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忙しく7月を過ごしていたらいつの間にか8月になっていた。自身が渡米してからすでに1年が経過しようとしていると思うと驚きを隠せない。家族が合流してゆっくり振り返る余裕もないほど忙しいのだけれど、記録に残しておかないと折角の留学が「忙しかった」の一言で片付けられてしまう。研究を続けながらもなんとか合間を縫ってブログを細々と続けたいと思う。決して順風満帆な留学生活ではないし、悔しい思いをする場面もあるが、この経験は今しかできない経験だと感じている。30代半ばはすでに若者のカテゴリーからはみ出てしまっているかもしれないが、「若いうちは買ってでも苦労をしろ」という言葉は真理のような気がしている。時間、お金、労力を含め非常に大きな自己投資をしているが、きっと私の将来の肥やしになっていると信じたい。下の子どもは1週間ほど高熱が続いたり、ドアに指を挟んでしまったり、ソファーから転倒したりと相次ぐトラブルに見舞われたが、幸い大事には至らず元気に家の周りを走り回っている。上の子どもはELD(English Language Development)というサマープロプログに6月の下旬から8月1日まで約1ヶ月半ほど通っていた。小学校の学区が提供する母国語が英語以外の児童達が一堂に介して英語を学ぶプログラムだ。月曜日から木曜日までの週に4日9時から14時まで開かれ、朝ごはんやおやつまで提供される。しかも送迎バスまでついていて参加料が無料なのだ。夏休みの3ヶ月間、旅行も行けず何も計画がなかった我が家には学区が提供する無料のサマースクールが天からの恵みのようにも思えた。最近では上の子どもが気遣ってサマースクールで提供されるお菓子やジュースを下の子どものために持ってきてくれることがある。もしかしたら上の子どもにも心配をかけてしまっていると思うと非常に申し訳なく思った。一時は一ドル160円を突破し、スーパーで1回買い出しをするだけで日本円で2万を超える時もあった。この間に日本銀行による為替介入も2回〜3回ほど行われ、円ードル為替レートは先が見通せない混沌とした状況にある。2年目は奨学金がぐっと減額されるため円建ての貯金を切り崩しながらの生活が続く。どんどん減っていく預金を眺めて本当に家族と留学が終わるまで生活できるのか不安が押し寄せてくることがあるのも事実だ。この壮大な冒険にどのような結末が待っているのか自分でもわからない。筋書きのない道を進むのは恐怖がつきまとうが、最後まで諦めず留学を志した時の覚悟を貫きたいと思う。円が持ち直して一ドル130円台まで戻ってくれると助かるのだが、流石に現在の一ドル160円では円がとても貧弱な通貨に思えてしまう。SNSを開くと他国から来ているクラスメイトが夏季休暇中にヨーロッパやハワイに旅行している写真や動画が目に入る。きっと円安が続けば海外旅行客が日本に押し寄せるが、日本人は国外になかなか出られない状況が続くのであろう。国力が衰退するにつれて直面する厳しい現実を見ているようである。美しい自然と伝統的な文化資本、漫画などの豊かなサブカルチャーを有する日本が再度活性化することを願いたい。春学期と夏学期の振り返り、日々出会う英語表現の数々、アメリカで車を購入する際に思ったこと、書きたいことは山ほどあるのになかなかアウトプットの時間を作れずにいる。これから少し短いブレイクに入るのでそこで日々の気づきを綴りたいと思う。軽い気持ちで始めたこの「家族留学奮闘記」ももう少しで1周年を迎える。有難いことにブログを開設してから訪問者が3万人を突破しようとしている。(8月3日現在)私の駄文や愚痴にお付き合いいただき感謝に堪えない。不定期な更新だが、今後もブログを更新してささやかながら社会全体に還元したいと思う。写真:家の近くで見つけたカマキリそれでは今日も良い1日をきたろう
2024.08.03
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前回の投稿に続いて独立記念日について書くことにする。(過去の記事はこちら)私が住んでいるコミュニティーでは昼間に子ども向けのイベントが近所のベースボールフィールドで行われ、夜6時あたりからステージ上で音楽のパフォーマンスと花火が予定されていた。日中の様子:夜は花火の場所取りのため打ち上げが始まる約1時間前に家を出ることにした。到着するとベースボールフィールド一面にレジャーシートが敷かれ人々が花火の開始を待っていた。野球場のマウンドだけでなくダグアウトの上や内野近くに設置された観客席にもびっしり人が座っている。子どもたちがダイヤモンドを駆け回ったり、アメフトのボールを投げて遊んでいたり、花火や爆竹をしていたりと完全にカオス状態だが、それを注意する大人は誰もいない。そういえば公園で「静かに遊んでください」という張り紙もこちらでは見かけたことがないかもしれない。土地が広く家と家の間隔が空いているアメリカで住むメリットの一つかもしれない。アメリカでは野球場が常時開放されていて野球と人との距離が日本よりも近いような気がする。さすが野球発祥の地という感じがする。花火は野球場の隣にあるバスケットボールコートから打ち上がっているようだった。我々が座っている場所から100メートル〜200メートルくらいのところで花火が上がっていて大迫力であった。最初座って眺めていたのだが、途中から首が痛くなって寝転がって花火を鑑賞することにした。まるで花火を真下から見上げているようであった。きっと日本では消防法の抵触してしまいこんな近くで花火を拝むことはできないと思う。幼少期から花火を見てきた上の子どももあまりの迫力と音の大きさに耳を塞いでいた。真上に打ち上がる花火にこれからの願いを込めて花火会場を後にした。上の子が帰り際に「来年もアメリカで花火を見たいな」とポツッと言った。残念ながら来年の今頃我々はもうアメリカの地にはいない。少し間を空けてから「そうだね」と絞り出すように言うことしかできなかった。ベースボールフィールドが人の海になる:それでは今日も良い1日を。きたろう
2024.07.06
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7月4日はアメリカにとって特別な日である。1776年に独立宣言(the declaration of independence)が公布されイギリスから独立に成功した。7月4日(The fourth of July)はアメリカが誕生した記念すべき日なのだ。仕事は勿論休みになるのだが、商業施設やスーパーまで休業になってまうこともあるから驚きだ。前日にスーパーに立ち寄ったのだが、案の定レジの前は大変混雑していた。独立記念日には全米各地で屋外イベントや打ち上げ花火が行われ盛り上がりを見せる。近くの公園で独立記念日を祝してイベントが行われると知人から教えてもらったので家族で行ってみることにした。会場について人手の多さに驚いた。そして会場にいた地元住民は皆アメリカ国境が描かれたTシャツやアメリカ国旗を模した赤と青の洋服を身につけている。我々はそんなことも知らずに普段着で会場に行ってしまったため若干浮いていたかもしれない。普段遊んでいるベースフィールドには出店が沢山用意されていて子どもたちがあちらこちらで遊んでいた。我が家も一枚一ドルのチケットを20枚購入してキックターゲット、輪投げ、マグネットのついた釣竿で魚を釣るゲームなどを楽しんだ。遊ぶたびに景品が用意されていて、景品(prize)をもらうたびに受付の人が子どもに笑顔で”Happy fourth!”と声をかけてくれた。独立記念日にはどうやら”Happy fourth!”と声をかける習慣があるらしい。それにしても今年の独立記念日は非常に暑く91度(摂氏33度くらい)を記録した。これから早めに夕食を済ませて、夜は花火(fireworks)を楽しむ予定だ。独立記念日に家族で眺める花火鑑賞が夏の思い出としていつまでも残ることだろう。写真:イベントの会場で見つけた独立記念を祝うポスターMay the 4th be with you.Star Warsのファンであればピンとくるのではないだろうか。劇中でよく出くわすMay the force be with you!(フォースと共に)というフレーズを捩ったポスターである。訳すと「独立記念と共に」という感じだろうだろうか。“Happy fourth! I really like this. Can I take a picture of it?”と聞くと撮影を快く許可してくれた。日本では2月11日が「建国記念日」とされているが、上記のようなイベントは開催されないし、このようなポスターを見かけることもない。どちらが良いか悪いか判断するつもりはないが、この違いは非常に興味深いと思った。それでは今日も良い1日を。きたろう
2024.07.05
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前回はアメリカで流行っているアイスのMochiを紹介した。(過去の記事はこちら)今日は同じく行きつけのTrader Joe’sで見つけた面白い日本食の商品を紹介したい。1. Mochi Rice Nuggetsまず最初にご紹介したいのはMochi Rice Nuggetsである。お餅のナゲットとは何を指すのか最初全く理解できなかった。日本ではナゲットをチキンナゲットの略と解釈してしまいがちだが、実はナゲットは元来小さく切られた塊という意味がある。つまり、お餅を小さく切って揚げた「あられ」のことである。パッケージをご覧いただければお分かりいただけるはずである。2. Vegetable Bird’s Nests直訳すると「野菜で作った鳥の巣」。一体何の和食を指しているかお分かりだろうか。正解は「かき揚げ」である。確かに衣を纏った野菜が高温の油に触れて広がっていく姿は鳥の巣に見えなくもない。なかなかかき揚げと鳥の巣は結びつかないのではないだろうか。発想力豊かな人がこの商品名を考案したに違いない。まだ食べたことがないのだが、いつか食べてみたい一品である。アメリカでの健康食ブームと相まって日本食はアメリカで幅広く受け入れられているようである。それでは今日も良い1日を。きたろう
2024.05.13
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今アメリカでは和食が非常に流行っている。カフェに行くと必ずMachaがメニューに掲載されている。かなり大きめの都市に行けばラーメン屋を見つけるのもそんなに難しくはない。Ramen, Sushi, Machaあたりの英単語は市民権を獲得している印象を受ける。この間行きつけのTrader Joe’s(通称トレジョー)に行ってみると面白い商品を見つけた。パッケージにはMochiと書かれているが、我々が普段想像するお餅ではない。ロッテから発売されている「雪見だいふく」のような商品がMochiとして発売されているのである。X(元Twitter)でバズっているのを見てからずっと気になっていた。店内を探し回るもなかなか見つからないので、近くにいた店員に”Where can I find Mochi?”と聞いてみると、”Like icecream?”と確認された。きっと日本で「お餅はどこにありますか」と尋ねても「アイスのお餅ですか?」とはまず確認されないだろう。それほどアメリカ人の間ではMochi=(雪見だいふくのような)もちもちしたアイスと認識されているらしい。日本でも海外から入ってきた言葉が独自の進化を遂げて使われることを和製英語と読んだりすることがあるが、同じような現象がアメリカでも起きているようだ。和製英語の逆パターンになるため、米製日本語と命名すれば良いだろうか。英語圏でMochiを使う際は思わぬ誤解を招く可能性があるため気をつけていただきたい。写真:購入したMochi(抹茶味)パッケージに書かれている”Green tea ice cream surrounded by sweet rice dough”という英語の説明文もなかなか面白い。また、左下には6 mochiと書かれていて、ここでのmochiは不可算の名詞として扱われている。それでは今日も良い1日を。次回はTrader Joe’sで売られている面白い日本食をご紹介したい。きたろう
2024.05.12
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春学期の怒涛の日々が終わりを迎えようとしている。今学期は秋学期よりも一つ多い4つの授業を履修したため秋学期とは比べ物にならないほど慌ただしかった。今は成績のことは一旦忘れてとことん心と体を休めたい。記憶を遡りながら印象に残っていることを綴っていきたい。—————————4月22日(月)は長男の現地校登校日の初日だった。スクールバスの許可が下りていないため初日は電車と歩きで学校に向かった。学校に向かう途中、「アメリカの学校に通うのどう?」と質問してみると「ふつう」と短い答えが返ってきた。言語も風習も全く異なる学校に通うのだから小さい心は不安でいっぱいだろう。しかし、新たな環境に一歩踏みだすその勇気が今後の人生の糧になるはずである。長男の心の成長をそばで見届けたい。学校に到着にして受付を済ませると、奥の部屋に通され学校のパンフレットやスクールカレンダーを手渡された。ポータルサイトのIDとパスワードも渡され、後ほどアカウントを作成するよう指示を受けた。家庭と学校の間のコミュニケーションは基本的にオンラインで行われるらしい。書類を一式受け取ると副校長の部屋に通された。”Welcome!”と笑顔で握手を求められ、温かい歓迎を受けた。その後担任の先生と英語をサポートをしてくれるELDの先生の紹介を受けた。二人ともこの学校に長く勤めていらっしゃるベテランの先生のようだ。二人とも満面の笑みで緊張気味の息子を温かく迎え入れてくれた。この地区には私が通う大学の研究者が多く住んでいるらしく、私のような短期滞在者のご子息の扱いにも慣れているようだった。短期滞在である旨を伝えると”We have many families from the university”と笑顔で話されていた。校舎案内で校舎を練り歩いていると教職員の方々が笑顔で挨拶をしてくれる。息子は緊張で目が合わないし、相手の勢いに押されて一言も発することができないのだが、この温かい雰囲気であれば言葉と文化の壁も越えられるのではないかと思った。この留学は家族を巻き込んだ壮大なプロジェクトである。自分だけ研究に励んでいても帯同している家族がハッピーでなければ意味がない。長男が新たな学校生活を始めることができて胸を撫で下ろした。学校の中に入ってからずっと強く私の手を握っていた長男だが、担任の先生が優しく手を差し出すと息子は私の手を離して担任の先生の手をとった。教室の奥では同級生が”Is he a new student?”とざわざわ騒いでいる。当たり前だが、肌の色や目の色、髪の毛の色や服装まで多種多様だ。とてもカラフルで多様性に満ちているのがアメリカの学校の特徴なのかもしれない。教室に入っていく息子を見届けて学校を後にした。あまり日本では意識していなかったが、4月22日は地球の日(Earth Day)らしい。そう言えば学校で教職員とすれ違うたびに”Happy Earth Day!”と声をかけられた。地球の日にちなんで学校では特別カリキュラムが組まれていたようだ。写真:学校初日に長男が持ち帰ってきた作品「日常」を築くために奔走する日々はこれからも続く。それでは良い1日を。きたろう
2024.05.11
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家族が到着してから目が回るような忙しい日々を過ごしている。自身の研究は勿論だが、それと並行して住環境の整備、子供の入学手続きを進めなくてはならない。不器用な性格である自分はマルチタスクに苦手意識があり同時に進めようとするといずれかが疎かになってしまう。焦り出すとどれから手をつけていいかわからず戸惑いさらに効率が悪くなるという悪循環に陥ってしまうのだ。いつかこんな忙しい日々を懐かしく思える日がくるのだろうか。家族が入国するだいぶ前に子供の入学手続きをするために住んでいる地域のschool registration officeに連絡を入れた。兎に角全てオンライン化しているからそこから手続きを開始しなさいと指示を受けて電話を切られてしまった。ホームページを確認するとどうやら以下の書類が必要になるらしい。・居住を証明する書類2通・免疫摂取証明(英文)・健康診断書(英文)・歯科検診診断書(英文)・成績証明書(英文)「居住を証明する書類」はその地域に住み始めていないと発行できないため、手続きはその後でないと開始できないことが判明した。それ以外の書類については妻に連絡をとって日本の医療機関、子どもが通う学校に発行を依頼することになった。ワンオペ育児で大変な中、書類発行のために奔走してくれた妻には感謝に耐えない。なお、必須書類は州や学区によって異なるため各学区の必要書類を確認されたい。4月の1週目に手続きをしたのだが、1週間経過しても何の音沙汰もない。督促のメールを出すとようやく返事が返ってきて、こちらのlease agreementにlandlordの署名欄にサインが書かれていないことが判明した。急いで最新版のlease agreementをお送りして手続きが完了となった。上の子どもは今も「アメリカの学校には行きたくない」と言っているが、行き始めたら楽しくなるのではないかと思っている。先日は学校の体育館で開催された催しに家族で参加して各国の伝統料理を楽しんだ。このようなイベントを開催できるのも世界中から人々が集まるアメリカだからできることである。(イベントについては後日詳細を書くこととする。)先日いただいた校長先生からのメールの最後にはこのように記されていた。When you can’t find the sunshine, BE the Sunshine!(光が見えなければ自らがその光となれ)他人が照らす光をあてにすることなく、自分自身が未来を照らす希望の光であり続けたい。写真:校長先生から送られてきたWelcome Letterの冒頭今日も良い一日を。きたろう
2024.04.19
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日本で3月14日といえばバレンタインのお返しをするホワイトデイが頭に浮かぶだろう。しかし、アメリカではホワイトデイは存在しない。そもそもアメリカでのバレンタインデイは男性が女性にバラを渡すのが一般的だ。日本のような「女性」が男性に「チョコ」を渡すという文化は西洋にはないらしい。3月14日の朝、SNSには友人がこのような投稿をしていた。“Happy Pi Day! A good day to remind yourself you can’t measure a circle’s circumference with its diameter, no matter how clever you are. It is, still, today, a stunning and marvelous and beautiful thing to learn.”なるほど、円周率3.14と日付の3.14が一致しているため3月14日はアメリカではPi Dayとされているらしい。大学のキャンパスではPiと同じ発音であるPieが無料で配られていた。友人の投稿がなければなぜ大学でPieが配布されているのか理解できていなかっただろう。Pi Dayに無料でPieを配るアメリカのユーモアが伺える。Leap Dayもそうだが、アメリカのこのようなクスッと笑えるユーモアが個人的に好きだ。こんなユーモアを日本に帰っても持ち続けたいと思う。写真:大学で配布されていたアップルパイそれでは今日も良い1日を。きたろう
2024.03.15
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閏年は4年に1度だけやってきて、その年だけ1年間の日数が366日となる。4年に一度だけ追加される日が2月29日だ。CASIOのHPによると「閏年は、グレゴリオ暦(西暦)において、以下の条件を満たす年」を指すらしい。1. 西暦年号が4で割り切れる。2. ただし、西暦年号が100で割り切れる年は、通常は平年で過ごす。3. しかし、西暦年号が400で割り切れる年は、閏年となる。 詳しくはCASIOのHPを参照していただきたい。↓リンク↓こちら英語では閏年のことを”leap day”と呼ぶ。こちらでは年ではなく2月29日という日に注目されるのが興味深い。Happy Leap Dayと書かれたポスターにはなぜかカエルのイラストがある。不思議に思い、近くにいた見知らぬ人になぜカエルが描かれているのか聞いてみると”Oh, it’s probably because of the word ‘leap’. I know it’s silly.”と答えてくれた。”I see. The frog is a symbol associated with February 29. Thank you.”と知らない人に感謝の念を伝えてその場を離れた。 日本に住んでいると閏年とカエルはどうやっても結びつかないが、英語圏では閏年にはカエルが付き物らしい。閏年一つをとっても文化の違いが垣間見れて非常に面白い。Groundhog Dayにしてもそうだが、現地で暮らしてみないと気づかない文化的背景知識は沢山ある。現地の人々にとっては当たり前すぎて気にもならないことなのだろうが、私のような日本で暮らし育ってきた人間にとってはこのような経験一つ一つが新鮮に思える。(Groundhog Dayの記事はこちら) 大学院生専用のスタディスペースにはこのような展示まで発見してしまった。どうやら折り紙はOrigamiとして市民権を獲得しているようだ。抹茶もmatchaとして通じるし、日本の文化資本は充実していることをアメリカにいて痛感している。実はleapには「飛躍」という意味もあって願いことをLeap Dayに書くというイベント?まで開催されていた。4年に1度だけやってくる日本でいう七夕の短冊のような感覚だろうか。”Take a leap on Leap Day”というダジャレがアメリカっぽくて好きだ。日本に戻ってもクスッと笑えるユーモアを大切にしていきたい。きっと日本だったら「閏年にカエルが登場するのはなんでですか」と知らない人に質問することなんて到底できないだろう。しかし、こちらの人々は嫌な顔を一つもせずに質問に答えてくれる。私も日本で海外の人から日本のことについて質問を受けたら嫌な顔をせずに堂々と答えられるようになりたい。今の日本人に必要なことは英語運用能力ではなく、英語の使用に対する「心構え」のような気がしている。無意識の内に「英検⚪︎級以上じゃないと話しちゃいけない、TOEIC⚪︎⚪︎点以下は恥ずかしい」という固定観念を抱いていないだろうか。変な偏見に囚われずにもっと言語は身近な存在であればいいのにと思う。今日も良い1日を。きたろう
