マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2012.07.06
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カテゴリ: 日本史全般


 坂を登って行くと何やら看板。ここ東光寺にも中世の城があったようだ。少し平らな部分が「見張台」か。磨崖仏のある岩窟は直ぐに分かった。5つある岩窟のうち、磨崖仏が刻まれているのは1つだけ。それも鉄柵で塞がれている。中を覗くと、すっかり摩耗した仏像らしき姿が見えた。鎌倉時代のものだが、長年の風雨で本来の形を失っている。それでも貴重な文化財だ。

 私は大分県の国東半島で、かなりの規模の磨崖仏を見たことがある。あそこには古い仏教文化が栄えていた時代があったのだ。付近の宇佐市には天皇家と縁のある宇佐神宮もある。伝説では神武天皇が東征した際に宇佐に立ち寄ったとされ、古い相撲神事や古墳群も残されている不思議な土地だ。磨崖仏を観た場所からさらに坂を登ると、平らな場所に出た。

 直ぐに目についたのが石を切った跡と板碑。この付近には古代の石切り場跡がいくつかあるようだ。それが岩切の名の起源だ。岩切から切り出された石は、陸奥国分寺と国分尼寺の基壇になったようだ。多分ここからは15kmは離れているはず。それなら3kmしか離れていない国府多賀城や、その付属寺院である多賀城廃寺の基壇などに使われていたとみてもおかしくないだろう。これは奈良時代の話。

 一方鎌倉時代の仏教遺物である板碑は、名取市の熊野那智神社境内に数多くあり、東北大学植物園の中にもある。それらは静かな山中にあるのだが、ここでは平らな場所に忽然と現れたのだから驚く。板碑は戦いや飢餓で亡くなった人を鎮魂するために建てられることもあるが、一般的には神聖な場所「結界」を示したのではないか。

 仙台市内のお寺にある「モクリコクリの碑」は蒙古軍襲来時に派遣された兵士の魂を慰めるためのものらしい。「モクリ」は蒙古軍のことで「コクリ」は高句麗つまり高麗軍のこと。あの時「神風」で海に沈んだのは蒙古と高麗の合同軍だった証しだ。墓地では石工が墓の設置をしていた。それを横目で見ながら山に入る。先方も鈴をぶら下げた変な爺さんが、何故山に入るのか不思議そうな感じだった。

 山の道は細くて頼りない。これはキノコ採りの人しか通らない道だ。クマに出会わないかビクビクしながら行くと行き止まりの道が多く、最後に出たのがある家の前。だが青いビニールシートがかかっていて、その家の庭へは行けない。昨年の震災で崖崩れしたようだ。右手下には岩切城への道路。そこへ出るには高さ3mの崖を飛び降りるしかない。悪い足がさらに壊れるのは必至だが、さてどうするか?<続く>





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Last updated  2012.07.06 10:26:40
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