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今回の総選挙ほど投票先に迷ったことはない。 小選挙区は簡単だった。区割り変更で埼玉2区から3区になったが、最寄りの新井宿駅に朝あいさつにやってくる自民党と立憲民主党の候補者から選べばよかったのだ。どちらもしっかりした人に見えたし、経歴も奇妙なところはなくむしろ立派なものであった。しかし、大変残念なことに、立憲民主党は私の中では存在しない政党なので・・・。なぜ?って、あの政党は民主党が無能をさらけ出して崩壊し消えていこうとする際に、東京都知事の小池百合子さんが余計な手出しをして「仕分け」しようとした結果、仕分けられた方が「弱い者いじめをされてかわいそう」というイメージを帯び、枝野幸男さんがその「弱い者」をかき集めて出来上がった政党なのである。本来ないものだが存在するので、現状追認としてはそれはそれで構わないのだが、個人の投票活動においては、「無いはずのものがなぜかまだあるので、見なかったことにする」ことにしている。(当然ながら、以下もすべて個人の感想です。念のため)。 問題は比例だ。「国賊」までいる「だらし内閣」など早く消し去りたい。そのためには自民党とは書けない。こうした場合、世の中のこっちがだめならあっち、といった二大政党が存在する幻想を持っている人なら立憲民主党一択かもしれないが、困ったことに、前述のように私の中にその政党は存在しないので、無い政党名は書けない。公明党に入れるには信心が必要だがそれもない。維新は大阪近辺の地域政党に過ぎず、ここは関東地方なので関係ない。国民民主党の玉木さんや榛葉さんは思っている以上にまともな言動をしているので、これはありだと思ったが、比例名簿の人数が少なく登載された人々に魅力を感じない。共産党は過去の遺物で眼中にない。その他の小政党は、あくまで個人の投票先としては物の数ではない。深くため息をして、何も書かないでおこうか、と思い、それでは無効票とされるだけで批判票にもならないと思い返し、同じ保守的方向性でも、ご主張にあまり同意できない保守党を選んだ。私の本質は保守というより現実主義で、明治期に何のノスタルジーも感じず、保守ロマン派と呼ぶべき人たちとはズレているのだが、今後の展開を考えたのである。 自民党が大敗して石破内閣が瓦解した際に(私の脳内では確定事項)、高市早苗さんが、二階さんの三男さんをつぶして代議士になるはずの世耕さんや「コバホーク」の小林さんなどと結束して上手にふるまえれば、総理大臣になってくれるかもしれない。その暁には、あの人は何がどうしようと靖国神社に参拝するはずで、そうなれば、敗戦国でもないのに被害者の一面ばかり強調したがる隣邦が騒ぐに相違ない。その際、よりはっきりした右派が国会に議席を持っていた方が心強いはずだ。 それで選挙結果だが、あまりにも当たり前、つまり私的な結果だった。 安倍政権の際、現実に必要な対応をしている選挙で国民の負託を受けたその民主主義政権に対し、左派を気取って政権を全体主義かのように言い募り邪魔をしていた人たち(そのような独裁が現実なら、あなたたちなそいない、のだが、それにすら気づかない)、そうした人たちから「自民党の他のよりマシ」とちやほやされ、岩盤支持層と呼ばれた人たちから白眼視されているのに気づかない石破さんが、長く政権を保つことなどできるはずもなかった。あくまでもアンチテーゼでしかない存在が、主流派を推すより多い有権者にどのように映っているか考えようともしない独り善がりは、早期解散と言う自殺行為を実行させ、木っ端みじんとなったに過ぎない。初めから嫌われている奴が、かってな勘違いで裸踊りを始めれば、誰だって嫌気がさすだろう。 政治家の金集めが自民党に対する不信を招いた?それも多少はあるだろうが、それなら、なぜその裏金問題を暴いたと手柄顔だった共産党が議席を失うのだろうか?10人が8人、つまり2割減だ。約四分の一がお討ち死に大負けに負けた自民党や公明党には及ばないが、誤差では済まない完全な負け組ではないか。 それに、比例の獲得票数を見れば、立憲民主党は前回1149万票が1156万票で、ほとんど変わっていない(記事)。つまり、立憲民主党が政権党として支持されたわけではなく、各選挙区の自民党候補に負のイメージが強く、小選挙区では対立候補に票が流れたのは、一目瞭然ではないか。 不支持層から人気があったらしい(何の意味があるの?)総理総裁が、支持層から大いに支持された故人を否定する行動をとれば、結果など見えている。強固な支持層にそっぽを向かれ、あとは、二大政党制で政権選択ができる幻想を抱いている有権者が、現政権の反対党に入れただけかと思う。うわべをはがせば、複雑でも何でもない。 これだけ負けて、仲間の四分の一を自惚れた自分の判断ミスで失いながら、総理大臣であり続ける?それどころか幹事長まで辞めない?こうした呆れかえるほどの無自覚無責任の輩に政権を預けてしまった、岸田前総理大臣と菅副総裁には、是非キングメーカーらしい身の処し方をお願いしたい。
2024年10月29日
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「やなぎす」さんが弥富の白文鳥発祥説は根拠薄弱なものだとする論説をいただいた(コチラ)。 なるほどあり得るな、と思いつつ、別に弥富でなくても構わないとも思っていながら、なお弥富発祥説を支持する(私は弥富には行ったことはないし、直接お世話になった人もいない。むしろ農家による生産に対して終始否定的な立場)。その理由は、状況証拠しかない(またか!)。発祥地の又八新田という集落は、田舎の小さな集落に過ぎず、白文鳥が突然変異で生まれでもしない限り、他の産地を圧倒するどころか、文鳥生産地として継続した理由が考えられないからである。温暖で文鳥生産に適した土地など、他にもたくさんあるだろうにもかかわらず、だ。 村落社会で共通認識の下で和気あいあいと仲良く文鳥を育てていた、わけではないのが現実で、需要のアップダウンも激しく、1959年の伊勢湾台風ではすべて流されてしまったと言うし(記録の類も失われたのではなかろうか。なお、この時逃げることが出来た文鳥は、窓を開ければ飛び込んできて、文鳥生産復興の際の種鳥になったらしいが、平屋は壊滅、二階屋は種鳥が黙っても集まるとなれば、不平不満も大きかったかと思う。また一部は野生化して一時は大群をなして栄えていたようだがいつの間にか消滅している)、いろいろあったかと思う。しかし、言ってしまえば消えてしまうのが前提の、無責任なお百姓さんの会話、野良仕事の合間にする思い出話は、話半分に聞くのが礼儀のようには思っている。 さて、ごま塩ちゃんだ。