2024.03.01
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写真:スーパーボールの中継スーパーボールとは:読者の皆さんはスーパーボールをご存知だろうか。NFL(National Football League)の各カンファレンスを勝ち抜いたチームがアメリカンフットボールリーグの全米(世界)1位をかけて戦うのがスーパーボールだ。世界大会は存在しないが、アメリカのNFLよりも規模が大きなリーグが存在しないため実質世界一を決めるトーナメントリーグとなっている。全米各地のメジャーな都市には大体その地域を代表するアメフトのチームが存在する。その地域のプライドをかけてプレイヤーたちは毎年スーパーボール優勝を目指してリーグを戦うことになる。こちらのサイトに詳しくNFLの概要が掲載されている。↓リンク↓こちら(NFL日本語版)スーパーボールの人気:競技名に国名が入っているだけあってアメリカでのアメフトの人気は日本とは比べものにならない。アメリカではfootball=アメフトを指すのでわざわざ”American Football”と呼ぶアメリカ人はいない。現地の人にとってfootballはサッカーではなくアメフト一択なのだ。スーパーボールの注目度は非常に高く視聴率は40%を超えるというから驚きだ。まさにアメリカ国民が熱狂する国民的スポーツイベントなのだ。視聴率40%を超えるコンテンツだけあってCMやハーフタイムのショーの規模も桁違いだ。30秒単位のCMに10億円ほどのお金が注ぎ込まれているらしい。しかもCMに出てくるのはハリウッドやスポーツのスーパースター選手ばかりだ。今年のCMにはなんとメッシが登場していた。今年はコロナワクチンを開発したファイザー、格安通販で業績を伸ばしているTEMU、映画の宣伝が目立った気がする。ハーフタイムショーもスーパーボールの目玉である。今年はラッパーであるアッシャーが出演した。個人的にはアシリア・キーズとのコラボに鳥肌が立った。過去にはビヨンセ、マドンナ、エアロスミス、U2、マイケル・ジャクソンなど世界的アーティストがステージに立っている。アメフトのルールが分からない人でもCM、ハーフタイムショー目当てにスーパーボールを見る人もいるだろう。ビアポン:アメリカのホームパーティでよく行われるのがビアポンだ。大学生間の飲み会では頻繁に行われるし、アメリカの映画でも若者がよくビアポンで負けてお酒を飲まされているシーンが登場する。勿論今回参加したホームパーティでもビアポンが開催されていた。これからアメリカの学部もしくは大学院に留学予定の方は知っておいて損はないかもしれない。今年のスーパーボールの結果:今年のスーパーボールは2月11日にラスベガスで行われた。カンザスシティのチーフスがサンフランシスコを拠点にする49ers(フォーティナイナーズ)を25-22で破り優勝を果たした。延長戦にもつれ最後の最後でチーフスがタッチダウンを決めて49ersを退けた。友人はサンフランシスコに10年ほど住んでいて大の49ersファンだったようで劇的な幕切れにショックを隠しきれない様子であった。最後までどちらに転ぶか分からない展開で非常に見応えのある試合であったことは間違いない。テイラースウィフトの彼氏がチーフスのプレイヤーらしく10分おきにテイラーがテレビ画面に登場していた。テイラースウィフトはこの直前までジャパンツアーを行なっていたようでトンボ返りで帰国したらしい。疲れを画面から一切感じさせないのがスターの証だろうか。私には到底真似できない。スーパーボールパーティでの会話について:大学院の授業の英語はなんとなくわかるのだが、雑音が混じった中でのネイティブの英語は本当に難しい。TOEFLやIELTSのリスニングの難易度とはまた違った難しさだ。そもそも現地の会話には選択肢がないし、絶対的な正解があるわけでもない。難しさの質が根本的に違う気がする。お酒が影響している可能性も否めないがどんなに集中を研ぎ澄ましてもうまく会話の内容が入ってこないのだ。この異次元のスピードの英語を理解できるようになる日は来るのであろうか。ネイティブ同士の会話にうまく入れず見事撃沈したが、自分のコンフォートゾーンを抜け出して新たな輪に入ろうとした自分をささやかながら誇りたい。若者たちは深夜2時を過ぎてもテレビを見て見ていたが、私は1時ごろに限界を迎え一人静かにソファーで眠りについた。植物が光合成をして少しずつ成長するように私もアメリカの地で少しずつ根を張ることができてきている気がする。ほんのわずかだけれども。きたろう
2024.02.18
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自宅と図書館の往復ばかりしているとどうしても運動不足になってしまうため定期的にアパートのジムで運動をするようにしている。2月2日(金)の朝にテレビをつけるとなぜかどのチャンネルもリスのような動物を抱えたタキシード姿の男性が映っている。テレビ画面の下部のキャプションには”GROUDHOG DAY”と大きく表示されている。暫くテレビを眺めていたが状況が全く理解できない。何故このリスにそんな注目が集まっているのだろう。部屋に戻って辞書を引いてみると以下のように掲載されていた。「聖燭(せいしょく)節の日《2月2日;ウッドチャックが冬眠から目覚め、春が来る日とされる;「啓蟄(けいちつ)」に当たる》」(ジーニアス英和辞典第6版より引用)しっかりこのような文化的側面まで網羅している点は素晴らしいと思う。学習英和辞典を侮ってはいけないと感じた瞬間だ。さらに調べてみるとこのウッドチャックが春の訪れを予想していることがわかった。Punxsutawney Philというウッドチャックがshadowを見ると六週間さらに冬が続き、Philがshadowを見ないと早い春の訪れを意味するだという。Punxsutawney Philの過去10年の予想的中率は40%とかなり低めだが、アメリカ人はこの恒例行事と迷信(superstition)を楽しんでいるようである。Pennsylvaniaではウッドチャックの予想を生で見るためのイベントまで催されているようである。興味がある方は以下のYouTubeビデオをご覧いただきたい。↓リンク↓こちら恥ずかしながら啓蟄の意味を知らなかったのでここに定義を載せておきたい。外国語を通じて日本のことを学んでいる今日この頃である。啓蟄(けいちつ)「二十四節気の一つ。太陽暦の三月六日ごろ。▼冬ごもりしていた虫が地上にはい出る意。」(明鏡国語辞典、大修館書店)なるほど、アメリカではウッドチャックが冬眠から目覚めるタイミングが春の到来とされるが、日本では虫が春の訪れを教えてくれる生き物になっているらしい。因みに今年はPhilが早い春の訪れを予想したらしい。今年のアメリカの冬は非常に寒かった。春の訪れが今から待ち遠しい。写真:終末のカフェラテそれでは今日も良い1日を。きたろう
2024.02.04
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前回に引き続きNYの旅について綴りたい。今回はニューヨークの歴史的建造物をいくつかご紹介したい。Castle Clinton:昔の砲台のようである。現在は自由の女神、エリス島行きのフェリーチケット売り場となっている。Flatiron Building:三角形の建物で非常に有名なNY初期の摩天楼である。ニューヨークの超高層ビル群の第1号と言っても過言ではないだろう。1903年当時は世界で最も高い建物だったという。今では超高層ビル群に追い抜かれ小さく見えてしまうが、貫禄は他のビルに負けていない。Rockefeller Tower:巨大な富を築いたJohn Rockefellerが建てたビル。ホリデーシーズンになると巨大なクリスマスツリーとスケートリンクが設置され観光客で賑わう。テレビドラマや映画の撮影地としても何度も使われている。The Plaza Hotel:ニューヨークの老舗の中でも老舗のホテル。確かF. Scott Fitzgeraldが書いたThe Great Gatzbyにも登場するホテルだ。ホテルの中にはThe Gitzgerald Suiteというスイートルームまで存在するらしい。歴史が好きな方はドル高を是正するために為替レート安定化に関する合意がなされた「プラザ合意」も開催場所となったプラザホテルからそのように呼ばれているらしい。New York Stock Exchange:ウォールストリート沿いにある金融業界の中心地である。1929年10月29日火曜日に起きた世界恐慌がここから始まったとされる。“We are the 99%(我々は99%だ)”と掲げた集団がウォール・ストリートを占拠し一時騒然とする事件が起きた場所でもある。1%の富裕層が富を独占していて、貧富の格差が拡大していることを批判した運動だ。映画The Wolf of Wall Street(2013)の舞台でもある。ジョーダンベルフォートという人をモデルにした映画で主演はレオナルドディカプリオだ。ドラッグ、性的な描写などかなり刺激が強いので見る際には注意が必要な映画だ。Times Square:NYのシンボルと称されるTimes SquareはNYにきたら訪れたい繁華街だ。劇場も沢山あってミュージアムを楽しむのもいいだろう。今回は時間の制約で訪問できなかったが、MoMAなどNYは美術館や博物館の宝庫でもある。訪れる者をエンターテインしてくれるものがあるだろう。NYに訪れたら是非9/11ミュージアムも訪れてほしい。過去にミュージアムのレポートを書いている。過去の記事はこちら。それでは今日も良い1日を。きたろう
2024.01.19
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エリス島は自由の女神が建っているリバティ島のすぐ近くにある小さな島とその上にある移民局(Immigration Office)を指す。1892年から1954年までの62年間の間、Ellis Islandが移民がアメリカに到着後最初に通過するゲートウェイとして機能していた。ここを通過した移民の数は約1200万人とも言われ、アメリカ人の約半分はこの移民局で先祖を辿ることができると言うから驚きだ。移民局の外観:現在の移民局は国が定めた博物館として観光客で賑わっている。世界でも類を見ない移民の流入がなぜ起きたのか、当時の資料を見ながら学ぶことができる。インパクトは勿論自由の女神の方があるのだが、エリス島もアメリカの歴史を学ぶ上で非常に貴重な資料が並び決して侮れない。自由の女神、エリス島を含めて少なくとも半日は確保しておきたい。当時の人々がなぜアメリカに渡る理由は多岐に渡る。宗教の迫害から逃れてきた人々、政治的対立により追い出された人々、より良い雇用機会を求める者、単純に冒険心に駆られた人々と目的そして人種も多種多様だ。ヨーロッパで勃発しその後世界に飛び火した第一次世界大戦、そしてその後起こった第二次世界大戦と政治的に非常に不安定な時期だったこともあり、現在の移住とは動機が大きく異なることがわかった。中には所持金がゼロで戻るお金もなくまさに背水の陣でアメリカに渡った人々もいることがミュージアムでわかった。この島に上陸したら是非2階のRegistry Room(もしくはGreat Hall)を見学したい。当時はこの大きな広間が受付所となって移民が呼ばれるのを数時間も待っていたという。このGreat Hall以外にも健康診断所や許可が下りなかった者が滞在する勾留所の展示もあって非常に面白い。飛行機で移動が容易になった現代では考えにくい当時の移民の困難と覚悟を垣間見ることができた気がする。アメリカの移民の大移動(Great Migration)はこの場で始まったのか思うと身震いがした。きっと当時の人は自由の女神を見てアメリカの象徴である自由に心を躍らせ、祖国とは全く異なる未知なる生活に夢と希望を抱いていたのだろう。気づくと時計は自由の女神行のフェリーに乗ってから4時間ほどが経過していた。次の予定が刻々と近づいていたため後ろ髪を引かれるような思いで急いで帰りのフェリーに飛び乗った。ニューヨークの旅はまだまだ続く。きたろう
2024.01.18
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フランスからアメリカに送られた自由の女神(Statue of Liberty)はニューヨークのランドマーク的巨大建造物だが、アメリカの「自由」の象徴でもある。フランスの彫刻家であるFrederic August’s Bartholdiによってデザインされ、21年の歳月をかけて建築されたという。土台にはEmma Lazarusの詩が彫られている。Give me your tired, your poor,Your huddled masses yearning to breathe free.南北戦争が終わり、奴隷制も廃止され、新たに建国された国は次の100年を見据えていた。激動の時代にこのフランス革命を経て独立したフランスからアメリカにこの自由の女神が与えられた意義は当時の時代背景を考慮すると非常に大きい。完成した1886年当時、自由の女神はニューヨークで一番高い建造物だけでなく、世界一高い建造物であったとされる。93mの巨大な像はフェリーで近づくにつれて丘で見るよりずっと迫力があり、着物のシワまで緻密に表現されており見る者を圧倒する。自由の女神とエリス等にはフェリーでしかアクセスができない。事前にオンラインでチケット購入したい。チケットはクレジットカードで購入が可能だ。私はフェリーの運賃、Ellis Island National Museum of Immigration, Statue of Liberty Museum, Statue of Liberty’s Pedestalの入場券込みで$24.8であった。The Battery Parkの近くにはStatue of LibertyとEllis Islandのフェリーを勧誘する悪徳業者がいる。彼らは正規料金より高い金額を観光客に請求して、小さいボートで自由の女神やエリス島を回るのだが、島には一切上陸できずそのままLower Manhattanに帰港してしまう。高額なお金だけ支払わされ、それよりも安いチケットが提供するサービスを一切受けられないのだ。必ず自由の女神を見たいのであれば公式サイトから事前購入するか、The Battery Park内にある発券場で購入されたい。↓↓リンク↓↓Statue City Cruises自由の女神のモデルは設計したBartholdi’sの母親らしい。王冠から発せられている七つの光は七つの海と七つの大陸を表しているらしい。デザインに込められたBartholdiのメッセージが非常に興味深い。一部Pedestalの展示より抜粋:“‘Liberty’ was a controversial idea in the 19th century. To many people it suggested violence and revolution. Laboulaye and Bartholdi agreed that their monument should not be seen as leading an uprising, but rather as lighting the way, peacefully and lawfully. A key element was the name they gave to the Statue: Liberty Enlightening The World”日本語の意訳(筆者による)「『自由』は19世紀において物議を醸す考えであった。多くの人々にとってそれは暴力や革命を意味した。LaboulayeとBartholdiはこのモニュメントが紛争を扇動するものではなく、むしろ平和と法によって道を切り開くものとして見なされることを願った。名付けられた像の名前を見ればそれは明らかだ:世界を啓蒙する自由」昔は自由の女神の王冠(Crown)まで行くことができたが、ニューヨークで起きた同時多発テロ以降閉鎖一時的に閉鎖されていた。私がネットでチケットを検索した時はCrownへの入場券は表示されていなかった。私が予約した時にはすでに売り切れになっていたのか、それともそもそもクラウンはテロ以降解放されていないのかその真相はわからない。Liberty Islandまで行く機会があれば、是非台座(Pedestal)の内部やStatue of Liberty Museumも併せて訪問されたい。土台部分の内部がちょっとした博物館になっていて女神の建築過程や自由の女神を題材にした美術品を眺めることができる。また、Statue of Liberty MuseumにはOriginal Torchが展示されている。現在女神が握っているTorchは1986年の大規模補修工事の際に交換された新しいものである。写真:Original Torch個人的にはこのフェリーツアーは非常におすすめだ。家族連れであればフェリーでの移動は子供が大変喜ぶだろう。また、Liberty Islandからニューヨークの超高層ビル群を臨む景色は格別である。Ferry Dockを降りてそのまま直進するとManhattanの超高層ビル群を背景に写真を撮影することが可能だ。ニューヨークの旅を彩る思い出の写真になることだろう。次回はEllis Islandについて書くこととしたい。きたろう
2024.01.17
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アメリカで家族向けの家探しをしていることは前回の記事でお話した。過去の記事はこちら。仲介業者の方と車の中で会話している時にある英語表現に出会った。郊外の方にでて古き良きアメリカの住宅風景を眺めていた時、この地域の奥にはさらに有名な高級住宅街があると教えてくれた。本当に大きな家は大きなゲートがあって外から家が見えないようにようになっているのだという。そのような人々は現地の人は"old money"と呼ぶらしい。ジーニアス英和辞典第6版(大修館書店)にも「(昔からの)財産家」と記載があった。Old moneyの家は大抵丘の上にあってプライベートプールと広々した芝の庭が完備されている。入ったことがないのでわからないが、きっと日本では考えられない広さの部屋がいくつもあるのだろう。数百万ドルを超える物件がこの州の郊外にはいくつもあるというから驚きだ。似たような表現にはbe born with a silver spoon in one’s mouthがある。直訳すると「銀のスプーンを咥えて生まれてくる」となる。起源は調べたことがないのでわからないが、これで「お金持ちの家に生まれる」という意味なる。日本だと御曹司(おんぞうし)がこれに一番近い表現だろうか。後日、ニューヨークでタクシーに乗って暫くすると気前のいい40代の男性タクシードライバーが話をし始めた。彼の話によるとこのあたりは富裕層が沢山住んでいるらしい。やはり彼の口からは"There are a lot of old money(s) in this town.(加算だったか不加算名詞だったか記憶が定かではない)"と以前不動産仲介業者と話していた時に登場した単語が再び出てきた。しかし、今回はold moneyの他になんと"new money"という新たな単語が出てきたのだ。彼の説明ではold moneyが何世代も続くお金持ちを指すのに対し、new moneyは90年以降たった一代で富を気づいた富豪をnew moneyと呼ぶのだという。さらに面白かったのが、old moneyはお金持ちであることを悟られないように少し古びた高級車(ベンツなど)を乗るのに対し、new moneyは煌びやかな高級車(フェラーリなど)を乗り回す特徴があるのだという。彼は"They don’t know how to spend money.(奴らはお金の使い方をわかっていないのさ)"と皮肉めいた口調で話していた。その真否はわからないが、その地域に数十年住んでいて日頃から車を眺めている彼だからこそわかる鋭い洞察(astute observation)なのかもしれない。日本語でold moneyが「御曹司」であれば、new moneyはまさに「成り金」が適訳だろうか。アメリカの郊外に行く機会があれば、庭の手入れ具合や家の大きさにも是非注目していただきたい。アメリカ社会の断片がそこから見えてくるかもしれない。追伸、写真:ニューヨーク、タイムズスクエア近くのカフェ暫く外出をしており、ここ数日ブログの更新が滞ってしまっていた。旅先での出来事については明日以降順次ご紹介していくつもりだ。それでは今日も良い一日を。きたろう
2024.01.14
