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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2019.11.09
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 聖徳太子は574年生まれで、用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女です。

 別に厩戸皇子、厩戸王とも呼ばれ、聖徳太子という呼称は後世の諡号です。 

 ”聖徳太子の寺を歩く-太子ゆかりの三十三カ寺めぐり”(2007年9月 JTBパブリッシング刊 林 豊著 南谷恵敬監修)を読みました。

 聖徳太子ゆかりの寺を網羅し、それぞれの概要、歴史、伝説、収蔵文化財ガイドです。

 聖徳太子の救世観音化身伝承に因み、33カ寺を中心にその他の太子開基の縁起を持つ主な寺院を含め50カ寺を紹介しています。

 聖徳太子は、推古天皇のもとで、蘇我馬子と協調して政治を行いました。

 遣隋使を派遣して進んだ中国の文化・制度を学び、冠位十二階や十七条憲法を定め、天皇や王族を中心とした中央集権国家体制の確立を図りました。

 他に、仏教や儒教を取り入れ、神道とともに信仰し興隆につとめました。

 著者の林 豊さんは1939年大阪市生まれ、関西大学を卒業し、大阪府職員を経て、編集デザイン会社代表を務めています。

 刊行時現在、ルポライターとして雑誌、地方紙、企業PR誌等に執筆し、民族芸術学会会員、旅行ペンクラブ会友です。

 監修者の南谷恵敬さんは1953年大阪市生まれ、大阪大学文学研究科博士課程を修了し、刊行時現在、四天王寺国際仏教大学教授、四天王寺執事を務めています。

 写真家の沖 宏治 さんは1938年広島県生まれ、関西大学を卒業し、貿易商社在職中に写真家を志して退職し、若狭成价、田中幸太郎両氏に師事して国画会等に出品してきました。

 刊行時現在、写真工房UNISONを主宰し、書籍、雑誌、官公庁パンフレット、企業PR誌等の写真を担当しています。

 聖徳太子は厩戸前で生まれましたので、厩戸=うまやどと命名されたとの伝説があります。

 また、母が実母・蘇我小姉君の実家であるおじの蘇我馬子の家で生まれましたので、馬子屋敷に因み厩戸と命名されたとする説や、生誕地・近辺の地名・厩戸に因み命名されたなど様々な説があります。

 さらに、豊聡耳=とよさとみみ、上宮王=かみつみやおうとの別名も有ります。

 法起寺塔露盤銘には上宮太子聖徳皇、『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』では厩戸(豊聡耳)皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、東宮聖徳と記されています。

 聖徳太子という名称は、死没129年後の751年に編纂された『懐風藻』が初出と言われています。

 日本の歴史上の人物の中で、聖徳太子ほど様々なイメージをもって語られる人物はいないのではないでしょうか。

 太子の一生は、『日本書紀』に既にみられるように、かなり古い時期から伝説的に語られ、その後、平安時代の中期に編纂された『聖徳太子伝暦』で集大成されるまで、多くの伝記が存在しました。

