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仙台へは「石橋湛山評論集」を持参しました。新幹線のなかで主に読みようやく読了しました。世界に対する洞察力、時局に対するバランスの良い慧眼、戦争に対する強い反対その姿勢は大変参考になりました。現代は政治に対する関心が希薄になっているようです。日常煩雑な刺激が満ちており政局に対する感覚がそれらの刺激に希薄になっているようです。日本の国の方向を指導者が何を考え、どの方向に導こうとしているのか関心を持ち警戒をしなければ政治に関する姿勢が崩れてしまいます。日常に齷齪するのみでなく政治にも関心を持ちたいものです。
2005.03.31
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昼過ぎ仙台駅の訪問先に行き、駅方面に歩き始めたところ利久の看板を見つけました。初日の味に懲りていたため食べる気は無くなっていましたが最後と思い店内に。牛タン定食を注文しました。中央通りの小林さんは辞めたのか消息を聴きました。店長は以前中央通りに居られ小林さんの下で働いていたのだそうです。辞められた後「のあ」という喫茶店を始められたとの事。場所を地図で教えてもらいました。夕刻地図の案内通り喫茶店「のあ」へ出かけました。店のガラス越しに中を覗くと其処にひげを生やした小林さんの笑い顔が有りました。お久しぶりですといわれました。実は三度しか会った事が有りません。又一年前でカウンターで食事をしたのみです。体調を悪くし辞められたとの事。また、以前コーヒーの専門店を営業していたそうです。自家焙煎のコーヒーで一人一人コーヒーを入れられ提供していました。以前の店の感想を話しました。また近況を伺いました。仙台駅東口のパルシティーの後ろ「のあ」に一度出かけてみては如何。
2005.03.30
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レストランは10階に有り眼下に青葉通りが見渡せます。木々は丸坊主で寒々としていました。東京の感覚で居たため大変寒い思いをしました。風が兎に角寒いのです。朝はお城まで散策を必ずしていましたがする気にならず一日の準備を致しました。午前中は比較的天候の移り変わりは有りましたが良好でした。午後より雨と雪が降り始め傘をホテルに置いていたため濡れてしまいました。夕食は近くのスーパーで弁当とお酒を購入。ホテル内で取りました。昨日居酒屋に行きましたが一人のため時間を持て余した為です。
2005.03.29
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午後の約束まで少し時間が有り利久中央通り店へ行きました。昨年も同じ店で牛タンを食しました。店に入ると驚いた事に雰囲気が違います。何か無いぞと思いながら従業員に小林店長はと聴きました。新人のため知らないとの事。始めて仙台で牛タンを食べた店がこの店でした。店長らしき人が愛想良く来る人来る人に声を掛けておられ、一元の私には皆顔見知りかと思いました。店内は実に賑やかで牛タンの厚み、柔らかさより、楽しい雰囲気、店の女性も明るく店内で働く姿に圧倒されたものです。再び従業員に消息を聴きました。店長らしき人に問い合わせ、以前は居たが辞められたと言いました。牛タンは少し硬くまた以前の量と比較すると少ないようでした。それ以上に店の雰囲気の違いに落胆し食事を終えると雨の降り始めた表に出ました。午後より終日雨大変寒い一日でした。
2005.03.28
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午後より床のワックスがけを行いました。内装をして既に数年立ちますが床は彼方此方で波打っているようです。歩いていても水平でない感覚がします。大工の技量が悪くとびらの枠までまがっていた曰くが有ります。丁寧に洗浄液で洗い落とした後、二度ワックスを上塗りしました。テーブルがあるため半分だけでしたが塗り上げました。途中で郵便物を思い出し急ぎ倉庫に返りました。切手を張表に出たところで集荷の郵便自動車を見つけ駅前のポストまで追いかけていきました。書籍の発送ですが大きすぎポストに入らないため集荷時間にと思い出したものです。終了後大森までインスタントコーヒーを購入に出かけました。帰途子供のためにレコード屋でアニメLD数枚を購入しました。
2005.03.27
