全3629件 (3629件中 1-50件目)
これだっ!と思わずにいられない。河北新報記事だ(5月3日、川村公俊さん署名)。箟岳山焼(ののだけやまやき)だ。概要を下記に(当ジャーナルまとめ)。涌谷町の割烹みうら(三浦嘉彦代表)で、箟岳山焼が提供される。ウェルファムフーズの町内立地工場(2024年稼働)が生産する銘柄鶏「森林どり」と、箟岳で名物だったジンギスカンのタレを再現して組み合わせた逸品。遠田商工会が中心となり、今年3月の試食会では13の事業者が独自メニューを披露。今秋には大規模イベントを開催。箟岳山地区は、1960から70年代、4軒ほどのジンギスカン店が営業していた。三浦さんも少年野球の打ち上げで訪れた。各店の味は違ったが、当時の記憶と食材を意識して、タレを開発した。地元の川敬醸造のしょうゆに、果物やスパイス、ニンニク。料理を通じて、町に人を呼び込むと三浦さん。昔は羊、今は鶏だが、町に根付いた食文化を次代に合わせて残したい、と意気込む。実は、私(おだずまジャーナル編集長)も社会人駆け出しの石巻時代に、天気のいい日に先輩が、ああ箟岳でジンギスカンでも食うか、なんて言ったことを覚えている。なので、箟岳はジンギスカンの名所という印象が自分には強いが、地域の皆さんには味で馴染んだソウルフードに違いない。そして、新たな立地企業と地元の企業とが一丸協力して、昭和の味で町おこし。なんてすばらしい取組か。歴史と今が融合し、世代もつないで、町を盛り上げる味づくり。あたらしい味を求めに、たくさんの人が涌谷を訪れるかも知れない。ぜひ、頑張ってください。秋のイベントいきます。ところで、この記事は連載のようで、「おいしい物語@みやぎ/まち盛り上げるグルメ」の5回目とされている。シリーズのこれまでも、よく読んでおこう。■関連する過去の記事(涌谷町。ほかにも多数ありそうですが) 城山公園の桜まつり(涌谷町)(2026年04月12日) 箟岳白山小学校(2025年05月30日) 涌谷町の殺人事件(2022年11月20) 涌谷町の地名 産仮小屋(2015年4月25日) 誉れ高き箟岳分校史(2012年5月15日) 定時制箆岳分校の充実ぶり(2012年5月14日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日)=涌谷町と鉄道の歴史 ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月25日) 涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日) 金華山と涌谷を考える(06年12月17日)
2026.05.03
コメント(0)
前回記事(神栖市長選挙のその後、また、投票をめぐる問題を考える(2026年04月29日))に続けて、改めて、茨城県選管の裁決についての報道を拾ってみる。・県選管は、市選管が有効票と認めた「まんじゅうや」「だんごさん」は、木内氏の通称として市内で広く使用されているとは認められないとした。また、欄外に「○」が付された石田氏の有効票も無効とした。(毎日新聞から。当ジャーナルで表現整理。以下同じ)・木内氏の親族が市内で営む和菓子製造会社「木内製菓」の存在を根拠に、市選管は有効としたとみられるが、通称として広く認められたものではないとした石田氏側の申立てが通った。県選管は、「だんご「まんじゅう」は木内製菓の商品として認知されているが、「だんごさん」「まんじゅうや」が通称として広く使用されているとは認められない、とした。(読売新聞)・神栖市選管が有効と認めた根拠の一つは、かつて新潟県で実施された選挙で、鍛冶業を営む候補者に「カジ」と書いた票が有効とされたこと。しかし県選管の裁決では、新潟の事例は人口が神栖市の1割程度の小さな自治体で、人口が大きくなるほど同業者が多数想定される、とする。(朝日新聞)ところで、茨城新聞の記事では市民の声として、・市選管が再点検したのに県選管で審査結果が変わることに驚く・これまでは(まんじゅうやで)認められていたのかも知れない・名前以外の記載が無効になることについて高齢者にもわかりやすく説明をなどが紹介されていた。市民側の率直な意見だろう。さて、肝心の茨城県選管の裁決は、神栖市のホームページに出ている(おそらくは概要資料で、裁決書本文ではない)。県選管がどのような判断をしたのか(他事記載の○に関する部分は除外)、以下に当ジャーナルで要点を整理する。・過去の判例等に基づき慎重に判断・公職選挙法68条の規定(どの候補を記載したか確認しがたいもの)に反しない限り、投票した選挙人の意思が明白であれば有効とすべき(法67条)・誤字脱字などがあっても、記された文字の全体的考察によってどの候補者に投票したかを判断しうる以上、有効として投票人の投票意思を尊重することが、代議制民主主義に合致(最判昭和25.7.6.)・候補者の氏名のほか、他事の記載は無効だが、職業、身分、住所、敬称のたぐいはこの限りでない(法68条)・他事記載とは、符号、暗号等、投票した選挙人の何人たるかを推知させる意識的記載であって、しかもそれが明白な場合を指す(仙台高判昭和63.6.30.)・「だんごさん」「まんじゅうや」について、市選管の主張は、木内氏を「まんじゅうや」と呼称する者がおり、一定の範囲の市民や市職員の一部からも日常的に呼称されている、また、「まんじゅうや」「おだんごさん」の記載は木内氏を示すものと考えられ、反対に石田候補を示す要素は全くない、とする。・しかし、「まんじゅうや」等の記載が石田氏を示す要素が全くなく木内氏を示す要素しかないとしても、そのことのみで木内氏の有効投票と認められるのではなく、その記載内容が木内氏の呼称として神栖市内いずれの地でも慣習的に使用されている状態にある限りにおいて、氏名に代わる通称として有効になるというべきところ、「だんご」「まんじゅう」が木内製菓の商品として市内で認知されたことは認められるが、「だんごさん」「まんじゅうや」が木内氏の通称として広く使用されていると認めるに足りる証拠はなく、無効と判断せざるを得ない。■関連する過去の記事 神栖市長選挙のその後、また、投票をめぐる問題を考える(2026年04月29日) 得票同数の神栖市長選等について(2026年04月21日) 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.05.01
コメント(0)
昨日(4月28日)の報道。やっぱりそうなったか。茨城県選管の裁決は、木内氏の当選を無効とするもので、石田氏(得票同数でくじで敗れた前職)が当選人になると結論付けた。具体的に言うと、木内氏の有効票とされた「まんじゅうや」「だんごさん」の計2票を無効と判断した。木内氏の実家が和菓子店だが、それが同氏の通称として広く使われた十分な証拠がないとしたもの。他方で、石田氏側で有効とされた票のうち1票に、欄外に他事記載があったとして無効と判断。結局、石田氏16,723票、木内氏16,722票で、1票差で逆転。特定の候補に投票した意思が明白かどうか、ということになるのだろうが、通常は「まんじゅうや」で有効票にはならないだろう。ただし、投票者の意図がポイントだから、当該自治体の区域において、相当程度明確に、通称、屋号、芸名、あだ名などが一般に通用しているなどの事情があれば例外的にオーケーなのかも知れない。また、(最近記事にした那須町長選挙の場合のように)対立候補の氏名との関係で特別な判断が必要かどうか、もあろう。さて、県選管で全票検査が行われたので、あとはこの2票をどう評価するかに絞られたと言えよう。市長の座が半年で入れ替わるかも知れず、また、選挙や係争に要するコストなども無視できないが、考えようによっては、民主主義のもっとも重要なイベントである選挙というものについて、当該地域のみならずすべての国民が考える機会になるとも言えるような気がする。さまざまな意見があるだろう。2票の有効性について。あるいは両陣営の姿勢について。また、市選管の判断の透明性を求める意見、たとえば疑義票でこういうものがあってこう判断した、と公表するとか。まずは迅速に市選管で事務処理し、不服があれば事後に県選管さらには訴訟で決着という仕組みだが、相談もできず判断せねばならない市選管も実は負担だろうし、とにかく時間と費用のコストがかかる。私が思うのは、もう現行の投票システムを見直す機会にすべきではないかということ。候補者名を自署する方式だが、例えば選択式、さらに電子投票にすれば、集計の手間もコストも省ける。固定した投票所を前提にした電子投票は現行法でも可能だが、さらに、在宅でネット投票も技術的には不可能ではないだろう。ほかにも、選挙や投票をめぐっては見直しを検討すべき点が多いと思う。投票権行使はありがたい機会、あるいは公民の義務感をもって誰もがわざわざ足を運んで投票に臨み、選挙を実施する行政側も人的財政的コストをいとわない、というような昔のモデルに拘泥していていいのか。いまや、投票率低下こそ民主政治の危機だし、コスト削減も重要だ。あまり表に論議されないが、投票所における本人確認の問題は常にリスクがあるが、電子基盤を活用すれば確実性と迅速性が飛躍的に高まる。■関連する過去の記事 得票同数の神栖市長選等について(2026年04月21日) 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.04.29
コメント(0)
やはり気になる。大差で現職が信任された、とはいえ、朝日新聞は無名の対立候補が5千票以上を集めたことを、今朝(4月28日)の朝刊でも追っている(福留庸友記者)。記事の概要は、こうだ。ポスターも事務所もない新顔に、約2割の得票率を許した。また、白紙投票も985票で、前回(選挙戦となった2018年)の3.8倍。多選や頑固な市政への批判ともみられる。河村和徳さんの解説があって、復興から変わろうとする局面でもあり、現職への不満が可視化されたとする。以下当ジャーナルのコメントだが、たまたま同日(26日)に行われた福島県昭和村の村長選挙では、3人の新人が争い、当選者が543票、次点が139票、三人目はわずか7票。この人は昨秋の宮城県知事選挙にも出た乗馬学校代表の85歳。知名度なら福島県でも多少はあると思うが、気仙沼市と比較すれば顔の見える地域で浮動票がないのか(投票率は79.87%)、とにかくまさに泡沫扱いの結果だ。気仙沼市の市長選挙でも、開票前はおそらく有権者もマスコミもその程度に考えていただろう。朝日の記事にもあったが、無投票で良いものをわざわざ公費を使わせて、的な批判も正直あるだろう。今回は市議選があったが、市長選単独だったとしたら、出費も差が大きいが、市職員の労力も多大なのが実際だ。(もちろん、民主主義の正当なコストだが。)だから、2割で5千票という結果は、まさに衝撃だ。どのような気仙沼の状況がそうさせたのかは、政治社会学的に非常に関心がある。■関連する過去の記事 気仙沼市議と市長選の結果を考える(2026年04月27日) 気仙沼市議選挙を考える(2026年04月24日) 大崎市議選挙結果を考える(2026年04月20日) 大崎市長選挙はじまる(2026年04月13日)
2026.04.28
コメント(0)
昨日(4月27日)の読売新聞で、社会生活上の法的問題として関心を引くものがあった。概要はこうだ。(見出し)盲導犬に犬接近 責任は/急停止し女性「転倒」 飼い主に損賠訴訟(松山支局 宇仁菅玲香、氷見優衣 両氏の署名記事)(以下記事の趣旨。おだずまジャーナル整理)・2023年6月、視覚障害者女性(50歳代)が盲導犬(ラブラドルレトリバー)と路上を歩いて帰宅中に、小型犬(チワワ)が接近したため盲導犬が急停止し女性は転倒したとして、飼い主に約170万円(治療費、慰謝料)の損害賠償を求めた・この訴訟は松山地裁今治支部、2024年5月提訴・飼い主(被告)は、リードをつけず散歩させたことは認めた一方、呼び戻すとすぐに盲導犬から離れたと反論。盲導犬が立ち止まった際女性(原告)がその場に座り込んだだけで負傷していないと主張・裁判官からの和解提案も、双方が受け入れず・原告女性は、ガイド中の盲導犬に犬を近づけることの危険を広く知ってもらいたい、とする・盲導犬は全国で768頭・日本ライトハウス(盲導犬を育成)は、盲導犬に犬を近づける、許可なく触る、食べ物を与える、などの行為をしないよう注意を促す・急に犬が近づいて盲導犬が立ち止まると、状況把握が難しい視覚障害者は、予測した対応がとれず、危険につながる恐れがあるという・公益財団法人アイメイト協会の調査(2018年)では、盲導犬使用者からは、盲導犬に触ったり声をかけたりしないでほしいとの声が多かった。この訴訟じたいは、当事者同士こじれていると推察するが、一般化して考えれば問題の本質は、障害のある人ができるだけ自分らしく暮らせるために、そのための必要な条件整備や周囲がわきまえるべき注意事項などを、社会全体で意識共有して、障害のある人もない人も誰もが住みやすい社会を目指すべきという点にあると思う。法律論的にみれば、ミクロ的(個別事件の解決の視点)には、因果関係などの問題だろうが、もう少し法政策的に考えると、日常生活における責任の配分の問題ともいえる。盲導犬利用者が多少のリスクを負うべきか、それとも一般人(犬の散歩する人など)が注意すべきことなのか。いやしかし、おそらく、法的に根詰めた議論よりも、ちょっとした社会的な周知で解決をめざすことが可能であり、行政やメディアの啓発、学校教育などを含む理解促進で解決すべき問題だろう。そして、成熟した現代社会であるわが国では、そのようなインクルーシブな考えを許容できると期待する。
2026.04.28
コメント(0)
昨日投開票が行われた気仙沼市議選に注目した。定数21に対して27人の立候補は、議員のなり手不足がいわれる昨今では望ましいと言えることだし、そのうねりを押し上げているかも知れないのが、従来型の候補だけでなく、一般サラリーマン、よそ者、若者、女性、などいわば「新風」ではないかとの視点から、得票状況をみてみたい。投票率は55.61%で、を0.15上回った。ただし、これは、同日の市長選挙が前回は無投票だったことも影響するかも知れない。全体を見ると、当選回数が多く安定した地域基盤をもつ市議が安泰にみえる一方で、新風候補もだいぶ期待を受けたように思える。まずは、得票順に並べる。そのうえで、まことに恐縮でありますが、当ジャーナルの勝手な私見で、「新風」候補者(★印)に対するコメントを付したい。新風の判断は、選挙公報の記載と今朝の河北新報記事をもとにしている(結果として新人当選者と一致)。また、コメントは、出身地や、主な経歴など。選挙公報の記載で特に気になった点も記した(再度言いますが、私見で大変恐縮です。)1当 1879 村上佳市 無現(6) ・68歳、気仙沼市、PTA会長、防犯協会会長、(現)市議会副議長2当 1516 杉浦美里 無新(1) ★37歳、浜松市、復興支援、モデル事務所、4児の母3当 1410 菊田 篤 無現(4) ・59歳、階上、県PTA連合会会長4当 1394 熊谷伸一 無現(6) ・68歳、古町、旧市議、市議会議長、学校法人理事長5当 1331 三浦友幸 無現(3) ・45歳、本吉町前浜、大谷まちづくり協議会事務局長6当 1315 秋山善治郎 共現(5) ・77歳、旧市議、日本共産党7当 1307 鈴木高登 無現(6) ・64歳、唐桑町議、市議会議長、総合型地域クラブ理事長8当 1273 臼井真人 無現(6) ・74歳、気仙沼市、倉庫業、旧市市議、市議会議長9当 1189 白川雄二 公現(2) ・50歳、大島、サラリーマンを経験10当 1155 佐藤健治 無現(6) ・59歳、九条小、条南中、旧市の市議、市防犯協会会長11当 1080 垣下美紀 無新(1) ★48歳、気仙沼市、3児の母、ひとり親家庭の不安を経験、津波伝承館職員12当 1029 村上伸子 無現(3) ・61歳、気仙沼市、豪キャンベラ大、女性の視点などを強調13当 1018 菅原雄治 無現(4) ・62歳、中学教諭、NPO理事14当 1017 佐藤俊章 無現(3) ・67歳、階上小中、PTA会長、県漁協15当 925 及川善賢 無現(6) ・63歳、小泉中、本吉町議、本吉地域の平等な発展を訴えた16当 892 宮井和夫 無新(1) ★50歳、気仙沼観光タクシー、JC理事長、社会福祉法人理事17当 840 三浦由喜 無現(5) ・77歳、津谷、本吉町職員、副議長18当 798 今川 悟 無現(4) ・41歳、面瀬、地元紙記者、防犯協会長19当 791 千葉慶人 無現(6) ・62歳、(現)市議会議長、本吉、JC理事長、PTA会長20当 656 菅原清喜 無現(6) ・76歳、市議会議長21当 615 遠藤秀和 無現(2) ・58歳、津谷中、本吉町職員、稼げる農業を訴えた------------22落 600 熊谷雅裕 無現 ・74歳、大島、小中学校再編計画に反対、議員定数削減を訴えた23落 544 菅原俊朗 無現 ・76歳、現職1期、酒店、風力発電反対を訴えた24落 530 斉藤巳寿也 無新 ・昭和40気仙沼市生、元県職員、市長選挙(平成30年)12300票、騒音に配慮して選挙カーは使いません25落 486 白幡 章 無現 ・昭和39生まれ、漁業、農業26落 365 村上 敬 無新 ・54歳、松岩、関係人口創出などを目指す27落 328 田中実尚 無新 ・47歳、気仙沼市、選挙公報の記載は非常に独特■関連する過去の記事 気仙沼市議選挙を考える(2026年04月24日) 大崎市議選挙結果を考える(2026年04月20日)ところで、市長選挙について。・当選 菅原茂(現)68歳 19,734・落選 岩村彬(新)79歳 5,305事実上の信任投票で、しかも対抗馬は告示直前に名乗り出た無名で、街頭活動をほとんどしない上に、選挙公報を見ても具体的政策は不明。それなのに、5千票もとることに率直に驚きだ。見出し的には「大差」なのだが、例えば朝日新聞県内版(今朝)は、供託金没収ラインを大きく上回る票を集めた、と解説。現職への批判票として岩村氏に入れた人の声を紹介している(朝日新聞は福留庸友記者の署名)。閉塞感打破の期待、ということか。
2026.04.27
コメント(0)
