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甲府市は甲斐武田氏の本領として、躑躅ヶ崎館を中心に街造りがなされてきました。城下には寺社仏閣がひしめき、それは今でも変わっていません。歴史的な景観と現代的な景観とが混ざりあう独特な風景は、こうした土壌の上にあるのです。今回紹介する神社も甲府の街なかに鎮座していますが、その姿は荘厳そのもの。かつては今よりも北方の山地に境内を構えていましたが、甲斐武田十五代信虎公によって現在地に遷座されました。街なかに在りながらも、山岳に関係する神格を祀っているのは、山岳が多い山梨県らしくて良いですねぇそれでは見ていきましょう。2025.11.30甲斐奈神社道路に面した境内は一段高くなっております。近くに車を停めて早速登っていきます。手水舎です。結構豪華ですよね!扁額には身心清浄と刻まれていました。隣には手水とは別に”夢望の泉”という清水が湧いています。軟水でしょうか?境内を散策していると、端の方に扁額や社号標がまとめて置かれていました。これは一応、延命長寿社という末社であり、境内旧石の霊を祀っているんだとか。隣には末社が幾つもドン・ドン・ドン!内訳はこんな感じです。甲斐奈神社 末社健康守護社:金毘羅大神、生目大神、大国主大神、布留幣大神、他2柱商売繁盛社:伏見稲荷大神、豊川稲荷大神、有縁稲荷大神諸願成就社:天照皇大神、他7柱開運守護社:鹿嶋大神、他7柱交通守護社:猿田彦大神、道祖神学業成就社:菅原大神家内安全社:木火土金水五行神祖霊社:歴代宮司・氏子・崇敬者の霊境内守護社:境内守護神諸霊社:延命水子大神延命長寿社:境内旧石の霊ここまで末社を詳細に紹介している神社も珍しいですね!助かります。他には七福神のものや・・・。なんか、こう・・・変わった石碑もあります。末社群の反対側にも末社・・・。木と木の間に静かに鎮座しているのは三石社です。手前の磐座風のものと、奥の丸石道祖神風のものを併せて三石社と呼んでいるようです。それぞれ夫婦銀杏石・子育石・命の石と名付けられています。境内南東には”巽龍神社”が鎮座しています。と言っても、社は無く石柱のみですが。”巽”とは辰巳、つまり十二方位でいう所の南東にあたります。そこに置かれた龍神社という事なんでしょう。祭神も不明です。拝殿のすぐ側には御神木の社もありました。夕日にかって拝殿が照らされていました。温かなフィルターがかかったような色合いが美しいですね社殿も大きく新しめです。御由緒です。甲斐奈神社御祭神:白山大神(菊理姫命)、浅間大神(木花咲耶姫命)相殿神:瓊瓊杵神、大山祇神、石長姫神、若彦命 当社は、人皇第二代綏靖天皇の御代、甲斐国開拓に際し甲斐奈山(現・愛宕山)の頂きに白山大神を祀ることに始まり、以来、延喜式神名帳に載る如く甲斐国鎮守の神として尊崇された。 永正年間(1504~1520年)、甲斐武田十五代信虎公の築城に際し、現社地に遷座され文禄年間(1592~1595年)甲府城起工の際、東部守護神として浅間大神が併祀され、社運愈々隆盛となった。 明治9年(1876年)郷社に列せられ、昭和2年境内拡張事業により現在の規模に到る。昭和20年戦災により社殿は焼失すれど復興事業めざましく、戦後20数年にして旧に復す。平成18年には遷座500年を記念した平成社殿ご造営事業が成就し、氏子崇敬者の浄財を以て社殿が新造された。 白山大神の「理」、浅間大神の「和」のご神徳は人生諸般に亘り広く崇敬を受けている。神武天皇の次代 綏靖天皇の頃に創建されたと言います。綏靖天皇に関しては実在が疑問視されているようですので、創建年代は御由緒のものよりも降ることになるでしょう。今では山梨県立科学館が置かれている愛宕山ですが、往古の頃は甲斐奈山と呼ばれていたんでしょうね。そこに鎮座する神社という事で甲斐奈神社と呼ばれています。当初は白山妙理大権現のみが祀られていましたが、16世紀には浅間大神(木花咲耶姫神)も合祀されます。相殿神に列する神格はいつ頃合祀されたのかは不明ですが、浅間大神に関連する神格が多いのが特徴ですかね。扁額です。字は彫り込んであります。斜めから。参拝した時間帯が最高で、徐々に暗くなっていく空と共に、深く色付いていく社殿を同時に味わえました。延喜式内社あるあるなんですが、神社名に”根”とか”奈”とかがよく付きます。これにはどんな意味があるんでしょうか。”~の神社”の”の”部分が漢字にて表されているとか・・・どうなんでしょうね。昔の日本語の発音が反映されているとしたら面白いですが、詳細は良く分かりません。山岳に対する信仰は、日本神話成立以前から存在したと考えられているようで、それだけ根源的な信仰の形と言えるのではないでしょうか。この社にも、日本を代表する山岳の神格が2柱祀ってあります。近く登山する方などは、参拝するのも面白いのではないでしょうか。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・【公式】山梨県甲府市・甲斐奈神社以上です。
2026年03月31日
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郡山市の南方、須賀川市とほど近いところに田村町という集落があります。名前の通り坂上田村麿の裔と言われる田村氏が根付いた土地でもあるのです。そんな田村の総鎮守が今回紹介する田村神社です。神社と言っても、元は田村大元明王堂という仏堂で、鎮守山 泰平寺とも称しておりました。いつもの如く神仏分離によって神社化し、現在に至ります。神社と言うからには、鳥居があることは半ば必須条件でしょうか。田村神社も樹叢茂る丘の端に立派な鳥居を構えていました。寺院時代には、この鳥居の手前に燈明坊という僧坊と、伊勢皇大神の祠、柳沼安芸守の邸宅などが置かれていたそうです。今では駐車場として整備され、かつての面影は感じられません。寂しげな気持ちになりますが、それを慰めるように鳥居の脇にはこれでもかと桜が植えられています。もう少しすれば(執筆は3月)桜花に彩られた美しい境内が見られそうです。2024.10.26仙道三十三観音霊場一番札所:田村神社(鎮守山 泰平寺)それでは丘上の境内を目指します。気合を入れすぎて日の出前に到着してしまいました。白河からは車で数時間、近くは有りません。長時間の運転で疲れた体を満たすために、デーリーヤマザキで腹ごしらえして、太陽が上がるのを待ちました。鳥居を抜けると、長い石段の先に立派な随神門が建っています。これは登るの骨折れますよぉただ、石段や石橋などには苔が生し、全体的に古色が残っております。風情はバッチリです参道脇には梵字入りの石碑。・・・本当に神社ですよね?反対側には岩をくりぬいて祠にした稲荷社が。・・・これも修験っぽい風情がありますが、本当に神社ですよね?これら以外にも、参道脇の岩が所々削られて石碑と化していました。宮城の松島のような風情がありますねぇ山門でs・・・すいません、随神門です。切妻屋根の立派な造りでした。山号額です。もう、ね?ほとんど寺院の時のまま保存されているんです!なんなら随神門の中には随神像ではなく、巨大な仁王像が収められているんです。阿形!吽形!しかもへたな仏閣よりは全然造りがしっかりしています。おそらく御作ではなく仏師の手になる物だと思われます。随神門の後ろには更に門。現在は神楽殿として使われています。軒からは太鼓がさがっています。これも祭事の時に使われるんでしょうね。境内には多数の末社が置かれています。主に拝殿に向かって左側に並んで鎮座しており、古地図通りの配置であるため、境内の様子は移遷後から大きく変わっていないのかも知れません。こちらは謎の小祠。その隣に一際大きな末社があります。養蚕神社といい、祭神は明記されていません。福島県や茨城県北部には養蚕神社・蚕養神社に類する神社が多く、皆一様に祭神は保食大神です。おそらくここも同じ神格を祀っているのではないでしょうか。古地図ではここに坂上神社が有ることになっているので、もしかするとかつての坂上神社の社殿をそのまま使っているのかも知れません。養蚕神社の隣には石造りの祠が3社並んでいます。まずは1つ目、馬力神社です。祭神は不明ですが、青森県三戸町にある馬暦神社(ばれきじんじゃ)を例に見てみると、かつては馬頭観音を祀る祠だった可能性が見えてきます。石祠側面の彫り物はかなりの精巧さで、見る者の心を奪います。松に鷹でしょうか?2つ目、松尾神社。おそらく大山咋神が祀られているのではないでしょうか。他の石祠と異なり、粽部分にも装飾が施されています。正面のものは鬼でしょうか?左側面は烏天狗。下には松と夫婦。右側面は大天狗。下には・・・よく分かりません。3つ目、菅原神社です。祭神は菅原道真公でしょう。側面の装飾です。・・・うーん、題材は何なんでしょうか。二十四孝とかなんでしょうか?田村神社拝殿両脇には、朱塗りの祠が2つ置かれています。他の末社に比べて造りが良く、重要視されていた可能性があります。作られたのは本殿と同じころ・・・ということは江戸時代初期~中期ころでしょうか。相当古いです。当然市指定重要文化財に指定されています。左側のこちらは熊野宮。本山派修験とも関りの深い当霊場の鎮守社だと思われます。扁額には大権現とだけ刻まれています。社殿後方には巨大な桜の木がおがっています。この桜の古木は”景勝の桜”と呼ばれており、北陸の雄 上杉景勝が戦勝の神恩に感謝して植えたと伝わっています。説明書きです。景勝の桜(泰平寺の桜) 慶長3年(1598年)正月、上杉景勝は越後より会津に移り、当地方も景勝公の支配するところとなった。 慶長5年(1600年)前沢御陣の折、八幡神社より御幣が出現しお山の上を飛び廻ったという。それを聞きつけた守山城代・本庄越前が小野郷入水の増ヶ池、鶴ヶ池の水を汲ませ、大元明王の御宝前で湯立ちの神事を行ったところ、前沢御陣は必ず勝利するであろう、とのご託宣があった。ご託宣通りの勝利の帰陣となり、希代の不思議と景勝公から300石の領地が寄進された。 桜もこの時植えられたものであろうか。古い絵図を見ると熊野神社のこの桜と八幡神社の横にも桜があったことが分かる。当時植えられたものであれば、樹齢は約400年となるであろう。種類はエドヒガンであるが紅が濃く見応えのある桜である。平成30年4月15日 郡山市田村町観光協会平成三十年度公益信託うつくしま基金助成事業拝殿右側には件の八幡宮。熊野宮同様、朱塗りの社殿が美しいです。社殿の造りは異なり、流造となっています。より神道らしい外見ですよね。祭神は十五代応神天皇か。扁額です。本殿背後には謎の石祠。それではいよいよ社殿とご対面!風雪に耐えた独特の色合いの木材が美しく、まさに当地域の鎮守社として相応しい風格が感じられます。御由緒です。郡山市史 第1巻(原始・古代・中世)の記述をもとにまとめてみました。引用した箇所はページ下部にまとめています。田村神社祭神:坂上田村麿命開基:坂上田村麿 かつて鎮守山 泰平寺という寺院だったものが、明治の神仏分離によって神社化したものです。