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ものごとの要素は一つだけではない。目に見えているものだけが全てではない。真理は一つといえば一つやし、一つやないといえば一つやない。私と公、内と外。同じように感じてても言葉の表現で違いが生じる。だから言葉の表現は難しい。焦点を当てて表現しやなあかんから。【はじめに言葉あり】【言葉は真を顕す】仙人:『焦点を当てれば簡単ってことじゃのう。』 OKZ:『そうなんですが、わたしは体を実体として生きてる人間です。体からのシグナルを基準とすることで、『今』や『現実』を知ることができるので体を無視することはできないです。』仙人:『ほおう。』OKZ:『原因と結果。因果の一部ではあると思うのですが、今を原因として考える基準は体であり、それが人間なのではないでしょうか。』仙人:『理屈っぽいのう。。』OKZ:『(-_-#)ムカっ。』PS:(明日、頭に仙人の雷が落ちませんように。)今日も世界にありがとうおおきに
2006.07.30
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【感受性を広げることで意識を分裂させ、情報や感受性・感性などを捉える。】【体の中で起こっていることが現実。】【そして今宵も、考え統合する。】やさしい経験を基に受容しよう 要求しよう 表現しよう 創造に向かおう 空間を広げよう 解放しよう感受性豊かなものと触れあおう体を本来の働きに適合しよう頭と体を融合しよう人をもののように扱わない言を忍ぶと書いて『認める』認めてみよう自分のことを認めてみよう相手のことを風鈴の音が聴こえるちりーんちりーん「なぁ、風鈴て名前で呼ばれてるけど、ほんまはなんて呼ばれたいんよ?」風鈴の音を聴きながら夜空を観てみる日々生きてるいのちの上に日は昇る生の上に日と書いて『星』今日はこんなもんやろうありがとう、おおきに
2006.07.27
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おもしろいことにしゃべっている人の体に触れると言葉は止まる感じるっちゅうのはまずそういうことやろうそして体から離れた言葉は所有されていたことから解き放たれるこれまたおもしろい
2006.07.20
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淡路島『あ わ』『あ お』『か み』『精神』の『精』は『こめ あお』米の殻をやぶると青い。『あ わ』はもともと『あ お』とよんでいたそうです。そして『あ お』は『か み』という意味をもっていたようです。『あわのうた』あかはなまいきひにみうくふぬむえけふねめおこほのもとろそよおてれせえつるすゆんちりしいたらさやわ(はじめの一句は『あかはまな』としても知られている)ちゅうわけで、今日は淡路島、徳島、愛媛、高知へと渡った。淡路島の人達の笑顔は老若男女問わず素敵すぎやった。みんな生き生き『あはは』『うふふ』えー、なにがそんなに嬉しいの~??(分かりたい要求発生)こっちまでおかしく嬉しくなってきた。あたりを見渡すと緑がいっぱい。緑が多いと人は『あはは・うふふ』な状態になるんやな、さすが自然やなぁと納得。(分かりたい要求をした自分を受容♪)『緑(みどり)』って地名があった。「おい、そのままやんけっ!あはっ♪」(Σ(゜□°)ハッ!?『あはっ』がうつってる!?と気づく)高知に渡る。高知は弘法大師・空海、坂本竜馬など有名な土地。高知でおばあのいのちと対面。おばあの目やにをとり、手をそっと握ってじっとした。おばあ、また来るな。その後、おばあの家に行き、おかんと掃除をして布団を干しまくる。空を見ると太陽が眩しい。汗だくだく。恍惚。(=*ρ*=)夏を先取りやな。風呂が壊れていたんで近くの温泉へ行った。露天風呂やった。おー、夜空が気持ちよい、あはっ。感謝 謙虚 勇敢さ素直さ やさしさかなしさ たのしさみんな生きてるわおれは人間やありがとう
2006.07.15
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やさしいまずまずよし
2006.07.14
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自分の能力以上のことに常に挑戦しなければ、『無関心』は『関心』に変わることはない。そのために健康な肉体は重要な要素。見えないものが分かる人間が感受性が高い人間。
2006.07.10