夜のニュースでも、赤々と燃え上がる炎が生中継されていた。発生4日目になる大槌町の林野火災だ。各県の防災ヘリや緊急消防援助隊が、懸命に消火活動を実施。今朝の時点で約1176haを焼失、避難指示の対象は町人口の3分の1にあたる3,233人。燃える山の麓に家があるという人が、避難した街中の路上から、淡々とインタビューに応じる姿をTVで見たが、眠れない日々が続いているだろう。消防団の懸命の活動が報道される一方で、専門家が、こうなると林地の延焼を食い止めるよりは、住宅地の側で住家への飛び火を監視して機動的に消火する作戦に移るべき、と話していた。今後1週間は雨も期待できないという。平成以降で、昨年の大船渡市の被害(約3,370ha)に次ぐ規模になっているとの説明もあった。消火活動や避難者の支援に携わる方々に、感謝しつつ心から応援の思いだ。そして、火勢が弱まること、そして、住宅や施設への被害が広がらないように、願う。
2026.04.25
コメント(0)
大崎市議選で新しい動きを探ってみる記事(下記)を書いたが、今週末が投票の気仙沼市議選のほうが、ダイナミックなようだ。■ 大崎市議選挙結果を考える(2026年04月20日)今朝の河北新報記事にも出ている。議席21に27人が立候補、新人6人も多彩な顔触れ、と。震災後の移住者、Uターンした人、若手経済人などで、3月になってから名乗りを上げる動きが一気に表面化したという。議員成り手不足、市議会の活性化、地域と議員の関係などの観点から、市町村議会の選挙に着目してきたのだが、今回の同市議選挙は興味深い事例になるだろうか。見方を変えれば、それだけ市政への関心が高い、つまり閉塞感打破の願いが強いということか。市議候補者の選挙公報を市ホームページで読んでいる。限られたスペースでアピールする内容もさまざま。選挙期間中なので論評はいまは避けるが、新人を中心に分析を進め、日曜夜の開票の後で、当落や得票数などを踏まえて、当ジャーナルが市議選結果をどう見るか、渾身の記事を書きます。
2026.04.24
コメント(0)
今朝の河北新報に出ていた。涌谷藩志会が主催した講演会(18日、約140人)で、佐藤憲一さんが話したとの事。あきる野市の寺に、政宗の弟が住職を務めたという資料が残り、義姫と政宗の手紙を見ても仲が悪い様子がない。当時の伊達家は存続の危機もあり、政宗は一人だけの弟を寺に逃がしたのではないか。義姫も自分が悪者になることで藩の安泰を祈った可能性もある。このような内容だったようだ。新聞記事には、政宗と再会した時の義姫の年齢と近くなり、義姫の気持ちが理解できる、という参加者の感想が載っていた。歴史だけれど、身近に感じられるところが、非常に興味深い。佐藤さんの説などについては、下記の記事に以前書きました。■関連する過去の記事 政宗毒殺未遂と小次郎生存説(2016年5月2日) 再び政宗毒殺未遂事件を考える(07年10月12日) 政宗毒殺未遂事件を考える(07年6月28日)
2026.04.23
コメント(0)
4月21日河北新報の記事(菅野正道さんの連載)に、原町の平田神社が出ている。菅野さんの記事の概要はこうだ。神社の名の由来である平田五郎は政宗に仕えた勇猛な武士だが、祖父が会津の戦国大名の蘆名氏の重臣であった。仙台藩士の出自には、政宗治世下で新たに召し抱えられた家臣が意外と多く、蘆名氏の旧臣も目立つ。蘆名分家の猪苗代、針生。会津の執権と称された金上(かながみ)。四天王といわれた平田、佐瀬、富田、松本など。他にも、荒井、栗村、黒沢、小荒井、十二村(じゅうにむら)、中目、生江(なまえ)、西方、樋渡(ひわたし)など。政宗は黒川城を攻め落としたことから、伊達氏と蘆名氏はライバルと受け止められるが、実は以前から友好関係にあり、対立したのは晴宗時代の一時期と蘆名氏滅亡直前の5年ほどの期間だけだ。そして、記事の冒頭で、こういう。「一般に神社の名は、八幡や諏訪などの祀られる神の名か鎮座する場所が多いが、神でも地名でもない神社名はあまりなく、平田神社は東北ではここだけではないだろうか」と(おだずまジャーナルで若干要約)。直接には、平田神社の名は東北ではここだけ、という説明だが、おそらく、神社の名前に「勧請された神や(神格化して)祀られた人物」を冠することはあるが、それ自体は俗人である「祀った人」(この場合は平田五郎)の名を冠することは珍しい、という意味なのではなかろうか。平田神社の境内に掲げられる「由来」には、遷宮者の姓から公式に平田神社と称したとある。(下記の記事に画像があります) 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日)平田五郎は、慕われ続けている人物なのだ。 平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日) 原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日) 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日)■関連する過去の記事 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)■関連する過去の記事(神社について) 神社の多い福島、少ない岩手(2014年02月09日)■関連する過去の記事(付近の地域) 清水沼のこと(10年9月8日)■関連する過去の記事(松原街道の関連) 岩切の追分の道標(2026年04月11日) 御立場町の道路愛称(2025年12月06日) 案内のネコ(2024年10月14日) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2026.04.22
コメント(0)
産経新聞の面白い記事があった。4月19日(日)の東日本総合版で、深層リポート茨城発として「神栖市長選、月内にも裁決」と題して。以下は当ジャーナル要約・再整理。3選をめざした石田進氏と、元市議の木内敏之氏が、いずれも16,724票で、くじにより木内氏が当選となった(昨年11月9日)。石田氏陣営の異議申し立てで市選管が、全33,667票(無効票219含む)を再点検したが(11月26日)、結果は変わらず申し立て棄却(12月5日)。次いで、石田氏陣営は、県選管に審査申し立て(市選管の棄却決定の取り消しと木内氏当選を無効とする裁決の2件を求める、12月22日、23日)。木内氏の有効票の中に、「まんじゅうや」「だんごや」とだけ記載されたものがあり、これらは無効票とすべきだと主張。木内氏の親族が和菓子店を営んでいるという。30年ぶりとなる県選管の再々点検は、県選管職員約30人が全投票用紙を確認して、慎重な判断を要する票を抽出した(3月21日)。現在は、その審理を進めているという。今月以降に県選管の裁決が見込まれる。県選管が裁決したケースとしては、令和5年4月の小山市議選がある。1票差で敗れた次点候補者が栃木県選管に審査申し立て。この裁決では、最下位当選者の氏名以外に「!!」の記号と二本の縦線が記載された計2票が、他事記載(公選法68条1項6号)に該当し無効投票とされた。この候補者が裁決取り消しを求めたが、裁判を経て確定。次点候補者が逆転当選となった。栃木県選管の裁決当時の委員長を務めた平野浩視弁護士は、神栖市長選について、「まんじゅうや」「だんごや」だけの記載は、候補者のだれを記載したのか確認しがたく、無効票(68条1項8号)になる可能性もある、とする。また、かりに候補者名と併記されれば、他事記載該当の判断が行われると指摘する。なお、同法67条は、68条の規定に反しない限り、投票者の意思が明白ならその投票を有効とするよう規定する。単にその投票用紙にどう記載されたか、の判断でなく、その地域ならではの事情や、さらには他候補者の状況(類似した氏名など)も影響するだろうから、なかなか難しい判断が迫られるようだ。■関連する過去の記事 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.04.21
コメント(0)
昨日の19日(日)は宮城県内でも投票日の自治体があった。・大崎市長選挙 合併以来5期続けた現職の勇退に伴う選挙。元県議会議長の中島さんが、自民党支部が支える市議などを制して初当選。投票率53.09%は、前回選挙戦となった2018年を1.85上回った。・山元町長選挙 現職の橋元さんが再選。政争の町ともいわれたが、町政停滞から脱することになるだろうか。投票率は59.31%で前回から8.42の減。・山元町議補欠選挙 定員3に対して立候補3人で、無投票だった。さて、ここでは、大崎市議選に注目したい。28議席に30人が立候補した。市長も代わるが、現職11人が引退し、2人は市長選に出るため、半数が入れ替わり世代交代が進むとみられていたことと、従来は農村部的な政治風土が色濃かっただろうが(そして特に地方部では地方議会のなりて不足が深刻だ)、若い世代や「よそ者」の進出などがあるか、に着目していたからだ。落選者は2人しか生じないので当落という分かれ目から決定的な評価はしにくいが、得票数などの動向から、どんな候補者が受け入れられたか、を探ることができないだろうか。得票順に書き出してみる。1 3,587 加川 康子 無現 22 3,309 早坂 憂 自現 33 3,155 山田 匡身 公現 24 2,634 佐藤仁一郎 無現 45 2,458 小玉 仁志 無現 26 2,404 伊勢 健一 自現 37 2,373 佐藤 弘樹 無現 68 2,316 富田 堅治 無新 19 1,985 八木 吉夫 無現 510 1,954 遠藤 彰 公新 111 1,939 荒井 純 無新 112 1,877 吉越 美穂 無新 113 1,828 木内 知子 共現 614 1,767 高橋 雅博 無新 115 1,672 木村 和彦 無現 616 1,577 五島 啓太 無新 117 1,529 法華 栄喜 無現 218 1,509 後藤 錦信 無現 619 1,454 菅原 智宏 無新 120 1,439 石田 政博 無現 221 1,395 結城 豊 共新 122 1,331 鎌内 克美 共新 123 1,322 遊佐 辰雄 共現 624 1,306 山口 寿 無元 225 1,255 小嶋 匡晴 無現 226 982 平野 洋子 無新 127 912 山口 文博 無元 228 839 川合 明弘 無新 1(ここまでが当選者)落 581 畠山 紳悟 無新落 124 梅津 泰幸 無新新聞記事で紹介されていた肩書と年齢くらいしか情報がないが、上記の視点から当ブログの独断で注目した候補の得票数を見てみる。(1)若い人(40代以下)・川合明弘 無新 46歳 会社代表 28位・早坂 憂 自現 40歳 塾講師 2位・平野洋子 無新 46歳 鍼灸師 26位・五島啓太 無新 44歳 会社代表 16位・伊勢健一 自現 45歳 会社役員 6位・吉越美穂 無新 37歳 トレーナー 12位・加川康子 無現 48歳 研修講師 1位・小嶋匡晴 無現 41歳 会社役員 25位・畠山紳悟 無新 31歳 環境NPO代表 落・小玉仁志 無現 42歳 会社代表 5位・山田匡身 公現 47歳 党地区支部長 3位現職がある程度優位とは思われるが、新人で順位の高いのは吉越さん。(2)よそ者(選挙公報から新人で出身地が市外とわかる人。当ジャーナルで拾った)・畠山しんご 秋田県潟上市出身、大崎三年目。議会と戦う、政治家に嫌われる仕事、などやや過激な内容を選挙公報で記載している。→落選・平野洋子 結婚を機に大崎市に移住。→当選26位出身を明示しない候補もいるし、仕事で東京等にいた人も何人かいるようだ。正しい分析にはならないが、おそらく、今回の選挙では、従来にないような「流れ」が生じたとまでは言えないか。もっとも、選挙は議会政治の入り口。これから、新しい市議たちの活躍に期待いたします。(4月21日補遺)河北新報記事によると、当選者一覧で表示された出身地は、大崎市がほとんど。大崎市以外なのは、平野洋子さん(26位)の兵庫県西宮市、川合明弘さん(28位)の美里町、だけだ。
2026.04.20
コメント(0)
■前回記事 奥州藤原氏と貢馬の道(2026年04月16日)北方へのびる道(2026年04月17日) に続く■井ヶ田良治他編(当巻担当編集委員吉田晶)『歴史の道・再発見 第1巻 平泉からロシア正教まで』面屋龍延、1994年(同書のうち、大石直正による「第2章 奥州藤原氏と貢馬の道」後半部分から。おだずま要約・再構成)1 陶磁器の道 - 北上川の舟運平泉の遺跡から大量に出土する陶磁器の9割は、渥美・常滑焼だが、陶磁器の搬入ルートは海上や水上しか考えられない。例えば柳之御所跡遺跡からは直径高さともに90センチ超の大型の渥美焼の甕が出土したが、馬の背で陸路を運ぶことは考えられない。そして、東海地方から運ぶのだから、太平洋岸の海路ということになり、太平洋岸の海運はこれまで考えらたより古くから発達していたと考えねばならない。そのルートは、海と北上川であった。北上川は日本でも有数の流れのゆるやかな川で、流域の仙台藩領の広大な米作地帯の産米が石巻に集められ、江戸に運ばれ、仙台藩の財政収入のかなりの部分を占めていたことは有名な事実である。江戸時代の北上川では、大型のヒラタ舟(艜)が筵帆をあげ米俵を満載してゆっくり川を下った風景が日常だった。さらに近代には、河口の石巻には水運の商社が創設され、鉄道による舟運の衰退まで続いた。中世の北上川の舟運を証拠立てる材料のひとつは、石巻で産出する井内石の分布である。井内石は粘板岩で、天然スレートともなる。北上川流域では13世紀中ごろから井内石を素材として板碑(供養碑)の造立がはじまり、中世末に及ぶ。関東においては秩父青石(緑泥片岩)を素材とする武蔵型板碑がつくられ南関東一円に分布していたことと同様のことが北上川流域でおこっていた。井内石板碑の北方への分布は、北上川をさかのぼって平泉の北の胆沢郡まで及び、井内石文化圏とでもいう分布圏が存在する。石材は当然石巻から北上川を舟で遡って運んだと考えられ、平泉のやや北で分布が終わっているのは、この時期の北上川舟運の北限がそのあたりだったことを示しており、その水上交通圏は奥州藤原氏の時代に形成されたものにちがいない。自然条件でみても、北上川は平泉付近から北は流れがやや急になる。現在の県境付近に狐禅寺という狭窄部があり、その北の一関市付近は磐井川との合流点でもあり古くは池沼上の地形だったと考えられる。平泉はその台地上に位置し、北上川水運の基地はこの付近ではここ以外には考えられないような場所である。藤原清衡は12世紀のごくはじめ頃に、奥六郡内の江刺郡豊田の館(たち)を出て平泉に居を構えるが、平泉を選んだ理由の一つには北上川水運があったと思われる。2 陸上の道一方、陸上交通でも平泉は重要な場所で、陸奥国を縦貫する陸上の道と北上川水運の水上の道が交差するところでもあった。吾妻鏡(1189年=文治5=9月17日条)には、中尊寺建立の由来について、清衡は白河関から外が浜にいたる20余日の行程の一町ごとに笠卒塔婆を建て、その中心をはかって山頂に一基の塔を建てたのが中尊寺のはじまりで、寺院の中央の多宝寺には釈迦如来と多宝如来が左右に安置され、その中間に関路が開かれていて旅人の往還の道となっている、と記されている。中尊寺は山号を関山(かんざん)と称し、その山頂には歌枕で有名な衣関(ころもがせき)があったと伝える。関山を越えるとすぐ北に衣川があり、その北が胆沢郡。関山は磐井郡の北端で奥六郡との境の山である。古代の奥六郡は俘囚の地で、以南の内国とは政治風土が全く異なるところであったので、関山は政治的にも重要な境界であった。また、関山の麓は衣川と北上川の合流点に近くかつては低湿で交通困難であったため、奥六郡に入る交通路は関山を越え衣川をわたるルートをとらざるをえなかった。中尊寺はその交通路上に、それを扼する形で建てられた寺だったのである。一方、南から平泉に入る道路は、今の一関市市街地を通るルートはかつては低湿であったため、現在より西のルートだと考えられる。文治奥州合戦の際には、頼朝は鎌倉への帰途に平泉の南の達谷の窟(いわや)、西光寺の前を通り、西光寺に水田を寄付している。西光寺には大量のカワラケを出土する遺跡も存在する。頼朝の通った道は、毛越寺の門前から太田川の谷に沿って南下し、山を越える道で、現代や江戸時代の道より西のルートを通るが、平安時代はこれが平泉に入る主要なルートだったにちがいない。この道はそのまま南下して陸奥国府の多賀城にいたる。つまり、陸上の道は平泉ではじめて北上川の水上の道と交差するのである。平泉は水陸の交通路が交差し、奥六郡と以南の境界をなす、交通上きわめて重要な場所であった。3 伊勢と陸奥渥美・常滑焼が海路から石巻でヒラタ舟のような吃水の浅い船に積み替えられて、北上川を遡ったであろうことは、石巻市水沼で発見された、渥美焼とそっくりの陶器を焼いた窯跡の発見により明らかである。この窯跡は、渥美から工人を招いたと考えられ、12世紀の渥美焼と瓜二つの袈裟襷文(けさだすきもん)の陶器を焼いていた。この窯で焼いた陶器片が柳之御所跡遺跡から出土しているのである。この窯の製品が北上川水運で平泉に運ばれたことを踏まえれば、海路太平洋岸を運ばれた渥美・常滑焼の陶器が、石巻と北上川を経由したことはほぼ間違いない。北上川は流れがゆるやかとはいえ、浅瀬もあれば狭窄部もある。安全に上り下りするには、水路図が必要で、場合により改修も必要だったろう。そうした水上交通の開発維持のために奥州藤原氏が何らかの寄付をしたことも想像できる。1338年(延元3、暦応1)伊勢国の大湊を発って海路陸奥国に向かった南朝の北畠親房の一行が目指したのも石巻港でなかったかと考える。親房は実際には台風で常陸の国に漂着し、親房が奉じる義良親王は伊勢国に帰ったが、親房は陸奥国白河の結城親朝に対して、宮(親王)と国司(北畠顕信)は宇多か牡鹿に着いているはずだから連絡を取るようにと書き送っている(結城古文書写)。宇多は松川浦、牡鹿は石巻港をさす。こう書いたのは、両港のどちらかが到着予定地だからと解され、伊勢と石巻をつなぐ海路が14世紀に存在したことは確実である。それは12世紀にもさかのぼるものだったに違いない。知多半島の中ほどの常滑焼や、渥美半島先端の渥美焼が、どこから船に積まれてか確実なことはわからない。