マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2007.06.14
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 昨日の記事で書き忘れたことがある。運河や堀の名になっていた「貞山」のことだ。これは仙台藩祖である伊達政宗の諡号(しごう=おくりな)。諡号は本人の死後、生前の徳を讃えて贈られる名前のことで、伊達藩では代々「山」がつくのが慣わしだった。だから「貞山堀」も「貞山運河」も政宗存命中の名称ではなく、その遺徳を偲び現代になってから命名されたものだ。

<雷神山古墳>

 名取市館腰の東北本線沿線の山上に雷神山古墳がある。全長168mの前方後円墳で東北地方最大の古墳だ。(第2位会津若松市大塚山古墳、第3位仙台市遠見塚古墳=108m)墳丘の下部は基盤を掘り出して造り、上部には盛り土をしている。そして墳丘の表面には葺石(ふきいし)を施している。この古墳に接するように直径54mの円墳である小塚古墳があるので探してみよう。

 河出書房新社「図説宮城県の歴史」1988年刊によれば、雷神山古墳は従来5世紀のものとされて来たがほぼ4世紀と考えられ、仙台市の遠見塚古墳に次いで古いとされて来た。だが最近では雷神山古墳の方がより古いと考えられているようだ。つまり名取で勢力を築いた豪族がやがて仙台平野へと進出したとの見方である。

 巨大な墓を造らせるだけの力を有した東北の豪族は、この墓制の源である近畿の豪族との結びつきがあったことは間違いない。だが、遠見塚古墳からの出土品がさほど豪華でなかったことは、その結びつきがさほど強固なものではなかったことを物語るようだ。

 名取市内には雷神山古墳のほかにも大塚山古墳などたくさんの古墳がある。この地が古くから開けていたことや、稲作によって富を集中して行く権力者の存在を裏づけ、東北の民が単なる蛮族ではなかったことを示している。それらが後代の奈良時代に陸奥国分寺、国分尼寺、仙台市郡山の官が跡、国庁としての多賀城の敷設へと繋がるのであろう。なお、東北地方最北部の前方後円墳は岩手県の水沢にある。

<実方中将の墓>

 名取市愛島塩手の山中に実方の墓がある。藤原実方は関白道長とは従兄弟同士で、美貌と中古三十六歌仙の一人として都では名高い人物だった。だが、宮中で藤原行成と歌のことで争い、行成の冠を奪って捨てた。この一件を知った一条天皇は実方を蔵人頭とし、「歌枕見て参れ」と陸奥守に任じた。

 こうした経緯によって実方は長徳元年(995年)任地の多賀城に赴任する。陸奥では事情を知った武士達に尊敬され、日夜奉仕されたと言う。足掛け4年が経過し、任を終えるに際して陸奥国の歌枕を訪ねる旅を続けるが、名高い出羽国千歳山の阿古耶の松を訪ねた帰り、名取郡笠島の道祖神社まで来た時に馬が泥道に足を取られ、落馬して重傷を負った。

 一説に因れば、土地の人が効験無双の道祖神の前では下馬するよう諌めたにも関わらず、実方は、「下品(げぼん)の女神にや、下馬に及ばず」と無視して過ぎようとしたらしい。土地の人達の手当の甲斐なく、長徳4年(998年)11月13日鬼籍に入った。(源平盛衰記)「みちのくの阿古耶の松をたずね得て 身は朽ち人となるぞ悲しき」が最期の歌。なお、阿古耶の松は山形市の千歳山山頂に何代目かの小松が植えられているが、現在は枯れている。ついでであるが笹谷峠にも阿古耶の松があると聞く。

 この実方の墓を文治2年(1186年)の秋、西行法師がわざわざ訪ね、「朽もせぬその名ばかりを留めおきて 枯野のすすきかたみにぞ見ゆ」と詠んだ。その500年後、奥の細道の途中に芭蕉はこの墓を訪れようとしたが雨で道が悪く詣でることが出来ず、「笠島はいずこ五月のぬかり道」と一句を手向けた。 





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Last updated  2007.06.14 21:24:54
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