門中の墓/3号墓)(比嘉家之墓/比嘉家門中之墓)「真地大権現堂」がある「経塚子の方原」の小字から北東側に「前田東前田原」と呼ばれる小字があります。この小字の中心部にある「前田小学校」北側の砂岩層(ニービ)の丘陵中腹には初期の堀込墓である「比嘉門中の墓/2号墓」の古墓があります。ここから更に北東側は「前田前田原」の小字があり「比嘉門中の墓/3号墓」の堀込墓がある琉球石灰岩が隆起した大岩があります。この古墓の敷地には新しい「比嘉家之墓」と「比嘉門中之墓」が隣接しています。「真地大権現堂」も「比嘉門中の墓」の古墓も同じ「前田/経塚近世墓群」に属しており、昔から前田集落の住民と首里から移り住んだ琉球士族の墓が多数存在しています。「真地大権現堂」は家族の健康祈願に加えて、子どものすこやかな成長を願う「子育て祈願」に訪れる人が旧暦の9月を中心にして多くなり大切に拝されています。
2022.07.02
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(アブチ川に架かる安波茶橋/北橋)沖縄本島中南部の浦添市「経塚(きょうづか)」の最北端で、県立浦添工業高校の東側に「安波茶橋(あはちゃばし)」と呼ばれる石橋があります。南橋は小湾川に、北橋はアブチ川にそれぞれ架かっており、首里から読谷方面に抜ける「中頭方西海道(なかがみほうせいかいどう)」と呼ばれる、琉球王国時代に造られた幹線道路の宿道が通っています。「安波茶橋」周辺には現在も石畳道が当時のまま残されており、このアーチ型の石橋は昔から沢山の旅人や通行人で賑わいました。アブチ川に架かる北橋から川沿いを西側に下ると丘陵の森の麓に井泉があり、琉球王国時代から現在に至るまで変わる事なく水が湧き出ています。(北橋から赤皿ガーに向かう道)(赤皿ガー/アカザラガー)(赤皿ガー/アカザラガーの拝所)「安波茶橋/北橋」からアブチ川を伝って西側に進むと右手に「赤皿ガー」が現れます。琉球王朝最後の王様であった「尚寧王(1564-1620年)」が首里城から琉球ハ社の1つである普天満宮(宜野湾市)に参拝する途中、家来が琉球漆器の赤い皿(椀)で井泉の湧き水を汲んで国王に差し出していた事から、この井泉は「赤皿ガー/アカザラガー」と呼ばれるようになりました。ちなみに「ガー」とは沖縄の言葉で井泉や井戸を意味します。井泉の右脇の小さな洞穴にはビジュル(霊石)が鎮座しており、水の神様が祀られた拝所となっています。「赤皿ガー」は琉球王国時代から原型をとどめていると言われ「尚寧王」もこの「赤皿ガー」のほとりで暫し休憩を取っていたと考えられます。(西の井/イリヌガー)(西の井/イリヌガーの手押しポンプ)「経塚の碑」が建立されている「うちょうもう公園」の西側に「西の井/イリヌガー」と呼ばれる拝井戸があります。浦添市社会福祉協議会「ひまわり学童クラブ」に隣接する契約駐車場に古井戸が残されており、古く錆びた手押しポンプが設置されています。井戸は円形に石垣で積まれており、上部はコンクリート製の蓋が被せられています。井戸の周囲は比較的広い敷地が設けられているため「西の井/イリヌガー」は水量が豊富で、周辺住民の飲料水の他にも井戸の水で衣類の洗濯や野菜などを洗っていたと考えられます。現在は手押しポンプのハンドルは折れて紛失していますが、水道が普及するまで「西の井/イリヌガー」は周辺住民の憩いの場として賑わっていたと思われます。(古井/フルガー)(古井/フルガーの石碑)(古井/フルガーの手押しポンプ)(古井/フルガーの拝所)「経塚集落」を南北に通る「経塚通り/県道153号線」の近くで経塚1丁目6番地の住宅の庭先に「古井/フルガー」と呼ばれる拝井戸があります。その名前の通り「経塚集落」に古くからある井戸で、現在も比較的に保存状態が良い手押しポンプが現存しています。井戸の脇には「ふるがー」と彫られた石碑が建立されていてウコール(香炉)が設置されています。さらに2体のビジュル(霊石)が並んで鎮座しており、古くから水の神様を石に祀り水の恵みに感謝する拝所となっています。この「古井/フルガー」は現在もカーウガン(井戸の拝み)で祈りを捧げる、神聖な場所として周辺住民に崇められています。ちなみに、この手押しポンプは「川本式ポンプ」で、昔から品質の高い井戸ポンプとして広く知られています。(御殿井/ウドゥンガー)(御殿井/ウドゥンガーの手押しポンプ)「古井/フルガー」の南側に「御殿井/ウドゥンガー」と呼ばれる拝井戸があります。琉球王国時代末期の王族である「本部朝勇」と、その弟で空手家(琉球唐手)として名高い「本部朝基」が生まれた「本部御殿」が首里赤平村にありました。かつて「本部御殿」の別邸が経塚のこの地にありましたが沖縄戦で屋敷は失われてしまいました。しかし、別邸の屋敷で使われていた井戸が現在も残っており「御殿井/ウドゥンガー」と呼ばれています。この別邸跡の近くには「本部御殿墓」があり、さらに首里から普天満宮に通じる「中頭方西海道」も近かったため「本部御殿」の人々が墓参りやお宮参りの休憩場として「経塚集落」に別邸が建てられたと考えられています。現在も「御殿井/ウドゥンガー」は王族が使用していた井戸として「経塚集落」では大切に崇められているのです。(龍巻井/ルーマシガー)(龍巻井/ルーマシガーの石碑)経塚にあるショッピングモール「サンエー経塚シティ」の敷地北側に「龍巻井/ルーマシガー」という拝井戸があり、地元では「ドゥーマシガー」とも呼ばれています。井戸にはウコール(香炉)が設置され住民により拝されています。その昔、日照りの時に龍が天に立ち昇るのを見て、その地を掘ったところ水がこんこんと湧き出たことから「龍巻井/ルーマシガー」と呼ぶようになりました。それからこの場所は「龍巻/ルーマシ」と言われ、豊富な水資源に恵まれ稲作が多く営まれました。現在「龍巻井/ルーマシガー」は大型ショッピングモールの裏手にひっそりと佇んでおり、近くには「龍巻松の木公園」が整備されて地元住民の憩いの場となっています。(夫婦河/ミートゥガー)(夫婦河/ミートゥガーの石碑)(夫婦河/ミートゥガー/夫井戸)(夫婦河/ミートゥガー/婦井戸)「経塚の碑」がある「うちょうもう公園」から「経塚通り/県道153号線」を渡った西側に「夫婦河(ミートゥガー)」の拝井戸があります。敷地には2基の井戸が並んで据えられ、それぞれにウコール(香炉)が設置されています。向かって左側の井戸蓋には「夫」と彫られており、右側の井戸蓋には「婦」と彫られています。沖縄の言葉で「夫婦」は「ミートゥ」と言い、2基の井戸にはそれぞれ丸い形の霊石が祀られています。浦添市「経塚集落」は澄んだ水が湧き出る井戸が豊富で、先人は昔から水への感謝を示す為、井戸に線香をあげて祈りを捧げてきました。琉球王国時代から残る拝井戸は「経塚集落」の歴史に欠かす事が出来ない神様からの恵みの象徴として、現在も住民により大切に守られているのです。
2022.06.27
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(経塚の碑)沖縄本島中南部「浦添市」の北側に「経塚(きょうづか)集落」があり、この集落の東端は自然豊かな「ウチョーモー/お経毛」と呼ばれる森の丘となっています。琉球王国時代に造られた首里城と読谷村を結ぶ「中頭方西海道」と呼ばれる宿道沿いにあるこの森に、浦添市指定史跡の「経塚の碑」が建立されています。尚円王統の尚真王の時代(1477-1526年)に紀州(和歌山県)の真言宗知積院の住僧である「日秀上人」が沖縄に仏教を広めていた1522年、首里から浦添に通ずる道中の丘にマジムン(妖怪)が出没して人々を困らせていました。その話は尚真王の仏教の師となった「日秀上人」の耳にも入るようになり、マジムン(妖怪)が出ると言われる浦添の丘に出向いたのです。(経塚の碑/金剛嶺の石碑)(経塚の碑のウコール/香炉)(史跡経塚の碑の記念碑)「日秀上人」は「金剛経」のお経を記した石をマジムン(妖怪)が現れる丘に埋めて、その上に「金剛嶺」と三文字を彫った石碑を建てました。すると、たちまちマジムン(妖怪)は退散して人々は安心して通れるようになったそうです。この言い伝えから「お経を埋めた丘/塚」という意味で、この土地は「経塚」と呼ばれるようになりました。さらに、この「経塚の碑」がある「毛」と呼ばれる森を地元の人々は「お経毛/ウチョーモー」と呼ぶようになりました。現在も「金剛嶺」と記された石碑が建立する「経塚の碑」にはウコール(香炉)が2基と霊石が1体祀られる拝所となっており、集落の人々は「氏神」として大切に崇めて旧暦10月1日の祈願祭が執り行われています。(お経毛/ウチョーモー)(いちゃりば兄弟の碑)(いちゃりば兄弟の碑)「経塚の碑」が鎮座する「お経毛/ウチョーモー」には「いちゃりば兄弟の碑」と呼ばれる巨大な石碑が建立されています。「いちゃりば兄弟/ちょーでー」とは沖縄の有名な言葉で「一度出会えば皆兄弟」という意味を持ちます。「経塚集落」は1944年に、周囲にある「安波茶・前田・沢岻」の3集落の一部を割いて作られた新しい集落で「日秀上人」の『お経を記した石を埋めた塚』から「経塚」と名付けられました。3つの集落が寄り集まり、一度出会えば皆兄弟の一致団結を祈願して「いちゃりば兄弟の碑」は建てられました。さらに「お経毛/ウチョーモー」は「うちょうもう公園」に整備され、緑豊かな憩いの場として地域の住民に親しまれています。(経塚橋/ちゅうちかはし)(経塚橋/ちょうちかはし)「お経毛/ウチョーモー」の北側には小湾川に架かる「経塚橋/ちょうちかはし」があります。「経塚の碑」が建てられた土地周辺は琉球王国時代から「経塚/ちょうちか」と呼ばれており、この地から生まれた、地震の際に唱える有名な呪文が昔から伝わっています。ある時、旅人が「経塚/ちょうちか」で昼寝をしていると、近くの村人が大騒ぎをしているので目が覚めました。旅人が村人に聞くと「今、大地震があったのに知らなかったのですか?」と不思議そうに答えたのです。旅人は近くの村が全て大地震で揺れたのに経塚だけはお経の力で揺れなかったと知りました。この話が広く伝わり、それから沖縄では地震の際に『ちょうちか、ちょうちか』と呪文を唱えて、地震の揺れがいち早く止むように祈願する事になったのです。(安波茶橋/石畳道)(小湾川に架かる南橋)(アブチ川に架かる北橋)(安波茶橋と小湾川)「経塚の碑」の北側に続く「中頭方西海道」に「安波茶橋」があり、現在も琉球王国時代に敷かれた「石畳道」が残っています。「安波茶橋」と「石畳道」は1579年に「尚寧王」の名で浦添グスクから首里平良までの道を整備した時に造られたとされています。首里城と中頭(なかがみ)/国頭(くにがみ)方面を結ぶ宿道(幹線道路)として人々や旅人の往来で賑わい、琉球国王もこの道を通り琉球八社の1つである「普天満宮」に参詣しました。「安波茶橋」は石造りのアーチ橋で、小湾川に架けられた南橋とアブチ川に架けられた北橋から成ります。深い谷の滝壺の側に巨大な石を積み上げる大変な難工事であった事が分かり、当時の石積みや石橋作りの技術の高さが見て取れる非常に貴重な資料となっているのです。
2022.06.22
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(松川殿之毛拝所)沖縄県那覇市に「松川(まつがわ)集落」があり、集落の北部の丘陵地に「松川殿之毛拝所」と呼ばれるウガンジュがあります。この拝所がある敷地は「殿之毛(トゥンヌモー)」と称され「松川殿之毛拝所」は集落の守護神を祀る霊域となっています。首里王府時代に「殿之毛」北方から南西方向にかけて集落が形成され「茶湯崎村」と称されていました。清の官僚「徐葆光(じょほこう)」が1721年に著した「中山伝信録」には「松川」と記されており、松川脇地頭の所領地でした。明治初年に「松川村」と改称され、明治41年には「真和志村字松川」となりました。また、古くから「首里坂下」とも呼ばれてきた歴史があります。「松川殿之毛拝所」は「真壁・茶湯崎・安謝」の3村を管轄した「真壁(大あむしられ)」と呼ばれるノロ(祝女)が七神を祀り村の繁栄を祈願していました。(松川殿之毛拝所の内部)(松川殿之毛拝所の内部)(松川殿之毛拝所の内部)『賓頭盧尊神/じんずるそんしん』徳と救済・疫病祓いの神仏『土帝君/トウテイクゥ』土地と屋敷の神仏『金満善神』豊作と繁栄の神仏『御嶽火之神/ウタキヒヌカン』御嶽の根神、腰当神(クサティガミ)、祖霊神『東代御通し/アガリユーウトゥーシ』アマミクの世の神・アガリ世の神『中山御通し』首里親国御通し(遥拝所)『北山御通し』今帰仁あおりやへノロ、今帰仁世の神(松川殿之毛拝所/赤瓦屋根の上のシーサー)(殿之毛の石碑)(上之井/水神)「松川殿之毛拝所」の赤瓦屋根の上には一体のシーサーが鎮座しています。沖縄のシーサーは災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの役割がある他にも、幸せを離さない意味も込められています。「殿之毛」は現在「殿之毛公園」として整備され「松川集落」の人々の出会い、親しみ、賑わいを目的とした広場として活用されています。「殿之毛」と彫られた巨大な石碑をシンボルとして、旧6月の綱引きや旧3月の村遊び、更に沖縄相撲(角力)の他にも集落の諸行事の開催の場として「殿之毛公園」は住民の生活に欠かせない場所となっています。「殿之毛公園」には「上之井/ウィーヌカー」の水神を祀った祠が建立されており、祠内には古くから残るウコール(香炉)が設置されています。(上之井/ウィーヌカー)(前之井/メーヌカー)(サーター屋井/サーターヤーガー)「松川集落」は「今帰仁森/ナキジナームイ」を背景に、首里城の西側に位置しています。「殿之毛」の南側丘陵の麓には「上之井/ウィーヌカー」の井戸があり、手押しポンプが設置され、正面には魔除けの「ヒンプン」が井戸を守っています。この井戸から南側には「前之井/メーヌカー」があり、井戸にはウコール(香炉)と霊石が祀られ、同じく正面には「ヒンプン」が設置されています。さらに「殿之毛」の西側、坂下通りの松川交差点近くに「サーター屋井/サーターヤーガー」があります。「サーター屋」とはサトウキビを製糖する小屋の事で、製糖過程でこの井戸の湧き水が使われていました。井戸にはウコール(香炉)と霊石が祀られており、他の井戸同様に水の神を崇めて水の恵みに感謝する拝所となっています。(新屋敷/ミーヤシチの井戸)(新屋敷/ミーヤシチの賓頭盧神/ビジュル神)(新屋敷/ミーヤシチの拝所)「殿之毛公園」の西側駐車場に隣接する土地には「根屋/ニーヤー」と呼ばれる「松川集落」に最初に移り住んだ始祖の屋敷跡があります。現在は「新屋敷/ミーヤシチ」と呼ばれ、北側に向けられた3箇所の拝所が残されており「新垣家門中」と「豊村(旧姓新垣)門中」の土地となっています。敷地内には井戸を覆った祠があり、内部には石積みされた古井戸の穴が開いていて正面に霊石とウコール(香炉)が祀られています。この祠のすぐ後方にある別の祠内部には「賓頭盧神/ビジュル神」と記された霊石、もう1体の霊石、ウコール(香炉)が設置された拝所となっています。更に、この北側にはコンクリートのブロックでコの字型に囲まれた小型の祠がありウコール(香炉)が祀られています。(松川樋川/マチガーヒージャー入口)(松川樋川/マチガーヒージャー)琉球王国時代「松川集落」には綺麗な湧き水が多く、美人が多くいる場所として有名でした。「殿之毛公園」の北側で、首里城の西側に延びる尾根の南側丘陵に「松川樋川/マチガーヒージャー」の井泉があり、昔から『美人になれる湧き水』として地域住民に親しまれていました。この丘陵の下部は12〜14mの急斜面となっており、湧き水は主に泥岩で構成される豊見城層内から湧き出る地下水であると考えられています。「ノボホテル沖縄那覇」の敷地東側に「松川樋川/マチガーヒージャー」の入口があり、通路を進むとガジュマルの木の下に井泉が佇んでいます。この井戸は平面で見ると鍵穴型をしており、入口から2段の石段を下りた場所に広がる石畳みの踊り場は幅約1.2〜2m/奥行き約3.5mと細長く、両側は布積み(豆腐積み)の美しい石垣が積まれています。(松川樋川/マチガーヒージャー)(松川樋川/マチガーヒージャーの名板)(松川樋川/マチガーヒージャーの樋口)井泉の貯水槽は半円型で間口約1.9m/奥行き約1.5m/深さ約0.3mとなっています。中央の奥部は上下2段の張り出しとなっており、湧き水は下部の張り出しに設置された石樋を通じて流れ落ち、貯水槽の両側にはウコール(香炉)が1基づつ祀られています。「松川樋川/マチガーヒージャー」の踊り場や張り出しは実用的ではなく装飾的であるため、この井泉は地域住民が生活用水を汲んだり水浴びをしたムラガー(村ガー)ではなく、琉球王府の御殿や庭園の水場として造られたと考えられています。現在でも有名な『美女伝説』が残るこの井泉は「松川集落」では聖地と崇められ、多くの住民が線香を持ち寄り水の神に拝してるのです。
2022.06.17
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(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の拝所)沖縄県那覇市の中央部に「松川(まつがわ)集落」があり、この集落は1957年12月17日に那覇市に編入合併されるまで「真和志(まわし)市」という独立した市に属していました。それ以前は、1908年4月1日に「真和志間切」から「真和志村」になり、1953年10月1日に「真和志市」になった歴史があります。現在「真和志」という名前は「真和志小学校」「真和志中学校」「真和志高校」の名称のみに残されています。この「松川集落」には「チャナザチバシ/茶湯崎橋」と呼ばれる橋が「真嘉比(まかび)川」に架けられています。この橋にまつわる有名な伝承が存在し、そこから「ムジンクジンワカラン」と言う『意味がわからない』という意味の口語が生まれ、現在も多くの沖縄の人々が使用しています。(チャナザチバシ/茶湯崎橋があった場所)(現在の真嘉比川に架かる橋)現在の「ライオンズマンション松川」のエントランス付近には、その昔「チャナザチバシ/茶湯崎橋」が架けられており「真嘉比川」が流れていました。この橋は琉球王国から昭和期にかけて首里と那覇を結ぶ重要な橋で、創建年は不明ですが1674年の江戸時代に木造から石橋へと架け替えられました。かつて、この辺りまで船が遡って来たと言われ、18世紀に琉球王府の行政の最高責任者である三司官を務めた「蔡温(さいおん)」は、その著書「独物語(ひとりものがたり)」で『茶湯崎に湊を造れば交通の便が良くなり、さらに商船がやってきて交易ができる。そうなれば首里に住む人々の生活も良くなる』と記しています。今日の「真嘉比川」は戦後の区画整理で本来存在した場所からマンションの東側に数十メートル程移動しています。(真嘉比川に架かる橋の北側)(真嘉比川に架かる橋の南側)「尚真王」(1465-1527年)の時代、和歌山県の那智から西方浄土を目指して舟を出した「日秀上人(にっしゅうしょうにん)」という、沖縄に仏教を広めた僧侶がいました。当時、那覇から首里に上る「松川」にマジムン(妖怪)が多く出て道行く人が恐れて困っていました。それを聞いた「日秀上人」は「松川」の「指帰(さしかえ)」の地にマジムンを退散させる為、1519年に「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の北側に呪文を彫った石碑を建ててマジムン退散の祈祷をしました。すると、この石碑と「日秀上人」の祈祷の力で、たちまちマジムンは退散して人々が無事に通れる道になりました。そもそもその石碑は梵字(サンスクリット語)で記されており、人々は全く読めなかったので『ムジンクジンワカランマチガーヌヒムン(文字も故事も分からない松川の碑文)』と言われるようになりました。(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の拝所)(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の石碑)(チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡の石碑)その後、意味がわからない事や理解できない事を「ムジンクジンワカラン」と表現するようになり、現在は更に言葉が訛り変化して「イミクジピーマン」とも言われるようになっているのです。沖縄県立図書館には首里の古い地図が保管されており「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の東側には「松川の碑文」の石碑が描かれています。この石碑は明治期までは残されていましたが、その後の道路整備のために残念ながら現存していません。しかし「松川の碑文」の石碑があった場所と考えられる場所には現在、拝所として石碑が2体祀られウコール(香炉)が2基設置されています。向かって左側の四角い石碑には微かに「金剛綘」とも読み取れる文字が彫られていますが定かではありません。正に、これこそが「ムジンクジンワカラン」であると言えます。(現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはしの橋名板)(現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはし)(現在の茶湯崎橋/ちゃゆざきはしの橋名板)「チャナザチバシアト/茶湯崎橋跡」の直ぐ南側に同じ「真嘉比川」に架かる橋があり、この橋には現在「茶湯崎橋/ちゃゆざきはし」という名称が付けられています。1945年(昭和20)の沖縄戦の後「松川集落」は道路整備に伴い、元の「チャナザチバシ/茶湯崎橋」の道は旧道となり橋の北側を走っていた電車軌道跡(1933年/昭和8に廃止)が新たな県道となりました。更に川筋も変えられて新しい道路も造られた事から、1953年に橋の位置も移動して新たな「茶湯崎橋/ちゃゆざきばし」が竣工されました。この橋の名称が刻まれた石版は橋が建築された当時のままで、那覇市歴史博物館の写真資料では彫られた橋の名称が当初は黒く塗られていた事が確認出来ます。(現在の指帰橋)(現在の指帰橋の橋名板)(現在の指帰橋/安里川/真嘉比川)「茶湯崎橋/ちゃゆざきはし」の南側で安里川と真嘉比川が合流する地点に「指帰橋/さしかえしはし」が架かっています。この橋の名称はかつて琉球王国時代に、この土地に実際にあった「指帰橋/サシケーシバシ」から受け継がれたもので、首里の儀保や山川を水源とする「真嘉比川」と首里の崎山や金城の周辺を水源とする「金城川」が合流し「安里川」の本流となる首里坂下に架設された橋です。造られた当初は木橋は近世になり石橋に改築され、現在は坂下上り口の元国道の地下に埋設されています。明治末期発行の「大日本地名辞書/第八巻」には『指帰橋は首里坂下安里川の交流に架す。昔は、諸島の貢船、川をさかのぼりて来り泊り、満潮を待ってかえりし故になづく』と記されています。(現在のさしかえしはしの橋名板)(真嘉比川と安里川の合流地点)(指帰橋の安里川の名板)新訳「球陽外巻/遺老説伝」第19話に「指帰橋」が次のように記されています。『遠い昔の時代、小橋がこの地(茶湯崎邑の西、首里より那覇に行く大きな路にある場所)に設けられ、人々はよく往き来していました。そして木食い虫のために損なわれては、たびたび修繕して、その心配がなくなることはありませんでした。近世になって、王は、側近の家臣に命じて石を築いて橋を造らせました。この橋を架けた時代、海水が出たり入ったりしていて、水も深くて川幅が広く、北山の色々な船が、ここに到着して停泊していました。そして海水が満ちてくる時はいつも、川からの水のために押しかえされるのでした。そんなわけでその橋を名付けて「指帰橋さしけーしばし/さしかえしばし」といいます。』
2022.06.12
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(シナハウガンジュ/瀬名波御拝所)沖縄の言葉で"岩場が多い地域"と言う意味の「シナハ」または「シナファ」とも呼ばれる「瀬名波(せなは)集落」は沖縄本島中部の「読谷村(よみたんそん)」に位置しています。現在の「瀬名波集落」は「瀬名波原(シナハバル)」という土地に広がっており、その中央部には「シナハウガンジュ/瀬名波御拝所」と呼ばれる社が建立され「ノロ殿内/ヌルドゥンチ」とも呼ばれています。この「ノロ殿内/ヌルドゥンチ」とは、琉球神道における女性の祭司(巫/祝女)である「ノロ」が暮らした屋敷があった聖域を意味します。琉球王府により正式に任命された「ノロ」は「ヌル」または「ヌール」とも呼ばれています。(シナハウガンジュ/ノロの火の神)(シナハウガンジュ/瀬名波御拝所の神棚)(シナハウガンジュ/ヌール神の霊石とウコール)「シナハウガンジュ/瀬名波御拝所」はほぼ北側に向けて建てられており、その敷地は古い石垣で囲まれています。仏壇に向かって左端には「ノロのヒヌカン/火の神」が祀られていて3体のビジュル(霊石)と白い陶器のウコール(香炉)が設置されています。仏壇には4柱の位牌にそれぞれ2基の花瓶と湯呑、ガラスのコップとウコール(香炉)が供えられています。更に、正面の中央手前には古い木製の神皿が置かれ、御賽銭が奉納されています。仏壇に向かって右端は「ヌール神」が祀られた拝所となっており、中央奥に鎮座した霊石を囲むように7つの石製ウコール(香炉)が設置されています。ウコールにはそれぞれ1個づつ小さな霊石が置かれています。(津波家先祖代々之生霊の位牌)(のろ神之霊位の位牌)(馬に乗るノロを描いた彫刻)仏壇には「津波家先祖代々之生霊 歸元 霊位」と記された位牌があり、その向かって右側には「のろ神之霊位」と書かれた位牌があります。「シナハウガンジュ/瀬名波御拝所」は「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」とも呼ばれ「崎原巫(ノロ)」が住む屋敷が建てられていた聖域でした。「瀬名波ノロ」とも呼ばれる「崎原巫」は「瀬名波」のみならず周辺の「長浜」「渡慶次」「儀間」「宇座」「高志保」の6つの集落の祭祀を管轄していました。「ヌール神の拝所」にはノロ神のウコール(香炉)を中心に6つの集落を意味する6つのウコール(香炉)が祀られています。この拝所には周辺集落の祭祀に馬に乗って出向く「崎原巫/瀬名波ノロ」を描いた古い彫刻が飾られており、ノロの文化や歴史を知る上で非常に重要な資料となっています。(神アサギ毛/神サギモー)(神アサギ毛/神サギモーの霊石)「シナハウガンジュ/瀬名波御拝所」の北東側に「神アサギ毛」と呼ばれる場所があり「神サギモー」の名称でも知られています。「神アサギ毛」は「崎原巫(ノロ)」や集落の「カミンチュ(神人)」が神を招請して祭祀を執り行う「神アサギ」が建てられていた聖域でした。かつて「神アサギ毛」の周辺には松の木や、沖縄の言葉で「マーニ」というクロツグ(ヤシ科の植物)が生い茂っていた広い土地であったと伝わります。「瀬名波集落」を始めとする周辺の6つの集落を管轄していた「崎原巫(ノロ)」の霊力による祭祀は大規模なものであったあっと考えられます。現在の「神アサギ毛」には祠が建立されており、内部には大型の霊石が鎮座しています。(旗スガシー道/シナハウガンジュ側の入り口)(瀬名波根屋/城間)(旗スガシー道/瀬名波公民館側の入り口)「シナハウガンジュ」の南側から「瀬名波公民館」に続く道は「旗スガシー道」と呼ばれています。「旗スガシー」とは五穀豊穣や集落の繁栄、住民の無病息災を祈願する「道ジュネー」と呼ばれる先祖供養の祭事です。エイサーの踊りと共に集落を練り歩く行事で、沖縄では夏の風物詩と言われる大切な伝統芸能です。この「旗スガシー道」沿いには「瀬名波根屋/城間」と呼ばれる集落発祥の家があります。その昔「シリヤマ」と呼ばれる集落北側の岩山にあった「城間」の家が火事で焼けてしまい、毎年旧暦12月1日を「用心燈の日」として火の用心を呼びかける「ヒーマーチウガン」の行事が行われるようになりました。「瀬名波根屋/城間」には「ヒーマーチ」の神が祀られています。(シリヤマ)(シリヤマのハンタ)「瀬名波集落」の東側で「半多原」と呼ばれる土地に「シリヤマ」と呼ばれる岩山があります。この岩山の更に東側は断崖絶壁付のハンタ(崖)となっており、昔は周辺住民に非常に恐れられていました。「シリヤマ」は「瀬名波集落」発祥の地と言われ、ニーチュ(根人)と呼ばれる「城間家」が暮らしていました。この岩山には「城間門中」の拝所である祠があり「ティラの神」が招請されています。「門中」は「ムンチュー」と発音し、沖縄県における始祖を同じくする父系の血縁集団の事を意味します。旧暦2月1日と8月1日の大御願(ウフウガン)、旧暦3月3日の清明祭(シーミー)、旧暦12月24日の解き御願(フトゥチウガン)の際に拝されています。(城間一門拝所)(城間一門拝所の祠内部)(元寺上霊城間之墓)「シリヤマ」と瀬名波海岸の間に「瀬名波ヤラジャー」という一段と高い岩山があり、周辺は「グシクヌウチ」と呼ばれるセジ(霊力)が高い場所として知られていました。「瀬名波ヤラジャー」にはドーム状の洞穴があり、古い人骨が祀られた「ヤラジャーヌティラ」がありました。戦後、米軍施設の建設により移転を余儀なくされ、北西側の「シリヤマ」の岩山に勧請されました。「瀬名波集落」ではこの「ヤラジャーヌティラ」の神を観音堂の神と同様として拝しています。「シリヤマ」には「城間一門拝所」の祠があり、読谷石灰岩の荒々しい岩肌に霊石が祀られています。さらに「元寺上霊城間之墓」と記された墓も隣接されています。この「シリヤマ」は「瀬名波集落」発祥の地であり、現在も神が宿る聖域として崇められているのです。
2022.06.07
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(カンカーモーのガジュマル)沖縄本島中部に読谷村(よみたんそん)があり、村の北部の海岸沿いに「瀬名波(せなは)集落」があります。この集落の発祥は「瀬名波の浜」の南西側にある「ハンタバル(半多原)」にある「シリヤマ」と呼ばれる岩山周辺であり、その後に集落は北側の「カガンジバル(鏡地原)」に移動しました。この土地には「琉球国由来記(1713年)」にも記される「カガンジウタキ(鏡地御嶽)」が現存します。しかし、水捌けが非常に悪く大雨が降ると酷く冠水する土地であったため、1737年に南側の「久良美知屋原」に集落は移動しました。更に1776年に集落は近隣の「高志原」の土地に移動し、最終的に現在の「瀬名波原」と呼ばれる地域に「瀬名波集落」が定着して現在に至ります。(カンカーモー)「瀬名波集落」の北部で、かつて「高志原」と呼ばれた現在の「ヤーヌクシバル(屋之後原)」と「瀬名波原」との境界線に、大小多数の石垣で囲まれた「カンカーモー」と呼ばれる広場があります。ガジュマルの巨木が聳え立つこの地は旧暦の4月1日と8月1日に「カンカー」と呼ばれる悪霊払いの祭祀が執り行われる場所となっていました。集落に「フーチ」と呼ばれる流行病や疫病が入り込まないように、集落の入り口である「カンカーモー」の広場で牛を潰し、その血を小枝に付けて各家庭の屋敷の四隅に立てて厄祓いをしました。牛の骨を集落の各要所に吊り下げて悪霊払いをし、牛の肉は集落の住民に分けられて食されたと伝わります。(不動/イーヌファ/亥の端)(不動/イーヌファの石碑)「瀬名波集落」には集落の四方に「不動」と呼ばれる石碑が祀られた祠が建立されています。「不動」は「フルー」と呼ばれ「不動明王」に由来し、集落の4箇所を守護する神として崇められています。この「不動」の石碑は設置された方角を十二支で表しており、集落の北北西の方角には「イーヌファ/亥の端」と呼ばれる「不動」が鎮座しています。「瀬名波原」と「屋之後原」との境にある森に建立されており、古老によると昔は「不動」の場所を超えた土地に屋敷を建てて住んではいけないと言われていたそうです。現在は「女性専用癒しの宿/みるく家」というヒプノセラピー&宿泊施設の北側の森に「イーヌファ」の「不動」の石碑があります。(不動/トラヌファ/寅の端)(不動/トラヌファの石碑)「瀬名波集落」の東北東に「トラヌファ/寅の端」と呼ばれる「不動/フルー」があります。県道6号線沿いで嘉手納警察署瀬名波駐在所の南側に建立された、この「不動」は集落の「瀬名波原」と「半多原」の境に設置されています。「トラヌファ」の「不動」がある「半多原」には「シリヤマ」と呼ばれる「瀬名波」発祥の地と呼ばれる岩山があり、昔は人々に恐れられていた断崖絶壁の地であった土地と言われています。さらに「半多原」には「トウヤマグシク」と呼ばれる丘陵のグスク森が広がっています。かつて「トラヌファ」の「不動」はこの地で「瀬名波集落」を東北東から守護しており、現在でも保存状態が良い環境で「不動」の祠と石碑が鎮座しています。(不動/ミーヌファ/巳の端)(不動/ミーヌファの石碑)「ミーヌファ/巳の端」の「不動」が集落の南南東の方角にあり、祠内に石碑が祀られています。この「不動」は「瀬名波原」と「屋之前原」の境に鎮座しており、集落北側の「ヤーヌクシバル/屋之後原」に対して南側は「ヤーヌメーバル/屋之前原」の土地が広がっています。この「屋之前原」には「屋之前原遺跡」の森があり、遺跡の西側には1895年(明治28)に分校として設立され、1902年(明治35)に独立開校した「読谷村立渡慶次小学校」があります。小学校の敷地内には「沖縄の名木百選」に選ばれた「渡慶次のガジュマル」があり、この古樹は1904年(明治37)に創立3周年記念木として植えられた古い歴史があります。(不動/サルヌファ/申の端)(不動/サルヌファの石碑)(サルヌファ/申の端のチンガーグヮー)「瀬名波集落」の西南西の方角に「サルヌファ/申の端」の「不動」が鎮座しています。この場所は「瀬名波集落」の西側に隣接する「渡慶次集落」との境目で、他集落からの疫病や悪霊を封じ込める役割りがあります。この「サルヌファ/申の端」の広場には「チンガーグヮー」と呼ばれる井戸跡が残されています。水道が普及する以前の「瀬名波集落」は水の資源を確保する事が非常に困難で、この「チンガーグヮー」の井泉は集落の住民に大変重宝されていました。現在、井戸跡にはウコール(香炉)が設置されており、住民により水の神様を拝する聖域となっています。(瀬名波中道/渡慶次小学校側の入り口)(瀬名波中道/川平原側の入り口)(カニチグチ)「瀬名波集落」の西側に集落を南北に渡って通る「瀬名波中道」と呼ばれる主要な道があります。南側の入り口は「渡慶次小学校」の西側で、北側の入り口は「川平原」と呼ばれる土地に隣接しており「カンカーモー」の脇を通過します。「瀬名波中道」の中間地点の長い直線の道路には「カニチグチ」という場所があります。「カニチグチ」とは綱引きの際に雄綱と雌綱をカナチ棒(かんぬき棒)で一つに連結する場所を意味します。「瀬名波集落」には古の先人達が残した大切な伝統文化が息づき、歴史を感じさせる風景が現在も数多く残されているのです。
