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2025年01月20日
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カテゴリ: 御朱印:茨城県
東北に住んでいるとあまり聞きなじみのない名前の神社ですが、常陸国(茨城県)稲敷に鎮座する大杉神社は、全国に600社近い分霊社を持つ大杉神社の総本社です。茨城県と言えば内陸に食い込む形で広がる霞ケ浦が有名です。霞ケ浦は様々な水産資源をもたらし、今日の茨城県の発展の基礎を作ってきたと言っても過言では無い重要な内海です。そんな霞ケ浦の南岸で”あんば様”として古来より親しまれてきたのが今回紹介する大杉神社なんです。


大杉神社


香取神宮参拝後に利根川の土手道を牛久方面にひた走ります。ほどなくして右折し、利根川を越えて霞ヶ関方面へ。だんだんと道路が狭くなり、町の中を走っているとこれまた荘厳な鳥居が見えてきました。鳥居が見えたところで右折し、駐車場へ停車。さっきの鳥居の前に戻ります。
町中に何気ない顔で鎮座していますが、端々の装飾が華やかすぎて異彩を放っています。鳥居脇の両天狗に睨まれながら鳥居をくぐり境内へ。



二の鳥居はすんごいカラフルです。他では見ないカラーリング!燈籠の数も半端じゃないです。
そのまま進むと本堂が、右に行くと末社群が置かれています。



燈籠の後ろにはひっそりと大黒天が居わします。境内には七福神が祀られており、この像もその一つです。今回の記事を書いているときに気付きましたが、恵比寿さんを撮り忘れています。どこにあったんでしょうか?気づかなかったよ・・・。



二の鳥居の横辺りに小さな社殿があります。扁額には”悪縁切堂”と書かれていますね。
悪縁切りの作法はどのようなものなのかというと、”われおもふ きみのこころははなれつる われもおもはじ きみもおもはじ”という言を心中で三度唱え、土器(かわらけ)を叩き割るという風に行うようです。境内の所定の場所で割るか、自宅で割った破片を神社に言伝とともに送るという二つの方法があるみたいですよ。



説明書きです。




旧護摩堂

 文化元年(1804年)完成。
 桁行二間、梁間四間の 寄棟萱葺風銅板葺建物 。寛政10年(1798年)に焼失した社殿に代わって現社殿の完成まで仮社殿として使用された建造物。奥二間が当初本殿部、手前二間が祈祷殿(幣殿)として使用されていたとみられる。当初は茅葺屋根であったがその後瓦葺に改められた。
 平成23年(2011年)に発生した東日本大震災により屋根瓦の落下被害が甚大であったため、当初の形状に近似する萱葺風銅板葺の屋根に改められた。
 当初は社殿東側に並び立っていたとみられるが、その後数度に及ぶ移築を経て現在地に移された。



これは現在の表参道に建てられた山門です。これとは別に昔の表参道の山門が有るんですが、道路を跨いでいるため、安全に配慮してか現在はくぐることは出来ません。
こちらの門の非常にしっかりとした装飾がなされています。



門をくぐると手水があります。双龍の手水は初めて見ましたよ



こちらが旧表参道の山門です。ここが”茨城の日光東照宮”や”元日光”と呼ばれる所以となった建造部でしょう。あまりにも豪華すぎて、初めて見た時は理解が追いつきませんでした



道路側から見た山門表側。仁王像の代わりに両天狗が安置されています。この写真を見ながら一体何杯のお酒を飲んだことでしょう・・・最高の思い出です



装飾もこの通り。近くで見ると尚凄いですよね!?
日光東照宮に負けず劣らず、素晴らしい山門です。



説明書きです・・・が、ほぼ全く未知の領域の中国故事の内容である為省略します。この分野の理解が深まった頃に見返すかもしれません。神社仏閣の木彫装飾としてはよく用いられる分野なので、見識を深めたいところではありますが・・・。



山門横には神輿社があります。奥には鐘楼も見えますね。



山門から拝殿の方を見ると北斗七星の形に足型が置かれています。いろいろ調べてみましたが、これは古代中国(夏王朝とあるので中国史の中でも原初に近い部分か)の聖天子”禹”の歩き方を模した禹歩というものだと思います。ここら辺はさっぱり知らない分野です。知らないけども、足型があると踏みたくなるもの・・・この通り進んでみます。するとあら不思議、脳内は小学校の時にやったケンケンパのことでいっぱいです



