マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2012.01.14
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カテゴリ: 日本史全般
 幕末から明治へ(1) 

司馬遼太郎著「花神」全3巻を読み終えたのが先週の日曜日。それから1週間経って、ようやく興奮が治まった。長州の村医者の跡取りであった村田蔵六が蘭学を志して名高い緒方洪庵の適塾に学び、長崎に遊学後は宇和島藩に仕えて上士となり、さらに乞われて幕府の講武所教授となり、一転して長州藩の軍事顧問となって、幕府との間で生じた戦争の指揮を取る。

長州藩は攘夷の立場からイギリスなどとの戦って敗れ、それ以降は開国主義に転換した。豊富な財政で近代的な兵器を購入し、農民、町民、下士が中心となる軍隊を整えていたため、寄せ集めの幕府軍に圧勝する。一時は朝敵となった長州藩が薩摩藩の取りなしで京都へ向かい、討幕の中心となるが、その指揮を取ったのも蔵六(後の大村益次郎)だった。

さて、軍資金も軍勢も劣る官軍が幕府軍に勝てたのは、薩摩や海援隊の支援もあるが、蔵六が勝つための最良の方策を考え続けたからに他ならない。そして元来百姓身分の蔵六が、高杉晋作や西郷隆盛など武士の上位に立てたのは、桂小五郎(後の木戸孝允)の人を見る目があったことと、蔵六に私心がなかったことによると思う。官軍の勝利に貢献した蔵六は朝廷から千五百石の厚遇を得るが、酒のおかずは相変わらず「豆腐」と言う質素さだった。

新政府誕生の立役者となった蔵六だが、その最後はあっけない。彼の声望を妬み、自分の不遇を嘆く薩摩出身の一官吏が浪人をそそのかし、京都で暗殺する。暗殺を指示した海江田信義はその事実を隠し通し、後年子爵に列せられると言うのが悔しい。なお蔵六は近い将来西郷隆盛が反乱することを予測し、大阪にそのための軍事施設を準備させていたと言うから、やはり凄い能力の持ち主だったのだろう。

列強が日本に押し寄せた幕末。その前には中国がアヘン戦争でイギリスに煮え湯を飲まされている。鎖国体制下にありながら何故日本は列強に支配されなかったのか。それは長崎を通じてオランダと通商していたことや、禁制を破って西洋の知識を身につけた先覚者の存在が大きい。宇和島藩による蒸気船の試作には、蔵六の知識が多いに役立っている。そして蒸気機関を作ったのは、実物など見たこともない一職人だった。

考えてみれば、明治維新の成功は奇跡的なものとも言える。良くあのような状況で国が破滅し、列強の支配を受けなかったのが不思議なくらい。事実、開国後は大老井伊直弼が暗殺され、多くの外国人が攘夷派の武士の犠牲になった。また意見の対立で大混乱した藩も多い。水戸藩では藩内が真っ二つに分かれて殺し合いをしたし、長州藩でも初期段階で上士と下士が戦い、土佐藩では下士が残酷な扱いを受けた。京都での新撰組の暗闘然り。やはり歴史の変革期には、多くの血が流されたのだ。<続く>






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Last updated  2012.01.14 17:47:25
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