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以下の文は4月10日前後に書いた文章です。その頃の福島第一原子力発電所の状況は今よりも流動的で,特にネット界隈では苛立ちをつのらせた意見が目立ちました。
現在,マスメディア上では原発の危機についての情報は減りつつあります。汚水処理の準備など一部の問題については確かに進捗が見られます。しかし,情報公開が劇的に進んだとは言えない現状で,マスコミの情報が減っていくことは良いこととは思えません。国民の目が現場に向けられているというプレッシャーを,東京電力など当事者組織の上層部が感じなくなったら,ますます情報公開に対して消極的になる気がするからです。
今回の原子力発電所危機は,高度に専門的な領域内で完結していた出来事が,国内のあらゆる人々,さらには欧州の政治にまで激震を与えるという,ひどく特殊な事件です。その影響が長期に及ぶのは必至で,今は注目されていない思わぬ影響が,のちのち私たちに及んだりするかもしれません。
この複雑すぎる問題を,どう把握すればいいのか。諦めたり怒ったりするのではなく,より深い理解,次の行動に繋げるための建設的な議論をどうすればいいのか。そういう意識の下で,主体的に考えていくためのメモとして書き残しておきます。抽象的なことばかりです。具体的なことが書きたくなったら,そのとき改めて書きます。
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日々原発の状況が気になるのだけれど,たとえば誰かのことが心配とか,食べ物をどうしようとか,そういう卑近な面での不安については,申し訳ないが切迫感を持てていない。これは北海道の日本海側と言う遠隔地に居住していることも大きいし,性格的なものもある。
身の回りにも理系畑の知人が多い。原発に関する私と彼らとの雑談を他人が聞くと,良く言えば俯瞰的で冷静な,悪く言えば他人事のような感情に欠けた話に聞こえるかもしれない。
いま私は楽観しているのか悲観しているのかと聞かれたら,毎日ジェットコースターのように両者の間を行ったり来たりしている,というのが正直なところ。
私たちが知りたいことはいっぱいあるけれど,すっきりとした回答は見つからない。一方で,必要じゃない情報も膨大に溢れており,それらに目を通すだけでもひと仕事だ。しかも,何かひとつ新事実が出るたびに,両極端な解釈が必ず出てくるものだから,いつも混乱してしまう。
あるひとつの解釈に確信を得るためには,いわゆる「裏をとる」という手続きが必要だ。しかし当然そんなに時間があるわけじゃないから,私たちはどこかで諦めざるをえない。「たぶんこうだろう」とか「こういうことにしておこう」という暫定的な理解にとどめ置き,頭を切り替え,日常生活に戻っていきたい。
私が気をつけていることは以下のようなこと。
・事実を知る努力をやめない。妄信しない。
言い換えると,ある人物とか,ある理論とかを心の底で信じてはいけない。とりあえず一番信用できそうなものに頼るのは,けして悪いことじゃない。ただし,そこに矛盾や間違いや疑いを感じたら,事実(fact)と論理(logic)に基づいて,丹念に確認していくこと。
・とはいえ,何らかの判断をする際には,手持ちの情報にもとづき,勇気をもって一つの選択肢を選ばなくてはいけない。拙速な判断は,手遅れよりもはるかにましな場合があるから。
・気付いた間違いはただちに認め,失敗の原因を探って次に活かす。
・他人の役に立つ確かな情報があるのなら,相手が理解できるように説明する。ただし,事実や論理で説明できないようなもの,例えば信念とか予感とかいったものを他人に押し付けない。
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