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資料を掘り起こし、形成の歴史を示す
上智大学大学院教授 島薗 進 評
靖国神社論
岩田 重則 著
靖国神社の元となった東京招魂社が九段に創設されたのは一八六九年のことだが、その成立に先立って、楠公祭や招魂祭が行われ、楠公社や招魂場・招魂社が設けられる動きがあった。楠公祭というのは天皇のために戦って自刃した楠木正成の命日にその霊を祀る儀式であり、招魂祭は幕末の尊王攘夷・王政復古の戦いに殉じた死者たちを祀った長州藩の奇兵隊他の諸隊の儀式が広がり、官軍側の死者の祭祀へと発展していった。
楠公祭の歴史は、江戸時代初期に『太平記』が尊ばれ、徳川光圀によって楠木正成が尊王の忠臣の規範として祀られるようになった時期にまで遡ることができる。一九世紀に入り後期水戸学が興隆すると、朱子学的な大義名分論と結びつき、天皇に殉じて理念的に現世を超える(七生報国)宗教性を伴うようになる。幕末の動乱期に吉田松陰と真木和泉が志士たち自身もあわせて祀られる祭祀へと発展させる。しかし、こうした動きには維新期の権力争いの中で薩摩藩主導の湊川神社創建に回収され、楠木正成祭祀は国家が独占していく。
他方、招魂祭は高杉晋作が一八六三年に結成した奇兵隊等の諸隊の歴史から見えてくるところが大きい。尊王攘夷・王政復古のために戦って死んだ兵士の霊を呼び下ろし、祀って送り返すという儀礼が行われたが、その場に招魂碑が建てられる。下関の桜山招魂場に始まり、長州藩の兵士が、そして尊皇派の他藩の兵士が戦い死んでいくところに次々と招魂場ができる。やがてそこに社殿ができるが、むしろ並べられる個別死者名を記した碑こそが主体だった。だが、これは墓ではない。死穢を嫌う神道としても独自の、新しい祭祀対象が広がっていく。
これら言わば自発的に戦う志士・兵士集団とその周辺から起こった、仲間の死者を悼み顕彰する祭祀が、明治維新後に天皇の忠臣を神とする国家神道の神社へと吸収されていく。その際、別格官幣社というカテゴリーが形成され、天皇自身が祀る勅裁祭社というシステムがそこに及ぼされていく。朱子学を国体論へと展開した水戸学の善悪二元論が、幕末から西南戦争に至る時期の内戦を経て、近代国家の対外戦争の論理へと組み替えられていく。また、多くの死者の名前が記された霊璽を神殿に納め、天皇の拝礼が中心の社殿中心の祭祀となる。
著者は丁寧に資料を掘り起こし、靖国神社形成の歴史を克明に示している。とりわけ招魂場の心霊碑の包括的な調査と分析は精細を極めている。国家神道の歴史をたどるうえで、靖国神社の理解は革新的な意義をもつ。そのことを改めて示している宗教史・精神文化史・社会文化史研究の画期的な力作である。
◇
いわた・しげのり 1961 年、静岡県生まれ。専攻は歴史学、民俗学。早稲田大学大学院文学研究科史学(日本史)専攻博士後期課程、課程修了退学。博士(社会学。慶應義塾大学社会学研究科)。東京学芸大学教授を経て、現在、中央大学総合政策学部教授。近著に『天皇墓の政治民族史』『日本鎮魂考』『火葬と陵墓制の仏教民俗学』など。
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