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道法正徳さんの指導を受けることができました。「マルノウのひと」、「野菜の垂直仕立て栽培」を読んでいましたが、直に講義を聞き、その実地剪定をみせてもらうと、ただただ感心するばかりでした。 説かれる技術と理論は、長年の実地観察と実証栽培により編み出されたことがよくわかり、現地、現物に立脚した本物の凄みを感じることが出来ました。技術的根拠と実証事例、その技術を活用した農業経営を聞くと、自然農法は、科学して進歩している明るい事業に思えてきました。 道法さんは、噂通りに気さくで愉快で楽しい磊落な人柄でしたが、事実と事象に真摯に向き合い、真実と本質を探求し続けているのがよくわかりました。 肥料栽培の現実、有機栽培の正体、無農薬栽培の限界を聞くと寒くなりましたが、それらを克服して、「トヨタのように品質向上とコスト削減を同時に実現して、旨くて喜ばれて儲かる農業をするんだ」と説かれると、市場で堂々と勝負する健全な資本主義経営を農業でできるんだと、鼓舞されているような気がして、「道法スタイル」が説く農業は、浮利を追わぬ三方よしの事業と思いました。 自然農法は、やり方次第、日本の農業の未来に明るい気持ちになれました。
Mar 9, 2022
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小林正樹監督の名画「切腹」「上意討ちー拝領妻始末ー」の原作者、滝口康彦作「鬼哭の城」を読んだ。解説を読むと、滝口康彦の作品の中では珍しい純歴史小説と。 義と覇と命との間で、義を全うする武人と、覇と命に義を捨てる世人とが、活写されていた。命乞いに利己の性根を晒す者、義と利他に命を捧げる者、それらが絡み合った備中兵乱史の悲劇が描かれていた。 70ページほどの小編だが、人の本質をえぐり出した歴史小説で、描写の鮮烈さは、小林正樹監督の名画のようであった。伊與部山から鬼身山方面を樹木の間から望む。夕部山城がここにあったわけだ。小早川隆景もこの景色をみたわけか。ズームした鬼身城方面。鬼身山の向こう側の高滝山との間には、玉島と美袋をつなぐ街道があったらしい。鬼身城は、要衝をおさえた位置であったらしい。この川筋に鬼身城に向けて毛利の大軍が展開したことになる。鬼身城主郭跡(登城録・別窓表示)。物語では、この主郭での切腹は避け、二の丸で十文字腹をつめたと。岡山県の中世城館総合調査報告によると、主郭を要に扇状に曲輪が幾層にも拡がった大きな城域であったと。転石が多数残っており、随所に石垣を設けた堅固な城であったと。尚、この頃の松山城は、峻厳な臥牛山上に要塞化した城であったが、石垣はなかったと、本作中に記されていた。主郭跡からの小早川隆景の陣・夕部山城跡を望む(24吋別窓表示)。鬼身城城主上野実親の姉である鶴姫は上月高徳に嫁ぎ、常山城に入った。その常山は薄く遠くにみえた。この鬼身城がおち、福山中腹の幸山城などの支城もおち、遂には松山城がおち、常山城が最後の合戦地となったらしい。鬼身城は各城が見渡せる要であったのがよくわかる。
Nov 30, 2021
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吉村昭が描いた尾崎放哉の破滅的な人生の終焉の地が小豆島。対岸から遠望しても大きな島だった。この島の庵で僧の慈愛を頼りに最後を遂げる描写は壮絶だ。 俳人の常軌を逸した振る舞いは、常人には到底伺い知れないが、現実に存在したその人格は、瀬戸内海の島で最後に救われたと思いたい。 穏やかな内海の一日の終わりは、輝く海が漆黒の闇に消えていく静かな時間だったのだろう。激しい破滅的性癖もこの闇に包まれて静まったのだろう。 ベタに凪いだ海とその先の島々をみながら、塩田や漁が活況であった時代の人々の心根を思った。別窓表示
Aug 14, 2020
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吉村昭の「高熱隧道」は、過酷な計画を仕上げきる人々、その人々を駆り立てた力の凄さ、怖さ、凄惨さ、そうした格闘が克明に描かれていたと思う。人の力が極限で揮われた時の実相を見せつけられたようで、読後には深い深呼吸が必要だった。 「闇を裂く道」は、丹那トンネルが、艱難辛苦の末、人々の献身と犠牲と救済により、なんとか仕上げられていく様子が記録されていた。日本に課せられた宿命に向かって人々がそれぞれに発揮した力が記録されていた。 崩落、出水、地震、環境被害のたびに、調査、計画、協議、試行、評価、決定、推進、点検、調査、計画修正、協議、試行と、幾度となく調整がはかられ、完成に近づいていった道のりは苦難に満ちている。それらに対峙した人々が丹念に描かれている。黒部の秘境での隧道工事の雪崩にかわって社会影響への対応が課せられていた。 芦ノ湖の三倍の水を排出し、丹那盆地の水田、ワサビ田を涸らして酪農地に変貌させたとあり、これによって得られた鉄路の社会への貢献は、末長く、今や一世紀に及ぼうとしている。先人の払った犠牲と献身の有難さは計り知れない。 吉村昭のあとがきに、両親の出身が静岡で、車窓から碑を見て執筆を決意したとあった。先人が残したものの意味を知ることは、未来にとって欠かせず、記録文学の素晴らしさを再確認した。 丹那トンネルは、新丹那トンネルにも結実していったことも書かれていた。時速200KMの蒸気機関の弾丸列車計画として、丹那トンネル開業から7年後の昭和16年に新旧並行すること50メールで着工されたとある。機関車は、島秀雄の設計と。 この建設の記録映画が見れた。吉村昭が描いた通り人の力の賜物であることが目に見えた。予算超過の責任をとった十河と共に新幹線のテープカットの式典に招待されなかった島技師も貫通式には登場している。時を経てつながっていく事績につなげていった人々を思った。日本一短い鉄道トンネル・樽沢隧道 吾妻線移設部
Jun 5, 2020
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吉村昭の「ポーツマスの旗」で描きだされた小村寿太郎の人物像は、物・身なりへの執着はなく、質素で孤高な私生活を送り、家庭環境には恵まれず、自らの家庭も破綻し、職務においては舌鋒鋭く毒舌なるも、忍耐強く、限りなく献身的との印象だった。 「冬の鷹」の前野良沢、「間宮林蔵」、「海も暮れきる」の尾崎放哉も、時代、仕事は違うものの、似た人物特性のように思う。「白い航跡」、「光る壁画」では、海軍の高木兼寛、オリンパス社の技師達の信念が迫ってきた。いずれの人物にも共通している点は、職務へのかぎりない献身と思う。 この世には、私事を捨て職務に献身する人間がいるということを明らかにしていると思う。 戦略的に正しい職務の遂行も、メディア・主義者の煽動により民衆には理解されず、社会の騒擾を生んでゆく様子が「ポーツマスの旗」でも描かれている。世論がやすやすと変転し、献身した者を貶めてしまう愚挙の歴史を知ることとなり、やるせなくもなるが、これと戦い職務を全うした人間の実存も事実であり、その事績には救われた気になれる。 現代においても世論を騙る策動の数々が、新聞、テレビで流され続けており、憤りを感ずる日々だが、ネットワーク上には、職務への献身を事実として知れる媒体もあり、誤った情報による社会騒擾を回避できる可能性は確保されている。 しかしながら、イデオロギーや特定の勢力の都合に合わせた情報操作の事例がネットワーク上でも頻発しており、これらを識別、抑止するには、事実を知りえる発信源をネットワーク上で支援し、守っていかなければいけないとつくづく思う。 同書の巻末の解説で粕谷一希は、明治は、国家理性、国家意思を見事に形成したが、「民衆に石を投げられる中で、自己抑制に生きた小村と明治国家は崩壊し、松岡洋右のような派手なスタンド・プレーヤーが昭和国家に出現していった。」とあった。 中国からの新型ウィルスによる被害の防止取り組みに対して、無責任な批判や煽動に終始するメディア、政治勢力をみるにつけ、繰り返される愚かな構図に寒くもなるが、ネットワークで調べればそれら勢力の底は簡単に知れる。 今では、ネットワークの情報の中にこそ、信ずるべきメディアがあると思えた。
May 31, 2020
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「闇にかかわる」作品として、今村昌平のうなぎと、吉村昭の闇にひらめく、仮釈放、吉村昭が称賛した梶井基次郎の闇の絵巻などがあって、それらはいずれも醸し出される闇と光が同種の漆黒を基調にしてよく似ていると、昔、思い、書き留めたことがある。 機会があって、今村昌平の「赤い殺意」を見たところ、また、吉村昭の初期短編で表された人間と風物の陰影が思い出された。 吉村昭の短編は、人の営みの表裏のやるせなさ、生死の境目のはかなさ、自他の境の曖昧さと残酷さなどを直截に描きだしていると思う。精緻で鮮烈な描写が続き、光、風、雨、音、湿気、暑さ、寒さに、人物が眼前に削り出されてくるようだ。昆虫のぬめり、鳴声、緩慢な動作等の簡潔な記述も、人物の心象と生活を表すようで、今村昌平の映画と重なる気分になる。繰り広げられる男女間の打算と、ほどけぬ束縛感と、突然の開放は、戦後の世相の中で、露骨にひきづりだされた人間の本性の結果のようにも見えてくる。 今村昌平の「日本昆虫記」「豚と軍艦」も同種の主題があると思い出された。終戦後の昭和の文芸は、実に迫真で、すさんだ陰影を隠さないと思う。
Dec 11, 2018
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朗読会「智恵子飛ぶ」出演:竹下景子会場:ゆいの森あらかわ1階ゆいの森ホール 14:15から16:30 その一生のひたむきさ、可憐さに姿を思い描きながら聞き入り、最後は、胸に迫り、朗読者もこみあげるものを押しとどめながらの熱読でした。 朗読会ながら、さすがな女優の和服姿にほけました。
Nov 24, 2018
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山口昭男元岩波書店社長による「編集者から見た吉村昭・津村節子」との副題の講演があった。会場には、津村節子、加賀乙彦も見えた。 講演に先立っての津村節子の挨拶の中では、記念館の相談を持ち掛けられた吉村が、辞退しつつも地域の図書館の一画にでもあればとの希望を述べたことが触れられ、津村自身もこの施設を気に入っていると語られていた。吉村の作品は、多すぎるので全部はとても読めず、自身はそれほどよんでないと。戦艦武蔵と高熱隧道は読んだと。明るく、元気で感謝のこもったご挨拶で幸せが満ちてくるような話だった。 講演では、編集者として吉村とやりとりした逸話が数多く語られ、あの作品群をつくりだした人柄がとてもよくわかり、楽しく聴け、偲ばれた。津村節子は、前列で講演者を見ながらヘッドホンを使って聞かれていた。 吉村の確かな事跡に基づく考証と、考証にもとづく事績の描写、事実と事象の中から描き出される人間像、これらで揺らぐことのない迫真な小説の数々はなりたっていると思うが、基点は取材と聞く。この講演でもその様子が披露された。 ご本人は、取材と言わず、調査と呼び、一人で自由に動くことを重んじて取材費はいらぬと。旅行ではないと、旅程も二泊が限度で、終われば即、帰宅されていたと。夜は、取材先の人々と一献かたむけるのが常だったらしい。 よい店の見分け方として、「カウンターが五、六、テーブルが二つくらい、カウンターに男がひとりで飲んでいれば、間違いない。」と言われていたそうだ。 岩波の津村節子の「ふたり旅」の紹介にある著者のあとがきに、ひとり旅の様子がわかるものがあった。 岩波の津村節子の「ふたり旅」の紹介にある著者のあとがき 講演では、遺稿となる「一人旅」執筆時の肉筆faxが映像で披露された。原稿依頼に対しての応諾文、原稿送付時の送付文、完成後の礼状、いずれも、人柄が偲ばれる簡潔で誠実なものだった。「四月十七日、7.5枚のエッセイお受けします。数日前Faxでお送りします。」「相変わらず早めですみません。書きましたのでお目通しください。ゲラをお送りください。」「このエッセイを受けてよかったと思います。退院早々でどうしようかと迷ったのですが、書いて元気が出ました。体調が少しづつですがもどっております。ありがとうございました。」 今年は、13回忌だそうだ。読めば読むほど、かけがえのない思いになる。
Nov 5, 2018
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1967年吉村昭「水の葬列」について、著者の私の文学的自伝によると太宰治賞に星への旅と候補作に残った「水の墓標」を改題して展望で発表されたと。同作には副産物があり、「水の墓標」を執筆のために黒四ダム工事現場に訪問時、仙人谷への途中で難工事を知り、高温を体感することで、「高熱隧道」に繋がったそうだ。 「水の葬列」は虚構小説とのことで、1978年の「闇に閃く」、1982年の「破船」、1988年の「仮釈放」のモチーフを彷彿させ、あたかもその後の作品群の起点のようで、著者の原点を覗くようであった。日暮里での空襲体験、物干し台での目撃もでてきて、濃縮版を読むかのようだった。醸し出される深山幽谷での生活感には、伊藤正一の「黒部の山賊」を思いだした。 ダムに水没する村の人々は、墓を供養して掘り起こし、木箱に回収した後、村に火をかける。そして、白い箱の列が更なる山奥に立ち退いていく。こうしたシーンで「水の葬列」は終わる。西洋人に居場所を奪われていくインディアンの映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」のエンディングを思いだした。 発展のために電力を求めて、ダムが盛んに造られた時代には、水没する村で生活拠点からの立ち退きシーンが繰り広げられたに違いない。山奥の人の営みを害しない地域での造営にとどまっていたものも、治水、灌漑も求められ、狭い国土故、巨大都市活動を支えるために人の住む渓谷にも設けられていかざるをえなくなったのであろうか。 木曽三川治水工事や利根川東遷など江戸時代にみたような日本の水との格闘史は、21世紀もまだまだ、続いている。 八ッ場ダム上流(2018.5) 河原湯温泉は、宿は事業移転したものの水没と。旧吾妻線上にはコンベアが設置され、搬入路に。山腹からの採掘、コンクリートの製造、投入と、一連の巨大プラントの様相。巨大ケーブルクレーンを架け、重量物を搬入、投入か。ダム下流の鹿飛橋からの渓谷美。
Jun 10, 2018
