間違い 0
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10年ほど前まで、家では犬も猫も飼っていました。20年ほど前は大お祖母さん、お祖父さん、お祖母さん、私と女房に、4人の子供と4世代同居の9人家族でしたから犬や猫の世話をする手もあり、動物を飼うのは子供の教育にもよいだろうと思っていたからです。今日は我が家で飼っていた最後の犬と猫の話です。ガマの絵 posted by (C)ドクターT最後の犬、ガマは私が蒲郡で拾って来た犬です。蒲郡で拾ったからガマと言う単純な名前の付け方ですが、昔からそうでした。当時、私は蒲郡市民病院へ単身赴任して朝晩、トライアスロンの練習で蒲郡緑地へ行って走っていました。ある日の朝、蒲郡緑地の周回コースを回っていると、南側のトンボ池の近くに子犬が3匹入った段ボールが置いてありました。生まれてまだ1か月も経っていない子犬3匹ですぐに捨て犬だと判りました。箱から出してやるとペロペロと手を舐めます。腹が空いているようです。その頃家には雌犬のピッピ(小さい頃おしっこをピッピと飛ばすので)とその子供のコイ(色が濃いので)とウス(色が薄いので)を飼っていて、拾って帰れば女房に怒られるに決まっています。走り出すと後を追いかけて来ます。後ろ髪をひかれながら、仕事へ行きました。仕事をしていても捨て犬のことが頭に浮かび、身が入りません。仕事が終わると、矢も楯もたまらず、何とかなるだろうと心を決めて、公園に行きました。何故か3匹いた犬は2匹に減っていました。誰か1匹拾って行ったのでしょう。残っていた2匹を拾って、里親を探しました。雄の1匹は病院の看護婦さんで貰い手が見つかりましたが、雌犬の方はどうしても見つかりません。仕方なく家に連れて帰り、女房に訳を話しました。最初はブツブツ言っていましたが、諦めて飼うことになりました。3匹が4匹となり、私は単身赴任で家に帰るのは月1~2回くらいでしたから、犬の世話は女房に任せきりです。ガマはガマで拾われた身の上を感謝するとともに、先輩の犬たちに何か遠慮していました。一番小さかったこともありますが、数年経って他の犬たちが高齢となって一番体力的に元気になっても食事の時は遠慮して他の犬たちが食べるのを待っていました。10年ほど経って、ピッピもコイもウスも死んで1匹だけ残ったガマは遠慮する先輩がいなくなり、ようやく我が世の春が来た感じでしたが、それも長くは続きませんでした。自分自身が年をとり、いつの間にか老犬になっていました。散歩に連れて行っても昔は4匹に引っ張られて大変だった女房がせかして歩くくらいになっていました。足も弱りプルプル震えるようになりましたが、世話をしてくれる女房の周りでたむろしているのが好きでした。ある日、女房が庭で草取りをしながら、周りでついていたガマに独り言のようにつぶやきました。「お前がいるからなかなか旅行にもいけないんだよ。」翌朝ガマがいなくなりました。ガマはもう遠くまで行く体力はありませんので、夜繋いでおかなかったのです。そんなに遠くには行けないはずと大探ししましたが、とうとう出てきませんでした。女房の独り言の小言を聞いて、最後の力を振り絞って、人目につかない場所でひっそりと生涯を閉じたのです。おっぱいを吸う真似をするニャンコ posted by (C)ドクターTニャンコが家に来たのも突然でした。鉄平が自分で世話も出来ないのに拾って来たのです。親子揃って同じようなことをするものです。拾ってきたニャンコはガリガリに痩せていて、ヒューヒューと喘鳴が聞こえていました。これは長くは持たないなと思いましたが、女房の献身的な介抱のお蔭ですっかり元気になりました。物心つかないうちに捨てられて、母のおっぱいが懐かしいのか毛布を出すといつも毛布でおっぱいを吸う動作をします。マタタビにじゃれるニャンコ1 posted by (C)ドクターT山でマタタビの実を採って来て、近くに置いてやると酔っぱらったようになります。猫にマタタビとはよく言ったものです。柿の木に登るニャンコ posted by (C)ドクターT猫はかなり自由気ままで窓を開けておくと、そこから自由に出入りします。雌でしたから避妊手術もして、自由にさせていて、家を2日くらい空けても隣の家に入り込んで餌をもらっていました。でも飼い主が誰かはよく知っていて、散歩に出ると必ずついて来ます。ミカン畑まで行ったら、ついて来て柿の木に登ってご主人さまの様子を見ています。とても用心深い性格で、自分の縄張りははっきり決めていて、そこからはどんなことがあっても出ようとはしません。ご主人さまがその縄張りから外へ出るとピタリとそこで止まってしまって、ご主人様の帰るまで待っています。大通りまで出て車にはねられる心配はありませんでした。元気いっぱいのニャンコに突然の悲劇が襲います。その頃野犬が出て毒餌が撒かれたと言う噂がありましたが、それを間違って食べてしまったのでしょうか?家の玄関の前まで来て絶命していました。普通猫は死期を悟ると行方知れずになると言いますが、ガマは死に場所を求めて行方知れずになり、ニャンコは異常を感じてご主人様を頼って家に帰って来ました。それ以後、女房に何度か犬か猫を飼おうよと言いましたが、決して飼おうとはしません。
2018年09月26日
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ブラックペアン posted by (C)ドクターT海堂尊原作でドラマ化したブラックペアン、二宮和也演ずるオペ室のダークヒーロー、渡海征司郎と内野聖陽演ずる東城大学総合外科教授で天才心臓外科医、佐伯清剛の秘められた過去の因縁をめぐる確執がテーマですが、・・・。ブラックペアン(2) posted by (C)ドクターTかって、渡海の父が手術の時にペアン(止血用鉗子)を患者の体内に置き忘れた責任を取って大学を追われたのが、事の発端ですが、渡海征司郎はその患者を見つけてペアンの取り出し手術をしますが、外した瞬間に大出血を起こします。そして佐伯教授がブラックペアン(カーボン製でレントゲンにも映らず、火葬すれば灰になる)に交換して止血すると言う話の流れですが、この話には重大な問題点があります。それはペアンが体内に残っていることを患者に告げていない点です。今の医療ではあり得ない話です。手術中に体内に物を忘れること、それは時々起こります。器械出しの看護師さんは手術の初めと終わりで器械の数、ガーゼの数を確認します。もし合わなければ単純写真を撮ります。器械はもちろん、ガーゼにもレントゲン不透過のラインが入っていますので、写ります。それでも時々間違いは起こります。私にも忘れ物の経験が2回あります。1例目は私が忘れた訳ではなく、前任者がお腹の中にコッヘルを置き忘れ1か月後に取り出したもののその後癒着性イレウスを時々起こしては来院するのです。もちろん、病院は本人にも話して、以後の医療費は全て病院で持つ約束になっていました。あまり何度も繰り返すので、癒着剥離術を勧めましたが、本人は保存的治療を選択しました。もう1例は私自信の失敗です。タオル(ひも付きガーゼ)をお腹の中に忘れて閉じてしまったのです。胆石の手術でしたが、ミニラパ(小開腹)で行っていたため、視野をよくする目的で、肝臓の裏にひも付きガーゼを入れて肝臓を脱転させて、胆のうを見やすくします。通常はひもを外へ出してコッヘルでもつけておくのですが、小切開でそれも邪魔になるので、中へ全部入れて手術していました。ガーゼカウントはしますが、まさかタオルを忘れるとは思っていなかったので、誰も置き忘れに気が付かずに閉腹してしまったのです。そして、麻酔から醒めて部屋に帰って来ました。その頃、私は仕事が終わるとトレーニングのために蒲郡緑地公園に行って一人もくもくと走っていました。その日も定時に終わって、走りながら今日の手術の反省をしていました。手術の最初から最後まで順を追って、あそこをもう少し改善出来ないかなど反省するのを常としていました。そこではっと気が付いたのです。そう言えばタオルを出した憶えがないことに、・・・。急いで器械出しをしていた看護師さんに電話して訊きました。すると看護師さんも出した憶えがないと言います。あ~、人の忘れ物を馬鹿にしていた私が、やっちまったよ~!しかし、ここからが人と違うところです。過ちを改めるには早いに越したことはありません。すぐに病院に戻って、病室に行きます。奥さんがついていましたので、まず奥さんに正直に打ち明けます。まだ2時間くらいしか経っていませんからすぐに取り出せば何の問題もありませんと。すると奥さんが本人に判らないように取り出して下さいと言います。判りました、そうします。全身麻酔の後と鎮痛剤の影響で本人はまだ朦朧としていましたが、病室でラボナールを管注して眠らせたまま手術室へ運び、抜糸再開腹してタオルを取り出しました。
2018年09月25日
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フラジャイル posted by (C)ドクターTフラジャイル(fragile)とは「壊れやすい、もろい、か弱い、はかない」を意味する英単語ですが、同名のテレビドラマが放映されたことがあります。主演の長瀬智也演ずる天才病理医、岸京一郎は医療の正義、患者を救うと言う信念を持って病理診断をしますが、偏屈で自分の信念を曲げないためにいつも臨床医と衝突します。神経内科医だった武井咲演ずる宮崎智尋は仲良くなった女子学生の患者に対して上司が決定した治療方針に納得できず、岸の力を借りるために 病理部を訪れます。岸の指示によってクビになりかねない越権行為をさせられますが、無事に患者を救うことが出来たことに手ごたえを感じて病理部に転属することを決意します。私も学生時代に病理診断医に憧れたことがあります。時は1975年、今から43年前の話です。当時、私は名大医学部の1年生でした。将来はブラック・ジャックやドクターKのような外科医になろうと心に決めていましたが、外科治療で一番の難敵は癌です。癌であるのかどうかと言う診断や何処まで浸潤していて何処まで切除すればよいのか、リンパ節に転移はあるのかないのかなど治療方針を決める最終決定者は病理診断医です。私が目指したのはそう言う病理診断も出来る外科医、さらに進んで肉眼所見で病理まで判ってしまう外科病理医(surgical pathologist)でした。当時、学生紛争の影響がまだ残っていて、教授不在の教室がいくつかありましたが、第二病理学教室もそのひとつで、小塚貞夫(こづか さだお)助教授がトップでその下に助手、大学院生が3、4人いると言う貧弱な体制でした。第一病理学教室は主に実験病理、第二病理学教室は主に人体病理診断を研究テーマとしていましたので、私が学ぶべきは第二病理だと目標を定めて小塚助教授に近づきます。たまたま小塚先生が囲碁が好きなことを知り(多分初段か2段くらい)、6段くらいあった私は囲碁で小塚先生の心をつかみ、代りに病理を教えてもらうようになります。第二病理では毎週病理診断のカンファレンスが行われていました。小塚先生が数枚のプレパラートを問題として出し(それには臓器の名前だけが書かれています)、暇な時間にそれを見て、自分なりに所見を読んで病理診断をつけます。週に1回教室員、学生が集まってカンファレンスが行われます。学部1年、2年、大学院生、助手と若い順に自分の読んだ所見と病理診断を発表して行き、最後に出題者の小塚先生が解答を言います。学部の2年間、通って病理診断を学びました。結構難しい問題が多く、最初は間違いばかりでしたが、2年終わる頃には半分くらいは当たるようになりました。さて、小塚先生に何か恩返し出来ないかと考えた私は、丁度その頃行われた第二病理の教授選に学生の委員として手を上げました。教授選考委員会は、委員長を始めとして6人が教授、学生、大学院生など五者協から5人の委員が出て、月2回くらい集まって進めます。委員長は中研病理の教授をしていた牛島先生でした。最初は全国の病理医をリストアップし、公募による応募者と合わせて候補が100人くらい上がります。その中から年齢の適したものを選び、過去5年間の業績、インパクトファクターなどで絞って行きます。その時にいろいろな条件を出して絞るのですが、ほぼ委員長の頭にはこの人を教授にしたいと言うのがあって、その人が入るような条件を出してくるのです。候補者が5人くらいに絞られると候補者の主要文献を取り寄せて輪読し、評価をします。3人になった時点で本人に委員長含め2人の教授委員が面談し、本人の意思を確認したり、どのような教室を作り、どのような研究をしたいかを聞き取り調査します。もちろん小塚助教授は3人に残りましたが、最終的に学生委員を除く委員の投票によって順位をつけられて教授会に報告され、教授会で最終決定されます。小塚助教授は結局2位で、愛知県がんセンターの病理部から星野先生が教授として赴任しました。今は小塚先生も亡くなり、星野先生も教授在任中に亡くなられ、同級生の高橋雅英君が教授となっています。さて、卒業して最初に研修に行った名鉄病院では常勤の病理医はおらず、中検病理の牛島先生が週1回非常勤で病理診断のために来ていました。牛さん(そう呼ばれていました)は酒好きで東北の浦霞が特に好きで、写真を趣味でやってました。第二病理の教授選では小塚助教授を推してくれませんでしたが、教授選が終わればノーサイド、私は自分の患者さんの切除標本はいつも顕微鏡を覗き、病理診断を確認していて、時々牛さんにも直接教わりました。ある時、肺の結節を部分切除した標本を牛さんがこれは癌ではない、炎症性のものだと診断しました。私はその診断に疑問を持ち、第二病理の親しくしていた坪根先生にプレパラートを持って牛さんの診断を隠して診断を訊きに行きました。難しいな~と言いながら、牛さんが癌でないと言っていることを話すと「牛さんがそう言うなら癌じゃないよ。」と言われてしまいました。確かにその患者さんその後何も再発はなかったのです。牛さんは人体病理学のレジェンドで、特に膵癌病理の第一人者でしたが、自分の研究している膵癌にかかりました。自分の標本を自分で診た牛さんは余命を悟り、酒を飲んで天寿を全うしました。大学での専門研修が終わり、蒲郡市民病院に赴任しましたが、小さな自治体病院ですから当然常勤の病理医はおらず、浜松医大第二病理から教授の白澤先生か助教授の小杉先生が週1回来ていました。ここでも私は必ず病理診断は自分で確認し、病理の先生がみえない日の手術で術中迅速組織検査の必要があると、標本を作ってもらって自分で手術室で顕微鏡を覗いて診断していました。白澤先生も酒好きで木曜日、終わってからよく駅前の”志な乃”へお誘いして飲みました。小杉先生はアルコールが全く駄目でしたが、CPC(臨床病理検討会、年3回ほど行われてました)の後は一緒に付き合ってくれました。白澤先生は悪性リンパ腫の病理が専門でしたが、牛さんの時もそうですが、病理医は自分の研究している病気で亡くなるのか悪性リンパ腫で亡くなられました。中分化腺癌 posted by (C)ドクターTある時、17歳の女の子が腹痛を訴えて外来に来ました。ポッチャリした栄養状態のよい女の子です。右下腹部に軽度の圧痛があります。アッペン(急性虫垂炎)だろうと抗生剤投与によりいったん症状は治まりますが、また同じ症状で来院します。やはり右下腹部に圧痛と少し抵抗があります。少しイレウス症状もあり、アッペンから来る炎症性腫瘤だろうと入院手術を勧めます。ルンバール(腰椎麻酔)で小開腹して、指を中へ入れた瞬間、私の頭は混乱します。指先に感ずるザラザラした嫌な感触は紛れもなく年寄りで時々ある癌性腹膜炎の感触だったからです。そんなはずはないと頭で否定しても私の指は許してくれません。すぐに全身麻酔に切り替えて、病理の来ない日でしたので、腹膜の結節をひとつ採って標本を作ってもらったのがこれです。明らかに中分化腺癌です。虫垂切除の予定がプローベラパ(試験開腹術)に終わりました。その後の経過については別の機会に書きたいと思います。
