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■ともあれ、コロナについての現状をどう捉えることが適切なのかを考えるために本書を手にとった。賛否あって当然という内容で、これをどこまで「なるほど!」と読み、その一方、「この楽観視で大丈夫なのか?」という疑問も拭えない。■基本的にニュース以外はテレビを見ない自分なのだが、そのテレビのニュースとて、どこまで信用すればいいのかも、よくよく考えれば、よく分からなくなる(苦笑)。■ともあれ、本書が言及する問題点は、「煽りやバズりによる視聴率至上主義のマスコミ」「煽りやバズりに便乗し、タレント化した専門家」「無責任な政府の対応」といった辺りで、確かに、今のニュースやワイドショーの中心ネタが、今度はポスト菅政権の話題にもちきりなのは、それが視聴率を稼げるから、ですね。■まあまあ身近な問題意識としては「専門家」だった。テレビ等に出演して「専門家」の肩書でしゃべることは、本人にとっても優越感に浸れる幸せなこと、といった皮肉が、本書の著者にはあると思うが、実際、各大学のウェブサイトのトップページには、「本学の◎◎教授が××テレビに出演」なんてことが掲載されている。こういう風潮も「なんちゃって専門家」を増やしていくことに寄与(?)しているだろう。■話は戻り。本書の著者が、若者や、営業自粛を余儀なくされた方たち、を気の毒とするのもまったく賛同できるところだった。特に、中学から大学、大学院といった青春を謳歌すべきタイミングでオンライン授業、部活の自粛等の犠牲を払わされている。■ともあれ本書の著者の主張の妥当性は、専門家ではないので(苦笑)、よく分からないが、対コロナ対策で「こうすれば大丈夫」「ここを気を付ければオリンピックは大丈夫」といったことを、きちんと発信しなかった関係者の責任は大きい。まあ、普段耳や目に入ってくるコロナ関連の情報に、少し立ち止まって考えることも大事で、その上で、こうした本を手にしてみるのは有意義だと思う。■何にせよ、きちんと議論すること。責任者はきちんと責任の所在をはっきりさせて、きちんとメッセージを発信すること。エビデンスをきちんと見極めて、科学的に考えることが大事。ゼロコロナという病 [ 藤井聡 ]
2021.09.12
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【中古】 春の戴冠(1) 中公文庫/辻邦生【著】 【中古】afb■なんと、約10年ぶりの投稿です!いろいろ思うところはありますが、おいおいと──。■本書で、印象的だった場面を2つほど記しておこう。ひとつは、ボッティチェリが有名な「春」を描く際に、古典学者である主人公が、示唆を示唆を与える場面だった。絵画において、ある種、理念というものがこういう風に込められていく様は、興味ぶかかった。■もうひとつ印象的だとすれば、ボッティチェリを主人公としているようでいて、実際は「フィレンツェ」(本書ではフィオレンツァ」であることで、ということは、ルネサンス時代に都市国家の寄せ集めだったイタリアの、社会的、政治的、経済的背景が、メディチ家の盛衰を含めて、複合的に描かれていることだった。当然、権力闘争はなまなましく、後半に登場する修道士に先導されていく若者たちの姿は、なかなか考えさせられる。
2021.08.13
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ことばを読む【中古】afb■このところ仕事や研究に忙しく、それらに関係ない本はなかなか手にとる余裕がなかったのだが、少し前に読み始めた本書を一気に読み終えた。リンクからも分かるように、どうやら今は入手困難のようだ。■井上ひさし、といえば、ことばにこだわった作家というイメージがある。本書は、朝日新聞に連載されていた文芸時評をまとめたものだが、彼が選んだ本は、まさにことばについて考えさせらるものだった。■とりわけ目を瞠るのは、的確なことばを引用する著者の眼力。例えば、山口昌男の対談集を取り上げた回では、レヴィ・ストロース、ヤコブソン、スタイナーを例に挙げる。とりわけこんなことばは現代に通じるだろう。 ……近ごろ人間は、あまりにも多くを発言し過ぎるのではないでしょうか。 あまりにも多く、あまりにも早く、発言し、印刷しすぎます。 コミュニケーションのインフレ時代に突入したわけです。 ちょうど、経済インフレになると、紙幣ばかり盛んに印刷されはするが、 価値はほとんどなくなるのと同じで……そして、同じくスタイナーの次のことばは鋭い。 文明とは一つ部屋に静かに座っている能力なのです。■また阿部昭の『言葉ありき』からの引用の引用をすると 物の名は愛ではなかったのか。これでもまだ言葉だというのか。また清水徹の『都市の解剖学』を取り上げて、大都市の陳腐化に対して、このように書く。 ではどうすれば各人のうちに都市が生き生きと「再生」するのか。 どんな目的もなしに都市を歩くのだ、と清水はいう。 「その都市の中に積もり積もった時間的な記憶を読むことであると同時に、 これからあるかもしれない記憶を読む……」ことだという。 読み抜くうちに「土地の精霊」とめぐり合(ママ)うことができよう。そして著者はその稿をこう終える。 書物はまた都市でもある。 読み歩き、精霊とめぐり会(ママ)おう。■とにかく引用のうまさのある本書のなかで、これ、というのを最後に紹介しておきたい。佐々木邦の文章。 日本ぜんたいから見ると国家の役に立つ人間が一番えらい。 世界ぜんたいから見ると人類同胞に貢献するものが一番えらい。いいかね?
