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今朝からタイピングを始めた。コロナ禍の休暇でタイピング練習のために作ったものを半年ぶりで練習を再開しようと思い立った。************目を星に向け、足を地につけよ。神の愛が創造の始まりであり、創造の内容であり、創造の目的である。もし夢を売っていたら、あなたはどんな夢を買いますか?人間の運命は、自分の魂の中にある。人は生まれてそのまま死んでいけるけれども、創造の目的は、そのままで消え去ることは出来ない。必ず実を結び、結末をつけなければならない。愛には盲目的な突破力がある。目的一つをなすためには、いかなる犠牲があってもそこには避ける道がない。人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである。自分の運命は自分でコントロールすべきだ。誰かにコントロールされぬ為に。創造の理想は我々の知識ともなる。たとえ体は、現実の中に生きているとしても、生活感情と理想とすべての因縁はすべての真という名詞は、心情を抜きにしては成立しない。主を愛していたよりももっと世界を愛する心がなければならない。宗教は愛の道であるから生死を超越することができる。創造目的の完成に対しては、一歩も譲らない。人はその守る沈黙によって判断される。すべての者は生まれながらに知恵を求める。恐怖は常に無知から生じる。自由とは責任を意味する。だから、たいていの人間は自由を恐れる。死というのは、ただ人生の次に起こる大冒険にすぎない。我々は、行くべき道を残しておいて、今日に満足する者とならず自分に打ち勝つことが、最も偉大な勝利である。雨を感じられる人間もいるし、ただ濡れるだけの奴らもいる。しばしば、直観が頼みの綱になる。重要なのは人生の長さではない。人生の深さだ。未来は今日始まる。明日始まるのではない。この世の未練を断ち切ることのできる、より大きい目的を持つ黄金律はないということが黄金律である。行動する事は少しも恐れず。恐れるのは、ただ無為に時を過ごす事だけだ。ただプレーして、楽しく試合をすればいい。人生は公平ではない。そのことに慣れよう。嘘は、生き続けることなどできない。何か信じるものがあるのに、それに従って生きない人間は信用できない。より大きい考えをもって新しい歴史を開拓していこう。天才とは、1%のひらめきと99%の努力である。与えることで貧しくなった人はいまだかつて一人もいない。最低の苦痛を受けながらも、この世の最高の栄光を嘲笑し踏み越えていく。想像できることは、すべて現実なのだ。失敗は致命的ではない。変わらなければ、それこそが致命的になりうる。成功は、手がかりを残す。外見は大切。笑顔を忘れぬよう。始めうまくいったものは半分できたも同然。何であれ、怒りから始まったものは、恥にまみれて終わる。考え過ぎたことはすべて問題になる。人間は、その想像力によって支配される。屋根を修理するなら、日が照っているうちに限る。恐れを抱いた心では、小さいことしかできない。純粋な心だけが美味しいスープを作る。https://typing.twi1.me/game/105155
2021年01月25日
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過去の日記を整理している。下記は去年二〇二〇年の五月の日記だが、あれから半年以上が過ぎた。部署は数名の人数から十数名に膨らんだところまで記載されていたが、現在は三十名以上になり、次々拡大され新人が増え続けている。つまり、辞めていく人達も出てきていた。去年の最後に私の仕事は評価されるようになっていて、男上司H氏とは十二月末に一分程度対話する機会があった。「一位じゃないですか。その評価の中身というのはかなり厳しいもので…それって凄いことなんですよ…」「Hさんのおかげです…」「いや、ぼくは何も…」「いいえ、いろいろ指導していただきました…」「いやいや…」という一分程度のやりとりがありました。いま、こうして文章を書く事に意識が戻ってきたのは、タイピングを早く正確にしていこうと、一日十分を心がけようとしているからである。 さらに再度の読み返しをしていて気づいた。ああ、この話の奥底にあるのはラマダーン、断食での病になろうとしている元凶を、病気になる手前で取り除いたという話だったのだなあ。今年、私は、大殺界の最後の一年の年回りを挑もうとしている。すでに始まっている。一日が無事に過ぎてくれますように。一日をへりくだって、へりくだって、氷の上を歩くように、そろりそろりと進んでいく。 ************************************************ 五時半だ。今、書く時がきた。ああ、そうか、そうだったか、私が日々、タイピングの練習をしているのはこのような自動書記をするためだったか。先日、Iと会った。一緒にうどんを食べた。まず、彼女の話をたっぷり聴いて、次に自分の話を聞いて貰った。話の最後はペコパのネタの話になった。否定的な場面の咄嗟に出る言葉が肯定的、前向き、前進的、明るいのがいい。不意を突かれた、と思わず笑いがこぼれる、というネタの精神がいい、という話に流れが変わった。Iが「マイシーズン」を読んだかと聞いてくる。うん、読んだよ。アブラハムが結局は明るい作品に行き着いたと言ってたねという。どんな内容だったか、家に帰ってから、読み返してみようと思った。やはり、いつでも家に帰れば本があるというのはいい。しかし、家になくても徒歩十分圏内に多賀城図書館があり、もしくは通勤路線、仙石線の陸前原ノ町下車、改札を出てすぐに宮城野図書館がある。あるいはメディアテーク仙台市図書館、または榴ヶ岡図書館となるが、家に図書棚があるのがいいと認識したのは「知的生活のすすめ」を再読したことから本を手元に置く主義になった。 Iと会おうという運びになったのは他愛ない流れだった。Iの携帯がいよいよ故障となって、メールができなくなった。それでIからこういう事情であると葉書がきた。明日には機種変更しにいくつもりだと記載あり。投函日は昨日の六月二十一日の消印。機種変更に一緒について行ってあげようか、と思い家のポストに入った直後、即座に見た際、固定電話の番号が記載されていたので電話した。彼女は東京から仙台に引っ越してきたばかりであるから、近くのスーパーや家電量販店などの情報を教えてあげた方がいいかもしれないという頭が働いたからである。最初、Iの携帯にかけつながらず、次に固定電話にかけてみた。即座にIが出た。無料通話の十分が近づいたので、架け直すと言っていったん切り、携帯に架け直した。音質が鮮やかになった。すぐそばにいるかのようだ。もう携帯替えてきたところだよ。何の機種?〇〇だよ。そうか、お手頃価格で良かったね。そうそう。こっちが世話を焼かなくてもIは一人で判断して行動していく、そうかそうか、そりゃよかった。もし、求められたら、即座にシャワーを浴びて着替えて彼女の買い物に付き合おうかと思ったが、その必要がないと知って安堵した。電話のあと、続きの時間を自分の好きなことに使える。よかったよかった。そうそう。いま、自分が熱中していることというのは聖書のタイピングテキスト作り。Iの世話を焼かなかったおかげで今日はヨハネの第一の手紙一章からユダの手紙までの聖書十頁分を文字入力したことになる。その作業を一日しながら、こんな楽しい時間の過ごし方があるだろうか、脳がとろける味わいに浸っている。コロナ対策自宅待機の期間ひたすら家にいて一日パソコンの前に座ってこの作業に時が過ぎるのを忘れた。 そんでさあ、I、会おうよ。うん、いいよ。じゃあ、仙台イオンの地下一階の食堂どう?注文しなくても座って休憩できるフリースペースがあるからそこどう?地下二階には食料品売り場もあるよ。十八時半どう?うん、いいよ。こっちはさ、仕事終わってから歩いて三十分で着くと思うから。わかったよ、じゃあ、二十四日の十八時半ね。と電話を切った。そもそも電話嫌いで電話しない、コロナ鬱の引き篭もり状態で人と対面しようなどとは、露ほどにも思っていなかったというのに。人と会いたいと思ったのにはわけがあった。対面したくないだけではなく、あらゆることに心が閉ざされていた状態になっていた。それで、Iに会って話したかったことは、いまこんなに自分は無気力で何もしたくないし、ただ会社と家の行き来だけで、他は何もしたくないという湿った心の状態を取り出して、おひさまにあて干したかったのだ。人の前にさらすといい案配に乾いてまた、心の家に取り込む。ただ、これをしたかった。 悩みながら過ごしていた、という話をしだした。「何に?」そう次の言葉を引き出してくれる相手が必要だった。何の為に書くのか、そもそも自分は書く事が好きというほどでもないし、自分には関心がないし、今、書きたいと思っている作品の草案は韓国の十二歳天才トロット歌手をモデルとした物語だが、こんなに若くして脚光を浴び有名になって財、地位、名誉を得て、少年の名前の道路「チョンドンウォンキル」という三十キロにわたるサイクリング道路に少年の名前がついてしまった。この先の試練と、傲慢と、エレベーター人生を思うと先行きが心配でならない。そんな思いが押し寄せて、全く作品がまとまろうとしない状況。こんなくどくどしたことは実際には話さなかったけど、自分の心の状態も先が見えないということをただ、表明したかった。 そういえば、私がイスラームのラマダーンをしているという話をIに前々から話していた。それが終わる間際の五月二十二日(金)この日、私は最悪な一日を過ごしていた。コロナ対策シフトで何と、部署内は苦手な男性上司Hと二人だけだったのだ。同じフロア内で人はぽつんぽつんとは座っている。通常三メートルは席の距離があくように座っているが、その日は、出勤予定の人も休んで、二人だけとなったのだ。私は姑に粗捜しをされいびられている嫁のような気分を味わっていた。息が詰まった。些細なミスの指摘にわざわざ私の座席に近づいてきてネチネチ小言を言ってきた。それはあまりにも陰湿ではないか、私は一瞬、鬱になる前に電話相談をという窓口があったはず、縁がないと思ったが、この機会にその窓口に相談してみてはどうか、とトイレに座りながら思案したりした。絶対にこの人はおかしい、信じられない、こんな対応があり得るだろうか。 絶望と、湿った気持ち、不運の運気に忍耐し、家に帰ってきた。夜、夫と時間を過ごしながら、夫がいつになく私に対して否定的だった。よもや、まさかの言葉が夫の口から出たときには、目が点になるって、こういうこと?耳を疑った。「アマリニモヒドスギル」と、この言葉は、日中、男上司から言われたこととピタリと同じフレーズだった。えっ、えっ、えっ、何が?なにがそんなにひどいですか?夫がいうには、シャワーを浴びたら、露の時期なのだから黴が発生しないように、T字の器具で水滴を取って換気扇をまわすようにいっているのにしてくれない、というような些細なことだった。もちろん、そう言われてからはその作業はできるだけ忘れないように習慣化した。「アマリニモヒドスギル」その一言をきいた、その瞬間、私は気づいたのだ。ははーん。私は自分のことを棚に上げて相手に問題があることだけを嘆いていたが、問題は相手ではなく、どうやら自分にあったらしい。原因を作っていたのは、こっちの方だったのだ。夫が言うのだから、夫の言うことは正しい。夫ほど妻の美点を理解してくれる人はおらず、妻ほど夫の美点を理解している者はいない。というリスペクトが互いにあると思い込んでいるこちら側としては、夫の言葉は常に効果的だ。私は考えを全面的に改めた。私が間違っていたのだ。ああ、どうやら、私は人に迷惑をかけていたようだ。ああ、なんてこった。私は真実にあまりにもひどいひとだったのだ、と自覚した。 自分に嘆いた、あ、あ、あ、あ、あ、なんとなんと、、、。そうしたあとには、相手の男子はもしかすると凄い人かもしれない。自分が正しく判断できなかっただけなのだ。とたん、その人の姿が韓国の弥勒菩薩に似ているような気がしてきた。弥勒菩薩像は日本の広隆寺の像が最も美しいと思い込んでおり、写真も飾っていたほどだが、韓国の弥勒菩薩像はちょっとコケティッシュ。ウルトラマンのような顔、しかし、もしかすると相手は立派な人なんじゃないかと意識が転換すると、相手の顔が輝かしい存在に見えだした。それが五月二十二日の夜から二十三日にかけて起こった私の心の変化だったのである。 ところで、ラマダーンっていつまで?と夫がきく。たぶん今日までかな。と言って、二十三日の朝の目覚め。ラマダーンあけの祝い「イード」を検索すると、五月二十三日までがラマダーンで、祝いの「イード」は五月二十四日とわかった。二十三日を一日断食しラマダーンがあけたのは二十四日。二十三日、二十四日、二十五日、二十六日までがコロナ対策自粛休暇を含めた四連休を経て、四日ぶりに出勤した。会社内に変化が起きていた。私が休んでいた間に新人が十人ほど増えていて、研修がはじまっていた。隣の部署がフロアの奥の奥に移動していて、新しい新人さんたちの研修の場となっていた。 私はとたんに先輩のベテラン扱いとなり、新しい人たちのお手本を示す立場になっていた。えっ、四日前には、あれだけ、徹底してのダメ出しだったのに、職場の空気がガラリとチェンジしていた。そして、潰れた私の胸の内も、カラリと晴れ上がっていた。頑なに凝り固まっていた壁が解けたのだ。原因が自身にあったことを自覚できたことから、「申し訳なかった」この一点、この心境に行き着いたことで、仕事ぶりが俄然、進化を遂げたらしい。隅々にわたって、何をどうすればいいか、紐解けて行ったのだ。
2021年01月25日
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「やってみようと思ったときは、すでに成し遂げる能力があるのです」同人の集まりに行くべきか、見おくるべきか。三月早春、その言葉で踏み出した。やっても、やらなくても、どうせ時間は過ぎていく。何もしなかった一年、通い続けた一年、想像してみた。行動した顔が濃厚に微笑みかける。進め。時間が用意されているなら今だ。 入会初のイベントはTさん宅でのバーベキュー。平成三十一年四月二十一日復活祭。仙台駅前、八番バスのりば。八時五十六分発車。「トイレの壁に、庭の絵をずーっと貼っていたの。そうしたら、実現しちゃったぁー」無意識に仲間に告げる。帰宅後、じっくり絵をみた。ただの庭じゃない。タイトルが、『ファミリー・バーベキュー』(スコットランド女性画家ジェニファー・トムソン)その絵に思いを留めたのは二年前だった。秋保の百坪以上もあろうかと思われる庭園には無農薬の野菜がズラリ。菜の花の蕾をもいで口にした。甘い。掘りたての筍も網にのせる。肉が苦手な私はもっぱら玉葱、きのこ、南瓜、パプリカ、大蒜も。口の周りをタレでよごしながらも気にしない。蕗味噌、おにぎり、自家製パン。ほうれんそう、人参、もやし、三種のナムル。たらふくたいらげる。おっ、ホッケが網にのった。焼きたてのホッケを食べたい。それも前々から思っていたことだった。 同人誌が完成した。庭さきで、印刷所から届いたばかりの本を手にとった。デビュー前の作家たちの切磋琢磨。その投入した熱が新入りにまで伝染してくる。 目を引いたのは挿絵。染色、テキスタル作家が作品ごとに絵をあつらえた。Kさんが絵を見て泣けてきたんだと、顔をくしゃくしゃにしてテキスタル作家に話しかける。「しっかり読んでくれている。でないとこういう絵は出来ない。こんなにも、私のことを、理解してくれているんだなあって思ったら、もう嬉しくって」本を開いた。ああ、これはペンで描いた絵ではなさそうだ。即座に質問した。「読み込んでからデッサンして、針と糸で刺繍のステッチを作っていくということですか」「はい、そうです。一字一句、丹念に読みます」その回答に一同歓声があがった。わあーーーー、拍手喝采。同人誌にはどうしたら関われるのか。数年前に確かに思い浮かべていた。心に描いた絵は実現させようと自動的に歩き出すものなのか。生きていれば、こうしたいと思ったことが、いつかそのとおりに運ばれていくということなのか。Tさん夫妻のミニ野草園を歩く。自然療法の暮らし。病は無縁。効能のある野草畑。季節の野菜を山盛り、ズンドー鍋で煮込む。コトコト弱火で繊維質がくたくた、とろとろになるまで煮込む。いのちのエキス。次、無農薬の野菜カレーを提案したい。心身のお通じを良くする。樹木なる仲間たち。兄、弟、姉、妹。集いはいのちに磨きをかける。Tさんは七十九歳。二年前のエッセイ講座で隣の席だった。「庭」の作品に魅せられて、(行ってみたい)瞬時に走った思い。それが、忘れた頃に実現することになろうとは。「それは一つの発見だね」など、常に寄せてくれるコメントが光っていた。今回も勇気づけを一発。「エッセイもね、一年や二年じゃ、まーだ、まだ。三年、四年たって、あるとき一気に伸びるものなのよ。もう、そういうふうになっているんだから。続けていくしかないのさ」植物を語るような切り口には妙に説得力がある。奥さんのことを「ミッチー」「みっちゃん」と呼んでいる。その夫婦仲の睦まじさ。この絵をしっかりキャッチした。(了)二〇一九年 五月一日
2021年01月25日
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韓国語を勉強してみようと思ったきっかけは七十七歳から勉強し始めたという友の話を聞いたからだ。小児科の女医をしていた彼女が特別有能だとしても、目や耳が弱くなっているはずなのに、およそ彼女より三十歳も若い自分にやって出来ないということがあるだろうか。 韓国語ができたらいいな、そう思い続けて長いはずなのに、自分にはその能力がないと決めつけていた。韓国小説読書会に入って間もなく韓国語教室の誘いを受けた。咄嗟に両掌パーに力を込め押し出す。小首を小刻みに震わせる。自分には絶対に無理なんだと信じこんでいた。 数年がたち変化が起こる。読書会で一番親しくなった人は八十代女性。彼女が突然詩の翻訳本を出版したのだ。読書会で一番の友達が私ということで出版記念会では彼女の隣に席が用意された。彼女は七十七歳から翻訳家の先生のもとで本格的に勉強し始めた。ご主人を見送ったその年、もし韓国語を始めていなかったらうつ病になっていたと言う。 彼女が翻訳をしたのは震災の只中。家に籠って朝から晩まで辞書を引っ張り作業に集中した。夜になると辞書が膨らんでしまう。電話帳を重ねておもしにして寝る。朝になるともとに戻っている。また一日辞書を引く。「韓国語はボケ防止に最高」彼女の口癖だ。翻訳家先生から電話がきた。「途中からだけど勉強してみませんか」「やります」即答した。既に教科書の三分の一が過ぎた授業に混ざった。その夏、暑かったのか寒かったのか覚えていない。どんなに恥をかいてもしがみついていく。フルタイムで仕事をしている。授業に続けて参加するには睡眠時間を削ることもある。泣きたくなる場面だ。そうこうしながらも長く付き合った者勝ちだ。 忍耐を続けていく中、私は出会った。喜びを見出した。韓国の歌だ。目標は二千曲。今年百曲を歌えるようになった。一年に百曲。二十年で二千曲。この目標は生きる意欲。健康でエネルギッシュに生きるということだ。 できないという信念を砕き大好きに変えたではないか。毎週金曜日は午前午後の授業。そのあと十六時から二十一時まで一人カラオケに行く。水を二リットル持って行く。はじめの二時間は発声練習。とても下手。分岐点を超えると自分の歌に酔う。うまく歌えるようになる。 体を前後に左右にスウィングしながら時々飛び跳ね汗いっぱい。不思議なことに声が枯れない。歌うほどに声が良くでてくれる。一人コンサートをしながら次の一週間もっとがんばるぞと決意をかためる。ラスト三十分というとき歌は最高潮に達している。 これからもっとうまく歌えるのにというところで引き上げる。その時間が励みだ。授業のあとは歌スタジオへ。歌の境地これが脳内モルヒネというものなのか。泣きたい思いは解けていく。負の思いを思い出せない。そんなことはどうでもよくなるのだ。生きている間に朝鮮半島南北縦断の旅をするだろう。2018年 夏
2021年01月24日
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「あんたのおかげ。あんたが声かけてくれたおかげやわ。おかげでこんな楽しい」五か月前、歌で習う韓国語クラスの教室で、後ろの八十二歳の高さんが言ってくれた。 九か月前、生徒数を十人確保する必要があり、高さんを一緒のクラスに誘った。「あんたの言うとおりにするわい。あんたが来いっていうとこならどこでも着いていくで」高さんの参加によって、歌クラスは開講実現となった。「韓国人が韓国の歌うたうのは当たり前。日本人が皆の前で韓国の歌を歌ってるのを見たら皆、心うごかされる。ああ、日本人がこんなに頑張って韓国語を勉強してるのに、わたしら何でこんなに勉強できないんや。頑張らなぁ気持ちになるんや。ありがとうな。あんたは孫みたいなもんや」高さんは杖をついて歩く。このごろはカートのついた鞄に掴まりながら歩く。おしゃれな帽子を被っている。渋柿で染めたお手製だという。情け深いまなざし。「いつもありがとな」と言って授業がある度にお菓子をくれる。在日の人と親しくなりたいと願っていた。歌が結び付けてくれた。去年の芋煮会の席で在日女性が歌う「セタリョン」を聴いていた。「いい歌ですねぇ」と高さんに声をかけた。「あんたも好きなんかセタリョン。あたしが一番好きな歌や」このやりとりで一気に意気投合。「練習しに行こか」「行きましょう」高さんの車の運転でカラオケ五時間を共にした。今年の芋煮会、高さんが向こうのテーブル席から手を振っている。手の振り方はこっち来いと言っている。「あんた何、歌うん?セタリョンを一緒に歌おうや。あんたが一番、あたしが二番を歌う。あんたが歌っているときは踊りを踊ってあげるからな。歌は下手でいいんや。下手でも頑張って歌ってるところをみせてやりい。満面の笑顔で歌うんやで。な、あんたらも一緒に踊ってな。この子は歌うまいんやでぇ。この子はなぁ、懐っこいんや。それが可愛んや」テーブル席の仲間たちに私を売り出しにかかる。弱った。百回練習しても上手く歌えた試しが一度もないというのに。「あんたなんかに歌われてなるものか」歌自身の魂が私を拒絶しているかのようだ。身世打令、自分の身の上をこぼす心の訴え。悲運に翻弄されて、自分ではどうにもならないことへの嘆き。自然の音、鳥の鳴き声もそのように聞こえるというのか。それがなにゆえこうも人の胸を打つのか。二〇一九年 十月
2021年01月24日
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タオが引っ越してきた六畳一間の下宿は、畳はなく、板が敷いてあるだけだ。タオは初めての一人暮らしに気持ちがはずんでいた。タオは貧しい米農家の次男に生まれた。村に仕事がないため田植えのあと町にやってきた。タオの食事は毎日が野菜。冷蔵庫はない。八百屋のおばちゃんとすっかり仲良くなった。「おばちゃん、このリンゴ箱、譲ってもらえない?」「おお、タオくん。何につかうんだい?」「勉強机にしようと思って」「もっていきな」「いくら?」「なあに、お代はいらないよ」「やったぁー」はじめての部屋にりんご箱が入った。雑貨屋で青と白のチェック柄のビニールシートを手にいれた。貼り付けてみると、かっこいいテーブルになった。この上でご飯を食べ、勉強もする。この七月から昼はカメラを組み立てる仕事が決まった。 同時に週に一回の語学教室を申し込んだ。夢は童話作家。と、世界の童話を翻訳すること。とにかくいきなりの忙しさに、その夏が暑かったのか寒かったのか、まるきし覚えていない。いつも授業であてられるたび、冷や汗をかいていたからだ。最近、隣に誰かが引っ越してきた。昨日は酒盛りがあったらしい。お客が、わんさか集まって夜中なのに大声でしゃべっている。ときどき笑い声が入り混じる。そのせいでタオはちっとも眠れなかった。隣室との壁は、薄いべニヤ板一枚。隣の音がつつぬけだ。おなら、いびき、はぎしり。おそらく年配のおやじが住んでるんだろう。まだ、顔はみていない。 語学教室で友達ができた。ブンという年の離れた兄貴分。ブンは出版社に四十年勤務していたが数年前に退職したようだ。ブンの家には本が山のようにあるらしい。物を整理するといいことが舞い込むという本が流行っているからなのか。どうも片付けに本腰を入れた様子。休み時間、タオはいつも本を読んでいた。タオの本には図書館のマークがついている。ブンはチラリと横目で見ていた。授業が終わったあと、ブンはタオに声をかけた。「本を整理しているんだけど、よければ、もらってくれないか」「それはありがたい」タオの顔がぱぁっと明るくなった。ふたりは帰り道が途中まで一緒。角のところで挨拶して分かれる。曲がったところで、タオはひとり飛び跳ねた。タオは本を持っていなかった。自分の本に赤線を引きながら、思いっきり本を読んでみたい。そう思っていたのだ。次から勉強のカバンとは別にリュックを背負っていった。いつブンが本をくれてもいいように。その日は、ブンが本を持ってこなかったので、八百屋でキャベツとさつまいもを買ってリュックに入れた。途中、家を解体している現場を通った。たくさんの煉瓦やら板を処分しようとして、大型トラックに運んでいた。あともう少し積み上げれば作業が終わるところだった。「残った煉瓦と板、ぼくにくれませんか?」交渉は成立。タオは何回にも分けて家に運んだ。壁に本棚をこしらえたのだ。細長い板を壁際に敷き、両端に煉瓦をたてる。その上に板を置く。そのまた上の両端に煉瓦をたてる。また板を置く。それを七段作る。あとは、ぎっしり本を詰めれば厚い壁の出来上がりだ。タオはにんまり。よし、いいぞ。ブンの片づけはどんどん進んで、もう読みそうにない本を片っ端からタオにやった。タオはありがたくちょうだいし、どんどん棚につめていった。しだいに隣の音は気にならなくなってきた。よし、どんどん良くなっていくぞ。ある日、ブンが本でないものを袋からとりだした。「片づけたらこんなもんが出てきた。つかわないからもらってくれ」半円柱形をした木製の枕。直径十センチほどの丸太を半分に割ったかまぼこ状のものだ。ひと目みて上質のものとわかった。柔らかな白木で丁寧にヤスリがけがしてある。「西帰浦治癒の森」(ソキポチユノモリ)と焼き印が施してあった。タオは枕を持っていなかった。ブンと分かれて、角を曲がると飛び上がって喜んだ。こんな枕が欲しかった。その夜、枕の上に頭をのせると、なんて気持ちいいんだろう。首を指圧して貰っているようだ。ヒノキのいいにおいがする。森の中にいるような気分だ。深い眠りにおちていった。その夜、タオは夢をみた。父親と、母親の夢だ。小型トラックの荷台にタオが乗せられている。運転席から振り返ってにやりとする父さん。日焼けした元気いっぱいの目。タオが熱を出して寝込んだとき、朝まで看病してくれた母さんの甘い匂い。朝がきた。いい目覚めだ。ああ、さっきのは夢だったのか。本当に父ちゃんと母ちゃんが近くにいるみたいだった。肌ざわりも、体温も感じとれたのに。生まれて初めて親と離れた。涙がほおを伝った。ぼくはいつだって見守られている。夜くたくたに働いて帰ってくる。夕飯を食べ終えるとすぐ眠くなる。枕に頭をのせると、すーっと深い眠りに入る。短い睡眠で足りるようになった。朝五時前、ぱっと目が覚めるようになる。早寝早起きが習慣になり、朝勉強が出来るようになった。枕がきっかけで、毎日の暮らしにリズムが生まれた。ああ、なんて楽しいんだろう。ますます良くなっていく。タオはブンから貰った本に、丹念に目を通していった。タオは一冊読み終えるごとに、一枚の紙に感想をもとに物語を書いてそれをブンに見せた。それが百枚にもなろうとしていた。童話をつくってコンクールに応募する前には必ずブンに見て貰った。まだ結果は出ていない。が、大丈夫。出来る気がする。作品を生みだすために、物を見て、感じて、聞いて、人と出会って、話して。生きる喜び。もう、結果がでなくても満足。というほど気持ちが高まったその時、郵便受けに受賞通知が入っていた。 2017/10/30 05:30