2018年09月24日
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ドクターT posted by (C)ドクターT私は1979年名大医学部を卒業して、名鉄病院で外科研修、1983年名大医学部第二外科内分泌研究室で乳腺・内分泌外科の専門研修、1987年から蒲郡市民病院第二外科部長として赴任して以来2009年蒲郡市民病院を退職するまでの30年間外科医としてメスを持ちました。現在68歳になります。老眼が進んだとはいえ、もともと近眼でしたから近くは眼鏡なしで見えますし、手が震えることもないので、スタッフ・設備一式貸してもらえるレンタル手術室があればまだ若手外科医には負けない自信はあります。私が、手術を教わったのは大学医局に帰った3年半でした。その当時内分泌研究室のチーフは水野 茂(みずの しげる)先生でした。積極的な手術をする先生で、当時乳癌でも甲状腺癌でも胸骨従切開をして縦郭内リンパ節まで拡大郭清をしていました。拡大手術をしても合併症が増えては意味がないと、手術創は出来るだけ小さく、縦切をすると出血量は約200cc増えますが輸血は決してしない、術中輸液は絞って、術後喉頭浮腫を予防するなど独特な考えを持った先生でした。しかし、決して諦めない手術で今永使いの名手でした。人間の体は幾層もの膜で出来ていて手術する場所に到達するまでには切開するか剥離すると言う操作が必要になります。今永と言うのは第二外科のレジェンド、今永 一(いまなが はじめ)教授が考案したクーパー(はさみ)の一種で、柄が長く、薄刃で、メッチェンよりも幅広で、剥離操作と切断を道具を持ち替えることなくすることが出来ます。メスも力の入れ具合によっては切りたいものだけを切って、切りたくないものの手前で止めるということが出来ますが、これはかなり高度なテクニックであり、間違って切りたくないものまで切ってしまうと大出血につながります。剥離をして安全を確認してから切るべきものだけ切る今永は安全面で優れた方法だと思います。当時第二外科でうちの研究室だけは原則教職(講師、助手)にあるものは執刀せず、下の者に執刀させて指導する方針で水野先生は細かく誰がどんな手術を何件執刀したかをノートにつけて、誰もが平等に執刀出来るように術者を決めてくれましたので、赴任する時に医局の挨拶で3年半の間に150例の手術を執刀させてもらいましたと言ったら、他の研究室の先生たちから羨ましがられました。蒲郡に赴任してからは、乳腺・内分泌だけでなく、消化器、呼吸器、泌尿器、婦人科などの手術を行うこともあり、拡大肝右葉切除、門脈肝動脈再建を伴う膵頭十二指腸切除、食道癌、肺癌手術、骨盤内臓全摘・尿路再建から内視鏡手術まで手がけました。特に整容性には気を使い、乳癌温存手術では出来る限り傍乳輪切開を用い、消化器手術でもミニラパで行うようにしました。2例ほど私の手術を見ていただきましょう。症例1 (2) posted by (C)ドクターT症例1 (1) posted by (C)ドクターTこの症例は早期胃癌でしたが、術中迅速組織検査で断端陽性だったために追加切除して胃全摘となった症例ですが、臍の上だけの約6cmの創で行っています。症例2 (12) posted by (C)ドクターT症例2 (16) posted by (C)ドクターTこの症例は乳癌の温存手術ですが、傍乳輪切開でほとんど手術をしたことが判りません。蒲郡市民病院に赴任した時に外科は鈴木龍也院長の下に副院長で第一外科部長の永田 巌(ながた いわお)先生がいました。永田先生は古いタイプの外科医で何でも大きく開いてガバッと取る手術でしたから私が時間をかけて小さな創から苦労して取る手術を見て少し馬鹿にしていたような気がしましたが、それが間違いであったことは永田先生が退職して3年ほどして判りました。久し振りに永田先生が私を訪ねて来たのです。訊くと肺癌が見つかったとのことで、同年の友人たちにも相談してがんセンターへ行くように勧められたそうですが、断って私に手術をして欲しいとやってきたのです。専門ではありませんが先輩からそんなに信頼されていることを知り断る訳には行きません。約13cmの後側方切開で左上葉切除を行います。肺門部リンパ節まで転移があり、肺動脈に浸潤していましたが、部分的に肺動脈を合併切除して何とか切除しました。病理は小細胞癌で予後の悪い癌でした。抗がん剤治療を奨めましたが、拒否されて、先生の次男が内科で名古屋で開業していましたので、そこで経過観察をするとのことで帰られました。その後3年ほどして他の病気で亡くなるまで肺癌の再発はなかったようです。
2018年09月22日
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第51回愛艇会コンペ (1) posted by (C)ドクターT私の主宰する蒲郡愛艇会は年に3~4回競艇のコンペをしています。先日浜名湖で第51回のコンペを行いました。もう15年近く続いています。競艇の師匠 posted by (C)ドクターT私が競艇にのめり込むきっかけを作ってくれたのはこの方、河合二男(かわい ふたお)さんです。市の職員ですが、蒲郡競艇一筋に定年まで勤めあげました。蒲郡駅前の地下の居酒屋”志な乃”で知り合いましたが、その頃宣伝課にいて、番組編成や選手の斡旋の仕事をしていました。その頃私は蒲郡オレンジトライアスロンを始めたばかりでしたが、第1回は10月に行い、第2回は7月の蒲郡まつりに合わせて行ったところ、市民会館の前の海が汚くて、またオンディーヌの前の桟橋もなかったので、保安署前の岸壁にスロープを仮設しましたが、人が大勢乗ると傾いたり、造る費用も大変だったので、競艇場が借りれないか河合さんに相談を持ち掛けました。競艇場は蒲郡市の施設ですが、競艇以外にも産業まつりなどに貸し出すことがあったからです。しかし競艇場となるとレースのない土日でないといけませんが、通常は3か月ごとに日程を決めるので、レース日程が決まるのが3か月前でないと判らない場合が多いのです。でも河合さんに訊いたら、6月の浜名湖が周年(GⅠ)をやる時には蒲郡は遠慮してレースをしないからこの土日は空いているよと教えてくれました。そこで、水質検査をしたら海水浴場の基準で快適ではないですが、適だったので、市長と競艇場へ正式に申し込みました。スイムコースはもともとある1周600mのコースのブイの横に75m離してブイをふたつ置けば1周750mの長方形コースが出来ますし、何よりも観客が見ることが出来る理想的なトライアスロン場となり、後にワールドカップや世界選手権を誘致する伏線となりました。そして市は何とスタンド前を舗装しなおして、自転車もスタンド前を周回出来るように改修してくれました。それで、私も競艇に恩返ししようと舟券を買うようになった訳です。江戸川の内田さんと posted by (C)ドクターT大きなレースがあると競艇関係のマスコミや他の競艇場の施行者さんが来ますが、河合さんがレース後よく”志な乃”へ連れて来ました。喜多條先生と posted by (C)ドクターT喜多條忠(きたじょう まこと)先生は神田川の作詞家ですが、競艇が好きで競艇の予想などもスポーツ紙に書いていました。河合さんのお蔭で知り合いとなり、いろいろと話をしました。神田川は喜多條先生が早稲田大学在学中の実体験に基づいて創ったそうですが、「ただ 貴方のやさしさが恐かった」彼女はその後どうなりましたか?と尋ねたら別れたそうです。艇友会(凪にて) posted by (C)ドクターT河合さんは、競走会や全国競艇場施行者や競艇関係のマスコミでは有名で、全国の施行者がSGなどで顔を合わせると艇友会と言う名前の飲み会が行われました。私も時々それに混ぜてもらいました。写真は蒲郡のSGの時に”凪”で行った艇友会です。私の隣には江戸川の内田さん、常滑の水野さんがいます。河合さんの隣にはJLC解説者の荻野さんの顔も見えます。DSCN1971 posted by (C)ドクターTさて、”志な乃”で週刊レース社の編集長をしていた鈴木輝雄さんを紹介してもらい、私なりに研究した成果を週刊レースに儲かる舟券の買い方と言うタイトルで6回連載をするのですが、それを1冊に纏めて2008年に出版しました。この頃から3連単、ナイターレース、電話投票などが始まり、何処の競艇場でも場外舟券売り場を作るのですが、蒲郡の場外売り場はナイターであるために、午後にならないと開かないと言うおかしな運営をしていました。そこで金原市長に他の競艇場が朝から蒲郡の舟券を売っていてくれるのに蒲郡が昼から開けるのはおかしいと文句を言い、すぐに朝7時から開けるようになりました。これで出勤前に舟券を買えるようになりました。大村競艇場-001 posted by (C)ドクターT河合さんに同行してもらい、全国の競艇場めぐりもしましたが、競艇発祥の地大村で24場制覇を成し遂げました。江口晃生選手と posted by (C)ドクターT何処の競艇場にも選手の医務室があり、レース、前検日にはドクターが待機しています。蒲郡では鈴木龍也蒲郡市民病院名誉院長と市民病院を退職した産婦人科の東野先生が交代で勤務していましたが、名誉院長が倒れられてからは私も時々頼まれて行くようになりました。東野先生も亡くなって、今は5人くらいのドクターで回していますが、私も中心メンバーとして勤務しています。蒲郡には変わったドクターがいると選手の間でも評判になったのか、ある時群馬の江口選手が訪ねて来ました。その頃江口選手は現役を続けながら、早稲田大学大学院にプロ野球の桑田選手とともに通っていました。親しくなり、東京まで河合さんと一緒に飲みに行ったこともあります。毒島選手と posted by (C)ドクターTすると一昨年今度は江口選手の弟子の毒島選手が訪ねてきました。トライアスロンに挑戦したいんですが、どんなトレーニングをしたらよいですかと言う質問でした。いろいろ教えてあげ、昨年ハワイで51.5kmのトライアスロンに挑戦して完走しました。今年は石垣島のトライアスロンに一緒に行ったのですが、直前に荒天で中止となり、飲んで帰って来ました。今年SG2冠となり、暮れのグランプリの出場権も取れて今年一番活躍している選手です。ボートに乗艇 posted by (C)ドクターT今度は私もボートレースに挑戦したいなと思っている今日この頃です。
2018年09月17日
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DSC00765 posted by (C)ドクターT15年ほど前から飯田駅前の”天神坂”と言う居酒屋に通うようになりました。ママさんは糖尿病から来た脳梗塞で亡くなってしまい、今ではその店はありませんが、当時は四季の田舎料理を食べさせてくれる店として有名でした。元長野県知事の田中さんも3度ほどお忍びで来たことがあります。そこで出会ったのがいつも辛口の批評をするこの方でした。ちょび髭を生やした同年代のこの方は私が行くとたいてい居てママさんと親しそうに話していました。職業を訊くと切り花や洋ナシなどの果樹栽培をしているとの話でしたが、天神坂主催の春の山菜の会や秋のキノコ会ではいつも指導的な役割を果たしていました。DSC01600 posted by (C)ドクターT私がその方がマツタケ採り名人だと知ったのは、マツタケの季節に”天神坂”に来た時です。その方が天神坂に仕事の合間に採りに行ったマツタケを1kg3万円で卸していることを知ったからです。それまでに何度か会って親しくなっていましたので、一度マツタケ採りに連れて行って欲しいと頼みました。最初は彼も観光マツタケで連れて行くつもりだったようですが、全山を6時間ほどかけて回りトータル2kgくらい採れたでしょうか。もちろん私が見つけることが出来たのは1~2本だけでした。しかし、急傾斜の山を6時間も自分についてくる私を見て、私を弟子にしようと決めたようです。その時彼には一人だけ弟子がいましたが、2人だけでその山のシロを他の人に採らせないように管理するのは無理があり、私を弟子にして3人で管理しようと思ったようです。弟子入りしてから2回ほど全山一緒に回り、何処にシロがあるのかを教えてくれました。そして、次からは好きな時に一人で入りなさい、そして何処のシロでどれくらい採れたかを報告しなさいと言われました。ここで私が師匠から教わったマツタケ採りの極意について記しておきます。マツタケはマツタケ菌が蔓延っているシロに一定の条件が整うと出るキノコです。マツタケは生きている特定の植物と共生する菌根菌で、その植物はアカマツ以外にもツガ、コメツガ、五葉松、ハイマツなどでも出ることがあり、その山では主にコメツガの周りに出ています。一定の条件とはまず湿り気と夜の冷え込みです。シロの中には強いシロと言って毎年出るシロと何年かに1回しか出ない弱いシロもあります。また早いシロ、遅いシロもあります。毎年出るシロでも1年前とは微妙にラインがずれて行きます。だいたいはラインは斜面に対して縦に並んでいます。シロは山の北斜面にはまずありません。南斜面のひとつの尾根を見ると尾根の東側にも西側にも出ますがどちらかと言えば西側に多い気がします。通常は急傾斜であまり落ち葉が深くつもらない場所に出ることが多く、土が露出しているところが多いですが、時にコケや笹の生えているところにも出ます。その年のラインを見つけたらそのライン上は注意深く触診します。基本的にはグループ以外の人にはそこがシロであることが判らないように、そのシロに出るマツタケは全て採るようにします。そしてマツタケを採った痕は綺麗に修復してそこで採ったことが判らないようにします。もちろん目印をつけるなどはもっての他で、しかしその場所は記憶しておかなければいけませんので、周辺の木とか石などを覚えて記憶します。次に行った時に5㎝と違わない精度で採った場所を指摘出来なければいけません。またそこへ至る道筋も出来るだけ痕跡を残さないように行く経路を変えるなどの注意が必要です。最近はシーズンを通して見るとトータル3kgくらいは採れるようになりましたが、まだまだ師匠の足元には及びません。