2011.09.15
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【送料無料】読んでいない本について堂々と語る方法■そもそも、この本を読んだ、この本は読んでいない、というとき、「読んだ」や「読んでいない」の定義は何だろうか。本書によれば、読んでいないにもいろいろある。まったく本を開かない、にはじまり、流し読みしただけ、一部だけ目を通した、まで。■一方、読んだといっても、じっくり目を通したつもりでも、結局その内容をやがて忘れてしまうのだとしたら、一体「読んだ」というのは、どういうことを指すのだろうか。こうした問題を通して、本書は書名通り、いかにして、「読んでいない本について語る方法」について教えてくれる。■まず大事なのは、 本を読むことは、本を読まないことと表裏一体である。ということである(19頁)。あまたある本の中から1冊を選ぶということは、必然的に読まない本が増える、ということになる。■そして結局のところ重要なのは次の通り。 教養ある人間が知ろうとつとめるべきは、 さまざまな書物のあいだの「連絡」や「接続」であって、 個別の書物ではない。本書のなかで具体例として挙げられるのが、プルーストの『失われた時を求めて』やジョイスの『ユリシーズ』である。このような超長大な文学作品は、別に通読する必要はない。大事なのは、これらの作品が多くの文学のあいだでどのような位置付けなのかを知っていることであり、それさえ知っていれば、読まなくてもいいのだ。そして、読まなくても、それがどんな作品なのかが説明できればいい。■著者がこうした問題提起をするのは、基本的に大学教員としての立場からである。読んでいなくても、各作品について説明しなければならない場面が多々あるからだ。しかしそう言え、それができるとすれば、ちゃんと読んで、それについてちゃんと説明してくれる方がおり、そうした本(や情報)があるからなのだが(^_^;)。
2011.09.03
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【送料無料】イタリアの詩歌■副題は「音楽的な詩、私的な音楽」(三修社)。ついに、ようやく出た、イタリアの詩法についての本だが、内容は残念ながら中途半端で、誰のために、何のために書かれた本なのかが分からなかった。■いや、おそらく音楽大学で声楽を学んでいる人が読者に想定されているのだろう。だが、前半の詩形の話は、ぼくは面白く読んだが、声楽を学んでいる者にとって、どれほど有用なものかは疑問。■そして、後半の音楽の話は、踏み込みが中途半端だった。音楽と言葉の関係にもっと踏み込んで欲しい一方、話がイタリア・オペラに限定されているので、どこまで踏み込んでいいのか、著者自身が戸惑っているかのようだった。■そもそも、イタリア・オペラにおける音楽と言葉の関係は、あまり厳密に深入りしても意味がないこともあり、その辺りの問題の整理もしてもらわないといけないのだが、どうも全体に急いで書いた印象があって残念だった。■音楽と言葉の関係にじっくり話をもっていくのならば、多少は触れられているが、マドリガーレをじっくり分析すべきだろう。だが、じっくり分析すればするほど、読者に想定されている声楽を学んでいる者はきっと読まないだろう(^_^;)。■勉強にはなるけれど、読後感は「だから何?」というのが正直なところ。せっかく日本語で読める最初のイタリア詩法の本なのだから、詩法に限定するか、音楽と言葉の関係にもっとこだわるか、どちらかにして欲しかった。■なお、譜例は大きさを統一して欲しい。小節数が少ないからといって、巨大な譜例はみっともない。あと、変換ミスが散見された。
2011.09.01
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【送料無料】マグダラのマリア■前期にお世話になった岡田温司氏の著書のひとつ。マグダラのマリアの存在は、クリスチャンなら当たり前のように知っているだろう。だが、そうではない日本人にとってはなじみがない。■本書もまた、彼女の来歴(?)を学術的に確認し、彼女が絵画のなかでどのように描かれてきたのかを綴る。彼女の存在が重要なのは、単純化してしまえば、悔悛の代表者であり、イエスの死と復活の場にいたことである。つまり、彼女がどのように変化し、どのようにイエスを受け入れたのかを絵画に描くことによって、イエスに対する信仰の足がかりにされたわけだ。■彼女の描かれ方を時代ごとに、あるいは画家ごとに比較するだけでもとても興味深い。しかし、岡田温司氏といい、中公新書といい、いい本を出してくれますね。
2011.08.31
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【送料無料】食べる西洋美術史■こちらも前期に非常に興味深く読んだ本。そもそもイエスにまつわるエピソードとして、いわゆる「最後の晩餐」は有名である。有名な理由はいろいろあるだろうが、人間の行為の根源として、ともに食事をすることの意味の重大さがあり、(誰しも、嫌いな人と一緒に食事をしたくない)だからこそ、一緒に食事をする仲間のなかに裏切り者がいることが際立つ。■ということで、「最後の晩餐」で描かれる人間模様の機微は興味深いわけだ。また、人間模様だけでなく、そもそもテーブルには、どのような食べ物が乗っているのか、ということも重要。というのも、例えば「最後の晩餐」ならば、そんなに豪華な食事はとっていないはずなのに、描かれた絵画はそうではないからだ。だとすれば、なぜ、ということになる。ひとつのテーマで絵画を読み解く面白さがある。■なお本書で取り上げられているのは、最後の晩餐はもちろん、庶民の食事の風景や食べ物の絵画も含まれる。
2011.08.30
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【送料無料】指揮者の仕事術■作曲家であり指揮者でもある伊東乾氏の著書。指揮者の仕事について、さまざまな角度から解説する。まずは、指揮者の仕事がいかに「交通整理」であるか、棒振りの仕事の物理的な面、リハーサルでの即物的な面、ベートーヴェンの第9を例に言葉の理解と解釈の面、文化史の理解、そして、リーダーシップのこと。■個人的に納得し賛同したのは、第9のところや文化史の理解のところ。まあそれは、たまたま今のぼくの関心につながるからだろう。シラーの歌詞をつぶさに解釈していくと、とてもじゃないが、年末に何度も演奏するような気楽な作品ではない。そのことを改めて納得させてくれる。■また、音楽様式の変化を音楽だけで考えるのは無理で、さまざまな文化との関わりのなかで考えなければならない。その大きな要素の一つが、音楽が鳴り響く空間との関係である。■その一方で難点を挙げるならば、本書の内容は書名とはややズレがあるだろう。全体はばらばらの文章を寄せ集めた感も否めないし、指揮者の仕事術からやや外れている側面も否めない。■何より、指揮者が自分の仕事について本を書いたりブログを書いたり、ということ自体、ぼくはあまり好きではない。あーだこーだ言うよりも、まずいい演奏を聴かせて欲しいと思う。
2011.08.29
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【送料無料】処女懐胎価格:924円(税込、送料別)■今年度前期に特にお世話になったのが岡田温司氏の著書。まずはこちら。副題は「描かれた「奇跡」と「聖家族」」。クリスチャンではない日本人がどうキリスト教を理解し、マリアの処女懐胎とイエスの復活をどう受け入れられるのか、という問題をさておけば、少なくともこれが、キリスト教文化を理解する上では興味深い観点であることは間違いない。■本書によれば、もともと「処女」と訳された原語には、「処女」という意味はなかったらしい。だが訳し間違えたまま、(そして訳し間違えたことに気づかずに)それを受け入れ、神学上の解釈が生まれたりし、マリア崇拝にまで発展する、というのはすごい。■ともあれ、マリア崇拝がキリスト教の中心にあることは確かで、それをどう受け入れたらいいのか、という問題を表現したものこそ、「受胎告知」をテーマとした数多くの絵画たちなのだろう。■本書では「受胎告知」の絵画を比較しながら、それぞれの絵が、天使ガブリエルがマリアに受胎を告知する、どの瞬間を描いたものなのかを検討する。果たして「懐胎」の事実をマリアは受け入れているのか、拒絶しているのか、あるいは戸惑っているのか──。■また、マリアの夫ヨセフに対する美術における扱いも興味深い。そもそもヨセフは、子供ができるような行為をしていないのに、妻マリアには子供ができてしまった。当然、傍からは後ろ指を差される存在である。だが、美術において、ということは、おそらく「処女懐胎」の受容のなかで、ヨセフに対する信仰(?)も起こってくるわけだ。■そのような美術における表現と、音楽における表現を比較するとまた興味深い。ミサ通常文のクレド部分には、イエスにまつわるすべてに対する信仰告白がなされ、そのなかでマリアの処女懐胎とイエスの復活も語られている。■クレドのなかで最大のクライマックスは、まさに処女懐胎とイエスの復活。これらを作曲家たちがどう表現しているのかを比較するだけで、興味深い事実がたくさん出てくるのだが、何よりも作曲家たちが、(ということは当時の聞き手も)、いかに処女懐胎を重視していたのか、ということがはっきり分かる。文化というものはすべてがつながっていることを考えさせられる良書である。