2022.06.02
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(瀬名波ガー道)沖縄本島中部にある読谷(よみたん)村に「瀬名波(せなは)集落」があり、集落の東部には「瀬名波海岸」の美しい天然浜が広がっています。その昔、この一帯には「川平屋取(かわひら)集落」と呼ばれる屋取(ヤードゥイ)集落がありました。屋取集落とは18世紀の初めに、首里から士族の帰農により沖縄本島の各地に形成された小村落を言います。なお、この土地には「川平原貝塚」があり、紀元前5000年頃から11〜12世紀のグスク時代の始まりまでの「沖縄貝塚文化」の時代から人が生活していました。この「瀬名波ガー道」は琉球王府が編纂した歌謡集の「おもろさうし」には「瀬名波川平」や「瀬名波磯坂」と謳われています。(アバシヌンジシティガマ)(アバシヌンジシティガマ)「瀬名波ガー道」を下り浜に出る手前に「アバシヌンジシティガマ」と呼ばれる自然洞窟があります。沖縄戦の際に集落の住民の避難壕として利用されていました。この洞窟の上にアメリカ軍の爆弾が落ちましたが、巨大なガマは頑丈で壊れず避難していた人の全てが無事でした。「アバシヌンジ」は"ハリセンボンのトゲ"を意味し「シティ」は"捨てる"を意味します。この「ハリセンボンのトゲを捨てる洞窟」を意味するガマは貝塚時代の先人が暮らした住居跡と考えられています。更に、かつてはこの周辺で採れる「クチャ」と呼ばれる粘土質の泥土を石鹸代わりにして水浴びをしたとも伝わっています。(瀬名波ガー)(瀬名波ガー)「アバシヌンジシティガマ」の西側にある岩陰から「瀬名波ガー」の水が湧き出ています。水道が普及される前まで「瀬名波集落」は水源が乏しく集落内の井戸も少なかったため「瀬名波ガー」で洗濯や水浴びをしていました。戦前まで近隣の「川平集落」の住民は急勾配の坂道を上り下り「瀬名波ガー」から水を各家庭に人力で運ぶ重労働を強いられていました。集落で子供が産まれると産水として井戸の水が利用され、旧正月元旦には若水を汲んでいました。1904年の大干魃でも井戸の水は枯れず、周辺の集落から「瀬名波ガー」に水を汲みに来ていたと伝わります。亥年の最初の亥の日に「瀬名波ガースージ」と呼ばれる祝いの祭祀が行われています。(イービヌメー/イービヌ前)(イービヌメーの風葬墓)(イービヌメーの堀込墓)「瀬名波ガー」の南東側に「イービヌメー/イービヌ前」と呼ばれる岩石の自然トンネルがあります。「イビ」とは「琉球国由来記(1713年)」では「イベ」とも呼ばれ、神が宿る聖なる場所を意味しています。この天然岩のトンネルは神の領域への入り口として崇められ「瀬名波集落」ではシーミー「清明祭」に住民により拝されています。「イービヌメー」のトンネル内部には古い風葬墓が現在も残っており、洗骨された遺骨を収める亀厨子を囲む為に幾つもの石が積み上げられています。また「イービヌメー」のトンネルを抜けると岩崖の中腹にある天然洞窟を利用した堀込墓もあります。この古墓の墓門には献花が供えられ、現在も子孫により大切に参拝されています。(イェーヌガマの風葬墓)(イェーヌガマの風葬墓)(イェーヌガマの風葬墓)「イービヌメー」の隧道(トンネル)を抜けた先には「イェーヌガマ」と呼ばれる自然洞窟の北側の入り口があります。「クラシンガマ/暗しんガマ」とも呼ばれる薄暗いガマの内部を進むと沢山の石が積まれた大小幾つもの風葬墓が点在しており「イェーヌガマ」は主に風葬の為に利用された洞窟である事が分かります。集落から離れた崖下の浜に隣接したこのガマは、死者の遺体を効率よく腐敗させて骨にする為に適した環境がある自然洞窟でした。風葬墓は沖縄の墓の種類で最も古い形の墓であり、火葬が普及する以前から存在した昔の沖縄の風葬文化を知る上で非常に重要な資料となっています。(イェーヌガマの東側入り口)(イェーヌガマの堀込墓)(堀込墓の内部)「イェーヌガマ」の東側の浜からの入り口には、漂流してきた1本の大木と2つの巨岩があります。この巨岩はガマの門のように鎮座しており、まるで沖縄の古民家の入り口を悪霊から守る「ヒンプン」のように見えます。ガマの内部には石垣で積まれた古い堀込墓が構えており、解放された墓門からは古墓の内部が確認出来ます。現在この古墓は既に墓じまいが済んでいますが、墓の内部には厨子甕の破片や昔の石や木材が数多く残されています。更に堀込墓の内部構造も綺麗に保存されており、沖縄の古墓の内部形状、使われた石材や加工技術などを解釈する為に非常に貴重な文化財となっています。(瀬名波ガー周辺の石切場)(瀬名波ガー周辺の洞窟群)(瀬名波ガー周辺の洞窟群内部)「瀬名波ガー」の南側の海岸線は自然海食した洞窟群が続いており、大小様々なガマが多数点在しています。この一帯の浜はかつて石切場として上質な石材が切り出されており、現在は石切場の跡が綺麗に残されています。おそらく、ここで切り出された石材は「イェーヌガマ」内部の風葬墓や堀込墓に使用されていたと考えられます。「瀬名波ガー」周辺の洞窟群は海岸線の南北に大規模に広がっています。沖縄戦の際にはこの洞窟群に「瀬名波集落」の人々のみならず、多くの周辺集落の住民が食料を持ち込み防空壕として避難し、近くの「瀬名波ガー」の湧き水を飲んで戦禍を生き延びたと伝わっています。(チーヤグヮー)(チーヤグヮーヌガジラーシー)「イェーヌガマ」から南東側の浜辺に「チーヤグヮー」と呼ばれる丘陵があり、その麓一帯は大きめの岩が大規模に渡り積み上げられています。「チーヤグヮー」の丘陵中腹にはムンチュー墓(門中墓)、亀甲墓、古い堀込墓など多種多様の沖縄の墓が集中しています。この「チーヤグヮー」の浜に「チーヤグヮーヌガジラーシー」と呼ばれる自然溶食により造り出された石灰岩があります。溶食とは石灰岩が海水と炭酸ガスの働きにより分解される化学的作用の事を言います。更に「ガジラーシー」とはキノコ型に溶食された岩の名称で、長い年月をかけて少しずつ現在の造形美を創り出しているのです。(瀬名波ガーヌガジラーシー)(飛び込み台とヌファイグムイ)「瀬名波ガー」から東側の浜に「瀬名波ガーヌガジラーシー」と呼ばれるキノコ型の溶食石灰岩があります。その脇に隣接して「飛び込み台」の型をした岩場と「ヌファイグムイ」と呼ばれる溜池があります。これからは神が宿るとされる「イービヌメー」を取り囲むように位置しています。荒々しい岩場が多い地域で力強く生きてきた「瀬名波集落」の住民の精神を「瀬名波ガー」にかけて、次のような歌が謳われています。「シナハガーヌミジヤ イシカラガワチュラ イキガカライナグ クトゥバクファサ」(瀬名波ガーの水は 石から湧き出ているのだろうか 男も女も言葉遣いが荒いよ)
2022.05.29
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(シナハウガン/崎原嶽)沖縄本島中部西海岸の「読谷(よみたん)村」北部に「瀬名波(せなは)集落」があります。海岸沿いにあるこの集落は「読谷石灰岩」の地盤が広がっており「シナハ」または「シナファ」とも呼ばれています。この名称は沖縄の言葉で"岩場が多い地域"という意味に由来しているそうです。「瀬名波集落」は読谷村で最も古い集落の一つとして歴史が長く、首里王府により編纂された歌謡集である「おもろさうし(1531-1623年)」には「せなはかわひら(瀬名波川平)」や「せなはいしよひら(瀬名波磯坂)」と謳われているように「瀬名波ガー」と呼ばれる井泉がある「瀬名波海岸」に下りる美しい岩場の絶景が特徴的です。(シナハウガン/崎原嶽の祠内部)(シナハウガン/瀬名波ウガンの遥拝所)「瀬名波集落」の北側に「シナハウガン/瀬名波ウガン」という御嶽の森があります。「琉球国由来記(1713年)」には「崎原嶽」と記されており、集落の大御願やフトゥチウガン(解き御願)の際に拝されています。戦前は集落の出征兵士が戦場に赴く前に「シナハウガン」で武運長久を祈願しました。また、本土へ旅立つ人が乗った船が集落の沖合に通りかかると、焚き火をして舟送りをする場でもありました。「シナハウガン」のイビである祠内部には幾つもの古いビジュル(霊石)が祀られており、現在でもヒラウコー(沖縄線香)をお供えして御願する人々が多数訪れます。さらに、御嶽の森の麓には高齢者や足が悪い方が御願する為の「遥拝所」が設けられています。(按司墓跡之碑)(カクリグシク)(カクリグシクの按司墓)「シナハウガン/崎原嶽」の南側に「カクリグシク」と呼ばれるグスクの岩山があり、丘陵中腹の洞穴に「按司墓」が存在します。戦乱の時代に、ある按司がこの地まで逃れて来て亡くなったと伝わっています。この「按司墓」は集落の「シーミー(清明祭)」の時に拝されており、現在は「シナハウガン」の遥拝所に「按司墓跡之碑」と彫られた石碑が建立しています。古墓を由来とする「カクリグシク」は別名「シナハグシク(瀬名波グスク)」と称され、民俗学者の「仲松弥秀(なかまつやしゅう)」によるとグシクは『石垣に囲まれ、神が存在、または天降る聖所で、神を礼拝する拝所と一つにした聖域である』と定義しています。(イユミーバンタ)(ムイヌカーヌガジラーシー)(スーキ屋敷跡)「瀬名波集落」最北端は海に向かって断崖絶壁になっており、この崖の上は「イユミーバンタ」と呼ばれる魚の群れを発見する場所でした。「イユミーバンタ」から南側の崖下には「ムイヌカーヌガジラーシー」と呼ばれる溶食により特徴的な形をした岩礁があります。この名称の由来となった「ムイヌカー」と呼ばれる井泉がこの崖下にあり、かつて戦に逃れた按司が井泉の水を飲み命を繋いだと伝わっています。それに乗じて井泉は「ウムイヌカー(思いのカー)」とも呼ばれています。なお、この按司は「カクリグシク」の「按司墓」に葬られている同一人物だとされています。「イユミーバンタ」の南西側には「スーキ屋敷跡」と呼ばれる場所があり「スーキ」と呼ばれるモンパの木と共に屋敷跡が残されています。(カガンジウタキ/カガミ瀬嶽)(カガンジウタキ/カガミ瀬嶽の祠内部)「瀬名波集落」中央部の「カガンジバル(鏡池原)」に「カガンジウタキ/カガミ瀬嶽」と呼ばれる御嶽があり「カガンジヌウカミ」や「鏡地御嶽」とも呼ばれています。「琉球国由来記(1713年)」には「カガミ瀬嶽/神名:テルカガミノ御イベ」と記されており「瀬名波ノロ」が祭祀を司る拝所として崇められていました。「カガンジウタキ」の祠内部には複数のウコール(香炉)と霊石が祀られており、前庭には石製の丸柱や四角柱が3本立っています。集落の大御願、フトゥチウガン、ウマチー(旧暦2月、3月、5月、6月)などで拝され、御嶽の木陰は「瀬名波ノロ」が休憩する場所でもありました。(ジュリグヮーシー)(チンガー)「カガンジウタキ」の北側に「ジュリグヮーシー」と呼ばれる「瀬名波集落」に伝わる伝説の場所があります。「カクリグシク」に身を隠す按司を討ち取る為に追手が迫っている危機を事前に聞いた「ジュリ」という遊女が、按司にその事を知らせようとしました。しかし「ジュリ」は追手にこの場所で殺されてしまいます。それからこの場所は霊力が高く、昼間でも三線の音色が聴こえてくるとして人々に恐れられました。「ジュリグヮーシー」の南側に「チンガー」と呼ばれる掘り抜き鶴瓶井戸があります。戦前まで「瀬名波集落」の共同井戸として飲料水や生活用水に重宝されました。現在は水の恩に感謝して大御願やフトゥチウガンで拝されています。(コーチンダ道)(コーチンダ道の岩塊)(コーチンダ道の亀甲墓)「ジュリグヮーシー」の東側に「コーチンダ道」と呼ばれる森道があり、かつて「コーチンダバーマ」と呼ばれる珊瑚礁の浅瀬まで続いていました。「コーチンダ道」を進むと琉球石灰岩が隆起した岩塊があり、麓には地中に向けて洞窟が続いています。この岩塊は「コーチンダ道」の森を守護する御嶽のイビであるとも考えられますが詳細は不明です。さらに森道を進むと「亀甲墓」の古墓が現れました。門石(じょういし)の前には花瓶があり花が供えられ、向かって左手の角にウチカビ(あの世のお金)を燃やすカビアンジ(焚き上げ)の器が置かれています。「コーチンダ道」は現在も「瀬名波集落」の歴史の道として大切に残されているのです。
2022.05.24
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(パマイタラシキ御嶽)沖縄本土北部の名護市東海岸に「嘉陽(かよう)集落」があり、約1700年前の沖縄貝塚時代後期から存在するこの集落は方言で「ハヨウ」と呼ばれます。太平洋に面した砂地に立地する「嘉陽集落」は間切ごとの石高を示した「琉球国高究帳(1635-1646年)」には名護間切「かやう村」と記されています。「嘉陽集落」の西側にある「ハンサ山」の裾には墓地が広がり、かつてこの山は風葬や洗骨が行われ、ワラビ墓と呼ばれる子供の墓もあります。「ハンサ山」の西の麓には「パマイタラシキ」という御嶽があります。「琉球国由来記(1713年)」には「濱板良敷嶽 (神名:ソノイタジキノ御イベ」と記載されており、この御嶽は「イリヌウタキ/西ヌ御嶽」とも呼ばれています。(パマイタラシキ御嶽の祠)(パマイタラシキ御嶽の祠内部)「パマイタラシキ御嶽」にはかつて首里から伝えられたミカネ(御鐘)が鎮座していて住民の御願の対象となっていましたが、沖縄戦の混乱の中で失われたと伝わります。この御嶽は旧暦1月1日の「ハチウガミ(初拝み)」の際に集落の住民により拝され、さらに旧暦9月9日の「クングヮツクニチ」の「チクザキ(菊酒)」には、昔は各家庭でご馳走を持ち寄り「パマイタラシキ」の木の葉に乗せて皆に振る舞っていたそうです。西側に向けて建てられた御嶽の「イビ」である祠内部には、神が宿るとされる幾つものビジュル(霊石)が祀られておりウコール(香炉)が設置されています。(ガジュマルの老樹とシーサー群)(アンスナー/遊び庭)「嘉陽集落」は全体が「嘉陽貝塚遺跡」に属しており、集落内からは沖縄貝塚時代後期後半を代表する括れ平底の土器、グスク時代の土器、奄美群島徳之島で11世紀から14世紀にかけて作られていたカムィ焼、中国産の青磁、染付、南蛮陶器などが発掘されています。「嘉陽集落」はアガリ(東)とイリ(西)に分かれており、アガリには「アンスナー/遊び庭」と呼ばれる広場があります。「アンスナー」には樹高12m、推定樹齢120年以上のガジュマルの老樹があり、名護市の名木にも登録されています。ガジュマルの前には大小合わせて13体のシーサー群が立ち並び、集落の憩いの場として親しまれています。(アンスナーの合祀所)(拝所のヒヌカン/火の神)(拝所のヒヌカン/火の神)「アンスナー/遊び庭」の広場にかつて点在していた「ニガミヤー」「ニーブガミ」「アジヌヤー」の3つの拝所は現在、ガジュマルの脇に1ヶ所に集められた合祀所となっています。集落発祥の根屋(ニーヤ)から出た姉妹である「ニガミ/根神」が住んだ家を「ニガミヤー/根神屋」と言い、神酒を管理した役職は「ニーブガミ」と呼ばれていました。それぞれの家のヒヌカン(火の神)がこの合祀所の拝所に祀られており、3体のビジュル(霊石)と1基のウコール(香炉)が設置されています。また「嘉陽」の土地を治めた「按司(アジ)」が住んでいた場所を「アジヌヤー/按司ヌ屋」と呼び、木製の扉が付いた拝所には位牌と綱引きの際に使うトゥールという旗頭が大切に収められています。(ヌルドゥンチ/ノロ殿内)(ヌルドゥンチ/ノロ殿内の内部)(比嘉家/根屋)ガジュマルの老樹がある「アンスナー/遊び庭」から道を挟んだ西側に「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」の社があり、内部にはヒヌカン(火の神)が祀られています。「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」の西側に隣接して「比嘉家」の屋敷があり「嘉陽集落」の発祥に関わった「ニーヤ/根屋」となっており、集落の祭祀を司る「嘉陽ノロ(祝女)」は代々この「比嘉家」から出ていました。「アンスナー」の「ニーブ神」は「比嘉家」の拝所として、集落のムラ行事で御願する事はありません。また「ニーブ神」の神職には「比嘉家」の男性が就く決まりがありました。「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」の東を通る道は「ヌルドゥンチジョウグチ」と呼ばれる神聖なカミミチ(神道)で、葬式の際に遺体を運ぶ龕(ガン)と呼ばれる屋形の輿の通行や参列者の往来は固く禁じられていました。(シーシーヤー/獅子屋)(シーシーヤー/獅子屋の内部)(ティンナドゥンチ/天仁屋殿内)(ティンナドゥンチ/天仁屋殿内の内部)「比嘉家」の屋敷の西側にある「シーシーヤー/獅子屋」では「嘉陽集落」の獅子が納められています。旧暦8月15日は獅子の誕生の日とされており、獅子舞が奉納され「ウシデーク/臼太鼓」と呼ばれる女性による踊りが行われます。「ヌルドゥンチ/ノロ殿内」の木の下で着替えた踊り手は西側に隣接する「ティンナドゥンチ/天仁屋殿内」から踊りを始め「アンスナー/遊び庭」に移動して踊り続けます。この「ティンナドゥンチ/天仁屋殿内」には出所がわからない七基のウコール(香炉)が祀られており、かつて南西側の「安倍集落」と北東側の「天仁屋集落」から、それぞれ「比嘉家」の長男系と次男系のムンチュー(門中)が御願に訪れていたと伝わります。(カミミチ/神道)(ウトゥーシン/御通神)「アンスナー/遊び庭」から「嘉陽集落」の東にある「ウイグシク/上城」方面に向かう道も「カミミチ/神道」と呼ばれています。この神聖な道の先には「ウトゥーシン/御通神」と呼ばれる拝所があり「御通神」と彫られた石碑が建立されておりウコール(香炉)が設置されています。「ウイグシク/上城」の拝所は山の上にあるため、足が悪い人やお年寄りはこの「ウトゥーシン/御通神」から拝します。「ウイグシク/上城」に向けられて建立された「ウトゥーシン/御通神」は「嘉陽城嶽」の御嶽を御願する遥拝所の聖域として崇められているのです。このように「嘉陽集落」は東西を「嘉陽城嶽」と「濱板敷良嶽」の2つの御嶽に挟まれており、集落の中央には拝所が点在する聖域となっているのです。日本最大級ショッピングサイト!お買い物なら楽天市場
2022.05.19
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(ウイグシクのシーサー)沖縄本島北部にある名護市の東海岸に「嘉陽(かよう)集落」があり「ハヨウ」とも呼ばれています。NHK連続ドラマ小説「ちむどんどん」で「山原高校」としてロケ地となった「美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」の北側に「ウイグシク/上城」と呼ばれるグスクがあり「嘉陽集落」では、神が訪れる神聖な御嶽のグスクとして崇められています。「琉球国由来記(1713年)」には「嘉陽城嶽(神名:アカウズカサノ御イベ)」と記されており「嘉陽巫(ノロ)」が祭祀を司るグスクヤマとなっています。「ウイグシク/上城」の山麓にあるグスク入り口には石造りのシーサーが設けられ、神聖な御嶽の守り神として鎮座しています。(ウイグシクを登る階段)(キョウの岩礁)(ウイグシク頂上に向かう山道)「嘉陽集落」の北東部にある「ウイグシク/上城」にはニライカナイから神が訪れるとされ「嘉陽ノロ」をはじめとするカミンチュ(神人)や集落の住民の祈りの聖域として崇められています。「ウイグシク/上城」の南側に広がる「嘉陽海岸」の海中に突き出た「キョウ」と呼ばれる岩礁は「ウイグシク/上城」に神が訪う際に一休みする聖なる岩であると伝わります。「キョウ」の岩礁にはかつて「龍宮神」が祀られ「嘉陽ノロ」により海の航海安全や豊漁が祈願され、さらに「アブシバレー」と呼ばれる害虫駆除の儀式の際にノロが舟で渡り祭祀を行う聖地となっています。「ウイグシク/上城」の階段と山道はカミミチ(神道)として標高約60mの頂上に繋がっています。(ウイグシク頂上の鳥居)(ウイグシクのトゥン/殿)「ウイグシク/上城」の頂上にある鳥居をくぐり抜けると「トゥン/殿」と呼ばれる広場があります。かつてこの場には「嘉陽ノロ」が祭祀を司る「神アサギ」がありましたが、台風により赤瓦屋根の「神アサギ」は倒壊してしまい、残念ながら現在は跡形も残されていません。その昔「嘉陽集落」は「ウイグシク/上城」の丘陵中腹から移動した伝承があり、このグスクは特に神聖な場所として木の伐採が禁じられるなど集落の住民に大切に崇められています。旧暦9月20日に行われる「ハツカミンナディ/二十日水撫でぃ」にはグスク頂上の「トゥン/殿」に住民が集まりウガン(御願)をして拝されています。(嘉陽城嶽の社)(御嶽の社内部)(社内部の手水鉢)「ウイグシク/上城」の頂上には「琉球国由来記(1713年)」に「嘉陽城嶽(神名:アカウズカサノ御イベ)」と記された御嶽があり「沖縄島諸祭神祝女類別表(明治15年頃)」には「城御嶽」と表記されています。この御嶽には「嘉陽城火神」と「嘉陽巫火神」が祀られていると伝わります。御嶽のイビである社の内部には3体のビジュル(霊石)と1基のウコール(香炉)が3組づつ祀られており、さらに前方に2基のウコール(香炉)も設置されています。そして社内部に向かって左端には「嘉陽ノロ」が祭祀を行う際に使用したと思われる石造りの手水鉢が現在も置かれています。旧暦9月20日に行われる「ハツカミンナディ/二十日水撫でぃ」の祭祀には、集落の「ヤマダガー」と呼ばれる川から水を汲んで御嶽に運んだと伝わっています。(ミジガミ/水神の祠)(ミジガミ/水神の祠内部)(ニライカナイの神が髪を洗った池)「嘉陽城嶽」がある「トゥン/殿」には、かつて広場周辺を左縄で張った「ピサインナー」という魔除けの儀式があったと伝わっています。現在「トゥン/殿」には「ミジガミ/水神」の祠が「ヤマダガー」の方角に向けて鎮座しており、祠内部には数体のビジュル(霊石)と、1基の石造りウコール(香炉)が祀られています。この「ミジガミ/水神」の祠の前方には、かつてニライカナイの神が御嶽に訪れた際に髪を洗ったと伝わる池があります。現在も芝生の中に存在する池には水が溜まっており「神の聖域」として集落の住民に崇められています。「嘉陽ノロ」が「嘉陽城嶽」の御嶽で祭祀を司る際に、この池に自分の姿を映して身を引き締めたとされています。(紀元二千六百年祭記念碑)(紀元二千六百年祭/寄付者芳名の碑)(ウイグシク/上城中腹からの景色)1940年(昭和15年)に「紀元二千六百年祭」を記念して「嘉陽城嶽」の本殿と鳥居が建立され、グスク頂上には「紀元二千六百年祭記念碑」と「寄付者芳名の碑」が設置されました。伝承によると「ウイグシク/上城」は「嘉陽大主(かよううふしゅ)」が現うるま市の「勝連」から移住して築き居住したグスクであると伝わります。名護市教育委員会によって「ウイグシク/上城」の発掘調査が行われ、11世紀後半から16世紀前半に掘られたとされる約500本分の柱などが見つかりました。さらに中国産の青磁や白磁、徳之島のカムィヤキ、勾玉やガラス玉なども発掘されており「嘉陽集落」の発祥や歴史を研究する為に、現在も発掘調査が行われています。「ウイグシク/上城」からはNHK連続ドラマ小説「ちむどんどん」のロケ地となった「山原高校/美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」や美しい東海岸の太平洋を見渡す絶景が広がっています。
2022.05.14
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(山原高校/美ら島自然学校/旧嘉陽小学校)沖縄本島北部名護市の東海岸に太平洋を臨む「嘉陽(かよう)集落」があり、この集落の東側に「美ら島自然学校」があります。この学校は明治29年4月1日に「久志尋常小学校嘉陽分教場」として開校し、その後「嘉陽尋常小学校」から「嘉陽国民学校」と校名を変えて、昭和27年4月1日に「嘉陽小学校」と改称しました。そして平成21年3月31日に創立99年にて閉校し、現在の「美ら島自然学校」に生まれ変わりました。平成19年に角川映画「サウスバウンド」の撮影地に、平成21年にはTBSドラマ「今日も晴れ。異常なし」のロケ地となり、令和4年4月から放送のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」では「山原高校」としてロケ地に選ばれています。(山原高校/旧嘉陽小学校のグランド)(山原高校/旧嘉陽小学校の校舎)(山原高校/旧嘉陽小学校のグランド)「美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」のグランドは「ちむどんどん」で比嘉暢子(黒島結菜)と陸上部キャプテンの新城正男(秋元龍太朗)がかけっこで競争するシーンで登場し、バックに映る特徴的な山と椰子の木が印象的です。劇中では就職活動が上手くいかずイライラする暢子に、正男がアドバイスするシーンでも登場します。この「美ら島自然学校」は"太平洋を望む豊かな環境で、誰もが学べる自然学校"をテーマにしており「一般の方・学校関係者の方・大学生や研究機関の方」を対象にした、誰でも無料で手軽に利用できる教育施設です。子供達に海の生き物を観察させたり、高校や大学の課題でヤンバルを調査したり、野外活動や調査研究の活動拠点として幅広く利用されています。(山原高校/旧嘉陽小学校の校舎入り口)(二宮金次郎の銅像)(旧嘉陽小学校の校歌碑)この「山原高校/旧嘉陽小学校」の校舎入り口も「ちむどんどん」に登場します。劇中ではBOSSの青い自動販売機と美ら島自然学校の表札は、木製の囲いで物置きとして隠されています。更に「嘉陽小学校」の校章である「嘉」の文字もCG処理されています。しかし、玄関脇のヤシの木は撮影当時と同じ枯れ具合のままでした。校舎入り口の近くにある木の下には沖縄では珍しい「二宮金次郎像」があり、銅像の脇には「旧嘉陽小学校」の校歌が刻まれた石碑が建立されています。校歌の作詞と作曲は沖縄県と鹿児島県で活躍した詩人・国文学者・教育者であった「新屋敷幸繁(しんやしきこうはん/ゆきしげ)」によるもので、歴史的かつ文化的にも価値がある校歌碑となっています。(旧嘉陽小学校の校門)(旧嘉陽小学校の校門)(旧嘉陽中学校の校門)「美ら島自然学校」の校門には現在でも「嘉陽小学校」の銘板が遺産として残されています。ちなみに「ちむどんどん」の劇中ではこの銘板はCG処理で消えています。また、この校門の脇には「嘉陽中学校」と彫られた古い校門が文化財として大切に保存されており、美しいテッポウユリが咲き誇っています。昭和23年の学制改革により学校は6・3・3制度になり、初等学校6年と中等学校3年に変更されました。その後、昭和27年に初等学校は小学校に、中等学校は中学校と改称されました。さらに、昭和47年に「嘉陽中学校・久志中学校・三原中学校・天仁屋中学校」が統合されて「嘉陽集落」から西側にある「久志集落」に新たに「久志中学校」が創立された歴史があります。(キョウ)(竜宮神の石碑)「美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」の東側に隣接する海に「キョウ」と呼ばれる尖った岩があります。「キョウ」は「嘉陽集落」では古より"聖なる岩"といわれており、海からやって来た神が集落北東にある「ウイグシク(上城)」に訪れる際、この岩で一息つくといわれています。また「アブシバレー」という田畑の害虫を駆除する祭祀の際に「嘉陽ノロ(祝女)」が「キョウ」に渡り、芭蕉(バナナの木)の茎で作った虫舟に害虫を乗せて海の南の方向に流して祈願したと伝わります。「キョウ」にはかつて海の航海安全と豊漁を祈願する「竜宮神」が祀られていましたが、現在は「美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」の校門近くに移動しており「竜宮神」の石碑が海に向けて建立されています。(聖火宿泊碑)(聖火宿泊の記念碑)(聖火台)「美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」の校門脇には「聖火宿泊碑」「聖火宿泊記念碑」「聖火台」が設置されています。昭和39年9月7日に台湾から那覇に渡った「オリンピック東京大会」の聖火は、翌日の8日に那覇を出発して聖火リレーにより「嘉陽小学校」に到着しました。当時、聖火が灯された聖火台は現在も記念物として残されており「東京オリンピック2020」の際、2021年5月1日に再び「嘉陽集落」に聖火が到着して「おかえりなさい!聖火」の掛け声と共に同じ聖火台に火が灯されました。なお、当時建立された「聖火宿泊記念碑」には「一九六四年九月七日 オリンピック東京大会の聖火 当地宿泊を記念する」と刻まれています。実は台風で聖火の到着が1日遅れた為、事前に造られた石碑の修復が出来なかったという秘話があるのです。(ウミガメの繁殖場)(ウミガメ/タイマイ)「美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」の西側にはウミガメの繁殖場があり「タイマイ・アオウミガメ・アカウミガメ」の3種が特別な水槽で飼育されています。繁殖されている全てのウミガメは本部町の「沖縄美ら海水族館」がある「海洋博公園」で産まれたウミガメで、孵化(ふか)してから約1年間「美ら島自然学校」で飼育されます。産まれたばかりのウミガメは体長5cm (30g)で、約1年で体長18cm (900g)まで成長し、標識を付けて海に放流されます。「タイマイ」と呼ばれるウミガメはクチバシが尖っており、甲羅のりん板は瓦のように重なっています。さらに、甲羅の形はシソの葉型をしているのが特徴です。このように「旧嘉陽小学校」は新しく「美ら島自然学校」に名を変えて、沖縄の海洋生物やヤンバルの大自然を学べる教育施設に生まれ変わり、新たな歴史を歩み始めています。
2022.05.09
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(小浜の川神)沖縄本島北部の東海岸沿いに名護市「天仁屋(てにや)集落」があります。この集落は貝塚時代から存在し、17世紀中頃の「琉球国絵図郷村帳」に「てぎな村」と記されています。「琉球国高究帳」(1635-1646年)では「てきな村」と記載されており、更に「琉球国由来記」(1713年)には「天仁屋村」と載せられています。この「琉球国高究帳」による当時の石高は28石余り(田24石余/うち永代荒地3石余含む畠3石余)であったと記録されています。「天仁屋集落」の東側に突き出た岬に「小浜の川神」と呼ばれる拝所があります。集落の北側にある農地の東側の森を約1キロほど進むと「小浜の川神」の祠が鎮座する岬に辿り着きます。(小浜の川神の祠内部)(小浜の川神の石碑)(小浜の川神からの絶景)東海岸の太平洋を臨む岬の崖縁に建立された祠内部には、神々が宿る3体のビジュルと呼ばれる霊石と3基のウコール(香炉)が祀られています。海の神、天の神、岬の神として「天仁屋集落」の東の守護神の役割があると考えられます。ヒラウコー(沖縄線香)を供えるウコールには賽銭が捧げられており、祠に向かって左側に隣接して「小浜の川神/天の川」と彫られた石碑が祀られています。この拝所の崖下には美しい絶景が広がっており、遥か彼方のニライカナイ(理想郷)を拝む事が出来ます。「天仁屋集落」に暮らす高齢の村人に挨拶した際に、この「小浜の川神」があるバンタ(岬)を訪れるよう紹介していただいた事に大変感謝しています。(小浜の川神)(小浜の川神から臨む天仁屋バン先)「天仁屋集落」には「ユーヒナハナの洞窟」と呼ばれる伝説があります。「天仁屋公民館」から300mほど離れた場所に「ユーヒナハナ」と呼ばれる農地があり、そこには直径約3mの穴があります。その洞穴に那覇から来た「ジュリ」という人物が身を投げた事がありますが、その死体は遠く離れた「天仁屋岬」の浜に上がっていたと伝わります。「小浜の川神」の拝所は太陽が昇る東の水平線に向けられており、琉球における太陽信仰を象徴する場所として相応しい聖域となっています。この岬からは「天仁屋集落」の南側にある「天仁屋バン先」を眺める事が出来て、古から変わらぬ大自然の絶景が今でも広がっています。(天仁屋竜宮神の石碑)(天仁屋竜宮神の崖縁)(天仁屋竜宮神の崖下にある滝)「天仁屋集落」の南東側の崖に「天仁屋竜宮神」があり、大きなガジュマルの木の麓に「天仁屋竜宮神」と彫られた石碑が建立されています。石碑の前にはウコール(香炉)が祀られており、人々が拝する「イビ」となっています。「イビ」とは拝所や御嶽の最も重要な聖域で神が宿る場所を意味します。竜宮神には海の神様が祀られており、航海安全と豊漁を祈願する聖域として崇められています。「天仁屋竜宮神」の崖縁からはニライカナイがある東の海が広がっています。さらに「天仁屋竜宮神」の崖下には滝があり、滝壺に流れ込んだ聖水は「天仁屋の浜」から太平洋に注ぎ込まれます。この「天仁屋竜宮神」は「天仁屋集落」の南の守護神であると推測され、非常に神秘的な雰囲気に包まれています。(天仁屋の浜の嘉陽層の褶曲)(天仁屋の嘉陽層の褶曲)「天仁屋集落」の南側にある「天仁屋の浜」に「嘉陽層の褶曲」と呼ばれる地層があります。褶曲(しゅうきょく)とは地層や岩体が長期間かけて力を受けて波のように曲がっている構造の事で、2012年に国指定天然記念物に登録されました。「嘉陽層」という地層は沖縄本島中部以北の東側に分布しており、砂岩・泥岩・層内礫岩および礫岩を伴い、それらが交互に重なっている地層の事です。約5400万年〜3700万年前に2000mを超える深海底に堆積したものと言われています。琉球列島の成り立ちを示す地層現象が保存された極めて重要な資料として、各教育機関で地学学習の場として利用されています。(盗賊の洞窟)(盗賊の洞窟)「天仁屋の嘉陽層の褶曲」に隣接して「天仁屋の浜」には洞窟があり、この洞窟にまつわる「天仁屋集落」に伝わる「狩人と牛盗人」という民話があります。「天仁屋」の集落がまだ無く一帯が深い森林だった頃、海岸の洞窟を住処にしている3〜4人の盗賊がいました。盗賊たちは近くの村から牛を盗み村人たちを困らせていました。ある日「嘉陽集落」の狩人が犬を連れて狩りをしていましたが、道に迷っているうちに「天仁屋」の海岸に出たのです。すると海岸の洞窟で盗賊たちが牛鍋を前にして酒を飲んでいるのが見えました。村人を困らせている盗賊はこいつらだと思った狩人は、犬をつかって盗賊たちを捕らえたのです。その時、狩人は辺りの地形や水利の良さを見て気に入り、村に帰ってそのことを話しました。それから「天仁屋」の開墾が始まり今の集落が始まったと伝わります。(カムイ外伝のロケ地/天仁屋の浜)(ちむどんどんのロケ地/天仁屋集落)(ちむどんどんロケ地/有津川)「天仁屋集落」は映画やドラマのロケ地としても知られています。「天仁屋の浜」は白土三平の漫画を崔洋一監督が松山ケンイチ主演で実写映画化したアクション時代劇映画「カムイ外伝」(2009年)のロケ地になりました。2022年のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」のロケ地にもなりました。「天仁屋集落」北側の農道は小学校で熱を出して早退する、比嘉歌子(布施愛織)をおんぶして帰宅する比嘉優子(仲間由紀恵)が描かれています。更に「天仁屋集落」の北側の山の中に流れる「有津川」に架かる特徴のある橋もロケ地として使われました。沖縄が本土復帰する以前の設定であるドラマの舞台として、現在も沖縄の美しい原風景が「天仁屋」には残っているのです。