小野正敏氏は、産地からいったん伊勢国の桑名か大湊に集められて、大船に積み替えて東国をめざしたのではないかとする。それは北畠親房がたどろうとした道の先蹤をなすものである。15世紀初めに武蔵国品川湊に出入りしていた船に、大塩屋、馬漸(まぜ)、和泉、本郷、藤原、通(とおり)など、大湊の付近の地名を船名とするものがある。綿貫友子氏が、そこからこれらの船は伊勢から来航したと推定することも参考にして良いだろう。大湊は伊勢と関東や陸奥国をつなぐ港として早くから開けていたと思われる。4 陶磁器を運んだ人々尾張や三河の窯業地帯から陸奥に陶器を運んだのは、小野正敏氏によれば、伊勢大神宮の神人(じにん)や熊野の御師(おし)であり、中でも前者の役割が大きいという。筆者(おだずま注、大石氏)は、熊野の海上勢力の荷担を重視したい。その根拠は、12世紀における伊勢勢力の東国進出の証拠とされる大神宮領の御厨の設定が、常陸国でとどまり陸奥国に及んでいないこと、奥州藤原氏周辺に熊野勢力の存在が強く観察されること、秀衡の庇護を受けた義経周辺に熊野海上勢力の存在が見え隠れすること、などである。だが、平泉に運ばれたのは、渥美・常滑焼だけではなかったし、平泉から運ばれたものも伊勢国どまりであったはずはない。紀伊半島をまわって京、畿内、さらには瀬戸内海経由で博多、中国、朝鮮半島に向けられた道もあったにちがいない。そして、伊勢大神宮の神人以上に、熊野海上勢力との関係は大きな意味を持ったはずである。5 日本海海運従来は、日本海海運のほうがずっと大きく評価されていた。越後国小泉荘の定使(じょうし)が、清衡の金、馬、檀紙などを押しとったという事件がある(中右記、1120年=保安1=6月17日条、24日条)。小泉荘(新潟県村上市を中心とする地域)には岩船潟があり、中世には船着き場や町が形成されていた。二代基衡の代に、摂関藤原家の奥羽の家領の年貢納入の責任を奥州藤原氏が負っているが、それは清衡の代に始まったと考えられる。この事件は、摂関家領の年貢が港に保管されていたと考えられる。これらが日本海海運で、越前、若狭、さらに琵琶湖の水運で今日に運ばれたことは間違いないだろう。基衡が管理して年貢納入の責任を負っていた荘園は、陸奥国本良(吉)荘、高鞍荘(栗原市金成)、出羽国の屋代荘(高畠町)、大曽禰荘(山形市)、遊佐荘(遊佐町)の5つである。基衡と本家左大臣藤原頼長との間で年貢増徴交渉が行われていたが、これらの荘園の年貢は、布、金、馬、鷲羽、アザラシ皮、漆などであった(台記=頼長の日記)。檀紙もまた陸奥国土産として有名なので、これも年貢となることは充分考えられる。6 大楯遺跡ただし、奥羽の荘園年貢がすべて日本海海運を利用したかはわからない。貢馬の例からすれば、出羽国の荘園だけが日本海を利用したのが実情だったのかもしれない。出羽国の3荘のうち最北の遊佐荘内に、平安時代の大楯遺跡があり、大量のカワラケ、珠洲焼系統の陶器などが出土する。保元の紀年銘の木製品が発見され、曲物の素材の年輪年代鑑定からも12世紀前期または中葉とされている。この遺跡が荘内の有力者の館に関連することは疑いなく、柳之御所跡とカワラケ文化を共有しながら、国産陶器は日本海海運による珠洲系陶器の流通圏内あったのである。陸奥は太平洋海運、出羽は日本海によって西日本と交流したというのが実態だろう。奥州藤原氏はこの両地域を支配しており、平泉は両方の交通路の一つの終着駅であった。数は少ないが平泉から珠洲系陶器も出土する。7 日吉神人日本海海運の担い手は、鎌倉時代後期には時衆(じしゅう)が目立つが、この時代の手掛かりはまったくない。ただ、この時期に、北陸道諸国の海辺には比叡山地主の神で山門と一体の日吉社(ひえしゃ)の神人(じにん)の存在がかなり見られることは注目に値する。網野善彦氏が推定するように、海上交通にかかわりを持つ者がいたに違いないのである。そして当然ながらこの日吉神人の活動は奥州藤原氏の周辺にもみられる。また、中尊寺経蔵別当領の骨寺村には、山王岩屋というものがあったが、これは、この村がその開発と中尊寺領化とともに、日吉神人の手で設定されたからと考えられる。山王権現は日吉神社の別称だ。さらに、奥州藤原氏と北陸の白山の関係も注目に値する。平泉の鎮守に白山社が勧請されているほか、秀衡が加賀国の白山本宮に獅子駒犬の像や五尺の金銅像を寄進した伝えがある(白山之記)。白山社は12世紀には山門の末社となり、白山神人は日吉神人を兼ねることがあったという(網野善彦)。これらから総合すると、日吉社の神人が平泉と西日本を結びつける媒介を果たしたことは充分に考えられる。日本海方面の山門、日吉社の勢力と、太平洋側の熊野海上勢力は、海を通して平泉を西日本に結びつける二大勢力だったのだ。彼らが運んだのは年貢物ばかりではない。陶磁器が商品だったことはもちろんだが、金、馬、鷲羽、アザラシの皮、檀紙、奥布といわれる陸奥国特産の麻布なども、年貢としてだけでなく商品としても流通していた。彼らは、商品を運ぶ商人でもあった。そして、奥州藤原氏の自立的政治権力は、こうした商品流通によって支えられたのであり、陸上と海上の道の存在なくしてはありえなかったと言ってよいだろう。(完)
2026.04.18
コメント(0)
■前回記事 奥州藤原氏と貢馬の道(2026年04月16日) に続く■後続記事 東北と海の大道(2026年04月18日)■井ヶ田良治他編(当巻担当編集委員吉田晶)『歴史の道・再発見 第1巻 平泉からロシア正教まで』面屋龍延、1994年(同書のうち、大石直正による「第2章 奥州藤原氏と貢馬の道」から。おだずま要約・再構成)1 出羽と陸奥をむすぶ道交易御馬は、陸奥国だけの制度で、奈良時代に同様に馬を貢納した出羽国には存在しない。その理由は、交易御馬の制度が奥六郡の北の糠部郡の馬産から生まれたこと(1)と、津軽や糠部をふくむ北奥羽が全体としてこの時期に陸奥国の側から支配された(2)からと考えられる。第(1)の要因について。渡辺真紀子氏の研究では、岩手山麓から糠部郡に至る地域は、全国的に最大の黒ボク土地帯である。黒ボク土は馬の放牧を主要因に形成されるが、興味深いのは、岩手山麓の植物珪酸体の分析から、約千年前からシバ草型の草地成立の時代に入ったと言われていることである。シバ草の形成は過放牧と密接に関連するという。つまり、10世紀ころから過放牧になるほど馬産がさかんだったのである。陸奥国交易御馬の制度はこれを踏まえて成立したと考えられる。第(2)の要因。9,10世紀の蝦夷の反乱は出羽国方面が多く、馬や鷹の交易にともなう紛争が起因であった。出羽国の北の米代川流域の鹿角・比内郡や津軽方面でも一定の馬産が行われたことを示しているが、同時に、糠部地方がこの時代、鹿角・比内と半ばは一体の地域と把握されていたのではないか。馬淵川流域の糠部が、北上川流域の奥六郡よりは鹿角・比内に近く、日本海方面の文化の影響下にあったことは考古学者がしばしば指摘するが、中世においても、高橋与右衛門の研究では、糠部の建築は中世を通じて平面プラン、柱間寸法ともに、北上川流域よりは米代川流域や津軽地方に類似しているという。道に即していえば、能代から米代川をのぼって比内・鹿角を通り、安比川に沿って北上し糠部にいたるコースが、当時の北奥の主要交通路ということになる。奥六郡から糠部に至るコースも、現在のように直接奥中山を越える(国道4号)のでなく、いったん鹿角方面への道に入ってやはり安比川沿いに一戸に入ったと考えられる。この点は、頼朝に追われた泰衡が夷狄島をさして糠部郡に赴き、また比内郡贄柵にあらわれて河田次郎に殺された事実からもうかがえるが、しかしそれは、9,10世紀において糠部地方を外界と結ぶ主要な道ではなかったことになる。だが、12世紀には、糠部のみならず鹿角・比内、その北の津軽地方までが陸奥国に編入され、それぞれ郡に編成される。北奥がすくなくとも政治的には北上川をさかのぼるルートで支配されたのであり、その原型ができあがるのが10世紀後半で、その結果、交易貢馬は陸奥国だけのものになったと考えるのである。その景気は、鎮守府を中心とする北方の軍事的支配の強化、鎮守府直轄としての奥六郡の一体化、その司の安倍氏の台頭などにあったと考えられる。2 北海道ルートとの関係奥州藤原氏が都に貢納したのは、馬や金だけでなく、鷲羽やアザラシの皮がある。鷲羽は上質のものは北海道産で、アザラシは北海道でも主にオホーツク沿岸の住人との交易ではじめて供給が可能になる。12世紀以前のオホーツク海岸はオホーツク文化人の生活地で、それ以外の北海道は、本州と接触する渡島半島を含め、擦文文化人の居住地だった。アイヌ文化は、擦文文化を母胎にオホーツク文化を吸収して成立したと言われる。アザラシの皮の供給は、その変化すなわちアイヌ文化の形成を促進した役割を果たしたことが推測される。いずれにしても、奥州藤原氏が北海道方面の交易を自己の重要な権力基盤としたことを示しているといえるだろう。この交易は、津軽半島の陸奥湾側の海岸(外が浜)または日本海側(西が浜)で行われた。平泉からそこに至る道は藤原氏時代に開発されたものだが、北上川を北上し、鹿角・比内を経て、上記の北奥横断路と交差するものである。この結果、鹿角・比内郡は、12世紀には陸奥国内の郡として編成された。これは、鹿角・比内を北上する交通路が主として平泉と津軽・北海道を結ぶ役割を帯びるものとして、開発、維持されたことを如実にものがたる事実といえるだろう。そのことを示すのが、津軽地方のこの時代の遺跡から出土する、渥美・常滑焼の陶器とカワラケ(土器)である。渥美焼、常滑焼は、奥州藤原氏の時代の12世紀初めに勃興し、中世においては東国で使用される陶器の最大を占めるのであるが、平泉にもすでに12世紀の段階で大量に搬入された。柳之御所跡遺跡からも出土している。ところが、その渥美・常滑焼の陶器が、それも12世紀のものだけが津軽から出土するのである。津軽地方から出土する中世陶器で、最も多いのは珠洲焼の系統のもので、多くなるのは13世紀以降であるが、渥美・常滑焼は12世紀のものだけで、以後のものは出土しない。つまり、藤原氏時代のものだけが出土し、その滅亡後は出ないのである。これは、渥美・常滑焼が奥州藤原氏を媒介として、その北奥支配の政治的ルートによって津軽に運び込まれたことを示している。鷲羽やアザラシとは逆の道をたどったのだ。一方、カワラケは、京都風の宴席の使い捨ての食器だが、平泉では非常に大量に出土する。柳之御所跡だけで10数トンである。東北地方では前後にもこれだけ大量に出土するところはない。京都の12世紀の仏教文化の最先端をストレートに移入したことは、中尊寺や毛越寺で明らかだが、カワラケ大量出土は、それが生活文化の面にも及んでいたことで明らかになった。京都風の華麗な宴会が頻繁に催されていたのだ。このカワラケが津軽の遺跡からは出土する。そして、これも12世紀のものだけで、以後はまったくない。これもまた奥州藤原氏の政治的支配を媒介に運び込まれたと考えねばならない。出土する遺跡の中には、外が浜の館もある。そこは中世の日本国の東の境界で、北海道から来た人々と本州の人々が接触する場所であった。
2026.04.17
コメント(0)
東北と貢馬の歴史、そして交易の道について。■井ヶ田良治他編(当巻担当編集委員吉田晶)『歴史の道・再発見 第1巻 平泉からロシア正教まで』面屋龍延、1994年(同書のうち、大石直正による「第2章 奥州藤原氏と貢馬の道」の前半部分から。おだずま要約・再構成)■後続記事 北方へのびる道(2026年04月17日) 東北と海の大道(2026年04月18日)1 貢馬遞送1188年(文治4)、藤原泰衡から京都に送る途中の貢馬(くめ)、貢金、桑糸などが、相模国府に近い大磯駅(おおいそのうまや)に着いた。すでに義経を保護し交戦状態にあった平泉からの貢納物であったため国府役人が源頼朝に報告すると、頼朝は、泰衡は反逆に与するものだが、これらは公物であるから抑留すべきではないと返事した(吾妻鏡)。このことから、奥州藤原氏の貢馬や貢金は東海道を通って京都に運ばれたことと、公物すなわち国家的な貢納物と考えられていたことが明らかだ。これ以前の11世紀の陸奥国からの貢馬は、新任の陸奥守が第一に行わねばならない重要な仕事であった。公物である馬の運送は国家的に行われ、官道の宿駅の間を国内の人民の負担する役によって、遞送(送り継ぎ)された。貢馬遞送の実態は、天喜年間(11世紀中ごろ)の例が、美濃国大井荘(大垣市)と茜部荘(あかなべ、岐阜市)の史料で知られる。2 東海道と東山道貢馬の官道が、陸奥国と美濃国が含まれる東山道であることは当然とも思われるが、冒頭の1188年の貢馬は、少なくとも相模国までは東海道を通っている。じつは、東海道から東山道の美濃国に抜ける道は、すでに奈良時代から使われていた。734年(天平6)尾張国正税(しょうぜい)帳、739年(天平10)駿河国正税帳には、陸奥国から進上する御馬の飼糠米などの費用が記されている。陸奥国からの貢納物が東海道(尾張、駿河)を経由したのは明らかである。おそらく、陸奥国から常陸国に出て東海道を通るコース、あるいは下野国から後の鎌倉街道と同じような道で相模国に抜けるコースが使われただろう。陸奥国に属する出羽国の場合は、進上御馬が北陸道を通っていた(733年(天平5)越前国郡稲帳から)。なお、陸奥国から下野国に出る東山道本道は白河関を越えるが、陸奥国から東海道の常陸国に抜ける道は菊田関(勿来関とも)を越える。後者の地域は陸奥国内でも古くから海道あるいは東海道といわれていた。また、東山道本道から分かれて久慈川の谷に沿って南下して常陸国に入る道もあった。その途中に焼山関があった(茨城県太子町北田気、南田気と推定)。「今昔物語集」巻27第45話には、相撲使(すまいのつかい)が焼山関付近を通る話だが、官使も東海道を通って陸奥国と都を往返したことを示している。3 陸奥国交易御馬と糠部郡奥州藤原氏の貢馬の前提となる陸奥国交易御馬は、陸奥国の正税をもって交易(きょうやく)して入手した馬を毎年11月12月のころに20疋または30疋づつ貢納する制度である。年の前半に、陸奥国御馬交易使なるものが朝廷から派遣され、その交易使が馬を牽いて上京する慣例だった。貢進された交易馬は、紫宸殿または清涼殿の南庭で、天皇の前で陸奥国交易御馬御覧の儀式が行われた。この陸奥国だけの制度は、10世紀中ごろに始まった。対象となる馬は北奥産だったと考えられる。陸奥国には、南部にも安達牧のような馬産地はあるが、陸奥国の産馬の名を高らしめたのは何といっても北奥の糠部郡の牧である。糠部(ぬかのぶ)郡は、現在の一戸から九戸にいたる広大な地域で日本最大の郡である。全郡が馬牧のようなところで、糠部駿馬の名声は全国に聞こえ、武士にとって垂涎の的であった。「源平盛衰記」では、熊谷次郎直実が上品の絹200疋を投じて買った名馬権太栗毛は一戸の牧の産。頼朝秘蔵の名馬で宇治川の先陣争いで有名な「いけづき」「するすみ」「わかしらげ」は、三戸立ち、七戸立ちの馬という。藤原基衡が都の仏師雲慶に送った品物にも糠部駿馬50疋が加えられていた(吾妻鏡)。糠部が郡に編成されるのは12世紀で、それ以前は蝦夷の村として把握されていたが、その時代からすでに蝦夷は名馬の産地で人々は争って蝦夷と馬の交易を行っていた。すでに787年(延暦6)、王臣百姓が綿や冑鉄を売って狄馬、俘奴婢を買い求めることが禁じられ、815年(弘仁6)には、権貴の使、豪富の民が争って蝦夷の馬を求めるため馬の値が騰貴し兵馬が得がたいとして軍用に耐える馬を国境から持ち出すことを禁じている(類聚三代格)。これらの狄、蝦夷の居住地の中に後の糠部郡が含まれていたのは間違いない。4 馬の交易と蝦夷の反乱9世紀から10世紀にかけて北奥羽では、馬の交易をめぐり蝦夷との紛争が絶えなかった。出羽国方面のことだが、元慶の乱(878年)の原因は馬と鷹の交易に伴う紛争であった(出羽国の国守藤原保則の伝、三善清行筆)。また901年(延喜1)に、陸奥守藤原滋実(しげざね)の死の遠因となった蝦夷との交易の問題性や官吏の腐敗を、菅原道真が痛烈に批判している(菅家後集)。道真は、人々は陸奥国に対して金・皮衣・鷹・馬などを求めるが、これらはみな狼のごとき夷民との交易で得るもので、昔から夷民の変が起こるもとになっているという。ところが蝦夷の反乱の記録は10世紀中ごろまでで、以後はぱったり消える。これは、陸奥国交易御馬の制度化の時期と一致するので、両者は関係するのだろう。10世紀後半、陸奥守には、平貞盛、平繁盛、平維叙(これのぶ)など桓武平氏一族(平将門の乱で活躍した家柄)が相次いで任ぜられたが、こうした武者の登用による軍事力強化は、蝦夷の反乱鎮圧がねらいであったに違いない。並行して蝦夷との間の馬の交易の統制が行われ、それを踏まえて陸奥国交易御馬の制度ができたと考えられる。糠部の南は、奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、志和、岩手)だが、これは胆沢城直轄の俘囚(服属した蝦夷)の居住地として編成された特殊な郡である。馬の交易統制はおそらく奥六郡の組織を介して行われた。奥六郡の司で蝦夷社会と深い関係にあった安倍氏が交易統制に一役買っていたことは疑いない。5 藤原氏の貢馬陸奥国交易御馬は1120年(保安1)を最後に史料から消える。奥州藤原氏初代清衡の晩年であるが、奥州藤原氏は私的な貢馬とともに、国土貢(くにのどこう)といわれる公的な貢馬を行っていた。これは交易御馬と同様に毎年20疋だったようで、交易御馬を受け継いだと考えられる。1186年(文治2)、頼朝は秀衡に対して、貢馬貢金は国の土貢であり東海道の惣官として自分が管領する立場にあるので今年から自分が伝進すると要求した。頼朝の管轄下にあるというのは、1183年(寿永2)宣旨による東国行政権に基づくのだろうが、いずれにしても奥州藤原氏は事実上頼朝の統率下に立ち、貢馬は鎌倉に進上され、鎌倉を経由して京都に送られた。冒頭(1 貢馬遞送)に述べた泰衡の貢馬・貢金はその後の義経問題を契機とする鎌倉と平泉の手切れ後のもので、奥州藤原氏滅亡直後の1190年(建久1)春に頼朝は20疋の貢馬を行うが、奥州藤原氏時代の例を受け継いだものであった。もう一つ重要なことは、頼朝による貢馬・貢金の伝進が、奥州藤原氏の鎌倉への従属を意味しているとすれば、逆に、貢馬・貢金は奥州藤原氏の独立の証だったということである。貢馬・貢金を行う政治権力として朝廷から認知されていたのであり、奥州藤原氏のアイデンティティにかかわる特殊な貢納物であった。