2011.08.28
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【送料無料】聖遺物崇敬の心性史価格:1,680円(税込、送料別)■クリスチャンでもない日本人にとって、キリスト教の理解は文化の理解にとって高いハードルともなるが、その理解の手助けになってくれるのが本書。■そもそもキリスト教たちが何のために巡礼をしたのか、といえば、各地の教会にまつられている聖遺物に触れるため、といっていい。イエスやマリア、また聖人にまつわるものが祀られている。それが聖遺物である。彼らの骨、衣服に始まり、彼らが触ったもの、彼らが訪れた場所などなどがそれだ。■本書で紹介されていたエピソードで衝撃的だったのは、恩恵を授けてくれた聖人が亡くなったときに、その聖人にまつわるものを手に入れようとして、人々がその聖人の死体にむらがり、死体をばらばらにしてでも、自分の家に持って帰ろうとした、というもの。■あるいは、死体をばらばらにするにしても、生肉のままでは腐りやすいので、わざわざ煮たこともあったという。つまり、それほどまでに、聖人たちにすがりたい、という人々の思いがあり、それが西洋中世の信仰や文化の根底にあったことが大事である。言い換えれば、当時における貧富の差、弱者と強者の差、病気の人と健康な人の差などがいかに大きいものであり、前者がいかに神にすがりたかったのか、ということでもある。
2011.08.27
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【送料無料】色で読む中世ヨ-ロッパ価格:1,785円(税込、送料別)■中世ヨーロッパの文化の中心は言うまでもなくキリスト教。ロマネスク建築からゴシック建築への移行にしろ、モザイクがからフレスコ画への移行にしろ、ステンドグラスにしろ、それぞれの特徴をあらゆる文化との関係でみていくと面白い。■本書は、中世の会がで描かれている内容と色の関係について分かりやすく解説したもので、これまた良書。とりわけ中世の絵画で中心的な赤・青・緑・黄色についてまとめられており、それを理解しておくだけでも、絵の読み取りかたが違ってくる。■例えば「受胎告知」というテーマは絵画では重要だが、このときマリアは何色の服を着、大天使ガブリエルはどうかなどには典型的な色が使われていたりする。■また有名なヤン・ファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻の肖像」で夫人が緑色の服を着ている意味などは、興味深い。本書によれば、緑には恋愛感情が象徴されているらしい。本来中世の結婚は政略的な要素が強く、結婚と恋愛とはほとんど結びつかなかった。だが、この夫人は違う、というわけである。
2011.08.26
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【送料無料】魔女狩り価格:756円(税込、送料別)■小著ながら、実に充実した内容の良書だった。ヨーロッパの文化を考えるときに必要なのは、さまざまな現象の根本にはどのような柱があるのか、言い換えれば、どのような文化のかけ合わせによってそのような現象が生まれたのか、を見極めることである。それを見極められると、文化の理解が楽しくなる。■ヨーロッパ文化の場合、通常柱となるのは3つ。「ギリシャ・ローマ的なもの」「キリスト教的なもの」「オリエンタルなもの」である。今回手にした『魔女狩り』は言うまでもなく「キリスト教的なもの」を考える上で重要。■ぼくの場合は常に頭の中に音楽の問題があるわけだが、本書はいろいろと考えさせるきっかけを与えてくれるものだった。例えば──■音楽作品との絡みで思いつく「魔女」と言えば、ジャンヌ・ダルクとの関係である。思い浮かぶのは、オネゲル《火刑台上のジャンヌ・ダルク》。百年戦争のなかで祭り上げられた彼女が、なぜどのように「魔女」であり、どうして「魔女」にされなければならないのか。なぜ火刑でなければならなかったのか。ここには、キリスト教の信仰と異端者との関係が絡んでいる。■またこの「魔女狩り」がルネサンスの最盛期に最も盛んだったこと、かつプロテスタントも濃厚に関与していたこと、バロック初期、つまり30年戦争真っただ中のドイツにおいて盛んだったこと、などは考えさせられる。そもそも「魔女」とは、熾烈な拷問によって「異端」を無理矢理告白させられた無実の人々だったからだ。■その異端者の代表である「魔女」のイメージは全ヨーロッパでほぼ同一のものに集約されていったようで、だからこそ無理矢理告白させられる「魔女」の集会やそこでの交わりについての内容も共通してしまった。■ともあれ、その「異端」は、カトリック教会、プロテスタント両者にとって忌むべきものだったわけだが、そこで思いつくのが、ベルリオーズ《幻想交響曲》との接点である。■《幻想交響曲》で登場する「恋人の幻影」は、「イデーフィクス」として音楽化されて全曲に現れ、最終的に第5楽章で奇怪なかたちに歪められる。この第5楽章の場面こそ、魔女のサバト、なのである。恋人が「魔女」化することと、そこでグレゴリオ聖歌が鳴り響くことの間には、これ以上ない矛盾がある。ここに極めて強烈な皮肉が込められていることを見てとらなければならないだろう。■最後に本書から引用(177-8頁) 魔女裁判に関する限り、宗教改革は宗教制度の改革であっても 宗教精神の改革ではなかった。 改革者は古い教会のドグマチズムにプロテストして 直接聖書に帰依した。神と直結した「キリスト者の自由」は そこから生まれたはずである。 しかし、改革者にとっては、神の言葉の解釈は ただひとつしかなかった。 そのただひとつの解釈は自分自身の解釈以外のものではなかった。 信教のイントレランス(不寛容)がそこから生まれるのは当然であった。
2011.08.23
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■ご無沙汰しております(^_^;)。某ブログの方はなんとかコンスタントに更新していますが、こちらは更新している余裕がなくなっています。とりあえず昨日読んだものをメモ。【送料無料】ギリシア文明とはなにか■タイトルに惹かれて買ったのだが、内容はタイトルとはかなりズレがある。本書の内容からすれば、タイトルは「古代ギリシアの国際事情」とか「古代ギリシアの国際関係」にすべきだろう。著者の言いたいことは分かるが、全体に情報過多で、広く浅くといった印象は否めない。
2011.03.31
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音楽と文学の対位法■う~ん、何とも評しがたい本である(中公文庫)。学術書としてではなく、あくまでもエッセーとして気軽に読めば、へ~と思うこともあるだろう。各章の文章は、失礼ながら、とりとめもなくだらだらと続き、いろいろなものが詰め込まれているだけで、内容はすっきりとしていないし、文章の論理も怪しいところが散見され、突っ込みどころも、かなりある。(どうもすみません。まあ、著者とは何の面識もありませんが(^_^;))■敢えて言わせてもらえば、ぼく自身が、まったく同じタイトルでまったく違う内容の本を書きたい。・・・もちろん冗談ですが(^_^;)。
2010.08.27