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先日物件を探すために不動産仲介業者と一緒に郊外のエリアに行った。ドライブをしながら気づいたのが、同じ通りでも街の景観が虹色の如くどんどん変わっていくのである。場所によってはゴミが散乱していて荒れている地域、浮浪者やホームレスがフラフラ歩いている地域、窓が割れた車、タイヤがパンクしたまま放置された車がある地域も存在する。都市部外れの少し荒れた地域を抜けてさらに郊外の方に進むと一軒一軒の家が大きくなり、各家庭にはガラージとドライブウェイと呼ばれるガラージに通じる私道までしっかり整備されている。万華鏡(kaleidoscope)のように変化する景色を眺めながら大学の先生が以前このように言っていたのを覚えている。“Our community is one of the most deeply segregated areas in the United States.”(私たちのコミュニティーは全米で最も格差によって分離されている地域の一つだ。)友人にもあの通りの向こうとあの地域は治安が良くないから絶対一人で夜歩かない方がいいとオリエンテーションで忠告を受けた。面白半分でも絶対に行ってはいけないとネイティブが言うのだから相当危険な地域なのだろう。大学の地域は大学によって雇われた警備員が24時間体制で警備にあたっているため、学内コミュニティの安全は守られている。警備を雇うお金はどこから来ているかというと勿論我々が支払っている学費である。安全はお金を払って自分で守るというのがアメリカという国なのかもしれない。銃社会のアメリカでは100%安全な地域は存在しないのかもしれないが、安全とされる地域の物件はそれなりに値段が高く設定されていて、ある程度所得のある人しか落ち着いた地域には住めないようになっている。自然と似通った所得の人々が集まり、その学区の教育の水準が高まるとその地域の家賃がさらに高くなる。貧困層はその地域に住めないため質の高い教育には最初から手が届かないようになっている。このような図式を見るとやはりアメリカは資本主義国家のメッカなのだと思わずにはいられない。因みに家賃がどんどん高騰して住んでいた住民が家から追い出される現象がアメリカでは起きている。このようにして貧しい人々を追い出してそのコミュニティを浄化しようとすることを英語ではgentrificationという。 ※以前Carlos Lopez Estrada監督のBlindspotting(2018)という映画を視聴した際にこのgentrificationという現象がアメリカ各地で起きていることを知った。生々しくアメリカの人種差別やgentrificationによる悲惨な現実が描かれている。かなり激しい銃撃や暴力シーンがあるので視聴する際はご注意いただきたい。安全な地域に住もうとすると毎月高額の家賃を固定費として支出しなければならないし、支出を抑えようとすると今度は住む地域の治安が気になり始める。英語ではこのような状況をcatch 22と言ったりするが、まさに板挟みの状況である。また、住む地域によって人種のバランス(demographic balance)が異なるのがさらに厄介だ。黒人、白人、アジア人、ヒスパニックのコミュニティが存在して何も知らずに家を選ぶと自分たちだけその地域で浮いてしまうなんてことも考えられる。アメリカではこんな光景を目の当たりにすることもある。窓は木材の板で塞がれ、目の前にはゴミの山ができている。家のメンテもされていないため外観もボロボロである。(上部に焦げたあとがあるので火事が以前起きたのかもしれない。)日本は利便性と築年数で家賃が決まることが多いような気がする。アメリカの家探しは検討事項が多すぎて色々考えているだけで頭がパンクしそうになった。手数料が発生してしまうが、アメリカで住む際はその地域に精通した仲介業者を介して契約すると良いだろう。冬休み期間になるべく足を運んで、自分の目で物件だけでなく地域の様子も見ながら家探しをしたい。それでは皆さん今日も良い1日を。きたろう
2024.01.10
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オレゴンを旅している間、友人の自宅に何日かお世話になった。友人宅でいくつか日米の文化の違いを感じる瞬間があったので紹介したい。1.日本のお土産文化友人宅に泊めていただくことになったので東海岸のお土産をいくつか準備した。友人宅に着いてお土産を渡すと大変驚かれた。友人に「日本では他人のお宅にお邪魔する際はお土産を準備するのがマナーなんだ」と説明すると、友人は首を傾げた。友人曰く、アメリカでプレゼントを渡す際は双方向でなければならないという。片方だけがプレゼントを受け取ると受け取った側は不意打ちをされた形になってしまうらしい。なぜ日本ではわざわざプレゼントを用意するのか英語で説明を試みたところ、相手から「You are the gift!(お前がわざわざ来てくれたことが一番のプレゼントだ!)」と反論されてしまった。その言葉がグサッと胸に刺さったし、そう言ってもらえたことがすごく嬉しかった。日本のわびとさびの文化も非常に美しいが、物ではなく言葉で気持ちを表現する大切さをこの旅で教えてもらった気がする。2.アメリカでのテーブルマナー食事をしながら話題は食事中のテーブルマナーに及んだ。日本では食事前の「いただきます」、食事後の「ごちそうさま」を言うことが重要とされるが、アメリカではアメリカのテーブルマナーが存在するらしい。友人は子どもができたら以下の三つは必ず守らせたいと話していた。調味料を取る際、隣の人のお皿を跨いで手を伸ばさない。無言で席を立つ。肘をつきながら食べる。3については日本でも一緒のような気がするが、1と2についてはアメリカ独自のマナーのような気がした。アメリカでは食事中に立ち歩くことも行儀が悪いとされるため、調味料が欲しい場合はタイミングを見計らって“Could you pass me the salt, please?”と他人に取ってもらうようにするといいだろう。また、無言で席を立つと「料理が美味しくなかった」、「会話の内容が不適切で不愉快な思いをした」というメッセージを同席者に発してしまうらしい。必ず料理を出してくれた人への感謝の気持ちと”May I be excused?(席を立ってもよろしいですか)”と席を外すことを相手に知らせることが非常に重要らしい。家族での団欒を大事にするアメリカの家庭ならではルールだと思った。それは核家族化と共働きが急速に進む日本では薄れてきてしまっている光景なのかもしれない。物質的に豊かになっても家族での食事の時間は大事にしていきたいと話を聞きながら思った。「日本では音を立てながら食べることが許されるユニークな国だよね?」と質問があったので「麺類(ヌードル)を食べる時は音を立ててもいいけど、それ以外の食べ物に関しては基本的に音を立てるのは失礼になるよ」と回答した。友人はどうやら断片的な情報で拡大解釈してしまっていたらしい。味噌汁になぜかレンゲがあったりと日本人には理解できないことがアメリカでは起きていたりする。我々の理解する日本文化とアメリカの人々が理解する日本文化にはギャップがある。急速にグローバル化していく世の中でも文化の違いを感じる場面は多々存在する。そのギャップ一つ一つに遭遇するたびに留学は面白いと感じている自分がいる。レンゲ入りの味噌汁:きたろう
2024.01.02
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アメリカロードトリップ(その1)では旅の概要、アメリカロードトリップ(その2)ではロードトリップの注意事項について述べた。今回は美しいオレゴンの景観を紹介したい。Oregon Caves:残念ながら12月下旬はVisitor Centerが閉鎖されており鍾乳洞の中に入ることはできなかった。洞窟内には何万年もかけて自然が作り上げた大理石の彫刻が広がっている。次回オレゴンを訪れる機会があれば是非鍾乳洞ツアーに参加してみたい。今回はオレゴントレイルを少しだけ散策してきた。こちらも手付かずの自然が残されており歩き回るだけで日々の疲れが吹き飛びそうだ。奥の方は急勾配の山道となっているためしっかりした登山の装備が必要そうである。また、ここにきたらOregon Chateauも一緒に訪れたい。1934年に建てられ当時の面影を残している。国指定の建造物の一つだ。こんな立派な建物が山のど真ん中にあるから驚きだ。Oregon Caves Chatequ:Oregon trail:現地情報誌ライトハウス・シアトル:自然世界「南オレゴン」の蠱惑(こわく)(4)オレゴン・ケイブ Oregon Cavesについて知りたい方はReiichiro Kosugi氏のブログが大変有益である。日本語で書かれた記事では最もOregon Cavesについて書かれているサイトだ。Oregon Cavesの成り立ちやChateauについても詳しく書かれており訪れる前にこの記事を読んでおくべきであった。National Park Service:Oregon Caves National Monument & Preserve こちらのサイトでOregon Cavesの紹介がされている。ツアー参加を計画している方はこのサイトにある動画を視聴することをお勧めしたい。ビデオでも紹介されているが、簡単に注意事項を抜粋しておく。・40s°Fに適した防寒着・滑りにくく、トレイルに適したシューズ・天井が低く、曲がりくねった通路・500段以上の階段・低く突き出た岩の天井・子供は42インチ以上必要(ツアー中の子供預かりサービスはない)・バッグパックの持ち込み禁止(近くに荷物を入れるロッカーがある)予約サイト:Recreation.gov 見学ツアーに予約しないと鍾乳洞の中には入ることができない。こちらのサイトで事前予約が可能となっている。オレゴンの中核都市の一つであるユージーンから大体車で4時間か5時間ほどかかる。また、Oregon Cavesまでは予想以上に山道の連続で道幅も狭いため、十分注意して運転をしていただきたい。Oregon Coast:Eugeneから126号線を走り続けFlorenceに出た。そこでトイレ休憩をしたのちLincoln Cityまでひたすら海沿いの101号線をドライブし続けた。左には雄大な太平洋が広がり、右側にはオレゴンらしい生い茂った森が続く。波の音を聞きながら素敵な景色の中運転していると自分の日々の悩みがちっぽけな物にみえた。美しいものがあれば車を止めて海を眺め、景色を楽しんだら車に戻る。そしてまた綺麗な景色があれば車を止めて景色を楽しむ。この101号線は全てが自然が作り出した映画のセットのようであった。オレゴンのロードトリップに行かれる機会があればHeceta BeachやCannon Beachの二つは大変美しくお勧めだ。何時間眺めていても飽きない光景が広がっている。心が疲れた時、少し一人になって落ち着きたい時ににふらっと立ち寄りたくなる場所であることは間違いない。両サイドには広大な田園風景が延々と続いていて移動中も常に楽しめるのがオレゴンのロードトリップだ。今回オレゴンを旅して海、山、そして平地と全ての景色が楽しむことができた。次回来ることがあればMount HoodやCrater Lake、Painted Hillsあたりの東側のオレゴンも是非回ってみたい。豊かな自然、アットホームで温かいオレゴンの人々を名残惜しみつつ帰路に着いた。追伸、この投稿が今年度最後の投稿になります。8月中旬にこのブログを開設してから130日が経過しました。その間9400人近くの方がこのブログを訪問してくださりました。(2023年12月31日現在)皆様の足跡やコメントがこのブログを続ける原動力となっています。いつまで続くかわかりませんが、来年度も不定期に今のアメリカの様子をお届けできたらと思います。コロナと長引く円安で海外はいつの間にか遠い存在となってしまいました。ネットを介して海の向こう側に広がる世界と日本を近づけることができたら嬉しいです。いつも私の稚拙な文章をお読みいただきありがとうございました。2024年もよろしくお願いします。きたろう
2023.12.31
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前回のアメリカロードトリップ(その1)に続いてアメリカのロードトリップについて書きたい。スマホのアプリがカーナビの代わりになると前回の記事でお伝えした。今回は運転ルートを計画する際に注意した方がいいことをお示ししたい。ガソリンはこまめに入れる。無理な長距離移動は避ける。なるべく移動は日中に済ませる。現地の交通ルールを勉強しておく1:ガソリンをこまめに入れるガソリンはこまめに給油しておくことを強くお勧めしたい。人里離れた場所や山道はガソリンスタンドが一切ない。しかも次の町まで60マイル(約100キロ)なんてことは国土が広大なアメリカではよくある話だ。山道の途中でガス欠になって身動きが取れなくなってしまったら最悪である。助けを求めても人里離れていたらレッカー車が車で数時間はかかってしまうだろう。ガソリンメーターの半分を過ぎたら給油する習慣をつけておきたい。私は毎朝ハイウェイに乗る前に給油することを心がけた。それでも一日中運転すると一気にメーターの半分くらいまでガソリンを消費してしまう。次の目的地まで車で5時間〜6時間はアメリカではごく普通のことである。日本では考えられないが、このロードトリップ期間ほぼ毎日のように給油をしていた。ToyotaのCamryで決して燃費の悪い車ではないのにメーターがどんどん減っていくのはとんでもない走行距離が原因である。2:無理な長距離移動は避ける一日中休憩を含めずアクセルを踏み続ければ500マイル(約800キロ)くらいは運転ができるかもしれないが、かなり過酷なロングドライブであることは間違いない。今回のロードトリップでの1日の最長運転距離は270マイル(約434キロ)だったが、朝から夕方までほぼ運転をしていた。私のようなアメリカの道に慣れていない人であれば一日大体300マイルくらいが限界のような気がしている。この距離はハイウェイの有無、車線の数、交通状態によって大きく変動のであくまで参考の距離としていただきたい。3:なるべく移動は日中に済ませる運転は日中に済ませておくことを強くお勧めしたい。夜は視界が悪くなり事故の確率が高まる。また、山道は日没時間が早く暗くなるのが早い。山間部を通過予定の場合は明るいうちにうねり道を通過しておきたいところだ。日中の混雑を避けてあえて夜間に移動をするアメリカ人もいるが、それができるのは現地の運転に相当慣れているドライバーだからできることだと思う。4:現地の交通ルールを勉強しておく右側運転、左ハンドルということを除けばほぼ日本の交通ルールと違いはないのだが、アメリカにしか存在しないローカルルールが沢山存在する。例えば赤信号でも左側から車がきていなかったら右折できてしまう交差点が中にはあったりするのだ。また、スクールバスが止まっている時は追い越してはならず、バスが発車するまでずっと後ろで待っていなければならないルールも存在する。日本の交通ルールが世界のスタンダードだと思って運転すると痛い目に遭うだろう。事故が起きしまったら海外からやってきた外国人は非常に不利になることは明らかである。自分の身は自分で守らなければならないというのが海外生活の鉄則である。トラブルに巻き込まれないためにも事前に現地の交通ルールを勉強しておきたい。私の場合、アメリカの免許を取得した際に基本的な交通ルールを徹底的に頭に叩き込んだ。その知識が今回大変役に立ったと感じている。詳しくはアメリカの自動車免許を取得した際のブログ記事前編と後編を参照されたい。以上、アメリカでロードトリップを検討されている方の参考になれば幸いである。次回からはロードトリップで回った景色を載せながらオレゴンの魅力に迫りたいと考えている。日本での知名度はかなり低いがその魅力は無限大でその美しさは日本の尾瀬や白神山地に匹敵するのではないかと思っている。きたろう
2023.12.30
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以前の記事でお伝えしたとおり12月末に一週間ほどアメリカ西部オレゴン州へ旅に出ていた。ポートランド空港でレンタカーを入手し、人生で初めてアメリカでのロードトリップが始まった。アメリカは右側運転、左側ハンドルである。慣れるまでは左側の車線に入ろうとしてしまったり、ウインカーのシグナルを出すはずがワイパーになってしまったりと戸惑いの連続であった。空港で受け取ったレンタカー:Toyota Camry白のスポーツカータイプでなかなかいい感じだ。車内モニターはBluetooth連携も可能で、Google Mapsの地図をモニターに表示することができた。音楽アプリを開けば車内のスピーカーから音楽を楽しむことができて非常に助かった。ただし電波が飛んでいない山道や人里離れた地域に行くとデータの読み込みができなくなり、音楽が止まるだけでなく地図の読み込みもできなくなる。山道は基本一本道なのであまり迷うことはないと思うが、一つ曲がる箇所を間違えるだけで致命的なミスに繋がることも考えられる。長距離運転をする際は必ずルートの事前確認が必須だ。レンタカー会社でカーナビを借りることも可能だが、GPSの精度が非常に悪く正直使い物にならない。以前某レンタカー会社のナビを使用して到着地に全く到着できず酷い経験をした。それに比べてGoogle Mapsやアップルの内蔵アプリMapsの精度は素晴らしい上にどちらも無料のアプリだ。アメリカでロードトリップを検討している方がいたら是非Google MapsかMapsを強くお勧めしたい。スマホホルダーを事前に購入しておくと運転しながらルートを確認することができて非常に便利だ。スマホホルダーはアマゾンで大体10ドル〜20ドルくらいで購入できる。ルート:PortlandーBeavertonーEugeneーOregon CavesーAshlandーEugeneーFlorenceーLincoln CityーPortland詳細は以下のマップをご覧いただきたい。引用:Google Mapより借用ポートランドの上はワシントン州、アッシュランドの下はカリフォルニア州である。まさにオレゴン州を上下に横断した形になる。約810マイル以上(1310キロ)の長距離運転の旅を通じて新たな発見と出会いが沢山あった。人生初となるアメリカのロードトリップを通じて得たものをこのブログに書き記したい。今後アメリカのロードトリップを検討されている方の参考になれば幸いである。きたろう
2023.12.29
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30年近く日本に住んだ上でアメリカのクリスマスを経験するとその違いに驚かされる。大きな違い1:ほとんどのお店は営業していないそもそもクリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日であって、クリスマス前後で盛り上がるショッピングセールとは全く関係がない。家族や友人同士が集まって家の中で暖をとりながら楽しく会食するのが一般的なアメリカでのクリスマスだ。日本ではお正月に親戚が集まって挨拶をするが、アメリカのクリスマスはそれに近いかもしれない。クリスマスシーズンに実家でゆっくりして年始は1月3日や4日あたりから仕事がスタートする。正月の三が日の感覚がアメリカには存在しないらしい。クリスマス前後は従業員が帰省してしまうため多くのお店(商業施設、飲食店)は営業していないのだ。クリスマスの日に街を歩いてみたが、営業しているのはクリスマスを祝わない中華料理店くらいで95%くらいのお店は閉まっていた。クリスマス前は街全体がクリスマスムードで活気づくがクリスマス当日はどこか寂しく閑散としている。クリスマス当日にクリスマスセールのために外を出歩く日本人とは大きな認識のギャップが存在する。大きな違い2:クリスマスは家族のイベントクリスマスというと恋人がプレゼントを交換する日というイメージが日本では強いがこれも行き過ぎた日本の商業主義によって作られたストーリーである。繰り返しになるが、アメリカのクリスマスは家族や友人同士が集まって家で楽しく会食するイベントである。イルミネーションに恋人たちが無数に集まる光景をアメリカが見るときっと違和感を覚えるだろう。アメリカでも各家庭が庭を電飾したりするが、大規模なイルミネーションは行われない。そしてイルミネーションスポットに入るために入場料を支払うというシステムも商業主義に駆り立てられた企業が作り上げた寓話に過ぎないのだ。アメリカの家庭が庭を電球で装飾するのは地域住民やその家に住んでいる子供たちを喜ばせるために行うものであり、そこに日本のクリスマスが求めるロマンチックな要素はあまり感じられない。もしクリスマスまでに恋人ができなくてがっかりしている若者がいたら是非安心してもらいたい。それは日本が独自に作り出したクリスマス文化で、本来のクリスマスの目的とは似ても似つかないからだ。クリスマス装飾をするのは構わないが、クリスマスの誤った価値観を押し付けようとすることには断固反対である。本来皆が愛を確認する日であるはずなのに、日本ではクリスマスと資本主義相まって持っている者とそうでない者の間で分断が生じてしまっていると思うのは私だけだろうか。近所の家:大きな違い3:クリスマスマーケットクリスマスシーズンになると公園や広場などでクリスマスマーケットが開催される。出店などが並び人々はクリスマスのオーナメントやキャンドルを購入する。また飲食店も並びローカルフードに舌鼓を打つ。ペンシルバニアのクリスマスマーケットでは即席のスケートリンクやメリーゴーランドも設置され子供達も喜ぶ場となっていた。クリスマスマーケットには老若男女が集まり、常に活気に満ちている。日本のクリスマスは一定の顧客をターゲットにしていてどこか排他的な印象を受けてしまう。もっとオープンで老若男女が楽しめるアメリカのクリスマスマーケットのような場が日本でも増えていってほしい。クリスマスマーケット:子供が楽しめるメリーゴーランド(1回5ドル):今日も良い1日を。きたろう
2023.12.28
