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単独世界1周レースに参加している白石康次郎さんの日記から。『緯度:39-11,5S 経度:122-39,2E 天候:BC 風:西の風13kt 気圧:1011hp 気温:24℃ コース:162度 速度:12kTやっと、まともな食事が取れた。昨日までは果物で何とかつないでいた。オレンジジュースで何度か吐いたが、おいしく吐けたのでよかった。船酔いのベテランならではのやり方だ。苦しいときにも「前向き」を使う。シングルハンドでの船酔いは皆さんが想像するよりも辛いものがある。最初のレグもそうだった。身体が船に慣れるまで、一つ一つ注意して行動しなければ危険である。一ヶ月の休みはちょっと僕には長すぎた。今までに無い経験だった。』これは、第2レグを出発して2日目だったかな?世界1周レースをする人でも、陸上で過ごした後、海上生活になると、毎回数日間船酔いをします。これが過ぎると、次陸上に上がるまで酔わないそうです。面白いですね。そして今日の日記。『LT12:00 UTC 23:00 日本時間30日08:00緯度51-17,4S 経度:162-33,4W 天候:O 風:北5kt 気圧:1027hp 気温:13℃ コース:101度 艇速:6kt昨夜、まったく風が無くなった。寝ないで操船に当たる。よく、風がなくなると、休めるのではないかと思う人がいるが、それはまったく違います。艇速が無く、舵が取れないので、オートパイロット(注:自動操縦機械)が「ピーピー」とエラーを出す。たまに吹く微妙な風にあわせなければならない。とても神経を使う走りだ。風がなくなると「ジリジリジリジリ・・・・」と、音がしてくる。これは船内、船外に取り付けてある、風向計の針の音である。普段は波の音でまったく聞こえない。風がまったく無くなると、「ジリジリジリジリ・・・」と鳴り出す。皆さんでたとえるなら、寝たときに時計の針の音が聞こえるようなものだ。この音が、聞こえてくると、がっくりする。あまり聞きたくない音だ。いまだ、風が安定せず、船は走らない。毎回、主催者から送られてくる、リーダーズボードを開くのが怖い。そこには各艇のポジションや走りのデータが書いてある。昨日、ついにベルナール(注:第1レグ-スペイン・オーストラリアのトップ艇長)との差が1000マイル(注:1800km)を越した。前に1000マイルひらき後ろにも1000マイル開いている。すごいレースになってきた。まだしばらく、ベルナールとの差は開くだろう。もう何も言うことは無い。ごらんの通りでございます。皆さんに分かり安くたとえるなら、道がひどく渋滞していて、自分の斜線は一向に進まないのに、隣の斜線はスイスイ車が走っているようだ。考えてみると、この高気圧は僕にとって完璧なブロックになった。もう、見事というしかない。高気圧が南から現れ、最初は30kt(注:15m/s)を越す向かい風で襲撃し、次は南北に大きく壁のように無風帯を広げる。しかも、ゆっくりと僕と同じ方向に移動する。これには、こてんぱんにやられた!完璧なブロックだった。感心するしかない。トニー(注:現在3位?)に、風がなくなったと、連絡すると「それはいい知らせだ。中心に入ったから、これからは風が吹くよ」その時、はたと、気づかされた。「前向き!」トニーは僕よりも前向きである。それにいつも冷静な判断をしている。さすがである。今は気持ちを整えるのが僕の仕事のようだ。朝から、バケツとスポンジをもって船のビルジ(水あか)掃除を一所懸命にやる。これをやると、初心に帰れる。外で軽く座禅をする。気持が少し落ち着いた。康次郎』海の上を孤独に走りながら、他艇と連絡が取れ、レース委員会から全艇の位置を毎日知らされ、気象データは、船内のPCで取れ、日本とも連絡が取れます。すごい時代になりました。もう冒険ではありませんね。まあ、レースだからな。風速12kt(knotノット)約6m/s・約22km/hで、艇速11kt。風速5ktで、艇速6kt。風よりも速く走れるレーシングヨット。風が上がってくると、時速30km以上で、数メートルの波の海面をかっ飛びます。ああ、オソロシヤの世界です。
2007/01/31
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柳沢厚生労働大臣が、『女性は子供を産む機械』と発言したことが問題になっています。大臣さんの問題発言が、よく話題になるが、前後の言葉の流れを聞いてみないと、分からないことがあり、あまり気にならない方です。でも今回の言葉はとても気になり、前後の言葉を知りたくなりました。特に、発言後すぐ後の言葉で、訂正お詫びの言葉を語ったようで、会場の空気がサッと変わって、まずいと直感したのかもしれないと思った。調べても全文は分からなかったが、会場の空気を感じて訂正というのではなく、元々あまりいい例えではないと思いながら、「女性は子供を産む機械」発言をしたようです。普通の人なら、ごめんなさいで済まされる程度のものだと思いましたが、国の一部門のトップの発言となると、ごめんでは済まされないのかもしれませんね。女性は怒るだろうし、家内をそういう目で見たことはない。柳沢さんも、奥さんに向かっては、絶対に言えないだろう。もしそのような事を家内に言ったら、家内は侮辱されたと思うだろう。泣き出すかもしれないし、旦那である私への信頼は地に落ちると思う。夕食から一品減るね。子供を産むのは、女性に備わった男性にない特徴で、1つの機能に過ぎない。その後、『産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない』と、少子化対策に向けての発言が続いたようですが、女性に原因を押し付けた発言のように感じました。「あんたの責任」と責任転嫁している姿勢に、大臣としての資質を感じる。多くの国民の意思であり、流れだから、この流れを受けてどうするか考える前向き姿勢でいてもらいたい。これは、女性の問題ではないと思う。私も結婚して子供が欲しいと思った。家内も同じで、2人生まれた。家内は3人欲しい、女の子も欲しいと言っていたが、両親と弟まで2人で支えている現状を考えると、3人目は難しいなと思った。生活費・学費・家の大きさ・・・いろんなことを考えた。何処の夫婦でも同じだと思う。子供を産むことより、その子をしっかり育てる環境があるかが、出産に結びつくように思う。もし、私が希望する北欧型の高福祉社会なら、子供が大学院に行っても、公立小学校ぐらいの学費・・・というかタダ、リタイヤ後の住いや生活費・介護もお金の心配が要らないなら、収入がずっと少なくてもゆったり暮らしていける。それなら、子供をもっと欲しいと思う夫婦は、産もうとするのではないだろうか。それに、私には「人口が減ることは、あかんことなんやろか」と根本的な疑問がある。「今後増えるお年寄りの年金を支える若者が少なくなるから」「購買力が落ちると、経済が縮小するから」というのが、人口減悪者説の理由のようだが、年金と言うのは、自分で老後のために給料から積み立てしたものを、リタイヤ後に使って生活する仕組みだと思う。保険会社がやってる年金は、まさにこれ。なら、何故老人を若者が支えるという発想が出るのだろう?元々、全く年金を積み立てなかった人や少額の人に、大盤振る舞いしたり、貯まった年金で豪華施設を各地に作って赤字を垂れ流したために、本来の目的のお金がなくなってきたのが原因です。国の失敗を女性に尻拭いさせて、どうするねん・・・難しい、ややこしいことを考えすぎて、本筋が見えなくなってる感じがします。それを女性が子供を産まないことに責任転嫁するのはおかしいと思う。人口減で購買力が落ちると、経済が縮小し、生きていけなくなるのだろうか?生活するお金は、売上の多少で決まるのではなく、利益の多少で決まる。人口増により、全体の売上が増えるので、利益を削って薄利多売をしても、全体の利益額が増えた。利幅が少ないので、多く仕事をこなすために、力の弱い動きの遅い年齢の高い労働者への肩叩きが増えた。多売するために、不得意分野に進出する。不得意分野だから、薄利でしか進出できない。どんどん質が低下していくように思う。私が生まれた頃は、人口が1億人もなかった。「日本の人口1億人突破」というニュースを小さい時に聞いた覚えがある。今やその2割増の1億2千万人。小学校時代と今と、どっちがゆったり余裕のある生活をしていたかを考えると、小学校時代に軍配が上がる。人口増で、どんないいことがあっただろうか?団塊の世代の人口が他世代に比べて、突出して多いから・・・つまり戦争遂行のために「生めよ増やせよ」政策の名残。一時的に、頭でっかちの人口ピラミッドになってるだけです。自然に日本人の適正人口に修正しているだけのように思う。きっと人口減の世の中になっても、何も困らないと思う。一般庶民は、適正利潤を選択し、いろんな知恵が国のお金の使い方を変更していくようになると思う。私は、現状をそのままに、人口減のマイナス面をダイレクトに受けて沈んでいくような日本人ではないと思う。もっと知恵のある国民だと思う。人口を増やす対策より、人口減社会にどう向き合うかを考えなければ・・・だって、そういう流れなんだから。
2007/01/30
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日曜日は、久しぶりの先輩方とのセーリングでした。店の入っているマンションの臨時総会でしたが、議題が管理規約ミスの訂正などだったので、理事長一任してサボりました。朝、映画「蝉しぐれ」のDVDを観て、ハーバー10時という予定に30分も遅刻してしまいました。「蝉しぐれ」は何度観てもいいです。特に映画版は、木村佳乃さんが綺麗で・・・見とれてしまいます。ロードショーで観たときは、幼少時代の別の子役さんのおふくから、成人した木村佳乃おふくに変わった時は、目を見張る美しさでした。美女コンプレックスがある私にも良かったし、藤沢周平さんが文字で描く女性は、美しく、おしとやかで、力強いので、きっと最高やと喜んでいるでしょう。ハーバーに着いたところで、先輩から電話が入りました。「すんません、今着きました」って、この日は特にどこかに行く予定はなく、集合時間など決まってはいないのですが、1人で暇だから電話をしてこられたのでしょう。この船は、おっさん達の隠れ家みたいなもので、暇な日曜日は何となく昼前とか、昼過ぎに集まり、何となく沖に出たり、食事したりが通常です。陸上に置いてあるレース艇に寄りグローブを出してきて、ハーバーカウンターで出艇申告していると、もう1人の先輩がやってきました。出艇申告は、和歌山方面・大阪湾・ハーバー沖・淡路島より西の瀬戸内海・・・など大体の行き先と帰着予定時間を届けておくものです。予定時間を過ぎても帰着がなければ、書いた電話番号に連絡があります。帰って来た時の帰着申告を忘れても連絡があるので、忘れないようにしなければなりません。 ニスの缶を下げて、ニス塗り作業みたいです。船に着くと、この日は3人のようで、まずセーリングすることになりました。2時間ほどセーリングして、ホームポートの隣の最高級ハーバーの見学をすることにしました。船をハーバーに入れていくと、停泊してある船は新艇ばかりという雰囲気です。ゲストバースに近づくと、係員が2人走って出てきます。ウェルカムの体制が、しっかりしています。ここはアメリカ資本で、世界でたくさんハーバーを運営している会社の経営で、ハーバーマスターは先輩です。外国のハーバーではよくあるジェームスボンドの世界ですが、一般庶民の私には、そんなことされたら、「いやあ、申し訳ない」と頭を下げて恐縮してしまいます。「ごめん、今日は見学だけだから、また次着けるわ」と大声で係員さんに断りの言葉をかけました。更に奥まで入っていくと、長崎ハウステンボスのように、桟橋付の土地分譲地があり、大きな家の庭に専用桟橋があり、そこに船が泊まっています。「ええなあ」の声と共に、「でも台風の時怖いな」「地震あると、液状化で大変ちゃいますか」「個人専用桟橋は寂しいでしょ。隣の船との交流がないし」・・・とマイナス言葉が並びます。所詮、一般庶民のひがみであり、やせ我慢でしかありません。もしそのような余裕のある資金があれば、買ってしまいそうです。ホームポートの桟橋に戻ると、ヨット屋さんの後輩がすぐにやってきました。「こんにちは」「おお、ええとこに来た。あんなあ・・・」と先輩が、船の不具合ややり方が分からないところを聞きます。後輩君は、持っているノートにメモして、仕事をしています。「見積もり出しといてよ」って、さっき見た隣のハーバーに停めてある船のオーナーでは、金額も聞かずに注文するものを・・・我々にはそんな度胸はないようです。その後食事して、木部にサンダーかけて、ニス塗りしてお終いでした。