つまり、潜性白文鳥の存在を示す桜文鳥との間に生まれる白基調ながら尾羽が黒く、頭に黒い斑点、胴体の背中を中心に灰色の文鳥が(なお、私はごはんにごま塩をかけた状態を連想して「ごま塩ちゃん」と呼んでいる)、江戸時代の弘化年間頃、1840年代に江戸周辺で発祥し、台湾に渡って台湾系を、江戸周辺で繁殖され関東系として受け継がれていったと言えるか、である。 ウチの初代文鳥ヘイスケは当然桜文鳥だが、最初の妻は横浜市緑区鴨居にあった小鳥店出身の潜性白文鳥であった。なぜ潜性とわかるのか?それは、娘たちがごま塩ぞろいで一目瞭然だったからだ。こちらの写真ページをご覧いただきたい(1・2・ついでにケコちゃん(横浜市金沢区の小鳥屋さん出身)の記事)。何とステキなごま塩ちゃんたちだ!かくて、白と桜の子は白と桜がそれぞれ生まれる、とする昔の飼育本にあったのを信じて、ごま塩の子しか生まれないのでがっかりした小学生の頃のリベンジは果たせず、同じ結果を繰り返すことになった。 そして、むしろごま塩文鳥ってかわいい、に考えが改まったのだが、なぜ飼育本の通りにならないのか不思議であった。それで調べた・・・わけではなく、2002年らしいが別件で愛知県農業総合試験場の『研究報告』をあさっていて(弥富系の致死遺伝について『畜産全書』からたどって報告を読んでいたが、当時は日の長さと繁殖期の関係の実証報告の方を熟読していたような記憶がある)「台湾産ブンチョウの羽色の表現型とその活用法」(『研究報告』第33号2001年12月)を見つけて、白文鳥には(少なくとも)2系統存在することがわかった(文鳥問題)。 そして、自分の周辺(横浜市)では、台湾系と同じ白色の遺伝パターンを持つ白文鳥が多いと見なして関東系として、その起源はどうなっているのだろうと、疑問に思っていたのだが、「やなぎす」さんがご紹介された(「白文鳥はいつ誕生したのか?」)↑1840年頃に描かれたらしい「鳩小禽等図」の「替文鳥」を改めて見て、それが潜性、つまり弥富系の絶対的な顕性(優性)に対し潜性(劣性)で、有色羽毛に対し同等の表現になるごま塩ちゃんの姿ではないかと気づいた(「やなぎす」さんが以前にブログ上でご紹介されているのは読んで見ていたが、江戸時代に単発で生じた部分白化現象と考え、重視していなかった)。桜と言うよりごま塩に近いと思うのだがどうだろう?頬の白い部分が頭の白化した部分とつながり、頭には薄い色の表現や白斑の表現がある。胴体部分の茶系のたなびく雲のような表現はヒナ羽毛残りの姿で、短期間のものでしかないが、この文鳥で珍しいのは頬の下の黒いラインがしっかりしている点だろう。この黒いラインは桜文鳥でも白羽が多く出るタイプでは消えやすく、ごま塩で残るのは特異ではなかろうか。私は未見のタイプで、実在したか少々疑わしい。 この文鳥が潜性白遺伝子を持つごま塩ちゃんであれば、何しろ「武州」とあって、江戸も横浜の大半も含む武蔵国で生産された可能性が高いので、江戸周辺にその血脈が代々伝わっていたと、推論できなくもない。そこで、また、「やなぎす」さんが訳してご紹介になっている英文史料を引用する。なお、私は「カニ文字は苦手じゃ」なので、アルファベットを見ると拒否反応が出ることもあり、原文を確認していないことを、言いのがれとして付記しておく。 「それは文鳥が、白い羽となったり、あるいは汚い白と灰色のまだら模様になったりする事から分かる。(略)私がはじめて大きな巣引き場を見たのは江戸だった。そこでは白文鳥の大規模な生産がおこなわれていた。かなりの割合で、染みのある鳥が生まれていた。それらは白文鳥よりずっと安く売られた。これらの鳥は二重の籠で飼われていた。白く塗られた細い竹ひごと同じく白い器具の全体が、白いキャラコで覆われ、鳥は周囲の白以外には何も見えない。これが生まれる子にはっきり影響するのだという。(略)これらの白い鳥は野生の色の鳥より容易に繁殖するが、しかし、白い鳥がその色の子を産むことは少ない。 「C.W.Gedney: "foreign cage birds"(1879)」とあるので、ジェドニーが1879年に英文で上程した本のはずだが、残念なことに「巣引き場を見た」具体的な年代が明らかでない。1868年に江戸は東京と改称しているので、それ以前のこととも思われるが、幕末の混乱期に異人さんがちょっと見学に行くのは危険であり、有り得ないことではないが少々無理なようにも思える。「Edo」と表現しているが実際は東京に変わっていて、明治に入ってキャラコ(白い綿布で当時のイギリスの主要な輸出品)の輸入や白文鳥の輸出が盛んになってからのことと考えるのが自然だろう。 とりあえず、明治の初期までには白文鳥の繁殖が大規模に行われているものの、「白い鳥がその色の子を産むことは少ない」不安定な状態で、周りを白く囲えば、「汚い白と灰色のまだら模様」より白くなるなどと信じられていたらしい、ことがわかる。 この時に用いられている白文鳥が弥富系(顕性白文鳥)なのか関東系(潜性白文鳥)なのか、どちらもいた可能性も有るのだが、どちらかと言われたら関東系の可能性の方が高いだろう。なぜなら、弥富系の場合、その白同士なら、顕白/顕白・顕白/有色・有色/顕白・有色/有色が生れ、このうち顕白/顕白は卵段階で致死する可能性が高いので、孵化した3羽のうち2羽は白文鳥になる。確率が半分以上なら「白い鳥がその色の子を産むことは少ない」とはなるまい。 一方、潜性白文鳥同士なら、「白いキャラコ」などかぶせなくても、白文鳥しか生まれない。ところが私は、白文鳥同士で繁殖しなかっただろうと推測している。なぜなら、白文鳥が高値で売れ、「染みのある鳥」は「白文鳥よりずっと安く売られ」る場合、商人なら、白文鳥はすべて売却し「染みのある鳥」に白文鳥を生ませようとしたと思うからだ。つまり、ごま塩ちゃん同士の繁殖である。 その場合、ごま塩ちゃんは潜性白因子と有色因子を持っているので、潜白/潜白・潜白/有色・有色/潜白・有色/有色が生まれる。つまり、25%は白文鳥、50%はごま塩ちゃん、25%は桜文鳥となる。この結果は遺伝子型のものなので、実際は色あいが強いごま塩ちゃんもいれば白羽の多い桜文鳥もいて、区別がつきにくいはずだ(我が家の例でもクロは桜文鳥に近く、ハンは白羽が多い)。結果、「汚い白と灰色のまだら模様」ばかりで「汚い白と灰色のまだら模様」の文鳥ばかり生まれると結論しても不思議はなく、白くなれ~白くなれ~と白い布で覆う気持ちもわかる。 結果、明治の初期1970年代の東京周辺には、江戸時代以来の潜性白文鳥が存在し、その子孫が開港都市横浜に住む1990年代の私の周辺に多くいても不思議はない、と言えそうである。白文鳥が高値で売れるなら、その生産を輸出の窓口である港湾都市横浜で繁殖する人も多かったはずで、初期段階に輸出された潜性白文鳥が、より気候に恵まれた台湾で繁殖されたとも見なせよう。 ウチの20代にわたる文鳥の家系は、江戸時代以来の文鳥の血を受け継いで、関東系(潜性)白文鳥の祖先も、弥富系(顕性)白文鳥の祖先も存在するのだ。そのように考えれば、何と誇らしいことだろう。
2024年10月27日
