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2018年06月30日
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藤井聡太四段時代の屈辱
2018年06月29日
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2018年06月27日
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2018年06月27日
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偽造乃至は事後発行とみられる灰色の《卒業証書なるもの》
2018年06月26日
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2018年06月26日
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2018年06月26日
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《》
2018年06月24日
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2018年06月23日
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1986年の1月、この”Rating Americana Corporate Consience”という凄い本がアメリカで売られていると知って大阪丸善で取り寄せた。届いた頃にはもう秋に近かったのではないか。タイトルも知らず全米企業社会格付け評価というぐらいのイメージで雑誌か新聞のコラムで知ったのだがカタカナでアリス・テッパー・マーリンという風に書いてあったのでたぶん綴りはAliceとMarlineぐらいはあってるだろうと丸善に言ったら向こうでは割合有名な本らしくてすぐに辿りつけた。手にして初めてRating Americana Corporate Consienceというのが正式呼称だと分かったという次第だ。たぶん2600円ぐらいだったと思う。どでかいペーパーバックだが、10ドルぐらいの売価で、いまならばpdfでインターネット無料配布されているぐらいの情報量だ。しかし発想は画期的。当時、そういう事を思いつく事も仕掛けようという人も日本には見当たらなかった。パソコン通信時代に、環境フォーラムにいて猫が好きって妙な男がやけにつっぱっているのでそれならば不毛な諍いごとばかりやらかさずに少しは真面目にこういうのをやらないか、と言ってやったらモゴモゴいったわりには沈黙してしまった。どいつもこいつも無精者ばかりだと思った記憶がある。猫が好き♪は、結局グリーンピースの手先みたいな真似をしながら、最後はグリーンピースに叩き出されたのではなかったか。日本では、いまでもこういう真似をやりそうな勢力はどこにも見当たらない。(シャルドネ)
2018年06月21日
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2018年06月20日
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2018年06月20日
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2018年06月20日
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2018年06月19日
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2018年06月19日
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2018年06月19日
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2018年06月18日
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2018年06月16日
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2018年06月16日
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2018年06月15日
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2018年06月14日
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2018年06月13日
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2018年06月13日
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オマハ・ビーチにおいては米第1歩兵師団が最悪の苦難を経験した。ここでは他の海岸に比べ特殊装甲車両の装備が少なく、さらにオマハに割り当てられた水陸両用戦車27両の多くは高潮の影響で次々と浸水し、海岸に到着する前にほとんどが失われた。更に、上陸用舟艇10隻も戦わずに沈没するハプニングに見舞われている。しかも連合軍にとって悪いことに、当初海岸に配備されていたドイツ側の守備隊は二線級の第716歩兵師団と予測されていたが、実際は東部戦線における激戦の戦闘経験を持つ第352歩兵師団であった。第352歩兵師団は連合軍の知らぬ間にオマハ正面へ布陣しており、その火点の多くが事前の航空爆撃や艦砲射撃にも生き残り、上陸部隊を猛烈に攻撃していた。彼らは海岸を見下ろす険しい崖の上を拠点とした。公式記録は次のように述べる。「上陸10分以内に(先導)部隊は指揮官を失い活動能力を失った。指揮をとる全ての士官および下士官は戦死または負傷した。……それは生存と救助のための闘争となった」上陸部隊の第一波は独軍守備隊の抵抗により海岸へ釘付けとなり、死傷者が続出。そこへ第二波以降の部隊が次々に詰め掛け、海岸線はパニックに陥った。その光景はさながら、地獄絵図そのものであった。多大の犠牲を払いながらも、連合軍は午後1時頃には防衛戦を突破。夕刻までには1・5キロメートルほど内陸へ進出した。2500名とも、4000名とも言われる、多数の死傷者が出たが、それにもかかわらず生存者達は再編成され内陸に進撃した。死傷率が一番高かったので「ブラッディ(血まみれの)・オマハ」と呼ばれている。オック岬のドイツ軍コンクリート要塞は米第2レンジャー大隊の攻撃目標であった。彼らの任務は敵の砲火の下ロープと梯子を用いて高さ約30mの崖を登り、ユタとオマハを射程とした要塞内の砲を破壊することであった。部隊は到達に成功し、おそらく前日の爆撃中に移動された砲は見つかり破壊された。上陸部隊の死傷者の割合はほぼ50パーセントだった。
2018年06月11日
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1963年6月11日、当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権が行っていた仏教徒に対する高圧的な政策に抗議するため、サイゴン(現・ホーチミン市)のアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺した。彼は支援者たちが拝跪する中、燃え上がる炎の中でも蓮華坐を続け、絶命するまでその姿を崩さなかった。その衝撃的な姿がカメラを通じて世界中に放映され、ベトナム国内だけでなく国際世論に大きな影響を与えることとなった。ジエムの弟にして大統領顧問・秘密警察長官であったゴ・ディン・ヌーの妻のマダム・ヌーは、アメリカのテレビインタビューでこの事件を「あんなのは単なる人間バーベキューよ」「反米運動にアメリカ製ガソリンを使うなんて矛盾してるわ」「今度同じ事をするならガソリンとマッチを進呈する」と発言し、それが全世界に報道されたため、南ベトナム国内や米国だけでなく全世界の顰蹙を買い、国民のジエム政権への反発をいっそう高めた。同年11月には軍事クーデターが発生し、ジエムおよびヌーは決起部隊に殺害されたが、元凶であるマダム・ヌーは生き延びた(事実上の国外追放。各国を転々とし、2011年にローマの病院で死去。2人の娘は姉が1964年に22歳、妹が2012年に52歳で共に自動車事故で亡くなっている)。リチャード・ニクソンは著作で、この事件を共産主義者のプロパガンダの一環に過ぎないと主張した。アメリカ人ジャーナリストのマルコム・ブラウンが撮影した報道写真は、1963年度の世界報道写真コンテストでグランプリを受賞した。
2018年06月10日
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2018年06月09日
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2018年06月09日
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2018年06月09日
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2018年06月09日
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2018年06月08日
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2018年06月06日
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2018年06月06日
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2018年06月06日
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2018年06月06日
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2018年06月06日
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2018年06月05日
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2018年06月05日
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2018年06月05日
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2018年06月04日
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2018年06月04日
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2018年06月04日
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中国・北京で、民主化運動が軍によって武力弾圧された「天安門事件」の際に群衆に燃やされた約20台の装甲車(1989年6月4日撮影)。【12月23日 AFP】1989年に中国の首都・北京の天安門広場(Tiananmen Square)で民主化運動が軍によって武力弾圧された「天安門事件」の死者が、少なくとも1万人に上るとする英国の公文書が新たに公開された。 公開されたのは英国の外交機密電報で、陰惨な天安門事件の詳細をつづっている。天安門事件から28年以上を経て公にされた電報をAFPが英国立公文書館で確認した。 当時の駐中国アラン・ドナルド(Alan Donald)英大使は本国政府への電報で「最低に見積もっても一般市民の死者は1万人」と報告している。 当時、一般的に報じられた死者数は数百人から1000人余りで、弾圧が起きた翌日の6月5日に出された同氏の推定は、広く受け入れられていたその人数のほぼ10倍となっている。 フランス人の中国研究家ジャンピエール・カベスタン(Jean-Pierre Cabestan)氏は、最近機密解除された米国の文書も類似した死者数を割り出しており、当時の英大使によるこの推定値には信ぴょう性があると述べている。「天安門事件の死者は1万人」 英公文書を公開 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News http://www.afpbb.com/articles/-/3156480
2018年06月03日
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2018年06月03日
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2018年06月02日
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2018年06月01日
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