2007/01/29
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映画の方ですが、「バッテリー」が今春映画化されるようです。年齢に似合わず「タッチ」とか観にいく私だから、きっと観にいくでしょう。映画「それでも僕はやってない」を観ました。通勤電車内の痴漢冤罪がテーマです。幸いまだ体験していない留置場、刑事の取り調べ、検察検事とのやりとり、裁判の流れ・・・など、掘り下げていたように思います。日本の裁判システムの未熟さが、弁護士の口から語られていました。刑事は、検挙率を上げるために容疑者を犯人にしようとする。冤罪に結びつく証拠は、検察に見せない。冤罪に結びつく目撃者の存在を、調べようとはせず、犯人を立証する証拠の捜査はきちんとする。検察は、警察から上がってくる容疑者を起訴しようとする。何故なら、警察は国家側で、自分も国家側だから。裁判官は、有罪にしようとする。無罪判決を出すのに勇気がいる。何故なら、警察も検察も国家側で、自分も国家から給料をもらっている。無罪を判決して、上告審で有罪になれば、経歴に汚点が着き、左遷の対象になるから。容疑者は、冤罪と分かっていても、それを主張すると、微罪でも長く留置され、生活に困る。長期留置と引き換えに、冤罪にも自供を引き出し、その自供を元に、裁判を戦う警察、検察。刑事事犯の99.9%が有罪になるのが、日本の現実らしい。国家の意思に逆らうには、個人はあまりに弱い。深刻なテーマなんだけど、描き方はそれほど深刻でもない。登場人物に人間味があり、ちょっとおかしなキャラクターも配している。一番遅い時間帯の上映なので人は少ないが、観客の大半を占めた20代だろう若者が、シーンと映画を見入っている感じが伝わってきた。映画が終わっても、立つ人がいなかった。涙を誘う感動シーンなどないのに、深く訴えてくる映画だった。混んだ電車内での痴漢冤罪という、誰にでも何かの間違いで陥る状況なので、身近に感じるのかもしれない。私自身、混んだ電車では今以上の注意が必要だと思った。重大事犯ではないが故に、いいかげんな捜査で、冤罪にもかかわらず前科がつく可能性が高いのかもしれない。陪審員制度が機能しだすと、冤罪を防ぐ防波堤になるかもしれない。でもその反対もある。考えさせられる、いい映画でした。裁判官が、司法修習生に、裁判官の使命は「罪を犯していない者を犯罪者にしないこと」と答える場面があるが、とても印象に残った。
2007/01/27
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去年の今ごろは、リリーフランキーさんの「東京タワー」にぐっと来てました。リリーフランキーという変な名前が頭に残って、気になっていた「東京タワー」を読みました。読みながらどんどん引き込まれて行き、読後「すげえ~」と、この本に出会えた喜びに浸っていたら、まもなくブレイクしてしまった。何かの賞に選ばれたとTVで見たと思ったら、一気に映像化されることになり、リリーフランキーさんがバラエティ番組に出演したりして、結構目にした1年でした。直木賞とか芥川賞とかを取った作品は、こう言っちゃあなんだけど、「これは」と心を揺さぶる作品は少ないように思う。あまりにメジャーすぎて、選考委員さんがプロ過ぎるのかもしれません。玄人好みする、玄人の琴線に触れる作品を、素人の私には良さが今一分からない。その後同じ路線の「がいばあちゃん」が来た。文章とかは、素人なんだろうけど、書かれている内容に、心揺さぶられる人が多いのだと思う。今年は・・・佐藤多佳子さんの「一瞬の風になれ」が来るかも知れない。最近、どうも「一瞬の風になれ」が気になる。まだ読んでいないのだけど、「バッテリー」のような青春小説で、いいといろんな所で目にする。高校陸上競技の作品らしい。気になるなら、さっさと買えばいいのに、単行本と文庫本との1000円の価格差が気になる小市民で情けない。でもきっと買っちゃいそうです。
2007/01/26
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数日前、日記に書いた日経ビジネスの宋さんコラムですが、1/25付けのコラムには泣けてしまった。前半だけ、そのまま載せておきます。私がこれを読んでどう思ったかの陳腐な感想など、このノンフィクションの前では、吹けば飛ぶようなものと感じるので、書きません。というか、書けません。惹かれましたら、ウェブサイトで全文をお読みください。会員でないと読めないページもありますが、自分のデータを打ち込むと無料ですぐに会員になれますし、日本経済新聞社ですので、安心です。http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20070122/117394/?P=1『捨て子の少女の死と、脱・格差社会のもと』2007年1月25日 木曜日 宋 文洲 1996年11月の四川省の寒村。若い未婚の男性農夫が草むらに捨てられた女の子の赤ちゃんに気づきました。赤ちゃんを育てるのは、貧乏な彼にとって重い負担。そう考える彼は何回も赤ちゃんを抱き上げては下ろし、立ち去ってはまた戻りました。最後、彼は命が尽きそうな赤ちゃんに呟きました。 「私と同じ、貧しい食事を食べてもいいかい」と。 独身のまま1児の父親になった農夫は、粉ミルクを買うお金もないため、赤ちゃんはお粥で大きく育てられました。病気がちな体は心配の種でしたが、聡明で近所からとてもかわいがられたのは、お父さんの救いでした。 女の子は5歳になると、自ら進んで家事を手伝うようになりました。洗濯、炊飯、草刈りと、小さな体を一生懸命に動かして、お父さんを手伝いました。ほかの子と違ってお母さんがいない少女は、お父さんと2人で家をきり盛りしました。突然押し寄せた不幸小学校に入ってからも、少女はお父さんをがっかりさせたことはありませんでした。習った歌をお披露目したり、学校での出来事を話したりと、お父さんを楽しませました。そんな平和な家庭に突然の暗雲がたれ込みました。 2005年5月。ある日、少女は鼻血がなかなか止まらない状態になりました。足にも赤い斑点が出たため、お父さんと病院に行くと、医者に告げられた病名は「急性白血病」でした。 目の前が真っ暗になりながら、お父さんは親戚と友人の元に出向き、借りられるだけのお金を借りました。しかし、必要な治療費は30万元。日本円にして400万円です。中国よりずっと裕福な日本でも、庶民にとっては大金になるような治療費を、中国の農民がどうにかできるはずもありません。集めたお金は焼け石に水でした。 かわいい我が子の治療費を集められない心労からか、日々痩せていくお父さんを目にして、少女は懇願しました。「お父さん、私、死にたい。もともと捨てられた時に、そのまま死んでいたのかもしれない。もういいから、退院させてください」と。自ら治療を放棄すると退院お父さんは少女に背を向けて、溢れ出た涙を隠しました。長い沈黙の後、「父さんは家を売るから、大丈夫だよ」と言いました。それを聞いて、女の子も泣き出しました。「もう人に聞いたの。お家を売っても1万元しかならないのでしょ。治療費は30万元ですよね」と。6月18日、少女が読み書きできないお父さんに代わって病院に「私は娘への治療を放棄する」との書類を提出しました。彼女はまだ8歳でした。幼い子につらい思いをさせてしまったことを知ったお父さんは、病院の隅で泣き崩れました。そして娘を救うことのできない自分を恨み、運命の理不尽に怒りを覚えました。 娘は生まれてまもなく実の父母に捨てられたうえに、貧乏な自分と1日も豊かな生活を経験したことがありません。8歳になっても靴下さえ履いたことがありません。それでなくてもつらい人生を歩まなくてはいけなかったのに、さらに追い打ちをかけて病に苦しめられるとは。 退院して家に戻った少女は、入院する前と同じように家事をし、自分で体を洗います。お父さんに、自分は勤勉で、かわいく、そして綺麗好きな娘として記憶に残してほしい。そう願いながら、1つだけお父さんに甘えました。 新しい服を買ってもらい、お父さんと一緒に写真を撮ってもらったのです。それもお父さんを思ってのこと。「これで、いつでも私のことを思い出してもらえる」と。 70万元の寄付が集まり、治療を再開ささいな幸せの日々も、終わりが見え始めてきました。病気は心臓に及び始め、ついに彼女は学校に行くのもままならなくなりました。苦痛から、学校に向かう小道を、1人カバンを背負って立ち尽くすこともありました。そんな時には、目は涙で溢れていました。 少女の死が近づいたころ、ある新聞記者が病院側からこの話を聞き、記事にしました。少女の話はたちまち中国全土に伝わり、人々は彼女のことで悲しみ、わずか10日間に70万元の寄付が集まりました。女の子の命はもう一度希望の火が灯され、彼女は成都の児童病院に入院し、治療を受け始めました。 化学治療の苦痛に、少女は一言も弱気を吐いたことがありません。骨髄に針を刺した時さえ、体一つ動かしません。ほかの子供と違って、少女は自分から甘えることをしないのです。 訪れた運命の日2カ月の化学治療の間に、何度も生死をさまよいましたが、腕のよい医師の力もあって、一時は完全回復の期待も生まれました。しかし、…。やはり化学治療は、病が進行し衰弱していた少女の体には、無理を強いていたのです。化学治療の合併症が起き、8月20日、女の子は昏睡状態に陥りました。朦朧とした意識の中で彼女は自分の余命を感じます。翌日、看病に来た新聞記者に女の子が遺書を渡しました。3枚もの遺書は彼女の死後の願いと人々への感謝の言葉で埋め尽くされています。8月22日、病魔に苦しめられた女の子は静かに逝きました。 少女のお父さんは冷たい娘をいつまでも抱きしめ涙を流しました。インターネット上も涙に溢れかえり、彼女の死のニュースには無数の人々がコメントを寄せました。8月26日、葬式は小雨の中で執り行われました。少女を見送りに来た人にあふれ、斎場の外まで人で埋まりました。 女の子の墓標の正面には彼女の微笑んでいる写真があります。写真の下部に「私は生きていました。お父さんのいい子でした」とあります。墓標の後ろには女の子の生涯が綴られてありますが、その文面の最後は「お嬢さん、安らかに眠りなさい。あなたがいれば天国はさらに美しくなる」と結ばれています。(以下は、日経ビジネス ウェブサイトにてお読みください)
