マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2012.09.17
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 浜比嘉島 

 島はママの故郷だった。職場で飲んだ後、私達は「姉妹」と言う店へ行き、良く沖縄の歌を歌った。「二見情話」、「石くびり」などの沖縄民謡のほか、譜久原恒勇が作曲した美しい旋律の歌が私は特に好きだった。「芭蕉布」、「ふるさとの雨」、「なんた浜」など、今でも曲を口ずさむことがある。そんな私達を、ママはいつも優しい顔で観ていた。

 周囲7kmの浜比嘉島。「はまひがじま」を、地元では「はまひじゃ」と呼ぶ。その島の祭り「シヌグ」のことが新聞に載った。何でも弓矢を人に向けて、戦う真似をするらしい。何故そんなポーズを取るのだろう。私はとても不思議に思った。浜比嘉島は沖縄本島の東部、勝連半島の先にある小島で、周囲の島や沖縄本島とは違った風習があるとも聞いた。

 ある日、私は原付に乗って屋慶名港へ向かった。浜比嘉行きの船はそこから出るのだ。屋慶名港はカラオケに良く出る風景で、見覚えがあった。船は30分ほどで浜の港に着く。島には2つの集落がある。西海岸にあるのが「浜」で、東海岸にあるのが「比嘉」。島の名前は2つの集落を合わせたものなのだ。私は先ず「浜」の西南部の山に向かった。そこに古い風葬墓があると聞いたからだ。

 だが、間もなく道は行き止まりになった。那覇から酪農に来ていると言う人に尋ねたら、その先へは行かない方が良いと言う。島外の人間が風葬の地へ行くのはタブーなのだろう。私は直ぐに悟った。そのまま引き返し、今度は比嘉集落へ向かった。そこがママの故郷だった。浜から比嘉へは小さな峠を越えて行く。標高は50mほどのものだろう。

 道端の側溝に、大量の清らかな水が流れているのを見て驚いた。島に川はないし、山も高くはない。降った雨は直ちに石灰岩の土壌に吸われ、低地で泉になるのが沖縄では普通なのだが、何故これだけの水が高い位置で湧き出ているのかが不思議だった。比嘉集落には廃屋が目立った。きっと現金収入の道がないのだろう。浜辺にはアマミキヨ、シネリキヨの墓があった。洞窟の風葬墓だ。

 琉球人の祖先神である2人の墓が、なぜこの島にあるのか。「アマミキヨ」は奄美(あまみ)に通じ、さらに海人(あま)族に通じる。つまり海洋民族だ。2人の神が最初に立ち寄ったのは沖縄本島最北部の辺戸岬とされているので、彼らが奄美や南九州から来たのは間違いなく、沖縄人(うちなんちゅ)が日本人と共通の祖先を持つと推定される所以だ。

 「シヌグ」の戦いのポーズの謎が解けた。浜集落の人は元から住んでいた現地民で、比嘉集落の人は島外から漂着した海洋族と考えたらどうか。現地民と漂着民との間に戦いがあった。シヌグの弓矢はその時の戦いの名残ではないのか。シヌグは元来「凌ぐ」だったはず。雨露を凌ぐの「しのぐ」だ。5母音の日本語に対して琉球語は3母音なので、そのルールにも合致する。意味は「生き抜く」こと。私はそう解釈した。

 さらに島の東南部へ向かった。そこには古い穴居跡の洞窟があった。クバ島と呼ばれる岩山は遺物散布地らしいが、海の中なので近づけない。私は仕方なく浜辺で横になっていた。目が覚めると、私の顔をじっと見つめる島の青年が居た。私はゾッとした。その目は狂人のものだった。

 狭い地域で長年結婚を重ねると血が濃くなる。その結果優秀な者も出るが、異常者の出現が増えるのが遺伝の法則。沖縄では琉球王朝時代から、同じ地区内での結婚が一般的だった。税が人口と一体の「人頭税」のため、人の移動を極力禁止していた名残だ。ひょっとしてママがこの島を離れたのにも、何か訳があったのかも知れない。船でしか行けなかったあの小島に、今では橋が架かっている。

 島の人口は500人足らず。島内にマラソンはないが、「海中道路」を使ってこの島へも渡る「あやはし海中ロードレース」が4月に開催される。私の行きたい度数は50%。マラソンに出ることはあっても、あの島へ行くことは多分ないはず。やはり神秘のベールで包まれていた方が、あの島には相応しい。<続く>





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Last updated  2012.09.17 10:04:06
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