2018年09月14日
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中学3年 posted by (C)ドクターT55年前の話です。東海中学に入った私は通学に片道1時間半はかかるので、最初の1年はクラブ活動は何もしていませんでした。中学2年になって少し慣れて余裕が出来たので、最初柔道部に入りました。東海は昔から柔道が強かったからです。ところがその頃体育の授業で1500m走をさせられました。体育の先生はあだ名が”ひよこ”と呼ばれていましたが、大野のお寺の坊さんでした。”ひよこ”は陸上部の顧問をしていました。小さい頃から野山を駆け回っていた私はぶっちぎりの1位でした。それを見た”ひよこ”は私に柔道部を辞めて陸上部に入るように勧めました。そう言われると悪い気はしません。それから陸上部として活動することになります。私はオールラウンドプレーヤーで短距離から長距離、跳躍まで何でもこなしました。でも走高跳の練習を砂場をよく耕さずにしていて、当時肩から落ちるベリーロールと言う飛び方をしていましたので、肩を痛めて跳躍を辞めて主に中長距離を走るようになりました。瑞穂競技場で行われた私学祭で2000mに出て2位となり、2年上の井坂先輩からこのまま中距離を続けるように言われて高校に入っても中距離を続けました。東海の南にあった建中寺が丁度1周800mあって、その周りで練習をしたり、長いロードは茶屋ヶ坂か名古屋拘置所まで走ると言う練習が主でした。名古屋拘置所に行くときは金城学園の横を通るので、その時だけは何故かフォームがよくなり、少しスピードが出ます。高校2年の時に2年上で、名大陸上部に入り短距離で活躍していた荒木先輩が指導に来てくれたことがあります。当時100mを10秒8、走り幅跳びを7m40飛び東海学生陸上記録を作った凄い先輩でした。荒木先輩は「走る時には腕振りを意識しなさい。腕を大きく振れば歩幅が伸びます。」と指導してくれました。名大の医学部に入り、陸上でも第1線で活躍している文武両道、憧れの先輩でした。その後、私は1年浪人して京大に入り囲碁部に入って運動からは遠ざかるとともに、高校時代の記憶も薄れて行きました。記憶が蘇ったのはそれから45年ほど経ってからでした。蒲郡市民病院外科部長、臨床研修委員長、病院広報委員長、愛知県警察医として獅子奮迅、八面六臂の活躍をしていた私に同門の尾西市民病院の伊藤院長から国保の審査員をやってくれとさらなる依頼が舞い込みます。月に2回東片端の国保会館へ保険の審査に行くのですが、行った早々、医科のレセプト審査だけでなく柔道整復師のレセプト審査もしてくれと頼まれます。断ることの苦手な私はそれも引き受けてしまいます。医科の審査はおかしいレセプトは査定減点が出来るのですが、柔整の審査はおかしいレセプトは原則全て返戻し、また戻って来て何か理由が書いてあれば全部通すと言うものでしたので、ストレスばかりでした。審査員は半分医科の先生、半分は柔整の先生がしていましたが、隣に刈谷豊田総合病院の整形外科で副院長の先生がみえました。少し白髪交じりの初老の先生で荒木先生と言う名前に何か懐かしみを覚えました。年に1回、柔整の先生が医科の先生を招いて宴席を設けてくれるのが恒例でした。その席で荒木先生と隣になって、「先生は背筋もピンと伸びているし何かスポーツをされていたのですか?」と尋ねたら「若い頃は陸上競技をしていました。」と聞いてはっと気が付きました。「先生はひょっとして東海のご出身ですか?」「そうです。」一瞬絶句しました。「荒木先輩、失礼しました。私は陸上部の後輩です。」と正体を明かしました。ちょっと恥ずかしい憧れの先輩との再会でした。
2018年09月11日
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森教授と。 (5) posted by (C)ドクターT50年前の話です。東海高校3年の時に囲碁の好きな数学の櫛田先生と堀先生に顧問をお願いして囲碁同好会を立ち上げました。そこに2年生の森君が入って来ました。囲碁は下手の横好きと言う感じで当時アマチュア3段くらいあった私は森君に星目置かせて指導していました。でも負けず嫌いな性格であるのはすぐに判りました。その時には森君が何者か知りませんでした。その後私は東大の理科Ⅰ類を受験して惜しくも落ちてしまいました。当時私は東海で物理と国語は実力テストで常に上位を争っていて、地球物理学の研究者になるのが夢でした。1年浪人して東大を再受験と思っていたら、大学紛争が一番盛んな時で東大の入学試験が中止になってしまいました。東大が駄目なら京大の理学部と言う訳で雪の降る京都に泊りがけで受験に行きました。泊まった旅館が京大病院の南にあった小さな旅館だったのですが、そこでばったり森君に出会ったのです。あれ、どこを受けるんだい?と訊くと同じ理学部だと言うではないですか。二人とも無事に理学部に合格しましたが、京大でも大学紛争で教養部が過激派で封鎖されていて、正規の授業が半年ほどありませんでした。私は囲碁部に入って囲碁三昧の生活をすることになりますが、森君は真面目に数学の勉強をしていました。一時期、サークルを作って解析概論を一緒に読もうかとしたこともありましたが、私はすぐにぼおってしまいました。その頃になって、森君は高校時代から全国的に名の知れた数学者であることを知りました。その頃大学への数学と言う雑誌があって、数学の難問が毎号出るのですが、森君はそれでいつも満点を取るばかりか、出題者が思いもしない解答を寄せて出題する大学の先生から注目をされていたようです。私は森君にとっては悪友で下宿へ時々行っては神経衰弱をしたり(神経衰弱では森君に負けたことがありません)、ボウリングに誘ったり、洛友会館にビリヤードに誘ったりしていました。そんな私にも気さくに付き合ってくれるのですが、いつも数学の問題を考えているようで、遊びながら時々解った解ったと叫びます。何が解ったんだと訊くと考えていた問題が解けたと言います。森君は考えている時の癖があって、右手の指で前髪をくるくる巻き付けるのです。丁度頭の中から何か捻り出すような仕草に見えました。森君は長者町のタオル問屋の一人息子でしたが、ご両親は森君に好きな数学をやらせようと最初から跡継ぎとは考えていませんでした。時々お母さんが京都に来ては私も呼んでくれて、美味しいものを食べさせてくれます。私は貧乏学生で仕送りだけでは足らずに家庭教師のバイトをしていて、金がなくなると生協の素うどん(30円)で何日も凌ぐ生活でしたからこれはありがたかった。2回生の時に杉峠に通うのに中古の原付を買ったのですが、森君も真似して原付を買いました。それで1号線を走って家に帰ったこともあるのですが、今から考えると交通事故に遭って大数学者を失わなくてよかったと思います。2年目の時にまだ京大理学部に未練のあった私は数理統計学の試験を森君に代りに受けてくれと頼みます。全然勉強してなかった私は受けても受かる自信がなかったからです。ただし、あまり上手く解答するとばれてしまうから適当に間違えてくれと言う注文付きでした。それも嫌がらずにやってくれました。私は3回生の途中から医学部に転向するために名古屋に帰りますが、森君はすんなり卒業すると理学部助手となり、2年後にはハーバード大学に助教授として留学します。留学先で前世紀から数学者の頭を悩ましていたハーツホーン予想を解決。帰って名古屋大学理学部の助教授となります。その頃に森君の結婚式に呼ばれて行くと、全国の国立大学の教授が顔を連ねていました。1990年、若干39歳で広中平祐についで日本人3人目のフィールズ賞(数学のノーベル賞と言われる)を受賞します。1988年には名古屋大学理学部教授、1990年京都大学数理科学研究所教授となり、1999年国際数学連合副総裁、2015年には国際数学連合総裁となり、世界の数学者のトップに立ちます。森君は初めから天才であった訳でなく根っからの数学好きと継続する力がここまで到達させたのだと思います。
2018年09月09日
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五井山からの眺望 posted by (C)ドクターT48年前の夏の話です。京大囲碁部の合宿が愛媛県松山市にある鹿島で行われました。夏合宿は毎年信州佐野坂南神城の長澤さん(囲碁部OB)の民宿で行うのが恒例でしたが、たまには違う場所でしましょうと言うことで、当時部長の大西恒二さん(工学部3回生)が場所を選びました。公式戦では主将は4回生の青木英明さん、副将が大西さん、私が三将を務めていましたが、夏合宿には4回生は参加しません。2回生は私と稗田君、1回生も数人参加しました。大西さんは形勢判断に明るいしぶとい碁で、閃き碁で大勝するか潰れるかと言う私とは対照的な碁風で、いつも勝負はヨセに持ち込まれることが多く、団体戦ではとても頼りになる先輩でした。鹿島は松山市の中心近くにあり、丁度蒲郡の竹島くらいの大きさですが、橋で繋がってはいないので、船で渡らなければなりません。島には海の家風の民宿が1軒だけあって、他に遊ぶところもないので、囲碁に没頭出来ると言う訳です。それでも2日目の昼の休憩に皆で浜で海水浴を楽しみました。その時に1回生に谷水君と言うちょっと生意気な奴がいて、私が観海流古式泳法をマスターしていてどれだけでも泳げるんだと言うと、自分も小堀流踏水術をマスターしていると言います。それではあの沖に見える小島(多分三河湾で言うと竹島から三河大島くらい離れていました)まで競争しようかと言う話になりました。部長に言うと多分止められるので、二人だけで黙って泳ぎ出しました。泳ぎ出して約2時間くらいでその島まで無事二人とも泳ぎ着きましたが、黙って行ったために二人が行方不明になったと大騒ぎになり、戻ってから部長に二人ともお灸を据えられましたがよい思い出です。最後の日には松山に渡って、松山本因坊と言われる人と対戦しましたが、実力はアマチュア5、6段は優にありましたから簡単に撃破しました。3回生が終わって、私は名大医学部を受け直すために名古屋に戻りましたので、大西さんとも谷水君ともそれ以来会っていませんが、大西さんは卒業後原電に入社して東海村に行ったと聞きました。15年ほど前に宮古島トライアスロンで知り合いになった山内豊明さんが丁度原電の人で大西恒二さんのことを訊いたら一緒に仕事をしたことがあるとのことでした。10年ほど前、大西さんがすい臓がんで亡くなったとの連絡を山内さんからもらいました。生きて見えたら当時のことを話ながら1局打ちたい方でした。谷水君については、卒業後予備校を始め、碁会所も経営して7段を名乗っているとの噂を聞きました。
2018年09月06日
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ナンジャモンジャ満開(家) posted by (C)ドクターT名大医学部を卒業し医師国家試験に合格した後に、臨床研修に入るのですが、私は名鉄病院を研修先に選びました。今では2年間の初期ローテート研修が義務づけられていますが、その当時研修のカリキュラムと言うものはなく、自分で研修方法は自由に選択出来ました。それでも名大では名大方式と呼ばれて2年間くらい自主ローテートする人がほとんどでした。私は外科をやりたいと思っていましたし、5年も回り道をして医学部に入ったので、焦りもあり、最初から外科にフィックスした研修を選択しました。名鉄病院は名大第二外科の関連病院でしたから第二外科にも入局し、そこで出会ったのが最初の外科の師匠、片岡先生でした。後に病院長になりますが、その頃は40歳代半ばの外科部長でした。上に副院長が1人、医長が1人、先輩研修医が2人、大学医局から非常勤で1人みえていました。朝、出勤すると外来が始まるまでの時間、お茶を飲みながら外科の休憩室で片岡先生が色々と話をしてくれます。その話を聴きながら、私は外科医、医者としての心構えのようなものを学びました。片岡先生は名大卒業後、県立多治見→精霊→名鉄と勤務先を替わりましたが、若い多治見の頃の話です。片岡先生が代務(アルバイト)で開業医のところへ行った時の話です。雪深い多治見でお婆さんが毎日通院していました。縫合処置した後の傷の消毒に毎日山ひとつ越えて通っていたそうです。大きな病院ではそんなことはしませんが、開業医では再診料を取って収益を上げるために毎日通院させていたとの話でした。お婆さんは毎日診てくれるありがたい先生と思っていたそうですが、必要のない通院をさせてはいけないとの教えで、患者ファーストでなければいけないと叩きこまれました。名鉄での外科研修はいわゆるヘルニア、ヘモ、アッペンと言う研修医がまずさせてもらえる手術を教わり、4年半で大学医局に戻ることになりました。片岡先生の家には当時珍しいナンジャモンジャの木があって、その元の木は東農地方にあり、実生でしか増やすことが出来ないと言う話を聴きました。私は木にも興味があったので、片岡先生の家のナンジャモンジャの実生で生えて来た苗木を1本もらいました。それを前の畑に植えたのですが、その後大学に戻って忙しくなったこともあり、トライアスロンに夢中になったことはもあり、そのことをすっかり忘れていました。10年ほど経った5月のある日、前の畑に見たことのない樹の花が咲きました。その樹のことを思い出すのに若干の時間が必要でした。今では家の木の中で一番の大木となり、毎年ゴールデンウィークの頃に真っ白に咲いて楽しませてくれます。うちが檀家にもなっている知多四国72番札所、慈雲寺にもナンジャモンジャが本堂前にありますが、それを凌いで岡田で一番大きなナンジャモンジャとなりました。花が咲くまで10年を要すると言うのは外科医として一人前になるのにそれくらいかかるのと同じで洒落た師匠からの贈り物だと思っています。