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不思議の国のアリス価格:380円(税込、送料別)■読んだのは角川文庫で。お恥ずかしながら(?)この小説をまともに読んだのは初めてである。ただ子ども時代に、自宅にこの絵本があったのは覚えている。■こうして大人になって読んでみると、なんとも一筋縄ではいかない作品だった。深読みをそそる作品でありながら、その一方で深読みを拒否したくなる作品でもある。もっと具体的に問題提起すれば分かりやすい。なぜアリスは大きくなるのか? また小さくなるのか?それぞれの動物は何を象徴しているのか?きっと多くの文学者たちが取り組んでいることだろうから、ぼくは遠慮しておこう(^_^;)。
2010.08.27
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瀬戸内海の発見価格:861円(税込、送料別)■副題は「意味の風景から視覚の風景へ」(中公新書)。瀬戸内海に接する県に住むならば、ぜひとも読んでおきたい新書だが、楽天ブックスでは品切れのようだ。■時代の変化により、美的評価基準が変化し、19世紀以降、近代的な風景美への評価が起こる。それが、瀬戸内海の風景にも適用されることにより、副題にあるような「意味の風景から視覚の風景へ」と変化した、というのが本書の主旨。確かに西洋美術史を少しでもかじれば、そのあたりのことは基本中の基本であるし、それに即した著者の主張は非常に分かりやすく、納得できるところも多い。■しかし、疑問もある。そのひとつは、近代ヨーロッパ的な風景美評価が日本における風景美評価とどのような関係があるのかが今ひとつみえてこない。いや、著者は関係ないと言いたいようなのだが、そのあたりもよく分からない。■また、著者は近代的風景のひとつを「自然景」と評し、それが歌枕や名所旧跡と関係する「伝統的風景」と対置させる。だが、そもそも万葉集などで歌枕にされたときの風景もまた「自然景」ではないのか。だとすれば、本書における「瀬戸内海の発見」はむしろ「瀬戸内海の再発見」ではないのか、という疑問も生じた。というのも、著者は実際、 七世紀の万葉のころ、 日本人は自然を捉え風景として歌に詠みはじめたのである。書いているのだから(104頁)。
2010.08.26
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紀州改版価格:580円(税込、送料別)■副題は「木の国・根の国物語」(角川文庫)。中上健次が被差別部落出身者として、故郷である紀州を旅するルポルタージュで、差別とは何か、被差別とは何か、そして紀州とは何かを考える。■差別/被差別とは何か、という問題についてはここで書く気もないし、書く時間もないのだが、いくつか関心をもって読んだことについてメモしておきたい。■ひとつは、作家が差別をどう認識し、それをどう描くのか、という問題である。実に鋭いと思わせるのは次のような指摘だ。 島崎藤村の『破戒』という物語が決定的に通俗なのは、 パスしきらず戒めを破らせるところにある。 それは切って血の出る物語を経過した部落民丑松の弱さなのではなく、 作家島崎藤村の、作家精神の脆弱さによる〔…〕『破戒』という書名が示しているように、丑松が戒めを破るところは、その小説のクライマックスであり、ぼく自身高校生のときに読んでどきどきしたのをよく覚えている。しかし、主人公に戒めを破らせるという物語の構造自体が単純化して言えば、ビルドゥングスロマーン的であり、ロマン主義的である。■それとは別に、本書を読んで関心を改めてもったのは、作家の「土地」との関係である。中上健次がフォークナーのヨクナパトーファに影響を受け、紀州サーガを書いたことはよく知られているが、作家にとっての土地(中上の場合、路地)は重要なキーワードであり、われわれ読み手もそこから読み解くことが大切だろう。■その土地という問題は、何も小説に限らず、自分自身のアイデンティティと深く結びついている。その一方で、出身地とは別の土地に旅行したときや今自分がこうして何のゆかりもなかった土地に住んでいて感じる、ある種の違和感というのは、やはりその土地ならではの何かであろう。別にそれは、その土地を否定しているわけではない。ただ、ふとしたときに、つい否応なく、讃岐とは何なのか、という疑問を頭をよぎる。もちろんそれは、信濃、と言い換えてもよい。■さてこの問題は、当然ぼくのなかでは音楽と結びつく。実際中上健次は旅の車中で、なぜかレゲエをかける。まあ音楽のことはこのブログでは省略するが、直接自分の専門とは関係のない本を読むことが、大いに刺激を与えてくれることがある、という典型的な読書だった。
2010.08.24
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楢山節考改版■『楢山節考』(新潮文庫)所収の短編。東京のプリンスたちとは、何するともなにふらふらしている男子高校生たちで、授業をさぼりまくり、アルバイトをしたり、音楽を聴きふけったり、喫茶店に集い、ただ会話する。■その高校生たちを、それぞれの視点から描く際に、各セクションで主人公となる人物をファーストネームで呼び、その他をセカンドネームで呼ぶ。■ではこの短編で作家は何を描きたかったのか。それを読み解く手がかりとして、ひとつの問いを発してみよう。正夫はテンコと二人で旅館(つまりラブホテル)に入る。二人は別に恋人同士でもなんでもない。村上春樹の小説ならば、さっさとやることやるだろうが(^_^;)、深沢七郎の「東京のプリンスたち」では、何もしないで、すぐに旅館を出てきてしまう。なぜか?■正夫がその気でなくなった大きなきっかけは、エルヴィス・プレスリーの音楽が聞こえてきたからだ。いや、この場面に限らず、この小説のいたるところで、プレスリーの音楽が流れている。そのプレスリーの音楽が常に「何か」と対置される。■ここでは「性」がそれであるが、つまるところ東京のプリンスたちの生活には虚無感しかない。何をしてもつまらないし、やる気も出ないし、他人に興味がないか、他人がうざったい。■興味があるのはただプレスリーの音楽だけだ。しかしながら、その音楽が彼らに何をもらたしているのか。実はこの小説には、喫茶店でプレスリーの音楽を聞く一方、別の高校生が入ってきて、その音楽を勝手に別の音楽、すなわちクラシックにかけかえる、という場面が2度挿入される。そういう喫茶店(名曲喫茶?)が昔あったのだろうが、ここで描かれる高校生たちと音楽の関係は、本人たちはそれぞれがかっこいいと思っているのに、傍から見るとかっこ悪いところが注目される。■つまり、音楽をかっこいいと思って聴いていることこそ、実はかっこ悪いという皮肉。彼らにとって「実」である「音楽」が、実は「無」である、という皮肉がここにはある。
2010.08.20
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楢山節考改版■『楢山節考』(新潮文庫)所収の同名作品を何年かぶりに再読した。やはり傑作。あらすじはあまりにも有名なので書くまでもないだろう。なんといっても、主人公おりんの凛とした姿勢が清々しくも、また凄絶でもある。一番光る個所はここだろう。 そのときわしは山へ行って、 新しい筵の上に、 きれいな根性で座っているのだ。■実はここに至る地の文章は、三人称で書かれている。そして、この個所(小説の中間あたり)で、すっとおりんの心のなかに入り込み、突如として、一人称(間接話法だが)で書かれる。この効果は絶大だった。これ以降は再び三人称で描かれていく。■おりんの決然とした姿とは対照的に、息子に谷底に蹴り落とされる銭屋の又やんの存在が、やや図式的といえば図式的にも感じるが、田舎の極貧生活のなかではさもありなん、と思わせる。■つねに「死」の瞬間を意識しながら生きてきた老人、とりわけおりんの心情を思うと、息子・辰平に戻ってこられても、かえって辛いであろう。
2010.08.19
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(ネタばれあります)楢山節考改版■『楢山節考』(新潮文庫)所収のミステリ風の短編。何らかの理由により引っ越しを繰り返した夫婦。その謎は妻の精神病だった、というオチだが、あまり気分のいい小説ではなかった。主人公を蝿たたきで思いっきり叩いた妻、という状況が想像するにすさまじい。
2010.08.18