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ブログの更新が滞っていたが、秋学期が終わったので西海岸に一週間ほど旅に出ていた。物価の高騰でどんなに安いホテルでも80ドル以上してしまう。奨学金に頼りながら生活する私にとっては痛い出費だ。しかし、折角異国の地にいるのに誰とも話さずずっと自分の部屋に引き篭もっていても面白くない。幸い西海岸に数名友人が住んでおり、友人の自宅を転々としながらロードトリップをすることにした。一週間の放浪記を順次本ブログに書き記していきたい。アメリカ人の友人宅にお世話になっている期間にアメリカ南部の伝統的な料理を教えてもらった。レシピを忘れる前にここに書き残しておきたいと思う。用意するもの:玉ねぎ大きいのを1玉〜2玉、ホワイトマッシュルーム、オイスターマッシュルーム(ない場合は別のエリンギ等でも代用可能と思われる)、牛の挽肉、ニンニク3つ〜4つ、卵3つくらい、バター、パン粉、黒胡椒、カイエンペッパー、グレイビーソースの素2〜3袋、まずは玉ねぎ、ホワイトマッシュルーム、オイスターマッシュルームを適当な大きさに切る。ニンニクは細かくみじん切りにする。牛の挽肉をボールに入れて卵とパン粉を入れて素手で揉み込むように混ぜる。混ぜながらニンニクを4分の3ほど足す。塩、黒胡椒を少々振りかける。均一に混ざったらハンバーグパティのように手のひらサイズに丸める。少しそこが深めのフライパンバターを入れて、十分にフライパンが温まったらパティを焼き始める。小さいコンロでグレイビーソースを作り始める。焦げないようにかき混ぜながら黒胡椒、カイエンペッパーを追加する。とろみがで始めるまで弱火で炒める。肉が両面ある程度焼き上がったら予め切っておいた具材(玉ねぎ、キノコ類)、残りのニンニクをフライパンに投入する。とろみがついたグレイビーソースをフライパンに追加する。中火で野菜とお肉を一緒に煮込む。再度カイエンペッパーを加える。(下の写真のような状態)しっかり中まで火が通ったら、お米もしくはハッシュドポテトの上に完成したハンバーグとグレイビーソースが絡んだ野菜を乗せる。煮込んでいる写真:野菜を早く投下しすぎると肉が生の状態になってしまうし、野菜の投下が遅れるとお肉が焦げて固くなってしまう。肉の焼き加減と野菜の追加のタイミングがカギを握っているようだ。本来はハッシュドポテトの上にハンバーグを載せるらしいのだが、ジャガイモがなかったため今回はご飯の上に乗せて食べることとなった。ご飯との相性がバッチリでまるでハワイのロコモコを食べているようであった。いつか家族にもアメリカの南部料理を振る舞ってみたい。料理の完成!きたろう
2023.12.26
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このブログでは以前連邦議会議事堂(The US capitol)を前編と後編に分けて紹介した。かなり時間が経過してしまったが、記憶を呼び起こしながらスミソニアン最新の博物館について書きたい。「国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館」(National Museum of African American History and Culture)は2016年9月にオープンした。開館のオープンニングセレモニーには当時大統領だったオバマ大統領も駆けつけ祝辞を述べた。奴隷がアメリカ大陸に連れてこられた経緯から奴隷解放運動、公民権運動、そしてヒップホップカルチャーと非常に充実した展示になっている。他のスミソニアン博物館に比べると小さく見えるが、地下3階、地上4階の巨大な空間が広がっている。ゆっくり展示を楽しみたい人は少なくとも3時間〜4時間くらい確保しておくことをお勧めする。他のスミソニアン博物館同様無料だが、大変人気のある博物館であるためオンライン上で事前の予約が必要となる。入り口でQRコードを係員に見せる必要があるため注意されたい。地下は主に黒人の1400年〜現代までの歴史の展示、地上の建物は黒人の文化を発信するコミュニティスペースとなっている。地下の展示:30名以上は収容できそうな巨大エレベーターに乗リこむと、ドアが閉まりゆっくりと下降する。壁には年号が刻まれており、下に降りていくにつれてその年号が遡っていく。まるでエレベーターがタイムマシーンで下に行くに連れて過去にタイムスリップしている感覚に陥る。エレベーターは1400年の年号になってところで止まった。まさに1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見し、入植者たちが未知の地で開拓を始めた時期である。白人は自由とチャンスを求める冒険者として、黒人は未開の地を整地する労働者としてアメリカの地にやってくる。地下3階は大航海時代のアメリカの展示が広がっていた。地下3階から地上に向かうに連れて現在に近づいていく展示の仕方になっている。テーマパークさながらの演出に驚いてしまった。生々しい展示に目を覆いたくなるような箇所もあるが、それが黒人が歩んできた歴史であり苦悩でもある。アフリカ系アメリカ人が自由を獲得するために歩み続けてきたレガシーがそこにはある。黒人の子供用の手錠(shackles)や奴隷保有者が奴隷を罰するために使っていたムチ(whips)、奴隷がモノとして扱われ売られた際に発行される売買契約書、厳しい環境に耐えられず逃げ出した奴隷を報じる新聞記事や見つけた者への懸賞金の案内など貴重な展示品の数々がある。人種隔離政策(segregation)の展示からも肌の色の違いによって生じた大きな格差社会を垣間見ることができた。地上に近づくにつれて、Martin Luther King. Jrや慈善家として活動するOprah Winfrey、アフリカ系アメリカ人初の大統領となったBarack Obama氏が登場する。地上に出ると前面ガラス張りの建物に自然光が差し込んできた。地下の薄暗い展示室から出てきた私にはその光が黒人がこれからの未来に抱く「希望の光」(a glimmer of hope)のようにも見えた。地上の展示:地上は主にアメリカで活躍したアフリカ系アメリカ人のスペースとなる。見どころはオリンピックや国内スポーツ(NFLやMLB)で大活躍した黒人選手の展示ある。きっとテレビで見聞きした選手の展示を見つけることができるだろう。選手が使用したスポーツ用品も展示されており、アメリカのスポーツファンにとってはたまらないスペースになっている。また、二階と三階は常に有名な黒人アーティストによる音楽が流れていて、視覚だけでなく聴覚からもアフリカ系アメリカ人の文化を学べるようになっている。有名黒人アーティストのレコードや音楽楽器の展示もあったので音楽が好きな方にお勧めしたい。地下の展示は薄暗く重厚感があったが、地上の展示は音楽やスポットライトのような照明が設置されており地下とは違うポップな印象を受けた。ワシントンDCに行かれる予定があれば是非訪問をお勧めしたい。オープニングセレモニーの一部はこちらから視聴可能である。きたろう
2023.12.18
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以前アメリカの大学キャンパス内でイスラエル-ハマス間の戦争に対する抗議デモが行われているとお伝えした。過去の記事はこちらを参照していただきたい。その抗議デモがきっかけとなって大学の学長が辞任に追い込まれるというショッキングなニュースが入ってきた。この事件を調べていくと、言論の自由(freedom of expression)はどこまで許され、学内の行動規範(code of conduct)の違反はどこから適用されるのかという非常に難しい問題に直面することが明らかになった。今回は学長が辞任に追い込まれたペンシルバニア大学に焦点を絞ってお話しすることとする。なるべく偏りがないように中立的な視点で出来事を時系列にまとめたい。9月25日:Palestine Writes Literature Festivalというイベントが催される。パレスチナ芸術、文化、ダンスなどが学内で発表されたという。ただし、この発表の中にはパレスチナ人をイスラエルから解放するよう求めたり、ヨーロッパの侵略及び植民地化を批判するような表現があったようである。その後数週間から数ヶ月にわたって、学内では不穏な空気が流れ始めたという。10月16日:100名以上のペンシルバニア大学コミュニティーの人々がメイン図書館の前に集まった。このイベントはパレスチナの一致団結を呼びかけるために結成された。また、学長であるLiz Magill氏の学内での対応の遅さへの抗議デモであった。その後、大小様々な規模の集会デモが学内で行われることになる。この辺りからパレスチナの旗が学内で散見されるようになる。10月20日:ペンシルバニア大学内のユダヤコミュニティーを中心に400名以上がイスラエルを支援するために学内をイスラエルの国旗やポスターを掲げながら練り歩いた。デモンストレーションを通じてユダヤコミュニティーに対する差別的な発言やハマスを擁護するような言動を学内から排除するようペンシルバニア大学に求めた。二回目の大規模デモは11月3日に行われる。11月14日:数十名のペンシルバニア大学関係者が学内の建物の1階一部を占拠し始める。この建物占拠はペンシルバニア大学のイスラエルーハマス戦争への対応を強く抗議するために行われた。この占拠は学内関係者が立ち上げたFreedom School for Palestineという組織によって行われガザ地区での戦闘行為の中断と戦争の休止(ceasefire)を強く求めた。建物に立て篭もった関係者には警察とペンシルバニア大学警備によるIDチェックが行われた。12月5日:ペンシルバニア大学学長であるLiz Magillが米国国会教育委員会(The United States House Committee on Education)で証言を求められる。聴取に招集されたのはLiz Magill氏に加え、ハーバード大学学長のClaudine Gay氏、マサチューセッツ工科大学(MIT)のSally Kornbluth氏、ユダヤに関する研究をしているPamela Nadell氏の4名だった。この聴取はインターネットで公開され、Liz Magill氏の一部の発言に対して批判が集まり始める。この聴取の翌日にペンシルバニア大学の公式インスタグラムでMagill氏は発言の修正と謝罪を迫られる。12月9日:Liz Magill氏がペンシルバニア大学に辞任届を提出する。11月下旬から12月中旬は学業が忙しく全くニュースを追えなかったのだが、12月5日のpublic hearingから一気に学内がバタバタした印象を受ける。因みに聴取で似たような発言を繰り返していたハーバード大学のClaudine Gay氏にも辞任を求める声が集まったが、大学当局はGay氏の続投を発表している。同じような批判が集まっても大学間で対応が異なるのは大変興味深い。東海岸の大学構内で行われているデモを通じてパレスチナーイスラエルの問題にも興味を持つようになった。双方にそれぞれ譲れない主張があり、事態の収束をしようと大学が取り締まりを強化するとそれがさらに火に油を注ぐ形となってしまった。国際問題は様々な利害関係が幾重にも絡み合っており一筋縄にはいかないことを目の当たりにした。ご興味のある方はアイビーリーグの学長が米国議員とどんなやりとりをしたのかユーチューブビデオもご覧いたければ幸いである。議会での聴取はこちら(全編)。参考資料:The Daily Pennsylvanian, December 7th issueThe Daily Pennsylvanian, December 11th issueきたろう
2023.12.17
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先日は友人に誘われてアメリカの映画館で映画を鑑賞した。アメリカの映画館が10数年前と比べて変貌を遂げていたのでそのことについて今日は書きたい。(ワシントンの旅行記を楽しみにされていた方がいたらすみません。時間ができた時に続きを書きたいと思います。)今回お世話になった劇場は私の住んでいる地域では最大手のAMCである。土地が広大にあるアメリカならではスタイルである。複合施設ではなく、映画専用の建物で入り口から両サイドにシアターが広がっている構造だ。まず、驚いたのはシートの広さである。横幅は日本の映画館シートの1.5倍はあるだろうか。飲み物を置き場も二つ用意されている。特筆すべき点は全席完全リクライニングシートになっていることだ。足を完全に伸ばした状態で映画を楽しむことができるのだ。これは非常に贅沢な映画の視聴方法だと思った。10数年前にはこれほど豪華なシートはなかった。言葉では説明しづらいので以下の写真をご覧いただきたい。映画はレイトショーで22時30分からスタートした。フルリクライニングではあまりにも心地よくて途中で眠りに落ちてしまいそうだったので水平にならない程度に傾けることにした。昔は10ドル前後で映画を観ることができた記憶があるが、コロナで客足が遠のいてしまったのかチケットの値段は日本の水準に近付いてしまっていた。一人当たり$14〜15あたりが相場だ。ポップコーンや飲み物をオーダーするなら$20〜25程度用意しておいた方がいいだろう。それにしても先週の金曜日は濃い1日であった。夕食を友人8人で食べた後22時30分過ぎから映画をみた。映画試聴後は友人の家に戻って朝の3時か4時辺りまでテレビを見ながら談笑した。30歳半ばの私にとっては12時過ぎ辺りから10歳以上年下の若者のエネルギーに圧倒されてしまいバッテリー切れ状態になってしまった。1年前まで朝7時30分から夜遅くまでせっせと働き会社員をしていた自分がアメリカの地で学生生活を送っている。友人宅でお酒を片手に友人とゴジラの感想を英語で述べている。体力的に毎週は出来そうにないが、学期に1度か2度はこんな日があると非常にいい気分転換になる。映画に誘ってくれた友人に感謝したい。次回はゴジラマイナスワンについて簡単なレビューを書きたい。(ネタバレ注意)きたろう
2023.12.06
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前回の記事に続いてThe US Capitolツアーの概要のこのブログに書き残しておく。今後ワシントンDCを訪問する方の参考になれば幸いである。ツアーは10分程度の連邦議会議事堂の建設歴史や連邦議会の役割を説明するビデオから始まった。ビデオの中で何度も強調されていたフレーズが”e pluribus unum”というラテン語だ。アメリカ合衆国のモットーとされていて英語に訳すと”Out of many, one.”、日本語に訳すと「多くの中から一つに」(筆者訳)となる。各州の多様性を重んじつつも一つの国としての結束を大事にするアメリカらしい標語である。アメリカ紙幣にもフレーズが刻まれているので、日本円から米ドルに換金する機会があればぜひ”e pluribus unum”を探して欲しい。南北戦争(The civil war)で兵士が血を流している間も建設が行われていたというから驚きだ。まだまだ国が形作られていない状況下で国の未来のために人々は連邦議会議事堂を建設していたことになる。また、ガイドによると多くの黒人奴隷もこの議事堂建設に関わったらしい。裏返すとピラミッドの建設同様、奴隷制度がなければこんなにも巨大で荘厳な建築物は不可能だったのかもしれない。巨大な歴史的建築物に圧倒される一方で権力を具現化するために奴隷が払った犠牲を我々は忘れてはならない。実際にビジーセンターの中央空間は「奴隷解放ホール(Emancipation Hall)」と呼ばれている。議事堂建設に多くの奴隷労働者が関わったためその功績を称えるために名付けられたという。The US capitalツアーの最大の見どころはロタンダ(the Rotunda)と呼ばれる連邦議会議事堂中心部にあるドームである。この作品はConstantino Brumidiによって1865年に描かれたという。作品の名前は「ワシントンの神化(The Apotheosis of Washington)」。ガイドによるとこのロタンダに描かれたフレスコ画(Fresco)には無数の象徴(symbolims)があるという。中央にいるのが建国の祖で初代アメリカ大統領を務めたジョージ・ワシントンである。フレスコ画が頭上に描かれているため、まさに雲の上にいる神格化したワシントンを見上げているようである。左手を挙げ、右手は本を指している。まさに大統領演説前の宣誓(inaugural oath)のようである。ワシントンを囲んでいるのが13人の人々である。この13という数字にも意味があって一人一人が当時の東部13州を表している。アメリカは入植当時東側の13州で始まりその後西部に開拓し拡大していった歴史を持つ。アメリカの地図を見てもらうと右側の州は西部の州に比べて小さく曲線が多いのがお分かりだろう。これは最初の13州の名残が残っているためである。西部は広大で区切りとなるような大きな山や川がないため、人工的に州の境目を作っていった。州の区切り方はアメリカの歴史が色濃く反映されている。そして、忘れてならないのが冒頭にも登場した”E PLURIBUS UNUM”という標語である。建国の時からこのフレーズが存在し、この国を形作ってきたことを示している。この絵からいかにキリスト教の教えがアメリカに浸透しているかお分かりだろう。アメリカの国家を聞いても”God”が登場するし、紙幣にも”In God We Trust”と刻まれている。移民の流入によって宗教の多様化が進んでいるアメリカだが、原点にはキリスト教があることがこの絵画から強く伝わってくる。フレスコ画の下にあるのがフリーズ(Frieze)と呼ばれる帯状の装飾がある。帯状になっていて写真に収めるのが難しかったのでここでは一部だけ紹介するが、アメリカの建国からの歴史が刻まれているという。写真右側に映っているのがアメリカ大陸を発見したコロンブスを乗せた船だそうだ。そして、左側に映っているのが初めて有人飛行に成功したライト兄弟と彼らが開発した飛行機だという。つまりフリーズにはサンタマリア号がアメリカに到着した1492年からライト兄弟が飛行機のプロトタイプを完成させたアメリカの数百年の歴史が描かれていることになる。アメリカの歴史に詳しい方なら1日中滞在したくなるような空間であることは間違いない。ロタンダの隣が彫刻ホール(Statue Hall)となっていて各州を代表する著名人の彫刻が並んでいる。彫刻の完成度とホールの美しさに言葉を失ってしまった。ホールの美しさには訳があって、このホールは下院の本会議場として以前使われていたらしい。国の政治がまさにこの場所で行われていたと思うと身震いがした。他にも沢山貴重な展示があったのだが、この辺りで筆を置きたいと思う。ワシントンDCは政治、司法、行政の中心であると同時に文化発信の拠点であることは間違いない。次回は国立アフリカ系アメリカ人博物館、リンカーンメモリアルについて書くつもりだ。きたろう
2023.12.04
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美しい白亜のドームを中心に南北に伸びる巨大な建造物がワシントンD.C.にある。各州から選ばれた議員(Congressmen)がこの建物の中で日々議論に議論を重ね国の重要課題に取り組んでいる。実はこのCapitolは建物中に入ることがあり、見学ツアーも実施されていることはあまり知られていない。私も見学ツアーがあると知らず、当日の朝にツアーの存在を知った者だ。予約していないと入れないかと思いきや、荷物検査をして建物内部に入ることができた。係員から”Do you have a reservation?”と聞かれた。追い出されるのを覚悟して”I’m afraid I don’t.”と答えると、”Okay, that’s fine. Just go down stairs and find a board that says ‘a tour without a ticket’. Then wait in line until you are called”と言われた。さすがスミソニアンミュージアムも無料で公開しているアメリカだけある。国の資産を一般市民に公開しようとする姿勢が素晴らしい。ワシントンD.C.に訪れたらスミソニアン博物館と併せてCapitolもおすすめしたい。ワシントンD.C.は計画された都市でこの議事堂を中心に都市が形成されている。つまり、この議事堂を中心に東西南北が決められ、住所や通りの番号もこの議事堂を基準に振られているのだ。政治のみならずアメリカの首都ワシントンD.Cの中心なのである。右側(北側)の建物が上院(Senate)で左側(南側)の建物が下院(House of Representatives)となっている。アメリカは2院制を採用しているため、同じ建物であっても上院と下院は完全に独立しているようだ。間近で見ると大変迫力がある。連邦議会といえば大統領の就任式が行われる場所としても有名だ。新しく任命された大統領が誓いの言葉を述べるシーンを見たことがある人もいるのではないだろうか。実はこの連邦議会は2021年1月6日、トランプ元大統領の熱狂的支持者によって襲撃されているのだ。トランプ元大統領が”The election was stolen!”と選挙の不正を主張し、X(元Twitter)で襲撃を呼びかけたとされている。バイデン現大統領就任直前で起きた事件でアメリカの政治分断の根強さをアメリカ全土ならず全世界に印象付ける結果となった。また、民主主義を牽引するアメリカで起きたショッキングなニュースは世界を駆け巡り、アメリカの民主主義の歴史に汚点を残してしまった。長くなってしまったので内部については後日綴ることとする。きたろう
2023.12.03