2026.04.16
コメント(0)
先日の12日(日)投開票された全国の首長選挙では、パワハラやセクハラに関わった現職の当落が分かれる結果となった。前回の当ブログ記事(下記)で取り上げた4つの市や町について、単純に結果を見れば、パワハラで2勝1敗、セクハラは1敗、というのが現職の当落状況だ。■関連する過去の記事 パワハラとセクハラの首長選挙(2026年04月14日)もちろん、選挙の争点はそれだけではないし、ハラスメントと一口に言っても状況はさまざまだし、当該行為だけでなく日頃の現職の首長の人格や言動、振る舞いが、どう有権者に受け止められているか、が問われるのだろう。あえて図式化すれば、当該現職が有権者の支持を得るかどうかについて、次の要素を提示したい。(a)行き過ぎた行為それじたいの重大性あるいは有権者の忌避感(b)当該行為によって生じる市政町政の混乱や停滞の度合い(c)当該行為についての当人の反省や再発防止策についての評価(d)当該行為を惹起する日頃の当人の人格、言動、振る舞いについての有権者の評価(e)上記以外での当人の首長としての実績に対する評価(更に、当落結果については、選挙なので相手候補の数、候補者の人物像や政策、支援者の状況などが大きく影響するし、投票当日の天候など投票率も影響する。)これらの要素の強弱によって、当人(続投をめざして立候補する現職)への支持が決まるという構図だ。(a)が比較的軽微で、(b)議案総反対や不信任決議もなく、言ってみればちょっと行き過ぎたところもある人物だがむしろその性格が市政や町政の推進に役立っているなどの(d)評価が高ければ、(c)もあることだし、現職の方が良いのじゃないか、と有権者が思うだろう、という説明だ。ここで、(d)と(e)をあえて分けたのは、「他の政策(e)でいいから、パワハラを重視しない」(峻別による正常化)というのと、「パワハラは行き過ぎだが、それも当人の実行力の逸脱であって、もとの実行力は(d)大いに評価している」(逆に関連付けて合理化)、というのを分けるためだ。そして、実は(d)が有権者に重視されているのではないか、と個人的に感じるからで、その感覚を持つ一つの原因は、明石市で市長をやっていた泉房穂さんへの市民の評価(出直し選挙で圧勝)を想起するからである。私は、前回記事に記した山形県西川町、黒部市、佐賀県有田町、同県吉野ヶ里町の状況について、的を射た解説はできないが、一般論として次のようなことが言えるのではないだろうか。パワハラは、対象者が職員、議員、関連の深い企業などだろうから、有権者のほとんどからみれば実害もなく、客観的には役場内の風土の透明性健全性には関心を抱くだろうが、議会で不信任や訴訟にまで発展して市政町政が混乱や停滞する事態(b)にでもならなければ、さほど気にしないのではないだろうか。むしろ、ある程度実績があると(e)、有権者の心理としては、パワハラは良くないけどそういう人だからね(d)とむしろ積極的に「合理化」してしまう(そう考えたくなる)ということかも知れない。ただし、セクハラは事情が異なり、当人の人格の印象を一気に下げるし(そんな人物が首長でいいのか)、好機の目から、自治体のイメージを長期にわたって落とす可能性もある。以上、役立たずの考察でした。投票率への寄与、争点の分析(発言データ)などをすれば、研究テーマとして大いに成り立つかもしれない。
2026.04.16
コメント(0)
昨日の月曜が新聞休刊日なので、今日(4月14日火曜日)の朝刊各紙(紙面)に日曜日の全国の首長選挙の状況が報道されている。気になったのは、パワハラやセクハラにまつわる記事が多いこと。以下、河北新報、毎日、朝日の記事から。●パワハラ認定菅野氏再選/「信任得られた」神妙に/大泉氏現職批判不発(山形県西川町)・現職の菅野大志氏(47)が、新人大泉敏男氏(71、元東北労金山形県本部長)を破り再選。・菅野2147 大泉1052・投票率 83.72%・菅野氏は、複数の町職員へのパワハラが第三者委員会に認定されていた。・4年前も争った大泉氏に1000票以上の差で圧勝・菅野氏は、街頭に立たず、毎晩個人演説会で実績を強調し、若者の定住策など町の未来を語ることに注力して支持を集めた・大泉氏は、パワハラ絶滅宣言の町にする、など現職批判を強めたが浸透せず●黒部市・前副市長上坂展弘氏(64、無新)が、現職武隈義一氏(58、無現)を破る。・投票率60.03%・管理職へのパワハラ疑惑を抱える武隈氏と、昨年まで部下の上坂氏が争う異例の構図・両氏とも自民党籍を持つ保守分裂選挙だった●パワハラ町長3選/佐賀・吉野ヶ里/「対応は卒業」(佐賀県吉野ヶ里町)・男性部下へのパワハラ発言が認定された現職伊東健吾氏(78、無)が、3選。・伊東氏2321票。次点とは435票差。前回から1500票ほど減らし、新人3人の合計得票が5216・投票率59.48%(前回55.33)・当選後、伊東氏は「これで卒業させていただく」と。その後、「行政はそれだけが仕事ではない、仕事の一つとしてやっていく」と発言を訂正。・町の課長だった男性は、新庁舎建設に関し財政負担に難色を示したところ、伊東氏の「俺が(課長職を)代えてやる、建設的な意見を言いなさい」とのパワハラ発言の後に死亡。町の第三者委員会は伊東町長のパワハラを認定した一方、死亡との因果関係は対象外として調査せず。遺族はパワハラが原因と主張している。●セクハラの現職 佐賀・有田は落選(佐賀県有田町長)・3選をめざした現職の松尾佳昭氏(52、無)が落選。・松尾氏3164票、元町財政課長鷲尾佳英氏(60)に1852票差をつけられる。・投票率69.70%(前回67.43)・松尾氏は、町内進出を検討していた名古屋市の企業を訪問した際、企業側が設けた宴席の二次会で泥酔し、飲食店女性にセクハラをし(昨年9月)、一度は辞意を表明(12月)したのち撤回していた■おだずまジャーナル補足。次の記事(下記)に続きます。 パワハラとセクハラの首長選挙(再び)(2026年04月16日)
2026.04.14
コメント(0)
久々の白熱した選挙戦が展開される、と評価していいだろうか。大崎市長選挙(19日投開票)が告示され、4人の新人が立候補した。合併新市の20年の歴史を担って勇退する伊藤市長の後任者が誰になるのか大いに注目される。届け出順に、候補者を紹介する(河北新報記事から情報を引用)・鹿野良太氏 元市議会議員(劇団員、銀行員) 48 2022市議トップ当選、0-2歳児保育料無料化、DX推進、企業誘致などをめざす・高島健一氏 農業(結婚式場勤務) 67 娯楽の充実、鳴子温泉への大手ホテル誘致などをめざす・藤本勘寿氏 元市議会議員(銀行員) 32 2022市議、財政再建、東北第2の経済圏形成、子育てワンストップサービスなどをめざす・中島源陽氏 元県議会議長(農業) 63 大崎未来塾の創設、農業の振興などをめざす2006年3月31日(年度末の最終日)に大崎氏は誕生した。翌4月の選挙で初代市長に伊藤康志市長が当選。人口は2006年13万9157人から2025年は12万1226人と1割強減った。合併後20年で小学校20校、中学校2校が閉校。新たに小学校2校、義務教育学校2校が誕生。15歳以下の子どもの数は合併当時に比べ約3割、6760人減った。合併前の旧6町に対して旧古川市域は人口が微増しており、人口推移には偏りも。また、観光振興や古川駅前の再生も大きな課題だ。(以上、河北新報記事から)これまでの選挙を振りかえる。・2006年当 39,546 伊藤 康志 無新 37,139 本間俊太郎 無新 2,941 渋谷 貞雄 無新・2010年当 34,404 伊藤 康志 無現(2) 25,924 本間俊太郎 無新 14,656 佐藤 仁一 無新・2014年 無投票・2018年当 39,982 伊藤 康志 無現(4) 14,774 加藤 幹夫 無新・2022年 無投票■関連する過去の記事 宮城の首長選挙の投票率を考える(再び)(2012年7月9日) 首長選挙の投票率を考える(2011年2月21日)(県内市長選との比較) 大崎市長選挙は伊藤氏再選(10年4月19日) 大崎市長選挙を考える(10年4月18日) 大崎は伊藤氏、気仙沼は鈴木氏(06年5月1日) 大崎市長選挙を注目する(06年4月30日)
2026.04.13
コメント(0)

桜の名所、涌谷町の城山公園に行ってみた。晴天の日曜日だ。ここから、城山公園(涌谷神社)に石段を上る。往時はこのあたりが船着き場で、涌谷の町は舟運で大いに栄えただろう。江合川のはるか先に望むは舟形連峰か。城山公園の最奥部に、涌谷神社。非常に風の強い日で、桜の枝が揺れている。■関連する過去の記事(涌谷町。ほかにも多数ありそうですが) 箟岳白山小学校(2025年05月30日) 涌谷町の殺人事件(2022年11月20) 涌谷町の地名 産仮小屋(2015年4月25日) 誉れ高き箟岳分校史(2012年5月15日) 定時制箆岳分校の充実ぶり(2012年5月14日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日)=涌谷町と鉄道の歴史 ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月25日) 涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日) 金華山と涌谷を考える(06年12月17日)
2026.04.12
コメント(0)

県道泉塩釜線(旧道)を、今市橋方面から多賀城・塩竈方面に進むと、郵便局あたりに三差路がある。ちょっと先(東)には、利府街道(仙台松島線)が岩切大橋に続いてオーバーパスしていくのが見える。看板がある。こう書いている。追分(おいわけ)の道標ここは二つの路線に分かれる分岐点であり、昔はここを追分といっていた。一つは利府・松島方面への道(奥大道)、一つは岩切の町を経て多賀城・塩竈への道(東街道)である。従是右 しほがまミち 1り25丁左り まつしまミち 3り27丁年号は「安永3年」(1774年)側面に「施主亀屋庄右衛門」「妻」「子より」と刻んである。穀物問屋をしていた亀屋庄右衛門とその家族が、塩竈・松島遊歴の人々のために建てた。台座の上に建てたが現在は地中に埋もれて台座(大きな石)は見えない。刻んである文字はのびのびしており彫りが優れている。県内屈指の道標といわれている。岩切歴史探訪会■関連する過去の記事 奏社宮道道標(市川追分の碑、多賀城市)(2026年03月30日) 塩竈道と七ヶ浜道 ー 仙台藩の流通統制システム(2026年01月06日)■関連する過去の記事(松原街道、岩切など) 案内のネコ(2024年10月14日) 何事もあわてずいそがずまず相談(シリーズ仙台百景 43)(2024年10月14日)=苦竹の梅田川沿い 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) 原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日) 平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日) 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 岩切城跡を歩く(2024年04月02日)=利府町側からも登ってみた パルテノン神殿?(シリーズ仙台百景 42)(2024年01月06日) 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日)=鶴ヶ谷カトリック墓地 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 清水沼のこと(10年9月8日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2026.04.11
コメント(0)
岩手めんこいテレビの記事だ。(ネットで4月10日朝5:00の配信。宿場町の面影が残る住田町「世田米」の由来 地名に刻まれた歴史と新たなにぎわい)以下に概要を記す。長年岩手県の地名を調べている宍戸敦さんが解説する。昭和30年誕生した住田町は、上有住村、下有住村、世田米町の合併による合成地名。最初は気仙川の旧名鳴瀬川から、鳴瀬町を町名案としたが議会で字が難しいとされ急遽決定した経緯がある。世田米は、内陸と沿岸の中継地点として発展し、街道沿いに町家を並べ後ろに土蔵を立てるようになった。金田一京助は、世田米は、アイヌ語で「セタ・オマ・イ」、犬(セタ)がいるところ、と解釈している。世田米に犬頭山(いぬがしらやま)があるからと述べられているが、犬と世田米の関係はわからない。一方で宍戸さんは、地形由来の説に着目し、「せ・た」で狭い土地の前の意、「せ」は気仙川の川の瀬で、気仙川の瀬の前の土地、と考える。世田米駅という地名は江戸時代の宿駅の名残である。交通の要衝だった世田米の役割を今に伝え、新たなにぎわいを創出するため、古民家を改修した「まちや世田米駅」で2016年オープン。私は住田町が合成地名とは知っていたが、それは宮城県に来て宮城のあちらこちらの地名に触れているうちに気が付いたことだ。岩手の中学生のころは、そんなことには気づかず、むしろ、有住(ありす)という地名に不思議感を覚え、有住中学校は略したらアル中だな、と友達と言い合っていたものだ。■関連する過去の記事 有住と世田米で住田町(2022年12月10日)なお、地名については合併等による命名についての下記の記事のほか、多数の過去記事があります。 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日) 合併と広域地名を再び考える(岩沼と名取)(2024年03月22日) 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日)
2026.04.10
コメント(0)
4月9日の毎日新聞の記事(山田英之の署名)。なぜ猫は餌を残すのか。その答えを、岩手大学農学部の宮崎雅雄教授の研究グループが8日に記者会見で発表した。(以下、記事をおだずま要約)犬は一度に多くの餌を食べるが、猫は一日に複数回少量を食べ、空腹でも残す。その理由は不明だった。研究グループの実験によると、餌を与える回数を重ねると一回当たり食べる量は減るが、異なる餌を与えると食べる総量は増え、同一の餌でもにおいだけ別のキャットフードを嗅がせると食欲が戻った。また、休憩中に同じ餌のにおいを嗅がせ続けると、食べる総量は減った。この結果から、猫が餌を食べない理由は、満腹以外に、においが関わっていることが証明された。猫が食べないのは、気まぐれではなく、同じ餌を食べ続けることによる飽き(順応)と、新しい刺激による食欲の回復(脱順応)を繰り返すと説明される。9日の午後には、河北新報の記事(オンライン)にも出た。島形桜の署名。(以下、記事をおだずま要約)岩手大の研究グループがオランダの学術誌電子版に論文を掲載。気まぐれに見えるネコ特有の行動には、単なる満腹感だけでなく匂いが深くかかわっていることが判明した。ネコは一日に何度も少量づつ餌を食べ、空腹でも食べ残すことが多く、その仕組みはこれまで不明だった。研究では、同じ餌を繰り返し与えると徐々に食べる量は減少したが、途中で別の餌を与えると回復した。また、嗅覚の影響を調べるため、二層構造の餌皿(上段の餌だけ食べることができ、下段の餌は匂いを嗅ぐだけ)を用いた実験では、5回与えた後に下段だけ別の餌に替えると食べる量が再び増えた。研究は3年にわたり続けられた。ネコの食事行動は味覚より嗅覚に強く影響されることが分かり、高齢や病気で食欲が低下したネコの栄養管理やペットフード開発への応用が期待される。岩手大の宮崎雅雄教授(分子生態機能学)は、ネコが食事中に立ち去る行動の原因が、匂いへの慣れにあることが初めて科学的に解明された。匂いの調整で食事量をコントロールする研究は、人間や他の動物にも発展の可能性がある、と話した。そして、岩手大学の公式サイトだ。2026.4.8.掲載として、ネコがごはんを残す理由を解明ー同じ餌でも匂いを変えると再び食べるーが出ている。4月7日付のプレスリリースもあり、これは図解もあってわかりやすい。素人考えだが、匂いの多様性が食事量を促進するということは、なるべく多種多様な食物を摂取させることが、種の生存のためになるからなのだろうか。
2026.04.09
コメント(0)
国旗損壊罪の創設が話題になってきた。2025年10月、自民党と日本維新の会の間の連立合意に、2026年通常国会で制定をめざすとされ、特に高市総理の肝いりとされる。外国の国旗を破ると拘禁刑になるのに、日本の国旗をどう扱ってもいいというのはおかしい、と先の総選挙でも訴えていた。現行の刑法には、第2編第4章「国交に関する罪」の中に、外国国章損壊等の罪を定める(92条)。外国に侮辱を与える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊、除去または汚損した者は、2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金に処する(1項)。ただし、外国政府の請求がなければ起訴されない(2項)。この罪が存在するのは、日本の外交関係の保持という国家的法益をまもるためであり、日本の国旗等の損壊はここでの議論ではない。現行の実定法規の体系的解釈を旨とする刑法学の立場からは、「外国国章損壊罪があるのに我が国の国旗損壊が罪に問われないのはおかしい」式の主張は、的外れの議論と映るのが自然だろう。創設推進派が重視したいのは、日本の国旗に対する愛情や尊崇の念を法的に位置づけることだろう。適切な外交関係の保持という92条の保護法益とは全く異なるので、「外国国旗と同じように(それ以上に)日本国旗を守らないのはおかしい」式の議論は、上記の通りピント外れなのだが、主張派は(それを理解していても)一般受けはいい「わかりやすい」図式として、この主張をしていくだろう。そして、罰則を設けるかどうかも論点だが、「外国国旗だけ守るのはおかしい」式の主張からは、同様(以上)の罰則が当然となるのだろう。新聞各紙は、主に表現の自由に対する委縮効果を懸念するようだ。6日の日経社説は、国旗への敬意を強制することが、政治への抗議を国旗を用いて表現する場合を例にして、正当な批判や異論までも封じることになってはならないとする。国旗及び国歌に関する法律(1999年、閣法、小渕内閣)成立の際には、政府は国旗掲揚を強制することはしないと説明しており、法律には、国民の尊重義務などは規定せず、罰則も設けていない。(ところでこの時、与党は自民党、自由党、公明党。最大野党の民主党は採決に際し党議拘束を外し、議員の賛否は分かれた。ちなみに宮城県関係だと、衆院では賛成が安住淳、反対が日野市郎。参院では反対が岡崎トミ子、桜井充、である。)私自身は、立法政策としての選択の幅は広くあるべきと思うが、小渕内閣当時の配慮の経緯も踏まえ、感情論や大衆迎合、あるいは一過的な政治的得点の視点ではなく、我が国の社会のあり方を真剣に議論し合って、将来にわたり国民に納得される整合的な法体系を検討するのが真の立法府の責務だろう、ということを記したい。
