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今までいろいろと忘れ物(今まで最高は五万円の現金)をしていた私ですが、昨日は人生最大の忘れ物をしました。もし盗まれていたら、仕事を辞めなくてはならなかったかもしれない、という代物でした。通称「ドラえもんのバッグ」と言われている私のリュックサックを置き忘れたのです。丸一日以上たって思い出しました。いくつかの可能性を走馬灯のように、検討しました。車の中に置き忘れて、鍵をかけ忘れてしばらく留守をしていたことを含めて、(今現在車の中にないので)最悪の場面が頭をよぎりました。結局最大の可能性があった大型スーパーの所に無事あったわけですが、きちんと管理されていました。私の保険証や通帳、その他さまざまな現金もあったのですが、なんと金種明細まで書いて置いてくれていました。もちろん重要なものはそれ以外にあったのです。すべて無事でした。自分のミステイクは50m程の高さの棚に置いて言うと、ほほえみさん も書いていますが、これが日本のいいところです。私が今まで忘れもの、落し物をして戻ってこなかったのは、五千円札、一万円札等の裸のお札と、明確に私を狙って盗まれた財布だけです。(この人はのちに他の容疑で捕まり、私は初めて刑事さんとお話するという体験をすることができました。刑事さんてやっぱり二人組で動くんですね。)この性質はどうも信仰とは関係がないようです。豊かさ貧しさとも関係がないようです。「逝きし世の面影」(平凡社ライブリー 渡辺京二)を紹介したときにも書きましたが、昔の日本人はその多くが、「家の鍵などかけない開放性、卑屈になるのでもない恐れ戦くのでもない好奇心をあらわにする親和性、そしてどんな貧しそうな者でも決して物を盗まず、見返りを求めないもてなしをする礼節」があったというのです。昔ほどの輝きは薄れていますが、それでもこういう時にはまだまだそれが通用するのでしょう。これは「恥の文化」であると言っていた本を読んだことがあります。(『「名」と「恥」の文化 中国人と日本人』 (旧講談社現代新書): 森三樹三郎著: )長い共同体との生活の中で、名誉を求め、恥を恐れる、それが生きる知恵であり、生き甲斐であり、幸せであったときが、やはり私の父親の話を聞いても確かにあったようです。いいところと悪いところがあり、加藤周一は「集団的競争主義」といい、柳田国男は「事大主義」といい、批判しながらも、そこから未来の可能性を探ろうとして生涯をかけていたところがあります。話を展開する時間がありません。今日はそんなことをふと思ったという感想だけ。
2008年02月25日
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やっと約一日の自由時間を作り、この一か月以上全然運動していないので、ウオーキングがてら、古墳めぐりをすることにしました。近田駅 posted by (C)くま電車で広島に向かい、福山駅から福塩線に乗り換え、近田駅で降ります。このあたりは、備後地方と言います。私の住んでいる倉敷や総社の辺りが備中、岡山市から東の辺りが備前。三つ合わせてゴレンジャーではないですが、古代では吉備の国でした。どうやら6-7Cにかけて、吉備の国は解体されて、三つの行政組織に分かれたようです。今日めぐるのは、その頃に出来た古墳です。二子塚古墳 posted by (C)くままずは二子塚古墳。古墳時代の後期後葉の前方後円墳です。墳丘、石室ともに県下最大の規模らしい。けれどもそんなに大きいと感じられない。総社市にある全国四位の造山、九位の作山古墳と比べてももちろん、こうもり塚古墳等と比べてもまだ小さい古墳です。(全長68m)改めて、吉備中心部は大きな力を持っていたのだと知りました。けれどもここは、規模と質から言って備後地方を統べる古墳時代最大の長の古墳であったことは間違いないでしょう。非常に残念なことに、石室は入り口を閉めていて隙間からしか中をのぞくことができません。平地のそばのちょっとした小山の尾根の奥まった所に位置しているのは、古墳の位置の正しいあり様だと思います。