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定例の月曜日が旗日でスクールが定休でした。振り替えのため本日連れて行きました。何時もの事ですが待合室で終了するまで一時間待ち、その間指導の様子を二階のガラス越しに見ていました。途中から睡魔に襲われソファーで仮眠をしましがた。スクールは盛況で可也幼少の子供も娘以上に泳ぎが達者な人も居ます。集団指導のため生徒が多いと指導を受ける時間が大変少ない日もあるようです。また級を取得するための試験をその時間内に行いその間昇級を受けない人はただ見ているだけの日も有りました。指導上仕方が無いのでしょうが個人の適正、水準にあわせ指導する事は出来ないようです。その級にある間は一カ月同じ事を繰り返し、それ以上の事は指導をしません。余り早く上達すると業として成り立たなくなるのでしょうか。
2005.03.26
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恥ずかしいことですが本を読みなが漢字の読みが曖昧だと思います。また漢字が思い出せないことが多々有ります。パソコンで文章を書き始めて余計ひどくなったようです。文章が上手であるとは文字の持つ感覚に敏感である人だと思います。何を使用しても同じだ位の感性では上手になる筈が有りません。娘の国語の教科書を見ながらひらがなもイメージと違うなという文字が有ります。普段書きなれていますが正確な文字は如何なのかといわれると戸惑いを覚えます。改めて教本を見て正確には如何書くのか確認をして教えます。娘に刺激され息子も漢字を読みます。可也正確に同じ文字を読みを変えて判読できるようです。私たちの子供時代より何もかも早くなったようです。科学・技術は隔世の感で進歩していますが、人類の頭脳も進歩しているかといわれれば疑問に感じます。人類の表した書籍は数千年を隔てていても読む人に共感と、感銘を与えています。たとえば自然に対する関心が薄れ天文に対する関心は人の心から遠のいたようです。一日目に止まるものは太陽の運行であった時代とは違いますが、一年を365日と知っていたエジプト人の知性には驚かされます。現代人で一年の日数を知らない人は居りませんが求め方を知る人は、またすくないのではないでしょうか。ビルの谷間を歩行していても信号、奇抜なビル、店舗の装飾などに気をとられ太陽の運行を考える暇など有りません。智とはなにかあらためて考えています。
2005.03.25
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大正デモクラシーの陣頭で本日も電車の中で同書を読みました。日本が大日本国をめざし台湾朝鮮満州を圧迫していた当時是だけの論陣を張って日本国に警鐘を鳴らしていた事に驚きを感じます。論調もわかりやすく平易に書き込まれており見識の深さ、将来を見据える眼の正しさに敬服致します。人皆目前の慮り強くして容易な事までを眼くらましで見過ごして仕舞いがちです、さまざまの事を考えさせられました。是は過去の問題では有りません。いたるところ気が付かない愚かさが溢れて居ます。気が付かないだけです。時勢の中でも毅然と智見を持して行動したいものです。
2005.03.24
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雨の中子供の迎えに参りました。園児からおじいちゃんと声を掛けられ息子はお父さんだよと答えていました。無理も有りません。子供は父は父で有りますが、他の子供にはおじいさんに写るのでしょう。その後近くの歯科医に雨の中を行きました。途中より激しい雨と成りずぶぬれと成りました。歯科医で息子は歯の治療をしました。治療が済んで医師曰くレントゲンを撮るようにとの事です。息子は医療費は無料ですが何の必要が有り治療後の撮影が必要なのでしょうか頭を掠めました。寒い夕暮れでした。
2005.03.23
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石橋湛山評論集を読む明治45年6月号「東洋持論」「社論」或る人が思想上の事件で法廷に立ち不幸有罪の宣告を受けた、この人はその宣告の不当なるを信じていたが、弁護人、知人から刑罰の軽微なるを幸いとし控訴を断ねんするように奨められそれに従った。その後に続く根底に横たわれる思想はいかなるものであるかというに、浅薄弱小なる打算主義である。吾輩は敢えてこれを「浅薄弱小なる」という。たとえ打算主義であっても、それがもし深刻強大なる打算主義であるならば、そは決してかくの如き泣き寝入りというが如きことに終わるべからざるものであるからである。実に我が国今日の人心に深く食い入っておる病弊は、世人がしばしば言う如く、そが利己的になったことでも、打算的になったことでも、ないし不義不善に陥っておることでもない。吾輩はむしろ今日の我が国には、余りにも利他的の人の多く、余りに非打算的の人の多く、余りに義人善人の多いことに苦しみこそすれ、決してこれらのものが少ないとは思わない。