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1978年の佐賀純一の「朝日の「記事」はどこまで信じられるか」に次のようなくだりがあった。 「根拠のない情報、不確実なニュース、人の耳目を奪うような煽情的な記事」が人々を惑わし、社会に多大の害悪を流すか、記者は知っている。重罪と。 同書では、当時の記事の実例が示され、欺瞞にみちた新聞であることが分析されていた。 南ベトナムの陥落を熱狂報道し、大量難民については報道せず、二万人の難民水死についても七行ですました朝日。第三水俣病として大報道して全国の漁業者を犯人扱いし、全国で魚自粛を招きながら、後日、政府が調査したところ、虚報が判明してもしかとした、騒動の犯人である朝日。その他、次々に起きる社会の事件を「正義」に酔っ払ったように欺瞞的に評する記事の数々。 今と同じような過去の所業が同書で明らかになっており、今に始まったことではない、この社には悪辣な新聞商売の悪癖が沁みついているのかと確信してしまう。 著者は、これらを分析した上で、「新聞は人々の心を安心より不安へ、満足よりもあくなき欲望へ、許し合うことより敵意と憎悪をかきたてる方向に導くのに、しごく熱心であるかのごとく見えるのである。」と評していた。この評は、今日でも、原発事故に対応した人々を命令に背いて逃げたと貶める虚報をしたりしており、当時のまま、更には、悪質さを増してきていると思えてくる。 中国については、当時、日本の新聞は、中国共産党との間で、特派員駐在のかわりに中国敵視政策をとらず、ふたつの中国にのらず、日中正常化の妨害をしないとの密約をしたそうで、1972年に、ロサンジェルス・タイムズの社説で「身売りする日本の新聞」と評される始末であったそうだ。 それによるものかもしれないが、朝日は、1975年の杭州事件については黙殺報道、1976年の周恩来の死については、論評せず外国紙の論評を紹介する責任転嫁の報道、続く毛沢東の死については四人組を評価して路線ゆるがずとの日和見報道、同年10月の四人組失脚後は文革に人民はついていけなかったと事大主義まるだしの変節報道を続け、朝日の報道とは、当時から中国共産党に媚びる邪な記事の数々であったようだ。 韓国については、32年間にわたり虚偽の慰安婦報道をはじめたのは、この本から四年後の1982年からだが、朝日は、今でも曖昧な訂正で済まそうとし、国際的に虚偽が流布したままでいるのは明白だ。左翼の主張に偏った報道姿勢から、1976年の金大中の民主救国宣言には、支援する大量の報道を行い、北朝鮮や中国の抑圧には全く触れず、朴正煕の批判を繰り返したとのことだ。 著者は、こうした新聞の現実について、「新聞の腐敗と思い上がり」と評していた。その典型が、1976年の日本新聞協会の代表標語で、新聞のジャーナリズムにとって大問題であると指弾していた。 「新聞で育つ世論が政治を正す」 辺野古、豊洲、籠池、前川等々、数々の報道で、この狂暴性と偽善性は、今でも猛威を振るい、害毒を撒き散らしているようだ。
Jul 2, 2017
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Mar 27, 2017
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日本兵を殺した父 デール・マハリッジ 2013年 半藤一利の「歴史のクズカゴ」に、日本再建の裏話として、室蘭、釜石、日立などにアメリカ機動部隊が浴びせた艦砲射撃は、工員の住宅が中心で、港湾施設、鉄橋、溶鉱炉は壊さずに生産力を温存して、戦意を喪失させ、厭戦気分を煽る攻撃であったそうだ。 高橋洋一の「戦後経済史は嘘ばかり」によると、米軍の攻撃で国内は徹底的に破壊されたと思いがちだが、工業用機械器具は34%強失われたが、基礎的生産手段はあまり破壊されなかったと。大規模な軍需工場は徹底破壊されたそうだが、民生用工場は案外残ったそうだ。 有馬哲夫の「スイス諜報網の日米終戦工作」では、巨費を投じて開発した原爆により終戦したとの構図を造り出すため、トルーマンは、完成まで日本には降伏させない意向であったと。原爆の使用方法を決めた陸軍長官達からなる暫定委員会の結論は、無警告、多くの住民に深い心理的印象を与え、多くの労働者が働き、労働者の住宅に取り囲まれた重要軍事施設に使用すると言うものだったと。数十万の一般市民の殺戮を承知したものだったそうだ。広島、小倉、新潟、長崎のうち、有視界爆撃可能な天候地に投下せよ、更に、準備完了次第次も投下との命令だったそうだ。 著者デール・マハリッジが父の戦友から10年かけて聞きだした証言によれば、動くものはすべて撃てとの命令があったそうだ。ニック・タースの「動くものはすべて殺せ」のベトナムと同じだ。ベトナムでは、遺体毀損、耳はぎ蒐集、首輪にして戦功の証にしたものもいたと。沖縄でも金歯や耳を蒐集した者がいたそうだ。投降する日本兵を銃殺する米兵を上官は黙殺し、民間人、婦女子を火焔放射や白燐手榴弾で焼き殺したそうだ。沖縄では、ひとりも捕虜にせず、少尉からとっとと殺して先に進めと命じられたそうだ。 ロバート・D・オルドリッヂの「オキナワ論」では、米兵の犯罪率は県民より低く、処罰も厳格化され、教育されて沖縄に来ていると。本土への複雑な感情と政府への経済的な依存に、左翼知識人の非現実的な理想論とメディアによる意図的虚説が完全な誤解を広げ、沖縄の本質がぼけてみえなくなっていると。本質的問題は、沖縄問題が存在していないという逆説だと言う。 果たして、欧米とは、植民地支配、大東亜戦争、沖縄戦、ベトナム戦争でのアジア人との関係を直視できる国々なのか、どうか。
Jul 7, 2016
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兵士は戦場で何を見たのか ディヴィット・フィンケル 2016年The Good Soldiers 2009年 ニック・タースの「動くものはすべて殺せ」によると、ベトナム戦争では、米兵5万8千人の戦死、負傷者30万人をだしたそうだ。米国は、米兵の被害に厭戦するまで手出しをやめず、自国の痛みに耐えきれなくなってから撤退したことになると思う。 ベトナム側軍人は、ベトナム政府発表で、100万人死亡、かたや民間人は、200万人死亡。病院の記録を見ていくと三分の一は女性で、四分の一は13歳未満となっていたそうだ。 空爆量は、広島原爆640発相当、着弾の跡は21百万個、まかれた枯葉剤7千万リットル、浴びた人480万人だそうだ。 筆舌に尽くし難い残虐行為が繰り広げられ、遂には、逃げる者を殺人した数が軍事行動のノルマとなり、その達成は軍功として昇進や休暇の指標としてまかり通る自己欺瞞した軍のモラルに堕していたそうだ。 自らの痛みに耐えかねるまで手出しし合うのが、戦争の行き着くところとなってしまう果し合いだ。 この本は、2007年から2008年のイラク戦争への戦場同行取材記録で、延々と米兵の傷ついて行く様子が記録されている。イラク側の話は、誤射による市民・子供・ジャーナリスト13名の殺害や、戦闘行為周囲で怯え見つめる市民の表情、米軍協力するイラク人の不安定な心情にふれられてはいるが、ひたすら戦場での米兵の戦闘・偵察行動とその惨状の記述が続く。戦地の現実を米国人に知らしめる本なのか。論評の少ない記録記述により厭戦を呼び起こそうとしているのか。 争いには、手だし無用で、仕返しもならぬ事で、戦争は、よけるか、払うかに留めよとこの記録は語っているのだろうか。よくわからないが、手出しや仕返しは、為政者が義を語っても、義のある戦い方などにはならず、不義の応酬の果てに抜き差しならなくなり、最後には復讐を誓う者が生き残って果し合いが続くと言うのが、イラクの現状のようだ。 原題は皮肉を込めているような感じがするが、邦題の回答は何か。前向きなものは何も見れなかったのではないだろうか。
May 22, 2016
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武揚伝 佐々木讓 決定版2015年 初出2001年 榎本武揚の昌平塾での研鑽、江川英龍塾での蘭学自己研鑽、蝦夷・樺太視察随行、海軍伝習所入所、オランダ留学、造船・機関・砲術・物理・科学の技術習得、英仏視察、新造開陽丸での帰国航海、開陽丸艦長、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争、"蝦夷共和国"、海戦と陸戦、五稜郭での降伏、"共和国"兵・アイヌ・仏人義勇兵等のラ・マルセイエーズと続く波瀾物語で、英雄伝だ。 技術と知識と技能と武勇を身に着けた近代海洋武人・海軍人の誕生が見事で、戊辰戦争の義が滲み出た物語。降伏したが、立派な仕事をした尊敬すべき人物の物語、偉人伝だ。著者によれば、史実を基礎としてその隙間を想像力で埋めた作品だそうだ。 勝麟太郎が対比されるかの如く登場し、航海技能の体たらくと、秀でた政治的人格が描かれていてとても面白い。 半藤一利は、勝海舟ファンだそうで「もうひとつの幕末史」では、福沢諭吉が行った勝非難について、勝を擁護していて、咸臨丸の艦長としての渡米も力を発揮したかのように書いていた。 佐々木讓は、勝は操船も人事も体たらくで無能で、咸臨丸の渡米は、軍艦奉行が心配して同乗させていたアメリカ人海尉とアメリカ人水夫達が操船の中心と。榎本武揚等の実力のあるメンバーを退け、勝の息のかかった配下のメンバーを人選した勝の権勢欲の表れと。帰国後、海軍が勝を放逐した理由は明白らしい。 勝は海軍では人望も実力もなかったらしい。半藤説は、所謂判官びいきのようだ。 土方歳三は、転戦して榎本武揚と一緒に奮戦し、最終的には勇猛果敢に果ててしまう。吉村昭の「暁の旅人」で、函館に転戦していく土方が、松本良順に対して、有意の人材ゆえ死んではならず、東京に戻れと意見し、松本はそれを容れる場面があった。榎本武揚と土方の関係でも似たような土方を見る思いがする。土方歳三の生き方に惹かれる人が多いはずだ。 明治に入ってからの榎本武揚の業績には目を見張る。技術分野の逓信、農商務大臣や、文部、外務大臣、ロシア、清国との全権大使など歴任し、千島樺太交換条約、ロシア皇太子暗殺未遂事件処理もしたそうだ。足尾銅山操業停止命令も武揚らしい。農業、気象、移民、化学、紡績、製鉄、電話と貢献した分野は幅広いそうだ。 著者は、「明治政府が手に負えぬ事業が出てきた時、その都度、武揚が現場と実務の責任者を引き受けた」と評していた。 ますます、榎本武揚の明治での生き様を知りたい、死んでいった人々を知る人物が外交、技術、教育、福祉で活躍した姿を思い浮かべてみたくなる。 福沢諭吉は、「痩せ我慢の説」で勝と榎本、旧幕臣に論戦を仕掛けたらしい。顕職に就き富貴を得るべきでなく、隠棲すべきと。 勝については、「和議を主張して幕府を解きたるは誠に手際よき智謀の功名なれども、これを解きて主家の廃滅したるその廃滅の因縁が、偶々もって一旧臣の為めに富貴を得せしむるの方便となりたる姿にては、」「三河武士の末流たる徳川一類の身として考えれば折角の功名手柄も世間のみるところにて光を失わざるを得ず。」と。 武揚については、「天晴の振舞にして、日本魂の風教上より論じて、これを勝氏の始末に比するれば年を同じうして語るべからず。」「氏の挙動も政府の処分も共に天下の一美談にして間然すべからずといえども、氏が放免の後に更に青雲の志を起し、新政府の朝に立つの段に至りては、我輩の感服すること能わざるところのものなり。」 「二氏共に断然世を遁れて維新以来の非を改め、以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。」と。 咸臨丸で勝と渡米した諭吉は、勝にも武揚にも徳川旧幕臣としての人格を問うているようだが、同時代に生きた諭吉の説は、死んでいった人々、消えてしまった徳川の時代精神への鎮魂の思いが重きをなすものであったのかもしれない。 明治の後に続く惨劇を知る佐々木讓の説は、二人の功名の大きさが、明治が現在であり、その後に造り出してしまう時代を確信していない諭吉とは、深く重く違ったものになる。 平成からみた武揚は、とても大きい。まさに礎だ。
May 21, 2016
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流れる星は生きている 藤原てい 新版2015年 初出1949年 新田次郎の妻の新京から日本への乳飲み子、三歳、六歳の子供を脱出させる壮絶な記録だった。ネット上の話では新版は学生向きに初出の内容から削られているところがあるらしい。そうであっても生死の境を行き来するすざましい証言録だ。 1945年8月から1946年9月までの13ケ月間かけて女手一つで子の命を救いぬき、故郷にたどり着いた時の最後の言葉は強烈だ。 「これでいいんだ。もう死んでもいいんだ。」 釜山への満杯の貨車の中で同胞からのこころない非難の様は、全てのやり場がない。 「個人主義と人への嫌悪感、目でにくみ、心で猜疑し、人間の根性の底までさらしたまま、うじ虫のようにうごめいていた。」 秩序が崩壊した時に、子を死なせず、生き抜くためには、人の尊厳、規範、協働の世界の外におかれ、わが身我が子の身も心も、かばうものをはぎとられ、生身でさらされる。知恵と身体能力とあらんかぎりの生き抜く決意を審判され、命を拾うことが試される。 日本には壮絶な難民の歴史があること。これを知ることは、今も繰り広げられている難民問題の本質を少しでも理解することにもなるかもしれない。
May 3, 2016
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赤い人 吉村昭 1977年 日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた 嶌信彦 2015年 「赤い人」は、明治に北海道で重罪人用監獄を開設してから大正に廃獄されるまでの、囚人と看守の苦役の記録だった。「オペラハウス」は、1945年から1948年にかけてウズベキスタンのタシケントに抑留された陸軍航空部隊工兵達のオペラハウス建設の労役の証言だ。犯罪者と戦争捕虜とでは全く異なる境遇だが、安価な労働力として使役された点は共通だ。 明治時代の赤い囚人服の人々は、厳しい労働環境であるがために民間の労働者では高コストになるほどの過酷な現場で、安価にあげるために使役されたそうだ。終身刑の者を消費してしまうほどの過酷な労働であったようだ。躊躇はなく、むしろ効果的で「一挙両全の策」として支配者により選択されたらしい。 厳寒の原野での伐採、監獄の建設、農地開墾、石炭や硫黄の採掘、原野での道路建設、大量発生イナゴ除去などの苦役が、凍傷壊死、栄養失調衰弱死、逃走阻止の斬銃殺をもたらしながら繰り広げられたそうだ。 成果は、鉱物資源供給による殖産振興、開拓農地の供給、道路網の整備など、北海道の近代化の礎となったそうだ。忠別から網走までの原野、峡谷を貫いた道路開鑿では、集団の競争心を食事と処遇差で煽り、昼夜兼行で競わせ、四か月で幅三間54里の道に仕上げたそうだ。犠牲は、病人1916人、病死158人、射殺3人、自殺1人であったそうだ。今では、国道333号、39号、鎖塚などがその名残らしい。 幌内炭鉱などへの出役による囚人の大量の病衰弱死は、死業として世論に非難されるまでになっていたそうだ。脱走も多発し、看視、懲罰も過酷を極めたそうだ。 「オペラハウス」の完成は、日本兵捕虜の誇りと意地の証となり、その就労態度と仕事の仕上がりは、ウズベキスタン人やロシア人から感心されるまでのものであったそうだ。 シベリア抑留での過酷さを読むと「赤い人」を思い出してしまうが、「オペラハウス」ではそのようにならず、後世に残る建築を仕上げたそうで、奇跡のような話だ。2500年にわたり東西文明を交差させてきた地の人々の持つ懐によるものであったのだろうか。 「赤い人」は、明治に初めて西洋と交わり、それを目指して遮二無二疾走してしまった後進文明の悲痛な出血に染まっているように思えてくる。 劇場で人を愛でる喜びを知るようになるには、大きな代償の歴史を刻む必要があったと言うことなのかもしれない。