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母似で頭水玉のサイと20代目で弥富系のタッチ 弥富の又八新田という小さな集落が、突如、白文鳥の生産地として有名になる理由は、白文鳥が突然変異で誕生し、混ぜるの大好きな日本人が混ぜても白文鳥が生れちゃう特殊な顕性の遺伝により一般に支持されて、江戸を中心に存在したであろう潜性の白文鳥を圧倒した、それが私の結論で、その年も明治2年(1869年)に設定することにした。 確証はない(きっぱり)。しかし、「やなぎす」さんのおかげで微証はある。1877年以降にイギリスで繁殖に用いられた白文鳥が、絶対的な顕性白因子の持ち主=弥富系であることを示す繁殖例がいくつもあるからだ(1877~1880年の繁殖例「しかし、白文鳥どうしのあいだから、しばしば一腹の中に、純白な雛のほかに、斑のある雛、あるいは全く灰色の雛まで現われる」)。 さて、文鳥マニアなら愛知県弥富市に白文鳥発祥地の石碑があるのをご存じだろう。普通の人は表面しか見ないが、その裏面に横書きで由緒が刻まれている。 その内容を、弥富市文鳥組合最後の組合長たる大島静雄氏が書かれた『弥富文鳥盛衰記』(2009年)から抜き書きすると、以下である。 「白文鳥は文鳥村として古くから知られた又八部落が、日本唯一の白文鳥発祥地である。由来は尾張藩の某武家屋敷に女中奉公をして居た八重女が元治元年大島新四郎方に嫁入りした時、桜文鳥を持参した。其の後又八部落を中心に近郷の人々が文鳥飼育を広め明治初年頃になって遺伝の突然変異により純白な白文鳥の定型化に成功した。弥富町の誇りとして、此の先覚者達の努力に深甚の敬意を表すると共に、長年にわたる伝統の成果である白文鳥を弥富町の特産物として発展させる事を誓って此の碑を建立する」 で、話を次に進めたいのだが、実は『弥富文鳥盛衰記』を取り出す前に、インターネット検索をして、碑文を書きとられている方のブログ(「鬼丸のブログ」さん)を見かけていたので、何か足りないと気付いた。↓は鬼丸さんが書きとられたものだ。 「白文鳥は文鳥村として古くから知られた又八部落が日本唯一の白文鳥発祥地である 由来は尾張藩の某武家屋敷に女中奉公をして居た(八重女)が元治元年大島新四郎方に嫁入りした時櫻文鳥を持参した 其の後又八部落を中心に近郷の人々が文鳥飼育を広め明治初年頃になって遺伝の突然変異により純白の文鳥が生れたものを苦心改良を重ねて現今の純白な白文鳥の定型化に成功した 弥富町の誇りは此の先覚者達の努力に深甚の敬意を表すると共に長年にわたる伝統の成果である白文鳥を弥富町の特産物として発展させる事を誓って此の碑を建之する」 最後の建之(「けんのう」だが、普通は「これを建てる」と読む)を建立にしているのは、同義なのでどちらでも良いのだが、なぜ「純白の文鳥が生れたものを苦心改良を重ねて」を抜かしたのだろうか?とりあえず、書き写す際に偶然抜けたと考えておこう(お時間のある人は一字一句突き合わせてみてくださいね。で、教えてね)。 なお、とかく書き写す際などにケアレスミスは起きるもので、史資料は原典を見て確認して引用しなければならない.。それを承知で心苦しいのだが、ここでの史資料では「やなぎす」さん頼りで引用していることをこお詫び申し上げておく。※碑文の類が不鮮明な場合、現地で紙を貼り付け写し取るようなこと(拓本)が必要になるのだが、そもそも私は現地に行ったことすらない。ただ有難いことに「鬼丸のブログ」さんは碑文も撮影されていて、かなり鮮明なので読めるかと思う。 と、華麗に史資料批判から逃げるつもりだったのだが(集めた史資料が有効か、怪しい点はないか、チェックするのは、研究者として当たり前の作業)、ここで問題になるのもケアレスミスなのである。 「やなぎす」さんの研究成果から、弥富で、最近まで優性遺伝と呼んだが、今は顕性遺伝と呼ばれつつある白遺伝子を持つ白文鳥が発祥するより30年近く昔の1840年頃には、私が関東系もしくは台湾系と呼んだノーマル色に対等な白遺伝子を持つ白文鳥の実在を確信した。ところが、1877年以降のイギリスで、顕性の弥富系白文鳥が用いられているのだろう?何しろ、碑文は「明治初年頃」とするが、明治9年発祥とする説明もあるのだ。 愛知県総合教育センターいわく、 「1865年(元治2)尾張藩の武家屋敷に働きに出ていた「八重女」という人が,弥富の又八地区の大島新四郎方に嫁入りしたとき,日ごろ世話をしていた桜文鳥を土産にもらって持参したのが,弥富で文鳥飼育を始めた由来である。以来,又八地区を中心に文鳥飼育が農家の副業として盛んになり,明治9年初めに突然変異により,「白文鳥」が誕生し,これを飼育改良した結果現在に至っている。弥富は日本で唯一の白文鳥の特産地である」 八重女の「女」は女性名の後に慣用的に付けているものなので(通常、八重と言う名の女性の意)、本名は八重さんだろう。その八重さんが大島家へ嫁いだ年が、弥富市の又八地区における文鳥飼育の起源で、以降子々孫々と続くのだから、祖母か曾祖母くらいの嫁入りした年は正確に伝承されていそうだ。※例えば、大久保巨『ブンチョウの飼い方・ふやし方』に「白ブンチョウのふる里弥富文鳥村」という記事があり、「現在では、大島八重さんの子孫である大島しんさんがブンチョウの飼育を代々続けています」とあって、お写真に「三代目の大島しんさん」とキャプ註がある。問題は「現在」とはいつなのかで、私の手元にあるのは1994年発行だが、江戸時代の飼鳥家大久保巨川が憑依しない状態の鷲尾さん名の1989年発行の飼育本(読者にわからないペンネームとか使った過去を反省するように誰か本人に言ってやってください)にも、しんさんは登場しないが同様の文鳥村の記事があり、かなり古そうな気配も感じる。推定としては、1870年頃に八重さんが子どもを産めば20世紀には孫がいたはずで、孫娘のしんさん70歳頃のお姿が「1970年現在」となるかと思う。「おばあちゃんが、私が嫁入りした元治元年から始まったんだよ」と繰り返し繰り返し聞いていそうである。 一方で、白文鳥の発祥年を「明治9年初めに」とするのはどうだろう?・・・なぜ、こちらには西暦はないのだろう?だいたい、なぜ年の「初め」と細かな時期指定をする必要があったのだろう?・・・それに、明治10年頃には弥富系(顕性)の白文鳥がイギリスで繁殖している証拠がある以上、9年では遅い、遅すぎる。 例えば、思い切り単純に考えて、初代の顕性白文鳥弥富ちゃんが生まれ、1年後のシーズンにノーマル文鳥との間に15羽子どもを産めば、半分の7、8羽は白文鳥だ。7羽とすれば2年後のシーズンにそれぞれ7羽で、白文鳥は49羽(初代の繁殖もつづくはずだが、細かなことは考えない概算とお心得ください)、3年後には343羽、4年後には2401羽・・・、これほどスムーズにいかなくても、5年で千羽以上売りだせる体制にすることは可能だろう。