しからば吾輩の認めて以って我が国現代の通弊となす処のものは何か。曰く、今述べたる利己につけても利他につけてもその他何事に付けても、、「浅薄弱小」ということである。換言すれば「我」というものを忘れて居ることである。確信のないことである。膊力のたりないことである。右顧左眄することである。彼らは皆善人であるのである。義人であるのである。善人ではあり、義人はあるが、ただ不幸にして彼らの自己なるものが浅薄弱小であるのである。その自己が浅薄弱小であるが故に、彼らは他に気兼気苦労し、狎れ合いに事を遂げんとし、意気地なき繰言を繰り返しておるのである。而して断々乎として自己を主張し、自己の権利を権利として要求することが出来ないのである。しからば我が現代の人心は何故にかくの如く浅薄弱小、確信なく、力なきに至ったかということである。吾輩はこれに対して直ちにこう答える。曰く、哲学がないからである。言い換えれば自己の立場についての徹底せる智見が彼らに欠けておるが故えであると。ここにおいてか彼らはやむえず、その時々の日和り見、その時々の他人の眼色を窺って、行動するよりほかに道はないのである。真に自己が生きるためには、第一に何を主張しなければならぬかということがわかっておったならば、決してあのような処置をとらなかったはずである。けだし徹底せる智見は力である。徹底せる智見なきが故に、主張すべき自己がわからず、主張すべき自己がわからぬ故に、即ちその我は弱小浅薄非力無確信となるのである。吾輩は切に我が国民に勧告する。卿らは宜しくまず哲学を持てよ、自己の立場に対する徹底的智見を立てよ、而してこの徹底的の智見を以って一切の問題に対するの覚悟をせよと。
2005.03.22
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読みたいと思う書籍が沢山有ります。どれも是も興味が有ります。時間が有りません。また体力が有りません。中公文庫にも読みたい書籍は沢山有ります。電車の中では文庫本は重宝しています。出来るだけ大切に読んでいます。先日友人に読書の事を聴きました、彼曰く眼力がなくなり読む事が出来ないと申していました。眼力言いえて妙でした。そしてうなずきました。
2005.03.21
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家族は友人の家にお昼前より出かける予定、持参の料理を急遽こしらえているようでした。法門の為のお土産を旗の台まで購入に出かける。草団子としょうゆ団子を購入しました。店内は黄な粉の香ばしい匂いが充満しており食欲をそそられました。また、なんとなく季節感を感じました。昼前に家族を乗せ友人宅まで出かけました。早く返り将棋を観戦しようと思い帰宅しましましたが地震の報道でニュースを実況しておりました。地震は福岡沖との情報、被災地の被害がすくなからんことを祈る。この前の関東の地震ではゆれを感じたあとすぐに自宅に返り状況を確認しました。可也大きな揺れのように感じた為です。状況を確認後すぐに倉庫に引き返しましたが何もないとのことで安心しました。スマトラ沖地震の映像を見ながら津波の怖さを感じました。泳ぎが達者でもあの大きさでは何の役にも立ちません。穏やかな日に突然天災に襲われる不可思議、矛盾、理解を超えた現象です。可能性は必ず有ります。そのために出来るかことを少しでも整理しておく事が必要だと思います。夕方近くの図書館にCDを返却に行く。肌寒い日ですが夕刻より晴れ上がり気持ちが良い夕刻です。
2005.03.20
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家族は友人の家にお昼前より出かける予定、持参の料理を急遽こしらえているようでした。法門の為のお土産を旗の台まで購入に出かける。草団子としょうゆ団子を購入しました。店内は黄な粉の香ばしい匂いが充満しており食欲をそそられました。また、なんとなく季節感を感じました。昼前に家族を乗せ友人宅まで出かけました。早く返り将棋を観戦しようと思い帰宅しましましたが地震の報道でニュースを実況しておりました。地震は福岡沖との情報、被災地の被害がすくなからんことを祈る。この前の関東の地震ではゆれを感じたあとすぐに自宅に返り状況を確認しました。可也大きな揺れのように感じた為です。状況を確認後すぐに倉庫に引き返しましたが何もないとのことで安心しました。スマトラ沖地震の映像を見ながら津波の怖さを感じました。泳ぎが達者でもあの大きさでは何の役にも立ちません。穏やかな日に突然天災に襲われる不可思議、矛盾、理解を超えた現象です。可能性は必ず有ります。そのために出来るかことを少しでも整理しておく事が必要だと思います。夕方近くの図書館にCDを返却に行く。肌寒い日ですが夕刻より晴れ上がり気持ちが良い夕刻です。