2018年09月01日
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警察官 posted by (C)ドクターT昔、私は警察官採用試験を受けたことがあります。18歳、東大理科Ⅰ類の受験に失敗して浪人していた時です。やけくそになって警察官になろうと思った訳ではありません。岡田の町には駐在所があり、その頃竹下さんと言う駐在さんがいました。駐在所勤務は地域課の警察官で、当時は知多警察署がまだなかったので、東海警察署の所属でしたが、定年前で家族とともに駐在所に住んでいわゆる町のお巡りさんとして働いていました。奥さんと娘さんが一人いて、娘さんは小学校の同級生でした。恐らく階級は万年巡査ではなかったかと思います。警察官の階級は下から巡査、巡査部長、警部補、警部、警視、警視正、警視監、警視総監とピラミッドになっていて、警部までは昇任試験を受け上がることが出来ます。上に行くほど試験は難しくなります。警視以上は試験ではなく、人事によって警察官の能力が評価されて上がって行きます。また最初の入り口で国家公務員採用試験(総合職試験)を受けて警察官になった場合キャリア組と呼ばれ、都道府県の警察官採用試験を受けて警察官になった場合はノンキャリア組と呼ばれて、ノンキャリアは地方公務員になります。キャリア組は警部補から始まりステップアップして行きますが、ノンキャリアではいくら頑張っても警視正くらいまでしか上がれません。いつも見ているテレビの「相棒」で出て来る特命係の杉下右京(水谷豊)はキャリアですが警部、捜査一課の伊丹刑事はノンキャリアの警部補と言う設定になっています。私が何故愛知県の警察官採用試験を受けたかと言いますと、実は竹下さんから頼まれたからです。竹下さんは囲碁が好きで、父も時々駐在に打ちに行ってましたが、私もついて行き打つことがありました。娘さんが同級生だったこともあり、竹下さんから警察官の試験を1次試験だけでよいから受けてくれないかと頼まれたのです。何か受験者を集めるように署の方から指示されたんだと思います。囲碁仲間からの頼みで断る訳にもいかず、受験することになったと言う訳です。1次試験は筆記試験だけですからもちろん簡単に合格してしまいます。でもそれで約束は果たせたので2次試験の面接はパスして受けませんでした。もしそのまま受けて警察官になっていてもノンキャリアですから最後は警視正で小さな署の署長で終わっていたでしょう。
2018年08月30日
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ヒサマツミドリシジミ♂(1971.7 .5,杉峠) posted by (C)ドクターTすでに何度かこのブログで紹介した話ですが、ノスタルジーの1話として書いておきます。 京都へ来たのはよいが、教養部が封鎖されていて、正規の授業はなく、囲碁部の門を叩いて、毎日朝から晩まで囲碁三昧の日々を送っていました。そんな時に囲碁部の4回生に蝶屋さんが二人もいて、丁度その時に京都で開かれた日本鱗翅学会へ誘われて聴講に行きました。その当時、『幻の蝶』と言われていたヒサマツミドリシジミの生活史についての発表がありました。記憶が曖昧なんですが、ヒサマツは麓のウラジロガシに卵を産んでそこで育った成虫が山の上の方へ飛んできてテリ張り、求愛行動をするらしいと言う発表だったと思います。京都付近で有名なテリ張り場所として鞍馬の奥にある北山の杉峠と言う場所があり、シーズンには1日数本しか出ていないバスが物干し竿を持った蝶屋さんでいっぱいになると言う状況でした。私もヒサマツを求めて1回生の時から杉峠通いが始まりました。2回生の時からはホンダのスーパーカブを中古で買ってカブで杉峠まで通いました。よいポイントを取るためにテントを持って泊まり込んだことも一度や二度ではありません。毎日30人くらいの蝶屋さんが来て、ヒサマツが採れたと言う幸運に巡り合える人は1日に一人いるかいないかと言った状況でした。エゾやジョウザンは一日に数頭は採れましたが、ヒサマツに出会う幸運は1年目も2年目も訪れませんでした。3年目のある日のことです。もう4時を回って日が傾きかけて来た頃です。「今日も駄目だったか~。」と帰り支度を始めた時です。ポイントに夕日を浴びて、エゾやジョウザンとは違う金緑色に輝く1頭が入って来たと思ったら、何処にいたのかもう1頭がスクランブル発進をしてグルグル卍巴を始めました。アドレナリンが一気に出て心臓が破裂しそうになりながら渾身の一振りで2頭を一緒に網に納めました。近くで裏翅のV字を確認するまでドキドキは続きました。三角紙に丁寧に入れて、峠までの道を戻る途中、出会う蝶屋さんに喜びを悟られないようにするのは大変でした。1971年7月5日、47年前の昔話です。追記:杉峠はその当時幻の蝶と呼ばれていたヒサマツミドリシジミを採ることの出来る唯一の産地として有名でした。10年ほど前に昔を懐かしんで杉峠を訪れましたが、昔の面影は無くなっていました。今、ヒサマツミドリシジミを採る(撮る)ことの出来る場所として知られているのは兵庫県豊岡市の来日岳と静岡県浜松市の竜頭山くらいでしょう。2011年6月25日来日岳で、2012年7月4日竜頭山で再会します。ヒサマツミドリシジミ♂(2011.6.25、来日岳) posted by (C)ドクターTヒサマツミドリシジミ♂(2012.7.4、竜頭山) posted by (C)ドクターTヒサマツミドリシジミを採った時はよほど嬉しかったのでしょう。当時、下宿の隣の部屋に住んでいたフォークソング好きでギターをつまびいていた1年下の由田君に私が作詞して曲をつけてもらいました。でもその歌詞も曲も今では散逸してしまってありません。憶えているのは最初の一節だけです。「6月雨降る杉峠~♪」
2018年08月29日
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私が本格的に蝶の採集を始めたのは京大囲碁部に入ってからです。4回生に瀧先輩(医学部)、大木先輩(経済学部)と二人の蝶屋さんがいたからです。大木先輩はその時副将で打っていました。瀧先輩は囲碁の方は今ひとつでしたが、台湾を含めてあちらこちらへ採集に行っていました。杉峠のヒサマツミドリシジミの情報をもらったり、信州の方へ採集旅行に連れて行ってもらったのは主に瀧先輩の方でした。1970年瀧先輩に誘われて、日本鱗翅学会創立25周年記念大会が京都会館で行われた時に出席しましたが、その時に白水隆先生が第4代会長に就任され、ヒサマツミドリシジミの生活史が明らかになりました。名大医学部に入り直して蝶の採集からは遠ざかることになりましたので、二人の先輩蝶屋さんのことも記憶の片隅に埋もれていました。医王山にて (2) posted by (C)ドクターTブログを始めて蝶の写真を撮るようになり、数年してから採集も再開しました。市房山の西さんに医王山がゼフィルスの宝庫であることを聞き、それから毎年7月初め頃に医王山にゼフィルスの採集に行くようになりました。医王山山頂近くのこの尾根沿いの道は両側が谷になっていて、南側には手ごろな高さにブナの梢があって、フジミドリの採集ポイントになっています。丁度その時期に行くとたいてい2~3人の蝶屋さんがネットやカメラを持って立っています。2016年に行った時に二人の白髪混じりの小父さんがネットを振っていました。挨拶をして中に入れてもらったのですが、その時は何処の誰か気が付きませんでしたし、向こうも私が誰か判らなかったようです。背の高い方の小父さんに「どこから来たんですか?」と訊いたら「京都から。」と聞いた瞬間に、記憶が蘇りました。「瀧先輩!」、感動の45年振りの再会でした。するともう一人の小父さんは、そうです、大木先輩でした。お二人ともまだ連れ立って採集行をされているようで、瀧先輩は医者になっていましたからまだ非常勤で少しは働いていましたが、大木先輩は仕事は引退されて悠々自適の生活をしていました。メスアカミドリシジミ♀(医王山) posted by (C)ドクターT瀧先輩はゼフィルスの飼育も続けて見えるようで、丁度その時メスアカミドリシジミの♀が前に停まったのですが、私は写真を撮っただけで採集は瀧先輩に譲りました。翌年の同じ時期にまた同じ場所でお二人に会うと言う偶然が重なり、蝶屋の行く場所と時期は何も打ち合わせしなくても重なるんだなと思った次第です。瀧先輩にはその場で神通峡のヒサマツのポイントを教わり、それから冬場に採卵に行くようになりました。
2018年08月28日
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ホタル乱舞 posted by (C)ドクターT私の幼児期~小学校時代は嫁入り前のお姉さんが4人もいて、可愛がられていましたし、近所の女の子の家にままごと遊びに行ったり、日曜日にクラスの女の子を誘って山に遊びに行ったりはしましたが、子供の遊びの延長のようなものでした。中学から私は名古屋の東海中学(男子校)に通うようになり中学・高校の6年間女の子のいない環境で暮らすことになりました。高校時代は特に部活(陸上競技部、囲碁同好会)と受験勉強でそれどころではなく、1年浪人して京大の囲碁部に入ってからも男ばかりの環境でしたから、高校時代も好きな男の子がいましたし、囲碁部でも可愛い後輩がいて、このまま行くとLGBDになってしまうのではないかと心配するほど女の子から隔絶した世界に住んでいました。囲碁部は何処の大学でも大体が男だけの世界でしたが、京女(京都女学院)や神女(神戸女学院)と言った女子大学にも囲碁部があってたまに指導に行ったり、合同合宿をしたこともあり、囲碁部の仲間でも二人ほど捕まって結婚したものもいました。1回生からレギュラーで活躍し、部長になった3回生の時に驚きの出来事がありました。小松原祥子さん(仮名)と言う理学部1回生の女の子が囲碁部の門を叩いて来たのです。沼津出身の小柄な彼女は慎ましやかで笑顔の可愛い女性でした。お父さんが囲碁を打つそうで、覚えようと思ったと言う彼女は、時々男ばかりの部室に来ては皆から囲碁を教わっていました。おしゃべりな女が嫌いな私はこの物静かで、聡明で笑顔の可愛い祥子さんに一目ぼれしてしまったのです。チャンスは3回生の夏に訪れました。毎年、白馬の佐野坂南神城の囲碁部OBの経営する民宿で夏の合宿をするのが恒例となっていましたが、彼女が合宿に参加すると言うのです。皆揃って電車で来たのですが、栂池の方で合宿をしていた京女の囲碁部と途中で一日一緒に合同練習をするので、その交渉に行くと言って皆を先に民宿に行かせて、祥子さんに京女の合宿所までついて来てもらったのです。(決してパワハラではありません)二人きりで白馬の駅まで行き、歩いて京女の合宿所まで行き、交渉を終わって皆が待つ民宿まで戻りましたが、佐野坂の駅で降りて南神城までは歩いて20~30分はかかります。日もとっぷりと暮れて、真っ暗になった田圃道を歩いて行くと、一面ホタルの飛び交う田圃がありました。「あっ、祥子さん見て!」と言ってしばしその光景に二人で見とれていましたが、女の子と付き合ったことがなく、全く女の子の扱いに慣れていなかった私は手を握るでもなく、肩を抱くでもなくこの絶好のチャンスを逃してしまいました。結局、何もなく3回生の夏は終わり、私は医学部へ転向するために3年半で京都を後にします。彼女はその後東海の同級生で同じ京大理学部に入った男と結婚して信州で幸せに暮らしていると風の便りに聞きました。私の初恋は片想いで終わったとばかり思っていました。私が愕然としたのは、それから40年後に久し振りに京大囲碁部のOB会に出た時のことです。2年下の後輩(祥子さんと同級生)の狩野君が「祥子さんも先輩(私のこと)が好きだったんですよ!」と教えられて、絶句しました。あの時のチャンスを逃さずもう一押ししていたら私の人生は大きく変わっていたでしょう。
2018年08月27日
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第2回宮古島トライアスロン(1986年) posted by (C)ドクターT市民マラソンで好成績を残すようになり、ランナーズと言う月刊誌を定期購読し、次に出るレースの情報を集めていた時に、最初に載ったトライアスロンの記事は日本で初めて行われた1981年の皆生トライアスロンの記事でした。それを見た時には世の中には物好きな人たちがいるものだな~と言う程度で、まさかトライアスロンにのめり込むことになるとは思っても見ませんでした。その次にランナーズに載ったのは与那国島診療所に勤めるフリムン先生の話でした。フリムンと言うのは与那国の方言で変人とか気違いと言う意味で、診療の合間にいつでも島中を走っている変わった先生がいると言う話でした。しかし、その記事をよく読んで見ると、フリムン先生こと清水利恭先生は名大の2年先輩で、シュバイツァーのようにアフリカの未開地での診療をする医者を夢見て無医村であった与那国島へ渡ったこと、そしてマラソンだけでなくトライアスロンに挑戦していることなどが書いてありました。それを読んで身近な医者でもトライアスロンに出ているのなら自分にも出来るかな、でもいきなり皆生のロングは難しそうだと思っていたところ、1984年に日本で2番目の大会となる串本トライアスロンが行われることになりました。スイム2km、バイク36km、ラン16kmは初挑戦するのに適当な距離でした。130人ほどの参加者で行われたその大会に出たところ、いきなり10位に入賞することが出来ました。今までマラソン大会ではなかなか上位入賞は出来なかったのですが、3種目平均して出来れば結構上位に入ることが出来る競技だと気が付きました。そこで、翌年から始まった宮古島と琵琶湖と言う2大ロングの大会にエントリーして本格的なトライアスロンの練習を始めました。大学を出て研修が終わりまた大学の医局に戻ったばかりで専門研修、診療、研究と忙しい時期でしたから主に通勤時間を利用してバイクの練習をしました。家から鶴舞の大学病院まで片道26kmほどでしたが、それをバイクで1時間かからずに通勤して、電車、バスを乗り継いで行くよりもかえって速い通勤でした。そして、きっかけを作ってくれた清水先生に最初に会ったのは第2回の宮古島大会の時でした。第3回宮古島トライアスロン年代別表彰 posted by (C)ドクターT第3回の宮古島大会では清水先生と一緒に年代別(35~39歳)表彰を受けました。清水先生が年代別1位、私は3位(総合29位)でした。その後清水先生はフランス語を勉強するためにフランスに留学し、結局アフリカではありませんでしたが、中米のボリビアで未開地診療に携わることになり、会えなくなりました。西條さん宅にて (1) posted by (C)ドクターTフリムン先生のことを思い出させてくれたのは、迷蝶を追いかけて与那国へ通うようになった時、迷蝶ハンターが夜な夜な集まる与那国ホンダの西條さんのお宅にお邪魔した時のことです。西條さんがトライアスロンをしている写真が店に飾ってあったので、「西條さん、フリムン先生を知っていますか?」と訊いて見ました。そしたら、西條さんも清水先生の影響で走るようになり、フルマラソンではサブスリーも達成し、石垣島でトライアスロンにも出たそうで、今はトライアスロンには出ていないが、マラソンは続けているとの話で、清水先生の話で盛り上がりました。