高値で売れるのだから、どんどん設備投資されたものと思う(基本的には飼育小屋を建てるだけなので、大した手間はかからない)。つまり、「明治初年頃」に弥富ちゃんが生まれたとする碑文の説明は正しいと見るべきだ。 では、どこから「明治9年」が出て来たのだろう?そこで、私ははたと思いついた、これって誤植じゃね?と。9を「の」と置き換えると、「明治の初め」だ。つまり、「明治の初年に」と原稿にあって、手書きの文字に少々問題があり、平仮名の「の」が数字の「9」に見えたため「明治9初年に・・・ってなんだ?あー明治9年の初めかぁ」と勝手な脳内置き換えによって書き換えをした人がいたのだろう。 そんないい加減なことがあるかぁ?いやいや、ありまくるでしょう?この世の中には!例えば私の母方の祖母は「ヨキ」と言う名だったが、本当は「ユキ」にするつもりで、役所に届けた際に、おそらく「娘生れたってぇ、なめえ(名前)何にすんだ」「あぁ、カタカナでユォギ(ユキと言っているのだがそうは聞こえない)だぁ」「ヨォギ(ヨキと言っているのだがやっぱりそうは聞こえない)か、こっちで書いとく」などといういい加減な会話があって、ヨキさんになったらしい(上越地方出身である)。また、某駅に「1!両編成の際は・・・」などとあって初め何のことかわからなかったが、これも手書きの現行の文字に問題があって、11が1!に見えて、看板屋さんが見たまま制作してしまったに相違ない。 そういうものである。人のなせる業にはミスはつきものなのだよ。 で、明治元年は9月改元なので、秋の繁殖中、10月か11月ではないかと思ったので、きりも良いので明治元年に弥富ちゃんは生まれたのだぁ、と言いたかったのだが、明治元年ならインパクトがあるから、田舎の農民でも皆覚えてるのではないかと思いなおし、2年にした。「あの白い子っていつ生れたんだっけ?明治になった頃だったよね?でも最初じゃなかったような・・・、初年頃、ってしとこう」などと、いい加減と言うか有りがちな思い起こし作業を経ている、と自分ならやりそう想定問答から推定したわけである。・・・うん、春がいいな。菜の花がきれいな土地柄らしいし。と、極めつけのいい加減さで明治2年(1869年)春生まれ、としてしまうことにした。これなら、翌翌年明治4年(1971年)から繁殖が本格化したとしても、1877年以前に子孫をイギリスに輸出できるかと思う。 こんなことで良いのか、と思わないでもないが、一つ問題は片付いた。結構結構。何だかわからないから顕性も潜性もみんなみんな明治10年頃に突然生まれた白い弥富ちゃんが起源だ、とした昔の考察から比べれば、大きな進歩と言える。「やなぎす」さんのおかげである。 なお、『弥富文鳥盛衰記』が省いてしまったような、品種改良に努力を要したとするような話は、わたしは修辞上のもので事実としては一切認めない。突然変異個体が生まれたところで飼い方は同じであり、努力をしたからどうなるというものでもない。余計なことを言うので、真面目な人は本当だと思って、こんな努力あんな努力と尾ひれはひれを付けた話にもなってしまうものと思う(部分白化個体をかけ合わせていって白文鳥をつくった、といった事実ではない話になる)。証言などを精査する時には、そういった手柄話の類は聞き流す、習慣を持たねばなるまい。
2024年10月25日
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「やなぎす」さんの「白文鳥はいつ誕生したのか?」を読んで、考えている。よほどディープな人でないと何だかわからないだろうが、備忘のため私の考えた概要を記しておく。 なお、私の場合は、幼い頃に飼育本にあった白と桜のペアによる産み分けをしたくて、自分の桜文鳥に横浜市内の小鳥屋さんで買った白文鳥を掛け合わせたら、ごま塩ちゃんばかり生まれた、とか、桜のペアからシルバーが生れたとか白が生まれたとか、そういった個人的な体験がベースになっている(あのごま塩たちの親の白文鳥って、由緒正しい潜性白文鳥だったんじゃね?とか思って、心の中で「キャーキャー」言っているのである。何しろ初代ヘイスケの妻フクは白文鳥で、2代目のチビたち姉妹はごま塩なのである)。 なお、現在の遺伝学に疎いのだが、優劣では誤解を招くと常々思っていたので、「やなぎす」さんに倣って優性=顕性、劣性=潜性としている。 「やなぎす」さんのご研究は、江戸時代後期から明治期の日本やイギリスの史資料を博捜し、江戸時代に白文鳥が存在していることを明らかにしたものである。これにより、明治時代に現在の愛知県弥富市においてに白文鳥が「発祥」したとの通説は、完全に葬られたように思える。 しかしながら、私は、氏の集められた資料を基に、むしろ、「潜性白文鳥」(ノーマルもしくは桜文鳥との間に中間色彩の私の言うところの「ごま塩文鳥」を生む系統)が江戸時代に存在したのに対して、「顕性白文鳥」(白因子が絶対優性でノーマルとの間で産み分けがおきる系統)が維新期に弥富で発祥したとの結論に達しつつある。 まず、「やなぎす」さんは、江戸時代の絵画資料に、弥富系の白文鳥のヒナに多く見られる背中にグレーの有色羽毛がある姿を見出し、台湾系はヒナの頃から純白とされるので、その絵画のヒナを「顕性白文鳥」と断じられているようだ。しかし、台湾から輸入された文鳥のヒナが純白なのは、近い先祖に有色の文鳥がいないだけで、「潜性白文鳥」でも近い先祖にノーマル文鳥などがいれば、その姿は絵画のようになるのではあるまいか。 その点を立証したいのだが、残念ながら、私には「潜性白文鳥」での繁殖経験がない。しかし逆に、「顕性白文鳥」と桜文鳥の子に、純白のヒナが時折生まれることなら、何度も経験している。さらに、「顕性白文鳥」のホモ型、「顕性白文鳥」同士のペアから生まれた子も、色合いはさまざまで、致死遺伝とされたものは死なずに生まれることもあり、そうした子も背中にグレーの差し毛があるのも経験している。つまり、「顕性白文鳥」はヒナの頃に背中にグレーの差し毛があるわけではない。つまり、ヒナの頃の姿で、顕性と潜性の区別はつかないと思われる。 また、江戸時代には顕性白遺伝子が存在する証拠として、イギリスでの繁殖記録を挙げられているが、ご提示になっている事例は、1877年以降、つまり明治10年以降のものなので、残念ながら、江戸時代の白文鳥が顕性白遺伝子を持つことの例証にはなり得ない。明治前期に輸出された白文鳥が顕性白遺伝子を持つことを証明するに過ぎないのである。 一方で、1840年代に鳩小禽等図で描かれている文鳥の姿は興味深い。その姿は、ノーマル文鳥の一部が白化した桜文鳥の姿には見えず、潜性白文鳥とノーマル(桜)文鳥の間に生まれるごま塩文鳥の濃いめのタイプで薄茶のヒナ羽毛を残す個体に見える。 