祭神はWikipediaでは坂上田村麿命となっていますが、詳細は不明です。↓の旧境内図を見ると、境内左端に坂上神社と言う末社があり、こちらから勧請した可能性も考えられます。 当霊場の始まりは坂上田村麿が蝦夷を討つために東征した際、大元帥明王を祀ったことに始まるとされています。初めは宇津峯の麓に創建されましたが、後に月夜田・五里平などに遷座し、康永2年(興国4年・1343年)には塩田の明王重石に再度遷座したことが『伊達行朝勤王事歴』にて示されています。 現在地に遷った年代は不明ですが、相殿八幡文書(三穂田、大原康秀文書)には、応永12年(1405年)6月に足利満貞の命によって、大原康信が山中大元帥明王に銅鐘寄進のための勧請をしたとの記述があり、それ以前のことだと思われます。 永正元年(1504年)には田村義顕と共に三春城下に遷座しており、それが現在三春町に鎮座する田村大元神社です。遷座後もこの山中の大元明王堂は篤く崇敬を受けていたようで、慶長5年(1600年)には上杉景勝から領地300石の寄進を受け、寛文11年(1671年)には本堂が禅宗様で再建されています。 大元帥明王は多面多臂の恐ろしい見た目をしており、それ故か敵を調伏するための祈祷に用いられます。これを大元帥法(だいげんのほう)といい、専ら真言宗にて修されるものです。ここも蝦夷調伏の祈祷所として開かれたのかもしれません。 坂上田村麿に奉納された大元帥明王画像を祀るのは大元明王堂で、この仏堂を中心に当霊場は発展しました。明王堂の神宮寺として鎮守山 泰平寺が置かれ、別当は真言宗 帥継院、学頭は天台宗 善法院が努めていました。これ以外にも多数の支院・僧坊が置かれ、中には修験の坊もありました。大祥院もその1つで、天台宗の流れを汲む本山派修験だったと言われています。境内にある熊野神社も修験ゆかりのものとされているようです。この様に台密・東密、果ては修験までもが集まる多宗兼学の霊場だったと言われています。 各僧院を見てみますと、最終的に勢力が強くなったのは天台宗系ですが、もとは真言宗系の勢力が優勢だったようです。いつ頃天台・真言2宗に分裂したのかは定かではありませんが、江戸時代の時に300石の寄進を受け、それが帥継院に50石、善法院に70石分配されるなど、既に待遇に差があったようです。 別当 帥継院の創建は不詳ですが、田村・安積・安達に25ヵ寺の末寺を擁する真言宗の大家で、松本坊・坂本坊・新寺坊・橋本坊・藤本坊・上河坊・山本坊・大門坊・円林坊等の僧坊からなっていたとされます。本尊の大元帥明王が真言密教と関りの深い仏尊という事もあり、明王堂創建当初から存在した可能性も十分考えられます。明治後期に転出した後の動向は不明です。 学頭 善法院も創建年などは不詳で、安積・田村両郡の天台宗寺院を統括していました。比叡山 延暦寺の直末だったようです。明王堂のすぐ側に境内を構えており、天台宗らしく近くには薬師堂を置いていました。明治30年(1897年)2月に焼失してから再建されることはありませんでした。 本山修験 大祥院は嘉暦年中(1336~1328年)の開創で、かつては蒲倉にあったとされます。いつの頃からか大平に移り、明治の頃まで続きます。御堂の跡は現在大平熊野神社となっており、往時を偲ぶことができます。長い歴史を持ちますが、単一の血脈が続いていたわけではなく、数度の系統変更がなされています。応永24年(1417年)には、湯上坊(泰平寺僧坊)に代わり田村の熊野先達(※1)を務めたことが『浄祐譲状』に記載されており、文明18年(1486年)には本山派修験の総元締め 聖護院道興の巡検に与るなど、相当な権力を有していたことが伺えます。 他にも十方院(明治2年・1869年廃寺)という修験の僧院があり、近くには羽黒堂が置かれていました。十方院の系統は不明ですが、羽黒堂を近くに祀っているという事からも、羽黒修験である可能性があります。この様に修験に関しても様々な系統の僧坊が置かれていたようです。 泰平寺本尊の大元帥明王立像は、製作年代・作者不明ながらも、脇侍が揃い、彩色までなされている秀像であり、こうした仏像が地方に現存する例は少なく貴重です。そもそも大元帥明王自体造像例が稀であり、その点でも本像の希少性を高めています。 立像の他にも掛軸型の図像が現存しており、こちらの作成年代は立像よりも前の年代(江戸初期~中期)と推測されています。作者は狩野探幽と伝わりますが、定かではありません。 立像・図像ともに像様は降三世明王に近く、当時流通していなかった大元帥明王を、降三世明王の姿をモデルにして描いたのではないかとされています。令和4年6月29日には、どちらも市指定有形文化財に登録されました。 本尊を収める厨子は、桃山時代頃に建立されたものと推測されており、こちらは県指定重要文化財となっています。 この他、明治期に奉納された算額や、室町~江戸時代に奉納された多数の大絵馬など、文化財の宝庫でもあります。※1:熊野先達はその地方の熊野詣でを取り仕切る役職で、主にその地方の有力修験者が努めました。領主から民衆まで広い層の熊野詣でを担うことで、参詣料などを集め、莫大な富と権力を得ていたそうです。田村神社に収められている太元帥明王画像を含めた文化財などは、郡山市のサイトにてご覧になれます。興味のある方はこちらからどうぞ!鳥居の手前には古地図もあるので、こちらで旧境内の堂宇の配置を確認できます。ここに描かれている堂宇の殆どは現存せず、明治の神仏分離の影響が如何に大きかったかが伺えます。拝殿の前には古めかしい石灯籠が置かれています。奉納されたのは延宝8年と相当の昔です。当時の技術と歴史的事実を裏付けるものとして貴重であり、市指定重要文化財に登録されています。下に境内説明書きを載せますね。郡山市指定重要文化財 延宝八年検地燈籠昭和62年3月31日指定 延宝八年検地燈籠は、高さ233㎝の六角形石燈籠です。 かつてこの付近は、寛永20年(1643年)から二本松領主丹羽氏の預かり領とされておりましたが、江戸幕府は天領を直接支配する方針から、延宝6年(1678年)6月に検地を命じ、延宝8年(1680年)までの2年を要し完了しました。 幕府の命令により諸国で検地を行っていますが、その奉謝としての検地燈籠が、地域の鎮守神にあることは全国的にも余り例が見られません。 また技術面でも、全体的形態並びに各部に加えられた石土手法は、いずれも江戸中期頃の手法によって作られており、ほぼ造立当時の姿を残しており、歴史上の事実を裏付ける石造遺物として学術的価値が大きいと思われます。郡山市教育委員会狛犬も迫力の表情狛犬:阿!狛犬:吽!この地域の神社などでは良く見られる形態です。拝殿の木彫装飾です。何といっても、虹梁の上にて暴れ踊る阿吽の龍がすんばらしく見ごたえがあります。扁額です。”大元帥”の方は、随神門の山号額と共に文化財指定を受けています。本当に境内にどんだけ文化財が有るんでしょうか。すごくないですか!?本殿近くには謎の石碑。本殿です。ここに本尊の大元帥明王立像が収められているんでしょうか。それでは最後にさんじゃらっと境内を見回して終わりたいと思います。境内の説明書きです。なんと田村神社には芭蕉たちも訪れたようで、堂内にて狩野探幽作と伝わる大元帥明王図像を見たみたいです。※説明書きは省略。境内右側、八幡宮の向いにある小さな桜は”愛姫櫻”と呼ばれています。調べた感じ愛姫お手植えとかではないようですが・・・。愛姫(めごひめ)は言わずと知れた伊達十七代政宗公の正室です。かつて当地を治めていた田村氏の一族だったらしく、それに因んでこの桜は命名されたんじゃないでしょうか。斜めから。かなり長くなりましたが、無事書き終えることが出来ました。仙道三十三観音霊場は面白い札所が多いにも関わらず、詳しく解説している書籍などは少ない印象です。知名度もそこまで高くありませんが、秩父巡礼に比肩する歴史を持ったこの巡礼について、より詳しく調べていきたいと思います札所本尊の聖観音の来歴は不明ですが、このような素晴らしき霊場に参拝出来ただけ良しとしましょう。知っている方がいましたら、情報提供よろしくお願いします。御詠歌潤わん 草木も非じ守山の 説きおく法の雨も滴も札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर以上です。参考資料の引用:郡山市史 第1巻(原始・古代・中世)②318.319ページ田村大元帥信仰 鎮護国家仏教の流れをくむ古代の東北の寺院においては、蝦夷鎮撫の降賊怨敵調伏の祈祷と、これに輪をかけたように襲ってくる凶作・疫病・災害による民情不安安緒のための特別な修法を行なった記述が散見する。 虎狼のごとき蝦夷とおそれられた荒夷に対しては、五千の大鬼神の主で、火焰を背に負い、忿怒の相もものすごい五大力菩薩(五大明王とは別である)を安置し、護国と三宝を護持する利益をもたらす祈祷を行なうことが必要であった。 さらに仁王経(仁王護国般若波羅密多経)・法華経・金光明経の護国三部経の転読、女神で福徳・円満の成就を授ける吉祥天悔過の修法等を行なった。この中に大元帥法(だいげんのほう)という鎮国・降賊の秘法を行なう修法があった。 大元帥法は、口伝では前字をはぶき、ダイゲンノホウと読む。密教の大法の1つで、毎年正月8日より17日の間行われるのを恒例とした。この法を修すれば隣国の怨敵を消伏し、国内の逆臣を摧滅する。すなわち調伏を表とし、国家人民の息災・増益・敬愛を兼ねるという征夷事業には持ってこいの秘法で、『三代実録』元慶2年(878年)6月28日の条に、「詔をもって大元帥法を、阿闍梨伝証大法師位寵寿をして出羽国に於て、七僧を率えて降賊法を修するために遺す」とある。この秘法を修する本尊は大元帥明王といって、六面八臂の(一面二臂もある)像で降賊の剣を手にした忿怒像で火焰を背負うもの凄い異形であり、田村町大元帥神社にこの画像がある。 真言の秘法であるから官寺や郡寺では真言の僧によって修されたことであろうし、安積八幡の神宮寺である護国寺が寺伝とおりの古刹であるなら、当然この秘法が行なわれたのであろう。同寺には空海護持といわれる古式の三鈷杵がある。 坂上田村麻呂伝説がある田村町大字山中に大元帥社があるのは注目に価するもので、田村麻呂の勧請となっているが、偶然の符号ではあるまい。 この明王堂は『伊達行朝勤王事歴』に、昔宇津峯の麓、川東の小山田の境 月夜田・五里平にあったが、康永2年(興国4年・1343年)塩田の明王重石に移り鎮守山泰平寺が主管していた。山中に移った時期は明らかでないが、南朝方の田村氏の本拠地であるから、大方の想像はつくであろう。境内に大同4年(809年)の碑があるが疑わしい。永正元年(1504年)三春に移った同名社に古鏡があり、「大元帥明王、永仁三年七月十日」と漆銘(漆は削とられている)があり、鎌倉時代には既に存在していたことは確かである。 泰平寺は真言宗が本旨のように見られるが、山密・野密混淆のようで、学頭 善法院は天台、別当院は真言と二派に分れた時期は明らかでない。