2007/01/25
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新堂冬樹著「僕の行く道」を読みました。相変わらず週1~2冊は本を読むので、前回から大分読みましたが、久しぶりに紹介したい本が出てきました。★1つ。小学校3年生の主人公大志君は、お母さんを知らない。小さな時にお母さんは、パリにデザイナーの仕事に行ったまま帰ってこない。毎週土曜日に届くお母さんからの手紙がとても楽しみで、毎週返事も書いている。仕事に忙しいけど、優しいお父さんと、夕食を作ってくれる近所に住むお母さんの妹さん、それにネコのミュウと暮らしている。夏休みに入るある日、「早くパリから帰って来て欲しいなあ」と思う心に、フッと疑問が湧いた。いつも見ているお母さんとのアルバムと同じ景色、コスモスの景色が、お父さんの本棚の写真にあった。そこには半年前にお母さんが小豆島で撮った写真と書いてある。「小豆島に行けば、お母さんに会える気がする」ここから始まる1人と1匹での大冒険・・・小学校3年生なので、小豆島とパリが、どっちが遠いかさえわからない。そこで近所に住む6年生のお兄ちゃんに相談してみる。お兄ちゃんのボーイスカウトのキャンプに参加するということにすれば、お父さんに分からず4日間家を開けられる。電車で隣になったお姉さん、間違えて途中下車してしまった町で助けてくれた少女、そしてそのお母さん・・・いろんな人の助けを得て小豆島に近づく。一方家では、お父さんにウソがばれてしまう。行方不明になってしまった一人息子。おばさんが、「警察に通報するのはもう少し待って。兄さんはここにいて。あの子は今一人で真実を探す旅を歩いてるの。一人でやり遂げる事は大切なこと。きっと私が探し出すから、ここで待ってて」最後は、本の帯に書いてあるとおりの「感涙のハートフルストーリー」でした。
2007/01/24
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昨日の日記に書いた日曜日の続きです。病院に家内を迎えに行った時は、父はもう眠っていました。親戚と母に中座のお詫びをし、家内と共に病院を後にしました。この日、船で新年会の予定だったので、ハーバーに回り、船に電気ストーブとエアーポット、それにミカンを1箱入れ、すぐに家内の実家に急ぎました。11時に着き、お寺さんが来られるのになんとか間に合いました。法事が終わり、近所からお好み焼きと焼きそばを取り、姉夫婦と4人で昼食です。以前は、ここにそれぞれの子が5人いて、にぎやかだったのに・・・キャンプやスキー・・・思い出されます。先週の仕上げ法事で兄はまた腰をいわしたみたいで、この日は椅子に座っての法事でした。私も無理しないように行かなあかんです。その後、船の新年会に途中からお邪魔しました。持っていったストーブは、この日は暖かだったので用なしでしたが、ミカンは大分食べてもらいました。丹波篠山おおみやさんのしし肉がメインの鍋です。おおみやさんというしし肉のお店が篠山にあります。子供が小さな時は、姉夫婦の家族とだったり、うちの両親をともなって家族6人でだったり、毎年のように冬になるとしし鍋を食べに行っていました。鹿肉もあるのですが、子ども達のお楽しみのメインは、店先に撃たれたままの状態でいるイノシシです。その日の獲物を猟師が売りにきて、店先に置いてあります。鉄砲で撃たれた跡もそのままです。針のような体毛を触って、すごいものを見た触ったという目をしています。「お店にイノシシいるかなあ?」と毎年行きの車の中で訊いてきます。大学クラブの先輩に、他大学のクラブの先輩も加わって、よくこれだけ面白い話があるものだと感心するぐらい笑わせていただきました。もう少し大きな船を持っている先輩から、夜間航行のことをちょっと聞きました。いつかは夜光虫の中をヨットで走りたいと思います。またあの綺麗な光景を目にしたいです。単独世界1周レース中の白石さんの今日の日記に、こう書かれていました。『さあ、この日の夜がすごかった!夕暮れ、日の落ちた後、南の空に大きな彗星が現れる。絵に描いたような彗星で、真っ赤な大きな星から空に大きく三角形の尾が伸びている。昨夜は南氷洋では珍しく雲ひとつ無い天気。ユーコーの上には天の川が走る。前には南十字星。振るような星たちで、時々流れ星が舞い降りる。もう一度南の空を見上げると、なんだか明るい。弧を描いて薄いカーテンのように霞がかかっている。オーロラだ!怪しく緑色に光り、時には二重に、時には大きくゆらゆらと空を揺らしている。オーロラのカーテン越しに星が輝き、彗星もその尻尾を輝かせている。これほどの天体ショーは始めてである。満点の星、天の川、南十字星、流れ星、オーロラ、彗星。何よりすごいのが、これがすべて本物であるこということだ。ディズニーでもこれほどの演出はしないだろう。すばらしかった! 残念ながら写真には暗すぎて撮れません。もしかしたら夕暮れ、彗星だけは撮れるかもしれない。トライしてみます。僕は子供のころ兄貴の影響で星が好きになった。将来は宇宙へ行きたいと本気で思っている。太陽風を利用した、宇宙帆船、太陽系一周レースに参加してみたい。ちょっと寿命が足りないだろうが、いつかきっとできるだろう。ちなみに兄はそのまま星に夢を追い続け、今ではプラネタリウムのエンジニアである。 兄弟で宇宙、海と、夢を叶えたわけだ。朝、早速兄に電話した。流石である。すぐに答えが返ってきた。その彗星は、今、太陽の近くで輝く「マクノートMcNaught彗星」だと言う。南半球は夏、そして南極に近いので、一晩中観測できたのだろう。電話に双子の姪っ子や、甥っ子が出てくれた。うれしかった。また子供たちの元気をもらった。昨日の大変さが、吹っ飛んだ。こうしてみると、僕は人間の及びも付かない大自然の中にいる。昨日の天体ショーは人間では決して創ることのできない天の成せる技である。その大きさに感動し、子供たちの純粋で小さな声に心温まる。自然界と人間界、そして自分への試練。すべてを満喫した一日だった。康次郎』う~ん、見てみたい・・・
2007/01/23
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日曜日は、また法事でした。年末から毎週です。それに加え、急遽関東から親戚が父の見舞いに来ることになったので、家内と母が病院へ向かい、私は散髪。短時間バージョンの散髪を終え、病院に挨拶と家内を迎えに行きました。母が金曜日に、父の様態を母方の親戚に連絡したようです。土曜日の午前中、私の仕事場に親戚から連絡がありました。母の自宅に連絡したけど母がいなかったからか、母の物忘れの事を思い直接私に連絡してきたのか分かりませんが、大阪から病院への行き方などを伝えました。すぐに、家内に連絡しました。我が家は、他と同様家内中心に動いています。結婚した時から、両親・弟含めて、家内を中心にしています。土曜日、家に帰り、日曜日の算段をしました。義理母の法事があるけど、こちらの親戚を優先して、行くのを諦めようかとの話でしたが、こちらに不幸だあったわけではないので、両立する方法を考えました。分刻みになるけど、先に母と家内が病院に行き、親戚の到着を待ち、私の散髪が終われば、病院から一緒に実家に向かうことにしました。それと、もし私が今の父の状態になったときは、家族以外には連絡しないでほしいと頼みました。親戚からの連絡を受けながら、母の行動に疑問を持ちました。母の行動を否定するつもりはありませんし、母に一言言おうとも思いませんが・・・今の父は、うちの次男以外認識できないようです。車椅子に座れません。まだ多少しゃべれた年末までならまだしも、今の姿で、父は自分の妻の親戚に会いたいのだろうか?私なら絶対に嫌です。最後のわがままかもしれませんが、家族以外には、最後の姿を見せないまま去っていきたい。最後まで、自分のプライドを保っていたい。父の兄弟などが来た12月までが限界。私が行った時には、すでに病室を出て、病院のユティリティスペースに4人でいたけど、後で家内に聞くと、認識できない、会話も出来ないですぐに目をつぶってしまう父の横で、10分ほど4人で話しただけだったようです。悪い言葉で言うなら、「父はさらし者ではない」と思った。何故、自分の亭主のこういう姿を自分の親戚に見せるのか、母の心境が理解できない。昨年、高校ヨット部の同期が、ガンの手術を受けた。毎年年末に忘年会をする間柄だったが、その仲間には何も知らせず入院生活をしていたようだ。東京にいる友人が、年末のこともあり秋に連絡をとったところ、家族からその状態であることを知らされた。「もう退院して今自宅で暇にしてる」と、すぐに私にも連絡があり、「もし家で暇なら、船に乗らないか」と連絡を取った。そこまで体力が回復していれば、ベットで病気の話をするより、風に吹かれ別の事を話題にする方がいいと思ったから。結局、「まだそこまで身体に自信がないので遠慮しとくわ」ということで流れたが、彼の気持ちは良く分かる。家族以外に自分の弱った姿を見せたくないのだ。年末に、「またみんなで忘年会しようか」と彼から連絡あり、年明けから仕事に復帰するという明るい言葉を、以前と変わらぬ彼の姿から聞いた。これでいいのだと思う。何もかも知っている必要はないと思う。父の主治医の先生にも、義理母のときと同じように、無理な延命措置はいらない旨伝えてある。食べられなくなり点滴になると、点滴では栄養が入らないので、先は短い。次に舌の力がなくなり喉に落ちて窒息が来る。その時喉に穴を開け、人工呼吸器をつなぐと延命するが、心臓が徐々に弱って止まるのを待っているだけ。たくさん穴を開けられ、管がたくさん入った父は見たくないし、そこから本人が何も出来ない数日間の延命は、本人にとってどういう数日間なんだろうと思う。管に繋がれると、苦しい思いが長引き、最後の顔が苦しそうにして亡くなる。延命しない方が、ずっと綺麗な寝顔のまま。
2007/01/22
