いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

2008.09.27
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 「文字」や「言葉」には特に他人の強い「気」を感じます。まずはこんな話から聞いてください。

 私は子供の頃、よく人の中に居て吐き気を感じることがありました。そんな時は、近くに必ず機嫌の悪い人がいましたね。また、自分では、「これで間違いない!」と答えが出ているにも拘わらず、自分の発言を遮られる様な周りの感覚に何も言えなくなったりして人との付き合いが辛かったことを記憶しています。

 いわゆる「気の弱い少年」ですが、とにかくその場の雰囲気を壊す(極端に変化させようとする)人の「気」に、とても敏感に反応していた様に感じています。そして、自分の本意を抑えてまでも、その場の雰囲気を保つ事を最優先して「気」を使い、努力していましたね。(結局は自分が心地良いと感じる「気」を守ろうとしたにすぎませんがね)

 私の場合、自分の名前の意味に親の強い「想い」を感じ、自分を表現するのに障害を感じています。今では、親にはそこまでの「想い」も無く、自分自身での呪縛に変化した様にも感じますが、そんな事で自己表現する時は自分自身の呪縛を「崩す」ような意味合いを込めて「イロヲ」を遣っています。上記の事もふまえ、私の本名が解りましたかね?(笑)

 また他人(ヒトのせい)にすることで自分から責任を外し、普段抑えている「自己主張」(時にはワガママ等)を少し出し易くする効果も感じられますかね。そして子供にとっては、そんな人騒がせな親の「想い」が、時には後々まで尾を引き、苦しむようですね。

 私の基本「気質」は他人の目を気にする「弱い」質のようで、「言葉」や「文字」で自己主張する「強い」質の作業はひどく疲れます。増して、自分で感じていることですら周りへの配慮を考えると、ストレートな表現は出来ずに言葉を選ぶ様になります。それでもいざ「自己表現」をすると、他人の世界観を侵してしまう表現が多々出てしまいます。ストレスです。

 ただ、「自己表現」なくして、存在の意味も見出せませんね。「言葉」や「文字」では、真の伝えたいことが伝わっているか実感が無く、信頼も難しいです。最も難しい「気」だと感じています。ただその「不確かさ」に今の世の中に存在できる大切な役割も感じています。「想い」は巡ります。ホンと、疲れます。よってブログも頻繁に更新出来ない次第です。

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 芸術作品などに添えられる「コンセプト」によって改めて自分の中でその価値をあげた経験は無いですか?

 また各種「免許証」や「修了書」、そして極端な例では「預言書」などにも文字の力を感じますね。そういった書類によって一種の先入観(想い込み)という力を生み、様々な効果を上げていることも少なくないように感じます。そしてまた、科学などの「数式」(数字)や、宗教・儀式に遣われる「図形」にも力を感じます。

 「数式」や「図形」には、それぞれの世界観の「矛盾」をひとまず置いといて、先駆者のルールに外見上従った(信頼した)人達にとっては、スポーツ選手の体型変化や、気功師の施術時に顕れる各種感覚と同様、自分の「想い」に確信を与える役割を感じます。まして「数式」は、答えが必ず1つだけ導き出せるので、得られる確信も非常に強いと感じます。

 そして他世界観の人達には、「苦手」(曖昧・不思議)的感覚を生み、「何だか解らないけど、専門家が言うなら間違いないだろう」的信頼を与える役割も感じます。そしてまた「数字」や「図形」のようにある意味単純なモノには、「何か意味在り気なモノ」(曖昧・不思議)的感覚を生み、色々な「力」の存在を置き易いように感じます。 (07.7.13著)

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 昔のラブレターが捨てられなくて・・・

 どこにしまったかは覚えていませんので大切にしている自覚もありませんが、何かのひょうしに偶然見つけてしまったとしても、おそらく捨てられないでしょうね?同じような内容でも携帯メールによるモノなら割と抵抗なく消去出来てしまうんですけどね。ある意味その人の作品的感覚なんですかね。手紙を渡すまでに色々な手間がかかっていたりするでしょうしね。