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以前通っていた舞踏の稽古に色んな訓練があった。訓練は不思議なものでやったら体に身についていく。稽古の内容は大きく分けると体・心・頭。体が動き出すまでできるだけ待ち、その場の空間を感じ、受動的から主動的に体が動き出すことを舞で表現する。自分が発した言葉の音や意味からその内面に向かう『言舞』といものなど。色んな人がその稽古場に来ていた。他の舞踏の団体に所属している人や、自分の団体を開いて指導している人、芸術大学の学生、ミュージシャン、演劇関係者、主婦、看護婦、映像関係者、教師、会社員、公務員などなど。たくさんの団体を行き渡っている人が、『ここの稽古はきつい。』と言って去っていく人もいた。普段看護婦の仕事や主婦をしている人達のほうが長続きしていた。とにかく、てんやわんややった。指導者であるYさんはうまくそれをまとめていた。稽古の後に居酒屋で話しをする時間が楽しみやった。一番印象に残っている稽古が、1日中ただひたすら歩く『歩行』という稽古。基本的には歩くのやけど、ダッシュやマラソンのように走る要素もやりながら、なん10kmも歩くのだ。一列に並び、1日で50~120km歩く。みな背中にはだいだい10kg、20kgの荷物を背負う。衣装や寝袋、アウトドアのグッズなどをリュックに入れていた。大阪から和歌山や神戸や奈良。ある年の夏に合宿で大阪から高知まで歩いたこともあった。高知に渡る時は船に乗ったけど、高知に着いて歩き続けて夜中になっていた。汗も出きって体の痛みも分からなくなり、夜中で街灯もほとんどなく真っ暗やったわ。普段都会では夜でも街灯があり、明るさがあるが、電気がないと夜はこんなに深い暗闇なんやということを実感した。歩きながら瞑想。そんな感覚やった。ふわふわ体が浮いてさっきまであんなに重かった体が軽くなったりしていた。後から聞いたんやけど、面白かったのが歩きながら寝てる人がいた。おれの場合は歩きながら時の流れを感じた。まわりがとてもゆっくり見えた。たまに横切る車がものすごくゆっくりに見えたり、感覚だけがなんkm先にいってたり。舞踏をやってから日常に戻ると常識があまりなくなった。おかげで人からは変わってるなぁ、よく言われる。『変わってるってのは、変わり続けてるってことやからなぁ。』などとえらそげにほざいていたことは、今想えば少し恥ずかしい。この舞踏をしらずに生きていたら、『常識』という概念で自分をコントロールし、機械のように生きてたかもしれない。そんな生き方をしてたら、人の気持ちとか痛みや喜びを分からず生きてた気がする。考えたら恐ろしい。今日は七夕や。短冊に書くかわりにこの言葉をここに記しておこう。【せこくまとまらずに生きていこう ☆ OKZ】
2006.07.07
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10年以上前にある舞踏の稽古場に通ってた。舞踏はもともと土方巽という人が新しい表現ジャンルとして生み出したものだ。舞踏は肉体表現ではあるが、その本質は世間知らず、世界知らずのおれにはとても深いものやった。土方巽は舞踏を『舞踏は突っ立った死体である』と一言で表現してはる。言葉の表現はどうあれ、土方巽は精神や宇宙のことを知っていたんやと思っている。思想、宗教、表現、哲学、身体、心、精神、宇宙、心理学など様々なことを学んだ。そしておれが通っていた稽古場にはYさんという人がいた。Yさんは土方巽の本質をとらえ、独自で舞踏をやってはる人やった。『舞踏は時代が生んだもの。おれは舞踏を終わらせるために舞踏をやっている。』と言ってはった。現在、舞踏から新しく生み出されていった肉体表現がたくさん出てきた。海外でもすでに日本で生まれた舞踏から、更に新しく生まれた肉体表現が独自の基を創りあげている。表現だけでなく、社会、宗教、芸術、学問、商売…きりがないけど、先駆者達がいて今があり、自分がある。そうやって様々なものが伝承されてきた。そうしておれはまだ知らぬ愛を学んでいってる。自分の人生の核は、これに尽き生きていくことやと決めた時から軸があう。暑い夏ももうすぐや。おれは生きた汗を流すで♪
2006.07.02
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いつも読んで頂いてありがとうございます。愛を学び中のOKZです。愛が発生する現象を考えて簡単にまとめてみました。現象ってなんぞや?>(形となってあらわれることです。)内面に向かうことで、感受性を豊かに高め、精神が分かったり、宇宙を感じたり、悟ったり、光や命、魂、生命を感じた状態を仮にいのちの開放とする。一方で現実に生きるうえで開放に対して苦痛などの矛盾が生じる。その矛盾を表に顕し表現することや、ものを創っていき創造することが人の本来の役割なのではないやろか。その場所には人と人が共に生きている哀しさ、苦痛、腹立たしさ、楽しさ、喜びなどの実感があることで共感し感応し、ひとつの愛とする。愛を継続し経験を増やすことで表現、創造に繋がっていくのだと考えます。…とまぁ、自分で打ってる途中で気がついたんやけど、ちょっと堅苦しいなぁ。誰に対しても同じように接する自分であろう。よっしゃぁ!!!読んで頂いてありがとう!!!♪押忍♪
2006.07.02
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