2021年01月24日
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まき割りをしているのはタイヨウ先生。汗びっしょりで、あたまから湯気がでています。あたまがピカピカ光っているので、子供らはみんなタイヨウ先生って呼んでいます。 初雪が降りました。雪国の村の小学校は、まき運びから一日が始まります。丸いズンドウ型のまきストーブ。いよいよ、ボクの出番です。 休み時間になると、みんなボクのまわりにやってきます。手をかざしたり、背中をあっためたり。タイヨウ先生がこまめにまきを足し、燃えぐあいをみてくれます。ボク、役に立っているな。なんだかうれしい。ボクって、なくてはならないもの。 席替えがありました。黒板にむかって、ぐるりと「コ」の字で、ボクを囲むように机がならんでいます。かきとりテストで、できる子の順番から席がきまりました。 正面の列はできる子。ろうか側の列はふつうの子。窓ぎわの列はイマイチの子。 テストの点数で席が決められるなんて、みんなもたいへんだな。さびしいきもちの子も、きっといるだろうな。 ボクは、一人一人の顔をおぼえていきました。正面の列の子らが、えらそうに、ちょうしに乗っているように見えます。かわいそうなのは、窓ぎわの子らです。すきま風がスースー入ってくるから、寒くてガタガタふるえているんじゃないかって、しんぱい症のボクは、ハラハラします。 朝、タイヨウ先生が大きなやかんに水をなみなみ入れて、ボクの上にかけていきます。じゅぎょうの間にお湯はしゅんしゅんわいて、やかんのふたは、わざとあけておきます。湯気が教室をじゅんぐりあっためてくれます。それで、みんなのひふはツヤツヤ、ピッカピカ。 タイヨウ先生がにこにこ顔でおっしゃいました。「あしたは給食が休みです。みんな、おにぎりを持ってきてください。みそ汁は、まきストーブで作ります。はしを忘れずに持ってくるように。ダシと、みそは、先生がじゅんびします。みんなは、おわんにみそ汁の具を、お母さんに入れてもらってきてください」はーい! 次の朝、ボクの上に大きなナベがかけられました。水がたっぷりはってあり、小さく切った昆布が多めに入っています。昆布ダシがぐつぐつ煮えてきました。タイヨウ先生がナベのふたをあけて、かつおぶしの大袋をどさっと入れました。 うわあー いいにおいがするーお昼のチャイムが鳴りました。みんなが列にならんで、おわんの具をじゅんじゅんに入れていきます。だいこん、にんじん、さつまいも、かぶ、はくさい、とうふ、あぶらあげ、豆もやし、ねぎ。 タイヨウ先生は、ボクの近くにいすを持ってきてすわりました。おたまで、ざぶんざぶん、かきまぜます。みそが入りました。味見をされると、「よーし。できた!」うわあー 列にならび、タイヨウ先生が一人一人のおわんに、よそってくれます。「いただきます!」いただきまーす! 「みんなー、おかわりしていいぞー」はーい。 うん、うん。おいしいね。うん、おいしいー。コンブがとっろとろ!カブがとっろとろ!なんて、うまくできたんだろうー。うちでは食べたことがない味がするな。ほんとだね、みそ汁ってこんなにおいしいんだね。タイヨウ先生なかなかやるな。 じょう気でふっくらしているみんなの顔。まんぞくげです。どの子も、きもちよさそう。たべているときの子供らってかわいいなー。それぞれ、じぶんの席でおとなしく食べている。もう、どの席もまんべんなくあったかい。ボクは、ほこらしいきもちになりました。 2017/01/10
2021年01月24日
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人は音をもっている人は匂いをもっている人は気をもっている人は顔をもっている それぞれちがう顔かたち死んだ父の写真を持ち歩いた毎日みつづけたご飯を食べるとき寝るとき、本をよむときすっかり顔をおぼえた お父さん、と口にすればすぐに顔が浮かびあがる体じゅうに情があふれでる その人からでる声がその人からする匂いがその人だけの顔がその人だけの顔がかもしだされる雰囲気がなんとなく好きだった子はその人から生まれ出た 母のくちぐせはお父さんは上品お父さんは日本一ハンサム頬っぺたから顎のラインがお父さんにそっくりだね母がうれしそうにいうとうぜん気分がよかった きょうはお盆お父さんに手紙を書いた友だちとボーリングをしたお父さん、お願いボールを持って立つたびにお父さんに念じた 姿形をしらない神さまに天の父よと呼びかけ対話をする人々がいる 顔をくっきり思い描ける空に住む私のお父さん対話ができないわけがない お父さんはバターの匂いときにはレモン、ときにはコーヒーの匂いそばによるといい匂いがした お風呂から上がったあとお父さんの肌はピンク色いつもピカピカひかっていた寝る前は腕立て伏せをしていた 庭の雪かきをしているお父さん中学生たちが通ったおおっ、試験はうまくいったかい?しらない子たちに声をかけていた黒のニット帽の顔は笑っていた 今回ばかりは参ったよ母さんが倒れてねえんえんと、しゃべりつづけた いちばん子を頼ったとき子は仕事でヘトヘトだったもっときいてあげればよかった 話ができる時がきたこんなに遅くなってしまったけどつづきの話を聞かせてちょうだい お父さん、と口にすればすぐに顔が浮かびあがる体じゅうに情があふれでる2019/08/15
2021年01月24日
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米屋の倉庫の屋根裏部屋に、男の子アビは父さん母さんと住んでいました。 倉庫には収穫したばかりの米俵がぎっしり積まれています。アビは、その上に寝そべって、天窓を見るのが好きでした。夏の入道雲、秋の青い空、アビがうれしい時は空もうれしそうにしています。どんより灰色の空、アビの気持ちがふさいでいるときは、空の色がアビの気持ちをあらわしていました。 米屋のあるじの息子ケボにいちゃんが配達のトラックを倉庫に入れにやってきました。「ケボにいちゃん、神さまってどんな顔?」「神さまがどんな顔をしているかだって?ハッハッハッハッハ。見えないものに興味はないよ。こっちは稼ぐのに忙しいんだよ」おかず屋の老女バッパの店に、揚げたてコロッケを買いに行きました。「バッパ、神さまってどんな顔?」「何だって?いま、金銀財宝の黄金色がパァーッと思い浮かんだよ。わっはははは!」 ある日、担任の女先生が家庭訪問に来られました。屋根裏のアビの家に入るには、はしごを上らなければなりませんが、女先生のスカートは裾がすぼまっているので、上ることができませんでした。それでも女先生はちっとも嫌な顔ひとつせず、ほほえんでいました。「先生、神さまは自分に似せて人を造ったというけれど、神さまってどんな顔ですか?」「今はまだ、私にもわかりません。けれど、求めていけばきっと答はみつかると思います」 アビは大きくなって旅にでました。誰か神さまのことを知っている人がいないか、薬の行商をしながら、一軒一軒たずね歩きました。ほうぼう歩きましたが、誰も見たことがあるという人がいませんでした。通りにでると、モスクの外で敷物をしいて大きなお辞儀をしている白い服の男ばかりが十人いました。ちょうど礼拝が終わって、帰り支度を始めたので、男達に声をかけました。「神さまはどんなお顔ですか?」「アッラーのことかい?髭をはやしているのかいないのか、彫りが深いのか平たいのか、正直、見たことがないので何とも言えないよ」他の男達もみんな、首を横に振りました。 さらに歩くと隣の街で、壁に向かって唱え事をしている、黒い服を着て頭に小さな箱を乗せている男ばかりが十人いました。ラビの服装の方が現れたので、即座に尋ねました。「神さまはどんなお顔ですか?」「肌が白いのか黒いのか、目が青いのか黒いのか。さあて?かえって誰にもわからないということが幸いしているのかもしれません」 さらに次の街に入ると、教会で結婚式をしていました。ちょうど誓いの儀式を終えて群衆の喝采を浴びているところです。少しすると、礼拝堂から司祭が出て来られたので、すかさず駆け寄って尋ねました。「神さまはどんなお顔ですか?」「なんと、賢い質問をする若者よ。この道八十六年、夢にでもお目にかかったことはありません。ただ、目には見えなくとも感じることはできるのです。目に見えないというのは、実は大変いいことなのではないだろうか」 放浪の歳月が流れ、ある一日の終わりにチチキトクの知らせが届きました。紅葉が終わった十一月、雨の晩秋、ガッポの森を通って、父さんのいる病院に急ぎます。木々たちは枝葉をシズシズ揺らし、だいじょうぶよ、しっかり気をつよくもつのよ、とアビを励ましました。父さんは目を覚ますことなく、間もなく死にました。母さんが、父さんの写真を一枚くれました。アビは肌身離さず、それを持ち歩きました。朝は、父さんおはようございますと、父さんの顔を見つめてから行商にでかけました。昼は、父さんいただきますと、父さんの顔を見ながら昼めしを食べました。 夜は、父さんお休みなさいと、父さんの顔に語り掛け、少しばかり話をしてから、写真を枕元において眠りにつきました。来る日も来る日も、そのように過ごしました。行商帰りの夜空に一番星がきらりと光っていました。「父さんはすっかりお星さまになったんですね」すると、その一番星の光が父さんの笑顔に見えました。父さん、父さんの顔を思い浮かべると、愛情がいっぱいにわいてくるよ。体の底から力が湧き出してくるようだ。神さま、神さまの顔がわかれば、もっと神様に情がわくのに…。ねえ、神さま、うちの父さんは神さまじゃないけれど、神さまが誰にも見えないというなら、ぼくの神さまの顔に、父さんの顔を重ねてみてもいいですか?そのとき、雲に隠れたお月さまがサァーっと姿をあらわし、こうこうと光り輝きました。 二〇一六年五月二十二日(日)
2021年01月23日
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お父さん、このごろ私が熱中していること、知ってる?小説講座に通い始めたんだよ。ものすごく面白い。居心地いい。探していた場所みつけたってかんじ。講座が終わったあと仲間たち皆で食事に行くの。たくさん喋り合う。解散後、途中まで帰り道が一緒の四人はなかなか別れがたい。いつまででも改札前で立ち話が続く。最終電車の一つ手前の電車にやっと乗り込む。作品を見せ合う同人仲間は胸の内をさらけ出す。心にある多くの言葉をたっぷり交換し合う。お父さん、書く事はもしかすると魔法を起こすんじゃない?ここ数日かんじている。だって、お父さんのことを書いていたら、あんなに遠かったお父さんが近づいてくる感覚おぼえている。これってどういうこと?初めて書いた短編小説「ブラウンライス」、あらすじで、お父さんのことをちょっとだけ書いた。すると、そこからスラスラお父さんに話しかけているじゃない。生きている時は話が続かなかったというのに。まさか、あの世とこの世の関係になって、対話するようになるなんて、そんなことってある?ひとりこっそり可笑しい。 『勤労主婦のザックは父親が生きている間、会話が少なかったことを心残りに思っている。一緒に食べたり飲んだりしながら、もっと話がしたかった。父親亡きあと、本との出会いが、ザックをぎっしり詰まった充実の日々に導いてくれる。人と人との間に、本を挟めば、熱い会話が生まれ、人との濃い関わり合いが築けそうだ。父は空の住人であるが、体がないだけで魂は永遠、今もなお生き続けていると信じるザック。今からでも遅くはないんじゃないか。父との不足な親子の情を、今からでも埋める方法があるんじゃないのか。人が生きるとは、食べて、活動、排泄、寝て、起きる。その中には、人と人との言葉のやりとりがある。体を卒業して魂のみで生きる人と、心のやりとりをするのに、水や食物は対話のきっかけになるだろう。その次に、言葉を空に住む人たちに向けて発信し続けたらどうなるだろう。もしや届くんじゃないか。読書会の会場探しでの、木造カフェとのめぐり逢い。木の匂い、癒し。大木の懐にもぐり込んだような心地良さ。天窓のある心にくい設計空間。その天の窓に向って大きな声で朗読したら、どこからか、轟き音が聞こえてきた……』 旅立ちから半年間、お父さんの写真を持ち歩いていた。お昼もお父さんの顔を見ながらご飯を食べていたのは知っていたかな。一番ハンサムに写っているお父さんの写真をこっそり抜きとってきたんだ。お父さん、半年お父さんを見つめたら、ひとこと、お父さん、と口にすると、サァーっとお父さんのきれいな顔が浮かぶようになったんだよ。ある日の仕事帰り、空の一番星を見つけて、ああ、お父さんはお星さまになったんだねぇーっと発していた。お父さん、と呼ぶとお父さんの顔が浮かびあがってくる。体の底からいっぱいに情が湧き上がってくる。姿形を知らない神さまに向って、天の父よと呼びかけ祈りの対話をする人々がいる。それなら、お父さんの顔をくっきり浮かべることができる私が、お父さんと呼びかけて対話ができないわけがない。お父さんと私の仲はこれからなんじゃない?毎日の出来事を報告していくよ。待ち合わせはこの白いノートで。朝五時から六時まで、白い紙に一枚、言葉を打っていくよ。その後八時まで小説を書く時間にあてたいから一緒に居てくれないかなぁ。むかし夏休みの宿題で図工の本棚を手伝ってくれたように。二〇一九年 夏
2021年01月23日
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定年退職まで残り八年。その後もおそらく少ない時間で働き続けるだろう。仕事が好き。仕事は運動。健康にいい。事務の内勤だが、仕事が終わって会社を出る瞬間が特にいい。今日も一日よくやった。充実感がみちてくる。空を見上げる。朝、決まった時間に家を出る。朝日を浴びる。歩く。歩く時間は一日四十分。適度に汗をかく。その日の気温を肌で感じる。今日、何を着たらいいか。厚着が必要か。薄くしておこうか。ハクモクレンからシモクレンに変わる頃、服の厚さを朝の一瞬で決める。ヴァイオリン曲を聴きながら文庫本を広だげる。一日の供は音楽と本。カバンには水、お茶、飴。電車二十分、地下鉄十五分、バス十五分。家に帰ったらお風呂とアカスリ。湯に浸かって体を温める。アカスリ石鹸を泡立て体につける。時間を少し置いてから洗い流す。アカスリタオルを固く絞って体の垢をこする。アカスリ石鹸の効用で垢が浮き上がってくるため少ない力でボロボロ垢が出てくる。春先になったこの頃の日課だ。一日の雑多なホコリと疲れが落ちていく。ツルッツルになるのは皮膚だけではない。気力が冴え冴えとしてくる。まず、夫の足を揉む。テレビを見ながら十五分。「ふくらはぎを揉むと長生きする」本のタイトルだけみて実行するようになった。食べると力が抜けるので食べる前にアカスリ後にふくらはぎを揉む。その後ごはん。これまで夜はシャワー十五分だったが、アカスリを実行するようになった。アカスリは時間を生んでくれる。二、三時間余裕の時間を儲けた気分。韓国で手に入る。 イスラームのラマダーン(断食)をするようになって十五回目。今年二〇一九年は五月五日の新月から六月三日の新月まで。仕事が事務職のためラクにできる。一日の断食時間はおよそ午前二時くらいから夜七時くらいまで。タイムスケジュールはインターネットのサイトで情報を得る。この期間、私は体内の毒だしをする。余分な体のゴミを出し、きれいに掃除するため。その直後に健康診断を受けに行く。毒を出して健康を保とうとするため、というより何となく始めてメリットを感じ続けている。二〇一九年 春
2021年01月23日
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一日一食の一ヶ月を終えました。身体的な効果を求めてはじめたものでしたが、結果的にそれ以上に精神的に得るものが大きいという感想を持っています。年に一度の大掃除です。凝り固まった我(が)。鍋にこびりついた焦げのような強力な汚れ。鍋の場合は洗剤とタワシでこすりますが、我(が)をこそげ落とすのは大変です。終わってみて、今、それを強く感じています。16回目のラマダーンを終えました。これまでは「曙時間」から断食を開始していましたが、去年と今年は「日の出時間」から飲食を断ちました。去年そのようにした理由は、「曙時間」をネット上で探すことができなかったからでした。いつも利用していたサイトが更新されておらず、その他から探す時間の余裕がありませんでした。今年も例のサイトは更新されておらず、調べる中でムスリムの管理人さんがお亡くなりになったということをラマダーンの初日に知ることとなりました。今回は「曙時間」を他で調べることができたのですが、あえて断念しました。これまでは「曙時間」の前に水をゴクゴク飲むことが出来たのですが、今回、体が水をゴクゴク飲むことを受け付けず、ちびちびと、ある程度の水分を摂取するのに時間をかけたというのが理由です。体調と仕事に支障がでないように調整しました。私はムスリマというわけではないので、何もイスラームの正式の方法に縛られる必要はないと考えました。非ムスリマの私がすることといえば、「曙時間」「日の出時間」と「日没時間」のタイムスケジュールをインターネット上で調べ手帳に記し、それに沿って忠実に一日の断食開始と断食終了を行う、それに従うというだけのものです。今回はじめて砂漠の民はどのようにして行うのだろうかと想像しました。おそらく時計や時間表があるわけでなく、空を見ながら判断して行うのだろうなと考えました。仕事の合い間にタイピングの練習を沢山しました。聖書の内容が打てるサイトを見つけ、沢山、沢山おこない、癒されたり、力を得たり、本当に自分は何もわかっちゃいないと悔い改めさせられました。ラマダーンの終盤でこんなことがあったのです。職場で人に対し激しく、激しく葛藤するという試練に遭いました。気分を変えるためにタイピングをしました。出てくるイエスさまの御言葉が「隣人を愛し敵を憎めとあなたがたは言うが、そんなことは誰でも出来ることである。敵を愛し続けなさい」そのような御言葉を入力しながら泣けてきました。はらはら涙が出てくるのを抑えました。これからタイピングの材料となる聖書のバリエーションをもっと独自で増やして行くつもりです。去年の仕事の環境では、仕事中にタイピングの練習など絶対にできる状況にありませんでした。その恵みに対し感謝する気持ちを持つことをしないでいました。いま書きながら気づき。恵まれた職場に身を置かせて頂いているのです。そのことを神さまに感謝します。
2020年05月25日
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近頃は午前3時50分頃になると鳥の声が聞こえます。鳥の鳴き声を久しぶりに耳にしたことが新鮮でした。何年ぶりだろうかと。懐かしさと共に、日の出前に起きれば鳥の声を聴く事ができるという発見を得ました。今年のラマダーンがこれまでと違う点があります。今年2020年は4/23-5/23迄でしたので、GW+コロナ禍の臨時休業とで合計20日間も休みがあったのです。何をしたかというと、二つあります。前半が読書、後半が歌詞集づくりです。読書というのは、一人の作家の本、全41冊を読み上げるという目標が私の中にあり、ほぼ半分に到達しました。最も分厚くて頁数の多い、550頁に及ぶ長編小説の単行本があり、難儀して手をつけられないでいました。今回それを読みこなしたことから、残りがすいすい運ぶだろうと着地点が見えてきたこと、これは私の中では大きな進歩です。後半の歌詞集づくり。今年1月から韓国では「明日はミスタートロット」というサバイバル・オーディション番組が高視聴率で話題になっており、2月の始めにはYouTubeで情報を掴みました。爆発的な人気がなぜ起こったかというと、これまでヒットしたトロット歌謡曲を、参加者たちが練習に練習を重ねて、持ち歌の歌手よりもっと磨きをかけて歌ったことにあります。すでに活躍しているプロの歌手たちの多くもオーディションに挑戦したのです。そのクオリティの高さに視聴者たちに魔法がかかりました。私は韓国歌謡のカラオケサークルで4年間歌っていたのですが、興味を本当に持って歌っていたというほどではありませんでした。2月に、「ああ、とてもいいな」と歌に恋が芽生え出しました。歌詞集を作るという計画は年始めから持っており、100曲を目標に掲げていましたが、思うように進みませんでした。ラマダーンに入ってから、「明日はミスタートロット」の動画から本格的にピックアップを開始しました。まずは30曲を完成させようと下方修正しましたら、取り組みやすくなりました。曲を選び、歌詞を探し、韓国語から日本語に翻訳していきます。次に韓国語の歌詞にルビをつけていきます。自分でも歌いながら、歌詞集を活用する人が上手く歌えるようにルビは何度も何度も精査します。それをするのに30回は曲を聴いて、声を出して歌ってみて、修整を加えます。話題曲の歌詞を自然な日本語に調整しながら、ラマダーンの後半になって涙があふれてきました。韓国は「詩」の国です。一般の本はあまり売れなくとも詩集は安定した売り上げがあるといいます。その芸術の「詩」に曲がついて、歌われているのだと知りました。サバイバル・オーディションであるため、そこで味わう喜怒哀楽の涙は激しいです。勝つ者、負ける者、悔しさをバネに再チャレンジする姿に、視聴者も我が身に重ねて沢山泣きます。このラマダーン期間に思いました。人類歴史に堕落という事件がなかったとしても、創造本然の喜怒哀楽や悔しいという感情を、神さまは用意されていたのではないかと感じました。実力もあり、魅力も充分ありながら、対決においては勝ちを譲らなければならなかったり、断念せざるを得なかったり。勝負は、負ける姿も美しいと思った場面がありました。その映像の闘いの中に人生があります。またTOP7の、一人一人のWikipedia;ウィキペディアに関心を向けて見ていくと波乱万丈の苦労の物語があります。ところが、それらは全部歌で報われます。歌の表現者においては、過去における悲しかったこと、辛かったこと、体験した全てのことが歌に生かせるということに気づきます。韓国の「恨」の文化の意味が少し理解できた思いです。それらは神さまへの祈りにも通じていて、歌い込むほど、歌い手は心が洗われていくのです。そうであるため、勝利者のTOP7のメンバーたちは目の瞳に湖があるような美しさが現れています。そういうわけで、私が作りあげようとしている歌詞集は、まず日本語の「詩」の良さで大衆を惹きつけ、この言葉は韓国語ではどう表現するんだろうという興味を沸かせます。そして、一曲、歌を覚えてみようかという思いをおこさせます。「歌で習う韓国語」クラスの教室、36席が一杯に埋め尽くされたらいいなという絵を想像するのです。ラマダーンが終わりました。ああ、今年も無事に終えられて有難い。これまで、続けて来られたのは、生活が平和であったからです。ラマダーンに出会ったきっかけは、そもそも断食に関心があったからです。ヨガ、西式健康法、甲田式一日一食、「長生きするには朝食を抜きなさい」という本を見つけ、本の影響からプチ断食を体験していました。ラマダーンの断食はきっとたやすくできるだろうと、旅行記を読んですぐにやってみようと閃いたところから16年続いています。断食を通して効用を感じるのは、身体面と精神面が澄んでいくという実感です。2020/05/24(日)イード(5:00~7:00)庚子/辛巳/丁卯
2020年05月25日
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二〇一六年の四月、現時点を生きる、私の日常を、お父さんに報告したいと思います。通勤には片道で、一時間半ほどかかります。途中、会社の送迎バスに乗ります。職場に到着して、前の扉から、一番目の人が無表情に、何も言わずに降りました。その人の後ろ姿に向かって、「行ってらっしゃい」年配の、男性運転士さんが声を掛けました。次に降りようとしている私、それを受けるように、笑顔で元気に挨拶しました。「いってきまーす!」「はい、いってらっしゃい!」運転士さんの声に、いっそうの親しみがこもっていました。気分が良かったです。お父さんを見送って早五ヶ月。私は、あらゆるところでお父さんを感じ取ることができます。週五日、一日八時間、びっしり仕事をしています。過ぎ行く時間がとても早い、あっという間に夕方、夜。早く仕事が終わってくれるのは嬉しいのですが、どんどん早く年をとっていきそうです。この調子ですと、あっという間に私の一生が終わってしまいそうです。まあ、そうなんですが、仕事が好きですし、毎日充実して暮らしています。通勤時間は往復三時間もありますので、その使いみちは本を読むことと、韓国語学習。これから私、短い童話を書こうとしています。それを韓国語に翻訳したものも、同時に作っていけたらいい、そういった願望があります。 週に一度、語学の授業を受けるため、通勤時に予習と宿題をします。今週の宿題は、自分の性格を韓国語で書いて次回発表するというものです。お父さんから譲り受けた私の性格、そして体質。地味で、素朴で、勤勉。働くことが、ひとつも苦に感ずることがありません。出勤することじたいが、健康にいい運動です。喜んで、楽しみながら、働いているため、私は常に健康です。お父さんも頑健で、欠勤したことがありませんでしたね。お父さんも私も口数が少ないのですが、よく考えてみますと、これは美点でもあるのだと、最近わかってきました。お父さんが人を悪く、批判する言葉を、一度も、聞いたことがありませんから。お父さん、お父さんがあちらに行ってから、ひとつわかったことがあるんですよ。クリスチャンは、天の神様に、「天のお父様、~」と祈られます。私も、昇天したお父さんに、「ねえ、お父さん、」と常に呼びかけているでしょう。とても似ているなあ!って、思ったんです。人にとって、父親という存在は、「私だけの神様」、そういう意味なのかなあ、と思ったのです。お父さんの顔や姿の映像、それを写真だとしても目にすると、どっと情が溢れます。今回、笑顔の写真に救われました。毎日みていると、お父さんの記憶が蘇るし、それに刺激を受けて、お父さんの声も聞こえてくるようなのです。ほら、今も、キンキンとした声で、私を呼ぶ声が。その独特の話し方も、私の脳裏で、再生されるようなのです。仕事が終わって、夜空を見上げながら家路につきます。人は神様から出で、神様のところに帰っていくのだなあ。そう、感じているこの頃です。二〇一六年四月九日(土)辛酉 白木蓮・桜満開