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■いまや手に入りにくい深沢七郎の小説から、『笛吹川』(新潮文庫)を読んだ。小説のあらすじは、ネットで検索すればやたら出てくるが、簡単に紹介しておこう。■山梨県を流れる笛吹川を舞台に、武田家の盛衰をみつめながら生きてきた農民が常に「生」と「死」と向き合わされてきた様が描かれる。■小説のキーワードのひとつは「血筋」だろう。ノオテンキ=向う見ずな血筋によって、その家系の者たちは向う見ずな行動をとり、あっけなく死んでいく。いや、殺されてしまう。血筋から逃れられないのは、その他の人々も同じである。■全体の特徴として言えるのは、とにかく多くの人たちが死に、殺されるのに、それを描く語り手の視線が冷静だということ。■つまり深読みすれば、その時代、その土地、その家系に生まれた者の運命は誰・何を恨もうとどうしようもないという、ある種、冷めたまなざしがそこにはあり、だからこそ、妻や子供たちがすべて殺されたことをおぼろげに察知しながらも、米を笛吹川の水で研いでいる定平の姿が印象深い。というのも、その姿は、それでもなお、この土地で生きていくしかないという象徴なのだから。
2010.08.17
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大学教授のように小説を読む方法■文学部の教授とその学生の対話式に、小説の読み方を伝授してくれるもので、超おススメ。つまるところ、すべての文学・小説とは、すでに書かれたものとの関係でできており(=間テクスト性)、今読んでいるものと過去の作品との共鳴を意識することで、さまざまな象徴性や意味を読み取ることができる、というのが本書の主旨である。その過去の作品とは、シェイクスピアであり、聖書であり、ギリシャ・ローマ神話である。あるいは、不思議の国のアリスだったりもする。■そして、例えば主人公が出かけるとする。すでにそこには、何らかの意味が起きている。あるいは、主人公が誰かと食事をしようとしている。あるいは、主人公が怪我をする。あるいは、主人公が病気になる。それらすべては、過去の作品と何らかの意味で共鳴している。その共鳴関係に気づくだけで、その作品がもつ意味がはるかに膨らむ、というわけだ。■とはいえ……。これはあくまでも、欧米の文学・小説に限られる。日本の文学・小説でこうした共鳴関係が作りにくい。そもそも共鳴させる作品がない。せいぜい古事記や『源氏物語』ぐらいだろうが、共鳴させようとしても、読み手が知らなければ、意味がない(^_^;)。■それでもなお、本書が提示している読み方は日本人作家による小説にも応用できそうだ。例えば──なぜこの物語の季節は「夏」に設定されているのか?なぜ主人公は東(の都市に)に向かったのか?なぜ主人公はそういう考え方をするのか?なぜ主人公はこの場面で肉体関係をもつのか?などなどは、小説を読むテーマとして注目できるだろう。さあ、いろいろな問題意識をもって小説をよもう(^-^)。
2010.07.31
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齋藤孝の速読塾■副題は「これで頭がグングンよくなる! 」(ちくま文庫)。齋藤孝氏の著書はいくつか持っているが、かなり食傷気味なので、書店で新刊本をみてもほとんど手が伸びない(^_^;)。■けれどこの本には手が伸びてしまったのは、著者も書いているように、本好きの人間にとっては、「速読」による「多読」は憧れだからだ(^_^;)。■内容的には特別新しい情報はない。著者がこれまで書いてきたことの繰り返しも多い。けれど、「速読」について最初に読む本としてはとてもよいと思う。また、実際にやってみたいなあ、と思うこともあった。■ふむふむ、と改めて思ったことを、確認のためメモしておく。1.2対8の法則を念頭に読む2.日本人著者ばかりの本ではバランスが悪いので、 半数は外国人著者の本を読む3.自分とは違う考えや違う好みの本も読む4.小説を読む際には、自分なりの問題意識や 自分なりのキーワードをもって読む5.アウトプット(感想を書く・言うを含めて)を 想定して読むとりあえずこんなところか。当たり前といえば当たり前のことばかりだが(^_^;)。
2010.07.31
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ブルゴーニュ家■副題は「中世の秋の歴史」(講談社現代新書)。まったく気付かずに買ってしまった本書だが、読み始めて、すぐに気付いた。すでに別の本で挫折させられた同じ著者によるものだった。著者には大変申し訳ないのだが、その文体が独特すぎて、もはや読めなかった。■閑話休題などとやらなくてもよいので、もっとすっきりと書いてほしい。要は、自分が知っていることを、「あれも、これも」と書き連ねていっただけで、読み手に対する誠実さが見られない。終わりの方で、リルケの引用もあるが、これも完全に不要。この時代と地域を専門とする誠実な書き手はいませんか(^_^;)?■ついでだから書いておこう。講談社現代新書のそれなりのファンだから書くが、この新書のカバーデザインの変更は、完全に失敗であり、残念である。本屋に出かけたとき、すでに持っている同じ本をついつい買いそうになってしまう(^_^;)。網膜に焼きつけられた背表紙の記憶は、読者にとってとても重要なものなのに。
2010.07.30
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■ずいぶん前に買っておいた本を、今年度前期にようやく手にした(新潮文庫)。楽天ブックスのリンクはなし。おそらく品切れなのだろう。■キリスト教にも絵画にも詳しくない人には、とても面白く楽しく読める。まずいろいろな知識を得たい、というなら最初に手にする本としては悪くないと思う。聖書に出てくる人物たちの会話を名古屋弁で書き、神を「神たまん」と呼ぶなども親しみやすい。(慣れれば、だが(^_^;))■とはいえ、今改めて手にしてみると、本書で選ばれている絵画はややバランスが悪く、もう少しいろいろな絵も見たかった。本書に関しては、いろいろ批判することも簡単だが、ここまで分かりやすく親しみやすく書いた著者の功績は大きい。
2010.07.30
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ヨーロッパの中世美術■副題は「大聖堂から写本」まで。中世美術を知る上には最良の本だった。中公新書。■章立てもよく考えて整理されており、分かりやすい。中世の人々の生活と信仰の中に、どのように美術的な要素が絡んでおり、どのようにそれらを見つめたのかがイメージしやすかった。■また随所にはさまれているコラムも、豆知識として仕入れるには効果的。
2010.07.25
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イタリア・ロマネスクへの旅■先に紹介した本の続編で、こちらはイタリア。中公新書。建築のことをよく知らない者としては、ロマネスク建築たちのかたちがさまざまで、ロマネスク全体の特徴をつかみにくいのだが(^_^;)、ともあれこういう本を読んでいると(見ていると?)、歴史的知識とキリスト教の知識の必要性をいやでも感じさせられる。
2010.07.25
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フランス・ロマネスクへの旅引き続き、前期に出会った本たちを紹介していこう。■19世紀ドイツ音楽を研究しているものにとって、中世フランス、というのははるか遠い世界(^_^;)。だが縁あって西洋文化全体を概観することになったため、とにかくもろもろを勉強しようとしたわけだが、そのための1冊が本書というわけである(中公新書)。■このあともいろいろとアップしていくことになろうが、とにかくこうしたジャンルの本を集めようとすると、必然的に多くなったのが、中公新書と講談社学術文庫、ちくま学術文庫、ついで講談社現代新書や文庫クセジュだった。とりわけ新書のなかでは、中公新書の充実ぶりはさすがだとうならされた。■本書の場合は、とにかく写真が美しい。自然に囲まれた修道院と美術たち──。それが、ロマネスクへのロマンティックな憧れを誘う。学術書というよりは、紀行文といった感じだが、ロマネスクへの筆者の愛情が嫌みでなく、よい。■こうした修道院でどのような聖歌が鳴り響き、人々はどのような思いを抱いたのだろうか。想像するだけでも楽しい。