 文字の癖や消し跡などにも色々感じるものがあったり、私もモノ創りが好きなのでそういったものに置き換えて感じるのかも知れませんかね。悪く言えば重いモノではありますがね。私の学生時代にも携帯電話があったら、男女のコミュニケーションももっと軽くなり、良くも悪くも変わっていたと感じちょっと羨ましくも思いますがね。

 そして「面と向かって」だったり「言葉」で表現すると、ちょっと敏感な人にはやはり目や言葉の調子などで知られたくない本音などを見透かされてしまったりしますかね。「手書き文字」や「文章」などには少なからず気質(性格)が現れると感じますが、「本音」を見透かすことは難しく感じますかね。まして活字や電子文字になってしまうと特に・・・

 私は本など活字を意識するとページを行ったり来たりしてしまい、1冊きちんと読み終えたことは無く、活字を読む機会もほとんど学校の授業(教科書)に限られていましたね。特に法律モノや試験問題の「言い回し」が苦手で、「引っ掛け」とか「誤魔化し」とかいうイメージや、「矛盾」ばかり浮かんできて、何回読んでも質問の内容が頭に入って来ないんです。

 ただ国語の授業は別で、文章を「見」て質問に対して答えることは好きでした。本来、その人の感性によって複数の答えが存在して良い質のモノで、窮屈さも少なかったからでしょうか。活字に捉われないように眺めるようにして感じる?試験になると、質問者の求める答えと自分の感じた事にズレを感じ、泣く泣く求められている答えの方を選んで記載していました。

 そのようにストレスを感じることも多々ありましたが、自分で文章を書くと自分の苦手な難しい「言い回し」になってしまうんですよね。これらのネジれた自分の性格も含め、よく大学まで進めたものです。結局文字として残るモノになってしまうと、最悪ヒトの目にさらされることも考えてしまい、体裁を整えて素直なこともかけなかったりしますかね。

 ただそれも私自身の感じ方のルールの一つと感じますがね。たとえ活字や電子文字でも、それをきっかけにして相手のことを意識できれば本音も伝わってくると感じますがね。全盲のリーディング的超能力者などが居ますが、目から入ってくる情報は過剰なため、ヒトに迷いを生む大きな要因になっていると感じます。文字もそんな力を少なからず感じますかね。

 本来「言葉」や「文字」は本音(比較的体裁の悪い欲求)を体裁よく表現する手段にもなると感じますし、まして「文字」は人目にさらすまでに色々と整える時間も出来る訳ですから、相手の本音が解り辛い・・・というよりも時に「解らないでいてあげて良いモノ」・・・単に自己主張として変に信頼や逆に不信も置いたりする必要ないモノのようにも感じますかね。

 今の若い人達の間では、メールを返す早さも重要らしいですが、あまり考える時間も無いのでしょうから手紙などよりも本音が出てしまったりするのかもしれませんがね。 (09.12.14著)

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 車の「高齢者マーク」のデザインが変更に?

 「もみじマーク」とかも呼ばれていますかね。おそらく初めは単に「若葉マーク」の対義語的に発想されたモノと感じますが、後に他の人が紅葉→枯葉のようにもっと連想を進めて高齢者に対して失礼なイメージが定着してしまったことがデザイン変更の要因になってしまったのですかね?そもそも初めから「若葉・紅葉」も現状のデザインだけで連想できましたかね?

 「若葉マーク」はおそらくネーミング(若葉)が先に生まれ、そこから連想されたデザインだと感じますが、初めにその図形に高齢者・初心者も含めた「運転技術が未熟」的な別のネーミングを付けていれば、現在の「若葉マーク」のデザインだけで済んだようにも感じますかね。今からでもデザイン変更に税金が遣われるような話が出ればどうなるか解りませんがね?

 芸術作品なども含めデザイン・図形などは、後に文字や言葉を足されて初めて・またはより強くその意味や価値を変化させることも少なくないと感じますね。 (10.8.8著)



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Last updated  2012.04.14 13:56:11
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