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大杉神社の歴史
海上に浮かぶ大杉神社稲敷市阿波の大杉神社は、全国に670社ほどある大杉神社の総本宮です。大杉神社の鎮座する場所は、『常陸風土記』に「安婆嶋」として登場します。霞ヶ浦、利根川下流域、牛久沼、印旛沼、手賀沼、小貝川下流域などを内包する常総内海(常総内湾)に突き出すような半島地形だったことから、古代においてこの地は内海に浮かぶ島のように思われておりました。
律令体制以前この一帯は、菟上之国(うなかみのくに)という霞ヶ浦東岸域(稲敷、行方、鹿島南部)と東総域(香取、海上、匝瑳)を治めていた国の一部と伝えられております。菟上之国は菟上国、海上国とも表記され、常総内海の交易、産物を中心として成立した小国で、ここに暮らす多くの人々は漁撈と農耕の両方を生活基盤としておりました。他にも、製塩や玉造(勾玉を中心とする信仰対象の装飾品の製作)も盛んで、当時の大切な交易物資であったと伝えられております。
海河の守護神あんばさま
当時、菟上之国は広大な常総内海を支配域としておりました。その内 海の航路標識の役割をはたしたのが、大杉神社の巨大な杉です。この地が「あんば」と呼ばれていたことから、巨杉に鎮座する神様は「あんばさま」と呼ばれました。 この巨杉は常総内海の人々の信仰の対象として、また海で生活する人々の交通標識として役割を発揮していたと考えられます。後に舟運交通守護の神様として利根川水系、太平洋沿岸の舟運業に携わる多くの方々にも信仰され、交通安全の神様として篤い信仰を受けていました。
律令体制期に、菟上之国が内海の西にあった茨城国の一部に組み入れられるまで、大杉神社は菟上国造を祀るもっとも重要な神社でした。その後菟上之国の海上支配、交易権は、南下してきた仲国の一族が築いた鹿嶋、香取の両神社に移譲しましたが、一般民衆の間では依然として、海河守護の神様としての大杉神社の信仰は温存されつづけられました。
※御神木
かつて「あんばさま」と呼ばれていた「太郎杉」は、1778年に消失しました。現在の御神木は、樹齢およそ1000年・樹高40mの大杉「次郎杉」と、樹高28mの「三郎杉」です。















水子供養 大杉神社に葦船神社が再興
古来、数え7歳までの子どもは神の子とされ、7歳になる前にこの世から旅立っていった子は神のもとへ帰ったとして葬式をせず水子として祭られることが多かった。
大杉神社の鎮座する一帯でも、そうした子たちすべて水子として丁重に祭った。かつて常陸内湾(江戸時代初頭まで広がっていた利根川か流域、印旛、手賀、牛久沼流域、霞ヶ浦域)に面していた大杉神社には、水子供養のためこうした地域から多くの人々が参詣に訪れていた。数え7歳にいたらずにこの世を去ってしまった子らを祭ったのが、「葦船社(あしふねしゃ)」あるいは「蛭子社(ひるこしゃ)」と称された神社。
我が国で、水子の原型とされているのが蛭子命(ヒルコノミコト)と称される神様で、別名エビス大神。あの世へ葦の船に乗せたれて旅立った後、父・伊弉諾命(イザナギノモコト)と母・伊弉冉命(イザナキノミコト)のために富を宝船に乗せて帰ってくるという伝説があり、恵比寿像は必ずと言っていいほど宝船に乗り小脇に鯛を抱える図で描かれている。こうした伝承もあり、水子を祭ることは一家の繁栄と安泰をもたらすとして、江戸時代には多くの地域から大杉神社境内の葦船社に参詣したことも知られている。
大杉神社では、廃絶に近い形だった葦船社を「葦船神社」として再興、間もなく完成の時を迎える。御祭神は、水子を守護する 蛭子命 と冥界を守護する 大国主命 。実際の愛情を注いであげられなかった子を想う、水子を持つ多くの人の思いを取り入れた社殿になっている。慰霊のための落ち着いた雰囲気の中にも贅を尽くした作りを―社殿外部は黒に銀で模様が描かれ、内部は天井に様々な花が描かれ華やかな趣がある。




















神楽殿の近くに説明書きがいくつも有るんですが、醤油並みに内容が濃すぎて進行に支障をきたしそうだったので、ここに載せたいと思います。
醤油醸造と大杉神社
一般に関東での醤油醸造は元和2年(1616年)の千葉県銚子市での田中玄蕃による醸造が早いとされる。玄蕃は後のヒゲタ醤油の創業者であるが、千葉県野田市で天文年間に飯田市郎兵衛によってすでに醸造が手掛けられていたという。
しかし飯田市郎兵衛は茨城県稲敷市上君山出身で野田に移住したとされている。市郎兵衛の出身は上君山の飯田藤右衛門家ですでに天文年間(1532~1555年)に土岐原氏に納める醤油を醸造しており、天正2年(1574年)に家業としたといわれている。関東醤油醸造の初期の創業者は藤右衛門家に創業の折には挨拶に赴くのを慣例としていたとみられ、その折に藤右衛門家が信仰していた大杉神社での祈祷を受けることも恒例化していたとされる。田中玄蕃もそうした中の一人であり、高梨兵左衛門(キッコウマン)、国分勘兵衛(大国屋、のちの国分)などが代表例である。
醸造家とともに廻船問屋や諸々の商いをする商人たちが多く大杉神社を参詣するようになった。盛時には神社周辺に20軒ほどの参詣宿が軒を連ね、参詣人の多さは「蟻のあんば詣で」と称された。また参詣人の増大と信仰の隆盛は豪奢な社殿群の建設を可能にし「あんば日光」の異名をもって称されるほか「あんば参れば日光みることなし」と称されるほどであった。
※1. 大杉神社鎮座地の地名「阿波」は「あんば」と称されてきた。旧村合併の際「阿波村」となり村名は「あば」大字名は「あんば」であったが後に混同されることが多くなり、現在は「あば」と発音されている。大杉大神さまの鎮座地が「あんば」であったことから、大杉大神さまを「あんばさま」「あんば」と一般には称していた。

あんば囃子
これまで元和元年(1617年)にヒゲタ醤油の創業者田中玄蕃によって上方からもたらされたとされたと言われていたあんば囃子は、すでに天正年間(1573~1592年)に境内で踊られており、初源は天文年間(1532~1555年)に遡る。
その後下火となったものの享保10年(1725年)隣村須賀津の若衆が大杉神社内の幣束を持ち出し、悪魔祓え囃子を奏し踊ったことに端を発し、翌享保11年(1726年)には水戸市および千葉県市原市に及ぶ広域に流布。さらに享保12年(1727年) 永代寺
境内で出開帳が行われた。この際悪魔祓え囃子と称していたあんば囃子が大流行となった。江戸市中を席巻した囃子は、市中の混乱を招くとするほどに盛況であったため江戸町奉行大岡越前守忠助により禁令を受けるほどであった。
その後も各地に伝播、佐原囃子・潮来囃子・成田祇園囃子など関東近郊の多くの囃子の源流となった。
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