池ノ内遺跡 posted by (C)くまこの古墳のすぐ西側に弥生遺跡がありました。(池内遺跡群)団地造成に伴って行われた発掘で、竪穴式住居30棟が発見されたらしい。今は整然とした弥生が丘住宅となっています。仕方ないとはいえ、非常に残念。東側のちょっと小高い丘が公園となっていて、ここは弥生式のお墓があった所だそうです。ここで作ってきた弁当を食べました。(吹きっさらしの中で一人食べる弁当は少しさびしい)ホトケノザが満開 posted by (C)くま風は冷たいけれども、ホトケノザの満開に近い原っぱもありました。声は聞こえないけれども、鶯もうろちょろしていました。微かに春は来ているのでしょう。宝塚古墳 posted by (C)くま宝塚古墳では、石室内には入れました。特別大きい石室ではないけれども、きちんと作られていて、この1400数十年間、少しの緩みもないように見えます。工人たちはいい仕事をしています。こんな大きな墓を造った豪族(円墳なので、そのように類推)の人生は、今は忘れられて語る人はいません。けれどもその墓を造った人々の仕事は今に残って多くのことを語っています。薄暗い石室の中でしばらく物思いにふけっていました。千幾年、早いうちに盗賊はやってきて、宝物は盗まれ、石室の中は空っぽです。宝塚古墳 posted by (C)くま人は死んだら何を残せるというのだろう。権現古墳 posted by (C)くま権現古墳は墳丘が流出して、横穴式石室の天井部が露出し、その上に熊野神社の社殿がたてられています。こんなタイプの古墳は案外多い。何百年たって岩の謂れさえ忘れられても、なんとなく畏れ多いところとして残るところが古墳なのです。お糸の碑 posted by (C)くまそのあとてくてくと服部大池を横目に見ながらずっと歩きました。この池は生保年間福山初代藩主が作ったといわれる大池です。こんな歌が詠まれ、碑が立っていました。(歌は池のそばの説明文にあった)備後一かや服部大池は かあいやお糸が人柱現代も道路や公園がある堤があるのですが、ここに「人柱」を入れたのでしょうか。いつの時代も時の為政者のすることといったら…。迫田古墳 posted by (C)くま 迫田古墳 posted by (C)くま大迫古墳にたどり着きました。なんと普通の家の横にあります。墳形は完全に取り壊されていて、明らかではないそうです。けれども、奥壁は見事なたった一枚の岩、側壁は三枚、天井は二枚の巨石で構成されていて、今日見た石室の中で一番立派なものでした。遺物は金環が伝えられていて、大迫金環塚古墳の別称もあります。築造年代は後期後葉から終末期、今日見た古墳では一番新しい。時代が下るにつれ、技術革新が進み、飾りも華美になるのはいつの時代でも同じ。広島風お好み焼き posted by (C)くま遠くから雪雲が近付いてきました。駅家駅まで歩きました。(駅家という地名から明らかなようにここは古代の山陽道。馬の停留場跡があったといいます)近くのお好み焼屋で広島風お好み焼きを食べました。ソバがパリバリ焼けていて美味しかった。今日の行程約6キロ。よく歩いた。膝が痛くなる。ほんとうに足が弱っていたようです。
2008年02月17日
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去年の夏に書きかけて、そのままにしていたメモを今日見つけた。事の顛末を見届けてから書こうと思っているうちに、見届けるのを忘れたのである。いま後半を適当にくっつけて一文を成したいと思います。倉敷で一番大きいショッピングセンターに行くと、いつも行列が出来ているうどん屋にシャッターが降りていて、二人の従業員が前に立ち、一枚の張り紙があった。どうやらこのうどん屋のチェーン店のひとつで食中毒があり、全店が一斉休業しているらしい。「原因が分るまで全店休みます」と、おそらく1日中ここに立って一日中同じ事を説明しているであろう男性は答えた。「それでは五日の営業停止が終わっても開業するわけではないんですね。」と、私は聞く。