Feb 29, 2016
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2020年世界経済の勝者と敗者 ポール・クルーグマン 浜田宏一 2016年 カナダの中央銀行の総裁であったマーク・カーニーは、イングランド銀行の総裁に2013年スカウトされたそうだ。日本ではとても理解できないダイナミックな起用だが、もともとカナダは、アメリカ$に連動しないでカナダ$を制御しながら自国の通貨を維持してきた国だそうだ。新自由主義の規制緩和にものらないでリーマンショックの大きな被害は免れたそうだ。金融政策はしっかりしているらしい。たしか、スターリンの脅威から逃れたウクライナの難民を多く受け入れたのもカナダだった。金融も国境の在り方も大事にしている国のようだ。 イギリス、デンマークは欧州連合に加盟しながら、ユーロには参加していないそうだ。造幣をする国だ。ユーロ圏に入ったギリシャは依然と危機にあり、ユーロ離脱はもはや無理だそうだ。欧州中央銀行からのユーロの借金がなければ国はなりたたず、今さら自国通貨ではやっていけぬそうだ。印刷する機械もないらしい。 カダフィーのリビアでは、もともと紙幣をイギリスのデ・ラ・ルー社に製造委託していたそうで、政権打倒の争乱時には、イギリス政府が紙幣を押収してしまい、傭兵給与の支払いに苦労することになったそうだ。造幣できない国は力を削がれるようなものであるらしい。この会社は蒋介石時代の中国紙幣も製造していたそうだ。 クルーグマンは、政治統合なしに通貨統合が成功することは疑わしいと言う。ユーロは失敗と。負債国に過酷な緊縮財政を強いる愚かな状況と言う。ユーロは独善的な考え方のつけを払うことになっているのだそうだ。 非ユーロのデンマークは、所得の50パーセントを各種税でとられてしまう国ながら、一人当たりGDPは米国なみで、国民皆保険、大学まで無料、人生に満足する国民が多い国だそうだ。 自国の通貨を刷れること、為替による物価・賃金の調整機能をもつことは、独立した国として重要機能であって、手放せず、力をふるって政策を推進するべき分野らしい。だから、偽札などは、国を弱体化する攪乱行為で重大犯であって、ロシア革命、日中戦争では経済的武器として利用されたと聞く。北朝鮮も米ドルの偽札を刷っていると聞く。紙幣の信用は国の信用でもあるわけだから、なおさら、紙幣を共同体に委ねたユーロの決断は、連合する高貴な政治的英断であるわけだが、大冒険でもあった訳だ。 長谷川慶太郎によると、中国の100元紙幣の二枚に一枚は偽物であるとの噂があるそうだ。通貨発行技術を有するという事は、国の支配力の表れでもあるそうだ。中国はそのような大事なことの箍が緩んだ状況にあるのか。 中国の不良債権は35兆円、シャドウバンキングの貸出残は587兆円もあり、地方自治体の主たる収入は、土地販売なのだそうだ。一億戸の空き家が発生し、各地で新築ゴーストタウンが出現し、崩壊寸前らしい。 経済全体での投資の占める割合はGDPの5割ともなり、消費は3割にすぎないそうだ。アメリカは消費が7割で真逆にあり、日本も確か6割くらいでなかったか。中国も投資と消費の割合を逆転せねば経済は再浮揚は難しいらしい。 もちろん、中国がはじければ、紙幣を刷りまくっている日本も無傷ではおられないと。
Feb 16, 2016
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シャルリとは誰か? エマニュエル・トッド 2016年人種差別と没落する欧州 日本人には、くにざかいなら習俗・季節の異なる地方差、別の管理域との境くらいに思うのだが、国境の切迫感はあまりよくわからない。貿易・流通の通関手続き地点で交易の場であって、紛争域にもなる緊張域であったとは考えたくはない。 ヨーロッパは、殺戮しあった暴力の応酬が歴史的に集積した地域だ。それゆえ、異教徒殺戮、人種差別、イデオロギーの果し合いの歴史を乗り越えて、移動の自由を約束し、域内関税を廃し、統一通貨を使う欧州の市民が登場するはずでなかったのか。 国境なき世界を多くの国がまとまってつくり、共栄圏なり、連帯したのが欧州連合ではなかったのか。もともと、国境は国と国の戦争で殺戮の舞台として歴史を刻んできた戦場の中間線であったのであろうが、その愚かしさ、不幸、不経済を克服して共和国を実現しようとしたのが欧州連合なのではなかったのか。 為替による経済調整機能を廃止したユーロ圏諸国は、ユーロ圏内の国の間に経済格差が生じた時、為替調整機能はなく、失業と経済再生に難渋する国家を同じ運命の中に抱えてしまうことになってしまったようだ。クルーグマンは、ユーロは失敗、政治的統合のない通貨統合の成功は疑わしい、負債国に過酷な緊縮財政を強いる愚を犯していると言っている。 著者によると、単一神信仰が退潮して空白感漂うカトリック文化がユーロを発想し、単一通貨信仰を生んだらしい。世俗化し、無信仰が一般化し、婚外子が55%となっているのが現代フランスだそうで、伝統的カトリック拠点が崩壊して、よりどころがなくなって精神的に不安定な状態になった人々は、スケープゴートを探し、自らを構造化するために敵対者、標的を求めているそうだ。それで、ユーロの経済的失敗のかわりにイスラム教徒を恐怖し、反ユダヤ主義も増大させつつあると言う。 フランスは、もともと、多文化社会で生真面目ではない共和主義を平等主義として体現していたらしいが、不平等で倒錯した普遍主義が広がり、利己的な恍惚にひたる社会に変容しつつあるらしい。その端的な現れが、「私はシャルリ」との中産階級中心のユーロ派によるデモであったそうだ。フランスは、社会的、政治的崩壊過程にあるやもと著者は言う。 くにざかいでの交易の繁栄は去り、難民を拒み、差異を恐れ、異文化を拒み、同化せぬものを排除する国境が再び現れてきているかのようだ。新たな合従連衡のはじまりかもしれない。
Feb 15, 2016
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黒部の山賊 伊藤正一 1964年初出 定本2014年アルプスの怪 明治、大正生まれの黒部の猟師の狩猟生活を垣間見れた。果敢な狩猟活動を実利的で細心の注意を払いながら行う猟師たちの最後の姿だった。 食料の調達、加工・保存の様式を守り、自然を生活源として生きる姿の記録だった。命を守るために油断をせずに自身の生に責任を負う生き方だ。仲間との共同生活ではなく個人が自活する友人関係の生活のようだ。利には聡く、欲もかくが、自然の摂理には抗わず、護り、従う狩人だ。 「荒々しく美しい」アルプスで、密漁、獲物追跡、埋蔵金伝説、豪雪、豪雨、強風、氾濫、避難、遭難、捜索、荼毘と繰り広げられる猛威と人間の対峙は苛烈なものだ。 里でも山でも生き抜くかれらは「あからさまな人間性」で「欠点だらけで」あるが、「心惹かれる人間達」だったそうだ。長年住んでいると熊も雷鳥も彼らには逃げないそうだ。 今はもういない猟師の世界。彼らは、自然を計り算段して行動する俊敏な身体と頭脳と技の持ち主であったのだろう。吉村昭の羆嵐の銀次郎、黒澤明のデルス・ウザーラを思い出した。 いずれも、自然の中にあっても、社会との算段をつけることが避けられない人間の運命だった。
Feb 12, 2016
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沖縄の殿様 高橋義夫 2015年最後の米沢藩主、上杉茂憲の県令奮闘記 沖縄は、17世紀に薩摩藩が征服して知行制を敷き、石高制で年貢を徴していたそうだが、琉球国として、明、清の冊封の関係を維持し、冊封使を迎え、饗応していたらしい。 官吏士族、町人は富み、民は圧政の労苦に晒された封建社会でもあったらしい。もともと18世紀には琉球科律という法律が定められ、19世紀には新案科律なる判例集ができていたそうで、村には村内法があり、小犯罪を裁き、上級審として平等所なる裁判所があったそうだ。苛烈なものではないようで、死刑の定めはあるものの適用例はほとんどなかったそうだ。 一方、生活はゆとりのあるものではなく、天候により作柄が大きく左右され、貧しさに陥り、明治に入っても借金が残った村が多かったそうだ。 廃藩地県は、1871年だが、沖縄は、逆にその翌年に琉球藩となったらしい。大久保利通は、藩主の上京、清国への進貢禁止、分営の設置などの琉球処分を推進して、1879年に沖縄県が設置されたらしい。この年、宮古島では、派出所の通訳兼小使いを惨殺する事件が発生していたそうだ。大和との交流禁止の島民の血判書もあったそうだ。 初代の県令は、鍋島直彬で、旧弊温存を基本方針として、官吏士族の旧慣を存置した運営であったそうだ。2代目として1881年、明治14年に上杉茂憲が任ぜられたそうだ。 上杉鷹山公の教えは、脈々と続いていて、新県令は、村々を視察して、興産、教育振興を奨励し、改革を推進しようとしたそうだ。政府に意見書もだしたそうで、税を適正化し、冗職曠官、民費上乗せ、付届けなどの旧弊の改革、教育、勧業、衛生の推進を訴えたそうだ。 この意見は、三条実美が天皇に上奏した旧慣習温存方針と異なるものとして政府は実態調査に息のかかった役人を派遣し、県令の方針を否定する調査報告が中央になされたそうだ。士族は不幸で、教育に農民も不満を抱き、農民は愚民であるから、士族に地方自治を任せよと報告したそうだ。 新県令の旧慣変更は非とされ、明治16年に解任されたそうだ。折角の改革も、例えば、17世紀からあった遊郭に対しては、貸座敷規則、娼妓規則を発令して浄化しようとしたそうだが、遊郭勢力が反県令を画策し、新県令解任後に規制は廃止され、元に戻ったそうだ。 為政者がかわっても収奪の構造はかわらなかったということらしい。飯嶋和一の小説「狗賓童子の島」と同じ構図だ。かわったのは、皇民化教育がなされたことで、清をなつかしむ士族もおり、怨念が残ったと著者は言う。 国境の要衝で、大和権力は旧機構を引き継いで支配したようだ。沖縄返還と通貨パニック 川平成雄 2015年 皇民化した後、戦場となり、死地となり、米軍占領地となり、米軍要衝の地のまま、1972年5月、日本に復帰することとなる。沖縄処分から93年後だ。当時の様子が窺がえた。 1970年 9月 米兵が飲酒運転のジグザグ走行で主婦を轢殺。 1970年12月 米軍最高軍法会議 無罪 12月 コザ騒動 深夜、米兵が人をはね、朝まで民衆が騒乱 米軍車両焼失75台、米軍焼失建物5棟 1971年 1月 米国民政府法務局長からランバート高等弁務官(責任者)宛機密文書 (2012年1月資料発見) 「誤審。」 「この事実は公表すべきでない。 琉球人に軍法会議と陪審制度をよく理解してもらう方が有益。」 「時として無罪判決があることが受け入れられる様導くことが できよう。」 ニック・タース 「動くものをすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか」 正確な数字は不明だが、ベトナム戦争(1965年から1975年)で アメリカ軍は、ベトナム人兵士 1百万人 民間人2百万人 を殺害。 1971年 8月15日 ニクソン ショック なぜこの日にしたか、ニクソンの後日談 「日本人につけをまわすため」「佐藤首相にわざと恥をかかせた」 大蔵省の失態、英仏独が為替市場閉鎖するも日は閉鎖せず、 円買い40億$流入。その後変動制移行。 1971年10月 人々のドル通貨円換金保証額確認作業、米軍にも秘密裏に準備 当日実施。一矢。人々のドル資産の棄損回避。 1972年 5月 返還、円切り替え
Feb 8, 2016
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五色の虹 三浦英之 2015年満州建国大学 卒業生達の戦後 石原莞爾の試案で設立が計られ、辻政信ら中心に骨格ができた6年制全寮制の給付金のある無料のエリート大学が新京に設けられていたそうで、驚いた。五族協和の理念で、日、中、朝、蒙、露、台の学生が集まり、言論自由で開学されていたそうだ。開戦、敗戦で激しく破綻した訳だが、卒業生同志の思い入れが永い年月をへても残ったそうで、惨事の中の奇跡のようにも思えた。 1400名の卒業生は、戦後、それぞれの母国で過酷な運命に晒されて生き抜いた姿が語られており、胸にせまる。それぞれの民族のおかれた闘いの中で、艱難辛苦の人生が記録されていた。母国への思いと、同窓生への思いは、異次元でありながら、大切にする思いに差がないことに感動する。類、種、個の、種は異なる者でも、個は親愛しえるかのようだ。 同時期に激論しあい、許し合った、相互の思考差を確認し合った人々のようだ。時を隔てても相互の親愛は残るというものだった。 敵、味方、裏切り、密告、拷問、解放、いずれも強烈な人生が語られていたが、その経験を経ても思考差を尊重し合える人格は、とても崇高だ。 若者が異民族と競い合う経験をすると言うことは、安堵のない場ではあっても人間としての力を深められるようだ。最終戦争論 石原莞爾 1940年 日本の敗戦の姿を描き切ったような想像を開戦前年にしていたとはなんとも驚く。わかっていても力を使える立場になってしまうと、冒険的で楽天的で運命的思考になり、忍耐と苦痛を配下に強要することに抵抗がなくなってしまうものなのか。 空想的な文明史観の果てに戦争を計画していたとすると、科学的軍事学も毒になってしまうと言う事か。異民族が和するとはどういう状態をつくりだせばよいのかといくら思考していたとしても、資本の蓄積の劣る民族を蒙昧として蔑視する限り、自身の思考と行動の下での生産を他民族に強要することが正義となり、貢献と思うのが必定だったのか。 武力をもって覇権争いを始めれば、最終戦争にまで果てしなく、耐え抜いた者が優者になると達観するのか、それとも、そんな勝者はおらず決してすまいと決意するのか、どっちをとるかで未来は変わるのか。そうではなくて、力比べの勝者と敗者があるだけなのか。国益の確保を念ずる国がある限り、収奪の応酬はなくならず、報復を抑制できる国は存続できないというのが、人間の歴史なのか。 本領安堵のない世界であったようだ。これからはどうなのか。流離人 浅田次郎 2014年さすりびと 日本海側を走る列車内で、さすらう老人が満州に学徒徴用された陸軍少尉時代を独白し、「心配する者を持ちません。どこかでふいにおしまいになればいいと思っています。」と言い、鄙びた漁村の駅で下車していく。 南満州鉄道と東清鉄道を本隊を追ってさまよいつづける老将校、奉天、新京、チチハル、ハイラルと赴任途上の青年士官。青年将校が出頭先ごとに次の地を示されて転々とする度に、老将校に遭遇し、「戦が終わるまで迷っておれ。」との老将校に従い、戦列に加わらぬ者への怒りを忘れて生き残ることを選んだ話。 人が消耗品であること、建国が幻であることをあばいているかのような、もの悲しい物語だった。蚤と爆弾 吉村昭 1970年 ハルビンの奥の草原に広大で巨大な隔離施設を設け、3つの滑走路を備え、細菌兵器の人体実験、野外実験、培養・製造、保管が繰り広げられたそうだ。ソビエト侵攻により、発覚を恐れ、自ら爆破・埋設隠滅・閉鎖するまでに犠牲者は3千人に及ぶらしい。従事していた科学者、軍人、軍属も3千人らしく、アメリカの原爆開発には及びないが、同類の残虐無差別殺戮兵器の開発が実現、成功していたそうだ。 いち早く、日本に帰還した関係者達は戦犯を懼れ、口を閉ざし、互いに顔を背け合って生きていたらしい。 五族協和の理念と、大量無差別殺人兵器開発の論理が、同時にあったわけだが、殺戮手段の科学的探求欲を実現しきる恐ろしい所業には、理念と行動が破綻していても行動を正当化できる人間の欺瞞に満ちた性根が露呈している。 建国大学の設立も、施政手段としての教育を社会科学的に探究した結論であったのかも知れない。