2016年04月09日
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お父さん、相変わらずお父さんの写真をどこにでも持ち歩いている私です。まるで、恋人のようだと、お思いになりませんか?お父さん。(娘もいいものだね)にこにこしながら、そうつぶやくお父さんの声が聞こえるようです。 「死んだ人のいいところは、手を合わせると、いくらでも話ができるということです」先日みたドラマでのお坊さんのセリフで、私、それをいま実感しています。お父さんがとても近い。 最近読んだ本で、心に留まる文を目にしました。 「愛する人が亡くなったとき、生前の物質的な限界が消えて、今までよりも近くにその人を感じることがあります。場所や時の限界は乗り越えられます。亡くなった人を身近に感じることは大きな恵みです。」(『やさしさの愛につつまれて』著 バレンタイン・デ・スーザ) お父さん、人が亡くなるって、わるいものでもありませんね。いいえ、お父さんじたいが、いい亡くなり方をなさったのです。もっといえば、お父さんはいい生き方をなさったということです。十数年にわたって、妻の介護をなさったのですから。それこそ、お父さんが亡くなる寸前までです。その功績は、あちらに渡る際に優遇される好条件となったのではないか?いま書きながら、ふと、そんなことを思いました。ええ、きっとそうです。 お父さんの死をきっかけに、今まで話したことのない兄の奥さんとも話しができるようになりました。兄の住居の連帯保証人であったお父さんが亡くなったため、このたび私が引き受けることになったのです。東京に単身赴任している兄から連絡を受け、すぐに快く引き受けました。青森から手続きの書類を受け取りましたが、その中に兄の奥さんから手紙が添えてありました。嬉しかったですよ。ドキドキしました。どういう返事を書こうか、悩みました。昨夜、書類を書いて判を押しました。続いて絵葉書の裏にボールペンで簡単に書いたものを同封しました。これから午後ポストに投函します。これでよかったかな、お父さん。「お姉さんへ この度は、父のこと、母のこと、大変お世話になりました。お姉さんには、私にはとうてい出来ない、沢山の人知れない苦労を、今もなお、背負わせていることを申し訳なく思っています。誰でも、ここまでは出来ないだろうということを、お姉さんは精一杯がんばって下さいました。感謝です。兄が、お姉さんを信頼しありがたく思う気持ちと、私の気持ちは一緒です。お姉さんは大恩人。頼もしくて、機転が利いて、物事テキパキ、さらに男気があってカッコイイ! 私は本当にお姉さんに惚れ込んでしまいました。お姉さんと親しくなれて嬉しい。お姉さんがいてくれて良かった。お姉さん、あたたかくして休んでくださいね。お姉さんの愛に、ありがとうございます。」初めてお姉さんと呼んでみました。私より三歳年下なのに、しっかりしていて、お父さんも好きだったでしょう?お父さんの死後、お母さんのお世話はお姉さんが看ていました。今は施設に移っています。そのことを申し訳なさそうに書いてありましたので、様々な苦労をねぎらい、理解を示したかったのです。自分史は次の頁から開始です。二〇一六年三月十二日(癸巳)震災五年目の翌日
2016年04月08日
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私の大好きなお父さんへ八一歳のお父さんが旅立たれてから、まもなく三ヶ月が過ぎようとしています。逝ったよと、兄から知らせを受けた日から、お父さんのことを書くようになりました。親を見送るという初めての体験をして、そのことをどう受け止めていいかわからず、私はひたすら日記を書き続け、気持ちを落ちつかせてきました。お父さんはひどく無口で、私もおとなしい方で、人とうまく話せる方ではなく、それがお父さん似だということを、たった今、気づきました。お父さんと、じっくり話し込んだことは一度もありません。それほど、私たち親子はコミュニケーションが下手だったのです。私はお父さんの記憶を少しでも、とどめておきたくて、思い出したことを言葉に残しておく必要がありました。お父さん、私はお父さんとの親子関係を今からでも強めることができることを信じています。私たち親子は、言葉が少なすぎるほど、あまりにも少なかったけれど、お父さんは私を信頼してくれていたと思っています。お父さん、私はお父さんと心の絆がしっかりと結ばれていれば、絶対に幸せに生きていくことができると信じているのです。そのため、不足だった部分を修復しようと、私はあちらに住まいを変えたお父さんに、言葉をかけ続けていこうと思い立ちました。そうすると、とても気分がよくなり、気持ちが充実してきます。目頭が熱くなって、鼻の奥がツンと切なくなります。それとね、お父さんのお顔が浮かぶのです。私は、こんなにも想像力の豊かな人だったのだろうか。映像を思い浮かべるという、人に与えられた力に感動するのです。お父さんの機嫌のいいお顔が浮かびます。お父さんが集中治療室で入院している間、お父さんの写真をたくさん貰ってきたのです。その中でとてもいい表情の写真を見つけました。その写真を毎日持ち歩いていました。お昼ご飯の時も、その写真を見ながら、お父さん、と言葉をかけながら、ご飯を食べました。お父さん、私、自分史を書く会のパンフレットを見つけたとき、面白そうだと思い、一月九日(庚寅)土曜日の十三時半に足を運んでみたのです。そのとき、受付の人から言われました。「あなたが自分史を書くの?大丈夫かな」それを聞いて、年齢的に早いのかなと思いました。私が三十歳から五十歳までの間に、数えてみたら同年代の九人の知り合いが他界されました。その人たちは自分史を残されただろうかと考えたとき、残す余裕なく逝かれただろうなと思ったのです。その、一月九日の勉強会の際に、左隣に座られた、Tさんが、こう言われました。「孫に読ませるために書いている」あとになってから、その言葉を思い出して、(そうだ、私はお父さんに、娘である自分のことを、伝えるために書いたらいいんじゃないかな)そう思ったのです。お父さんは、娘である私のことを、ほんの僅かしか知らないはずだからです。二〇一六年二月八日(庚申)月曜日 青空
2016年04月08日
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「途中で辞めたら、今までの頑張りが泡となる」と言ったのはスニ・オンニですが、その言葉も、私を押し出すものがありました。*********************冬は白鳥を見られることが私の楽しみです。砂押川周辺を毎日の通勤で歩きます。白鳥の声を最近おぼえました。今日は会社が休みで、午後15時過ぎに、砂押川近くを歩いたのですが、白鳥二羽が飛ぶ姿を目撃しました。飛びながら、いい声で鳴いていました。いつもの場所に着地する姿も見ることができました。動物園では見られない光景なのです。最近、白だけでなく、グレーの白鳥も見かけます。私は、その日の白鳥の数を数え、自分で考えた白鳥占いを一人で楽しんでいます。あの、たっぷりとした大きな白い鳥!ああ、神様が、設計して創られたのだなあ!癒されますし喜びがあふれでます。二〇一六年二月一日(月)この日は休みで、十五時を目標に家事に勤しんでおりました。トイレ掃除、リビング床拭き、畳拭き、台所まわりをきれいにし、和室の電灯のカサを拭き、作業をしながら、昨日の日曜日、夫が家事を色々してくれていたことがわかりました。汚れ具合が、それほどでもなかったからです。私が語学をやりだしてから、家事がお粗末になってきました。みかねた夫が頑張り始めたのです。今月、語学教室はお休みで、静かな時を過ごしています。毎週、金曜日の休みは確保しました。また、私は今年も語学を続けるようです。「途中で辞めたら、今までの頑張りが泡となる」と言ったのはスニ・オンニですが、その言葉も、私を押し出すものがありました。語学の他に、読書会にも参加しています。母と同年代の方と週に一度、お茶をして、おしゃべりする時間も一時間半もっています。仕事は、ことばで成り立っています。言葉で生きています。聖書を週に数ページは読んでいます。心の中に、ことばが多くなりすぎないように、静寂を保とうとも努めています。マイナンバーの手続きに市役所に行ってきました。担当のお姉さんが、若い二十代の方で、ショートカット、白と紺のチェックが春らしくて、私も最近おなじような柄のシャツを買って、その日に同じ柄のものを着ていました。その職員さんが、ふわん!としている雰囲気の方で、日常の職場には居ないタイプの方でしたので、私は大変癒されたのです。語学のスケジュール表を手にして、先生との相性を考えてみました。怖い顔の先生だったらどうしよう。いろいろ悩みますが、進むしかないという結論です。なんとか、しがみついていこう。はじめて、教室に行った際のことが、私を励まします。まったく初めてなのに、教室は既に始まっており、途中の八課からの参加でした。「大丈夫、大丈夫」と周囲の声に励まされて参加したものの、真夏でしたが、冷や汗の授業でした。その夏が、暑かったのか、寒かったのか、覚えていない、そういう出発でした。その時、声をかけて下さった先生に、あとになってから、大変感謝しているのです。声をかけてもらわなければ、とうてい自分からは飛び込もうとしなかったからです。今や、語学は私の若さの秘訣です。*********************班長さん、こんばんは(^◇^)はい!いよいよ予定表が出ましたね。仙台に行く用事があり、講座スケジュール表を貰ってきました。上級1の金先生との相性も、気になります。やはり上級は金曜日の午前ですね。同じ午前に「初級1」がありました。テキストを、4F事務所で見てきました。そのテキストは、以前に購入していましたが、ほぼ手をつけていません。授業も受けていないし、独学でも、やってこなかったのです。少し、迷いました。ただ、「中級1、2」をやってきたのに、うしろに戻るなんて・・・と、さびしく思ったらどうしよう?そう思ったりもしました。また、今なら、中級2を何とか終えて、上級1に進める条件があり、勢いで進めるものを、初級1に戻ってしまったら、結局、ついに上級に行く、機会を逃してしまいました・・・上級に、行かずじまいになってしまいました・・・・・・ということは、おおいにありえることだと思ったりしました。せっかく、班長に相談でき、いいアドバイスを頂いたので、これも、何かの御縁であるから、班長の後ろをついて行くのが、いいのではないかな。というのが、夜の電車で、改めて決意を固めたものです。今日は休みで、「倉本総の富良野塾・ワークショップ」に参加してきました。無料イベントのチラシを見て、前もって予約していたものです。役者さんが行う、コミュニケーションのトレーニング及びゲーム等でした。仕事とは違った、快い疲労感。いつもとは違った筋肉を使ったという感じでした。民団、私も、引き続き、そこに通うことになります。班長は、会話クラス、なさりたかったのですね。週に2回通うのは、確かに、しんどいですけどね。料金は、二つ目の授業は、半額にしてもらえるので、やる気と、スタミナがある方は、よいのでしょうね。三連休はゆっくりもできましたし、買い物や、用事も色々こなすことができ、有意義でした。ところで、あれからミレのメルマガは、毎日、毎日、見て喜んでいる私です。ネットでは、いろいろな情報が、いっぱいあるだろうとは思うのですが、はやり、知っている方から紹介されたものとなると、食いつきが違ってきます。いやあー、班長、とっておきの情報、おしえてくれちゃって、もったいないとか、惜しいとか、思わなかったのかなあーと、思うくらい!とびきりでした。前田先生のお顔が毎日楽しみになってきますね。シャドウイングは、できそうな気がするのですが、ディクテーションとなると・・ちょっと・・聞いたものを、書くとなると・・・いいえ、弱気にならず、簡単なところから、やればいいんですよね。班長は、それらを知った時には、目からうろこだったのですね。班長は、きっと何か、大きな目標があるのですね。具体的に、こうしたい!というものが、あるのでしょうね。確かに私も、独りで学んでいるときは常に黙読でした。これからは、独りの時も声を出すこと、やってみようかなあ、班長の文を読んで、そう思いました。「話したい、聞きたい、という願望があるにもかかわらず、それを全くやってなかったのです」私も、同じだなあと思いました。私はミレで何かをつかめそうに思っています。前田さんが、「十年間、中級をやってこられた」という話、それを聞いて、本当に、こんな私が進級していいのかと、正直、おもいわずらいました。そのあと、十年、中級をやりなおせばいい、と思いなおしました。私が喜んでいることを、嬉しいと思って頂けて、感謝です。相談できる人って、なかなか、いないのですよ。なやんでいても、なかなか、話せないものです。また、話さないまま、いそがしく、時が過ぎていきます。班長は昨年多くの韓国語学習者に出会ったのですね。「いろいろ教えていただいたり、励まし合ったりしました」クラス以外の方々ともきっと、いろいろ知り合われたのですね。みなさん、どんなふうに勉強されていらっしゃるのか?私は、まず、班長が、独学で、どのように日々、励んでいらっしゃるのか?そのことに大変!興味があります。「横の繋がりが広がって、学習者交流が盛んになればいいなと思っています」そうですね。そして、私は、勉強を、ひっぱってくれる人が必要です。手助けしてくれる人を求めています。書きながら、また、モチベーションあがってきました。韓国語は、続けないといけないです私。つきあい続けて行きたいのです。離れたら、どんどん、距離ができます。そして、今回、民団を続けなければ、ことばも、どんどん、わすれてしまいます。でも、よかったです。一年、 通って、行かなかったよりはマシですが、勉強は、なんとか、ついてこられて良かった・・・くらい、なのですが、最後に班長と、深く交流できたことがよかったです。そして、このなやみごと相談が、次の上級でも、また、おつきあいが続いて行く、ということを思いますと、ああ、民団にきて、よかったなー!本当に、よかったなあ!と、大満足している私です。二月十九日は修了式に参加します。班長も参加されますよね。この一年も、またお世話になります。K************************おはようございます。いよいよ、講座のスケジュールが出ましたね。やはり上級は金曜日の午前で変わらず。なので、引き続き、そこに通うことになりそうです。会話やりたかったのですが、週に2回通うのはしんどいから、やめました。三連休ではゆっくりできましたか?あれからミレのメルマガ、楽しんでいますか?ミレでシャドウイングやディクテーションなるものを知った時には、目からうろこでした。私は、独学で、常に黙読でしたから。話したい、聞きたい、という願望があるにもかかわらず、それを全くやってなかったのです。Kさんがミレで何かを得てくださったら、嬉しいです。相談して良かったと思っていただいたことも、私も嬉しいです♪独学しているとなかなかうまくいかないこと、たくさんありますよね。みんなどんなことしているのかな?って。私は昨年多くの韓国語学習者に出会い、いろいろ教えていただいたり、励まし合ったりしました。横の繋がりが広がって、学習者交流が盛んになればいいなと思っています。お互いに頑張っていきましょうね\(^o^)/班長************************
2016年02月01日
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かつて心に思ったことが実現しました。あえて家から職場まで遠い距離の方がいい。そうしたら、本がたくさん読めていいだろうと想像していました。かつての職場に、相馬市から仙台に高速バスで通勤していた同僚がいたのです。そのとき、そう考えたことがあったのです。気がついてみたら今、往復三時間、通勤での乗車時間があるのです。本が読めます。ノートに思いつくまま文章を書き綴ったり。韓国語授業の予習も、この時間にできます。■□■ ■□■ ■□■班長さんへの手紙イ先生の教室解散後も、こうして班員の面倒を見て下さってありがとうございます。感激です!今日は仕事が休みです。今日から三連休のため、ノッビのび!しています。乗り物に乗る時間が多いといいなあ!以前、思ったことがありまして、そうしたら、いつのまにか実現しました。本がたっぷり読めます。移動時間に勉強できる、そうした確実な時間の確保、それは強み!と私も思っています。電子辞書を買ったのが、去年の今頃です。この一年間、中級二のテキストは、電車の中で、電子辞書で意味を拾って、何とか予習をして授業に参加していました。それまでは、パソコンの翻訳サイトで、韓国語で入力して、翻訳していました。PCでの韓国語入力は、割とすぐ慣れました。上級テキストは、ほぼ日本語が無いのを承知していますが、韓国語を入力して、サイトで翻訳機にかければ、文法の授業には、まあまあ、ついていく分には何とかなるのかな?という算段です。今の上級一テキストの第一課を、サークルで試しに参加したことがあるのです。あんな感じなのだろうなあと、少し想像がつく面があります。私は初級二のテキストが、完全に抜けているので、基礎がなっていない。というのは、常々感じています。ただ、なかなか、都合のいいクラスに参加できないという事情もありまして、まあ、言葉なのだし、初級も上級も関係ないのかなあ、英語が話せるアメリカ人が、頭が良くて話せているわけではないし、日本語が話せる自分が、頭が良くて日本語が話せているわけではないですから。と、自分を励ましている私です。ミレ韓国語学院を今、検索しているところです。これから登録します。また、続きをあとで書くと思います。いったん送ります。******* ******* *******班長さんへ「普段どんな勉強をしているのですか?」とのことですが、授業のテキスト予習と、無料の韓国ドラマを一日三十分。我ながら乏しい勉強量と思いますが、そういえば、最近、水曜日二十三時からのTVハングル講座を、見るようになって数回目です。今、見ているドラマは、「あの野菊の如く」一九九三年放送今から二十二年前の懐かしい時代のもので、三十分程度のホームドラマです。あと十回で終了です。さびしいです。次のドラマ見つけます。最近は、古めの年代のホームドラマが心地いいようです。動画映像はGYAO!で、無料配信されているものです。ヤフーのホームページ左脇から入れます。ところで、ミレ韓国語学院、全く知りませんでした。今、検索して登録を完了しました。メルマガ登録と、YouTube登録、これでOK!YouTubeを今、十個くらい見ました。一回が五分程度なので、続けられそうです。本当にいいですね。とても勉強になりそうだと思いました。これらの無料サービスだけでも、十分に勉強になるとわかります。教室に一つ参加していれば、それの延長線のように感じられますね。班長さんから特別待遇受けましたね、私。こんなやりとりを一年の修了後にできるということ。とっても恵みと感じています。班長さんが言われる「ミレの存在を知ってから、独学の仕方が大幅に変わりました。学校の勉強は文法を学ぶところ。自分が韓国語から離れないようにする為。」なんだか、目の覚めるような言葉です。「学校は自分が韓国語から離れないようにする為」というところに強く共感しました。私も、今回、悩んだのは、行かなくなると、「たちまち遠ざかる」というのが予測できるからです。だから私の中で、自身を説得した思考はこうでした。(ゲームのように気楽に考えよう。ボケ防止にいいというのだから、運動のつもりで何とか続けてみよう。通勤時間だけで、何とか、授業に出て、皆勤賞もらえるように、ひたすら通おう!)最後は、やらないよりマシ!というところで折り合いをつけました。毎週金曜日の一時間四十分。通わなかったとしても、だらだら過ごして終わってしまうだろう、ということを恐れました。だらだら、つまらない雑用で、その時間を過ごしてしまうことを考えたとき、後悔するのではないかということを非常に恐れました。後悔するのなら、あえて負荷をかけて、何とかしてみよう。そう、思うようになりました。最後は、班長さんのアドバイスが決定的でした。あー!相談して良かったー!と思いました。相談できるところがありませんでしたから。本当に良かったと思います。そして、こうして、書くことを通して、決意を固めることができます。対話って、大事ですね。人と人とのやりとりって重要ですね。自分の迷いを整理してくれますし、決断を導いてくれます。今、班長さんは、教室はそういうところ、と割りきって、その他でいろいろと模索しているところとのこと。いろいろ、これからも教えてくれますよね!お願いします。私も、情報提供したいと思っています。お互いに楽しく勉強していきたいです。気楽に、何とか、がんばってみたいとおもいます。よろしくお願いします。잘 부탁합니다.K■□■ ■□■ ■□■KさんへKさんは通勤中に、勉強できる時間があるのですね。それはとても強みになりますね。毎日少しずつでも、語学の勉強をすれば、必ず実になりますから。普段どんな勉強をしているのですか?ミレ韓国語学院って知っていますか?私はメルマガ登録をして、毎日メールが届くようにしています。YouTubeも登録すると、見られますので、とても勉強になります。高いですから通信教育はできないけど、この無料サービスだけでも十分に勉強になっています。ミレの存在を知ってから、独学の仕方が大幅に変わりました。学校の勉強は、文法を学ぶところ、自分が韓国語から離れないようにする為、と割りきって、その他でいろいろと模索しているところです。お互いに楽しく勉強できればいいですね。頑張りましょう~!班長
2016年01月27日