田村町や石川郡の川東(現須貫川市)に天台宗が多いのは、田村大元帥明王に起因するものとみられる。③536.537ページ 田村都内の真言宗は前出のとおり、山中の大元帥明王の泰平寺別当帥継院と、御代田の甚日寺がある。元来朝廷で修法する大元帥修法は真言宗の配宰に属するものであるから、大元帥明王泰平寺は真言を本旨としたものであったが、学頭善法院の勢力が帥継院を圧してくると、台密の線が強くうち出されるようになり、形の上では台密・東密兼帯の両部神道の色彩が強くなったのが、中世における泰平寺の性格であった。田村大元師社 泰平寺 当地方の天台宗寺院を支配したのが、田村町山中にあった泰平寺の学頭 善法院で安積・田村両郡の寺院を管理下に置いた。泰平寺は天台宗 善法院・真言宗 帥継院の台密・東密の二院支配の寺であった。善法院は学頭であって本来は学侶の頭主として論講の精義を詳しくし、学業を管轄すると共に、探題職を兼ねる職名で泰平寺にあった。泰平寺は普通には田村大元帥明王と呼ばれ、坂上田村麻呂の伝承を伝へて崇敬された。田村麻呂伝説の濃厚な、 田村郡内に本社があることに注意しなければならない。田村大元帥明王は永正元年(1504年)田村氏により三春町に奉遷されたが、山中の大元帥明王の故社は変りなく信仰をあつめていた。 『伊達行朝勤王事歴』には ”昔宇津峯宮、憎の某に命じて大元明王の法を行なはしめ給ひしに、岩瀬郡川東郷(今の小山田)の境にて月夜田・五里平といふ所にて修行したり(中略)、時に康永2年(北朝年号)、奥国4年(南朝年号)(1343年)なり、後明王堂を小山田の北に移して礎石今に存す、明王堂の主を鎮守山泰平寺といひ、其頃は字津峯の社壇をも此寺に祀りどりしに、後又堂も寺も田村郡守山の山中村に移して現存す”とあり、「古今拾集」(横川、橋本正雄文書)に”田村大元明王之儀ハ、元ト今ノ所ニ無之、小倉・小山田・塩田所々替移し遂ニ山中村ニ御移し申候、神主 下枝村甲斐守持ニ御座侯、学頭之儀は道渡村ニ而善法院有之、別当之儀ハ塩田村より移し、一二日ク下枝村より移シタルト云々、文明年中(1469~1487年)ノ書ニ見へル、守山御取立ハ天正十年西楽院強仁法印郷下向之時より御取立ニ相成申侯、夫より一山学頭・別当・衆徒十八人、神主二人、祢宜八人、乙女八人、桧物師一人、土器作一人同二人、承仕一人、本願功・燈明坊以上表役、外二一山代官併二手代有之” この史料によると、康永2年(南朝年号 興国4年・1343年)当時は、まだ須賀川市小山田に明王堂があったことになる。 三春の大元帥明王御神体の松喰鶴鏡に「大元帥明王、永仁三年七月十日」とあって、鎌倉時代にもすでに信仰があったことが明らかである。宇津峯騒乱終了した南北朝末期に守山に落付いたのであろう。 相殿八幡文書(三穂田、大原康秀文書)には大原家初代の大原康信が、笹川御所足利満貞の命により、山中大元帥明王に応永12年(1405年)6月勧進して銅鐘寄進のことが記されており、ことに戦国時代田村氏の帰依厚く永正元年(1504年)の田村義顕の三春移城に際しての遷座、天文12年(1543年)田村隆顕と福原大蔵大輔との神文誓約状のなかでも「殊ニハ当国鎮守塩釜大明神、別シテハ大元明王・八幡大菩薩・摩利支天・熊野三所・天満大自在天神各々可有照覧者也」として当時の地方信仰を示している。 元亀元年(1570年)、同2年の蒔絵絵馬(県指定重要文化財)の奉納もあり、天正10年(1582年)田村清顕は置文(田村町中村千二郎文書)を下している。前に述べた西楽院強仁守山下向に関連して、大元帥明王社の威儀を正したもので「衆徒にして不智・不学の者は弟子であっても寺坊の相続を禁ず、勤行・祭礼に不行事の者は別当・学頭にて仰せ聞かせその言葉に従はねば相談の上処置すべし」「今後寺入り、又は子細あって寺に囲置く者は門外に出さず置くべし、造作をかける者は追放すべし」「山中にて悪名ある者は取あつかいに及ぶ」など三条を学頭坊進献として善法院に与えた。 江戸時代になると善法院と帥継院は、幕府の朱印300石のうち、帥継院は50石、善法院は70石と差が生じた。帥継院は輩下の衆として、松本坊・坂本坊・新寺坊・橋本坊・藤本坊・上河坊・山本坊・大門坊・円林坊があり、田村・安積・安達に25ヵ寺の末寺を持っており、甚日寺滅亡の後は河東地方の真言宗寺院としてあなどるべからざる存在であった。④562~566ページ田村郡の修験 大祥院 阿武隈山脈の修験の中心となったものに、宇津峯・木幡・霊山があり、田村地方の中心宇津峯に連なる山々は国峯の性格を持ち続けた。そのひとつに東北地方南部特有の羽山信仰を如実に示す葉山(羽山)岳がある。 宇津峯をもって成立したものに、田村大元明王の泰平寺がある。本山派修験としては古い歴史をもち、明治まで続いた蒲倉大祥院がある。大祥院に伝来された古文書のほとんどは現在東京大学史料編さん所に影写本として残されている『青山文書』がそれである。正しくは「大祥院文書」とすべきであったが、『仙道田村荘史』の著者である青山正が、大祥院より借り出したまま行方不明となったものが多い。『福島県史』第七巻に影写本全部を記戴してある。以下これを大祥院文書として説明する。 大祥院(又は大聖院)は、もと市内蒲倉地内にあり現在大祥院跡の名称が残されているが、後に大平に移り、明治より大平熊野神社となり銅鐘・採灯護摩壇が残されている。 田村郡の郡名は近世に入ってからで、以前は田村庄と称されていた事が「大祥院文書」により知られている。「大祥院文書」は田村庄内の中世からの修験資料としての価値のみでなく、旦那譲状・銭借状・沽券状・年貢状など修験経済史の上からも貴重であり、戦国田村氏を始めとして会津蘆名・伊達・佐竹・結城・那須などの諸氏、織田・加藤・丹羽・松下・秋田諸氏の文書もあって近世まで修験の名門として知られていた。 大祥院の開山は『捨古実集』(郡山新国西新文書)によれば嘉暦年中(1336~1328年)より庄司 田村氏の一族が修験となったとある。この南北朝末期は田村大元明王泰平寺が、打続く兵乱と戦場化・南朝方天台宗修験勢力退潮期に当り、泰平寺の学頭坊は道渡村に移り、別当坊は下枝村に分散していた時期であって、それら修験者のうちのひとつの坊が蒲倉に落ち付いて泰平寺と別個に発展したものであろう。 大祥院は代々田村氏を名乗っているが、大祥院の血統は3度変更しているようで、「大祥院文書」永享2年(1430年)の乗々院役僧奉書にみる如く「田村大蔵祐玄」の場合にみる如く、名乗りの「田村」は地名であって田村庄司一族という意味ではないようである。初期の田村先達は、全く手がかりがないが、応永24年(1417年)の『浄祐譲状』によると、室町初期までの田村先達は、守山の湯上坊か揚上坊の所属する守山泰平寺が領掌していたようで、応永30年代の譲状が多いことは、庄司 田村清包没落後の田村庄政変に起因しているとみられる。応永30年(1423年)の『祐和銭借状』によると、湯上坊侍従 祐和が大蔵律師静浄に田村庄熊野先達職関係文書を質物に入れ、静浄の子にみられる田村大蔵祐文は、先達職の代官となり、後に先達職を名実共に入手して大祥院と名のったのは、応永24年文書に見える「大平殿」でこれが第二次の大祥院である。 『聖護院役者増真書状』によると、聖護院門跡道興准后が、松島・平泉見物をかねて、東国の霊場巡視に下向する旨の通達がある。文明18年(1486年)のことである。道興の紀行文である『回国雑記』八槻の大善院(棚倉町近津、都々古別神社・現在の八槻家)に泊まり 「是より田村といへる所に罷りける、道すから様々の名所とも多かりけり、云ひすてて歌なと記すに及ばず、浅香の沼にて花かつみ かつをうつろう下水の 浅香の沼は 春ふかくして浅香山にてよめるちり積る 花にせかれて浅か山 浅くはみえね 山の井の水」などの歌文をものしており、大祥院が門跡の宿坊となった。さらに天文20年(1551年)にも聖護院門跡道増准后の奥州巡行の宿坊をつとめるなどもあり、翌年正月16日その労に報えて「奥州田村六十六郷并小野六郷、福原村年行事職之事、数年当知行云々、然者弥無相違、可令全領知之趣、聖護院御門跡、所被仰出也、仍執達如件天文廿一正月十六日 藤之花押 増梁花押蒲倉大祥院僧都房として「奥州田村六十六郷併小野六郷・福原村事年行事職」を門跡より認められている。田村全郡と安積郡福原村の霞支配権である。修験は領国大名により軍事的に、政治的に一番利用されたのが、この戦国期にあって田村氏と密接な関係をもった大祥院が、福原村霞場支配はやがて安積伊東氏の一派であった福原氏をいち早く田村方の与力とすることに成功し、それが安積伊東氏に楔となって、伊東氏の勢力分解の一因となるに至る。なお元亀2年(1571年)東安達郡塩松の領主 石橋氏が、家臣 大内氏に追われ、塩松三嶋坊も石橋氏一族のために難をさけ、東安達一円田村氏の勢力下支配となった時期と思われるが、東安達の兼任を聖護院ならびに織田信長より承認されている。天正6年(1578年)10月6日には奥州・羽州の大峯大先達職を命ぜられる程に、霞・平山伏の統制と大祥院の権力が大きく振った。出羽奥州両国輩ノ当院御霞之內、近年修行之道、退転之様、無勿体候間、大峯先達事被仰付候上者、国中被相催、年々可被専此道之由、若王子前大僧正御房、被仰候也、仍執達如件天正六 十月六日 鎮乗花押 快弘花押蒲倉大聖院御坊に、これらが見え出せる。 天正12年(1584年)6月、大膳大夫田村清顕は宿敵 会津蘆名氏との決戦を前にして、田村庄惣鎮守実沢村の帝釈天(現在 高木神社)に、華鬘および銅羅・鰐口を納めているが、帝釈天の宝前で護摩祈祷を行なったのは大祥院別当 諦濡である。これをもってみても、大祥院と田村庄司家との関係は単なる祈祷師ではなく、口伝による大祥院が田村庄司一族であるという布説は肯定できるものがある。事実大祥院が田村一族の名跡であるのは、第三次大祥院になってからである。 近世に編集された『唐古実集』・『田村系図』(大祥院文書)では田村麻呂の胤、大平城主田村月斎の孫 信栄が、天正17年6月7日、佐竹・二階堂の連合軍により大平城落城して牢人となり、紀州熊野にあって修験となり、蒲倉大祥院名跡が断えていたので養子となり院地をうけて大平に帰る。子 安栄より大祥院の名跡を名乗ったとしている。 これが第三次大祥院で、信栄は大平にあって大祥院中興開山となった。田村氏が名跡絶断して伊達領となったが、慶長14年(1609年)7月2日、聖護院門跡より、先規の通り「奥州田村六十六郷併小野六郷・福原村の年行事職」に補されており、かくして近世に入った。 会津加藤氏の領となるや明成より寺院の寺格を認められ50石寄進が行なわれ、以来二本松丹羽家預り領・幕領・守山領に至っても変ることなく、田村郡験年行事となり『古今拾集抄』(横川・橋本正雄文書)によれば支配下寺院119院、 そのうち無住39院を除き、残り80院を支配した。元禄12年「書上」に郡山市内の寺院名が判るものに八丁目長生院・赤沼宝善院・三城目三乗院・板橋極楽院・高柴十楽院・田母神乗法院の名があり、享保17年(1732年)に牛縊法明院・山神東学院などがある。 寛政元年(1789年)大祥院祥栄は、大滝根川の北岸山上に祭祀の熊野神社に、大施小施を受けて日和田鋳工により銅鐘を鋳造した。その銘に「田村坤墺 大平霊郷 元是旧殿 今三山堂 洪鐘一打 福寿無量 随喜功德 菩提道場 長夜夢覚 智水又凉 国家安永 宝前吉祥東奥田村郡大平邑行者山大安寺大祥院」の偈文がある。 文政5年(1822年)支配霞下と紛争が生じて、数百年間断絶しながらも維持した、田村六十六郷・小野六郷・福原村年行事職が停止され、ようやく復職した時は、すでに明治の神仏分離令により廃絶してしまった。 安積先達・年行事職 万蔵院もまた同じ運命で帰農を余儀なくされて、什宝・記録一切を失なった。①568ページ ・・・。西田町平の阿弥陀堂は伊達政宗が狩の途中参詣し、安達境の総鎮守 帝釈天堂・田村大元帥神社およびその神宮寺である泰平寺、その下に配する学頭 善法院・別当 帥継院や多くの子院があり、本山派修験としての大祥院と守護神 熊野神社などがある。また三穂田町の相殿八幡神社およびその神宮寺(護国寺)などの名刹・古社があるが、中世の古建築は一棟も遺存しない。 ・・・。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー境内