2005.03.20
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暗黒日記には石橋湛山の記事はあまり掲載されていません。中公新書133 日中戦争 和平か戦線拡大か 臼井勝美 中央公論社 昭和63年1月25版 定価540円 売価500円には当時の時勢の中にあっていかに時代を見る目が正しかったか言動と記事が多く掲載されています。石橋湛山評論集 松尾尊よし 岩波文庫 1998年7月23刷 定価560円 売価500円湛山回想 石橋湛山 岩波文庫 1998年6月10刷 定価760円 売価1200円暗黒日記読了後の読書にしたいと考えています。
2005.03.19
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本日は卒園式があったようです。友人のお子様が卒園でした。息子は来年が卒園と成ります。当日はおしゃれをして来園してください、但し卒園生をうわまることは禁止ですとのことでしたが、着るものがなく普段着で行きました。頭は丸刈りを通しています。バリカンで自宅で理髪します。最近きろうというと嫌だといいます。どうしてと聞くとつるっぱげといわれるからと答えます。あくまでも本人の了解がない限り理髪する事は有りません。何度か聞くうち切るという日を待っています。卒園前にはとうとうきりませんでした。先生の話では父兄に混じり息子も男のくせに大泣きで担任の先生を感動させたとのことでした。夜息子に問い合わせをしましたが、無言でした。悲喜こもごもどの家庭も思いさまざまでしょう。卒園の皆様にお目でとうを申し上げます。
2005.03.18
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街を歩いていてもふと風が冬の風と違うことを感じます。陽気が良くなると猫はねずみを捕ることを忘れる人は借金を忘れる季節だなと感じます。戦争日記を相変わらず遅遅と読んでいます。電車の中で読むだけでその他は時間が取れない状態です。いつも拝見戴いている「大和田稗田庵の店主」のブログも電車の中で拝見しています。私は巨人ファンではありませんが、失礼どこの球団にも興味は有りません。巨人が勝利した翌日は新聞を購入するようなもので、活字で読みたいものです。画面で確認するだけでなく。社会に目標がある時代、又危機が押し寄せている時代歴史で見る限り社会は生き生きとしています。残念ながら平和で安泰した時代は文化が停滞するようです。没落の始まりは必ずそのような時代にあるようです。社会に目標がない時代は文化も政治も社会も停滞を余儀なくされるのです。現代は人に社会に家族にかくとした目標がある時代でしょうか。疑問に感じます。ひねもすのたりのたりかな。
2005.03.17
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バンコク楽宮ホテル 谷恒生 徳間書店はタイを旅するバックパッカーの間では有名な書籍らしいです。何度か注文を戴いたことも有ります。書籍は部数が少ない所為かほとんど書店で見ることはありません。稀少本なのかもしれません。最近書店で見かけ購入しました。数年前どこかで見つけ購入して以来です。書籍は安宿外に住む主人公が麻薬、売春婦と過ごす怠惰な生活、タイの安宿街を記載しているもので特に面白いと思いませんでした。ジャングルに死体を見に行くところなども余り脈絡がないように思えます。小説の中で近藤紘一さんらしき人物も登場します。余り良くは書かれていません。以前ある友人が話していました。世界中に日本の放浪者がいてなすことなくぶらぶら生活していると申していました。蔵前仁一さんの書籍を一時読みましたが一年以上日本を離れた事が数度あるそうで、途中で会うつわものは数十年放浪しているなどという猛者もいるようです。私も旅行は好きですが流石そのような時間も余裕も有りません。豪華ホテルに滞在しホテル内で休暇を過ごす旅行、安宿街で街を散策する旅行、買物に勤しみ滞在する、観光地を廻る旅行さまざまですが、人国外に求める目的はそれぞれに違いがあり一概には申し上げられませんがなんとなく放浪して帰国できない心境は解りません。フランスの作家カミュの未発表の作品に若いとき程時間と金が必要である。年老いて金と時間を所有してもそれを生かす環境でなくなれば意味がない。というような内容の小説がありました。現代は年おいる年代が延びたとしても体力のあるうちに行きたいところ、遣りたい事をやり生きたいものです。
2005.03.16