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親が亡くなった後でも親子の情は回復できる!回復できつつある…という感触を得ながら、日々書いている私です。今日は仕事が休みなので、白い面に直打(じかう)ちですが、仕事の日は移動の電車とバスの中で、ひたすらノートに書いています。お父さん!おはようございます。サダノブお父さんおはよう。私は夫と一緒になる前から両家の家系供養位牌を作って、コップに二つ水をあげていた。お墓参りのつもりだった。誰から提案されたわけでなかった。自身から出た発案だった。普通、結婚した人は嫁ぎ先のものを作るのであって、実家のものは作らないそうだ。仏壇屋さんの話では。でも、結婚してからでも実家の墓参りには行くことはあるはず。しかし、距離が遠い。実際は一生涯に何度行けるかわからない。サダノブ父がお墓を建てたけれど、最低二回は今後、行く見込みである。母と兄の葬儀の際に。(私は彼ら以上に長生きするつもりでいる。そうなるだろう。)その他は、遠方であるため、いくことがないと思われる。実際、サダノブ父の母親イトさん亡きあと、父が墓参りをしたかどうかはわからない。祖父母が眠る墓の場所もわからない。よそは知らないが、家族関係が希薄な家はそういうものかもしれない。今回、父の納骨の際、姪は参加したが、甥は参加せず。実親の納骨シーンを見るのは、生涯にわたって二度。彼らにも見せてあげたかったと思った。骨壺に入ったばかりの、あたたかい骨を、柄の長めのトング(物を挟んだりする道具)のようなもので挟んで、墓の下に直(じか)に安置した。仏さんが、初めて入る墓である。青森のこの地域の風習では、墓の下に直に安置することになっているとのこと。全てを長男である兄が恐る恐る行った。葬儀屋さんが、横から指導して下さるので安心しながら、執り行うことができる。宗派によって、こだわりが様々なのだというが、無宗教の家であれば、こだわりなく、眼鏡を入れたり、靴を入れたりしてかまいませんとのこと。私は口出しせず、見守っている立場である。結局、眼鏡は入れ、靴は入れず持ち帰った。今、思えば、眼鏡を入れる必要はなかったなあと思ってみる。しかし、その場では何も思わなかった。思う余裕はなかった。ただ、初めての行事を目の当たりにするだけで精一杯であった。このことを通して、葬儀に関することに多少の関心を持った。おそらく参加した皆がそう思ったとことと思う。私の最近の書くことといえば、父のことに関することばかり。無意識に過ごせば、日常の雑多なことに塗(まみ)れて霧散(むさん)してしまうだろうことが目にみえている。書けば、いろいろなことが蘇ってくる。何度でも同じことを繰り返し思ってみる。記憶に留めるために。そうしないと、父を失くしてしまう。父が存在しているということを意識づける必要がある。父の存在を永遠に私の中に生かすために、父についての記憶を文字にする必要がある。人が親を亡くす。これは、すばらしい体験とも言える。ひとつは親より長く、子が生きた証である。ふたつは、見えていた親が、見えなくなったということ。人は天地創造の神様から生まれ出て、期間を全うすれば、神様のもとに戻っていかれる。そういうことなのだ。本来、天国も地獄もなく、神様から始まって、神様のもとに戻るというだけのことなのだ。そんなふうに思えたのです。父母が亡くなれば、男性と女性を創造された、天の父の家に戻るだけなのだということを、思ってみたりしたのです。まだ、寝ているとき、父の夢を見たことはない。起きている時は父の映像を最近はしょっちゅう見ているし、対面しているし、父の声も聞こえます。「み・こ・ちゃん」ゆっくりとした金属音の音で、いろいろなバリエーションの呼び方で。えっ、私って、もしかして霊能者かなあ。と、思うほどです。この人間に備わった想像力の緻密さ。みごとです。会いたいときにいつでも会えるのです。父が生存している時より、よっぽど近い。よっぽど親しみ深く気持ちが通い合えていると感じます。私は思うのです。この体験を通して、神様と親密になっていく秘訣を学んでいるのだなあと。たとえば、朝おきて、一番に「神様おはようございます」と言ったらいいそうですが、「お父さんおはようございます」と、なかなかできないものです。できないなあ。と、ある日おもったのです。朝おきた際に父のことは忘れています。意識は、(寒いなあ。もうちょっと布団の中であったまっていたいなあ。寒いからトイレ行くのも面倒だなあ。でも、もう起きないわけにもいかないなあ。)起きたら、一番に、夫の麦茶をペットボトルに入れます。昨日の朝からカムカム鍋に水出し麦茶を水で作っておいたものを、小さな急須に汲んで、ペットボトルの口に入れていきます。それを二本つくります。夫は他の飲み物には興味がなく麦茶しか飲まないのです。その作業で、目が覚めます。そろそろと、意識が起き上がって、(ああ、そういえばお父さん)と意識して、父の顔を思い浮かべます。ここまで書いていて、気づきがありました。本当はこうしたら、いいのではないかと思いました。朝おきたら、「神様おはようございます」と笑顔であいさつ。続いて、「アキラお父さんおはようございます」笑顔。続いて、「サダノブお父さんおはようございます」笑顔。これで、朝の挨拶は完璧です。その挨拶で、ぱっと意識を覚醒して、神様に初水をふたつ。おとうさん神様にひとつ。おかあさん神様にひとつ。続いて、アキラお父さんにお水を「どうぞ」、続いて、サダノブお父さんにお水を汲んで「どうぞ」。これで、朝の水のお供えは完璧です。全くできていません。私。震災のときに、水のお供えをコップでしていましたが、それが、こぼれて、ということがあってから、ガラスの瓶に汲んで蓋をしたままお供えしていましたが、それが習慣化していました。そろそろ、これらを改善しなければならないようです。私はいま、書くという供養をしています。ただ、白い面に向かっているだけなのですが、書きながら、いろいろ自分の問題点を教えてもらうのです。こういうことが起こるから、気づきが与えられるから、私は書くことが好きなのだと思います。アキラお父さん、最近、アキラ氏には済まないと思っています。夫の父親のことですが。夫には父の記憶があまりないのです。中学一年の時に亡くなったからです。家での闘病生活もあり、入院生活もあったため、父は息子が見舞いに来ることを好まなかったのです。これまでは、ふたりの父親と私は距離が遠かったのです。最近、私の父が亡くなったということがあり、私の意識は、実父に大半が注がれています。そのことで、アキラ父が寂しく思っているだろうなと感ずるのです。でも、少し、堪(こら)えてください。もともと、実親との縁の薄い私が、今、親との情を濃く煮詰めようとしています。濃いエキスの情を回復しようとしています。それが、出来てこそ、舅に真に仕えることができるのだと思っているのです。対面したことのない夫の父を真に愛することができるのだと思っているのです。ちょっと目頭が熱くなってきています。人が亡くなったあとのこと。私、興味があります。昔から興味をもっていました。私は尼さんになりたいとおもったことがあります。頭を丸めて出家したいと発想したことがあります。どうして、そうならなかったかというと、どう、そうなる方法があるか、わからなかったし、あてもなかったからです。情報がなかったからです。それでも、なりゆきで、流れ流れ、いま、私は、こうして、ここにたどり着き、ここに生存しています。まるで、ここは、昔、ジャズ喫茶に置かれていたノートのようです。三十年以上も前のことです。ノートに、書いたのは一回か二回なのですが、東京に住んでいたとき、休みの日に行くわけなのですが、今も、仕事の休みにここに来て、書いています。BGMはいつもヒーリング音楽ですが、音楽を聴きながら、とにかく指先を動かしつつ、日ごろは職場のマシーンになっている自分が、巨大なマシーンの部品の一部になっている自分が、ここで人間性を回復する必要があるためなのです。私がこれからしたいことは、そういうことなんじゃないかな。亡くなった人たちをお世話して、そして、生きている自分は、どうすることが最善なのかを考えていくこと。なんだか、光が差し込んできたようです。なんだか、私の事業をうまくまわしていけそうです。二〇一六年一月二十七日(水)戊申
2016年01月27日
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どことなく、その人は、私の母に似ています。私はその人を見れば、母に思いを馳せることができます。母の五十代を想像することができます。その人とは、友達エミちゃん。エミちゃんの、お母さんの写真を見せてもらいました。エミちゃんはお母さんが亡くなるまで十年に及ぶ介護をして来られました。エミちゃんって、立派な方でしょう。お母さんという方は、優しい娘さんを持たれて幸せでした。ああ、この娘を生んで本当に良かった。幾度となく、そう思われた場面があったことでしょう。エミちゃんの話から学んだことがありました。エミちゃんのお母さんは冬になくなりました。墓守の立場にあるエミちゃんの家には先祖の墓がすでにありました。エミちゃんは、お骨になったお母さんをすぐにお墓には埋葬なさいませんでした。どうしてかと聞くと、「だって、こんな寒いところに、お母さんを置けない。お母さんが可哀そうだ。」そう言われるのです。ああ、そうだったのか。なぞが解けたんです。青森三内墓地で葬儀屋さんが説明されました。「十二月に亡くなった人は、すぐにはお墓に入れないんです。年内は十一月までの人しか入れません。それ以降の人は、雪が解けてからとなります。」ええっ、何故なんですか?雪かきすれば、問題ないのに。その間、お骨はどうするんですか?困りますよね。私と兄夫婦は、そういう質問をしました。いやあ、何故と言われましてもねえ。決まりなものですから。ああ、そうですか。私たちは、十一月で良かったねえ、しみじみ言い合いました。エミちゃんの発言を耳にして、それが、その決まりの、何故に対する回答であるとわかりました。火葬で焼かれるのも嫌で、嫌でたまらなかったと言います。父が亡くなってから、遺体は棺に入れられて葬儀会場に移されました。十一月十二日(木)亡くなったその日のうちに。棺に父を入れる際、業者の人と共に一緒に手伝ったのだと、兄が言っていました。葬儀会場(○甲造花店)に安置された棺。そこから数日を経た十一月十五日(日)の朝、最後のお別れの挨拶をしました。その前に葬儀者の人が袋に何かを回収していました。ああ、保冷材だろうか。冷たかったね。お父さん。仕方ないのだね。エミちゃんだったら、何て言うのかな。今度、聞いてみよう。 夏でなくて良かったね。お父さん。晩秋のいい季節で良かった。ほんとうに良かった。葬儀者の人が、袋に何かを棺の中から、回収して、やっと、「どうぞ」と棺に、近づくことが許されました。棺の中に、花をさし入れました。茎を短く切った菊、グラジオラス、スイートピー、蘭など。そのあと、父が生前に着用した背広とズボンを整えて形づくりました。白装束を着た父の遺体の上に、着ているように、業者の人の慣れた手つきで整えました。棺桶は業者の車に乗せられました。「その車に乗れるのは一人だけなのだって。わたしが乗るね」兄が私に言いました。「はい」「おう。二人乗ってもいいって。妹も一緒に乗ってもいいかって聞いたら、いいって言われたよ。」 ほんとう?よかった。お父さん、いよいよ、ですね。斎場に到着するまで、わたしは努めて明るい顔でいようと、静かに微笑んでいました。「わたしのときは、水仙の花を入れて欲しいなあ」兄が突然いいだした。へえー、意外。お兄ちゃんって水仙の花が好きだったの?初めて知りました。「何か思い入れでもある花なの?」「まあね。」「水仙の季節だったらいいね。」「うーん。」ふーん。深くは聞かず。覚えておこう。こんな時、あまり、何故、何故って聞いちゃいけないだろう。静かに記憶に留めておこう。私たちは、父に語り掛けるように、思い出話をかき集めて、何かと話をし続けた。私は、この先、母、兄を見送る日も来るのだなと、わずかに今、思ってみる。「お兄ちゃん、私、百まで生きる気でいるから、お兄ちゃんは私の葬式に参加することは、まずないと思う。私ね、健康診断、毎年、オールAワンだから」「おお。そうか。わかった。わかった。」わりかし、信じてくれているような、返答の仕方だった。疎遠だった兄との二十年。あっという間に過ぎ去った。仕事をするようになってから、過ぎ去る速度が速い。おそろしく早い。■二〇一六年一月十八日(己亥)暴風雨
2016年01月18日
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今朝、夫が出勤する際、玄関の外は荒れ狂っていた。その空を目にして、今日が休みであることを、どれほど喜んだことか。トクした気分だった。大変なのは、出勤途中だけのことであって、会社に入れば、九時間、外の天気など関係なしに時間は過ぎてゆく。だが、こうして家に籠っていられることを、ありがたく思えた。近頃は、出勤途中の乗車中に、ノートにシコシコ、シャーペンで書いています。読み直すときに、赤を入れたり、青で書き足したり、いろいろしています。その書きなぐった文字をWordに書き写します。けっこう時間がとられるので、普段はなかなか出来ません。今日、休みの日、非常にその作業が捗っています。今は、私にとって、偏印の月であり、偏印の日だからです。それは、私にとって、「書きなさい」という意味の日です。ああ、だから、エミちゃんと親しくなったのだな。エミちゃんは偏印の女性だからね。彼女が、「お母さんが大好き」と、言うとき、私は気分がよくなります。こちらの方に、その思いが乗り移ってくるように感じられるからです。ああ、母のこと、一つとっても、かくことはありあまるほどです。お母さん、昔、私によく言っていたよね。「お兄ちゃんは言うことをきかないから本当はあまり可愛くない。やっぱり○○ちゃんが一番かわいい」 お兄ちゃんが、結婚する前、私よく、お兄ちゃんのアパートに掃除に行って、お小遣い貰ったりしていたでしょ。その時、お母さんが、何回も私にこう言っていた、っていう話をしたの。 お兄ちゃんが、「それは違う」「ほんとは違うんだよ」って譲らないの。 「ううん、それが、そうじゃないんだってば。お兄ちゃんは、そう思っているかもしれないけれど、本当は違うの。一番は私らしいよ。だって、何回も、何回も聞いたもん私。」 「それがサ、だから、ちがうんだって」 言い合いになって、結局、お兄ちゃんは、私が言っていることを理解できなくて、さらさら認めようとしなかったの。 母が、にやにやしている。 「ごめーん。ほんとうのことを言うと、お兄さんが一番なんだよおー。ごめんねー。わかってねえー。 女の人はみんな、そうだと思う。初めての子供だからねえ。生み終わったあと、ああ、私は○○さんの子供を生んであげたんだぞー。なんとも、いえない達成感があってねえ。初めての子供というのは特別なんだよぉー。ほら、○○ちゃんの時は、二回目だからね。 もう経験があるから、生むときは、だいたい、こんなもんだなあって、わかっているからね。」その話を聞いたのは、父の葬儀と納骨が終わって、翌朝、仙台に帰るという夜更け頃のことだった。いったん二人は寝たあと、もっと話したくなって、私が起きだして、ベッドの母の枕元に寄り添って小声で話しをし出した時のこと。私は感慨ぶかげに受け止めていた。別段、ショックとか、さびしいとか、何とも思わない。ああ、そういうものかもしれないなあ。なるほどね。そうなのね。なーんだ、そうだったのかって。母は私を信頼して、本当のことを、おしえてくれようとしているのだなあ。今そう思いながら書いている。本当のことを言ったからと言って、この子供は気を悪くなどしない。そう、わかっていたと思う。この年になって、母から、「お兄ちゃんより、○○ちゃんが可愛い。○○ちゃんが一番。」と言われても困るし、かえって気持ちわるい。私は、母の言葉に満足した。ああ、女の人はそういうものなのだ。時々、そうでないという場合もあるだろうが、おおむね、そういうものなのだと、母は言いたかったのだ。そして、先も長くないだろうから、本音を伝えておきたかったのだと思う。母は年をとってから、何でも正直に話したがるところがあるようだ。きっとそのために、言葉で損することが多々あるのではないかと心配する。今回、私が、それを受けとめられるほど、成長していることを、見て取ったのだと思われる。ああ、お母さんは、それほど、勘のいい人だってこと、わからないで、きました。傷つきやすく、悲観しやすい。人の本心が読み取れてしまうのだろうから、なおさら卑屈になりやすいのではないかと案ずる。妙なプライドが邪魔して、それが、かえって厄介だったのだろう。今の私には夫がある。夫ひとりの中に、父があり、母があり、兄がある。もう、親の甘い言葉は要らない。愛が自立したのです。もう、こんなところにまで来たのです。翌朝、兄が私を車で見送りがてら、途中、公園を散歩した。そのとき、夕べのこの話を、兄に話して聞かせた。「そんなふうに、わざわざ言わなくてもいいのにね」おまえ、そんなこと言われて可哀そうだったね。なんだってまた、たまにしか会えない、娘の気持ちを下げるような、余計なことを言うのだろうね、まったくさ。というふうでした。母の言葉は、それが全てではないということを私は知っています。それは断片的なひとかけらの言葉だということを知っています。一番目が生まれた感激を母は抑揚をつけて、楽しそうに話して聞かせる。それは、もう何遍も。また、二番目が生まれたとき、それが初めての女の子で、赤い肌の赤ちゃんだったから、きっと色白の可愛い女の子になるぞと、母が大好きなフランス人形を見つめるように、夢を見たのだろうと思われる。その話も何遍も聞かされて育ってきた。その喜びようが、もう、うれしくて、うれしくて、と生き生きした調子で話す母親の十八番の物語である。それもまた、事実であっただろう。そういう母が、この地に生存しているという事実。私は、今、母を意識して毎日を生きていこうとしています。■二〇一六年一月十八日(己亥)暴風雨
2016年01月18日
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E女史へ今日は早起きして返信しようと、朝五時五分にアラームをセットしました。四時五十九分に目を覚ましました。アラーム音を聞く前に目覚めたい。と、想念で意識しましたら、本当にそれが実現します。私を応援する守護霊スタッフが、マネージャーのように、援助してくれている!そう感じます。・・ありがとう・・心で言ってみます。朝、体が温まった状態で、スッキリ起きられるように、できる秘訣がわかってきました。テレビの時計が零時になったら、サッ!とスイッチを消して、電灯を消して、布団に入る。寝袋に入った状態で、その上に毛布と布団をかけて寝ると、起きるときに、体がポカポカして、起き上がるのがラクラクできます。二十四時に寝て、朝五時に起きる。毎日、移動の電車やバスの中でノートに書いています。無駄なことも、とにかく、たくさん、おもいつくままに書いています。書いているうちに、本のコンセプトや、スジが、見いだせてくる気配を感じ取ります。父へ話しかけるスタイル。父へ手紙を書いている娘の、日々を歩んでいるさま。おとうさん、という呼びかけ。これは、信仰者が、「主よ」「天のお父様」と、祈るときに呼びかけるのに通じていると感じている。八十歳のNヒサエさんはクリスチャンで、週に三度も朝七時からのミサに通われているといいます。どのように祈っていらっしゃるのですか?と、お聞きしたところ、「祈る方法なんてとくにないわよ。思ったことを、そのままお話しするように言葉にすればいいだけよ」とおっしゃいました。十二月はNヒサエさんの援助を頂きまして、朝七時から三十分だけの、ミサに三度、足を運ばせていただきました。W・K先生の研修会では、「静かな時間を過ごす」ということを学びました。父の葬儀のあと、それをどう受け止めたらいいのか、受容するための時間が必要でした。ただ、静かに過ごすというケアの時間が必要でした。W・K先生の研修会に参加する条件がありました。「肉親の死が六か月以内でないこと」送られてきた資料に注意書きがありました。父の死の知らせを受けて、Kテイ子さんにメールしました。すぐにお電話を頂きまして、「いつ、お亡くなりになったの?」「今日です」「そうでしたか・・・。それで、あなたはどうしたいの?」「私は、むしろこういうことがあったからこそ、参加したい気持ちが強くなりました」Kテイ子さんの配慮で、参加してもよいことになりました。肉親の死を体験した直後に参加すると、感情が高ぶって、大変になる人がいるのだそうです。「あなたは大丈夫そうだから参加してもいいですよ」と、言って頂きました。前もって、有給休暇を二日間とっていたので、無駄にならずに助かりました。そこで、自由参加のミサを体験しました。隣席のNヒサエさんとの出会いがありました。ミサに数回参加し、母親と同年うまれのNヒサエさんと話すことによって、気持ちの繊維を落ち着かせることができたと感じています。Nヒサエさんの通っているカトリック教会は未信者に対しても、特別待遇もなければ、よそよそしくもされず、ふつうに、ごく普通に対応してくださいます。自由なきもちで、静かな時間を過ごしに行くことができます。その教会は、十年前に勤めていた会社の通勤途中にある教会でした。職場の同僚の一人がそこに通っているようでした。博多人形のような肌がすべすべのお嬢様ふうの、しっとりした方でした。建築がモダンなつくりで、外観が美しい教会です。韓国ドラマのように、自由に出入りできるようだったらいいのに、十年前に、そう思ったことがある場所でした。わずかに思ったことが、こうして実現します。朝、五時に起きる目標をたて、できれば、アラーム音を聞かずに目覚めたいそう願ったら、それが、そのとおりに実現しました。博多人形のような元同僚の女性とは、連絡先もわかりませんが、瞑想のサークルを仲間と作ろうとしている一度だけ、帰り道が一緒だったことがあったとき、その方が、そのようなことを話していました。お茶でたとえると、その方はミルクティーのような方です。ミルクでコトコト、弱火で煮出して作る紅茶のような方。また、会うことがあればいいな・・・そう、思っているところですから、きっと、そのうち、顔を合わせることが、あるのではないかと、思っているところです。朝五時に起きて、九時に出勤します。それまでの時間はたっぷり四時間にもなる、いま、その事実に気づきました。充分、本にすることができる。本をあつらえる時間はある。日々、私は出勤途中に書いています。行き返りの通勤電車とバスに乗っている時間が三時間あります。どれだけ活用できるかわかりません。昨年一年間に、その時間の活用で、韓国語授業を受けるための予習にあてたほか、たくさんの本を読むことができました。最近はお正月休みで、三週にわたって韓国語授業が休みでした。本読みも、このところ、セーブしています。それで、最近、乗り物に乗車中は、「ノートに書く」ということに熱中しています。書く内容は、スピリチュアル系に決まったので、読みものは、それに関連したものに的を絞ることにしました。とりあえず、本を開いて一、二ページを読み、何か、書きたいことが起こると、サッと、ノートを取り出します。ところで、E女史お勧めの本、「ブッダの幸せの瞑想」読み通しました。繰り返し読む本に適していると思われます。言葉だけで、一度で、簡単に理解できないので。一回目は、感覚的にとらえました。内容は、サーっと肌感覚で、わかる程度の理解です。二回目、三回目と、間隔をあけて、読み返して、少しずつ、理解を深めていける、そんな本だと思います。一つ、わかったことがあります。仕事が瞑想だということ。日々の仕事の仕方がわかってきました。ああ、これは呼吸法をしているのだなあ。仕事じたいが、瞑想なのだなあ。トレーニングをしているのだなあ。想念の運動をしており、そこで、思いの筋肉を動かし、試運転をしている。本当に何かしたいことをするための、日々のトレーニングで、使いたいときに、さっと使えるように、筋力を保持しているのだ。なぜ?私は、ナマものだからです。生きている人だからです。W・K先生の研修会で、ICUの集中治療室に入院していた六十代の方が、奇跡的に生還されました。その方が、言われた一言、「人生は無駄なことが一つもないっていうこと」確信ありげに、断言されました。重く気持ちに響いてきました。普通の元気な方が言われたとしても、ああ、まあ、そうなのだろうな、と思う程度ですが、その方は、生死の境目から生還されて、退院してから、その日はじめて外出したのだと言われました。どれほど、重みのある言葉でしょうか。私は無駄なことをたくさん、書いています。これからも、無駄だろうな、捨てられるだろうな、いや、自分が後に、カットする部分になるだろうな、と思われる言葉を、だらだら、書き続けます。それでも、よいのです。山ほど、そうした文章も、とりあえず、書いて、書いて、書きなぐって、ノートを何冊も、何冊も、書きつぶして、その中に砂金のような、言葉が、ちょこちょこ、抽出できれば、それでいいのだ。それでいい。このようにして、自身を励ましつつ、歩んでいる私です。E女史、いつも、メールを下さる際、心を集めて、気持ちを盛って、文に注がれるなあ。感心しながら、いつも拝見しております。E女史の存在じたいに、ありがとうございます。 K
2016年01月15日
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サダノブ父さん、去年までは、抹茶入り玄米茶を愛飲していたのですが、お父さんのお茶を持ち帰ってから、緑茶が飲みたくなってきたので、今日、作文教室の帰りに買ってきたのですよ。もう、なんか、だめ。玄米茶も、紅茶も、フィットしないのです。こまったな。お父さんの影響だな。 お父さん、何でもいいから、お茶を飲みながら、お父さんに話をし続けたいのです。 どんな話題でも、続けたいのです。お父さん、お母さんの施設が、近くにあれば、私、休みの日は必ず行っちゃうな。お母さんは、一方的にでも、話し続けてくれると思う。施設では、友達が出来たかな。はじめ、仲良くなっても、付き合いが続くうちに、不和になったり、気まずくなったり、そんなこともあるでしょうね。お母さんのことは、お兄さんが言うように、お姉さんにお任せするしかないです。そして、天のお父さんに、お頼みしよう。近くに母と同年代の方々が、私の親代わりとなって、私の精神のバランスを安定させてくれるのでしょう。お父さん、話題その一。今日のこと話しますね。今日はね、シニアのイベントに行ってきたのですよ。七十代くらいの方々が多かったようです。大きな四角いテーブルに、テーブルクロスをかけて、総計九人が参加されました。皆さん、ご自分で書いた原稿二、三枚程度をコピーして、配ってくださり、朗読されるんですよ。お父さん、私が、そこで、朗読するとしたら、「お父さんへの手紙」ですね。これしかないですね。(笑)今年一年のテーマは「お父さん」です。お父さんを意識しているとね、お父さんのお顔が浮かぶんですよ。そのお父さんのお顔を、上手に浮かべられるのですよ。なぜって、お父さんの写真の全てを、片づけの際、私がごっそり、貰ってきたからです。お父さんの十九歳の時のお顔が特に好きです。思い浮かべながらね、あれっ、誰かに似ているんじゃない?なんか、親しみを覚えるお顔です。ふふふ、毎日、ときどき、鏡でみる、自分の顔に、似ている・・・と、気づいたのです。お父さん、私が、お父さんと、もっと、こう過ごしたかったな・・・という思いは何かというと、お茶とお菓子を一緒に食べながら、定期的な時間を、もっと過ごしたかったということなんです。でも、それって、やっぱり、無理だったかもしれないって、そんなふうにも思うのです。だって、お父さんって、ほとんどしゃべらないでしょう。だから、いま、そういう時間がやってきたのだなって、私、そう思うことにします。それでも、穴は十分に埋められます。お父さんとの関係は、今からでも遅くないです。作文教室のエレベーターで、隣の席の方と一緒になりまして、途中まで数分歩く間に、少しお話しをしてお別れしました。さようならの挨拶のときに、「続けて通ってくださいね」と、言って頂きました。「はい」と、言ってみましたが・・・。そのあと、やっぱり、無理、と思っていました。でも、今、書きながら、とりあえず、行ってみても、まあ、いいかなあ。くらいの気持ちになってきました。今日の買い物を報告します。●ロング黒太ゴム・綿手ぬい黒糸・黄色BIGバック・すりゴマ黒・すりゴマ白・煎茶・抹茶入り玄米茶・保湿ジェル・ボディークリーム(ダイソー)●NEW辛ラーメン(KALDI)●キャベツ(市場)●ハンドフリーイヤホンマイク(ヨドバシカメラ)商品券で買いました。次回は十四日(木)にSDカードを買いに行きます。●焼き芋(生協)●七味唐辛子・パン・わかめ・チョコパイ・ワダカン昆布つゆ・永谷園さけ茶づけ・ポッカコーンスープ(イオンビック)商品券で買いました。この夜、夫Aさんがラーメン食べようよと言うので、ワカメとキャベツを煮込み、炊いておいた「黒豆・小豆入り玄米八穀ご飯」も鍋に入れて食べました。お休みの今日、電気釜を七時間保温にして作った甘酒も頂きました。Aさんが買ってきた厚焼きピーナッツクッキータイプ南部煎餅を食べました。Aさんに紅茶を入れました。焼き芋一緒に食べようよと、テーブルに誘いました。私が休みの日、Aさんと一緒にお茶とお菓子を食べる、一緒に食べるって、大事なことだったのだなあと思いながら。お父さん、食べるっていうことは、生きているってことでしょう。お父さんは倒れてから、一度も自分で噛んでも物を食べることが出来なかったから。お父さん、書きながら、充実してきました。私はお父さんと、こうして、交流しています。そして、気づきも興るのです。だって、Aさんって、お父さんに似ている人だからです。四柱推命教室に通っていた、二十年前、先生が、「夫婦の命式を書いたものを机の上に出してみて」と言われました。机を先生が見て歩いて回りました。「あんた、いい旦那、めっけたねえ。だいじになさいなよー」それは先生の授業にも出てくる、結婚が難しいタイプの私の命式と同じ例をあげて、このタイプの人がうまく結婚生活をしていくには、次のタイプ例の人しかいないという授業でした。私とAさんは、その授業の例そのものカップルなのですが、Aさんと、サダノブ父さんが、おんなじタイプなのです。私はそういう授業をたまため受けたから、夫の価値がよくわかる。夫を大事にせざるを得ない。その効果も手伝って、私は夫がどんどん好きになっていくのです。お父さん、それならば、私にとって、お父さんは、最高の父と娘の組み合わせ親子ではありませんか。お父さん。ああ、気持ちが高揚してきました。お父さんにとってより、私にとって、ありがたい、お父さんの存在なのです。お父さん、友達になった、職場の友達に、「ねえ、○○ちゃんのお父さんは何歳で亡くなくなったの?」不用意な質問をしてしまいました。「私ね、一度も会ったことがないの」という返事が返ってきたのです。彼女は、そのあと、非常に沈んだのです。「複雑な事情のあるウチなの」難しい顔色になり、動揺しているのが見てとれました。ああ、とりかえしのつかない、言葉で人を傷つけてしまいました私。その方は、私よりも年上の方ですから、やはり、その方のお父さんという方は、霊界にいらっしゃるのだと思うのです。サダノブ父さん、もし、あちらで、お会いするようなことがあったら、声をかけてみてもらえないですか。きっと、その方も、複雑な気持ちを持ち続けていらっしゃると思いますから。もし、そういう機会があればですが、ああ、友達なくしたかもしれないな、と思っています。仕方ないです。でも、静かに、その方の心の痛みを、思いやっていきたいと思います。お父さん、毎日、夜二十一時半とかに家に帰るでしょう。夜空に星を見るわけです。ウチのお父さんは星になったのだなあって、いちばん光を放つ、星を見て、思うのです。お父さん、神様に祈るって、こんなかんじかなあ。もう、寝なくちゃいけない。朝、早く起きて、洗濯をしないといけないので。では、お父さん、またね。また、一緒に、お茶しようね。おやすみ。