さらに、1871年旧幕臣の竹本要斎が物産展に出品した文鳥「変生ミノガタ」「変生白色」の「ミノガタ」を背中の灰色部分を蓑か箕の形と見なしたものとすれば、潜性白文鳥の因子をもつごま塩文鳥を指している可能性が考えられ、1879年ジェドニーが「江戸」で見学したと言う大規模繁殖場において「白い羽となったり、あるいは汚い白と灰色もまだら模様になったりする」文鳥とは、潜性白文鳥のF1(雑種)であるごま塩文鳥同士をかけ合わせれば、白、桜、ごま塩、すべてが生まれることを指しているようにも思われよう。 つまり、江戸時代には潜性白文鳥が存在し、明治初期には輸出もされて台湾などにも広がったものの、数年後には後には、おそらく弥富発祥の顕性白文鳥に主役の座を持って行かれたのではなかろうか(白文鳥は高値で売り、残ったごま塩同士をかけ合わせるていたと推測する)。 詳しくは、今後の課題としよう。蛇足~備考~ 品種改良が常識になった時代では不思議かもしれないが、『鳩小禽等図』の半数をしめる「鳩の絵の大部分はドバトの模様の珍しいもの」に過ぎないように、江戸時代の好事家は『珍』を求めるだけで、系統だった繁殖など考えていない。たくさん生まれた中で『珍』を見つけて喜ぶだけだ。 ましてや、ハイブリットにして他の鳥種の色を組み込むようなスキルの持ち合わせなどなく、そもそも文鳥はもともと白色を持っているので、他種から持ってくる必要はない。さらに言えば、そのようなことは今現在まで実行されていない。 十姉妹はハイブリットで日本人が作り出したと誇る人がいるものだが、禽舎にいろいろ輸入した小鳥を放り込んでいたら、たまたまそうなっただけ、と考える方が、よほど自然である。 小鳥の羽装変化の変異はさほど珍しくないものと思う。現に、文鳥が住むインドネシアの中でもティモール島にはティモール文鳥と言う近縁種が住み、その色合いは茶色ベースだ(その色合いを人為的に持ち込んだ文鳥の新品種もない)。 文鳥の場合、キンカチョウやコキンチョウや一部のインコのような、部位による色合いが転位するような変異種が現れないのが不思議だ。 弘化年間に飼育数が爆発的に増えたとしても不思議はない。その前は天保で、水野忠邦による極端な倹約令が出され、文鳥の飼育も難しくなっていたはずなので、倹約政策が頓挫した後のインバウンドが起きるからである。とすれば、将軍徳川家慶が倹約令の率先垂範のため、飼育している鳩や小鳥を出入りの小鳥屋などに下げ渡す際に、(未練がましく)姿を描きとったのが『鳩小禽等図』かもしれない。 顕性白文鳥、つまり弥富系が主流となった理由は、日本人の混ぜたがる性質と、ごま塩の中には桜に近い容姿の文鳥がいるためかもしれない。白を入手して白の子がほしければ、相手も白にすれば良いのに、桜を混ぜたらどうなるだろう、などと考える。結果、生まれた子は桜とごま塩で白が得られない。それに比べ、弥富系は相手が桜でも白文鳥の子も生まれる。 『雀巣庵禽譜』の「カキ」が柿渋色ならシナモン文鳥のことかもしれない。 顕性ホモのチビタとそのきょうだい
2024年10月24日
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NHKの日曜討論を5分だけ見た。「お、牛ちゃん、がんばってんな」と思ってチャンネルを変えてしまったが、記事は読んだ。感想は、与野党すべからく、給付金ばらまくことばかりで、今現在の物価対策についての考えがなく、「物価が安定してねえのに、金もらっても使えねーだろーが!」であった。 この人たち、韓国で物価高対策が後手に回って珍しくまともな大統領を戴く与党が大敗したり、大好況になりながら物価高への不満から、あの、知能指数は高くても不勉強で不安定なデタラメトランプさんの復権を招きかねないアメリカの大統領選挙から、何か学ぶことはないのだろうか? 円安で輸入肉は割高、主食のお米は農林水産省の不作為により低価格帯が外食に流れて、庶民は2倍近い値段の米しか選択できず、気候変動もあって世界的に農産品の値上がりが続いているうえに(100円で買えた小松菜が160円で絶賛高止まり中なんですよ!!)、天候不順で野菜の値段も高値続き、一体何を食べ食べさせれば良いのか、といった日本の有権者の多くが抱いている不安感など、まるで理解していない。 今年の春闘を思い出したら良い。労使ともども満額回答だ何だと喜んでいたが、5%賃上げしても物価が10%上がっていれば実質賃金は下がっている、という幼稚園児すらわかることすら理解していなかったのだから、あきれ果ててしまう。この、物価への無頓着は、その人が金に苦労することなく生活感を失った存在になっていることを示している。それでは、共感など得られるはずもあるまい。 それはそうと、ご案内いただいたやなぎすさんの『白文鳥はいつ誕生したのか?』を熟読している。 白文鳥には大別して2系統あって、で、起源がわからない時は面白くしてしまう、という文献史学をかじった立場では禁じ手の行為を、「人間の本質的欲求じゃん、神話とか何とかはみんなそうじゃん。そういった感覚がなくて研究しようがないじゃん」と、別に普通にやってしまう私は、弥富ちゃんという突然変異の1羽が両方の系統の始祖なのだ、としたわけだが、当然ながら根拠はないし可能性は低い。 弥富系白文鳥については、やなぎすさんが文献から丹念に追っているように、江戸時代の弘化年間あたりには存在していた気配が濃厚だ。ただ、鳥の羽装変異はしばしば頻繁に起きるものだと、私は経験上悟らされてもいるので、考え方を整理できずにいる。 我が家では、シルバー文鳥が生まれるはずのない別々の桜文鳥ペアから1度ずつシルバーが生まれた。そのシルバーの1羽(シルバ)はシルバー文鳥との間に多くの子を残したが、みな桜文鳥だった・・・。現在、桜文鳥ペアから白文鳥が1羽生まれてもいる(キイ)。そもそも、鳥の羽装は環境に適応しやすいようにさまざまに変化する性質を持っているのではなかろうか。例えば、文鳥の生息地であるジャワ島の隣のチモール島には近縁種が存在するが、そちらは茶色でクチバシは黒い。 ・・・、いろいろ楽しく考えねばなるまい。
2024年10月21日