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正直清沢洌氏を良く知りませんでした。先日書店で清沢洌氏の著作を見つけ岩波文庫「暗黒日記」を購入しました。読み始めたばかりです。昭和18年8月1日の日記で日記をつけると危ないぞと言われる。日記をつけながら、そうした危惧を感ぜざるにあらず。ただ予の場合は「現代史」を後日、書くための記録を止め置かんとするに過ぎず。昭和18年9月29日大東亜戦争は非常なる興亡の大戦争也。すなわち書いたことのない日記をここに始む。将来、大東亜外交史の資料とせんがためなり。神よ、日本を救え。と有ります。昭和18年2月11日紀元節だ。朝日さやけし。ああ天よ、日本に幸いせよ。日本を偉大ならしめよ。皇室を無窮ならしめよ。余は祖国を愛す。この国に生まれて、育ち、死ぬ運命に結ばるのだ。昭和19年1月1日どこの家でも朝飯の食前に向かっていう事は「来年も果たしてこうして食えるかどうか」ということだ。戦争の当時の記録を大変バランスの良い思考で日記に書きとめておられます。歴史は振り返れば子供でも解りそうな事が解らないのが現実です。日本は戦場では有りませんでしたが、来る日の不安を感じながら暮らしている雰囲気が伝わって参ります。
2005.03.15
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初めて登った聖岳ルートは茶臼の小屋を出発し上河内岳に登り聖平の小屋に行きました。聖平の小屋は大変気持ちのいい場所で針葉樹林の中にひっそり佇んでいます。近くの流水では顔を洗ったり、水の補給をしたりしました。南アルプスは独立峰が多くひとつの山を登るとまた大きく下降し又登ると言う風に続きます。北アルプスの稜線の歩行と違います。それだけ流水に恵まれています。山の中で飲む水くらい美味しい物はありません。聖平の小屋からは延々と続く登りでした。らくだの背のような場所を越すと後は山頂までがギザギザに延びた登山道で見通しが効きます。樹林帯を越しており見る限りごつごつした石の山です。初めての3000メートル峰に気分を高揚させていました。前聖を越したところが少し道の悪いところが有りますが割合簡単な道です。それから兎岳、小兎岳、中盛丸山と登り百間洞山の家まで歩きました。既に小山満員でした。夕刻の到着で僅か空いている所に場所を決め夕食を作りました。小屋は身動きも出来ないくらいでした。一時老朽化がひどく使用されていないと聴きましたが現在は如何なのでしょうか。
2005.03.14
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星が瞬く寒い日は冬の山を思い出します。初めての縦走らしき縦走は南アルプスの縦走でした。天候に恵まれませんでしたが思い出の多い山行でした。深夜夜行列車に乗り金谷で乗換え大井川鉄道に乗り井川まで行きました。その後バスに乗り畑薙ダムの登山口まで移動。穏やかな夏前の日でした。ベテランらしき登山者の仲に混じり身支度を行い登山を開始しました。目標は茶臼小屋まででした。初めての本格的登山で小屋に付く頃には体力を消耗、食事も取れないくらいでした。この道をその後冬に登りましたが経験が増えリズムもよく意外と楽な登りと感じました。翌朝素晴らしい晴れ間の中を聖岳へと登山をしました。聖岳は合計三度登頂しています。このときとその後甲斐駒ケ岳から縦走して光岳まで歩いたとき。そして正月の雪の中です。冬山で一人でテントを張り山頂に宿泊する事があります。寒さも然りですが風のテントを揺らす音で気が狂いそうになることがあります。多くの登山者は冬の間山小屋の中にテントを張夜を過ごします。小屋の中はでんとで一杯になります。小屋の中には吹き溜まりの雪がありそれをコッヘルで溶かし水をつくります。冬の聖は同じように茶臼小屋から出発でした。意を決し出発をしましたが風が強く聖の手前から引き返す羽目と成りました。目が開けられない強風でそれでも3時間くらいを歩きましたが引き返すことにしました。翌日聖のふもとの小屋に入りました。三名くらいの人と一緒で交代にラッセルをしながらたどり着きました。その夜より雪が降り始め翌朝も雪でした。昨日同行したヒマラヤ遠征経験のある人は登らないと云い途中で別れ一人山頂へ行きました。吹雪の中で何も見えませんでしたが冬の登頂をしました。下山後テントをたたみ一人で下山開始下る人はなく道を探しながら雪降る中を聖沢を下山しました。午前3時頃下山の見通しが立つところまで降りテントを張仮眠をしました。聖は丹沢から見ると三角錐の形をしていますが麓から見ると台形の形です。山頂は広く平らな山頂を端まで往復できます。
2005.03.13