2016年01月09日
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E女史への手紙昨年は大変お世話になりました。今後、私の仕事休みの日程もあとで報告します。何かあれば声をかけて頂きたいと思いまして。変更予定のおしらせでも、なんでも。「体調わるくて倒れているから、ご飯つくりにきて」と連絡きたら、とんでいきます。E女史のところの書生のような気持ちでいます。Fまさ子画伯が来仙されましたとき、「彼女、手伝ってくれて、うんと助かるの」と私を紹介してくださり、画伯が「あなたの人徳よ」というやりとりを、なさっている間、私はこんなことを考えていました。E女史のこと、「老後のお世話もしてさしあげたい」私の心が、そのようにつぶやいていました。E女史、昨日も、E女史のことを思ってノートに書いていました。あと十年したら私は○三歳です。E女史は○七歳!そのように考えましたとき、私が出会っているE女史は、今が一番若いということです。E女史の、その気迫、その凄み、迫力。永遠に、いつでも、会えるというわけではなく、いつでも、手に入るわけでなく、今だけの、貴重なE女史の口から出てくる言葉だと感じたのです。そう思いましたとき、「今のE女史を、つかまえておかないといけない」そう、考えたわけです。E女史と私がコラボして、一冊の本づくりを仕上げるというのは、今だけしか、できないものを、形にするということなのだと、非常に重厚に考えさせられたわけです。今のE女史、非常にかっこいいです。E女史が私の目標です。最近、書くことが楽しくなってきました。E女史と出会ってから半年です。今までで一番、調子づいてきたな、波に乗ってきたな、いいものが書けるのではないかな…という兆し。書いていて予感だけは手ごたえを感じているこの頃です。ところで、E女史から頂いた、ブーツ風ふくらはぎウォーマーのクリスマスプレゼント!ありがとうございました。毎日、九時間、着装しています。穿(は)くとき、「本づくり!いいものできる!」と気合をいれて穿きます。毎日、身に着けることが、本づくりの意識づけとなっています。E女史、こちらこそ、今年もどうぞよろしくお願いいたします。■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■ □□□ ■■■E女史からのメールKさま昨年は、いっぱい優しいお心遣いを頂きありがとうございます。お父様は、お嬢さんのことを、黄泉の国から見守ってくださっているのでしょうね。ご自分の想いを、どのような言葉に表現されるのか楽しみにしております。さて、北朝鮮には困ったものですね。早く、お好きな珈琲を飲ませてあげたいと思いつつ、心配しております。明日八日(金)は、本業のご年始のため午前中市外に出ます。午後まで戻れるか?です。間に合うときは、携帯にメールを入れますね。 どうぞよろしくお願い致 します。 E
2016年01月09日
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2016/01/04神様 おはようございます。今日は洋子さんが旅立って、一周年記念です。ああ、知らぬまに、父の四十九日が昨年12月30日で終わっていました。父は、その期間、耐えがたき期間を過ごしたのでしょうか。いまは、落ち着くべきところに、おちつかれたでしょうか?昨日まで六連勤で働いていました。年末年始を。神様、神様のことを、お父さんって、呼んでもいいですか?うちのサダノブお父さんと、神様を重ねて呼んでみてもいいですか?いいですよね。そうしたら、私が出そうとしている「私の大好きなお父さん」というタイトルも重厚な意味が増して、私はうれしいです。E女史が、「これしかないねって思ったのよ。出す本に、自分のことを書いてどうするのよ。私の大好きなお父さんって、なかなか、言ってもらえないよ。お父さん喜ぶと思う。一周忌に集まる人に配ったらいいじゃない」いいえ、配りません。そうはしないけど、そもそも、一周忌など、やりませんし。高齢の父の兄弟の多くは亡くなっており、生きている人たちもヨボヨボで、読もうとするような、そもそも、そんな近しい距離にもないのです。大人になってから、じっくり、一人ひとりの方々と、お話しをしたこともありません。父が倒れてから逝かれるまでの二週間ほどの期間。母と沢山おしゃべりが出来たことは私にとって有意義でした。母はかわいらしいお顔つきになっており、どれだけでもしゃべり続けられるというほど、言葉が豊富でした。施設に入られた母。距離が近ければ、定期的に通っていることでしょう。ミチコ叔母が逝かれるときには、兄が教えてくれたらいいです。そうしたら、親戚の方々ともお会いでき、その帰りに母の施設に寄ることも出来るでしょう。お父さん、天のお父さん、私の父のこと、よろしく頼みます。そうだ、天のお父さんに、お頼みすればいいんだ。サダノブ父さんのこと。ピアノ音を聞きながら書いています。お父さん、今日は休みなんですよ。久々の休みで、生き返るようです。私の全身の細胞のひとつひとつが。仕事の時は、私がオフとなり、全部がマシン化します。そうだ、お父さん、最近私が読んだ本をお話ししますね。お父さん、生きている間、会話が少なかった私たち。私が話したいことは、他愛もないことです。本の話をしたら、いくらでも、会話が続きますし、お茶やお菓子も、楽しくなりますよね。『ブッダの幸せな瞑想』マインドフルネスを生きる―― ティク・ナット・ハンが伝える プラムヴィレッジの実践[第二版]著:ティク・ナット・ハン 刊:サンガ定期的に読書会があるって、いいでしょう。お茶とお菓子を挟んで。私の読書を語り合える場。上の本はE女史が薦めて下さり、貸してくださいました。仕事をしている時間が、瞑想だと思えるようになりました。一日八時間拘束されています。間にプラス一時間の昼休憩があります。トイレ休憩は八時間のうち二十五分まで時間を頂いています。不自由そうだと思われますか?いいえ、そのような規制が、健康にも良い影響を与えて下さっています。昼休憩にこれまでは、ほぼ食べなかったのに、最近はちょこちょこ食べているんですよ。友達ができました。エミちゃん。一つ年上の方です。もう一年も前から研修が一緒で、席が隣ということから、ちょこちょこ話はしていたのでしたが、サダノブ父さんが亡くなってから、沢山話をするようになりました。エミちゃんは母親を十年にわたり介護してこられた方です。八十歳で亡くなったんですって。昨日、聞きました。エミちゃんは、話はじめると、途切れなく話し続けられます。私が途中、口を挟みたいので、話が途切れそうな息継ぎの間を常に狙っていますが、なかなか間が出来ない。ですが、話は面白いし、絵に浮かぶようなので、それを伝えました。「そう?私の話って絵に浮かぶようなの?」そうです。ですから、書くことを薦めてみました。私は書く仲間を求めています。書いたものを見せ合いたいのです。神様、さきほど、フシミさんから家の電話に連絡を頂きました。家の管理が大変なので、マンションを買おうかなと言っていました。エミちゃんと似ているタイプと今わかりました。続
2016年01月04日
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W・K先生へ11月22日(日)、23日(月)参加させて頂きました、Kです。二日間とても!とてもよかったです!両日ともミサと祈祷会にも参加させて頂きました。帰宅途中、賛美歌の余韻が静かに私を包みました。温かい安らぎを味わいました。スタッフの方々のお顔の表情が素晴らしく、やさしく、きもちのよい微笑みにも癒されました。W・K先生、スタッフの皆様、ありがとうございました。感謝申し上げます。私は、E女史の助手であり、Cビルの本づくりに通う塾生です。そこの本棚にはW・K先生の本が沢山紹介されています。スピリチュアルという言葉に引き寄せられました。神様が、K・Tさんを私に引き合わせ、今回のセミナーに足を運ぶこととなりました。一日目は、脳疾患から奇跡的に回復された近・恵さんがお隣さんでした。私の実母が脳出血と脳梗塞で入退院しており、近・恵さんを通して、母の気持ちを味わいました。二日目は、脳疾患を克服された八十歳の沼・久さんがお隣さんでした。W・K先生の二十二日のミサが心地良かったことを伝えたところ、ミサに連れて行ってくださるというのです。十二月四日(金)六時五十分にM教会前で、待ち合わせの約束をしました。W・K先生の言葉で、心に残ったこと。「葬式で死者の元気な時の写真を飾るが、死者の顔を見ればよいのであって、必要ないのではないか」先日の父の葬儀でのこと。無宗教の兄が、形式的にお坊さんのお経は依頼したにも関わらず、死者の写真は不要と言って、飾らなかったのです。臨終と言われた直後、「そんなものは要らない」きっぱり喪主の兄が言いました。形式的に葬儀らしくないのでは?と思いわずらっていた私でしたが、終わってみて、写真が無くて、かえって良かった。死んだ、という感じがしなくてよかった。そう思いました。父の体は骨となって、お墓に埋葬されましたが、父の生命じたいが、臨終の時点で消えたわけではないからです。古い姿の遺影写真が、現在を霊的に存命している父の今に対して、ふさわしくない。そのように感じました。地上に生きている間は、身体と霊的からだの二つが合わさっています。葬儀は期間限定のナマモノの身体の方を終了させる儀式です。と同時に、未練を断ち切り、もう一つの霊的からだのみで生きる世界での出発式でもあります。親を亡くすという初めての体験をしました。霊界を知っている私は、涙の一滴も流しませんでした。涙ぐむという場面もありませんでした。すでに始まっている霊界での父の新しい出発を、どう応援することが出来るだろうか?いま、考えていることです。W・K先生、この二日間、先生にお会いできて幸運でした。W・K先生のお話はとても楽しかったですし、司祭としてミサを主管なさる神父さまの厳粛な静けさは、私たちの背後の霊人のきもちをも満たし、引き上げました。はじめに取り組んだ「痛み五つ」実母、兄、兄嫁、兄の娘、夫、五人の、それぞれ家族の痛みを列挙しました。二日間が終わったあと、思いました。津波が創造主から与えられたものであったように、人々が抱える苦難もまた創造主から与えられたものであると。セミナー終了後の祈祷会では、問題はすでに解決された。そのように感じました。痛い、ということじたいが、今を生きているということであり、時が過ぎ去って、今の痛みは、自然風化してゆく些細なものだと思いました。すべては神様の愛なんだ。よりよくするために、必要な痛みなのだ。この痛みは先人も味わった痛みであり、乗り越えられず、残された課題でもあったはず。一見、好ましくないものが来た、そう思ったとしても、まずは、感謝、感謝と歌を歌いながら、そしゃくして、味わって、意外とうまみがあるじゃないのと思って、愛していこう。それらを本当の感謝にしていこう。神様によって計画された、この二日間の出席。私の霊性は癒されました。今まで漠然としていた問題を、乱雑な部屋を、積極的に解決し、整理して、磨いていこうとしているのだと思いました。「自分を生かせるもの」私にとっては、本づくりをしていくことです。その仕事を能動的にこなすため、このセミナーで、霊性を整える必要があったのだと思います。そして、私はこんなにも愛されている。この限られた席に座っていることじたいが愛されている証拠!と、感謝しました。参加者が、それぞれにおいて必要とされ愛されている方々です。セミナーの最後に、参加者みんなで手をつないで輪を作りました。カトリック、プロテスタント、イスラーム、ユダヤ教、禅等々。色々な背後を持った代表の人たちが手を繋いで、おなじ一つの神様のもとに集う兄弟姉妹として、分かち合ったなあと思いました。W・K先生ありがとうございました。そして、W・K先生を護る強力な応援隊であります、素晴らしき守護霊人の皆様、ありがとうございました。
2015年12月02日
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スピリチュアル研修に参加してきた。アンケートと感想を書いて提出する。●スピリチュアル痛み ◎身体的 ◎知的 ◎きもち ◎心(善悪)◎スピリチュアル 核 これが自分 ヘソ 丹田1、 実母の身体不自由と気持ち2、 実母を介護する兄嫁の気持ち3、 祖母に対する姪の気持ち4、 妻に苦労をかける実兄の気持ち5、 夫と夫の母との関係 両者の気持ち●自分を生かすもの1、読書 本との出合い2、仕事という運動3、語学学習4、文章を書くこと5、丈夫な身体 なんでもできる健康の自信●感想・私はかなり幸せだ・私、個人としての不幸は皆無であることの確認ができた・実は他の人も皆、そうなのではないか?!・苦労、忍耐、苦痛は恩人である・私の家族、一人一人の気持ちを訪ねてみた。ある期間だけの忍耐である。うまく超えて欲しい。できる範囲で援助したい。助けを求められたら、きもちよく、快くすぐ手を貸せるよう、いつでもスタンバイを整えておきたい。・私は90歳以上を生きる。 100歳まで身体健康で生きるのは、こころがければできそうだ。・本を実現させたい。まず10冊、次に20冊。・霊界に行ったら、守護する霊となる。・神様のもとで働きたい。・神様の光のもとで、天使たちと、仲間の皆と読書会をする。 お茶、果物、ケーキ、お菓子。 大きなテーブルで、定期的に交流会をする。・通常は奉仕活動をする。取材をして、本をつくる。■アンケート・ 会場 良い5・ 講義 有益だった5・ ワーク 有益だった5・ 教材は 1よかった・ 情報は 適切だった5・ 情報はどこで得ましたか? その他 K・T(小テ)さんの目の輝きに吸い込まれて。・ スピリチュアルに興味を持ちましたか? 1おおいに持った・ 今回の研修会は何回目ですか? 1初めて・ 今後、センターの5日間研修会の受講を希望しますか? 1希望する(仕事のシフト→来年2月の予定は、今年12月末まで休みの申請が必要です)・ 地域でのスピリチュアルケアを実施できるように(普及や一日研修会)をボランティアとしてご協力いただけますか? 1出来る(仕事の休みの調整が、前もってわかれば可能)スピリチュアルペインを5つあげてください1●実母80歳● 兄嫁から介護を受けている実母の申し訳ないという精神の萎縮。トイレは一人で行けるが手足は不自由。車イス生活。2●兄嫁50歳● 2015年11月より夫の母と同居し介護することになった忍耐。看護士、介護職の経歴あり。母に対して、もっという通りにしてくれたらと思っている。3●姪17歳● 突然もともと好きでなかった祖母と同居。病身の祖母は臭う。服に臭いが移ったら困る。祖母には近づかない。4●兄56歳● 病身の実母に、ついキツイ言葉を言ってしまい、母を傷つけてしまう。 自身は単身赴任のため、妻に苦労をさせて申し訳ないと思っている。 現在、母を施設におくることを検討中。→(2015年12月3日から施設に入りました)5●夫50歳● 夫と、夫の母とのコミュニケーションができないこと。 夫の母は、夫の妹家族と同居のため、夫からアプローチしにくい。親子の会話ができるようになりたいと、夫は思っている。■特に得たこと:・ワークで隣席が60代~80代前後の女性でした。二日間とも。その年代の方々に人間的魅力を感じました。・キッペス先生の衣服が、常に新品に見えました。死後の世界の本で、「霊人の衣服は着古すということがなく、不思議な方法で、新しくなってしまう」と、読んだばかりでした。 ・研修のはじめに5つの痛みを書き出しましたが、研修終了後には、5つの痛みは小さくなっており、今は思いわずらってはおらず、解放されています。・これらのことが創造主から与えられたものであり、乗り越える方法があり、出来る、出来た、すでに解決している!と、わかったからです。・神様の愛ゆえのことと感じました。・2日間、研修のあとにお祈りの輪に参加したことが効果的でした。・ワークと祈りのセットが相乗効果をもたらし、私の雑然としていた霊性をきめこまやかにし、しっとりさせ、新しい力を得たことを感じました。・湯あがりの気分です。■感想:・母を介護していた、元気と思われていた父(81歳)が、突然、霊界の住人となった。父は、あちらで、それほどひどい待遇を受けていないのではないかと感じている。私の心が晴れ晴れとしていて、心地よいからである。研修会後、父を担当していた守護霊人の方は、立派な方なのだなあという閃きを得た。・W・K先生からの学びを終えてから、はじめて先生の本を読み始めた。私の内面性に、面白いようにスーッと、深く、まっすぐに浸透してくる。うれしい。気分がいい。たのしい。喜びが生じてくる。・私は神様に愛されている。・苦労、忍耐、苦痛は恩人である。よくなりつつある証。・家族一人一人の気持ちを訪ねてみた。・助けを求められたら、快く手を貸せるようスタンバイしておきたい。・兄嫁(私より3つ年下のお姉さん)に尽くしていきたい思いがわく。力になりたい。・表面にあらわれた苦痛は、地の事情であるが、天の事情でもある。・父の死が、私の心の目を開かせた。・死んだ後、自分がどういう霊界での在り方をするか考えておきたい。・神様のもとで働きたい。・奉仕活動をし、本をつくる仕事をし、守護する霊人となるだろう。■今後に望むこと(テーマ・方法・ところ・時期)・キッペス氏の本「イエスは助けてくれますか」P27を読んで。下記→・私は人を賛美したい。一人一人の性質、個性は神様の一部分。・一人一人の美点を原稿用紙30枚書くワークをしてみたい。・書いている途中で、本人は知らなくても、守護霊人はキャッチして頬を赤らめニコニコするだろう。・陰口の逆。陰で相手の美点を研究する。・その人の美点は神様から来たものなので、人を称賛することは、すなわち神様を賛美することなのである。神様はそのことに関心をもたれ、のぞきに降りてこられることだろう。「なに、やっているの?」と。人の美点研究は、神様を喜ばせることである。・最初に、W・K先生からスタートして、二人目、三人目を、作成していく計画です。
2015年12月02日
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2015/11/17臨終した十一月十二日を一日目として、四十九日の六日目。昨日、実家から戻ってきました。帰りは青森駅まで兄が車で送って下さった。(日記に書くのに、身内であるが、敬称と尊敬語を使用したい。韓国小説のように)「車の練習も兼ねて送って行ったらいいんじゃないって言われたから」奥さんから言われたからそうするのだとのこと。「ねえ、お兄ちゃん、それならさ、がっぽこうえんにちょっとでいいから寄ってもらえない?」兄妹は家から10分直進すれば到着するその場所に立ち寄った。幼少から青年期にかけての思い出の遊び場であり、通学路であった。「あと十日早ければ、紅葉真っ盛りだったのにね」と兄。いいや、かえって、今の晩秋風景がちょうど今の気分に合う。朝9時半から10時の日差しの中、兄妹は歩いた。私にすれば35年ぶりの公園だった。幼少の頃、父と来た海。父は釣りのえさのミミズ採りに、ゴムでできたオーバーオール調の合羽と長靴で海の中を歩いて沖に向かった。水嵩は腰のあたりくらいまでだったのか。大きなスコップで海の砂をすくっている。砂の中にミミズは隠れて生息している。「このへんだよ。お兄ちゃん」「おう、そうか。わたしはちょっとここで一服しているよ」「それならお兄ちゃん、私が溺れた沼を見てきたいから、ここにいて。走って5分で戻ってくるからね」「おう、行って来い」沼で溺れかけたということは、だいぶ大人になってから思い出したことだ。5、6歳の頃の話である。すぐに、ここだとわかった。細い川、堀だったのか、小川だったのかと母や兄に話して聞かせたのだったが、それは沼だろうと言われた。来てみたら、沼だった。端(はじ)が1メートルから始まって、徐々に幅広となり2メートル部分、3メートル部分になって渡れる小さな橋がある。この細長い小さな川のような部分にのみ、竹で組まれた囲いが施されていた。雪が積もると、橋と同じように歩ける場所と見えてしまう。おそらく私と同じように、溺れた人たちがいたのだろうと推測する。足のはやい私は目で確かめると、すぐ兄のもとに戻った。砂浜を通って、波打ち際をタタタタッ!!!と走って戻った。兄が子供をみるように、妹を確認した。「いとこのもとこちゃんにあってさ、年とったねえ。まゆげをキツク描いていてさ、昔の面影ゼロだよ。おまえは全くかわらないねー、かんしんするよ」父の見舞いから葬儀まで、喪服を着る際に、化粧をするべきなのか考えなかったわけじゃないが、やはり社交辞令はやめた。もう何年も化粧なしで来ている。洗顔と乳液のみだ。らくだし、若くみられるようになった。そのぶん、表情や愛想に気配るようになった。この作戦は非常にいい。メリットが多い。遊戯場で妹は天真爛漫に遊んだ。兄は保護者のように見ているだけ。「気をつけろよ。ころぶなよ」こどもに言うように、見守っている。動物をみてまわる。鶏、孔(くじゃく)、広い沼には蓮の葉にカルガモが沢山いた。「お兄ちゃん、昔住んでいた辺りに行ってみない?大人の足だからスグだとおもうよ」こどもの時分は長い距離だったが、いい大人の兄妹は足早に目的地に着いた。このあたり。いまは空き地になっている。その裏は、以前はミナミっていうスーパーが建ったのだが、今は団地になっている。スーパーができる前は、草ぼうぼうの空き地だった。大きな木があって、蝉取りをした。蝉の死骸もみた。ここの裏道が、小学校へ行く際の近道だった。兄は友達と秘密の基地を作った。丸太がごろごろ積まれていた。兵庫という表札が目に入った。「しょうちゃんと呼ばれていた男の子は、ひょうごっていう苗字だったんだね。知ってた?」「いや、わたしもはじめて知った。この裏の家がソノダの家だよ。すこし前に会ったよ。しょうちゃんは、今やツルッパゲのおやじさんになっているんだってさ。その下の男の子は早く亡くなったんだって」「そうだったの」「もう少し行って、チアキの家だよ」「そういう名前の人いたね。顔は思い出せないけど」先を見てくる。大通りまで走った。ワダ洋裁店だ。「もう満足したよ。行こうか」「そうだな。バスの時間にちょうど間に合うな」小休憩15日(日)火葬、納骨。忘れないうちに、どんどん文字にしてゆかなければならない。お墓は三内墓地。白いトイレ小屋が目印。「向かいの墓が創価学会さんの鶴マークと覚えておいて」と納骨の際にお世話になった葬儀屋のお兄さん。帰りの車で、「いやぁ、かんじのいい人だったね。次もここの葬儀屋さんでお願いするとしますか」56歳の兄の顔を今回沢山みたため、この顔を覚えた。父の葬儀が私たち家族の大きな、大きな節目となった。お嫁さんとも最も深く交流した機会となった。兄より6歳年下、私より3才年下なのだけど、立派な兄嫁さんだ。私は兄嫁さんに対しても完全な妹として対した。人物としても、こちら側がはるかに幼く足らないため、仕えやすい。兄はガリッとしたもの言いをして不快と訴える母だが、その兄は5歳年下のお嫁さんに仕えている。よそからきたお嫁さんが、家の不足のでこぼこをならしてくれる。お嫁さんは救世主だ。私たち家族はお嫁さんの世話にならなかった者は誰一人いない。私はこれからもお嫁さに仕えていくだろうし、仕えるのは難しくなくできることである。母の施設行きが検討されている。母は大喜びするだろう。お風呂の問題一つとってもやりやすくなる。それに他人の中にいた方が気楽である。友達もできる。お金を払って他人のお世話を受ける方が生きた心地がする。スムーズに運べばいい。それなら、私も、母に会いに行きやすいし、連絡もとりやすい。気兼ねが要らない。何よりも、お嫁さん一人苦労させるのを回避できる。介護のプロといえど、これ以上忍耐させたくない。葛藤させたくない。私にも出来かねることとわかるからである。数日、母と過ごしてみて、あらゆる面で施設での生活が望ましい。お父さん、今日は6日目ですね。私が霊界に移動なさった父をサポートしなければならない。兄は無宗教であることを誇っている。もし、父が平成17年11月、墓を建てなかったなら、兄は墓の用意をどうしていたかは疑問である。今回の納骨までの様子を本当は兄の長男、次男にも見せてあげたら良かっただろうと思ったが、兄は頓着しないため、無理しなくていいよと言ったに違いない。私にも無理しなくていいよと言っていたのだから。兄の狭い考えから来る言葉をまともに受けてはならない。私は今回、出かけて本当に良かったと感激した。納骨が済み、兄宅に戻って、シャワーを浴びてさっぱりして、心身全体にわたって達成感があった。父を土にかえす儀式を終えて、父の骨の居場所も確認できて、さっぱりしたのだ。父は、焼かれる体に衝撃を走らせながらも、これまでも何度も人の葬式に出て骨を拾ってきたはずだ。自分が丹精込めて作った墓。時々、草むしりしにきていた父。見栄えのいい、美しい墓に近く入ることを想像して心の準備を整えていた父。骨になった光景を、霊体の父は眺めたことだろう。もはや、かえる体がないことを観念したことだろう。執着をとるものは、早かったかもしれない。父よ。次の儀式がすでに始まっているため、なつかしんだり、なげいたりしている暇はないはずだ。四十九日の間、閻魔大魔王の裁判を受け、地上での履歴書について、面談を受けている最中であろう。私は、そのサポートをするために、ここ数日の出来事を記録したあと、父を擁護するだろう。父の功績を、その父の美点を弁護することだろう。お父さん、おはようございます。納骨のあと、お母さんの足を踏んづけたんだってね。夜中に母が、「ちょっと、やめてくれない?痛いよ」と突然、声を出した。「えっ、私何もしてないよ。お母さんの足を踏んづけるわけないでしょ」ベッドに寝ている母。わたしはベッドの下の床で寝ている。「じゃあ、誰?」「お父さんじゃないの?」「そうだ、お父さんだ。こういうやり方はお父さんだ。おい、気づけ!って、ここに来ているのか。こういう方法でわからせようとしているのか」そのあと、また来たと言っていた。お父さん、私はこれから読書会に行ってきます。前々から約束をしていたので楽しみにしていたもの。また、戻ってきてから、お父さん、またここにくるから、もし、私に伝えたいことがあれば、自動書記にように、私の指先に働きかけてね。では、出かける用意にかかりますので。また、あとで。