2022.05.04
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(天仁屋御嶽/天仁屋の宮)沖縄本島北部の「名護市」北東部の東海岸沿いに「天仁屋(てにや)集落」があり、沖縄の方言で「ティンナ」とも呼ばれています。「天仁屋集落」の西側で天仁屋公民館の南側に「天仁屋原(てにやばる)遺跡」があります。この遺跡は「天仁屋」が発祥した初期集落と考えられており、グスク時代の土器片や中国製の青磁や青花、更に近世から近代に沖縄で作られた陶器などが発掘されている事から「天仁屋集落」の歴史や当時の人々の生活様式を知る上で重要な遺跡となっています。「天仁屋原遺跡」には「天仁屋御嶽」があり「天仁屋の宮」とも呼ばれており、集落の住民により拝まれています。(天仁屋御嶽/天仁屋の宮の鳥居)(天仁屋御嶽のイビ)「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」は「琉球国由来記(1713年)」に「アフラヤマ嶽/神名:コパヅカサノ御イベ」と記されており、ニガミ(根神)の崇み所であったと伝わります。ニガミ(根神)とは集落発祥のニーヤ(根家)から出たノロ(祝女)を意味します。「天仁屋集落」にはかつてニガミ(根神)、ウドゥイガミ(踊神)、サンナンモー(神人の小使い)、ニーブガミ(男神)と呼ばれる神役が存在していました。「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」の鳥居を抜けた先には「天仁屋御嶽」のイビが鎮座しており、御嶽で最も重要な聖域であると崇められています。この御嶽は「天仁屋集落」の南西側にある「嘉陽ウイグシク(上城)」へのウトゥーシ(遥拝所)であるとされています。(神アシアゲ/神アサギ)(神アシアゲ/神アサギのウコール)(神アシアゲ/神アサギ脇の拝所)「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」の敷地に琉球赤瓦屋根造りの「神アシアゲ/神アサギ」があります。「天仁屋集落」の祭祀は「天仁屋ニガミ(根神)」ではなく、集落の南西側にある「嘉陽(かよう)集落」の「嘉陽ノロ」の管轄で執り行われていました。祝女による祭祀は「神アシアゲ/神アサギ」で拝され、稲穂祭・稲作事始めの儀礼の年浴・祭りの物忌である柴指・芋祭のヲンナイ折目などの年中祭祀が司られていました。ノロによる祭祀において最も重要な聖域である「神アシアゲ/神アサギ」の内部にはウコール(香炉)が祀られ、更に脇にもウコールが設置された拝所があります。それぞれのウコールは「天仁屋」の浜に向けられて設置されています。(ニガミヤー/根神屋)(ニガミヤー/根神屋のヒヌカン)「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」の東側に道を挟んだ場所に「ニガミヤー/根神屋」があります。この建物は「天仁屋集落」の祝女である「ニガミ(根神)」が暮らした屋敷があった場所であると考えられ、建物内部には「ニガミ(根神)」のヒヌカン(火の神)が祀られています。ヒヌカンのは神が宿る三体の霊石と陶器のウコール(香炉)が設置されています。沖縄では古より家のかまどの神(火の神)を拝んだ風習があり、やがてかまどを模った3つの石を神体として拝むようになりました。ヒヌカンの霊石は人が普段立ち入らない場所から持ち帰り、その時に決して他人と会話をしてはいけない決まりがありました。更に、現在でもヒヌカンが祀られた拝所では絶対に文句を言ってはいけないと伝承されています。(天仁屋ウッカーヌビジュル)(ビジュルの神体)「ウッカーヌビジュル」の霊石は「天仁屋集落」の東側を流れる「ウッカー」と呼ばれる川の中に鎮座しています。幅82センチ、高さ40センチのなだらかな山形の砂岩が川の中央に突き出ています。このビジュルは土手側にあった石が一晩で川の真ん中に移動したと伝わっています。ビジュルの前には3つのヒヌカン(火の神)石とウコール(香炉)が祀られており、このヒヌカン石は古老が人の踏んでいない海岸で拾い、竹篭で運んできたものを安置したと言われています。ビジュルを洪水などから守る為に造られた囲いは昭和3年10月18日に建てられ、当時のコンクリート建築を知る上で貴重な資料となっています。(ウッカーヌビジュルへの階段)(ウッカー)「ウッカー」の清水は今日も懇々と流れており「天仁屋ウッカーヌビジュル」は旧暦1月3日のハチウクシ(初起こし)の行事で行われる、水の神様に感謝して水の恵みを祈願するカーウガンの時に住民により拝されています。その際に各家庭から供物を持ち寄り、子孫繁栄・雨乞い・五穀豊穣・海の航海安全などが祈願されます。また「天仁屋集落」の住民が旅に出る際にもビジュルが拝まれています。かつては天仁屋ニガミ(根神)やカミンチュ(神人)により拝されていましたが、現在では集落の長老女性が中心になり拝まれています。なお「天仁屋ウッカーヌビジュル」は名護市指定文化財/民族文化財に指定されています。(ちむどんどん/ロケ地/西山原バス停)(ちむどんどん/ロケ地/バスが名護に向かう道)(ちむどんどん/ロケ地/4兄妹が抱き合う場所)「天仁屋集落」の南側はサトウキビ畑や農地が広がってえり、NHK連続テレビ小説「ちむどんどん」のロケ地として知られるようになりました。劇中ではヒロインの比嘉暢子(稲垣来泉)が東京に旅立つシーンで登場し「西山原」バス停、バスが名護に向かう道、去って行くバスを必死に追いかける兄妹、バスを停めて4兄妹が抱き合う家族の絆が描かれています。「ちむどんどん」の子供時代の最後を締め括る重要なシーンに「天仁屋集落」が使われており、沖縄本土復帰の7年前を描くシーンとして撮影されました。当時の沖縄の美しい原風景が「天仁屋集落」には現在でもそのまま残されているのです。
2022.04.30
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(アクナ浜)沖縄県中部のうるま市に「宮城島(みやぎじま)」と呼ばれる車で行ける離島があります。この島は「平安座島(ハナリ)」と「伊計島(イチハナリ)」に挟まれており「高離島(タカハナリ)」とも呼ばれています。また、地元では「ミヤグスクジマ」とも言われています。「宮城島」の東側の崖下に「アクナ浜」と呼ばれる天然の浜があり、2022年4月から放送のNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」のロケ地として知られており、ドラマでは物語の重要な場面で登場する「シークワーサーの木」がある場所として有名になりました。この「シークワーサーの木」は撮影用に植樹されましたが、周辺のソテツの木、琉球石灰岩、亜熱帯植物は原風景のまま使われました。(シークワーサーの木の場所)(シークワーサーの木から右に進む道)(シークワーサーの木から左に進む道)「ちむどんどん」の第3話ではこの場所で「比嘉暢子」が必死に飛び跳ねてシークワーサーの実を取ろうとするシーンが特徴的です。そして「シークワーサーの木」から右に進む道は、東京から来た「青柳和彦」の父親である「青柳史彦」に「暢子」が始めて作った沖縄そばを食べに来るように誘う場面でも使われ「史彦」がこの道を進んで行くシーンがあります。更に「シークワーサーの木」から左に進む道は、第10話で「ねえ、手繋いで帰ろう」と「和彦」が「暢子」に手を繋がれて恥ずかしがり走り抜ける道です。撮影用に植えられた「シークワーサーの木」は現在は存在していなく、緑豊かな雑草でこんもり覆われています。(シークワーサーの木の場所)(暢子が男子生徒に馬鹿にされる場所)(暢子が荷物を置き忘れた小岩)「ちむどんどん」第5話でもこの「アクナ浜」が登場します。「シークワーサーの木」の左側をバックに「暢子」が学校の男子生徒2人に「おてんばは結婚できないってよ!おてんば暢子〜!」と馬鹿にされる場所でも有名です。その直後「暢子」は初めて自分でシークワーサーの木の枝から実を取る事が出来て「お父ちゃ〜ん!自分で取れたよ〜!」と海に向かって叫ぶ場面も印象に残るシーンです。そして「暢子」は嬉しさと共に急いで学校に行こうと走り出すのですが、自分の荷物を忘れた事に気付き戻って来ます。その時に「暢子」の青い荷物が置かれていた小岩は今でもこの場所に現存しています。(4兄妹が走ってくる道)(シークワーサーの木の場所)(4兄妹が走り抜ける道)「ちむどんどん」第5話では父親の「比嘉賢三」が倒れてた知らせを聞き、4兄妹が学校から家まで懸命に走り抜けるシーンで使われた道があります。「シークワーサーの木」を通り過ぎる時に長女の「良子」が足が遅い三女の「歌子」に「歌子、早く!」と叫んでいます。ドラマではドローンにより空撮されていましたが、画像は必死に走る4兄妹の目線に映っていた風景です。ドラマの舞台は沖縄本島北部のヤンバル(山原)ですが、沖縄本島中部うるま市の離島にも「アクナ浜」のような大自然が、今でも残っている事は美しい沖縄を象徴しています。それまで「アクナ浜」は地元住民のみが知る浜でした。しかし今回ドラマのロケ地に採用された事は非常に素晴らしい事で、魅力的な沖縄の美しい原風景が残っている証拠です。(シークワーサーの木の下の岩)(岩に置かれた4つの貝殻)(アクナ浜)「ちむどんどん」のドラマで最も重要な場面の一つである「シークワーサーの木」の下には一際目立つ琉球石灰岩があり、ドラマでもその岩を確認する事が出来ます。現在、この岩塊は生い茂る雑草の中に埋もれていますが、岩の上に4つの貝殻が置かれているのを偶然発見しました。ドラマの「比嘉家」は長男「賢秀」長女「良子」次女でヒロインの「暢子」三女「歌子」の4兄妹です。この4つの貝殻はドラマの4兄妹と何か関連があるのでしょうか?真相は分かりませんが、偶然すぎる4つの貝殻の存在に今後のドラマの進展が楽しみになります。現在「ちむどんどん」は第10話が終了したばかりで、今後もこの「アクナ浜」の「シークワーサーの木」が要所で登場する事が予想されて楽しみです。
2022.04.24
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(クーガー/古河)沖縄本島中部のうるま市に「東恩納(ひがしおんな)集落」があります。うるま市は平成17年(2005年)4月1日に具志川市・石川市・勝連町・与那城町が合併して生まれた市で「東恩納集落」は石川市にありました。この集落の中央部に「チチグシクウタキ(嵩城嶽)」があり、御嶽の祠に隣接して「クーガー(古河)」という井泉があります。この名称から「東恩納集落」で最も古いカー(井泉)であると考えられ「クーガー(古河)」は「ウブガー(産河)」とも呼ばれています。集落で子供が産まれた際にこの井戸の水を汲みウブミジ(産水)として利用していました。更にウブミジを赤ちゃんの額に三度撫でる「ウビナディ」という儀式で健康祈願をしていました。(クーガー/古河)(クーガー/古河のウコール)「クーガー(古河)」は井戸を中心に5段に渡り円形に石が積まれ、高度な石積み技術により現在も美しい姿が健在しています。井戸の東側に入り口の石門が設けられ、西側の石積み3段目にウコール(香炉)が祀られています。集落の生活に欠かす事が出来ない水の恵みに、住民は線香を備えて拝していました。水の神様を崇める聖地として現在も「カーウガン」で祈られ大切にされています。琉球国由来記(1713年)にも記されている「チチグシクウタキ(嵩城嶽)」に隣接している聖域として「クーガー(古河)」は生活用水や産水に限られた井泉であり、野菜洗いや洗濯に利用する事は禁じられていたと考えられます。(東恩納ヌール墓の丘陵)(東恩納ヌール墓の石碑)(東恩納ヌール墓)「クーガー(古河)」の北東側にある森の丘陵中腹に「東恩納ヌール墓」と呼ばれる歴代の「東恩納ノロ(祝女)」の遺骨が納められた古墓があります。1957(昭和32)年に米軍海兵隊「ナイキ・ハーキュリーズ」ミサイル基地の設置の為、西側にある「青木原(あおきばる)」の土地に墓が移設される際に12基の石棺と12基の厨子甕が確認されました。その後、1989(平成元)年頃にノロの遺骨は現在の元の墓に戻されました。丘陵中腹の自然洞窟を利用したノロ墓は入り口を石積みで塞がれ、門石の前にはウコール(香炉)と霊石が祀られています。東恩納ノロは「東恩納集落」と西側に隣接する「楚南集落」の2つのシマを管轄した由緒あるノロとして、両集落の祭祀を纏めて司っていました。(シチャヌカーの森)(シチャヌカー)「東恩納ヌール墓」の南側で「高原ゴルフクラブ」のクラブハウスの東側に「シチャヌカー」があります。このゴルフコース北側で、4番ホール脇の崖下に深い森があり「シチャヌカー」があり沖縄の言葉で「下の井戸」を意味します。「高原ゴルフクラブ」のスタッフが「シチャヌカー」まで車で案内してくれたお陰で訪れる事が出来て非常に感謝しています。現在も湧き出る「シチャヌカー」の豊富な水は周辺の農業用水として利用され、昔から部落の人々の生活を支えてきました。飲料用水の他にも収穫した野菜を洗ったり、馬や牛に水を与えたり、農業用具を洗ったりする為に重宝したと考えられます。(ハチジャーの水源)(ハチジャーの溜池)(ハチジャーの水)「東恩納集落」の西側に「東恩納青木原」と呼ばれる土地があり、その更に西側の森に「ハチジャー」と呼ばれる井泉があります。比較的規模の大きな井泉で崖下の岩間から湧き出る豊潤な水は溜池に貯められ、溢れ出る水は西側に続く水路を流れてゆきます。「ハチジャー」周辺は田芋やクレソンを栽培する広大な畑が広がり、井戸の水の恵みが豊かな土壌と作物の豊穣を生み出しています。周囲の森には古い墓群があり、昔から風葬が行われる神聖な場所として崇められていたと考えられます。同時に収穫した野菜や農具を洗ったり、馬や牛の水浴び場としても利用されていたと推測されます。(シカガン/世界河の祠)(シカガン/世界河の井戸)(シカガン/世界河の祠内部)「ハチジャー」の北東側にはかつて「東恩納闘牛場」があり大勢の観客を集めて賑わいました。この闘牛場の南側にある森の麓に「シカガン」と呼ばれる井戸があり、漢字で「世界河」と表記します。隣接する森の丘陵から滲み出た水が湧き出ており、井戸は現在も枯れる事なく水が溜まっています。井戸には祠が建てられていて内部には石造りウコール(香炉)が祀られています。井戸の水に感謝する住民が現在でもヒラウコー(沖縄線香)やお賽銭をお供えして拝しています。この井戸の敷地が広いため、かつては飲料用水の他にも水浴びや衣類の洗濯にも利用されていた井戸であったと考えられます。(クーガー/古河のモクマオウ)(知事校舎跡のフクギ並木)「東恩納集落」のある旧石川市地区では「みどりと水に包まれた彩りとふれあいのまち」をモットーにしており、樹木の保護と植樹活動が積極的に行われています。「クーガー/古河」の「モクマオウ」の原産地はオーストラリアで、東南アジアから太平洋諸島に広く分布している樹木です。昔、防風林や防潮林として自生していなかった沖縄に入り、その後に野生化したと言われています。また、かつて東恩納公民館の向かいには沖縄県知事の迎賓館として利用された「旧知事校舎跡」があり、この敷地に現在も自生する美しい「フクギ並木」も保護樹木の対象として「東恩納集落」の景観と共に大切に守られているのです。
2022.04.18
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(イーヌ御嶽/ヨセ森)沖縄本島中部のうるま市北部(旧石川市)の東海岸沿いに「東恩納(ひがしおんな)集落」があります。この集落は沖縄貝塚時代前期〜中期(縄文時代後期)の遺跡があるほど歴史が古く「大山式・室川式・室川上層式・カヤウチバンダ式・宇佐浜式土器・グスク土器」が出土され「石器・貝製品・骨製品」も発見されています。「東恩納集落」の4箇所に御嶽があり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には「ヨセ森(イーヌ御嶽)」「嵩城嶽(チチグシクウタキ)」「金謝敷嶽(カンジャシチウタキ)」「雲古嶽(クモコウタキ)」が記されています。「東恩納集落」の北側には「ヨセ森(イーヌ御嶽)」の丘陵があり拝所の祠が設けられています。(ヨセ森/イーヌ御嶽の祠内部)(ヨセ森/イーヌ御嶽のイビ)(ヨセ森/イーヌ御嶽のガジュマル)丘陵の麓にある「ヨセ森(イーヌ御嶽)」の祠内部にはウコール(高炉)が祀られておりヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。この祠は御嶽の遥拝所としての役割があり、森に鎮座する巨岩に向けて建立されています。この巨岩こそが御嶽の「イビ」であると考えられ、神が宿る聖域として崇められています。「イビ」とは「イベ」とも呼ばれ、御嶽の中で最も重要かつ神聖な場所を意味しています。また「ヨセ森(イーヌ御嶽)」は「琉球国由来記(1713年)」に神名「イシノ御イベ」と記されています。ちなみに「イシノ御イベ」とは霊石を守護神とする沖縄における「霊石信仰」の事を意味しています。(嵩城嶽/チチグシクウタキ)(御嶽の祠内部)「東恩納集落」の中央部で、県道255号(石川池原線)と県道75号(沖縄石川線)の交差点に「嵩城嶽(チチグシクウタキ)」があります。かつてこの地には「嵩城(チチグシク)」と呼ばれるグスク(城)があったと考えられ、この地に祀られたイビ(霊石)に神が宿るとして、住民の祈りの対象となったと思われます。「琉球国由来記(1713年)」には「嵩城嶽/神名:イシノ御イベ」と記されており、祠内部には御嶽のイビ(霊石)が鎮座しています。この御嶽も「ヨセ森(イーヌ御嶽)」同様に「東恩納ノロ(祝女)」により祭祀が執り行われていました。かつて「東恩納ノロ」は「美里間切」に属する「東恩納集落」と、西側に隣接する「楚南(そなん)集落」の2つのムラ(集落)を管轄していました。(金謝敷嶽/カンジャシチウタキ)(アガリ/東恩納之殿)(金謝敷嶽/カンジャシチウタキのシーサー)東恩納公民館の南側に「金謝敷嶽(カンジャシチウタキ)」の社があり、この御嶽も「琉球国由来記(1713年)」に「カンジャシチ嶽/神名:イシノ御イベ」と記載されています。「琉球史辞典(1993年)」には「威部(イベ)は沖縄の御嶽の中で最も重要な部分、イベは神のよりまし、つきしろで、所謂神を斎くところである」と記述されています。「金謝敷嶽(カンジャシチウタキ)」の隣には「アガリ」と呼ばれる「東恩納之殿」の社があります。「殿(トゥン)」とは集落の住民による年中行事が執り行われる集落の中心的な場所であり、現在でも「清明祭」「旧暦五月六月ウマチー」「十五夜ウスデーク」「清明祭」「旧盆」「獅子舞」「カー拝み」「旧正月」などで拝されています。(雲古嶽/クモコウタキ)(雲古嶽/クモコウタキの祠内部)(雲古嶽/クモコウタキ)東恩納公民館の北側敷地内の斜面に「雲古嶽(クモコウタキ)」の森があり、丘陵の中腹に祠が建立されています。琉球国由来記(1713年)には「クモコ嶽/神名:イシノ御イベ」と記されており、祠内部には霊石3体とウコール(高炉)が1基祀られています。沖縄において「3」には深い意味が込められており、沖縄を創造した「天・地・海」または「今が世・中が世・御先世」の3つの世を示しています。この3つの要素を3つの霊石に宿らせた「ビジュル」が沖縄に於ける「霊石信仰」の原理となっているのです。「ビジュル」とは豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされる「霊石信仰」の対象で、16羅漢の一つの「賓頭盧(びんずる)」から由来し、主に自然石が拝所やヒヌカン(火の神)に祀られています。(雲古嶽/クモコウタキのイビ)(東恩納ノロ殿内)(神下毛/虎毛/カンサギモー)「雲古嶽(クモコウタキ)」を祀る祠の裏手に急勾配の丘陵があり、この森の頂上には御嶽のイビである大岩が鎮座しています。「雲古嶽(クモコウタキ)」の西側に「東恩納ノロ殿内」があり、建物の内部には「東恩納巫火神」が祀られています。「ノロ殿内」とは琉球王府から任命されたノロ(祝女)が住んだ場所で「ヌンドゥンチ」とも呼ばれています。また、東恩納公民館の敷地内に「神下毛(虎毛)」の祠があり「カンサギモー」と呼ばれるこの地には、かつて「東恩納ノロ」の「神アサギ(カミアシャギ)」があったと考えられます。「東恩納集落」と「楚南集落」の2つのムラを管轄した「東恩納ノロ」が集落の祭祀を執り行った「神アサギ」が存在した「カンサギモー」は集落の祭祀において最も重要な場所として現在も聖域として崇められているのです。
2022.04.14
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(上勢頭井戸の合祀所)沖縄本島中部の「北谷(ちゃたん)町」北東側に「上勢頭(かみせど)集落」があります。この集落は沖縄戦以前は「上勢頭屋取集落」として繁栄していましたが、戦後は米軍嘉手納基地に集落の3分の2の土地を接収され、住民は強制的に他集落に分散して暮らしています。今でも集落にルーツを持つ人々は団結して「上勢頭屋取集落」の文化財を大切に守り続けています。現在の「上勢頭集落」の北側で米軍嘉手納基地フェンスに隣接する場所に「上勢頭井戸の合祀所」があり、米軍嘉手納基地の敷地に分散する「上勢頭屋取集落」の井戸を遥拝する石碑が6基建立されており「カーウガン」で拝する住民が訪れる聖域となっています。(かー小の石碑)(いなみぬかーの石碑)(いーま小ぬめーぬかーの石碑)「上勢頭井戸の合祀所」に向かって左から「かー小」「いなみぬかー」「いーま小ぬめーぬかー」の石碑が建立されています。「上勢頭屋取(ウィーシードゥヤードゥイ)」は今から200年以上前に「首里・那覇・泊・久米」からヨカッチュ(良人)と呼ばれる士族が入植して発展した「屋取集落」で、後に生まれた「下勢頭屋取(シチャシードゥヤードゥイ)」と合わせて「勢頭七組」と称されました。「田仲組・稲嶺国・瑞慶覧組・与那覇組・喜友名組・勝連組・佐久川屋取」で構成された「勢頭七組」は、その後10組まで増えて「上勢頭/下勢頭」の行政としてそれぞれ区長が置かれるようになりました。集落は主に農業で栄え、芋やサトウキビの栽培には集落の井戸水が農業用水として活用されていました。(いなみ小ぬかーの石碑)(みーがーの石碑)(ふえぬかーの石碑)更に「上勢頭井戸の合祀所」の向かって右から「いなみ小ぬかー」「みーがー」「ふえぬかー」の石碑が建立されています。「みーがー」は共同の「ニーブガー」と呼ばれる浅い井戸で、飲料水として「喜友名組」と「勢理客組」が利用していました。「ふえぬかー」は「喜友名組」の区域にあり、周辺住民の生活用水として重要な井戸でした。「ふえぬかー」は「上勢頭屋取」の「ウブガー(産井戸)」の一つで、集落で子供が生まれた時に産水として使用されました。「上勢頭屋取」では農業の他にも副業として「カマンタ」や「バーキ」と呼ばれる竹細工の生産が盛んで「シードゥカマンタ」と称され、仲買人や行商人により那覇やヤンバル(山原)に出荷されるほど有名でした。(下勢頭集落の合祀所)「上勢頭集落」の東側の丘に「下勢頭集落の合祀所」があります。「下勢頭集落」は「上勢頭集落」の北側に位置し、土地の全てが米軍嘉手納基地の敷地内にあります。そのため「上勢頭集落」から眺める事ができる丘の上に遥拝所が設けられています。「下勢頭集落の合祀所」には「アシビナージー」「ユシミヌ神/四隅の神」「ハナグスクヌメーヌカー」「水ヌ神」が合祀されています。「アシビナージー」はかつて「下勢頭集落」と「上勢頭集落」の境界近くに「シードゥヌシー」と呼ばれる岩塔があり、その北側には「下勢頭集落」のアシビナー(遊び庭)がありました。旧暦12月24日のウガンブトゥチ(御顔解き)や2月2日のニングヮチャー(クスユックイ)などの祈願の際に拝されています。(南無諸大明神の石碑)(年豊人楽とウコール)「下勢頭集落」では旧暦12月24日にムラの有志らによるウガンブトゥチ(御願解き)の行事が行われた。「ユシミヌ神(四隅の神)」と呼ばれる東方の「持國天王」西方の「廣目天王」南方の「増長天王」北方の「多聞天王」へは、この行事に祈願を行なっていたと伝わり、この「四天王」は仏教における東西南北を守護する四人の神を意味します。「南無諸大明神の石碑」の土台には「年豊人楽」と刻まれておりウコール(香炉)が祀られています。これは「年豊かに人楽しむ」の意味で集落の五穀豊穣を祈願しています。現在「ユシミヌ神」は「アシビナージー」と併せて祀られています。(御通し所/遥拝所の石碑)「下勢頭集落の合祀所」には「御通し所(遥拝所)」と彫られた石碑が建立されています。現在、米軍嘉手納基地の敷地内にある「下勢頭屋取集落」にはかつて屋号「ハナグスクヌ(花城)」の屋敷前にカー(井戸)があり「ハナグスクヌメーヌカー」と呼ばれていました。更に屋号「山佐久川」の屋敷の東側には、村人が野良仕事からの帰り農具や野菜を洗う約100坪の大きな池(ウフグムイ)がありました。人々はこの池を「ミジヌ神(水の神)」として崇めていたと伝わります。現在は旧暦12月24日に「旧字下勢頭郷友会」の有志らにより「お通し所(遥拝所)」からお通し拝みが行われています。(ウキンジュガー/受水ガー)(ウキンジュガーのウコール)(ウドゥンジーミチ/御殿地道)「上勢頭屋取集落」の南側に「ウキンジュガー(受水ガー)」と呼ばれる井戸があります。「御殿地組」の新屋小の南側、現在の北谷町立北谷第二小学校の北側にある土手の下に「ウキンジュガー」はニーブガー(浅い井戸)で柄杓を使って水を汲んでいました。水量が豊富で旱魃の際にも水が枯れる事がなく、遠く離れた集落から水を汲む人々が訪れました。「ウキンジュガー」の北側には「ウドゥンジーミチ(御殿地道)」と呼ばれる「御殿地組」の土地を東西に通る道があります。西側に隣接する「桑江(クェー)集落」に近い方は「ナルカーミチ」とも呼ばれており、現在の県立北谷高校と北谷ゴルフ練習場の間を西海岸に向けて続いていました。(トゥクガーシー)(上勢頭北公園)(拓/竣工記念碑)米軍嘉手納基地の敷地内の「下勢頭屋取集落」南側に「トゥクガーシー」と呼ばれる岩山があります。元々は風葬に利用されていた丘陵でしたが、沖縄戦の際には「トゥクガーシー」の自然壕に旧日本軍の監視哨が置かれました。現在の「上勢頭集落」の北側に「上勢頭北公園」があり「拓」と刻まれた竣工記念碑が建立されています。第二次世界大戦の敗戦により接収されていた「上勢頭屋取集落」の土地は1970年に3分の1ほど返還されました。1973年には本土復帰に伴う記念国民体育祭「若夏国体」が開催され、国道58号線から沖縄市へ通じて「上勢頭集落」を横断する県道23号線(国体道路)が開通しました。この碑は「上勢頭」地域の発展を祈願して建立されています。
2022.04.09
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(シーサー/石獅子)沖縄本島中部の沖縄市南西部に「山里(やまざと)集落」があります。この集落は南北に約1キロ、東西に約500メートルの小さなムラで、隣接する「山内集落」と「諸見里集落」から分離独立した「屋取(ヤードゥイ)集落」です。「屋取集落」とは近世後期に政治、経済、文化の中心地域であった首里、那覇から「士族帰農」として士族が地方へ都落ちし、人里離れた地に仮小屋に住みながら荒地を開墾した集落を言います。「屋取」は「他の土地に宿る」の意味で、居住人と呼ばれた士族が寄り集まり次第に集落を形成して行きました。沖縄にはこのような「屋取集落」が130余存在すると言われています。(シーサー/石獅子)「山里集落」の東側にウスクギー(アコウ)の古木があり、麓に琉球石灰岩で造られた「シーサー(石獅子)」が鎮座しています。この「シーサー」は東側に隣接する北中城村「島袋集落」に向いて設置されており、その昔「島袋集落」で火事が多く「山里集落」に飛び火しないように「ヒーゲーシ(火返し)」の願いを込めて据えられたと伝わります。このような意味を込めた「シーサー」は沖縄の各集落の出入口や外れに魔除けや火返しの願いを込めて設置されていました。「山里集落」の「シーサー」は琉球王国の時代から集落を守っていると言われています。(山里ビジュルの碑)(ヒヤーナー)(破損した石碑)「山里集落」の東側に「ヒヤーナー」と呼ばれる場所があり「ビジュル」が祀られた祠が建立されています。この拝所は「山里集落」の南側に4キロ程離れた「普天満宮」を拝する遥拝所として知られています。「ビジュル」とは神が宿る「霊石」を意味し、主に沖縄本島でみられる霊石信仰の対象で豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされます。16羅漢の1つの「賓頭盧(びんずる)」に由来して「霊石」と崇める自然石が拝所に祀られています。「ヒヤーナー」の敷地内には破損した石碑があり「竜宮神、天孫子、水神」と記されているのが確認できます。「天孫子(天孫氏)」は琉球最初の王統とされる氏族として知られています。(祠のウコール)(祠右側の霊石)(祠左側の霊石)「ヒヤーナー」の拝所は宜野湾市にある琉球八社の1つである「普天満宮」を拝する遥拝所です。「山里集落」の土地神は「普天満宮」であり、屋取集落として首里や那覇から移住してきた士族の主要な神社であったと考えられます。「ヒヤーナー」の祠にはウコール(香炉)が設置され、左右には様々な形をした霊石が祀られています。沖縄における霊石信仰は昔から人々の生活に浸透しており「石敢當」「石獅子」「ヒヌカン(火の神)」も神が宿る霊石として崇められて来ました。「琉球国由来記(1713年)」によると「普天満宮」は洞窟の中にあり、そこには「八箇霊跡」と言われる「白鶴岩・明王石・獅子座・龍臥石・神亀岩・鷹居石・洞羊岩・大悲石」と称される霊石が祀られています。(山里都市緑地)(並里カー)(ナカマチガーの祠)(ナカマチガー)「山里集落」の北側に「山里都市緑地」の森があります。森の北側には「並里カー」と呼ばれる井戸があり石碑が建立されています。現在、この井戸の水は周辺の農業用水として活用されています。「波里カー」の西側には「ナカマチガー」と呼ばれる井戸があり豊富な水が懇々と湧き出ています。この井戸は「ナカマチペーチン」と言う人物により造られたと伝わり元々は石囲いの井戸だったと言われています。「ナカマチガー」周辺の住民は子供が生まれた時に産水として利用し、さらに旧正月元旦には若水を汲み一年の健康を祈願しました。
2022.04.04
