まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2022.11.11
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ここ何ヶ月か、
俳句について分からないことがありました。
それは「切れ」の役割についてです。

切れの役割とは、
たんなる「詠嘆」なのか、
あるいは「場面転換」も兼ねるのか。

すなわち、
切れによってカットが切り替わるのか否か。

多くの俳句では、
切れが「詠嘆」と「場面転換」の両方を兼ねますが、
詠嘆してるだけで場面転換が起こらない俳句もある。

その場合は、
2つのカットの取り合わせになってないし、
もちろん二物衝撃も起こっていません。
見かけに反して二句一章ではなく、
むしろ一句一章のような内容になっている。

そういう句が結構あります。

たとえば芭蕉の句。
五月雨をあつめて早し 最上川

これは中七で切れていますが、
二句一章ではないし、まして二物衝撃ではありません。
あきらかに一句一章です。



しかし、先日、
▼以下の記事を読んでようやく謎が解けました。
〝古池や~〟型発句の完成~芭蕉の切字用法の一として~

結論から言うと、
江戸時代の近世の俳句と、明治以降の近代の俳句で、
大きくシステムが変わったということ。

すくなくとも芭蕉の時代の近世の俳句には、
「切れによって場面が変わる」という考え方はなかった。
したがって、二物衝撃という考え方もありませんでした。

以前も こちらの追記 に書いたけど、
それは明治の終わりごろに大須賀乙字が考えた俳句のシステムです。

なお、上掲の記事には、
芭蕉の「古池」の句についての、
山本健吉の文章の以下の引用があります。

「や」と (初五に) 置いて、作者によって切取られた客観世界の実在感を、はっきりと指し示す。だから、これに続く七五は、そのやうな認識、そのやうな実在感の具象化であり、言はばリフレーンであり、「もどき」に過ぎないのだ。初五によって示された力強い、大胆な、即時的・断定的・直覚的把握が、七五によって示された具象的・細叙的な反省された把握によって上塗りされ、この二重映しの上に微妙なハーモニーを醸し出すのだ。だから「古池」の句は、厳密に言へば 二つのものの取合せではなく、一つの主題の反復であり、積重ねである と言ふべきである。(「俳諧についての十八章」六、「や」についての考察)

ここにすべての答えがありました。



上掲の記事からは、以下の2つのことが言えると思います。

第一に、
連歌において「切れ」は発句の世界観を独立させるためのものだった。
本来は下五の「かな」で切ることが多かったが、
しだいに上五や中七に切れを置いて、
発句のとりわけ主題部分を際立たせるようになった。

第二に、
「季語」はかならずしも主役ではなく、
むしろ発句の主題に季節感を添えるための脇役だった。

ちなみに、
江戸時代にも「取り合わせ」という概念はありましたが、
それは、異なる場面やカットを取り合わせて衝撃させることではなく、
主題に対して、いかなる具象的・細叙的な要素を取り合わせるか、
ということだったのでしょう。



その上で、
江戸時代の俳句をあらためて見てみます。

松尾芭蕉。
古池や 蛙飛び込む水の音
(江戸時代)

この句の主題は「古池」です。
春の季語の「蛙」ではありません。

そして発句の主題を際立たせるために、
上五の切れでいったん「古池」を詠嘆している。

そして中七・下五は、
それを具象的・細叙的に描いた反復に過ぎない。
切れによって「場面転換」は起こっていません。

なお、この句には、
「古池」の案と「山吹」の案があったと言われていますが、
それは、主題そのものの選択の問題だったのであり、
たんに「蛙」の背景の問題だったわけではない。

与謝蕪村。
春の海 終日 ひねもす のたりのたりかな
(江戸時代)

上五で切れていますが、
これも場面転換は起こっていない。

したがって、
(わたしはずっと誤解していたわけですがw)
「春の海だなあ!私は日がな一日グータラしているよ。」
という意味ではありません。

中七・下五は、
あくまでも上五を細叙的に反復したものであり、
「春の海だなあ!その海は一日中のたりのたり波打っているよ。」
みたいに解釈するのが正しい。

先の芭蕉の句も、
「古池だなあ!その池では春のカエルの飛び込む水の音がするよ。」
みたいに解釈するのが正しい。

さらに芭蕉。
五月雨をあつめて早し 最上川

この句の主題は夏の季語の「五月雨」ではありません。
あくまでも下五の「最上川」です。

中七が終止形で切れていますが、場面転換は起こっていません。
「五月雨を集めて勢いを増しているなあ。それは最上川だよ!」
みたいな意味です。



そして、現在でもなお、
近世的なシステムで作られている俳句はある…ということ。

波多野爽波。
チューリップ 花びら外れかけてをり
(平成)
丘みどり。
夏の雲 サイドミラーにひしめきぬ
(プレバト)

いすれも上五で切れていますが、場面転換は起こっていません。
「チューリップだなあ!その花びらが外れかけているよ。」
「夏の雲だなあ!それがサイドミラーにひしめいているよ。」
みたいな意味です。



本来、連歌の発句の切れは下五にあったけれど、
上五や中七にさらに強い切れを置いて、発句の主題を際立たせた。
いわば 「切れ」の入れ子構造 です。

そして、この様式が、
連歌の発句を「俳句」として自立させたのだと言ってよい。

切れの中には、
「場面転換」 (カット割り) を伴わない切れもあるということ。
また、
「季語を主役にする」というのも絶対的な規則ではなく、
じつは季語を主役にしない俳句もありうるということ。
むしろ、連歌の発句において、
季語は脇役であることのほうが普通だったのだと思います。

こうしてみると、
わたしの過去の解釈も修正すべきところがかなりあります。

とくに、
NHKの「短歌・俳句100選」における江戸時代の俳句については、
ほとんどの解釈を修正しなきゃいけないっぽい。

事実、
以下のような句は、
すべて近世的なシステムで作られていたと見るべきです。

松尾芭蕉。
閑さや 岩にしみ入蝉の声
(江戸時代)
松尾芭蕉。
荒海や 佐渡によこたふ天河 あまのがわ
(江戸時代)
野沢凡兆。
なが〱と川一筋や 雪の原
(江戸時代)

いずれも場面転換は起こっておらず、
それぞれ「閑さ」「荒海」「雪の原」が主題であり、
かならずしも季語は主役ではありません。

それから、
たとえば先週のプレバトのキスマイ横尾の句などについても、
評価のしかたを見直さなきゃいけません。

金秋のローンチ 駅のおむすび屋


ここでの名詞止めによる切れは、場面転換をもたらしていません。
したがって、これは対句表現ではなく、
前段を主題と見れば、後段は細叙的な反復と言うべきだし、
どちらかというと、むしろ後段のほうが主題なのかもしれません。





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最終更新日  2023.09.24 21:14:09


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