2018年08月26日
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伊勢湾台風(岡田村誕生四百年記念写真集より) (2) posted by (C)ドクターT今年(2018年)は台風の当たり年か、8月でもう20号になってしまいました。私が子供の頃(昭和30年台)はこんなにたくさん台風が来ることはありませんでしたが、2~3年に1回くらい大型台風が知多半島を襲いました。中でも記憶に残るのは1959年(昭和34年)の伊勢湾台風です。9月21日サイパン島の東で発生した台風15号は発達しながら北上し、9月26日18時過ぎに潮岬西15kmに上陸して紀伊半島を縦断して日本海へ抜けました。この台風は伊勢湾沿岸に5000人以上の死者を出す甚大な被害を与え、室戸台風、枕崎台風と合わせて昭和の三大台風と呼ばれ、阪神・淡路大震災が起こるまでの自然災害で戦後最大の犠牲者数でした。丁度大潮の満潮と重なったために、知多半島の特に付け根に当たる部分で高潮により堤防が決壊し、被害が大きくなりました。実家のある岡田字小石山は岡田の町の南の高台の北斜面にあり、標高30mくらいありましたので、高潮の被害はありませんでした。子供の頃、大きな台風が来ると言うと、普段は子供部屋で寝ていましたが、家が倒れるといけないと言うので、応接間の頑丈な机の下に布団を敷いて寝ましたのでいつもと違う雰囲気で何かドキドキしていました。それでも強い風で2階建ての家がギシギシ音を立てるのを聞くと不安で眠れませんでした。台風の過ぎた翌朝は家の周りを見回りましたが、落ちた木の枝や葉で景色は一変して、上の地蔵堂の横の楠の大きな枝が折れていました。確か翌日は小学校も休校になったと思います。その頃は家にテレビもなく、ラジオで被害状況を聞いていましたが、だんだん高潮による甚大な被害が判って来ました。学校が再開して、小学校の校長先生が名古屋からこちらへ来るときの被害状況を聞かせてくれましたが、死体がいくつも水に浮かんでいたそうで、その当時はどんなか判りませんでしたが、今は水死体も何十と検案していますので、実感を持って判ります。伊勢湾台風後に起こった知多半島の自然変化として松枯れがあります。台風で大きな松が何本も倒れたせいもありますが、伊勢湾台風の塩害によるものか、あるいは時を同じくして全国的に起こった松の材線虫による松枯れだったのか、最初に取り上げた大松を始め松林の松が枯れて行きました。知多半島の松は主にクロマツですが、アカマツも少しはありその昔はマツタケも採れたそうです。私が子供の頃は克君に連れられてヌメリと呼んでいたキノコ(多分アミタケのようなイグチの仲間)を採って来て味噌汁に入れて食べていました。それが山に松が無くなると全く出なくなってしまいました。
2018年08月24日
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1961年に愛知用水がひかれる前は農業用水は溜池に貯めた水でまかなわれていました。禿山 (7) posted by (C)ドクターT愛知用水が出来てからは知多市は農業の衰退と名古屋のベッドタウン化が進み、溜池も半分くらいは埋め立てられました。これは今も残る石根の下池です。水道のない時代、飲料水は井戸水でまかなっていました。古い家には何処でも必ずひとつは井戸がありました。私の岡田字小石山の実家は大きな屋敷でしたが、井戸水は下の畑の脇に建てた井戸小屋からポンプで汲み上げていました。元はその辺りは池だったようで、井戸水の質はよくありませんでした。夏には水が枯れ、よく本宅の大きな風呂や孝三叔父さんのところの五右衛門風呂へ貰い湯に行くこともありました。飲料水は500mほど離れた弥兵衛さんの家にもらいに行ってました。子供の頃のある時、通常は年の違う腹違いの姉が4人もいましたので、お姉さんたちの仕事だったのですが、弥兵衛さんの家にお米を研ぎに行く仕事を言いつかって初めてのお手伝いに一人で行ったのです。無事米研ぎが終わって家に帰る途中つまづいて研いできたお米を全部道にぶちまけてしまいました。泣きながら家に帰りましたが、そんなに怒られた記憶がないので、多分お姉さんたちも小さな子に用事を回した後ろめたさがあったのでしょう。水質は家ごとにまちまちで、養子に来た竹内家の井戸はとてもよい水で今でも水道の水は不味いので、飲料水は井戸水を使っています。小石山の風呂は薪をくべて炊いていましたが、水は井戸水でしたからいつも泥で濁っていてそれが当たり前だと思っていました。インドのガンジス川で湯あみをするようなものだったと思います。それが小学校5年の時、愛知用水の水道が家にもひかれて、初めて水道から風呂桶に貯まる水が透明なのを見て感動した覚えがあります。カイツブリ親子(知多市)-001 posted by (C)ドクターT宅地化が進み、溜池は少なくなりましたが、住宅地には必ず調整池が造られました。それが新たな自然を育むようになりました。これは知多市つつじが丘の調整池ですが、ある年にそこでカイツブリの子育てが行われました。カイツブリは浮草を集めて浮巣を造るので、浮草の発生状況によって見られない年もあります。オオヨシキリ(岡田) (19) posted by (C)ドクターTこれは家の近くの岡田保育園の南の調整池です。ここには葦が生えていて5月頃には毎年オオヨシキリが来て騒がしく営巣しています。バンの親子(知多市岡田) (2) posted by (C)ドクターTバンの親子も毎年見ることが出来ます。溜池の自然が失われた代わりに新しく生まれた自然もあるのですね。
2018年08月24日
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DSCN2235 posted by (C)ドクターT我が家に一枚の古い絵があります。S Ohsawa のサインがあるこの絵は大澤鉦(セイ)一郎画伯(1893年─1973年)の絵です。大澤画伯は1914年東京高等工業学校図案科(現東京工業大学)を中退し、療養のために知多市古見に移住し、1920年に常滑市大野町に移住しました。その頃生活に困窮しており、大野町で校長をしていた竹内純一お祖父さんが助けるために絵を買ったと聞いています。その絵は最初に住んでいた知多市新知の美濃川付近の風景を描いたものと思われます。同時代の有名な画家に岸田劉生(1891年─1929年)がいました。大澤先生は岸田劉生から1915年草土社設立を誘われましたが断り、1917年弟子の宮脇晴(1902年─1985年)とともに愛美社を設立しました。大澤先生は大野町のアトリエで多くの子供に絵を教えており、実は私も5~6歳の頃に大澤先生に絵を習いに行ってました。母が何でも習い事をさせたがって、最初の1回は一緒について行ってくれますが、後は一人で通わなければいけませんでした。古見までバスで行き名鉄に乗り換えて大野まで行き、そこから線路沿いを新舞子の方に向かって歩いて行くと、洋館風のアトリエがありました。遊びたい盛りの子供にとってかなりの苦痛でした。行くと「これを描きなさい」と言って果物や花などの課題を与えられ、適当に描いて持って行くとなかなかOKを出してもらえません。その時に大澤先生が言った言葉を今でも覚えています。「描くときは3分見て、1分描きなさい」と言うこの教えはその後の私の自然観察にも役立っています。大澤先生はその後横須賀高校で美術を教えますが、その時に私の幼馴染の克君(竹内 克、1948年─ 、デザイナー)も教わり、美大を受験しようとした克君は大澤先生についてデッサンを習うようになりますが、ある人から大澤先生についていては美大は受からないぞと言われて、名古屋の別の先生に鞍替えしました。それが大澤先生に知れて随分怒られたとの話ですが、無事武蔵野美術大学に合格し、その後ディスプレーデザインやイベントデザインなどの空間に関わるデザインの分野で多くの賞をもらって活躍しています。知多市の画家としてはもう一人片山昭博先生がいます。知多市大草に住み、地元の知多中学で美術を教えており、女房も中学の時習っています。鵜の池の風景をライフワークとして描いていました。娘さんが女房のところにピアノを習いに来るようになって、先生がいつも連れて来ていましたが、待っている間に鉄平に絵を教えたりしていました。先生は腎臓を悪くされて透析をしていましたが、60歳代で亡くなられました。今でも先生のアトリエは大草城の隣に残っています。もう一人知多に関係する画家で忘れてならないのは杉本健吉画伯(1905年─2005年)です。愛知県名古屋市生まれで幼少期を津島で過ごしました。1923年に旧制愛知県立工業学校を卒業後、加藤静児のアドバイスにより図案家として鉄道会社を中心としたポスターや商業デザインの仕事を手がけました。1925年に京都に出向き、岸田劉生の門下に入り、1926年に「花」で春陽会に初入選。その後吉川英治作の「新・平家物語」「私本太平記」などの挿絵を担当し絶賛を得ました。1949年東大寺観音院住職の上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエとして貸してもらい、奈良の風物を描きました。1987年名古屋鉄道により知多郡美浜町美浜緑苑に杉本美術館が開館し、晩年まで美術館内に設けられたアトリエでデッサンや来館者との歓談を楽しんでいましたが、2004年肺炎のために亡くなりました。その最後をみとったのは名古屋第二日赤にいた私の弟、安藤哲朗です。杉本画伯から何かのお礼に陶板画を1枚もらったと言っていましたが、杉本画伯は「長生きするのが目標ではなく、絵を描くのが目的でそのために長生きしている。」と言っていたそうです。
2018年08月23日
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名大医学部卒業アルバムより (3) posted by (C)ドクターT名大医学部を卒業した29歳(1979年)にはすでに長男鉄平と長女さくらが生まれていました。この頃は運動はほとんどせず、座って囲碁ばかり打っていましたので、体重も80kg近くありました。名鉄病院時代( 1982年) (5) posted by (C)ドクターT名鉄病院で研修医時代を過ごしましたが、たまにテニスやスキーに行くくらいで、階段を登るときに息切れがするようになり、これではいかんと思い出しました。鉄平スイミング(1980.11) posted by (C)ドクターTきっかけとなったのは鉄平3歳の時、子供には皆水泳をさせようと思った時です。私も小さい頃海で観海流古式泳法は習ってどれだけでも遠泳は出来ましたが、クロールで泳げませんでした。そこで、神宮前に名鉄のスイミングスクールが出来たのをきっかけにスイミングスクールに通いまずクロールを覚えました。ダイビングを習う(1982年) (1) posted by (C)ドクターTおまけで神宮前に出来たダイビングスクールでダイビングも習いましたが、だいぶんスリムになっているのが判ります。知多市民マラソン10km (1) posted by (C)ドクターT高校時代陸上部で中長距離をやっていたこともあり、市民マラソンの大会に出るようになり、その頃八幡の浜島さんを中心に走る仲間が集まって知多ランナーズが出来たので、入れてもらってあちらこちらのマラソンや駅伝に出るようになりました。この頃は月間300km以上は走っていたでしょうか。知多市民マラソン10km (2) posted by (C)ドクターT知多市民マラソンでは一般の部10kmで、タイムは35分35秒と平凡ですが、見事優勝。青梅マラソン30km(1986年) posted by (C)ドクターT青梅マラソン30kmでもあと少しで2時間を切る好タイムを出し、フルマラソンも7回挑戦しました。そして、写真はありませんが、小豆島のフルマラソンで念願のサブスリー(2時間59分59秒)を達成しました。この頃はいつも知多ランナーズのユニフォームを着て走っています。この頃は宮古島トライアスロンでもスイム3km、バイク136km走った後のフルマラソンで3時間37分6秒と言うタイムで完走しています。(1987年)日比野賞中日マラソン(フル、1986年) posted by (C)ドクターT日比野賞の中日マラソンにも2回挑戦しましたが、ここでは3時間30秒くらいが最高の成績でした。南アルプス風ツアー(1991年) (4) posted by (C)ドクターT南アルプス風ツアー(1991年) (3) posted by (C)ドクターTトライアスロンを始めてからは自転車レースにも出るようになり入笠山であった南アルプス風ツアー(マウンテンバイクの大会)では見事優勝。第2回スーパーカヌーアスロン(1990年) (1) posted by (C)ドクターT浜名湖の細江町で行われたカヌーアスロンではカヌーを買って参戦し、準優勝。ジャパンインディカップ人力三輪車グランプリ(1992年) posted by (C)ドクターT多治見で行われた人力三輪車レースにはトライアスロン仲間と参加し、準優勝。トライアスロン駅伝in 沼津(1991年) (3) posted by (C)ドクターT沼津で行われたトライアスロン駅伝にも仲間と参加し優勝と輝かしい成績を残しました。知多ランナーズはメンバー15人ほどいましたが、事務局をしていた浜島さんが何でもきちんとやる性格でしたので、会の規則も作り、会費を集めて運営していましたので気軽に新しいメンバーが入会出来ず、メンバーが徐々に高齢化、病気で亡くなった方もいて少しづつ活動が終息していきました。そんな中でも私を含めて3人の方がトライアスロンに転向して続けています。今でもトライアスロンに出る時にチーム名を書く欄があると知多ランナーズと書いています。1月6日走友会練習 (4) posted by (C)ドクターT蒲郡市民病院に赴任してから、蒲郡にも蒲郡クラブ(蒲郡走友会)と言う走る仲間の会があることを知り、練習会に参加するようになりました。この会は故安藤昌男さんが立ち上げた会で、規則も会費もなく、ただ日曜日の午前7時に中央公園に集まって、山の方へ走ると言う集まりでしたので、誰でも気軽に参加出来ました。コースが3つあり、坂本コース、清田コース、相楽コースの3つを週替わりに回っていました。自分のペースで好きなところまで行って戻ってくると言う練習会で一番走る人は1号線まで出て戻って来るので、30kmくらいの距離を走ることになります。常連さんたちは誘い合わせて各地のマラソン大会に出ています。DSCN1502 posted by (C)ドクターT元旦には陸協と協力して中央公園─石山神社─竹島八百富神社─中央公園の元旦マラソンをしています。年に1回新年会をしていますが、厳しい規則がない走友会ですので、次から次と新しいメンバーも入って今も続いています。