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(山ももの歌の歌碑)沖縄本島中部の沖縄市「山内(やまうち)集落」は、第二尚氏王統の初代国王「尚円王」(在位:1469-1476年)と「平安山(へんざん)集落」のノロ(祝女)であった「金満(真加戸)」の間に生まれた「山内昌信(やまうちしょうしん)」を始祖とするムラです。「山内昌信」が琉球王府に仕えている時、中国から楊梅(ヤマモモ)を持ち帰り集落に植えた木が集落中に広がったと伝わっています。「モモヤマの里」と呼ばれる「山内集落」の公民館に「山ももの歌」の歌碑が建立されており、ヤマモモの木は「金のなる木」として集落の名産物として広く知られていました。かつて旧暦3月は「ムムサングヮチ」と呼ばれた山モモの最盛期で住民の生活に繁栄をもたらしました。(桃山公園)「山内集落」の北側に「桃山公園」があり周辺住民の憩いの場として親しまれています。さらに集落を南北に横断する「ももやま通り」があり、住民の生活に欠かせない主要な道路となっています。かつて山モモ収穫の季節になると「山内集落」は収穫する村人や山モモを売る「ムムウイアングヮー(モモ売り姉さん)」で活気付き、その様子を見物する観光客で賑わいました。収穫した山モモは「大山集落(現宜野湾市)」周辺の「ムチャー」と呼ばれる仲買人が山モモを買い取り那覇に運びました。「ムチャー」たちは首里や那覇の町々を廻り「ムムコーインソーレータイ(山モモを買って下さい)」と呼びかけて山モモを売りさばいたと語り継がれています。(イリーガー/クシントーガー)(イリーガー/クシントーガー)「山内集落」の最北端に琉球ゴールデンキングスの本拠地である「沖縄アリーナ」があり、敷地内には「イリーガー(西り川)」の井戸があり「クシントーガー」とも呼ばれています。「沖縄アリーナ」が建設される以前は沖縄自動車道の工事に伴い、かつてこの地にあった「沖縄市営闘牛場」の南側に移設されていました。その昔、落武者が「イリーガー」の水を頼って住み着いた」と口碑が伝わり「山内集落」発祥の地と言われています。更に約500年前、集落周辺で7カ月余り雨が降らなかった時期に、住民が「イリーガー」の水を飲んで命を繋いだとされています。「イリーガー」にはウコール(香炉)が祀られており「ウガミガー(拝み井戸)」となっています。(シリンカーヌカー/イーザクヌカー)(シリンカーヌカー/イーザクヌカー)「山内集落」の北東側に「シリンカーヌカー(尻ン川)」があり「イーザクヌカー」とも呼ばれています。「イリーガー」の南側に位置しており、同様に約500年前の大旱ばつの際に住民の命を救った井戸です。この井戸も沖縄自動車道の工事により、かつてこの地にあった「沖縄少年院」の西側に移設されました。「シリンカーヌカー」は旧暦12月24日の「屋敷ウガン」の際に住民に拝まれ、更に旧正月元旦には井戸から若水を汲んでいました。「屋敷ウガン」とは、神様から借りている土地に住まわせて頂いているお礼と、悪霊が入らないように家の四隅に結界を張るウガン(御願)で「シリンカーヌカー」も水への感謝として拝されています。(メーヌカー/イリーガー)(メーヌカー/イリーガー)「山内公民館」の西側に「メーヌカー」があり、集落のアガリ(東側)に住む住民は「イリーガー」と呼んでいました。「山内集落」で最も古い井戸の一つで集落で子供が産まれた時、この井戸の水を産水として利用した「ウブガー」でもありました。旧正月元旦には若水を汲んで茶を沸かし一年の健康祈願をし、更に「シリンカーヌカー」と共に旧暦12月24日の「屋敷ウガン」の際に拝まれています。また「ウスデーク」と呼ばれる女性のみで行われる円陣舞踊の伝統行事では、集落の五穀豊穣と住民の健康に感謝するウガン(御願)が行われます。「メーヌカー」は南東側の「山内大明神」に向けて祠が建てられおり「ウガミカー」として大切に拝されています。(アガリガー/メーアガリガー)(タカミガー/高嶺川公園)(アガリガーの石碑)(ウコールとフーフダ)「山内集落」の南側の「タカミガー(高嶺川)公園」に「アガリガー」があり「メーアガリガー」とも呼ばれています。「メーヌカー」同様に旧暦12月24日の「屋敷ウガン」や旧暦8月10日の「ウスデーク」の際に拝されています。「アガリガー」のウコール(香炉)には神様が宿るとされる木製の「フーフダ」と呼ばれる呪符が供えられており「祓比給布 奉祝辞 寒言神尊利根陀見 普天満宮守護 西 清米玉布」と記されています。悪霊を追い払う役割がある呪符で屋敷の四隅に祀られ、この普天満宮が配布した呪符は屋敷の西側用の「フーフダ」であると考えられます。「祓比給布」は「祓い賜う」を意味し「清米玉布」は「清め賜う」を意味します。(山内の越来節の歌碑)(越来節の碑)(越来1丁目の越来節之碑)「山内集落」の中心部にある「山内大明神」のお宮がある敷地に「越来節(ぐぃーくぶし)の碑」が建立されています。全17節ある「越来節」のうち後半の11節から17節までの歌詞が石碑に刻まれています。「越来節」は今から500年以上前、琉球王朝の役人が娘を誘いモーアシビ(毛遊び)に出かける男女の恋を17節に渡り謳っています。「越来節」は沖縄市の「越来集落」で生まれた歌で、歌に登場する役人は「山内集落」の始祖「山内昌信」の3代目子孫「富里」という「越来番所」の文子(書記官)で、娘は「越来集落」の「大前仲宗根」の一人娘「真鶴」です。「越来節」は当時のモーアシビ(毛遊び)の様子を克明に表現した歴史的価値の高い歌として知られており、前半の1節から10節の歌詞が刻まれた歌碑は現在、沖縄市越来1丁目に建立されています。
2022.03.30
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(トゥイヌファヌウタキ)沖縄本島中部にある「沖縄市」の中心部に、南北に細長く広がる「山内(やまうち)集落」があり「やまち」の名称でも知られています。「山内集落」はかつて「ヤマモモ(山桃)」の産地として栄え「ヤマモモの里」と呼ばれていました。戦前は「山内集落」と隣接する「諸見里集落」では「ムムサングヮチ」と呼ばれるヤマモモの季節(旧暦の3月)になると両集落内外から「ムムウイアングヮー(モモ売り)」で賑わっていたと伝わります。集落の北側には「桃山公園」があり周辺住民の憩いの場となっており、西側から南側に隣接する集落は「南桃原(みなみとうばる)集落」という名称で、この周辺一帯がかつて「ヤマモモ」で繁栄した名残があります。(トゥイヌファヌウタキの霊石)(トゥイヌファヌウタキの祠)「山内公民館」の北側に「トゥイヌファヌウタキ」とよばれる御嶽(ウタキ)があります。現在「山内市営住宅」がある御嶽の北側に隣接する土地はかつて「島袋アタイ」と呼ばれ、屋号島袋(イーリーシマブク)の畑がありました。ここには「山内集落」を発祥した「山内昌信(やまうちしょうしん)」が暮らした屋敷と、農業用水として利用されていた「島袋アタイグムイ」と呼ばれる溜池がありました。石切積みの石垣に囲まれた「トゥイヌファヌウタキ」の敷地には霊石が鎮座しており、御嶽の祠内部には幾つもの霊石とウコール(香炉)が祀られています。御嶽は旧暦8月10日に男性のみで拝まれています。(山内昌信の屋敷の火ヌ神)(島袋アタイグムイ)1974年に「山内市営住宅」の建設が計画され「山内昌信の屋敷の火ヌ神」と「島袋アタイグムイ」は南側に隣接する「トゥイヌファヌウタキ」に移設されました。御嶽に向かって右側が「トゥイヌファヌウタキ」中央が「山内昌信の屋敷の火ヌ神」そして左側に「島袋アタイグムイ」がそれぞれ祀られています。「山内昌信の屋敷の火ヌ神」の祠には霊石とウコール(香炉)が祀られヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「島袋アタイグムイ」が祀られた場所もウコール(香炉)があり、住民はかつて集落の農業を支えたグムイ(溜池)の水への感謝を拝しています。(山内のお宮)(山内大明神)「山内公民館」西側に「お宮」と呼ばれる場所があります。鳥居を潜った敷地内には「山内大明神」の社があり「山内集落」の始祖である「山内昌信」が祀られています。「山内昌信」の父親は第二尚氏王統の初代国王「尚円王」(在位:1469-1476年)で、母親は集落の西側にある「平安山(へんざん)集落」のノロ(祝女)であった「金満(真加戸)」です。「平安山ノロ」は「平安山・浜川・砂辺・桑江・伊礼」の5集落の祭祀を司った位の高いノロでした。ちなみに「山内昌信」は南城市の「知念グスク」を築いた「内間大親」と、玉城朝薫の組踊「執心鐘入」で知られる「安谷屋若松(中城若松)」とは義兄弟とされています。(山内大明神のウコール)(山内大明神の社内部)「山内大明神」の社にはウコール(香炉)が祀られ、扉の内側には「山内大明神」と刻まれた霊石柱が鎮座しています。「山内昌信」が13歳の時「首里城」建設工事の際に大工としての才能を発揮して役人の上申により士族になりました。「山内集落」の「ヤマモモ」は「山内昌信」が王府に仕えている時、中国から持ち帰り集落に植えた木から広がったと言われています。後に「山内昌信」は出世し、王族の下に位置し琉球士族が賜ることのできる最高の称号である「親方(ウェーカタ)」に任命され、更に琉球王府の行政の最高責任者である「三司官」になりました。隠居後は生まれ故郷の「山内集落」に帰り、地元住民から「山内大明神」と崇められました。(イリーヌクムイの火ヌ神)(お宮の御嶽)「山内大明神」の社の左側に「火ヌ神」の祠があります。「イリーヌクムイ(西の溜池)」から移設された「火ヌ神」で「ウスデーク(臼太鼓)」と呼ばれる集落の祭りの際に拝されます。「ウシデーグ」とも言われ、祭りの余興芸能として演じられてきた女性のみで行われる円陣舞踊で、集落の五穀豊穣と村民の健康を祈願します。さらに「山内大明神」の右側には「御嶽」の祠があり「中山王国」へ結ぶ遥拝所の役割があります。更に集落の東側にある井戸の「シリンカーヌカー(イーザクヌカー)」との「クサイ(結び)」とも言われています。「シリンカーヌカー」は約500年前の大干ばつの際に、集落の住民の命を救った大切な井戸として祀られています。(マーニヌネカタ)(マーニヌネカタのウコール)(平安山ノロ殿内)「お宮」の後方に「マーニヌネカタ」と呼ばれる男子禁制の拝所があります。「山内昌信」が生まれて間もなく捨てられた場所とされ「ウシデーク」の際に女性のみで拝されます。「英祖王」と「平安山ノロ」の間に産まれた「山内昌信」は内密の子であったため父母知らずの身となりました。母親の「金満(信加戸)」は「平安山集落」のノロ(祝女)であったため、御嶽で誕生した捨て子として「山内昌信」を育てました。人目を盗んでは昼は歯米を与え、夜は乳を飲ませて育てたと言われています。「山内集落」の西側、北谷町吉原にある「平安山ノロ殿内」は「山内昌信」の母親の屋敷があった場所で、現在は「平安山ノロ」の「火ヌ神」が祀られています。日本最大級ショッピングサイト!お買い物なら楽天市場
2022.03.26
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(湧川の御嶽)沖縄本島北部「今帰仁なきじん)村」の「湧川(わくがわ)集落」は1738年に創設されたムラです。約200年の歴史があるとされる集落では伝統行事が大切に継承されており、「ムラウチ」と呼ばれる集落の中心部では年中行事の「豊年祭」の際に県無形民俗文化財に指定されている中国由来の「路次楽(ろじがく)」という舞踊、棒術、獅子舞などが奉納され、集落の五穀豊穣と住民の無病息災が祈願されています。「路次楽」で用いられる吹奏楽器は「ガク」や「ガクブラ」と呼ばれ、主に行列をなすときに吹奏されます。なお「湧川集落」は周囲の集落と比べて新しいムラで、琉球士族が多く移り住んだ土地であったと伝わります。(ヌルドゥンチ/ノロ殿内)(ムラガー/村ガー)(ムラガーの水源)「湧川公民館」の北西側に「ヌルドゥンチ(ノロ殿内)」があり、社の祠内には火の神が祀られています。境内は70坪ほどあり「ノカネイ」と呼ばれる神職により管理されてきました。「ヌルドゥンチ」は通常、各集落のノロ(祝女)が住んだ場所ですが「湧川集落」は集落の発祥当時から現在に至るまで「勢理客ノロ(シマセンコ巫)」により祭祀が執り行われています。「湧川公民館」の北東側には「ムラガー(村ガー)」と呼ばれる井戸があります。かつて「ムラウチ」と呼ばれる集落の中心部で重宝された共同井戸で、現在も枯れる事なく水が湧き出ています。「ムラガー」の奥にある岩の割れ目が水源となっており、丘陵に降った雨水が琉球石灰岩により自然濾過されて湧き出ています。(イビヌメー)(イビヌメーの内部)(御嶽頂上のイビ)(御嶽のイビの霊石))「ヌルドゥンチ」の北側は「湧川の御嶽」の森となっています。森の丘陵中腹部に「イビヌメー(イビぬ前)」と呼ばれる小屋が建てられており、聖域である御嶽に入る門の役割をしています。御嶽の内側の神聖な場所(神域)と、外側の人間の暮らす場所(俗界)との境界を表していると考えられます。「イビヌメー」の奥から御嶽頂上の「イビ」に向かう階段が一直線に続いています。「イビ」は「イベ」とも呼ばれ、御嶽の中で最も重要な場所を意味します。更に、御嶽に祀られている霊石や御神体も「イビ」といいます。旧暦4月の最後の亥の日には「湧川集落」の年中行事である「タキヌウガン(嶽ヌ御願)」が執り行われ「勢理客ノロ」や「湧川の神人」により拝されています。(メンビャの広場)(メンビャの井戸のウコール)(シーシヤー/獅子屋)「湧川公民館」の西側に「メンビャ」と呼ばれる広場があり、そこにある大木の下には井戸跡がありウコール(香炉)が設置されています。「メンビャ」では「湧川集落」の棒術の演舞や、中国に由来する「路次楽(ろじがく)」の奉納踊りが行われます。「湧川集落」には今から約200年以上前に「與儀家先祖」と「與儀銀太郎」が移り住んだ際に「路次楽」が伝わり、戦時中も避難する壕の中で「路次楽」の楽器や道具が大切に保管されました。「湧川集落」では現在でも「路次楽」の踊り、音楽、楽器、楽器の製法や奏法などが忠実に受け継がれています。「メンジャ」から「按司道(あじみち)」と呼ばれる道を北に進むと「シシヤー(獅子屋)」の小屋があり「湧川集落」の守り神である「獅子」が大切に収納されています。(運天竜宮)(運天竜宮の祠内部)「湧川集落」の北東側沿岸に「運天竜宮」と呼ばれる「竜宮神」を祀った祠があります。海の航海安全と豊漁を祈願する拝所で、祠内部には霊石とウコール(香炉)が設置されています。さて「湧川集落」に伝わる有名な民謡に「モーアシビ(毛遊び)の歌」があります。『村寄しりしり 湧川村寄しり 村ぬ寄しらりみ あん小寄しり』(ムラをこちらに寄せてこい 湧川のムラを寄せてこい ムラを寄せることなどできるものか そちらこそ娘たちを寄こしなさい)「湧川集落」から海を挟んだ対岸にある「屋我地島」の若者が、一緒にモーアシビ(毛遊び)ができるように「湧川」のムラを引き寄せてこいと詠います。それに対して「湧川集落」では、そちらこそ「屋我地島」の娘たちを「湧川」に寄せなさいと返している歌です。(湧川の御嶽)『湧川美童や 天ぬ星ごころ 拝まりやすしが 自由やならぬ』(湧川の乙女たちは 天空の星のようなものだ 姿かたちを拝見することはできるが 自由に一緒に遊ぶ事はできない)これは「屋我地島」や隣接する集落の若者が詠ったとされる歌です。当時の「湧川集落」は地位の高い士族が多く住む集落で「名護市史近代歴史統計資料集」によると、1903年の「湧川集落」の士族戸数は247戸中100戸(約40%)という非常に高い比率となっていました。その為、士族の娘たちは集落の平民が集う「モーアシビ(毛遊び)」になかなか参加することが出来なかったそうです。
2022.03.22
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(神アサギ/ウイヌアサギ)沖縄本島北部の「今帰仁(なきじん)村」の東側に「湧川(わくがわ)」集落があります。「琉球国由来記(1713年)」には今帰仁間切の地頭代が「湧川大屋子」とあり、1738年にこの集落が創設された際に「湧川」と名付けられたと伝わります。「湧川集落」の祭祀行事は北側にある「勢理客集落」の「勢理客ノロ」の管轄になり「勢理客・運天・上運天」の3つの集落と共に祭祀が執り行われるようになりました。「湧川公民館」の敷地に「ウイヌアサギ」と呼ばれる「神アサギ」があり五穀豊作の感謝と子孫繁栄を祈願する「ウプユミ(大折目)/ワラビミチ」の際に「勢理客ノロ」やカミンチュ(神人)により拝されています。(神アサギの内部)「神アサギ(ウイヌアサギ)」はノロや神人による祭祀が行われる聖域で、内部にはタモトギとウコール(香炉)が祀られています。現在も大切に継承されている「ウプユミ(ワラビミチ)」は「今帰仁村」の年中行事で最も重要な祭祀で、旧盆あけの亥の日に執り行われます。まず「勢理客ノロ」や神人を「湧川集落」の「神アサギ(ウイヌアサギ)」で待ち「勢理客ノロ」と神人が「神アサギ(ウイヌアサギ)」に向かう前に集落の子供達が太鼓を五回を打ちます。そして「勢理客ノロ」と神人のウガン(御願)が終わると、再び太鼓を五回打ち鳴らし「神アサギ」での祭祀は終わります。(新里屋)(新里屋の敷地内にある祠)(祠内部の火の神と女神図像)(新里屋の仏壇)次に「勢理客ノロ」と神人は「神アサギ」の南西側にある「新里屋」でウガン(御願)を行います。「新里屋」は「湧川集落」の発祥に関わった「根屋(ニーヤ)」であり「北山王統」の血筋を継ぐ一門だと伝わっています。「新里屋」の敷地内には祠があり内部には三組の霊石/石造りウコール(香炉)、更に一組の女神図像/金属製ウコール(香炉)が設置された拝所となっています。「天孫氏二十三世」の弟の長男が「孫太子(開山長老)」六男が「今帰仁王子」で、その長男である「兼松金王」が「三代北山王」を継ぎました。この「三代北山王」の跡目を代々継承してきたのが「新里一門」となります。因みに「孫太子(開山長老)」が「新里屋」を建てた人物だったと伝わっています。(新里屋の仏壇)(新里屋の仏壇)(新里屋の仏壇)(新里屋の仏壇)「新里屋」の仏壇には図像が3面、位牌が8柱、ウコール(香炉)が10基祀られています。向かって左から「千手観音菩薩図像」「家族図像/北山大按司の位牌」「開山長老図像/孫太子大君の位牌」「ミルク(弥勒)像」「今帰仁之子思次郎/今帰仁按司樽金/北山王子松金/北山王亀寿の位牌」「思次良湧川按司/長男樽金湧川按司/北山世主/帰真/霊位/樽金湧川按司/養子の位牌」「湧川奴留之元祖の位牌」「新里大主の位牌」「新里筑登之/新里親雲上/新里筑登上/新里里之子/新里親雲上の位牌」「新里新光/新里新松/カマダ/新里親雲上/次良新里親雲上/武樽新里/新里親雲上の位牌」がそれぞれ祀られています。更に仏壇の1番左側には「勢理客ノロ」が祭祀に使う弓があり、1番右側にある火の神には霊石とウコール(香炉)が2基づつ祀られています。(新里屋の火の神)(奥間アサギ/ヒチャヌアサギ)(奥間アサギの火の神)「新里屋」での御願(ウガン)を終えた「勢理客ノロ」と神人は次に「湧川公民館」の脇にある「奥間アサギ(ヒチャヌアサギ)」を拝し、集落の子供達により太鼓が五回打たれた後に「勢理客集落」へ向かいます。「奥間アサギ」は「湧川集落」の「神アサギ」ではなく「勢理客ノロ」の男方の旧家で、一般的な「神アサギ」とは異なり小屋の内部に旧家の火の神が祀られています。かつて「湧川集落」では神人の跡継ぎがなくなり、祭祀の継承が絶たれる運命にありました。その時に男方に繋がりを持つ「勢理客ノロ」の管轄になったと伝わっています。そのため「湧川集落」では「神アサギ」に類似した「奥間アサギ」が現在でも残され、ウガン(御願)の対象として大切に拝されているのです。
2022.03.18
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(勢理客ノロ殿内)沖縄本島北部の本部半島に「今帰仁(なきじん)村」があり、村の北東側に「勢理客(せりきゃく)集落」があります。「勢理客」という名称は浦添市の「勢理客(じっちゃく)」という読み方で知られていますが「今帰仁村」の「勢理客」は「せりきゃく」と読みます。尚、琉球王府により編纂された「おもろさうし」(1531-1623年)には「せりかく」と謳われています。「勢理客集落」は「今帰仁村」で最も面積が小さなシマですか「シマセンク(シマセンコ)巫」とも呼ばれる「勢理客ノロ(祝女)」は「勢理客・運天・上運天・湧川」の4集落を管轄し祭祀を司った位の高いノロでした。「勢理客公民館」の敷地には「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」でも拝される「勢理客ノロ殿内」があります。(神アサギ)(神アサギ内部のタモトギとウコール)「勢理客ノロ殿内」に隣接して「神アサギ」が建てられいます。「神アサギ」とは沖縄本島北部地方においてノロが集落の祭祀を行う小屋で、4本柱または6本柱で壁がない吹き抜け構造をしています。また、沖縄本島中南部にある「トゥン(殿)」と呼ばれる祭祀場の原形と言われています。「神アサギ」が分布する地域は「神アサギ文化圏」や「北山文化圏」に分類され、三山統一以前の「北山王国」の文化に由来しています。ちなみに「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」とは「今帰仁廻り(なきじんまわり)」とも呼ばれ、沖縄で親族一門が行う聖地旧跡の巡拝行事で、多くの門中(もんちゅう)によって行われています。「神アサギ」の内部にはタモトギとウコール(香炉)が祀られており、人々に拝される聖域となっています。(勢理客の御嶽)(勢理客御宮新築記念碑)(勢理客の御嶽の祠)(勢理客の御嶽のイビ)「勢理客公民館」の北側に「勢理客の御嶽」の森があり、御嶽の入り口には鳥居と「勢理客御宮新築記念碑」の石碑が建立されています。鳥居をくぐり階段を登って頂上に辿り着くと「勢理客の御嶽」の祠があり「イビ」と呼ばれる祠の内部にはウコール(香炉)2基と数個の霊石が祀られています。「イビ」は「イベ」とも言われ、御嶽の中で最も神聖な場所を意味し、同時に祀られている霊石自体も「イビ」と呼ばれています。第二尚氏王統の琉球神道における最高ノロ(神女)である「聞得大君(きこえおおきみ)」の神名は「しませんこ あけしの」であり、この神名はもともと「勢理客の御嶽」の神名であったと伝わっています。「聞得大君加那志(チフィウフジンガナシ)」と呼ばれ、琉球王国最高位の権力者である国王と、王国全土を霊的に守護するものとして崇められてきた存在です。(ウイヌハー)(ヒチャヌハー)(ヨシコトガー)「勢理客公民館」の北西に「ウイヌハー」と呼ばれる井戸があります。「勢理客集落」の上(ウイ)の(ヌ)井戸(ハー/カー)である「ウイヌハー」は「勢理客ノロ殿内」や「神アサギ」に近い事から「勢理客ノロ」も祭祀の際に使用した井戸だったと考えられます。公民館から北西に坂道を下った場所には「ヒチャヌハー」があり、集落の下(ヒチャ)の(ヌ)井戸(ハー/カー)となります。「ヒチャヌハー」は集落の共同井戸(ムラガー)であると考えられ、野菜を洗ったり衣類の洗濯にも利用されていたと推測されます。更に公民館から約500mほど北に下ると「ヨシコトガー」と呼ばれる比較的規模の大きい井戸があり、森の丘陵麓から湧き出る水が貯められて周囲の農業用水として利用されています。(勢理客の顕彰碑)(天底小学校発祥之地の石碑)(勢理客のシシヤー/獅子屋)琉球王府が編纂した歌謡集である「おもろさうし(おもろそうし)」(1531-1623年)に「せりかく(勢理客)」が謳われている「おもろ」があります。『 一 せりかくの のろの (勢理客の ノロの) あけしの のろの (蝉の ノロの) あまくれ おろちへ (天雨 降ろして) よるい ぬらちへ (鎧を 濡らして) 又 うむてん つけて (運天に 着けて) こみなと つけて (小港に 着けて) 又 かつおうたけ さがる (嘉津宇岳に 下る) あまくれ おろちへ (天雨 降ろして) よるい ぬらちへ (鎧を 濡らして) 又 やまとの いくさ (大和の 戦さ) やしろの いくさ (山城の 戦さ) 』
2022.03.14
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(神殿/お宮)沖縄本島北部の本部半島に今帰仁(なきじん)村があり、村の東側海沿いに「上運天(かみうんてん)」集落があります。「上運天」は「ウイヌシマ(上の島)」と呼ばれ、北東側に隣接する「シチャヌシマ(下の島)」と呼ばれる「運天」集落に対しての名称となっています。もともと「上運天」と「運天」は1つの村でしたが、江戸時代が創立された近世初期に分離したと考えられています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には「上運天村」と「運天村」が個別に記載されています。「上運天」の祭祀は「シマセンクノロ」とも呼ばれる「勢理客ノロ」の管轄で、現在もノロ(祝女)やカミンチュ(神人)により伝統的な祭祀が行われています。(神殿/お宮の祠内部)「上運天」集落には2つの御嶽があり「琉球国由来記(1713年)」にはそれぞれ「上運天之嶽(神名:ナカモリノ御イベ)」と「ウケタ嶽(神名:不伝)」と記されており、上運天公民館の南東側の森には「上運天御嶽」があります。御嶽内の「神殿」は地元では「お宮」と呼ばれて親しまれており、祠内部には霊石とウコール(香炉)が祀られ「敬神」の扁額が設置されています。「上運天御嶽」の森には6箇所の拝所があり「タキヌウガン」と「アブシバレー」と呼ばれるウガン(御願)では上運天区長、カミンチュ(神人)、集落の住民により「神殿(お宮)」がまず初めに祈られます。今回は幸運にも「上運天」集落で10年間区長を務めている「上原区長」が、自らガイドとして「上運天」にある2つの御嶽を特別に案内してくれました。(ニーヤ/根屋)(ニーヤの祠内部)「上運天御嶽」の東側に「ニーヤ(根屋)」と呼ばれる「上運天」発祥の際に「ニッチュ(根人)」が最初に住んだ場所を祀る祠があります。祠内部には霊石があり上運天の「タキヌウガン」と「アブシバレー」では「ニーヤ(根屋)」は2番目に拝されています。上運天の「上原区長」によると「上運天御嶽」の森の木々は集落が発祥した当時から生息しており、神を迎える聖域として森は大切に守られています。「上運天」集落では旧4月15日に「上運天御嶽」を拝する「タキヌウガン」と「アブシバレー」が同時に行われます。"アブシ"とは"田畑のあぜ道"の事で、"バレー"は"払う"という意味です。「アブシバレー」では農作物につく害虫を払う祭祀を行い豊作祈願をします。(地頭代火之神/村屋)(地頭代火之神/村屋の祠内部)「ニーヤ(根屋)」の西側に「地頭代火之神」の拝所があり「ウタキヌウガン」と「アブシバレー」の際には3つ目に拝されてます。「地頭代」とは琉球王朝時代(1429-1879年)に間切(現在の市町村)の「地頭(領主)」の代官として、地方行政を担当した人を意味します。「地頭代」は間切番所(現在の町村役場)の最高の役で、様々な行政を監理する役目を担っていました。「上運天御嶽」の「地頭代火之神」は「ムラヤー(村屋)」とも呼ばれており「地頭代」が務めていた行政役所を意味しています。その「ムラヤー(村屋)」にあったヒヌカン(火之神)がこの地に祀られています。祠内部には霊石とウコール(香炉)が祀られており、ヒラウコー(沖縄線香)がお供えされています。(神アサギ)(神アサギのウコール)「地頭代火之神/村屋」の西側は「神アサギ」が建てられています。「上運天」集落には旧暦7月の「ウプユミ(大折目)」という様々な作物を神に感謝する祭祀があり、別名「ワラビミチ」とも呼ばれています。「大折目」は沖縄本島北部では「ウプユミ」と呼ばれ、本島南部では「ウフユミ」と発音されます。「ウプユミ」は海の彼方から訪れて島に海の幸や山の幸を授け、繁栄や平和をもたらす神様を丁重に迎える祭祀です。「上運天」を管轄する勢理客ノロ(シマセンクノロ)、勢理客・湧川・運天・上運天のカミンチュ(神人)、集落の住民が共に食事をして神様を厚くもてなします。かつての伝統的な「ウプユミ」の祭祀は「神アサギ」でノロが正座して祈願した後に「ミチ」と呼ばれる米で醸した神酒を盛った椀を捧げます。(神アサギの屋根裏に収められた獅子)そして、男のカミンチュ(神人)が背後に回りノロの両耳を押さえると区長が太鼓を叩き、参加する集落の老若男女が全員で『クトウシヌ ウンサクヤ ナカムラチ ハタムラチ』(今年の 神酒は 椀一杯盛って 溢れるばかりに 盛って)と唱和します。唱和が繰り返されてノロの頭が揺れると「ミチ」が椀から溢れます。「ミチ」が溢れれば溢れるほど「ユガフ(世果報)」と呼ばれる、幸せや豊かさを集落にもたらすと言われています。「ウタキヌウガン」と「アブシバレー」でも4つ目に拝される「神アサギ」の屋根裏には獅子を収納する木箱が納められていおり「シーシヤー(獅子屋)」の役割も果たしています。旧暦8月15日に催される「上運天」の豊年祭では獅子舞が奉納されます。(タキサンのイビ)(ウキタ/浮田御嶽への遥拝所)「神アサギ」の西側には「タキサン」と呼ばれる場所があり「イビ」の霊石が祀られてウコール(香炉)が設置されています。この聖域は男子禁制として、現在でもノロや神人の女性のみが立ち入りを許されており「神人の着替え場所」と記されています。「イベ」とも呼ばれるこの神域は「琉球国由来記」(1713年)に「上運天之嶽(神名:ナカモリノ御イベ)」と記されており「上運天御嶽」の中で最も神聖な場所として崇められてらいます。「神殿(お宮)」の南側に「上運天」集落にもう1つある御嶽の「ウキタ/浮田御嶽」へ遥拝する霊石が鎮座しています。「上運天」の御嶽を案内してくれた「上原区長」のお陰で、男子禁制の聖域にも遥拝所の霊石も知る事が出来て非常に感謝しています。(浮田御願所の石碑)(浮田御嶽のイビ)(前ぬ浜跡地/シマクサラー)上運天公民館の南側には「浮田御嶽」の森があります。「琉球国由来記(1713年)」には「ウケタ嶽」と記されており、かつてこの御嶽周辺は「うけた原」と呼ばれていたと伝わっています。御嶽の入口には「浮田御願所」と彫られた石碑が建立されており、階段を登り進んだ頂上に御嶽のイビがあり霊石とウコール(香炉)が祀られています。「浮田御嶽」の東側に「前ぬ浜(メーヌハマ)跡地」と呼ばれる場所があり、旧暦12月8日には左巻きの縄が祀られた岩では集落へ悪霊の侵入を防ぐ「シマサクラー」と呼ばれる行事が行われています。御嶽の脇にはかつて「浮田港」という港があり、そこの浜辺は「前の浜」と呼ばれていました。現在「前ぬ浜」は埋め立てられ、新しい「運天港」として運天と伊是名島、更には運天と伊平屋島を結ぶフェリーの旅客ターミナルとなっています。(運天の歌碑)「上運天公民館」の南西に進むと「運天の歌碑」が建立されています。歌碑には次の歌碑が彫られています。『運天ぬ番所 通いぶさあしが 白真大道ぬ ギマぬくささ』 (うんてぃんぬばんじゅ かゆいぶさあしが じらまうふみちぬ ぎーまぬくささ)「運天」について謳われているこの琉歌の意味は、「運天の役場に通いたいものだが 白真大道にあるギーマの臭いことよ!」ちなみに「ギーマ」とは琉球と台湾に分布するツツジ科の常緑の低木で、スズランのような花をつけて黒い実はブルーベリーのように食すことができるそうです。
2022.03.09
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(風葬墓)沖縄本島北部「今帰仁(なきじん)村」に「運天(うんてん)集落」が所在します。この集落の「ムラウチ」と称される海沿いの部落には、元来より「運天港」と呼ばれていた港があります。「運天港」は古くから知られ「海東諸国紀(1471年)」の「琉球国之図」には「雲見泊 要津」と記されています。また1531-1623年にかけて琉球王府により編纂された歌謡集である「おもろさうし」では「うむてんつけて こみなと つけて」と謡われています。更に12世紀頃に「源為朝」が流刑された伊豆大島から脱出する際に、嵐に流されて「運は天にあり」と漂着したのがこの港で、この事から港は「運天港」と名付けられたと伝わっています。(ウーニシ墓/大北墓)(ウーニシ墓/大北墓)(ウーニシ墓/大北墓の石柱)「運天」の「ムラウチ集落」に「ウーニシ(大北)墓」という崖中腹のガマ(洞窟)を利用した古墓あり、別名「按司墓」とも呼ばれています。「今帰仁グスク」で第二監守を務めた「北山監守(今帰仁按司)」と、その一族を葬った墓で「今帰仁グスク」麓の「ウツリタマイ」と呼ばれる墓を1761年に「今帰仁王子十世(宣謨/せんも)」が拝領墓として建造し「運天」に安葬したものです。墓室内には第二尚氏王統の「北山監守(今帰仁按司)二世(介紹/かいしょう)、四世(克順/かつじゅん)、五世(克祉/かつし)、六世(縄祖/じゅうそ)、七世(従憲/じゅうけん)、更に「聞得大君」を頂点とした神人(カミンチュ)組織の中で「三十三君」と呼ばれる高級ノロ(神女)の一人である「阿応理屋恵(あおりやえ)」など30名余りが葬られています。(大和墓の石碑)(龍宮神)「ウーニシ墓」の南側にある「今帰仁漁港協同組合」の敷地内に「大和墓」の2基の石碑があります。左側の石碑の正面に「明和五戊 子□八月 妙法□定信□」と彫られており、天台宗や日蓮宗の戒名である事を示します。この石碑の右側面には「屋久嶋宮之浦 父立也新七敬白」と記されており、当時薩摩藩だった鹿児島県屋久島宮の浦出身の新七という人物をその父親が1768年8月に葬った事を意味します。更に、右側の石碑の正面には「即心帰郷信士」と彫られており、帰郷を切望する大和人男性が琉球国「運天」に祀られている意味が戒名に込められています。この石碑の右側面には「安政二年卯 十月七日」と記されており1855年に造られた石碑だと分かります。「大和墓」に向かって左側には航海の安全と豊漁を祈願する「龍宮神」の石碑が建立されており、ウコール(香炉)が祀られています。(神アサギ)(神アサギの内部)「運天集落」の祭祀は「勢理客ノロ」の管轄で催されます。五穀豊作の感謝と子孫繁栄を祈願する「ウタキヌウガン」の際には「勢理客ノロ」が「湧川、勢理客、上運天、運天」の集落を巡り、各集落から太鼓打ちの子供達と各区長が参加します。「運天」の「神アサギ」は「ウタキヌウガン」の最後に祈られます。屋根の低い瓦屋根葺きの建物である「神アサギ」は「シマセンク巫」とも呼ばれる「勢理客ノロ」と集落の女性のみが祈り、村人は「アサギミャー」と呼ばれる「神アサギ」の庭でウガン(御願)が終わるのを待ちます。「ウタキヌウガン」が終わると昆布、揚げ豆腐、三枚肉、モーイ豆腐、紅イモの揚げ餅、魚料理などのご馳走を振る舞いウガンを締めくくります。(ウッチヒヌカン/掟火神)(ウッチヒヌカン/掟火神の祠内部)(チンジャ/掘り込み井戸)「神アサギ」がある「アサギミャー(アサギ庭)」に「ウッチヒヌカン(掟火神)」の祠が建立されています。ヒヌカン(火之神)と霊石が祀られた「ウッチヒヌカン」は「タキヌウガン」の際に拝されます。「ウッチ(掟)」とは琉球王国時代の間切や村の役人を意味し、地頭の下に置かれた地頭代と同格の役職です。「按司掟、大掟、西掟」などの種類があり「運天」には「村掟」が置かれたと考えられます。かつて「村掟」の役人が住んでいた場所に、現在「ウッチヒヌカン(掟火神)」の祠があると推測されます。「神アサギ」の裏には、かつて集落の共同井戸として重宝された「チンジャ」と呼ばれる掘り込み井戸の跡があります。(風葬墓)(風葬墓)(風葬墓の人骨)「ムラウチ」集落の「運天港」に面した崖中腹には、風葬墓の掘り込み穴が多数存在します。「運天港」に吹き込む潮風が直撃する崖は遺体を風葬にするのに非常に適した地形となっており、遺体を風葬にした数年後に洗骨をした人骨を家型の木棺や厨子甕などに納めます。風葬墓の入口は木の板や「チニブ」と呼ばれるヤンバル(山原)竹を編んで作った竹垣で塞ぎます。他にも「ムラウチ」集落には丸太や板を用いて入口を塞ぐ風葬墓もあり、時の流れと共に劣化して崩落した「チニブ」や木の板の内部に木棺から剥き出しになる人骨も確認されます。集落では先人の伝統的な葬制を守る為、葬られている人骨の現状を維持していると考えられます。(ムラウチ集落の石敢當)(ムラウチ集落のフクギ並木)沖縄県にはT字路の突き当りや、十字路の角に「石敢當(イシガントー)」と彫られた魔除けの自然石や石柱があります。一説ではこの「石敢富」の起源は「石敢富」という名前の勇士であると伝わります。「琉球学術調査報告(昭和38年)」には「石敢当の"石"という姓には岩石の神秘性と強力さがあり、名の"敢当"にも力強さを持ち合わせている」と記されています。更に「石敢当という人物はたとえ実在しないとしても、この姓名からは悪霊を追い払う勇敢で力強い人物を想像できる」とも報告されています。海沿いの「ムラウチ」集落はフクギの木が防風林として多数植栽されており、この見事なフクギ並木は集落の美風景として魅力となっています。(ウブガー)(ウブガー/天泉大神の石碑)(運天トンネル)(運天港)「運天」の「ムラウチ」集落の最西端に「ウブガー」と呼ばれる井戸があり「天泉大神」の石碑が祀られています。かつて「ムラウチ」集落で子供が産まれた時に、この井戸から産水を汲んでいました。「ウブガー」の南側の崖麓に1924年(大正13)に竣工された「運天トンネル」があります。1916年(大正5年)頃から物資の運搬が海上から陸上に移行し、以前から急な坂道を往来して難儀を強いられていた「ムラウチ」集落の人々にとって「運天トンネル」の開通は生活を便利に一変させる恵みとなりました。「古宇利大橋」を望む「ムラウチ」集落は、古より琉球から沖縄の世の節々で重要な港町として栄え、今日も「運天港」には静かで穏やかな波が寄せています。