2010.07.25
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十字軍の思想価格:円(税込、送料込)■残念ながら、楽天ブックスでは売り切れの模様。この著者が最も言いたかったのは、第5章「“新しいイスラエル”アメリカ」だろうが、個人的に非常に参考になったのは、それ以前の章である。■中世において、カトリック教会ないしローマ教皇と、皇帝や国王の権力の関係、および、エルサレムをめぐるキリスト教とイスラム教の対立、これらの関係を理解するには、とても分かりやすかった。■この本を読みながら、また今改めて手に取り、やはり実感させられることは、とりわけ高校時代に受けた世界史の授業が、いかにつまらなかったか、ということである。歴史を学ぶには、それ以外の問題意識といかに結び合わせるのか、がポイントで、その意味では、年をとればとるほど、面白くなる(^_^;)。ということで、本書は入門としてはよいです。
2010.07.24
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中世ヨーロッパの都市の生活■引き続き、中世の社会生活を知る本。西洋文化史を知ろうとしたとき、講談社学術文庫のラインナップの充実ぶりにかなり助けられる。■市民たちがどのように生活し、あるいは結婚し、あるいはキリスト教を信仰し、演劇を楽しみ、本を読み、学んでいたのか、分かりやすく整理されており、とても有効である。
2010.07.24
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中世ヨーロッパの城の生活■同じく中世を知るための本。中世の騎士たちの生活ぶりがとてもよく整理されている。 ふだんの日でも、城の人々は食事をしながら、 音楽やジョーク、それに物語などの余興を楽しんだから、 ハープ奏者や吟遊詩人を抱える城も多かった。こんな文章を読むだけでも、わくわくする。同時の人々はどんな音楽を聴き、どんな物語をどのように楽しんだのだろう。もちろんこの時代の音楽を収めたCDもずいぶんと増えたこともあって、いい時代になったと改めて思う。
2010.07.24
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中世の秋の画家たち■中世の絵画について知ろうと思い購入。堀越幸一『中世の秋の画家たち』(講談社学術文庫)。しかしいざ読み始めて、辟易してしまった。それでも、本書で触れられている絵画たちは、この時代を象徴する代表的なものであるがゆえに、何度か参照しようとしたのだが、そのつど、読み進めることを目が拒否した。■大変申し訳ないのだが、すべての問題は文章にある。どんなに内容が優れていようとも、その内容を的確に誠実に伝えるための文章がなければ、読み進めることができない。■またその文体には、著者の熱い思い入れが出すぎ、読み手はかえって冷めてしまう。また「…どうだろう。」や「…あなたがたはお考えか。」とこちらに問いを投げかけられても、困る(^_^;)。もっと冷静に知的に論理的に解説して欲しかった。
2010.07.24
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■お久しぶりの更新です。ちゃんと生きていました。というよりも、とにかく忙しく過ごしていますが、大学の前期が一段落ついてきましたので、今年度突如として手にすることになった本を中心に紹介していきたいと思います。まずは──「かわいい」論■本書は息抜き的に読んだもので、これを読むのは、かなり遅きに失した感があるが、そして、その感想を今書こうとするのも、かなり遅きに失した感はあるわけだが(^_^;)、改めて本書を手にしてみるといろいろ思うところがある。■その典型的な個所を引用しておこう。 〔前略〕量的な均衡が崩れたときに はじめて事物が垣間見せることになる、 壊れやすく、可憐な美としての「かわいさ」のことである。 それは西洋の美学が古典主義からバロックへ、 はたまたロマン主義の崇高美学へと変転してゆく間にも、 一度として美学の中心に置かれることはなかった。(93頁)今だからこそ書けることだが、例えばジャック=ルイ・ダヴィッドが書いた「バラの死」という絵は、「可憐さ」や「未成熟の美」というものが想起されるけれども、それはいかに例外的な絵だったか、ということが分かる。■本書自体は未整理と思われる部分もあるが、示唆に富むものだと、今手にしても思う。
2010.07.23
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テツはこう乗る■副題は「鉄ちゃん気分の鉄道旅」(光文社新書)。鉄道愛好者がどのように電車に乗っているのか、何を楽しんでいるのかを解説(?)した本。人が何かに夢中になっている、という現象に興味があるので、どうそれを表現しているのかを期待したわけだが、「…」という結果だった。■ともかく、鉄道愛好者が何を味わっているのかはよく分かり、奥深さを垣間見せてくれる。だが、それを味わうことがどういうことなのか、ということになると、筆者の表現は曖昧になってくる。言葉では表現できない、ということのようだが、それを表現することこそ意味があるはずでは!?まあ楽しませてくれたのでいいでしょう(^-^)。
2010.01.05
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節約の王道■とりあえず読んだ。内容的には納得するところが多かったし、参考になるところも多い。が、まあ立ち読み程度でよいのでは(^_^;)。気になったのは、「……に鑑み」という表現がすべて「……を鑑み」となっていることで、日本語表記には最低限気を使ってほしいなあ、と思った次第。
2010.01.05
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文学の門■久々の荒川洋次の本を読む。もともと年末に読み始めていたものを、今回読み終えた。例によってこれまでに書かれた書評を集めたもので、いつもの荒川節が楽しめる。とはいえ、毎度これだとやや新味にも欠けるわけだが…。■ともかく文学を読まなくなったことに対する危機意識は相変わらずで、これには同感。また、太宰治や夏目漱石といった作家がなんらかの記念の年を迎えるとやたらともてはやされるが、それによって、それ以外の作家の作品の情報が必要以上にわれわれに入ってこなくなることに対する問題意識も同感だった。こうした問題は音楽にも当てはまることはあるだろう。
2010.01.05
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失われた時を求めて(1(第1篇))■ようやくこのブログに書くことができる。実はついにプルーストの『失われた時を求めて』に着手した。まずは第1篇を読了。■とはいえ、この小説に着手したのは今回が3回目で、つまり過去に2度、3巻あたりで挫折しているのである(^_^;)。ただしこのときは、ちくま文庫の井上究一郎訳で、今回は、集英社文庫の鈴木道彦訳にした。■感想はおいおい書いていきたいが、実に興味深く第1巻を読み終えた。物語は、語り手の子供時代の回想に終始する。何があるわけでもなく、何が起こるわけでもない。にも関わらず、実に面白く読めたのは、自分でも驚いた。■これまでいくつかの文学・小説を読んできて、また、文学・小説関係の本も読んできて、プルーストに関する予備知識も入ってくると、『失われた時を求めて』の読み方が分かったような気がした。■その読み方とは、ストーリーを追わない読み方にほかならない。ひたすらディテールを読んでいく。その表現にみられる詩情がとても豊かである一方、きちんとした批評性の立場があって、それがとにかく味わい深いのである。それに、そこに語られる記憶が、おそらくその後、意味をもつであろうことは、予感できる。■とはいえ、気持ちがはやると、ついつい読み飛ばしたくなる。あるいは、疲れているときは、ついつい眠くなる(^_^;)。そんなときは、すぐに本を閉じて読むのを止めた。とにかくじっくり読めるときに、じっくり読む。そうこうして、第1篇を読み終えた次第。全巻読了まではまだまだ先のこと。ゆっくりのんびりじっくり、味わいたい。
2009.10.28
