マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2015.03.21
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カテゴリ: 歴史全般
<斎理屋敷の興亡 ~後書きに代えて~>

岩.jpg 百々石公園にて

 百々石公園は標高150mほどの山。その中腹まで登ると、展望台付近に大きな岩があった。そこから人口約1万5千人の丸森の町並みは見えず、眼下に阿武隈川が見えた。そして東側に阿武隈山地の続きである低山も。

 丸森町にある古城は2つ。低山の金山城と街中に近い丸森城(丸山城)。戦国時代はその帰趨を巡って、南の相馬氏と北の伊達氏が戦い、最後は伊達氏の手に落ちた。だが「一国一城令」の後は、伊達氏の家臣である中島氏が要害となった金山城を守ったようだ。


  公園から見えた丸森橋 川5.jpg

 百々石が「どどいし」と読むことは知っていた。20年前の松山勤務の際、ある研究者の名前が読めなかった時に、部下が教えてくれた。だが前職を辞して故郷の仙台に帰ってから、東北大学の研究者にも同じ百々氏がいることを知った。「坊っちゃん」の街、松山では「桑折」と言う医院の看板を見つけて驚いたことがある。それは「こおり」と読む福島県の地名。それを姓にする人がなぜ松山にいるのか。

 桑折氏は宇和島の人、そして祖先は宇和島伊達藩の家臣と私は推定した。宇和島伊達氏の藩祖は政宗の長男。著しい戦功が認められ、家康から10万石の大名に取り立てられた。62万石の本家は政宗の次男が継いだ。正室の愛姫が生んだ嫡子だったからだ。百々も桑折も元々は福島と宮城の県境にある地名。それを姓にした武士が、伊達藩に仕えた訳だ。官軍に与した宇和島伊達氏は明治に伯爵となり、賊軍の仙台伊達氏の侯爵よりも上位に置かれた。歴史の皮肉と言えよう。


建物3.jpg 斎理屋敷の蔵

 江戸末期から昭和20年代半ばにかけて栄えた斎藤家。歴代の当主は斎藤理助を名乗り、屋敷は村人から「斎理屋敷」と呼ばれて慕われた。なぜ奥州街道(芭蕉達が通った「奥の細道」でもある)から離れた脇街道の斎理がこれだけ栄えたのだろう。

 最初は呉服屋からスタートし、次いで麻織物や綿織物を扱う太物商、質屋、醸造業、縫製工場などを営んだ。明治の一時期は銀行でもあった。同時に江戸時代から塩、蝋燭、水、印鑑、古着、古道具、染色など手広い商売を行った。戦争と不景気のため実現はしなかったが、陶磁器の製造工場や、住宅販売まで検討したとのこと。


     庭と洋館  庭19.jpg

 常に時代を先取りする商売が出来たのは、歴代の当主が英明だったからだろう。斎理は出来るだけ借金を減らし、自己投資分を急速に拡大して行ったようだ。庶民が求め、地元が求める商売を手がけたことが容易に想像出来た。

 だが直系の血筋が途絶えると分かった時、7代目の当主は屋敷など一切を町に寄付した。昭和41年(1966年)のことだ。丸森町はその後建物などを整備し、現在は「蔵の郷土館」として観光の中心的存在になっている。


歴史8鎧.jpg 展示品から

 屋敷にはたくさんの奉公人がいたが、主人や女主人が彼らに優しかったことは、壁の落書きやたくさんの創作人形からも推定できる。そして残された当時の民俗品などは、現在ではとても貴重な生き証人だ。

 だが豪商でありながら、生活は意外に質素で堅実だったのではないか。私にはそんな風に思われてならない。ともあれ奇特な商家が存在したお陰で、幕末から戦後にかけての暮らしぶりを実感することが出来た。


      南蔵王の雄姿  山3.jpg

 約2時間の滞在で230枚ほど撮った貴重な写真。1枚ずつ名前をつけ、後日ブログでどんな風に紹介するかを考慮し分類した。それも今回でほぼ使い終えることが出来た。自分で言うのも何だが、本シリーズは案外内容があったように思う。

 だが、わが郷土の歴史を少しでも知ってもらえるのに、果たして役立ったのだろうか。そしてこれからも、自分がまだ知らない県内の歴史遺産を訪ねられたら嬉しい。最後までお読みいただいたことに感謝し、筆を置きたい。<完>

今日は昨日から装着しているホルター心電図計(24時間)を病院に返却し、その後墓参りに行く予定。コメントへの返事は遅れますが、どうぞご了承を。





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Last updated  2015.03.21 05:50:06
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