Feb 2, 2016
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日本でテロが起きる日 佐藤優 2015年 時事通信社関連団体、内外情報調査会での懇談会講演録だそうだ。佐藤優はこの会は欠かさないそうだ。 中東の紛争の火種は、一世紀さかのぼり、英、仏、露が民族に頓着せずにオスマントルコ領の植民地化の線引きをしたことが大きいそうで、領土と民族が分断されて統治され、抑圧と不満が拡がっていったらしい。 シリアの火種は、仏が植民地政策として、それまで底辺に抑圧されていた少数派を支配層にすえ、多数派を支配したがゆえだそうで、それがアサドが属するシーア派のアラウィー派だそうだ。 現アサドは、親から引き継いで支配者となったそうで、その親も1970年代に反対派同胞を大量虐殺をしたそうだ。その息子も国民に毒ガスを使う人間となったわけだ。 イラクのマリキ政権はシーア派で、イランもシーア派、サウジはスンニ派だそうだ。 サウジでは、今でも女性の教育は小学生5年生程度に制限され、運転も禁止、妻帯は4人まで認められ、国会はなく、王の一族1500人が支配しているそうだ。 サウジにとって米軍はボディーカードで、更に、核兵器についてもパキスタンが保有できたのはサウジの支援によるもので、サウジはイランの核保有に備えていつでも核を手に入れられるようにするためにパキスタンを支援したというのがもっぱらの噂だそうだ。 シリア、イラクにまたがって繰り広げられている紛争は、もはや戦争であるそうだ。もし、クリントンが政権をとったら、躊躇せず地上軍を投入すると著者は言う。 また、この地域には800万人がおり、人道支援で200万人も域外に脱出させれば、この地域経済はなりたたなくなり、難民人道支援が敵対行為になるそうだ。だから、日本も敵とみなされるそうだ。 ウクライナの停戦は、アメリカ抜きで独、仏、露、ウの四か国で決まったそうだ。ウクライナが引いてロシアは引かない内容で、ロシアの勝ちと。ウクライナはつくづく利に恵まれぬ地で人の和も築けない地のようだ。 ティモシースナイダーの「ブラッドランド」によれば、スターリンが集団農場政策推進して土地と作物を取り上げ、農産物は海外輸出し、ウクライナ人4百万人を餓死させたらしい。佐藤優は当時の肉屋の写真に人肉を見たそうだ。 ヒトラーが登場するとウクライナ各地でドイツ人による大量銃殺がはじまり、大量銃殺で谷が埋め尽くされたりしたそうだ。肥沃な土地をウクライナ人から奪い、ドイツ人を養うためにドイツ人の入植をめざし、虐殺、移住させたとある。ドイツが降伏すると、スターリンは、ウクライナの民族活動家を弾圧し、ユダヤ人も排除したそうだ。 ウクライナは取り囲まれる国に蹂躙される地のようだ。共産圏の崩壊後は、トッドによれば、ドイツに隷属することになったそうだ。ドイツが終着となるロシアからのガスパイプラインがウクライナを走り、ドイツとロシアの重要経由地になっているそうだ。 クリミアは、ロシアに戻ったが、水と電気はウクライナからの供給なしにはなりたたないので、ロシアは決してウクライナへの支配を緩めないらしい。佐藤優によれば、ウクライナ東部、南部には、ロシアの航空機、ミサイル、宇宙産業、兵器工場があり、ロシアにとっては死活地域となっているそうだ。 ウクライナ西部は、もともと反ソビエト闘争の歴史があり、貧しい、辺境で、ウクライナ人の地域だそうだ。ソビエト共産圏となり、難民となるが、大国は受け入れないためブラジル、カナダに大勢亡命していったそうだ。カナダには120万人のウクライナ人が住み、ウクライナ語を話し、ウクライナを支援しているそうだ。 ウクライナの大統領は歴代、美人の誉れ高い元大統領も含め、不正蓄財で私腹を肥やす歓迎されない指導者であるそうだ。地の利も人の和も危うい地のようだ。 つくづく日本の地の利は、海と辺境にあると思う。更に、人の和を世界に語れるほどの国になれれば、この上ない地になれるかも知れない。
Jan 28, 2016
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獅子吼 浅田次郎 2016年 ままならぬ話が六編。いずれもなすすべない時になんとかしようとしても予想外のことになる話だった。一話 獅子吼 あらがえぬと覚悟した時、なりかわってくれる意気にあずかれることもある。二話 帰り道 負い目をおいたくないと決意した時、差し伸べてくれた人をも失うことがある。三話 九泉閣へようこそ この世への未練を断たれた時、救われることがある。四話 うきよご 孤独になった時、他人の中は居心地が良い。五話 流離人 せっぱつまったら、迷いさまよえばよい。自分で期限を定める必要はない。六話 ブルー・ブルー・スカイ 行き詰まり身の危険を感じたら、ジタバタせずにしのいでいればなんとかなる。結論 世の中捨てたもんじゃない。
Jan 25, 2016
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破獄 吉村昭 1983年 「賊軍の昭和史」で半藤一利は、北海道は言わば隠れ家で、龍馬の実家も釧路に渡り、秩父事件の井上伝蔵も北見に隠れたと。屯田兵は長州の回し者で札幌や旭川など適地に駐屯し、民間が奥地をあてがわれ、森林伐採、開墾をしたと。北海道の軍人や官吏には屯田兵の家系が多いと。 「国道者」で佐藤健太郎は、国道333号は網走監獄のルーツで囚人による突貫工事によって開かれたそうだ。路肩には無縁仏が埋まっている、通ったら手を合わせたらと。「破獄」によれば、明治24年に囚人一千人以上がかりだされ、四か月で完工させるも、二百人弱が亡くなり、残りの人は病気となってしまい、ほぼ全滅であったと。 吉村昭の1971年の「逃亡」のモデルとなった人物と北海道史家との共著「雪の墓標」では、昭和19年、死刑判決を受けた兵が霞ケ浦航空隊の営倉から脱走し、北海道軍事用鉱物採掘現場などのタコ部屋に潜伏し、厳冬下の過酷な労働環境に、監禁監視・逃亡虐待に加担するようになったことが明かされていた。戦後、贖罪に努め、亡骸への慰霊がなされていた。 1971年の「総員起し」に収録されていた「海の棺」では、海軍将校が溺れる兵に刀を振るって生き延びた暴挙、怒る北海道漁民が描かれていた。1977年の「羆嵐」では、北海道開拓民の過酷な自然との格闘が描かれていた。 「破獄」は、青森、秋田、網走、札幌、東京などが舞台となるが、極寒が覆いかぶさるような展開であった。「破獄」が1983年に発表されるまでに発表されていた吉村昭の小説を凝縮したかのような各種の時代の要素が描かれていると思えた。 対峙した人々の死闘と最後に訪れる安寧が描かれていたが、そこには戦前戦中の窒息と息継ぎに喘いだ日本人の姿が、籠められているようにも思えた。
Jan 24, 2016
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忘れられた島々 井上亮 2015年「南洋群島」の現代史 ミクロネシアにおいても16世紀に西欧文明と接触して以降、征服、暴政、植民が、いろいろな「先進」国により永くなされてきたらしい。 スペイン、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本、再びアメリカと変遷する制圧史の中で、日本が整理されていた。いずれの国も自国以外の地での戦争を繰り広げた国々だ。それらの為政の優劣を持って自賛することはあまり意味がないようで、皆、自らの国益確保と自文明の優越思考をかざして他の文民を支配し、自らを正当化してきた。西欧文明の利己がミクロネシアでも歴史に刻まれていたということのようだ。 刻みこまれた歴史を披露されると、科学文明がどのように進んでもそれを利用した国々の精神は、どの国も収奪し合う争いに勝たんとする底辺の水準でしかなかったと言うことのようだ。 吉村昭は惨事を現実として端的に描いていた。この本の記述で思い出される作品がいくつかあった。 サイバンの玉砕での民間人の生死の状況が描かれた「珊瑚礁」、沖縄摩文仁に追い詰められていく沖縄の人々の惨劇を描いた「殉国」、沖縄の人びとに対する本土の差別と敗れた郷土の惨状を描いた「他人の城」、身を挺した海の探索網とアメリカでの俘虜の現実を描いた「背中の勲章」、虜囚の辱めは自らには問わない海軍高級将校のご都合を描いた「海軍乙事件」など、いずれも不条理に故郷を死地にされた人々が描かれていた。 本書を読んで、吉村昭が忘れてはならない島々を残してくれていたことがよくわかった。
Jan 20, 2016
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蚤と爆弾 吉村昭 1970年 細菌の改題 優秀な科学者が兵器の開発にその能力をいかんなく発揮すると極悪非道な事柄を成果として出現させてしまう。人間とは、能力を制約なしに発揮できてしまうものなのだという事実が突きつけられた。 軍事的勝利を至上として目的を合理的に実現する兵器の開発を課せられると、平時には躊躇して出来なかったことも、科学的に組織的に行ってしまう、人間はそういう特質を持ち合わせているということを明らかにしている。 勝利が人道に優先される時、手段の合理性があればいかなることをも許してしまう人間がいる。戦争は、国家が認めた人道を超えた殺人・破壊行為であるから、その極悪非道は無限となってしまうわけだ。 細菌兵器開発の実績は、米ソも捜し求め、排除・消去するのではなく、我が物にしようとした。米軍は、対価を払って入手した。開発し使用した者の罪は隠蔽され、非道な科学的成果は米軍に秘匿された。 極悪非道でない戦争などは、人間はできないのだろう。極悪非道を科学して勝利を目指してしまうのだ。歴史を知るとはそういう人間であることをわかることなのかもしれない。
Jan 15, 2016
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賊軍の昭和史 半藤一利 保坂正康 2015年 勝てば官軍負ければ賊軍とは、現代史を言いえているそうだ。大方の歴史は、真偽のほどは勝敗に従うことになるらしい。争いとはしたたかさの勝負でもあると言う事か。 御一新とは、尊王の藩が賊軍とされ、玉を手玉に取って自らの国造りを目指した薩長が官軍と自称したという事であるらしい。戊辰戦争では、略奪・虐待が、賊軍ではなく、官軍によって賊軍の非戦闘員に対して繰り広げられたのが実態であると。強者が弱者をなぶりものにする戦争の本質は、いつの時代でもいずこの紛争地でも変わらないらしい。勝者の蛮行はやまないようだ。 陸軍、海軍とも明治は薩長派閥が支配し、陸軍はその反動で次第に反長州が働き、昭和になると長州色は消え、官軍、賊軍の差別もなくなっていたそうだ。しかしながら、官軍の思想は陸軍を支配していたそうだ。長州嫌いの東条英機は、官軍思考であったと。海軍は、限られた要員規模であったので昭和でも薩摩が主流であったと。 軍では、陸海軍大学出などの暗記成績優秀者が選抜されて支配層となり、実践経験もない者が参謀になり、国の行末よりも自己軍事組織の教条思考の貫徹に拘りぬき、政治と民衆を翻弄したようだ。玉を手玉にとって越権するその態度は、官軍的であると。陸軍悪で海軍が善玉のイメージは、流行小説の影響であって、幻影であると。 徹底抗戦、玉砕をとなえる軍人達をとどめて、日本人を自滅から救って終戦に持ち込んだのは、賊軍派であったと。敗戦・被抑圧・濡れ衣を着た祖先を持つ軍人達が滅亡を留めたということらしい。 鈴木貫太郎は、譜代藩士の子で鳥羽伏見で大阪詰めの時に生まれ、海軍兵学校を成績上位ででるも、冷遇され、戦功をあげても同じ役に留められ、賊軍としての覚悟が必要な最期に登場となり、終戦の聖断を導きだせたのだと。 濡れ衣を着た敗者が、敗者でなくなった時に日本は滅亡から辛うじて逃れられたようだ。
Jan 13, 2016
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2020年世界はこうなる 長谷川慶太郎 田原総一郎 2016年 被害者を騙る政治は、為政者が造り出した専制と収奪の隠れ蓑であると「ブラッドランド」を読んでわかった。ヒトラーとスターリンは、被害者を騙り、敵の影をつくりだし、「正義」のために自民族、自勢力以外の皆殺しを企て滅んだ。国益を騙る正義に国民は熱狂して喜々と邁進したものの、惨劇に加担してようやく自身の正体を知った時には、取り返しのつかない歴史を抱えることになっていたようだ。 「動くものはすべて殺せ」を読むと、ベトナムでスターリン主義や反共のためにアメリカは正義を推進したつもりであったのかもしれないが、実態は、軍内部の評価獲得のために非戦闘員の民間人を大量殺害して戦果と偽装し、軍も容認し、「正義」の実績として本国も叙勲、昇進評価し、国益の英雄として安住させたのが真実のようだ。「一流」新聞も対立政治家も将軍達もベトナムの民間人を米軍の長年に亘る大量虐殺から守らなかったことになる。 高度成長を遂げてGDP「一流」国となった国も、為政者が権力闘争の果てに専制の君となり、腐敗・汚職撲滅の「正義」のもとに専制の障害となる知識人、民族を拘束、排除、粛清していく様は、20世紀の大量虐殺を犯し始めた頃の政権と似ているようで、似たような事を犯さないか不安が募る。 「一流」新聞は、正義を語るようだが、スポンサーにおもね、売り上げ部数に筆をはしらせ、扇動・捏造記事を掲載するようでは、一流の騙りとなる。トクダネに逸り、事実を都合よく取捨選択して大見出しをつけていく新聞では真実はわからない。独善的、功名にはやる自説は許さない真実報道の規範のある新聞が一流のはずなのだが。 「一流」新聞で事実を知ることができない日本では、様々な事実を提供してくれる出版社はありがたいが、「一流」新聞と同じように正義を騙る出版物もまた多かろう。それでも、新聞のような大量流布による汚染が少なくて済むならまだ安全なメディアかもしれない。 この本には、新聞には掲載されていないことが多く書かれている。腑に落ちる話ばかり。著者は言う、「血の海になる、何千万人かも知れない。」と。果たして20世紀の世界史がまた繰り返されてしまうのか。 日本は、その前にそこから撤収しておけと著者は勧めている。