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昨年の忘年会のメンバーが全員集合。大勢のため近くのファミリーレストランで会食予定です。日頃の鬱憤をこの際紛らわそうとこの日を楽しみにしているようです。子供たちも数日前より指折り数えておりました。お客さんが来ると興奮し眠れなくなる性質で今から心配です。家族ではバーベキューを愉しんだりしているようですが、私はあまり参加をしたことが有りません。話柄が違うことと、体力の無さが原因です。また処理をしておきたい事があり、出来る限り自分の時間を確保したいと考えています。以前は毎週誰かが来宅し昼間よりお酒をいただきながら食事をしたものですが最近はカミさんも人が来ることを億劫がりほとんど来宅する事は無くなりました。簡単で鍋料理をと言われていたようですが面倒のため外食にするとのことでした。
2005.03.12
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暫く溜め置いていたハードディスクの画像をDVDに焼く作業をしました。エジプト三週分、黄山、ローマの遺跡等です。簡単なようで大変時間を要しはなはだ疲れました。中世の都市などはヴェネツィアで挿絵等で拝見していましたが美しい城砦を備えた都市が多く有ります。美しさと生活の便利さは違うかもしれませんが、すべての街が経済のため無味乾燥になることは残念です。経済基盤は大事ですが古き町並みを保存しながら新しい感覚で生活の場として生かせるものであれば一番ではないでしょうか。ローマの遺跡など砂漠の中に町の門のみ残され他は瓦礫のような町並みには痛々しさを感じます。乾燥と風化がすすんだ砂漠の中にローマの遺構がただれたように佇む姿は悲しいものが有ります。街も進化が有り廃墟となるもの、時代を超え人類の中心として残るもの人生と同じ変動があります。都市は生き物であるのでしょう。
2005.03.11
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フィリッピンセブ島の沖合いにあるカオハガン島を退職金で購入。その島民と一緒に暮らす生活を記載した「何もなくて豊かな島」を数年前に拝読しました。その後同じ著者の何もなくて豊かな島と言う著作があります。購入の経緯から島の所有に関する基本的な考え方等が著されています。どんな方なのか知りませんが著作より読む限りヒューマニズムに富んだか人だと思います。観光のために住み着いている住人の追い出しをと言われても既に居住している方たちの生活を維持する事に決め島の問題を細かく解決していくところはこの著者の人に対する優しさが溢れています。また空港に出かけたり、国外より帰島するときなどの記述には離島の持つ雰囲気が良く著されており一種の楽園を感じます。南の島の壺という書籍の中で何処か離島を販売していませんかと問い合わせをしたのですがそんな所はないとの返事であったようです。あるときNHKで日本の離島のみを扱った番組を見ました。離島を管理している役所のこと離島の生活を取り上げていました。確か葛西アナウンサーが余り有名でない頃担当していたようです。離島子供時代より何か憧れのような郷愁が有ります。せめてこ著者の文で離島を体験しては如何でしょうか。
2005.03.10
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何時の頃か忘れましたが中国の青銅器を上野へ見に行った事が有ります。それは大変大きなもので相当数の公開でありました。意匠より大きさに圧倒された記憶が有ります。西安で記載しました半坡遺跡出土彩陶土器は紀元前5000年前のものだそうです。気の遠くなる過去の話でそれは数字からそうかと考えるより遥かに遠い人類の手仕事の器です。保存されていた事にも驚きますが彩陶土器に描かれた人面魚幾何学的意匠を思うとき大変な驚きを感じます。日常の生活に使用されたものでしょうか。また観賞用に作成されたものなのでしょうか古代の住人の知恵と心の遊びを思うとどんな生活であっただろうかと想像を刺激されます。
2005.03.09
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グラフィティ・歴史謎事典 「シルクロードの謎」を読むNHKのシルクロードの番組を以前拝見しました。道の名前から幻想的で何か郷愁の様なものを感じたものです。中国を初めて統一した秦の国は今の北京とは違い中原中国の中央部に位置しています。独創的な皇帝秦の始皇帝は全国を統一後年幾許も無く崩御しその後の漢の国も同じ位置に都を設けました。シルクロードは西安を拠点として、西に延びる交易路です。広大な中国の辺境には多種の民族が居りシルクロードの西のほうでは色々な王朝が興亡を重ねているようです。遺跡の写真を拝見すると多くの遺跡が風化し砂漠の中にただれた姿をして立っているようです。その当時は緑豊かなオアシスであったのかもしれませんが気候が変化し住む事の出来ない乾燥した土地に変化をしていったものと推察します。貿易で利益を上げようと行きかう人、仏教を求めてインドへ行く人、領土を拡大するために興亡を繰り返す人、道には歴史が刻み込まれています。
