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「次回は19日の日曜日の昼デモです。17日の金曜日はデモはありませんのでご注意ください。」
デモの終わりのアナウンスを聞いて少しならずほっとした。今、私の予定表は異様に赤く染まっているのである。コロナ禍が奇蹟のように収まってきたせいか、いろんな集まりの案内が次々に届くのである。気楽に欠席できない公的な団体のものが多いというのが問題である。
19日の金曜日に金デモがあったら、その日は5つの予定が朝から続くことになるところだった。5つから4つに減ることはとてもありがたいのである。それでも憂鬱なことには変わりがないのは、半ば公的な集まりに出席しても、仕事をしたという達成感がまったくないものが多いためである。老人に割り振られる役割というのは、そんなものかもしれないが………。
せめて集会の写真はフラッシュで撮ろうと思っていたのだが、忘れて家を出てきてしまった。こういう時に限って、とてもいい構図の写真が撮れるのである。残念ながら光量不足でとても人に見せられない粗い写真にしかならないのである。
元鍛冶丁公園から一番町へ。(2021/12/10 18:30~18:35)
今、仙台の金デモが始まった2012年から書き続けているブログの内容の再検討(というか再読)をしていて、再確認する意味があると思われる文章を抜き出し、誰かに紹介してもいいだろうと思えるものはフエィスブックやツイッターに投稿している。
最初に、2012年の「 「9月28日 脱原発みやぎ金曜デモ」 ほーら、雨は上がったでしょ!
」の中の次のような部分を抜き出した。
確かに、原発はきわめて政治的なイシュウである。したがって、民主党か、自民党か、あるいはそれ以外か、という政党選択も論理的には切り離せないだろう。そもそも、原発をめぐる問題のすべては政治イシュウである。
たとえば、年間被曝量を20mSv以下だとか、1mSv以下だとか、その数値ですら政治的に決定されているもので、科学的根拠はない。「低放射線被曝で健康被害が出た科学的証拠はない」と政府系御用学者は主張するが、じつはそれと同じレベルの科学的検証であれば、「低放射線被曝で健康被害が出ないという科学的証拠もない」のである。
したがって、その先へ進もうとすれば、人々の生命の貴重さを重んじるか、社会運営の効率(政治的安直さ)を重んじるかの人格(人間性)そのものに基づく判断が必要なのであって、ご都合主義的な科学的精神などではないのである。
現実に病で苦しむ人の側から論理を立てるか、論文の中のデータから論理を立てるか、これは科学の問題ではなく、人倫の問題である。科学者は、「科学的に」と称しながら容易に「人でなし」になりうるのである。
これは、東北大学で物理学を研究し、教えることを職業としてきた科学者の端くれとしての私の実感である。
(2012年9月28日)
一番町。(2021/12/10 18:38~18:47)
次の抜き書きは、同じ2012年の「 「10月12日 脱原発みやぎ金曜デモ」 さすらいの金曜デモだぞ!
」の中の次のような部分である。
うぐいすの鳴き声でめざめる京都の七軒小路
幼い息子とのふたり暮らしの旧い木造の二階
めざめた私の顔を覗き込む息子のはにかんだ顔
何事も起きなかったかのような 平和な朝
君の笑顔を守りたくて 君を連れて逃げた
何もかも棄てて 君を連れて逃げた
原発事故から 放射能から 逃げた
......(中略)......
この路地で君を守りきれるか
私の静かな覚悟を君は知らぬまま
やがて健やかな青年になっていくことをひたすら願う
中村純「路地」部分
放射能汚染地域から逃げられることは一つの過程にすぎず、しかも、いかなる犠牲もなしに逃げられる人はいない。そして、子どもを守ろうとする覚悟と決意、うち続く苦闘がそれで終わるわけでもない。
中村純さんの詩集( 中村純『詩集 3・11後の新しい君たちへ』(内部被爆から子どもを守る会 関西疎開移住(希望)者ネットワーク、2012年))を読み終えて、辛い気持ちでデモに出かける。少なくても、デモくらいは元気にやらなくては......。
(2012年10月12日)
しばらくは、この10年の間に私の中で変わったもの、変わらなかったものの確認作業を続けようと思う。そうして、揺蕩っている現状から抜け出したいのである。
「3月17日 脱原発みやぎ金曜デモ」 学術… 2023.03.18 コメント(5)
「2月17日 脱原発みやぎ金曜デモ」 規制… 2023.02.17 コメント(6)
「1月20日 脱原発みやぎ金曜デモ」 法理… 2023.01.20 コメント(6)