Jan 10, 2016
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ヨーロッパから民主主義が消える 川口マーン惠美 2015年難民・テロ・甦る国境 国境審査なし、関税無しで往来自由の協定、それが、シュンゲン協定で、共同体の証で、ヨーロッパの26ヶ国が結んでいて、EU加盟国は22ヶ国だそうだ。これが、経済難民問題で揺らいでいるそうだ。 ユーロ通貨に移行した国は、19ヶ国だそうだ。EUで非ユーロの国は9ヶ国で、英、ポーランド、スウェーデン、デンマーク、ハンガリー、ルーマニアなどだそうだ。 イギリスは、両方とも参加していないことになる。国境あり、関税あり、別通貨・為替ありとなると、同床異夢でなく異床異夢なのか。拠出金も66%の免除をサッチャーが勝ち取り以来そのままで、イタリアよりも少ないそうだ。 イギリスの負担が格安になった理由は、EUの歳出の45%が農業補助金で、それではイギリスにはメリットがない、拠出は不公平だとの理屈だそうだ。 農業は、戦略国内産業であって、アメリカも巨額の補助金を大農家にだしつづけて保護している。米欧は、食物は決して他国にゆだねない、命は握られないとの意志と言うことか。 東欧でのスターリンやヒトラーによる餓え死に殲滅戦法の大量殺戮を知れば、ヨーロッパの飢餓の歴史がなせる業か。食品を海外にゆだねてしまっている日本のおおらかさは、他国による飢餓戦法での民族絶命の危機の歴史がわからないからとなるのか。 イギリスは、外国人を呼び込み、金融で再生してきたが、ドイツとは全く異なり、問題となっている難民は受け入れていないそうだ。 ドイツは、70年前に他民族大量殺害の民族浄化なる残虐行為を繰り広げたことから、憲法にあたる基本法に「政治的に迫害される者は庇護権を享有する」と決めていて、見過せないことになっているそうだ。去年110万人の難民が中東などから入り、難民申請審査、保護、給付負担増と問題が大きくなり、国境検問が復活し、難民審査を迅速化して強制送還を厳格運用し始めようとしているらしい。 難民を受け入れた理屈には、安価な労働力の確保、国内賃金の抑制、難民景気への期待などがあるそうだ。アメリカもタイラー・コーエンなど大量移民による経済成長、低賃金労働者の確保が基本シナリオで必要と言っていた。 もともと、ユーロ通貨圏で、ドイツにとってはユーロ安、成長の滞るユーロ通貨の国にとってはユーロ高で、ドイツの輸出154兆円は増加し続け、6割はEU域内にはかれていてユーロ圏で独り勝ちだそうだ。 東欧の低賃金労働者を受け入れ、国内賃金上昇を抑え、格差を拡大させ、国内社会資本の充実は後回しにして成長しつづけているそうだ。 フランスとは、原子力発電した電気を買い、ロシアとはガス、石油パイプをドイツに何本も直結させ、中国にはアジアで一番大切な国と言い、ドイツメディアは反日報道を繰り返す。 ヨーロッパ諸国も、中国のAIIBにこぞって参加し、人権問題は口にするのを控える。ヨーロッパ文明とは、民主主義より実利まるだしになってきているようだ。 EUでは、規制がどうでもよいことまで数多く、EUの本質は、閉鎖的な営利団体であると。難民問題で目に見えてきたのは、国境が復活し、国家主義が台頭するEUの正体であるらしいと。途上国で搾取を続けながら、その国々の民主化を強化しようとする偽善に満ちた姿であると。 同床異夢も、難局に床が抜けかねないようだ。
Jan 6, 2016
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ブラッド・ランド ティモシー・スナイダー 2015年 原書2010年ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 1933年から1945年の間に、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国周辺で銃殺、ガス殺、飢え死にさせられた民間人、捕虜は、合計1400万人に達するそうだ。ヒトラーのドイツと、スターリンのソビエトに殺された非戦闘員の数だそうだ。 本書で明らかにされている残虐さと執拗さは、凄惨を極め、後にベトナム戦争でアメリカ軍が200万人以上の民間人を殺害した極悪行為と同じように、読者の臓腑がこみ上げてくるような凶悪の告発だ。 独とソがしめし合わせて始めた戦争は、他国を侵略して統治、搾取する植民地行為というよりも、他民族を強制排除しながら殲滅して領土を収奪し、自民族を移植する強奪行為のようだ。強制移住からはじまり、収容地が満杯になると、占領地域の知識層を抹殺し、婦女子も殺してしまい、その民族を根絶やしにして絶滅せんとした残虐行為だ。 中世の乱世とかわらない思考だ。20世紀の前半のヨーロッパとは、そういう地域であったようだ。 米英は、1945年に勝利しても、独ソが繰り広げた殺戮の地の惨状はみていないそうだ。ソビエトが占領し、支配し、不都合な事実は隠して被害者に化けてドイツ人の大罪を隠れ蓑にしたそうだ。 1942年には、米英にユダヤ人虐殺は伝わっていたそうだ。更にポーランド亡命政府の大統領とバチカン駐在大使は、教皇にまで公表を懇願したが徒労におわったそうだ。 独もソも、自国は資本から収奪されて攻撃されている被害国であるとの主張から、対外侵略を正当化していったそうだ。資本の正体とは金融資本のユダヤ人であるとの同じ主張を両国とも時期は異なるがしている。 ソビエトは、ウクライナからの穀物と農地の収奪から始め、次にドイツと結んでポーランドを分け合い、その後、裏切り合ってドイツは潰え、ソビエトは、偽り騙り続けて半世紀後に自滅することになると言うところらしい。 ドイツに抗したポーランド人蜂起を見殺しにするスターリンの狡猾さ、残忍さには背筋が寒くなる。また、徹底破壊、殺害したドイツも人間の所業として理解するのは苦痛の限りだ。アメリカがソビエトで給油してポーランドのドイツ軍を空爆する提案をスターリンは拒否し、蜂起が失敗して、ポーランド兵士が死亡し、ソビエトがポーランドを支配することが望ましいとしたと。 スターリンは、戦後、資本主義を敵として自国民の弾圧を強化し、米ソの残虐行為が継続されていったらしい。被害を騙り、目くらましにして支配を確立せんとしたらしい。 そうした国の末路は明らかなはずなのに、今世紀もまた起きていると著者は言う。数字を騙らせず、自己の正当化に数字を誇張させず、記憶を歪曲させず、都合のよい教育はさせないようにするのが歴史の目的と。 百万の死者とは、一人かける百万と理解して、人間性を持てと。人間の所業を超えるとせずに、人間の所業であると理解せよと。 21世紀も果たして同じ末路をとげてしまうのか。
Jan 4, 2016
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グアンタナモ収容所 地獄からの手記 モハメド・ウルス・スラヒ著 ラリー・シームズ編 2015年 2005年に収容者自身が書いた手記だそうだ。弁護団や各種団体が司法、軍と6年の交渉の末に公表することができたそうだ。 固有名詞、政府や軍に不都合な部分が黒く塗りつぶされたように印刷された本だ。注記で公表資料などから責任者などの推定解説がなされている。 メディアの常で騒がれた時期が過ぎるとその後の報道はほぼなくなってしまい、人々の記憶から事件は薄れてしまう。この事件も進行中であるにもかかわらず、そうなっているようだ。そうなることは、為政者にとっては願ってもない事であるのだろう。オバマは政権を引き継ぐときグアンタナモ収容所は閉鎖すると言ったが、まだ存続している。 編者の冒頭の説明以外は、収容中の著者自身による記述からなっており、ノンフィクションである証の傍証、裏付け論証の記述を望むべくもない。しかし、これまでに非人道的な軍の行為を報道で聞いていたかぎりでは、これもまた事実なのであろうと思える内容だった。 ひどい話だ。読む限りでは、恐れのあるものは手あたり次第に収監し、拷問し、情報をとり、情報をとれなくば、拷問により都合のよい内容の供述書に仕たて上げ、それを論拠に犯人に仕立てて投獄しているとの印象だ。 陰湿でおぞましい古くからある手口で、勇ましい正義の軍律とはほど遠い、冤罪によって自己保身をする司法と同じ体質のいくじのない軍隊に見えてくる。暴力装置を装備している組織による蛮行であるからなおさら卑怯な行いだ。 この収容所は、2001年にブッシュ政権が設置したもので、不法な敵性戦闘員を軍事委員会で裁定し、ジュネーブ条約の戦争捕虜でもなく、米国司法の適用外にあると聞く。法外な施設など軍により維持されていていいはずもあるまい。昔、ソビエトには多くの強制収容所があった。アメリカでは、今も司法が自国民を二百万人以上監獄に入れている。加えて、軍は、法規外で外国人をグアンタナモ収容所に入れている。 怯懦な軍隊の妄想の果てに危険分子の影が増幅されているとしたら、和解は果てしなく遠い。
Dec 24, 2015
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遠い日の戦争 吉村昭 1978年 ベトナム、アフガン、湾岸、イラク、シリアと繰り返される戦争映像を見せられると、正義をかざす戦争と言われても、仕返し、腹いせでもあるかのようだし、犯罪者の矯正と言うより殺害による排除でしかない戦争もあるかのようだ。 戦争犯罪裁判も勝者による仕返しの正当化芝居である場合もあるようだし、反テロの基地やテロリストの基地でなされる捕虜の収監は、拷問の隠蔽実行であるかのようだ。 主義や政略のために民間人を殺害しても、目的のためだとして罪が隠蔽される戦争もある。戦争に付随して必ず蛮行が犯され、まさにそのような犯罪行為の塊が戦争でもあるようだ。 多くの文明が、現代においても、争いはじめたら、仕返し、腹いせをしあう、応酬する文明であるかのようだ。 70年前の日本の一般市民居住区域へのアメリカによる焼夷攻撃は、非戦闘員殺傷を狙うもので国際裁判所条例の違反であるから、その実行者は戦争犯罪人として重刑に処せられると判断し、殺害を命令し、実行した日本軍人達がいたそうだ。 日本の各地の都市ヘのアメリカによる爆撃は、老幼婦女子の焼殺となり、もはや、アメリカ軍は日本人を人間の集団として認めていないと日本人に感じさせるまでとなったらしい。九州で日本軍に撃墜された爆撃機のアメリカ軍搭乗員は捕虜として西部司令部に収監されていたらしいが、街を焼き払われた市民が、殺せと司令部に詰めかけたそうだ。女性もいたそうだ。 憲兵隊の適当に処置せよとの命に従い、秘密裏に九州大学での解剖死や斬首処刑がなされたそうだ。その間も連日、アメリカ軍による無差別都市攻撃、執拗な機銃掃射があり、学童さえも多数死亡していたそうだ。終戦が命令された後には発覚を懼れ、残った搭乗員の処置がなされたそうだ。 アメリカ軍は、爆撃機搭乗員捕虜殺害の戦争犯罪として日本の司令官、実行者たちを日本の警察に探し出させ裁いたそうだ。絞首刑は9名、終身刑5名、有期刑14名であったそうだ。 昭和32年には、終身刑の者も仮出所したそうだ。戦後、敵意は薄れ、時代に同化していったらしい。仕返しせず、腹いせもせず、恩讐の彼方にいられるようになったのか。 戦争へマスコミ・有識者・教師が扇動し、日本人が熱狂し、身を挺していた状況が、敗戦を境に、民間人を虐殺した者になびき、親しくし、軍人、政治家、財閥のみに責任転嫁する変節は、不気味だと言う。そんな考え方では、戦争の恐ろしさはわからない。物事もみえなくなると。
Dec 18, 2015
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収容所から来た遺書 辺見じゅん 1989年 隠岐・西ノ島出身でロシア語を東京外大で学んだことのある一等兵は、文書情報班に所属し、敗戦でシベリアに抑留され、収容所での壮絶な囚われの生活を課せられた。スパイとの戦犯扱いとなり重労働25年の一方的判決により矯正労働収容所にいれられてしまう。1000人ほど収容されており、団長は瀬島龍三中佐であったそうだ。 飢餓、栄養失調、極寒、不衛生、過酷労働、拷問、監視、思想教育、密告、私刑、懲罰、衰弱死、これらが支配した生活で、そんな中でも、人間らしく、句を詠み、語り合い、情勢を分析し、人々に未来を信じさせる主人公の生き様は、静かで強靭で囚われぬ精神の体現だ。その人柄により階級を超えて周りに人が集まったそうだ。「事実を通じて真実を、現象を通じて本質を」と生きたそうだ。 病に倒れ、死を迎えても、残した親兄弟妻子を想い、子供たちへの教育に日本の未来が賭かるとの決意を遺書に託し、没収されぬように仲間に記憶することを頼み、仲間はそれに応え、シベリアの土となっても遺書は日本の遺族に確実に届けられた。 遺書を読むと、愛情に溢れ、胸に迫る人の道を説くものだ。日本人に囚われぬ精神を教えるかのようだ。悲劇の極みだが、清々しい精神が溢れだす、日本人に宛てたかのような尊い永遠の遺書だ。 子供たちへの遺書の一節「日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれた道義の文化---人道主義を以って世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。 また、君達はどんなに辛い日があろうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するという進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。」 残された夫人は、隠岐から教職を求めて松江、大宮と移り、4人の子供を養育し、東大、東京芸大、東大、東京外大へ進ませたそうだ。生きて帰ってきた男 小熊英二 2015年 早稲田実業卒の二等兵が庶民の冷めた見送りの中で出征し、敗戦によりシベリアに抑留され、なんとか生還する。収容所は、食料、寒さが極限状態で、さらに精神的にも民主運動なる転向同胞からの思想教育、反動摘発、密告と厳しいものであったそうだ。 窮状は極限にあったが、所外の労働時にロシア人家庭に泊めてもらった時、日本では見られないほどの貧しい状況にロシアの家庭があることを知ったと。一方、ロシア軍では日本のように上官が殴るようなことは見受けられず、上官と兵がフランクに話す姿が印象的であったと。日本が、士官学校、帝国大学など学歴による階級社会で差別社会であることを痛感したと。 普通の庶民が否応なく戦争の惨劇に巻き込まれてしまうのであるから、巻き込まれた者は、何かに意気込むような生き方はせず、命を永らえるのが精一杯であったらしい。何かに囚われる精神は、胡散臭く、疎まれたのだろう。 1948年に帰国すると、収容所よりも日本の食事は貧しいものであったと。職を求め転々としながら生活を築いていく庶民に、頼れる支柱などなかったようだ。囚われず銘々が生き抜いた時代のようだ。