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■最近買った新潮社刊『考える人』の最新号を読む。そのなかの、丸谷才一インタビューがけっこう好きで読んでいる。というのも、この人は文学がよく分かっている、ということがよく分かるからである。その最後に、こんなことが紹介されていた。(適宜改行) 吉田さんは、一杯のんでいるとき、丸谷さん、 あなたの好きな詩はどんな詩ですか、みたいなことをいう。 僕が英語の詩で覚えているのを数行、 十六世紀のトマス・ナッシュの詩かなんかをいうと、 ああといって、くちゅくちゅと口のなかで繰り返す。 そして、ああきれいだな、とかいって喜ぶ。 カラスミとかウニを食べるような感じなんですよ。 詩が酒の肴になるのね。 僕はなるほど詩というものはこんなふうにして 楽しむものか、と思いました。■これを読んで、吉田健一は詩の読み方、そして楽しみ方をよく知っているなあ、と感心した。感心した、と言っては彼に失礼だが(^_^;)。■ちなみに数年前から吉田健一には興味があって、ちょこちょこ文庫を買い集めている。 手元にある吉田健一
2009.10.08
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いいなづけ(下)(ネタばれあります。ご注意ください。)■この連休のおかげで『いいなづけ』(河出文庫)を読み終えた。19世紀イタリアの作家マンゾーニの代表作。久々に文学作品を堪能することができたし、自分なりの文学の読み方を再確認することもできた。■物語の舞台は17世紀初頭のミラーノである。題名の通り、ひと組のカップル、レンツォとルチーアが婚約をし、いよいよ結婚式を挙げるというときになって、村の司祭アッボンディオが突然、式の立会いを拒む。ただでさえ小心者のアッボンディオに圧力をかけたのが村の領主ドン・ロドリーゴで、彼がルチーアに横恋慕したのがきっかけだった。そのロドリーゴは横暴な性格で恐れられていた。■結婚式を挙げられないレンツォは策略を練って、ルチーアとなんとか結婚式を挙げようとするが、そこにドン・ロドリーゴの策略が絡み、結局レンツォとルチーア、および彼女の母は故郷レッコを逃げ出し、離散することになる──。■さて。文学・小説の批判的な味わい方・楽しみ方には、いくつかの視点があると思う。ぼくが特に興味をもっているのは、もちろん「ストーリー展開」に始まり、「登場人物の魅力」「物語の語り手の位置」「ディテールの描写」「文学史における作品の位置づけと現在にも通じる面白さ」といった視点になるだろう。■この『いいなづけ』では、まずルチーアという若い女性が清楚で敬虔なクリスチャンという設定で、全面的にポジティヴな人物に設定されている。その一方で、領主ドン・ロドリーゴには、全面的にネガティヴな人物設定がなされている。■そして「いいなづけ」が離れ離れになったとすれば、ストーリーが行きつく先は、よほどのことがなければ、ハッピーエンドにほかならない。■したがって読み手としては、レンツォとルチーアが最後どのようにして結ばれるのか、その展開を楽しむ、というのが自然。そして実際この作品では、最後ふたりは結ばれるし、ドン・ロドリーゴはペストによって悲惨な死を迎える。■つまり結末が「勧善懲悪」と「愛するふたりの幸せな結婚」という、それだけみれば、なんとも面白みのないストーリー構造なわけだが、その結末に向かって構成された一貫性は、いい意味で19世紀的で、よくできていると思う。■とはいえ、人物の魅力という点では、ルチーアとロドリーゴはいまひとつではあるけれど、それを補ってあまりある魅力的な人物がいる。直情的でまっすぐなレンツォ、強いものに弱く、弱いものに強いアッボンディオ司祭、恐ろしい人物として登場し、しかしキリスト教的信仰に目覚める、小説の中では人物名不明のインノミナート、公爵の娘で無理矢理尼にさせられたジェルトルーデ、アッボンディオ司祭の下女ペルペートゥアなど、それぞれくせや、弱い・悪いところもあって、それでいて憎めないのは、作者がそれぞれの人物を丁寧に描いているからだろう。■またこの小説を不思議な味わいにさせているのは、物語の語り手の存在である。一見マンゾーニ本人ともとれるが、いずれにせよ、この小説には原著書があって、それを参照にこの物語を語り手が書いたという設定なのである。また、原著書で曖昧な点や不明な点については、その他の著書も参照して書いた、ともされている。■だからこそ、名前が完全に伏せられているインノミナート、という存在が成立しうるわけだが、いわばこの作品自体に歴史記述に対する問題意識が見え隠れしているところが、また興味深い。■つまり、物語の語り手が何を知り何を知らないのか、というのは、文学作品を味わう面白さに関わっていて、この『いいなづけ』の場合には、語り手が微妙に知らないことがある、というのが絶妙な効果をもっていると感じた。■そしてもうひとつこの作品の特徴は、ペストの存在である。1630年に猛威をふるったペストは、多くの登場人物の命を奪ってしまう。ベストにまつわる情景描写は、もしかしたら冗漫に感じるかもしれないが、重要なものだと思った。■それはともかくとして、ペストの威力はすさまじかったわけだけど、にも関わらず、主人公レンツォとルチーア、およびルチーアの母が生き延びる、というところに、残念ながらこの作品の「嘘」があるだろう。■ともあれまとめるならば、この作品には、イタリアの地域性、キリスト教の信仰、17世紀初頭の時代性が根底にあり、そこに人物描写のリアリティと19世紀的な物語の一貫性に加わっていて、とても読み応えのあるものとなっていたと思う。ユゴーの『レ・ミゼラブル』やデュマの『モンテ・クリスト伯』といった作品と並んで、もっと読まれていい作品である。逆にいえば、その系統の作品だということがばれてしまうが(^_^;)。最後に平川祐弘氏の訳には改めて拍手を送りたい。
2009.09.23
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いいなづけ(中)■マンゾーニの『いいなづけ(中)』(河出文庫)を読了。やはり感想は全巻読み終わってからにしたいが、とにかく19世紀的な作品で読み応えがあり、よくできた作品である。〔誤植メモ(初版)〕・154ページ、終わりから2行目……(誤)「いづれにしても」 (ほかの箇所では「いずれにしても」)・406ページ、終わりから6行目 (誤)ペルペトートゥア → (正)ペルペートゥア
2009.09.22
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いいなづけ(上)■マンゾーニの『いいなづけ(上)』(河出文庫)を読了した。感想は全巻読み終わってからにしたい。まずはなにより、平川祐弘氏の訳がすばらしい。
2009.09.15
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時の娘■久々のミステリである(ハヤカワ文庫)。本書は、アームチェア・ディテクティヴとして有名で、いずれ読もうと思って何年も前に購入したまま、なかなか読めなかったもの。■主人公は、ドジをして怪我をした刑事グラント警部で、その彼が病院のベッドの上で、歴史上のある問題を推理していく。その問題とは、イギリスの歴史において悪名を残している、リチャード3世に関わるものだった。■グラントは、リチャード3世の肖像画を見たとき、そこから受ける印象と彼の悪名とのギャップに疑問を抱き、リチャード3世が悪名を残すに至る経緯をさまざまな文献や一次資料に当たりながら、推理する。■当然そこに彼の友人たちも手助けをするわけだが、彼らの会話のなかで、歴史家に対する批判がみられ、なかなかに面白い。その一方で、研究者(歴史記述者)に対する批判が痛烈すぎ、かえってこのミステリを浅い印象にもしている。■ともあれこのミステリにおける「謎」は、目の前に起きた殺人事件といった類ではなく、歴史記述の問題や伝記的「事実」の信憑性に関する「疑問」、というわけである。■こうした問題は今からみるとかなり古いとは思うが、娯楽としては楽しく読めた。
2009.09.12
