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November 8, 2021
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カテゴリ: 文化

日蓮大聖人と美術

一人の人間の祈りは、いかにして一つの行動となって現れるのか。なかんずく、日蓮大聖人を慕う法華衆の絵師や職人たちは、自らの思いをどのように形にしたのでしょうか。群雄割拠の安土桃山時代から天下泰平の江戸時代に移る転換期を生きた傑物に、本阿弥光悦がいます。ここでは、美術ライターの高橋伸城氏に、さまざまな職能を持つ人たちが住む京都で、自らも腕を振るったこの人物に焦点を当てつつ、信仰と造形の関係について考察してもらいました。



法華芸術の〝名プロデューサー〟本阿弥光悦

芸術ライター  高橋 伸城

近現代での豊潤なイメージ

「本阿弥光悦」の名前を聞き覚えがある。そんな人も多いのではないかと思います。というのも、昭和の初めから平成の終わりにかけて広く読まれた小説やエッセーに、度々登場しているからです。その口火を切ったのは、吉川英治の小説『宮本武蔵』でした。

日中戦争が勃発する前後 4 年間にわたって『朝日新聞』紙上に書きつづられた剣豪の冒険譚は、 1939 年に普及版が出版されると、たちどころにベストセラーになります。

光悦が登場するのは、作中のちょうど半ばあたり。京都で兵法の名門・吉岡一門の当主を打ち負かした宮本武蔵は、果たし合いの現場近くを歩いている時に、老婆と 50 歳手前くらいの男に出合います。それが光悦とその母・妙秀だったのです。

青空の下、親子に茶を振る舞われることになった武蔵は、素朴な茶碗に刻まれる土の跡に目を奪われました。散々ほめさせたあとに、「わたくしがいたずらに焼いた器ですよ」と笑う光悦。武蔵はそこに、計りしれない「人間的な奥行きの深さ」を感じます。

自らも吉川英治の『宮本武蔵』で初めて光悦を知ったと語る作家の中野孝次が、随筆『清貧の思想』を出版したのはそれからおよそ 50 年後のこと。「バブル」とよなれる異常な好景気が急速にしぼみ始めていた 1992 年(平成 4 年)に世に出ると、たちまち一大ブームに。翌年には「清貧」が流行語にノミネートされるまでになりました。

日本の自動車や電気機器がまだ世界でよく売れていた時代に著者が目を向けるのは、「ひたすら心の世界を重んじる文化の伝統」です。それを体現する歴史的な人物の筆頭として、光悦が取り上げられています。

本阿弥家にまつわる話を集めた『本阿弥行状記』などの資料を用いて、中野は議論を展開。光悦の質素な生活や、へつらいなき生き方に、法華信仰の影響を見いだしました。

インターネットという巨大な情報空間の漂流が始まろうとしていた 98 年(同 10 年)には、宮本武蔵を題材とする漫画の連載が始まります。井上雄彦の『バガボンド』です。

2015 年以降、未完のまま救済が続いている本作の発行部数は、累計で 8000 万部以上。吉川英治の『宮本武蔵』を原作としながらも、人物造形や物語の筋は大きく改変されています。

漫画の描写で度々出てくるのは、光悦の刀を研ぐ場面です。人を傷つける道具の危うさと美しさのはざまで起る葛藤。一線を退いたと研ぎ師は、武蔵の力を砥石に滑らせながらこう漏らします。

「刀を究極に美しくあらしめるためには、刀であってはならないような気がした」と。

武蔵もまた〝天下無双〟を目指し旅のなかで、いかに刀を抜かずにおくかを学んでいくことになります。

時代が変わる節目に、こうして「光悦」の名前は豊潤なイメージの受け手となっていきました。

能書家として名を馳せる

近現代の文学や漫画で描かれた光悦像は、主に『本阿弥行状記』に依拠しています。同書は数々の興味深い逸話を収める一方で、後世の写本でしか伝わっていないために、信憑性に問題があるのも事実です。そこで、できるだけ同時代に近い資料をもとに、光悦の姿を追っていきましょう。

本阿弥家が刀剣の仕事に関与していたのは間違いありません。特に 16 世紀の後半以降は、刀工の名前が彫られていない刀の鑑定を、ほぼ一手に引き受けていました。銘や寸法、金額に換算した価値などを一門の当主が書き記した『折紙』は、将軍家などにも重宝されたようです。

加えて、本阿弥家が刀剣の手入れを担っていたことも、当時の書状などからわかっています。刀を磨き、拭い、鑑定する。こうした一家の営みは、江戸初期の時点ですでに「本阿弥家の三事」と呼ばれるようになっていました。

また、少なくとも 15 世紀の半ば以降、本阿弥家が京都の本法寺を拠点とする法華宗であったことも疑いないでしょう。

武家の権力争いに巻き込まれ、京都の町が戦場と化した天文 5 年( 1536 年)には、彫金を手掛ける「後藤」や呉服師の「茶屋」らと共に、法華信徒の人を支えました。

