海外ロングステイ

海外ロングステイ

July 29, 2018
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今日は小春日和の天気もいい日。先生福井から車で来られるとのこと。全員緊張していました。ギブスと松葉杖。頭に包帯を予想して。先生皆さんに話したいお気持ちわかりますが・・・
 先生教室に来られた。肩から腕をつっているだけ?みんな感極まって拍手喝采。良かった良かった。
木林さんの挨拶の後先生、入院の疲れかやや顔につやがないが、なんと数日前まで手が鬱血で黒くなっていたそうであります。
先生にこにこしながら話し出した。まだ病院に入院しています。病院に入って気づいたことをぜひ伝えたい。苦しむために悲しむために皆さんがうまれてきたことが私にはわからない。本当に皆さんは心配事が好きなのですね。ほんとは人生が幸せになるために生まれてきた.幸せを望んでいるのに、幸せがなにか書けない。だが不幸はいや、程度の比較しかできない。もっと幸せになろうよ。
ここで「幸せなら手をたたこう」を歌う。
幸せなら 手をたたこう
幸せなら 手をたたこう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 手をたたこう
幸せなら 肩たたこう
幸せなら 肩たたこう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 肩たたこう
幸せなら 手をつなごう
幸せなら 手をつなごう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 手をつなごう
現物とか現象を対象として幸せかどうかを判断していますが、みんな1人1人違います。遺伝子が違うように精子と卵子の出会った時からみんな異なっています。
ありがたくないですが死を求めないものは経験がないからです。
では幸せをいつ経験したか。過去何千年と経験していることなのに、今日どうやって生きていますか、先の世の借りを返すためですか。
味覚なら塩はしょっぱい。からくもない。
でも味わっていないとわからない
同じく涅槃に入る事は説明してもわからない。
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参考 涅槃 ねはん 
ニルヴァーナは「吹き消すこと、吹き消された状態」を表し、仏教では煩悩の火が吹き消され、煩悩から解放された悟りの境地を表す。また、死、特に釈迦の死を表す。
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あれしていけないという規範に皆さんいじめられている。
毎日心配している人は、幸せというイメージができあがったものと考えてます。
今日の私の行動は筋書きが提出された日で、福井から自動車にのり、こうしてここに来ています。
そして怪我したおかげで足1本内臓1つ新しい命が与えられた.肺にも感謝。
感謝はどのくらい深い?
命が私の方に流れてきます。この深い幸せがあるのに何処に不満があるの。幸せのために生まれてきたのに。毎日毎日 株だ。円が上がった・・・何処に幸せがありますか。
少ないより多い方が本当に良いのか。
お金は交換する道具なのに、お金を増やす手段にしている。株をどんどん買っては損して売る羽目になる。財産全部取られることになる.いままでお金を持ったことのなく急にお金を持った人の不幸せ。人の心に写る状況が幸せという現象を生み出す。
稲盛和夫さんが「忘己利他」を提唱しています。いいかえると「もうこりた」。
人の為に忘れて他を利するのは私にはできない。ところが世の道徳や宗教は人から必要とさえる存在になれと説得しますが、できもしないのに人にやれと教える。
この世の中に立派な人はいない.立派な部分があるだけである。
世の中にないと私たちが生きれないもの。
無理、嘘、虚飾、虚構。これが過去からずーと続いている。
勉強しても断食して修行してもこの状態は変わらない。
つまり常識が不幸にする鎖にしかならない
お釈迦様もイエスキリストも家や家族を捨てた。
ナザレから家族が迎えに来ていましたが、しかしキリストは自分の要求を聞いてくれる人が家族であると。
それに比べ私たちは日常の出来事に縛られています。さらに世間体に縛られ、結果虚構を築く。
今日もらった命。どれだけ幸せと思えるかにかかっています。
お釈迦様は、菩提樹の下で坐禅をなさりながら、暁の明星を眺めて悟りを得られた。その時、感じられたことは 
天地有情我 同時成道ス これが仏教の原点です。
天地=自然 有情=バランス
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参考
「我ト与ト二天地有情一 同時成道ス」