拝殿です。もう言う事ないですね、素晴らしいの一言に尽きます。



拝殿の装飾です。疲れ目には少々辛いカラーリングw



斜めから見てみても、その美しさは留まることを知りません。



説明書きです。




社殿

 本殿・幣殿・拝殿を繋ぐ複合社殿。
 規模は県内最大規模で本殿は奥行二間、梁間三間。幣殿は奥行三間、梁間三間。拝殿は奥行三間、梁間五間。
 本殿は三手先組の折衷様。側面及び背面に浜縁を廻らす。妻部は二重虹梁で中備を四霊(龍・鳳凰・麒麟・亀)彫刻が飾る他、多種多様な彫刻が施されている。
 幣殿は鳴き龍の鏡天井となっている。拝殿向拝部の繋ぎ虹梁は龍の丸彫り彫刻となっている。西側の龍尾に(「信秀」磯部儀左衛門信秀)の銘が確認される。
現在の社殿は寛政10年(1798年)、享和2年(1802年)の相次ぐ火災による焼失後に再建がなされたもので、文化13年(1816年)に遷座が行われた。棟梁は栃木県大平町下皆川の多兵衛。彫刻師は栃木県栃木市富田の磯部儀左衛門信秀一門。天井画および障壁画は磯部一門の 五楽院法橋等随 の手になる。本殿、幣殿に廻る瑞垣欄間彫刻は二十四孝題材のうち剡子・紅革・仲由を除く23話23面、および本殿腰組中備彫刻7面の彫刻は嶋村円鉄(円哲)作になる正徳社殿からの転用材。平成18年(2006年)完成当初の姿に復元。ただし本殿腰組中備の復元彩色は*暦時のそれに従った。また屋根は建立当初杉皮葺きであったが、文政5年(1808年)銅瓦棒葺きに改められた。平成18年これらに従い復元修復が完成。



続けて説明書きです。




天海大僧正と大杉神社

 慈眼大師あるいは南公坊とも呼ばれ、徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍の参謀を務め、風水師としても知られた天海大僧正に奇跡の瑞雨をもたらしたのが大杉大神さま。関東一円を襲った大干ばつの年に、当時随風と名乗っていた天海が霞ケ浦に小舟を浮かべ、東方にあった龍神(大杉大神)を勧請して見事に雨を降らすという奇跡を起こした。以来随風は江戸で将軍の参謀を務め、家康は特に彼を重用し臨終の際にも彼を立ち合わせた。また家光は随風のために天皇から勅許を得て東叡山 寛永寺(上野寛永寺)を建立。神恩を賜った大杉神社のある安穏寺の住職となり、以降明治を迎えるまで大杉神社の別当であった安穏寺は東叡山 寛永寺、日光山 輪王寺の住職である輪王寺宮が住職を兼帯する特別な存在となった。
 風水師であった天海大僧正は大杉神社を江戸の鬼門守護社と定めたため関東各地から参詣の人々が絶えることがなかった。

 天海、輪王寺との関係から東叡山 寛永寺に在った家光の廟である大猶院が日光山へ移される際に、廟前にあった徳川本家奉納「大杉大明神宝前」の刻印の下から、消し潰された「大猶院宝前」の文字を確認することができる。
 ちなみに天海大僧正は明智光秀とともに本能寺の変より先に稲敷市江戸崎の不動院に身を隠した織田信長であったと伝えられている。天海大僧正は寛政20年(1643年)に入寂。一般にはこのとき数え年108歳であったといわれる。信長は天文3年(1534年)に生を受けているので、仮に信長が天海であったとすると満109歳・数え110歳であったことになり、他の明智光秀説などと比べると信憑性が高い。



ついでに御由緒も見てみましょう。​
大杉神社の歴史

海上に浮かぶ大杉神社
 稲敷市阿波の大杉神社は、全国に670社ほどある大杉神社の総本宮です。大杉神社の鎮座する場所は、『常陸風土記』に「安婆嶋」として登場します。霞ヶ浦、利根川下流域、牛久沼、印旛沼、手賀沼、小貝川下流域などを内包する常総内海(常総内湾)に突き出すような半島地形だったことから、古代においてこの地は内海に浮かぶ島のように思われておりました。
 律令体制以前この一帯は、菟上之国(うなかみのくに)という霞ヶ浦東岸域(稲敷、行方、鹿島南部)と東総域(香取、海上、匝瑳)を治めていた国の一部と伝えられております。菟上之国は菟上国、海上国とも表記され、常総内海の交易、産物を中心として成立した小国で、ここに暮らす多くの人々は漁撈と農耕の両方を生活基盤としておりました。他にも、製塩や玉造(勾玉を中心とする信仰対象の装飾品の製作)も盛んで、当時の大切な交易物資であったと伝えられております。