 『伝暦』では、その跋文に語られるとおり、太子の事績には歴史的事実と超人的な伝説が混在し、それらをひっくるめて太子の真実だとする態度が示されています。

 つまり、平安時代には既に太子は崇められるべき超人的存在として認識されていたのです。

 太子の誕生は、今日では敏達天皇3年(574)とされています。

 父は橘豊日皇子(後の用明天皇)、母は穴穂部間人皇女で、伝説では同年1月1日、厩の前でご誕生になられたとされています。

 誕生地は橘寺とされていますが、これは仏祖釈尊の誕生の事績になぞらえた説話と考えられ、このような仏伝の影響は、太子の様々な事績で顕著です。

 太子を「和国の教主」と信仰する上での仏伝の投影と考えてよいでしょう。

 同じことは2歳「南無仏と称す」にもいえます。

 これも釈尊の誕生時の「天上天下唯我独尊」の獅子吼になぞらえた説話でしょう。

 特に幼少時の事績ではこういう傾向が強く、太子の凡人とはかけ離れた能力を強調したり、幼いころから仏教に帰依された姿が伝えられています。

 3歳「桃花より青松を賞す」、4歳「進んで父君の笞を受く」、5歳「文章を読破する」など、太子の聡明さ、素直さを強調しています。

 7歳「六斎日(殺生を禁断する日)を設ける」、12歳「日羅との出会い」、13歳「弥勒石像の渡来、三尼の出家」などは仏教との機縁を示す説話です。

 青年期の太子は、父君用明天皇の病とその崩御という悲しい出来事があり、その折も太子は寝食を忘れ看病されました。

 その姿は、後世孝養太子像として多くの寺院で製作され、礼拝されることになりました。

 用明天皇崩御の後、14歳「物部守屋との合戦」で正式な史料『日本書紀』に登場します。

 このとき、後に政権を支える蘇我馬子と協同歩調をとられるのですが、その背景には仏教という大陸伝来の新宗教の受容という大きな目的の一致がありました。

 その後、崇峻天皇が即位しましたが、馬子が権力を強め、ついには馬子が崇峻帝を暗殺するという事件が起きて、政治の混乱が続くことになりました。

 崇峻天皇の後を継いだのは、敏達天皇の皇后であり、蘇我氏の血を引く太子の叔母でもあった女帝の推古天皇でした。

 天皇は即位と同時に聖徳太子を摂政に任命し、すべての政治をまかされ、ここから太子の華々しい政治改革が始まりました。

 まず「三宝興隆の詔」を発し、仏教を正式に受容して、朝儀の整備を実行して国家としての体制を整えました。

 その後の「冠位十二階の制定」、「十七条憲法の発布」、「遣隋使の派遣」等々、着々と国家体制の確立に努めました。

 太子は49歳の折、病を得てついにその生涯を閉じました。

 同じ時、最愛の妃であった膳大郎女=かしわでのおおいらつめも逝去したといいます。

 その後、太子の一族は、蘇我蝦夷・入鹿によって全員亡ぼされ、太子の血統は絶えることとなりました。

 これが、後世の人々にとって、太子の偉大な業績に比して、そのあまりにも悲劇的である運命をより際立たせることになったことはいうまでもありません。

 太子にまつわる多くの伝説や奇譚が伝えられており、本書で紹介される寺院にはそれぞれに特有の太子伝説が存在します。

 本書は『四天王寺誌』1997年1月 ~2001年7月に掲載された「太子の寺」を加筆訂正のうえまとめたものです。

聖徳太子の寺:橘寺ー聖徳太子誕生/向原寺・石川精舎跡ー仏教の伝来/西琳寺ー牟原の後宮/鶴林寺ー法師かえり/道明寺ー仏法の広まり/大聖勝軍寺ー蘇我・物部の決戦/野中寺ー船氏の里/飛鳥寺ー馬子の寺/金剛寺ー名工止利仏師/四天王寺ー日本最初の官寺/勝鬘院〔愛染堂〕-四箇院の設置/瓦屋寺ー四天王寺の瓦/西教寺ー太子の師/法隆寺ー斑鳩の太子/久米寺ー太子の弟/広隆寺ー秦氏の寺/斑鳩寺ーもう一つの斑鳩/頂法寺〔六角堂〕-日出ずる国の使者/達磨寺ー片岡の飢人/平隆寺ー鹿の菩提寺/額安寺ー熊凝の道場/大安寺ー大官大寺/中宮寺ー母の死/叡福寺ー太子の旅立ち/西方院ー太子の乳母/法輪寺ー山背大兄王の選択/世尊寺ー南海の香木/朝護孫子寺ー信貴山の毘沙門天/中山寺ー石の唐櫃/百済寺ー百済僧の寺/長命寺ー修多羅の山/石馬寺ー石になった馬
その他の聖徳太子ゆかりの寺:長福寺・成福寺跡・大福寺・百済寺・定林寺跡・神童寺・乙訓寺・法観寺(八坂塔)・芦浦 観音寺・長光寺・願成就寺・観音正寺・蓮華 寺・浄土寺・法安寺・香園寺・営麻寺
聖徳太子関連年表/主要人物略記/聖徳太子関係系図/掲載寺院の拝観時間、拝観詳細一覧





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Last updated  2019.11.09 05:36:48
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