2018年08月21日
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私が酒を飲むようになったのは大学に入ってからです。と言うのは父が全くアルコールが飲めなくて、母は飲めたと思うのですが、父に遠慮して飲んでいませんでしたので、自分自身こんな酒豪であることは知りませんでした。私の居酒屋放浪記について書いてみたいと思います。私は女の子がいて相手をしてくれるスナックやバー、クラブなどより一人でグイグイ飲む居酒屋の方が性にあっています。今までに色々な自分に合う居酒屋を見つけては通いましたが、だいたいは一人でやっている小さな居酒屋が多いので、その主人の人生とともに居酒屋も寿命を迎えます。「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず、淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まりたるためしなし。」は方丈記の出だしですが、居酒屋方丈記を書いてみます。1.剣菱(名古屋、明道町→浄心、現在は閉店)居酒屋通いが始まったのは名大を卒業して名鉄病院で研修していた頃のことです。外科の先輩の馬淵先生に連れられて明道町にある小さな居酒屋に連れていかれました。剣菱名刺 posted by (C)ドクターTそこは老夫婦がやっているカウンターだけの小さな店でした。たまに娘さんが手伝うこともありました。親父さんは下戸でしたが、食道楽であちらこちら旅行して食べ歩き酒のツマミによさそうなものがあると交渉して送ってもらい店に置いていました。小さな二つ折りの名刺を作って紹介していました。酒は剣菱だけ、ビールはキリンだけと言うこだわりの親父で飲みながらツマミの講釈を聴いていました。明道町の店が道路拡幅のために立ち退きになると浄心ステーションビルに移りましたが、常連さんたちもそちらに移って流行っていました。親父さんが脳梗塞で倒れ閉店、一時回復し再開、しかし親父さんが亡くなり、娘さんと奥さんでまた再開しましたが、長くは続きませんでした。2.まるけい(大須仁王門通り、地魚料理、現存)DSC_6713 posted by (C)ドクターT次に行くようになったのは大学へ戻って内分泌研究室でよく使った大須のまるけいです。今も大学時代の若女将は元気で、高橋昭先生を囲むYOSの会(山に登って温泉に入り酒を飲む会)では必ず最後のSをここでしています。ここのよいのは、持ち込みの酒が飲めることと、地魚料理が美味しいことです。3.志な乃(蒲郡駅前地下街、閉店)DSCN4535 posted by (C)ドクターT蒲郡に赴任してから、最初に通うようになったのは蒲郡駅前の地下にあった志な乃と言う店です。DSC_3383 posted by (C)ドクターT単身赴任で殆ど外食していた私は、おふくろの味を食べさせてくれる飯田出身の女将さんのことをお母さんと呼んでいました。カウンターだけの小さな店で、知らない人が入ってくると予約でいっぱいですと断ってしまうこともあり、お母さんの好みで銀行関係、市役所関係、警察関係、病院関係、ニデック関係の人たちが常連でした。私も最初に行った時にはTシャツにスニーカーと言ういで立ちでしたからあやうく断られそうでした。年中無休で営業しており、たまに開いていないとお母さんが病気じゃないかとみんなが心配しました。DSCN0636 posted by (C)ドクターTお母さんは気前がよくて、刺身は大盛でビールを飲んで、最後に締めのご飯と味噌汁を出してくれて2千円を超えることはまずありませんでした。DSC09269 posted by (C)ドクターT筍やワラビを採って持って行くと、気前よく他の人にもサービスで出していました。DSC09271 posted by (C)ドクターTここでは蒲郡競艇一筋に働いていた、私の競艇の師匠、河合二男さんと出会いました。そして蒲郡で大きなレースがあると来る北條忠先生(神田川の作詞家、競艇好き)やら蛭子さん(競艇好き)やら中道(元競艇選手、解説者)を誘って一緒にここで飲んだこともあります。DSCN1117 posted by (C)ドクターT河合さんには、全国24の競艇場へ連れて行ってもらい、いろいろな施行者とも知り合いになりました。一番右は江戸川の内田さんです。志な乃のお母さんも90歳を超えて流石にえらくなって来たようです。最初は耳が遠くなったのか、注文が通らなくなったり、添える調味料を間違えたりといったことがありとうとう店じまいしてしまいました。4.ご利益会(蒲郡駅前、緑屋と言う弁当屋の厨房、要予約)ご利益会 (1) posted by (C)ドクターTここは居酒屋と言う訳ではなく、緑屋と言う弁当屋の厨房に食材を持ち込んで、飲み放題¥3000円で料理を作ってもらいます。たまたま官舎の近くにあって、愛知工科大学の井上教授と知り合って、病院で緑屋の弁当を取っていたこともあり、頼んで会を立ち上げました。緑屋さんは消防署に勤務していましたが、脱サラして弁当屋を始めました。メンバーは井上先生と緑屋さんの知り合いで始めましたが、井上教授がライオンズに入ってからはライオンズのメンバーも誘うようになりました。ご主人が脳梗塞で倒れてからは息子さんが戻って来て後を継いでいます。井上教授が定年退官を迎え芦屋の方に帰ってからあまり開かれなくなりました。5.美晴(蒲郡市栄町、現存)みはる posted by (C)ドクターTこの店は駅から少し離れていますが、ライオンズのメンバーから紹介されて通うようになりました。美晴と言うのは奥さんの名前で奥さんは私の患者さんでしたが、残念ながら乳癌が再発して亡くなってしまいました。ここは焼き物が名物でじっくりと焼いてくれるのでどれも美味しかったです。冬は釜飯もありました。6.天神坂(飯田駅前、山菜・キノコ料理)DSC00766 posted by (C)ドクターT女将の松永モモ江さんは元々は理容師でしたが、山菜・キノコ採りが好きで、夜だけ採って来た山菜・キノコ料理を出す居酒屋を始めたところ、評判がよくそちらの方が面白くなって居酒屋を本格的に始めました。DSC00882 posted by (C)ドクターT四季の田舎料理(春夏編、秋冬編)を出し、山菜料理で講演までするようになり、私も最初に知り合ったのは蒲郡までライオンズの例会に講演に来てくれたからです。それから2か月に1回くらい飯田まで飲みに行くようになりました。車で行って、代行タクシーを呼んでインター近くのビジネスホテルに泊まり、翌日そこから病院へ出勤するというハードな居酒屋通いでした。DSC00163 posted by (C)ドクターTここでは珍しいものも食べさせてくれます。バッタやセミと言った昆虫料理。DSC01908 posted by (C)ドクターTオオスズメバチのから揚げ。DSC01600 posted by (C)ドクターTマツタケの季節にはマツタケ尽くしです。ここには色々な酒が置いてありましたが、ボトルキープはなく、どのボトルの酒を飲んでも、目分量で減った量を図り会計してくれると言う不思議な店でした。DSC01616 posted by (C)ドクターTこの店ではマツタケ採りの師匠に出会って弟子入りしました。保健所のキノコ指導員もしていて、天神坂と協力して春は山菜採り、秋はキノコ採りの企画もしてくれました。DSC01611 posted by (C)ドクターTモモ江さんは以前から糖尿病があり、糖尿病性網膜症にもなり東京の方で手術もしましたが、脳梗塞を起こして半身麻痺となり、再起に向けてリハビリをしていましたが、再発して亡くなってしまいました。まだ60台くらいだったと思いますが、惜しまれる死でした。この写真は最後に一緒にキノコ採りに行った時のものです。7.三の丸(蒲郡市形原町、蕎麦の店、要予約)RIMG0053 posted by (C)ドクターT元々形原城の三の丸があった場所に、趣味の蕎麦打ちがしたくて、脱サラして始めた店です。ご主人の壁谷さんは元は中電に努めていました。夜のみの予約で一組しか受けません。最後に壁谷さんが手打ちの蕎麦をその場で茹でて出してくれますが、何と言っても蕎麦前を飲むのが楽しい店です。酒は持ち込みOKです。RIMG0010 posted by (C)ドクターT大きな囲炉裏があり、8人くらいが座ることが出来ます。手づくりの干物などを肴に1時間ほど蕎麦前を頂きます。RIMG0012 posted by (C)ドクターT必ず奥さんも付き合ってくれ、壁谷さんの蕎麦の講釈を聴きます。8.鳥廣(蒲郡市御幸町、鶏料理、ベルギービール、現存)鳥廣にて (14) posted by (C)ドクターTこの店は元は冬の鳥鍋が人気の和風の店でした。奥さんが亡くなって一時店を閉めていましたが、再開したたと思ったら洋風の店に様変わりしていて、特にベルギービールが30銘柄ほど置いてあって、蒲郡では珍しくベルギービールの飲める店でよく行きました。ベルギービールは醸造所ごとに味が違い、度数も3~12%くらいまであります。ひろ鍋 posted by (C)ドクターT冬はやはり鳥鍋がお勧めです。とり茶漬け(鳥廣) posted by (C)ドクターT親子丼(鳥廣) posted by (C)ドクターT鳥茶漬けや親子丼もお勧めです。9.小松(蒲郡市元町、蒲郡駅前、寿司、現存、水曜休み、第4週は月・火・水と3連休)DSC_4038 posted by (C)ドクターT大将は形原町の松寿司で修業して、元ここでやっていた千石寿司がやめて空いたところを借りて始めました。場所も駅前で、大将の気風がよく安いのでいつもお客さんで溢れかえっています。中寿司(小松) (2) posted by (C)ドクターT寿司はもちろん美味しいのですが、・・・。わらび巻き(小松) (3) posted by (C)ドクターTこの店には私が通い出してから3~9月の間はワラビを週に2回くらい持って行きますので、ワラビ巻きもあります。筍寿司 posted by (C)ドクターTまた春(2月~6月)は筍も納めていますので、筍寿司もあります。DSCN0128 posted by (C)ドクターTちゃんとメニューにも載っています。毒島選手と posted by (C)ドクターT昨年の蒲郡のG1で群馬の毒島選手が、医務室に尋ねて来てトライアスロンのことを訊きに来ました。そこで、優勝戦が終わった日に誘って、・・・。打ち上げ (1) posted by (C)ドクターT小松の奥の部屋(8人くらい入る)を予約しておいて、愛艇会のメンバーも呼んで飲みました。後輩の土屋選手も一緒に来ました。年をとって酒の量は少し減って来ましたが、居酒屋通いは続きそうです。
2018年08月19日
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昔、私の子供の頃はテレビもゲームも無い時代、男の子の夏の遊びと言えば昆虫採集でした。夏休みの自由研究にはクラスで1~2人は標本箱を出したものです。でもそれを大人になっても続ける人は1/5もいないでしょう。今の時代は他の遊びが色々あるのと、昆虫採集に適した環境が減ってしまったことからますます少なくなり、虫屋は絶滅危惧種となりつつあります。私は中学に入ってから昆虫の中でも蝶に特化し、京大に入ってからは囲碁部に大木先輩と滝先輩と二人の蝶屋さんがいたこともあり、さらにゼフィルスに専門化して行きました。2回生の夏に滝先輩と信州の日野春で落ち合って、オオムラサキや浅間山、八ヶ岳と回り、今では採集禁止のアサマシジミや信州からは絶滅したヒョウモンモドキなどを採集して実家へ帰りました。クマゼミ (3) posted by (C)ドクターT実家の知多市岡田字小石山には小さな小山があり、そのてっぺんに生えている桜の木には夏になるとたくさんのクマゼミが行列を作ってシャーシャーと鳴いていました。その小山は幼馴染の克君の家の隣にあって克君の家の地所でした。実家に帰ってのんびりしている時に、その小山の横を通ったら、小学生くらいの男の子が網を持って何か採っていました。「何を採ってるんだい?」と訊くと「クマゼミ。」と答えますので、「貸してごらん。」と言ってクマゼミをたくさん採ってあげました。その後、実家に誘って、信州で採集して来たばかりの色々な蝶の展翅標本を見せてあげました。その子は興味津々、眼を丸くして見ていましたので、三角紙に入った、クジャクチョウとスジボソヤマキチョウの標本をあげて展翅版の作り方も教えてあげました。その子は確か下の大工元さんの借家に住んでいましたが、名前も訊かず、じきに引っ越して行ったこともあり、そのことは私の記憶から完全に消えてしまいました。昔の標本 posted by (C)ドクターTその記憶を呼び覚ましてくれたのは、私がギャラリー”ゼフィルス”を造って最初のゼフィルス写真展を開いた時のことです。中年の男性が見に来てくれて「私のことを覚えていますか?」と言うのですが、全く心当たりがありません。正直に「いいえ、何方でしたっけ?」と言うと、それではと大事そうに抱えてきた小さな標本箱を見せてくれました。そこには少し擦れたクジャクチョウとスジボソヤマキチョウが入っていました。それを見た瞬間に45年前の記憶が蘇りました。北川浩司と名乗った中年男性はあの時の少年だったのです。北川君はその後も趣味で昆虫採集を続け、蝶屋となり、216種類の日本の蝶を採集したそうです。大須のインセクトフェアに行った時にも店を出していて、いくつか珍しい蝶の標本を買い求めたのですが、他の店で買う時もついて来てくれて「私の師匠です。」と紹介してくれて、安く買うことが出来ました。