「自分と宇宙とが同時に真理(道)そのものとなった。」 と訳されるが、それは、この世のすばらしさの発見であり、現実の肯定である。とても、この世は正体のない空っぽの世界だと悟ったことばとは思えない。
 お釈迦様はこの世はすばらしいとおっしゃっている。私たちは今、そのすばらしい世界に生きていることを実感し、感謝しながら人生を送らなければ、時間がもったいないのだ。時は取り戻すことができないし、生まれてしまった以上、死へ向かって刻々と自分に与えられた時はすり減っていくのだから。
http://www16.ocn.ne.jp/~housyuji/bukyo/bukyo9.html
現象の悪にとらわれない世界観に立つ
実際、このように犬と人間の間にも「全面信頼する世界」があるのです。この「全面信頼する世界」は一般的に「良心」と言われているものです。「神性(しんせい)・仏性(ぶっしょう)」とか「真・善・美」と言った方がより的確で、人間が生きる上で最も大切にすべきものです。
 これは仏教の開祖である釈迦が「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)・有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)(山も川も草も木も国土も皆既に成れる仏である。天地一切のものは仏のいのちのあらわれであり、全てが大調和し合っている世界である)」と大悟したことであります。すべてのものが神仏のあらわれであるという価値観でみていく、「真に生きるべき道」を指し示した「世界観」(生長の家でいう「実相」)でもあります。人間はこの「世界観」に立って生活することにより、真の幸福を得ることが出来るのです。
http://www.jp.seicho-no-ie.org/faq/04/0407.html
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立山を見ると春白く夏青く冬又白くなると言う自然のバランスを持っています。
人間の科学と技術だけでは自然を止められない。
地球の有情変化に活かされている.自然の環境を安定するために台風や風が起きる.津波、地震さえ・・
山川草木国土悉皆成仏
悉皆=全部
イエスはみんな、くいあらためろ.神の国にいるんだ
神の国=自然
今回病院に入院して初めて普段感じない身体の一部分に感謝を持ちました。この指が動いている。新しい生命を今日もらっている。地球の上に置いてもらっている。一人一人違うように。環境が異なるし、各人遺伝子が違うし、あなたの居場所も異なる。
身口意。ひとは善も悪も行う人格を持っています。その行動で、1日1日代償を求めない行動をするのが大切です。言葉の理解でなく体験である。
「千聖不伝」言葉では伝わりません。
死ぬとき三途の川できれいに洗ってお釈迦様の前に出る。
今日どう生きるかが仏教のプロセスなんです。死んだら人生終わりと誰に教わったの。
仏教では輪廻転生を説きます。
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参考
輪廻転生について 仏教の死後観
仏教の死後の世界観は古代インド人が考えたものです。
インド人は現世を基本的には苦しみの多い世界と考え、以下の6つの世界(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)に分類し、死後はこの六道(ろくどう)を輪廻・転生すると考えたのです。
お釈迦様は六道輪廻では永遠に苦しみから逃れることができないと考え、極楽世界(輪廻を超越した世界)である浄土を考えたのです。
地獄の恐怖が浄土を生み出したと言っても過言ではないでしょう。
故人は浄土に往生し阿弥陀仏のもとで仏に成るべく修行をし続けておられるのです。仏教の真の目的は浄土においても仏に成ることです。
http://www8.ocn.ne.jp/~ohmybud/jihou6.html
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梅は木から地上に落ちて肉が腐り芽が出て別のところで生きる。
人生は旅の途中結果がプロセス。
信じなければ成らない天地の法則
聖書 最後の審判
 ★人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来る時、彼はその栄光の座に着くであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊と山羊とを分ける様に、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置くであろう。