2026.04.07
コメント(0)
1票差で当落が決まった3月の那須町長選挙について、5日に実施された全投票用紙の再点検の結果、次点で落選した小山田典之氏の得票が2票減ることになった。得票差は3票に広がり、平山幸宏町長の当選は変わらない。この件で続報があった。朝日新聞による。小山田氏の得票で2票減ったのは、いずれも小山田氏の姓に平山氏の名が書かれていたものが、新たに無効と判断されたからである。小山田氏は県選管に審査を申し立てる構えだが、自身の得票が減ったことは受け入れる一方で、平山氏の得票に疑問票があるとの見解だ。小山田氏側の立会人によると、平山氏の得票(5099票)のなかに、平山氏の名である幸宏(ゆきひろ)ではなく、「平山ひろゆき」などと漢字や平仮名で書かれた票が20票以上あり、すべて有効票とされたことを問題視する。那須町の副町長が平山浩之(ひろゆき)氏であり、小山田氏側は、候補者(平山幸宏)以外の名が書かれた可能性があると異議を唱える。ちょっと、ややこしい。町選管は、本来の「ゆきひろ」を「ひろゆき」と間違えたと考えられるため有効票とした。別人物(副町長)に投票した意図ではない、ということだろう。■関連する過去の記事 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.04.06
コメント(0)
1票差だった那須町長選挙(3月22日投開票)をめぐる投票用紙の再点検が今日(4月5日)午前から、町の体育館で行われたという。考えられる結果とその後の可能性について、朝日新聞の報道が良く整理されているので、以下に掲げてみる(表現等は、おだずま再整理)。パターン(1) 当落結果は不変→ (可能性。以下同じ)次点者が県選管に審査を申し立てパターン(2) 当落が逆転→ 現町長が県選管に審査を申し立て。訴訟に発展も。その間、町長の職にとどまるパターン(3) 得票同数=くじ引きで決定→ いずれも県選管に審査を申し立て更に朝日の記事には次のような解説がある。2017年葛飾区議選、2023年小山市議選では、票の再点検の結果、最下位当選者が1票差の次点者の票を下回ることになり、最高裁まで争ったが、当初最下位当選とされた者の当選の無効(次点の落選者が当選者となること)は覆らなかった。さて、午後の報道だ。再点検の結果は、次点だった小山田氏の票が2票減り、町長の平山氏との差は3票に広がった。当落結果は変わらない(上記のパターン1)が、小山田氏は県選管に審査を申し立てる構えだという。■関連する過去の記事 またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.04.05
コメント(0)
朝日新聞(宮城県版)2026年4月3日「石巻出身の軍人が見た「二・二六」」から。1936年の二・二六事件は近代史に残るクーデター未遂事件だが、石巻市出身の軍人が日記に書き残していた。旧稲井村出身の陸軍歩兵大尉、後藤東一郎(1915-1939)である。旧制石巻中学校を首席で卒業し、事件当時は、陸軍士官学校本科の生徒だった。26日の日記は、「社界に如何なる事変の生ずるにも拘らず余等は益々沈静(略)本分に邁進するのみ」。(おだずま注;カタカナを平仮名にし濁点を付した。以下同じ)翌27日には、「遂に戒厳令布かれ 香椎閣下戒厳令指令を拝命 帝都の治安に任ぜらる」、「デマはデマを生み 何とはなく不安の空色なり」。29日の日記は、「流血を出すに忍びざれど遂に武力を以て之を解決するに決せらると」。4日間のクーデターが終わった。7月には首謀した将校らに判決が下る。同月7日の日記は、「命令に依って動きし千有余名の兵の無罪を喜ぶ」。命令に従った兵士が咎められないことを後藤も喜んだ。事件から3年半、中尉となった後藤はノモンハン事件の戦場にいた。39年8月24日、ホロンバイルで、隊長の後藤は肉弾突撃を敢行。右腕を撃たれたが、自分よりも兵士の手当てを優先するよう衛生兵に告げ、立ち上がった瞬間に一弾が頭部を貫いた。23歳で戦場に倒れた。(死後に大尉に昇進。)後藤家は長男の戦死で家が途絶え、後藤の士官学校の卒業証書、勲章、日記などの遺品は、親戚が2010年、北村の施設平和資料館に寄贈した。館長で元女川高校校長の佐々木慶一郎さんは企画展を開いている。難を逃れた岡田首相の鉄瓶、斎藤実や高橋是清の掛け軸なども展示する。二・二六事件の背景には東北の冷害、米価下落、不況、政治腐敗があった。政治家は軍を恐れ、軍部独裁と大戦の破局につながっていった。過ちは繰り返してはならない、と佐々木さん。企画展は4月15日まで。
2026.04.03
コメント(0)

奏社宮道を歩くシリーズ。貴船神社(前回記事 貴船神社(多賀城市)(2026年04月01日))から更に110m上ると、多賀城神社。多賀城政庁跡の北側(集会所)に入る道の角だ。戦後の建立で、海軍工廠の遺構でもあるという。さすがは古代からの悠久の史都だけに、街道をちょっと歩いただけで、さまざまな時代の文化財に出会える。■関連する過去の記事(多賀城市) 貴船神社(多賀城市)(2026年04月01日) 伏石(多賀城市)(2026年03月31日) 奏社宮道道標(市川追分の碑、多賀城市)(2026年03月30日) 塩竈道と七ヶ浜道 ー 仙台藩の流通統制システム(2026年01月06日) 多賀城古代米の酒 おもわく姫(2024年10月01日) 多賀城緩衝緑地と砂押川災害復旧(2015年6月21日) 湊浜の昔(2015年3月15日) 末の松山と東日本大震災の津波(2013年10月19日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 野田の玉川 歴史散歩(その1)おもわくの橋~大土手橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その2)清水橋~おもわくの橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その3)天神橋~せせらぎ橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 多賀城のあやめ(09年6月13日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日)■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 多賀城碑をよみとく(2024年12月21日) 国宝指定された多賀城碑(2024年09月16日) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)
2026.04.02
コメント(0)

塩竈道(奏社宮道)を市川追分から登っていく。伏石(前回記事 伏石(多賀城市)(2026年03月31日))から、さらに180mほど街道を上ると、貴船神社がある。■関連する過去の記事(多賀城市) 伏石(多賀城市)(2026年03月31日) 奏社宮道道標(市川追分の碑、多賀城市)(2026年03月30日) 塩竈道と七ヶ浜道 ー 仙台藩の流通統制システム(2026年01月06日) 多賀城古代米の酒 おもわく姫(2024年10月01日) 多賀城緩衝緑地と砂押川災害復旧(2015年6月21日) 湊浜の昔(2015年3月15日) 末の松山と東日本大震災の津波(2013年10月19日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 野田の玉川 歴史散歩(その1)おもわくの橋~大土手橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その2)清水橋~おもわくの橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その3)天神橋~せせらぎ橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 多賀城のあやめ(09年6月13日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日)■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 多賀城碑をよみとく(2024年12月21日) 国宝指定された多賀城碑(2024年09月16日) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)
2026.04.01
コメント(0)

前回の記事(奏社宮道の道標)の道標(市川追分)から、塩竈道を230m上ると、右手の路傍にあるのが、この「伏石」である。■関連する過去の記事(多賀城市) 奏社宮道道標(市川追分の碑、多賀城市)(2026年03月30日) 塩竈道と七ヶ浜道 ー 仙台藩の流通統制システム(2026年01月06日) 多賀城古代米の酒 おもわく姫(2024年10月01日) 多賀城緩衝緑地と砂押川災害復旧(2015年6月21日) 湊浜の昔(2015年3月15日) 末の松山と東日本大震災の津波(2013年10月19日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 野田の玉川 歴史散歩(その1)おもわくの橋~大土手橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その2)清水橋~おもわくの橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その3)天神橋~せせらぎ橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 多賀城のあやめ(09年6月13日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日)■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 多賀城碑をよみとく(2024年12月21日) 国宝指定された多賀城碑(2024年09月16日) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)
2026.03.31
コメント(0)

奏社宮(そうしゃのみや)道の道標。明治17,18年頃に塩竈新道ができたことから、大正13年に建てられた。左に塩釜旧道とある。当区佐藤長八建立、と読める。よく通る道だが、碑を気にかけることはなかった。下記の記事のもととなった斎藤教授の著作に塩竈道の市川追分の碑が出ていたので、よく眺めに行こうと思って出かけてみた。天気の良い3月下旬のうららかな陽気。多賀城跡、壺の碑、ガイダンス施設、新設のスケボーパークには多くの人が来ていた。■関連する過去の記事 塩竈道と七ヶ浜道 ー 仙台藩の流通統制システム(2026年01月06日)■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 多賀城碑をよみとく(2024年12月21日) 国宝指定された多賀城碑(2024年09月16日) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)■関連する過去の記事(多賀城市) 多賀城古代米の酒 おもわく姫(2024年10月01日) 多賀城緩衝緑地と砂押川災害復旧(2015年6月21日) 湊浜の昔(2015年3月15日) 末の松山と東日本大震災の津波(2013年10月19日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 野田の玉川 歴史散歩(その1)おもわくの橋~大土手橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その2)清水橋~おもわくの橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その3)天神橋~せせらぎ橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 多賀城のあやめ(09年6月13日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日)
2026.03.30
コメント(0)
今月22日投開票の栃木県那須町の町長選挙は、現職が5099票で3選、次点の前町議が5098票で、1票差の結果だった。なお、次点の候補は町選管に異議申出書を提出したと報道されている。今日の報道だが、町選管は、投票用紙の再点検を来月5日に一般公開で行うことを決定したという。投票者総数 10,566有効票 10,426無効票 140候補(現職) 5,099候補(前町議) 5,098候補(農業) 229ところで、獲得票が同数だった昨年11月の神栖市長選について。くじ引きで当選者が決定したが、他方が異議申立て。市選管による投票用紙の再点検が行われて、得票数は変わらず。次点だった人が12月に県選管に審査を求めていた。今月21日に3度目の点検があり、点検結果は来月以降発表されるという。■関連する過去の記事 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度)
2026.03.26
コメント(0)
昨日(23日)、東北高校は帝京長岡に1回戦で勝利し(5-1)、ダルビッシュを擁した2004年(ベスト8)以来のセンバツ大会の勝利、と報じられた(なお、甲子園での勝利は2009年夏以来)。4投手の継投で快勝だ。思い出す。いまでも時折テレビで名場面が流れるのだが、あの年、準々決勝で済美に9回裏に大逆転サヨナラを喫したときのマウンドは、ダルビッシュではなく、マカベッシュだった。実力派の真壁投手。宮城県民は本気で全国優勝を彼らに託していた。■関連する過去の記事 04年センバツ東北高校が大逆転負けした理由(2013年4月1日)
2026.03.24
コメント(0)
日露戦争で工作活動を行った明石元次郎大佐と並んで、我が国の歴史上、傑出したインテリジェンスを展開した人物で、連合国の脅威となったのが「諜報の神様」と呼ばれた小野寺信少将だ。英国国立文書館には、MI5が監視した人物の個人別ファイル(KV2)があるが、日本軍駐在武官で個人ファイルがあるのは小野寺ただ一人である。小野寺は、ヤルタ密約の日本関連部分で、ソ連はドイツ降伏から3か月を準備期間として対日参戦する、というウルトラ情報をスクープした。小野寺は、日ソ中立条約を破棄するソ連の裏切り行為に驚愕し、即刻東京に打電したが、結果として陸軍参謀本部内で握りつぶされた。情報を重視できなかった当時の陸軍中枢は、ソ連仲介の終戦工作を期待し続けた。また小野寺はこの情報を前提に参謀総長あてに電報を送り、モスクワを仲介し平和工作の動きがあるようだがそれは帝国の将来に最も好まざること、と諌めたとされるが、それも黙殺されたようだ。明石の成果は明治の参謀本部に生かされたのに対して、小野寺の成果は生かされず日本は無残な敗北を迎えたのだった。小野寺はいかにして情報を手に入れるネットワークを作り上げたのか。1935年にラトビア公使館付武官を発令されると、バルト三国の重要性から参謀本部と外務省に掛け合い、エストニアとリトアニアの武官も兼務する。そして、バルト三国、ポーランド、ハンガリー、フィンランドなど、ソ連の脅威に晒される国々の情報任務にあたる軍人たちと関係を確立する。それは、誠実な人間関係に結ばれた仲間と協力者であった。機密電報の暗号化や、日本料理で来客をもてなすなどの百合子夫人の功績も大きい。1939年小野寺はいったん帰国する。1939年第2次大戦の勃発のあと、ポーランドは独ソに分割占領され、ソ連はフィンランド領を割譲させバルト三国を併合した。1940年小野寺は、中立国スウェーデンの公使館付武官に発令され、翌年1月ストックホルムに着任する。ここで、小野寺がつくったヒューマンネットワークはすでにできあがっていた。バルト三国公使館時代の各国の情報任務の軍人たちが期せずしてストックホルムに亡命していて、ソ連はもとより連合軍の情報までも小野寺に集まる仕組みができていたのだ。ヤルタ密約でソ連参戦まで3か月しかないことを知った小野寺は、スウェーデン王国を通じた平和工作を企図し、折しも1943年10月ストックホルムに来た扇一登海軍大佐と投合し、扇を海軍武官として迎えようとしたが、臨時海軍武官の三品伊織大佐と組んだ岡本季正公使からビザ発給を妨害され、終戦工作の機会を逸した。以上は下記文献から、おだずまジャーナル要約である。インターネット情報では、小野寺信は1897年(明治30)岩手県前沢町の助役の小野寺家に生まれ、本家筋の遠野の小野寺家の養子になり、陸軍士官学校を卒業している。戦後は、妻の小野寺百合子とともにスウェーデン語の翻訳などにも努めた。■福山隆『スパイと日本人:インテリジェンス不毛の国への警告』ワニブックス、2021年
