マックス爺のエッセイ風日記

マックス爺のエッセイ風日記

2021.12.14
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 第2琉球王朝の王都首里城を描いた絵図である。今も残る「守礼門」(琉球王国は礼儀を守る礼節の邦と中国の皇帝から称賛されたことから「守礼之邦」の扁額を掲げた門)の他、「中山門」(琉球を統一した王朝(中山)であることを示すなど幾つかの門が見える。首里城は全部で10ほどの門がある壮大かつ華美な城で、小高い山(首里森)の頂上にあるため、遠くからでも良く目立った。

          韓国青瓦台  

 なお、城(グスク)、墓、集落など重要なものの位置は、風水思想に基づいて定めた。沖縄では風水を(ふんし)と呼んでいる。京都の都が東山、北山、西山と三方を山に囲まれていること。ソウルの大統領官邸青瓦台が山を背後にしていることも風水思想から来ている。なお古い時代の浦添城や首里城の地下からは、朝鮮式や日本式の屋根瓦が出土し、古くから琉球と人的、文化的交流があったことが分かる。




 琉球王朝は中国の明や清王朝に進貢していた。それにより中国皇帝の支配下にある「琉球王」として認められた。これが「冊封」(さくほう)体制と呼ばれ、数年に一度「冊封使」が派遣された。上は冊封使の行列。琉球では狭い島国であることを悟られないよう、那覇港に着いた使節を輿に載せ、わざわざ遠回りして首里城に案内し、さらに海が見えない別荘「識名園」で一行をもてなした。

  組踊

 冊封使をもてなすため踊奉行の玉城朝薫(たまぐすく・ちょうくん)が考案したのが「組踊」(くみおどり)で、日本の歌舞伎と琉球舞踊を組み合わせたもの。組踊や琉球舞踊を中心とした沖縄の芸能を上演する施設「国立劇場おきなわ」が浦添市にある。なお名乗頭の「朝」は上流士族の男性のみが許され、日本の「朝臣」の名残との説もある。初代琉球民政府長官の屋良朝苗(やら・ちょうびょう)も一例。

  王冠  

 さて、琉球王の王冠(左上)はかなり中国風と言え、金や銀、さまざまな宝石、サンゴ、ガラス玉などで飾られている。大きめの簪(かんざし)は琉球髷(まげ)に王冠を留めるためのもの。これに対し、王族や上流士族は城内では「はちまき」(右上)と称する冠を被るのがルールだった。日本の「鉢巻き」とは異なり、いわば「ターバン」の変形と言えるもの。無論階級によって色が異なっていた。



 琉球王朝が最盛期のころは貿易船(左上)に乗って、様々な国と交易した。北は日本の博多や堺、中国、フィリピン(当時はルソン)、ベトナム(当時は安南?)、タイ、インドネシアとかなり広範だった。中国とは進貢と言う形での貿易であり、当時の琉球の明、清への進貢品は火薬の原料である硫黄(中国には火山がないため採れない)だった。ただし琉球では外洋を航海する大型船を造る技術がなく、中国が船と通訳を貸し与えた。それが臣下に対する大国の応対だった。

     螺鈿細工   

 琉球の船は福建省の福州港に入るのが規則。他の国も入港先が決まっていた。当時はバーター貿易(物々交換)で、貿易先で仕入れた物品を、他国に持参し別のものと交換した。「わらしべ長者」だが、それでもかなりの利潤を得た。琉球から日本へは螺鈿や中国や東南アジアの陶磁器などが送られ、日本からは蒔絵や太刀を得た。螺鈿(らでん)細工の原料は夜光貝(ヤコウガイ)で、琉球王朝ではその品質管理のために「貝擦(かいすり)奉行」を置いたほどだ。



 その琉球王朝の富に目をつけたのが島津藩。徳川幕府に「琉球征伐」を申し出て認可された。島津藩の言い分は次の理由。1)秀吉が命じた朝鮮の役に琉球は参加せず、その分の経費を島津藩が請け負ったが、琉球はその半額しか返済しなかった。2)琉球の船が仙台付近と長崎付近に漂着した際、島津藩が琉球まで送り届けたが、その謝礼をしなかったというもの。まあ「言いがかり」みたいなものだ。



 1609年島津藩の軍船300艘が沖縄本島北部の運天港に入り、今帰仁城を攻略陥落させたのを皮切りに、陸路と海路でわずか3日間で首里城を落とした由。島津が最新式の火縄銃を大量に保有していたのに対し、琉球王国ではその100年以上も前に「刀狩り」して武器がなく、残った武器も錆ていたと言う。これ以来琉球は島津藩と中国(明、清)に両属する形になった。



無論中国はそのことを知らない。冊封使が琉球に来る際、島津の武士は首里を去って農村部に身を隠していたからだ。そして江戸幕府の将軍の代替わりには慶賀使を、また新琉球王の即位時には謝恩使をことさら異国風に飾り立てて江戸城に登城させた。これがいわゆる「江戸上り」(えどぬぶい)で琉球王朝には大きな負担となった。

         島津家家紋   

 一方島津は琉球王朝が貿易で得た富を奪い、国内で高く売れるサトウキビ生産を琉球に強制した。それで十分「元」は取ったはずだ。また島津藩には「密貿易」の噂が付き物だ。その根拠地や中継基地となったのが、坊津であり東シナ海に浮かぶ甑島(こしきじま)。九州南部には倭寇の基地が多く、かなり古い時代から活動が盛んだったのだろう。それもまた海洋民族である日本と沖縄との宿命なのかも知れない。

  倭寇の図(1)

 倭寇の歴史も前期と後期とでは様相が異なるようだ。初めは室町幕府の許可を得た正式の貿易船だった。安土桃山時代も堺の貿易船は遠く東南アジアまで航海して巨大な富を得た。呂宋(るそん)助左衛門などはその典型だ。江戸時代の初期はオランダなどの要望を受けて、武士を傭兵として東南アジアへ派遣した。シャム(タイ)へ渡った山田長政などはその代表だろう。

  倭寇の図(2)  

 ただし徳川幕府によって外国との貿易が長崎、平戸の両港に制限されると、倭寇として密貿易に変わる。また、倭寇と言えば日本人が主体と思われがちだが、朝鮮や中国の沿岸部の貧困な農民や海洋民が貿易船を襲うこともあったようだ。中国は貿易船をインドやアラビア半島に派遣した時代があった。現在世界各国に存在する華僑はその子孫なのだろう。それが素人である私の認識だ。

   

 中国の皇帝に仕えたイスラム教徒鄭和による7次に亘る航海図。先に述べた「冊封体制」と共に、中国の南シナ海における権益と琉球は中国領の主張の根拠だろうが、それは国際法がない時代の話で、到底肯定出来るものではない。かつての「海のシルクロード」の存在が「一帯一路」の夢を抱かせたのは確か。唐王朝以来、中国の領土拡大野望は続いている。なお「中国」の呼称は近代の辛亥革命以降で、それ以前は各王朝の呼称しかなかった。強いて全土を指すなら「支那」か。理由は秦や清の欧米名チャイナの変化だから。






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Last updated  2021.12.14 07:16:16
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