「原因がまだ分っていないので、未定です、と言うしかありません。」「分りました。」男性は少しほっとしたような顔をした。いろいろと食いついてくる客も多いのかもしれない。「頑張ってください」と言うような言葉はここではふさわしくないだろう。「まあ、気を落とさないで。またいいこともありますよ。」もおかしい。「食中毒を起こしたのは、自分たちが働いているこの店じゃないのに、突然店を閉められて、たまったもんじゃないよね。」などといっても彼は困るだけだろう。厳しい顔をして、納得したような顔をして、去っていくことにした。このうどん屋は倉敷では有名なうどん屋である。「ふーまん」と言う名前の今川焼きを食べに、あるいは甘味処として、倉敷の中学生や高校生は学校帰りによく通った。「ぶっかけうどん」が名物で、この一品に関しては、隣県の讃岐うどんよりも有名かもしれない。チェーン店は何十店にも及ぶ。私の記憶では食中毒を起こしたことはない。だから、店を閉めることの損失よりも、ブランドとしての「信頼」を取り戻すことの方が重要なのだろう。全店一斉休業と言う店の方針は正しい。このうどん屋の対応は「誠実」だろう。ただ、従業員は賃金なしの臨時休業を強いられていないだろうか、と気になった。リストラは論外としても、もしそのような対応をしていたならば、私はこの店を「信頼」しないだろう。 ここまで書いてそのままにしていた。従業員のその後の様子を「取材」しようと思っていて、忘れたのである。その後の様子をそれとなく見た感じでは、確か再開の張り紙には「衛生教育を徹底しました」とは書いていたと思う。客の足も、今現在では往時のところまで回復しているように思える。しかし私に関していえば、明らかに当時よりも、食べる回数は半分以上へって居る。要因はいろいろある。メタボ対策でこの店を対象としている(併設の映画館の半券を持っていけば、大盛りがサービスされるのでつい食べ過ぎるのである)こと、秋に小麦高騰により数十円値上げされたこと、があげられるが、ほかにも食中毒対策への不信感が100%拭いきれていないと言うこともいくらかはある。‥‥‥そのように、消費者の「目」と言うものは、いかにも「いい加減」で、「厳しい」ものなのである。揺れる生協ブランド 安全優先か低価格か ギョーザ事件と言う記事がある。いま「生協ブランド」への「信頼」がゆれている。ただ、一連の騒動の推移を冷静に見守ると、JTなどの企業と比べると、生協の対応は比較的「誠実」であったとは言えるだろう。聞くところによると、ギョーザの生協商品の回収率は95%を超えたという。一方、JTの場合は、まだ5%ほどだという。もちろん組合員組織であることの強みではあるのだが、生協内での努力も大きかったに違いない。そのように真面目に回収に取り組んでいるものだから、とくしま生協のギョーザからジクロルボスと言う農薬が検出されたが、これはどうやら生協が委託している業者の倉庫内の害虫駆除に使ったためだということが明らかになった。(それにしてもずさんな管理であるということは確かではある)また、東北では、これを機に商品の一斉点検をしたらしく、生協の缶コーヒーの豆配合率に誤りという不名誉な偽装も発覚した。偽装自体は許されないが、缶コーヒーまで点検したことや、正直に公表したことは、「誠実」ではある。‥‥‥生協は「誠実」だ。しかし、これで生協はよそより頑張っているから許してもらえる、と思ったら大間違いだろう。消費者と言うのは「いい加減」で「厳しい」のだ。「生協は100%安全安心だ」という(私から見れば)「幻想」を抱いていたり、中国製の生協商品は全て生協「直営工場」で作られている、等の「幻想」を抱いている消費者は確かにいて、その人たちから見れば今回の騒動は「裏切り」以外の何者でもないだろう。消費者の「信頼」は果たして回復するかは難しいだろう。そこで私からの生協への提案である。もちろん根本的な改革提案ではない。今は「信頼」の回復が一番の急務である。私はそうはいっても、生協はスーパーと同じではない、と思っている。どこがそうなのか。理念は置いておいて、今すべきことは商品でそれを語ることだろう。商品で原点に返ることが大事なのではないか。未だに市販より生協の方に優位性がある商品は多いと思う。だから至る所で、商品実験を始めたらどうだろう。ハムの発色剤実験、イーストフード、乳化剤を使わないパンと使っているパンの比較、本にがりを使っている豆腐と使っていない豆腐‥‥‥。話はころりと変わりますが、abi.abiさんより手作りチョコ(の画像)を貰いました。今年は危うく、義理チョコさえ無い年になっていましたが、これで免れました。ありがとうございました。