2018年08月17日
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DSC03618 posted by (C)ドクターT将棋界では藤井聡太7段の活躍に注目が集まっています。私も若い頃は将棋ではありませんが、囲碁で知多半島を荒らし回っていました。私の父、安藤源三は明治28年の生まれですが、岡田尋常小学校を中退した後、碁打ちになることを夢見て当時桑名に強い碁打ちが二人いると聞いて桑名の桑原三段に弟子入りしました。もう一人桑名には三宅七段と言う人がいてそちらには内弟子で日本棋院中部総本部産みの親となる酒井通温氏がいたそうです。桑原三段は力碁、三宅七段は明るい碁だったそうです。内弟子同士で互先で打ったと言いますが、父はその後戦争に行き戻ってからプロ棋士の夢を諦めて知多運輸を創設します。私が物心ついた頃には父は囲碁は流石に昔とった杵柄、アマチュア3段以上は楽にあり引退後は岡田のあちらこちらの碁打ちが集まるところへ行っては打っていました。私は直接父から手ほどきを受けた訳ではなく、最初は同級生の悪ガキからルールを教わりました。中学1年の頃、本宅(岡徳織布を継いで、その後県会議員に出た二代目安藤梅吉宅)へ週に1回プロ棋士が教えに来ていると聞いてそこへ出入りするようになりました。そのプロとはもう現役を引退しましたが、その頃名大を中退してプロ試験を受けて初段となった西條雅孝先生でした。そこへ来ていたのは岡田の主だった碁打ち、加藤しん治(3段)、竹内王海(初段)、梅吉さんの次男安藤宏さん(2段)と、日長の中井三留(数学教授、3段)、中村正巳(古見の郵便局長、初段)、大草の千賀貞一(5段)などでした。これらの人たちの胸を借り、時には西條先生が多面打ちをして相手をしてくれることもありました。ある夏休みの日に名古屋からの帰り、西條先生と古見から同じバスになりました。私は元々口下手で無口でしたので、何を話したらよいのか解らなくて、「先生、プロ棋士にも夏休みはあるんですか?」などと馬鹿なことを訊いて笑われた覚えがあります。ある程度碁が打てるようになって、父にも教わるようになりましたが、父は星目置いても勝てない時から「置き石が多いと、上手も無理をする。無理な手を覚えるとよくない。」と言って置き碁は4子しか置かせてくれませんでした。当然負け続けましたが、中学の終わり頃に初めて4子で勝った時には大喜びしたものです。高校に進む頃にはアマチュア初段は優にあったと思いますが、高校2年の時に数学の櫛田先生、掘先生に頼んで東海高校に囲碁同好会を立ち上げます。最初の写真は高校3年の時に東京で行われた第2回高校囲碁選手権(3人1チームの団体戦)に出た時のもので、1回戦は早稲田大学高等学院高等学校と対戦した時のもので、副将の2年生青木君が勝ち、3将の3年福島君が負け、勝負は私の主将戦で決まることになりました。当時は対局時計を使っていませんでしたので、審判長の坂田栄男名人本因坊の判定となり、私の勝ちで決着しました。2回戦で敗退しましたが、高校時代のよい思い出となりました。高校時代にはアマチュア3段くらいにはなっていましたが、公民館で囲碁大会があるとか、常滑の伊那製陶の研修施設「いこい荘」や瀧田医院で碁会があるとか聞くと出かけたりしていました。1年浪人して京大理学部に入った時に、大学紛争が一番盛んな時で教養部が学生で封鎖されていて正規の授業が6か月ほど始まりませんでした。当然のように囲碁部の門を叩き朝から晩まで囲碁三昧の日々を過ごしました。毎週吉田塾(日本棋院京都総本部)でOB会が開かれ、藤田悟郎先生のもと、坂口三段が指導に来ていました。そこでまたメキメキと腕を上げて、3か月ほどでアマチュア5段は優に超えたと思います。1回生からレギュラーとして活躍し、全国大会にも2度出場しました。夏休みで家に帰ると父に逆に2子置かせるほどになり、近くに強い人がいると聞くと他流試合に出かけていました。もはや岡田には敵はいなくなり、新知の柴田清(5段)、八幡の加島伝次(5段)、寺島利明(5段)、半田の生せんべい総本家田中屋の社長、田中良雄(6段)、大草から半田のステーションビルで碁会所を始めた千賀貞一(6段)、半田の新海眞行先生(6段)などが相手でした。京大時代は学生免状の4段(最高位)を取り、学生十傑戦で一度9位になりました。名大医学部を受け直してからは中部総本部で行われていた愛石会(これも西條先生が指導)に入れてもらい、5段戦、6段戦で5段、6段を取りアマチュア東西対抗戦に11回出場、6勝5敗の成績を残し、愛知県の十傑にも一度入りました。医学部卒業とともに仕事が忙しくなり、トライアスロンを始めたこともあって囲碁からはだんだん遠のいてしまいました。注:途中の登場人物は敬称略で、()内の段位は私が対戦した感じから勝手につけたものであることをお断りします。
2018年08月16日
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喜楽座 posted by (C)ドクターT岡田のガチャマン時代を象徴するのが、岡田の娯楽の殿堂”喜楽座”です。舞台には回り舞台があり、左右に花道があり、畳敷きの升席になっていて、2階席もついていました。喜楽座初回公演の看板 posted by (C)ドクターT大正14年にこけら落としの歌舞伎公演が行われ、昭和30年頃まで芝居小屋、映画館として使われていました。たまに三橋美智也、美空ひばりと言った大物が地方公演で来ることもありました。喜楽座初回公演の看板 posted by (C)ドクターTその株主の名前には私の父、安藤源三の名前も見えます。私が保育園の頃には主に映画館として毎日上映されていて、就学前の幼児は無料でしたので、大人の入る後について子供のような顔をして入り、中で走り回って遊んでいました。喜楽座ホール (4) posted by (C)ドクターT残念ながら閉館となった後は千代田家具と言う家具屋が建物を買って利用していましたが、それも平成に入る前に取り壊されてしまいました。現在その隣で不動産業を営む竹内合名さんが、気楽座を懐かしんで喜楽座ホールと言う小さな貸しホールを建てています。
2018年08月15日
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岡田簡易郵便局 posted by (C)ドクターT私の住む知多市岡田は古い街並みが残っており、岡田街並保存会が街並保存をしています。これは今も使われている岡田簡易郵便局で、ゆうパックはここに出しに行きます。岡田簡易郵便局 (3) posted by (C)ドクターTこの郵便局は看板の説明を見ると1899年(明治32年)に始まっていて、明治時代から知多木綿で栄えた岡田の昔を物語る建物のひとつです。岡田の旧道沿いには昔の岡田の繁栄を物語るいくつかの建物が残っています。岡田の木綿生産は江戸時代慶長年間に始まったとされていますが、明治~大正~昭和を通じて、中七織布、私の叔父二代目安藤梅吉の始めた岡徳織布、丸登織布、浅田繊維工業、近藤紡績などの織布屋が立ち並んでいました。トヨタグループの創業者、豊田佐吉も1889年には岡田へ織機の研究に来ています。豊田佐吉や竹内虎王が開発した自動織機は飛躍的に木綿の生産量を上げてガチャンと織機が動くと万金が儲かると言うのでガチャマン景気と言われた訳です。昭和12年頃の岡田の工業生産額はある一つの県よりも多かったと言うくらいに繁栄を誇りました。昭和30年代に入ると、中国や東南アジアから安くて見栄えの良い木綿が大量に輸入されるようになり、岡田のみならず日本の繊維産業は衰退の一途を辿ることになりますが、私の生まれた1950年(昭和25年)頃はまだ岡田の町は大勢の女工さんたちであふれていて、現在はない夏まつりが行われていました。安藤理容店の屋上でカラオケ大会が行われたり、商店街の出した景品が当たる宝物探し(番号札が旧道のあちこちに隠してあるのを探す)が行われたりしていました。浴衣姿の女工さんたちを見ながら、普段は遊べない夜出ることが出来たので、子供の夏の楽しみでした。岡田の祭 (6) posted by (C)ドクターT繊維産業の衰退とともに、昭和30年頃には岡田の夏祭りも無くなってしまいました。今残っているのは昔からある春祭り(4月第2週の土日)だけになりましたが、一時期の岡田の繁栄をうかがわせるような豪華な屋台が里組、中組、奥組と3台出ます。岡田の祭 (7) posted by (C)ドクターTその一番の見どころは何トンもある屋台を15人ほどの梶人だけで方向転換する所謂”引き回し”と言う見世物です。梶人不足で私も30歳頃には3年間里組の梶人を務めました。岡田の祭 (8) posted by (C)ドクターT里組の山車の上ではからくり人形も行われ、愛知万博の時には万博にも出展されました。
2018年08月14日
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DSC_0555 posted by (C)ドクターT佐布里ダムは1965年に竣工ですから、私が子供の頃にはまだありませんでした。1961年に導水された愛知用水の工業用水用の調整池を造るためでした。そもそも大きな川のないところにダムが出来るって思ってもみないことでした。徳山ダムや設楽ダムで湖底にふるさとが沈んで無くなると言う話を何処か遠い国の話と聞き流していましたが、佐布里ダムが出来て水が徐々に溜まって来る時に湖底に梅の木が沈んで行くのをみて「ああ、こう言うことなんだ~。」と思った記憶があります。DSC_0557 posted by (C)ドクターT周りを低い丘で囲まれた盆地のような佐布里は昔から梅林で有名でした。残念ながら私の子供の頃は主に南のはげ山や鵜の糞の方へ遊びに出かけてましたから、佐布里の梅林に行ったのは1~2回しかありませんでした。DSC_0548 posted by (C)ドクターT佐布里梅と言う品種がありました。白い小さな一重の花が咲き、中くらいの大きさの梅がなります。DSC_0553 posted by (C)ドクターダム湖の外側の堰堤にはたくさんの梅の木がまた植えられて大きく育っています。DSC_0571 posted by (C)ドクターT佐布里梅もたくさん植えられています。DSC_0565 posted by (C)ドクターT梅の館”梅っ花そうり”が出来て、毎年ここでは梅まつりが開かれています。アイアンキッズ2018(新舞子) (9) posted by (C)ドクターT知多市のマスコットキャラクターは梅子で、市長と一緒にトライアスロンの会場に姿を現しました。梅三日干し3 posted by (C)ドクターT私も毎年家の梅で梅干しを漬けています。
2018年08月13日
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ノスタルジーの第6番目は子供の頃によく遊びに行った”鵜の糞”のことを書きましょう。(挿入した写真はイメージで当時のものではありません)DSC_8971 posted by (C)ドクターT”鵜の糞”と呼んでいたのは日長地区の少し内陸部で、その辺りの山にはカワウがコロニーを造っていて、周辺の木や田畑は鵜の糞で真っ白になっていたからです。実家のあった岡田字小石山からは片道2時間くらいの行程で、はげ山へ行く倍はかかりました。ここも2歳年上の幼馴染の克君に時々連れて行ってもらいました。DSC_2399 posted by (C)ドクターT最初にはげ山の奥にあるたなば池の堰堤に出ます。たなば池は北側が粘土質で遠浅になっていましたので、学校にプールがなかった時代、夏にはよく泳ぎに来ました。2歳上の克君も金槌でしたが、私が観海流で習った立ち泳ぎで、足の着かないところへ「ここは浅いよ!」と言って誘い、騙されて深いところへ来た克君は必死になって泳ぎを覚えることが出来たのです。池の脇の茂みには何故か競艇のボートが隠してありました。私の叔父さん、安藤孝三が新舞子の飛行場を閉鎖させられた後は常滑競艇に通っていましたが、多分競艇場で払い下げてもらったボートではないかと思います。新舞子の飛行場では水上飛行機で遊覧飛行などの営業をしていましたが、飛行機をボートに替えて水上スキーなどをしていました。そのたなば池の取水口からは夏でも水が下の田圃へ流れており、最初のところが林の中を通っていました。少しトンネル状態になったその流れを追うと、見たことがないシダ類が生えていて子供の冒険心をくすぐるものでした。メダカ posted by (C)ドクターT下の田圃の横の水路に出ると、今では絶滅危惧種となったクロメダカが当然のように泳いでいて、泥の中には大きなカラス貝もいました。そのたなば池の堰堤を通って、また茂みの小径を抜けると畑地が拡がっていました。ペコロスと言う小さな玉葱を作っていましたが、その畑の脇にある木にはコクワガタやヒラタクワガタがいつも集まっている木がありました。そのクワガタを採りたくて通っていたのです。ペコロス畑. posted by (C)ドクターTペコロスも普通の玉葱と品種の違いはありません。間隔を詰めて植えることにより小さく育てるのです。明治時代から日長地区で特産品として取り組んでいました。海岸の埋め立て前には冬の農閑期には海苔養殖をしていましたが、今では専業農家となり、新しく取り組む人も現れて、全国生産の70~80%が日長で作られています。”鵜の糞”は昭和20年代には消滅しました。カワウが美浜町の鵜池にコロニーを移したからです。鵜の糞の辺りには日長台団地が出来、旭北小学校も新築移転して様変わりしました。
2018年08月12日