2015年11月17日
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お父さん、溢れる思いを、書かずにおれません。お父さん。私のお父さん。私は11月2日に母と対面したとき、両手を拡げて喜びました。「私の両親は健在です」と。クダだらけの病院ベッドの父を見ても、色つやの良い皮膚を見て喜んだ。毎日、毎日、お風呂に入ってきれいにしていたと母が言う。ずーっと、日記など書きもしなかったのに、こういうことが起こって、やはり、書かずにはおれない。今、私が読んでいる本は「花はくれない 小説佐藤紅緑」(著・佐藤愛子)愛子さんが、お父さんを亡くされた後に書かれた小説です。愛子さんのお父さんに、私の父を重ねます。いつかは誰もが通る道。今年の1月4日に、私より年下の友人洋子さんを癌で見送ったばかりでした。正確には私の親友の友達でした。今度はより近い肉親の父の見送りです。霊界への旅立ち。私はどういうサポートをすればいいだろうか。おとうさん。テーブルに上がっていた緑茶の茶筒を、持ち帰ってきました。もう誰もお茶を飲む人がいないからです。母はお茶を飲みません。あれから、ひたすら、私がそのお茶を飲んでいるのです。今朝、茶筒から緑茶を茶さじにすくって急須に入れようとしたとき、このお茶っぱが無くなるころには、父の呼吸が途絶えるのではないかと思っていたところです。一週間前に実家から戻ってきたところです。あれから、なんだって、兄から何も連絡が来ないんだろうと思っていました。今日は私の方から連絡しようと、昨日から思っていたところでした。ですが、今日になって、良からぬ報告を受けるのが怖く、連絡をしないで過ごしていました。午後4時半頃、兄から連絡が来ました。兄も初めての体験を冷静沈着にことを処理して行こうとしている。先日、別れ際に「じゃあね。次は私だね。いや、その前におかあさんだね」11月2日に着いたとき、「久しぶりに会って、すぐにわかったの?」とお嫁さんが、兄に聞いている。迎えの車の中でのこと。お嫁さんが駐車場の車で待機しており、兄が駅前に出て私を迎えに来ていた。「そりゃ、すぐわかるよ」十数年ぶりの再会だった。私も兄にすぐ気づきはしたが、はやり年月が経ったのだと感ずるものがあった。お嫁さんは私より3つ年下だと今回わかった。いくつ年下か、意識したことがなかった。が、しっかりしている方であるため、兄はお嫁さんに弱い。私もお嫁さんに頭を下げる。母はお嫁さんに寄らなければ生きていけない。父がいたときは、父が面倒を見てくれたが、父が居なくなった今、何もかもお嫁さん頼みとなる。母、兄、私たちは、お嫁さんのお陰である。お世話をお掛けする。現実的なことは、お嫁さんにお頼みすることになる。母の介護はお嫁さんに頼らざるを得ない。お風呂に入れることから、病院への送り迎え、食事の世話。介護する人にとっても苦行。介護される側も苦行。数日、母とぴったり寄り添って過ごし、私の霊性はややトーンダウンした。実家を抜け出て、自宅に戻ってきたとき、生き返った心地がしたものだ。明るい家。空気が明るい。吸い込む空気がうまい。やっぱり夫のもとにいてこそ、全てにわたって調子がでる。夫のいる家が最高だ。ところで、私は父のこれからをサポートする道を考える。父は49日をどのようにおくるだろう。父よ。私も初めての体験なのだ。父を霊界に送る娘として。こんなこと初めてなんだ。父も初めてのことだらけで、とまどっていることだろう。母のことは心配しないで。母が言っていた。「きっと病院のベッドで寝ながらも、お父さんは、お母さんのことを心配していると思う。気がかりなんじゃないかと思う」母は父に世話をして貰うことが気楽と思う。お嫁さんに何から何までお世話をお掛けするのは気を使わざるを得ない。私も一週間前までは父母の家に寝泊りしたので気楽だったが、母は兄夫婦の家に移ったので、気楽には出かけていけない。それでも、なんとか駆使して、母との交流方法を見つけ出していこうと考える。お父さん、もうこんな時間です。やはり、心持、おだやかでなく、白い紙に、言葉をたたきつけている。母もこころもちは今、いかばかりであろうか。母の今後には又、新しい決意がいるだろうと思う。私は悩んでなんかいない。出来ることをする。夫にも、複雑な心の内を聞いてもらった。甘いお菓子と、しょっぱいお菓子を買ってきてくれと頼んだ。チョコパイやせんべいを買ってきてくれた。お母さんも悩まないで。お父さんも悩んだり心配したりしないで。私たちは、どうにかこうにかして生きていきます。お父さんも、新しい道を頑張って切り開いていって頂きたいです。お父さん、私、スピリチュアルの研修会に参加しようと休みを取っていたのですよ。今から10日後に参加予定で、前々から有休をとっていました。その資料が数日前に届いていて、注意書きに「近親者との死別6か月以内ではない事を条件とします」とあったんです。それで、お世話役の方に連絡しました。何も言わず、黙って、参加するのも気がひけると思いましたし。断られたら、断られたで仕方ないとも思いまして。結局、参加することになったんですよ。これまで、それほど、参加したいという強い動機があったわけでなく、なんとなく申し込んだのでしたが、こうなってみると、積極的な気持ちで、むしろ参加してみたいという気持ちが強くなったんですよ。お父さん、お休み。おとうさんを寝かせないと。そして、わたしも眠らないと。今日は一日、明日の韓国語授業参加のための予習をだらりだらりとして過ごしました。予習はとっくに終わりました。本当は、この後、インタビュー記事をまとめる予定があったのでしたが、もう、観念して寝ることにします。お父さん、おやすみなさい。おとうさん、悔やまないで。大丈夫。十分生きた。頑張って生きた。おとうさんは、立派に生きられた。おとうさん、こころ穏やかにしてね。おとうさん、いのちは永遠に生きるのですよ。私たちの関係は永遠のつながりですからね。さびしくないですよ。あたたかいです。あたたかです。おとうさんの体温はあたたかいです。神様の愛にくるまれて、おとうさん、霊界での生活が、これから新しく始まります。地上から最もサポートするあなたの一人娘がここにいます。力強く思ってください。あなたが、苦労して育てた娘が、ここ地上からサポートします。お父さん、お父さんは成功者です。
2015年11月12日
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お父さん、81歳、お疲れ様でした。父の笑顔が浮かぶ。2015年11月12日(木)兄からメール来た。「本日、昼12:04 父、永眠しました。2015年11月15日の日曜日の午前09:40に火葬の予定です。」父は10月31日の夕方に心筋梗塞で倒れ、緊急手術を受けたあと、集中治療室で沢山の管につながれて頑張った。昨日、自力で心臓を動かすようにしたが、一日しかもたなかったと兄が電話で言う。午前11時半の面会の頃、急変したそうだ。最後の死に顔は良かったと兄が言う。「私がみるかぎり、にやっと笑っている顔だった。のどに管(くだ)を入れられていたんだから。喉にクダが入ったら、おまえオエっとなるだろう。むりやり生かされていたんだから。あの頃、顔がふくれていたけど、全部のクダがはずされて、今日は普通の顔に戻っていたよ」私が面会したのは、11月2日(月)雨の夕方。兄夫婦と3人で面会に行った。その日、私が行ったからなのか、少し呼吸が大きく反応したようだったと兄が言う。「私が来たってわかったからなのかなあ?」若い女性の看護士さんに同意を求めたところ、「わかっているかどうかはわかりません」との返答。手を触ってもいいと看護士さんからの許可をもらって、手を握ってきました。ふっくらした温かい手。11月4日(水)の午前、午前9時半、先生からお話があるとのことで呼び出しがありました。当初、兄夫婦のみが話を聞きに行く予定でしたが、お嫁さんが、最後になるかもしれないから、車椅子の母にも「一緒に行ったらいいんじゃない?」と言って下さった。兄は無理に行かなくてもと言うのだが、お嫁さんが、やっぱり悔いを残さないようにと母の同行を勧めて下さった。母ははじめ、そんなに行きたがらなかった。「帰ってきたら」「戻ってきたら」としきりに母は言う。そういう状態じゃないということをわかってもらうためには、やはり父の姿を見せておく必要もあったと思われる。9時半、4人で先生のお話を聞くことになった。良くない状態であること。看取りの覚悟をという言葉。通常、集中治療室の面会は11時半から。兄は行っても父と面会できないかもしれないからと言っていたが、看護士の仕事をしている兄嫁は、車椅子の姑が、なかなか来られない事情を医師に説明をして、面会が許可された。父の呼吸は大きく動いた。胸から空気を吸う、その動作が大きくなった。ああ、やっぱり娘が来たときよりも、奥さんが来たときは、もっと反応が大きかったね。だって、父はずっと、母の介護をしてきたのだからね。父が買い物して、父が作った食事を、母は口にしていたのだからね。10月31日の夕方、5階に住む住人のお二人さんが、ピンポンを押した。町内会費の集金に来られた。「はい」と、ドアを開けた父は、玄関に倒れた。即座に倒れて、食べたものを吐いてしまったそうだ。すぐに救急車を呼んでくれた。お陰で、処置が早かったため、助かった。もし、来客がなければ、突然倒れた父に対して、母は気づかなかっただろうと兄夫婦は言った。あたふたして、車椅子から立ち上がって、骨折していただろうと兄嫁さんは言われた。兄夫婦の住まいは、父母の住まいから歩いて1分の距離。私は父母の住まいに3泊して、こちらに戻ってきた。今月で有給休暇は使い切った。今日、知らせを受けて、忌引き休暇の連絡をした。私がこちらに戻る日、母は、もう今までの家には居られなかった。兄夫婦の住まいに移動とならざるを得ない。母はトイレには一人で行けるが、コップに水を汲むこともできない。台所に立てない。冷蔵庫を開けられない。トイレの電機のスイッチもつけられない。が、話はいくらでもできる。私はそんな母と数日を過ごした。初日、私が久しぶりで出向いた日、母は朝方まで話し続けた。私はひたすら話しを聞いている。朝が来た。兄がやってきた。私は一睡も出来なかったのに、「起きてくれないか。こうしてくれ。台所を片付けてくれないか」えっ?長旅で疲れて来ている上、寝させてくれず、働けというのか。ああ。おもわず兄に愚痴ってしまった。「お兄ちゃん、朝まで寝させて貰えなかった。おまけにいろいろ用事をいいつけられるー」悲鳴をあげた。「おかあさん、寝かせてあげなきゃだめだろう。いいからおまえは寝ていろ。片づけは俺がやるから」母の話はそれなりに面白かった。親戚の様々な人の話。お金の話。父の悪口。自分の子供の時からの辛かった話。様々な話を三夜に渡って聞くことが出来た。母の口はまるで小説。父への鬱憤も吐き出して、面会に行ったとき、「涙がこぼれた。気づいた?」と後で母が言う。「いいえ」そんな余裕なし。父しか見ていなかったから。父の手を握り、足も触ってきた。健康的な美しい皮膚。「機械で血液を廻しているのだから、血色がいいのは当たり前なんだって。嫁さんが言ってた」「ふーん」父の臨終を、休みの今日、受け止めることができて良かった。兄は片付けを決意しており、全部捨てると宣言している。家に要らない物がありすぎるため、血管が詰まることになったのだという。父は心筋梗塞、母は脳出血で倒れた10年後に、脳出血と脳梗塞を併発させる。兄が言うには、母が倒れる前に、物を溜めて捨てられなかったのが悪いと、今回の片付けをしながら、母の前でぼやいていた。このままでは全てを捨てられてしまう。帰る日の朝、押入れにあった写真と手紙類をごっそり鞄に詰めて持ってきた。この日、兄が押入れの宝物をすべて捨てにやって来ると母が言ったため。私は帰りのバスで、手紙類を読んで、5時間の車中を過ごしてきた。親元を離れた息子と娘からの手紙のみを缶に入れてしまっていた母。それらが、けっこう読み応えがあって面白かったんです。父の写真も、ごっそり私が貰ってきました。初めて見る、父の若かったカッコイイ姿。お父さん、霊界に旅立ったのですね。今年はじめ、「朝、夢を見たんです、お父さん」と電話をかけました。「友達がね、喪服を捨てるって言うんで、何で捨てるの?って、聞いたら、着そうもないからって言うので、ことがあるたびに、買うわけ?って、私が夢で言っているの。そしたら、その友達が、いやいや、着そうもないからやっぱり捨てるって言ってきかないんですよ。それでね、お母さん、大丈夫かなって心配になって電話したの」と言ったら、父はいきなり、電話を切ってしまった。へんなことを言うなと言わんばかりに。そのことを、兄にメールで伝えたのでした。今年の2月27日の夢でした。「お兄ちゃんへ。今朝は喪服の夢をみた。先日はお母さんがプールでおぼれていて私が助けを呼ぶ夢。今朝父に電話したけどスグ切られてしまい。さびしい」「父に夢みたと言ったら、この前も夢みたって言っていたじゃないか!と。今朝は喪服の夢をみたから、お母さん元気?と聞いたら、切られてしまった。あ~あ」2月28日「お兄ちゃん、最近若い時のきれいなお母さんの写真が浮かぶ。元気な姿を毎日想像してパワー送る」誰も父の心配をしていなかった。倒れてから12日未満を生きた父。「手術に500万、600万かかったのだから、よくなってもらわなきゃ」兄夫婦が話していた。それでも血色のいい父の姿を見られて良かったと思った。また、これから最後を見届けに行きます。人は誰でも逝くのですから。私は別に悲しいとか思っていない。来るべき時が来たのだ。「81歳、まだ若い方ですね」と、二人の方から言われた。先ほど75歳の方から電話を頂いた。夫を亡くして18年になると言われ、以来、ずっと一人暮らしとのこと。魂ががっしりしている方だと感じた。お母さんの支えになってあげて欲しいとも言われた。
2015年11月12日
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今日は一日家で過ごす。これまでの10年間の日記、これらの記録を出来る限り読み尽くす予定。ラマダーン11回目、あと3日で終了。100歳まで生きてみようかと最近意識し始めた。なぜ、ラマダーン続けられるのか。生きている証。自分だけがわかる充実感。結局、自分の体を長持ちさせようとしているのだなあと、わかってきたところ。2015/07/14(火) 辛卯 休日 11時~
2015年07月14日
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私は本当に極端な人です。ずっと洞穴に閉じ籠って誰とも話さない人かと思うと、いったん洞穴から出ると、にこにこ笑って、どんどん友達を作ろうと活動しはじめる。つまり春が来たということですね。それ以前は熊のように冬眠期間だったのです。3年間の大殺界+【劫財、比肩、傷官】の3年で計6年間は牢につながれた動物のように、ただ決まった時間、決まった道路を行き来する従順な牛のように。地味に、目立たなく、つつましく過ごすことが、自分の魂を護(まも)ることでした。私は人に何と言われようと、こうして自分を護ってきたのだと思います。容子さんへ。そういう私に対し、病気を克服して本当に良かったねと言ってくれた容子さん。ありがとう。何て優しい人なのでしょう。あなたと同級生であることが本当に幸せだと思います。同郷にあなたが一人いらっしゃることで、自分の魂は本当に救われます。あなたのご先祖の方々に頭を下げて微笑みたい気持ちです。容子さん、このブログはあまりにも書かな過ぎるため、(年に数回しか書かない)とても静かで誰も立ち寄ることのなり閑散(かんさん)とした喫茶店です。ああ、だからこそ、あなたに向けて書いてみようと思います。あなたという神様の一部分を表した、すてきなあなたに向けて。あなたは私の親友です。心友であり、真友。配偶者が永遠に連れ添う夫であるとするなら、あなたは永遠に連れ添う私の心の支えとなる信頼深い真の友達です。私が19歳前後のとき、毎日、公衆電話からあなたに電話をしていました。短くても数分言葉を交わすだけで、私の呼吸が正常に整いました。お薬のような存在でした。孤独で不安定でした。あまりにも毎日電話するので、恋人のようだねと人から言われたことがあったほどです。いま、ふっと思いました。(神様への祈りって、それだな!)容子さん、いま、歳月を経て、あなたという素敵な方へお手紙を書くことを通して、私は神様へ報告してみたいと思っているようです。毎日あなたの携帯へメールを送っていますが、書き足りないため、あふれる分をここに書き記すとします。とてもいい方法でしょ。とてもいい方法ですね。楽しいですね。人から羨ましがられるほど、私は素晴らしい友達を得ています。ずーっと、私を思い続けてきてくれた情の篤い方。淡泊でクールであっさりした少々神経質気味の私の性質には無い、きんぴら牛蒡のようなあなた。昔、東京のあなたのアパートに行った時、お昼ごはんを作ってくれました。その時、杜中茶を3パックぐらいを鍋に濃く煮出したものを出してくれて(わりかし、いいな)と思ったことを覚えているし、あなたが作ったきんぴら牛蒡がご飯のおかずにすごくいいなと思ったことが印象に残っています。「作るのが上手だね」に対して「御世辞いわないで」とツレナク返したあなたの言葉も覚えています。今、トイレで思ったよ。あなたの永遠の夫も、ご飯のおかずに合うきんぴら牛蒡のような人だって。牛蒡は体にもいいし、精神的にもほっとするし。あの方は、あなたとの結婚が決まったとき、ダイレクトに私に電話を下さいました。人なつっこい方だなあ、素朴で、ざっくばらんで、人に気をつかわせないで、味のある方だなあ…今、あらためて、あなたの永遠のお連れ合い様のお顔まで浮かんで来まして…あなたはいい方と巡り合われたのだなあと思っているところです。あの方しか、あなたを救える方はいらっしゃらなかった。あの時、容子さんが下さった薄紫色のスーツ、12年前に着て撮った写真を見せてあげたいくらい似合っていました。夏の薄いスーツだったので、その上に、新しく買った薄地の白い上着をさらっと羽織ったら、とてもさりげなくてかわいかったのです。今年も工夫して着てみようかと今思っています。スタイルが全く変わらないので、経済的ですね。そうそう、今日、書きたかったのは、そういうことかもしれません。今、あらためて、このブログのサブ・タイトルを思い返してみました。「人間は一番近いものから影響を受ける」それは立ち読みした心理学系の本の中の一文ですが、それを読んだとき、(私の場合、夫だな)と思ったのですが、その文章のオチは「服」だったのです。どちらかというと、本当におしゃれじゃない自分。最低限の身だしなみくらいは真面目に整えないと!最近、思っていることでもあります。少ないお金でも最大限の工夫をして、人と自分に礼儀を尽くしたいなと。人と自分に半分ずつ、<感じよさ>を与えたいものです。なぜ、今、そういうことを、あたりまえのことを書こうとするかというと、いままでは冬眠中の熊さんだったから古Tシャツで良かったかもしれないけど、最近はどんどん、友達を作ろうとしている。人と、50センチくらいの距離で、話しかけようとしている。すでに、どんどん話しかけて、人なつっこく接近しています。新しい服も必要です。今日の午後はブラリとお店をまわってみることにします。そういえば、私は本当に若さを手に入れたのですし、これは私の<財>に他なりません。活動するために、活動経費として被服費を出してあげなければ。ところで、昨日の昼ごはん休憩、会社の食堂で、近くの席の女性に声をかけました。先回、ビジネス会話などの会社の研修会で隣の席に座った女性でしたので顔見知りです。その方はデーター入力をおもに専門で働いていると言っていました。パッと見た目が異国風。それに加え、霊的に一瞬ちょっと引く<変わった人>のような独特な雰囲気を持っていました。話し込んでみると、その人はおそらくお父さんが日本人で、お母さんが東南アジア、タイかカンボジア系の方のようです。ここ数年の中で読んだ本「闇の子供たち」(言葉に出来ない程の深刻なテーマの本の内容のため、ここに書くのは辛い)の話題を振ったところ、「餓死する人もいっぱいいるよ」とサラリと言ってのけた感じから、深刻な戦場の現場を目にして来られたことがわかりました。世の中はまだ戦争中なのです。彼女は自分がクリスチャンであると打ち明けてくれました。いつも聖書と賛美歌を持っていると見せてくれました。独身で結婚はしないと。タイにイエス様の福音をのべ伝えるために行ってきたと言われました。私もクリスチャンですとだけ言いました。「あら、そうなの」と少し接近しました。「この職場にクスリチャンは誰もいないよ。神様のために働いてみたいと思わない?」とふつうの感じで言われました。彼女の言うクリスチャンとは新約聖書を信じ独身をまもって生きる人のことのようです。最近みた韓国ドラマ「犬とオオカミの時間」でタイでの撮影映像を思い出し、「タイといえば仏教ですよね」「そう。ヒンズー教もある。回教もいっぱいいる」回教で思い出した本「砂漠の女ディリー」を話題にしてみた。彼女はそのことについてもリアルな反応を示した。私は、ここ数年前に本とテレビで知った内容だったのに。彼女は生活の周辺から知っているというリアクションだった。回教というと、ああ、イスラームのことだったなと思った。が、彼女が回教という言い方をしたので、イスラームの話題は控えることにした。私はおのおのの宗教と仲良くして理解し合うことが世界平和への早道と考えるのですが…。閃いた。次に食堂で会うことがあれば、次は三浦綾子さんの本の話をしようと思う。本の話題で人と話す…なかなかいいんじゃないかな。2013/07/14 6:30
2013年07月14日
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若返りについていうなら、南雲さんの本を立ち読みした時、(ほぼ同じ!)と思いました。ほぼワタシ実行しているなと。20歳以上も若く見られようなのです。一日一食を10年。背筋を伸ばしての座り姿勢。座る際には両膝をくっつけます。働いているので、通勤などで40分から1時間ほど歩く、小走りなど。ほぼ年中、一日一食が習慣になっているのでラマダーン時期は、「日中の曙時間から日没時間まで水を飲まない」をプラスするだけなので、私としては難しいものではないのです。昨日の曙時間は2時27分でした。アラームを1時50分にセットしましたが気づけず、目覚めたのは2時27分だったのです。結局、水も飲めずスタートしたのですが即、気を取り直して、二日でワン・セットと考えようと思ったら、何とか一日持ちこたえることが割とたやすくできました。19時03分以降に飲んだ水の甘み、感動、喜び、いのちが蘇るような幸福感に満たされます。帰宅後の食事が一層おいしく、充実感を覚えるのです。人参少々、玄米ご飯、韓国のり、豆腐、納豆、鰹節、梅干し、塩、醤油、お菓子、コーヒー。最近、野菜が少ないです。意識しないと食べ損なってしまいます。(今、書いていて気づきました)」日記、久しぶりに書きます。一年ぶりです。たまに書いてみると、楽しいですね。トイレに座るといつも閃きが。(やはり記録は残しておいた方がいいね)今年の前半期の多くを、韓国語勉強と称して韓国ドラマに費やしていました。ストレス解消にもよく、気分の切り替えにも丁度よかったのです。最近になって、ピタリとお休みを取りました。何でもお休みを挟めば、次に再開の時は新しい喜びの再会となることでしょう。今日はラマダーン3日目の朝で、早めに目が覚めました。水もできるだけ飲んで扇風機も回して、湯たんぽにお湯を少々入れて腰を温めました。心地よいお通じが来る頃には身体に寒気が来ます。朝がたは肌寒くなりましたので窓を閉め、扇風機を片付けしまいました。(別な部屋に移動させただけですが)日の出時間4時22分の頃には、神秘的な時間を過ごしています。今日は友達数人に気持ちを込めたメールを書いてみました。祈りの時間にふさわしい雰囲気があります。この時期になるとイスラームの記事をちょこちょこと読むこととなります。韓国語勉強は一周年となりまして、今後ずっと付き合える友達になりました。イスラームもすっかり友達です。ラマダーンも今回で9回目なのですから。先日スカーフを被ったトルコ人女学生と会話をしました。「学生ですか?」と聞かれました。ここ一年、その質問を派遣先の人達から何回も聞きました。「学生さん?」「?…いえいえ、とんでもない」と慌てて手を振りますが、ある時、街でウインドウの鏡で自分を見たときに、(あ~あ、そう見えなくもないかも…)少し、そう思ったのです。ふだん、ちゃっちゃっとしか鏡を部分的にしか見ないのですが、全身を映してみると、どんどん若くなっているなあ、不思議だなあ、と思いました。最近、数年ぶりに会う人達から驚かれること多々あり。目をまん丸くして「若いねー」と言われるし、久しぶりの人に挨拶をした時に、「誰でしたっけー?~えー!気づかなかったー!」と言われることが度々あるのです。食べ物を変えて、肉の付き方も変化しているのだろうけれど、骨格が変わってきていると感じます。この十年間ほぼ食べなくなったものは「卵、牛乳、チーズ、食パン、マーガリン、肉、サラダ油」などです。そのため、冷蔵庫は休業状態になっており、無くても不自由がないという新境地を得ています。数十年という、いのちの年数を儲けました。利益。得。少ないお金で豊かに生きるコツも覚えたように思います。混沌から洗練へ。書くと、心の混沌も整理され、もっと詩的に引き締まることが出来るように感じます。(07:25)
2013年07月12日