2008年02月16日
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この映画に期待したのは、映画としての完成度ではない。先週「デスノート」について語ったので、どのように決着がついたのか一応確かめておきたかっただけ。よって、確認しておきたいことは以下の三つだけだった。この映画でL(エル)は、デスノートを使うか。前作でデスノートは焼却処分にしたとなっていたので使うはずがない、という人もいるかもしれないが、いつ焼却したかは語られていなかった。しかもあのノートは紙の切れ端に書いても、効力を発するのである。でも使ってしまったら前作のラストはなんだったのだ、と言うことにはなるけれどもね。Lは本当に死んでしまうのか。もし死ななかったら、あの映画のラストは何だったんだ、と非難轟々だというかもしれないが、けれどもなんでもあり、というのが続編ものの伝統ではある。そうやって、人気が出た主人公のシリーズ化というのも過去ないわけではない。(「ゴジラ」シリーズ、「男たちの挽歌」)監督が中田秀夫に変わったが、彼の持ち味は出るのか。ということである。結果はどうであったか。すみません、以下はある意味ネタばれです。 L change the WorLd監督 : 中田秀夫 出演 : 松山ケンイチ 、 工藤夕貴 、 福田麻由子 、 南原清隆 、 福田響志 、 佐藤めぐみ 、 平泉成 、 藤村俊二 、 鶴見辰吾 、 高嶋政伸 基本的に今年の邦画を全然代表しないB級作品なので、私の言を信じて、ネタがばれてもいいわ、という人だけ以下の文を読んでください。中田監督はなぜこの作品を引き受けたのだろうか。「デスノートの世界とは全く違った世界を作りたかった」と監督は言っているらしいが、それはこういいかえることができる。「デスノートはあれだけで完結した作品である。配給は金もうけのために三匹目のどじょうを狙って、私に白羽の矢が立った。けれども、あの世界以上のものを作るのはそもそも無理だ。しかし私も次回作のために、お金はほしい。どうせどんなB級作品を作っても、あれだけのキャラクターならば、そこそこ儲かるだけの宣伝はするだろう。それならば、キャラのみを変えてB級作品を作ればいい。それからともすると、あの前作で天才待望論的な作品世界を作ってしまった。小泉待望論なんかを見ていると、そんな世の中はあぶなかしくて見ていられない。私はそれも壊したい。」もちろん、まじめにそういうテーマに取り組むという手段もあったのでしょうが、中田監督は映画業界を熟知しているので、えらい目をしてまじめに取り組めば取組むほど、その映画は売れなくなるということをよく知っていたわけです。だから、あえて突っ込みどころ満載のB級映画を作って、一番最後に付け足すように、「よく覚えておくんだ。天才一人で世界を変えることなんかできないんだよ」とエルに言わせるわけである。(紋切型でまるで説得力がないセリフであるが、松山ケンイチ人気で映画館に足を運ぶ若者にとってはそのぐらいで十分説得力はあるのである。)これで配給も利益が出るし、中田監督も次回作が作れる、しかも若者の天才あるいは英雄待望論に少しだけストップをかけることができる、三方丸くおさまって万々歳ということである。B級作品万歳。中田監督はつくづく「大人」である。だから中田ホラーは今回はほとんど封印されている。そういうわけで、今回冒頭前作の「デスノート」の映像はふんだんに出るが、そもそもデスノートの世界観を壊すことが目的なので、当然ノートは使われない。ただ、私自身はひそかにノートは使わないが、次のからくりは使ってほしいと思っていた。