2026.03.23
コメント(0)
面白い記事だった。河北新報2026年3月15日の「とうほく・総合」面で「北から」のコーナー。秋田総局織田雅子さんの署名記事。趣旨は以下の通りだ。(記者は)東北に来て4年になるが、名前の最後に「悦」が入る人が目に付く。就職以前に暮らした関西や東京では一人も会ったことがない。全国の叙勲など名簿では、「悦」の名は東北に多い。不思議だ。この3年間で、取材用の携帯電話には、宮城と秋田で出会った8人の「悦」さんがいるが、全員が東北で生まれ育っている。由来を尋ねると、・(宏悦さん)農家に長男が生まれて喜ばれた・(仁悦さん、敬悦さん)他方の漢字の由来は明確だが「悦」ははっきりしないなど。由来がはっきりしないほど良く使われたのか。一説には、方言でイチとエツの音が混同されやすく、「一」と同じように使われた。たしかに今回尋ねた人はみな長男だった。氏名の名の方の地域性なんて考えたこともなかった。意識されるのは、名字の場合の地域的な偏りよりも、時代による偏在であろう。語感や有名人(翔平)などで「流行り」が考えられるが、我が国は全国エリアでほぼ日本語一本だし、メディアも全国規模で同質だ。地域によって「流行り」の偏りはないと根拠もなく思っていた。おそらく、記事の最後にある「イチ」の転訛または代用、というのが実態のような気がする。親が、真一のつもりでシンエツと発音したのを戸籍係が「悦」で受理した。エツと発音した、と書いたが、エはイとエの中間音、そして、ツは実際はヅだったろう。そんな事例からむしろ定着して、とくに長男の二字目に付けることが広まった、と考えられないか。また、悦の字だが読みはイチなんだ、という例も聞く。私自身も10人くらい知人の例を挙げられる。みな長男かどうかわからないが。(以下、関連する過去の記事) 方言漢字、地域文字(2025年01月03日) 方言漢字を考える(2019年11月18日)■姓名など 東北各県の特徴的な名字と珍名(2019年11月24日) 仙台の苗字の特徴(2016年1月11日) 変わった名前で珍問答(2015年2月10日) 東北の変わった苗字(2015年2月9日) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 宮城の代表的な苗字は(06年9月13日) 宮城県の苗字ランキング(06年9月12日) 姓と苗字の違い(06年8月23日) 宮城県の由緒ある苗字(06年8月1日) 苗字と名字の違い(06年5月22日) やっぱり多い鈴木さん (06年5月9日)■人の名前あれこれ シンコペーテッドな名前 再論(2023年01月03日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 下から読んでも同じ名前(2011年11月25日) 同一の段だけの氏名はあるか(09年4月23日) ア列の名前(08年7月26日) 回文を考える(07年9月15日) シンコぺーテッドな名前(06年12月22日) 姓と苗字の違い(06年8月23日) 苗字と名字の違い(06年5月22日)
2026.03.20
コメント(0)
13日の新聞に出ていた。町側は仙台地裁判決に対して期限の11日までに控訴しなかったことがわかり、これで、町議会の解散の是非を問う住民投票は行われないことが確定した。直接請求のもととなったSSP構想は、事業者と町が取り止めているから、これで一連の騒動は一段落ということになろう。ただし、それは政治的な一段落だ。町長選挙でも争点にされた町の重要政策をどうするかという意味と、併せて、住民自治のための直接請求の機構を用いて争われた過程としては終息という意味に過ぎない。まずもって、一番大事な点だが、地域政策として町の振興をどう図るのかの根本課題は当然残っている。加えて指摘したいのは、署名を有効として対応した町や町選管の事務処理の適正さ、である。この点は忘れられてはならない。公務が正しく運営されていたのかの問題であり、今後の公務の信頼性にかかわる問題であるから、事実解明と対応策の表明が不可欠だ。町長が代わったからとか、裁判所が白黒つけたから、という話ではなかろう。■関連する過去の記事 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.03.16
コメント(0)
源義経が生き延びて樺太を経てアジア大陸に渡り、モンゴルに入ってチンギス・ハーンになった...よく言われる説だ。岡田英弘によると、次のように説明されている。(岡田英弘『歴史とはなにか』文春新書155、2001年)木村鷹太郎は、日露戦争の後の1911年、『世界的研究に基づける日本太古史』を発表し、日本人の祖先は古代エジプト人と古代ギリシャ人で、世界のすべての文明は日本からはじまったと主張した。小谷部(おやべ)全一郎は、日本軍のシベリア出兵のあとの1924年、『成吉思汗ハ源義経也』を発表して、大ベストセラーになった。こうした奇書は、時代の節目ふしめに出現したが、なかでも竹内巨麿が1928年に発表した『竹内文書』の内容は奇抜で、神武天皇より古い日本超古代王朝が全世界に君臨したとした。こうした超古代ものでは、第二次大戦後に和田喜八郎が創作し1975年に公開した『東日流外三郡誌』というような「古文書」もあるし、それがいまでも結構人気がある。小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』のもとは、1879年(明治12)、英国ケンブリッジ大学に入学した末松謙澄(のちの逓信大臣、内務大臣)が、差別的な待遇が頭に来て、イギリス人をよそおい匿名で書いた論文だ。それを1885年内田弥八が『義経再興記』として訳述・出版して、大きな反響を呼んだ。それがいまに絶えない源義経=チンギス・ハーン説の起源だ。(以上は引用だが、一部おだずま編集あり)上記の引用で、時代の節目ふしめに奇書が登場した、とある。岡田氏の著作によると、日本人の明治以来のコンプレックスを背景に、日本人のアイデンティティ探しがさかんに行われた。『古事記』の高天原を探して、モンゴルかチベットか。また、世界中に日本語と同系統の言語がないことから、ルーツ探しとして、朝鮮語と同系統だとして日鮮同祖論がはやった。しかし実は日本語と韓国語・朝鮮語には共通点は少なく文法構造も違う(語順だけ似ているが)。そして日本語のルーツ探しはますます空想的になり、木村鷹太郎(ようたろう、英文学者)は日本語の祖先はギリシア語だと提唱。これは当時の列強とおなじ印欧系となり心強い。さらに、アジアは一つ(岡倉天心)として、レプチャ語と同系統(安田徳太郎)、ビルマ語が同系統(西田龍雄)、タミル語と同系統(大野晋)などの系統論がでたがどれもうまくいかない。などなど。■関連する過去の記事(平泉、義経、ジンギスカン) 高橋克彦の描く泰衡(2022年3月28日) 仙台四郎はジンギスカンか(2016年6月30日) 十三湊の信仰の山 靄山(2015年9月21日)(泰衡の見た靄山) 厩石と義経寺(2013年6月13日) 判官堂(義経神社)、白山神社、樋爪館(2012年10月28日) ジンギスカンと遠野(2010年12月14日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(2010年10月24日) 平泉の終焉 泰衡の実像と義経北行の真実(08年5月26日) 聡明なる藤原第四代泰衡(08年5月19日) 生きよ義経 泰衡と月山神社(08年5月11日) 奥州藤原氏17万騎消滅の謎(08年4月29日) 平泉の優位性を考える(07年11月5日) 発進!平泉を世界へ!(07年9月30日) 都市平泉の予想図(07年1月28日) 平泉への道(06年1月11日) 義経伝説と東北の歴史ロマン(05年12月8日)■関連する過去の記事(東日流外三郡誌) 十万都市だった十三湊(2014年4月29日) 壮大なニセ歴史ロマン(07年5月27日) 津軽とジャパン(06年8月28日)■関連する過去の記事(キリストの墓) 大石神ピラミッドと新郷村の旅(2012年8月19日) キリストの墓(2012年8月18日) 新郷村とキリスト伝説を考える(2010年12月12日)■関連する過去の記事(タミル語、大野晋) 父母を示すアッチャ、アヤの不思議(2016年1月5日) 縄文時代の言葉(08年11月24日) 東北はイロリの文化(07年2月14日)
2026.03.06
コメント(0)
大郷町のSSP構想をめぐる住民投票の問題。以前、記事にした後の動きについて。2025年8月の町長選挙で争点となり、構想を推進する現職田中学氏が敗れ、見直しを視野に入れるとして当選した石川良彦町長が、10月になって事業者と役場で会談。規模縮小を提案した町長に対して、事業者は撤退を意思表明。そして、きのう(2026年2月25日)、議会の解散請求の署名の一部に無効なものが含まれているとして町議3人が無効確認(186人分が代筆で無効)を求めて訴えていた裁判で、仙台地裁は、町選管が有効とした署名2135人分のうち、12名の署名を無効と判断した。違法な代筆が10人(本人に心身の故障がない、委任していない)、署名後に町選管が有効と判定するまでに死亡した人が2人いるということだ。これにより、有効署名数は議会解散に必要な3分の1(2127人)を4人下回ることになる。これにより、議会解散を問う住民投票は白紙となる見通しだ。なお、町は控訴を検討するとの報道があるが、地裁決定に対しては控訴はできず、上告の可能性だけ。下記2025年4月16日記事参照。もっとも、構想を断念した町として議会解散にこだわる理由は最早なく、どっちにしても住民投票はもうないだろう。SSP構想自体の帰趨は一定の方向に収束していくと思われる。この件の大きな課題としては、町選管の事務処理が適切だったのかがやはり問われなければならない。公務の信頼性の問題だ。ところで、仙台地裁の判決のニュースでこの件をきのう思い出したのだが、前の記事を書いた時点では、地方自治法の規定(76条4項で準用する74条の2第8項)により判決は100日以内だから、夏に結果が出ると思っていた。よくいう百日裁判とは、公職選挙法の場合(同法213条など)を指し示すことが多いようで、自治法の場合は結構長期になっているのが実態なのかも知れない。■関連する過去の記事 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.02.26
コメント(0)

4年ぶりになるが、三山線の線路跡をたどってみた。間沢からの西川町分のルートは以前記した(下記)が、今回は、前回はたどれなかった寒河江市分について。なお、国道沿いの酒造博物館(設楽酒造)は冬季閉鎖中で、展示の電車は足場とシートで囲まれていた。雪で一面白い田んぼの中を進む路線跡の道路は、爽快なドライブだ。国道112号をクランクのように横切って白岩地区に入る。白岩駅の跡の遺構を過ぎたはずだが気づかなかった。そして、寒河江川にかかるのが、みやま橋。みやま橋、寒河江川とある。その手前左手の青い看板には、自転車・歩行者専用道路、とある。画像の右側の看板は、さくらんぼサイクリングロード案内図。車は通行できないのだった。いったん戻り、国道112号を進んで、左沢線の羽前高松駅に寄ってみる。この駅舎の右手のほうに、三山線の駅舎とホームがあったという。待合室は非常にきれいで、いくつかパネルが壁に掛けられている。画像の左手のパネル。大正11年4月24日、羽前高松驛開通祝賀會余興藝者の踊、とある。右手のパネルには、次のように説明がある。大正11年(1922)4月23日、地区民待望の左沢線寒河江・左沢間が開通し、羽前高松駅が開業した。駅前には「祝開業」の見事な緑門が建てられ万国旗が翻った。高松迂回か、それとも左沢へ直行か線路敷設は大問題となったが、高松村の工藤八之助・國井門三郎等の大地主の政治力と寒河江川山内の人々の熱意が高松迂回を可能にしたという。やがて、駅周辺には農業倉庫、共同施設、商店などが建ち、この辺りの産業経済の中心となっていく。大正15年(1926)12月、月山山麓の資源開発等を目的として三山鉄道も開通した。(宇井啓)ホームから西方向(左沢方)を望む。この画像だと右手の方に、三山線の駅舎があったようだ。■関連する過去の記事(西川町、三山線) 三山線最後の写真(2023年11月19日) 三山線の名残りを探して(西川町)(2022年10月29日) 五色沼、志津温泉、清水と苔の西川町(山形県西川町)(2022年10月27日) 朝日軍道(2016年4月3日) 山形で一番寒い大井沢の「ゆきんこ祭り」(2016年1月7日) 出羽三山(2010年12月7日) 大井沢の大栗(10年4月13日) 山形交通三山線の電車モハ103(07年11月23日) 三山線とサイクリングロードのこと(07年10月21日) 月山トレッキング(07年10月20日)■関連する過去の記事(山形と鉄道) 奥羽・羽越新幹線整備実現同盟(2022年10月17日) 長井線の踏切たち(2016年5月4日) 山形鉄道フラワー長井線に乗る(2016年5月3日) 山形の鉄道建設熱を考える(続)(07年1月3日) 山形の鉄道建設熱を考える(07年1月2日)
2026.02.24
コメント(0)
きのうの新聞に共同の配信として、ロシア出身選手が外国の代表として多数出ているという。ウクライナ侵攻の制裁措置でロシアは国としてミラノ・コルティナ五輪に参加できないが、同国出身で外国代表として37人が出場、うち22人はフィギュアスケート選手である。ロシア国内では、他国代表となる選手に投じた多額の公費が無駄になると指摘され、賠償を求めるべきなどの議論があるという。日本時間の火曜日早朝のペア決勝では、日本の三浦・木原組(りくりゅう)が見事な金メダルだったが、私はテレビ画面のドイツ代表にボロディンの名を見つけて、ロシア五人組だ、と何度も言ってしまった。きのうの新聞記事には、そのボロディンが、ロシア国内でパートナーが見つからずドイツ国籍を取得したと記されていた。やはり、ロシア出身だったのだ。ロシア五人組。半世紀の前の小学校の音楽室の年表で見た記憶だけだ。たしか、ロマン派のあと、国民楽派に移るあたりに、5人まとめて緑か何かの背景色で括られていた。バラキレフ、キュイ、リムスキー=コルサコフ、ボロディン、ムソルグスキー。年表の音楽家の名の下には、代表曲が記されているのだが、バラキレフだけは5人組の中心と書かれていたと思う。小学生のころは先生に音楽史を教わるでもなく、音楽的な理解も関心もなく、ただ、貼っている年表の名が無機質に頭に残っただけだ。中学生になって以降は、音楽に親しんだので、それぞれの作曲家の作品を聴く機会も多く、ボロディンといえば「中央アジアの草原にて」「イゴーリ公」と結びつく。いまでも日本の学校の音楽室に、年表はあるのだろうか。
2026.02.19
コメント(0)
きのう(2026年2月17日)の河北新報朝刊の記事から。浪江町で、伝統的工芸品大堀相馬焼の窯元の松永窯が、荒廃した旧店舗を遺構として公開している。4代目の松永武士(37)さんが、原発事故で奪われた故郷の記憶を次代につなげるため保存を決意したという。床には散乱した陶器の破片。壁の時計は2時46分あたりで止まっている。国の伝統的工芸品の大堀相馬焼は、浪江町大堀地区で江戸時代に発祥し、300年以上の歴史。青ひびと馬の絵が特徴。原発事故で20数軒の窯元は避難を強いられ、松永窯三代目の和夫さん(77、武士さんの父)は山形県や栃木県を転々とし、2014年に西郷村で作陶を再開した。事故から7年ほどたって武士さんが初めて故郷の店を訪れたとき、この惨状を伝えるための保存を考えた。23年3月に特定復興再生拠点区域として避難指示(帰還困難区域)が解除された。旧店舗を国費で解体する選択肢もあった。また、維持管理費などの負担から両親には反対されたものの、武士さんは保存を決断。国の補助金を活用して窓や壁を最低限補修し、通路を石畳にして歩きやすくした。維持管理費は、入館料200円とクラウドファンディングで充てる。25年夏に公開を始めている。今後は、隣接する窯場を住民の交流や芸術を学ぶ拠点にするという。年中無休、900から1700、無人営業なのでホームページ(下記)でチケットを購入する。震災遺構ギャラリー松永陶芸館■関連する過去の記事 大堀相馬焼(浪江町)を考える(2024年04月13日)
2026.02.18
コメント(0)

世界遺産の今帰仁城跡のエリアの入り口に位置する赤瓦の施設が、今帰仁村歴史文化センターだ。展示施設の城跡側の出口に、これがあった。大震災から7年を過ぎた2018年5月に、古宇利島沖で発見された。海流から考えると、いちどアメリカ大陸西海岸まで漂流して戻ってきたかも知れないという。大航海を経験した船を発見して引き揚げ、そして念願の持ち主に会わせてくれただけでなく、疲れただろうこの船にしばしの休みの場を作ってくれた沖縄の方々に、感謝です。来月で、東日本大震災から15年になる。旅人の私も、たまたまだが、ここで船に遭遇したのだった。
2026.02.15
コメント(0)

先日の記事(下記)に記した一番町四丁目のキクチさんをたびたび利用したのは、社会人になってからで、学生の頃の行動範囲では、文具といえば「巴屋」さんによく行っていた。中央通りの大町商店街(マーブルロードおおまち)の中で(1.5番丁などと呼んでいた)辻に斜めに面した店。今の楽天ショップのところだと思う。たまたま今日、家の中の片づけをしていて、これが出てきた。記載された住所は、やはりあそこだ。懐かしい。■関連する過去の記事 キクチが閉店(シリーズ仙台百景 44)(2026年02月12日)
2026.02.14
コメント(0)