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『熱心なほど、教育に失敗する』「日経ビジネス」のコラムに書かれた宋文洲さんの言葉に激しく同意しました。『「愛情を込めて作った料理は、おいしい」 この言葉は、食べる人が作る人への感謝の言葉であって、愛情を込めた料理が本当においしいとは限りません。これは園芸職人が「精魂込めて花を育てれば、必ず綺麗になる」とはまず言わないのと同じです。腕の立つ園芸職人は、花をどのようにして育てれば綺麗になるのかを、理論と経験から熟知しているものです。 聡明な読者の方にあえて言うまでもありませんが、料理にしても園芸にしても愛情は必要なものですが、それさえあれば済むような十分なものではありません。むしろ愛情に酔いしれて、冷静な状況判断ができなくなる危険性さえあります。特に教育の場合の愛情は、注意が必要です。 教育熱心の親御さんというのは、古今東西います。教育に無関心な親よりは関心を持っている親の方がいいとは思いますが、注意が必要なのは、教育熱心の親御さんというのは、往々にして自分が熱心であることに満足してしまいます。「自分は、これだけ子供に愛情を注ぎ込んでいる」と自己陶酔しているのです。 教育ママやパパには認めたくないことかもしれませんが、子供を成長させるのは親の情熱というよりは、その子にとっての成長する条件や場なのです。親がいくら熱心になっても、子供にとって感ずる体験がなければ、親の努力などは水泡にきしてしまうのです。逆に、親が何もしなくても、子供がどこかで感ずることができれば、親の知らぬところで子供は成長していくものなのです。 「何もしない」教育もある先日、ある財界の人物を訪ねた時に、壁に掛っている力強い書に僕は目を奪われました。筆者は世界的に有名なデザイナー、コシノヒロコさんでした。 「小篠さんは、弘子さんのみならず3姉妹が、それぞれ立派な方で、有名です」その話を訪問先で聞いて、子育て最中の僕は思わず興味を持ち、質問してしまいました。「小篠さんのご両親は、どうやって彼女たちを教育したのでしょうかね」と。その人は小篠弘子さんの親友だと聞いていたからです。 答えを聞いて驚きました。 「何もしないこと。弘子さんたちは片親で、お母さんが家族の生活のために1日中ミシンを踏み続けたのです。その忙しさから、ご飯の時はイワシを焼いたらそれだけ。姉妹で喧嘩をし始めて、仲介はしない。弘子さんたちがどうやって大きくなったかを、お母さんは思い出せなかったそうですよ」この話を聞いて僕が感じたのは、小篠さんのお母さんはもちろん育児や教育を放棄したのではなく、子育てということを特別に意識していなかったことだけなのだと。そして小篠さんたち子供たちは、お母さんの生き方や、家族と一緒に積み上げてきた経験を通じて自ら育ったのです。 「何もしない」の教育は放棄ではなく、親と共に、逆境を克服していく意欲や忍耐力、感性を身につけさせているのです。子供が育つのは、客観的な過程であり、親の主観的な思いではありません。 愛情に満足してはならない愛情とは形がないだけに、思い込みでいくらでも膨らんでいくものになりやすいのです。恋愛で、片思いに悩んだり失恋して苦しい時に「これだけ好きなのに、愛しているのに、なぜ」と思ったことは、誰しも経験があると思います。悲しいことですが、自分の思いが相手にとって、何の愛情にもならないことはあるのです。』私の母は・・の部屋という長寿番組を持ってる黒柳さんに似ていて、機関銃しゃべりで、バンバン自分の考えを子供に押し付けます。教育熱心ですが、持論を子供に押し付けます。母は、県内でも有名な才女だったようで、実家には母の表彰状がたくさんあります。祖父の家柄もあり、評判の少女だったと思います。女学校から、当時の女性としては珍しく大学に進み、しかも理系です。そういう自分への自信からでしょう。子供がどう反応しようと、自論を曲げずに、それについて来れない私を馬鹿呼ばわりします。私は自室に閉じこもりがちになり、反論すると数倍言い返されて泣かされます。ある時泣いている私を、小学生の弟が慰めてくれました。弟は自称「浮雲」で、自分の絵などに「浮雲」とサインしていました。「あんな、しばらく何も考えず、何も言わなければ終わるんやから。僕なんか浮雲になって、風に吹かれてるから平気なんや」と。反発され喧嘩が絶えず部屋に閉じこもる子と、10才にして悟りを開く子を育てることになるとは・・・教育の熱心さが、子供の前に立って、子供の手を持って、自分の考えた道に強引に引っ張っていこうとするようになっては、良くない結果になります。中学でのキリスト教で救われ、自分の経験から、子供とは親子というより、並列な付き合いをするようになりました。私は今でも母が怖く、母に感化された父にも、心の中で距離を置いていますが、子供達は、「おとうさん」と気軽に私に声をかけてくれます。子ども達の方が、勉学にも熱心ですし、なんら問題はありませんでした。宋さんは、別の日のコラムで、こうも書かれています。『「孟子の母が3回引っ越した理由」英語のeducationはeduceから変形したものです。educeの意味は「引き出す」で、「教え込んで育てる」という意味はありません。人間はほかの動物と同じく、誰かが教えなくても“勝手に”育つものです。周囲に悪い奴がいなければ、勝手に良く育ちます。孟子の母親は、良い環境を求めて3回も引っ越ししたというのは有名な話です。それは良い先生や学校を求めたのではなく、日々生活する環境を求めてのことです。人間が変わっていく過程において最も大事なのは、良い影響を受けられる環境に身を置くことです。企業教育という意味では、良き企業文化を確立していないところに、経営者が教育について発言し、教育にお金を投じても、資格を取らせても、良い社員は育たない。横になってお菓子をボリボリ食べながらお笑い番組を見ているお母さんが、子供に「勉強しないと良い大人になれないわよ」と言うのは、しょせん漫才にしかなりません。10年前から業務の中身に触れなくなった管理職が、現在起きている変化も踏まえずに「現場」とか「改善」と会議で発言しても、逆効果になるだけです。教育とはそんなものです。立派な人間が立派なことを言うことが教育ではありません。「私は立派、あなたはダメ。だから聞きなさい」という意識を持った瞬間、教育は偽善になってしまいます。』「人は環境によって育つ」とは、よく言ったものです。子供のスポーツクラブに関わって20数年。いろんな親が子がいました。いいセンスしてるなと将来を楽しみにしていた子が、上達が止まり、やがて去っていくという残念なこともたくさん経験しました。その原因のほとんどは親でした。「これだけ練習してるのに・・・」「あんたのために、どれだけ犠牲にしてると思うのよ」わざわざ言わなくても、子供はちゃんとわかっています。そういう言葉に辛くなって、笑顔が消えていきます。親御さんの熱心が、言葉に出てしまうのです。叱咤激励しすぎるのです。これが、他の親やコーチからなら、世間の厳しさを体験するだけで、大丈夫です。一番好きで、一番信頼している親からだから、逃げ場は自室に閉じこもるしかありません。これが私でした。スポーツ、習い事、趣味、勉強・・・子供にできるだけいい環境を提供して、笑って見ていたら結果はいずれ出るものです。結果が出ない日々が続いても、それに一喜一憂せずに、打ち込んでいるものやしなければならないことが、より好きになるように、出来たことを褒め、じっと待っていればいいだけです。結果が出なくても、それは子供の責任ではなく、持って生まれたタレントの多寡だけのことと達観していたらいいです。次男は、3月28日生まれで、何でも一番出来ない子でした。おまけに身体も一番チビ。子供が生まれる前から、子供のスポーツクラブで、他の親子を見ていたので、自信を失うような言葉は絶対に言わないようにしました。他の子と比べると、一番ダメなのは一目瞭然なので、前の彼との比較でできたことを話題にしました。ヨットも始めて4年間、同学年でいつもビリ、2年下の子にも抜かれることもよくありました。でも、でも、「面白かったね」。「面白い」「楽しい」だけで続けていたら、中学生になってブレイクしました。ピアノのように、ブレイクせずに辞めてしまったものもありますが、「もう辞める」と言ってきたとき、特に引きとめもしませんでした。いやなものを続けても苦痛なだけですから。教育というのは、教えを強いるのではなく、教えを育むことで、育むという漢字には自発的な意味があるように思います。昨年11月から、義理母が日に日に衰え先が見え始め、父も同じように病院で衰えて行きました。日曜日に両方を見舞う日が増え、自分の暗い部分が頭がもたげてくるのに、自分を情けなく思っています。家内の母親の手足をさすり、「あれ、これできたやん」とか励ます言葉が自然に出るのに、父を訪れたとき寝ているとホッとしたりするんです。次男の全日本の写真をポロの方から買ったのも、義理母の病室に飾ったらいいんじゃないかなと思ったから。そうか、父の病室にもいるなとプラス1。涙もろい私は、義理母が亡くなったときは、第一報に泣き、お通夜でお葬式で、何度も涙が溢れてきました。でも父の時は、悲しいという感情が湧いてこないのではないかと、たぶん湧かないのだろうなと、自分の薄情さに恐ろしいものを感じます。喪主としての役目を淡々とこなしているだけの自分が想像できます。将来、母のときがきても同じなのではないだろうか?給料は半分以下になったけど、会社を辞め独立し、両親のそばに住み、孫がいる生活をしてもらおうと・・・私なりにがんばったのに・・・失敗に馬鹿だと言われ、ろくでなしとまで言われた。社会人になって20年も経ち、子供を大学生に出来たのに・・・まだ言われる・・・父の入院にしても、母が家で面倒をみれないというので、今のところを捜し、手続きなど・・・みんな僕ら夫婦がしてるのに・・・たった一言、「ありがとう」とか「世話になったね」だけでいいのに・・・病院のあそこがあかんとかマイナス点を言う。それを聞いて、僕らが責められてるように感じる。「愛情というものは見返りを期待するものではない」というキリスト教の教えは理解しているつもりなので、「・・・してるのに」と思ってしまう自分が恐ろしい。義理母より父や母に、よっぽど大きな恩を受けているのに・・・これが私の生涯の一番深いコンプレックス。わが子との親子関係を大切にしようとしてきた根にあるもの。この日記「こころのポテトサラダ」の根にあるもの。
2007/01/20
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明日は大学入学センター試験と関西の中学受験統一受験日です。大学受験は、私たち夫婦も子供達も本人の問題なので、あまり思い出というものがありませんが、中学受験はいろいろ思い出が詰まっています。私たちの頃は、何処の学校も1回だけのテスト機会で、しかも同じ受験日でしたから、一発勝負で単純でした。私も家内も合格をもらったので、それはそれでよかったのですが、不合格でも、半分以上の人が不合格になるので、それほどショックも大きくなかったのではないかと思います。でも最近は、受験機会が増え、大学入試同様複数回受験するので、不合格が重なってくると家族みんなの気持ちは重くなるし、全て不合格で公立中学に通うことになったとき、他の子からの視線が気になったりするようです。子供はまだすぐ慣れるのでしょうが、親の方が尾を引くと聞きます。長男の時は、初めての受験生の親で、家内も気合が入っていました。塾に勧められるまま、5校受けて3勝2敗でした。前受け校として初めに受けた2校は、遠い学校で受かっても通える距離ではなく、入学の意思はありませんでした。ここは、1勝1敗でしたが、1敗は彼にはレベルが高すぎる学校なので、不合格は折込済みでした。次が本命校で、兵庫県の統一受験日でした。塾の志望校特訓クラスでもいつも安全圏の席次で、塾からも太鼓判を押されていました。でも、ここでまさかの敗戦でした。本人はもとより、親もショックでした。元は私の通った学校を第1志望にしていましたが、長男はそこを突き抜けてその上の学校を受けると言い出しました。さらにそこも突き抜けそうで、塾からは天下の灘中学受験を勧められました。私の小学校の同級生で灘に行った子がおり、入学後のことを通学の電車などで聞いていたので、あまりに自由すぎるのではないかなと思いました。本人も不合格にはなりたくないようで、1つ下を受けることを希望しました。そこをまさかの敗戦です。自分の情けなさに腹が立つのか、その日は大変でした。残るは2校です。どちらかに合格しないと公立中学に通うことになります。数年間、塾でがんばってきたので、公立には行きたくないようです。不合格の日から必死に勉強し、5校の中では一番レベルの低い学校に合格しました。