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宿泊部屋の看板?主(ヌシ)?のピヨちゃん 西田敏行さんが亡くなった。ご冥福を心よりお祈りいたします。 西遊記の猪八戒、池中玄太、釣りバカの浜ちゃん、その他もろもろで、最近では映画『新解釈・三國志』の、やる気なさそうなのに面白いことを言う教授、役が印象に残っている。なお、この映画は西田さん以外は見るべきものはないので、観なくてよろしい(バカバカしくて面白いが、三国志演義の知識がないとどうしようもない。もっとも、演義は物語で史実ではないので、そもそも何でもありかもしれない)。 西田さんと言う人は、思想的には左よりのような個人的印象だが、そういった政治信条的な色の付く話をさりげなく避けるところに知性が感じられた。ろくに演技力もないくせに、政治的な個人的意見を振り回して、益々仕事を失う連中は、その点も見習うべきかと思う。 選挙は、みっともない日陰の湿気た連中が国際舞台の日向にさらされる前に終わりそうな気配になっているようだが、野党も大概なので・・・、今回は結果は読めないと思う。 負ければ、石破さんのいじけ根性が責められるだろうが、むしろ多くは岸田さんのせいだろう。彼は、ただの記載漏れを過大視した共産党のよくある赤旗スクープに乗って、必要以上に大事(おおごと)にしてしまい、わざわざ裏金政党呼ばわりされる結果にした。その場の世論などメモって御用聞きを気取っている人に、大局など理解できるはずがなかったのである。 こうした「国賊」以下の「党賊」に比べ、国葬されて当然の業績を残した安倍晋三のような人は、的はずれなことをしていても、後年の事態を予測していたように思えてしまうから恐ろしい。彼は、2018年にバルト三国を歴訪し、北朝鮮の核ミサイルの脅威を説き、北朝鮮とは比較的有効な相手側に、「ウチに撃ってくるわけないでしょう?」と笑われていたのを覚えておられるだろうか? 当時、私も「北朝鮮のミサイルはバルト三国にも届くんですよ!」と力説する我が首相に、それは説得力がないだろう、と思っていたが(北朝鮮がバルト三国で資金調達をしているので、その抑制を求める目的を持っているのは理解したうえでである)、当時のバルト三国の要人は、今にして歴史に名を残す国際的政治家たる安倍の言葉を思い出しているだろう。何しろ、北朝鮮は、おそらくロケット技術などの見返りとして、今現在、ロシアに軍隊を派遣するに至っているのである。 北朝鮮からロケットミサイルは飛んでこないだろうが、北朝鮮軍部隊がロシア軍の先兵としてバルト三国に侵攻する可能性は、冗談では済まない現実性を帯びてきている。もちろん、安倍晋三はこのような事態が起きるなどとは、夢想すらしていなかったはずだが、その的はずれな言動が予言になって思い起こされるなど、やはり常人ではなかったと思い知らされよう。案外、人の偉大さは生前には気づけないものである。 さて、なぜ故のセキセイインコ?だ。 この子は、昨年12月から泊りっぱなしのセキセイインコで、文鳥に追いかけられ追いかけ回し、換羽し産卵し、いい加減宿泊料を請求する気がなくなり、飼い主が飼育放棄したものと見なして、最近ウチの子と見なすことになった。 現在、手に乗らない手乗り文鳥のモカ(シナモン文鳥♂)と恋仲だ。セキセイインコより文鳥に近いちょこまかした動きをする珍しい子で↓、今は貫禄が出て、ヌシとなっている。きっと、偉大なセキセイインコと称えられることだろう。
2024年10月19日
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オノコの妹弟と仲良くするサイとタッチ チバちゃんとマツの子のサイはヘイスケ系のDNAを持たない異系なので、20代目のタッチとペアになれば都合が良い。・・・、ヒナに無関心だったタッチは昨日から世話好きに変わった・・・・、面倒見がよさそうだったサイは、ヒナの羽をむしろうとする危険文鳥になっている・・・。サイ♂、タッチ♀、狙い通りだろうか・・・・自信なし。 一方でオノコには子が出来ない可能性があるので(突然変異の白文鳥キイちゃんは一代限りなのかもしれぬ、2回無精卵オンリーだ)、弟妹の居残りは1羽残しても良いかもしれない。・・・そうこうするうちに、チバちゃんが4羽のヒナを孵しているし。また、にぎにぎしいことになりそうだ。
2024年10月17日
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カミィは文鳥のヒナを敷物にして育ったので、文鳥を怖がらなかったが、「文鳥団地」でおとなの文鳥たちに追い払われて、(一部を除き)危険な生き物と悟り、神経質にちょこまかと避けながら動くようになった。自分が飛んで行く先を考えずに飛び回ってしまうので、いまだに自分のカゴに帰れない、困った子になっている。コロコロのことを慕っていて、良いコンビになっているのだが、コロコロは愛情表現がおかしいので、仲良くベタベタすることはない。それどころか、クチバシを接しながら緊張状態のにらめっこをする関係、対立関係の様子も見られる。つまり、総じて、どちらもズレているので気が合うようだ。ウチの子はノーマルな子が少ないので、ウチの標準とは言えようか。 ↓、2つアップしたうちの1つ。他はコチラから。
2024年10月13日
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ノーベル賞である。 被団協が受賞したのは、当事者にお慶び申し上げるところで、それにケチをつける気はない。ただ、ノーベル賞なるものが、嫌いなだけである。 もちろん、ボブ・ディランのようにせず、12月のスウェーデンという聞いただけでつらそうなところに、ダイナマイト王の命日に設定された授賞式へ行きたがる年寄りの気持ちはわからない。褒めてやるし賞金もやる、自己承認欲求を満たしてやったのだから、取りに来い、晩餐会をするからもちろん礼装で、ついでにもらったことを記念して講演をしろよ。などなど、ノーベル財団は、大金持ちが贖罪意識から勝手に始めたものでありながら、上から目線で鬱陶しい限りだ。 本来なら、「あなたのご功績を称えます、賞金がさらなるご活躍の役に立つことを祈っております」とでも言って、ノーベル財団の事務職員がそっと持参するべきだろう。他人の、それも世界に資するお仕事をしている(とノーベル財団が勝手に認定した)人や団体に対して時間を奪って愚にもつかないセレモニーに付き合わせるなど無礼の極致だ。「おととい来やがれ!」と中指を立てる人がいないのは、世界の七不思議に数えて良いだろう。 毎年毎年、受賞候補などとミーちゃんハーちゃんマスコミちゃんは大騒ぎするが、そもそもそれほど賞に値する人がいるなら、すべてに漏れなくさっさと授与すれば良いではないか。何を勿体つけているのであろうか。賞金が足りない?賞金などやらなくても良いだろう、経済的に困っているわけではないのだろうから。晩餐会の席がない?いらないだろうあのような催しは、大勢で食ってうまいのは鍋物くらいだ。 私は、あのようなヨーロッパの貴族趣味の押し付けや、知性や教養の押し付けが、一般庶民から拒絶されると言う意味で多様性が進行しているのが、現代だと思っている。昔の庶民は、貴族趣味に憧れそれに近づこうと努力したのではなかろうか。今でも、フランスに留学してそういったものに憧れた人(例、舛添要一さん)が、美食家を気取ったり、美術愛好家を気取ったりして、その実、家族とファミレス通いをして、町の古本屋で美術の一般書を漁ったりするのが好き、と、およそ良い意味で庶民的だったりするのだと思うが、そういった感覚は薄まってきているのではなかろうか。「お高くとまりやがって、むかつくぜ」という、これも昔ながらに存在した庶民感覚が、いよいよ貴族趣味を呑み込んできたのだと思っている。 