マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2015.07.09
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カテゴリ: 歴史全般
<大興奮の青森県立郷土館>

旅1雨の朝.jpg

 6月28日、日曜日。旅の最終日。弘前の朝は雨だった。カーテンを開けたが、岩木山は雲で覆われて全く見えない。7時になるのを待って、朝食会場へ向かう。このホテルは1泊朝食付きで5千円以下。どうせ朝食はトーストと牛乳くらいだろうと思っていたのだが、とても充実した内容に驚いた。シャワートイレもないような古い設備なので、きっとこんな低料金設定になったのだろうが、貧乏人には実にありがたかった。


青森1.jpg

 前夜びしょ濡れの靴も、かなり乾いていた。よ~し、予定より早いが青森に行こう。そう決断して弘前駅へ向かう。青森駅へ着いたのは9時前。先ず東北新幹線が出る新青森駅への連絡列車を確認。12時40分発の普通列車だと間に合うことが分かった。次に観光案内所に行って、青森県立郷土館への道を尋ねる。地図とバスの時刻表で丁寧に説明してくれたが、生憎ちょうど良いバスがない。歩いても20分くらいで行けると聞き、早速歩き出す。


旅2青森ベイブリッジ.jpg 青森ベイブリッジ

 幸い傘を差すほどは降っていない。新町通りを東に向かう。新幹線乗り継ぎの電車も、市内のバスも1時間に1本ほどしか出てないことに驚く。県庁所在地の青森にしてこの程度。まして、人口の少ない地方都市などは車無しでの生活など、きっと考えられないのだろう。左手に青森ベイブリッジが見えた。あの橋の向こうが青森港。かつてはあそこから北海道に向かう青函連絡船が出ていた場所。私も若い頃、1回だけ乗ったことがあった。


        アスパム 旅3アスパム.jpg

 それにしても人影が少ない。行き交う人がほとんどいないのだ。人口も減少してるのだろうか。左手遠くに三角形のアスパムが見えた。確か産業振興関係のビルのはず。暫く行くと左手に目印のホテルが見え、そこから左折。ホテル前を右折すると、最後の訪問先である県立郷土館が見えて来た。


1-2.jpg1-1.jpg

 ロッカーにリュックを預けて入館する。1階のロビーで、貴重な北前船の写真が展示されていた。早速写真を撮っていると、撮影には許可が必要と女性が追いかけて来て言う。そこで窓口に戻って、手続きを済ませた。福井県の方が所有する数枚の写真は大正時代のもので、敦賀湾を航行する北前船の雄姿が写っていた。残念ながら撮影禁止で、私はそれ以外の写真を撮った。


船2.jpg古墳2環頭太刀.jpg

 左側の写真は復元された北前船。これが江戸時代は蝦夷地(北海道)の松前から「西廻り航路」で日本海の各地に寄港しながら、大坂まで荷物を届けた。昨日訪れた十三湊、深浦、酒田、敦賀、小浜などが主な寄港地で、最後は瀬戸内海を通って大坂まで昆布、毛皮、鷹の羽根、米、紅花などを運んだ。物資だけでなく、この船を通じて人や文化の交流もあったのだ。また佐渡島の小木などは重要な「風待ち港」だった。

 これは初めから凄い出会い。まさか、あの北前船が大正時代まで活躍していたとは。興奮して2階へ上った。最初は考古学のコーナー。ざっと周囲を見渡したが、目当ての遮光器土偶が無い。右側は金属製の太刀の束。古墳時代からこの本州最北端の地へも、中央の力が及んでいたことが分かる。


風韻堂1.jpg縄文5重文.jpg

 私は解説員の若い女性に遮光器土偶が展示してないか尋ねた。すると1階の風韻堂コレクションにあると言う。再び1階に戻って、その部屋まで案内してもらった。ビックリ仰天。肝を潰すとはこのこと。室内は国宝か重要文化財クラスの遺物で溢れていた。全てが一流品揃い。最終日にここへ来て良かった。女性に尋ねて良かった。もしここへ来ず、声をかけなかったら、これらの宝物とは永遠に遭えなかっただろう。右は重要文化財の土偶。

 当コレクションの主は青森在住の医師親子とのこと。ほとんどが県内から出土した縄文時代の遺物で、土器、石器、骨器のいずれもが一級品。それに発掘地のはっきりしない弥生か古墳時代の土器も数点混じっているようだ。今は説明を読んでる暇はない。夢中で写真を撮り、家に帰ってからゆっくり読めば良いのだ。それにしても、良くこんな「お宝」ばかり収集したもの。きっと相当の財力を使ったはずだ。


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     左は国宝のレプリカで、右は重要文化財の土偶(東京国立博物館所蔵)

 やはり現地へ来ないと分からないことが多い。この4日間の旅が私にもたらしたものは限りなく大きい。

縄文10-6キノコ.jpg縄文13岩版.jpg

 左はキノコ型の土器で、右は岩版(あるいは土版)。縄文人の観察力と芸術性を良く観てほしいものだ。


津軽古図.jpg

十三2墨書土器.jpg
 左は津軽地方の古図。右は墨書土器で「寺」の文字が見える。

 「歴史展示室」も圧巻だった。私は前日の十三湖で解けなかった謎を、ようやくここで解明する手掛かりを掴むことが出来た。安藤(東)氏以前に奥州藤原氏の支配下にあったこと、また安藤(東)氏が南部氏に攻められて蝦夷地に逃亡し、松前藩の基礎となる居城を築いたことを知ったのだ。

 また南部と津軽の壮絶な戦いも知った。何と下北半島はすべて南部藩の領地だったのだ。それで支藩の八戸藩を含めても10万石だから、きっと冷害に悩む北の大地だったのだろう。これで私の長年の疑問がかなり解消した。わが東北は古来より都から蝦夷(えみし)と呼ばれ蔑視されて来たが、縄文以降決して文化果つる地ではなく、高度の文化が興っていた。だからこそ頼朝が義経を匿った平泉を滅ぼし、巨大な富を収奪したのだ。


異文化4アイヌ.jpg異文化5蝦夷錦.jpg

 3階の「民俗展示室」も良かった。青森とアイヌとの関係、そして当時の外国との交流関係もきちんと説明されていた。本州最北端の青森が、実は古来から北方の文化の中心地だったことが良く分かった。風雨に打たれながら渡った十三湖の小島。あそこで見た光景が、ここでも再現されていた。


青森23.jpg民俗5蓑.jpg

祭礼7.jpg祭礼11おし.jpg

 民俗も興味深かったし、祭礼も勉強になった。特に「おしら様」や「いたこ」の風習には心惹かれるものがあった。実は東北の「いたこ」は沖縄の「ゆた」と同じ語源で、同じ霊能力者のこと。つまり原始時代のシャーマンが、現代社会でもまだ生き続けている訳だ。日本と沖縄の深いつながりがここにも見ることが出来る。


ねぶた1.jpg

 私はすっかり有頂天になって館を出た。やはり旅は凄い。たとえ偶然にせよ、私が選んだ訪問先は決して間違ってはいなかったようだ。いや、これは大収穫と言うべきだろう。青森駅でお握りとサンドウィッチを買い、東北新幹線の座席で食べる。家へのお土産も買った。これで妻が気持ち良く出迎えてくれたら、どれだけ嬉しいか。<続く>





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Last updated  2015.07.09 09:03:35
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