第八十四段
【本文】
むかし、男ありけり。身はいやしながら、母なむ宮なりける。その母、長岡といふ所に住み給ひけり。子は京に宮仕へしければ、まうづとしけれど、しばしばえまうでず。一つ子にさへありければ、いとかなしうし給ひけり。さるに、師走ばかりに、とみのこととて御文あり。おどろきて見れば、歌あり。
老いぬれば さらぬ別れの ありといへば いよいよ見まく ほしき君かな
世の中に さらぬ別れの なくもがな 千代もと祈る 人の子のため
【注】
〇身=身分。身の上。
〇いやし=身分が低い。
〇ながら=逆接条件を示す接続助詞。~けれども。~ものの。
〇宮=皇族。
〇長岡=山城国乙訓郡の地名。平安京の南西にあたり、平安遷都まえの十年間、桓武天皇の都があった。
〇宮仕へ=宮中に仕えること。
〇まうづ=参上する。
〇しばしば=しきりに。
〇え~ず=~することができない。
〇一つ子=一人っ子。
〇かなしうす=かわいがる。いとおしむ。
〇さるに=ところが。そうしているところに。『伊勢物語』七十八段「さるに、かの大将、いでてたばかりたまふやう」。
〇師走=陰暦十二月。
〇ばかり=くらい。ほど。
〇とみのこと=急な用事。
〇御文あり=お手紙がきた。
〇おどろきて=はっとして。
〇老いぬれば=年を取ってしまうと。
〇さらぬ別れ=死別。
〇いよいよ=ますます。ふだんよりもいっそう。
〇見まくほしき君かな=お目にかかりたいあなただなあ。『万葉集』一〇一四番「あすさへ見まくほしき君かも」。
〇いたう=ひどく。はなはだしく。
〇もがな=願望の終助詞「もが」に感動の間投助詞「な」がついたもの。~だといいなあ。
〇千代=千年。極めて長い年月。
〇祈る=神仏に願いをかける。
【訳】
むかし、男がいた。身分は低かったが、母は皇族であった。その母が、長岡という所に暮しておられた。子は京で宮中へ出仕していたので、母の所に伺おうとは思っていたのだけれど、ひんぱんに伺うということはできなかった。親にとっては一人っ子でもあったので、とてもかわいがっていらっしゃった。そうしていたところが、十二月ごろに、急な用事ということで御手紙がきた。はっとして目を通したところ、歌が書かれていた。
年を取ってしまうと死別というものがあるというので、ふだんよりもいっそう会いたいあなたですよ。
例の子が、ひどく泣いて作った歌、
世の中に死別が無ければいいのになあ、親が千年も長生きしてほしいと神仏に願う子どものために。