2026年03月29日
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24日に仕事を終え、その足で帰省しました。八戸の現場に挨拶し、いろいろと語らった後、拠点の引き払いなど、怒涛の様にこなし、終え、何とか昨日、帰路に着けました。時間もそれなりにあるのですが、いつもと異なる作業というのは、やはりエネルギーが必要です。思い出の食事処・湯処、それに加えて神社・仏閣をまわり納めて心のエネルギーを満たします。南部の方では、蕪島神社・櫛引八幡宮・小田八幡宮・新舘神社など主要な神社をまわると共に、恩人でもある外手洗観音堂の管理者さんと別れの挨拶を交わし、山梨出張のお土産として河口浅間神社の神札を奉納しました。今日に見える富士山の繁栄を享受し、観音堂の繁栄・継承と共に管理者さんの健康長寿を願ってお渡しした次第です。管理者さんと合うのは1年ぶりでしたが、今でも元気そうで安心しました。いつまでも元気でいて欲しいもんです。津軽の方では、久しく参拝していなかった善知鳥神社と共に、久須志神社・諏訪神社・茶屋町延命地蔵堂・一光山 阿弥陀寺をまわり締めとしました。今回山梨県に正式配属となり、これからは山梨県周辺地域の記事がメインになっていくと思われます。東北の記事についても、まだまだ撮りためたものが膨大にあるので、巡礼は難しくなりましたが、記事自体は書いていくことができます。とは言え、今回の配属替えが東北巡礼の一区切りとなるのは確かです。まわり残しなど数え切れない程ありますが、今は中部と関東の巡礼に力を入れて、出来るだけ後悔の芽を摘んでいきたいです。
2026年03月29日
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弘前市の南方、堀越城から少々離れた所に1社の熊野神社が鎮座しています。門外という地名は堀越城の門の外側にあったことから付いたものだとされていますが、今回紹介する熊野神社はその地域にあるのです。津軽熊野三山の1社と謂えども、由緒などは不明な点が多く、祭神も明言されているわけではありません。謎多き熊野の宮を見ていきましょう。2024.8.3門外熊野宮参道は石造りの両部鳥居から始まります。この鳥居には石造りの瑞垣も付随しており、村内での崇敬は篤かったものと思われます。瑞垣の側には大銀杏。御神木でしょうか。境内の他の樹木と共に、”門外熊野宮境内叢林”として弘前市の文化財に登録されています。参道を進むと中規模な社殿が見えてきました。・・・まずは境内の他の社殿から見ていきましょう。拝殿右手後方には閻魔堂。恐らく閻魔大王や奪衣婆が祀られているものと思われます。いかんせん堂内が見えないので何とも言えませんが・・・。しれっと仏閣がある点が面白いです参道の右手にも祠2社、石碑、地蔵尊などが置かれています。近くにあった立て札の説明を引用してみます。観音石像について 当境内には、鎌倉時代以来、弥佗・観音・勢至の三尊を熊野宮本殿と共に信仰厚く祀らる(享和3年(1803年)寺社領分限帳)。本尊年代不詳なるも其の一部と思われる。本年11月20日境内裏道川堰改修工事中発掘され修復元再建に至る。昭和61年12月13日境内説明書き より引用古くは鎌倉時代に勧請されたんでしょうか、仏尊を祀る点からも神仏習合していたことが伺えます。現在その石像を見る術はなさそうですが、非常に気になる所です。祠の内片方は宝珠を持った神像が祀られていました。最初、雨宝童子や聖徳太子かとも思ったんですが、雨宝童子にしては杖の様なものを持っていない点、聖徳太子像に宝珠を持った作例が無い点などから、おそらくそれ以外の神格と思われます。薬師さまとして崇敬篤い少名彦神に於いては、右手で椀?壺?を持つ神像が確認できるため、もしかすると少名彦神を祭神として祀る薬師神社かもしれません。地蔵尊はもう神社とか寺とか関係なく置かれている雰囲気があるので、もう驚くことは無いかと思います。特に津軽地方は地蔵尊の信仰が篤く、境内に地蔵尊が置かれるという事は、この熊野神社が人々の信仰の拠点であったことが伺えます。拝殿です。あまり大きくは有りませんが、津軽地方の熊野神社の社殿としては一般的な造りです。創建年や祭神も不明なんですが、熊野宮(茜町)の由緒を見る限り、慶長20年(1615年)には既に存在していたことが分かります。更に境内の説明書きを見ると、その創建は鎌倉時代にまで遡れる可能性も有るんですが、裏付けのとれているものではありません。更に祭神に関してですが、津軽熊野三山の内、当社は新宮に該当している事からも、熊野速玉男神(伊弉諾大神・速玉男乃神などと同一視?)を祀っている可能性があります。他の熊野神社同様、伊弉諾大神・伊弉冉大神も併せ祀っていそうですが、詳細は不明です。扁額です。こちらもなかなかに力強い文字です。斜めから。由緒が不明な神社ほど妄想が膨らんで面白いんですが、やはり詳細は知りたいですよね。ホント何かに載ってないんでしょうか。情報提供お願いします(丸投げ)。以上です。
2026年03月22日
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津軽最大の禅の霊場 禅林街。弘前城の南西にあたる高台に作られた防御用の構えで、寺を城の防御のために並べるという非道な行いは、まさに梟雄と称された津軽初代為信公に相応しいエピソードな気がします。そこまで強かでなくては、南部氏からの独立は果たせなかったでしょう。そんな禅林街から、弘前城の方に出て坂を下ります。十数分も歩いたかという頃に茜町という住宅街に出ます。ここには津軽熊野三山に数えられる1社が鎮座しているのです。2025.9.21熊野宮(茜町)林の際に建つ両部鳥居が境内の入口です。鳥居をくぐって左手、こちらには石碑の類が幾つも置かれています。良くある庚申塔も置かれていました。ただこの石碑の変わっている点は、青面金剛が動的に描かれている点です。青面金剛は通常、直立した姿勢で描かれるんですが、こちらのものは腰をひねらせ、力強く鬼を踏みつけていました。なかなかに見ごたえがあります。石碑群の奥には末社の社。右の大きなものは天満宮、他2社は祭神不明です。境内右手、社殿の側には御神木。天に向かわんという力強さが感じられました。拝殿です。寄棟屋根の一般的な造りです。年月を経た木材の色合いが美しいですねそれでは御由緒です。熊野宮(茜町)祭神:伊弉諾大神、伊弉冉大神、速玉乃男神、事解乃男神、水波能売神 文明の頃(1469年)如来瀬の地より湯口佐内坂桃村(現常磐坂)に転社し応仁の大乱を承け、久しく類廃し神主も煩心して上都しありしが、津軽初代為信公、津軽一統の頃、永禄12年(1569年)正月 唐内坂往来の諸人馬に乗り通るに皆落馬せるを為信公聞召して、我も行って見んとて御馬にて出で行きしに案の如く落馬し、あらぬ躰にてお帰りになりにぞ。其の夜の御夢想に我は国民を守るといえども誰が国の主とならんと、心を尽しに汝一国の主となるべし我れ末にまで守るべし、今はよき折柄ぞ思い立つべしと御神夢のお告げ有り、軍神として御神影を錦の袋へ奉納。戦場に御勧請せり、後に為信公御自身厨子御神像を奉納、袋の宮と称した。 熊野三所権現の内飛龍大権現と申し慶長19年(1614年)津軽二代信枚公の御代紀州熊野宮三所の宮に遣わし祈願せしめ、慶長20年(1615年)6月現在の本殿を建立、大守の霊夢により門外村に熊野新宮、八幡村に熊野本宮を相殿とし那智山袋宮寺熊野三所大権現と改称した。 新町川の西岩木川の東下町八ヶ町を以って永代氏子とせよとの御墨付を受けた当社は御霊験灼かで歴代藩主を始め氏子の崇敬厚く、御祈願所として武運長久・富貴繁栄・寿命長延・国家安全等を祈願し藩政時代の祭事は盛儀を窮めた。 明治に至り廃藩となり、明治4年(1871年)神仏混淆廃止、明治6年神仏仕分により村社熊野宮となる。以後、敬神の念の篤い氏子により神社が護持され、終戦後は社格が廃止され宗教法人熊野宮となる。 平成5年1月22日熊野宮本殿青森県重宝に指定される。年間祭事・歳旦祭:1月1日・焼納祭:1月15日・祈年祭:4月15日・例大祭:旧6月14.15日・新嘗祭:11月20日・月次祭:毎月1.15日渋谷明 謹書当初境内を構えていたのは、弘前から目屋に向かう途中の如来瀬という地域みたいです。そこから一時衰微しますが、後に津軽初代為信公によって再興されます。津軽二代信枚公の頃、門外熊野宮・熊野奥照神社と共に津軽熊野三山として数えられるに至ります。当然なんですが、元は神仏混淆の霊場だったようで、別当を務めていたのは那智山 袋宮寺。廃仏毀釈に際して廃寺の危機を迎えますが、津軽天台宗の元締め 一輪山 桂光院 報恩寺の境内にあった僧坊 無量院の寺格を借りる形で存続しました。そのことからも、もともと天台宗だったものと思われます。通りを通る人々を落馬させるという不思議な事象があったようです。こうした神託のような出来事が開創譚に現れる神社は結構あるのではないでしょうか。その後の霊夢にて”~に祀って欲しい”的な流れは本当に良く見ますよね。扁額です。力強い筆致ですね。拝殿裏手には、独立する形で本堂が建っております。こちらの本殿は17世紀初頭に建てられたもので、大変貴重な事から県重宝に指定されています。説明書きです。県重宝 熊野宮本殿 熊野宮の創建は不明であるが、かつては「熊野三所飛龍大権現」といい、俗に「袋の宮」と称されていた。門外村(弘前市門外)の新宮と八幡村(弘前市田町4丁目)の本宮(熊野奥照神社)とともに、熊野三所権現を模したものとされ、ここは那智宮に相当するものとして造営された。 現在の本殿は、棟札から慶長20年(1615年)の建立と思われる。三間社流造で、向拝は一間、象鼻や懸魚の彫刻に優れた手法を示しており、繋虹梁などにも古い形式が残されている。 簡素な造りのなかに、古い形式をよくとどめた熊野奥照神社本殿と一対となる貴重な遺構である。弘前市教育委員会本殿は瑞垣に囲われているため、近づかなくては良く見ることは出来ません。気になる方は是非現地へ!一応弘前市のサイトにて、瑞垣内をご覧になることができます。こちらからどうぞ!斜めから。津軽の熊野神社の中でも特に歴史の長い古社でした。津軽は江戸時代中頃から急に熊野信仰が盛んになっており、各地の神社が飛龍権現と称し篤く祀られていました。津軽三十三観音霊場の札所の中にも、もともと飛龍権現を祀る飛龍宮だった所が数ヶ所あります。今回見てきた熊野宮も、そうした飛龍宮の1つとして、地域住民のみならず、藩主からも篤く祀られるなど、愛が感じられる所です。林の中に静かにたたずむ古熊野を是非ご参拝ください以上です。