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Baltimoreの次に向かった目的地はアメリカの首都であるWashington D.C.である。こちらでは国会議事堂、国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館、リンカーンメモリアル、第二次世界大戦記念碑、ベトナム戦争戦没者慰霊碑、ホワイトハウスを見学した。全ては網羅できないと思うが、記憶が新しいうちにこちらのブログにも順次書き残したいと思う。フィラデルフィアに帰る当日はバスの発着所であるUnion Stationに16時50分までに着く必要があった。友人とジョージタウンエリアでブランチを楽しんだ後、15時50分頃余裕を持ってUnion Stationに向かうことにした。ホワイトハウスあたりまでは順調に駅に近づいていたのだが、ホワイトハウス周辺で事件があったのか警察車両が道を塞いでいて大渋滞が起きていた。また、サンクスギビング休暇最終日ということもあって道路全体が混み合っていた。時計に目をやるとすでに16時15分過ぎになっていた。流石に焦り出してバス運転手に今後の予定を聞いてみると”I want you to back away.(後ろに下がっていなさい)”としか言われない。Googleマップで調べてみると徒歩で27分と表示された。UberかLyftの選択肢も残されているがこの渋滞ではなかなか思うように進まないだろう。しかも、配車にどれほどの時間がかかるのかすらわからない。外は冷たい雨がしとしとと降り注いでいた。さてどうするか。決断の時は迫っていた。このままではバスに乗り遅れて最悪の場合フィラデルフィアに帰れなくなってしまう。ここでずっと考えていても打開策はないだろうと判断し”I don’t want to get stuck here forever.”と呟きながら外に飛び出した。走り始めた時にはすでに時刻は16時25分になっていた。雨が降りしきる中とにかく全力で走った。周囲はだんだん暗闇に包まれ街灯が点灯し始めた。予報は5℃前後となっていたが、雨と風の影響で体感はきっと2℃くらいだろう。ふとアカデミー賞を受賞したトム・ハンクス主演のForrest Gump (1994)という映画にも主人公がワシントンD.C.を全力疾走する場面があるのだが、走っている間ふとそのシーンが記憶の片隅から蘇ってきた。30代半ばになって雨が降り注ぐ中ワシントンの市街地を全力疾走しているアジア人がどこにいるだろうか。幼少期のForrest Gumpは足が悪く友人からいじめを受けるが、足がとてつもなく速く、その特技を活かしてアメリカンフットボールを始めて大活躍をする。走りながら自分とForrest Gumpをどこか重ねていた。この旅がどのような結末を迎えるのか自分でも全く想像がつかない。しかし、とにかくForrest Gumpのように足が動く限り走り続けよう。きっと自分を信じて走り続ければどこかに辿り着くはずだ。Forrest Gumpの中で有名な一節がある。“Life is like a box of chocolates, you never know what you’re going to get.”(人生はチョコレートボックスのようだ。何が得られるかわからない。)16時46分にバスに飛び乗った。激しい息切れにバスの中の乗客から好奇の目なざしでみられた。気温差でメガネは一気に曇り始め周囲がよく見えない。気温は5℃以下のはずなのに身体中が燃え上がるような熱を帯びていた。座席についてようやく私は胸を撫で下ろした。こうしてトラブルに見舞われつつも3日間における旅は幕を閉じたのだった。バスは漆黒の闇に包まれた中ハイウェイをただただ進み続ける。座席横の窓に映る自分の顔を見つめながら再度ゆっくりとForrest Gumpの一節を口ずさんでいた。“Life is like a box of chocolates, you never know what you’re going to get.”ユニオンステーション前の各州の旗。ジミーカーター元大統領夫人のロザリン・カーターが11月19日に逝去された。それを受けての半旗掲揚と思われる。それでは良い1日を。きたろう
2023.12.02
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BaltimoreのPoeの家から徒歩で約15分歩いたところにあるWestminster Burying GroundにPoeは今も安らかに眠っている。このモニュメントは1875年の11月に建てられたらしい。Baltimoreの市役所を設計したGeorge A. Frederickによってデザインされ、建設に10年の歳月がかかったという。Frederickはこのモニュメントに対して以下のコメントを残している。“My idea in designing this monument was to produce something simple, chaste, and dignified, to strike more by graceful outlines and proportions than by crowding with unmeaning ornament.”派手な飾り付けはせずにシンプルの中に美を追求したことがうかがえる。1847年に結核で息を引き取ったPoeの妻であるVirginiaと1871に亡くなった義母であるMariaも1885年にこの墓地に移され、1977年には二人の名前もモニュメント追加された。Westminster Churchの裏側にはPoeがはじめに埋葬されていた墓石がある。墓石の近くにはRavensの羽がそっと置かれていた。Poeは私の研究外なのだが、今回Poeにまつわる場所を巡り非常にPoeという人物に興味が湧いた。休暇中にPoeの作品を読んでみたいと思う。コナンドイル、江戸川乱歩、漫画「名探偵コナン」の生みの親である青山剛昌氏にも多大な影響を及ぼしたとされる推理小説の生みの親の苦悩多き人生から学べることはたくさんあるような気がする。エドガーアランポーの簡単な半生についてはこちら。きたろう
2023.12.01
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9月上旬の記事でPhiladelphia市内に唯一残るEdgar Allan Poeの自宅を紹介した。今回はBaltimoreにあるEdgar Allan Poeの自宅を紹介したい。前回紹介した家は1843年から1844年の間、Edgar Allan Poe、彼の妻であるVirginia、義母のMariaが住んでいた自宅であった。彼の代表作の一つである「黒猫」や暗号小説の草分けとされる「黄金虫」はPhiladelphiaの自宅で書かれたと言われている。今回紹介する家はそれよりも前にポーが数年住んでいたとされる家である。ここで祖母Elizabethが所有する家に転がり込み、従兄弟のVirginia(のちに結婚してポーの妻となる)とHenry、叔母のMariaと暮らしていた。Baltimoreの中心地から少し離れた場所にあり決して裕福なコミュニティとは言い難い。5人が住むには狭い家だ。当時のPoeが置かれていた厳しい経済状況がこの家から伝わってきた。建物入り口:バックヤード:この家でPoeは詩人からから小説作家に転身することになる。この家で”Berenice”をはじめとした作品が誕生した。また、1835年9月21日にVirginiaとの結婚式がBaltimoreの地で執り行われた。その約14年後の1849年10月7日にPoeはこのBaltimoreの地で謎の死を遂げる。まだ40歳での早すぎる死であった。残念ながら私が訪れた日は博物館の休館日で中に入ることは許されなかった。しかし、Philadelphiaの自宅とBaltimoreの自宅を巡ることでEdgar Allan Poeの素顔に迫ることができたような気がする。アメリカのみならず世界を代表するミステリー作家は没後約170年が経っても私を魅了し続けている。次回はEdgar Allan Poeが眠る墓地を紹介する予定だ。きたろう
2023.11.30
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ベーブルース博物館の展示物が非常に興味深く今回で2本目の記事となる。1本目はベーブルースの野球の成績について紹介した。今回はベーブルースと日本野球の関わりに焦点を絞ってみたい。ベーブルースの名が日本でも知られているのには訳がある。1934年10月28日にベーブルースを含めたアメリカのオールスターが日本で親善試合をするために来日していたのだ。東京での歓迎は凄まじく、パレードでは米国野球界のスーパースターを見るべく人が殺到した。その後阪神甲子園球場で行われた試合には80,000ものファンがチケットボックスに並んだらしい。博物館にはベーブルースが日本から持ち帰ったとされる品が多く展示されていた。まさかアメリカの野球選手の博物館にやってきて日本の国名を目にするとは思わなかった。宿泊先であったであろう帝国ホテルがプレゼントした旅館浴衣が展示されていた。ルースの娘のJulieによるとルースは米国に帰った後も日本の浴衣を寝巻きに使用していたらしい。確かに実際に展示品を見ると首回りが擦れてほつれており、使い古されている印象を受けた。またその近くには阪神甲子園球場と阪神タイガースが博物館に寄贈したレリーフが置かれていた。さすが2023年に日本シリーズで優勝するチームだけあって行き届いた配慮に驚いた。書かれていた英文と日本語訳をご紹介する。英文:“Babe Ruth was part of a team of American All-Stars who toured Japan in 1934 and played at Hanshin Koshien Stadium. That visit and Ruth’s tremendous appeal to the Japanese people, led to the birth of the baseball culture there. This is a replica of a sculpture from Hanshin Koshien Stadium, a baseball icon in Japan. Sculptor Yutaka Matsuoka was commissioned to create the piece to commemorate Ruth’s visit and friendship. This plaque is presented by Hanshin Koshien Stadium and the Hanshin Tigers baseball team to celebrate the opening of Sports Legends at Camden Yards, and to recall the US-Japan baseball cultural exchange and friendship between the two countries started by the Babe, with hopes of building a stronger relationship through baseball.”日本語:「ベーブ・ルースは、1934年全米オールスターチームのメンバーとして訪日し、阪神甲子園球場で素晴らしいプレーを披露した。ルースの訪日は、日本中に野球本来の愉しさを伝え、今日の日本の野球文化の礎を築いた。このレリーフは、日本を代表する野球場、阪神甲子園球場がその親善の偉業を称え、彫刻家松岡氏に依頼し、制作したものを復刻したものである。この度総合スポーツの記念館が新設されるにあたり、日米野球文化の友好の歴史を偲び、これからも野球を通じた友好関係が広がることを願って、阪神甲子園球場と阪神タイガースが共同で、ここに贈呈する。」さすが日本の野球の聖地である甲子園ならではの粋な計らいだ。しかもこの博物館の素晴らしいところはベーブルースの展示にとどまらないことである。なんと日本のホームラン王である王貞治のバットまで置かれていた。王貞治の言葉がまた素晴らしいのでご紹介させていただく。(王貞治が活躍していた頃はまだ私は生まれていないので、英文から王貞治の発言を再現してみたい)英文:“714 was just a number for Babe. Even though his record was later surpassed by others, it doesn’t mean they are better than him. He was more than a home run hitter…he was a superstar who still lives at the summit of baseball history. No one can deny this history.”日本語訳:(筆者訳)「714本はベーブにとって数字に過ぎない。きっと彼の記録は誰かによって塗り替えられるが、それは彼よりも秀でているというわけではない。ベーブはホームランバッター以上の存在なんだ。彼は野球史の頂点に君臨するスーパースターだ。誰もこの歴史を否定できない。」記録を塗り替えてもリスペクトの気持ちを忘れない王貞治の謙虚な気持ちに心が洗われる気がした。このベーブルースが来日してから約15年後に第二次世界大戦が始まり、日米両国の友好ムードは一気に冷めて敵対国となってしまう。日本兵は米国兵に向かって”To Hell with Bebe Ruth(ベーブルースと一緒に地獄に落ちろ)”と叫んで侮辱していたという。アメリカ人のベーブルースへの愛を逆手に取ったのだ。あれだけ愛されていたのに、政治的状況によってその愛は憎悪に置き換えられてしまう。戦争の主導者はありとあらゆる手段で憎悪を増幅させる手段を探る。ベーブルースも憎悪を生み出すための材料に使われてしまったのだ。ベーブルース博物館は野球の楽しさのみならず、スポーツの尊さも教えてくれる貴重な博物館だ。戦争によって引き裂かれてしまったが、近年アメリカで野球をする日本人が増えてベーブルースの人気は高まっている気がする。日本人はベーブルースを愛し、ベーブルースは日本を愛していたのだ。スポーツが育む慈愛の心は清く尊い。この博物館でアメリカ人の野球への愛、また日米野球の関係についても学ぶことができるだろう。入館料は大人$13、子供5歳~13歳$7、シニア$11となっている。バルティモアに立ち寄った際はぜひお勧めしたい。私のようなにわか野球ファンでも十分楽しめる。きたろう
2023.11.29
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今回はオリオールズで台頭を表したベーブルースがレッドソックス、ヤンキースに移籍した頃に絞ってベーブルースが残した偉大な記録を綴りたい。ベーブルースは1914年7月9日に$160,000でオリオールズからレッドソックスに移籍することになる。レッドソックスでは6シーズン在籍し、レッドソックスを3度のワールドシリーズチャンピオンシップに導いた。1919年の最後のシーズンには打率.322、29本のホームランを記録した。当時レッドソックスの球団オーナーであったHarry Frazeeは新たな劇場作品の制作費を捻出するためにスター選手であったベーブルースをライバル球団であるニューヨークヤンキースに$125,000で売ってしまった。その後スターを失ったレッドソックスは2004年まで86年もの間ワールドシリーズのタイトルから遠ざかってしまうのだ。これは米国ファンの間では「バンビーノの呪い(The Curse of Bambino)」と呼ばれている。ベーブルースの破竹の勢いはヤンキースに移籍しても変わらない。当時ヤンキースは球団が誕生してから7年経って一度しかア・リーグ3位に入っていない弱小球団であった。1920年から1929年の間にベーブルースは自らのバットでチームを勝利に導き、6度も一位獲得に貢献するのである。ルースの活躍によってチケットの売れ行きは好調となり新たな球場建設への機運は高まっていった。ヤンキース球場の別称が「ベーブルースが建てた球場」(House that Ruth Built)と呼ばれるのは彼の功績なくしてヤンキースの新球場建設は話題すら上がらなかった可能性があるためだ。まさに球団の救世主のような存在だったのである。ヤンキースは新球場での初陣に勝利し、ベーブルースは当然の如く新球場で最初のホームランを放った。漫画でも描けないようなことをベーブルースはやってのけたのだ。残念ながらベーブルースが建てた球場は老朽化に伴い現在は使われていない。ベーブルースを擁したニューヨークヤンキースが大谷を獲得しがる理由がここからもお分かりだろう。写真1:カムデンヤーズの近くにあるベーブ・ルース像写真2:カムデンヤーズ(バルティモアオリオールズの本拠地)フィリーズの本拠地であるCitizen Bank Parkと比較すると面白い。Citizen Bank Parkの写真はこちらの記事を参照。カムデンヤーズの方が歴史が古く、全米の中でも人気のボールパークらしい。バルティモアの旅はまだまだ続く。きたろう
2023.11.28
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以前の記事で船便は発送から到着まで75日かかったと書いた。最近は最低気温が10℃を下回り、最高でも15℃前後になる日が増えてきた。スーツケースに冬服を詰めたものの今ある冬服だけで東海岸北部の寒さを乗り切れるか心配になり急遽日本から冬服を送ってもらうことにした。10月20日に発送してもらい私のアパートには10月30日に届いた。船便だと2ヶ月半以上かかるのに対し、航空便は10日程度しか日数を要さなかった。やはり急ぎの場合は絶対に空輸をお勧めしたい。また、空輸の方が船便より荷物の状態がよかった。前回の記事でも書いた通り、船便は四隅が凹み一部段ボールが破けてしまっていた。今回は一箇所小さな穴が空いていたが、大きな破損は見受けられなかった。空輸なら必ず綺麗な状態で届くとは言い切れないし、荷物の大きさや重さといった他の要因もあるので国際郵便を出す際は空輸であれ海上輸送であれ一定のリスクが生じることは避けられない。段ボールを開くと息子の手紙が同封されていた。厚手の長袖やセーターよりも、家族からの手紙が一番嬉しかったし、心が温まった気がした。これから秋学期の追い込み時期に入る。寒さも授業も厳しくなる一方だが、手紙を読み返しながらなんとか乗り切りたい。今日も良い1日を。きたろう
2023.11.14
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最近イスラエルとハマスの間で起きている戦争の抗議活動をキャンパス内で目撃することが多くなっている。アメリカの大学では世界中から学生が集まるため、ユダヤ教徒の学生とイスラム教徒の学生の両者が同じ場所に居合わす状況が生まれそこで軋轢が生じている模様だ。大学当局も対応に苦慮しているようで連日学長と学部長から学内の抗議活動に対するメッセージが私のメールボックスに届く。許可なく転載することはできないのでこちらは載せられないのだが、教授やスタッフに対して脅迫メールが届いているケースもあるようである。実はこのCNN10のYouTube動画の中にも私が現在通っている大学が映っている。私のキャンパスでもデモが一部過激化して警察に身柄を拘束されたという噂を聞いた。このニュースを見るとまさに戦争は現在進行形で起きているのだと実感する。↓↓動画リンク↓↓Tensions ignite across US college campuses, November 3, 2023アメリカの大学は世界中から学生が集まるため世界の縮図のようである。世界情勢に敏感になるのもこのアメリカの地にいるからであろう。今世界で何が起きているのか世界中の学生の声に真摯に耳を傾けつつ日本人としてどのようなスタンスをとるのが正解なのか模索したい。ロシアのウクライナ侵攻、歴史的な円安ドル高、そして今回のイスラエルとハマスの戦闘状態と歴史の転換機に遭遇しているような気がする。日本にいる大学生と高校生には動画を試聴して、国内のニュースだけでなく世界で起きている事象にも是非注目してもらいたい。平和な世の中が訪れることを願ってやまない。イスラエル・ハマスの報道がされるようになってからよく耳にする英語表現:Anti-semitism: ユダヤ教、もしくはユダヤ教徒に対する嫌悪や嫌がらせ、反ユダヤ主義思想Islamophobia: イスラム教、もしくはイスラム教徒に対する嫌悪や嫌がらせ、反イスラム主義思想 きたろう
2023.11.12
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10週と5日(75日)。これが何を意味しているかお分かりだろうか。国際郵便(船便)で荷物を送った際に日本からアメリカ東部に届くまで要した合計日数である。丸々2ヶ月以上の日数がかかった。あまりにも届かないので途中で紛失してしまったのでないかと心配になったほどだ。当初はSAL便で送りたかったのだが、コロナ禍で物流が乱れSAL便のサービスは現在停止してしまっている。空輸はもちろん早く届く利点があるが、その分料金は割高で船便の2倍〜3倍する。出国前で出費が嵩んでいたためなるべく安く荷物を送付したくて今回は船便を選択した。送る内容物が主に書籍で緊急性がなかったのも船便を選んだ理由である。料金については重さや大きさによって異なるので詳しくは郵便局の公式サイトを参照していただきたい。発送方法によるスピードの違いは以下の図が非常にわかりやすい。※郵便局「国際郵便早見表」より抜粋(2022年6月1日現在)それにしてもダンボールの破損が凄まじかった。きっと重ねられたり投げられたりして破けてしまったのだろう。日本からアメリカの地まで何とか耐えてくれたと思うとダンボールにも労いの念が湧いてきた。ダンボールの角には大きな穴が開いておりいつ中の荷物が飛び出てもおかしくない状態であった。大事な研究書物が無事届いてくれて本当に良かったと思う。これで本格的に研究に励むことができると思うと身の引き締まる思いだ。なるべくダンボールはガムテープを多めに巻いて補強を施したい。中の身物が飛び出ないようビニールに入れるなどの工夫も必要だろう。壊れやすいものは絶対に入れず、クッション材等を詰めて運搬の際の衝撃に備えた方が良さそうだ。船便で海外に送られる方は地域にもよると思うが、想像している以上に日数がかかることを覚悟されたい。きたろう
