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木昌1777 @ Re:荒れ放題の我が家の「雑草園」 先ずは植木鉢の整理(04/02) こんばんは。これだけの鉢を出した整理も…
かずまる@ @ Re:荒れ放題の我が家の「雑草園」 先ずは植木鉢の整理(04/02) クマタツさんお疲れ様です! 野菜の苗を植…
かずまる@ @ Re:おはぎ(03/27) クマタツさんお久しぶりです! ワタシの持…

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2018.08.20
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カテゴリ: 鹿児島の歴史


 南日本新聞に連載中の歴史作家・桐野作人の「暁の獅子」も四、薩長同盟を迎えて佳境に入ってきた。
ときは幕末である。
8月15日の薩長同盟(28)にいきなり登場してきたのが「威光院」である。
この小説では幕末維新期の波乱の時代を描いているが、西郷始め、小松帯刀、坂本龍馬、大久保一蔵(利通)など実名で登場する。唯一架空の人物として登場するのが小松の最側近とも言うべき「相良金次郎」である。

「翌日、相良金次郎は西田町の自宅から甲突川を越えて上町方面に向かった。小松帯刀からの指示があり、途中から小松のお供をして琉球館の近くにできた開成所をめざした。開成所は藩営の洋学校で、藩内の秀才たちが勉学に励んでいる。1年前に開校したが、小ぶりで質素な建物だった。正門で出迎えたくらたのは所長をつとめる石河確太郎だった。石河は薩摩ではなく大和国出身の蘭学者だ。順聖公斉彬の集成館事業のために招致されてきた。内密にされているが、今春の英国への使節と留学生派遣を建議した人物でもある。その県議には見るべきものがあると取り上げて実現させたのが小松と大久保一蔵だった。顔長く背が高い人物だったが、人あたりは柔らかく、朴訥な感じさえした。すると少し遅れて坂本龍馬もやってきた。『また遅れたようじゃ。すまん』坂本は上町の清水馬場の威光院にいる仲間たちとここで合流するつもりだったが、それともうひとつ、ここにいるある人物にどうしても会いたかったのだ」その会いたかっかた人物とは中浜万次郎(ジョン万次郎)のことであるが、薩摩では斉彬公以来、このように外に道を求めて他藩の人物や外国からもいいものは取り入れようとの気風があったものと思われる。

 話の本筋は、その威光院で坂本龍馬が会おうとした仲間たちとはどういう人たちだったのか、ということだ。


 そのことに至る経過について「明治維新150年維新のふるさと鹿児島市」のホームページに次のような記事を見つけた。
               大乗院坊中威光院跡
 神戸海軍操練所閉鎖に伴い、龍馬を含む土佐浪士らは大阪の薩摩藩蔵屋敷に保護され、龍馬はその後の5月に鹿児島に入った。
土佐浪士の仲間らはそれに先立つ2月には蒸気船で鹿児島到着。その際の滞在先は島津氏の祈願所であった大乗院の坊中の威光院であった。
明治2年(1869)の廃物希釈によって当時の雰囲気は失われているが、周辺には大乗院(清水中)の遺構などわずかに残っている。

 大乗院は現在の敷地のみならず寺に向かって200mのところ(現在清水町の呼び名の源にもなったと言われる仁王堂水という水源がある)に正門(仁王門)があり、その間に10の支院がった。その一つが威光院である。




 (注)下の写真で大乗院(清水中学校)の左下方に「感光院」とあるのは「威光院」の誤植である。
ここに「威光院跡」という表札が掲げられている。
蛇足ながら、私は中学3年のときに転校しこの清水中学校に1年間毎日「威光院跡」の前を通学した。





 またまた脇道にそれたが、「暁の獅子」は進んで(30)では「そんな雑談をしているうちに、威光院をねぐらにしている坂本の仲間たちがやってきた。上杉宗次郎、菅野覚兵衛、沢村惣之丞、高松太郎、新宮馬之助、黒木小太郎、白峰駿馬の七人である」とあった。

 私はどこかで見たような名前が多いなと思うウィキペディアの「海援隊」を見たところ「私設海軍、貿易など薩摩藩などからの資金援助も受け、近代的な株式会社に類似した組織、商社活動として評価されている。そのメンバーの中に沢村惣之丞、高松太郎、菅野覚兵衛、新宮馬之助、白峰駿馬」と威光院にいたという7名中、5人の名前がある。竜馬を入れると6名である。
同じく「亀山社中」も見たところ「海援隊の前身で1865年坂本龍馬が長崎で結成した貿易商社。倒幕運動への参加を企図した政治集団。20余名で鹿児島に赴く。小松帯刀に伴われ長崎入り、豪商小曽根家の援助を得て亀山社中を作る。その後、薩摩藩の名義を借りて、その開運業に支えられて薩長両藩などの武器、艦船の輸入を仲介しあわせて海運業に従事しながら航海術を習得していった」とある。
こうしてみると、「亀山社中」も「海援隊」も薩摩での「威光院」での縁がもたらしたといっても過言ではないのではと思えてきた。

 以前見たことのある「威光院」という言葉に注目したことからこれまで自分の中で曖昧だった薩摩藩と坂本龍馬を中心とする土佐浪士との関係などの歴史を知ることができた。それにも増して自分がいつも通った通学路は150年前には坂本龍馬や土佐の浪士たちが新しい日本をつくろうと闊歩していたと考えるだけでも笑みが湧いてくる。





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Last updated  2018.08.20 17:06:02
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