制服採寸の日がすぐあり、夫婦と長男で学校を訪れました。採寸中も、どうも長男は気持ちが乗っていません。そして最後の学校の受験があり、大阪では2番目のレベルの学校の後期試験に合格しました。受験生の親として、最初の学校受験から最後の学校合格発表までのこの10日間ほどで、いろいろ学びました。ハードな10日間でした。家内はこれに懲りてしまって、次男の時は、受験日も合格発表も私がみんな付き添いました。母親は子供と近い分、いろんなことに耐えている子供を見ていられないのかも知れません。自分も受験生だったのに・・・とも思いますが、母親になるとまた違うのでしょうね。次男は、お兄ちゃんの受験の様子を見ていてか、性格なのか、それほど高いレベルを狙いませんでした。塾に上のレベルを勧められても、「僕、別にいいから」みたいな感じでした。兵庫県の3番目の2校のうちの1つ、私が通った学校とは違う方を受け、大阪では、4番目の学校を受けました。私たち親が、通うことがない前受け校の受験を敬遠したこともあり、2校だけの受験で両方合格しました。そして、ヨット部があるという理由で大阪の学校に進学しました。大学は、2人とも2校受け、4勝でした。今思うと、長男は不本意な入学で次男は希望した中学に進んだわけですが、彼らの6年生のレベルから言えば両方とも、ちょっと余裕のある学校でした。これが、入学後の余裕に繋がったように思います。2人とも学業の他に、スポーツクラブやアルバイトも経験し、勉強オンリーにならなかったのは、ちょっとアドバンテージがあったからではないかなと思います。長男は30番ぐらいで入学し、70番ぐらいで過ごし、大学受験に向けて勉強し始めた高校3年から成績が伸び、受験前に1月の試験では2番でした。次男は、入学した中学の前期試験では若干名となっていた一番上のコースに合格しました。後日先生に聞くと1番で入学したそうです。彼は、誕生日が3月28日なので、保育園の時から常に一番出来ない子で過ごし、身長も小学校6年間で1年だけ学年で2番目になっただけで、いつも一番チビでしたし、家でも活発なお兄ちゃんに圧倒されて、人について行くタイプでした。それが、いきなりトップレベルで入学し、俄然自信がついたようです。彼に自信をつけさせようと、私が学生時代やってたヨットでサポートしましたが、これもクラブの同学年5人のうちで5番目で、思うように行きませんでしたが、中学生になるとヨットの方もグングン上達していきました。結局高校卒業の時は9番でした。スポーツで、小学生や中学生の子供と関わることを続けていると、中学受験をしようとしている親御さんと、そういう話をする機会があります。私もかつてはそうだったので、切羽詰って必死な感じが伝わってきますが、中学のより偏差値の高い学校に入らなくても、それほど大きな問題があるわけではなく、入学してから、どれだけ学校が好きになり、先生を信頼できるかが、次の大学受験の結果に繋がる気がします。今夜は、中学受験の親御さんは眠れない夜を過ごすのかもしれません。でも、どんな結果になっても「大丈夫」。「大丈夫なんです」
2007/01/19
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今年もまたこの日が巡ってきた。1月17日。あれから10年経ったが、鎮魂の灯火は、いつもの場所でいつものように灯されていた。不二家さんの不祥事がマスコミを賑わせているが、フランチャイズ店がどうなるのか、かわいそうに見ている。健康被害がなかったようなので、それだけがせめてもの救いかなあと思う。あの日の当店の様子と、少し重なって見えてしまう。ひどい揺れだった。寝ていたので、ただ布団を被って身を小さくするだけしか出来なかった。TVは台ごと動き、家具や水屋から、本や食器などみんな落ちて、家の中を靴を履かないと危なくて歩けないほどになった。身体の上にたくさん棚のものが落ちてきたが、結婚する時に家具屋さんに勧められて買ったドイツの家具はビクともしなかった。天井までの高さがあり、天井との隙間も同質の板で目隠しするので、動きようがない。家具が倒れなくて命拾いした。ようやくゆれが収まって放心状態で暗い闇に目を凝らす。「みんな、生きてる?」長男の声が家に響いた。返事のなかった次男の部屋を見に行くと、布団を被ってガタガタ震えていたが、怪我はないようだった。急いで火の元を確かめ、両親の家で無事と火の元確認。ついで、バイクに乗り、店を次々回った。2軒はシャッターを開けて、懐中電灯で照らしすぐ閉めた。1軒は表のガラスが割れて浸入できる状態だったので、落ちていた木で何となく塞いだ。すぐに家に戻り、両親も含めて冷蔵庫にある物で朝食を取り、対策を練った。対策といっても、家内と長男と私の3人で店の片付けに向かうしかない。従業員さんが来てくれるかどうか分からないし、電車通勤の方は、無理に決まっている。家族で何とかするしかない。しゃべらない次男と両親で2軒の自宅の片付け。シャッターを開けても第一歩が入れない。1人で、道路に商品を出しながら、店奥への道を確保する。吹っ飛んだレジやPCは大丈夫なのだろうか?駅前の惨状を見に人が増え出した。「ここもひどいねえ」と店を覗き込む人。「手伝いましょうか?」と親身になってくれる人。「これ、売ってください」と、道端の商品を持ち上げる人。いろんな人がいた。「いくらの損害になるんだろうか?」「果たして再開できるのだろうか?」「地域の可処分所得が減るから売上減は目に見えている」「次男は大丈夫だろうか?」「家は安全に住めるのだろうか?」いろんな思いが心をよぎる。1人で、野次馬的な目や言葉を強いて避けて黙々と作業していると、ろくな考えが浮かばない。心細い。家内からは、「絶対に昼に一度帰って来て欲しい」「食事は両親も含めて家族全員で毎食取ること」これだけは約束してと言われた。次男が赤ちゃん帰りしてしまった。電気もガスも水道も止まった数日、暗い部屋で次男をまん中に家内と3人で川の字で寝た。数千万の被害を取り戻す日々が始まったが、二重返済に陥って生活が壊れ、夢を失った人も多いと思う。こんな時こそ、他の予算を削って、集中的に被災地や被災者に被害額に見合うほどの援助だ出来ないのかと思った。これは貯金に回る性質のものではなく、地域のお金の流れが増えて経済が活性化する性質のもの。仕事が増え、被災した人の心は、仕事が支えてくれる。あの当時の事を思い出しながら、不二家がフランチャイズ店にいち早く休業補償する方針を打ち出したことに好感を持った。不二家のブランドが傷つき、会社自体の存続も不透明だが、実際に全額補償できなくても、この気持ちは加盟店の家族にとって、大きな力になったと思う。きっと、店の再開や、新たな商品開発への意欲に繋がったと思う。私企業ができるのに国が出来ないはずがない。天災が起こり、仮設住宅の映像が出るたびに、ドカンと保証したらどうだと国に思う。きっと「国を愛する心」「隣の人を助ける心」が、心の内から湧いてくると思う。親が、親孝行を言葉で強要しても真の心は生まない。家族の歌を歌わないことが親不孝として、罰則を加えて歌うことを強要して、何が生まれるか・・・反発しかないと思う。イラクで人質になった子供に向かって、自己責任を盾に糾弾して、国への求心力が生まれるのだろうか?池にはまって助けを求めている我が子に向かって、「何故落ちたのか」を吟味してから、手を伸ばすかどうか考えるのは変じゃないか?事情はどうあれ、まず助ける。そして、原因を探り再発防止策を講じるが、必要以上の糾弾はしない。普通の人なら、ありがたいと思い、自分の行動を振り返り反省すべき所は反省する。そして、自分が助けられる人が周りにいたら、その人に自分の受けた恩を返す。こういう社会になればいいなと思う。かつての農村や山村、そして今のこうなんじゃないだろうか?
2007/01/18
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重松清の「小さき者へ」という本を読んだ。不登校で母親に暴力を振るう長男に対し、父親が自分の14才の頃を振り返って、当時の学校での様子や思い、父親への思いを手紙に書く。会社での自分の立場も、そのまま書いていく。長男さんは読んでいるのかどうかわからない。父親を理解しようとしているのかどうかわからない。息子への手紙を書きながら、父親は自分の過去を振り返り、自分と対話しているのかもしれないと感じる。14才のとき悪さをして父親に見つかった。その時、父親は「ようわからん」と言って、何も叱らなかった。「俺は学がないから、ようわからん」がいつもの父の口ぐせ。そんな父を馬鹿にしていた。自分は、「鳶が鷹を産んだ」と言われるように、何でも出来た。優秀な大学を出て、超一流企業に勤めて・・・でも今会社の将来が危ぶまれ、リストラと言う名の人員整理に応募するかどうか迷っている。勉強はできたが、負けを知らず、1人で生きていく度胸がない弱い自分。妻が言うように、息子の事から、逃げていたのかもしれない。「何ができるとも言えないが、ドアをノックするので、出てきてくれ」と手紙の最後に書こうとしている。これを読みながら、14才というのは、いろいろあることが普通なんだなあと思い返す。犯罪の低年齢化が進み、罰則の軽いのを逆手に取ったような犯人もいるだろう。きちんとした、被害者にも見える審判を望むが、それでもなお大人と同じ罰を、この年齢の子に与えるのには反対です。自分もとても揺り動いた時期で、2人の子でも体験したから。長男が何年もがんばって合格を得、機嫌よく通い出した中学で、2年に進級した5月、近所のお客さんから「お宅の息子さん、公園にいてたようだけど・・・」と連絡があった。家内が確かめに行くと、長男は公園のブランコに座っていたそうだ。家内は、声をかけずに様子を見ることにした。しばらくすると、再び自転車に乗って行った。学校から欠席の連絡がないので、学校には行ってるようだ。それを聞いたとき、長男に何故なのか聞こうとした。すると家内が、「もうしばらく様子を見ましょう」と言い、それに従うことにした。次の週も同じ曜日、公園にいた。そして、しばらくすると学校に行ったようだ。「何か考えがあるのよ。大丈夫。何も言わない方がいいわ」と家内は言う。家内が担任と連絡を取ると、その先生の授業のある月曜日の1次限目だけ、毎週欠席しているのが分かった。担当は古典なので、私も最も苦手だった科目だったこともあり、「よく分からないからかなあ」と思った。でも、分からない科目だって、だからと逃げ出す子ではないのは知っている。とても明るい子なので、ひどい点数を取って来ても「わからんわ」と笑いながら言うのが彼には合ってる。大体成績の事で今まで怒ったことがないのだから、親に知られても平気なはずだ。そして、1学期の終わりに3者懇談があった。1年の時は、私が家内に頼まれて学級懇談に行っていたので、私が行くものだと思っていたら、長男からの要望で、「絶対お父さんは来ないで」ということだった。3者懇談から帰ってきた家内からの第一声は、「あなたが行かなくて良かったわ」だった。「あなたが行ってたら、先生と喧嘩してたわ」「こんな成績では、地方の国立止まりだ」と、本人を前に成績の事をきつく言われたようだ。本人は、頭を垂れたまま何も言わないし、私も自分の子供をこのように言われて腹の中が煮え繰り返ったわ、とのことだった。たとえどんな成績でも、我が子をそのように言われて黙っている父親ではないと、あなたの事をそう思ってるから、3者懇談には来るなと言ったのね。「あなたは会話が減ったってがっかりしてるけど、しっかり性格を把握され、いつでも自分の味方だと信頼されているわね。あの先生の授業ボイコットで、あの子なりの抵抗をしてるのよ。担任である1年を何とかやり過ごそうとしてるときに、あなたが先生と喧嘩しちゃったら、ややこしくなるだけだと、自分のこともあなたの事も考えてるのよ。大丈夫、あの子は賢いから、古典が全く分からないようになるまで休まないわ。心配せず、任せておきましょう」と家内に言われた。長男からは、新米パパの心得を数多く学んだ。彼によって、私は初めてパパになり、初めての1才の子を持つパパ、初めて10才の子を持つパパ・・・いつまで経っても未知の新米パパ。親子関係の大切さを教えてもらった。小さな時は、躾と称する叱りのマイナス面を学び、体罰は最悪最低の躾だと想像させてもらった。失敗や悪さに、迷惑をかけたよその人には共に謝りに行くが、本人は赦し、大丈夫だと励ますことを学んだ。親が子供を徹底的に信頼することで、子供が元々持っている親への信頼を裏切らないようにする。こういうのが居心地のいい家庭を作り、最も大切なことを次代に伝えるエッセンスだと思えるようになった。14才で世間から見れば、不登校や引きこもり、授業ボイコットなんて、悪い子・弱い子・変な子の代表なんだろうけど、子供なりの論理があると思う。よその人には分からない、赤ちゃんの時からずっとそばにいる親だからこそ感じるものがあると思う。親が世間様に対する自分の体面を気にして、世間様と同じ対応をしてしまっては子供は救われない。子供を肯定し、必ず再生すると全面的に受け入れ、一緒に歩く気持ちがあれば、時間がかかっても必ずまた歩き出すものだと思っている。