2026年03月22日
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富士山を神体山とする信仰は浅間信仰と呼ばれ、富士山本宮浅間大社を中心として全国各地で祀られています。富士山のお膝元である山梨県・静岡県には多数の浅間神社があり、その崇敬の篤さが伺えます。今回紹介するのも、そんな浅間神社の1つであり、江原集落の鎮守となっています。ただこの浅間神社には、他の浅間神社には無い特別な御神体が収められているんです。2025.12.29江原浅間神社かつての参道は既に舗装路に代わり、往時を物語るのはポツンと建つ鳥居のみ。かつてはもっと境内が広かったのかもしれません。こうした神社はいくつもあります。とは言え、根幹エリアは今でも保存されており、樹叢をたっぷり茂らせた姿を見せてくれます。境内入り口には随神門。不思議な事に山梨県の神社には、境内の規模に関わらず随神門が建っている所が非常に多いです。これは他県には見られない特徴ではないでしょうか。境内には末社の祠が幾つも建っております。これらの多くは祭神不明です。こんなに沢山ありますが、神社名さえ伺い知ることが出来ないというのは悲しい事です。何かしら記録に残っていればいいんですが・・・ただ中には、こうして小祠を構えているものもあります。こちらはその1つ、末社:保食神社。しっかり説明書きも有るので、見ていきましょう。保食神社について 江原の浅間神社は、富士吉田の浅間神社と同じように富士信仰と合わせ地域の産上の神(氏神)として信仰されてきました。そこの湧水は古くから地域やその周辺に大きな恵みをもたらし、とりわけ広く水をたたえた水田は、大きな収穫をもたらしてくれたものでした。 保食神社は、このような事から江原の皆さんの五穀豊穣への祈願に伴い食生活を守ることを念願して、古くから祀られたものと思います。 御祭神は、食べ物を司る保食神です。江原から良い米を収穫したい希望と感謝から建立された神社です。浅間神社に伝統的に伝わる、非常に珍しいといわれる「田植え祭り」をみてもそのことが理解できる事だと思います。 江原の地域とその歴史を話すとき切り離すことのできない神社でしょう。平成25年10月鎮守は浅間大神、産土は保食神と別れているんですね。産土神を差し置いて祀られている所を見ると、浅間神社の信仰の強さが改めて感じられますが、保食神への崇敬も結構なものなんではないでしょうか。今でも祠の脇には、収穫された後の稲穂が吊るされています。人が作物を作り、無事に収穫できたことを神に感謝するという、信仰の根源みたいな風情が感じられて非常にエモいですそんでもう1つ立派な末社が置かれています。こちらは神明社。説明書きです。神明社について 浅間神社は地域の氏神さまとして、特に江原の地域を守護してくれています。一方、三重県の伊勢神宮は、日本の氏神として全国を鎮護していただいております。 神棚には伊勢のお札「天照皇大神宮」と地元の「氏神様のお札」をお祀りし平安や家内安全を祈願するものです。そのため、交通の不便な昔は地域の代表者(当番制)が奉賛金(お札代)を集め、皆の代表(代参)として伊勢詣でをし、帰ってきたお札を皆に配り届けたものです。地域の人達は、代参者に大変ご苦労様でしたと言ってありがたくお札を受け取ったそうです。 そういった中、大勢の人が伊勢参拝をしたいと願う心は地域に浸透し、それならば伊勢まで行かなくても、この地に参拝できるところをつくろうと建立したのが神明社です。平成25年10月つまりは遥拝所的なものということでしょう。ここに限らず地域の神社なども、こうした考えのもと勧請されています。それでは社殿を眺めてみましょう。ピカピカの屋根にピカピカの装飾と全体的に新しめの印象です。年末という事もあってか、紅白幕が掛かり、更に目出度い雰囲気が漂っていました。御由緒です。江原浅間神社祭神:木花咲耶姫神、瓊瓊杵神、彦火火出見尊(山幸彦) 十二代景行天皇の御宇(298~324年?)に創立され、その後文亀年中(1501~1504年)地頭 兵部少輔長勝 再建、永禄8年(1565年)下條信俊 加修、延宝2年(1674年)甲府宰相の臣 藤枝丹波守方孝 重修等の棟札あり。慶長年間(1596~1615年)徳川家より朱印状を以て社頭高六石七斗余寄附ありしが明治4年(1871年)に上知村社に列せらる。 本殿左右に瓊々杵尊、火々出見尊を祀り又境内には若宮明神、芦鷹明神を祀る。景行天皇の御宇富士山より此の地に霊現あり因って祀なり。又寛永17年(1640年)地頭 野呂瀬主税之助奉納の三十六歌仙、延宝2年藤枝丹波守の子帯刀奉納の平鈴等あり。山梨県神社庁 / 県内神社の紹介 / 浅間神社 より引用創建自体はかなりの昔と伝わっています。浅間大神として知られる木花咲耶姫神と共に、その夫と子を併せ祀っています。もう少し社殿を詳しく見てみましょう。神社の社紋は珍しく一巴。次に懸魚の木彫。鶴2羽が瑞雲と共に飛翔し、かなり目出度い構図です。まるで南部の向鶴のようでもあります。木鼻には迫力のある表情をした獅子。ただし両方とも口を閉じており、阿吽ではありません。おそらく古材をそのまま転用したんだと思われますが、かなり保存状態が良いですねそんで本殿も見ておきましょう。こちらの本殿は市指定文化財に登録されています。説明書きです。建造物 江原浅間神社本殿昭和44年11月13日 町指定 当社は木花之開耶姫命、瓊々杵命、日子穂手命を祀り社記の景行天皇の御宇鎮座と記されている。 境内に豊富な水源を有し稲作の神として古来その恩恵に浴する村々此処に来拝し初穂を献じて五穀豊穣を祈願した。その地域は下流九ヶ村に及び大井の郷名も又この湧泉に起因すると云う。 本殿は三間社流れ造り桧皮草屋根(亜鉛鉄板被覆)で桃山時代の作風を残す江戸時代前期の建築であり、本町に現存する最古の建造物である。文亀4年(1504年)地頭 下条兵部少輔入道長勝 再建永禄8年(1565年)武田信虎家臣 下条信俊 修復延宝2年(1674年)徳川綱重家臣 藤枝丹波守方孝 重修の各棟札を有す。 昭和56年に向拝柱虹梁上り段の修理を施工する。平成元年3月 南アルプス市教育委員会トタンで覆われているため分かりませんでしたが、桧皮葺なんですね!あの葺くのに相当な金額がかかるという・・・。そんで何気に町内(今は市内か?)最古の建造物でもあるみたいですね。こりゃ景行天皇の御宇鎮座と言うのも、あながち間違いではないのかも知れません。それではいよいよ神像について見ていきましょう。まずは説明書きから。木造浅間神像:1基 附 宮殿:2基重要文化財(彫刻)平成25年6月19日指定 富士山を臨む江原浅間神社に御神体として伝来した本像は、背中合わせに三方を向く俗体の女性像と、その上方の如来の半身を一材より彫出した像で、目鼻や衣の縁をくっきりと刻みだす刀法や、胸の厚い体型などの特徴により11世紀の製作とみられる。像高4.5㎝。富士山信仰にかかわる神像としては、現存最古級の作例であり、極めて特異な形式を示す神像として貴重である。 当初本殿内には、木造宮殿2基が左右並列に安置され、本像は、その左方に納められていた。両宮殿の後部内壁面には、文亀4年(1504年)に宮殿を造立した次第が記され、これらが附指定となっている。令和元年12月 南アルプス市教育委員会富士山への信仰は上古の頃よりあったようですが、この様に神像が造られるようになったのは仏教伝来後、ひいては神仏習合思想が根付いてからでしょう。11世紀の作例ではありますが、これ程まで見事に形を保っているのは、御神体として厳重に保管されていたからでしょうね。富士山信仰にまつわる最古級の神像、とくと拝見いたしました像をズームで見てみます。本当に面白い形してますね。↓の三女神は何を表現しているのか・・・。各峯に祀られる女神でしょうか・・・?更にそこから飛び出る形で如来が表現されているのは何故なのか・・・?謎しかありませんね、どのような意図があったんでしょうか。斜めから。地名由来にもなったという古浅間社でした。やはり浅間信仰は神仏習合であったという事を実感させてくれる神像でしたね。富士山修験は現在の村山浅間神社の辺りを本拠地として発展していったと言います。後年は聖護院の影響下に置かれ、本山派修験となっていく中で、こうした独自の神像が生まれていったんではないでしょうか。いにしへの信仰の形を映す素晴らしい神像は、現在も本殿奥に大事に収められています。以上です。
2026年03月21日
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本州最北端の漁村 大間町。青森県民であっても、なかなか訪れるのに難がある場所です。下北半島自体、横浜町・六ヶ所村を経由しないと到達できないため、かなりアクセスに難ありなんです。今回は下北一周の巡礼旅に際して、かねてより気になっていた稲荷神社に参拝できました。大間漁港から伸びるメインストリートには、大間の寺や神社が集められており、寺町の風情があります。その一画に鎮座する大間稲荷神社は、大陸由来の神格を祀ることで有名。茨城の友人共々、参拝してみたいと言い合っていたんです。外のものが持ち込まれやすい港町であればこその、信仰の形を見てみましょう。2025.5.17大間稲荷神社雨雲が空を覆い、海からは霧と寒風が運ばれてきます。もう5月だというのに、北国ではまだ冬を引きずるかの様な天気が続いていました。漁港の方を向いて建つ鳥居を上れば、そこはもう大間稲荷神社の境内です。鳥居の脇には件の神格に関しての石碑が建っていました。顕彰碑 元禄9年(1696年)7月23日、伊藤五左衛門、水戸の那珂湊より天妃舩霊神を大間村へ遷座しました。遥か茨城県ひたちなか市の那珂湊から運ばれて来たんですね。那珂湊は茨城県の名川 那珂川の河口北側にある港で、南岸には大洗の町があります。南岸の一画に弟橘比賣神社が鎮座しており、かつてはここに天妃神(媽祖)が祀られていたようです。水戸二代光圀公によって勧請されたらしく、ここ以外には北茨城市の天妃山鎮座 弟橘媛神社にも勧請したみたいです。