マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2012.07.05
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カテゴリ: 日本史全般
 そうそう、『私本太平記』で意外だったことの一つは、多賀城が出て来たことだ。古代東北の治安と経営のために奈良時代に建てられた多賀城は、度重なる炎上や復興の末、平安時代の末期にはその機能を終えたと言うのが私の認識だった。調べたらやはり承徳元年(1097年)に国府多賀城は焼失している。



 JR多賀城駅をスタート地点に、先日「みちのくラン」が2年ぶりに開かれた。一歩も走れない私は参加出来なかったが、星峰さんのブログ、雲峰さんの掲示板への辻ポンさんの書き込み、T田さんが送ってくれた大量の写真でマラニックの様子が大変良く分かった。また参加されたボクシーどん、ちっちさん、kazuさんが私のブログにコメントを寄せてくれた。

 大会は大成功で、皆喜んで帰られたみたいだ。マラニックの途中国指定史跡の多賀城跡に立ち寄った時、「あの歴史好きの爺さんはどうしたの?」との声があったとか。どうやら私のことを覚えてくれていた遠来の客がいたようだ。参加者の中にSパパがいたことも後で知った。今年3度目の「トランスヨーロッパ」に出場する彼が、わずか30kmばかりのマラニックに来られたことが意外で嬉しかった。彼は練習のため、早朝の仙台の街を走っていたみたいだ。

 「みちのくラン」の4日前、私は自転車に乗って市内の岩切へ行った。そこには中世の山城である岩切城がある。『私本太平記』を読む途中で、「中世の雰囲気」をどうしても味わいたくなったのだ。この周辺でも南朝方と北朝方に分かれて壮烈な戦いがあったことは何となく知っていた。その岩切から多賀城へは極く近い距離。まさかそこに北畠顕家が陸奥守として派遣されたとは。

 岩切へは極力「東街道」を通って行った。昔から利用された古道で、芭蕉も「奥の細道」の際に歩いている。私が初めて岩切に行ったのは、Sパパが主催した「奥の細道ウォーク」の時だ。雲峰師匠やちっちさんと初めて会ったのもその時。原町の古い標識の位置は覚えていたのだが、途中で「奥の細道」を離れ、広い県道を直進してしまった。確か急な坂があったのに、こっちは平らな道で変だとは思っていたのだが。

 それでも岩切へは行ける。七北田川を渡るとそこが岩切。中世の頃、この川は冠川と呼ばれ、多賀城の前を流れていた。今では流路が変わり、砂押川と言う別な川になっている。その河口から舟が上り、岩切の周辺は大変な賑わいだったと言う。もちろん鎌倉や室町時代ごろの話で、当時は岩切ではなく今市と呼ばれていた。その今市は現在でも地名として残っている。

 その日私が最初に訪ねたのは東光寺。あの「奥の細道ウォーク」でも立ち寄った古寺だ。みんなが記念にと撞いたゴ~ンゴ~ンと響く鐘の音が、今でも耳の奥に残っている。ここは現在曹洞宗だが、建立当時は天台宗。慈覚大師が開基の古刹なのだ。実はあの時、この寺で見つけられなかったものがあった。鎌倉時代の磨崖仏がこの寺のどこかにあるはず。何故なら本物そっくりの「洞窟」を、私は仙台市博物館で何度も観ていたからだ。<続く>





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Last updated  2012.07.05 09:14:12
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