2007/01/16
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日曜日は、また法事でした。クリスマスに家内の母が亡くなって以降、毎週実家に帰っています。今回は三七日(みなのか)ですが、来週の四七日(よなのか)に行う「仕上げ」と称する死後1ヶ月後のみんなで集まる行事を、兄が来週抜けられない仕事があるので1週間早く行うことになりました。金曜の夜に東京から帰ってきた長男も含め家族4人で、まず隣町のおばさんの家に寄り、中国道を使って実家へ。車の中で、助手席の長男の最近の様子を聞きました。飛行機で飛び回っているようで、週2回出張すれば4回も飛行機に乗ることになるので、マイルが1年で10万円も貯まるようです。でも飛行機ではPCを開くことが出来ないので、大阪などの出張の時は新幹線で、車内でPC仕事をしながら移動するそうです。山の中にある広島空港は不便なようで、この時期路面凍結もあり広島市内に入るまでに通常でも1時間かかるから、難儀するそうです。それに対し、福岡空港は市街地に近く、北九州空港の最終便は夜中の0時過ぎにあるそうで、大変便利だそうです。まだ仕事をし始めて1年も経っていないのに、いろんなことを知っています。実家の近所のいつものお寺さんを借りて、そこに遺影などを持ち込んで、お経を上げてもらいます。親戚が二十数名集まりました。うちの親戚が関東ばかりで、どうしても疎遠になる分、こちらの親戚とは親しくさせてもらっているので、いつものメンバーです。本堂に入ると、椅子が並んでいます。畳にパイプ椅子では雰囲気が出ませんが、この椅子は木製で足が低く、いい感じです。皆さんそれを見て、「いやあ、これええわあ」と口々に言っておられました。私もホッとしました。法事の何が辛いって、正座です。正座さえなければ、法事も随分違ったものになるだろうと思います。最初は厳かな気分だけど、しばらくすると、足の痺れとの戦いが始まります。お尻をちょいと浮かせたり、微妙に体重を右や左に移して、一刻も早くの終了を願っているだけになってしまいます。最後はいつも、果たして再び歩けるのか不安になるほどです。その後、みんなで近所の料理屋さんに繰り出します。長男は、適当な時間にここから直接東京に帰るようで、車の中で着替えます。それを待って車を閉めようとすると、黒服が無造作に・・・「たたむぐらいしたらいいのに」とも思いましたが、何故か息子2人とも、自宅では「脱ぎっぱなし」が恒例なので、仕方ないなとハンガーにかけて車に吊ってから店に入りました。これ、家内に対する甘えのように思います。自分の部屋の衣類はちゃんと片付けてあるし、整理整頓も普通にやってます。次男の部屋は、男の子の部屋とは思えないほどきれいになってるし、下宿する時も不安はありませんでした。男は適当に抜けてるぐらいがちょうどいいなんて思っています。女性に小言を言われながら、私がいなければ、なんて母性本能をくすぐるぐらいが、世の中平和な気がします。ってこれは、私の言い訳を書いているのかもしれません。1つの座敷に、テーブルが4つあり、足元が掘りごたつのように掘られています。適当に座り兄のお礼の言葉から、歓談の始まりです。美味しい料理が次々出てきて、腹いっぱい食べることが出来ました。ここで一番盛り上がっていたのは長男のいるテーブルです。ほんま彼がいると、場が盛り上がります。くだらない冗談を言うわけでもなく、太鼓持ちのように相手に全部合わせている風でもなく、自分が心底楽しんでいる感じです。自分が一番笑ってるのが、周りを巻き込むのかもしれません。これを小さな子から、お年寄りまで、どんな相手にでもできるのは天性のものとしか言えませんが、誰から受け継いだのか、彼をしのぐような人は周りにはいません。強いて言えば、小さな時から何でもやりたがり、何にでも立候補するのに、何も制限するような言葉を言わなかったからかもしれません。たまたま持って生まれた性格が、そのまま伸びただけのようです。途中で帰るために辞す時も、最初に喪主である兄夫婦に挨拶をして、各テーブルに途中で辞す非礼を短くはっきりと詫びて回ります。長男の株がまた上がっているようです。見合いの相手でも頼もうものなら、おばさんたちがたくさん話を持ってきてくれそうです。彼が会社を受けるときの特技欄に、「宴会隊長。どんな場でも盛り上げられます」と書いていたのには、驚くと共にあきれましたが、彼を採用した会社は、仕事以外にこの特技を重宝していると思います。義理父方の親戚に反対の隣町のおばさんがおり、帰りは2つの隣町を回り帰ってきました。
2007/01/15
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昨夜、家に戻ると見覚えのある長男の靴が玄関にあった。「あれ?帰ってるの?」「ええ」「法事だからかな?」「そうよ。日曜日は、おばさんの家に寄ってから、おばさんを乗せて行ける?」「ああ、行けるよ。お寺さん、10時半だったよね。じゃあ・・・」と、おばさんの家に行く時間と、うちを出発する時間を決めた。食事をしていると、長男が2Fから下りて来た。「お帰り」どっちも「お帰り」だから、何か妙です。風呂から上がり、いつものようにヨーグルトとスプーンを抱えて2Fに上がると、長男がTVを観ていた。「あっ、下行くわ」って、下のTVに移動していった。次男は、誰がいても平気なようだが、長男はこれはという番組を見ている時は、1人で没入したいようだ。『Shall we dance?』のハリウッド版が流れていました。そうか、今日はこれだったのかと、もっと早く見なかったのを残念がりながら、いつもの事だが最後の30分観ました。これは一昨年、家内と一緒に映画館に観にいった。そして、オリジナルの日本版の時は、家族4人で観にいった記憶がある。何度観ても、いい映画です。ハリウッド版の時は、その前の月が家内の誕生日で、『ネゴシエーター』だったっけ?「大捜査戦」シリーズで、ユースケ・サンタマリアが恋人に指輪をプレゼントするシーンに惹かれて、劇場でバースデー・プレゼントを渡したように記憶している。その前に一度1人でこの映画を観て、いつプレゼントを渡すのがいいかいろいろ考えた。やっぱりラストに近い、この指輪のシーンで渡すのが、一番効果的だという結論に達したけど、結局映画が始まる前のどうでもいい話をしている時に、渡してしまったな。昨日の映画で、奥さんが働いているデパート売り場に、正装したリチャードギアが1輪の真っ赤な薔薇を胸に、エスカレーターから上がってくるシーンを観ながら、「う~ん、かっこいいなあ」。真っ直ぐに奥さんの手に薔薇を渡し、「僕の一番大切なものは君だから」みたいな台詞に、「かっこよすぎる!」と自分とのはるかな違いを唸りながら思った。たった30分の映画でしたが、家内へのいろんなプレゼントシーンを思い出しました。プレゼントは、もらう方より、あげる方がはるかに楽しいように思います。その証拠に、もらった物はそれだけだけど、あげた物をあげるまでの作業の思い出が深く残っているから。プレゼントの品を考え、シチュエーションを考え、そういう作業が人生を豊かにするように思う。そして何より、そういう相手に恵まれている事を幸せと言うのだと思う。家内からのプレゼントで、一番嬉しかったのは何だったろう?最も役立ってるのは、セーターです。今日も着ている、何故かとても温かい毛糸のセーター。手縫いのような器用なことは家内には出来ないので、デパートで買ってもらったものだけど、学校を卒業して最初の冬、当時東京に暮らしていたが、私の誕生日に合わせて新幹線で家内がやってきた。一度行ってみたかった「山手のドルフィン」で、2人でお茶を飲むべく、横浜に向かった。横浜のデパートで、「プレゼント買ったげる。セーター売り場に行こう」と言われて、店員さんに「これは値打ち物ですよ」と言われて買ってもらった。本当に値打ち物で、あれから今まで、冬になると毎日のように着ている。12月に入り、冷え込んできたら「あのセーター何処にある?」と言えば、家内が出してくれる。大抵3月に入り、温かくなるまで、洗濯のために時々別のものに代わる他は、ずっと着ている。このセーターは、ユーミンの歌のように、山手のドルフィンから海を見ていた家内と私を思い出す記憶装置でもあります。嬉しかったプレゼントは、ヘリーハンセンのヨット用ジャケット。今は、ヘリハンの服が街着としてヨットを知らない人も着ているが、学生時代は、ヘリハンを見ると、「ヤツもヨット乗りか」と街中で妙な連帯感を持ったものだ。学生時代、海への行き帰りによくこれを着ていた。ヨットに乗る時は、もっとヘビーデューティーに耐えられる別のヘリハンやもう捨ててもいい服を着るが、艇庫や浜などにいる時これが重宝する。完全防水なので、汚れても水洗いだけでいいから、便利なのだ。このジャケットが結婚してからまだ数年のある日、クリーニングの袋に入っていた。「あっ」と思った。慌てて袋を破ったが、やはりダメだった。綺麗にはなってたけど、完全防水から生活防水ぐらいになってしまっていた。家内はそういうことを知らないから怒れないけど、残念でならなかった。「どうしたの?」と家内が来たので、「ヨット用のは防水糸が使われていたりして、1回これをやっちゃうといくら防水処理しても元に戻らないんだ」と教えてあげた。「汚れていたから・・・」「ごめんなさい。もう捨てようか?」と訊かれ、「学生時代の記念だから、捨てないで」と答えた。学生時代のヨット部の記念として、このジャケットともうボロボロで使用に耐えないライフジャケットが残してある。何処のレースにも一緒に参戦した戦友です。この後、家内が色違いでもっと良くなってる同じ物をプレゼントしてくれた。その頃には、ヘリハンのロゴを付けた街着が売られるようになっていたけど、機能が全く違う。家内は休みの日に、ヨット屋さんに問い合わせて、私から聞いた乏しい情報とだめになってしまった実物を手に、説明したのだろう。お店に出向いたのだと思う。家内にとっては、やっとこさの購入だったと思う。品物より、その気持ちが嬉しかった。「何処で・・・」何てこれを手に入れた苦労話を聞こうとは思わなかった。「ありがとう」これでいい。私のプレゼントに至るプロセスをしゃべろうとは思わない。苦労話をしてありがたがってもらいたいなんて思わない。「ありがとう」と笑顔がったらそれだけでいい。そして今、それを使っている。でもやっぱり、一番のプレゼントは、「・・・赤ちゃん、出来ちゃったみたい・・・」の言葉だったかな。と、結局、『Shall we dance?』を観ていた長男に戻ってしまった。婆ちゃんの法事に、東京から当たり前のように帰って来る子が、家内からの最高のプレゼントだな。日曜日は、家族4人で家内の実家に出発だ。