水戸市の媽祖信仰の根源地は壽昌山 祇園寺で、ここにある媽祖像を基に新たな媽祖像が作られ、↑の神社たちに奉納されたんだとか。天妃神(媽祖)は道教の神で、航行守護の神徳が有るんだとか。当然沿岸地域での信仰が盛んで、日本では沖縄県に媽祖廟が多数置かれているようです。航行守護の神徳・女神という共通点からも、後に弟橘姫神(日本武尊の妃)の信仰へと姿を変えて現在に至ります。これが神道に取り込まれていたら、今とはまた異なる神話が生まれていたかもしれませんね。・・・歴史の面白さ、ここに有り!!境内を見回してみると、海中より生じたかのような奇岩が置かれています。これにも何らかの神格が祀られていたかも知れません。末社も有るんですが、如何せん神社名・祭神は分かりません。拝殿右手には、先ほどの天妃神を祀る祠が置かれています。天妃神を祀るのは、青森県ではここだけではないでしょうか。とても貴重です。拝殿です。この辺の神社では一番の豪華さです。そんでご由緒です。大間稲荷神社祭神:倉稲魂命由緒 百滝稲荷大明神と称し、倉稲魂命を祭神とし8月10日を例祭日とする。享保15年(1730年)7月能登屋市左衛門が勧請。 神輿渡御の始まりは寛政9年(1797年)で荘厳を極めたと伝えられる。明治6年(1873年)天妃媽祖大権現、金毘羅大権現を合祀、現在は弁財天(奥津島姫尊)も合祀している。明治16年(1883年)現在地に移転、再建。明治41年(1908年)屋根の形を改修、現在に至っている。 天妃の神は中国の道教の神で、元禄9年(1697年)7月23日、後に名主(村長)となった伊藤五左衛門が海上での危難を助けられた神徳を崇め水戸領那珂湊より遷座したもので、舩魂神として氏子の崇敬を集めて来たものである。祭事歴・1月1日:歳旦祭・1月11日:舩玉祭・2月23日:祈年祭・2月下旬、3月上旬:初午祭・3月10日:金毘羅祭・4月3日:弁天神社例祭・8月10日:稲荷神社例祭・9月上旬:二百十日祭・10月10日:金毘羅秋祭・11月15日:七五三祭・11月23日:勤労感謝大祭・12月31日:除夜祭・毎月3.23日:月次祭・3月23日、7月23日、8月23日:天妃祭・6月24、7月20日:大漁祈願祭・6月30日、12月31日:大祓祭18世紀創建の稲荷神社です。天妃神の祠には金毘羅神を始めとして、様々な水神が祀られ、当に湊町の神社と言う風情があります。拝殿の手前には小さな祠が付属しています。神輿舎なのか、それとも末社なのか・・・。拝殿の彫刻です。面白いのは虹梁で、波間を泳ぐ鯉が刻まれています。懸魚は鶴、蟇股は龍、木鼻は獅子と象で、こちらは一般的な構成ですね。扁額です。なかなかに達筆です。斜めから。道教の神格を併せ祀る稲荷神社でした。航行守護にまつわる神格がこれでもかと祀られた当神社。船乗りの方は是非と参拝していただきたいところです。青森県内唯一の媽祖関連の霊場と言う点も、希少性を高めています。面白い神社でした以上です。
2026年03月21日
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歴史と文化の街、岩手県南部奥州市周辺には、古刹から延喜式内社まで、数百年に及ぶ歴史を持つ霊場が溢れています。多くの霊場は坂上田村麿・慈覚大師円仁・奥州藤原氏・源義家など、様々な有力者による開創譚を持ちますが、東北の他の地域と異なるのは、それらが混然一体としていることです。行基が開基し坂上田村麿が再興しただの、複数の系統の伝説が折り重なっているのです。それはこの土地が、歴史的に見ても大規模な戦闘の舞台に何度もなっているからでしょうか。蝦夷と田村麿に始まり、中央権力と安倍氏、源頼朝と奥州藤原氏・・・、戦国の頃には大崎氏と伊達氏など、挙げるとキリがありません。極楽浄土を模した華々しい仏教文化とともに、漂ってくるのはいつも戦火からのぼる煙の匂い。様々な勢力が隆盛と没落を繰り返す様は当に諸行無常。常なるものなど無しと思えよ。2024.11.2岩手三十三観音霊場三十二番札所:岩谷堂山 多聞寺カッコつけて始まりましたが、今回紹介する札所は奥州の町の北東、川の側の高台に境内を構えています。ぱっと見は札所よりもこちらの建物が目立ちますが、奥に行くと小さな仏堂があり、境内を示すかのように石碑類が現存します。↑の建物は岩谷堂共立病院。今では病院としての役目は終えていますが、その建築美は健在です。それが現存しているともなれば、大変貴重なため県指定有形文化財に登録されています。※説明書きは省略。画像を載せるだけに留めます。札所の近くを細い小川が流れています。こちらにも、なにやら伝承が残っているみたいです。↓に説明書きを載せますね。人首川(ひとかべがわ)の名称の由来 今からおよそ1,200年の昔、大和朝廷の命を受けた坂上田村麻呂は蝦夷征討のため大軍を率いて奥州に攻め下った。 田村麻呂は延暦20年(801年)、西磐井郡平泉町の達谷窟を拠点とする蝦夷の大豪族 悪路王(大墓公阿弖流為)を討伐したが、その弟の大武丸の子人首丸は、この川の上流にある米里(旧人首村)の大森山まで逃げ延びて抵抗を続け、遂に田村麻呂の女婿 田原阿波守兼光に討たれた。 大森山には、今も人首丸の墓といわれるものが残されている。 人首川はこの大森山を源流とし、このような歴史的背景が、その名称を生んだものと伝えられている。江刺市東北のみならず、東日本の山々には、”おおたけまる”と坂上田村麿の伝説が残っています。おおたけまる=在地の蝦夷有力者と考えれば、そうした勢力が息づいていた所に、そうした伝説が残るのも頷けますが、伝説の域を出るものではありません。蝦夷と絡めた説以外には、室町時代に成立した”田村の草子”に関するものが挙げられます。この御伽草子が各地に広まるにつれ、田村麿の事蹟が民衆の知る処となりました。そうした中で「うちの神社・寺は田村麿が建てたものだ」などと箔付けしはじめた者がいたんではないでしょうか。それが今日に残る田村麿創建伝説に繋がっていると思うんです。これ自体も確たる証拠は無いんですが、田村麿が訪れていない青森県などにも伝説が残っているのは、こうした”文学作品の広まり”という背景があるように感じます。それでは境内の方も見ていきましょうか。境内の端の方には、新しめの観音像。参拝者をあたたかく迎えます。毘沙門堂です。多門寺のこれ以外の堂宇は明治初期の火災によって焼失しているので、今では実質本堂となっています。御由緒を見てみます。岩谷堂山 多聞寺真言宗智山派 愛宕山興性寺兼務開山:慈覚大師本尊:毘沙門天 嘉祥3年(850年)慈覚大師開基、当初岩谷堂城本丸直近に建立。江戸時代(明暦年中・1655~1658年か)に南町現在地に移転(南町の地名は多聞寺の南なので南町と称された)。江戸時代は巡検使立寄の寺院として、また、末寺 重染寺・大麟寺・常光院の3ヵ寺を数えた。 平泉へ源義経のお供をしてきた鈴木重家が、文治5年(1189年)4月平泉を逃れた義経に随順し岩谷堂まできて、投宿のお礼に鎧をおき義経は北行を続けたと伝える。 明治8年(1875年)、組合病院として境内に建てられた建物は、昭和30年代まで町役場に転用されていた。菊田一夫の「鐘の鳴る丘」のトンガリ帽子の時計台のモデルがこの病院の三階の塔であったことは、菊田一夫が岩谷堂へ疎開当時の連想であると、本人によっていわれていた。 慈覚大師以来、江戸初期まで天台宗系であったが、天和2年(1682年)から真言宗になった。 現在残っているものとしては、南北朝時代の聖天さまがある。上野の東京博物館で鑑定していただいたところ、現在のところ日本一古い金銅聖天像だとのことであった。筆塚は、 仙台藩大橋・養賢堂(東北大学前身)教授、当地出身 志村五城書である。 明治5年(1872年)11月23日、岩谷堂大火に類焼し、大檀那岩城家、岩谷堂町商家ともに、版籍奉還、大火による体力不足など時代による没落などにより再建がかなわず、大正11年(1922年)毘沙門堂のみ信徒により再建されて今日に至る。昭和62年には講中始め地域住民の絶大な支援により改修工事を行った。 平成12年開創1,150年。記念事業:講中 法被新調、講中 輪袈裟新調、講中 門先提燈新調、講中 旗立基壇設置。【歴代住職】・開基:慈覚大師・江戸中期文化年間(1804~1818年)は宥潮・明治初期:宮城義延・大正年中(1912~1926年):白井憲阿・昭和年中:司東眞雄・昭和52年9月12日:現住 司東和光就任【霊場札所】・岩手三十三観音霊場三十二番札所・江刺八十八ヶ所霊場奥の院【年中行事】・旧曆正月3日・旧曆6月3日・きうりこ天王岩手三十三観音霊場へのいざない 岩手三十三観音霊場会 72.73ページ より引用円仁開基の霊場でした。慈覚大師開創の霊場は、やはりもとは天台系の寺院だったんでしょうね。青森県にも慈覚大師創建の伝承は数例残っていますが、何れも天台宗的な風情が残る霊場です。例を挙げると、東北の大霊場 恐山 菩提寺、浅虫の名刹 安養山 夢宅寺があるでしょうか。円仁開基の霊場は、今でこそ曹洞宗や浄土真宗など、他宗の霊場になっている所が多いんですが、本尊からも元は密教系の寺院であったことは明白です。そして札所本尊ですが、十一面観音となっています。堂内を覗くことは出来なかったんですが、ガイドブックにその御影が載っていました。厨子に入った小さな像で、頭に対して化仏が大き目なのが特徴です。光背は舟形を2つ重ねたような造りで、像の膝から化仏頂上を覆う位の大きさです。特に由緒の方も語られてはいませんが、巡礼の札所本尊になっているからには、長年巡礼者の崇敬を集めてきたことは確かでしょう。更に当霊場、義経北行伝説の舞台となっています。説明書きを見てみましょう(黄文字手前は省略)。伝説源義経北行コース 多聞寺 ・・・。 ・・・「平泉を脱出した義経主従は、その途中、この多聞寺に投宿し、その謝礼として鈴木三郎重家の「笈」を置いて去った。」と伝えられている。 この多聞寺は、明治5年の火災ですべてが灰になったため、今はその「笈」も見るすべもないが、広い境内には「弁慶の腹掛の松」と名付けられた老松などもあったという。↑の御由緒の方では、鈴木重家の”鎧”でしたが、ここでは”笈”になっていますね。かくも伝説と言うのは、こうして様々な異説を生むものです。在地の人々がこうした伝説を口伝で伝えてきたことの表れではないでしょうか。斜めから。今でこそ小さな仏堂しか残っていませんが、かつては3ヶ寺の本寺を務めた大寺院ということで、歴史のはかなさに想いを馳せずにはいられません。義経北行伝説の舞台にもなっており、岩手や江刺の観音巡礼とからめてまわるのも面白そうです。御詠歌ふるくより 伝えられたる法灯に 今新らしき 願い立てまし札所本尊:十一面観音 एकदशमुख今回貰った御朱印です。※朱印所は三十三番札所:愛宕山興性寺以上です。次の記事・三十三番札所:愛宕山 興性寺 江刺の煌めく十一面観音
2026年03月21日