それはなぜかと考えれば、結局、身分階級制社会が世界的に崩れ、情報化社会は例外を除き身分差別を超克しつつあるからだと思う。例えば、日本のアニメなどが世界的な共感を呼ぶのは、日本社会は貴族趣味が失われて久しく、その社会を反映した作品には、貴族趣味の要素が消えているからではないかと思う。例えば、テニスなどの授賞式で、海外のプレーヤーは物が落ちても自分で拾うような真似はしない。その方がエレガントだからだが、それは誰かにやらせる貴族趣味には相違ない。その点、日本のプレーヤーは、そそくさと自分で動いて片づけてしまう。例えば、日本のサッカー選手はナショナルチームでさえ、ロッカールームをきれいに片づけて帰り、ファンも客席の清掃をして、世界的な感嘆を受けているが、本来、それは清掃員の仕事である。 私の大学時代の恩師は(出身は地元の有力者、つまり田舎貴族)、タバコの灰皿が汚れていても、それはその係の人に仕事を与えているのだ、といった発想をしていたらしいが、その係の人を楽にするために自分で使ったものは片づけるという庶民発想の方が、よほど普遍的なものだと思う。つまり、日本的で庶民的なふるまいが、奴隷根性のような否定的な見方を受けず肯定的に捉えられる、そのような庶民的価値観が、世界標準になりつつあるのだと思う。 現在アメリカ合衆国では大統領選が行われているが、デタラメで非民主的なトランプの人気が衰えないことを、貴族趣味の人には理解が出来ず、CNNなどのメディアは「反知性主義」などと呼ぶ。しかし、わざとらしいしぐさや行動、爆発的に増えることを「指数関数的に増える」などと表現するのが、知性的であろうか?そういった、貴族趣味の価値観を押し付けて、それを嫌う者に「反知性主義」などとレッテルを貼っている方が、よほど多様性からは遠いのではなかろうか。 ついでに、ノーベル平和賞を選考する貴族趣味に浸っている人たちが、「核兵器のない平和な世界」を信仰するのなら、およそ非現実的で、知性を疑わざるを得ない。もちろん、被害者である被団協のような人たちが核の恐怖を訴えるのは当然で、私も核爆弾など無い方が良いと思っている。 ただ、現在進行している事態は、「核兵器のおかげで世界大戦は起きない」というこれも昔ながらのフレーズの方が、当たっていることを証明している。もし、プーチンのロシアが核爆弾を所有していなければ、とっくの昔にNATO軍と軍事衝突して、世界大戦の様相を呈していただろう。それに、そもそもウクライナが核爆弾を所有していれば、ロシアの侵攻はなかったのではなかろうか。 スウェーデンが、たがのはずれた独裁者の脅威を感じて、中立路線を捨ててNATOへの加盟を申請中なのに、ノーベル財団は浮世離れしていると言わねばなるまい。 ノーベル賞で、受賞者の承認欲求が満たされたところで、平和にはならないし、科学が振興するわけでもない。たまたま受賞した科学者の研究資金集めに資する意味では絶大だが、それに比肩すべき研究を行いながら、ノーベル賞を受賞できずに研究資金の枯渇に苦しむ研究者を助けたほうが、よほど効率的ではなかろうか。 庶民的な知性を以て、考えたいものである。
2024年10月12日
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テーブル会場 ろくに国会論戦も外交デビューもないままに総選挙・・・、あの、「だらし内閣」の人たち、このまま引退した方が良いかもしれないな。 総務の「国賊村上」は、日々、自分の無能さと昔の無責任な発言に苦しむだろうし、第一、答弁のために行ったり来たり歩くのも困難だろう。外務の岩屋さんは、ヘビースモーカーでヤニ臭いだろうから、欧米では同室も断られる可能性があり、話にもならないだろう。もちろん、石破さんがG7に行ってもあのお姿では恥さらしなだけで、それ以前に、誰にあっても「アベ」の話をされて、自分が敵視した相手の偉大さに気づくだけだろう。国内でいちびっているだけの連中を、「総理にふさわしい人」などと言っていた無責任な人たちも、短命に終われば己の不明を恥じずに済む。 とは言え、ドジョウすくいがお似合いの野党など・・・。 そうであった。 愛用のココナッツつぼ巣(大)が製造中止になっているので、代わりになりそうなものを探して、ドジョウすくいに使う魚籠(びく)を取り寄せてみたのであった。 内閣の顔ぶれは、まるで20年前のようだが、小鳥の飼育はいろいろ工夫が必要な時代に変わってしまった。と、しみじみ思う。
2024年10月09日
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ジュウシマツの兄弟とウノ 料理の服部さんが亡くなったとのことのことで、何の関係も無いがご冥福をお祈りする。 やさしげな物腰にそこはかとなく漂う胡散臭さが印象的な人だったが、料理専門学校の経営者と言う以外は何も知らなかった。そこで少し調べると、「1561年(永禄4年)に発祥し、明治17年に日本に初めてカレーを紹介した『服部流割烹』17代目家元の孫」を自称するが、本名は染谷さんで、料理関係の国家資格は何も所持していない、といったことがネット上で散見された。 ・・・すごい、胡散臭さが振り切れている。 わかりやすい嘘としてはカレーを紹介したというもの。ウィキペディアによれば、1868年(明治元年)にイギリス経由で伝来し、1872年(明治4年)仮名垣魯文によって編纂された『西洋料理通』などにより一般的なものになっていったそうなので、残念ながら、割烹の家元に出る幕はなさそうだ。もちろん、明治17年に染谷家のご先祖が初めてカレーを食べたのかもしれないが、それは他人の知ったことではない。 だいたい「割烹の家元」とは何だろう?代々続く料理の家として私が思い出すのは、四条流庖丁道くらいだ。四条流は、今でも神事の際に烏帽子装束で魚をさばいているので、テレビで見たことがある人も多いはずだが、こちらは9世紀の藤原山陰(伊達政宗の遠い先祖でもある)に由来しており、1489年(長享3年)には料理法も含む『四条流包丁書』が編まれ、およそ日本料理の源流と位置付けられる存在である。そのような中流貴族の四条家が家職とする世界が成立しているところに、少なくとも貴族ではない服部さんが割って入るのは不可能なので、歴代々続く割烹の家と言う設定は、現実的ではなさそうに思える。 ようするに、「1561年(永禄4年)に発祥し、明治17年に日本に初めてカレーを紹介した『服部流割烹』17代目家元の孫」は、事実とは見なせない。その点、2007年に文春その他が指摘したのに対し、ご本人も、「服部はただのビジネス上の通称で父が服部家の料理学校を手伝っていた縁で名乗ったもの」と説明していたようだ。 ようするに、染谷パパの主観では尊重すべき師匠の「服部」を真似て、さらに箔を付けようとしたのか、服部家自体が何か由緒話を創作していたのかして、それも受け継ぎ発展させた?のだろう。 これをして、「デタラメ言いやがって!」