では、光悦とはどんな人物だったのか。寺院の過去帳から、寛永 14 年( 1637 年)に 80 歳で亡くなっていることがわかります。逆算すると、生まれは永禄元年( 1558 年)ごろ。「天下一統」を巡る血なまぐさい戦が繰り広げられていた安土桃山から、徳川の治世へと移行する時期と重なります。刀はもはや人をきるだけの道具ではなくなりつつありました。

本阿弥家の分家に属していた光悦が家業にどう関わっていたのかについては、十分な資料が残っていません。鑑定をする際には、定期的に一族で集まって「談合」をします。光悦がその場に居合わせたことは、書状からも明確です。ただ、最終的に「折紙」を発行するのは本家の役目でした。

こうした文家としての対場から光悦は本家以外の事績で名を知られるようになります。中でも、自らの手で確実に成したと言えるのは書です。

寛永 7 年( 1630 年)の紀行文で、儒者の林羅山は光悦を「能書」と呼び、「多くの人がその書を求め、大切に保管している」と記しました。実際、光悦の書状は現存するものだけでも 300 通ほどに上ります。

とはいえ、数が多いことは、それだけ真筆であるかどうかを見分けるのが難しいことを意味します。 1960 年ごろに発見され、そのおよそ 15 年後に国の重要文化財に指定された〈鶴図下絵和歌巻〉は、絵師である俵屋宗達との合作として有名です。ところが、作者の形跡は巻末に押された「光悦」の印のみ。和歌は光悦の自筆なのか。冒頭に紹介した近現代の文学や漫画からも少しうかがえるように、光悦を巡る不確かな伝承や伝説が広まりやすい分、冷静な議論が必要になるでしょう。

蓮祖の諸著作を書き写す

光悦の書に関わる活動と、信仰者としての姿を垣間見るのに格好に作品が残っています。本阿弥家の菩提寺でもある京都・本法寺の向かいに建つ妙蓮寺には、日蓮の著作である「立正安国論」と「始聞仏乗義」を写した光悦の書が所蔵されています。先述の〈鶴図下絵和歌巻〉と同じ重要文化財に指定されている両作は、二つの点から注目に値します。

まず、光悦の筆跡を判断する上で基準となる作品であるということ。所蔵者が制作当時から今に至るまで変わっていないので、雁作の恐れがほとんどありません。

次に、光悦の信仰と造形のあり様を現代に伝える史料であることです。

光悦の〈立正安国論〉と〈始聞仏乗義〉には奥書が付されています。それによると、元和 5 年( 1619 年)に、妙蓮寺の住持である日源の依頼で書かれたことがわかります。

また、両作に記されたそれぞれの日付が、光悦の母・妙秀、父・光二の忌日と一致することから、供養の意義もあったのではないか推測されています。数年前から相次いで本阿弥家の親族が亡くなっていることも、これらを写した要因の一つだったかもしれません。

典拠となった著作の内容からわかることは何でしょうか。「立正安国論」は、文応元年( 1260 年) 7 16 日に日蓮が北条時頼に提出したもの。当時の日本で多発していた地震や疫病などの災害、そして近い未来に予想される内乱や他国からの侵略を防ぐには、法華経に帰依するしかないと説きます。

もう一つの「始聞仏乗義」は、建治 4 年( 1278 年) 2 月に日蓮門下の一人である冨木常忍に送った問答集。法華経の法門を聞くことで、自分自身だけでなく、父母までも成仏させることができると結論しています。

両書とも、本阿弥家や光悦自身もゆかりのあった中山法華経寺(千葉県)に、日蓮の真跡が収められています。では、仏法の教義と関わりの深い著作を、光悦はどのように写し取ったのか。

一見して明らかなのは、全体を通して、さまざまな書体が用いられていることです。例えば、〈立正安国論〉冒頭の「旅客」という字では一つ一つの点画が丹念に書かれていますが、次の行の「至近日」になると線は細くなり、形もくずれています。そのすぐあとには、再び墨をたっぷりと含んだ「天」が続く。

文書の内容や字形の正確な伝達を目的とする一般的な写本とは、どうも異なるようです。

〈立正安国論〉で書き取られているのは原文のほんの一部だけ。〈始聞仏乗義〉に至っては誤字もからり目立ちます。日蓮の筆跡を忠実に模写しようとしているわけでもない。

依頼主の日源だけでなく、自らの信仰とも密接に関わる日蓮の著作を書写するにあたって、光悦は自分なりの字形を犠牲にすることはなかったのです。ここに出来上がったのは、人目に触れることを想定していない信仰の書なのでしょうか。それとも、不特定多数の観衆に向けた美術作品なのでしょうか。

京都・鷹峯のネットワーク

続いて、書以外の造詣について見ていきましょう。小説『宮本武蔵』や漫画『バガボンド』には、光悦の自作とする工芸品が出てきます。確かに、「光悦」の名前が付く作品は現実にも数多く残っています。中でも有名なのは、国宝に指定される〈舟橋蒔絵硯箱〉や茶碗の〈十王〉でしょう。