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はげ山 posted by (C)ドクターT1961年愛知用水の導水が始まる以前の知多半島は高い山も大きな川もないので、農業用水は溜池を造ってまかなわれていました。1950年代岡田から日長に入った辺りに二つ池と呼んでいた溜池がありました。二つ池は上池と下池からなり、隣のたなば池との間に15mほどの高さの盛り土の山があり、頂上付近には木が生えていなかったので、はげ山と呼んでいました。小学校に上がる前、二つ上の幼馴染の克君に連れられてよくこのはげ山に遊びに行きました。小石山から山中牧場の坂を下りて、そうずばさんの堰堤に出て、二つ池の間を通って禿山に登る約1時間くらいの行程でした。禿山 (5) posted by (C)ドクターはげ山の登り口には石碑が建っていて、二つ池の由来が書かれていました。明治時代に掘られた溜池であることが書かれていました。はげ山周辺は粘土質ですが、何処からか水も湧いていて、シダの生い茂る麓にはトウカイコモウセンゴケやイシモチソウと言った湿地に生える食虫植物も生えていました。上池の周りにはミミカキグサの見られた年もありました。また東側の笹原にはササユリも生えていました。岡田保育園の遠足がはげ山になった時には、すでによく見知っていた私は皆に説明して自慢していました。禿山 (6) posted by (C)ドクターT中学から名古屋の東海学園に通った私は、はげ山に来る時間もなく、大学受験でますます遠ざかりました。大学に入って夏休みに久し振りにはげ山を見に来て驚きました。跡形もなく削られて、上池が埋め立てられていました。若者がそこでバイクの練習をしていました。禿山 (7) posted by (C)ドクターT下池は残されていましたが、上池はその後石根グランドとして野球やサッカーをするグランドになりました。ハンノキ林(知多市日長) posted by (C)ドクターTはげ山のあった場所は一時産廃業者がゴミ置き場として使っていましたが、そのまま放置されて、ススキやハンノキが生い茂るようになりました。ミドリシジミ(知多市日長) posted by (C)ドクターTそのハンノキ林には知多市ではその頃知られていなかったミドリシジミが発生するようになりました。ミズイロオナガシジミ♂(愛知県知多市日長) posted by (C)ドクターTその周辺にはコナラの木もあって、これまた知多市では珍しいミズイロオナガシジミも発見されました。ハンノキ林→太陽光発電施設 (1) posted by (C)ドクターTところが2年前のことまた大きな環境変化が起こりました。ハンノキ林のあった荒地が綺麗に整地されてソーラー施設が出来てしまったのです。周辺に少しだけハンノキが残っていますので、ミドリシジミもかろうじて残っています。愛知用水導水、畑地の住宅地化、海の埋め立て、セントレアの開港などこの60年で起こった変化が自然環境をどんどん変えて、それに伴って自然環境が様変わりして行きます。私にとっては良い変化もあれば、悪い変化もあります。歴史の歯車を元に戻して昔の自然に戻せと言うつもりはありませんが、今地球規模で見ても人類の活動が自然環境を大きく変えているのは事実です。これが自分の首を絞めることにななければよいがと思っています。
2018年08月10日
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知多市の海は1962年から10年ほどかけて、朝倉~日長まで臨海工業用地として埋め立てられました。埋め立て以前、知多市の海の利用としては春の潮干狩り、夏の海水浴、日長地区を中心とした冬の海苔養殖が主たるものでした。埋め立てに伴い海苔養殖は出来なくなり、海苔養殖業者(主に日長地区で冬の農閑期の副業として行われていましたが)は保証金をもらい、当時海苔御殿と噂される立派な家が何軒も建ちました。新舞子はもともと白砂青松の海岸が兵庫県の景勝地、舞子海岸に似ているためにつけられた名前で、明治時代に名古屋地区から近い別荘地として開発されました。明治の終わりには当時愛知県の三大旅館と言われた蒲郡の常盤館、名古屋の南陽館と並ぶ舞子館がオープンします。大正時代には私の叔父、安藤孝三(1898-1985)が新舞子海岸に安藤飛行機研究所を造り、パイロットの養成、民間航路の開拓などをしていましたが、終戦とともに進駐軍が来て全ての飛行機を解体させられました。明治45年に愛知電気鉄道により伝馬町~大野間の鉄道が開通し、大正末期には名古屋鉄道として、海水浴場だけでなく、文化スポーツ施設の拠点としての開発が始まりました。昭和11年には魚類の研究施設を移設しようとしていた東京大学と名鉄が手を結んで新舞子に東京大学付属水族館が建設され、5月~11月は一般にも有料公開されるようになりました。この水族館は施設の老朽化により昭和45年に静岡県舞阪町(現浜松市西区)に移設されますが、私も子供の頃は何度か足を運び、初めて見る魚に眼を見張ったものでした。今水族館のあった場所には結婚式場が建っています。海を残したい知多市と海のスポーツ・文化施設を残したい名鉄の利害が一致して新舞子沖合に海洋レクリエーションの基地となるマリンパークを造ることとなり、それは1997年(平成9年)に完成します。その完成までの間に名鉄はウィンドサーフィンスクールを開設して、愛知県におけるウィンドサーフィンのメッカとなりました。私もウィンドサーフィンはここで講習を受けました。もうひとつはトライアスロンのスイムが安全に出来る場所として着目されました。そのきっかけとなったのは第3回の海の祭典が名古屋港で行われたことでした。何か目玉となるイベントを模索していた広告代理店の電通から相談を受けた愛知県トライアスロン協会は当時副理事長をしていた私の義父が知多市の教育長であったこともあり、知多市に働きかけて後援を取り付けました。まだマリンパークの埋め立ては出来ていませんでしたので、南浜荘という知多市の研修施設(現在はレストラン)の横の岸壁にスロープを作って海への出入りをしました。現在はマリンパークを利用してスイムを行う、アイアンキッズ、アイアンマン70.3セントレア知多半島ジャパンとして続いています。新舞子 (1) posted by (C)ドクターT埋め立てでよくなったこともあります。岡田の石小川は日長川となって日長の国道沿いを流れて新舞子で海に出ますが、昔から河口付近はアサリの採れる好潮干狩り場でしたが、埋め立てによる漁業権の放棄で無料で潮干狩りの出来る場所となったのです。少し泥深いところもありますが、マリンパークとの間は干潮時には歩いて渡れるくらいの水深であり、安全に潮干狩りが出来ます。7月30日収穫 (2) posted by (C)ドクターTここではアサリとバカガイの1種シオフキガイはもちろんですが、4~5年前からハマグリがたくさん採れるようになりました。貝類の中ではハマグリは一番丈夫で夏でも身が柔らかく、市場価格も高価です。三重県桑名市は昔からハマグリの産地として有名で、漁業者以外採ることが出来ず、採れば密漁となりますが、知多や三河ではもともとハマグリはアサリのおまけで少し採れる感じでしたので、文句を言われることはありません。新舞子は三河の漁業者が稚貝を採りに来ることもあり、新舞子のハマグリが三河の方まで拡がった可能性があります。
2018年08月08日
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私が生まれた1950年頃名古屋から一番近い海水浴場は古見海水浴場でした。神宮前で常滑線に乗り換えて、今にも崩れそうな橋脚の上を名古屋本線と東海道線の上を超えてゆっくり走り、町並みが途切れて聚楽園の大仏を過ぎると畑が広がって、都会から田舎へ来たな~と感じたことでしょう。梯子獅子で有名な朝倉まで来ると、車窓から堤防越しに海が見えるようになり、美濃川を超えると古見に着きます。電車を降りると磯の匂いが漂っていて、匂いに誘われるままに浜野屋旅館の看板の前を通って堤防を越えると遠浅の海が広がっており、堤防沿いに海の家が並んでいました。私の家のある知多市岡田からは歩いて行くならば、長浦海岸の方が近かったのですが、古見までは知多乗り合いバスが出ていて、時々は古見へ海水浴や潮干狩りに来ることもありました。1962年から古見~新舞子までの海岸の埋め立てが始まり、最後に古見で泳いだのは中学1年の夏でした。その時は随分油が流れ着いていて、海も汚れて埋め立てられるのも仕方ないかなと思いました。対岸の四日市では公害が一番問題になっている時代でした。10年ほどかけて埋め立てが終わると、堤防に沿って西知多産業道路が出来、それまでの国道155線(常滑街道)に替わって、常滑に行く主要道となりました。埋め立てられた土地には中電知多火力発電所、石川島播磨重工、日清製粉などが入り、産業道路と工業用地の間にはもう1本臨海道路(現在高校駅伝やアイアンマン70.3知多半島などでコースとしても使われます)と緩衝地帯としてのグリーンベルトが出来ました。古見の海は失われましたが、埋め立てのグリーンベルトには新たな自然環境が出来ました。グリーンベルトには主に塩害に強いマテバシイや知多市の木でもあるヤマモモなどが植えられましたが、それに何処でも蔓延っているクズやら鳥が種を蒔いたトウネズミモチなどが大きくなって林になると、タヌキも棲みつき、昔は知多市にはいなかったムラサキツバメが発生するようになり、冬には越冬集団も見られるようになりました。ムラサキツバメ越冬集団(知多市新知) posted by (C)ドクターTムラサキツバメはマテバシイを食草とし、知多市では年2化の発生ですが、冬は成虫越冬をします。マテバシイは海岸沿いの緑化用や公園用樹として広く使われており、知多市では大草公園、旭公園、岡田のどんぐり公園にもあります。大草公園でも越冬集団が観察された年もあり、岡田のどんぐり公園は比較的新しい公園で昨年ムラサキツバメの発生を確認しました。
2018年08月07日
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長浦海岸のタコ(知多市デジタル写真館)4 posted by (C)ドクターT長浦と言えば、1927年に造られた「タコのターちゃん」が有名でした。名古屋タイムス・ライオン歯磨・長浦観光協会が選定した「長浦小唄」には「誰を招くかあの蛸入道、沈む夕日にほおそめて」と歌われています。私の子供の頃は夏の海水浴が出来る最も近い海岸で(家から歩いて2km)、名古屋からの海水浴客で賑わっていました。タコのコーちゃん posted by (C)ドクターT長浦海岸にはもうひとつ「タコのコーちゃん」がありましたが、これは1956年に造られた新しいもので、下が足洗い場、持ち上げた足からはシャワーが出る仕組みになっていました。長浦海岸のタコ(知多市デジタル写真館)2 posted by (C)ドクターTターちゃんは鉢巻を締めた♂のタコ、コーちゃんはベレー帽を被った♀のタコと言う設定でした。コーちゃんは足を持ち上げていたため登ることが出来ませんが、ターちゃんは1本だけ足を持ち上げていたので、それにつかまって上に登ることが出来たので、子供たちに人気でした。3歳の時に名鉄が長浦海岸で写生大会を行い、私はターちゃんの絵を描いて入選し、神宮前の駅に飾られたことがありました。長浦海岸では夏になると熱田水練(観海流古式泳法を教える団体)の水練学校があり、私も何でも習い事をさせたがる母の勧めで3歳から6歳まで毎年通わされました。観海流と言うのは三重県津市が発祥の地で、日本水泳連盟が認定する古式泳法13流派のひとつで、基本は顔を上げて泳ぐ平泳ぎです。足はカエル足、手は浮くだけのために水面と平行にしてゆっくり水をなでるようにかきます。夏の熱い長浦の砂浜でカエル足の練習を嫌と言うほどさせられました。お蔭で小学校に上がるころには足のつかないところでいくらでも泳ぐことが出来るようになりました。もともとは戦国時代に甲冑を着て川や海を渡るための泳法ですから、水練学校の最終日には師範の先生たちが甲冑を着て泳いだり、立ち泳ぎしながら字を書いたり、両手両足を縛られたまま泳いだりと言った曲芸のような泳ぎも披露されました。当時、学校にはまだプールなどなく、海から離れた岡田小学校では近くの溜池で遊びながら泳ぎを覚えていた子供たちの中でも私は指導的な立場にいました。長浦地区は1936年から高級別荘地として分譲され、長浦駅へと続く桜並木の急坂の両側には小洒落た別荘が立ち並んでいました。その南側の高台には長浦カトリック教会の運営する聖母幼稚園があり、岡田の子供たちは2年保育の岡田保育園に通っていましたが、これまた教育熱心な母にその前1年半通わされました。当時まだ2~3歳だった私は家から2kmの道のりを一人で毎日歩いて通っていました。そんな長浦海岸も1962年に臨海工業用地造成のための埋め立てが始まり姿を消すことになります。
2018年08月02日
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岡田お猿塚の松(昭和36年に枯れる)(知多市デジタル写真館) posted by (C)ドクターT知多市岡田には地元の人が”大松”と呼んでいた巨大な松がありました。私の実家(岡田字小石山)から歩いて5分くらいの岡田字久平と言うところにありました。記録によれば、幹周8.7m、樹高18m、枝張り33mあったとのこと、大人5人が手を繋いでやっと囲めるくらいの太さでした。残念ながら、伊勢湾台風(昭和34年)後に枯れ出して、昭和36年に枯死しました。お猿塚と言う名前は根元に一部洞が出来ていて、そこに昔猿が棲んでいた(もちろん見たことはありませんが、・・・)ことに由来します。大松で遊ぶ子供たち(岡田村誕生四百年記念写真集より) posted by (C)ドクターT岡田のシンボル的な大松でしたが、子供たちのかっこうの遊び場にもなっていて、メダケの茂る土手を登って、根元へ取りつき、そこからよじ登って横に張り出した枝(地面からの高さは2mはあったと思います)の上に登ることが子供たちの間ではひとつのステータスになっていました。私も外で遊ぶことが好きだったので、何度も根元までは行きましたが、高いところが苦手でどうしても上に登ることが出来ず、大松に登れない軟弱な子のグループに属していました。その後、全国各地を歩くようになり、巨木があると聞くと見に行くように心がけていますが、松に限れば大松よりも大きな松には出会ったことはありません。枯れてしまった理由は伊勢湾台風の塩害によるとも、そのころから全国で流行り出した松枯れ病(松の材線虫による)とも、悪ガキ(その悪ガキは私の同級生で最初に私に囲碁の手ほどきをしてくれた悪ガキです)が登り易くするために五寸釘を打ったためとも言われています。大松亡き後の岡田の大木についてはまた項を改めて書きたいと思います。
2018年07月27日
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