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2月末は静岡県、それも遠江国を周遊しました。草薙神社を皮切りに遠江に入り、焼津、御前崎を経て掛川宿へ。三河との国境で車中泊し、井伊谷をまわり浜松まで行ったんです。もう少しで日も暮れそうですが、まだまだ数社まわれそうです。そんな中、浜松の大社 五社神社 / 諏訪神社に詣でました。2026.2.22五社神社 / 諏訪神社浜松城下であろう商店街を抜け、街の南側に進んでいくと、朱塗りの大鳥居が建っていました。鳥居の脇には古めかしい社務所が建っており、その傍に花盛りの梅が1植生えていました。境内は広大で、参道の道幅もかなりのもんです。社務所から参道進んで右に手水舎。そこから数段の石段を経て社殿の御前に到着です。・・・なんと言いましょうか、余りも荘厳な社殿じゃあないですか!造り的には新しいんですが、左右にも奥にも広い大社殿となっています。拝殿手前には末社の稲荷社。拝殿同様装飾麗美です。祭神は宇迦之御魂神でしょうか。拝殿です。これを撮影した時、余りの向い陽で撮りづらい事、撮りづらい事。屋根で上手く隠して何とか撮影しましたが、もし撮影をしたいのならば、夕方では時間の調節が必要でしょう。御由緒です。五社神社 / 諏訪神社五社神社ご祭神・太玉神、武甕槌神、斎主神、天児屋根神、姫大神、十五代応神天皇、舎人親王、菅原道真公、徳川家康公諏訪神社ご祭神・建御名方神、八坂刀売神、事代主神、徳川家康公由緒●五社神社 曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建した事に始まると伝えられる。後、徳川家康公、浜松城主となり天正7年(1579年)4月7日、秀忠公誕生に当り産土神として崇敬し、現在地に社殿を造営し天正8年(1580年)遷座す。 寛永11年(1634年)家光公上洛の砌、社参し朱印300石を奉る。その節改めて社殿の造営がなされ、寛永18年(1641年)竣工す。「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ お江戸まさりの五社や諏訪」と謡われ戦前まで国宝建造物に指定されていた社殿がこれである。●諏訪神社 延暦10年(791年)、坂上田村麻呂が東征の砌、敷智郡上中島村に奉斎と伝えられる。弘治2年(1556年)に曳馬城下、大手前に遷座される。 秀忠公誕生に当り、五社神社と同じく産土神として崇敬され、天正7年(1579年)徳川家康公、社殿を造営す。 元和元年(1615年)、秀忠公、社地を杉山に改め、更に寛永11年(1634年)、家光公、社参し朱印300石を奉ると共に現在地に社地を遷し、寛永18年(1641年)竣工す。 国宝建造物に指定されるも、昭和20年(1945年)戦災により五社神社と共に消失す。●五社神社 / 諏訪神社 昭和37年(1962年)、両社が合祀され、新たに五社神社 / 諏訪神社として発足する。現社殿は昭和57年(1982年)竣工し、一社殿内に両社の御祭神を奉斎す。五社神社 諏訪神社 / 五社神社 諏訪神社 について より引用かつてはそれぞれ独立した神社であり、社殿も荘厳なものだったようです(旧社殿は公式サイトにてご覧になれます)。太平洋戦争にて焼失してしまいますが、昭和57年に両社共有の大社殿として、新しい造りで再建されています。五社神社と言いつつも、全然祭神は5柱じゃないです。というのも、5つの神社がまとまったものでしょうから当然なんですが、どのような神社がまとめられたのかは不明です。うーむ、祭神から考えるに、鹿島神社・八幡宮・天満宮は確実として、他は良く分かりません。徳川家康公は後世になってからの勧請でしょうね。諏訪神社は何気に坂上田村麿創建の由緒を持ちます。諏訪の大神は東海に於いても崇敬篤く、武の神として名を轟かせていました。↑の公式サイトのリンク先にて、宝物の御神刀2振りがご覧になれますので、興味がありましたら見てみてください!扁額まで豪華ですよね両社の社名が並びます。斜めから。近代稀に見る大社殿、なんて見ごたえがあるんでしょう。夕焼けが社殿の背を照らし、前面は厳かな影に覆われます。日は落ちても神社の繁栄は上り調子、益々の発展を願いつつ、締めとします。今回貰った御朱印です。通常御朱印透かし御朱印公式サイトへのリンクです。・五社神社 諏訪神社以上です。
2026年03月20日
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下北半島の南岸、俗に西通りと称される海岸沿いを走っております。この週は確か三連休で、それを利用して田名部海辺三十三観音霊場の巡礼を行いました。全札所の御朱印が揃えられれば良かったんですが、どうしても無人の札所や、御朱印自体をやめている札所もあり、総揃えは叶いませんでした。そうとは言え、札所自体は全てまわることが出来ましたし、以前より気になっていた神社なども併せて巡礼出来たんです。これでもう下北で思い残すことは無く(登りたい山が1座あります・・・)、次の場所へと向かうことが出来るでしょう。そんな巡礼の途上、西通りの主要港 川内を過ぎて脇野沢に差し掛かったところで、妙な説明書きが建てられた神社を発見。予定には入れていませんでしたが、思わず参拝してしまいました。2025.5.17松ヶ崎石神神社浜っ辺りの丘に向かって1基の鳥居が建っていました。境内は樹叢で覆われ、ちょっとした神域感が漂っていました。丘の麓にそって参道が伸びており、それが孤を描くように途中で曲がり、その角の先に中くらいの社がポツンと建っています。社殿内に入るとドッテン祭壇は無く、その代わりに巨岩が祀ってあるのです。全国に巨石を祀る神社は幾つかありますが、ここもその1つだったようです。御由緒です。松ヶ崎石神邨社 慶長年間(1596~1615年)、能登出身の漁師 喜右衛門がナマコ漁操業中、笊網に10貫目の石が掛かり、幾度投げ捨てても掛かることが数日続いたので不思議を感じ、この松ヶ崎の磯に揚げたところ、白髪の修験者が現れ「その石は神石である。岬の台地に神として祀れ」と言って姿を消した。 喜右衛門は早速、岬の台地である現在地に「揚神石(あげかみいし)」として小詞を建て祀ったところ、漁運に恵まれ好漁するようになった。さらに参拝の都度、この石が成長していることに気づき、「成長する神石」として村の旦那衆と相談し、堂宇を建て、邨社(村社・そんしゃ)石神様として祀るようになった。以来、この石が大きくなり、屋根を破るたびに堂宇を建替えてきたものだと言われている。 この石神様は縁結びの神様であり、石のイボに恋の願いを書いて結ぶと思いが叶うという。又、石神様の右脇に一体の観音様が祀られている。この観音様に米を入れた袋を2袋供え、1袋を持ち帰り、粥に炊いて食すると産婦の乳の出が良くなると言われている。本村能舞講中先ずは観音像から見てみましょう。状態も良く、像容も見事です。十一面観音でしょうか、いかにも修験僧が祀りそうな風情がありますよね。そんでこちらが御神体の揚石神です。当初は10貫(37.5㎏)程だったそうですが、それが日に日に成長し、今ではここまでの大きさになったんだとか。本当に面白い内容の伝説です。海浜地域では、大いなる海から御神体や仏像を賜る開創譚を持った神社仏閣が多いんですが、ここもその類ですね。全国的に有名なものでは浅草の浅草寺が挙げられるでしょうか。海は身近な存在ではありますが、魚や寄りクジラを始め、時には異国のサンゴや貝、舶来品などをもたらす特別な領域でした。その神秘によって、こうした開創譚が日本各地で育まれて来たんです。面白いですよねぇ斜めから。何も知らなければ普通に通り過ぎてしまいそうな立地ですが、本当に面白い伝説が伝わっている神社でした。ここには10数年後とかに再び参拝してみたいですね。もしかすると石が社殿を突き破っているかも知れません。皆さんも石の大きさをチェックしに来てくださいね以上です。
2026年03月19日
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2026年03月18日
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年明けの鎌倉遠征に先立ち、旅程の道中安全を祈願するために六所神社に立ち寄りました。国道1号を走っている所で丁度大鳥居が建っており、そのまま奥へと進んで駐車。再び鳥居のもとに戻って撮影しました。傍から見ると無意味な往復の様に見えるでしょうが、ブログ書きにとっては重要な事なのです。2026.1.10六所神社路地を跨いで鳥居が建っています。道幅は非常に狭く、すれ違いは中々に骨が折れるでしょう。趣的には、昔の参道がそのまま道路になったような感じです。参道脇には巨大な御神木。今でも樹勢盛んです。境内が見えてきました。何ですか、この提灯の数は!!多すぎて壁と化しています提灯の壁を過ぎると境内が広がっています。右手には小さな池があり、中央の小島には弁財天が祀られています。”ひぐるま弁財天”と呼ばれているようです。鶴岡八幡宮に弁財天が祀られていることに倣い、ここにも創建されたんだとか。太陽の運行という意味の”ひぐるま”という二ツ名は、良き日々が巡るようにとの意味があるようです。池の脇にはもう1つ祠が。こちらには水波能売神が祀られています。もとは石神台の麓にある水源地に祀られていた様ですが、開発に伴い六所神社に遷座、現在に至ります。参道を挟んで反対側にも池があり、こちらには龍神大神社が鎮座しています。由緒が面白いので見てみましょう。竜神大神社 二千年以上前の当社創建時、出雲国より此の地に櫛稲田姫命様をお祀りした際、櫛稲田姫命様が六所龍神大神様をお連れになられたと伝えられております。 龍神大神様は雨水を司り五穀豊穣、厄災を祓い清める霊妙あらたかな御神徳があり、財運向上・出世開運・良縁・健康長寿の信仰があります。 ご崇敬の皆様には龍神大神様の御力を賜りますよう祈念し、特に龍神大神様の霊力が強い「己巳(つちのとみ)」の日に龍神祭を執り行っております。相模國総社 六所神社 / 境内案内 より引用小さな祠ながらも、創建はかなりの昔です。祭神は龍神の他に櫛稲田姫命も祀っているようです。参道を更に進むと、境内左側の端に末社:六所稲荷大明神社がありました。祭神は宇迦之御魂神で、近郷の五穀豊穣・繁栄を願って勧請されたみたいです。それでは社殿を見ていきましょう・・・といきたいところなんですが、面白そうな立て札を見つけたので、先にそれを見てみましょう。社殿が鎮座している高台は、この様に石垣で囲われております。この石垣、実は16世紀に積まれたものなんだとか。指図したのは小田原北条氏とされていて、六所神社が地域の有力者の庇護を受けていたことを示す好例といえるでしょう。やっとこさ社殿です。入母屋造の勇壮な外観の社殿で、虹梁付近に懸かるブッ太い注連縄は圧巻です。紙垂もキレイに下がっており、古社の風格に満ちみちております。拝殿などは平成3年に落慶したものですが、本殿は建て替えを経ることなく現存しているみたいです。建立したのは小田原北条二代氏綱公・四代氏政公で、永正年間(1504~1521年)の事とされています。