 ★その時、王は右にいる人々に言うであろう、『私の父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受け継ぎなさい。あなた方は、私が空腹の時に食べさせ、乾いている時に飲ませ、旅人であった時に宿を貸し、裸であった時に着せ、病気の時に見舞い、獄にいた時に訪ねてくれたからである』。その時、正しい者達は言うであろう、『主よ、いつ、私達は、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、渇いているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、はだかなのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである』。
 ★それから、左にいる人々にも言うであろう、『呪われたものどもよ、私を離れて、悪魔とその使い達とのために用意されている永遠の火に入ってしまえ。あなた方は、私が空腹の時に食べさせず、渇いていた時に飲ませず、旅人であった時に宿を貸さず、はだかであった時に着せず、また病気の時や、獄にいた時に、私を訪ねてくれなかったからである』。その時、彼らまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、渇いておられ、旅人であり、はだかであり、病気であり、獄におられたのを見て私達はお世話をしませんでしたか』。その時、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の命に入るであろう」。
 マタイ25:31~46
羊は野性で飼われている。財産である。
この話では右の人がいい。法の鏡で見ろ。自然のことをやっただけの人が救われている
代償を求めないのでしたことを覚えていない。毎日のプロセス。乞食にパンを与えるのが大事。
三途の川を渡るのは今日なんだ。時の流れが川の流れにたとえている。
貪瞋痴 人の煩悩は『貪(とん・貪欲に求めること)、瞋(じん・自分の心に執着して怒ること)、痴(ち・無知で愚かな考え方に囚われること)』の“三毒”に帰結する、
人に発している煩悩。洗いなさいよ.続く命が人生をおくる
卵子と精子が出会い選ばれしものの出会い。老いは我と共に。私の時は神の御手の中にある。若いときは人生の旅の途中。格差社会の折り、何が得意なのと個性を育てるのが大事だ
介護だ.年金だ。今不安な人が必ず不安になる。ほんとは今日私たちは幸せなんだ。それを教室にいるみんなにいいに来ました。
今日も新しい人生。今日は身体が毎日蘇生するので一番若い
若い命が与えられた。老境に入ったとき幸せにつながりますよ
一寸法師は  昔、昔あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。子供のない二人は毎日子供が授かるよう神様に祈っていました。
「神様、どうか私たちに子供を授けてください。どんな小さな子供でも構いません。」
ある日のことです。驚いたことに、二人に小さな赤ん坊が授かりました、背の高さ一寸にも満たない男の子です。さっそく一寸法師と名付けました。二人は宝物のように育てました。
村の子供たちはからかいました。「一寸、一寸、一寸法師」と。
おばあさんはとても腹を立てて「おだまりなさい。」と追い返しました。 
しかし一寸法師はたくましい頭のいい子供になりました。ある日こう言いました。
「お父さん、お母さん、私に針と藁とおわんと箸を下さい。」
「一体どうする気ですか。」とおばあさん。
「針は剣、藁はさや、おわんは船、箸はかいです。都に行って武士になるつもりです。」
二人は許しを上げました。さっそく一寸法師は都へと向かいました。
途中、ありに会いました。
 「ありさん、川はどこですか。」
「たんぽぽ畑のところです。」
川につくと、おわんに飛び乗ると、矢のように川を下っていきました。魚が一寸法師に向かって来ました。魚は美味しい食べ物とまちがえたのです。一寸法師は箸をつかって追い払いました。波に揺られ、雨にうたれ、風に吹かれ、やっとのことで都に着きました。
誇らしげに町を歩いていくと大きな立派な家が見えてきました。一寸法師はそこで働くことを思いつきました。
「門を開けてください。お願いがあります。」
主人は門をあけるとあたりを見回しましたが誰もいません。
「一体だれだ。誰も見えんぞ。」
「あなたの足元にいます。」
 主人は下駄のそばに一寸法師を見つけました。
「私は一寸法師と申します。ここで働かせてもらいたいと思います。」
「お前はなかなか活発で頭が良さそうだ。よし家来にしてやろう。」
この主人には美しい娘がおりました。一寸法師は読み書きを教わりました。一寸法師は頭が良くてすぐ理解してしまいました。   
ある日、娘は一寸法師を連れてお宮参りに出かけました。途中、大きな鬼に出会いました。鬼は娘をさらいに来たのです。