と非難することも出来ようが、先祖を虚飾するのは自然なことで、実害がなければ、罪のない嘘、面白い虚飾、嘘とわかっていて笑える余裕があっても良いのではなかろうか。「そこはかとなく漂う胡散臭さ」は、あった方が面白いかと思う。真面目な人は感心し、知ってる人はまた始まったと笑う、それで良いのでは、と思う。 なお、料理専門学校の校長で、腕前をテレビカメラの前で披露したこともあるくせに、実際は調理免許も何も持っていないのは如何なものか、といった批判については、言いがかりだと思う。では、お聞きするが、これも有名な料理専門学校「辻調」、その創始者は料理研究家で料理人ではないのをご存じだろうか。その後を継いだ息子さんは、優秀な経営者とお見受けするが、当然ながら料理人ではない。なぜ、辻家は評価し、染谷家を非難することが出来るだろう・・・、それこそ「そこはかとなく漂う胡散臭さ」故だろうが、面白いではないか、庶民的に脇が甘くて。経営に専念しているように装えば良いのに、ひょいひょい出て来て料理して見せるとは、やはりそこはかとなく胡散臭い貴重なキャラクターだったと言うべきだろう。やすらかに。 そこで、私も自分の家系を飾ってみようか。 古代の鳥養部(とりかいべ)より歴代々朝廷に仕えて鳥の飼育にあたり、その一族が江戸将軍家に属し文鳥道家元を称して奥向きで飼育される小鳥を飼育にあたっている。1605年(慶長9年)初めてインドネシアから文鳥を連れ帰り徳川家康に献上した初代文吉右衛門以来16代を数える。 私の趣味ではないな。先祖などどうでも良いのだよ、文鳥の飼育の役になど立たない。はったりでどうにかなるものでもない。誰かの話ではなく、自分の目でしっかり見なくてはならないし、見てわかるかわからないかは知識とセンスの問題だろう。 さて、相変わらず嘘ならぬウノは十姉妹マニアだな。こういった不思議現象がざらに起きるのが文鳥との生活の楽しいところと言えよう。
2024年10月06日
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安倍晋三がただの馬鹿、「親ガチャ」などと言って自分の努力でダメ親を越えることすらしない情けないタイプの餓鬼の一匹に生命を奪われたことで、私は向こう10年の政治的安心感を喪った。その安倍が残した派閥の弟子なり後輩なりは、誰一人遺志を継いでいないことにあきれ果て、さらに、友人と目されていた連中の、今回の総裁選における立ち居振る舞いに、絶望感をおぼえた。かくして、人は死後に殺される。 小泉進次郎君を推して、自分の選挙区に連れ込んで仲良く並んで街頭演説までして保護者気取りだったが、決選に残すことも出来ず、票をまとめて勝ち馬の石破氏に味方し、論功行賞で副総裁の肩書を得て・・・うれしいのか?自分が元総理総裁だったことすら忘れているのではなかろうか?総裁経験者が副総裁に格下げになって喜ぶ、それが老いた菅義偉さんの姿である。 自分の子分河野太郎さんを推しながら、直前になってより有力な高市早苗さんに付き、おかげで惜敗させる貧乏神の役どころを演じた挙句、「党内融和のため」などと説得されたのかは知らないが「最高顧問」などと祭り上げられ、その地位を受けながら仏頂面すれば自分のみっともない行動が帳消しにできるとでも思っているのだろうか。およそ先祖の面汚し、政治センスの欠如は致命的、ハードボイルド気取りの老残が麻生太郎さんの現状である。 己が不人気ゆえに総理の職を辞しながら、たまたまキャスティングボードを握る立場になれば、自省などかなぐり捨てて、己の内閣の一員ではなく内閣にも入れなかった人物を推す、己が行いの筋道を忘れ目先の好悪感情に血迷って器量不足を露呈させても恬として恥じない、それこそ岸田文雄さんのなれの果てである。 このお三方は、キングメーカーになりたかったらしい総理大臣経験者なのだから、あきれ果てる他あるまい。亡き師の亡き友の面汚し、恥を知るなら、政界を去るべきだろう。
2024年10月05日
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サイタマが一番 どうです内閣の「映え」は。ドブネズミでしょう? 他の冷飯を食い過ぎて、おそらく役に立たない連中はまだしも、村上、あの野郎・・・としつこく思ってしまう。いわく、正論を言っているつもりだぁ?長く総理大臣を務め凶弾に斃れた人を国賊呼ばわりし、発言を撤回し謝罪したのも正論だったのか?言っているそばから論理矛盾していることにすら気づかないほど、頭の中身も外見も溶けてしまっているだけではないか。総務大臣?務まるわけないだろう。 でもなぁ。野田さんも人を見る目がないので、蓮舫さんの応援をしていたり、今度はあの小沢さん(ああ、「さん」付けたくねえ)が選挙の名人気取りでしゃしゃり出そうだし(落ちたのにね)・・・。どうするのよ。って感じである。 それにつけても、あのチバちゃんの子とは思えないなサイちゃんは。素直な良い子で姿も良い。政治家にしたいな。
2024年10月02日
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目つきはイシバ? せっかく総理大臣になられるのだから、しばらくお手並み拝見と思っていたのだが。ダメだなあいつは、ズレているし人の感情を逆なでするだけで場が読めない。あの、安倍晋三を国賊呼ばわりした村上何とか云ういろいろ崩れた野郎を大臣にするそうだが、ケンカ売っているとしか思えない。 TBSで「元閣僚」として政権批判する奴は村上か石破で、ようするに仲よしなのだろうが、あれが友人と言う時点で終わっている(TBSと言う時点で終わっているとも言える)。「僕は友人が多くて彼もその一人で、みんな大事なのさぁ」と明るく言われたら、そんなものかと思う人もいるだろうが、安倍を裏切って冷や飯食いになっていた似た者同士が、陰陰滅滅と傷なめ合ってTBSで愚痴っていたマイナス思考のモグラなど、まともな政権運営など期待できない。 と言うわけで、ろくな友だちのいない石破は、民間人の起用も不可能で、20年前から思考が止まっているような者しか知らないのだから、時代遅れでドブネズミ色の内閣にしかなるまい。三原じゅん子?一人で大いに気を吐いてもらいたいものだが、成長する時間も持てないだろう。短命内閣だから。 さて、目つきの悪い↑はウチのハンジ。コッペ&イッパの子で、たくさんいた兄弟姉妹の中で居残った(売れ残った)文鳥である。本当はそれほど目つきが悪いわけではないのだが、このような映り方になるのが彼らしい。 で、川口のふじのいち商店街は日の出屋ペットショップ出身のイチィと夫婦になって、20代目(タッチ)の父となった。こうして見ると↓、巣作りが上手でヘイスケに似てなくもない。やはり、残りものに福である。
2024年10月01日
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