Dec 14, 2015
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日本とドイツ 歴史の罪と罰 川口マーン惠美 2015年 改題 日本はもうドイツに学ばない 2009年 前書きに欧米の対日観が書いてあった。 「5年前もひどかったが、さらにますますひどくなっているのがドイツの反日報道だ。真実とはかけ離れたことが主要メディアによって声高に主張されている。」 知れば、「海外での日本のイメージがいかに歪曲されているかに気づき、戦慄を覚えるに違いまい。」 果たしてどのような報道実態であるのか。まさか朝日新聞が誤報会見した虚偽捏造報道レベルかと心配になるが、VWの環境性能詐欺が指摘された時、ドイツのニュースキャスターの中には、VWの不正をさしおいて、この機につけいる企業があると、トヨタを名指しした者がいるとの記事があった。ドイツには、反日の意識があるようだ。 なぜなのか。ドイツの自己の利益都合なのか、自己の過去の目くらましなのか、中韓目当てなのか。 ドイツは、ホロコースト被害者への補償はしたが、法的責任を認めた賠償は受け付けず、戦時賠償はしていないそうだ。国民がナチスに熱狂した結果のうち、ドイツ国軍が行った破壊、残虐行為の賠償はしていないことになるそうだ。 戦時賠償を行った日本とは全く異なり、ドイツは連合国と平和条約を結ばず、東西分断され、40年後に統一されても戦時賠償は一切せず、その意志もないらしい。 ただし、敗戦後、ソ連は東ドイツや旧ドイツ領の工業資産をことごとく持ち去り、英仏は石炭・木材資源を奪ったそうで、奪えた国はそれでよしとするのかもしれないが、それもできない被害国はもっと多いはず。 メルケルは、変節してきているそうだ。当初、人権擁護発言して中国に対応していたものが、今では、「中国はドイツにとってアジアで一番重要な国」と公言。当初、原発擁護派であったものが、前政権がロシアと親密にしてエネルギーをロシアに依存し、脱原発推進であった政策と同じ方向に変化したそうだ。財政規律と言い、日本の赤字財政も批判している。 そして、ドイツのメディアでは、日本悪玉論があり、中韓擁護、靖国参拝批判、残虐行為を喧伝するものがあるとのこと。 他者を誹謗して世論を欺き、自己の権益をはかるやり口は、政治家、メディアが堕落し始める兆候だ。よく注意して見る必要がある。クールジャパンなどと安心してはいられないようだ。
Dec 11, 2015
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動くものをすべて殺せ ニック・タース 2015年 アメリカ兵はベトナムで何をしたか 1965年からベトナムでアメリカ軍は対共産主義との闘いとして戦闘を本格化したが、それに伴ってとんでもない戦争犯罪が広範囲に頻繁に繰り広げられていたことが明らかにされている本だ。 アメリカは、ベトナムの独立運動については、フランスや日本とゲリラ戦を戦うホーチミン等にOSSが武器を供与し、軍事訓練を支援していた。1945年にホーチミンが独立宣言した後は、トルーマンは、フランスの再征服を支援し、1953年にはフランスの戦費の8割をアメリカが肩代わりするまでに関与を深めたそうだ。 後年、中東でやったことと同じことをしていたようだ。 フランスが劣勢となり、遂に引き上げると、アメリカはベトナムの専制的な君主を支援し、1962年には一万人を超える兵を軍事顧問の名目で進出させたそうだ。 1965年には、共産主義との闘いとして戦闘が本格化していく。1969年には、54万人の米兵、その他に韓国、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピンの軍が参加するまでに拡大したそうだ。 1975年、革命軍がサイゴンを陥落させて戦争は終わるが、この間にベトナム政府によれば、ベトナムの軍人は、100万人、民間人は、200万人が殺されたそうだ。正確な数字は不明だそうだが、2008年のハーバード大学の調査では、全戦没者は、380万人との報告もあるそうだ。 著者は、2001年に国立公文書館で別の調査をしている際に、国防省の特務班によるベトナム戦争犯罪作業部会の記録を読み、そこには、300件以上の犯罪通報、調査記録があり、殺人、虐殺、婦女暴行、襲撃、遺体破壊などの事件報告書、宣誓陳述書などの告白が保管されていたそうだ。これらをもとに、更に情報公開請求を続けながら、100人以上に聴取を重ね、本書をまとめたそうだ。あまたのベトナム戦争の出版物があるなかで、軍の捜査記録に基づく戦争犯罪の本は初だそうだ。 本書で告発されている内容は、凄惨で残虐で身勝手で猟奇的で、人間のおぞましい所業として極悪の頂点に達するものだ。これらの行為は、アメリカ兵個人の逸脱行為などではなく、軍の方針としてアメリカ兵から逃げる民間人は殺害するとした結果であると結論されている。 アメリカ軍は、殺害数を戦功の指標とし、ノルマを課して指揮者と兵を煽ったそうだ。非戦闘員の虐殺も偽装して戦果とし、指揮者の叙勲や昇進のためには非武装の民間人を殺して点数を稼ぎ、昇進をはかる軍人達が黙認されたそうだ。自由射撃ゾーンなる地域を軍が設定して、そこでは逃げる者は敵と見做し、民間人、女子を殺害しても責任はないとしたそうだ。 農作業をする人々、村に留まる人々に対して、攻撃ヘリで低空ホバリングして威嚇し、突然サイレンを鳴らして逃げさせ、機銃掃射して殺害する。「来る日も来る日も、毎月、毎年、延々と民間人を殺し続けた」そうだ。 問題となり、上院で行われた調査報告では、1968年までに自由射撃ゾーンで殺された民間人は30万人とされていたそうだ。それでも、アメリカは止めなかったそうだ。 ウエストポイント卒のエリート将官達は互いにかばい合い、犯罪を結託して隠蔽し、有罪の犯罪者でも刑期を軽減し、遂には逃がす。40年後、アメリカが起こした史上最悪の金融犯罪でも、犯罪行為に及んだ全員が処罰から逃げ切り、蓄財しぬいた。名門大学出身のエスタブリッシュメント達のつるんだ腐敗の構図と同じだ。 アメリカ軍は、ベトナムに広島の640発分に相当する破壊力の爆撃を加え、砲撃の着弾孔は2100万個に及び、撒かれた枯れ葉剤は7000万リットル、それを浴びせられた人間は480万人だそうだ。 農村は破壊され、焼き払われ、生態系は壊れ、人々は故郷を奪われ、難民化させられた。都市に逃げた民間人も攻撃され始め、都市も壊され、無抵抗を示しても捕虜にはせず殺害してノルマの充足に加算された。 ベトナム人を人間扱いせぬ態度は、政府要人から、軍の教官、士官、指揮者、兵まで貫かれていたそうだ。メディアの告発も機能せず、組織的に隠蔽され、忘れ去られる時間がかせがれたそうだ。ソンミ村ミライ集落での村民500人の虐殺事件は、遠い異国で異常な指揮官個人がおこした逸脱行為として情報操作され、頻発していた非道な実態は隠蔽されたそうだ。 あまりにむごい。
Dec 7, 2015
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空飛ぶタイヤ 池井戸潤 2009年 ホンダのホームページを見てみると、「本田は1969年度の新入社員への講話の中で、自動車メーカーに働く者の責任を次のように語っている(1969年4月発行のホンダ社報125号に掲載)。」とあった。「われわれは交通機関を扱っているかぎり、責任というものを絶対もってもらいたい。責任をもてないような人は、すぐ辞めてもらいたい。もし責任のもてない人がいたら、ぼくは指名して辞めてもらうかもしれない。それはなぜかといえば、交通機関というものは、人をあやめるからだ。ものすごい人身事故をおこす、人の命を預かるものだから、それだけに責任をもつことを強く要求する。(中略)われわれはきず物を売ったらたいへんなことになってしまう。だから、あくまでも、この職業についたが最後、絶対に責任の所在を明らかにする」。 この年に、米国新聞記事に発して隠密リコールの追及が日本でもなされていたそうで、米国輸出と関係ないホンダは、国内のリコールをすかさず発表したそうだ。さらに販売トップにあった軽のN360の事故について欠陥でないかとマスコミがバッシングし、翌年には消費者団体を名乗る組織が事故遺族のかわりとして告訴したらしい。特捜は運輸省、東大を使って検証し、結果は、事故との因果関係は認められず不起訴であったそうだ。 WIKIによれば、その組織の専務理事と顧問弁護士は、後にホンダへの恐喝で有罪となっているらしい。 空飛ぶタイヤのモチーフとなった三菱自動車・三菱ふそうトラックバスの業務上過失致死事件は、Wikiによれば2002年に起きて、別々の欠陥による別々の事故でそれぞれ犠牲者がでてしまったらしい。 三菱自動車は、1977年から内部告発されるまでの23年間にわたり69万台をリコールせずに隠ぺいし、ヤミ改修していたという。2000年明るみになったときは、報告を怠ったとしての道路交通法違反しか問われなかったが、二年後に致死事件の元凶となるクラッチとハブの欠陥対策は、隠蔽し、手を打たなかったらしい。 2002年の事故で元社長、元副社長、市場品質部長、同グループ長等が過失致死傷をとわれ、控訴審などを経て2012年までには、猶予付きの禁固刑が確定していったようだ。 2009年からのトヨタの米国でのマットリコール対応遅延の糾弾、急加速事故電子制御欠陥の冤罪は記憶に新しい。マット・アクセル関係のリコールをし、電子制御には品質を信じて米国議会に対応していた社長の姿は印象的で、疑いが晴れ、リコールも済まし、和解も完了させた今では、高い品質評価を取り戻し、世界で一番多くの車をつくるまでに回復したのは、見事だ。トヨタ式A3プロセスで仕事改革 ジョン・シュック 2009年Managing to Learn トヨタの思考方法、合意形成と協働精神、コミュニケーション、改善し続ける決意、そして責任にたいする考え方がとてもよく解説されていた。いわば、トヨタ道場で人間として学び、考え、成長することが仕事の信念であるかのようだ。これが身についている間は、仕上げられる品質は揺るぎないものとなるのであろう。 VWの詐欺事件では、VWの仕事に対する精神をいったいどのように理解すればいいのだろう。VWの実像をノンフィクションでよんでみたい。 本田宗一郎は、水質の環境問題が取りざたされる前から、借りた水はきれいにして返せと工場に命じ、排水をきれいにしていたそうだ。
Dec 2, 2015
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福井モデル 藤吉雅春 2015年 未来は地方から始まる 富山市は、OECDコンパクトシティー先進都市5に選ばれているそうだ。メルボルン、バンクーバー、パリ、ポートランド、そして富山市だそうだ。この内、人口減、少子化、超高齢化になっているのは富山だけで、海外からも視察があいついでいるそうだ。 一時は、消滅都市さながらの郊外拡大、中心部空洞化都市であったそうだが、行政が計画を立案し、誘導政策をとりながら、市民・議会に合理的な説明をして協力をとりつけ、みせかけの公平論で戦略投資が忌避されるのを克服し、交通弱者に配慮したライトレールと在来線の循環を確立して、職住遊が近い、歩く街づくりに成功したそうだ。 市長が率先して先進事例を学んで採り入れた都市に変えていったそうだ。 福井県の鯖江は、福井市との市町村合併を市民が選ばず、市民参加型の市政・事業に変えることを決意し、市の事業を市民参加型運営に切りかえているそうだ。 工業で栄えた時期もあったが、中国にやられ、多くが斜陽化した町であったそうだが、斜陽産業でも世界一で生き残りつよくなってきたそうだ。眼鏡フレーム出荷額はピークの半分になっているそうだが、技術力と市内の事業者が相互連携した200もの製造工程の連携体制を実現して、イタリア・フランスのブランドのライセンス契約を維持しているそうだ。培われたチタン加工技術は、医療、航空機、光センサー分野と新たな分野での活躍を可能にしているそうだ。 こうした先進性、柔軟性が発揮される素地は、市民が寛容で外の人を受け入れ、協働する風土があるからだそうだ。体操ワールドカップなど二回の世界大会の開催に成功したのも、7万の市民の内3万人が協力したボランティアの力が大きいそうだ。 鯖江は、地域に新しい事業を立ち上げる基礎となる事業者が多くいて、それらの事業者には連携力があるそうで、地域そのものが、インキュベーターであると著者は言う。エコノミック・ガーデニングに相当するそうだ。地域協業・内発的発展にあたるそうだ。 企業誘致で繁栄というのは誤解であるそうだ。亀山しかり、企業は条件のよいところに流動するもので中国、次には東南アジアと、採算なくば移転していくもの。コールセンターも職場は生まれても新しい産業は生まれないと。 北陸三県が日本の中で幸福度が高い地域になっているおおもとには、他にはないものがあるからだそうだ。学ぶこと、勤勉であることを地域が大切にし、特に実践教育の重視と、家庭も教育の責任を果たす風土があるからだそうだ。戦前からの自発教育があるからだそうだ。 考える力を鍛える教育をしているらしい。一向一揆に負け、米騒動に負け、中国にもやられてきた地域の歴史は、教育こそが武器であると教えたらしいと。しかも知識型教育では、考えられる人は育たず、思考力をつけるために自覚と省察と自己の整理を経験させる教育をめざしているそうだ。 生業は地域とあり、地域は家庭とあり、家庭は教えとあるようだ。幸福の源泉は、思考力を鍛える教育にあるようだ。
Nov 27, 2015