「悪い鬼め。お嬢さんにちょっとでも手を出せばただではおかないぞ。」
「生意気な。食べてしまうぞ。」と鬼は言うと一気に飲み込んでしまいました。
「いたた、いたた...」
 一寸法師は針でお腹の中を刺しました。
「いたた。死んでしまう。降参だ。助けてくれ。」
鬼は一寸法師を吹き出すと山の方へ一目散に逃げて行きました。
「助けてくれてありがとう。あなたは小さいけど、とても勇敢で強いのね。」
「ちっと見てください。鬼が何か忘れていきました。これは何でしょう。」
「これはうちでの小槌というものです。これを振ると欲しいものが何でも手に入ります。一寸法師、あなたは何が欲しいですか。」
「私は大きくなりたいです。」
うちでの小槌をふると、一寸法師はぐんぐん大きくなりあっと言う間に立派な大人になりました。
一寸法師は娘さんと結婚し、望んだ通り立派な武士になりました。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/7211/Japanese/issunhousi.html
生まれたのが一寸法師だった。普通ならこんな子供はいらない。犬からも友達からもバカにされる。しかし親から毎日愛されているのでちっともバカにされているとは思わない
年取ってからお椀と針をもらい、都に行く。
娘のおもちゃとして一寸法師がお姫様のお供になった。鬼がくると回りは逃げていくが一寸法師だけは鬼に飲み込まれておなかの中で戦い、鬼が勘弁してくれと鼻から出て、打ちでの小槌をもらう。
〇自分の居場所で花を咲かせましょう
毎日のつながりが老境につながる。自分の利益を考えなさい。今持っているが発揮していない自分の役割居場所を考えよう。体験してください。勉強は嘘の証拠を学ぶだけ。
幸せは自利ですよ。天がやってくれて利他につながる
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参考
ボランティアの根本精神は「自利利他」(維摩経)である。
自らを生かし、他者を生かすということ。
自分のことは、さておき人のためになにかをしなさい、ではなく、自分を生かすボランティアをやっている人は、他者も生かすことができる。
本当の自利の精神があって、利他の心が機能するのだ。
人は、自分がおぼれながら、おぼれた人を助けることは、できない。
ゆったりした中道の心で自分を活かし、相手を生かす。
これが、ボランティア活動にとって大切な「生き方」なのである。
http://jiririta.net/jiririta.html
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自利自利で他を愛せるようになる。人生神様が別の筋書きを書いてくれた。いままで不思議に導かれてきたな。
質問のなかから
子供に孝行といのはおかしい。親と子は一つである
許すというのはうれしいことである。子供への負担は関係ない。
五蘊盛苦(ごうんじょうく)とは五感に入っていく情報煩悩が盛んになる。
往生常楽(往生十楽?)の状態です。
しかし自利で求めても、つまり四苦八苦がない。感謝以外無い。
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参考
仏法では生老病死を四苦というように申します。
これらが何故苦しみとなるのかという理由は、
案外知られていないのではないでしょうか。
それは仏法の教えでは、
私たちの心は四つの満たしたい尺度を持っているからだといわれています。
その四つの尺度とは常・楽・我・浄といいます。
最初の「常」というのは、常なることであり、いつまでもいつまでもと願うことです。
いつまでも若くありたいとか、いつまでも長生きしたいというのが私たちの心ではないでしょうか。
次の「楽」というのは、
字のとおり、楽しいことであり、快適なことであり、不都合なことを嫌う心です。
三番目の「我」とは、私がいつも中心であることを主張し、無視されることを何よりも恐れることです。
最後の「浄」というのは、
自分や自分に属するものが善きことであり、非難されるものは何も無いと主張することです。これらの四つが私たちの理想とするところで、
この四つを満たそうと絶えずがんばっているのが私たちの姿ではないでしょうか。
ところがこれらは到底満たされることはありません。
何故なら、わが身の事実は、
老い、病み、やがては死する身だからです。
ですから私の心の尺度である常・楽・我・浄を実現させようとする限り、
身の事実と矛盾して、
苦しみが絶えることは無いというのが仏教の教えるところです。
それで、このような常・楽・我・浄という智恵は、
仏教の言葉では「四顛倒(してんどう)」といいます。
四つの道理に背く見解ということです。
ところが私たちはものごころついて以来、