鉛の橋もろとも、こんもりと盛り上がった蓋を見ていると、『バガボンド』のセリフと重なり合って、「硯箱を究極に美しくあらしめるためには、硯箱であってはならない」とつぶやく声が聞こえてくるようです。また、吉川英治の描く武蔵が見惚れたのは〈十王〉のような茶碗だったのかもしれません。

現存の資料から、こうした漆器や陶器を光悦の作品とすべきかどうかについては議論の余地があるでしょう。ただ、「能書」と呼ばれたこの人物が、陶芸や漆芸に入れ込んでいたことは裏付けられます。光悦の死後まだ間もない寛永 19 年( 1642 年)、千家が参加した茶会で、光悦の書と茶碗が用いられています。さらに、本阿弥家と親戚関係にあった絵師の尾形光琳は、「光悦」の名を冠する硯箱を少しながら所有していました。

陶器を焼くにしても、蒔絵の硯箱をつくるにしても、専門の技術が必要なのは言うまでもありません。では、光悦はどのようなやり方で工芸に関わっていたのか。それを知る手掛かりが残っています。

光悦の父の家系に伝わる古図の写しには、ある地域の区画が簡略に記されています。場所は、元和元年( 1615 年)以降に京都北部の鷹峯にできたとされる「光悦町」です。それぞれの屋敷に書き込まれている名前を見ると、本阿弥一門に加えて、呉服商の尾形家、蒔絵を専門とする土田家、そして「かミや(紙屋)」「筆や(筆屋)」などの職人たちが確認できます。

また、古図に並ぶ住民のうち、少なくとも特定できる人たちについては法華宗であることが分かっています。大徳寺に残る検地の記録によると、正保 2 年( 1645 年)の時点で光悦町には日蓮宗の寺が三つもあった。そのうちの一つと考えられる常照寺は、多くの学僧が集う檀林として栄えたといわれています。

古図で示されたようなまちづくりが、果たして実現したのかどうかは別の問題です。むしろここに写し取られているのは、光悦町が形成される前にすでに出来上がっていた信仰と造形のネットワークだったと言うべきでしょう。

信仰と切り離せない造形

光悦作品の基準ともなる〈立正安国論〉や〈始聞仏乗義〉、そして光悦町の古図などを頼りに、ものがつくられる現場について考えてきました。ここからわかることは何か、三つの点から検討します。

1 に、光悦にとっての造形は信仰と切り離せない関係にありました。これは、単純に一人の「芸術家」が「宗教」的なテーマに取り組んだというだけではありません。また、日蓮の教義が一方的に個々の作品の性質を決定付けていたとも思えない。

書体や線の太さをわずか数行の間を目まぐるしく変える光悦の手法は〈立正安国論〉だけでなく、仏教徒は直接に関係のない和歌や漢文の作品にも見受けられます。目には見えなくともたしかにそこにある祈りに、どう現実の質量を与えるのか。その問い掛けは、対象が宗教的なものであろうと、つねに作者の胸の内にあったと思われます。

2 に、ものをつくるのに必要な素材や道具もまた、信仰と無縁ではなかったということです。

光悦の近くには、例えば樂家がいます。本阿弥家が洛中に構える屋敷から南へ歩いて 5 分ほど。同じ法華衆である「ちやわんや(茶碗屋)に、光悦は度々書状を送りました。「白土と赤土を急いで持ってきてほしい」「釉薬の調合をお願いできないか」といった簡潔な注文からは、余計な言葉のやりとりを要さない親密な関係がうかがえます。

孤独な作業のように見える書の揮毫も、一人の技と熱量だけでは完成しません。自分の手になじんだ筆もいれば、その筆が走るのにふさわしい紙もいる。こうした細部への思い入れを実現できる人たちが、信仰を通してコミュニティーを成していたのです。

3 に、光悦は〝つなぐ〟人でした。それぞれの領域に特化した職人たちの間に立つことで、自らも造形に携わったのです。

ある書状の中で、光悦は制作中の蒔絵の意匠について言及し、「描かれている葉の数は少なくないか」「長さは十分か」など、かなり細かな部分まで指示を仰いでいます。相手が蒔絵師なのか、それとも注文主なのかは定かではありません。いずれにしても、光悦が両者の橋渡しになって、それぞれの意見を聞きながら、より良いものをつくろうとしていた様子が伝わってきます。

ひとつの作品が出来上がるまでには、さまざまな分野に精通した職人たちの協力が欠かせません。信仰を土壌とした人との交わりの中で、ものを生み出す。まさに光悦は法華芸術の〝名プロデューサー〟だったと言えましょう。

江戸時代の幕開けに、新しい造形の在り方を模索した日蓮の信奉者たち。近現代の変わり目に「光悦」が再び登場し、小説や漫画で活躍したのも、理由のないことではなかったのです。

たかはし・のぶしろ 1982 年、東京生まれ。創価大学を卒業後、英国エディンバラ大学大学院で芸術理論、ロンドン大学大学院で美術史学の修士号を取得。帰国後、立命館大学大学院で本阿弥光悦について研究し、博士課程満期退学。

聖教新聞 2020.11.14






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Last updated  November 8, 2021 05:59:50 AM
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