マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2016.09.29
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カテゴリ: 日本史全般
<アイヌ語地名の謎>

 チカモリ遺跡

 石川県に勤務していた頃、金沢市のチカモリ遺跡を訪ねたことがあった。栗の巨木を半分に割った柱を円形に並べた縄文時代の遺跡だ。ここで不思議な人物と出会った。話を聞くとアイヌ語地名を調べている由。

 そう言えば弥生時代の代表的な遺跡である静岡の登呂遺跡の「トロ」もアイヌ語から来てると聞いたことがある。だが私には「チカモリ」の語源がアイヌ語のようには思えなかった。「カタカナ地名」は滋賀県の「マキノ」など、数少ないがあることはあるのだ。


 青森県立郷土館にて 


 幕末期、当時は蝦夷地と呼ばれていた北海道を探検した人たちがいる。伊能忠敬は自分の足で海岸線を歩いて測量し、精密な地図を作った。歩けない場所は仕方なく舟の上から測量した。いわゆる「伊能図」がその地図だ。西欧人もこの地図の正確さには驚嘆した。間宮林蔵は樺太に渡り、樺太が島であることを確認した。それが間宮海峡の発見につながった。


  最上徳内

 松浦武四郎は蝦夷地を北海道と名付けた人。そして国名(現在の支庁)と郡名も自ら決めた。北海道内を隈なく歩き、アイヌの集落なども描いている。最上徳内は現在の山形県村山市の農民出身だが勉学を重ね、蝦夷地を7度も訪れている。その中で危険人物とみなされて幕府に捕まり、入牢したこともある。ロシアのアリューシャン付近まで流された大黒屋光太夫が帰国した際も、彼は蝦夷地でその噂を聞いている。


    アイヌ語地名の一例  

 彼らに共通したのは、アイヌ語地名を聞いて漢字に置き換えたことだ。そうして次第にその地名が内地の日本人にも認識され、やがて定着して行った。だが日本語にはない子音や促音などの表現には、きっと悩まされたことだろう。




          知里幸恵                 知里真志保

 上の写真は言語学者金田一京助のアイヌ語研究を助けたアイヌ人の姉弟だ。姉の幸恵は現地の北海道で金田一京助の研究を援助した。アイヌ語を日本語に翻訳することはもちろんだが、自分でもアイヌ語に関する知見をまとめている。金田一博士を訪ねて上京し、19歳の若さで亡くなったのが残念だ。

 弟の真志保も金田一博士を頼って上京して東京帝国大学文学部言語学科で学び、卒業後は北海道大学の教授となった。はじめは金田一京助の弟子だったが、やがて激しい批判者となったそうだ。やはりアイヌ人として受け入れられない部分があったのだろう。




 画像が不鮮明で申訳ないが、これは東北に残るアイヌ語地名の地図だ。今年の6月に私が旅した恐山の宇曽利湖。その「ウソリ」はアイヌ語の「窪んだ地」の意味とか。カルデラ湖なので窪んでいるのは当然だ。また八戸付近を流れる馬淵川は「まべち」と読み、アイヌ語「べつ:川」から変化したようだ。

 かつてウルトラマラソンをしていた私は「秋田内陸100kmマラソン」を何度も走ったが、コース近くの桧木内(ひのきない)や笑内(おかしない)の「ナイ」も小さな川と言う意味のアイヌ語が起源だ。


  萱野茂氏

 これはアイヌ人で初めての国会議員(参議院議員:日本社会党)となった萱野茂氏(1926~2006)。私は平成11年(1999年)の夏に北海道マラソンに出場した際、平取町二風谷にある氏の自宅を訪ねたことがあった。氏は風邪を引いて臥せっていたが、わざわざ起きて私の質問に答えてくれた。

 その時に氏が話してくれたのは、アイヌ語地名かどうかを判断するには「ナイ」(小さな川、沢)や「ベツ」(大きな川)があるかどうかだと言うことだった。なるほどねえ。私と会った2年後に氏は長年のアイヌ文化研究で博士号(学術博士)を与えられ、その7年後に氏はパーキンソン氏病で亡くなった。とても温和な方だった。1975年菊池寛賞受賞。1989年吉川英治文化賞受賞。合掌。




 これは青森県立郷土館にあったアイヌ語地名の説明板。興味深いのは江戸時代を通じて、津軽半島の先端部(弘前藩領内)にアイヌ人の集落があったことだ。当時は北前船が西廻り航路で東北や蝦夷地の物産を大坂まで運んでいた。恐らくアイヌ人たちは蝦夷地の物産を津軽半島まで運ぶ手助けをしていたのだと思う。




 弥生時代、稲がかなり古くから青森県にまで到達していることが田舎館遺跡の発掘調査で判明している。だがその後その稲作最前線は後退し、再び北上するまで数百年を要した。寒さに強い品種が出来るまで、きっとそれだけの年月を要したのだと思う。

 その期間に最初のアイヌ人が東北北部に渡来したと考えられるようだ。アイヌ人の方が寒さに強かったからだろう。狩猟民であるマタギの言葉には、一部アイヌ語が混じっている由。また後世、八戸藩の武士の中には、アイヌ族の末裔と思われる名を持つ者もいたと聞く。




 これは昨年訪れた青森県五所川原市立市浦歴史民俗資料館にあったアイヌ人の絵。果たして松浦武四郎の手による絵かどうかは不明だが、この地にかつてアイヌが居住した証かも知れない。「苫米地:とまべち」に「小比類巻:こびるいまき」。これは青森出身の人の姓。元々はアイヌ語の地名が起源だと思う。

 さて、東北の古代史に関する最大の謎がある。明日はその謎に迫ってみたい。<続く>





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Last updated  2016.09.29 05:39:48
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