日比埜日記

日比埜日記

June 8, 2013
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戦国時代、日本に来ていたのは中国と南蛮人だけじゃないのだヨ。

↓↓以下、まとめと感想を箇条書きでだだだーっと↓↓↓

  • 南蛮貿易のころ、宣教師の奴隷や従者として黒人が日本へ来ていた。 cf.肌を黒く塗られた外国人がいる南蛮貿易を描いた絵
  • 織田信長は、ある宣教師と共に来ていた黒人男性を気に入り、彌助(=ヤスケ)と名付け、従者として傍に置いた。この男は約181cmもある大男で力が強く、日本語を喋り、戦にも同行した。 まだ火縄銃の時代、このフィジカルは強いだろうなぁ~。
  • 織田信長はデスマスクが作られており、現在も保存されている。→デスマスクは西洋の技術、彌助が関わったのか?→書物より、外国人であるが故天下取りには関係ないと、本能寺の変の折り明智光秀が彌助を殺さなかった記述がある。→織田信長の首を持って南蛮寺に駆け込んだのではないか。
  • その後の彌助に関する文献はないが、九州のキリシタン大名の戦に黒人が現れた記述があり、京都から貿易の玄関口である長崎へ戻った可能性はある。しかし、ほんとうに南下したのか、故郷へ帰ったのかはわからない。

彌助はどこの国から来たのだろう?

  • 彌助を連れてきた宣教師の足取りを辿る。→ポルトガル、モザンビーク、インド、マラッカ、日本→彌助はモザンビークのマクティ村出身と推測される。
  • ヴァスコ=ダ=ガマが到達して以降、ポルトガル植民地となったモザンビーク。マクティ村でも、ポルトガル人に良い仕事があると誘われて、若者たちが船に乗っていった。
  • モザンビークから日本までおよそ5年かかるため、おそらく20歳ごろ彌助は故郷を離れたのだろう。
  • マクティ村では、ヤスフェ(スにアクセント)というとても一般的な男性名がある。これを信長が聞いて彌助と呼んだのではないか。 ←これはとても有力そう!
  • 日本と関係あるかも?マクティ村の歓迎の祭り→顔に泥を薄く塗り、腰巻のようなスカートを着て踊る。その衣装をキマウと呼ぶ。すとんと閉じたスタイルが着物と似ている?顔は白粉?→彌助が故郷に戻って伝えたものなのか、まったく関係ないのかはわからない。

アフリカ出身の信長の家臣であった彌助といえば文献も確りと残っていることから、小説などの文学作品にたびたび使用されており、結構知られたお話でした。でも詳細を知っていたわけではないので、今回のふしぎ発見はおもしろかったです~。モザンビークまで取材していたところも^

あと本筋とは関係ないけども、  織田信長のデスマスクと子孫の織田信成さんから、唇は上下に厚く鼻は大きくパーツの大きい顔貌をした一族だったんだな!という発見もありました(笑)

以下、参考にしたサイト様 

wiki彌助  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8A%A9

世界ふしぎ発見  http://www.tbs.co.jp/f-hakken/bknm/20130608/p_1.html






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最終更新日  June 9, 2013 02:00:02 AM


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