2005.03.08
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五輪真弓の歌に縁側に座り陽だまりで雪解けの春の息吹を感じている少女を思いおこす歌詞が有ります。雪国では日が柔らかくなり屋根の雪に当たり庇よりしずくがたれるシーズンは心がなごむものです。暖かな縁側で日光浴をし本でも読みたくなります。雪解け水が流れる道路でも乾燥した場所から埃が舞い上がる頃も何か心持がゆったりするものです。トルストイは都会ほど春の移り変わりを強く感じると記載していますが私にとって都会の季節の境目はそれ程強い印象として残っていません。東京も江戸と呼ばれた頃はいたるところに自然が残り整地されない起伏がはっきり認められる荒れた原っぱがあったのでしょう。草ぼうぼうとした雑木林の中に巨木が天を突くように生え野趣に富んでいただろうと想像します。原野の中に僅かに街をなした頃の事を想像し豊かな自然の東京を空想します。春はすぐです。
2005.03.07
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泳ぎ始めたのは何時の頃か忘れましたが兄に連れられ小学校の下にある川の淵で我流で覚えました。二つの川が合流する地点で二つの淵がありました。片方の川は源流から短い所為かまた水量が少ない所為か大変暖かい流れでした。その淵で好く泳ぎました。ひとつの淵の其処はすり鉢のような状態になっており立ち止まると其処のほうに下がっているようでした。また年に一度海水浴と称し小学校で日本海の海岸へ出かけました。中学校高校の頃は毎年川を自分たちで堰きとめ泳げる場所を作り泳いでいました。教えられることなく体で覚えたようです。兄たちは香住まで中学生の頃海水浴に出かけていました。無舗装の道路を20キロ位走ります。夕刻には帰宅していましたが大変体力を消耗する海水浴でした。30代になってから毎週以前記載をしましたが代々木のサブプールで毎週泳ぎました50メートルプールで冬でも必ず泳ぎに行きました。この頃より上達をし現在に至っています。当時は必ず3キロメートルを泳ぎました。子供たちは小さい頃より温泉に行ったり、リゾートホテルで泳いだりさせていましたが上達をしていません。現在スイミングの練習に行かせていますがなかなか上達はしません。プールから上がり同じ公園内の遊び場で遊び帰宅しました。娘は途中で疲れたと言い坂の途中で座り込んでしまいました。息子が自転車を押し坂道を登りました。さすが男の子だと逞しく感じました。坂道の上で姉に自転車を渡そうとしましたが息子に乗るように言い姉は私が乗せ帰宅しました。住んでいる地域は山坂が多く稜線にあたる部分は良い家が沢山あります。何処に行くにも坂道を利用しなければなりません。またこのシーズンには好く富士山が遠望できます。寒い一日でした。
2005.03.06
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雪が降る。朝倉庫に出かけるとき少し雪混じりの雨でした。近くの車のフロントガラスには雪が積もっていました。3時頃だと思います。朝食に帰宅することには既に数センチの積雪となっていました。私の出身は兵庫県北部です。大変積雪の多い地方で毎年2メートルくらいの積雪が有ったように記憶しています。小学校は2キロくらい離れており雪の朝は大人の人が雪をかき出す後を一列に並びながら登校を致しました。頭から降り行く雪をかぶりながら前も見られない状況の日もありました。マントを頭よりかぶり上級生と一緒に集合し登校しました。学校は薪のストーブでシーズンが始まると教室に設置をしていました。薪は父兄の負担で持参していたように記憶しています。朝弁当をストーブの回りに置き温めるのが習慣でした。昼前にはおかずの匂いが教室に充満していました。十二月、十一月の寒い日授業の最中に突然初雪が舞い始めると、心うきうきして外の景色に見入ったものです。雪は突然雨から代り真っ白にさめざめと降り始めます。そんな日は下校の際空を見上げ舞い落ちる粉雪を直接口で受け止めたりしました。積雪の頃は道路は踏み後だけの一本道と成りその柔らかいところは穴が開き大変歩きづらい道でした。また生理現象をもようした際の排泄の後が雪道のいたるところに黄色く痕跡を残していたののです。最近は地球温暖化の為か雪の印象を聴きません。