2022.03.05
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(ムムジャナバカ/百按司墓)沖縄本島北部の本部半島に今帰仁村(なきじんそん)の「運天(うんてん)集落」があります。「運天港」に隣接する丘陵の崖に「ムムジャナバカ(百按司墓)」があります。崖の中腹に所在する洞窟を利用した古墓の内部には、現在も厨子甕(ずしがめ)が数百年前から変わらぬ姿で安置されています。墓の名称である「按司(あじ)」は沖縄のグスクを築いた有力者の呼び名で「ムムジャナ(百按司墓)」は「数多くの按司の墓」を意味しており、1991年に「今帰仁村」の文化財に指定されています。墓には「北山王」とその由緒ある一族、または第一尚氏「北山監守」の貴族が葬られると伝わっています。(ムムジャナバカの森)(ムムジャナバカの標柱)「運天集落」では「モモジャナ」または「ムムンジャナ」墓と呼ばれており、墓は「ウケメービラ」と称される坂道(ビラ)の先にある崖の自然岩壁を利用して造られています。この崖の中腹一帯には50基以上の古墓が集中している地域であり「ムムジャナバカ(百按司墓)」は漆喰で塗り固められた石積みによって囲まれています。墓内部には数多くの人骨を収納できる複数の木棺が納められていたと伝わります。その中でも幾つかの木棺は漆塗りで、14世紀の「北山王国」時代や15世紀の「北山監守」時代の高い身分の者を葬った墓であると考えられています。墓内に納められていた木棺は修復され、現在は「今帰仁文化センター」に大切に展示保管されています。(第一号墓所)(第一号墓所の孔)(第一号墓所の内部)「ムムジャナバカ(百按司墓)」一帯の中央に「第一号墓所」があります。洞窟の入り口を石組みで囲い、内部に5基の古い厨子甕が安置されています。「第一号墓所」の正面にはウコール(香炉)と霊石が祀られた拝所となっています。積み上げられた石組には2つの孔が設けられており、その穴から墓内を覗き込む事が出来ます。中央にある家型の厨子甕には「今帰仁按司十七〜二十五代」と記されていて、この厨子甕の歴史の深さを確認する重要な資料となっています。この「ムムジャナバカ(百按司墓)」には「北山監守」の貴族が祀られています。「北山監守」とは「尚巴氏」が琉球三国を統一後、旧「北山王国」の監視と統治を目的として置かれた琉球王国の官職の事をいいます。(第一号墓所の右側にある墓所)(第一号墓所の右側にある墓所内部)「第一号墓所」の右側には小規模の洞窟をりようした墓所があり石積みが組まれています。この墓所内部には無数の人間の骨が無造作に散乱しています。「北山監守」は琉球王府から任命されて「今帰仁グスク」を拠点にしていました。「中山世譜(1697-1701年)」「球陽(1743-1745年)」そして、碑文の「山北今帰仁城監守来歴碑記(1749年)」には「尚忠」が第2代琉球国王に就任する以前に「北山監守」として最初に派遣されたと記されています。また「尚巴氏」は「山田グスク」城主であった「先今帰仁城主」の血筋を引く「護佐丸」を「北山監守」に就任させ「座喜味グスク」の築城を命じました。これは「北山」を監視する戦略で「座喜味グスク」は「北山」を監視する戦略上の重要なグスクでもあったのです。(第二号墓所)(第二号墓所の内部)(第三号墓所)「第一号墓所」の向かって左側に「第二号墓所」の石積みがあります。墓内には5基の厨子甕が安置されています。さらに「第二号墓所」から向かって左側には「第三号墓所」の石垣があり複数の板で蓋が施されています。沖縄全域と奄美大島に分布している厨子甕は死者の遺体を風葬した後に洗骨して洗い清めた骨を納める容器で、墓と同様に「死者の家」であると考えられています。厨子甕は体全体の骨をそのまま収納する為、火葬が主である本土の骨壷に比べても比較的大きめに造られています。沖縄で最も古い厨子甕として知られているのは「浦添ようどれ」に納められている英祖王(在位1260-1299年)の石厨子3基で、14世紀頃に造られたと推測されます。そしてこの「ムムジャナバカ(百按司墓)」が次に最も古い厨子甕が残っている墓であると言われています。(第四号墓所)(第四号墓所の内部)「第三号墓所」に向かって左側の崖には「第四号墓所」があります。墓の内部には複数の家型厨子甕や厨子甕が所狭しと並べられてらおり、破損した甕や床には多数の白骨化した人骨が剥き出しに納められています。風葬は死体を埋葬せず外気に晒して自然に還す慣習の事で、遺体の腐敗が早い南西諸島(奄美群島/琉球諸島)では近年まで一般的な葬制でした。沖縄では洗骨後の改葬を目的とした墓室内での風葬は1960年代まで主流として行われ、現在も離島など一部の集落で継続されています。風葬は遺体をバンタ(崖)やガマ(洞窟)に置き自然の腐敗を待ちます。3年後、5年後、7年後などの時期をみて洗骨して厨子甕に納骨します。(第五号墓所)(第五号墓所の内部)(第五号墓所の入口脇にある厨子甕)「第四号墓所」に向かって左側に「第五号墓所」の洞窟があります。この墓内には古く破損した木棺が2基あり、墓の入口には厨子甕が放置されています。古琉球では風葬が行われるバンタ(崖)やガマ(洞窟)は、現世と後世の境界の聖域と位置付けられてきました。先祖の霊を崇めると同時に「死」はあくまでも、忌まわしい不浄な状態の「穢れ(汚れ)」とも捉えられていたそうです。「ムムジャナバカ(百按司墓)」には数百年前の人骨が露わになったままですが、先祖の伝統を大切に継承する「運天集落」では風葬の文化を守り続ける為に、古から変わらない葬制で先人の遺骨を祀り続けているのです。
2022.03.01
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(ティラガマ)沖縄本島北部の今帰仁村(なきじんそん)の「運天(うんてん)集落」に「ティラガマ」と呼ばれる鍾乳洞窟があります。女人禁制であるこの自然洞窟は集落の聖地として崇められており、源頼朝と源義経の叔父にあたる「源為朝(ためとも)」が運天港に上陸してから一時的に住み着いたガマ(洞窟)だと伝わります。「ティラガマ」は歴史の深い「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」と呼ばれる巡拝行事の際に拝されるウガンジュ(拝所)の1つです。「運天集落」では「タキヌウガン」と呼ばれる行事で拝されています。ちなみに「ティラ」とは一般的に神の鎮座する場所を指し、地域により「テラ」とも呼ばれています。(ティラガマへの通路)(お焚き上げの石組)(鍾乳洞穴前の拝所)(ティラガマの入り口)「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」は「今帰仁廻り(なきじんまわり)」とも呼ばれ、沖縄本島北部で親族一門が行う聖地旧跡の巡拝行事です。沖縄本島南部の「東廻り(あがりまーい)」と並び、沖縄の多くの門中(むんちゅう)によって行われています。この「門中」とは同じ先祖を持つ父系の血縁集団のことを意味します。「今帰仁上り」の主要な巡拝聖地は各門中や地域などにより様々ですが、琉球開闢の伝説に関わる御嶽、三山時代の史跡、集落のノロ殿内、三山統一後の監守時代の按司墓などが毎年(又は3、5、7年ごとの奇数年)巡拝されます。「ティラガマ」の周辺には多数の拝所が点在し、ウコール(香炉)と霊石が祀られています、(ティラガマ入り口の拝所)(ティラガマ入り口付近の拝所)(ティラガマの入り口付近の拝所)(ティラガマ入り口付近の拝所)琉球王府の正史である「中山世鑑」に記される「舜天(しゅんてん)王」は「源為朝」の子であるという伝説があります。「保元の乱(1156年)」に敗れて伊豆大島に流刑になった「源為朝」は島からの脱出を試みた際、潮流に流され"運を天にまかせて"たどり着いたのが沖縄本島北部の「今帰仁」の港でした。それに由来してこの港は「運天港(うんてんこう)」と名付けられました。その後「源為朝」は沖縄本島南部に移り住み、大里按司の妹と結ばれて「尊敦」が生まれ、この男児が後の「舜天王」だと言われています。「舜天王統」は1187年から1259年の間「舜天」「舜馬順煕」「義本」の3代、73年に渡り「琉球国中山王」の王位に就いたとされます。(ティラガマ内部/階段を降りた右側の拝所)(ティラガマ内部/運天と上運天に向けられた拝所)(ティラガマ内部/本土に向けられた拝所)「ティラガマ」では「タキノウガン」と呼ばれる祭祀が行われています。「上運天」と「運天」の両区長とカミンチュ(神人)が集いガマの拝所に祈ります。鍾乳洞窟の入口から階段を降りた場所の右手には拝所がありヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。そこから更に洞窟の奥に進むと、大人がしゃがんで入れる程の小さな空間となっています。その中に大和(本土)に向けられた主要な拝所、その背後にも「上運天」と「運天」に向けられた拝所があり、それぞれビジュル(霊石)とウコール(香炉)が祀られています。このビジュルは古くから子授けの霊力が宿っているとされ、人々の信仰を集めています。なお、このガマは女人禁制なので、女性は洞窟の入り口に設けられた拝所からガマ内部を遥拝する事が出来ます。(源為朝公上陸之趾の石碑)(石碑の脇にある拝所の祠)「運天集落」から運天港を見下ろす丘に「源為朝公上陸之趾」と彫られた石碑があり1922年(大正11)に「東郷平八郎」により建立されました。石碑の文字も「東郷平八郎」により書されたもので「源為朝」の来琉を根拠に、琉球の祖先が日本人と同じだったことを印象づける事により、愛国心の育成に力を注いでいたと言われます。この石碑に利用された石材は明治5年に国頭村宜名真(ぎなま)沖で沈没した英国船の積み石(バラスト)を利用したとも伝わっています。「東郷平八郎」は明治時代の日本海軍の指揮官として日清戦争と日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた人物で「東洋のネルソン」とも呼ばれ、国内外で英雄視されました。(運天展望台)(運天展望台からの景色)「ティラガマ」の南側で「源為朝公上陸之趾」の西側の崖上に「運天港」を見下ろす「運天展望台」があり、展望台からは「古宇利島」と「古宇利大橋」の絶景が広がっています。琉球王国時代「運天港」は北山王統の主要な港として栄え、17世紀に薩摩が琉球侵攻した際に沖縄本島への最初の上陸港となりました。戦前は奄美群島や日本本土との流通な中心地となり、沖縄戦では旧日本海軍の特殊潜航艇基地が置かれ、米軍の攻撃により壊滅して米軍が上陸した港となりました。琉球の昔より時代の節目節目で歴史に大きく関わる港として「運天港」は存在し続けてきました。現在は静かで穏やかな港として、沖縄のゆったりとした平和な時間が流れています。
2022.02.24
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(トゥクシ岩)沖縄本島読谷村の「渡慶次(とけし)集落」の北側に「トゥクシ岩(ジー)」と呼ばれる大岩があります。かつて「トゥクシ岩」の周辺には美しい芝生が広がり、集落の住民が憩う絶好の場所でした。そして夜は若い男女の出会いや語らい、更にモーアシビー(毛遊び)の場でもあったと伝わります。集落はこの岩の名称に由来して「トゥクシ」と名付けられましたが、時代の流れの中で「トゥクシ」の集落に優れた知恵者が現れて「トゥクシ」を「渡慶次」に改称するようになった、という古老達の言い伝えが残っています。(トゥクシ岩の森)(トゥクシ岩の拝所)五穀豊穣に感謝する奉納舞踊であるムラアシビ(村遊び)が近づくと「トゥクシ岩」の前でグィーシラビ(声調べ)をして配役を決めて踊りの練習をしていました。「トゥクシ岩」の言われは、大地に根を下ろしたその大岩が人間の体の重心となって体を支えているトクシ骨(背骨)にも似ており、村落繁栄のためにクサティ(腰当)となって下さい、という神への願いから「トゥクシ岩」と名付けられたと伝わります。現在も「渡慶次集落」の清明祭では第二尚氏王統の始祖である「尚円王(1415-1476)」が生まれた「伊是名島」へのンケーノーシドゥクル(遥拝所)として利用されています。(ガンヤー/龕屋跡)(無縁墓)(フドゥー/不動)「トゥクシ岩」南西側の麓にはかつて「ガンヤー(龕屋)」と呼ばれる小屋がありました。死体を収める棺を墓まで運ぶ輿をガン(龕)と呼び、ガンを保管する小屋を「ガンヤー」と言います。そのため「トゥクシ岩」の一帯は「ガンヤヌイー」とも称されました。「ガンヤー」の南東側に「無縁墓」があり3基の霊石が祀られウコール(香炉)が設置されています。更に「ガンヤー」の北側には「フドゥー(不動)」と呼ばれる祠があり、不動明王に起因する拝所だと伝わっています。旧暦9月16日の「ハルヤーポン祭」と呼ばれる大御願(ウフウガン)では米や粟で作った餅などを「フドゥー」に供えて豊作を祈願ました。(渡慶次御嶽)(渡慶次御嶽の火之神)(ボージヌメー/ウフウタキ)「渡慶次集落」の北東側に「渡慶次御嶽」があり、大木がそびえ立つ岩盤の一帯が御嶽と称されています。「渡慶次御嶽」の敷地には「火之神」の祠が建立されており、霊石とウコール(香炉)が祀られています。御嶽の玄関口として訪れた際には「火之神」から拝します。「渡慶次御嶽」の岩盤の麓には「ボージヌメー」という拝所となっており「ウフウタキ」とも呼ばれています。霊石が祀られウコール(香炉)にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられており、この拝所には今帰仁(北山)系統の士と伝わるニッチュ(根人)と呼ばれる集落の創始者である「ボージヌメー」が祀られています。旧暦8月2日の「ボージヌウガン(御願)」に集落の住民により拝されています。(グシクダキ/城嶽)(按司墓)「渡慶次御嶽」の北側に隣接して「グシクダキ(城嶽)」と呼ばれる岩山があり、集落の始祖である「ボージヌメー」の家族等を祀った墓所となっています。「グシクダキ」の南側岩崖の麓には「按司墓」と呼ばれる自然の岩の窪みを利用した古墓があり、ウコール(香炉)にヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「グシクダキ」という名称から、かつてこの岩山をグスク(城)として構えた城主(按司)が「按司墓」に祀られていると考えられます。戦前まで「グシクダキ」は禁忌の場所として、一般の住民の立ち入りは禁じられていたと伝わっています。(アタトーヤー)(火之神)(無縁墓)「渡慶次御嶽」の南側に「アタトーヤー」と呼ばれる「神アサギ」がありトゥン(殿)とも呼ばれています。「神アサギ」とはノロ(祝女)が集落の祭祀を行う神聖な場所で、琉球王府により編纂された地誌である「琉球国由来記(1713年)」には「渡慶次之殿」と記されています。「渡慶次集落」は「崎原巫(崎原ノロ)」により祭祀が行われ「崎原ノロ」は「渡慶次、高志保、長浜、宇座」の4集落を管轄した位の高い祝女でした。「アタトーヤー」の敷地には「火之神」の祠があり多数の霊石が祀られています。更に「無縁墓」が設けられておりウコール(香炉)が祀られています。(ジトゥーヒヌカン/地頭火之神)(チンガーグヮー/チン井小)(チンガーグヮーのフドゥー)「アタトーヤー」の南側に「ジトゥーヒヌカン(地頭火之神)」の祠が建立されています。かつてこの場所は「渡慶次地頭」の詰所があり「火之神」が祀られていたことから「地頭火之神」と呼ばれるようになりました。「渡慶次地頭」は「渡慶次」の集落を治めた「脇地頭」と呼ばれる領主で、集落の行政を司る士族でした。「渡慶次地頭」は1643〜1673年に地頭を務めた「渡慶次親雲上道治」に遡ると言われています。「ジトゥーヒヌカン」の東側に「チンガーグヮー(チン井小)」と呼ばれる井戸跡があり「渡慶次集落」で初めに利用されていた井戸だと伝わります。この井戸には「フドゥー」が祀られた祠が建立されています。(シーシヤー/獅子屋)(カナチグチ)「渡慶次公民館」の南側に「シーシヤー(獅子屋)」と呼ばれる獅子を収めた小屋があります。「渡慶次集落」の獅子は1750年頃に作られたと伝わり、旗頭と共に集落を象徴するもので守護神として崇められています。旧暦8月15日には「獅子之御願」が執り行われ「嘉利吉や続く 村の喜びや 獅子がなし 連りて 踊い遊ぶ」と三線に乗せて謡われます。また、旧暦6月14日に中道を境に「アガリニンズ(東組)」と「イリニンズ(西組)」に分かれて綱引が行われました。東が雄綱、西が雌綱で両綱の繋ぎ目にカナチ棒を通す場所は「ナカチグチ」と呼ばれ、戦災から免れた「カナチグチ」の印石が「渡慶次農村公園」の北側に現在も残されています。(トゥクシ岩南側のカンカー)(渡慶次御嶽北側のカンカー)(アタトーヤー前のカンカー)旧4月1日と8月1日に「渡慶次集落」から伝染病や悪疫を追い払うため、集落内の7門から外に向かって「カンカー」と呼ばれる御願が行われています。5ヶ所の「カンカー」の他にも「カナチグチ」と「シーシヤー」を巡拝します。その際に「シーシヤー」では碗にウブク(御飯)を入れて獅子に供えます。「渡慶次集落」は「トゥクシ岩」に由来する言い伝えがありますが、この他にも「渡慶次」発祥の文献があります。初めて「渡慶次」の地に家屋敷を建て移り住んだのが「北谷桑江村」より来た「伊礼子」という人物であるが、嗣子がなく次に「美里伊覇村」から来た「渡慶次主」が後を継ぎ、今日の「渡慶次集落」を創立したと記されています。
2022.02.22
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(イットゥカグシク/ヒサンミ原)沖縄本島中部の読谷村にある「波平(なみひら)集落」は村内で最も古い集落の1つで、沖縄の方言で「はんじゃ」と呼ばれています。「絵図郷村帳(1649年)」と「琉球国高究帳(1673年以前に編集)」には「はびら村」の名で出ており、更に「街当国御高並諸上納里積記(1680年)」や「琉球国由来記(1713年)」には現在の「波平」と記されています。「波平集落」の発祥は1535年頃で、始祖の根屋(ニーヤ)である屋号「西桑江」の「池原某」が美里間切池原村より安住できる場所を求めて「波平東原」と呼ばれる、現在の波平公民館周辺に移り住んだのが始まりとされています。(イットゥカグシクの拝所)(イットゥカグシクの森)(シードー)「波平集落」の北側に「イットゥカグシク」と呼ばれるグスクがあります。15世紀の琉球武将である「護佐丸」が恩納村の「山田グスク」から移転して「座喜味グスク」を築城する際、一時的に城を構えた事から「イットゥカグシク(一時の城)」という名前が付きました。このグスクがある場所は「ヒサンミ原」と呼ばれています。「イットゥカグシク」を造る為に沢山の人足が必要になり、"足"は沖縄の方言で"ヒサ"と言い「足(ヒサ)が集まる場所」と言う意味から由来して「ヒサンミ原」という名前が付いたと伝わります。また「イットゥカグシク」の森には「シードー」と呼ばれる滝壺があり、かつては集落の子供達の絶好の遊び場所として賑わいました。(ウフヤガー/大屋ガー)(フタガー/ふたガー)(ターターガー/多和田ガー/多田井戸)「波平集落」の地形は西海岸の海に向かう階段上になっており、高台から「ムラホーグ」と呼ばれる集落の保護林に沿って水が流れ込んでいます。「イットゥカグシク」の森に「ウフヤガー(大屋ガー)」と呼ばれる屋号「大屋」が掘り当てた井戸があります。「ウフヤガー」の東側にはかつて川と4つの井戸があり、現在はまとめて「フタガー」と称してニライ消防本部読谷消防署の敷地内に石碑と祠が建立されています。「波平集落」の最東端に「ターターガー(多和田ガー/多田井戸)」があり、集落の創建に関わった「ターターチョーデー(多和田兄弟)」が移り住んでいた事から名付けられました。(ワンダガー/湾田ガー)(ナカヌカー/仲之カー)(カーヌイーのカー/川之上のカー)(ウフガー/うふガー)「ターターガー」の南西側に「ワンダガー(湾田ガー)」と呼ばれる井戸があり、一説によると厳しい干ばつの際に掘り当てたと伝わります。この井戸の場所を示す助言者が「ワンチュ(大湾の人)」であった事が名前の由来となっています。ちなみに井戸の前にある窪地は「ワンダジュク(湾田底)」と呼ばれています。「ワンダガー」の北側に「ナカヌカー(仲之カー)」があり、かつて周辺住民の生活用水として重宝されていました。「ナカヌカー」の西側には「カーヌイーのカー(川上之カー)」があります。この場所では「十五夜アシビ」の打ち合わせや「スーダチグヮー」と呼ばれる演舞の予行練習が行われていました。「ナカヌカー」の北側の「ウフガー(うふガー)」の水は豆腐作りに最適な清水として利用されていました。(ミーガー/新ガー)(イリヌカー/西之カー)(ブシガー/武士ガー)「シムクガマ」の北東側に「ミーガー(新ガー)」があり「波平集落」で最も新しい井戸である為、この名前が付けられました。「ミーガー」の西側には「イリヌカー(西之カー)」と呼ばれる井戸があり、屋号「亀倉根」の屋敷前にあるの為「亀倉根前(カミークランニーメー)のカー」とも呼ばれます。「イリヌカー」の北西側にある「ブシガー(武士ガー)」はフンシークミヤー(風水師)により「この井戸の水を飲むと武士が沢山生まれ、争い事が絶えなくなる」と告げられました。その後、住民はこの井戸の水を飲まなくなり「波平集落」から乱暴者がいなくなったと伝わります。集落では「シーダカサン(霊力が高い)」との理由で昔から「ブシガー」の整備が行われていないそうです。(イングェーガマ)(イングェーガマの上部)「波平集落」の北西端に「イングェーガマ」と呼ばれるガマ(洞窟)があります。このガマは沖縄戦で住民が悲劇の集団自決をした「チビチリガマ」の南側約50mの位置にあり、現在はフェンスで囲まれています。アメリカ軍が沖縄本島に上陸したその日「イングェーガマ」に避難していた住民は、アメリカ兵の「コロサナイ、デテキナサイ」という日本語での要求に応じてガマから出て収容されました。その中の1人が「チビチリガマ」まで行きガマに避難している住民にも投降するよう呼びかけたという話が伝わっています。「イングェー」という名前の由来は、昔何日も雨が降らず厳しい水不足で困っている時、びしょ濡れのイヌが出てきた事からこのガマが発見され、イヌ(イン)の井戸(ガー)から「インガー」と呼ばれ、その後「イングェー」へと変化したと伝えられています。(大当原貝塚)(大当原貝塚の森)(イタビシ/板干瀬)「波平集落」の西海岸に「大当原貝塚」があり、内陸部の琉球石灰岩の岩陰に貝塚の森が広がっています。「大当原貝塚」は今から約2000年前から2500年前の埋葬方法を知る上で貴重な遺跡です。1972年と1989年に発掘調査が行われ、人間の頭骨が土器で覆われた状態で発掘されました。頭骨だけを選び分けて土器で覆う葬り方は非常に特徴的で重要な発見となりました。頭骨を覆っていた土器は底が尖り、粘土を重ねた凸凹が残るもので「大当原式土器」と呼ばれています。更に貝塚からは貝殻で作った網のおもり、貝殻の皿や腕輪も出土しています。貝塚の南側一帯の浜にはイタビシ(板干瀬)と呼ばれる地質学的に珍しい、海浜砂粒が自然に固まった「ビーチロック」が見られます。このように「波平集落」は多数の遺跡文化財の他にも自然豊かな集落として栄え、人々の暮らしと営みが昔から続いているのです。
2022.02.16
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(シムクガマ)沖縄本島中部の西海岸にある「読谷村波平(なみひら)」に「シムクガマ」と呼ばれるガマ(洞窟)があります。沖縄の言葉で「シム」は"下"「ク」は"向く"を意味し、谷の下にガマがあることから「シムクガマ」という名前が付きました。沖縄戦の1945(昭和20)年3月、アメリカ軍の空襲は日に日に激しくなり、艦砲射撃が開始されてから「波平集落」では約1,000人の住民が「シムクガマ」に避難するようになりました。そしてアメリカ軍の沖縄本島上陸の日、激しい爆撃の直後にアメリカ兵が住民が隠れている「シムクガマ」を発見してガマに迫って来たのです。(救命洞窟之碑)(シムクガマの鍾乳洞窟)アメリカ兵が銃を構えてガマの入口に現れると、人々は恐怖に襲われガマ内は大混乱に陥りました。死を覚悟しながら避難人はガマの奥へ逃げ込もうとしますが、約1,000人もの群衆で身動きが取れませんでした。その時、ハワイからの帰国者である比嘉平治さん(当時72歳)と比嘉平三さん(当時63歳)の2人が「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は、人を殺さないよ)」と皆を必死になだめ始めました。するとガマに避難していた人々は説得に応じて投降し、約1,000人もの命が奇跡的に助かったのです。この事実に基づいて「波平集落」では、数多くの尊い命を救った2人の恩人達に感謝の意を込めてガマの入口に「救命洞窟之碑」を建立しました。(シムクガマ内部)(シムクガマ内部)(シムクガマ内部/北之天満金満宮の拝所)以前「波平集落」の区長をしていた比嘉さん(88歳)の話によると「シムクガマ」の洞窟内部を奥地に向かって流れ込む水は西海岸の海に流れ着く説があるそうです。かつて本土の研究機関が大規模なガマの調査を行い「シムクガマ」内部の奥深くまで探索しましたが、水が流れ進む場所を特定出来きませんでした。この水がアメリカ軍の猛攻撃から身を潜めた約1,000人もの命を繋いだ事は確かな事で、その命の水の行く先が未だに解明されない謎も「シムクガマ」の神秘となっています。ガマの入口の左奥には「波平御世神 二代天孫 北之天満金満宮」と記されたウコール(香炉)と霊石が祀られています。(シムクガマのガジュマル)(ガジュマル内部の拝所)(キジムナーガマ)「シムクガマ」入口の崖に高樹齢のガジュマルが無数の幹を伸ばしています。ガジュマルには神が宿ると言われており、この幹の内側にある琉球石灰岩の崖に開いた穴が拝所として祀られています。ガジュマルの根は水を求めて琉球石灰岩を貫通して岩の内部に伸びて行きます。「シムクガマ」内部の水路にも細長いガジュマルの根かが到達して水分を吸い込み、ガジュマル本体に命を注ぎ込みます。「シムクガマ」の東側に「キジムナーガマ」と呼ばれる小規模のガマ(洞窟)があり、沖縄戦では「波平集落」の5〜6世帯が避難していたと伝わります。(マチムトゥヌメー/松元の前のガジュマル)(チンマーサー)(ターターモー/多和田毛)「波平集落」の中央にある屋号「松元」の前には大きなガジュマルがあり「マチムトゥヌメー(松元の前)のガジュマル」と呼ばれています。道が二股に別れる三角形の場所は集落の若者が集まり、力石を持ち上げて競い合うなど憩いの場所でした。そこから北東側に立つ「チンマーサー」は「ウフイチンニー(大池根)」というアシビナー(遊び庭)跡の前にあり周囲には石が積まれています。かつては青年達の集会の際に待ち合わせ場所としてよく利用されていました。「波平集落」の東側にある「ターターモー(多和田毛)」は集落の創建に関わった「ターターチョーデー(多和田兄弟)」が居住した地として聖域と崇められています。(神アサギ)(シーシヤー/獅子屋)「波平公民館」の北側に「神アサギ」があります。戦前は「アタトーヤー」という瓦葺の建物があり、その敷地を「神アサギモー」と呼んでいました。「波平集落」の祭祀は「座喜味ノロ」の管轄で、「神アサギ」はウマチー(豊作祈願/収穫祭)に訪れた「座喜味ノロ」が休憩する神聖な場所でした。さらに「波平公民館」の西側に「シーシヤー(獅子屋)」の建物があり「波平集落」の守り神である獅子を納めています。旧暦8月15日の「ジュウグヤー(十五夜)」の観月会に合わせて「シーシヤー」から獅子を迎える「ウンチケー(お迎え)」を行なっています。現在の「シーシヤー」は1990(平成2)年の午年に建立されました。(アラグシクハンジャ/新城波平)(アラグシクハンジャの位牌)(ハンジャウフヌシ/波平大主之墓)16世紀頃に屋号「イリグェー(西桑江)」と呼ばれる家がこの地に住みついたのが「波平集落」の始まりとされています。その後「マチトゥキシー(松渡慶次)」「アラカキ(新垣)」「ウシムンナン(牛百名)」「アガリグェー(東桑江」「アガリマチダ(東松田)」「マチムトゥ(松元)」のナナチネー(七世帯)に「ターターチョーデー(多和田兄弟)」が加わり村造りがなされたと伝わります。その後「ウシムンナン(牛百名)」が「アラグシクハンジャ(新城波平)」となりました。かつてニーヤ(根屋)である「イリグェー(西桑江)」の上座敷には「波平集落」を治めていた「ハンジャウフヌシ(波平大主)」が祀られ、下座敷にはヒヌカン(火之神)が設置されていました。「ハンジャウフヌシ(波平大主)之墓」は集落の西側にあり「清明祭」で拝まれています。(アガリジョウ/東門)(ハタクンジマーチ/旗括立松2世)「アガリジョー(東門)」は「波平集落」の東の入口にあるアシビナー(遊び庭)で、旧暦7月16日の旧盆行事では「波平棒」と呼ばれる棒術やエイサーが披露されます。また旧暦8月15日の「ジュウグヤー(十五夜)」の観月会では、昔から継承される獅子舞や舞踊など25種類もの演目が披露されます。「アガリジョー」の一角には戦前からムラアシビ(村遊び)の際に「波平集落」の象徴である旗頭を立てる「ハタクンジマーチ(旗括立松)」がありました。現在の松は二代目であり「ハタクンジマーチ2世」と呼ばれ、集落の伝統行事が大切に継承され続けています。(カーヌイー/川之上の石屋)(トゥカーチョンナー/戸加喜友名の石屋)(マチムトゥイリ/松元西の石屋)(神アサギ/神阿佐木の石屋)「波平集落」には「イシヤー(石屋)」と呼ばれる石板で造られた祠が点在しており、沖縄で多く見られる「ビジュル(霊石)」の役割があるとされています。集落には「カーヌイー(川之上)の石屋」「トゥカーチョンナー(戸加喜友名)の石屋」「マチムトゥイリ(松元西)の石屋」「神アサギ(神阿佐木)の石屋」の4つの「イシヤー」があり、旧暦9月9日の「菊酒」にちなんで拝まれています。更に「神アサギの石屋」は正月のハチウガン(初御願)の際にも拝まれています。「ビジュル」とは主に沖縄本島でみられる「霊石信仰」で豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされています。16羅漢の1つの賓頭盧(びんずる)がなまった言い方で自然石を神と崇めて大切に祀られています。
2022.02.11