海河の守護神あんばさま
 当時、菟上之国は広大な常総内海を支配域としておりました。その内 海の航路標識の役割をはたしたのが、大杉神社の巨大な杉です。この地が「あんば」と呼ばれていたことから、巨杉に鎮座する神様は「あんばさま」と呼ばれました。 この巨杉は常総内海の人々の信仰の対象として、また海で生活する人々の交通標識として役割を発揮していたと考えられます。後に舟運交通守護の神様として利根川水系、太平洋沿岸の舟運業に携わる多くの方々にも信仰され、交通安全の神様として篤い信仰を受けていました。
 律令体制期に、菟上之国が内海の西にあった茨城国の一部に組み入れられるまで、大杉神社は菟上国造を祀るもっとも重要な神社でした。その後菟上之国の海上支配、交易権は、南下してきた仲国の一族が築いた鹿嶋、香取の両神社に移譲しましたが、一般民衆の間では依然として、海河守護の神様としての大杉神社の信仰は温存されつづけられました。

※御神木
かつて「あんばさま」と呼ばれていた「太郎杉」は、1778年に消失しました。現在の御神木は、樹齢およそ1000年・樹高40mの大杉「次郎杉」と、樹高28mの「三郎杉」です。

実際に境内を廻ってみましたが、次郎杉の時点で大分大きく、太郎杉はいったいどれほどの大きさだったのか非常に気になります。日光の瀧尾神社、鹿島の鹿島神宮しかり、古代の信仰であればあるほど巨木を御神体として祀っている神社が多い気がしますねぇ。なにかそうする理由があるんでしょうか。

本殿もこの通りきらびやかです。東照宮の様な赤さが特徴的ですね。



拝殿の左手側には神楽殿と末社が置かれています。その内これは神楽殿。



堂内には四神が置かれていました。



説明書きです。これ以外の説明書きは、ページ最下部にあります。”醤油醸造と大杉神社”、”あんば囃子”についてのものです。




神楽殿

 毎年節分当夜に十二座神楽が行われる。本来庭上に四神幡を立て注連縄を張り巡らせて神楽場とした名残りの四神台石が境内に据えられている。
 神楽殿は正徳社殿群以降幾多の火災に遭い焼失。天保13年(1842年)に再建された神楽殿も老朽化に伴い傾斜が著しかったため平成10年(1998年)に再建。元和元年(1615年)創業成功祈祷に訪れたヒゲタ醤油の創業者であった田中玄蕃がのちにこの十二座神楽を東総地域に拡めた。
 演目は猿田彦命・素戔嗚命・住吉明神・八幡大神・手力男命・天鈿女命・三宝荒神・恵比須・鈿女・榊葉・田の神・稲荷大神の十二座。これに扇舞・鈴舞の巫女舞が付属する。



神楽殿の天井にはこの通り極彩色の鳥が描かれています。



これには神楽殿横の布袋尊もニッコリ!



次に神楽殿脇の末社群です。鳥居には大国神社と書かれていますが、これ含め合計5社の末社が置かれています。



各祠の前にはひさしが取り付けられ、熱い日差しが降り注ぐ時も、雨が強い日でも参拝しやすくなっています。末社は右から・・・
・天満宮:菅原道真公
・四柱神社:天之御中主神、 高御産巣日神・神産巣日神 、天照大御神、 神直日神・大直日神
・白山神社:菊理媛命
・五十瀬神社:天照大御神
・大国神社:大国主神、事代主神
となっていて、それぞれ祠の造りが異なります。是非見比べて見てください。



末社群斜めから。



本殿の脇には三本杉の内、三郎杉が立っています。
鳥居や注連縄で飾られ、御神木感たっぷりです。



三郎杉の直ぐ近くには毘沙門天が睨みをきかせていました。



毘沙門天の左隣は別当寺だった​ 龍華山 慈尊院 安隠寺 ​が置かれていますが、別記事で紹介したいと思います。基礎部分の壁には彩色画が描かれています。



寺院を取り囲むように三面に描かれています。



その内一つは天台宗総本山:比叡山 延暦寺を描いたものです。



彩色画からすぐのところに葦船神社が置かれています。この社は蛭子命と大国主神を祭神とする社であり、更に水子供養の社でもあります。



水子供養 大杉神社に葦船神社が再興

 古来、数え7歳までの子どもは神の子とされ、7歳になる前にこの世から旅立っていった子は神のもとへ帰ったとして葬式をせず水子として祭られることが多かった。
 大杉神社の鎮座する一帯でも、そうした子たちすべて水子として丁重に祭った。かつて常陸内湾(江戸時代初頭まで広がっていた利根川か流域、印旛、手賀、牛久沼流域、霞ヶ浦域)に面していた大杉神社には、水子供養のためこうした地域から多くの人々が参詣に訪れていた。数え7歳にいたらずにこの世を去ってしまった子らを祭ったのが、「葦船社(あしふねしゃ)」あるいは「蛭子社(ひるこしゃ)」と称された神社。