デスノートにより、エルは23日後に死ぬことが決定していた。それは言いかえれば、23日間は「絶対に死なない」ということと同議である。それを使ってエル自身が絶対に死ぬようなところにわざと赴き状況を逆転させるというからくりである。けれどもそれさえ使われなかった。それぐらい使ってよ、と私は思う。そうでないと冒頭デスノート世界が映像として出た意味がないじゃん。でもそれぐらい徹底しないと「デスノート」の世界は壊れないのかもしれない。だから、よって、結局、エルは死ぬのである。まあいいんだけどね。脚本はむちゃくちゃだったけれども、松山ケンイチ 、福田麻由子も持ち味をきちんと出していて、気持ちよかった。工藤夕貴は別人に思えるくらいに役になり切っていたと思う。高嶋政伸は脚本がむごかったので、頑張っているんだけど、説得力がなかった。存在感が出ていたのは、工藤夕貴ら人類抹殺計画に賛同している若き女性テロリスト佐藤めぐみの「行っちゃっている」演技である。かわいらしい女の子が狂信的になり、残酷になると本当に怖い。これだけはホラーだった。彼女、どっかで見たなあ、みたなあ、と思っていたら、なんと「ちりとりてん」のA子だった。びっくり。正反対の役だ。まだ映画にほとんど出ていないので、これから注目。ところで、今秋の少年ジャンプで「デスノート」特別編が掲載されていた。夜神月が死んで三年後の物語である。キラもどきが出現してニアが退治するという筋書きだ。結局この特別編でわかったことは、もう二度と第三部「デスノート」はありえないということだ。なぜなら、デスノートの存在はニアだけでなく、FBIも日本の警察も何人も知れ渡っていて、今回ニアが簡単にキラもどきを退治できたように、今度デスノートが出現しても普通の展開ではデスノートは使えなくなっているからだ。今度使えばありえるのは、ハルマゲドン、デビルマンの世界になる。キラ軍団が出現して、戦争になるだろう。この物語の魅力である、頭脳戦にはならない。そんなマンガを描いても意味はないだろう。結局「デスノート」はそのような際もののとして、マンガの歴史に埋もれていくのが、真っ当な展開と言うものだ。
2008年02月13日
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この記事が出来るだけ岩国市民のあなたの目に触れてもらいたくて、いろんな処へTBしています。私たちは皆、岩国市民ではありません。けれども明日の選挙のことは、かつてなく自分のこととして重大な関心を持っています。ホントです。筆不精の私自身はあなたの心を揺さぶるような記事を書けるわけではありませんが、以下に紹介する幾つかの記事を紹介したいと思います。今日、いつも私がリンクさせてもらっている楽天のブログを見てみたら、ホントたまたま、皆それぞれの言葉であなたたちのことを心配していたのです。見てもらったら分るように、私たちはいわゆる政治ブロガーではありません。主に日々の雑感を書き留めています。私たちは全然示し合わせては居ません。そもそも私たちは「私たち」ではありません。(すみません。紹介する記事は私が勝手に引用しました。不具合があれば削除します。)ホントに私の周りのブログだけなので、日本中からとても多くの人が、楽天だけでもあなたたちのことを心配しているのは、太陽が東から昇ることのように明らかです。この記事の人たちは慎み深くてせっかく記事を書いても、TBをすることが得意ではありません。だから私がみんなの記事をリンクしてTBすることをかってに買って出たというわけです。あなたの一票は岩国市民としての一票だけではありません。あなたの一票は日本国民としての私たちの代表としての一票なのです。ぜひ私たちの思いを読んでください。岩国の皆さんにお薦めする本ヨーコ1015さんは伊藤千尋の「反米大陸」を紹介しながら、アメリカのいいように利用されてる日本の国土。従うだけの政府。犠牲はいつも地方。市民。目先の「アメ」に惑わされることなく。日本の夜明けが岩国から始まるかもなのだ~~。と書いています。