仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2013.08.21
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カテゴリ: 東北
七ヶ浜町の高台に国史跡の大木囲(だいきがこい)貝塚がある。隣接する町の歴史資料館には2度ほど行ったことがあるのだが、この貝塚は、松島湾を望む高台に広がる大規模な縄文遺跡のようだ。

ここから出土したのが大木式(だいきしき)土器で、主に東北南部で出土するものとして、年代を決める編年基準とされている。縄文時代前期から中期にかけて、1式から10式に細別されている。

また、深鉢型のものは新潟県長岡市で初めて確認された火焔型土器(ほとんどが新潟県内に分布する)などの形態に影響を与えたとされている。つまり、縄文時代の土器が阿賀野川流域の会津地方で交流し合っていたと考えられるのである。

会津は古代史を考える上で重要な場所だ。特に、会津坂下地区は、阿賀川に只見川が合流する場所でもあり、文化伝播や物流が古くからあった。「古事記」には、崇神天皇の時代に諸国平定の任務を終えた大彦命とその子建沼河別命が、この地で交流したため「相津」の地名となったとしている。街道の要地だったという背景があると思われるが、実際に会津坂下から山越えして阿賀野川沿いに日本海側の越に向かう越後街道がある。

会津坂下の分岐点に気多神社がある。本社は能登半島の羽咋市にあり、祭神は大己貴命(大国主命)で海上安全の神とされる。この神社は、主に日本海側の越の地に分布する古代からの神社である。

会津坂下で分岐するもう一方の道は、柳津方面に向かう現在の国道252号で、只見川に沿って道は奥に向かい険しくなるが、再奥部で再び分岐して、北関東と魚沼地区に進むが、ここもやはり古代の物流の別筋だった。

大木式土器と火焔型土器の関係は、会津坂下が古代の道の分岐点であったことを裏付けるものである。

■相原精次『封印された「あずま・みちのく」の古代史 東ニッポン歴史再発見』洋泉社、2011年 から(当ジャーナルで要約)

■関連する過去の記事(相原氏上掲書)
明治政府の焼き付けた東北後進論 (2013年8月19日)





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最終更新日  2013.08.21 20:45:52
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