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殉国 吉村昭 1967年 陸軍二等兵比嘉真一 沖縄戦に鉄血勤皇隊として召集された、当時旧制中学三年・14歳の少年に、戦後二十数年経て取材したものだそうだ。著者は事実に忠実に創作したそうだ。 敵愾心、気負いをもっていたが、容赦のない殺戮、果てしない死地、累々たる腐乱・散乱、飢餓の中、負傷者の搬送、埋葬に疲れ果て、自決の銃声や手榴弾の炸裂が続く中、戦う意志は捨てず、腐乱死体の下に死体に化けて逃れ続けていたが、遂に発見され、小さい体躯を米兵に囲まれて晒され、屈辱感と羞恥の中捕虜となってしまう。 著者の「旅行鞄のなか」に収録の「14歳の陸軍二等兵」によれば、ハワイに連行された後、帰還できたものの、級友はほとんど亡くなり、戦後は、米軍関係の英文通信社に長く勤め、個人タクシーを営むようになったそうだ。二歳違いの著者とは取材を通じて親交が生まれたそうだ。敵前逃亡 吉村昭 1970年 旧制中学3年の陸軍二等兵が負傷者の搬送中、爆撃弾で意識を失い、気が付けば捕虜となっていた。投降勧告の役を打診され、逃亡の好機と企て、渡嘉敷島の友軍の立てこもる陣地へ向かい、逃亡し戦闘を志願する。しかし、士官は捕虜になってしまったことを許さず、敵前逃亡として斬首されてしまう。 日本の軍紀とは、命を破綻させる精神が支配した無残なものであったという事なのか。太陽をみたい 吉村昭 1970年 沖縄・伊江島では、女子斬込隊が組まれ、看護隊の19歳の女子は、断髪し、鉄兜を被り、短刀を携えて、夜間斬りこみの砲弾運搬に従事したそうだ。日本の将兵が爆雷を背負い戦車に身を投じ続けたが、伊江城山陣地から総攻撃に出た後に、残された者達は、就寝中の発火を負傷兵に託して洞窟で中で死の眠りについたが、負傷兵が逡巡したため朝を迎える。米軍に囲まれても投降勧告には応ぜず、籠城するも、最期には力尽き、死ぬなら太陽をみたいと、洞窟をはいでたそうだ。 伊江島は米軍基地となり、住民は他島への立ち退きをさせられ、飢餓生活の後、二年後に帰島を許されたそうだ。故郷の累々たる死骸の埋葬がはじまったそうだ。日本人戦死者4706人中、住民が1500名であったそうだ。他人の城 吉村昭 1970年 沖縄戦に備え、疎開命令に従って疎開したものは、8万人で187隻が渡海したそうだ。内、対馬丸が一隻が雷撃され、乗員乗客1804人中生存者は177人であったそうだ。 宮崎の遠縁を頼って身を寄せるも、よそ者扱い、島民への蔑み、冷淡な村民が現実的であったそうだ。沖縄壊滅で一時は同情的になっても、敗戦をむかえると追い出しにかかったそうだ。沖縄出身の帰還兵10万人も九州の路頭に迷ったそうだ。 沖縄への送還がなったとき、著者は言う、「沖縄は日本の一県との思いは錯覚と気づいたにちがいない。沖縄は本土とは無縁の島であったことを知ったはず。」 本土で漂流民となった後、沖縄へ戻ると、別のところのように荒れ果て、米兵が支配し、日本人が労役についていた。親戚に身を寄せた村では、夜、酔った米兵がジープで女性を襲いに来て、村民は集団で金属を打ち鳴らして抗うしかない姿があったそうだ。 摩文仁は人骨のひろがる丘と化し、海岸には自決の痕跡が残り、手榴弾の炸裂の輪に散らばる骨が残っていたそうだ。砂糖黍・雑草の繁みには白骨が寄りかたまり、養分となっていたそうだ。 海の色のみに昔が残っていたそうだ。
Nov 25, 2015
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黒澤明 樹海の迷宮 野上照代、ウラジミール・ヴァシーリエフ、笹井隆男 2015年映画「デルス・ウザーラ」全記録1971~1975 64歳でシベリアでの8か月に及ぶ撮影をこなし、1975年に公開されたソビエト映画。その企画、制作、公開、受賞までの一部始終が明らかにされていた。黒澤明のほとばしる意欲と激しい仕事振りを聞いてはいたが、こういうことなのかとよくわかった。 制作に至るまでの経緯や、いろいろな人々の思い入れ、ソビエトの国策の事情、脚本の厳しい推敲、役者・演技・背景・小道具・衣装・動物などのリアリティー、アングル、季節などのあらゆることへの細部にわたる準備と実現への努力、スタッフとの妥協を許さない関係、憤り・不満・罵倒・怒り、痛飲など、あまさず披露されている。とても長い撮影日誌は悪戦苦闘しながら仕上げきる生き生きとした姿がわかるものだった。64歳の枯淡の境地とは異次元の熱血の撮影記録だ。 また、今回初公開として収録されている脚本の決定稿は、映画を短縮化するためになくなったシーンや、フィルム事故などで使えなくなったために変更してしまったシーンが、削られずにもとのまま読めるものだった。とても感動的で面白い「小説」だ。 自然と共存する人間、収奪する人間、互いに争い合う人間と、様々な人間の有様をみせつけて、ともに生きていくことを頑なに守る境地にある人間の気高さを讃美している。やがて、老い、孤独と恐怖にさらされる現実、最期には畏れていた自然ではなく、同じ人間に命を奪われてしまう人間の無残な宿命も描き出していた。 境地に達した人が、人間と自然の厳然たる老いの法則を突きつけられ、静かな気持ちに満たされていくといったような心境になる。 七転八倒するような映画製作現場にしてしまう天才監督は、64歳にしていかがな心境であったのだろう。案外、主人公と似たような境地であったのかもしれない。
Nov 20, 2015
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生きて帰ってきた男 小熊英二 2015年ある日本兵の戦争と戦後 戦時下の繰り上げで早稲田実業を卒業の後、富士通信機にて経理に就くも、陸軍二等兵で通信部隊に召集され、満州寧安の守備にて敗戦をむかえ、シベリアのチタの収容所の三年を生き抜き、帰国するも、職を転々とし、長期療養所生活を強いられた後、新潟、東京と職を求め、ようやく10年かけてスポーツ用品販売業で生計をたてるようになる。忙しく働き、家庭を持ち、子を育て、高齢となり引退した時、兵士としての戦争を語りはじめ、兵士に対する国の身勝手な対応を訴えるに至る。 威張ったり、高揚したりすることのない普通の庶民が、兵士として動員され、敗戦の捕虜となり、強制労働にかりだされ、共産主義の威勢に虐げられながら、生き抜いて帰国するも、母国は、経済破綻により庶民のなけなしの蓄えを無価値にしてしまい、特権階級の利得は保全し、庶民には自らの力で切り開いていくしかない国の正体が明らかにされている。 戦争に普通の市民をかりだし、追い詰めて互いに傷つけ合わせながら統制して、軍のために命を差し出させた為政者。戦争の被害は、国民に等しく受容させるとして償わぬ為政者。 遂には、戦争を見ようともせず、学ぼうとも知ろうともしない風潮に染まり始めた国民に、ほくそえんでいる為政者がいるのかもしれない。
Nov 19, 2015
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雪の墓標 小池喜孝 賀沢昇 1979年タコ部屋に潜入した脱走兵の告白 1925年大正14年生まれの農家4男が、弱みにつけこまれて海軍刑法を犯し、脱走、潜伏、監禁、手先、逃亡、流浪の末、敗戦を迎え、米軍諜報となり、旧軍法の消滅により自由となり、土建現場回りの末、市役所職員として市民生活に入るも、戦時中、潜伏先のタコ部屋で手先となったことを告白し、自身の呪われた人生と苦悩し、贖罪を成し遂げる壮絶なノンフィクションであった。 スパイにつけいられて攻撃機の破壊工作に手を染め、逃亡していく話は、吉村昭に三度取り上げられているが、本書はその本人が述懐し、調査し、タコ部屋での犠牲者に贖罪する話で、戦争中の軍属・人夫の奴隷状況を克明にまとめたものだ。 菅原組による、人夫配給品物資の横領隠匿、給与ピンハネ、飲食・慰安所で借金漬け、捕虜収容施設を流用した宿泊所、監視、過酷な逃亡者追跡、みせしめ暴力、過労と栄養失調による衰弱死など、惨状には息が詰まる。 軍、役人に賄賂が撒かれ、軍事目的に隠れて菅原組に物資と富が隠匿されていく、このあさましさは日本の無残な真実のひとつだったようだ。 弱者はつけいられ、利権を貪る暴力の暗黒が戦争の底辺でも繰り広げられていたことがよくわかる。北海道の山中にも戦場があったかのようだ。
Nov 18, 2015
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昭和史の10大事件 半藤一利 宮部みゆき 2015年 明治の日英同盟の背景は、独露同盟、仏露の強い結びつき、独と仏の結びつきへの危惧、英の孤立感があって、露の力を削ぐために日英同盟を計画したそうだ。日露戦争は、欧州の緊張の代理戦争だったそうだ。 中国の治安回復に出動した列強の中で日本の軍紀が立派で、英国は約束を守る国は他にないと認めたからだと読んだ事があるが、英も国益を画策したという訳だ。 昭和の三国同盟については、駐英大使吉田茂は反対していたが、陸軍が推進したと読んだが、外相の松岡洋右も日独伊に加えてソ連を加えるべく、スターリンにアプローチしていたそうだ。これは帝も承知していたと。 大政翼賛会で戦争意識を高め、戦争に突き進んでいったことを考えると、広田よりも自決した近衛文麿の方が責任があったと。東京裁判では、国民には罪がないような気分になっているが、国民が戦争に熱狂していたのは事実であったと。吉村昭も人々のこの変節への違和感を吐露していた。 独はソ連と協定し、ポーランドを分かち合い、裏切ってソ連に侵攻し、その果てに敗れるが、日は、日露戦争、ノモンハン、日ソ不可侵条約ときて、終戦仲介を託すも、裏切られて奪われたということか。アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ 馬淵睦夫 2015年「日米近代史」から戦争と革命の20世紀を総括す ロシア革命は、ユダヤ人救済の為に、ユダヤ系金融資本が支援したユダヤ革命と言う。ユダヤ資本は国際主義でユダヤ民族主義と国際主義を両立させ、他の民族を国際主義にすることを目指したという。社会主義は国際主義であると。 ロシア革命を称賛したアメリカのウィルソン大統領は、国際ユダヤ資本に操られていたと。ロシアの共産化をアメリカは支援したと。 フランクリン・ルーズベルトは、社会主義者の側近に取り囲まれ、もともと人種差別主義者で日本嫌いの性格であったと。スターリンに分け前を与えたのがルーズベルトであると。 中国をも共産化するのがアメリカの目的で、日本はそれの邪魔なので戦争をしかけて壊す戦略をとったと言う。アメリカは、1940年にフライングタイガーを重慶に送り、蒋介石の抗日を支援をしたが、アメリカは毛沢東を勝たせて共産化したかったと著者は言う。 日米関係を悪化させた元凶は、ヘンリー・スティムソンだと。たしか、原爆投下の時の老陸軍長官だ。また、ユダヤ大富豪のバーナード・バルークが黒幕だと。 日本人移民の排徐は、1913年の排日土地法、1924年の絶対的排日移民法などで強化され、対日戦争シナリオは、政府のオレンジ計画として仕上げられたそうだ。ドイツと戦争するために日本に戦争を仕掛けたと言う裏口参戦論は誤りで、アメリカが日本と戦争したくて仕掛けたのが真実と著者は言う。 よくわからないが、アメリカが日本を壊そうとして開戦を回避せず、最期通牒したのは、有馬哲夫、寺島実郎なども明らかと言う。アメリカの戦争責任 竹田恒泰 2015年戦後最大のタブーに挑む 原爆投下は終戦を早めたとするのは、フィクションと。人道的配慮をしない、軍事的必要性もない、一般市民を殺害した犯罪であることが、米側の事実関係から詳述されている。 動機は、引き継いだトルーマンがルーズベルトの決めたことを再検討しない事、開発に成功した原爆が戦争を終結したとしたかった事。そして、最大の理由は、原爆でソ連に優位に立つためと。 壮絶な戦いをした日米が強固な同盟関係にあることは人類の英知と著者は言うが、知れば知るほどやりきれない。
Nov 16, 2015
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杉原千畝 白石仁章 2011年情報に賭けた外交官 ユダヤ人への日本通過ビザの発給に至る情勢、決意に至る背景、細心の工夫をした発給がよくわかった。なぜ、ユダヤ人を救う事を決意することになったのか、それまでの経歴を知ってよくわかった。 ロシア語を専門とした外交官として教育され、満州で15年過ごしたことが、礎になっていたそうだ。白系ロシア人と結婚し、ソ連と対峙する満州で外交官として諜報活動をこなし、軍とは意見相違しながらもソ連との外交交渉を成功裡に進め、陸軍からも重宝がられたそうだ。本人は、陸軍のスパイとなることを嫌い、1935年に日本への帰任を自ら願いでたそうだ。 1936年、在ソ連日本大使館勤務の命がでるも、杉原の情報士官としての力量から、ソ連は「好ましからざる人物」として入国を拒否したそうで、それほどの実力のある外交官であったそうだ。日ソ間で外交官のビザ拒否の応酬にまで問題は発展したそうだ。 恐れられた理由は、杉原の情報源が、ソ連に圧迫されていた白系露人、ドイツに迫害されていたユダヤ人、ドイツとソ連から圧迫されていたポーランド人達で、彼らを通じた第一線の事実把握とそれに基づく情勢判断が、極めて優れたものであったかららしい。 1937年にフィンランド、1939年にリトアニアに赴任することとなったそうだが、ソ連に拒まれたため赴任時にシベリア鉄道を使えず船でフィンランドに渡ったそうだ。後にヒューマニストと称賛される人物が、実は、ソ連に恐れられるまでの諜報能力を有するロシア通の精鋭外交官であったとは驚きだ。 1939年5月、ノモンハンでソ連の軍事力の前に、日本は兵力の劣位が明白となり、ソ連への危機感が増大していたそうだ。 8月、杉原がリトアニアに着任した時、独ソ不可侵条約が結ばれ、日独防共協定にあった日本の外交は失敗し、内閣は総辞職するにいたったそうだ。 9月には、ドイツ、ソ連がポーランドに進攻し、独ソで分割協定を結んだそうだ。ポーランドには、3から4百万人のユダヤ人が住んでいたそうだ。国境が閉鎖されるまでの間隙にリトアニアに入国できたポーランド避難民がいたそうだ。 12月、ソ連は、フィンランドに進攻し、国際連盟は、この侵略にたいしてソ連を除名処分にしたそうだ。この頃、杉原は、近しいユダヤ人一家に早く、米へ渡れと助言していたそうだ。 1940年6月、ソ連の50万の兵がバルト三国を占領し、8月にソ連に併合してしまったそうだ。 9月、日本は、ドイツ、イタリアと同盟を結び、翌年には、日ソ中立条約を結んだ後、米英と開戦したわけだ。 この激動の中、7月から日本領事館閉鎖までの間にユダヤ人に通過ビザを交付し続けたことになる。ドイツのユダヤ人迫害のみならず、ソ連のスターリンの脅威から守る行動でもあったと著者は言う。 交付に際しては、先々で入国拒否されたり、効力無効と判断されないように、交付条件に工夫をこらし、本国への交付記録の報告にも工夫を凝らしてあるそうだ。 熟慮した内容、タイミングで交付され、渡航を成功させる決意に満ちたものであったと著者は解説している。この後、プラハ、ケーニヒスベルグに赴任し、そこでも交付を続けていたそうだ。 1941年、独ソの開戦をさぐりだして日本に打電するも日本は反応しなかったそうだ。ドイツにもマークされ、帰国願いを申し出て、1941年12月10日ルーマニアに赴任した時は、日米が開戦していたそうだ。 半藤一利によると、日独伊の協定には、ソ連も入れたいと、松岡洋右外相は、スターリンにアプローチしていたそうだ。これは天皇も同意していたそうだ。 吉田茂の「ドイツは信ずるに足らず、英と関係深めよ」との報告に反応せず、ドイツと防共協定するも、独ソ不可侵条約でドイツに裏切られ、日ソ中立条約するも、1945年8月には、米と分け前を密約していたスターリンに150万の兵で攻め込まれた。その攻めてくることになる相手に終戦仲介も頼んでいたとは。 軍と組せず、事実と情勢判断により日本を考えていた外交官がいたこと、ユダヤ人を助ける方法を考えだして成功させることを決意して実行した外交官がいたことは、救われる思いだ。