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(モーヤマウタキ)沖縄本島沖縄市に「知花グスク」があり、地元では「チバナグシク」と呼ばれています。標高87mのカルスト残丘地形にグスクが構築されており、付近はうるま市天願と北谷町砂辺を結んだ「天顔構造線上」にあります。沖縄本島北部と中南部を区分する断層上にあるため、地質学や植物学的にも重要な地域となっています。「琉球国由来記(1713年)」には「知花集落」の「カナ森/神名:イシノ御イベ」「森山嶽/神名:イシノ御イベ」「カナヒヤンノ嶽/神名:イシノ御イベ」の3つの御嶽が記されており「イシノ御イベ」とは「霊石」を守護とした神を意味しています。(ユナガー/米川)(火之神)「知花グスク」の東側に「ユナガー(米川)」という井戸があります。「ヌールガー」とも呼ばれており、その昔「知花ノロ」が使っていた事からその名が付いています。「ユナガー」の井戸には祠が祀られており、線香を供えるウコール(香炉)が設置されています。また「ユナガー」から溢れて下方に流れ出た水溜りは、ノロや按司が手や足を洗う場所であったと伝わります。「ユナガー」は「知花集落」で最も神聖な拝所の1つとなっており、敷地内の拝所には「火之神」の石碑が建立され、手足洗い場を示すコンクリートの小池も設けられています。(ノロ殿内の拝所)(フウの木と霊石)(ウガンヌシー)「ユナガー」の北側に「ウガンヌシー」と呼ばれる御嶽の森があり「ムイグチヌウカミ」の拝所が設けられています。この森の南側には神に仕える祝女を輩出する「ノロ殿内(ヌルドゥンチ)」の屋敷が建てられています。「ノロ殿内」の敷地内には一般の住民が祈る拝所があり、家主の島袋さんが1955年に台湾から種子を持ち帰って育てたマンサク科の「フウ」の木と、複数個の霊石が鎮座しています。島袋さんは若い頃にハワイ大学の招待で農業研修生として6か月間ハワイに滞在しました。その時にハワイから持ち帰った数本のヤシの木が「ウガンヌシー」の森で現在も立派に育っています。(カンサジヤー/神アサギ)(知花グスク北側の洞窟)「知花グスク」の北側にノロが祭祀を司る「カンサジヤー(神アサギ)」があります。この広場は旧暦の5月15日と6月15日の行事に「知花集落」の発祥の地である古島(倉敷ダム東側一帯)へ遥拝するために拝まれ「知花ノロ」の管轄である「知花、池原、登川、松本」の4集落が祭祀に参加します。現在の建物になる以前は茅葺造りでしたが、それよりも昔には建物がなく祭祀の際にはクロツグの葉などで仮小屋が造られたと伝わります。この「カンサジヤー」は「琉球国由来記(1713年)」には「知花之殿」として記されており「下之殿」とも呼ばれています。また「カンサジヤー」の東側でグスク丘陵麓には鍾乳洞の洞穴が口を開いています。(上之殿毛/イーヌトゥヌモー)(上之殿毛の祠)「上之殿毛(イーヌトゥヌモー)」は「カンサヂヤー(神アサギ)」の南西側の高台広場に位置する御嶽で、石造りの祠が設置されており内部には霊石が祀られています。「松本之殿」とも呼ばれており、旧暦の5月15日と6月15日の「ウマチー(稲穂祭/稲大祭)」の際に、知花と松本の自治会と有志により拝みが行われます。「上之殿毛」の広場周辺に張り巡らされた綱は年に1回、旧暦12月24日の「チナマチウグヮン(綱巻御願)」の際に自治会関係者により新しく張替えられます。「縄張り」とも呼ばれるこの祭祀では、一年の感謝と繁栄の祈願(御用納め)が行われます。(ムイグチウタキ)(ムイグチウタキのウコール)「知花グスク」頂上にある展望台から北西側の丘陵中腹に「ムイグチウタキ」と呼ばれる琉球石灰岩の大岩があり、麓には拝所を示す石組みの囲いが施され中央にはウコール(香炉)が祀られています。この御嶽も旧暦12月24日の「チナマチウグヮン(綱巻御願)」の際に拝される「知花集落」の重要な拝所で、大岩の右側にある木を起点として中央の岩穴と左側の岩と3本の縄を渡す「縄張り」が施されています。「琉球国由来記(1713年)」に記されている「石城之嶽」はこの「ムイグチウタキ」であると考えられます。(モーヤマウタキ)(モーヤマウタキの祠)「知花グスク」の北西側の森を下って進むと「モーヤマウタキ」があり、石造りの祠と神が宿る岩塊が鎮座しています。「イーヌトゥヌモー」「ムイグチウタキ」と共に「知花集落」の平和と繁栄を祈願する「御用納め」で巡拝される3つ目の御嶽がこの「モーヤマウタキ」です。この御嶽にも「縄張り」の3本の縄が右側の木を基点として中央の岩塊に巻き付けられ、さらに左側の木に結ばれて固定されています。一説によると「琉球国由来記(1713年)」に記される「森山嶽/神名:イシノ御イベ」は「モーヤマウタキ」があるこの深い森を示すと言われています。(夏氏大宗墓の碑文)(夏氏大宗墓)1853(咸豊3)年に「鬼大城」を始祖とする「夏氏」の子孫が建てた碑文が「知花グスク」の南側丘陵中腹にあります。1716(康熙55)年に知花にあった「夏氏の墓」を美里の「宮里村中間原の墓」へ遺骨を移して双方の墓を祀りましたが、風水見の「鄭良佐与儀親雲上」は「知花グスク」に墓を祀る方が風水の良い場所と判断しました。さらに「知花グスク」には「鬼大城」の遺骨も葬られている為、それらの理由から現在の場所に「夏氏の墓」を移葬したと伝わります。因みに「鬼大城」の子孫には摩文仁間切(糸満市摩文仁)総地頭の「夏氏摩文仁殿内」がいます。(鬼大城之墓)(鬼大城之墓)「夏氏大宗墓」に隣接して「鬼大城之墓」があります。「鬼大城」の名前で知られる「越来賢雄」は15世紀の琉球武将で、唐名は「夏居数(かきょすう)」です。越来間切の総地頭に就任する以前の名前は「大城賢雄」でした。知花で育った「鬼大城」は武勇に優れ、第一尚氏王統の第6代国王「尚泰久王」に仕えていました。1458年に首里王府軍の総大将として勝連按司の「阿麻和利」を討伐し「尚泰久王」の長女である「百度踏揚(ももとふみあがり)」を妻に迎えました。その後、政変により第一尚氏王統は滅び「鬼大城」もこの地に追われ自害し、その場所が墓になったと伝わります。(祝女墓/ノロ墓)「祝女墓」は「鬼大城之墓」の東側に位置し「知花集落」では「ヌールバカ」と呼ばれています。元々は岩陰を利用して前面を石積みにし、墓口をアーチ工法にした「岩穴囲い込み墓」の古墓でありましたが、現在はコンクリートで改築されています。昔、ある葬式の時に「ヌールバカ」へ入った人は、墓内部に約30基の蔵骨器を見たと証言しています。「知花、池原、登川、松本」の4集落が「知花ノロ」の管轄であった事から、この地域一帯での「知花ノロ」は非常に位の高い祝女であったと考えられ、歴代の「知花ノロ」が「知花グスク」南側の丘陵中腹の「祝女墓」に葬られています。(カーグヮー)(フクマガー)「知花グスク」の南側で比謝川の支流とユナガーの合流地点に「カーグヮー」と呼ばれる井戸があります。かつては「大村渠(ウフンダカリ)集落」の住民が松本に移り住むまで使用し、その後は「知花集落」の住民の生活用水となりました。「ニーガンヌール(根神ノロ)」が仕立てた井戸である事から「ニーガンウカー」や「イカンガー」とも呼ばれています。井戸には祠とウコール(香炉)が祀られています。因みに「根神(ニーガン)」とは琉球王府が公認したノロ(祝女)が幅広く配置される以前から、集落の祭祀を司っていた神人を意味します。更に「知花グスク」の東側にある「フクマガー」も「大村渠(ウフンダカリ)集落」があった昔から使用された古井戸であると伝わります。(知花橋から見た知花グスク)「おもろそうし巻二」の中城越来のおもろには「知花グスク」を謳った「おもろ」があります。 ちばな、かなくすく(知花金城) ちばな、いしくすく(知花石城) ももしま、まじうんいしくすく(百々島共に石城)又 けおのゆかるひに(今日のよき日に) けおのきやかるひに(今日の輝く日に) ちばな、こしたけに(知花こし岳に) あんは、かみ、てずら(我は、神をまつらん) かみや、あんまぶれ(神は我を守りたまえ)又 ちばな、にしたけに(知花北岳に)
2022.02.06
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(伊達政仁 作)沖縄本島北中城村「荻堂(おぎどう)」は世界遺産の「中城グスク」の北側に位置し、古いカー(井泉)や縄文時代の貝塚を有する歴史の深い地域です。「荻堂集落」は県道146号線を中心に広がっており、東側は「大城(おおぐすく)集落」西側は「安谷屋(あだにや)集落」に挟まれています。「荻堂集落」の中心部に「イーヌカー(上の井泉)」があり、北側に隣接して「荻堂のシーサー群像」があり「荻堂のかりゆしシーサー」とも呼ばれています。北中城村文化協会の「シーサーで景観を創る会」により14体のシーサーが設置されています。(新垣正良 作)(安里幸男 作)(山下由美子 作)「荻堂集落」の北側に琉球石灰岩の丘陵崖下に形成された約3,000~3,500年前の「荻堂貝塚」があります。この貝塚は沖縄本島東海岸の中城湾に臨む標高約140mの丘陵に位置します。沖縄最古級の琉球縄文土器時代前期の貝塚として知られており、1972(昭和47)年の5月15日に国に史跡に指定されました。この貝塚は1904(明治37)年に鳥居龍蔵氏により発見されました。鳥居氏は人類学者、考古学者、民族学者、民俗学者で1904年に沖縄本島や石垣島の貝塚を調査して沖縄の先史文化を初めて紹介しています。(辺土名寿男 作)(山内米一 作)(穴倉広美 作)「荻堂貝塚」は1919(大正8)年に東京帝国大学(東京大学)の松村瞭氏により発掘調査が行われ、三枚の堆積層(表土,混貝土層,基盤の石灰岩)からは各種の南西諸島産貝殻、魚骨、獣骨の他にも土器、石器、貝製品が出土しています。特に土器では先端が二又の形をしたヘラで描かれた平行線文、山形文、爪型文などの文様が施された「荻堂式土器」が発掘されています。「荻堂式土器」の特徴は山形の口縁で平底の深鉢形を主体とし、わずかながら壺形を伴っています。文様は口唇部と口頸部に描かれ、口縁内面や胴下半部は文様が施されません。「荻堂貝塚」からの出土品は南島先史時代研究の標準資料となっています。(比嘉泥佛 作)(佐野壽雄 作)(国吉安子 作)14体の「荻堂かりゆしシーサー」はイーヌカーと呼ばれる井泉の北側に隣接して設置されています。「荻堂集落」はカー(井泉)の数が豊富で、他にもヒージャーガー、メーヌカー、イリヌカー、タチガーという井泉からも豊かな水が湧き出ています。「荻堂集落」周辺の地質は水を通しやすい琉球石灰岩と、水を通さない島尻層群(クチャ層)で構成されています。そのため隣接する「大城グスク」や「ミーグスク」更には「メーヌマーチュー」と呼ばれる丘陵に雨が降ると其々の層の境目を高所から低所に向けて水が流れ込み、地層の割れ目から湧き水が出る仕組みになっています。「荻堂集落」は古より豊富な水源と共に栄えた歴史を持つ「水の集落」と言えます。(糸村昌祐 作)(新垣秀昭 作)(外間裕 作)「荻堂貝塚」の丘陵北側の麓に「タチガー」と呼ばれる井泉が湧き出ています。この井泉だけは「荻堂集落」の他の井泉とは水源が異なっています。この井泉には清らかな湧き水が未来永劫に残る事を願い、祠地蔵尊(ほこらじぞうそん)が建立されています。その昔、水に濡れた犬が出入りしている小さな穴を見つけた人が、その穴を掘り下げて行ったところ、豊富な水が脈々と湧き出てきた話が伝わります。この「犬が見つけた湧き水」という有名な民話に由来したカー(井泉)が「タチガー」です。(青柳晃 作)(荻堂かりゆしシーサー)「荻堂集落」の西側丘陵の頂きには「荻堂の歌碑」が建立されています。この歌碑の挽物口説(ひちむんくどぅち)は、挽物大工が那覇市の若狭町から中部の「荻堂/大城集落」の坂を通って具志川の田場や天願へ仕事に出かける時に歌われた道中歌です。歌碑には挽物口説の有名な一説が記載されています。『(津波) あの坂 何んて言ゆる 坂だやべるか (主) あれややう津波 津波やう 荻堂大城の坂んて 言ゆんてんと (津波) あんす高さる坂も あやべさや』また「荻堂集落」は日本で一番早く咲くひまわりの祭り「北中城INひまわり」が開催されるなど自然と文化が共存する、平穏でゆとり溢れる集落となっているのです。
2022.02.01
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(鬼大城/大城賢雄の祖先の墓)沖縄本島北中城村にある「大城(おおぐすく)集落」は「歴史のさんぽ道」で知られ、周囲の自然環境と共存する沖縄の伝統的な集落形態を留めています。「大城集落」には民俗学的に価値のある拝所やカー(井泉)などの文化財が数多く残されており、旧暦7月17日には村のシンボルで守り神でもある旗頭が集落内を練り歩く「旗すがし」が行われます。また、隣接する「荻堂集落」と「大城集落」の成り立ちと関連する「兄弟棒」などの伝統行事が現在も行われ、有形無形の文化財と共に歴史的形態を多く残しています。(アガリガー/東井泉)「大城集落」の東側に「アガリガー(東井泉)」と呼ばれる井泉があり、集落の村ガー(共同井泉)の一つです。築造された年代は不明ですが、昔から「アガリガー」は主に集落東部の住民が洗濯、野菜洗い、水浴び等の生活用水として利用されました。戦前は旧正月2日(現在は1月3日)に集落の有志が水の恵みに感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしています。現在も水源が豊富な「アガリガー」には石造りのウコール(香炉)が祀られ、一年を通じて住民が訪れて祈りを捧げています。(メーチュンナー/前喜友名)(ウカンジャーモーの拝所)(拝所の祠内部)「アガリガー」の西側で「大城集落」に通る県道146号線の北側には「大城遺跡」があります。この遺跡の「メーチュンナー(前喜友名)」と呼ばれる場所には森の丘があり、その頂上には「ウカンジャーモー」という平場が広がっています。この広場にはコンクリート製の「ウカンジャーモーの拝所」が南向きに建立されています。拝所の祠内部には霊石が祀られており、ヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。祠内部の正面奥側には琉球石灰岩の大小様々な古い岩が積み重なり、その前方にはコンクリート製ブロックが幾つも積まれています。(アガリヌカー)「ウカンジャーモーの拝所」の南西側に「アガリヌカー」と呼ばれる井泉があります。このカー(井泉)は「大城集落」の大半の住民が飲料水として戦後に上水道が整備されるまで利用してきました。戦前は旧正月元日の早朝に子供達が井泉の水をワカミジ(若水)として汲み、ヒヌカン(火の神)や仏壇に供えて新しい年の家運隆昌と家族の健康を祈願しました。大正14年(1925)に井泉の上にコンクリートでゴミ除けの屋根が取り付けられ、1959年と2001年にそれぞれ改築されました。また、井泉には魔除けである2体のシーサーが設置され、井泉の水を悪霊から守っています。(ヌンドゥルチ/ノロ殿内)(ヌンドゥルチ内部)「アガリヌカー」の北側に「ヌンドゥルチ(ノロ殿内)」が東側に向けて建てられており、建物内部にはヒヌカン(火の神)、霊石、ウコール(香炉)が祀られています。この「ヌンドゥルチ」はかつて「大城集落」の祭祀を司った「大城ノロ」の屋敷があった場所に建てられた拝所です。ノロ(祝女)は琉球王府により正式に任命された神女であり、1つの集落から複数集落の祭祀組織を統率しました。各集落でノロの家柄は決まっており、ノロの住む住居はノロ殿内と呼ばれ、守護神としてヒヌカン(火の神)を祀っていました。(チュンナーニードゥクル/喜友名根所)(チュンナー根所の内部)「ヌンドゥルチ」の北側で「大城遺跡」の最北端に「チュンナーニードゥクル/喜友名根所」があります。「大城集落」の発祥に関わる根所で「宜野湾間切喜友名村」から移住して「大城集落」の始祖となった人物が住んでいた屋敷がありました。集落の祭事巡拝では「ヌンドゥルチ」のヒヌカン(火の神)の次に「チュンナー根所」を拝します。「チュンナー根所」は丘陵の南側斜面に位置するため、根所の敷地内は三段の段差を形成しています。戦前は敷地の中央にカヤブキヤー(茅葺屋)の母屋があり、その右手には瓦葺き造りの神アシャギ、更に左手側には家畜小屋が建っていたと伝わります。(チブガー/チブ井泉)(チブガー庭苑のシーサー)「チュンナー根所」の西側で県道146号線沿いに「チブガー(チブ井泉)」があり「大城集落」で最も古い村ガー(共同井泉)だと伝わります。「チブガー」は「大城集落」のウブガー(産井泉)で新生児のウブミジ(産井泉)として利用され、更に集落で死者が出た場合に身体を清める水も「チブガー」から汲んでいました。水量が多く住民の洗濯、野菜洗い、水浴びなどの生活用水に利用された貴重な井泉でした。また、多くの人達が「チブガー」に集まり出会いの場として大きな役割を果たしていました。「チブガー」に隣接する「チブガー庭苑」にはユニークなシーサーや東屋もあり、現在も住民の憩いの場として重宝されています。(イリヌカー/西井泉)「大城集落」の西側で県道146号線沿いに「イリヌカー(西井泉)」があります。このカー(井泉)は「大城集落」の主に西側の住民が飲料水として利用されていました。大正11年(1922)に井泉の上にゴミ除けのコンクリート製屋根が設置されました。「イリヌカー」は水量が豊富であったため昭和10年(1935)頃に、この井泉を水源とした簡易水道が整備されました。「イリヌカー」の水は上の山へ続く琉球石灰岩の中に掘られた水路を通り石樋から流れ出します。言い伝えによると、19世紀後半に「大城」の屋号吉里の「ハブウスメー(ハブ爺さん)」と呼ばれた「新垣吉羊」さんが若い頃に勇敢に水路を掘ったと言われています。(ウフグシク/大城グスクの入口)(大城御嶽)(ウフグシク/大城グスクの拝所)「大城集落」の北側にある「上の杜」の琉球石灰岩丘陵の中央部に「ウフグシク(大城)グスク」があります。標高は150〜160mで最高部は北中城村で1番高い場所となります。グスクの頂上には「大城御嶽」があり数体の神が宿る琉球石灰岩が祀られ、ヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「北中城村史(1971年)」には「ウフグシクグスク」は「英祖王」の第三子である「中城王子」が居住したグスクであると伝わります。ちなみに「英祖王」は沖縄本島で最初に王朝を築いた"神の子"の王統とされる「天孫氏」の最後の王です。同じ北中城村には「英祖王」に王位を譲った「舜天王統」の第3代国王であった「義本王」の墓があります。(ウフグシク/大城グスクの石積み)(鬼大城/大城賢雄の祖先の石棺)(鬼大城/大城賢雄の祖先の石棺)「ウフグシク(大城)グスク」には戦前には沢山の石積みが残されていましたが、戦時中には旧日本軍機関銃座の造築にグスクの石積みが使われました。現在、石積みはグスクの北側に僅かに残されています。この石積みの向かい側には琉球石灰岩の2つの洞穴があり、それぞれに「鬼大城(大城賢雄)」の祖先の石棺が納められています。石棺にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。ちなみに「鬼大城(ウニウフグシク)」は大城賢雄(後の越来賢雄)という15世紀の琉球武将です。石棺にはそれぞれジュウニフン(12本)のヒジュルウコー(火を付けない線香)がお供えされている事から「鬼大城/大城賢雄の祖先」の子孫が先祖供養として拝したと考えられます。(ミーグスクの入口)(ミーグスクの御嶽)(ミーグスクの火の神)「大城集落」の北側で「ウフグシク(大城)グスク」東側に隣接する丘陵に「ミーグスク」があります。「ミーグスク」の入口は琉球石灰岩の大岩が城門のように構えており、通路を進むと行き止まりの崖上に「ミーグスクの御嶽」があります。この御嶽には「ミーグスクの火の神」が祀られており「ニービヌフニ(ニービ石)」製の霊石が設置されています。琉球石灰岩の大岩に空洞穴があるように見えますが、上部の大岩が下部の岩の上に乗っている状態にあります。神の業として信仰の対象となったと推測され、かつて旧暦9月に集落行事として御嶽から「今帰仁」を遥拝していたと伝わります。「ミーグスク」は「大城集落」のルーツが「北山」の「今帰仁」にあると考えられる興味深いグスクとなっているのです。
2022.01.27
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(辺土名寿男 作)沖縄県北中城村安谷屋(あだにや)に「第一安谷屋交差点のシーサー群」があります。「第一安谷屋交差点」は「北中城インターチェンジ」入口に程近いため「北中城インター入口交差点」や「安谷屋西交差点」とも呼ばれています。県道81号(宜野湾北中城線)と県道29号(那覇北中城線)の交差点で、交通量が多い主要な道路で知られています。この交差点に「シーサーで景観を作る会」が主導して、北中城村を中心に活躍するプロとアマ15人の陶芸家による15体のシーサーが設置されています。シーサーは魔除けの役割があり、多くの車が行き交う「第一安谷屋交差点」で交通安全を祈願しています。(穴倉広美 作)(新垣正良 作)「第一安谷屋交差点」がある「安谷屋集落」では「ウマチー」と呼ばれる稲(旧暦2月)と麦(旧暦5月/6月)の収穫を祝う農耕に関わるお祭りが行われています。「ウマチー」は琉球王国時代の公的な祭祀で、明治時代以降は其々の月の15日に行われるようになりました。「安谷屋ウマチー」は「仲の神屋」「根所火の神」「安谷屋グスクの七殿」「イーヌ御嶽」「ウトゥーシ」「シムヌ御嶽」「邊土大主之墓」「熱田神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「安谷屋ヌンドゥンチ」を巡り、神への感謝と集落の住民の健康を祈願します。ちなみに「仲(ナーカ)」は「安谷屋」発祥に関わる草分けの家筋だと伝わります。(青柳晃 作)(山下由美子 作)「安谷屋集落」では旧暦6月25日に「カシチー」という新米の収穫を祝う祭りが行われます。集落の各家庭では収穫した糯米(もちごめ)を蒸して作った「カシチー」と呼ばれる強飯(おこわ)を神棚、仏壇、ヒヌカン(火の神)などに供えて、豊作と家族の健康を祈ります。「安谷屋カシチー」は「仲の神屋」「根所火の神」「イーヌ御嶽」「ウトゥーシ」「シムヌ御嶽」「ティラグヮー山」「久米島遥拝」「邊土大主之墓」「中城若松の墓(仲家のみ)」「熱田の神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「安谷屋ヌンドゥンチ」を巡拝し豊年と住民の健康を祈り、夕方には「仲の庭」や「クシミチ(後道)」で綱引きが執り行われます。(比嘉泥佛 作)(外間裕 作)旧暦7月17日頃「安谷屋」では邪霊を鎮め集落の住民を守る「ウシデーク」という祭祀が執り行われています。「ウシデーク」とは沖縄諸島の伝統的な民族芸能で、集落の婦女子による集団舞踊の事です。しかし「安谷屋」では「ウシデーク」を踊った伝承が無く、なぜ「ウシデーク」という名称が付けられたかは謎に包まれています。「ウシデーク」では「仲の神屋」「根所火の神」「熱田の神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「安谷屋ヌンドゥンチ」「アシビナー」の6箇所が巡拝されます。「ウシデーク」の供物として「ビンシー」と呼ばれる御願用具を持ち運べる木箱、ヒラウコー(沖縄線香)、泡盛が用意されます。(伊達政仁 作)(安里幸男 作)旧暦8月15日の中秋の名月では「十五夜拝み」「御月御祭(ウチチウマチー)」「御月御願(ウチチウガン)」として、小豆を表面にまぶした「フチャギ」と呼ばれる餅を神棚、仏壇、ヒヌカン(火の神)に供えます。この日、集落では綱引きや獅子舞、演舞や芝居などが演じられます。かつては「安谷屋」でも闘牛が行われたと伝わっています。「安谷屋十五夜」では「イームイ」と「アシビナー」で住民の健康と安全を祈願する祭祀が執り行われています。「十五夜」の御願ではヒラウコー(沖縄線香)とシルカビ(白紙)が用意され、屋外や井戸では線香に火を着けずにシルカビの上に置いて拝みます。(新垣考昭 作)(糸村昌祐 作)ムラガー(共同井戸)や祖先に縁のあるカー(井泉)を拝み、水に対する感謝や集落の繁栄、更に住民の健康を祈願するウビナディ(御水撫で)やウビー(御水)という祭祀が行われています。「安谷屋」では旧暦8月吉日に執り行われ「8月ウビー」と呼ばれており「仲の神屋」「根所火の神」「クサイヌカー」「クガニジガー」「イーヌカー」「イーヌ御嶽」「ウトゥーシ」「シムヌ御嶽」「タカヒージャー」「クルマガー」「ミートゥガー」「後原ヒージャーガー」「チブガー」「中城若松の墓」「邊土大主之墓」「ユージヌカー」「熱田の神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「ウフカー」「安谷屋ヌンドゥンチ」の20箇所を巡拝します。(山内米一 作)(国吉安子 作)沖縄では旧暦12月に一年間に願い事をした神様に感謝して願を解くウグヮンブトゥチ(御願解き)、又はフトゥチウグヮン(解き御願)と呼ばれる祭祀が行われています。「安谷屋」では旧暦12月23日に「安谷屋フトゥチウグヮン」があり「仲の神屋」「根所火の神」「イーヌカー」「イーヌ御嶽」「ウトゥーシ」「シムヌ御嶽」「邊土大主之墓」「熱田の神屋」「瑞慶覧ヌンドゥンチ」「安谷屋ヌンドゥンチ」の10箇所を巡り、年始に祈願した事を解く拝みを行います。また「安谷屋」では新年を迎えると「8月ウビー」で拝む20箇所の拝所を巡る「正月ウビー」の御願が行われています。(佐野壽雄 作)(仲村実 作)「安谷屋」では「シマクサラシ」と呼ばれる、人々に災厄をもたらす悪霊や疫病が集落に入る事を防ぐ行事があります。御供物として牛や豚を屠殺(とさつ)してヒジャイナー(左縄)に肉や骨を結んで、集落の東西南北の出入口に張ります。ヒジャイナーを張る事により集落に結界をめぐらせ悪霊や疫病の侵入を防ぐ役割があります。祭祀の後に牛や豚の肉は村人で分けて食したと伝わります。「安谷屋」では旧暦2月1日に「シマクサラシ」が行われています。現在、北中城村で「シマクサラシ」の行事が残っているのは「和仁屋」と「安谷屋」の2集落のみとなっています。(第一安谷屋交差点)「第一安谷屋交差点のシーサー群」がある北中城村「安谷屋」には、昔から先人より大切に受け継げられる年中行事が執り行われています。御願の集落である「安谷屋」ならではの陶芸家の交通安全への強い願いが15体のシーサーに込められています。県道81号沿いには中城村文化協会や県立芸術大などが連携した「彫刻カジマヤー計画」で100基近い焼き物のオブジェが設置されており、村が推進する「田園文化村」計画を盛り上げています。「第一安谷屋交差点」は丁字路で、県道29号が県道81号に突き当る場所です。本来ならば沖縄では「石敢當」が設置されるポイントですが、力強い15体の魔除けシーサーが交通安全を祈願しているのです。
2022.01.21
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(国頭方西海道/山田谷川方面出入口)「国頭方西海道(くにがみほうせいかいどう)」は琉球王国時代に、琉球王府により築かれた古街道です。首里を拠点に浦添山を通り、沖縄本島北部の国頭方面に続く「宿道(すくみち)」と呼ばれる街道です。琉球王国時代に整備された主要道は宿道(すくみち)と呼ばれ、沖縄本島西側を通る「中頭方西海道」「国頭方西海道」と東側を通る「中頭方東海道」「国頭方東海道」の4つの街道があります。恩納村山田の国道58号線から「山田グスク」に向かう場所に「山田谷川方面出入口」があり、歴史の深い「国頭方西方海道」が今日も現存しています。(山田谷川方面出入口の井戸)(山田谷川方面出入口の古井戸)「国頭方西方海道」の「山田谷川方面出入口」に4つの井戸があります。屋根付きの3つの井戸は左から「東大井戸」「久良波大主の井戸」「大木の井戸」があります。これらの井戸は1975年に本部町で開催された「沖縄国際海洋博覧会」の際、国道58号線の新装工事を行った為にこの地に移転されました。中央の「久良波大主の井戸」と右側の「大木の井戸」にはウコール(香炉)が祀られており、3つの井戸にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。この合祀された井戸の脇には、昔からこの場にあったと考えられる古井戸が現存しています。(山田谷川の石畳道)(山田谷川の石矼)(山田谷川の石矼と石畳道)「国頭方西方海道」の山道を南側に進むと「山田グスク」北側の崖下に「山田谷川(さくがわ)の石矼」があります。「山田村」を横断する「山田谷川」は別名「ヤーガー」とも呼ばれています。この石矼は「ヤーガー」に架かっており、琉球石灰岩の野面(のづら)積みの桁の支えに中央部がせり上がったアーチ型の石矼を施しています。アーチ型にする事により石矼の強度が増す工法で、琉球王国時代の石矼造りの技術の高さが分かります。現在の石矼はこれまでにアーチ部分の6枚の石が崩れ落ちていた為、1989年(平成元年)に現在の姿に修復されています。(ヤーガーの水浴場)(水浴場周辺の琉球石灰岩)(水浴場から石矼に通じる岩間の通路)「山田谷川の石矼」の東側に奥まった場所に、山手に通じる岩間の通路があります。この細い通路を抜けると「ヤーガーの水浴場」が佇んでいます。この地点では「ヤーガー」は鍾乳洞窟の奥地から流れ出ており、洞窟の入口には流れが緩やかな水浴場となっています。「山田村」の住民の隠れた聖地として昔から人々に親しまれてきました。現在「ヤーガーの水浴場」にはウコール(香炉)が設置され、水の神様を祀る拝所となっています。この鍾乳洞窟から湧き出す水は、琉球石灰岩の細い岩間を通り抜け「山田谷川の石矼」の下を流れて行きます。(山田谷川の石矼の南側にある標識)(国頭方西方海道)(クシヌカー/後川)「ヤーガーの水浴場」の地にまつわる次のような琉歌が残されています。『山田谷川に思蔵つれて浴みて 恋しかたらたる仲のあしゃぎ』(訳 : 愛しい人と共に山田谷川で水を浴びて 仲の館で恋を語り合いたいものだ) 「山田谷川の石矼」の南側から「国頭方西方海道」は「山田グスク」西側の麓を通って行きます。しばらく進むと左手に「クシヌカー(後川)」と呼ばれる石積みで囲まれた井泉があります。「山田グスク」の丘陵から滲み出る水で「山田村」の貴重な水源として重宝されました。現在はウコール(香炉)が設置され、水の神様を崇める拝所となっています。(神アシャギ)(神アシャギの祠内部)「山田グスク」西側の麓に「神アシャギ」があり、祠内部には幾つもの霊石が祀られています。「神アサギ」とも呼ばれ、ノロ(祝女)が集落の祭祀を行う場所を言います。「山田ノロ」の管轄は「山田村」「久良波村」「冨着村」で、稲大祭のときに「山田ノロ」が「富着村」から帰ってきた翌日、祭祀が終わった報告を「山田グスク」「護佐丸先祖の墓」「殿内小」で御願(ウガン)をし、その後「神アシャギ」で村人の歓待を受けたと言われています。また、大正時代まではノロ、若ノロを含めて7人の「山田ノロ」が存在したと伝わっています。(山田グスクの石垣)(国頭方西方海道の石垣)かつて「山田グスク」の麓にあった「山田村」には「ノロ殿内(ヌルドゥンチ/ヌンドゥンチ)」と呼ばれる「山田ノロ」が暮らした住居がありました。その「ノロ殿内」は海に近い現在の恩納村山田に移動し、敷地内の「神屋(カミヤー)」と呼ばれる建物には「くらはぬるこもひ」と記された位牌があります。「山田ノロ」は「琉球国由来記(1713年)」には「山田巫」と記載されており、更に「山田ノロ」が「久良波村」と関わりがあった次の謡があります。『入るや入るや居しが出る人居らぬ 久良波ノンドンチ不審どころ』この他にも「久良波ノンドンチ」を「首里殿内」に言い換えた謡も残されています。(ウブガー/産川)(ウブガーの拝所)「山田グスク」の麓を通る「国頭方西方海道」は「山田村」を囲むように西側に続いて行きます。「山田村」の南側に「ウブガー(産川)」と呼ばれる石積みで囲まれた井戸があります。この井戸に隣接して石造りの祠が建てられており、ウコール(香炉)が祀られ水の恵みに感謝する拝所となっています。村で子供が産まれた時に「ウブガー」の水をウブミジ(産水)に使用し、汲んだ井戸の水に中指を浸して、おでこを3回撫でる「ウビナディ」で赤ちゃんの健康を祈願しました。また、正月には若水を汲み茶を沸かして飲んで新年の無病息災を祈りました。(メーガー/前川)(現存する国頭方西方海道の出入口)(歴史の道/文部科学省の境界標識)「山田グスク」の南側に「メーガー(前川)」と呼ばれる井戸があり、グスク南側の「護佐丸父祖の墓」の丘陵から滲み出た水が「メーガー」から湧き出ていたと考えられます。この周辺ほ水が豊富で水田による農業が盛んに行われていました。「山田グスク」周辺に琉球王国時代から現存する「国頭方西方海道」は「山田谷川方面出入口」から「山田村」の南側まで残されており「歴史の道」として文部科学省の境界標識が幾つも設置されています。「護佐丸」や琉球王国時代の人々が利用していた悠久の宿道は、ロマンと歴史が溢れる古街道となっているのです。
2022.01.14