一番町のキクチ。たびたび買い物していたので、閉店すると新聞記事でみたのが寂しく感じた。感謝をこめて、撮りました。■シリーズ 仙台百景(こんな企画で100まで続くでしょうか) キクチが閉店(シリーズ仙台百景 44)(2026年02月12日) 何事もあわてずいそがずまず相談(シリーズ仙台百景 43)(2024年10月14日) パルテノン神殿?(シリーズ仙台百景 42)(2024年01月06日) 止まる(シリーズ仙台百景 41)(2024年01月06日) 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日) 旧代ゼミ前(シリーズ仙台百景 39)(2015年10月24日) ペデストリアンデッキのマーク(シリーズ仙台百景 38)(2015年6月2日) send i(シリーズ仙台百景 37)(2015年4月18日) 飲酒運転に、喝!(シリーズ仙台百景 36)(2011年9月24日) みんなのよい食プロジェクト(シリーズ仙台百景 35)(2011年5月14日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 耀け!!ベガルタ仙台(シリーズ仙台百景 33)(2010年12月26日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) フェンスのメッセージ(シリーズ仙台百景 30)(2010年2月28日) 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) 松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) 陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) 県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) 冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) 県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) 数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) 半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) 仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) 仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) 仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) 仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) 仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) 仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) 仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) 仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) 仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) 仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) 仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) 仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) 仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) 仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) 仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2026.02.12
コメント(0)

新聞記事で知った。ギタリストの山下和仁さんが24日逝去された。16歳でパリ国際など世界三大ギターコンクールに次々優勝して注目を集め、その後、展覧会の絵などを自ら編曲したアルバムを発表し、世界的名声を確立した。(読売新聞記事から)1982年ころだったろうか、たぶん柳町通りの貸しレコード屋から借りてコピーした。そのカセットテープが残っている。当時、カセットテープはTDKが主流だったが、ソニーが音楽分野別の商品を販売しており、私はクラシック用のものを買って何曲か意気揚々ダビングしたが、その最初のテープがこれで、大事にしていた。ただし、プレーヤーは今から数年前に廃棄した。ウォークマンがあるが動くだろうか。ぜひ、また聴きたい。山下和仁さんは自分よりかなり年齢が上の方だと思っていた。ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。
2026.01.31
コメント(0)
新聞を読んで驚いた。棋士の加藤一二三さんが逝去された報道は木曜日に接していたが、翌日(1月23日)の河北新報朝刊を読んでいたら、一二三さんの告別式はカトリック麹町聖イグナチオ教会で喪主は長男順一さん、次女の美紀さんは仙台白百合女子大学長、と記されている。加藤美紀学長にお会いしたことはないのだが、仙台藩のキリシタンの歴史に関する仙台白百合女子大学カトリック研究所の書物を勉強して当ジャーナルに記したことがあり、その際に、加藤学長の書かれた解説を読んだのだった。■関連する過去の記事(キリシタンの歴史に関して)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)■同上(仙台白百合女子大学に関して) 女子大学の共学化を考える(2025年07月10日)加藤一二三さんがクリスチャンということも知らなかったのだが、カトリックの深さや歴史の流れが、自分の中で、仙台のいま現在に、急に結びついたような衝撃を自分の中で覚えたのだった。おそらく、大学の学生たちにはよく知られていることなのだろう。2017年には一二三さんが同大学の客員教授もされたという(河北記事)。大学の公式サイトに、客員教授ご逝去のお知らせが出ている。また、ちょっと検索したら産経新聞の連載「令和人国記」で加藤美紀先生が出ておられて(2023年、記事署名は菊池昭光)、父との思い出も織り交ぜながらご自身の経歴を語っている。加藤美紀さんは、キャリアウーマンとして就職しながら修道会でも活動し、平成23年3月、震災の前に内示があり仙台に派遣された。学生たちが家が被災しても進んで石巻や南三陸でボランティアをすることに驚いた。聖書には人間は何度でも出直せる、とあり、父も負け数は歴代トップで誇れる記録だ、などと話しておられる。カトリックの歴史、そして東日本大震災。加藤さんの御家族のことではあるが、勝手に、仙台との縁を思い描いたのだった。安らかな眠りをお祈りいたします。
2026.01.24
コメント(0)
宮城野原に突如形成された仙台の城下町には、大量かつ安定的に食糧を供給するシステムが必要となった。とりわけ動物性タンパク質の最大の摂取源であった魚を運んだのが、2つの道であった。下記文献に詳しく説明があるが、非常に興味深い内容なので、整理して記す。(当ジャーナルで再構成〉■斎藤善之『仙台城下への肴の道』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書42)大崎八幡宮仙台・江戸学実行委員会、2014年1 江戸近郊の場合江戸では、木下(きおろし)街道がそれにあたる。九十九里や鹿島灘で漁獲された魚が、銚子から川舟で利根川を遡り木下河岸(印西市)で陸揚げ、ここから江戸川の行徳新河岸まで約30キロの駄送が木下街道となる。行徳新河岸からは再び船で江戸川を下り日本橋の魚市場に到る。その後、木下河岸のやや上流の布佐(ふさ)河岸を起点と市、松戸の江戸川納屋河岸までを結ぶ約30キロの第二の街道が出現し、松戸街道、通称「鮮魚(なま)街道」(なま道)と呼ばれた。競合する2つの肴の道は、正徳6年(1716)に布佐から松戸までの通し馬(宿場ごとに積み替えずに済む)が幕府から承認されると、鮮魚(生)街道が優勢となる。夕方に銚子を出た鮮魚は、夜明けに布佐河岸に着き、馬に積み替えられ昼前に松戸河岸に到着、船で江戸川を下し、翌朝には日本橋の魚市場に並べられた。これら2つの道は、鉄道が普及する明治30年代まで活用されたと言われる。2 仙台城下町への肴の道仙台の肴の道は、城下町の成立に伴い自然発生的に形成されたらしい。塩竈市宮町・丹野六右衛門家文書によると、遠島(牡鹿半島)で漁獲された生魚は、(文書が書かれた元禄3年)以前は、(1)花淵浜、吉田浜、代ヶ崎浜、東宮浜から大代、(2)蒲生、(3)塩竈のいずれかに自由に運び、そこから仙台に運んで売り捌かれていた。また、東宮浜、吉田浜、菖蒲田浜、花淵浜、松ケ浜、代ヶ崎浜の六ヶ浜の商判紙(あきないはんし)を受けた者(藩公認の商人)、大代と蒲生の茶船持ちの者ども(船持商人)は、以前から地元で漁がない場合は、宮戸島や遠島に出かけて沖買いで調達した魚を自分の浜に水揚げして手馬(自分の馬)に積んで仙台に運んだという。すなわち、流通経路は、(1)七ヶ浜、(2)蒲生、(3)塩竈、の3つに区分される。(1)は大代を経由し、さらに福田町で、(2)蒲生から来た道と合流。城下に向けて進むと、原町で(3)塩竈道と合流して、仙台城下の肴町に向かった。3 状況の変化 - 舟入堀の開削こうした状況に変化が生じたのは、東宮から大代を経て蒲生(七北田川河口)に至る約7キロの御舟入堀の開削である。寛文10年(1670)に着工し、延宝元年(1673)竣工とされる。これにより、それまで蒲沼(がまぬま)と呼ばれた湿地は急速に町場化し蒲生(がもう)と名付けられ、七北田川対岸の南蒲生から集団移住のほか、周辺集落の次三男以下や運河普請の出稼ぎたちも定住し、舟運の要となった。蒲生には藩の御蔵場が設置され、米蔵6棟、塩蔵4棟、御役所2棟、長屋(人足や船方)3棟。米10万俵、塩10万俵が収納できたといい、このことから、御舟入堀は、主として大崎平野の米穀、仙台湾と三陸沿岸産の塩を城下町に輸送するために開削されたと考えられている。蒲生御蔵の御舟入堀側には、「舟溜」(ふなだまり)が東西25間、南北15間の広さで造られ、ヒラタ船が停泊した。御蔵をはさんで反対側には別の船溜まりと七北田川に繋がる高瀬堀が造られ、舟曵堀を経て苦竹御蔵に向かう高瀬船が停泊した。4 貞享特令による塩竈の特権御舟入堀の開削で蒲生が発展した一方で、塩竈は荷物の入港がなくなり、深刻な衰退に見舞われた。このため、藩は塩竈に大幅な経済的優遇策を与える、いわゆる貞享特令を発することとなる。他に例を見ない大幅な経済優遇措置を塩竈町にだけ特別に認めたことから後にこう呼ばれるが、実際の表題は「塩竈村の者どもへ申し渡すべき事」で、塩竈では「お恵み九箇条」とも呼ばれる。その内容は、1.塩竈の物成(年貢)は町人の持ち高に応じて返付する、2.毎年250両を給付するので町人持高に応じて配分せよ、3.小荷駄日市(こにだひいち)の開催を7月10日から8月14日まで許可する、4.見世物芝居の興行を毎年3月と7月に許可(仙台城下は芝居は原則禁止だった)、5.商人荷物・五十集(いさば、海産物)・材木を積んだ船はすべて塩竈に入港して水揚げすること、6.塩竈町人が市川村と山王村に出作する分の物成(年貢)を免除する、7.塩竈町の諸役負担を免除する、8.塩竈町人は鷹巣入江を新田開発してよいこと、9.毎年(毎月か)6度の市の開催を許可、などであった。この第5条は注目すべきで、商人荷物、五十集、材木はすべて塩竈に着岸せよとするが、御舟入堀と蒲生御蔵の主たる輸送品である米雑穀や塩などは含まれず、その後も蒲生・舟曳堀ルートで城下に運ばれたのだろう。一方で、五十集は塩竈が独占することになり、五十集四分問屋(→6参照)が現れて、塩竈から仙台肴町へ至る藩公認の肴の道が出現した。商人荷物も塩竈の独占が守られ、江戸からの下り荷である呉服、太物、古着、綿花、薬、陶器、瀬戸内塩、灘酒などが塩竈にもたらされた。塩竈神社の表坂鳥居前に、仙台城下商人六仲間(藩から独占を認められた特権集団。古手(ママ)、繰綿、木綿、薬種、呉服、小間物)のうち、古着仲間が奉納した常夜灯がある。六仲間は、石巻の御穀船(石巻穀船)が江戸から戻る際に六種の商品を積み込み、塩竈港で水揚げして、仙台城下に運んだ。(→6参照)こうして、衰退の危機にあった塩竈は貞享特令で復活した。特令を発した四代藩主綱村の位牌を祀る東園寺の境内にある「東園寺の碑」は、安永5年(1776)建立されたが慶応3年(1867)塩竈大火で破損、現在の碑は昭和59年建てられた。特令の全文が彫られている。この特令は江戸時代において、塩竈を中心とする領内の五十集の流通システムを確立する、非常に大きな意味を持った(→5参照)。すなわち、大藩ならではの強力な流通統制により、領外との交流を制御し完結した藩の市場圏を作るために、肴の流通においては塩竈が大きな役割を与えられ、また、塩竈もその機能を担うことで繁栄を謳歌したのだった。5 仙台藩独自の流通システム - 丹野六右衛門家の文書丹野六右衛門家は塩竈市宮町、現在はお茶、茶器、和菓子の販売で知られるが、当時は鮮魚と塩干物を扱う五十集問屋であった。上記の仙台藩固有の五十集の流通の制約について記したマニュアルが、丹野家文書「五十集必要」である。以下のような内容。第1条。五十集を輸送する者が添付すべき願書と、出発後50日以内に帰着すべきことが定められた。願書は藩の許可を要し、また、帰着後に願書を点検して日数を超過していれば罰金が科された。当時は、船や牛馬で輸送したが、50日とは領内の往復はできても領外との往復は難しい日数だろう。さらに、仙台肴町で売却したことを証明する仕切状や領収書の保管も求められ、役人(御塩方元締)が時々村々の商人を巡回し抜き打ち検査した。第2条。五十集を相馬原釜方面に海上輸送して商売することを禁じる。領外の商人も、五十集を買い付けて相馬領へ持ち出してはならない。第3条。塩竈で水揚げした五十集は、仙台城下肴町に売ること。勝手に肴町以外に輸送販売してはならない。また、領内各地には肴町から転売すること。第4条。南部産や北方産の五十集でも、一度領内に入れたら原釜相馬方面に再移出してはならない。第5条。領内の五十集を他領に持ち出す時は、仲役(すあいやく、移出入税)を支払えば認めるが、相馬原釜方面はこれも認めない。陸上輸送はこの限りでない。このように、領内の五十集の流通を塩竈と城下肴町にすべて集中させようとしたのである。しかし領内の生産者漁民にとっては、塩竈に売り先が限定されることは不利な取引を余儀なくされた。とりわけ、南方方面は背後に関東の膨大な消費需要がある。隣領の相馬藩最大の港の原釜は、東回り航路を行き交う諸国の廻船を通じて全国市場と繋がっていた。仙台藩が、原釜への移出を厳禁したのは、それだけ領内漁民の要望があったからであった。6 繁栄した塩竈の五十集問屋五十集四分(いさばしぶ)問屋は領内の水揚げを独占し繁栄した。四分とは、売り上げ100文につき4文を藩に納める四分役からきたとされる。領内では当初、塩を扱う御塩問屋と五十集を扱う五十集四分問屋、そして両者の兼営があったが、数が増えたため、享保8年(1723)、藩は五十集四分問屋のみの者に廃業を命じ、御塩問屋と兼営に存続を許可した。これにより御塩問屋を兼帯する5軒が継続した。その後天明3年(1783)には4軒、天保13年(1842)は、6軒。横田善三郎、小松善吉、鈴木平八、塗(ぬり)要右衛門、丹野六右衛門、鈴木甚右衛門。なお、近代以降の各問屋の経緯は以下。・塗芳之助家。古くから五十集問屋で分家も多く、塩竈における勢力は多大。もと鈴木姓だが、藩から塗屋の屋号を拝領。船溜まりの前に家があったが慶応の大火で焼けて衰え、やがて断絶した。東園寺に墓。・横田善三郎家。近代になって魚問屋とともに遠洋漁業にも進出。さらに塩竈倉庫などを経営して、実業家として今に至る。・鈴木慶蔵家。塗屋と親戚関係。かつて福釜酒造店の場所に家があったというが、その後断絶。・鈴木平八家。近代になり材木業を営み今日に至る。・小松善吉家。古くから五十集問屋。かつて三陸方面から船が同家に数多く入港したというが、その後断絶。・丹野六右衛門家。近世の五十集問屋から、近代になり廻船、肥物(こえもの、魚肥)取引に拡大。戦後は和菓子製造、茶舗となり丹六園の名で今日に至る。維新で五十集四分問屋の制度もなくなるが、直前の明治2年11月、6軒の連名で魚せり場の設置を県に願い出ており(丹野家文書)、塩竈の水揚げ拠点機能は、近代の塩竈魚市場に繋がっていった。7 七ヶ浜道の復権貞享特令の5年後、元禄3年(1690)に、遠島(牡鹿半島)と七ヶ浜の者たちが訴えを起こした。塩竈港への五十集の一極集中が、水揚げと仙台への売り込みで生計を立てた七ヶ浜を困窮させ、また、遠島の生産者も、それまで自由に水揚げする浜を選んでいたのに、日和や潮時により塩竈に入港できない時は生魚の売り時を逃してしまうと不満を募らせたのである。この訴えに対し、次のような裁定となった。・3月から8月まで、かつ生魚に限り、仙台直送分は七ヶ浜に自由に水揚げしてよい・干魚や塩魚は従来通り塩竈に限定・七ヶ浜及び塩竈の者が自分の船で漁をして自分の浜に持ち帰った分は水揚げを認めるこうして、限定的ながら七ヶ浜への水揚げが認められ、第2の肴の道である七ヶ浜道が出現した。8 その後の二つの道の競合資料によると(丹野家文書)、享保4年(1719)2月付で蒲生御番所役人が原町検段に対して異議を申し立てている。蒲生の役人が保証して蒲生商人が仙台向けの肴荷物を送りだしたのに、途中の原町検段が止め置いたことから、速やかに調査を求めたものである。差し止めた理由は、貞享特令により生肴の仙台直送が解禁される3月1日の前であること、また、荷が塩赤魚であったが、塩魚であれば塩竈以外の水揚げは許されず、蒲生から直送はできないのである。塩竈町検段から、御定(貞享特令)に抵触すると申し立てて、原町検段を支持している。赤魚は上巳の節句(3月3日)で城下町の武家や町家の食膳に需要があったと考えられるが、生肴移送が解禁される3月1日に現地を出発したのでは間に合わず、また、生魚ではこの時期の移送に不適で塩漬けにする必要があったのだろう。