2007/01/13
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ここ数日、NHK金曜ドラマ時代劇DVD「蝉しぐれ」を観ていました。全部で7話あるので、3日間続けて全遍通して観ました。何度も再放送されていますが、映画のように2時間でお終いというわけではないので、いつも半分観れなかったりで中途半端になっていました。そこで一念発起、と大げさではありませんが、買ってしまいました。NHKらしく、原作に忠実に作られており好感が持てました。NHK土曜ドラマ筆頭に、小説を映像化する時のNHKの素直さが好きです。近年いろいろNHKは叩かれていますが、スポンサーに意向に左右されない経営基盤を持つNHK養護派です。7話連続で観て、映画の方がいいなと思いました。出演者は違いますが、製作者は、金曜ドラマも映画も同じ方です。ドラマが好評だったので映画が作られたのだと思いますが、時間の関係で小説から落ちている部分が多いですが、映画の方が濃縮されている感じがします。それとお福さん役の違いが大きいかもしれません。映画では木村佳乃さんで、「この人、こんなに綺麗だった?」と驚くほどのものがありました。私は美人に弱いので、これだけで印象度50%アップだと思います。でも作者の藤沢周平自体、どう考えても美人好きと思われるので、生きていればきっと本音は木村さんに軍配を上げると思います。それと、文四郎の父も映画の緒方拳に軍配です。ということで、PCで文章を書く日記を、「目が疲れると・・・」ということで、夜のドラマ鑑賞のため控えていました。昨夜もDVD観たので、今日も止めとこうかなと思ったのですが、新聞をパラパラめくっていると、出演緒方拳に目が止まりました。監督が奥田さんという方なのかと見ると、奥田瑛二さんなんですね。監督第3弾・・・俳優とばかり思っていたら、最近は映画監督もしてるんですね。そして、この映画には、原田貴和子さんの名前も出ていました。「うわぁ、懐かしいなあ~」『私をスキーにつれてって』の原田貴和子さんです。私的には、主演の原田知世さんより、数段光ってました。美人だし、明るい感じが溢れているし、あの映画の役が、主演の三上さんを高校時代からずっと片想いしながら、何の裏もなくライバルの原田知世さんを応援するおいしい役です。まだ役者さんやってたんだなあと懐かしかったので、PCで原田貴和子って入れてみました。すると驚愕の真実が判明しました。何と、『原田貴和子は、原田知世の姉だった』あんたアホか!と言われそうですが、今まで全く知りませんでした。「え~、似てる~?」ということで、本日の日記を書かなければならなくなりました。きっと40才以上でないと分からない話題ですね。ごめんなさい。
2007/01/12
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成人の日が8日だったのですね。最近は、ハッピーマンデーとかで、日にちが決まっていた祝日が、日曜日にくっついてしまって、訳が分からなくなってきました。連休になる方が、お金を使うから経済が活発になるとかで、そうなったように思うのですが、やっぱり10月10日が体育の日がいいです。最近の成人式は、一部の市で荒れるのが恒例のようです。市長さんが、演壇から怒っているのが紹介されたりしましたが、式典自体が新成人にとってはつまらないものになっているのでしょうね。私の頃は、それほど多くの20歳が式典に足を運ばなかったのではないだろうか?私自身、式典に出席して市長さんの話を聞くことに、意味を見出せなかったので、夕方からのバイトに備えて寝ていたように思います。家内も実家の仕事を手伝っていて欠席したようです。でもうちの子供達は、2人とも出席しました。次男なんて、わざわざ前日に下宿から戻ってきました。中学から私立に行ったので、小学校時代の友達と会う機会と捉えていたようです。最近の荒れる成人式を見て、お膳立てされているものに対する反発みたいなのも感じます。そこで、もし私が企画担当者ならどうするだろうか、考えてみました。祝われる新成人に、大きな権限を委譲して、企画立案実行を新成人自身に任せる。大きな町なら、小学校単位で、その年の担当を決めて、翌年は隣の小学校、次はその隣というように、必ず担当校が回ってくるようにする。1/2成人式と称して、担当小学校の10才の子達を式場に入れる。自分達がやるスタイルにして、小さな子が見ている式にすると、荒れる式典の抑止になると思う。さらに、こういういわゆるお祭は、参加者より準備者の方が、絶対盛り上がり愛着を持つので、町全体が盛り上がるように思います。これは、小学生の時の盆踊りで体験したことで、親父が商店会の役をしていた関係で、やぐらの組み立ての横で、提灯の準備をし、大人が忙しい昼過ぎから、提灯をぶら下げていました。数人の子供達で毎年それに駆り出されましたが、これをすると、盆踊りの最中でも、やぐらの紅白がほどけていると気になり、電球が切れた提灯を下ろして電球を替えたりするようになりました。これには、あとでご褒美があり、婦人会の売店とかでジュースをただでもらうことなど、僕らの盆踊りに非常な愛着が持てるようになりました。夕方盆踊りの始まったばかりの時間帯は、音に比べて踊る人が少なく盛り上がりません。そうなると、自分達だけで踊り出し、大声で合いの手をいれて盛り上げます。しばらくすると、段々踊る人が増え、お役ご免とばかりに、親に小遣いをねだりに行きます。これは普遍的なもののようです。子供のヨットクラブに、入りたての親御さんは、朝子供をクラブに連れてきて、「よろしくお願いします」みたいなところがあります。そういう人が多くなると、コーチの負担が増え、コーチが休むと練習ができません。そこで、こういう親御さんに、「レスキュー人数が足らないんですわ」などいろんな口実を作って、何かを手伝ってもらうようにします。ヨットは海のスポーツで馴染みがなく遠慮がちになりますが、段々役割を広げていくと、ボート免許を自ら取ってくる親が出てきます。他クラブ主催のレースに行くと、運営の手順がどうのこうのと文句を言う親がいます。それを防ぐために、最初はコーチボートに乗ってもらい、次は運営の手伝いに出てもらいます。主催クラブの方々が中心になって、自分も走り回ることで、文句は出なくなります。多少不手際があっても、仕方ないねという気持ちになります。そして次は自クラブ主催レースです。どんな小さな端役でもいいから、全員責任者になってもらいます。ホストとして他クラブを迎えることで、ジュニアヨットに流れる、大げさに言えば文化というものを自分のものになさいます。子供のスポーツを通して家族で楽しみ、クラブみんなで楽しむ。同じスポーツが好きな、日本中の家族と楽しみ、世界の同好の者と楽しむことです。海外レースの引率者になった時や、全国理事として海外レース参加チームを立ち上げる時は、全員の親を何かの役につけます。航空券手配からチームホームページ、海外選手との交換Tシャツ手配やお土産、国内合宿場所の確保、それにチーム会計・・・いっぱいすることがありますので、それを最初に全部披露して、「こんなのみんなでやらないと出来ないよ」と投げかけると、得意な分野の手が上がり、競争のように精力的に動き出し、引率者はどんどん楽になります。人は、自分以外の人のために動いていることが、嬉しい生き物です。精力的に動かれる方ほど、笑顔になり、結局一番楽しまれます。もしそれを、引率者がみんなしてしまえば、必ず参加者から文句が出ます。人とはそういうものです。市長さんが、演壇から「こら~」って大声を張り上げるのは、「市として、おまえらのために、これだけお金を使っているのが、わからんのか」という言葉が裏にあると思います。でも暴れる成人には、やってないんだからそのとおり分からないのです。それが見えておらず、押し付けとしか写らない人もいます。出来上がった会場にポッと来て、事前の苦労がわかろうはずはありません。分かってるのは、この日のために自分たちが準備した酒樽の運搬であったり、仲間で出し合った費用だけです。ひょっとすると、警察に追いかけられた時に逃げ切れるように、下調べした逃げ道を見つける苦労かもしれません。車で走り回る新成人には、来賓の送迎の仕事があり、入口で酒を飲む新成人には、鏡割りの酒樽を手配する仕事がある。最初に、これだけせなあかんことがあるねん、協力頼むわと担当小学校の同級生リーダーから全員宛に頼まれたら、これやったらできそうやなというのに手を上げるものです。そして、暴れるほど元気のいい新成人なら、むしろ積極的に手を上げるものです。だって、その方が、絶対同級生の間で目立つし、いいなと思ってた彼女に声をかけるチャンスが増えるはずだから。あかんかなあ、こんなの。
2007/01/09
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日曜日は、家内の実家で義母の法事でした。この日は、ふた七日で、来週がみ七日・・・これから毎週のように法事です。お寺さんの話によると、仏さんは肉体がなくなってしまって、まだ戸惑っているのだそうです。お母さんのおなかに胎児が誕生したように、仏さんもまだ生まれたての仏さんのようで、7日ごとに家族や親族が集まり、お寺さんのお経で、だんだん自分の立場がわかってくるそうです。そして1週ごとに仏さんとして成長するのだそうです。胎児は十月十日で誕生しますが、仏さんは四十九日で立派な仏さんになり、その時大勢で膳を囲み、子供達が争うようにそれを食べることで、仏さんもつられて食が進み、元気で向こうの世界に行くのだそうです。7日ごとの成長は、インドで妊婦さんを解剖して、科学的にその日にちが決められたそうです。「ほんまかいな」と思いながら、シャーマンと科学や不思議現象が一緒くただった時代だろうから、そうかもしれないなと思いました。その後、病院に父を見舞い、ハーバーに向かいました。3日に乗ったとき、船のフュエルゲージが帰路うまく作動しなかったのが気になったのと、ほとんど使わないトイレの水垢汚れが目立ったので、掃除でもしようと思ったからです。航海灯をチェックしたりして、帰宅する前に、新年会をする予定になってる先輩の船を覗きました。うちに加え、D社、K大、R大OBさん達がほぼ同数集まっていました。新年の挨拶をして帰ろうと思いましたが、いきなりジャンパーを持たれ、カバンを下ろそうとさせます。「お~、よ~来た」と笑顔ながら、「失礼します」って明るく帰れる雰囲気ではありませんでした。「まあまあ」と言われながら、中のほうの席に押し込まれ、箸と椀がサッと出てきます。前には鍋が出来上がっているので、1杯だけよそっていただきました。その後、仕事中を呼び出された大長老の先輩が来られ、最後に落語家の林家・・さんがやってきました。この方は、最年少で芸術賞なんとか優秀賞を受賞された方で、将来を最も嘱望されている若手・・・といっても35は過ぎていると思います。近畿と関西の大学ヨット部OB会の横断的組織の事務局をしているR大の彼の後輩で、この会の長老さんがこの方の後援会会長をしているそうです。お2人ともここにいるので、「時間あるか?ほな出て来いや」みたいに引っ張り出されたのかもしれません。「どこかで講演会とかする時は、彼を使ってやってや」と私にも声がかかったので、いろんな仕事の道を作っているのでしょう。この船は、トイレが2つあり、シートが革張りで、中がとても広いです。折りたたみコクピットテーブルが外にあり、温かい日はそこで歓談するのでしょう。我々の船より大きいこともありますが、ワングレード上の船です。盗難防止なのかステアリングが動かないようになっており、ステアリング前のオートパイロットなどのパネルがどのように作動するのか興味津々です。新和歌浦から帆走6時間というのは早いです。