大阪府知事の口撃術 薔薇豪城さんは世間話からいつの間にか、橋本大阪知事の悪口、そして「そういうタイプは、堂々と国を相手にするような住民たちに嫉妬を抱くのだろう」と例の憲法論議を新聞記事を紹介しながら批判しています。千葉の主婦、薔薇豪城の話術をお楽しみください。1兆円規模の利権Mドングリさんは男性の記事らしく、「米軍再編という裏には政権党の癒着があるはずであるが・・・・その接着材は、やはり金(利権)なんですね」と、政治のうらに金ありを指摘しています。天気晴朗なれど波は高いのかな かつ7416さんが「中央との太いパイプ」についての考察をされています。 人殺しの心理と15年戦争 では、じゅん2550さんが「戦争は戦場で始まるのではない。日本原で、沖縄で、岩国で、戦争は始まっているのだ。」と、若者らしい危機意識を語っています。岩国関連でabi.abiさんはたまたま今日は岩国のことを記事にはしてませんでしたが、一番熱心に岩国の問題を発信し続けています。これは2月3日の記事。私がリンクさせてもらっている楽天のheliotrope8543さんもよく岩国のことは発信しています。例えば、2月2日の記事。岩国市長選の怪文書
2008年02月09日
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雪が降っています。正月明けからこの方、土日月毎に大小含めて降っています。でもこれは特別異常気象ではない。ほんの20年ぐらい前までは、比較的温暖な岡山でもこれが毎冬の風景でした。 無音で降り積もり、景色が変わっていくのを眺めていると、日本に生まれてよかったな、と思います。昨晩「デスノートthe Last name」をテレビをしていて、なんとか後半の一時間を見ました。改めて、漫画版よりは金子修介監督の映画版のほうが、言いたいことを全部言いつくした優れものであるということを認識しました。物語の筋は、「人の死を決定づけるノート“デスノート”。退屈な死神が人間界にノートを落とし、拾ったのは世界に退屈しているエリート大学生、夜神月。」(goo映画より)そして、月と天才探偵「L」との頭脳戦がはじまるわけです。昨年映画「デスノート」前後篇が公開されて、漫画版も店で品切れ騒動を起きるぐらいヒットしたとき、前と後の間に私も漫画版を全巻読み終えました。でも、感想を早く書かなくっちゃと思いながら、ほったらかしにしていました。書きたいことが多くて、めんどくさくなったからでありません。これほどまでに若者に支持され、セリフが多く緻密な物語のように一見思えるのだけれども、読み終えた感想は、「なんて薄っぺらな漫画なんだ」ということでした。人気に後押しされて一応手塚治虫漫画大賞の選考作品にはなりましたが、何の賞も取りませんでした。当然です。若者は二手三手先を読む理知的な展開に翻弄され、ゲーム慣れをしたものでも「すごい作品だ」と感心していたようです。あるいはテーマとして、「正義の殺人は成り立つか」ということをほ掲げていたので、なんか深いものがあると勘違いしていた人もいるようです。結果はちゃんちゃら可笑しいものでした。先が読めないのは当たり前で、物語の途中でどんどん「デスノート」のルール「付け加え」があるのです。最初から「顔と名前を思い浮かべながら名前をノートに書けば、その人の死は自由に操ることができる」というだけのルールのままで通したならば、誰でも最後の結末は予測することができたでしょう。でもあのようなルール変更があれば、たとえ50手先を読むことができる将棋の有段者でも結末を予想することはできなかったに違いありません。じゃあ、テーマ的に深いものがあるか、ということなのですが…。テーマは昔から何度も何度も問われた古臭いものです。夜神月(ライト)は言います。「正義さえあれば、殺人は許される。法律で裁くことができていない悪は無数にある。(証拠不十分で釈放された殺人鬼、汚職代議士等々)。選ばれしものなら、彼らを殺すことは許されていい。そのあとにこそユートピアは来るはずだ。その証拠に私がキラによる裁きを始めてから犯罪率が70%も下がったではないか」これは、ドストエフスキー「罪と罰」のラスコーリニコフが「戦争で多くの人を殺したナポレオンは英雄である。