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日本人に日本語で手紙が書けるかというと、まるで書けない。不思議。そして事実。ハングルで作っている文章はお礼、感謝、誉め言葉、感動したこと、喜び、かなりオーバーで大胆な表現であるけど、うれしいとき、うれしさを言葉で表現すると、喜びがいっそう増えるという体験をしているところ。八月、九月は勉強の月。丁度、ハングルの勉強も面白いと思い始めてきたところ。韓国の人に手紙文を書くという新しい勉強法も加わった。メールでの通信手段も、いっそう距離を縮めてくれる。この夏は、暑いということも忘れて過ごした。ラマダーンの意識も忘れ、ブログ報告ということも、ほぼ忘れ、毎日、ノートにハングル文字をひたすら書いて文字に親しむ生活。メインはハングル勉強で、あとはおまけ程度にちょこちょこ家事など。詩の感覚で、文章を作っていくと面白くなりだした。一つのテーマを一ページ以内にまとめる。翻訳機と、辞書で、わからないながらも作って、先生に添削してもらう。提出する先生がいるということだけで、勉強がすすむ。誉められたいがために、予習する。あてられた時に恥をかくまいと、予習する。そんな程度ではあるが、先生という方も、必死で勉強してモノにした方であるかた、その影響はとても受けるものである。授業の中で手とり足とり教えてもらうわけでなく、ほとんど、日頃の勉強を発表し合う場が授業です。それでも月謝を払っているだけのことはあり、成果は非常にあがっている。開始から四十日ほど経つが、けっこうな進歩である。ここは、息ぬきで、日本語で書いているけれど、できるだけ、生活の中でもハングルフレーズを使うように心がける。食事休憩時間、外をぶらついたり、買い物に出かけたりも先週は数日してみたが、ハングルの宿題をノートに書いて過ごす時間の方が落ち着く。毎日、三十分でもコツコツ勉強すると、本番の授業に役立つ。一度にまとめて勉強というふうにせず、少しでも文字に触れておいて、勉強の流れを作っていくと、文字と仲良しになれる。周囲の授業の参加者と比較しても仕方ない。自分の喜びを見つけていくしかない。私の場合は、ハングル文字で詩を作ること。それを文集にすること。それを自家製本にして、三百頁程の本を増やしていくこと。そうすれば、とても楽しい。本当の出版ということまで、考えるところまで至ってはいないけれど、そんなつもりで、まとめておく流れをつくったら、とても面白いと思う。文章を作り合う仲間も、一人二人、ポツリポツリと集まっていきそうな気がしている。仕事は普通に順調です。ラクな仕事であり、運動というのにぴったりな軽く汗をかける心地よい汗をかける場所です。8/16/2012 (木)1:12~1:42己酉・偏印・建禄(比肩)
2012年08月15日
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日記は反省会であり、その日の心境を打ち明け共有できる友達。先日この日記で衣裳をどうするか相談した。直後、奥の引き出しにしまっていた濃いカーキー色チェニックにしようと発想がわいた。着心地はわりかし良好。インナーの黒との組み合わせの地味が精神を落ちつけた。直前、それをやめてピンクにしようかと鏡に映してみたが良くないと思った。田舎の野ら仕事をする男のイメージの詩を読むのだから、無造作なかんじの方がしっくりきた。7/30/2012 3:36:41 AM(月)休日。24時前の就寝~2時半前の目覚め(2・5H仮眠)山場と考えていた朗読発表の日を越えられた。時間的にも、発表の場を終えて職場への移動もスムーズで、思ったよりだいぶ早く到着し、本を開きながらクーラーでほてった体を冷ました。今後も参加したいイベントがあれば、如何様にも時間を調節できるとわかった。リハーサルで,漢字の読み方の間違いを発見。「作男」はサクオトコと読むと知る。◇作男(??;モスm)◇作男のように(????;モスmチョロm)本番は予想外に早めに終了。時計が目にみえる状態になかったため、その後すぐ仕事場に移動がある私には焦りがあった。その会場の室内に合う声の音量だったかどうか。大きすぎたような気がした。その部屋の空気を包み込むような余裕がなかった。もっと全体のリハーサルが必要に思われた。ああ、足りない。不足。いたらない。そう思いながら会場を後にする。ここで学んだことは次にいかそう。ネイティブスピーカーのハングルの朗読。その美しさに聴き惚れた。いい音だなあ。その人はその土地で何十年と生きてきたのだから、ぶっつけ本番でもスラスラと詩のイメージを醸す。いつか自分もそれが実現するといいな。その時のために今はコツコツ、今取り組むべきテキストに忠実に勤しもう。今はそれしかない。ネイティブのCDが作製されたらいいな。また自分の練習成果の発表をよい方法で録音できたらいいなあ。リハーサルの時、「とってもいい」一人の人がお誉めの言葉を言ってくれた。「耳に入る音がとっても心地いい」とも言ってくれた。本番ではもっと声を抑えるべきだった。声がよくないというコンプレックスが昔からある。が、トレーニングで克服できそうな気がしてきている。声帯は筋肉であるという。もっと調べてみよう。『アメリカでは、アナウンサーは低い声を出すように指摘される。低い声には、相手を和ませる効果がある。役者によっては、「私は声が高い」と決め込んでいる場合がある。声のトーンは、長年の習慣で身についたものだが、ボイストレーニングで変わるものだ。声帯は筋肉である』(「人は見た目が9割」(P34/6~)新潮新書・竹内一郎)7/30/2012 4:46:05 AM(月)
2012年07月30日
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ラマダーン開始から一週間。どんどん平然と過ぎてゆきそうだ。仕事場へ出向くと、必ず最後は充実感で締めくくれる。7/27/2012 3:16:11 AM(金)己丑。休日。朗読練習。ハングル予習。昨夜22時頃、上弦の月。オレンジがかった大きな半月。本日は休み。24時前にいったん寝て2時頃起き出す。2時50分の曙時間まで、キャベツ葉、白胡麻、黒砂糖。コーヒー2杯。新聞に目をとおしていたら目が覚めてきた。仕事が、朗読のための口まわりのトレーニングになっている。11時47分の快速上り線に乗ると、到着駅の時計は12時。12数を意識する。職場までダッシュすると、だらだらの汗をいっぱいかいた。びっしょりの汗。こんなに運動できて満足感がある。たっぷりの汗の爽快感。それを書き留めておきたいと思った。この一年、そういった通勤における運動が全くなかったため、働くことが喜びである。クーラーと扇風機の風で一時間もすると体内の熱がさめてきた。一日座り仕事。姿勢を正すため、両足を揃えるのをラクにするため黒太ゴムバンドで両膝をくっつけている。仕事をしながらのダイエット効果を狙うもの。電車の10分でも20分でも活用。自分が考え出したもの。100均で買った太いゴム紐。この活用から2年程。精神的に充実して物事を行える。ハングルを毎日スキマ時間に少しずつやっておくとラク。休み一日中を使わずともいいように。二日間ご飯時間を食堂のPC席で過ごすが共有の席なので、自分だけがPCを独占するのは好ましくない。マナー的に今後は自粛。次回は一人がけ席でテキストの例題とノート作業か、期間内に借りている本を読むなど工夫。PC席でハングルテキストをひろげた。次の授業の頁の単語を翻訳サイトで意味と読み方を調べ例題文に取りかかる。と、テキストをひろげた時、そこを通りかかった人が声をかけてきた。済州島出身だが日本で生まれたからハングルは全く出来ないと言っていた。男性であったため、そうでしたかと軽く挨拶を交わす程度。いろいろな人がここで働いているのだなあ。もう一人の人にも声をかけられた。どうしてハングルを勉強しているの?小説を原書で読みたいの?動機は何?と聞いてくる。明確なものがなかったことに気づいた。ただ、いつか翻訳家先生に声をかけられたら、すぐに応じられるようにと、一年前から意識していたことが具体化したということ。今は焦るようにアクセクとついていくのにジタバタ状態。まだ喜びは来ていない。ただ、自分は日本語をこんなに上手に出来るし、標準語もよく出来るし、日本語の朗読力はまあまあだ。それが出来るなら、他の言葉ででも、同じような喜びを得られるはずという妙な出来そうな予感だけはある。7/27/2012 4:31:10 AM(金)
2012年07月26日
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一日に一行でもノートに文章を書きだそう。一週間の間、こまめにテキストの単語を調べる。読み方。意味。前日みっちり深堀り。緑茶を飲みながら書いています。ハングル3回目、やっと仲間と歩調が揃ってきた。予習ありき。予習こそ肝心。借りてきた本は電車で往復40分を日々読み、早急に読み尽くそう。7/24/2012 10:32:56 PM(火) ハングルから早々に帰宅して、日没前までの時間を利用してアカスリ。今年はまだ、においの徴候はない。が、ラマダーン痩せが早くも現れた。ジーンズがゆるくなる。下にさがる。裾をまくる。痩せ現象が面白い。自然塩を入れて小豆玄米ご飯を炊く。オクラ納豆。最近、煮干し削りに醤油少々をたらしかき混ぜると、ふりかけが出来るのですが、それを食べると、スタミナがつくと感じている。水は毎日2リットル必要ないことがわかってきた。夜は24時には寝ること。今日はその予定。6時間寝て、6時に起きればよい。飲食なしでも、どうってことはない。少しでも時間を勉強にあてよう。ハングル初級メンバーが私を含めて4人。遅れて参加したため「末っ子さん」と今日よばれ、かわいがってもらった。食後、詩の朗読練習をした。5日後に発表会がある。全体で11編を読むが、その内、自分は5偏を読むので、通しで練習してみた。いつもラマダーン中は静かに過ごすのに、今年はパワフルに日中も普段の時と変わらないかのような行動力。そのことを忘れてしまっている。今日のハングルの時も、講座が終わって、さて皆さんお茶でも飲みましょうかとなったので、お先に失礼してきた。今年もラマダーンに参加できて、うれしいな。充実感がある。夏の風物詩となってきた。また明日から気を引き締めてハングル予習を少しでも前に進める。油断してはすぐに遠のく。忘れる。意識からはずれてしまわぬように、自身をせっついていこう。けど楽しんでいこう。できれば楽しむために、詩の朗読、ハングル版をコピーして、自分なりに簡易製本してみようかな。全体を把握し、目で追えるように。明日それをやってみよう。明日は仕事。楽しみだ。仕事が何しろ一番らくで落着く。今日はそんな予感がしていた。丙戌。正官・冠帯(印綬)の日なので、これまでの焦燥感、寂寥感、疎外感を粉砕できた。自分を低くしよう。小さき者とみなそう。どんなことでも風呂敷に包みこんで消化していこう。この一週間は、24時就寝、6時起き。朗読発表会の時の服をどうするか。衣裳係さん頼みます。何か適当な服装を考えておいて下さいませ。とても苦手なので。あなたなら上手くやってくれると思うから、ハングル天使さんに加え、コーディネーターさん、お助け願います。日記が今日一日の反省会になるとわかった日。7/24/2012 11:14:43 PM(火)
2012年07月24日
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ハングル教室に通いたいと意識し続けてきた。声をかけられた時が、最もタイミング良く、時を得たと思った。もう少し早くても気持ちに余裕なく、それどころではなかった。仕事がラクなため、新しい取り組みは、多少難儀であっても、無理やりでも頑張れそうな気がした。7/24/2012 1:43:14 AM(火)シフトの休日を、月火に設定し向けた。稽古日が火曜日。前日の月曜は一日かけてテキストの予習をする。そうでなければ、とてもついていけないと二回目に参加して、思い知った。自分ひとりが途中参加のため、苦境にある。疎外感は大変なものであった。それでも、スムーズに参加しているメンバーより、きっと自分が長続きして勉強をし続けるのだからと思いつつ、仕事をしながらも自身を励ましている。絶対モノにする。絶対できる。発音が上手くできる。ほめられる。大丈夫、大丈夫。君はできる。ハングルと絶対仲良くなれる。などなど、自分に心の中で声をかけてあげている。先日、職場でうれしかったこと。全体集合の場で、「匂いのキツイ整髪料やコロンなどは周囲に迷惑なためやめて欲しい。直接、その人のところに言いに行きます」と、リーダーが言ってくれたこと。匂いのことでは、夏場は具合が悪くなり、仕事に支障をきたすという体験が過去に数回あったためとてもうれしく思った。直接、同僚に言いにくいことであるため、責任者が全体の前で言ってくれたことは、とても胸がスッっとした。空気は大事である。職場のスモーキング・ルームとても狭く二畳くらいのスペースは気の毒な程。それに縁がないことに、自由を得ていると感ずる。扇風機。夏場は、全体にあたるようにと、扇風機の首をまわした時、その風が体にあたると具合をそこねてしまう。女性のリーダーが、高い台に扇風機をあげて、風を人でなく、床にあたるように、空調をかきまわすようにセットしていかれた。これは、いい。なんて、センスのある女性だろう。さすが、女性の体を心得ている。その方を心の中で称賛していたら、その方に伝わったかのようだった。仕事終了後、フロアーを出る際、礼儀正しく挨拶をしたら、その方が、丁寧に挨拶を返してくれた。少し前までは、怖い人と委縮する思いを持っており、なるべく目を合わせないようにしていたのだが、最近では味のある人だなと思うようになった。今日は一日ハングルの予習に追われて休みも緊張しつつ勉強にいそしんだ。ラマダーンは仕事をしている方がよっぽどラクである。が、普通に日没後に夕食を取るって、何ていいことなのだろう。体がとても気持ちよさそうだ。月曜が休みだとハングル講座も見られてラッキーであることに気づいた。まだもう少し勉強。7/24/2012 2:18:57 AM(火)
2012年07月23日
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7/22/2012 2:45:15 AMハングル教材CDをBGMに流しつつ書いています。帰宅早々、誕生会のケーキが待っており、22時帰宅後、シャワーを後回しにして、食事、ケーキ、トロピカルジュース、南部煎餅。19時から21時半までの間に水をチョビチョビ2リットル。昨日の午後、街を歩いて、肌寒さに秋のようだと思った。今年は壬辰ゆえ冷夏なのか。職場の食堂は賑やかで、笑顔とおしゃべりに活気がある。ストレスとは無縁の顔。まるで昔の銭湯のよう、と思ったのはおとといのこと。仕事終了後、いっせいに席を退席、ドアから出て行くさまが、まるでコンサート会場のよう。こういう職場を求めていたなと思った。大きく広いフロアー、大人数の中で働く空間に身を置くことが、ラクな気持ちで仕事ができると考えていた。笑顔と活気と交わす挨拶が明るいことが何とも気持ちいい。そういう中で、この夏、ラマダーンの恩恵にあずかれることが幸いである。ケーキが入ったあと、コーヒーをいれる。Tシャツ一枚では寒く、長袖の木綿トレーナーを重ねる。コップ一杯ほどの湯を入れた湯たんぽで腰を温める。まだ、シャワーを浴びていないせいなのか、眠気に倒れる気配に見舞われず、しばらくネットをチェック、最後はハングル・ユーチューブへ行きつく。眠気。それなら、とハングルマルの教材CDを流しつつ、イスを二つ並べて横になる。オッと、目を開けるや、2時をまわろうとしていた。飲食ストップまであと40分、洗った分のキャベツの葉を食べ尽くした。人参2本をすりおろし食す。あけぼの時間がきた。2時43分。ラマダーン日記に向かった。これから、台所の洗いモノをして、シャワーを浴びて寝ることにする。6月27日(水)己未、この日の午前2時頃に見た求人雑誌のある頁を破っておいた。それから眠って、10時からの韓国ドラマを1時間みて、「推奴(チュノ)」だったか、「ファン・ジニ」だったか。それを見終えたあと、30分程またまどろみ、目をパチリとあけ、今から行ってみようかと突然おもいついて電話してみる。夕べの切り抜きの求人。起きあがってから、指定の時間に間に合わせるため、水も飲まず、派遣登録へ。何と4時間程もの時間をPCに向かうこととなる。すぐに仕事を紹介されたが、少し待ってくれと保留にしてきた。翌日の28日の午後、それでお願いしますと電話を入れる。そこから3日後から働き始める。起きて、水も飲まずに出かけてPC作業に4時間休みなく投入出来たことに充実感覚える。こんな調子でラマダーンを行えば、簡単に出来るという感想を持つ。それで今年のラマダーンはいっそうラクである。充実感も笑顔もある。干からびた体に水が入ると、生命体がみずみずしく潤う。意識も明晰になる。お手洗いの鏡に映る姿も若々しい青年の草のようなのである。7/22/2012 3:44:59 AM
2012年07月21日
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久々に日記を書きます。今まで、ラマダーンの時期は、日記を書くことで上手く導かれてきたため、今年も一年ぶりに、ここに書くことにします。今年は、帰宅時間が遅いため、どう、時間をやりくり出来るかと、前日まで、わかりませんでした。が、おしえられるものがあり、夜は24時前に眠りにつくこと、数時間でも仮眠をとって、2時に起きればよいと、ヒントが与えられました。 ありがとうございます。ピタリと目が覚め、起き出しました。PCスイッチを入れ、タイム・スケジュールを確認。そうか、曙時間が、2時41分なのかと。水を一本ちょびちょびと。キャベツ葉を洗い、まずはお腹にしいて、それから、気合いづけにコーヒーを少々。この一年で、これまでの量を8割セーブ。100グラムを極たまに買う程度に。 キャベツはよいものが手に入った。何もつけなくても、葉を重ねてバリバリ、おいしいと思った。ラマダーンの恵みだなと思った。この月は世界の人たちを意識できるので、どうしても、参加したかった。誰とも、ラマダーン仲間がいるわけではないけれど、時間帯を意識して飲食する仲間がいることに連帯感を感じる。 必ず感動があるから、今年も上手くいくようにと、意識してきた。何とか、出発できて本当にうれしい。ほぼ一年間、働かず、家にいた。去年は、仕事をしない中でのラマダーンを過ごした。それは、それで良かった。が、やっぱり働いている方が自分の性に合っている。何しろ、会社に出勤することで、毎日40分は歩くから、脳も活性化されるし、精神的にも快活である。 7月1日から働き始めた。仕事はとても合っている。ラクに感じる。充実感もある。緊張、気づかい、適度なそれが心地よい。職場で60代かと思われる人の顔ぶれを多く見かける。それが新鮮である。そこが好きだ。これまで20代の人たちが多い職場に4年もいたため、風景がとても違う。60代の人達の魅力を感じるし、また癒されもしている。7/20/2012 5:21:36 AM2012年7月20日(金)4時40分より書き出し曙/2:41日の出/4:28昨夜○22時帰宅 ○22時半シャワー済み○22:40分から食事豆腐一 納豆小3 玄米飯小2 のり玉/ふりかけ 韓国のり1 熱い味噌汁を最後に飲む するとお腹がちょうどよくなることがわかってきた詩の朗読練習5偏×2回で23時半23時半の就寝~~2時起床(2時間半)○水500ml○コーヒー大匙1(豆)量を抑えるため、湯のみ茶碗で薄め○黒砂糖を少々○すり胡麻/白○キャベツ葉3、4枚
2012年07月20日
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「今回が一番よくできている」毎回思うことは、回を重ねるごとに、そう感じさせて頂くことです。2011日8月30日7:20~イードおめでとう。今朝は5時半に起きました。(八月一日から八月二十九日までラマダーンの断食部門のみ参加七回目終了)今回も断食時間が無事終えられて、気分は感慨無量です。いい期間でした。善き習慣を与えられましたことを神様に感謝致します。 仕事をしておらず、ずっと、家で過ごすことがほとんどでした。日中、入院患者のようなのろのろ動作でありましたが、トイレ後の手洗いを終えた後には肩逆立ちのポーズをすると決め、一日に何回も、壁に向かって逆立ちをしました。砂時計をひっくり返して血液を動かしているという情景で、お腹にものが入ってないと、ヨガのポーズがラクに出来るとわかりました。 今朝、普通に日の出時間(5:03)後に起きてみると、体調はすこぶる快調で、気が漲っていると感じます。起きて水を500ml飲んで、珈琲を入れて飲んでみましたが、新鮮な喜びがきます。このラマダーンの断食習慣は、私の毎年の恒例の習慣になるでしょう。霊性が非常に善くなる、キレイになると実感するからです。自分って、なかなか素敵だなと思えるからです。よく、やってるねと。 こういうきっかけからイスラームを理解していこうとする行為は、世界の平和につながる歩みよりです。イスラームの方は、周囲に、まだ誰とも出会ってはいませんが、いつか、役に立つ時がくることでしょう。今後、図書館でコーランを手にとって読んでみることでしょう。一日に五回の祈り、まだ、やってみたことはないのですが、やってみようかな、と、今そういう気分がおこっています。 夫もよく協力してくれました。寝過ごさないように。声掛けを。で、こういう中で、家にお客様もいらっしゃる機会があり、家事も出来る限り、頑張りもしたのです。体にハンディのある人のようなノロノロ動作ながらも、合理的手順を考えて、量も多く、質もよく、掃除をある段階まで進めることが出来ました。(お客様に感謝)夫・母の霊界が、私にきて、家事を指導してくれたように思います。 ノートに日記を書いていました。曙時間、日の出時間と、準備しながら、ノートに向かうと、言葉がどんぶりこドンブリコと、川のように、おもいが、ノートにすべりだします。(ワタシが先、ボクが先)つぎつぎ、あふれるものですから、書ききれず、あちこち、意識が飛び跳ねて、詩人って、こんな感じなのかなと。断食時間を設定すると、書く喜びは、楽しくて、豊かで、充実。幸せで、たまらない。 ああ、神様、生きているうれしさ、神様との霊的交流、なんて、おいしい御馳走でしょう。この期間は、たくさん、読むこともしました。いい読み物も見つけたのでした。夫にも、その充実をおすそわけしました。朝5時~6時まで、足から頭のてっぺんまで按摩しました。頭の方にきたときに、いろいろ得た情報を話してあげ、感動したことを毎日話してあげるのです。夫は按摩もうれしいし、話にも感じいってくれ、それが、善き習慣にもなりました。神様、ありがとうございます。(7:51) これから書くことは意義があります。書いたものを印刷して文集にしていきます。本にしていくと場所を取りません。紙をまとめ縦にしまうと邪魔になりません。私は詩を書く人になります。書いたものを、朗読しつつ推敲しますと、短い一行の詩が、神様の声となって誕生するのです。(9:12)
2011年08月30日
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「魔女の宅急便」もう4、5回目観ているというのに、新たな発見があって、泣けた。何度みても人の目に新鮮に映るとは、アートなのだなあ。古典として残る小説や絵画と同じような作品なのだなあと納得がいった。魔女って、本当にいるのだなあと、今日みて初めて思った。魔女とは、天使のことなのだ。見た目、人間と同じ。しかし、天使には、天使の住む世界がある。人間は、人間で、自力で自転車をこがなきゃ空を飛べないとして、飛ぶ天使を見て「かっこいい」と興味をもったり、おもしろく思ったりする。が、本当は、その能力を持っているのだが、事情があって潜在能力を出せないで、可能性を眠らせたまま隠し持っている。映像の中に入り込んだ自分は、自分も実はキキと同じように、ホウキを自在にあやつって空を飛べる気がしてならなかったのだ。(2011年7月8日)途中、天使の魔女は人間に恋をする。そこが、落ち込む、試練のウィークポイントだ。人間がアニマルセラピーというくらい動物に癒されたり助けられたりするように、そうか、天使世界にも、全く同じような動物が登場するのだね。彼らは、彼らの言葉で会話をする。心も通じる。黒ネコのジジはキキの補佐役として、助け合いながら修行の旅に出るのだけど、途中で、ジジが近所のネコに恋をして、キキとの会話が通じなくなる。ジジの姿は、キキを鏡に表したような存在なので、ジジの様子に、キキは「あっ!」と、魔法の力が弱まっていることに気づくのだった。ちゃんと、キキはわかっていた。自分の気持ちの状態がおかしくなっているってこと。男の子のトンボと親しくなったけど、トンボの仲間たちがワイワイ楽しそうに登場すると、妙に寂しく、意固地な心の状態がおこってしまう。皆はカラフルな流行のおしゃれな服を着ていて余裕のある立場だけれど、自分はそういう子たちとは立場が違っていて、働いて稼ぎを得ないと一生ホットケーキばっかりの生活になってしまうという生活感のある立場。しかも魔女の服は黒系のダサイ服と決められている。天使はあくまでも、黒子なのである。けれど、なくてはならない、重要な存在として、神様から、特別、人間をサポートするように、あらかじめ、計画されて、創造されている。最後、キキは、人間の男の子のトンボの窮地、絶対絶命の危機を助けます。人間の危機を助けるからキキっていう名前なのだね。悩んでいたキキに「助けなきゃ」という使命感がおこります。本来の魔女の役割は、そこにあるから。13歳の魔女の修行は、人間を助ける使命があったのだ。そこで、使えなくなっていた、魔法が蘇る。しかも、非常事態の時は、自分のホウキでなくても、現場に居合わせたおじさんのデッキブラシでも、魔法をかけて、使えるようにしてしまえる。「いうこときかないと燃やしちゃうわよ」とデッキブラシをおどしてみたり、「お願い、言うことを聞いて」と頼み込んだり。モノに生命を吹き込んで、つかえるモノに立ち上がらせる。天使のモチベーションは人を支えること。役立つこと。かわいがられ、愛されること。しかし、姿形が同じ13歳というのに、「仕える立場」を自覚するのは、心が大人でないと、13歳の天使だって、簡単なことじゃない。つかえるって、とっても気苦労がいるものなのだ。また、天使だって、友達が必要。わかり合える友達が。天使も修行中だが、人間も修行中なのだ。人間は、必ず、天使が通った道を、通らなければならないようになっているのだ。黒子のキキを笑顔で上手に渡れるようになって、初めて、赤・青・黄・白という自由な服を、自在に着こなせるようになるのだ。
2011年07月08日
