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金川被告、控訴取り下げへ=28日にも、面会で明かす-土浦連続殺傷で死刑判決
(12月25日 時事通信より)
茨城県土浦市のJR荒川沖駅周辺などで昨年3月、2人が殺害され7人が重軽傷を負った事件で、殺人などの罪に問われ、水戸地裁で死刑を言い渡された金川真大被告(26)が24日、水戸拘置支所で記者の面会に応じ、弁護側の控訴を28日に取り下げる意向を示した。取り下げた場合、来年1月5日に死刑が確定する。
金川被告は面会で、「自殺は痛いから死刑になりたかった。執行を待つだけ」などと話し、「28日まで接見の予定があるので、それが終わったら取り下げます」とした。
現在は拘置支所に置かれた本を読んで過ごしているといい、死刑判決の瞬間については「特に何も思わなかったですね。半年以内に(死刑を)執行しないのであれば国を訴えます」と、笑顔も浮かべながら話した。
多島斗志之さん 手紙残して失踪…京都在住の小説家
(12月25日 毎日新聞より)
直木賞候補にもなったミステリー小説「不思議島」などの著書がある京都市伏見区在住の小説家、多島斗志之さん(61)が自殺をほのめかす手紙を残して行方不明になり、家族が京都府警伏見署に捜索願を出した。
長女の河合知子さん(33)によると、多島さんは約10年前に右目を失明。12月18日、弟や河合さんに 「1カ月前から左目も見えにくい。この年で両目を失明し人の手を煩わせたくない。失踪する」 との速達が届いた。19日には「筆を置き、社会生活を終了します」と書かれた手紙が友人や出版社に届いたという。
こちらのケースは自分で『姥捨て山』に行くことを決めた行動。
その行動が良いとか悪いとかではなく 、「周りに迷惑」云々というよりは、自分が周囲に依存して生きるスタイルが耐えられない
んでしょう。 その結果(決まったわけでは有りませんが)『死』に向かうというのは自分の生き様に対する一つの選択です。
金川被告が周囲に迷惑をかけて自殺を『自分が意識した苦しさがある死に方』として忌諱したのに対して、多島氏が周りに迷惑をかけないため金川被告が選ばなかった選択肢を選択するというのは対照的です。
金川被告の記事に対するコメントには
「迷惑かける前に自殺していれば・・・」
「死刑の執行だって苦しむんだ。おあいにく様。」
といったコメントが並んでいます。
日本では人権保護に関してアンフェアとも言えるやかましさがありますから、私が
「あんなのは市中引き回しの上、獄門が妥当だ!」
などといっても、実行されるわけもありません・・・![]()
しかし、自分が苦しみを自覚するのが嫌だから死刑になるために無差別に人を害することが出来る
= 自分の痛みはわかるくせに、人の痛みはわからない神経
というものを臭い物に蓋とばかりに死刑にして終わりで良いものか?
両者は『自殺』という部分では向かう方向性が真逆ですが、共通しているのが『生きることに耐えられないから死を選ぶ』という部分。
つまり、その過程で 『自殺』に対しては痛みの有無で全く逆に捉えているのに、同じ結論人達している。
『死んでしまえば自分は楽になれる。開放される。』
宮崎勤の死刑に寄せて書いた文章で 、『死は彼にとって救い』
というようなことを書きました。
金川被告にとっては『くだらない世の中とはオサラバ』でしょうし、多島氏にとっては『安息』でしょう。
裏を返せば、彼らにとっては行き続けることこそが罰ゲームであり、苦しみということです。
では彼らは『救う必要があった存在なのか?』というところが問題になります。
多島氏については、『象の墓場』の話を思い出します。年老いた像が死期を悟ると群れから離れて向かうというヤツです。
多島氏は自分で『救いを与える場に赴く』という救いを得るための努力をしている。
それに対して、金川被告は世の中のルールやしがらみを徹底的に馬鹿にしているにも関わらず、その制度に頼って救いを求めようとしている。
私は結局コイツは『死』を恐れも、敬虔な信仰も抱かずに他人の手を頼って救いが降って来るのを待ている。
ここが多島氏と決定的に異なっているし、認めることが出来ない。
『死の安らぎ』をこんな他力本願の人間にくれてやってよいかどうか? 死をそんなに軽い物にして良いかどうか?
一方は自分の障害が無ければ更なる生への執着を持つもの。
一方は自分だけでなく他人の生にも執着せず、人の生き死にまでもその手段にしてしまうもの。
先日『めんどうみてあげる』(鈴木輝一郎)を紹介したが、 老人達は『ぽっくり行くために助け合うこと』が『自分も役に立てることもある』と生きがい
となっていた。金川被告の場合は『自分の役に立っている』のであり、害された方々は自分の目的の為の小道具に過ぎない。
尊厳死には多かれ少なかれこの 『役立たず』の裏返しの意味として『完全に役立たず、邪魔者になる前の最後のお勤め』という意味合い
がある。
鈴木輝一郎氏の著作も、記事の二人も共通して『死』が
自分の無価値を覆い隠す物としての処方
となっている。
『死』そのものの尊厳が非常に軽いのだ・・・。
やはり 『尊厳死』
は 必死に生きた結果『最後の選択』として許されるべき
であろうと考えます。
そこから見れば多島氏は許容できるが、『一生懸命泥をすすって生きていない金川被告』にはまだその権利はない。
主演・演出・監督と全てこなして自分の『死』を演出するのは、センスはともかく羨ましくもあります。
死に際は自分で決めたい。
ただ、命がそんなに思い通りになるモノだと言う認識の者が、悠々とその目的を果たすことは『死の尊厳』を貶める。
人が人の命をそんなに簡単に割り切れるのなら、人間なんて原初の生命の悩みを放棄しているも同然。
悩み、苦しんでこそ人間ですよ。
【 蛇 足 】
金川被告は強制的に「生きること」を強要する刑を希望。
「死にたくない」 「生きたい」といったら死刑にすべし。 それが被害者の苦しみを報道を通して知らしめることにもなり、『死刑』に意味を与えることになります。
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