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(オシアゲ森/後ノ御嶽)沖縄本島中部の西海岸にある「恩納村」に「山田グスク」があり、このグスクは標高約90mの琉球石灰岩台地に築かれた平山城です。「山田グスク」が築城された年数は不明ですが、うるま市にある「伊波グスク」の城主である「伊覇按司」から分家した家系で「護佐丸」の父祖以来が居城したグスクだと伝わります。「山田グスク」は古琉球の「三山時代」には「中山」勢力圏の北端に位置しており「北山」勢力圏との境界にあった重要なグスクで、更に「護佐丸」の最初の居城であったと言われています。(久良波大主の墓)(山田按司長男 亀千代/山田按司御娘 真音金の墓)(オシアゲ森の麓にある拝所)「山田グスク」の東側に隣接する丘陵は「琉球国由来記」(1713年)に「オシアゲ森 神名:サケノイベヅカサ」と記されている御嶽の森となっています。この丘陵の中腹にある鍾乳洞に「久良波大主(くらはうふぬし)の墓」があります。「山田グスク」がある土地は「古読谷山」と呼ばれ「山田村」と「久良波村」の2つの村がありました。この墓は「久良波村」の「大主」と呼ばれる「按司」の次に身分が高い有力者が葬られた古墓です。「久良波大主の墓」の隣には「山田按司長男 亀千代」「山田按司御娘 真音金」が合祀された墓がありウコール(香炉)が祀られています。(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/左側)(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/中央)(久良波大主の墓に隣接する鍾乳洞墓/右側)「久良波大主の墓」に隣接する崖は3つの鍾乳洞が口を開けており、それぞれが洞窟を利用した古琉球様式の古墓となっています。洞穴の入り口は岩や石で塞がれておりウコール(香炉)が祀られています。右側の鍾乳洞穴には「山田按司 門口大和之墓」と記されています。中央の鍾乳洞も左側の鍾乳洞も各々「山田按司」家系の墓である事が考えられます。「久良波村」の「大主」が「山田按司」の一族と同じ「オシアゲ森」の麓に葬られている理由は、昔から「山田村」と「久良波村」の繋がりが強く「久良波大主」も「山田按司」一族も同じ「今帰仁」にルーツがある事だと考えられます。(久良波大主の墓の標識がある分かれ道)(オシアゲ森の拝所)(オシアゲ森/後ノ御嶽)「久良波大主の墓」がある丘陵は「オシアゲ森」と呼ばれる御嶽の森で、昔から「古読谷山(山田)村」では神が住む聖地として崇められていました。「久良波大主の墓」の標識がある地点は森道が二股に分かれており、左に進むと「久良波大主の墓」があり、右に進むと「石川高原展望台」に向かう山道が続きます。この地点を右に進んだ直ぐ左側に「オシアゲ森」の頂上に続く獣道があります。丘陵を登り始めると拝所のウコール(香炉)が現れ、更に急峻の険道を進むと「オシアゲ森」の頂上に建立された「後ノ御嶽」の祠が姿を見せます。この祠は「今帰仁」に向けられて建てられており「古読谷山(山田)村」から遠く離れた根源の土地である「今帰仁」を崇めた御嶽だと考えられます。(後ノ御嶽の祠内部)(後ノ御嶽の水鉢)(オシアゲ森)「オシアゲ森」の御嶽が「後ノ御嶽」と名が付いた理由は「山田村」の東側に「山田グスク」が構えており、この御嶽の森は「山田グスク」から更に東側に位置します。その為「山田村」から見てグスクの後ろ側にある事から「後ノ御嶽」の名前が由来したと考えられます。祠内部には1基の鉄製ウコール、2基の陶器製ウコール、1基の石製ウコール、さらに3体の霊石が祀られています。「オシアゲ森」の頂上にある祠までの隘路は普段から人が立ち入る痕跡が確認されず、この「後ノ御嶽」の祠は「山田グスク」に関する文献やSNS等にも一切紹介されていません。その為、この「後ノ御嶽」を多くの人々に伝える事が、今回私が「後ノ御嶽」に"呼ばれた"意味だと認識しています。(遥拝嶽)(遥拝嶽の祠内部)(遥拝嶽の森)「山田村」の北側に「遥拝嶽」があり、森の頂に構える祠は「今帰仁」の方角に向けて建立されています。「後ノ御嶽」は「山田ノロ(神人)」のみが立ち入る事が出来た特別な拝所で「オシアゲ森」の頂上から「今帰仁」を拝む聖地でした。その為「山田村」の一般住民は「オシアゲ森」から西側に離れた森の「遥拝嶽」から「今帰仁」を祈っていたと考えられます。遥拝所は「お通し」または「うとうし」と呼ばれ、遠く離れた場所から神を祈る事が出来る拝所の事を言います。「山田村」があった場所に実際に立つと、目の前に「山田グスク」の丘陵、その後ろに「今帰仁」方向の海が見える「オシアゲ森」あり、一般の村人が「今帰仁」方向の海を臨む事が出来る一番の高台が「遥拝嶽」の森になっている事が良く分かります。(山田グスク中腹の護佐丸父祖の墓)(護佐丸父祖の墓)「山田グスク」の南側丘陵に「護佐丸父祖の墓」があり「山田グスク」城主であった護佐丸父祖一族の墓と言われています。琉球石灰岩洞穴を利用した古墓で、墓前には一族により建立された碑文の石碑があります。「護佐丸」を元祖とする琉球王国の士族である「毛氏豊見城」の子孫により建立された碑文には、墓の修復(1714年)や石碑の建立(1750年)などの内容が記されています。「護佐丸父祖の墓」には石造りのウコール(香炉)と花瓶が供えられ、現在でも「護佐丸」の子孫をはじめ多くの人々が拝みに訪れます。(護佐丸父祖の墓の碑文)(護佐丸父祖の墓の碑と鍾乳石灰岩)〈碑文の表側〉『往昔吾祖中城按司護佐丸盛春は元山田の城主に居給ふ其後読谷山の城築構ひ居住あるによりて此の洞に墓所を定め内は屋形作にて一族葬せ給ふ然処に幾年の春秋を送りしかは築石造材悉破壊に及び青苔のみ墓の口を閉せり爰におゐて康煕五十三年墓門修履石厨殿に造替し遺骨を奉納せつさて永代子々孫々にも忘す祀の絶さらんことを思ひ毎歳秋の彼岸に供物をさヽけまつる例となりぬ仍之石碑建之也 大清乾隆五年庚申十月吉日 すふ裔孫豊見城嶺親雲上盛幸記之』〈碑文の裏側〉『此碑文康煕五十三年雖為建置年来久敷文字不詳依之此節建替仕也書調人毛氏山内親方盛方彫調人毛氏又吉里之子盛庸』(琉球石灰岩のアーチ)(護佐丸父祖一族の墓)(豊見城家伊野波門中の修築記念)「護佐丸父祖の墓」に向かって右側に「護佐丸父祖一族の墓」と思われる古墓があり、琉球石灰岩の表面には「一九五二年九月吉日 修築 豊見城家伊野波門中」と刻まれています。「豊見城家伊野波門中」は琉球王府の行政の最高責任者(三司官)を務めた「伊野波親方盛紀」(1619−1688年)を系祖とし、琉球王国の士族の末裔である「毛氏豊見城殿内」の門中の一つです。この「毛氏豊見城殿内」の始祖が「護佐丸」である事から、中城村の「中城グスク」から東側にある「台グスク(デーグスク)」の麓に「護佐丸の墓」が「毛氏豊見城家」により築かれています。(山田グスク周辺の森)古琉球の「三山時代」に中山との争いに敗れた北山の「今帰仁王子」が現在のうるま市伊波に逃れた後に勢力を拡大し「伊波グスク」を築城しました。その「伊覇按司(今帰仁王子)」と一族関係にあった先代「山田グスク」城主の「古読谷山(山田)按司」には後継ぎがいなかった為、兄弟であった「伊波グスク」3代目城主の次男である「護佐丸」が養子に迎えられ「古読谷山(山田)按司」の地位を継ぎました。「護佐丸」は1416年に「尚巴志」の北山討伐に参戦して北山を滅ぼした後に「山田グスク」から4キロほど西に離れた「座喜味グスク」を築城し居城しました。「座喜味グスク」を築く際には「山田グスク」の石垣を壊して人の手で運んだと伝わっています。「山田グスク」は恩納村に残るグスクの中で最も主要なグスクの1つとして国指定の遺跡文化財となっているのです。
2022.01.12
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(安波茶樋川)沖縄本島中南部の「浦添市」に古琉球より湧き出る「ヒージャー(樋川)」があり「ヒージャー」とは湧き水から樋で引いた井泉を言います。「浦添市安波茶」に「安波茶樋川(アハチャヒージャー)」があり、1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」にも記された井泉で、水道が整備される以前まで飲料水を汲む人、洗濯をする人、畑仕事の帰りに農具を洗う人など多くの住民が訪れました。地域住民の出会いや情報交換の場所としても賑わっていたと伝わります。(安波茶樋川の石樋)(安波茶樋川の名水)(安波茶樋川の洗い場)「安波茶樋川」は現在も木々が生い茂る湧き口から長い石樋を通じて豊富な水が流れ出しています。昔は石樋なの下部にタライを設置して水を受けていました。勢い良く注ぎ込む水がタライに当たる大きな音が特徴的であったと伝わっています。昭和30年代の大旱魃の際には周辺の井戸は全て枯れてしまいましたが「安波茶樋川」だけは枯れる事なく水が湧き出ていました。そのため離れた地域からも飲料水や洗濯の為に多くの人が訪れたそうです。「安波茶樋川」の周辺地域では最後まで稲作が行われていたほど水源に恵まれていたと伝わります。(澤岻樋川)「浦添市沢岻」に「澤岻樋川(タクシヒージャー)」があり、この井泉は1000年以上前に「澤岻集落」が発祥した頃から湧き出る名水として大切にされています。琉球王国時代、正月の朝には国王と国民の健康と長寿、国に繁栄と五穀豊穣を祈願した名泉です。また、元旦の朝一番に汲む「若水」を国王に献上した水として良く知られています。現在でも水量が多く湧き出ており、正月には沢山の人々が「澤岻樋川」に若返りの効果があるとされる「若水」を汲みに訪れます。(澤岻樋川の溜め池)(澤岻樋川の拝所)「澤岻樋川」は崖下の岩と「クチャ」と呼ばれる世界で沖縄でしか採れない泥岩の地層の間から水が湧き出て、自然のガマ(洞窟)に水が溜まる仕組みになっています。水量が豊富で非常に澄んだ水は大雨が降った後でも濁ることはありません。綺麗な水質を好むウナギやモクズガニの生息も確認されており、現在でも飲料水として周辺住民の生活に欠かせない名水となっています。「澤岻樋川」には拝所がありウコール(香炉)にヒラウコー(沖縄線香)がお供えされています。水の神様に水源の感謝を祈る神聖な場として地域の人々に崇められてらいるのです。(澤岻樋川のガマ)(澤岻樋川の水路)「澤岻ヒージャー」を管理する玉城弘さんによると、玉城さんの祖父母がまだ子供の頃に国王の健康と国の安泰を祈願する「首里城お水取り」と呼ばれる行事が行われており、元旦に巫女(ノロ)が白馬に乗って「澤岻樋川」で汲まれた水を首里城に届けたそうです。この白馬は「首里城お水取り」の行事の時のみ使われ、井戸にはこの白馬を繋ぐ専用の石が設置されていました。琉球王国に献上する水が湧き出る「澤岻樋川」は神聖な井泉として周辺住民の祈りの対象として崇められていたのです。(仲間樋川)(仲間樋川の石樋)(仲間樋川の溜池)「浦添市仲間」に「仲間樋川(ナカマヒージャー)」があります。「琉球国由来記(1713年)」にも記される歴史の長い「仲間樋川」は、その当時から井泉には石樋が掛けられていました。昭和10年に改修されコンクリートで溜池や平場が造られ井泉は拡張し、現在の石積みは戦前から残っているものとなります。子供が生まれた時の産水(ウブミジ)を汲んだウブガーであり、元旦に汲んだ若水(ワカミジ)を中指で浸し額を撫でるミジナディ(水撫で)と呼ばれる儀式で子供の健康を祈願しました。また、結婚式でも新郎新婦にミジナディを行い新婚夫婦の幸せを祈りました。(仲間樋川の平場)(仲間樋川の水槽)(仲間樋川のウマアミシ)琉球石灰岩の洞穴から湧き出た水は石造りの樋で導かれ溜池に注ぎ込み、飲料水から洗濯用水、雑用水から灌漑用水へと循環させて貴重な水の恵みを有効的に利用していました。「仲間樋川」の平場には3箇所に十字(約24 x 21cm/中央)が刻まれた場所があり、刻印はその位置から内側で洗濯をしてはいけない意味を示しています。平場の脇には石造りの水槽があり水を溜めて洗濯や行水が行われていました。最終的に湧き水はウマアミシと呼ばれる馬の水浴びをさせる場所に注ぎ込みます。更にウマアミシの水は農具や農作物を洗うためにも使用されていました。(平場に刻まれた十字/中央)(仲間樋川の竣工記念石碑)井泉は水の神が宿る神聖な場所として祈りの場所となっています。カー拝み(カーウガミ)はカーウガンや井戸詣(カーメー)とも呼ばれ、集落の年中行事で水の恵みへの感謝や住民の健康や集落の繁栄を祈願していました。現在でも旧暦の5月と6月のウマチー(豊作祈願/感謝祭)や12月の御願解きの祭祀の際に住民により拝まれています。首里に琉球王府が置かれる以前に220年間の繁栄を極めた「浦添グスク」周辺を潤したヒージャー(樋川)は、現在でも決して枯れる事なく聖なる水が湧き出ているのです。
2022.01.07
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(八重島公園のガジュマル)沖縄の方言で「明けまして おめでとうございます」は『イー ソーグヮチ デービル』または『イー ショーガチ デービル』と言います。正月の初詣に琉球八社などの神社に参拝する人々は多いですが、私は昨年お世話になったパワースポット、グスク、拝所、遺跡文化財の中から生活に直結する三箇所を厳選して参拝しました。大切な事は一年の初めに祈る心であり、昨年の感謝を神々に告げる事です。そして、自分自身の全てを形成した、ご先祖様に謝意を表する事であると考えています。(ハマガー)(ハマガーの拝所)(ハマガーの洞穴)(ハマガーの井泉)まず初めに参拝した場所は、うるま市の浜比嘉島にある「ハマガー」です。「アマミチューの墓」の西側丘陵中腹に「ノロ墓」があります。この墓に隣接する「按司墓」の鍾乳洞窟から滲み出た一滴一滴が、長い時間をかけて真下にある「ハマガー」の井泉に溜まっています。沖縄では昔から正月の若水を井泉から汲み仏壇に供えたり、茶を沸かして飲み一年の健康を祈ります。「ハマガー」は比嘉集落の「ウブガー」で子供が生まれた時の産水に使用され、更に元日に井戸の水を中指で額に3回つける「水撫で(ウビナディ)」の儀式で子供の健康を祈りました。若水には若返りの効果かあるとされ、正月には「明けましておめでとう、もう若返りましたか」と挨拶をしていたそうです。今回は正月という事でペットボトルに若水を汲み持ち帰り、自宅の四方や水回りに若水を用いて新年のお清めをしました。(インジングシクの石碑)(インジングシク頂上の拝所)(インジングシク頂上の石碑)(インジングシク中腹の鍾乳洞穴)ソーグヮチ参拝の二箇所目は沖縄市八重島にある「インジングシク(八重島グスク)」です。この聖地は私の自宅から一番近い御嶽グスクで、居住する地区の土地神として個人的に崇めています。八重島公園の敷地内にあるグスクの麓に「天帯子の結び 八重島真鶴繁座那志 中が世うみない母親」と記された石碑があります。グスクの頂上には霊石とウコール(香炉)が祀られた拝所の祠と「天帯子御世 八重島金満大主 中が世酉のみふし」と刻まれた石碑が建立されています。更にグスクの中腹には、人が入る事が出来ない狭さの鍾乳洞穴が地下深くに続いています。この洞穴もグスクの拝所として土地神が宿る聖域となっています。(ウナジャラウハカ)(ウナジャラウハカの標柱)(ウナジャラウハカの墓口)(花崎家中古之墓)最後に参拝した三箇所目は北中城村喜舎場にある「ウナジャラウハカ」です。この墓は初代中山王である「舜天王」の孫「義本王」とその「王妃」の墓です。ちなみに「花崎家」は「義本王」の直系子孫として、この森に中古之墓を設けています。「ウナジャラウハカ」がある高台の森は、私が勤務する会社が所在する地域の守り神として個人的に崇めている聖地です。さらに「義本王」の曽祖父は「源為朝」で、私自身の先祖も「源氏」である事から先祖の繋がりがある墓を参拝する事は、先祖への感謝を伝える意味で当然で大切な行為と言えます。(インジングシク頂上への石段)今回のソーグヮチ参拝で沖縄市八重島の「インジングシク」頂上にある「八重島金満大主」の石碑を参拝中に『神の声』が"聞こえ"ました。交流がある伊計島の「伊計ノロ」である中村ユキ子さんは私に「御嶽や拝所に行って『神の声』を聞けなかったら意味がない」と仰り、最近では「神様は何て言ってた?」と私に聞きます。以前は『神の声』を聞く意味や、聞く方法が全く分かりませんでした。しかし、最近では訪れる御嶽、拝所、ウナジャラウハカで『神の声』が"聞こえる"ようになっています。今回の参拝で私が"聞いた"内容は次のようなメッセージでした。(八重島金満大主の石碑)『自分自身をもっと大切にしなさい。人間には自分の「身体」と「魂」の2つが個別に宿っていて、その他にも「先祖の遺伝子(守護霊)」が我々の血液の中に存在します。自分の「身体」「魂」「先祖の遺伝子(守護霊)」の3要素のバランスで人間は成り立っているのです。自身の心と身体の健康だけでなく「先祖の遺伝子(守護霊)」の健康も同時に大切にしてあげる事が必要です』(インジングシク頂上の拝所祠内部)つまり、先祖があっての現在の自分がいるという事だと捉えています。我々は現代のみを生きていると考えがちですが、実は先祖代々から長年脈々と受け継がれた「生命」が確実に継続しているのです。今年も引き続き先祖と自然への感謝を忘れずに、沖縄のパワースポット、御嶽、グスク、拝所巡りを継続して沖縄を深く勉強し、先人が残してくれた遺跡文化財を大切にしようと思っています。
2022.01.02
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(牧港テラブガマ)「テラブガマ」は沖縄本島中南部、国道58号線沿いの浦添市「牧港(まきみなと)」にあるガマで、沖縄の方言で「ティラ」とも呼ばれる琉球石灰岩で形成された自然洞窟です。「ティランガマ」とも呼ばれる洞窟内の広さは約30平方メートルで、現在は御嶽として多くの参拝者が訪れる拝所となっています。沖縄戦の際には「テラブガマ」は防空壕として利用され、子供から年寄りまで多くの住民が集団自決した悲劇の場所としとも知られています。(牧港の殿)(テラブガマ入り口の拝所/右側)(テラブガマ入り口の拝所/左側)「テラブガマ」洞穴の外にある前庭は「牧港の殿(トゥン)」と呼ばれる祭祀場で、現在はソテツ(蘇鉄)が生い茂っています。石段を下ってガマに入るとガマの入り口を守るように左右両側に拝所があり、それぞれ円形に数個の石が組まれて中央には霊石が祀られています。多くの参拝者がヒラウコー(沖縄線香)やウチカビ(あの世のお金)をお供えする神聖な場所となっています。この「テラブガマ」には洞窟が所在する「牧港(まきみなと)」の地名の由来となった有名な伝説が残されています。(テラブガマ内部の1つ目の拝殿)(1つ目の拝殿の左側にある拝所)源頼朝と源義経の叔父にあたる「源為朝(ためとも)」は平安時代の武将でした。身長が2mを超える巨体に加え気性が荒く、強弓の名手で「鎮西八郎」と名乗り、周囲からは剛勇無双と恐れられていました。1156年の「保元の乱」では父親の「源為義」と共に「崇徳上皇」方に加勢いしましたが戦に敗れ島流しになります。伊豆大島に流される時に暴風雨が起こり「為朝」は天を仰いで『運命天にあり、余何ぞ憂えん』と言い運を天に任せました。その数日後に沖縄本島今帰仁(なきじん)のある港にたどり着き、その漂着した地を「運天(うんてん)港」と名付けたのです。(テラブガマの2つ目の拝殿)(2つ目の拝殿の左側にある拝所)その後「為朝」は沖縄本島南部の現南城市に移り住み「大里按司」の娘である「思乙(おみおと)」を妻に迎えて男児の「尊敦(そんとん)/後の舜天王」が生まれました。やがて「為朝」は京都に攻めて「平氏」を打ち破ろうと妻子と共に浦添の港から船出しましたが、伊江島付近に来ると急に暴風が起こり進めなくなったのです。船頭に「女が乗っているから竜宮の神が怒っているのだ」と言われ、仕方なく幼子の「尊敦(舜天)」と妻の「思乙」を港に降ろし「為朝」は一人日本に帰ったのでした。(テラブガマの最奥の拝殿)(テラブガマ内部の甕)(テラブガマの石柱)それから4年後「為朝」は八丈島で20余隻の船、500余りの朝廷の兵に敗れ切腹をして自害したのです。沖縄に残された妻の「思乙」は必ず帰ってくるという「為朝」との約束を信じて、今日帰るか明日帰るか、と毎日「テラブガマ」で暮らしながら待ち続けましたが虚しく月日が流れるばかりでした。「思乙」と「尊敦(舜天)」が待ちわびた港である「待港(まちなと)」が現在の「牧港(まきみなと)」となったと伝わっているのです。「テラブガマ」は古より五穀豊穣、家内安全、航海安全を祈る拝所の洞窟でした。今日は沖縄戦で集団自決したは人々の魂を鎮める拝所も祀られている歴史が詰まったガマとなっています。(牧港ガー)「牧港テラブガマ」の南側に「牧港ガー(マチナトガー)」という井泉があります。地元では「シマヌカー」や「ウブガー」とも呼ばれる湧き水で、正月の若水や子供が生まれた時の産水に使用されていました。干ばつでも枯れないほど水量が多く、とても美味しい水で有名だったと伝わります。「牧港ガー」の水は近くのクムイと呼ばれる池に貯められ、洗濯用水から馬や牛の水浴び用水、その後に田畑に流れ込む仕組みになっており、湧き水を最後まで有効利用する工夫が為されていました。(タチチガー/立津ガー)(タチチガーの拝所)「牧港ガー」の南側で「伊祖グスク」の東側に「タチチガー(立津ガー)」という井泉があります。「タチチバル(立津原)」にある事からこの名称で親しまれており、また近くに「伊祖グスク」がある事から「イージュガー(伊祖ガー)」という別名もあります。「琉球国由来記(1713年)」には「伊祖グスク」の用水にも使用されていた記述があり「英祖王」との深い関わりがあり「天人由来(羽衣伝説)」が残る由緒ある湧き水です。昔はガマ(洞窟)から水が湧き出ていましたが、時代と共に修復され現在の形になっています。「タチチガー」には拝所があり祠内には3つの霊石が祀られています。昔から住民により水の神様に感謝を捧げる聖地となっているのです。
2021.12.27
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(伊計グスク)沖縄本島うるま市の与勝半島から北東側に「伊計(いけい)島」があります。「イチハナレ」または「イチジマ」とも呼ばれ「イチ(伊計)」は"遥かに遠い"という意味があり、更に"生々し(いけいけし)"が由来しているとも伝わります。「伊計グスク」は島の南西端に位置する琉球石灰岩からなる場所に立地します。このグスクは「宮城島」と「伊計島」のほぼ中間にある小島でしたが、1982年に「伊計大橋」が架けられた事により、小島の北側が埋め立てられ「伊計ビーチ」になりました。「伊計グスク」と「伊計島」が地続きになったのは約40年前の事です。(伊計グスクの浜からの入り口)(伊計グスクを登る石段)「伊計島」と「宮城島」の間の海峡は「フーキジル水道」と呼ばれ、潮の流れが非常に早く船の行き来が大変困難でした。それに因んだ「伊計グスク」にまつわる「船出のおもろ」という「おもろそうし」が謳われています。『あさどりがなりば やくのカミズーや とりかじやととり わがおもろとまり ひちよせてたぼれ』「朝凪になって 船頭役のカミズーが 船かじを取って 我が思い泊を渡っていきます 伊計グスクの神様 どうか無事に引き寄せてください」(伊計グスクの海からの入り口)(グスク丘陵から見る海からの入り口)この「おもろ」は若い女性が宮城島の泊から船で「伊計グスク」に住む思いを寄せる人に会いにくる恋の歌と読み取れます。無事に潮の流れが早い危険な海峡を渡れるよう「伊計グスク」の神様に祈る心情が謳われています。「伊計グスク」の東側にはグスクに上陸する海からの入り口があります。「船出のおもろ」が示すように、昔の先人は孤島であった「伊計グスク」に船で渡っていた事が解ります。因みに、この海の入り口は「伊計ノロ(神女)」が「伊計グスク」を拝する際にも使われていました。(海側から見た大岩の割れ目)(グスク中腹の山道)(グスク中腹のガマ)「伊計グスク」は沖縄最古の歌謡集である『おもろそうし』には「いけいのもりくすく」と謳われ、李氏朝鮮の漢文歴史書である『海東諸国記』には「池足具城」と記されています。また、東恩納寛惇(ひがしおんなかんじゅん)の『南島風土記』で「イチ」と呼ばれ、江戸幕府が大名に作らせた『正保国絵図』には「いけ嶋」と表記されています。更に『ペリー提督沖繩訪問記』では「イチェイ島 (Ichey Island)」とあり「伊計グスク」や「伊計島」は長い歴史の中で様々な文献にその名前が登場しているのです。(伊計グスクの野面積石垣)(伊計グスク之殿)(伊計グスク之殿の祠内部)「伊計グスク」は「伊計島」で最も高い標高40〜50mの琉球石灰岩からなる台地で、グスクは野面積みの石垣で囲まれ築かれています。グスクの中腹に「伊計グスク之殿」の拝所があり、祠内には霊石とウコール(香炉)が祀られています。伝承によると昔「伊計グスク」に「アタへ筑登之」という按司が居城していました。その頃、南側対岸の宮城島「泊グスク」には「川端イッパー」という按司がいて両者は何かと事あるごとに相争い、長期に渡り互いの領地を狙っていました。(タキキヨの御神)(タキキヨの御神の祠内部)(城内之イベ/タキキヨの御神の石柱)「伊計グスク」の頂上に「城内之イベ/タキキヨの御神」の御嶽があり、祠内部には20数個の古い貝殻とウコール(香炉)が祀られ、その脇には「城内之イベ/タキキヨの御神」と刻まれた石柱が建立されています。さて「アタへ筑登之」はある寒い冬の北風が強い日に、部下たちに島中から木灰を集めさせ風下に投げ散らかせました。木灰は煙のように舞い上がり、宮城島の住民をはじめ「泊グスク」の武士達は木灰が目に入り物が見えなくなり右往左往したのです。その間に「アタへ筑登之」と部下たちは「泊グスク」へ攻め入り、宿敵の「川端イッパー」を滅ぼしたのです。(城内之イベ/タキキヨの御神に向かって右の拝所)(城内之イベ/タキキヨの御神に向かって左の拝所)(城内之イベ/タキキヨの御神に続く道に祀られた貝殻)「伊計グスク」は「泊グスク」同様、琉球三国(北山/中山/南山)による戦国時代において戦いに敗れて敵から追われた武士達が身を隠すために居住した場所だと伝わります。その為に「伊計グスク」には神を祀る御嶽以外にも、落武者の魂を祀る拝所や古墓が点在しています。「伊計グスク之殿」と「城内之イベ/タキキヨの御神」は昔より「伊計島ノロ」により拝され、旧正月15日は「初ウマチー」があり麦の穂、五穀、鮮魚の刺身を供えます。「伊計グスク」は"おんな神"を祀る聖地として「伊計島」の人々に大切に崇められているのです。(イリノ龍神)「伊計グスク」の北側に「伊計ビーチ」があり、浜からは「イリノ龍神」と呼ばれる大岩が見えます。現役の「伊計ノロ(神人)」の方に直接聞いた話では「イリノ龍神」は"おとこ神"として"おんな神"の「伊計グスク」と夫婦関係にあります。その為「伊計グスク」を拝んだら必ず「イリノ龍神」も一緒に拝む必要があるそうです。夫婦という事で、もし片方だけ拝して済ませると、もう片方が嫉妬してしまい参拝の意味を成さなくなります。「伊計グスク」と「イリノ龍神」は切り離す事が出来ない一対であり、2箇所でひと繋ぎの聖地なのです。(伊計島北端の龍神)「伊計島」の北端に「伊計島灯台」があり、そこから海沿いの岬付近に「子宝之神」と呼ばれる場所があり観音様と石碑が祀られています。現役の「伊計ノロ」によると、この「子宝之神」は「伊計島」に直接関係したり由来するものではなく、本土の宗教団体が設置した拝所となっています。しかしながら、この場所は「伊計ノロ」が昔から祈りを捧げて拝する「龍神」が祀られた聖地となっています。「子宝之神」と岬の崖の間に「龍神」を祀る霊石が設置されています。「伊計島」の北の守護神として海の神様である「龍神」が島を悪霊から守っているのです。(龍神に向かって右側の弁才天)(龍神に向かって左側の弁才天)(子宝之神の北側に隣接する弁才天)この地には「龍神」と共に"水の女神"である「弁才天」が4箇所祀られています。現役の「伊計ノロ」は定期的に「龍神」と「弁才天」を拝み管理しており、沖縄では「弁才天」を"びざいてん"と呼びます。「龍神」の霊石の左右に一箇所づつ「弁才天」が祀られており、さらに「子宝之神」の北側に隣接する場所に2つの「弁才天」が祀られています。「龍神」と「弁才天」が祀られるこの北の岬からは琉球石灰岩に付着した人骨や子供の歯の化石が発見されています。約258万年前から約1万年前までの「洪積世」と呼ばれる氷河時代の化石だと言われています。この事から「伊計島」は古の時代より人類が生活を営んでいた証拠となっているのです。
2021.12.21
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(浦添グスクの城壁/復元)沖縄本島南部の浦添市にある「浦添グスク」は12世紀から15世紀はじめにかけて「舜天」「英祖」「察度」の3王朝10代に渡り居住したと伝わるグスクです。「浦添グスク」頂上の広場西側にある城壁は、戦後の採石により石材が持ち出されました。城壁のほとんどが残っていなかった為、発掘調査の結果に基づいた整備により復元されました。この城壁は残っていた切り石を生かし、失われた部分に新しい切り石を積み上げる事により復元しました。(伊波普猷の墓)(伊波普猷の墓の顕彰碑)「浦添グスクの城壁」から西側に坂道を下ると「伊波普猷(いはふゆう)の墓があります。「伊波普猷」は明治9年に那覇に生まれました。本土に渡り東大(帝国大学)在学中から、浦添が首里以前の古都であった事を最初に論じた「浦添考」など優れた論文を発表しています。東京で亡くなった後「伊波普猷」の研究にゆかりの深い浦添の地に墓が造られ葬られています。顕彰碑には「おもろと沖縄学の父伊波普猷、彼ほど沖縄を識った人はいない、彼ほど沖縄を愛した人はいない、彼ほど沖縄を憂えた人はいない、彼は識った為めに愛し、愛した為めに憂えた、彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」と刻まれています。(仲間クシバル遺跡)(仲間あさと原の印部土手)「浦添グスク」の北西側に「仲間クシバル(後原)遺跡」があります。「浦添グスク」と同時期の13〜14世紀に栄えた集落の跡となっています。発掘調査の結果、建物の柱穴や炉跡、更に集落を分けた溝などが発見されました。遺跡は現在「浦添グスク/ようどれ館」の施設と駐車場となっています。「仲間クシバル遺跡」の北側には「仲間あさと原の印部土手」があり、検地(徴税のための土地測量)の基準点に使われていました。「ハル石」と呼ばれる中央の石には地名「あさと原」と片仮名の「ス」一文字が刻まれています。周りには「ハル石」が倒れないように根張石が埋め込まれています。(アトゥガー)(ノロガー)「仲間集落」の北東端に「アトゥガー」と呼ばれる井泉があり、戦前は周囲に住む人々の飲み水や生活用水として使用されていました。「アトゥガー」の辺りは「アトゥモー」と呼ばれ、海に往来する船がよく見える見晴らしの良い場所で、船で本土に出稼ぎに行く地元の人々を婦人達が太鼓を叩き歌いながら見送っていました。「アトゥガー」の南側には「ノロガー」があり、かつて「仲間集落」の祭祀を司った「浦添ノロ(神女)」が身を清める際に使用されました。そのため「ノロガー」は生活用水の他にも、信仰対象として人々に拝まれていました。現在も「ノロガー」からは聖なる水が湧き出ています。(ウマチモウ/御待毛)(中頭方西海道の案内板)「ノロガー」の東側に「ウマチモウ(御待毛)」と呼ばれる場所があります。琉球王国時代に「仲間集落」には首里から読谷に向かう「中頭方西海道」と、宜野湾の普天満宮に向かう「普天満街道」の2つの大きな公道がありました。この場所は2つの道の分岐点にあたり、首里と地方を往来する琉球国王や役人を「仲間集落」の人々が出迎える事から「ウマチモウ(御待毛)」と呼ばれていました。ちなみに「モウ(毛)」とは沖縄の言葉で「広場」や「原っぱ」を意味します。画像の食堂に向かって左側の道は読谷方面に向かう「中頭方西海道」で、右側の道は宜野湾方面に向かう「普天満街道」となっています。(クバサーヌ御嶽)「ウマチモウ(御待毛)」の南東側に「クバサーヌ御嶽」があり「仲間集落」発祥の地と伝えられています。「琉球国由来記(1713年)」には「コバシタ嶽」と記されています。「コバシタ」とは「クバの木の下」という意味であると伝わっています。この一帯は「ウガングヮーヤマ」と呼ばれ、集落の古老によると御嶽の近くには石で積み封じた神墓があったと伝わります。また、遠い昔にはクバの木の下で子供を出産する習わしがあったそうです。祠内にはウコール(香炉)と霊石が祀られ「仲間集落」では5月と6月のウマチー(稲二祭)には住民の村拝みで祈られています。(仲間ンティラ)(仲間ンティラの祠内部)「クバサーヌ御嶽」の南側で「仲間自治会館」の敷地内に「仲間ンティラ」と呼ばれる拝所があります。「ティラ(テラ)」は奄美や沖縄地方に分布しており、その多くは洞穴となっています。「ティラ」は仏を祀る寺ではなく、集落の神が鎮座する場所であると考えられています。「仲間ンティラ」の横穴洞窟は「琉球国由来記(1713年)」に記されている「長堂之嶽」にあたるとされています。旧暦正月の初拝み、5月と6月のウマチー(稲二祭)、12月の御願解きなどの年中行事には「仲間集落」の人々に拝まれています。(仲間樋川/フィージャー)「仲間樋川(フィージャー)」は浦添市内で最も大きな井戸の一つで「仲間集落」の村ガー(共同井戸)として大切にされてきました。「樋川(フィージャー)」とは湧き出る水を樋で導き、水を容易に汲み取れるようにした井泉のことです。「琉球国由来記(1713年)」には「中間泉(中間邑にあり樋川と俗に曰う)と記述があり、その時代から既に樋が掛けられていた事が分かります。「樋川」の清らかな水は人の体を育て健康を保つ特別な霊力(セヂ)があると信じられ、人々の信仰対象になり地域の拝所となっています。(地頭火ヌ神)(地頭火ヌ神の祠内部)「仲間樋川」の西側に琉球王国時代から現在も残る「地頭火ヌ神」があります。「浦添間切番所(現在の役所)」の近くにあった事から「惣(そう)地頭火ヌ神」であると伝わり、間切を領地とした士族が地頭に就任や退任した時に祈られていました。「地頭火ヌ神」の祠は琉球石灰岩の切り石で組まれ、祠内部に安置された3つの霊石とウコール(香炉)は現在も形良く残されています。琉球王府の公的な祭祀として、浦添ノロが執り行うウマチー(稲二祭)に「地頭火ヌ神」が拝されていました。(浦添間切番所跡)浦添郵便局の北側から浦添市立浦添中学校の正門辺りにかけて、かつて「浦添間切番所」がありました。「番所」には地頭代をはじめとする地方役人が置かれ、琉球王府の命を受け「浦添間切」の行政を担いました。また、琉球国王の普天満宮参詣の際には休憩所として利用されました。「浦添間切番所」は南西に構え、樹齢が高い老松が枝を広げてフクギやソテツが植え連なった美しい施設であったと伝わります。更に敷地内には浦添小学校が開校し、浦添の教育発祥の地としても重要な場所となっています。(仲間交番のおもろの碑)「浦添間切番所跡」の東側に「仲間交番のおもろの碑」が建立されています。古い沖縄の神歌を集めた歌謡集「おもろさうし」に登場する一首です。『一 うらおそいの ね國 もゝと つも こがね うらおそいど ありよる 又 とかしきの まくに』「浦添はいつまでも黄金がたまるほどの繁栄が続く。これほどの栄華は浦添にしか見られない」と謳われています。(龍福寺跡)浦添私立浦添中学校の校庭西側には、かつて「龍福寺」と呼ばれる琉球王府の官寺があり、第一尚氏以前の歴代国王が祀られていました。「琉球国由来記(1713年)」によると「龍福寺」は昔「極楽寺」と呼ばれ「英祖王」の時代に「浦添グスク」の西側に建てられました。その後「前谷」という場所に移動した後に火災に遭い、この場所に移されて「龍福寺」と改名されました。1609年の薩摩侵攻の際に焼き払われ、のちに「尚寧王」により再建されました。現在「龍福寺」は沖縄市泡瀬の「泡瀬ビジュル」東側に移設されています。