常・楽・我・浄を満たそうという生き方しか知りませんから、
自分の思いどおりにならないことに、しばしば遭遇してしまうということになってしまいます。それというのも、自分というものを中心にものを考えているためではないでしょうか。
自分を中心にものを見ると、自分の身体でさえ自分が生き延びるための手段のように考えてしまいます。ですから老いてゆく身を嫌い、病いになる身を恨み、やがては命終わってしまう身を恐れて生きるということになります。
仏法はそういう私たちに目覚めを促しているのです。
弥陀如来が浄土に往生せんと願って念仏せよと勧めてくださることによって、
自分自身の姿が明らかに照らし出され、自分の姿に目覚めるということが起こります。
それが常・楽・我・浄という道理に背くことを追い求め続けて、苦の絶えることの無い人生であったという目覚めです。目覚めてみれば、苦の原因ははっきりするのですから、
最早、苦に押しつぶされることは無くなるのです。
参考
二、『欣求浄土』
大文第二に欣求浄土(ごんぐじょうど)というのは、極楽の国土と衆生とは、その功徳が無量で、百劫、千劫という長い時を経ても、説き尽すことはできない。数量でも喩えでも、また知ることはできない。けれども、《群疑論》には極楽浄土の三十種の徳益を明かし、《安国鈔》には二十四種の楽を挙げている。
極楽浄土を褒めたたえることは、人の心によるということが知られている。
今、十種の楽を挙げて、浄土を讃えるが、それはちょうど、一本の毛に滴る大海の水である。
第一には聖衆来迎楽(しょうじゅらいごうらく)、
第二には蓮華初開楽(れんげしょかいらく)、
第三には身相神通楽(しんそうじんつうらく)、
第四には五妙境界楽(ごみょうきょうがいらく)、
第五には快楽無退楽(けらくむたいらく)、
第六には引接結縁楽(いんじょうけちえんらく)、
第七には聖衆倶会楽(しょうじゅくえらく)、
第八には見仏聞法楽(けんぶつもんぽうらく)、
第九には随心供仏楽(ずいしんくぶつらく)、
第十には増進仏道楽(ぞうしんぶつどうらく)である。
欣求浄土ー聖衆来迎楽(しょうじゅらいごうらく)
第一の聖衆来迎楽とは、およそ悪業の人が命尽きる時、身体の中の風の要素(動き、成長)と火の要素(熱、成熟)が、まず無くなる。それゆえ、動乱し発熱して苦しみが多い
善行の人は命尽きる時、身体の中の地の要素(物、保持)と水の要素(潤い、集める)とが、まず無くなる。その人の臨終はおだやかで、苦しみがない。まして、念仏の功徳を積み、浄土に心を寄せることに長い年月を重ねた者は、臨終の時、大きな喜びが自然と湧いてくる。
その理由を述べると、阿弥陀如来が、多くの菩薩や百千の比丘たちと共に、大光明を放ち、はっきりと目の前に現われる。その時、大悲の観世音菩薩は、多くの福徳を持つその手を差し伸ばし、宝の蓮台(蓮の台座)を捧げて、念仏行者の前に来られ、大勢至菩薩は、無量の聖なる衆と、同時に讃めたたえ、手を差しのべ、導いてくれる。
この時、念仏行者は、まのあたりに自らこれを見て、心は歓喜し、心身安楽を得る。
まさに知るべきである、ひとり、草庵(小さな家)で目を閉じる時が、すなわち蓮台に坐る時である。そこで阿弥陀仏の後に従い、菩薩たちの仲間に加わり、一念の間に西方の極楽世界に生まれることができる。(観無量寿経、平等覚経、などによる)
かの?利天(とうりてん)の億千年もの楽しみや大梵王宮(だいぼんのうぐう)の深い禅定(悟りの境地)の楽しみ、これら諸々の楽しみは、まだ本当の楽しみとするには足らぬ。それらは、生まれ変わり、死に変わりあり、ついには三途を免れられないのである。ところが、今、観音の掌(たなごころ、手のひら)において、宝の蓮華台に身を託し、永く苦しみの海を越え、初めて浄土に往生するのである。その時の歓喜の心は、言葉で言い尽くすことはできない。
http://amiter.blog.fc2.com/blog-entry-34.html
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冬のある日朝10時頃空港行きのバス停を探すのに駅の薬局でお聞きした.お嬢さんが親切にバス停まで連れてくださった.しばらく待っているとそのお嬢さんが通りかかり、声をかけてくれて,又店に入って暖かいお茶をもって来てくださった。何気ない行動ながら実に感謝に堪えない行動である.是非皆さんも周りの人たちに1日1回の親切をしていただきたい.それがお釈迦様やキリストに対して行うのと同じです。





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Last updated  August 10, 2018 10:16:51 AM
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