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生協の野菜が好き。特に好きなのは、毎日でも生で食べたいキャベツ。他の買い物は夫が車で調達してくれます。味噌と醤油と塩は、お値段高めでも、品質のいいものを。玄米菜食者には大切なことです。純粋な調味料は、食事に幸せと充実を与えてくれます。昨日の夜は、玄米にごぼうを細かく刻み入れ、さつまいもはおやつ用に丸ごと圧力釜に一緒に入れて炊きました。朝は生の人参をガリガリ味噌で食べ。大根は塩で只今、浅漬けにしているところです。(2011年7月8日)(未発表の過去日記11月22日(月)2時/満月)2010年11月23日(火)3:51の下書き)【もしかして・・おもいつきですが・・満月を意識する意味とは、霊界の家族との面会日の意味?がありますか?神様。ならば新月も?上弦も?下弦も?そうでしたら、ひと月のうちに4回、面会日がありますね。どうしても、満月から48時間以内に書き終えたい。いいえ、ぎりぎりでも大潮の期間内に仕上げるべきです。その他のスケジュールも立て込んでいるのですから、悩んでなどいられません。マス目を埋めることは、とにかく、なんでも、どうにでもなるのです。ですが、神様、せっかく、講座に参加しているのですから、この締め切り期間の中で、何かを突破したい。何かに到着したいのです。テーマごとの私における節目を作りたいのです。決着をつけたいのです。そうしたら、とーっても合理的でありましょう?一石二丁。合理的好きな私は、一つのことをするのに、最低二つの効果を得たいという人なのです。私は偏官の女ですから。夫を「好き」と口にすれば、夫も気持ちよく、また発信源の自分の気持ちも幸せになれるのです。今回のテーマは「他人を描く」です。誰を描写したいか、さほどの迷いはなく、描写したいのは、祖母「かよ」です。かよさんは、明治30年6月4日生まれで今も生きていれば113歳です。わけあって、かよさんは、娘を出産後、すぐに赤ん坊を手放さなければならない事情がありました。話せば長くなるその事情を説明しようとするとき、私の心も辛くなります。きっと、かよさんも。きっと母も。ですが、おばあちゃん、私はここ、最近、おばあちゃんを心の中で、たびたび声をかけて、おばあちゃんに話しかけていたのです。おばあちゃん。あなたが生存していた期間、対面したのは、たったの一回です。母は自転車に小さい私を後ろに乗せて、田舎道の実母のいる家を探しあて、会いに行ったのです。何かに突き動かされて、突進した、衝動的な行為だったかもしれません。すでに母の養父母は他界していましたし、遠慮や気遣いする人は誰もいませんでした。農家の納屋で、老齢化したその人は、ぼけ症状がきているようでした。腹巻にお金を入れて「世の中、金だ」そう言っているようでした。私の年齢は5、6歳だったと思いますが、その人は、少し気がフレテルように感じられました。若い母は、私はこういう者ですと、挨拶をしたでしょうが、対話になっていませんでした。座って、挨拶したり、お茶を出して、しみじみ語らいをするという場面はのぞめませんでした。母は10分、20分、その場にとどまったでしょうか。気がフレテいるような、その人を目にして、落胆したようです。帰り道、来なきゃよかった。がっかりした。来るんじゃなかった。悔恨の言葉を発していました。「ふーうん」子供の私は客観的です。~続】
2011年07月08日
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岸谷五郎演ずる秀吉を観て、新たに思ったことあり(『江』)実際の秀吉は見た目もいい男だったのだろうな。茶々も秀吉のことを好きになったというのは本当だろうな。惹き付けられる魅力があったのだろうな。なぜか気になって、どれが本当の生年月日なのか、いろいろシミュレーションしてみた。ああ、やっぱり正しい年月日はコレだ。年譜ともピタリと合う。利休と一体化していたら朝鮮出兵はなかったなと思った。(他の発見も。亡くなった夫・父がつけた夫の名、その一字に無理やりついている「臣」という字。父はもしや秀吉が好きだったのかなと思った)【豊臣秀吉1537・3・17生/丙午・帝王(比肩)/癸卯・正官・沐浴(印綬)/敗財・死(正財)62歳/1598・9・18没/大運・戊子・食神・胎(偏官)/流年・戊戌・食神・墓(食神)/月・辛酉・正財・死(正財)/日・辛未・正財・衰(傷官)】(利休は月・傷官/年・印綬の人物ではないかと検討をつけた/本日2011年7月8日)【2010年9月文章講座・課題テーマ「9月10日」の提出文】『文章講座の第二回目を休んだ自分は、次の課題テーマに対してずっと書けないで、時をやり過ごしてきてしまった。締切日は10月8日。昨日である。昨夜23時時点でどうしようか悩み、いったん寝て24時に目を覚まして、これから書こうかと起き上がる。少し考えて、夜はどうせ気持ちのよい文章とはならないのでと目覚ましを4時半にセットして眠ることにした。眠りの中でももがいていて、ついに、朝方、「ああ神様」という声が心の内におこった。夫の手を握る。「どうしたの?」実はずっと悩んでいて・・。最近書くことができないでいて・・。会社で新しい部署になってから、案件ごとの説明文章に、こと細やかなチェックを受け、とくにあなたの文章は長い、3行に短くまとめてと言われ、自由な気持ちで日記も書けない状況に陥っていて・・。「うんうん」前の部署では、どうぞお好きなようにと自由にさせてもらっていた。けど、今は自分を成長させてくれる場所だし期間なんだと思うんだ。「うんうん」で、実は文章講座の締め切り日が昨日迄で、最低、今日の出勤前までメールで送らないと載せてもらえないんだ。「うんうん。それはどうしても出さなきゃならないの?書けなかったら書けないでしょうがないんじゃないの」うん。私もそう思った。でもね、今回のことでこう思ったんだ。人は限られた期限の中で生きているんだって。この地上に生きている期間は有限なんだよなって。限られた期間内にやるべきことをやるっていう訓練なんだなって。「うんうん。で、どうするの?」うん出すよ。これから起き上がって書くことにする。2010年9月10日はイスラームでは断食月終了後のイードというお祭り日。イスラーム研究から6年、断食に関する恩恵を健康面で受けてきた自分は、イスラームに関する美点は原稿用紙30枚は書けそうだ。が、スカーフを被った人たちを見かけても一度も挨拶をしたことがなかった。私が住む地域ではどこに、そういう人たちが住んでいるんだろう?初めて興味を持った。日の出時間、青汁ジュース作りのための若葉のヨモギを摘みに行くのを休み、出勤時間前までインターネットと地図帳でその場所を知り得た日。行ってみよう!という時がきたら、いつでも取材に出かけることができる。そういうところに行きついた記念すべき日。』
2011年07月08日
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仕事は辞めたものの、電車定期が7月21日迄あるため、私は散歩と称して、毎日15時半になると出かけ19時に戻る。街に出て本屋を巡り、帰りはついでの野菜の買い物をし汗だくで帰宅。運動後の水シャワーが爽快だ。が、それも一週間続くとつまらなくなる。飽きるのだ。作戦を変えよう。5時半の始発に乗ってみよう。おおかたの人々がまだ眠っている。やはり散歩は朝がいい。朝の霊気、大気を吸い込んで、質のいい日の光を全身で浴びる。歩く、走る。モチベーションが上がるではないか。帰りは6時31分の快速に乗ってくる。待ち時間がガラガラのため朝一の新聞を広げられる。人がドヤドヤ入って来た。新聞はしまい本を取り出す。昨日心にこうしてみようと描いた小さな目標は達成した。小さな成功をいくつも重ねるって大事だな。少しずつ大き目のことも描いてみよう。あなたはやろうと思えばできる子だ。必ずできるから。(2011年7月8日(金)午前)(2010年7月文章講座・課題「自分を描く」の提出文『私は人の美点をキャッチする能力がある』)『ふいに出た言葉が、詩になって、私の心をふるわせた。「私は人の美点をキャッチする能力があるんです」だなんて。しかし、よく言ったものだ。新人時代、先輩女性の私に対する独り言を聞いて、涙を流したことがある。「自己中心的、デリカシーがない」数年後、一度だけ帰り道に長話をした。「今もあやまる気はないよ。けど私のことを人に悪く言わなかったね。魂がきれいだからなのかな。でも私のことは苦手でしょ」えっ、あせった。思いついて、私は自分の母親の話をした。「身内だから聞きづらいことを言うのだ。他人がどうしてキツイことを言うものか」辛口な母の口癖。「だから、先輩のこと、初めからいい人だってことわかっていました。私は人の美点をキャッチする能力があるんです」先輩は声をあげて笑ってくれた。ある日、仕事でお世話になった上司男性に、お礼の挨拶のあと、こう言った。「私、○○さんの美点を、原稿用紙30枚は書けます」相手の反応は「ええっ?」細めた目からは涼しげな風がふいていた。私は咄嗟に発した自分の言葉に高揚した。いつかそれをやってみたい。一人につき30枚分の美点を書く作業。それを本当に実行していったら、どんなにか面白いことがおこるんだろう。仕事がうまくいったあとに、コメントを求められる場面がある。「上司の○○さんのおかげです」決まり文句のあとにもう一行だけ添えてみたい。(こんなにも感謝しているのです)という思いを伝えたい。その時の準備のため、日頃から心を動かされた出来事や、人から受けた恩を、忘れぬように書き留めておく習慣が出来ていた。具体的に何をありがたいと思っているのか。どのようなところに影響を受け成功したのか、詳細を文の中で明確にしていく。そういう作業をしていくと、ありがとうの気持ちは、私の全身に伝達される。さらなる美点を発見するセンサーが鋭敏になる。(こんなによくして頂いたのですから、その方が、どうか幸せでありますように)という思いが湧きだす。』
2011年07月08日
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負なるわだかまりを捨てようと紙類を火で燃やす。(2010・7・7)灰になる迄お経あげ見守った。祈り生じ涙。すっきり。面倒くさい牛蒡の皮削ぎをする気になる。お腹が空いた。生のまま味噌で噛み噛み食べる。30分過ぎてお手洗いに行った。「えっ!?」これは何?牛蒡の効用か?おしっこが「ジャーっ!」と勢いよく出たのです。(下記は2010年12月文章講座「他人を描く」の下書き)『「この十二月で八十二歳になります」昭和三年生まれのその方は、色白のためか、しわがないのではないか?私の目には見えないのだが。テーブル越しのその方との距離は一メートル半ほど。化粧はしていないようだ。目は澄んでいて、伝える言葉の感性は少女の天真爛漫さ。ひっつめの髪型のためか顔立ちは古風に整った印象を醸す。話しているうちに頬が高揚し、きれいなピンク色の肌から光が生じている。つややかに上気させながら、話すほどに、いきいきしだす。目を細め、はにかむような笑いかた。清潔感。お風呂から洗い上がったばかりというさっぱりした表情。コリアの本を読む会の常連Tさんだ。会費二百円はTさんが集める係なので、そのときに頭を下げて挨拶する程度。七十代後半にご主人を見送った後ハングルの勉強も始めたらしい。溌剌とした存在じたいに刺激を受ける。「熱中するものがなかったらうつ病になっていたかもしれない」とも添えていた。ある時、米粉と砂糖だけで出来ているという、昔ながらのお餅を買ってきて皆にふるまった。喜んだ私に「一つ残ったから、もう一つ、おあがりなさい」と私におみやげにもたせてくれた。明治32年に生まれ88歳で逝った祖母イトは、私の父の母親だ。一緒に暮らしたことはない。七十半ばの頃には皺がいっぱいあったという記憶。植物の葉脈を克明にスケッチしていた小学生の私は、ある日、祖母の住む家に行った。得意なところを見せたかったのか、外孫ゆえに気を引きたかったのか、そばに座って似顔絵を描いた。顔の皺の一本一本を見逃さなかった。それは祖母の気分を快くしなかっただろうなと、大人になってから思った。祖母の小さな部屋には大きすぎる姿見の鏡台があったのだが、刺しゅうが施された厚手の布カバーでしっかり覆われており、チラリとでも鏡部分が見えないようになっていたから。祖母は八人の子供を生んだ。イト五十代、立て続けに三人の家族を失った年がある。姑、夫、長女。悲しいことが同じ年に重なったのだな。私が所帯を持って落ち着いた年のころ、取り寄せた戸籍謄本を図に書き表しながら、祖母の人生を思った。女手一つで働いて、子供らを大きくしてきた。自由な時間が与えられた晩年に、熱中する趣味があっただろうか。長男家族との同居は折り合いが悪く、二男家族の家に移ったが、結局七十半ばからは旅館を経営している二女のところに落ち着いた。その場所で私は祖母の絵を描いたのだった。厳格な気質は、距離をおいた孫の立場で客観視するとき、りりしく、りっぱに感じさせる。が、近寄りすぎるときつくて耐えがたい性質だったろう。祖母の損は、思ったことをはっきり言葉に表現しすぎたことにあった。(私の正直すぎた絵の線も同じく)ですが、おばあちゃん。いいもわるいもありません。皺が深かろうが、きつかろうが、あなたのおかげで父は在ったのです。父を通して、私は今ここに在るのです。おばあちゃん、お仏壇に、中に餡子の入ったおまんじゅうをお供えします。』
2011年07月07日
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タイトル「牛蒡(ごぼう)」(2010年文章講座で書いたもの。課題「他人を描く」)『詩の朗読講座に参加して心に残ったことは、一枚の紙に作者の人生の年譜を作成してから、臨んでみてはどうかという講師の提案。その作品が生まれた年、その時代背景はどうであったのか。生活環境は、家族関係はどうだったのか。それらを理解した上で、はじめて作品を読むことができるのではないかというものだった。参加者の最高年齢の女性が82歳。テーブル越しの距離は1メートル半から2メートル。・・・あれ?82歳なのに皺(しわ)がなさそうだ・・・。私は40年前にスケッチした70半ばの祖母の似顔絵を思い出していた。植物の葉脈を克明にスケッチするように、一本一本の皺を忠実に描いた記憶。それが、祖母を傷つけたのではないかと、大人になってから気づいたのだ。その頃の70代の女性は、おそらく皆、今の70代よりも老けていただろうと思う。父は三男で、地元から離れ、遠方で仕事を持ったため、私と祖母との縁は薄かった。小学高学年あたりに、祖母のところに行った際に、絵を描いたというのが唯一の思い出である。祖母との接触はわずかだった。大人になって、所帯をもってから、戸籍謄本を取り寄せて、一枚の紙に図式化してみたことがあった。そこには、その人の生涯を物語る、年表の素材となる要点ウィークポイントが記されていた。出生。結婚。出産。死亡。その年月日と時間。誰が、いつ、届けに来たかなど。そこで、気づいたことがある。昭和26年(1951年)、祖母53歳の年、家庭から3人の死者がでたこと。最初1月に77歳の姑を見送る。次に12月12日午前2時、夫が56歳で他界。その次は、なんと、その翌日午前5時、長女24歳が結核で逝く。病人を3人かかえつつ、子育てをしていたということなのか。ああ、その一枚の紙はおばあちゃん、あなたの人生という詩です。どんなに重苦しい坂だったか。最も辛い時期だったに違いない。経済的にはどうだったろう。実家からの援助はあっただろうか。その年、末の男の子がまだ7歳だった。生涯9人の子供を生んだ。私が絵を描いた祖母70代半ばの頃というのは、小さな旅館を経営している二女のもとに落ち着いていた。長男家族、二男家族と上手くいかなかったからだと聞く。嫁姑の対立で、孫にあたる子供らは、母親に味方し祖母を敬遠したという。物事はっきりした気性ゆえ、言葉が辛口だったようだ。世話になっている二女に対してもズゲズゲとした物言いをし、悪いものは悪いと遠慮はなかった。そこでの暮らしはどうだったろう。小さな旅館は住居も兼ねていた。台所は仕事場であったため、祖母が気楽に入りこめなかったのではないかと想像する。お祖母ちゃん、いま台所で、牛蒡(ごぼう)の味噌漬けを仕込みながら、あなたのことを考えています。あなたは牛蒡のような人だ。皮そぎなど手をつける迄がめんどう。が、いったん体に入ると善き滋養となり排毒もしてくれる。二十三回忌、あなたの魂が安らかでありますように。あなたにもっとも関心をもつ遠方の孫娘より。』
2011年07月07日
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ラマダーンに備えて(時間表を作ろうか)と起きだしたのが2時前後。寝ていたのに、目が冴えた私は「何時?」。夫が携帯調べて時間を教えてくれた。お疲れで寝ているところすぐ反応してくれてありがとう旦那さん。【本日の曙時間/2時26分】と調べるところまで辿りついた時間が【本日の日の出時間/4時19分】だった。休憩を兼ねて日記。このラマダーン習慣が今年で6回目。すっかりやみつきになりました。心身の充実がたまらないのです。とっても詩的な時間に浸れるのです。この数年間というのは、ラマダーンの断食道場に救われた。振り返るとこの数年は、自分を否定される場景が浮かぶ。一言であらわすと「忍耐」という言葉が出てくる。ひたすら「自分を出さない」とか「自分を押し込める」とか。よく頑張ったね。よくやった。頭をなでてあげたい。昨日は昼12時迄寝ていて。7時に夫を見送ったあと横になった。朝ドラ時間8時に目覚ましセットしなかったのに「あっ」と、時計を見たら8時だった。その時、(あーそうか、背後の守護霊さんが、働いてくれているのだ)と気づいた。しばらく、話しかけることも、お礼を言うことも、祈ることも、できないでいたのだ。この休暇は、この数年における大型休暇である。色々な我慢の小さい傷を修復してくれる。寝たいだけ寝なさいよ。あなたはずっと頑張ってきたのだからサービスですよ。寝たかったら寝なさい。起きたかったら起きなさい。赤ん坊のように、あなたは自由だ。ピンクバンドを腰に巻いて。黒ゴムを両膝に巻いて。椅子の上に厚さ2センチの板を敷き、その上にバスタオルをかけて座っています。背筋を伸ばして書いているのですよ。このスタイルは、巻くだけダイエットの本が出てから習慣化した、私の素晴らしき「書く姿勢」です。仕事の時、この習慣を繰り返したことが、自宅でも自然体の姿勢に。私の人生における、善き生活習慣として身についた。ありがとう。仕事さんありがとう。どうしても身につけたくて、このダイエット習慣を。それでピンクバンドを絶えず身につけていた。今や、私の秘書的存在かも。天使さんと同じ。この地上生活は、生命の時間という万物。体の肉という万物。全て期間がある。その土台を養うために、食物があって。食物を用意するために、生業があって。日中はお金を稼ぐために仕事が主体となります。それをサポートするための控室のような家での休憩場所。この連鎖の繰り返しで、すっかり年をとっていきます。すりへります。土台の生活部分を節約し、小食にし、質素にし、家での精神面を充実させたいのです。今年の私の運勢は比肩・絶。今までのものとお別れしないといけない意味をもつ。もう、合わなくなっていた。気づかないふりしていたと思うが、そうでしょ。合わなくなっていたのでしょ。別れることは悪いことじゃない。私は偏官の人だから、仕事で苦労することが一番いい。家庭面が救われるから。仕事で苦労することによって、大切な夫を護る気がします。精神的な家庭に、今、きれいな水をそそぎ、風をあて、精神的おうちをきれいにぴかぴかにゾウキンがけできるなんて。ありがとうございます。(2011年7月7日(木)日の出4:19~「時間表」)
2011年07月07日
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【要る箱】・・・私は地上の中間霊界から、天上の方舟の自室を拠点とする自営生活に移動した。ガラリと日常に変化。自由。が、それら一切の管理者が自分となる。お遍路を歩くようでもある。生産しない、こうした日々が、必要だから賜ったのだ。一つの所にできるだけ長く留まる美学、それは断捨離すべき、古い掟である。時が、きたら、人は次のステップに飛ばなければならない。いつか、こうした変化に、本当に善かったのだと、実感として、深く沁み入ることがあるだろう。新聞整理を、仕事と同じ集中力でとりかかる。つまり、スクラップを意識しているので、「要る箱」へ入れるものを取りこぼさないだけを意識。あとは全部が捨てるものとなる。他の分別も、その要領でいけばいい。【思い浮かぶ顔】・・・先月迄の環境にいた人々の顔が浮かぶことあり。そういう時はその人の幸せを祈ろう。(幸せであるように。健康であるように。充実して喜んで。発展し成功するように)笑顔で祈ろう。そして、私の頭の想念もどんどん空にして、忘れていくのです。それが解決法。ここは、内観道場です。トイレで思った。入院患者は暇だろうから、本当は家でガラクタ整理をしたらいいって。【コップ一杯分の湯たんぽ】朝の日課。コップ1杯分を薬缶で沸かして20分ほど湯たんぽを腰に。肝臓がある場所というのはこんなにも冷えているのだな。毎回思う。夏なのに、肝臓部分が温灸を受け入れている。時々扇風機を回し調整。夜は必ず水シャワーで体全体を冷え冷えにするので、夜も食事前に20分やってみよう。新聞読んでいるとあっという間に、湯たんぽが冷たくなります。【枝廣淳子さん「朝2時起き何でもできる」】・・・夜寝る時『翌朝絶対すぐ起きる』と意識したら、起きられた。朝の手順。大断捨離にかたがついたら、茶道のお点前のように、順番が整って行くだろう。ガレキと汚泥のガラクタを先にやっつける。猛烈アタック。簡単にできます。とっても上手く行った。【キング・カレンストン「ガラクタ捨てれば自分が見える」】・・・昨日駅ビル本屋で最後手にとった本。ガラクタ整理とは宗教的行為なのだな。手に取っただけでビリビリ。雷雨の音、こうしてはいられないとホームに急ぐ。18時5分の快速電車。到着後、夫の車で大雨が落ち着くのを20分程待った。喜捨(きしゃ)っていう言葉が美しい。茶道も宗教的な要素があるのだな。自分における茶道を考えてみてもいいのだな。家庭は小さな喫茶店。自分における本「ガラクタ捨てたら~こうなった」というものが書けるのだろう。それが序章であり。ゼロ地点から物語はスタートするっていいですね。【坂村真民さん】・・・夜0時起床する。朝の7時迄を「純粋時間」と呼ぶ。祈りと詩作の時間。未明3時半、寅の一刻での祈り。この時刻に書いた作品は人を生かすものになると。病気をしない理由。今朝はその3時半にセットし起床。(淳子さんは目覚めてすぐパソコンの電源入れるとあったな)と思いつつも、まずはトイレへ。トイレって、数分の瞑想室。ひらめき室。天使との会話室。まずは、新聞整理しよう。思ったことは、何でもいいから、紙に書け。ここのPC白紙にも、とりあえず、検討案件を、とにかく書いてみる。具現化、現象化が起こる。ウェブ日記は、自分のための整頓室。2011年7月5日(火)7:20~辛卯・白青/甲午・青赤/辛酉・白白~『三時半起床』
2011年07月05日
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震災体験は自分の生命力を強くした。モノも人間も断捨離され・・・大丈夫、人は霊界で生命は続いているから。大丈夫、少し早く移動しただけだから。下の階の30代のお嬢さんが、津波で実印を紛失したという。新しい就職先に出す書類があるのにと、困っていた話を聞いて思ったこと。モノの生命は紛失した時点で使命を果たしたと、何かで読んだ気がした。いつか来ると思わなかったわけじゃない。パニック状態が起こる日のことを。どのくらいの規模かは予測できなかったにしても。「水とヨモギだけでも生きられると誰かが言っていた」と夫。私の事です。全くそれは私の口癖でした。夫に何があろうとも、働けなくなったとしても、私は水とヨモギがあれば何とか生きるだろうと。が、今回の非常時はまだ青草が生える手前でした。最後の雪が降っていたのでしたから。夫母から「もちっこ」で作ったというヨモギ大福餅を宅急便で送ってもらってからは、もう随分と経つ。まだ玄米菜食を知らなかった時。具合がすぐれず横になっていたい状態が多かった。頂いたその時も。パクパク続けて何個も食べた。少し皮が硬くなっていたのが、噛み締めるのには都合がよくて。味わって食べました。(こんなにおいしいものがあったのですねえ)食べたとたんに、力が湧くのを感じました。お母さんありがとう。本物はこんなに効果があるのですね。日曜の昼、夫が大福餅を買ってきました。「今までで一番近いと思わない?(母親が作ったものに)」と夫。「お母さんの手作りには負けるけどね。今のところ、二番だね。」いつの間にか、私の大好物になっていました。「お母さんのヨモギ大福餅なら一個五百円出すよ」コーヒーとセットで五百円だったら、なおいいなあ。これはお客の立場として、そういうお店があればいいなあと。自分の店のメニューとして想像したりすると、なお楽しくなった。(自分で作った場合、一個百円原価でも作れるのかもしれないなあ)「JIN-仁」の玄米を粉にし、黒糖で作る安道名津(アンドーナツ)が脚気を治す薬というのは実感わきます。私も食生活を変えてから、蘇りましたから。体の内外ともに。お母さんのヨモギ大福餅があれほど薬になったのでしたが、原料に玄米や黒砂糖が使われていたわけではなかったはず。それを玄米・黒砂糖・ヨモギ・小豆にすれば、これは素晴らしい魅力的なお菓子になるわけです。仁先生の安道名津より上等です。油も使いませんし、薬草が搗き練り込まれているのですから。ヒヤシンスの喫茶店ではメニューに取り入れませんとね。その時は餅屋さんを選んで外注しましょう。トイレ休憩、便器をヌカで磨く。EM石鹸で手を洗った後、ヌカで洗う。油分効果にご機嫌な手さん。コーヒー休憩、おやつは大2杯の白スリ胡麻と、黒砂糖の破片。日頃から、玄米・小豆・ヨモギ・黒砂糖を取りやすい方法で摂取していればいいのだね。大福餅にまで仕上げるには少々手間がいる。(真のお菓子とは愛だ)抹茶にお菓子も善いな。お茶席、お茶のお稽古に。やはり大福餅は手でガブリがいいのかな。健康に善いお菓子の店。家庭。作家さん。そういうものを食べている人は、読み手にいのちを与えるものを書くのでしょう。(『ヨモギ大福餅』2011年7月4日(月)~13時)
2011年07月04日
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