選ばれた優秀な人間は人を殺すことができる」といって金貸し老婆を殺したこととほぼ同義の考え方だろう。古臭いけれども、これはこれで本当に重要な問いだ。私の「罪と罰」観であるが、ラスコーリニコフは最後の最後まで、老婆に対する罪を自覚していなかったと思っている。だから、実はいまだにこの問いに対する答えは出ていないのである。(もし出ているのなら、「正義の戦争」に対して誰もが明確に肯定あるいは否定をすることができるだろう)では漫画版では、その問いにどうこたえているだろうか。実はほとんど答えていないのである。もちろん、問いを発した主人公の夜神月は最後には死ぬ。しかし、なぜ死んだのか、あたかも「ゲームに敗れたから死んだのだ」としか取れないような終わり方なのである。もっとひどい取り方は「弱い者は死んでいい」というようにさえ取れる。原作者は、答えを放棄している。あるいは、とんでもない考えの持ち主なのだろう。しかし、映画版は違う。敵役の天才探偵「L」は、デスノートを二冊とも焼却処分にしているので、結局正義の殺人自体を否定したという形になっている。夜神月の父親で警視の夜神総一郎は、息子の問いに対してこのように答えている。「確かに法律は完全じゃない。けれども人類の歴史の中で、ここまで努力して完全なものに近付ける努力をしてきた。それを否定するおまえは間違っている」と。紋切ではあるが、とりあえず、法治思想の最良部分であろう。これは漫画の原作者よりも、映画の監督のほうがよっぽと「大人」である、ということの証なのだろうと思う。さいきん、テレビは数年ごとに「幼児化」してきている。倖田來未の羊水発言にしてもそうだ。代議士の発言じゃないのだから、きちんとした謝罪は必要だろうが、「次の犠牲者を探す」的な取り上げ方はどうかと思う。問題はこのテレビの視聴率至上過ぎの考え方だろう。あるいは、あのような漫画が売れる、ということなのだろう。漫画版「デスノート」は去年のフィーバーがうそのように今は店の本棚に普通の漫画と同じように並んでいる。読者は結局、「デスノート」の底の浅さを見破っていた。と、私は思いたい。この並び方に私は今は微かな「希望」を抱いている。
2008年02月09日
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じつは二週間前に鑑賞済みだっだのですが…。「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」監督 : ティム・バートン 出演 : ジョニー・デップ、 ヘレナ・ボナム=カーター 、 アラン・リックマン 、 サシャ・バロン・コーエン 、 ティモシー・スポール 、 ローラ・ミシェル・ケリー 、 ジェイン・ワイズナー 今年はまだ映画を映画館では四作しか観ていません。例年の三分の一のペースです。家庭の事情からです。せめて観た時はしっかり楽しみたいものですが、私忘れていました、この映画が、ミュージカルだということとを。苦手なんです。それでも去年は「ヘアスプレー」がよかったので、アレルギーはおさまっていたのかと思っていたのですが、ダメでした。しっかり爆睡。気がついた時は、ジョニー・デップが最初の殺人を終えた後でした。あとはたんにバタバタと筋を畳むだけだったんでしょうね。全然面白くありませんでした。ティム・バートン監督なのに、惜しいことをしました。というわけで、単なるメモです。
2008年02月09日