2023.10.18
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大学院の課題に追われてブログの更新が滞ってました。平日は図書館にこもってひたすら課題に取り組み週末に溜まった衣服の洗濯や食料品の買い出しをまとめてする生活を送っています。今日の午前中は天気も良かったのでアメリカの大手ディスカウントスーパーであるターゲットまで買い出しに出かけました。シャンプーや洗濯用洗剤をカゴに入れてレジに向かう途中、少し前に包丁で指を軽く切ってしまい出血したことを思い出して絆創膏と消毒液を購入することにしました。絆創膏を棚に見つけて商品に手を伸ばそうとした時に思わず「あっ」と声が出てしまいました。その瞬間自分の当たり前だと思っていたことが音も立てずにガラガラと崩壊していくのがわかりました。バンドエイドを取ろうとしたら様々な色のバンドエイドが用意されていたのです。日本で生まれ育った自分には左側にある「肌色」のバンドエイドしか脳内に存在していなかったのです。知らない間にバンドエイド=「肌色」という情報が刷り込まれていました。ジョンソン&ジョンソンは肌の色に合わせて絆創膏が目立ちにくくなるよう4種類以上のバンドエイドを用意していました。驚きと同時に今まで30年以上生きてきてバンドエイドは一色だと思い込んでいた自分が恥ずかしくなりました。そしてこの「肌色」という日本語にも同時に違和感を覚えました。(あえて鉤括弧で括っているのはそのためです。)はたして「肌色」は本当に一色なのでしょうか。それは我々が想像している肌の色は一色であるという勝手な思い込みから派生しているのではないでしょうか。この「肌色」という日本語は一歩間違えると非常に排他的で人種差別問題にもなりかねない危険性をはらんでいるようにも思えます。この絆創膏売り場のバラエティの豊富さからもお分かりの通り、肌の色は千差万別でありカテゴライズすることは非常に困難だからです。最近では「肌色」という色の名称は不適切と考える企業が増えてきているようで「肌色」を「うすだいたい色」や「ペールオレンジ(pale orange)」と表記する色鉛筆が増えてきているようです。留学しているとこのような場面に遭遇することが多々あります。我々が気づかない間に固定観念が形成されていてそれが知らない間に物事を考えるスタンダードになってしまうことがあります。我々があまり意識せずに使っている「肌色」という色の名称がまさにこの典型的な例です。名称の変更も必要ですが、それと同時に我々の意識も変えていく必要があると思いました。自分の古い価値観をゴミ箱に捨てるように「肌色」のバンドエイドを買い物カゴに投げ入れて足早にレジに向かいました。きたろう
2023.10.02
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今回はニューヨークの地下鉄事情をご紹介したい。ニューヨークのManhattanは地下鉄網が張り巡らされており、地下鉄を利用をすれば移動に困ることはあまりない。下の地図と見ていただければ納得していただけるのではないだろうか。各路線に数字とアルファベット割り振られていてそれを見ながら乗り換えをすると便利のようである。2007年に行った時は「メトロカード」という地下鉄専用の日本のSuicaのようなカードを購入して搭乗したのだが、電子化が進み今ではApple Payやデビットカード(非接触決済可能なものに限る)でも支払いが可能になっている。(ネットの情報によるとメトロカードは段階的に廃止され、いずれ電子決済に一本化されるという。あの黄色いお馴染みのメトロカードに慣れていた者からすると時代の移り変わりを感じるし、少し寂しい気もする。)電子決済をするためには事前登録が必要になる。グーグル、フェイスブック、アップルIDを持っていれば新たにアカウントを作成する必要はなく、OMNYというサイトを経由してアカウントと電子決済の情報を紐づければ準備完了だ。登録が無事完了すると"Your travel card has been added."とお知らせのメールが届く。あとは設定したカード(もしくは携帯電話)を地下鉄の電子端末に近づけるだけで非接触決済が行われる。詳細はOMNYの公式サイトを参照していただきたい。チュートリアルビデオがあって初めてのNY渡航者にもわかりやすい。↓リンク↓OMNY公式サイト改札口のゲートがこのようになっている。"TAP HERE"と表示されているところに事前登録したスマートフォンもしくはクレジット(デビット)カードを近づければ通過可能だ。ちなみに距離は関係なく1回の乗車で$2.9となっている。(2023年9月現在)一週間以内に12回以上乗車すると残りの数日間は無料になるシステムだ。こちらがNYの地下鉄だ。日中はだいたい10分に1本ペースで運行していた。電光掲示板に表示されているアルファベットが路線を示している。同じフォームでも違う路線の電車が行き交う場合があるので乗り込む前に正しい車両に乗車しているか確認をする必要がある。ちなみにuptownが北(Bronx方面)、downtownがManhattanの南(つまり自由の女神方面)となっているので逆方面に行かないよう方角にも注意されたい。NYの旅行を検討される際はOMNYの事前登録と行き先へのルート確認をおすすめする。きたろう
2023.09.29
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前回に続いて9/11 Memorial Museumについて書きたい。私は午前中の10時20分頃入場したが昼過ぎになると館内はだいぶ混み始めてきた。平日でもかなり人が入っていたので週末はさらに混雑が予想される。平日のなるべく早い時間に入るとスムーズに入場ができるろう。また入場時には空港の手荷物検査並のセキュリティチェックがある。(ESTAの導入や厳しい入国審査も2001年9月11日の同時多発テロが契機だったような気がする。)入ってすぐに我々を出迎えてくれるのがWTCの三叉槍(tridents)と呼ばれる外壁支柱である。支柱をよく見てみると柱に”SAVE”と書かれた文字が見える。これは瓦礫撤去作業中、職員たちが後日9/11の追悼施設が作られる可能性があることを見込んで目印をつけたのだという。後ろに見える人と比べるといかに巨大な支柱であるかがお分かりだろう。イスラム教過激組織アルカイダ(Al-Qaeda)に属しているメンバー19名がCalifornia行の旅客機を次々とハイジャックしてWTCやペンタゴンに衝突するまでの航路が描かれている。1機は乗客と乗組員がハイジャックメンバーに応戦し、飛行機を操舵していたハイジャッカーが急遽航路を変更してPennsylvaniaのShanksville付近に墜落した。飛行機の乗客、WTCやペンタゴンで働いていた人々合わせて3000名の命が失われた。この数字はアメリカ国土で起きた1日における国外からの攻撃による死者数としては最大である。また、アメリカ国内の救助活動中に亡くなった消防及び警察職員の死者数も最多となった。マンハッタンは埋立地で地盤が緩く、超高層ビルを建設するには大変不向きな立地であった。この問題を解決するために建物全体を覆うような形で地下にスラリーウォール(Slurry wall)というコンクリートの壁を作って水による侵食を防ぐことが可能となった。その少し変わった工法から通称バスタブと呼ばれていたらしい。ただし、バスタブとは逆に水を入れるのではなく、中に入っていた水を最後に抜くのが大きな違いがあった。9月11日の崩落のインパクトでこのslurry wallが決壊していたらその近くを走っていた地下鉄にも甚大な被害が出ていたという。この巨大なslurry wallが二次被害を食い止めてくれたらしい。それにしても地上の公園の真下にこんな広い地下スペースがあることに驚いた。まるでエヴァンゲリオンに出てくるネルフの本部のようである。2983枚の水彩画が並べられていて、真ん中には”NO DAY SHALL ERASE YOU FROM THE MEMORY OF TIME. Virgil”と刻まれている。この文字はWTCの瓦礫の中の鉄をリサイクルして作られているのだという。しっくりくる訳が咄嗟に浮かばないが「どんなに月日が流れてもあなたから時の記憶を消し去ることはできない」(筆者訳)と訳すと読者にも伝わるだろうか。ローマの詩人Virgilによる”The Aeneid”という作品からの引用だそうだ。2983枚は同時多発テロで亡くなった死者数の数と一致している。2011年9月11日の空の青さを忘れないでほしいという願いが込められている。飛行機が衝突していつ倒壊してもおかしくないビルの中に入っていった消防隊員のストーリーも紹介されている。また追突直後WTC建物中から助けを求めて911に電話する人々の叫び声やテレビのニュースでテロ事件のことを知って親族が咽び泣きながら話す留守番電話の音声を聞くと当時の混沌とした状況がひしひしと伝わってくる。どれだけ大きな力が加わればこんな太い鉄骨がこんなにも曲がってしまうのだろう。工事現場でよくみる頑丈そうな鉄骨が粘土のようにぐにゃぐにゃになっていた。当時の爆発と倒壊の凄まじさを物語っている。館内には途中で体調が優れなくなった人のための非常口や涙を拭くためのティッシュやゴミ箱が至る所に用意されていて9/11メモリアルは他の施設とは明らかに異なる。歩いていると鼻を啜る音が至る所から聞こえてくる。撮影禁止エリアで写真が手元にないのだが、2983名の犠牲者の顔写真が並んでいるエリアで複数の日本人の名前が目に留まった。当時のWTCにはアメリカだけでなく多くの外資系企業がビルの中に入っており、日本企業も勿論含まれていた。近くにあったタッチパネルで遺族から寄せられた犠牲者の写真と簡単な紹介文を読むことができた。たまたま私と同い年で企業派遣でニューヨーク駐在していた方がいた。旅客機の中にも若い日本人が搭乗していたという。志半ばでこの地で命を落とした犠牲者を思うといたたまれない気持ちになった。アメリカで起きた事件ではあるが、犠牲者の出身国は日本のみならず沢山の国に及んでおり決してアメリカで起きたアメリカ国内の事件ではない。国を跨いで国家ではないグループが他国を攻撃するというグローバルテロリズムの象徴となった歴史的事件ではないだろうか。余談になるが、その後アメリカはアフガニスタンから軍を撤退させるまで20年間も戦争を続け、多くの犠牲を払った。勝者なき戦争によってアメリカの絶対的地位も崩れていった。クリント・イーストウッド監督が描いた「アメリカン・スナイパー」を観るとアフガン戦争の負の側面が描かれている。(刺激が強い映画なので心臓の弱い方や小さいお子さんには注意が必要である。)アメリカの同時多発テロは22年も前の出来事だが、アフガン戦争はつい2年前まで続いていた。アメリカの軍撤退を待っていたかのように今度はロシアがウクライナに侵攻している。アメリカ同時多発テロ以降の国際情勢は今もなお不安定な状況にある。出口付近にはアルカイダ(Al-Qaeda)がどのようにテロ組織に発達していったのか紹介するビデオクリップがあった。遺族がこの映像を見てどのように思うのか少し気になったが、被害者だけでなく加害者の視点も含めないと全貌がわからないと館は判断したのだろうか。その真意はわからないが、半日では時間が足りないくらいの内容であったことは間違いない。午後予定されていた研修の開始時刻が迫っていたので後ろ髪を引かれる思いで出口に向かった。今回グラウンド・ゼロを訪れて幼いながらも鮮明に覚えていた映像に様々な証言を付け加えることができた。まさに点を線で結ぶ経験ができた気がする。これからもこの点と線を大事にしながら今後の留学生活を送りたいと思った。帰り道NYの美しい夜のスカイラインを眺めながら”NO DAY SHALL ERASE YOU FROM THE MEMORY OF TIME.“が幾度となく頭の中で木霊(こだま)していた。最後に犠牲者に追悼の意を表したい。黙祷。きたろう
2023.09.27
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9/11祈念博物館は地上部分が誰もが立ち入ることができる祈念公園、地下が有料施設となっている。今回は地上部分の紹介をしたい。22日のスケジュールは午前中が9/11 Memorial Museumの訪問、午後がNYUの施設での研修となっている。New Yorkに到着してすぐにSubwayに乗り込みCラインの終点であるWorld Trade Centerを目指した。後ほどNYの公共交通機関についても紹介するが、Manhattanはそこら中に地下鉄の線路が張り巡らされている。渋滞に巻き込まれる心配もなくおすすめだ。乗ってみて改めて思い知らされるのは日本の電車の清潔さだ。世界から称賛される日本の交通機関だが、海外の電車やバスに乗るとその理由がわかる気がする。WTC駅に到着すると早速以下の看板が目に入ってきた。駅校舎内は改修せずに当時の姿を残していることを知らせる掲示板だった。事件があった当日もこの廊下を通って何千人もの通勤者がWTCのビルに向かっていたという。9月11日の朝はニューヨーク市内の小学校の新学期初日の日でもあったようで、快晴のもと多くの小学生が学校に向かっていた。WTCに向かう通勤者の中には家庭を持っている人がいて新学期初日を迎えた子どももいたかもしれない。平凡な一日が始まり、そして何事もなく終わるはずだった。数時間後に起きる歴史上最大規模の組織的テロリスト攻撃を誰が予見できたであろうか。WTC駅を降りると巨大な地下スペースが広がっていた。上を見上げると白い支柱の間から自然光が降り注ぐように設計されていて非常に開放的だ。2007年に訪れた時はこのような建築物はなかったはずである。これも追悼施設と一緒に作られた施設だろうか。外から見た外観はこのようになっている。白い鳥が羽を広げているようにも見えるし、手の指を交差させて祈りを捧げているようにも見える。白を基調にした教会のような美しさであった。日本で建築物を作る際の優先事項は巨大な地震にも耐えうる耐久性であろう。複数の海洋プレートが重なり合う上にできた島国日本の定めだ。建築デザインよりも安全性が求められ、複雑なデザインは安全性の観点から嫌われる傾向があるように思える。地震の確率が非常に低い東海岸北部では石造りの歴史ある建築物やこのような重力に逆らうような面白い建築物に出会うことができる。2007年訪問時にあった高い工事フェンスはなくなりグラウンド・ゼロは美しい公園になっていた。WTC North TowerとSouth Towerの跡地に沿って縁取られた巨大な空洞となっていて四辺の縁から一斉に大量の水が滝の如く流れている。中央にもさらに正方形の空洞があり、水が二段階に落ちて行く仕組みだ。西洋のような下から上に噴き上がる華やかさは一切なく、水はただただ下に落ちていく。流石に鹿おどしはないが、まるで重力に従って落ちる水とその音色を楽しむ日本庭園のようだ。煌びやかさはないが、水が一斉に水面にぶつかる音は心に静寂をもたらしてくれる。縁の部分には犠牲者の名が刻まれている。CNNのニュースでは名前が彫られた溝の部分に生花が添えられていた。そう、ここは同時多発テロの博物館であると同時に3000名近くの尊い命が失われた墓地(追悼施設)であり、当時の様子を示す貴重な遺構でもある。カテゴリーに分類するのが非常に困難な施設なのである。縁の部分に刻まれた名前が水の流れに乗って中心部の正方形の空洞に吸い込まれていくようにも見える。事件前の景色に詳しい人にとってはWTCの建物が水に流されてなくなってしまったような錯覚に陥るかもしれない。曲線がない無機質な構造とこの巨大な空洞から一種の虚無感のようなものを感じずにはいられない。まだ施設の中に入れず終わりが見えなくなりつつあるが、書き始めたのであれば最後まで投げ出さず書き切ることがせめてもの犠牲者への弔いのような気もしている。きたろう
2023.09.26
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どこから書き出せばいいのだろうか。こうして9/11国立祈念博物館をブログに投稿することすら不謹慎だと非難する関係者、または遺族の方もいらっしゃるかもしれない。安易にネット上に投稿すべき内容ではないと判断し、訪問から数日じっくり情報を消化することにした。数日経って写真を見返しながら自分が感じたことをここに綴りたい。投稿することで自分の記憶の風化を防ぐこともできるし、9/11が起きた時にまだ生まれていなかった日本の高校生、大学生が9/11を知るきっかけになるのではないかと考えた。また1ドル150円に届こうとするドル高円安の状況で海外渡航はいまだに難しい。(2023年9月現在)円安が落ちついた時に9/11 Memorial Museumに9/11以降に生まれた日本の若者が足を運ぶことを願いつつ訪問の記録を残したい。一つの記事にまとめるほどの文章力がないため複数回での投稿になることを最初にお許しいただきたい。 Times Squareでの記念撮影、5th Avenueでのショッピングも結構だが、9/11を抜きにしてManhattanを語ることはできないだろう。それほどアメリカ全土、いや全世界を震撼させた出来事だ。2001年9月11日、私は当時日本の公立中学校に通う13歳の中学校1年生だった。雲一つないNew Yorkの青空に突如2機の飛行機が現れ低空飛行したままワールドトレードセンター(以下WTC)1と2に激突した。また、別の飛行機はアメリカの国防総省の本庁舎であるペンタゴン(その建物の正五角形の形状からそのように呼ばれている)にも墜落した。後に語り継がれる「アメリカ同時多発テロ事件(通称ナイン・イレブン)」が起きた瞬間だ。たちまち真っ青の空が煙で曇り始め、まもなくNew Yorkのランドマーク的な存在であった2つのタワーは崩落した。中学校1年生だった私は何が一体起きているのか理解できぬまま、何度もエンドレスで流れる速報映像をただただ日本から眺めていた。どのチャンネルにしても同じ映像が流れていて、事件の規模と重大性を物語っていた。それから6年後の2007年の春、当時日本の私立大学通っていた大学1年生の私(当時18歳)はNew Yorkにいた。大学が提供する短期留学でペンシルバニア州に1ヶ月ほど語学留学をしていて、フィールドトリップで1日だけNYに行く機会に恵まれた。この時グラウンド・ゼロ(跡形もなくなってしまったWTCの跡地を人々はそのように呼んでいた)に行ったのだが、工事フェンスに囲まれていてフェンスの内側がどうなっているのか確認することはできなかった。当時のグラウンド・ゼロの写真を保存していたパソコンが壊れてしまい手元に掲載する写真がないのが申し訳ない。後述するが、瓦礫の撤去作業が終わった後も訴訟問題が長引きスムーズに追悼施設が完成したわけではない。凄惨な事件が起きた場所にできた施設が観光地化して商業施設のようになることを恐れ猛反対した遺族もいたという。この祈念博物館が完成するまでにもいくつものドラマが存在するのである。超高層ビル群のど真ん中にぽっかりと何もないスペースがあり不気味な不自然さがあったのを今も覚えている。それからさらに16年後、アメリカ同時多発テロ事件から22年後の9月22日に私は再びNew Yorkに降り立った。特に特別な意味はないが、事件後22年後の22日訪問ということでなぜか数字が綺麗に並んでいた。実は事件後22年経過を知らせるCNNのニュース番組を直前に見ていてこのミュージアムが紹介されていた。2007年の当時工事フェンスで囲まれていたグラウンド・ゼロには慰霊碑(cenotaph)ができていて、さらにその地下には当時を振り返る展示品が飾られていた。翌週別件の用事でちょうどNYを訪問する用事があった。気がつけば9/11 Memorial Museumの公式サイトでチケットを購入しようとしていた。今回9/11 Museumを訪問することで当時13歳の自分がテレビで観た9/11と初めてのアメリカ渡航で見たグラウンド・ゼロを線で結ぶことができるのではないかと考えた。どれも眺めている出来事は一緒だが、年齢や立場が異なればまた見えてくるものは異なるはずだ。訪問してアメリカの栄光とその光によって生じた影の部分を垣間見た気がした。現在一般チケット$33, 学生$27で貧乏学生の私にとっては割高だったが、それでも訪問する価値がある場所であった。ゆっくり回ったら1日過ごせてしまうだろう。それほど展示方法に工夫が施され、当時の様子が生々しく伝わってくる。施設のことを一切触れていないが、長くなってしまったのでここで一旦終わりたいと思う。きたろう
2023.09.25