背景に、仙台城下の肴需要の拡大とこれに対応しようとした蒲生商人の動きがあったと理解される。冷蔵設備がない当時、気温の下がる夜間に夜通し輸送し早朝の朝市でセリにかけるのが一般だった。肴を積んだ馬は夜半に塩竈を出発し、松原街道から夜明けごろに原町を通過したが、原町は宿場であり丁切り(丁切根、木戸)が設置され関所の機能があったので、怖がられたとか、若い衆の血の気が多かったなどとされる。塩竈の馬方が仙台の帰りに原町はずれの茶屋で一杯飲んだとも伝えられる。寛政3年(1791)には、肴町の魚問屋14人が藩に訴えを起こした(丹野家文書)。当時、塩竈から荷を付けた馬がくると原町で現地の馬に積み替えて肴町まで送る慣行で、宿継ぎ(しゅくつぎ)や継替え(つぎかえ)といわれた。原町から肴町までは原町の馬の独占となり、その駄賃代が高すぎるというのが肴町問屋の言い分であり、そのために城下の肴の値が高騰し、五十集生産地の島浜(牡鹿半島沿岸、松島湾岸)の荷主が出荷を見合わせているというのだ。寛政5年(1793)には、塩竈の五十集問屋から訴えが出された(丹野家文書)。七ヶ浜の肴は原町で馬の積み替えをしないのに、塩竈からの肴は継立てが義務付けられるため、荷の痛みや遅れ、駄賃の高騰を招き、そのため七ヶ浜道に商品が流れて塩竈が衰退してしまうというのである。荷主の島浜商人たちは、塩竈に生ものだけでも年間通じて継ぎ立てなしで直送したいと要望していたが、せめて七ヶ浜ルートと競合する夏場期間だけでも、生ものに限り塩竈から原町の継ぎ立てなしで直送させてほしい、というのである。この訴状の日付は需要がピークとなる歳末期であり、原町継替えに不満の生産者が出荷ボイコットの動きがみられ、城下の問屋たちも危機感を募らせていた。中継点の塩竈と終点の肴町の双方から、塩竈道の劣勢をもたらす原町継ぎ立てを問題としたことが注目される。なお、木下街道が松戸街道に劣勢になったのも、途中宿場の継ぎ立ての有無から生じている(→1を参照)。こうした論争が寛政年間に表れたのは、直前の天明年間の大飢饉により、全国規模で流通経済システムの動揺と、その再編が促された背景がある。9 二つの肴の道をたどるこれらの肴の道の経路は、次のように推定される。(1)塩竈道塩竈港の大河岸から出発する。大河岸は宝永年間(1704-)の埋立で成立したとされるが、この時の石積み護岸は明治初年の埋立により今はない。船から降ろされた魚を、五十集四分問屋で馬(駄ん子馬)に付け替えて、その先は、二筋に分かれる。ひとつは、塩竈神社を右手に見て西町を抜け、赤坂橋に至る。ここから江戸時代に開かれた赤坂を上る。馬方を化かす赤坂狐の伝説が残る。また、坂の途中に茶屋、馬頭観音、菓子舗(丹野家の先祖)があったという。赤坂を越えると母子沢に至る。この辺りは湯壺(ゆつぼ)といい、湯壺のお夏と呼ばれる古狐が住んでいたという(馬子はお夏狐を怖れ、魚を一匹道端に投げて通った)。福徳稲荷が別名お夏稲荷といわれた。尾根筋をたどって惣社の宮、多賀城跡、市川橋に抜ける。他方の道は、大河岸から南進し、南町を抜けると町の入り口の枝垂れ柳があった。市立病院の南側及び千葉歯科医院、無量井内科クリニック(いずれも東玉川町、本線塩釜駅前)の南側を抜ける斜めの小道とみられる。本線をくぐると、間もなく野田の玉川の碑、浮島の谷筋を通り、壺の碑(多賀城碑)を左手に見て、市川橋に至る。二筋の道が合流する市川追分に道しるべの碑がある。※おだずま追加コメント:道標の画像を記事にしております 奏社宮道道標(市川追分の碑、多賀城市)(2026年03月30日)これら高低二筋の道は、古代多賀城と塩竈を結ぶ古道を継承している。市川で合流した後は、開けた水田の中を西に進む。南宮、山王の集落を経て、中世の拠点集落岩切に至る。ここで七北田川を渡って今市の集落を抜けると山崎に至る。ここで道は二筋に分かれるが、旧道は西側(山側)で、鶴ヶ谷、比丘尼坂、燕沢、案内を経て原町に至る。(2)七ヶ浜道半島の浜々を一周する道は、付け根にあたる大代で合流して、貞山堀(御舟入堀)を渡る。大代から福田町の間は小道が錯綜して復元が難しいが、子細に見ていくとそれらしい道筋は、大代郵便局の前の町並みを抜けて、県道23号(仙台塩釜線)を越えて、砂押川の北側を西進したとみられる(現在の多賀城駐屯地敷地で道が消えた)。その先は鶴ケ谷の笠神新橋あたりで砂押川を渡り、八幡の町並みに入る。まもなく末の松山、沖の石。その後、国道45号と合流し、仙台港北IC出口付近までは国道45号と同じとみられる。中野から出花の辺りで、国道45号をはずれ、南側を湾曲する道に入る。道は45号に戻って交差して仙石線を越え水田の中を西に向かい、誓渡寺に至る。再び水田の中を西に向かうと深山神社。車道を越えて福室集落を越えると七北田川堤防沿いの道となり、国道45号をくぐると、福田町の対岸集落の東作(ひがしさく)に至る。かつて馬方の呑み屋街があったという。七北田川をわたり福田町を抜け、ここからは国道45号の道筋で苦竹に至る。現在の陸上自衛隊仙台駐屯地はかつての苦竹御蔵場の跡地を含んでいる。その北側を抜けて坂下交差点からは、道は(国道45号から)北に分かれ、原町のはずれ追分で、塩竈道と合流する。原町は、苦竹村に属したが、城下に接する宿場町であり、丁切(丁切根、木戸)が設置され関所の機能を有していた。足軽町である二十人町、鉄砲町を経て、名懸丁、新伝馬町を抜けて、肴町に到る。10 肴町肴町は大町通の北側にあったが、今では通りの名称(肴町通り)と肴町公園にわずかに窺えるだけである。城下の中心部に近い大町通に並行する北側の通りにあった。西端は本柳町(もとやなぎまち、現在の西公園)、東端は奥州街道(国分町通り)で、西から肴町一から四丁目となっていた。城下の町人町「二四ヵ町」中では大町に次ぐ第二位の町列とされ、上位六位を独占する御譜代町(米沢、岩出山と町ぐるみ移転した六つの町)のひとつでもあった。近代になり仙台藩の五十集の流通統制がなくなると、肴町に魚は入ってこなくなる。大正元年の仙台市全図には、肴町四丁目に魚市場の記載があるが、魚問屋たちが営んだ民間市場として、江戸時代から続く塩竈と肴町の道の最後の姿であろう。昭和20年の仙台空襲で肴町は灰燼に帰し、戦後は、東七番丁、次いで卸町に中央卸売市場が造られる。■関連する過去の記事(仙台藩の藩政、流通、舟入堀など)は下記をご覧ください。 (記事リスト)戦国・藩政期の仙台・宮城
2026.01.06
コメント(0)
ついに出た、という感じだ。国会議員定数削減の動向に対して、秋田県議会が12月8日に全会一致で決議。その概要は次のようなものだ(当ジャーナルで要約、下線も)。------------・決議名「地方の実情を踏まえた国会議員の定数削減に関する決議」・本県は全国で最も深刻な人口減少と少子高齢化。医療、交通、産業振興、教育、防災など、生活基盤維持に課題を抱え、国の支援と地域の声を国政に届ける仕組みが、これまで以上に求められている。・国で検討されている国会議員の大幅な定数削減案は、人口比のみを基準とし、広大な面積と人口減少という構造的問題を抱える地方の実情を十分に踏まえたものとは言えない。・国会議員の数が減り住民の声が国政に反映されにくくなることは、地方の持続可能性の確保という国全体の課題に逆行し、地方創生を掲げる国の方針とも整合性を欠く。・また、人口減少地域の選挙区面積が一層拡大し議員活動の実効性低下が懸念。困難を抱える地域住民と議員との距離が広がることは、民主主義の根幹を揺るがす結果とも。・こうした実情を踏まえ、本県議会は国において次の事項の実現を求める。1 地方の実情を踏まえ、地方の声が適切に国政に反映され得るよう慎重かつ丁寧な検討を行うこと。2 国会議員の定数削減については、単に人口比の基準による一律の見直しではなく、地方の地理的条件・人口動態・行政需用等を総合的に考慮した制度設計を行うこと。------------代表民主主義制において、国会議員を選ぶ手続が不可欠だが、その際に国民による投票の価値は平等であるべき、つまり選挙区や定数の定め方は人口比が基準であり、それは当然の事、あるいは絶対的なものだと多くの日本国民は思っているだろう。しかし、海外には例えば面積を基準とする事例があるという。私は今年の4月、知人を介して知り合った大手企業OBの方と歓談していて、世代間格差や都市と地方の問題から一票の価値を変えることも検討に値するのではと、あえて話題提起したら、海外滞在も長いその方が、国土に占める面積で票を配分する事例があるんだ、と教えてくれた。実際に我が国の現在の選挙制度も、完全に人口比例かというとそうでもない。全国を一選挙区とするなら格差問題はないが、選挙区の設定は、ひとまとまりの地域の代表という合理的な性格付けとして立法政策の範囲内だろうし、現実に国民の支持もあろう。(なお、憲法は47条で地域別選挙区を前提にするとの解釈があろう。机上論だが、地域選挙区を廃止して全国区オンリーにすると違憲なのかも。)そして、選挙区という仕組みを設けるとなると、各選挙区の定数をどう設定するかも絡んで、どうしても不均衡問題が生じる。行政区画や経済的まとまりを全く無視して線を引くわけにはいかないし、また、時間の経過で不均衡が拡大してしまう技術的事情もある。かつて参議院議員定数訴訟で最高裁は、都道府県単位を選挙区とすることについて(5倍以上の格差があった)、都道府県が歴史的、経済的、社会的に独自の意義と実態を有する政治的なまとまりのある単位として、立法政策の範囲内とした。こうしてみると、非人口的要素は、じつは現状でもおのずと考慮されているのだ、ということができる。政策的には一人別枠方式(廃止されて現在はアダムズ方式)や、参議院選挙区における都道府県単位の選挙区設定と定数配分についての一定の合理性など、人口比率を徹底していない側面がある。もっとも、これを「非人口的要素」といっても、あくまで人口比例が大原則で、多少の政策的配慮ないし技術的事情から格差が出ている構図だ。しかし、あくまで人口比例に立ち戻るバネが常に張られている感覚だ。一票の格差がどの程度までなら許されるか、という図式自体が、それを物語る。前置きが長くなったが、このように、我が国では「非人口」要素を加味しているとはいっても、あくまで人口比例が前提として共通理解だ、というのが一般的な感覚だろう。そこに対して、いわば積極的に、あるいは人口比例と別個対立の要素として、「面積」を持ち出したのが秋田県議会の決議だ。これが、ついに出た、と冒頭に記したゆえんだ。実態に即していえば、定数削減(全国で小選挙区を25減らす場合)で秋田県の選挙区が3から2に減ることが見込まれる。代議士の数が減るわけで、大きな問題だ。数理的にみれば、一票の価値は、決して地方部で高く都会で低いという一方的なものではない。全国の定数を人口で割って各県の定数(選挙区の数に一致)を決めるのであって、それ以外の要素はないから、アダムズ方式にしても計算結果として地方部だって一票の価値が低くなることもある。ただし、小選挙区の「面積」は地方部では必然的に大きくなるという現象が起きる。この定数減と面積増大に着眼するのだ。後者の面積の点にスポットを当ててものをいうのは、これまであまりなかったのではないか。面積といっても、そこに住む人間以外の生物の権利を考えよとか、自然環境や国土保全の観点を持ち出すのではない。有権者はあくまで人間だ。実質的な狙いは、地域選出の議員が減ること、また、選挙区が広くなってしまい住民と議員が遠くなること、を危惧するのであるから、人口比例を真正面から否定するものでなく、やむを得ず「面積」を持ち出したともいえるだろうが、それにしても、人口減少社会と地域格差がここまで極まってきたことの証左であり、(衆院の現行の小選挙区では定数で調整できないこともあり)面積を持ち出すしかない時代に突入しているのかもしれず、その点ではやはり「ついに来た」のではなかろうか。
2025.12.28
コメント(0)
荒巻地区の宅地開発と団地の愛称について、地域の資料を読んで記した(下記12月14日記事)。秀衡街道を歩いて「うぐいす丘町内会」の看板を目にしたが、団地の愛称が町内会名に受け継がれたものも多いだろう。そこで、町内会の名前を調べてみた。(仙台市公式サイトから)●荒巻地区町内会連合会(単位町内会数35)葉山町内会,葉山親交会,荒巻みのり会,通町北裏青葉会,二月会,中才町内会,荒巻もみじ会,荒巻親睦会,荒巻北杜会,荒巻みどり会,荒巻親和会,ハイライフ北仙台町内会,神明会,山手町内会,手戸連合町内会,北山団地町内会,菊田町町内会,荒巻本沢西部町内会,荒巻本沢中区町内会,荒巻中央町内会,荒巻北区町内会,荒巻東親睦会,グリーンプラザ自治会,西あけぼの町内会,東あけぼの町内会,堤町西裏町内会,新堤町町内会,堤町共栄会,青睦会,北山泉会,北山青峯会,津々美自治会,ライオンズマンション山手町町内会,ダイヤパレスヒルズ山手森町内会,モナミすみれ会●北仙台地区連合町内会(20)荒巻泉ヶ丘町内会,水の森町内会,うぐいす丘町内会,森が丘町内会,杜の里町内会,平和台町内会,あおば自治会,ひばりケ丘町内会,幸福ケ丘町内会,白鷺町内会,第二勝山町内会,勝山町内会,こだま町内会,大山団地町内会,藤森町内会,鷺ヶ森むつみ会,双葉ケ丘西町内会,双葉ケ丘町内会,※北根地区親和会,※北根町内会(※は台原北部連合町内会にも)■関連する過去の記事(仙台の団地造成史) 荒巻地区の新町名と宅地開発史(2025年12月14日) 仙台の団地名を考える(荒巻方面)(2012年5月27日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 仙台圏の宅地開発史を考える(2011年1月5日)■関連する過去の記事(中山街道、秀衡街道、その周辺地域) 古海道東の公園たち(荒巻地区)(2025年12月07日) 中山、北中山、南中山(2025年01月07日) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 人口ゼロの北根村(2015年11月8日) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 中山峠の狼(2011年10月6日) 中山道と狼石(2011年1月13日) 仙台のロータリー(その12)中山吉成(その2)(2011年1月11日) 仙台のロータリー(その11)中山吉成(その1)(2011年1月10日) 仙台のロータリー(その10)桜ヶ丘ロータリー(2011年1月9日) 飛び地の多い上谷刈(2010年11月15日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 朴沢の話(09年5月13日) 朴沢をめぐる(続・画像)(09年5月2日) 朴沢をめぐる(09年5月2日) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日)(根白石街道) 中山道のむかし(09年3月23日)(根白石街道) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)
2025.12.26
コメント(0)
ふと思った。仙台から三陸・常磐道で移動する場合、いわきと気仙沼でどちらが近い(早い)のか。・仙台東IC→気仙沼中央IC 118km 1時間43分・仙台東IC→いわき中央IC 144.5km 1時間50分(平日800出発で比較、どらプラによる。)沿岸部の宮城北端と福島南端は、自動車利用の場合、仙台からは同程度の時間距離といえる。なお、直線距離(仙台市役所と各市役所の間)を測ってみた。・仙台市役所ー気仙沼市役所 93.6km・仙台市役所ーいわき市役所 135.4kmいわき市ホームページの案内では、次の通りだ(表記では「約」が冠されるが省略)。・鉄道(特急ひたち) 仙台駅ーいわき駅 2時間3分・高速バス 3時間・マイカー 1時間50分気仙沼市の公式観光情報サイトによると、以下(ここも「約」を省略)。・車で行く 泉ICー一関ICーR284 2時間10分・同上 多賀城ICー気仙沼中央IC 2時間・高速バス 3時間・電車 仙台ー一関ー気仙沼 30分+1時間25分・同上 仙台ー小牛田ー前谷地ー気仙沼 45分+15分+(BRT)2時間30分
2025.12.25
コメント(0)
金ケ崎の町並みがすばらしい。下記文献を読んで、ぜひ時間をとってゆっくり探訪したいものだと思った。次のようなことが記されていたからだ(以下要約をしるす)。薩摩藩の麓集落は113か所、伊達藩の要害は21か所あり、いずれも藩の守りの前線基地として藩の重鎮がお頭に送り込まれた。重伝建地区である金ケ崎は、伊達藩北端を守る要害で、要害の東には舟運の幹線である北上川と胆沢川が流れ、西側には奥州街道が通じる。人と物資が行きかう交通の要衝でもあった。金ケ崎駅から、かつての町屋筋である旧奥州街道沿いを進み、旧諏訪神社(現・金ケ崎神社)の赤い鳥居の前を右折し、要害の核心部への導入路に出る。旧諏訪神社には、かつて菅江真澄が訪れて、ここからの絶景を讃えて須輪神社法楽八景和歌を詠み奉納している。要害内は緑豊かである。それは、武家屋敷の周りを囲むエグネと呼ばれる杉、松の高木からなる屋敷林や、サワラヒバの生垣、庭の樹木などで満ち溢れているからだ。緑に包まれた十数軒の武家屋敷は、600から1000坪を越えるものが主流で、江戸期からの屋敷地割を留めている。屋敷内奥に野菜畑や、柿、栗など自給自足の生産の場が設けられ半農半士の生活を偲ぶことができる。主屋の多くは鉄板葺きに変わっているが、柱や梁や間取りは当時のままである。多くは今も住居としているので、内部を見学できるのはレストランに再利用しているお屋敷や、曜日限定公開で茅葺屋根が美しい旧坂本家住宅や、復元された旧大沼家侍住宅(片平丁)である。■読んだ文献 米山淳一『続・歴史鉄道 酔余の町並み』駒草出版、2016年■リンク・金ケ崎観光マップ・国選定 金ケ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区■関連する過去の記事(金ケ崎町) 金ケ崎町は大きな「ケ」で決まり(07年9月29日)
2025.12.19
コメント(0)
全3629件 (3629件中 1-50件目)
![]()

