2011年12月05日
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カテゴリ: 秋山真之伝記
 明治38年5月27日。

 この日は天気は晴朗でしたが、

 海面に濛気(モウキ、もうもうと立ちこめる霧やもや)があって、

 10km先が目視で何とか確認できる程度でした。


 風力は5から7(8mから17m/秒)。

 波濤は砕けて白い泡が風に吹き流されていたことでしょう。


 8時50分、連合艦隊旗艦「三笠」のマストに、

 水雷艇隊に向けて次の内容を示す信号旗が掲げられました。

 『航海に困難ならば三浦湾に避け、時機を見て艦隊に合すべし』


 この波濤の激しさから、

 100トンほどの小船に過ぎない水雷艇隊の航海は困難と判断されたための処置でした。


 しかし、秋山真之先任参謀の考案した秘密兵器「 連繋水雷 」作戦を実行する

 「奇襲隊」(装甲巡洋艦「浅間」(9,700トン)、第1駆逐隊(300トンクラス)、第9水雷艇隊(100トンクラス))は、

 第1戦隊(三笠以下、連合艦隊の主力)の後方に位置しており、

 大波に翻弄されながらもなんとか本隊に付いて航行していたのです。


 この「奇襲隊」の戦策が発令されたのは、

 10日前の5月17日のことでした。


 この時、第2艦隊参謀長藤井較一(コウイチ)大佐は、

 連合艦隊参謀長加藤友三郎少将にこの戦策の撤回を求めたのです。


 第2艦隊の主力である6隻の装甲巡洋艦の内の1隻を奇襲作戦に引き抜かれるので、

 第2艦隊の戦力が低下してしまうことを懸念したのです。


 第2艦隊単独で戦った蔚山沖(ウルサンオキ)海戦(明治37年8月14日)では、

 装甲巡洋艦6隻のうち2隻を引き抜かれており、

 藤井は、それが原因でウラジオストック艦隊を全滅できなかったと考えていたのかもしれません。


 藤井は、4月21日に発令された戦策も撤回要求し、

 加藤はこれを認めていたのです。


 多分、第1艦隊と第2艦隊は 抜き差しならない状況 になっていて、

 その融和に努める加藤は、

 藤井からの撤回要求を認めざるを得なかったのだと思います。


 5月17日の戦策撤回要求について、

 加藤は藤井に次のように語ったと伝えられています。


 「4月21日の戦策撤回についても東郷司令長官の許可をもらうのにさんざん苦労した。

 5月17日の戦策まで東郷司令長官に撤回を願い出るのはいささか困難である。

 そこで、この戦策は実行しないと約束するので、それで引き下がってもらいたい。」


 藤井は、海軍兵学校の同期生であり、

 自らの前任者(前第2艦隊参謀長)でもある加藤をこれ以上追い込むことを嫌ったのか、

 加藤との黙約を信じて引き下がったそうです。


 「いかに紛糾、錯雑せる案件に処するも、熱せず、惑わず、

 著々措弁(ソベン、物事をうまく取りはからい、処置すること)し去ること

 あたかも節々、刃を迎えて断つがごとし」

 と評されるほど明晰、冷酷な頭脳の持ち主であった加藤は、

 この奇襲作戦を大局的な見地から実行するべきであると決意していたにちがいないと思うのです。


 戦策の考案者である真之と真之の良き理解者である浅間艦長「八代六郎」大佐以外には、

 実行の決意を秘匿して、加藤はバルチック艦隊との決戦に臨んだものと思われます。


 しかし、波濤は時がたつにつれ更に強くなり、これ以上の水雷艇隊の帯同も、

 連繋水雷の敷設も困難であると判断されたようです。


 10時5分、「三笠」より奇襲隊に向けて次の無線電信が発せられました。

 『奇襲隊列を解く、所属隊に帰り列に入る。』


 八代は地団駄を踏んで悔しがり、

 藤井はこの処置を黙約通りと冷静に受け止めたことでしょう。


 加藤と真之といえば、これを悔しがる暇は無かったはずです。

 バルチック艦隊は目前に迫っており、最後の秘策を実行する時が、刻一刻と迫っていたからです。





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最終更新日  2011年12月05日 22時22分31秒
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