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■このところ自宅でも研究室でもしょっちゅう片付けをしている気がするが(^_^;)、自宅の文庫本を整理していたときに、何気なく池波正太郎の『日曜日の万年筆』(新潮文庫)を手に取った。■その最初の文章はまったく同感(^_^;)。 私は、むかしから、他人の休日にはたらき、 他人がはたらいているときに休むのが好きだった。なんともあまのじゃくだなあと思うけれど、ともあれ創造的な気分になるまで、しばらくこうして(?)いよう(^_^;)。
2009.09.11
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ファウスト(第1部)ファウスト(第2部)■8月半ばに、10日間ほどドイツに行くに当たって、持っていく小説を決めるのにかなり迷ったのだが、結果的に持っていったのは、ゲーテの『ファウスト』(上下2巻、集英社、池内紀訳)だった。第1部を、バイロイトで、オペラ鑑賞の前や休憩時に読み終え、第2部は今日読み終えた。■『ファウスト』を読むのは今回が2回目。前回読んだのはおそらく大学学部のときで、新潮社の高橋義孝訳だった。前回はとにかく歯が立たなかったという印象が強く、よく分からないというのが正直な感想だった。■今回改めて手にした理由は、このあと『ファウスト』にまつわる作品について原稿を書く予定で、それに際してはもう一度ちゃんと読んでおこうと思ったからだが、なんとも興味深く読んだ。■第1部はとても分かりやすい。一方第2部は、読みながら、知的眩暈を感じた。すべて理解したとはもちろん言わないけれど、この作品に流れ込んでいるキリスト教的な要素とギリシャ神話の要素の絡み合いに、ヨーロッパ文化の奥深さを感じた。そして、そうした文学の原点をもっていることがうらやましくもなった。両者を理解した人には、もっともっと面白く読めるに違いない。■言うまでもなく今回は日本語訳で読んだわけだが、可能な限りドイツ語の原典で読みたいと思う今日この頃。とりわけ、ゲーテによる「詩」的要素をじっくり味わってみたい(^-^)。
2009.08.25
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■ご無沙汰しています。 連日忙しい日々を過ごしているが、この夏、ドイツのバイロイトに行ってきた。目的はオペラを観ることだが、古本屋にも寄ってみた。ヴァーグナー関係の書誌学でもやっていれば、興味深い本があったが、そうでなければ品揃えは普通かな。ただ店主が気さくな人で、お店に招き入れてくれた。《トリスタン》関係の専門書だけ買って、店を出た。
2009.08.23
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エロ事師たち■野坂昭如の名を一躍世に知らしめた本作を読む(新潮文庫)。本書を読んだのは、このところ、ある読書リストに沿って小説を読もうとしているから。■戦後、生活の糧としてエロ事に精を出す男たちは、自分の性とも向き合いながら、たくましく生きていく。いずれの男も自分の性に関して、なんらかのコンプレックスをもっており、、それが物語の最後に皮肉なかたちとなって現れる。■この小説が好きとは言わないが、なるほど、人はくだらないことにも一生懸命になる権利がある、といったある評論家の言葉には納得する。■エロ事師仲間のひとり、カキヤが死んだとき、仲間たちが彼の冥福を祈って、カキヤの棺桶の上で麻雀をする場面は秀逸。そのカキヤが死んだ場面というのも、真面目に読んだらいいのか、苦笑しながら読めばいいのか、よく分からないが(^_^;)、とにかくエロいことに真面目に取り組む男たちの姿が、実に清々しい(ほんと(^_^;)!?)。
2009.05.10
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プロレタリア文学はものすごい■連日忙しくて、研究や授業に直接関係のない本を読む時間がなかなかとれない。そんななか急きょ地元に帰省することになったため、いくつか本を詰め込んで出発。結果的に最初に読み終わったのが本書(平凡社新書)。■少し前に話題になっていた小林多喜二の『蟹工船』をはじめ、壺井栄の『二十四の瞳』、志賀直哉の『暗夜行路』、島崎藤村の『夜明け前』、江戸川乱歩、葉山嘉樹らの作品を、プロレタリア文学の視点から読み解き、その面白さを現代において味わおうとするもので、とても参考になった。■そのなかで改めて実感した、というか、問題意識をもたされたのは、「読書」という行為と「ブルジョア」的な階層の関係、とでもいったらいいのだろうか。つまり、のんびり読書をする生活の余裕があることと、プロレタリア文学を読むことの矛盾である。■また本書のなかで、なるほどと思った指摘は、文学のおもしろさとつまらなさをめぐるもの。 逆に、話がおもしろすぎるのは、 作者がどこまでも知的にストーリーを コントロールできていることの証拠でもある(224頁)他方、ストーリーがつまらないとすれば、 作者が作品の操縦権を放棄しているからということになる。考察をさらに進めれば、文学というのは、おもしろすぎてもつまらない、ということである。なんとも皮肉である(^_^;)。
2009.05.07
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街場の教育論■内田樹氏らしい教育論(ミシマ社)。現代の教育がもつ問題点を鋭く突いている。とかく現代の教育では「完璧な教師」を求めているが、そんな完璧な教師なんてありえない。もしそんなものを押し付けられながら教師を続けるならば、その教師は絶対につぶれると思う。ストレスを抱え、不満を吐き出すこともできず、やがて爆発して問題を起こして辞めさせられるか、あるいはうつ病になって学校を辞めるか、そんな風になってしまう気がする。■さて本の中から引用。 教師は言うことなすことが首尾一貫してはいけない。 言うことが矛盾しているのだが、 どちらの言い分も半分本音で、半分建前である、 というような矛盾の仕方をしている教師が 教育者としてはいちばんよい感化をもたらす。(強調の点は省略)そういう教師によって子どもは葛藤し、そういう親によってさらに子どもは葛藤する。子どもたちが長い時間かけて学ぶべきは、 ねじくれた社会の、ねじくれた成り立ち」 についての懐の深い、タフな洞察だという指摘には大賛成。もちろん教師がそういう矛盾をどこまで意識的に提示(?)できるのかどうかは分からないが。■もうひとつ鋭い指摘はこれ。 教師が教師であるための条件は、 まさしく自分がどうしてここにいるのかを 言えないということです。(強調の点は省略)この指摘に至る際に村上春樹の小説を例にひく、というのは、なるほど、と思わせる。キーワードは「踊る」である。■もうひとつ納得がいくキーワードは「身体感覚」。就職の面接官がどういう基準で新入社員を選ぶか。それは、一緒に仕事をしたいかどうか、である。だから面接の合否は、ドアを開けて5秒で決まる。■思うことはいろいろ。とりわけ身近な大学の教員組織のことを思い浮かべる。一緒に仕事を組むことになったある教員に、「そういうことになりましたので、 よろしくお願いします」と声をかけたところ、「いや、ほんとに、まったく分からないんで。 分からないんで…。ほんとにもう…」と言って、ぼくから逃げようとするのである。 そこまで仕事をする気がないなら、最初からこの委員になるなよ、と言いたかったがやめた。むしろこの人間をどう使い、どう使わないかが、今年度の新しい社会勉強だなあ、と思った次第。本の内容とは離れてしまいましたね(^_^;)。
2009.04.12
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美学への招待■とても分かりやすい入門書。現代の若者にとってとっつきやすく書かれている。専門家がこうして初心者のために書くということはとても大変なことだと思うのだが、それが丁寧になされていることに頭が下がる。
2009.04.03
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古地図で歩く香川の歴史■副題に「~さぬきで 息ぬき~」とあるが、息ぬき程度に読めば楽しめる本(同成社)。おそらく地元に長くいる人ならばもっと楽しめただろう。気になるのは、文章があまりうまくないことと、文章のテンションがやや高いことなのだけど、筆者が楽しそうに書いているのはよく伝わってくる。
2009.04.01
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