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前回の記事ではEastern State penitentiaryの構造や建物内の様子についてお話しした。今回は服役者とアメリカでの刑務所の現状について綴りたい。Cell Blockを練り歩いていたのだが、85,000人を収容していただけあって各棟を回るだけでかなりの体力を消耗した。少し休憩がてら中庭(yard)に出ることにした。Cell Block3とCell Block4の間のスペースは囚人たちにも開放されていたという。しかし、休憩時間は1日たった30分程度しか許されなかったと書かれていた。中庭の中央に大きなオブジェのようなものがあり近づいてみるとそれが棒グラフになっていることに気がついた。これは1910年から2020年までのアメリカ国内の服役者の数を示している。明らかに過去40年で急速に服役者が増えていることがお分かりだろう。さらに1970年と2020年の棒グラフには色分けがされていて比較できるようになっている。-------日本語訳(筆者訳)------人種とアメリカの刑務所制度急速なアメリカの服役者の増加に伴い全人種グループの囚人の数は増え続けているけれども、黒人とラテン系の人種コミュニティーはその中でも大きな影響を受けている。(黒人とラテン系人種コミュニティーの囚人が著しく増加している)1970年(代)では半分以上の囚人が白人であった。それが2020年には32%まで減少していた。一方で黒人とラテン系の囚人はアメリカの囚人の60%を占めている。(彼らは総人口のたった30%であるにも関わらず。)なぜこのような現象が起きているのか。多くの学者は人種、貧困、質の高い教育への機会損失と高い犯罪率の強い相関関係を指摘している。その他にどのような要素がこのトレンドに関与しているのだろうか。我が国はこの危機に対してどのように対処すべきだと思いますか。-----------------------「アメリカンドリーム」という言葉があるほどだからアメリカでは誰にも平等に機会が与えられ夢を叶えるチャンスがあると思っている人は多いのではないだろうか。私もアメリカンドリームをテーマにした映画を数多く見てきたし、今回の留学も自分の夢を叶えるためにやってきた。しかし、人々が描くアメリカとこのグラフが意味するアメリカには埋めようとしても埋められない乖離があるような気がしてならない。それが「肌の色」という我々がどんなに努力しても及ばない部分によって生じてしまっているとしたら独立宣言(Declaration of Independence)に掲げられた"All men are created equal."という建国の大原則に背いていることになるのでないだろうか。この立体棒グラフの側面にはさらに面白いデータが掲載されていた。まずは写真をご覧いただきたい。これは10万人に対して何人囚人がいるかまとめたグラフである。なんと驚くことにアメリカは10万人対して囚人の数が655人で不名誉にも世界第一位に君臨しているという。我が母国である日本の順位が気になって上からよく探してみたがなかなか見つからない。昔は治安が先進国の中で一番良い国と言われていたが、最近ニュースで殺人事件や強盗事件の報道を目にする回数が増えてきた気がする。中間くらいに位置しているかと思いきや……棒グラフの根元付近に小さく"Japan"の文字を発見することができた。左が死刑制度がある国、右側は死刑制度がない国、もしくは廃止した国になっているので下から5番目(6番目)に位置しているわけではないことを付記しておく。それにしても10万人に対して40人とは大変驚いた。日本の場合銃が認められているアメリカに比べて殺人の数が少なく軽犯罪のほとんどが略式起訴で処理されていることも影響しているのかもしれない。Cell Blockの展示ではプリズン・ギャング(Prison Gangs)の問題も紹介されていた。囚人の増加に伴い、刑務所内でのギャングが増加しつつあるという。ギャングに入ることでギャングから目の敵にされることを防いでいるという。アメリカ当局も対策を講じていてギャングリーダーを他のメンバーから引き離したりギャング達による刑務所内での暴力行為を取り締まったりしているようではあるがプリズン・ギャングは勢いを増し続けている。The United States Department of Justiceのサイトには有名なギャンググループの名前やそのメンバーシップを意味するタトゥーまで掲載されていた。↓リンク↓The United States Department of Justice一度メンバーになってしまうと脱退することができず、刑務所から出ても再び犯罪に手を染めて刑務所に戻ってきてしまうという。アメリカの大規模刑務所が更生施設ではなく新たな犯罪の温床となってしまっているのはあまり知られていないのではないだろうか。因みにThe United States Bureau of Justice Statisticsによるとアメリカの刑務所システムの維持費は世界一で毎年800億ドル(約11兆8220億円?)もの費用がかかっているようだ。Eastern State Penitentiaryを後にした時に"How do you think our nation should address this crisis?"という問いが重くのしかかった。奥には高層ビルが立ち並び街はどんどん発展を遂げているのにこの空間だけ時が止まっていて当時の重苦しい雰囲気を引きずっている。背景とのコントラストが美しくも何処か切ない。時折雨も降り注ぎどんよりした分厚い雨雲は私が刑務所を出た時のモヤモヤした気持ちを代弁しているかのようであった。きたろう
2023.09.13
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大学院で研究をしながら博物館や史跡を巡り様々な視点からアメリカを眺めたいと考えている。今回はPhiladelphia市内にあるEastern State Penitentiaryを訪れた。Philadelphia Museum of Artの近くにあり、市街地からバスで10分ほどで着く。刑務所がこんな市内のど真ん中にあって当時の近隣住民は心配にならないのだろうかと思ってしまった。ちなみにこの刑務所は1829年に囚人の収容を始め1971年に閉鎖となっており、今は刑務所内で当時の様子を伝えるツアーが実施され観光客で賑わっている。正面の入り口から重厚感が伝わってくる。10mほどある高い塀に囲まれており囚人が出られないようになっている。また、監視塔が設けられ当時は監視員が四六時中見張っていたのであろう。パンフレットの冒頭にはこのように書かれている。Eastern State was the world's first true penitentiary, a building designed to inspire penitence- or true regret- in the hearts of prisoners.Its sky-lit cells held nearly 85,000 men, women, and children over its long history, incluidng bank robber "Slick Willie" Sutton and "Scarface" Al Capone. The prison stands today in ruin, a haunting world of crumbling cellblocks and a surprising, eerie beauty. 最初の一文は非常に美しく、この最初の行を読んだだけでこの場所に来て良かったと思えてしまった。このpenitenceはregretよりもさらに深い「後悔や自責の念」を意味する。その後悔を促す(inspire)するために作られた最初の施設がこのEastern State PENITENTIARY(刑務所=後悔を促し更生を目的とする施設)なのだという。刑務所というとprizonやjailの方が馴染みがあるかもしれない。The University of Phoenixのサイトにわかりやすい説明があったのでそちらを引用させていただく。"Jails are typically used to detain people awaiting trial or sentencing, and prisons house people who have been convicted of a crime. The main difference between jail and prison is the length of time an offender is incarcerated. (下線部筆者)University of Phoenix, Different types of incarceration: Jail vs. prison vs. detention center explained, Retrieved September 11, 2023, fromhttps://www.phoenix.edu/blog/jail-vs-prison-vs-detention-center.html#:~:text=Prison%3A%20A%20facility%20that%20holds,A%20prison%20focused%20on%20rehabilitation.また同ページにはPrisonとPenitentiaryの違いを以下のように説明している。Prison: A facility that holds convicted criminals. Penitentiary: Designed for long-term incarceration and typically holds offenders with life sentences or death sentences. ここからもpenitentiaryには服役の年数が長く凶悪犯罪者が収容される施設であることがわかる。刑務所の中を巡ると、服役者の当時の服役生活や人種ごとの犯罪率の格差、現代のアメリカが抱える社会の歪みを垣間見ることができた。写真を交えながら施設の中を少しだけご紹介したい。まずこれがEastern State Penitentiaryの模型図である。中央から放射状に各棟(Cell block)が広がっている。この棟が全部で15棟ある。収容者が増えるにつれて収まらなくなり、増築した跡が見られた。この模型を見た時ふと家族旅行で北海道に行った際に立ち寄った網走刑務所がふと思い浮かんだ。確か網走刑務所も同じように中央から放射状に棟が伸びていて同じような構造になっていた。このように中央から放射状にした方が死角が少なく監視がしやすいのであろう。両者の決定的な違いは素材だ。網走刑務所は木造であるのに対しEastern State Penitentiaryはモルタルのような素材で作られている。網走刑務所の形状は公式サイトから形状を確認していただきたい。↓リンク↓網走監獄Cell Block9から中央に向かって撮影した写真。両サイドに見える扉がcell(牢屋)である。3〜4畳くらいの広さであろうか。普通車がピッタリ収まるくらいと行った方が適切だろうか。兎に角狭かった。誰とも話すことなく孤独を味わいながら独房で月日を過ごした罪人たちは何を考えて生きていたのだろうか。刑務所なのに暗いジメジメ感がなかったのは天井に窓があったからであった。窓すらなく外の世界との接点を完全に遮断する刑務所が多い中この刑務所には天井に窓があり光が降り注いでいた。この光を見上げながら囚人たちは希望を見出していたのだろうか。Eastern State Penitentiaryができる前の刑務所は上記の写真のように囚人たちは大きな一つの部屋に収容されていたらしい。囚人たちが暴れていて無秩序な様子が描かれている。罪人の罪の意識を促すために用いられたのが独房での「孤独」であった。他人との接点を断ち、一人で己の罪と向き合い対話を重ねることで自分が犯した罪(sin)と向き合うことができると設計者は考えた。つまり、設立当初は牢獄は罰ではなく懺悔の手段として用いられていたらしい。どうやらこの刑務所から独房(cell)という概念が誕生したと考えられるのではないだろうか。大胆にもタイトルに「刑務所のモデル」と題したのはこのような理由からである。他にも興味深い展示が沢山あったのだが、思いの外長くなってしまったため一旦ここで終わりにして残りは次回書きたいと思う。きたろう
2023.09.12
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アメリカが誕生した場所と言ってもいいだろうか。1776年7月6日、アメリカの独立宣言(The Declaration of Independence)が採択された場所がPhiladelphiaにある独立記念館(Independence Hall)だ。さらに約10年後の1787年にはアメリカ合衆国憲法(The U.S. Constitution)が制定された場所でもありアメリカの礎はこの場所で築かれたと言っても過言ではないだろう。なぜWashington D.C.やNew YorkではなくPhiladelphiaでこのような重要な文書が作られたかというと、1790年から1800年まではPhiladelphiaはアメリカの首都として機能しており、当時は政治や経済の中心を担っていたからである。(今でも全米で6番目に人口が多い都市と言われ街は活気に満ちており決してその後衰退していったわけではない。Quaker教徒であったWilliam Pennが自由を求めて切り拓いた街は今もその美しさを残している。)さてそれでは早速写真と共にツアーを振り返りたい。ホールの入り口には"The Birthplace of the United States of America"と書かれたプレートがあった。煉瓦造りの建物は外観も非常に荘厳である。左に見える大きな時計台も有名な時計台で当時の絵画にもしばし登場するらしい。ホールに入ると当時の法廷を見ることができた。家具や椅子は後から取り付けられたが、議長席の後ろにある絵画は当時からずっと飾られているらしい。独立前はイギリスの紋章がこの法廷にあったが独立と共に取り外されたという。これが独立宣言が制定され、また署名が行われたとされる有名なAssembly Roomと呼ばれる部屋です。一番奥の大きな議長の椅子は当時のままらしい。ツアーガイドがこの部屋に入って開口一番"This is a place where it happened and where everything began."と言っていた。ここでの"it"とはまさにイギリスからの独立を指しており、独立が成立してアメリカが誕生したことを意味している。世界史の資料集などを見ると上記の写真と酷似した絵画があるのではないだろうか。この密室で約250年前新たな歴史が刻まれたと思うと身震いがした。ツアーガイドが最後に面白いエピソードを紹介してくれたのでここでも共有したい。この当時から原形をとどめている議長の背もたれには太陽の彫刻が施されている。Benjamin Franklinは署名をする直前にこの彫刻を見ながら、「この若い国の太陽が明けようとしているのか、それとも沈もうとしているのかわからなかった。けど今ようやくそれが夜明けだと分かった。」と話していたらしい。Franklinの発言と太陽の彫刻はこちらのサイトで拡大写真が見れるのでそちらを参照してほしい。↓リンク↓議長席の太陽とBenjamin Franklinの発言アメリカの誕生秘話を聞いてさらにアメリカ史に興味が湧いた。「日本に比べるとアメリカの歴史は浅くて大したことない」とどこかで聞いたことがあるが私は決してそんなことはないと思う。どの国にも深い歴史があって歴史の価値は決して長短で計れるほど単純なものではない。アメリカは独立から約250年の間にとんでもない変化を遂げている。「民主主義」が生まれた国から我々も何かを感じて学ぶべきではないだろうか。そして私も日本から来ている留学生として私なりに「日本」を発信していきたいと考えている。アメリカで気づいた歴史認識の違いについても今後触れていきたい。歴史ある街に住んでいることに感謝して、勉学に励みながらさらにアメリカへの理解を深めていきたい。歴史を学ぶことで今アメリカで起きている事象をより深く理解できるのではないかと思っている。※インディペンデンスホールのツアーは事前予約が必要です。ツアーは20分で短めですが、1$のみで大変安いので訪れる機会があればLiberty Bellと一緒に見学することをお勧めします。予約は以下のサイトから可能です。↓リンク↓Recreation.govきたろう
2023.09.10
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前回は途中で終わってしまい失礼しました。今日は前回の続きからお話したいと思います。1.書類を揃える2.DOT(Department of Transportation)で筆記試験を受けて合格する3.実技試験(road test)を受けて合格する。1.と2.についてはこちらの記事をご覧ください。3.実技試験(road test)を受けて合格する。仮免許(Learner's Permit)が発行されたら実技試験の予約が可能になります。実は実技試験には2種類の予約方法があります。1.車を試験場に持ち込んで実技試験を受ける。(仮免許の状態なので条件を満たした同伴者が必要)2.試験場で車を借りてそのまま試験を受ける。1.の場合、Learner's Permitの他に以下の書類を揃える必要があります。・保護者証明書(18歳未満の場合)↓リンク↓Parent or Guardian Certification Form・車両保険証・車両登録証・同伴者の運転免許証準備が整ったら以下のサイトから必要事項を入力して予約が可能となります。↓リンク↓予約サイト2.の場合はDOTが認定している第三者機関(教習場兼試験場)で試験を受けることになります。ペンシルバニア(PA)では以下の場所で実技試験を行なっております。DOTのサイトに行くと試験場のリストがあるはずなので行かれる地域のDOTサイトで場所をご確認ください。↓リンク↓教習所兼試験場リスト私は到着直後大学の友人も近くにおらず(そもそも授業が始まっていないのでいるわけがない)、身寄りがなかったため教習所で実技を受けることにしました。筆記試験のおかげで交通ルールはある程度把握しておりましたが、流石に左ハンドル右側運転に慣れていないため実技テスト(road test)と簡単な教習(prep test)がセットになっているコースを選びました。大学院の授業が近づいていたためなるべく早く試験を受けたいと伝えると2日後の早朝8時からなら大丈夫だと言われそのまま予約を済ませました。試験と教習合わせて140$でした。日本の25万〜30万円ほどかかる教習料金に比べたらかなり割安です。こちらが路上試験の会場でした。普通の一軒家と外観は変わらずこの看板がなければきっと素通りしてしまっていたと思います。教習車といっても普通の車で教官の足元にはブレーキは全くついてません。教習車用のマークやステッカーもなく、日本のサーキット場のような練習場を想像していた私は日米の教習所の違いに大変驚きました。(たまたま私が予約した試験会場がこのような会場だっただけなのかもしれませんが)15分程度の教習で左ハンドル右側運転の感覚をなんとなく掴みいざ本番に臨みました。路上試験はこの写真の駐車場の奥にあるスペースで縦列駐車をした後、いきなり公道に出て10分程度運転をします。市街地からはかなり離れているので交通量は少なく道幅も広かったので非常に運転しやすかったです。教習官の英語をしっかり聞き取りその指示通りに行動することが合格の秘訣だと思いました。縦列駐車も最初は左ハンドルで普段の右ハンドルと見え方が違って戸惑いましたが、教習でなんとかコツを掴み何とか枠内に納めることができました。縁石に乗り上げたり、車の一部がポールに当たってしまうとその場で不合格になると言われました。なお、切り返しは3回まで認められます。路上テストを終えて車のエンジンを切ると試験官が満面の笑みで"Congratulations! You passed the road test!"と言ってくれました。きっと教習と路上試験よりも試験場までの移動時間の方が長かった気がします。日米の免許制度の違いに戸惑いながらも路上テストに合格できた喜びを噛み締めながら帰路につきました。一週間ほどするとDOTからCamera Cardが届きました。郵便物と合格印が押された仮免許証(Learner's Permit)を持ってDOTに行くと上顔写真の撮影を行い免許証をその場で発行してもらえました。 きたろう
2023.09.09