 我が国で、水子の原型とされているのが蛭子命(ヒルコノミコト)と称される神様で、別名エビス大神。あの世へ葦の船に乗せたれて旅立った後、父・伊弉諾命(イザナギノモコト)と母・伊弉冉命(イザナキノミコト)のために富を宝船に乗せて帰ってくるという伝説があり、恵比寿像は必ずと言っていいほど宝船に乗り小脇に鯛を抱える図で描かれている。こうした伝承もあり、水子を祭ることは一家の繁栄と安泰をもたらすとして、江戸時代には多くの地域から大杉神社境内の葦船社に参詣したことも知られている。

 大杉神社では、廃絶に近い形だった葦船社を「葦船神社」として再興、間もなく完成の時を迎える。御祭神は、水子を守護する 蛭子命 と冥界を守護する 大国主命 。実際の愛情を注いであげられなかった子を想う、水子を持つ多くの人の思いを取り入れた社殿になっている。慰霊のための落ち着いた雰囲気の中にも贅を尽くした作りを―社殿外部は黒に銀で模様が描かれ、内部は天井に様々な花が描かれ華やかな趣がある。

社の前には福禄寿と寿老人が置かれていました。



葦船神社から少々歩くと、駐車場の奥の方に三本杉の一つ”次郎杉”が見えてきます。三本揃った姿を見て見たかったです・・・。



次郎杉から拝殿方面へ。こちらにも末社群があり、扁額には合計7つの神社名が載っていますね。



参道の途中には謎の祠が・・・。



どうせだから稲荷から参拝することに。鳥居をくぐっていきます。



稲荷神社 です。何と言いますか・・・たくさん稼げるようになれそうです。祭神は保食神。



ほんとすんごいですよね、装飾!



お次は 勝馬神社 。競馬ファンの参拝が絶えないそうですよ。その名の通り馬を守護する目的で置かれた神社の様です。
面白いことに、祭神は不明。上・下野国からもそれなりに近いため、もしかしたら上・下毛野一族が信仰していたとされる駒形大神を祀ったものかもしれないと妄想しています。



祠の中には猿に引かれた勇壮な馬像が収められています。古来より神猿は馬の守護神とされていたとか・・・それに因んでいるんでしょうか。



説明書きです。




勝馬神社

御祭神:不詳

 もと馬櫪社と称し、貞観4年(862年)信太馬牧に祀られた馬体守護の古社。鎌倉時代ごろ大杉神社境内に遷座された。
 4月8日は大杉神社の春の大祭で別名駒牽祭と呼ばれている。境内山奥に馬場(現駐車場)があり競馬が開催された。
 旧来は馬場を見渡す地に石祠として鎮座。農耕馬の消滅とともに石祠の存在すら多くの人々から忘れ去られていた。平成14年篤志家の手によって現在の地に遷座、社殿を建立。JRA美浦トレーニングセンターが近いこともあり、馬主・騎手・調教師といった競馬関係者はもとより、競馬ファンの参拝も多い。



本堂もありますよ!末社の中でも特に崇敬が篤そうです。



つぎは摂社になるでしょうか、 捄総社 です。大杉神社・あんば様とも関係の深い菟上之国の国人を祀った神社のようですよ。計4つの神社が合祀されています。



説明書きです。




捄総社

捄総社とは日祀社・鵜神社・梶鳥社・神護社の総称。

・日祀社
御祭神:日女大神 ウナカミの王の祀る太陽の神様。

・鵜神社
御祭神:鵜神大神 歴代のウナカミの王と、これに連なる菟上国造の御霊。

・梶鳥社
御祭神:鳥船大神 ウナカミの王のもと海上交通と交易を守護する神様。

・神護社
御祭神:鵜神大神の末裔、日奉部直神護命 菟上(海上)国造となった神護命が祖先を祭祀した神社。日祀社・鵜神社・梶鳥社を再建した功により祀られた。


古代常陸の歴史に深く関わる内容で非常に面白いです
説明書きを見る限り、日祀社では今の日本神話とは別系統の太陽神が祀られているということなんでしょうか?天照皇大神の別名はオオヒルメであり、ヒルメ部分が共通しています。系統が異なったとしても、太陽神=女神という共通認識があったということなんでしょうか。これ以上考えると寝れなくなりそうなので、ここらへんで切り上げます。

