マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2011.06.25
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カテゴリ: 俳句



   若夏の風ふところに王の墓       山城青尚



 先祖が眠るお墓を、沖縄では特に大事にする。沖縄の墓の起源が風葬墓だったことは前にも記した。それが高温高湿の風土に一番適していたからだ。かつて沖縄で集落を新たに作る場合は、風水思想に基づいて場所を選んだ。沖縄の言葉で「ふんし」と呼ぶ。これは墓も全く同様。それだけ重要な意味を持っていたのだ。

 先祖が眠る墓は、暮らしの直ぐ傍にあった。大勢の先祖は、子孫の繁栄と安寧を守ってくれる存在。琉球王国が中国の冊封体制下に組み込まれると、中国の墓制が伝わる。福建省に多い亀甲墓がそれ。巨大な石造りの亀甲墓は母の胎内を意味し、死後人は母の胎内に帰ると言う考えのようだ。

 句中の王墓は首里城の近くにある玉陵(国史跡、重要文化財、世界文化遺産指定)のこと。文字通り玉のように立派な陵で、「tamaーudun」のように発音する。udunは御殿で、王の死後の住まい。王の墓も王城の直ぐ傍に在って、王国を護る存在だったのだろう。玉陵は巨大な石造で、家のような形をした破風墓。正確ではないが幅は30m、奥行き10m、高さも5mほどはあると思う。ここは琉球第二王朝の墓で、基本的には王と王妃が葬られた。

 最初の王都である浦添には浦添城があるが、北面の崖下に「浦添ようどれ」と呼ばれる風葬墓があり、ここに初期の王達が眠っている。また、浦添以前の王統は旧佐敷町の城に居住していたが、その背後に「佐敷ようどれ」と呼ばれる王家の風葬墓があった。こうして見ると、沖縄の城は単なる政治の場所でなく、祭祀、宗教と不可分の関係にあったことが分かる。「ようどれ」は本来夕凪のことだが、「静謐な地」を意味するのだろう。

 若夏は「うりずん」の後、4月末から5月初めの頃を言う。昭和47年5月15日、沖縄は日本に返還された。その翌年に沖縄を会場にして特別に開催されたのが「若夏国体」。この時は天皇杯も皇后杯も無かったようだ。

 若夏の湿った風に包まれて、巨大な王墓が静まり返っている。広く東南アジアにまで貿易船を繰り出した琉球王朝当時の栄華は既に夢と消えた。今は一つの県として日本の最南端に位置し、防衛の最先端にある沖縄。その姿をかつての王や王妃達はどんな風に見ているのだろう。そして玉陵の屋根に鎮座するシーサー(獅子)は、今何から王を護るのだろう。

 慶長14年(1609年)島津藩の侵攻によってその支配下に屈した尚寧王は、生涯そのことを恥じ、代々の王が眠るこの玉陵に葬られることを拒んだ。清浄のため玉陵の庭に敷き詰められたサンゴの破片。そして墓陵の一角に茂るガジュマルは、王と王国の誇りを知っている。





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Last updated  2011.06.25 19:16:00
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