伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2016年01月25日
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伊賀市上野恵比須町にある山渓禅寺の
 藤堂正高の墓と伝えられています。


藤堂正高は藩主、藤堂高虎の異母弟で初代伊賀城代家老、藤堂高清の弟です
正高は徳川家康に大名の身内が人質に出された第一号ではないかと思われます。
第一号の人質は、前田利家が母を差し出した時、慶長5年(1600)のこととされていますすが、
高虎が弟正高を江戸に人質として差し出したのは、慶長4年(1599) 3月 徳川家康が伏見城西の丸
に入って、諸将に帰国を命じたときとされているので
第一号の人質は当時十一歳の正高だと思われます。

まだ、関ヶ原の戦いがおこるかどうかもわからない段階で、なぜ高虎は人質を出したので
しょうか。
おそらく、高虎は家康と三成とが戦いをはじめるであろうことを見通し、早くから、
「自分は家康様のために働く覚悟です」とアピールするためだったのでしょう。 こうした
高虎の行動を、「風見鶏」だとか、悪くいう傾向がありますが、これは、江戸時代の儒教的
武士道徳が定着してからの評価で戦国時代は強い者に付くことは当然の選択だったのです。


正高はその人質の間、家康・徳川秀忠に気に入られ、下総国内で3千石を与えられ、内匠助を
称するように命じられます。1605年に高虎の息子・高次らが人質として江戸に送られた
ため帰国しました。

家康より下総(千葉県香取郡神崎町)に与えられた3000石の地では今もその藩政を讃えた
「下総国香取郡藤堂氏旧封邑之碑」が 建っています。



藤堂新七郎家の墓、
藩主高虎の従兄弟筋に当たり芭蕉が料理人として使えた家で嫡男、良忠とは共に京都の
北村季吟に俳句を学びました。



その藤堂良忠の墓

芭蕉は主にこの良忠に使えましたが若くして亡くなり、芭蕉も料理人を辞めました。
家督を継ぐ前に亡くなったので代々の墓ではなく独立したこの墓に祀られています。




山渓寺境内 句碑
「若水乃(の)玉と まろふをふゝむなる」
右下作者名 米寿翁干柿
杉森干柿(万之輔)初代上野市長





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Last updated  2024年04月08日 13時01分46秒
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