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三島由紀夫は「百物語」の鍵は、「追儺」よりも慎重に隠されている。何事も起こらない、夜の叙述だけで終わるこの短編は、肩すかしを喰らわす効果では「追儺」と同じだ。今紀文と言われる主人役その人が、実は生ける化物だという荒涼たる読後感は、他に比較するものを見ない。私も夜道を斜めに磨り減った歩き難い下駄をはいて田圃の畦道を、とぼとぼ歩行する読後感でした。蟀の音ばかりが耳について。
2009.05.23
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数日前古本屋で日本文学全集の鴎外の巻2冊を購入しました。文庫本では読みたい小説が少なく全集では持ち運びに不便なため全集のカバーをはずし、製本の切れ目の良い所で書籍を引き裂き一日に読める範囲の分量を鞄に入れて持ち歩いて居ります。「半日」は鴎外の未亡人が最後まで再発表を拒んでいた小品です。鴎外の家庭はこのような状態で有ったのかと寒々と推察を致します。幸福な家庭は一体的に同じような家庭ですが、不幸な家庭はそれぞれ個性があると始まる小説を思い出しました。また、このような家族に思い当たる節がない人は幸せです。三島由紀夫はこのような女性が生きた明治時代を考えると、明治時代を別の角度から見直してみたい。また、近代というものの不思議な姿をうつ出している、とも言っております。井上通泰氏前掲の書に森の母は清少納言のような人で有った、書生を愛し、林太郎を訪ねて行き、不在だと自分と話して行きなさいと引き止めた、森もそれがイヤで母の前で卑猥な話柄をして側に居ない様にしたと云っています。ヰタ・セクスアリスの中に寄宿舎を訪れた父の様子を書いた部分が有ります。父の面影を感じます。また小倉日記の中で赤松氏の死亡記事を送付され我が旧妻だとしるし、その才能を賞賛して居ります。記載も透明で感情を抑えた記載です。鴎外全集岩波書店発行37巻を所有していますが、古書店の市場で購入する業者が無く3000円で引き取られたと聴きました。書籍は重く嵩張るため現代の家屋では保管出来ないのでしょうか。また鴎外も時代が古くなった感がします。
2009.05.09
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作家論で三島由紀夫は以下のように述べています。長いですが引用を致します。森鴎外とは何か戦前の日本では、「森鴎外とは何か」などという疑問がそもそも起こる余地がなかった。鴎外は鴎外だった。それは無条件の崇拝の対象であり、とりわけ知識階級の偶像であった。ふたたび問う森鴎外とは何か鴎外という存在の。現代における定義を下すべきだと思う。鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブルジョワの盲目的崇拝を失った今、言葉の芸術家として真に復活すべき人なのだ。言文一致の創成期にかくまで完璧で典雅な現代日本語を創り上げてしまったその天才を称揚すべきなのだ。どんな時代になろうと、文学が、気品乃至品格という点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく近代一の気品の高い芸術家であり、その作品には、純良な檜のみで築かれた建築のように、一つの建築的精華なのだ。現在われわれの身のまわりにある、粗雑な、ゴミゴミした、無神経な、冗長な、甘い、フニャフニャした、下卑た、不透明な、文章の氾濫に、若い世代もいつかは愛想を尽かし、見るのもイヤになる時が来るにちがいない。人間の趣味は、どんな人でも、必ず精錬へ向かって進むものだから。そのとき彼らは鴎外の美を再発見し「カッコいい」とは正しくこのことだと悟るにちがいない。現代(当時)の文章の氾濫にかくも多くの形容詞をかさね尽くしている点に微笑を禁じえませんでした。
2009.05.06
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松本清張に刺激を受けて森鴎外を読み始めました。ある日森銑三「明治人物閑話」を古書店で購入をしました。森氏の話柄が記載されており興味を感ずる部分を紹介をします。この断簡は森氏のことより井上通泰氏の人物に主眼ががあり、森氏はその付録のような扱いです。井上氏は森鴎外を鴎外と呼ばなかったそうです。殆ど林太郎君、または森君と呼んでいたようです。林太郎と呼ぶときは親愛の情がこもっていた。山県公が井上先生に文章を善くする者を二人見た。福地源一郎と一人は森林太郎だ、といわれたそうです。井上氏は不満で言葉を返し福地と一つにされては森が可哀そうです。森氏の文章は福地の文と一つ見るべからざるものとせられた。ある時森氏が井上先生に文法の話しを聴きたい。と請うた。それではと、話しを始めたら、30分ほどで、もう分かった。それだけでよろしいと、といって聴くのを打ち切った。井上先生は森の書くものに文法の取外しなどはなかった。といわれた。井上氏はこの書籍を読んだ後調べると柳田国男の実兄であることを始めて知りました。森銑三は井上通泰がそれほど世間に知られないことを残念に感じられています。鴎外は攻撃をせられると、一々それに応酬をする。取るに足りぬ群小輩にまで、言葉を返し大人気ないという感じがする。黙殺して済ますことのできぬところに鴎外の性格があった。松本清張の文章の中に鴎外の文章が冴える時期と官僚としての成功時期は一致している。多才な鴎外、文筆かとして大成しても官僚としての立場を片時も忘却する人ではなかった。逆境にある時は著述も停滞をしていると指摘している。慎重な鴎外の性格がこのようなところにも現れているようです。永井荷風の断腸亭日乗によく鴎外の墓に詣で墓石の苔を払う記述が有ります。以前は父の住居の近くに墓地が有ったそうですが、改葬され三鷹、太宰の墓の向かいに埋葬された。鴎外は文字が違いますがブログで扱えない文字でこの文字を記載しました。
2009.05.04
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安岡正篤氏の書籍を数冊読んでいるうちに終戦に関し半藤一利氏の著作を読みました。同氏の著作の中に司馬さんと清張さんという書籍があり始めて両氏に編集中として深く関わりを持っていた事を知りました。司馬氏の書籍は多くの書籍を紐解きましたが、清張氏の著作は読んだ事が有りませんでした。気分から推理小説は気乗りがせず「西郷札」「或る『小倉日記』伝」を読みました。その後森鴎外の小倉日記を読み偶然購入した文庫本から両像を読みました。渋江抽斎は間接的に松本清張氏の書籍から知り手持ちの文庫本で読み始めました。登場人物の氏名などはルビがなければ不案内で正鵠を得ているのか不安です。渋江抽斎の経歴を閲すると鴎外の経歴と重なる部分があるようです。医官の家に生まれ漢籍の理解が深かった事、家庭の不和で離婚を経た事、多方面の知識に造詣が深かった事。人物が森氏の著作を通して偲ばれます。渋江抽斎しは最近の新インフルエンザのようにコレラに罹り落命されましたが長命であれば多くの著作を残されただろうと惜しまれます。松本清張氏は森鴎外を愛読されておりその影響を受けて居られたようです。自伝的な文章も多く草されておりその経歴を思うと多難の連続のようです。文豪とは「いかに長時間机に向かい座して居られるかだ」と話されていたようですが、日蓮のように体勢に折伏を繰り返し、世間的な栄誉を受ける機会に恵まれなかった清張氏の著作が100年を機会に読み直されることを念じます。
2009.05.03
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