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世評があまりにも高いので、私は最初から冷静に、辛口でいこうと決心していた。監督・脚本 : 山田洋次 出演 : 吉永小百合 、 浅野忠信 、 檀れい 、 志田未来 、 戸田恵子 、 坂東三津五郎 特高役の笹野高史が土足で野上家に上がりこみ、調度品や蔵書を足蹴にする。江戸時代がかかったような縄掛けでドイツ文学者野上滋を縛り上げる。美しい妻と12歳と9歳の娘が見守る中、彼は「父べえは大丈夫たから‥‥‥きっと早く帰ってくるから‥‥‥」とやさしくいい、長女の志田未来が気丈にも頷く場面から、ずーーーと、作品の四分の三は泣きっぱなしだった。とても冷静な批評など出来そうもありません。(^_^;)最近気がついたのですが、私の生涯ベストの中に「レオン」があるし、去年は「パンズ・ラビリンス」がよかったし、小説では重松清のいじめモノではいつも少女が気丈に立ち向かうタイプの小説にやられてしまうし、気丈な少女が困難に立ち向かうというタイプの物語に弱いようです。タダ、泣かせ泣かせの連続で、情感のみに訴えたお涙頂戴映画だという批判は当たりません。日常をリアルに描きこむことの中から、普遍的な「何か」が浮かび上がるようになっていたはずです。声高には叫んでいないけれども、至る所で現代に繋がる場面があります。それは個人個人が見つけて欲しい。最後の病室の場面は、山田洋次には珍しい終わり方でした。珍しく厳しい終わり方だったように思えます。私は約20年前の「息子」という映画を思い出しました。この作品では、父親の三国連太郎の死が近いと言うのは誰にも明らかなのですが、最後は親子が囲炉裏を囲んで仲良くしている幻想がふいと消えた場面で終わるのです。父親が死ぬ場面はついに映らなかった。結局この違いがこの20年間の日本の変化なのかもしれない。そのようにあの最後の言葉をとることが出来るのかもしれない。或いは、個人的には、私としては、生き残るものと死にゆく者の思惑はそのようにすれ違うのだとも、とりました。それは私も覚悟しなくてはならない。けれども私は決して戸田恵子が間違っていたとは思いません。
2008年02月03日
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雪崩のような報道も ありきたりの統計も鵜呑みにはしないじぶんなりの調整が可能である地球のあちらこちらでこういうことは起こっているだろうそれぞれの硬直した政府なんか置き去りにして一人と一人のつきあいが小さなつむじ風になって電波は自由に飛びかっている電波はすばやく飛びかっている電波よりのろくはあるがなにかがキャッチされなにかが投げ返され外国人を見たらスパイと思えそんなふうに教えられた私の少女時代には考えられもしなかったもの 茨木のり子「あの人の棲む国」(文庫「倚りかからず」より)茨木のり子は「一人と一人のつきあい」を、おそらくその頃つきあいを始めたばかりの韓国の詩人のことを思って書いたのだろう。けれども私には、別の「つきあい」として読んだ。‥‥‥そもそも詩とはそのように読まれるものである。それは、ブログの「つきあい」として読んだのである。ブログの最大の特徴であり、能力は「繋がる力」である。私自身もブログを始める前は、ここまで全世界、或いはあらゆる素敵な人たちとつながることが出来るとは思っても見なかった。中国、韓国、フランス、アメリカ‥‥‥或いは一定分野の専門家、或いは市民運動家‥‥‥(具体的に書こうと思ったけど、文章が散漫になるのでやめます。去年一番びっくりしたのは、映画「選挙」の批評(批判)を書いたら当の監督から反論が来たこと)私はその人たちとのキャッチボールを大切にしたいと思います。その人たちと常時「連帯」が組めるとは思っていません。人と人とはかんたんに分かり合えるものではありません。毎日病院で顔をつき合わせている瀕死の父親と息子が分かり合えないのだから電波のつながりのブログの向こうの人たちといつも分かり合えるとは思っていません。ましてや、「運動」を創るなんて‥‥‥けれども、ふとした瞬間に人と人とのつきあいは「小さなつむじ風」になることがあります父親と息子が今日は分かり合えた気になることがあります。共謀罪のときにブログが一定の連帯をし、少しだけ運動の成果を持ったことがあったように、一瞬のつむじ風になることがあります。ブログには可能性がある。なにかがキャッチされなにかが投げ返され一人ひとりは倚りかからずそれぞれの硬直した政府なんか置き去りにして
2008年02月02日
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