2005.03.05
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雪が明け方より舞い始めました。寒い一日でした。中学生の頃より母屋と少しはなれた物置の二階に自分の部屋がありました。羽目板を敷いただけで大変寒い部屋でした。冬の月明かりの夜、月光の皓々と照る美しさに魅せられ窓を開け放して寝ることがありました。床前月光を見るでしょうか。又途中より雪が降り顔に舞い落ちてくる事もありました。暖房の無い部屋で何時も寝起きをしていたものです。毎年正月を過ぎると根雪が降り春まで消える事は有りません。家の前よりスキーを履き向の田畑のある段々畑に出かけます。その農道を利用しスキーをしたものです。パスカルのパンセにありますように雪の上を滑る事は楽しいことでした。学校より帰宅した後ひとりで雪の上を良く歩いたものです。小さい頃よりすべての人がスキーを下駄代わりに履いており雪道を歩行する事にも抵抗は有りません。その後登山をするようになり始めて2ヵ月後に冬の八ヶ岳に登りました。小さい頃の慣れが雪道を恐怖に感じない習慣となっていたからでしょう。雪山も初めてでした。赤岳鉱泉よりひとりで登山ルートを探しながら登りました。大変吹雪いた日でしたがひとりで肩の小屋に付きました。小屋の親父さんは驚き今日は誰も来ないと考えていたと申していました。翌日はアイスバーンになった斜面を頂上まで登りました。スキーは兎和野高原という場所が有り、天気の良い日は10名くらいのパーティで交代にラッセルをしながら1時間くらい掛けて出かけました。なだらかな斜面で昼食をとりながら滑ったものです。高原から帰る途中かわのぼりと田舎では呼んでいましたが清流に繁殖した草を採り帰宅しました。和え物にして食すると歯ごたえが有りおいしいものです。私のスキーは大勢の居る場所で行う事は苦手で、誰もいない雪原でのんびり行いたいと考えています。よってスキー場で滑りたいなどと考えた事は有りません。
2005.03.04
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グラフィティ・歴史謎事典 古代エジプトの謎を読む。子供の教育に関する記載があります。第一に文を習いなさい、そして書籍を著しなさいと言い含めているそうです。後世に生きた証として残るものは黄金でも資産でもなく書籍だと教える親の心持が良く現れています。生きるために必要な事柄はそれ程複雑でなく単純で仕事としては文章を著す事の出来る書記のような仕事、官僚が憧れの職業であったようです。遺跡を見る限り複雑な線で描かれた文字を幼い頃より練習し、将来の出世を望んでいたのでしょうか。現在の子供に何を希望として臨むかと聞かれ明快に答えられる親がどれ位いるのでしょか。メソポタミアの文明の中にも同じような子供に対する希望が描かれた楔形文字があるようです。時代は何千年を経ても親の心は変わらないものなのでしょうか。子供にとって良い世界でありますように。
2005.03.03
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ある年の年賀状に流行り歌のことを記載した事がありす。私の年代の記憶と流行り歌は密接にリンクしています。梅棹忠夫さんが云う風景の印象と体感温度は関連しているというように。最近はテレビを見ない所為も有りますが歌番組が少なくなったように感じます。又その年を代表される歌謡曲を思い出すことも有りません。最近皇太子様が童謡唱歌を聞かせてお子様を育てたいと話していたように記憶しています。余情と日本の四季、生活を思い出すような歌を愛しておられるのだと思われます。字余りの歌、唇を噛みそうな歌より情感が豊かになる流行り歌を街で聴きたいものです。
2005.03.02
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成果主義賃金に関する研修会があり研修会に出かけました。先生の講演は二度目の受講でした。独自に作成されたレジュメを元に二時間ばかりの講演でしたが成果主義の基本理念を良く纏めておられ参考になりました。成果主義とは悪いイメージ持っていたが、学習院大学今野先生の文章を読んで以来、自分なりにそういうことであれば考えを少し変えたとのことでした。しかし世で行われている成果主義の名により採用されている賃金は実は経営者の勝手な解釈の下に賃金カットを齎している実態に代りは無いように思われます。成果主義のなんたるかを知らず成果主義を標榜する経営者があまりにも多いことを嘆かずにはいられません。
2005.03.01
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