マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2011.07.01
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カテゴリ: 俳句



    豆打ちは乳の揺れ芭蕉布に委(まか)す       矢野野暮



 何とダイナミックな動きなのだろう。梅雨が明ける5月から6月が沖縄での大豆の収穫期。蓆(むしろ)の上に干した大豆の枝を手に取り、一心不乱に棒で叩いているおばあ。莢(さや)からバラバラと大豆がこぼれる。激しい動きで芭蕉布(ばしょうふ)の着ものがはだけ、おっぱいが揺れる。

 芭蕉布はイトバショウの繊維を織って作る。一反の布を織るのに必要な芭蕉は200本。野生のイトバショウは繊維が堅いため、すべて栽培で育てるようだ。切った芭蕉の皮を1枚ずつ剥ぎ、繊維を取り出す。全てが人の手による作業で、200本の芭蕉から糸を取り出すまでに20人で数日間かかるそうだ。

 芭蕉の繊維はとても弱く、その糸を1本ずつ結ぶ作業は面倒らしい。また1反の反物を織り上げるには4カ月を要する由。芭蕉布はとても軽くて涼しい夏向きの布。琉球王朝時代は貴族も農民もこの芭蕉布の着ものを着ていた。王府には王宮が管理する芭蕉園があったし、庶民はイトバショウを植えるための家庭菜園を持っていた由。

 イトバショウの栽培期間は3年間。繊維は内側ほど良質のものが取れるようだ。貴族や士族が着る上等のものは、「かせ」の段階で灰による精練を施すが、庶民用の物は布の状態で精練するようだ。現在では作り手も少なく高級品になっている。沖縄本島北部の大宜味村(おおぎみそん)喜如嘉(きじょか)集落が「芭蕉布の里」として有名。

 大宜味村は日本一の長命の村としても有名だった。村の男は腕の立つ船大工が多く、他の地方へ出稼ぎに行っていた。村に残った女の人が始めたのが芭蕉布の織りものだった由。戦後は米軍によってイトバショウが伐採される悲劇が起きた。蚊の発生を防ぐのがその理由だったようだ。これを復活させたのが2000年に人間国宝の指定を受けた平良敏子さんだった。

 3年前の7月。私は沖縄本島単独一周を目指す旅に出た。その3日目に最北端の辺戸岬を出発して名護に向かった。気温は33度ほどだが路上は45度を越え、私は2度軽い熱中症に罹った。とても走ることは出来ず、国道58号線をただノロノロと歩くだけ。この喜如嘉集落で食堂を見つけ、勇んで飛び込んだ。目当ての沖縄そばは売り切れで、私は何か他のものを食べたのだが、それが何だったのか思い出せない。

 ともかく冷たい水が美味しかったことは確かだ。そして食堂の外で、芭蕉が風に揺れているのがとても印象的だった。先日の会社のカラオケ大会で、私は部屋に置かれていた泡盛の古酒(クースー)をほとんど1人で飲んだ。そしておもむろにマイクを取って歌った。沖縄の歌「芭蕉布」だった。

 灰で精練した糸は白くならずに薄茶色。そしてティーチ(シャリンバイ)で染めると濃い茶色。この組み合わせが一般的なのだそうだが、最近では琉球藍で染めた紺も人気なのだとか。おばあが芭蕉布を着て豆打ちをしていた時代は、もうずいぶん遠い思い出になったのではないか。





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Last updated  2011.07.01 19:27:01
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