Nov 6, 2015
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神宮の奇跡 門田隆将 2008年 昭和33年・1958年の東都大学野球秋のリーグ戦、学習院の優勝にまつわる話だが、敗戦時の朝鮮半島からの引き上げからはじまり、復興期に野球が人々に及ぼしたものが何であったのかとてもよくわかった。 学生野球の真剣勝負の姿に人々が共鳴し、未来への希望を人々にもたらしていたことがとてもよくわかった。学習院の逆転劇と並行して、昭和天皇のご成婚への逆転劇も展開され、人々の喜びが沸き上がった様子が目に浮かぶようだった。 未来を感じて、人々が我が事のように祝福したのだろう。 高度成長に入ろうとする時、懸命な勝負には、未来が映り、勝利を信ずる力を人々に与えたのかもしれない。さぞかし爽快な気分に満ちた年であったのだろう。 いつの時代でも、ラグビーワールドカップの日本の活躍のように懸命で爽快な勝負は人々を酔わす。まさに試合の醍醐味だ。
Nov 5, 2015
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ホンダジェット 前間孝則 2015年 開発リーダーが語る30年の全軌跡 ホンダが世界で好かれる理由がよくわかった。 たゆまぬ研究努力、率直に学ぶ姿勢、未踏の進歩に賭ける技術的野心、チームメンバーへのまなざし、顧客を喜ばせる信念、供給する責任、技術の伝承などなど、地道でかつ冒険的で、理論的でかつ野心的な姿がとても痛快でした。 本業で苦しんでいる報道が最近続いているが、世界の空を駆け巡る様子を想像すると、健在なりとエールをおくりたくなった。 革新の機体を設計した藤野道格氏、GEから提携打診されるまでのジェットエンジンをつくりだした藁谷篤邦氏、携わってきた技術者達、研究を継続させてきた歴代経営者達、事業参入を決意した経営者などなど、様々な関係者の事情や思いがあるだろうことを考えると、野心が成功を遂げたのは、創業者の残した教えがとても大きかったのではないかと思ってしまう。 著者の「悲劇の発動機 誉」では、国内最大の航空機メーカー中島飛行機の機体、エンジン開発とその運命が悲劇的に記されていた。技術力と生産力を集中できず、次々と着想、着手された戦闘機とエンジンが、世界最高水準の性能をつくりだしたがゆえに、その高度な仕様に職人までもが戦地にかりだされる製造現場では品質がともなわぬまま、実戦投入され、故障が頻発し、航空戦力の消耗・低下をもたらす悲劇が繰り広げられたという。製造・調達の科学的考察の欠けた海軍の技術省の計画能力が原因と断じていた 戦後、技術者達は、航空機製造を禁じられ、自動車産業に転身し、その情熱を自動車に振るったらしい。ホンダの創成期、モータースポーツで世界制覇した快挙はこうした技術者達によるものらしい。 高度成長も終わり、1980年代半ばに入社した技術者世代が、ホンダジェットを造り上げたらしい。戦前に、欧米コピーから学んだ後、世界最先端の技術水準に達するまでになった日本の航空機技術者達が、アメリカの命により航空機から去り、他分野に転身し、自動車産業を育て世界を席巻し、その後輩達が航空機を開発し、世界最先端機体を作り上げ、アメリカで供給する。 時を経て底流に脈打つものがあると感じてしまうのは、日本の未来に気楽すぎるだろうか。
Nov 4, 2015
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吉村昭 逃亡 1971年 月下美人 1980年 旗艦セズ 1986年 水兵が規律違反に怯えた弱みにつけこまれ、饗応を受けるうちに懐柔され、断り切れずに窃盗、破壊行為を重ね、嫌疑の取り調べ監禁中に逃走し、他人になりすまし、北海道までの潜伏生活の果てに終戦を迎え、戦後、逃亡を隠し続けて四半世紀生きてきた者。四半世紀たっても重みから逃れられず、遂に口外することで精神が解放されるに至る。 普通の心根の人間が、逃れられない軍規への些細な不服従から恐怖に怯え、遂には抜き差しならなくなり、壮絶な人生に変転していく様が描かれる。戦争の及ぼす奇怪さが描き出されていた。 更に、三作を通じて、戦後、戦時中を贖罪するかのような人生の変転が明かされていた。 ・戦争に翻弄されて逃げ切って生き延びた者の数奇な人生 ・戦後、沈黙の安寧から呼び起こされ、過去を暴かれ狂騒を帯びた生活に変貌の末、隠し続ける苦痛からの解放 ・隠していた逃亡生活時代の暗部の告白と、自身と同じ境遇の逃亡者の事実調査に腐心する男の遺された日々 普通の弱い人間が、暗く強い人間に変貌し、葛藤の末に贖罪に至る人生を見せられ、戦争の奇怪な作用が冷え冷えと読む者に迫ってきた。
Oct 28, 2015
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伊四〇〇型潜水艦 最後の航跡 ジョン・J・ゲヘーガン 2015年Operation StormJapan's Top Secret Submarines and It's Plan to Change to the course of World War II 潜水空母による奇襲に活路を求めた海軍の姿が偏ることなく詳細にわたり明らかなされていた。・ニューヨーク、ワシントンの爆撃・パナマ運河特別攻撃・アメリカ西海岸PX作戦・ウルシー環礁集結地特別攻撃 これらは立案準備されたが、最終的な実行にはいたらなかったそうだが、これらに先だって1942年2月に、アメリカ西海岸のエルウッド製油所を潜水艦から砲撃、同月、潜水艦より射出した飛行機がオレゴン州の森林火災を目論んで爆撃したそうだ。倉田耕一著「アメリカ本土を爆撃した男」大統領から星条旗を贈られた藤田信雄中尉の数奇なる運命、に詳しくでていた。 これらの奇襲は、アメリカの国民を厭戦に導くために考えられ、世界最大の潜水艦を建造して高性能の格納型爆撃機を搭載してアメリカ本土を奇襲しようとしたもので、初案は、山本五十六の発案だそうだ。 ウルシー環礁への攻撃が実行された唯一のもので、アメリカ艦隊に特攻する寸前で終戦を迎え、艦が日本に帰還し、米軍に接収され、ハワイで海底投棄されるまでの一部始終が本書で明らかにされていた。 パナマ運河特別攻撃からは、戦局を転換する作戦というよりも、片道の突貫奇襲だ。能登七尾で命がけの特攻訓練を重ね、出撃直前に戦局から「もはや間にあわん」と作戦中止となったそうだ。奇襲に賭けるも大局を逸したと言う事なのかもしれない。 アメリカ人の著者がきめ細かく描く帝国軍人達の葛藤の記録には、驚くばかりだ。戦前の軍人達の思考パターン、死生観、忠義、名誉、武士道、悲嘆の記述は、とても外国人によるものとは思えなかった。類型にはまらず、多彩な帝国軍人像の抽出がなされていて驚く。アメリカ軍人についても同様に事実に照らした多様な軍人像を描いてある。日本も含めて広く直接取材、聴取したようで、吉村昭を読んでいるかのような気がした。 巻末の著者の言葉がその姿勢を表していた。「第一潜水隊をめぐる物語とは、圧倒的な不利に遭遇しながら、なおも立ち向かおうとする決意の物語なのだ。」と まさに、背水の陣だ。
Oct 22, 2015
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世界の辺境とハードボイルド室町時代 高野秀行 清水克行 2015年 犯罪を戒める内容は、その集団が人間の社会であることの世界共通のあかしのようだ。時代と地域を超えて、盗み、復讐、仇討ち、贈答、接待、貸し借りなど人間の営みに付随して生ずる人間関係についての戒めがいろいろ作られ、ないがしろにする者には罰が用意されているのは、世界共通のようだ。 戒める内容の違いは、狩猟と農耕の文明の違いからくるもののような気がしてくる。奪う文明と育てる文明の違いは、文明の進行につれても脈々と受け継がれているような気がする。本当は、奪う文明圏が隆盛しないようにすることが進歩であったような気がする。現代でいえば、拝金金融資本の規制も進歩のあかしであるのでは。 戒めが社会の崩壊防止の基礎機構で、時空、地域を超えて凝らされているものなら、脅威にたいする備えも人間同志がある限り、凝らされてきたものらしい。奪う文明のなせる業で、奪う文明は不滅であるようだ。 律令の育てる文明が、もののふの略奪の文明になり、武士道で戒めと備えを整備して、備えて育てる文明になれたのかもしれない。技術革新を遂げた西洋文明は、奪う文明の辺境としての本質を世界に拡げ、備えの足りない育てる文明を滅ぼし、戒めを捨てさせて、魂をなくさせたような気がしてきた。 備えて守る戒めは、捨ててはならない上等な文明のあかしであるようだ。
Oct 16, 2015
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歴史とプロパガンダ 有馬哲夫 2015年 寺島実郎著「二十世紀と格闘した先人たち」によると、アメリカは、日露戦争後から、数年かけて、英、ロシア、ドイツ、日本などそれぞれの国を敵とした軍事シュミレーション計画をそれぞれに作成していたそうだ。ドイツと日本についての計画は、最期まで更新され続けて残り、日本を敵とした計画は、オレンジ計画と呼ばれて、大東亜戦争までの40年間に及んで改訂していたそうだ。フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、海軍次官補時代に立案に関与していたそうだ。 アメリカは、日本と戦争ができるようにするために日英同盟の破棄へ動いていたそうで、ワシントン条約で日本が大国入りする背景には、こうしたアメリカの反日的な意図があったらしい。 つまり、アメリカは、20世紀の初めから40年にわたって、日本に戦争を仕掛ける準備をしていたようだ。 アメリカがハワイを軍事クーデターで略奪したのが、1893年で、1881年にカラカウア王は天皇に姻戚関係になることを希望されていて日本に支援を要請していたそうだ。日本は、軍事クーデターの時もアメリカを威嚇するために東郷平八郎艦長の浪速を派遣したそうだ。以来、ハワイはアメリカの太平洋の拠点となった訳だ。 アメリカは、スペインからフィリピンを奪ったのは、1898年、フィリピン人を大量殺戮して独立を封じ、植民地化したのが1902年だ。 寺島実郎氏は、アメリカの太平洋進出は、日本の大陸進出を刺激し、両国の野心が太平洋で激突したと評していた。太平洋戦争後も今日に至るまで、アメリカは、国外で戦闘、爆撃を続け、その数は20ヶ国になるそうだ。アメリカの棍棒外交と言うそうだ。 有馬哲夫氏は、太平洋戦争の開戦には、ルーズベルトに相応の責任があると本書で指弾している。日本への石油の禁輸措置で日本は扼殺の脅威にさらされるとの分析結果をルーズベルトは承知していて、日米交渉を壊すハル・ノートを通牒し、その翌日の1941年11月26日には、日本の侵略的攻撃が数日中に想定されるとの戦争警報をフィリピン、タイ、クラ地峡、ボルネオのアメリカ軍に発していたそうだ。ハワイはあるまいと油断していたらしい。 アメリカ国内の厭戦世論、80%がヨーロッパ戦線参戦反対を覆すために、日本をアメリカとの戦争に駆り立て、同盟のドイツをアメリカ戦に参戦させ、これによりヨーロッパ戦線にアメリカが参戦できる状況をつくることを画策したそうだ。ハワイの奇襲で、世論を一挙に参戦に転じさせることに成功したそうだ。 さらに、終戦にあたっては、大統領選を有利に進めるためにスターリンと取引してヤルタ会談のパフォーマンスを演じ、ソ連の参戦と引き換えに北方諸島を日本からソビエトに渡したのが、アメリカ人が敬愛しているルーズベルトだ。 テディー・ベアは、このフランクリン・ルーズベルトではなく、日露戦争の和平仲介し、ノーベル平和賞も受けたテディー・セオドア・ルーズベルトの愛称に由来するそうだ。当初は日本びいきだったらしいが、二人のフランクリン、ともに排日派で日本人にとってはとても親近感を抱けるような人物ではないようだ。
Oct 9, 2015
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日本語の科学が世界を変える 松尾義之 2015年 語彙、論理表現力、外国語との照応性、拡張柔軟性が、日本語は実に富んでいるらしい。 日本語にはない関係代名詞によるうんざりする長文が、論理的表現であるかのように思っていたが、論理表現は、英語も日本語もかわらないもので、関係代名詞の論理を日本語にするときは、接続詞で置き換えればよいそうだ。 並列、従属、逆説が、「あるいは」、「したがって」、「しかし」などによってきれいな論理的文章にできるそうだ。 「私は、現在は仏教の僧侶をしている古い友人と横浜駅であった。」と英語のように訳すのではなく、 「私は、横浜駅で古い友人と会った。その男は今、僧侶をしている」と分けて表現すれば、きれいな文章になるそうだ。翻訳家の努力とはこういう事であったのか。 杉田玄白による医学用語の熟語創作、西周による西洋概念の漢字化など、近代の日本語は、開化し、進歩したのがよくわかった。漢字の表現力と拡張性は実に進歩的であったと言う事のようだ。 日清戦争後、中国学生の日本留学ブームがあって、近代学術用語、法律用語が中国に輸入されたとは驚きだ。化学は、日本語が起源であると誤解されたほどであったらしい。 日本語で思考した科学でも、世界水準に到達可能であったそうだ。異言語の学識をとりいれると同時に、日本語で科学を思考することができる。それが、外国にはない新たな着想の源になっているのではないかと著者は考えているそうだ。 日本語での教育は正しい。小学校では、まず、国語を勉強するべきと。元阪大総長が「中身がないのに英語だけペラペラでもだめで、下手な英語も内容があれば人は聞く」と。 英語の準公用語化は馬鹿げていて、アイデンティティーのないグローバル化など百害あって一利なしと著者は言う。 ネイチャー記事でも「英語以外の文化圏にある科学知識」との表現がでてくることがあり、日本語で思考される科学が存するらしい。農工大の留学生の日本語が上達してきているのをみていると、日本語で科学する意味を理解し始めている留学生もいるような気がすると。 異文化がぶつかり合った思考ができると、殻を破った新たな着眼、着想がでてきて、進歩のきっかけになるようだ。日本語は、どうやら異文化をとりいれられる高水準言語でもあるらしい。 米欧の論文は、点数稼ぎのつまらないものが増えているそうだ。引用回数などの学績評価の点数ゲームがグローバル化しているそうだ。ネイチャーで殻を破るような面白い論文は、日本人と。 異文化の勉強をとどこおらせてはならないが、英語を公用語化してしまうと日本人の力を削ぐことになると懼れているそうだ。日産などでその答えが出るかもしれないので見守っているそうだ。
Oct 6, 2015
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