最後は 相生神社 です。ここは何と生殖器崇拝の社で、祭神は伊弉諾大神と伊弉冉大神の二柱なんですが、御神体はどちらも生殖器型の石碑です。おびただしい数の木札が掛けられているのが見えるでしょうか、これは願いの数を表しています。相当に崇敬の篤い社だと分かりますね



説明書きです。




相生神社

御祭神:伊弉諾大神、伊弉冉大神

 男女和合の神社で、子授け(子宝)の神社として知られている。
 男根石に願い紐を懸けて月参りする。子供が授かったら女陰石に叶い紐を懸け、お礼参りの祈祷を受ける。



御神体をよく見てみます。もはや形が分からないほどに札でおおわれてしまっています。大杉神社の末社は面白いものばかりでした・・・!



神社を去る時、駐車場の入り口に弁財天を見つけました。明日からの筑波周辺の散策が楽しめればいいなと思いながら、友人の運転する車内から眺めていました。実際すごく楽しめたのですが、筑波山に登りたいという思いも強くなってしまい・・・。これは登りにいくしかないようです。いつになるか分かりませんが、絶対に。



今回貰った御朱印です。
大杉神社の御朱印



末社:勝馬神社の御朱印



摂社:捄総社の御朱印



これら以外にも摂社・末社の御朱印がいくつもありました。

以上です。

公式サイトへのリンク
​​​あんばさま 総本宮 大杉神社

wikipediaへのリンク
wikipedia / 大杉神社




神楽殿の近くに説明書きがいくつも有るんですが、醤油並みに内容が濃すぎて進行に支障をきたしそうだったので、ここに載せたいと思います。




醤油醸造と大杉神社

 一般に関東での醤油醸造は元和2年(1616年)の千葉県銚子市での田中玄蕃による醸造が早いとされる。玄蕃は後のヒゲタ醤油の創業者であるが、千葉県野田市で天文年間に飯田市郎兵衛によってすでに醸造が手掛けられていたという。
 しかし飯田市郎兵衛は茨城県稲敷市上君山出身で野田に移住したとされている。市郎兵衛の出身は上君山の飯田藤右衛門家ですでに天文年間(1532~1555年)に土岐原氏に納める醤油を醸造しており、天正2年(1574年)に家業としたといわれている。関東醤油醸造の初期の創業者は藤右衛門家に創業の折には挨拶に赴くのを慣例としていたとみられ、その折に藤右衛門家が信仰していた大杉神社での祈祷を受けることも恒例化していたとされる。田中玄蕃もそうした中の一人であり、高梨兵左衛門(キッコウマン)、国分勘兵衛(大国屋、のちの国分)などが代表例である。

 醸造家とともに廻船問屋や諸々の商いをする商人たちが多く大杉神社を参詣するようになった。盛時には神社周辺に20軒ほどの参詣宿が軒を連ね、参詣人の多さは「蟻のあんば詣で」と称された。また参詣人の増大と信仰の隆盛は豪奢な社殿群の建設を可能にし「あんば日光」の異名をもって称されるほか「あんば参れば日光みることなし」と称されるほどであった。

※1. 大杉神社鎮座地の地名「阿波」は「あんば」と称されてきた。旧村合併の際「阿波村」となり村名は「あば」大字名は「あんば」であったが後に混同されることが多くなり、現在は「あば」と発音されている。大杉大神さまの鎮座地が「あんば」であったことから、大杉大神さまを「あんばさま」「あんば」と一般には称していた。






あんば囃子

 これまで元和元年(1617年)にヒゲタ醤油の創業者田中玄蕃によって上方からもたらされたとされたと言われていたあんば囃子は、すでに天正年間(1573~1592年)に境内で踊られており、初源は天文年間(1532~1555年)に遡る。
 その後下火となったものの享保10年(1725年)隣村須賀津の若衆が大杉神社内の幣束を持ち出し、悪魔祓え囃子を奏し踊ったことに端を発し、翌享保11年(1726年)には水戸市および千葉県市原市に及ぶ広域に流布。さらに享保12年(1727年)​ 永代寺 ​境内で出開帳が行われた。この際悪魔祓え囃子と称していたあんば囃子が大流行となった。江戸市中を席巻した囃子は、市中の混乱を招くとするほどに盛況であったため江戸町奉行大岡越前守忠助により禁令を受けるほどであった。
 その後も各地に伝播、佐原囃子・潮来囃子・成田祇園囃子など関東近郊の多くの囃子の源流となった。







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最終更新日  2025年03月18日 21時05分01秒
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