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今回ではアメリカ(PA)で自動車免許を取得する方法を紹介します。アメリカで免許を取得するためには大きく分けて3つのステップがあります。1.書類を揃える2.DOT(Department of Transportation)で筆記試験を受けて合格する3.実技試験(road test)を受けて合格する1.必要書類を揃える必要書類は以下の通りです。・DL-180・DS2019(ビザ関係書類)・I-94(入国証明証)・居住を証明する書類2通・SSN(Social Security Number)もしくはA letter of denial(SSNを発行できないことを証明する書類)・免許申請料(2年有効は約35$、4年有効は約50$)・DL-180:Penn DOTのHPからダウンロードが可能です。↓リンク↓DL-1802枚目はMedical Provider(医者)に記入してもらう必要があります。大学に通っている人は大学のMedical Center、もしくは近くの医療機関でも記入してもらうことが可能です。私は近くの医療機関でDL-180を記入してもらいました。40$程度で書類を発行してもらうことができました。血圧と身長、体重を計測した後に問診がありました。"Do you have any pre-existing conditions?"や"Do you have a problem with your heart? Have you experienced a surgery in your body?"といった5分程度の質問を受けて問診は終わってしまいました。日本で生まれ育った自分からすると手を抜いているように思うのですが、アメリカらしいと思えばアメリカらしいですね。・DS2019私はJ-1ビザで入国をしています。自分の身分を証明する書類でパスポートと同じくらい重要な書類なので失くさないようにしてください。・I-94入国を証明するものでアメリカに入国してからパスポート情報等を入力すると発行できるようになります。データファイルではなくプリントアウトした紙が必要なのでご注意ください。↓リンク↓I-94・居住を証明する書類2通私は賃貸物件のLease-agreementと銀行口座開設の際に銀行に発行してもらった書類を持っていきました。インターネットの契約書、Electricity Billでも可能だそうです。・SSNもしくはA letter of denial私は米国で収入がなくSSNを所有していないのでSocial Security AdministrationでA letter of denialを発行してもらいました。詳細はDOTのサイトをご確認ください。↓リンク↓DOTサイト・免許申請料日本とは比べ物にならないほど安いです。またアメリカには教習所のような学校がなく、独学で勉強して仮免許を取得するようです。仮免許を取ったら両親の車で練習して親の車で路上テストを受けるのが一般的です。2.DOT(Department of Transportation)で筆記試験を受けて合格する書類が揃ったらいよいよ最寄りのDOTで筆記試験を受けます。必ず試験を受ける前に勉強をしておきましょう。アメリカは日本と違って右側運転ですし、道路標識も異なります。事故を起こしてしまったら勿論損害賠償責任を問われますし、留学生という立場で事故を起こすと裁判ではかなり不利に働く可能性があります。「 日本で免許を取得しているから大丈夫」と思わずにしっかり対策をして試験を受けましょう。過去問はDOTのサイトに掲載されています。↓リンク↓TEST YOUR KNOWLEDGEChapter 2, Chapter 3, Chapter 4の巻末に過去問があります。各チャプターを一読してから巻末の問題を解くことをお勧めします。筆記試験は基本的にこのChapter2〜4の中から出題されます。18問中15問正解したら筆記試験合格です。パソコン画面に問題が表示されるのでどんどん正解だと思う選択肢を選んで"Continue"ボタンを押していきます。最後の問題を解き終わるとすぐに"Congratulations!"という文字がスクリーンに表示され自分が合格したことを確認できました。筆記試験の前に視力検査があります。円のどこかが欠けていてその欠けている方向を指すランドルト環ではなく小さいアルファベットを読み上げていく試験でした。しかも私がGをCと言い間違えると視力検査官が"That's not C."と教えてくれました。慌てて訂正して正解することができました。日本ではあり得ない話ですが、こんないい意味で大雑把なところもアメリカの良いところです。(笑)視力検査と筆記試験に合格すると仮免許(Learner's Permit)を即日で発行してもらえます。こちらの書類があれば運転免許を取得して数年経っている熟練ドライバーが同乗していることを条件に路上に出ることができるようになります。なおLearner's Permitの有効期限は1年間でそれまでに路上テストを合格する必要があります。一人で運転ができるようになるよう早めに路上テストの予約をしましょう。ステップ1、ステップ2でだいぶ長くなってしまったのでステップ3は次回にしたいと思います。自動車免許取得までの道はまだまだ続きます。きたろう
2023.09.08
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アメリカの自由の象徴といえば"Liberty Bell"だろう。Liberty BellはPhiladelphi市内のIndependence Hallの塔に設置されていたそうだが、ヒビ(crack)が入ってしまい今は同市内にあるIndependence National Historical Parkの展示室で静かに眠っている。厳しい手荷物検査等があるが入場料は無料だ。貴重な文化遺産を無料で市民に公開する施設がアメリカには多くあり懐の深さを感じる。Liberty Bellはただの鐘ではなくアメリカの自由を象徴する重要な文化遺産だ。元々はThe State House Bellと呼ばれていたが、1830年代の奴隷制度廃止運動支持者(Abolitionist)によってLiberty Bellと名付けられ今日もその名で親しまれている。現代の鐘とは違い、当時の鐘は様々な金属が混じっていて純度が高くなかった。純度が低い上に巨大なLiberty Bellは衝撃に弱く、使い始めてまもなく最初のヒビが入ってしまった。ペンシルバニア議会はJohn PassとJohn Stowの2名を雇って鐘を修理したが、その後金属疲労により再び鐘に大きな亀裂が入ってしまった。1846年に亀裂がさらに拡大し使用の中止を余儀なくされたという。鐘の内側には二つの大きなボルトによる修復と金属で縫い合わせて亀裂を塞ぐ修復が施されている。体の名称が鐘に使われているのが非常に興味深い。胴体部分がWaistで大きく開いている部分がMouth, 縁がLipらしい。MLBのPhilliesのロゴも実はこのLiberty Bellである。本拠地球場のスタンドに飾られているベルをよく見てみるとしっかりベルには亀裂が入っている。(そしてPhilliesの選手がホームランを打つたびにこのベルが左右に揺れる仕組みになっている。)自由のために独立し、そして今も自由を追い求め続けるアメリカにおいてLiberty Bellは自由のシンボルでありアメリカの歴史になくてはならない存在であり続けるだろう。亀裂が入っても完全には壊れず均衡を保ち続けている。まさに分断が起きていてもバラバラに空中分解しない今のアメリカを象徴しているようである。後日Independence Hallについても記事を書く予定だ。追伸、ブログを開設して約二週間が経つが、すでにブログの訪問カウントは800に近づいている。(2023年9月6日時点)インターネット社会で似たようなブログが乱立する中で「家族留学奮闘記」の記事を読んでくださる本ブログの読者に感謝したい。引き続き今の「アメリカ」、そして留学に役立つ情報を発信していきたい。私もコロナ禍で外出ができない中、海外留学をしている方のブログを通じて留学の手続きやエッセイのヒントを得た。このブログが私の次に留学する人の海を超えるきっかけになれば幸甚である。きたろう
2023.09.07
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こんにちは、米国留学中のきたろうです。Philadelphia市内に"Tell Tale Heart"や"The Black Cat"といった作品で知られる文豪Edgar A. Poeの家に行ってきました。国指定の歴史的建造物に指定されているのですが、入場料は無料で並ぶこともなく家の中に入れてもらうことができました。ドアには"Knock once before you come in."と書かれておりドアのノックを叩くと館内のスタッフが出迎えてくれました。この家はPoeが妻のVirginia Clemm Poe、義母のMaria Poe Clemmの3人で1843年から44年の間に住んでいた家です。Philadelphia市内を何度か引越しをしていたようですが、市内で現存の建物はこの家だけだそうです。この家のceller(地下室)でPoeの有名な作品である"The Black Cat"が誕生したと言われています。この家でPoeは"The Black Cat"や"The Gold-Bug"を発表し作品が世間に受け入れられ成功を収める一方、妻のVirginiaは結核を患い日に日に病魔に冒されていったそうです。Cellerは昼間でも暗くどこか不気味な雰囲気を漂わせていました。作品にも出てくる黒い猫が置かれていました。このようなさりげない演出もいいですね。世界で初めて推理小説を書いた人物とされ、その後の文学界に多大な貢献をしてPoeですが、彼の人生は苦難に満ちていました。PoeはEliza, David Poeの次男としてBostonに生まれます。母親は俳優として人気を博しておりましたが、父親のDavidは鳴かず飛ばずの俳優人生を送っておりました。母親は結核を患い24歳でこの世を去ります。この時父親はすでに失踪しており2歳にして両親を失ったPoeはRichmondに住んでいたJohn, Fanny Allan氏に預けられます。その後Virginia大学を中退しWest Pointというアメリカ軍の候補生を養成する学校に入りますが、そこも卒業をすることなく退学してしまいます。作家として身を立てることを志していた頃14歳の離れたVirginiaと出会い結婚しますが、そのVirginiaも結核を患いPoeの母親と同じく24歳で亡くなります。この度重なる不幸がPoeの身の毛がよだつような薄気味悪い作風にも影響を与えたと言われています。近代日本文学で最初に推理小説を書いたとされる江戸川乱歩というペンネームは文字通りEdgar Allan Poeから由来しています。シャーロックホームズを執筆したArthur Conan DoyleもPoeから多大な影響を受けたとされています。日本で大人気のマンガである「名探偵コナン」もPoeがこの世にいなかったら存在していないかもしれません。庭にはRaven(カラス)の像が。。。(Baltimoreを拠点にするNFLチームThe RavensはPoeがBaltimoreで育ったという理由でravenをマスコットに使用しているそうです。)以上あまり夜は近寄りたくないPoeの住んでいた家でした。暑い日が続きますが、たまにはクラシックなゴシックホラーに浸ってゾクっとひんやりする夏も楽しいかもしれませんね。それではこのあたりで失礼します。きたろう
2023.09.05
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こんにちは、米国留学中のきたろうです。オリエンテーション期間にMural Art Tour(壁画ツアー)に参加しました。Philadelphia市内にある壁画をガイドさんと巡るツアーでした。市内の散歩がてら参加したのですが、建物の一面に描かれた巨大な壁画に思わず息を呑んでしまいました。ガイドさんによると実際には直接壁に描いているわけではなく、事前に正方形の特殊な粘着性のある壁画用紙に描いた後にクレーン車で一枚一枚貼り合わせて巨大壁画を作っているようです。これらの壁画は全て壁画アーティストによって描かれ、作品に対してもお金が支払われているようです。したがって落書き(graffiti)とは全く異なり、一つの芸術作品として認識されているようです。1枚の写真はReginald Dwayne Betts氏とTitus Kaphar氏による壁画です。タイトルは"Declaration"(宣言)です。アメリカ市民がDeclarationと聞いてまず思い浮かべるのが"The Declaration of Independence"(独立宣言)です。独立宣言はここフィラデルフィアで1776年7月4日に署名され、アメリカの建国日と定められています。この黒人女性の顔の上に描かれているのも独立宣言なのですが、黒く塗りつぶされている箇所がいくつもあります。このアーティスト二人は刑務所から釈放された人々との対話を通じて、独立宣言に明記された"All men are created equal."と今のアメリカが抱える大きな矛盾をこの壁画に込めたのだそうです。今のアメリカ社会において実現されていない部分は全て黒塗りになっているとのことでした。まさにアメリカの巨大風刺壁画と表現すればいいのでしょうか。駐車場に面したビルに描かれたこの壁画は今のアメリカが抱える問題をリアルに表現しているような気がしました。こちらは2枚で一つの作品となっています。アーティストはJosh Sarantitis氏とKathryn Pannepacker氏の2名。作品のタイトルは"Finding Home"(家探し)です。特に注目していただきたいのが、壁画の上部になります。正面から見ると"IN"の文字があります。そして、細い路地の方に行くと今度は"VISIBLE"の文字が見えます。正面の文字と路地に描かれた文字を合わせると"INVISIBLE"、つまり「目に見えない、肉眼では確認できない」という一つの単語が完成します。この壁画はPhiladelphiaの都市部で問題になっている貧困やホームレスの意識を高めるために描かれたそうです。正面からだけでは問題の本質はわからないままで、角度を変えてみることで初めて今まで見えなかった問題が可視化されるというのが絵のテーマになっています。正面の俯いている男性は紙を握っていてそこには"My home is where I feel I'm family."と書かれています。路地に描かれた手は俯いている男性に向かっておりまるで手を差し伸べようとしているようにも見えます。市街地に行くとかなり高確率で地下鉄の階段や路上にホームレスを見かけます。お金をせがむメッセージを書いたボードを持って道路のど真ん中に立って信号で止まっている車に声をかけるホームレスもいます。一枚目の壁画同様今のアメリカ社会を的確に描写している壁画だと思いました。3枚目の写真は6名の壁画アーティストによって描かれた作品です。(作者不明)タイトルは"How To Turn Anything Into Something Else"(何かを何か別のものに変える方法)です。この作品はPhiladelphiaの小学生が描いた絵をベースにアーティストたちが描いたものだそうです。子どもたちの想像力が結集して非常にパワフルな壁画となっています。大人になるにつれて失われていく想像力や発想力を掻き立ててくれる作品でした。自分が面白いなと思ったのは木に心臓がついていて水を汲み上げて上に届けている部分です。木に心臓がついていてまるで動物のような生命力を感じると共に重力を無視して水を上に組み上げる心臓の力強さは圧巻でした。童心を忘れずに生きていきたいと思わせてくれる作品でした。最後の写真はAmy Sherald氏による作品でタイトルは"Untitled"(無題)です。Amy Sherald氏はアメリカで初めて黒人大統領となったBarack Obama大統領の夫人であるMichelle Obama氏の公式肖像画を描いた人物として一躍有名になりました。若い黒人女性のまっすぐなまなざしは力強さがありつつも優しさに包まれているような気がしました。他にもまだまだたくさん壁画があったのですが、数が多くて全ては紹介できませんでした。特に印象に残ったMuralをブログで紹介しました。気になった人は公式サイトも是非ご覧ください。↓リンク↓Mural Art Philadelphia日本もこのような団体があってアーティストが活躍できる場があったら面白いなと思ったのですが、壁画=落書きというイメージが強い日本ではなかなか馴染まないのかもしれませんね。けど、高い建物がたくさんある日本だからこそできるMural Artもあるような気もします。美しい壁画に包まれた東京を勝手に想像している私でした。では皆さん良い1日を。Kamel
2023.09.04
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おはようございます。米国で留学中のきたろうです。アメリカの大学は非常に多様性を重んじているように思えます。オリエンテーション期間も何度も"Diversity","Equity", "Inclusion"といった言葉を耳にしました。きっと様々なバックグラウンドを抱える学生が世界中から集まってくるからなのでしょう。性別、人種、信条、国籍、年齢といった枠組みを超えて学びたい人が集まって形成される共同体(コミュニティー)が心地よく過ごせるように大学側も様々なところに配慮をしているようです。様々な大学の取り組みの中で今回ご紹介したいのが、大学の施設のど真ん中にあるFamily Resources Centerです。この施設は子供がいる大学(院)生のために設けられた場所になります。入った瞬間ここは幼稚園の遊び場なのではないかと思うほど豊富な遊具がありました。部屋の真ん中にはテーブルが設置されており保護者は子供を遊ばせながら勉強することができるようになっているようです。事前にオンライン登録をすれば学生は勿論ですが、配偶者と子供も施設内に入ることができます。遊び場の隣には絵本の読み聞かせをする部屋まで準備されていました。1枚目の写真がアクティブに遊べる「動」だとしたら、下にある2枚目の写真は「静」でしょうか。勿論、棚にある絵本は全て英語で書かれているため英語が苦手な場合は苦戦するかもしれません。しかし、担当者のお話ではここで幼児や保護者向けの英語のレッスンも無料で受けられるとのことでした。就学前のお子さんがいる場合でもきっとこのスペースは楽しめると思います。写真を撮り忘れてしまいましたが、この他にもイベントルームや授乳室、お茶や電子レンジが置かれた小さなキッチンスペースまであって子育てをしながら研究に励む学生へのサポートが整っておりました。日本の大学は18歳から4年間学んだ後にそのまま2年間大学院で学ぶという固定観念があって、このような家族帯同者向けのサポートが乏しいような気がします。アメリカの大学は社会経験がある社会人も腕を大きく広げて歓迎しており、学生だけでなくその配偶者や子供のことも考えて支援をしているように思えました。このようなきめ細かい配慮からアメリカの大学の経営努力をひしひしと感じる次第です。家族で留学する際は自分のみならず家族全員がハッピーであることが非常に重要です。研究のクオリティで大学を選ぶことも一つですが、大学が提供する家族向けサービスや住む環境に目を向けることも忘れてはなりません。アメリカにある全ての大学でこのような施設があるとは限りません。家族留学を検討する際は事前に説明会等で問い合わせることをお勧めします。それでは皆様今日も良い1日をお過ごしください。Kamel
2023.09.01
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こんにちは、米国留学中のきたろうです。先日アメリカに行ったら必ず実行すると決めていたメジャーリーグの試合観戦に行ってきました。勿論目的はベーブルース以来の二刀流と呼ばれる大谷翔平選手を見るためです。早めに行ってオフィシャルグッズストアを覗いたのですが、やはりビジターの試合ということもあって大谷グッズは見つかりませんでした。WBCで活躍したターナー選手、そして大谷選手の元同僚のマーシュ選手のユニフォームが並んでいました。(レプリカジャージは180$くらいしたので購入は断念。汗)地下鉄の駅を降りると正面に大きな球場が見えてきました。しかし、ここで落とし穴がありました。MLBの試合では厳しいバッグポリシーがあるようで、リュックサックや透明なハンドバッグ以外は持ち込めないことが会場に到着してからわかりました。チケットを購入した時もこのような注意は一切なく、まさに寝耳に水状態でした。セキュリティーに"This cannot come in!"(これは持ち込み禁止だぞ)と怖い口調で注意されてしまいました。近くに移動式のロッカーがありそこでバッグを保管してもらうことにしましたが保管料に10$かかり思わぬ出費がありました。きっと他の球場も同じようなセキュリティー対策をしているはずなのでMLB観戦を検討している方はご注意ください!!念の為何が許されて何がダメなのかわかりやすく表示している看板を見つけたのでここに共有しておきます。(自戒の念を込めて)球場の中は広々していて非常に開放的でした。日本のドームは天候に左右されないので一年中快適な環境下で野球が観戦できるメリットがありますが、夜風を浴びながら広々とした球場で見る野球も悪くないなと感じました。ラッキーなことに試合開始前に大谷選手のウォーミングアップ姿を間近で見ることができました。10m先に会いたかったスーパースターがいると思うと胸の高まりを抑えることができませんでした。敵地での試合ですが、大谷人気は絶大です。エンジェルズのジャージをきているファンは大体トラウト選手の27番か大谷選手の17番のジャージを着ていました。エンゼルスのウォームアップを眺めていたら台湾出身の方から話をかけられました。甥っ子が台湾からアメリカに遊びに来ていて大谷の試合に合わせてチケットを予約したそうです。二人ともWBCの日本代表ジャージを着て大谷に声援を送っていました。大谷人気は日本にとどまらず海の向こうにも及んでいるようです。海を超えて様々なプレッシャーやリスクと対峙しながらも活躍し続ける大谷選手に尊敬の念を抱くと共に、大谷選手の活躍を生で見ることができてに大いに励まされました。ここまで絶好調の相手だけあって結果は6-4でエンゼルスは敗れました。大谷選手は5打数1安打1四球(申告敬遠)でした。残念ながらホームランを拝むことはできませんでしたが、怪我をしながらも出場を続けて結果を残す大谷選手を見て感動しました。野球発祥の地で大谷選手が出場するゲームを観れたこと、球場でtake me out to the ball gameを歌えたことは一生の宝物です。それにしても物価高騰に加えてボールパークの値段調整もはいり球場内の食べ物の値段がすごいことになっています。お水は6.5$、屋台で売っているようなホットドッグは9$、お酒は12〜16$と日本では考えられない値段となっています。勿論球場内への飲食物の持ち込みは禁止されているので、観戦を検討されている方はチケット代の他飲食代などの諸経費も計算の上で観戦を検討してみてください。水などの未開封ペットボトルは持ち込みが許可されているようです。詳細についてはMLBの公式サイトでご確認ください。(2024年7月12日追記)
2023.08.30
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