2021.12.15
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(浦添グスクの城壁)沖縄本島の浦添市に「浦添グスク」があり、グスクは隆起珊瑚礁が約400m続く断崖の上に築かれています。「舜天王」の時代に創建され12〜15世紀初頭にかけて「舜天王統」「英祖王統」「察度王統」が10代に渡り居住したグスクと伝えられています。グスク内の建物は改築を繰り返しましたが、1609年の薩摩侵攻により焼失してしまいました。また「浦添グスク」は沖縄戦において激戦地となり日本軍と米軍共に多数の死傷者を出しました。(ディーグガマ)(ディーグガマ内部の拝所)「浦添グスク」の頂上広場の西側に「ディーグガマ」があります。鍾乳洞が自然陥没して出来たガマ(洞窟)の御嶽で、デイゴ(ディーグ)の大樹があった事から「ディーグガマ」と呼ばれるようになりました。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に「浦添グスク」内の御嶽について記されており、その中に「渡嘉敷嶽」という名前が見られ、それが「ディーグガマ」にあたると考えられています。ガマの入り口は2箇所あり千羽鶴が供えられています。沖縄戦後にガマの内部に遺骨を収めていましたが、後に糸満市の「摩文仁」に移動されました。(浦添王子遺跡の碑)(ディーグガマの拝所)「ディーグガマ」に向かって右側に「浦添王子遺跡」の石碑が建立されています。「浦添王子」は「浦添朝満(1494-1540)」です。琉球王国第二尚氏王統の第3代「尚真王」の長男でしたが、王位を継ぐ事はなく弟の「尚清」が第4代の王となりました。死後は一旦「浦添ようどれ」に葬られましたが、弟の「尚清王」により琉球王家の陵墓である「玉陵(たまうどぅん)」に移葬されました。「浦添王子遺跡」には「浦添朝満」の魂が祀られています。更に、この石碑に向かって右側には拝所があり霊石とウコール(香炉)が供えられています。(ハクソー リッジ/前田高地の碑)(アメリカ陸軍工兵隊の調査標識)「浦添グスク」頂上の広場北側に「前田高地」と呼ばれる沖縄戦での激戦地跡が残されています。この丘陵一帯は米軍に「Hacksaw Ridge/ハクソー リッジ」と呼ばれていました。米軍の攻撃は北側丘陵の断崖絶壁を正面とし、頂上まで登り詰めた米軍に日本軍が猛烈な戦術を仕掛けました。激しい攻撃を浴びせられた米軍は退却の際に多数の負傷兵が取り残されたのです。「ハクソー リッジ/前田高地の碑」の岩の麓には金属製の「アメリカ陸軍工兵隊の調査標識」が埋め込まれています。(デズモンド ドス ポイント)「Hacksaw Ridge/ハクソー リッジ」は2016年のメル ギブソン監督による米国伝記映画「Hacksaw Ridge」の舞台になり話題になりました。実話に基づくこの映画では、宗教上の理由から武器を持たない衛生兵「デズモンド ドス」が日本軍の猛烈な砲火のなか数多くの兵の命を救った事が描かれています。後に「デズモンド ドス」は名誉勲章(メダル オブ オウナー)が授けられました。この「Hacksaw Ridge/前田高地」の地点は「Desmond Doss Point/デズモンド ドス ポイント」と呼ばれています。(浦添グスク正殿跡)(トゥン/殿)この遺構は1998年に行われた発掘調査で発見されたもので、縁石が置かれ石が敷かれている様子が確認されています。他にも石列や柱の跡と思われる穴などが見つかっています。これらの遺跡は、この場所に正殿があった事を示すものと考えられます。遺構がある広場は「トゥン(殿)」と呼ばれ、ウマチー(豊作祈願/感謝祭)の際に「仲間集落」と「前田集落」が合同で祭りを行なっていました。神々が通る門を表現した2本の竹を結び合わせたアーチを作り、それに向かってノロ(祝女)や参列者が手を合わせて祭りを開始したそうです。(ワカリジー/為朝岩/ニードルロック)(ワカリジーの拝所)「ワカリジー」は「浦添グスク」の南島端に位置する岩で、頂上の標高は148mと浦添市内で最も高い場所となっています。「琉球国由来記(1713年)」には「小城嶽」と記され「為朝(ためとも)岩」とも呼ばれています。沖縄戦の際には米軍に「ニードルロック(針のような岩)」と呼ばれ、日米両軍の間で激しい争奪戦が繰り広げられました。「ワカリジー」は「英祖王」とノロ(祝女)との間に生まれた「イソノシー(伊祖の子)」を祀った場所とされ、ウコール(香炉)や霊石柱が設置される拝所となっており、首里や那覇から多くの人々が参拝に訪れていました。(浦添グスクの前の碑)(石畳道)(カラウカー)「浦添グスク」の南側丘陵に「浦添グスクの前の碑」が建立されています。この石碑は1597年に「浦添グスク」と首里を結ぶ「石畳道」を整備した時の竣工記念碑です。石碑の表には平仮名で琉球文、裏側に漢文で「尚寧王」の命で国民が道路を作った様子が記されています。碑首は16世紀の琉球王国の象徴文様である「日輪双鳳雲文(にちりんそうほううんもん)」で飾られています。石碑の前の大岩は「馬ヌイ石」と呼ばれ、馬に乗る為の踏み台だと言われています。元の石碑は沖縄戦で台座もろとも破壊されたため1999年に復元されました。「石畳道」の脇には「カラウカー」と呼ばれる井泉跡が現在も残されています。(カガンウカー/鏡川)(泡盛「宝船」のラベル)「浦添グスクの前の碑」の南側に「カガンウカー(鏡川)」と呼ばれる井泉があり、旧暦5月6月のウマチー(豊作祈願)や旧暦12月のウガンブトゥチ(拝願解き)などの年中祭祀で「仲間集落」の人々により拝まれていました。「カガンウカー」の水は琉球国王に献上された名水として知られており、水面を鏡の代わりに使用するほど澄んでいました。戦後は「カガンウカー」から湧き出る水で「宝船」という泡盛を造っていました。「宝船」はかつて浦添にあった「宝船酒造場」の地酒で、宝物を沢山積んだ船の帆に「宝」の文字が描かれた印象的なラベルでした。酒造場は本土復帰前に倒産しましたが、現在も「幻の酒」として浦添市教育委員会文化課で保管されています。(シーマヌウタキ)「カガンウカー」の西側にある深い森の奥に「シーマヌウタキ」と呼ばれる聖域があります。この御嶽は「仲間集落」の拝所で旧暦5月と6月のウマチー(豊年祈願)や旧暦12月のウガンブトゥチ(拝願解き)など年中祭祀の際に村拝みが行われています。琉球国時代の地誌「琉球国由来記(1713年)」によると「シマノ獄」(神名:シマノ御イベ)と記されています。沖縄戦の前までは「シーマヌウタキ」にはウコール(香炉)が供えられ灯籠が2つ設置されていました。(ユムチガー/世持ウカー/アガリガー)「シーマヌウタキ」の南西側で「浦添市立浦添小学校」の体育館東側の森に「ユムチガー」があります。小学校の敷地内という事で、事務所にて教頭先生の許可を貰い見学させて頂きました。この井泉は「世持ウカー」や「アガリガー」とも呼ばれ、石を積んで水を溜める造りとなっており「仲間集落」のウマチー(豊作祈願)では浦添ノロをはじめとする神女たちに拝まれていました。更に、隣接する「前田集落」ではこの井泉を「ヌヌサラシウカー(布さらし御井)」と呼んでいたそうで、戦前は芭蕉や布を洗うことにも利用されていました。(暗しん御門)(浦添ようどれのアーチ石門)「浦添グスク」北側の丘陵に「暗しん御門(くらしんうじょう)」と呼ばれる場所があります。造られた当初は加工した岩盤と石積みで造られたトンネル状の通路でした。「暗しん御門」は薄暗く冷んやりしており、地下通路を通って"あの世"に通じる様な雰囲気だったと伝わります。トンネル状であった通路は沖縄戦で破壊され天井部分が崩落してしまいました。「暗しん御門」を通過して更に進むと「浦添ようどれ」のアーチ石門に辿り着きます。(英祖王の墓)(ようどれの碑文)(尚寧王の墓)「浦添ようどれ」は向かって右側の西室に13世紀に造られた「英祖王の墓」があります。向かって正面には「ようどれの碑文」の石碑があり1620年に「英祖王の墓」が「尚寧王」により改修された経緯が記されています。更に、向かって左側の東室は「尚寧王の墓」となっており、彼の一族と共に葬られています。両方の墓室には遺骨を収める石厨子が安置されています。沖縄戦や戦後の採石で「浦添ようどれ」は徹底的に破壊されてしまいましたが、2005年に戦前の荘厳な姿を復元しています。ちなみに「ようどれ」とは「夕どれ」の事で、夕方に波風が鎮まる"極楽の夕凪"を意味しているのです。
2021.12.12
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(小禄墓)沖縄本島中南部の宜野湾市「嘉数(かかず)」の「嘉数高台公園」は沖縄戦で数多くの人々が亡くなった激戦地でした。この公園の北側には琉球大学の敷地から国道58号線を超えて、西海岸に流れ込む全長4.5キロの「比屋良(ひやら)川」があります。緑豊かな川の両脇には10m余りの断崖絶壁がそそり立ち、多い所で3段もの横穴状に彫り込ん古墓群が連なっています。これらの古墓は数100年前に造られ、沖縄県指定の有形文化財に登録されています。(宇地泊川/比屋良川の橋)(小禄墓)「比屋良川」は別名「宇地泊(うじどまり)川」とも呼ばれており、この川沿いに「小禄(おろく)墓」があります。川沿いの急な崖の中腹を掘り込んで、前面を切石や自然の雑石で塞いだ古琉球の墓です。「小禄墓」の大きさは幅8.5m、横2.4mで、葬式の際に龕(がん)と呼ばれる御矯(肩にかつぐ輿)がそのまま墓に入ると伝えられるように、普段の墓口とは別に石積み部分に目地が付いており、常時取り外せるような仕組みとなっています。墓内には「おろく大やくもい」という古琉球の高級官人が葬られています。(小禄墓石彫香炉)(小禄墓石彫獅子)墓前に祀られた石造りウコール(香炉)の四面には火炎宝珠(太陽)、麒麟、花生け、四隅には獅子が浮き彫りされています。嘉慶11年(1806年)に中国の「馮姓」の士族により寄贈されました。香炉に向かって右側には墓を守る石彫の獅子が祀られています。現在は劣化が著しく原型が分かり辛い状態ですが、獅子が立ち上がっている形をしています。「石彫香炉」と「石彫獅子」はそれぞれ宜野湾市の指定有形文化財に登録されています。(小禄墓内石厨子)(小禄墓古墓群)「小禄墓」の内部には沖縄県指定有形文化財の「小禄墓内石厨子」が納められています。琉球王国第二尚氏王統の第三代「尚真王」時代に造られた、粗粒輝緑岩(あるいは細粒斑粝岩)製の石厨子です。石棺の正面中央には「弘治七年おろく大やくもい六月吉日」の銘文が彫られています。中国年の弘治7年(1494年)と記する文字は、沖縄県で最古級の平仮名文字と言われています。「小禄墓」の断崖には他にも3段に彫られた古墓が群がっています。高級官僚であった「おろく大やもい」同様、古琉球において身分の高い人物の墓だと考えられています。(宇地泊川/比屋良川沿いの古墓)(シュイワタンヂ/首里渡し)「宇地泊川(比屋良川)」周辺にある崖の中腹には「小禄墓」の他にも多数の古墓が点在しています。中腹まで石段が積まれている墓や、断崖絶壁で辿り着けない墓まで多種多様です。この川には「シュイワタンヂ(首里渡し)」と呼ばれる道があります。旧国民学校の通学路と川が交差する場所にあった川を渡る「ワタンジ(渡し)」の事で、大雨が降ると川が増水して渡れませんでした。この道は首里に行く道であったため「シュイワタンヂ(首里渡し)」という名前が付けられました。(ウシヌクスービラ/ウシヌクブービラ)「小禄墓」の南側に「ウシヌクスービラ」と呼ばれるビラ(坂道)があります。昔は現在よりも坂道がきつく牛が糞をしながら登った為「ウシヌクスービラ」と名付けられた説と、周囲の地形が牛のコブや牛の後頭部(クブー)に見える事から「ウシヌクブービラ」と呼ばれるようになった説があります。かつて、この坂道に交差して首里への道として利用されていた宜野湾村を横断する道がありました。道の両側に松の木が林立していたので「ナンマツ(並松)」と呼ばれていました。それに因み、現在この周辺には松の木が多数植えられています。(アガリガー)(アガリガーのウコール)宜野湾市「嘉数公民館」の南西側に「アガリガー(東ガー)」があります。比較的に規模の大きなこの井戸は「嘉数集落」のウブガー(産ガー)で、集落で子供が産まれると「ウブミジ(産水)」として井戸の水が使用されました。また、正月には「ワカミジ(若水)」を汲んでいました。「アガリガー」には石造りのウコール(香炉)が祀られており、水の神と恵みへの感謝を祈る拝所となっています。この井戸は現在も水量が多く、ポンプで水が汲まれ農業用水として重宝されています。(ティラガマの出入口)(ティラガマの内部)(ティラガマの拝所)「嘉数集落」の最南端で浦添バイパス(国道330号)沿いに「ティラガマ」と呼ばれるガマ(洞窟)があります。この鍾乳洞は沖縄戦の際には防空壕として「嘉数集落」の住民の命を守りました。さらに、このガマは昔より伝説がある洞窟で「首里桃原」に住んでいた美女が家から逃げ出した時に休息したガマだと伝わります。その女性は宜野湾市にある「琉球八社」の一つの「普天満宮」の祭神である女神だと言われています。「ティラガマ」の内部奥は神が宿る鍾乳石があり、2基のウコール(香炉)と霊石が祀られる拝所となっています。この拝所にはヒラウコー(沖縄線香)がお供えされており、普段から人々の祈りの聖地として崇められているのです。
2021.12.07
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(嘉数高台公園)沖縄本島中部の宜野湾市「嘉数(かかず)」に「嘉数高台公園」があります。「嘉数」は沖縄の方言で「カカジ」と呼ばれ、比屋良川と牧港川に挟まれた琉球石灰岩の地域です。沖縄戦において名高い激戦地となり、今なお戦争の爪痕が数多く残っています。「嘉数高台公園」一帯は戦後は焼け野原でしたが、現在は自然豊かな森林が回復し、公園内にはヒカンザクラが植えられて市内でも有数の桜の名所となっています。(ウィーヌヤマ/上之山)(スズナリノ御嶽)(スズナリノ御嶽の祠内部)「ウィーヌヤマ(上之山)」は「嘉数集落」で最も重要な聖地とされ「琉球国由来記(1713年)」には「スズナリノ御嶽」と記され、歌謡集の「おもろそうし」には「かかずもりぐすく/ねたてもりぐすく」とあります。昔は石畳が敷かれた集落でしたが「首里城」を築造するにあたり、住民はその石を一つ一つ担いで首里に献上したと伝わります。この祠は琉球王府が認めた御嶽で集落の発祥に深く関わっており、祠内部には3体の霊石が祀られています。(トーチカ/北側と北西側の銃眼)(トーチカ/南西側の出入口)(トーチカ/内部)「ウィーヌヤマ(上之山)」の頂上に沖縄戦の際に造られた「トーチカ」があります。鉄筋コンクリート製の防御陣地で高さが最大1m、内部は2m四方で大人が3名ほど入れる広さです。比屋良川向けの北側と北西側に向けて敵を射撃する銃眼が2箇所あり、そこから小銃や機関銃を構えて米軍を攻撃しました。「トーチカ」には弾痕が無数にあり、鉄筋が剥き出しになるほど破壊されており激しい戦闘を物語っています。南西部の小さな開口部は日本兵が出入りする為に開けられています。(嘉数護獅子)(嘉数護獅子の石碑)(嘉数護獅子)「嘉数高台公園」の北西側には2体の「嘉数護獅子(村獅子)」があり「ヒーゲーシ(火伏)」と呼ばれる厄払いの役割を持つ守り神です。大型の石獅子には『いがる肝合ち したてたる獅子や 世の果て迄ん 護って給り 区民一同』と刻まれた石碑が建立されています。更に小型の石獅子の台座には『戦場に成たる 嘉数高台や 形や失しなてん 砂汰や残くち 襌應』と記されています。(陣地壕)(陣地壕の内部)「嘉数高台公園」の丘稜中腹に「陣地壕」の入口が残っています。「嘉数」に駐屯した日本軍は嘉数高地を中心とした周辺地域に幾つもの「陣地壕」を築きました。兵士だけでなく「嘉数」や周辺集落からも老人や女性を含む多くの人々が朝から夕方まで毎日「陣地壕」の構築に駆り出されました。壕は石灰岩を掘り込んでコの字型に構築され、側壁には落盤防止用の坑木の跡も確認されています。(トゥン・ジトゥーヒヌカン/殿・地頭火ヌ神)「嘉数高台公園」の西側に隣接して「嘉数トゥンヌヤマ遺跡」があります。この遺跡にある「トゥン(殿)」は古くは「ウマチー(豊作祈願)」などでノロや村人が祭祀を行う聖地で、かつては「トゥンヌヤマ」と呼ばれる小高い丘となっていました。「ジトゥーヒヌカン(地頭火ヌ神)」は「トゥン(殿)」にあり、琉球王府時代の地方役人である「地頭」と結びついた火ヌ神を「地頭火ヌ神」と呼びます。祠内部には神が宿る3つの霊石が祀られています。(ミーガー/新泉)(ミーガー/新泉)(カンカー石)「殿(トゥン)」の南側に「ミーガー(新泉)」と呼ばれる井戸があります。崖の麓にある洞窟の中を流れる湧泉で、水道が整備される前まで集落の生活用水として利用されていました。「ミーガー(新泉)」の西側の道路脇には「カンカー石」が祀られています。旧暦8月10日に集落の行事である「カンカー」と呼ばれる厄払いの祭祀が行われていました。牛一頭を屠殺(とさつ)して「カンカー石」にお供えし、残りは集落の各家庭に分けられていました。現在は祠内にウコール(香炉)が祀られる拝所になっています。(アシンニ)(トーバルヌヤマ/桃原ヌ山)「カンカー石」から西側に進むと「アシンニ」と呼ばれる場所があります。かつて、急な坂道を登った後に休憩所として利用されいた地点で、現在は三叉路となっています。「アシンニ」から南側に延びる一本道は「ウマイー」と呼ばれる、馬の美しい走り方を競う琉球競馬が行われた直線の道でした。「ウマイー」終点地の東側に「トーバルヌヤマ(桃原ヌ山)」と呼ばれる拝所があり、航海安全の神様が祀られています。祠内には霊石とウコール(香炉)」が設置されています。(嘉数高台公園のガジュマル)16世紀から17世紀にかけて琉球王府が編纂した沖縄最古の古謡集である全22巻の「おもろそうし」に「嘉数のおもろさうし」が謳われています。『一 かゝずもりぐすく ねたてもりぐすく なよくらてづて あまやかせ 又 けおのよかるひに けおのきやかるひに 又 あらがみはてづて おりなぐはてづて』(村の最初から崇めた嘉数の杜グスクに嘉数の神女ナヨクラが祈って神を喜ばせよ今日の佳き日に神女ナヨクラが祈って神を喜ばせよ神女はオリナクの神に祈って神女ナヨクラが祈って神を喜ばせよ)
2021.12.03
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(伊祖公園のガジュマル)今から600年前、沖縄県中南部にある浦添市は琉球王国の王宮がある都として栄えていました。その後、都が首里に移ってからも「浦添グスク」に居住していた「尚寧」が王位に就いていた時代もありました。琉球王国の中心であった時代の浦添市は「裏うらを襲う(治める)土地」という意味で"うらおそい"と呼ばれていました。「おもろ」は沖縄と奄美の村や間切の祭り、王府の祭りの際に謡われた神に捧げる歌で「神への言葉」だと考えられています。(めじろ公園のおもろの碑)浦添市「沢岻(たくし)」の「めじろ公園」の敷地内に「めじろ公園のおもろ碑」があり「尚清王」の名付け親だった沢岻親方盛里(?〜1526年)を讃えた「おもろ」だと言われています。盛里は中城城主であった「護佐丸」の孫で、中国から王を乗せる「鳳凰轎(ほうおうきょう)」と首里城崖下龍樋の「吐水龍頭」をもたらした事で知られています。『一 たくし たらなつけ 國 こおり うらのかず とよまちへ つかい 又 よかる たらなつけ』「たくしたらなつけ(沢岻太郎名付け)」と呼ばれた沢岻盛里の名声が、国・郡・村々まで鳴り轟き、多くの人々に慕われている様子を歌っています。(仲西公民館のおもろの碑)浦添市「仲西(なかにし)」の「仲西公民館」にある「仲西公民館のおもろの碑」です。「仲西」のすぐれた真人と尊称される人物(にくげ按司)が、朝に夕に、鈴富という名の船を操り干瀬(リーフ)の多い難所を巧みに航海する情景を褒め讃えた歌です。『一 つるこ にくげ あぢはゑ きよらや ほこら 又 よかる にくげ 又 中にしの ゑらびま人 又 あさどれに 世どれに 又 すづとみは はやとみは 又 ゑなんわたて ぢいだかわたて』「ゑなん(伊那武)」「ぢいだか(自謝嘉)」は那覇港の北西にある干瀬(リーフ)のことだと思われ、また「ゑらびま人」とは選りすぐった立派なお方という意味です。この歌は「仲西」の名が登場する数少ない「おもろ」のひとつです。(屋富祖公民館のおもろの碑)浦添市「屋富祖(やふそ)」の「屋富祖公民館」の敷地に「屋富祖公民館のおもろの碑」があります。「親富祖の大親」と「又吉の大親」と呼ばれる村の役人が、王に献上物を届ける状況を詠んだものです。この場合の「王」は浦添グスクを治めた城主、あるいは首里城の王のことだと考えられます。『一 おゑやふその大や 大やこがかない のぼていけば てだがほこりよわちへ 又 またよしの大や 大やこがささえ 又 けおの世かるひに 大やこがさゝげ 又 けおのきやがるひに』「親富祖」の"ムラ"は17世紀に廃止され「屋富祖村」に吸収されたと推定されます。「屋富祖」を直接詠んだ「おもろ」が他にないことから、この「おもろ」が「屋富祖」にかかわる唯一のものとなっています。(泉小公園のおもろの碑)浦添市「城間(ぐすくま)」に「泉小公園」があり「泉小公園のおもろの碑」が建立されています。「城間」と「又吉」の長老様がいらっしゃる広庭に、神女(ノロ)たちよ天降りして祭をしなさい、という「おもろ」です。古琉球の"ムラ"には男性の長老がいて、神々に祈る役割は神女たちが受け持っていました。『一 ぐすくまの あさいによ あさいによ ひろみやに おれなおせ かみた かみ 又 またよしの あさいによ』「またよし(又吉)」は「城間」の隣にあったと伝わる"ムラ"の名前です。神祭りをする広庭で神女たちが、神歌を歌い踊る様子を謡った「おもろ」です。(牧港漁港のおもろの碑)浦添市「牧港(まきみなと)漁港」の公園に「牧港漁港のおもろの碑」があります。この「おもろ」は莫大な利益をもたらす中国との進貢貿易に成功した「察度(さっと)王」を褒め讃えた歌です。このような偉業を成し遂げた「ぢやなもい」は誰の子か、こんなにも美しい、こんなにも見たいものだと謳い上げています。『一 ぢやなもひや たがなちやる くわが こがきよらさ こがみぼしや あるよな 又 もゝぢやらの あぐで おちやる こちやぐら じやなもいしゆ あけたれ 又 ぢやなもいが ぢやなうへばる のぼて けやけたるつよは つよからど かばしやある』「ぢやなもい」とは「察度王」の童名を意味します。「察度王」の使者「泰期(たいき)」は中国泉州から皇帝のいる南京まで進貢の旅をしました。この石碑は泉州市と浦添市の友好都市締結を記念して、泉州から中国産の青石(輝緑岩)に文字を刻んで寄贈されたものです。(伊祖公園のおもろの碑)浦添市「伊祖(いそ)公園」の丘の上にある「伊祖公園のおもろの碑」です。「英祖王」は1260年に「中山王」となり「英祖王統」を開いた人物で「ゑぞのてだ(伊祖の太陽)」と称された偉大な王です。その「英祖王」の居城が現在「伊祖公園」がある「伊祖グスク」と言われています。『一 ゑぞのいくさもい 月のかず あすびたち ともゝと わかてだ はやせ 又 いぢへきいくさもい 又 なつは しげち もる 又 ふよは 御ざけ もる』「ゑぞのいくさもい」とは「英祖王」の童名だと言われています。この「おもろ」は「ゑぞのいくさもい」が夏はしげち(神酒)、冬は御酒と毎月のように神遊びを催している。いつまでも若てだ(英祖王)様が栄えるように、という内容が謳われています。(あさやら公園のおもろの碑)浦添市「浅野浦(あさのうら)」に「あさやら公園」があり、敷地内に「あさやら公園のおもろの碑」が建立されています。浅野浦の土地は元来殆どが伊祖の小字で「伊祖グスク」に関わる由緒ある土地でした。この「おもろ」は伊祖の堅固で立派なグスクは「アマミキヨ」が造ったグスクで、見事な「伊祖グスク」だという意味です。『一 ゑぞゑぞの いしぐすく あまみきよが たくだるぐすく 又 ゑぞゑぞの かなぐすく』「いしぐすく」と「かなぐすく」は共にグスクの美称であり「あまみきよ」は琉球神話の琉球開闢(かいびゃく)の始祖神です。この「おもろ」は「伊祖グスク」が悠久の昔から栄えるグスクとして讃えています。(運動公園メインゲート前のおもろの碑)浦添市「仲間(なかま)」に「ANA SPORTS PARK浦添(浦添運動公園)」があり、メインゲートには「運動公園メインゲート前のおもろの碑」があります。浦添は酒が満ち溢れている豊かな土地だ。その土地に感謝して酒宴を開こうという内容の「おもろ」です。『一 うらおそいや うらおそいや みきどあるな さけどあるな たしや たしや きよや きよや よゝせによがかちへ つかい 又 とかしきや とかしきや さけどあるな みきどあるな』「みき(神酒)」や「さけ(酒)」があることは豊かな土地づある事をいみしています。「たしや(多謝)」と琉球語と不釣り合いな漢語を交えながら、おもしろく浦添の土地を褒め讃えています。(仲間交番前のおもろの碑)この歌碑は浦添市「仲間(なかま)」の「仲間交番」の脇にある「仲間交番前のおもろの碑」です。「浦添」は黄金が寄り集まり、永久に黄金が積もるほど繁栄が続いている、これ程の土地は「浦添」以外に見られないという内容の「おもろ」です。『一 うらおそいの ね國 もゝと つも こがね うらおそいど ありよる 又 とかしきの まくに』「うらおそい」とは国の中心地になってから浦々を治めるという意味です。「もゝと」は百年で永遠を意味し「ね國」と「まくに」は国の中心を意味する褒め言葉です。更に「とかしき」は浦添の古い地名を意味しています。(浦西中学校正門前のおもろの碑)浦添市「当山(とうやま)」にある「浦添市立浦西中学校」の正門前に「浦西中学校正門前のおもろの碑」が建立されています。名高い「按司襲い様」が浦添グスクの「世の頂」におられるので太陽(神)も喜んでいらっしゃる、という意味の「おもろ」です。『一 きこゑあぢおそいや うらおそいに ちよわれば てだが ほこりよわちへ 又 とよむあぢおそいや 世のつぢに ちよわれば』「あぢおそい」は按司(領主)を襲い(治める)者で浦添グスクの王を意味します。「世のづち(頂)」は浦添グスクの中にある聖地で、浦添の美称としても使われています。「てだ」は太陽の意味ですが、王や按司も「てだ」と呼ばれて尊敬されていました。(伊祖公園のガジュマル)「おもろ」には初めに「一」とあり、更に「又」とあります。これは一種の音楽記号で「一」は始まりを意味し「又」は音楽上の繰り返しを意味する記号です。「おもろ」では土地を褒め、領主を讃え、豊かな実りを願い、航海の安全を祈っています。また歴史上の人物を賛美し、戦の事も謳っています。「おもろ」は琉球王国第4代「尚清王」の嘉靖10年(1531年)から「尚豊王」の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された、22巻の歌謡集である「おもろそうし」にまとめられています。
2021.11.29
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(伊舎堂農村公園)沖縄本島中部で東海岸に隣接する「中城村」に、世界遺産「中城城跡」の南側丘稜から中城湾まで細長く広がる「伊舎堂(いしゃどう)集落」があります。「伊舎堂公民館」北側の国道329号線沿いに「伊舎堂農村公園」の森があり、敷地内に「花の伊舎堂歌碑」が建立されています。この琉歌は「じっそう節」と呼ばれ、かつて綿の栽培で栄えた「伊舎堂集落」を舞台に生まれた恋歌です。この地は明治の末頃まで綿の栽培が盛んで、集落には働き手の若い女性が数多くいました。(伊舎堂農村公園の入口)(花の伊舎堂の歌碑)「じっそう節」の歌詞にある「花の伊舎堂」とは「綿の花」と「美しい女性」たちが沢山いる所という意味を掛けています。青年男女の娯楽の場であった「毛遊び(モーアシビ)」は、特に「伊舎堂」は若く美しい女性が多い事から、彼女らを目当てに多くの若い男性が近隣の集落から集まったと言われています。『思ゆらば里前 島とめていもれ 島や中城 花の伊舎堂』(私のことを愛する心があるなら 私の古里は中城の伊舎堂だから どうぞ訪ねて来て下さい)(伊舎堂のリンクンガー)(ウブガー/産井戸)伊舎堂公民館の北側に「伊舎堂のリンクンガー」と呼ばれる共同井戸があります。かつてカー(井戸)の周辺にレンコンを植えて、士族が村周りをした時に食べさせたと言われています。戦前まではアーチ型をしていましたが、戦後に現在の形になりました。更に「伊舎堂農村公園」の北側の丘稜に石積みで囲まれた「ウブガー(産井戸)」があり、ムラガー(村井戸)とも呼ばれています。この丘稜北方の小高い山は「サクヌヤマ」と呼ばれ「伊舎堂」の人々が現在地に移ってくる以前に、一時的に住んでいた場所だと言われています。(エードゥンチグヮ/親殿内小)(エードゥンチグヮ/祠内部)(エードゥンチグヮの井戸)「伊舎堂公民館」の敷地内に「エードゥンチグヮ(親殿内小)」の祠があり「伊舎堂の殿」とも呼ばれています。祠内には2つの霊石が祀られています。また、祠の南東側には井戸がありウコール(香炉)が祀られています。琉球王府時代、親方(うぇーかた)と地頭職にある親雲上(ぺーくみー/ぺーちん)の邸宅である殿内(どぅんち)がこの地にあり、現在は集落の守護神である祠と水の神が祀られる井戸が拝所として住民に祈られています。(伊舎堂前の三本ガジュマル)(伊舎堂前のガジュマルの石碑)(伊舎堂前の三本ガジュマルの拝所)「伊舎堂集落」は約400年前は「中城城跡」の近くにありましたが、時代の流れと共に現在の地に移動してきました。伝承によると、この三本のガジュマルは最初に移動してきた安里家(屋号:伊舎堂安里)、比嘉家(屋号:アラカキ)、比嘉家(屋号:カナグスク)の三組の夫婦が記念に一本づつ植樹したと伝えられています。現在の木は戦後植え変えたもので三代目だという事です。この地には「三本榕」と刻まれた石碑と、護佐丸バス「伊舎堂」バス停に3つの霊石が祀られる拝所があります。(伊舎堂安里家)「中城グスク」の城主であった「護佐丸」の兄である「伊壽留(イズルン)按司」の子孫である安里家に火の神をはじめ伊壽留按司の元租(ガンス)や御神と呼ばれる上代元租(イーデーガンス)が祀られています。「伊舎堂集落」では昔から安里家が村落祭祀の中心的役割を担ってきました。屋敷内には旗頭も保管されており、戦前までクンガチクニチ(旧暦9月9日)には、安里家から旗頭が出発し子供達がドラやカネを叩き道々を鳴らし練り歩いたと伝わっています。(お宮/村火の神)(お宮拝殿の霊石)(お宮の手水鉢)「伊舎堂安里家」の東側に「お宮(村火の神)」があり「デーグスク(台グスク)」火の神へのウトゥーシ(遥拝)の場所だと言われています。お宮拝殿の霊石は「デーグスク」からウンチケー(お招き)して来て1936年10月7日に建立されました。この場所は神聖な土地として、戦前まで木々の伐採は厳しく禁じられていました。拝殿にはウコール(香炉)が祀られており、現在も集落の住民に祈られています。また、敷地内には古い石造の手水鉢が残されており歴史の深さを感じる事が出来ます。(伊壽留按司之御墓)(伊壽留按司之御墓の石柱)(伊舎堂のカー)「護佐丸」の兄である「伊壽留按司」の墓は「中城城跡」の入口の高台東端にあり、琉球石灰岩の岩盤の下を掘り込んで造られ、墓の前面は琉球石灰岩を相方積みに積んであります。「伊壽留按司」は城主になる事を望まず、中城間切に移り住み農業に励んで近隣では名の知れた豪農になり「伊舎堂安里(屋号)」の始祖となりました。「伊壽留按司之御墓」に隣接する場所に「伊舎堂のカー」があり「旧伊舎堂集落」の住民生活に欠かせない井戸として使用されていました。(デーグスクの火の神)(火の神の西側にある拝所)(火の神の西側にある拝所)「中城城跡」から東側に数百メートルの場所に「デーグスク(台グスク)」があり、その周辺一帯には「旧伊舎堂集落」が広がっていました。「護佐丸」以前に「中城」を統治していた按司(先中城按司が居住していたと伝わる古いグスクです。「デーグスク」の頂上の西側に「デーグスクの火の神」あり、現在も古い石垣が積まれています。「デーグスク」には御嶽があり「神名:ダイ森ノ御イベ」と「神名:ミツ物ノ御イベ」の2つの神が祀られ、かつては「大城ノロ」によって祭祀が行われていました。(デーグスク頂上の拝所)(デーグスクの拝所)現在、この古いグスクは一般的に「デーグスク」と称され「台城」という漢字が充てられていますが「琉球国旧記」(1731年)には「泰城」と記されています。この一帯は「中城村」で最も高い位置にあり、標高は170mを超え西海岸だけでなく遠く伊江島までも一望できる絶景が広がっています。因みに「デーグスク」東側丘稜の中腹に「護佐丸」の墓があり、今後は世界遺産の「中城城跡」と中城ハンタ道の「新垣グスク」に次ぐ「中城村」を代表するグスクとして国内外に知られ注目されてゆく事でしょう。
2021.11.23
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