2007/01/08
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大晦日の日。少し早めに仕事を終え、自宅で年越しそばを食べ、お風呂から上がると、子供達が格闘技を見ていました。10時を回っていたと思いますが、元旦のお墓参りに備え、近所のガソリンスタンドに行きました。ここは、もう何十年という馴染みのスタンドでしたが、数年前にはやりのセルフスタンドになりました。以前は、「こんばんは」「窓拭いときますよ」「ゴミありませんか」「オイル見ときましょうか」と、いろいろ会話があったが、人も減ったのでそういうのがなくなってしまいました。タイヤを買うのも、オイル交換も、ちょっと調子が悪い時も、みんなここですんだのに。まあ、おっちゃんが暇そうな時は声を掛けるし、向こうからも声がかかります。私は、人との軽い会話が好きです。よく知らない人だけど、挨拶ができるつながりを大切にしたい方です。そこで、バイクの燃料をセルフで入れるとき、こぼしやすいこともあり、隣の人がいるスタンドも利用するようになりました。話は元に戻りますが、昔からの馴染みのセルフスタンドに、大晦日の夜寄ると、結構車が入っています。水とか掃除機とかが使える車を掃除するスペースで、何台も車を掃除しています。いつものように、ガソリンを入れていると、前のガソリンを入れるところで掃除を始めたミニスカートの若い女の子数人に、店員さんが声を掛けています。しばらくすると、とうとうそのおじさんが怒り出しました。「こら、おまえら、何回言ったらいいねん。ここは燃料入れるとこやから、あっちに動かして掃除してえな」「すぐ終わるやんか、くそじじい。こっちは客やぞ、客にそんな口きいていいんか」「何遍も言うとるやろ、他の人の迷惑も考えんか、ばかもん」・・・私が来る前から掃除してたから、何度も車の移動をお願いしていたのでしょう。とうとう、堪忍袋の緒が切れたという感じです。完全に口喧嘩になってしまい、「くそじじい、はよ死んでまえ」という捨て台詞を残して、お姉さんは出て行きました。おじさんは、顔見知りの私の方に来て「最近の若いもんは・・・」とグチを言っています。「くそじじい」と言われて、ショックだったと思います。定年後の職場という感じの方で、いつも夜いるので、時給のいい夜働かないといけない環境なんだろうなと、想像していました。人懐っこい、話しやすいおじさん、もう年齢的にはおじいさんかもしれません。まだ20才ぐらいの綺麗な服を着たお姉さん達3人の、あの言葉使いには閉口してしまいました。車も多く、ここで掃除を始めたら迷惑だと分かりそうなもんなのになあ。大晦日の夜に働いているおじさんに、「がんばってはるなあ」という気持ちがないのだなあ。これは、セルフスタンドになったことの弊害でしょう。セルフだと、店員さんにガソリンを入れてもらったという感謝の気持ちが湧かない。でも良く考えれば、その分値段を下げているんだよね。目に見えないサービスは、してもらって当たり前という気持ちになってしまってる。事故や緊急の時、無償の手を差し伸べてくれるのは、今隣にいる人だと思うのですが。スーパーに始まって、セルフの店が増えると、人との会話が減り、知らない人に対するちょっとした心使いがなくなっていってるように思えます。ヨーロッパでは、郊外型のショッピングセンターによって、町の中心部の空洞化が進み、車を持たないお年寄りの不便などもあり、出店規制が強化される傾向にあると聞きます。私が小さな時、知らない人に声を掛ける練習をしたのは、お店に買い物に行く時でした。「何処の子?」「偉いなあ、おまけでこれ付けといたげよう。お釣りをここに入れといたから、落とさんように、道草するなよ」みたいなのがありました。魚屋さんには、頭から尻尾まである魚が並び、刺身を注文すると、おっちゃんが目の前で鮮やかな包丁さばきを見せてくれます。買い物も、結構面白かったりしました。こから、知らない人との会話が広がっていったように思います。大晦日のガソリンスタンドで、一見合理的に見えるセルフ化の弊害を見たように思いました。
2007/01/06
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正月2日と3日は、ジュニアヨットの合宿に参加しました。うちのクラブが主催し、地元ハーバーに、九州から関東まで10人以上の選手が集まってきました。昨年全日本の上位40位までの選手が集まりました。この上位40人というのは、3月にある2007年ナショナルチーム最終選考会への参加資格がある選手で、合宿という練習で自分の位置を知るのと、高いレベルでもまれることでレベルアップを図るものです。レース形式の練習もたくさんしましたが、ちょっとしたミスで順位が変動し、トップ艇とビリの艇との差もあまりなく、トップ争いをしていた選手が次のレースではビリ争いという、見ている方には面白く、選手は気の抜けないものになっていました。正月早々から練習している者はおらず、広い海面でヨットはジュニアのみでした。夜のお父さん方のミーティングが面白く、いろんな地方の言葉で、面白い話を披露されます。この辺の選手になると、・・サーキットとか・・サーカスと仲間内で呼ぶレース遠征の日々を送っているので、いろんな所で顔を合わし、気心の知れた仲間になっています。ミーティングと呼びながら、実質飲み会です。仕事が関係なく近所に住んでいるのでもないので、より面白い話が出るのかもしれません。3日は、おだやかな朝があけました。私は、子供が参加しているわけでもないので、より気楽な参加ですから、午前中の海上練習をサボって船で沖に出ることにしました。もう3週間は動かしていないので、エンジンがかかるか不安でしたが、数度セルを回したところで、快調に回り出しました。沖に出てセールを上げ、エンジンを切ると、軽風に乗り、気持ちのいい走りです。順風で、波しぶきを上げながらもいいですが、やはり正月は、このぐらいがいいでしょう。第一、1人なので、あまり風が上がって欲しくないかな。まだそれほど高くない朝日が、穏やかな海面に光の筋を作っています。振り返ると、いつも見慣れた六甲山がいい感じに霞んでいます。神戸港のコンテナクレーンの列が、別の景色に見えるのは、年が明けたからでしょうか。同じようにセールアップして神戸空港の方に向かう船が数艇います。空港を1周して帰って来て、あとは新年会でしょうか、それともそのまま淡路島や四国に向かうのかな?和歌山を目指すのかもしれません。私は灯台を出て、合宿の昼飯に間に合うように、沖の浮標を回って帰路につきました。桟橋に帰って来ると、母校クラブの監督をしている先輩から声がかかりました。この船の係留場所まで走ってきて、私が投げるもやいを取ってくれます。1人で出ると着岸が一番面倒なのですが、楽が出来ました。先輩は近所の神社のお札を、先輩が絡んでいる船に置きに来たようです。さらに別の桟橋から、もう少し上の世代の先輩から声がかかりました。「お~い、1人か。こっちは今から新年会や」桟橋を回って、その船に新年の挨拶に行くと、大勢集まっていました。ここは挨拶だけで退散です。引き止められて、飲まされて、合宿に戻れなくなってしまいます。近所に何艇も同じクラブのOBの船があるという環境は、恵まれているなあと思います。
2007/01/05
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元旦は、ここ数年の定番、家内の実家の墓参りをしました。昨年は、次男がオランダにいたので不参加でしたが、長男と3人で、さらに姉の家族も一緒でした。お墓のすぐ近所に神社があるので、そこに参拝し、おみくじなど引いて帰りました。今年は、家族4人揃って、まず姉夫婦の家に行き、義母の家から移った仏壇のご先祖様に挨拶し、その横の暮れに亡くなった義母に挨拶。食事をしてみんなでお墓に向かいました。かつて2家族でキャンプだスキーだと遊んでいた時は、小さな子が5人もいたのに、2人は結婚し、残る男の子3人も、もう大人になってしまいました。11月のお墓参りで新しくした菊がまだ枯れずに咲いていました。寒いからもったのでしょうか。またお墓を掃除し、いつものように戦地に散った方のお墓を綺麗にし、線香を立ててお終いです。小さな集落の墓地ですが、それでも10近くの墓標があります。横には、戦死された場所や日付が刻んでありますが、半数は終戦の昭和20年の春以降の日付です。神風特攻が本格化し、戦艦大和が片道の燃料だけを積んで沖縄特攻した以降です。8月の原子爆弾の悲惨さを人類が経験したから、以降あのような大戦を抑止したのかもしれませんが、集落としてのミクロを見れば、大きな損失であり、悲しみです。本土爆撃により、コテンパンに負けたことが、以降の武力に訴えない日本国を作ったと思いますが、それでも・・・墓標を読んでいると、長男が横に来て、「ブーゲンビル島か」「ソロモン沖って、骨はないんやろうな」なんて独り言のように言ってます。二十歳とか、今の彼より若い年齢が刻まれているのを、どういう気持ちで読んだんだろう・・・その後、自宅に戻り、私の実家の母を連れて、爺ちゃんの入院している病院に寄りました。母は相変わらず明るくしゃべっていますが、長男は、「おじいちゃん、僕やで、わかる?」。爺ちゃんの何を言ってるのか良く分からない言葉に、うなずいたりしていますが、家族みんなの爺ちゃんへの気づかいが、ヒシヒシと伝わってきます。ちゃんと認識できているのは、内孫で年下の次男だけのようで、長男である私の事もわかっているのかどうか怪しいものです。長男が、「みんなで写真撮ろう」と提案し、次男がカメラを出して、タイマーでパチリ。「おじいちゃん、目つぶってるわ。もう1枚ね」みんな、できるだけ明るく爺ちゃんに声を掛け、病院を後にしました。帰りの車で長男が、「30日に来た時は、僕のこと、ちゃんと分かってたのになあ・・・」って寂しそうです。生まれた時から、隣の家には、もう病気であまり働けない爺ちゃんと婆ちゃんが住んでいた環境で大きくなった彼には、どう見えたのかなあ。その後、次男に「メール添付で写真送ってな」と言ってました。家族、血のつながりを強く感じた元旦でした。
2007/01/04
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