第八十五段
むかし、男ありけり。童より仕うまつりける君、御髪おろしたまうてけり。睦月にはかならずまうでけり。おほやけの宮仕へしければ、常にはえまうでず。されど、もとの心うしなはで、まうでけるになむありける。むかし仕うまつりし人、俗なる、禅師なる、あまた参り集まりて、睦月なればことたつとて、大御酒たまひけり。雪こぼすがごと降りて、ひねもすにやまず。みな人酔ひて、雪に降りこめられたりといふを題にて、歌ありけり。
思へども 身をしわけねば 目離れせぬ 雪の積もるぞ わが心なる
とよめりければ、親王、いといたうあはれがりたまうて、御衣ぬぎてたまへりけり。
〇童=元服前の子供。
〇仕うまつる=「つかふ」の謙譲語。
〇君=主君。
〇御髪おろす=貴人が頭髪を剃って仏門に入る。
〇睦月=陰暦の一月の異名。
〇まうづ=参上する。お伺いする。
〇おほやけの宮仕へ=朝廷への出仕。
〇常にはえまうでず=いつも参上するというわけにはいかない。
〇されど=しかし。そうではあるが。
〇もとの心=以前お仕えしていたころの気持ち。
〇俗なる=俗人。僧でない人。
〇禅師なる=僧。法師。
〇あまた=数多く。
〇ことたつ=特別なことをする。
〇大御酒=神や天皇・主君に献上する酒。
〇たまふ=「あたふ」「さづく」の尊敬語。お与えになる。下さる。
〇ごと=上代・中古には、「ごとし」の語幹相当部だけでも用いられた。
〇ひねもすに=朝から晩まで。
〇みな人=その場にいる人すべて。
〇雪に降りこめられたりといふを題にて、歌ありけり。
〇思へども=つねに親王の元に参上したいと思うけれども。
〇身をしわけねば=肉体を二つに分けるわけにもいかないので。「し」は強意の副助詞。「ね」は、打消しの助動詞「ず」の已然形。
〇目離れせぬ=目が離せない。会うことが少なくならない。
〇親王=天皇の兄弟および皇子。ここでは、惟喬親王(八四四~八九七年)。文徳天皇の第一皇子。別称は、小野の宮。また、水無瀬の宮。藤原氏の勢力に皇位を阻止され、出家して不遇の生涯を終えた。
〇あはれがる=称賛する。
〇御衣=お着物。衣服を敬った言い方。
【訳】
むかし、男がいた。元服する前の子供の子供のころからお仕え申し上げていた主君が、髪を剃って出家なさってしまった。一月には必ず参上していた。朝廷への出仕をしていたので、いつも主君のところに参上するというわけにはいかなかった。そうではあるが、以前お仕えしていたころの心を失うことなく、参上していた。むかしお仕えしていた人が、俗人も、僧も、数多く参上し集まって、一月なので特別なことをするというので、御酒を頂いた。雪がまるで器から水をこぼすように降って、朝から晩までやまない。その場にいる人がすべて酒に酔って、「雪のために屋敷に閉じ込められた」ということを題として歌を作った。いつも惟喬親王の元に参上したいと思うけれども一つしかない肉体を二つに分けるわけにもいかないので、どんどん積もるために目が離せないこの雪のように、お会いすることが減らないようにしたいという思いが積もるのが私の今の心境でございます。
と作ったところ、親王が、とてもひどく感動なさって、お着物をお脱ぎになってくださった。