本殿内陣には5つの祭壇があり、これは相模國一之宮~五之宮までを集め祀ることに由来しています。総社とはそういうもの、領国の格式高い神社を一度にまわれるのです。御由緒です。六所神社御祭神:櫛稲田姫命、素盞嗚尊、大己貴尊(大国主神) 御創建は2,100年ほど前に遡ります。 崇神天皇甲申の歳(皇紀基準・紀元前97年)、出雲地方より移住した氏族がこの地域を「柳田郷」と名付け、彼らの祖神である櫛稲田姫命・素盞嗚尊・大己貴尊(大国主神)を守護神として、石神台、またの名を伊勢神台(当鎮座地北西1kmの台地)にお祀りし、社殿を築き「柳田大神」と称しました。 大化の改新後、国の行政も次第に整い、国司の制度が始められてゆく中、元正天皇の御代養老2年(718年)、奉遷暦勅をもって相模国八郡神祇の中心をなすべき旨が宜下され、相模国総社と定められました。場所も石神台より現在地へ遷座し、柳田大神に、一之宮寒川神社・二之宮川勾神社・三之宮比々多神社・四之宮前鳥神社・一国一社平塚八幡宮の御分霊が合祀され、六社の大神様を合わせ祀ることから「六所宮」となりました。 平安時代に入り相模の国府が柳田郷に置かれると、柳田郷の地名も相模国の国府となり、「相模国府六所宮」「相模国総社六所大明神」とも称せられるようになりました。鎌倉時代には、源頼朝公も篤い敬神の念を寄せ、富士川の合戦の戦勝祈願、北条政子安産祈願、神馬奉納等の記録や言われが残っております。 戦国時代には小田原北条氏綱公が永正年間(1504~1521年)に御社殿を御造営、また小田原北条四代左京大夫氏政公が御本殿の御修復を行い、これが現在の御本殿になります。天文13年(1544年)12月23日付の北条氏康公の印判状には、相州六所領六十五貫七十八文と記されております。 また徳川家康公も当社への崇敬の念が篤く、天正19年(1591年)、武運長久を祈願し六所領五十石(15,000坪)寄進の御朱印状があり、三代家光公も家康公に倣い慶安元年(1648年)、国家安全祈願として五十石の御朱印状が残されております。 以後、歴代の将軍の格別なる祈願と六所領の寄進があり、現在に到っております。相模國総社 六所神社 / 六所神社について より引用皇紀基準の換算では2,100年前に創建されたという超古社です。さすがにそこまで昔な訳はないので、おそらく4~5世紀頃なんではと、個人的には思っています。まぁ、それでも十分古社なんですが!一之宮から五之宮までの各神社の祭神に加えて、出雲地方関連の親子神が祀られています。扁額には”総社六所大明神”とあります。六所神社の収蔵品で面白いものがあるのです。鎌倉時代前期の前後に作られた神像で、武装したものと女性系の2つが有るようです。とりあえず境内の説明書きを見てみますか。神奈川県指定重要文化財木造 武装神形立像木造 女神形立像 武装神形立像は甲冑を身につけ、腰を絞り動勢をみせる立ち姿、女神形立像は髻を結った髪を両肩に垂らし、唐衣を着て直立した姿をしています。両像ともに形姿は仏教的ですが、純粋な仏教尊像とは異なる苦悩、明想などともとれる神像特有の異相表現を看取することができます。像高は武装神形立像が74.7㎝、女神形立像が69.1㎝を測ります。 両像とも、一木造りで彫眼、彩色仕上げ。両像の腕や女神像の足元などは亡失しています。ともに穏やかで洗練された作風が認められ、11世紀末から12世紀前半にかけての作と考えられます。平成18年(2006年)に大磯町指定有形文化財に指定された後、神奈川県指定重要文化財に指定されました。令和5年12月 大磯町教育委員会2つの神像を近くで見てみましょう。左側の武装神像は四天王の様にも見えますが、顔はかなり若々しい印象です。当社の祭神、またはその本地仏だったんでは?と予想しておきます。右の女神像の方はというと、アンニュイな表情が特徴的ですねぇ。祭神の中で女性なのは櫛稲田姫神だけですが、その姿を表したものなんでしょうか。面白いんですが、謎多き神像たち。明らかに仏教文化の影響を受けていることは分かりますが、どういった経緯で奉納されたんでしょうか。知りたいんよ、そこんとこ。六所神社というと国府祭(こうのまち)の舞台として有名です。一之宮~五之宮の神輿が集まる神揃山は社殿後方にあるみたいです。参拝時にはそんなこと露知らず、おかげで見落としてしまいました。あと数ヶ月すれば国府祭の時期になりますよね。そん時に見れれば良いんですが・・・。予定がつくことを祈ります。※国府祭についての解説は六所神社の公式サイトにてご覧になれます。↓のリンクからどうぞ!・相模國総社 六所神社 / お祭り / 国府祭 県無形文化財斜めから。律令国家の歴史において、国司着任時の有力神社巡礼を効率的に行うための措置として創建された総社。各国の国府周辺に創建され、いったい幾人の国司の業務を効率化させたのかは定かではありません。今では1つの神社として独立して崇められる存在となっています。移動が格段に便利になった現代に於いては、一之宮などと共に簡単にまわることが出来ちゃいます。自分が国司になったつもりでっまわると、その当時の空気が感じられて面白いんではないでしょうか。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・相模國総社 六所神社以上です。
2026年03月18日
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青森市野内集落の北東に、鬼門鎮守の様に1社の神社が鎮座しています。その名は貴船神社。京都に総本社を置き、水神を祀る神社として有名です。古来より雨乞いの神徳があるとされ篤く祀られてきました。当集落においては海上安全・航行守護など、少々金毘羅様っぽい感じもあるんですが、概ね雨に関する祈祷が行われてきたようです。義経北行伝説の舞台としても有名で、ここから津軽半島へ入り、北上して北海道に渡ったという設定です。北行伝説自体は創作なんですが、読み物としてはかなり面白く、伝説の舞台を巡るのも面白いと思います。2025.6.2野内貴船神社野内集落の鷲尾山という小丘に鎮座しています。鷲尾山というと、津軽八十八霊場の札所にもこの山号を背負う寺院がありますが、何かしら関連がありそうです。実際、札所寺院があるのは、貴船神社から車で数分の場所で、元は1つの霊場だったとか・・・だったら面白いですよね。写真に写るは表参道。ですがここからは参拝出来ません。工事中の表参道の代わりに、ここから右の方に裏参道が整備されており、そこから参拝出来ます。鷲尾山に上ると、境内の広場が広がっています。そこの端に、末社の稲荷神社が置かれていました。小さいながらも鮮やかな赤い祠は存在感抜群です。それでは貴船神社を見てみましょう。拝殿は雪囲いが付いたままで、向拝も少々傾いています。去年の降雪は異常で、当に災害という表現がピッタリでした。実際大星神社などは拝殿の向拝部分が倒壊しており、青森市内の他の神社も被害を受けた所があるんじゃないでしょうか。この神社はなんとかもったようですが、豪雪が続くとどうなるか知れません。本当に雪とどのように向き合っていくかが青森では重要になってきます。御由緒です。野内貴船神社祭神:高龗神例祭日:8月19日 当社は、野内字鈴森、鷲尾山に鎮座する。大同2年(807年)坂上田村麻呂の勧請によると伝えられる。 文治5年(1189年)源義経が衣川の戦いに敗れ、北海道に渡る途中ここで海上安全の祈願をしたという。三河国矢矧から妻である浄瑠璃姫が義経を慕ってやって来て、めぐりあうことが出来たがこの地で亡くなった。この時看病した義経の家来 鷲尾三郎経春が神社の裏の窪地に埋葬したと伝えられる。このあたりは鷲尾と呼ばれ、鷲尾山・鷲尾橋にその名が残っている。 本社は京都鞍馬山に鎮座する貴船神社であるが、源義経は幼少時鞍馬山で育ったので、野内に来た時に信仰する京都貴船神社を思い出し、渡航祈願をしたという。 御祭神 高龗命は、雨乞い・止雨乞いの神として、古代から作物に必要な雨を降らし、長雨を止める神として崇敬されてきた。津軽四代信政公は、領内4社の1つとして深く信仰し、毎年1度の藩主公の代拝があった。天候が不順な年にはこの4社へ風雨順調を祈願した。その折は御神徳により天候が回復したという。 明治6年3月村社に列せられ、同42年8月27日神饌幣帛料供進を指定される。青森港守護神 諏訪神社 / 兼務社紹介 / 貴船神社 より引用もうお馴染み、坂上田村麿による創建です。12世紀には源義経が訪れ、海上安全を祈願しています。津軽四代信政公からの信仰も篤く、天候回復を祈願する4社の内の1つに数えられていた様です。・・・というか他の3社が調べても出てこず、非常に気になります。現在は堤川河畔の諏訪神社が兼務しているみたいです。扁額です。本殿は拝殿からは独立して建っています。斜めから。坂上田村麿や源義経など、名将と関連した伝説が残る神社でした。真偽は別として、こうした伝承が残っているのは非常に面白いです。氏子の愛も感じられますし、当に村社といった趣があります。以上です。
2026年03月17日
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相模之国の一之宮、寒川神社と言うと知らぬ者はまずいないでしょう。数ある関東総鎮守の社の中でも取り分け荘厳華美な社殿を有しています。一説には縄文の頃からの祭祀の場に、弥生時代以降社殿を建てて神社とした、などの話もある程、長い歴史を持つ古社中の古社です。初めて相模国に足を踏み入れた日の夕暮れ、寒川神社に無事到着。駐車場は激コミで、第三だったか第四まで行ってやっと停めることが出来ました。七五三の時期という事もあってか、境内は親子連れで溢れ、まるでちょっとした縁日の様。人ごみをかき分けつつ、時にはそれにかだり、境内を散策します。陽光心地よく、いつまでも居たいくらいでした。2025.12.6寒川神社駐車場から参道の起点まで向かいます。この鳥居は何之鳥居かは分からないんですが、寒川神社の長い参道のはじめ、線路の辺りにある巨大な鳥居が一之鳥居だと思われます。参道は車道となっており、停まるわけにはいきません。撮影を断念してここからスタートです。この鳥居の側には2つの寺院があります。鳥居正面にあるのは霊信山 西善寺。参道東の奥まった所にあるのが龍寶山 興全寺です。前者はもとの供僧寺(社僧のようなものか)で、後者は寒川神社神官の菩提寺とのこと。特に西善寺は寒川神社別当 薬王寺の仏具類を継承しているため、寒川神社とは切っても切れない関係と言えるのではないでしょうか。鳥居をくぐると、公式サイトで何度も見返した”あの参道”が伸びていました。当然ながら公式サイトの映像そのままで、発狂気味に喜んでしまいました。これまでネット上でしか見られなかった古社たちに参拝出来るという喜びは、何にも代えがたいものです参道を左に逸れて、末社の宮山神社を参拝します。末社と謂えども、鳥居や庭園が付随しており、これだけで1つの神社と言っても遜色ないくらいです。最奥の祠も大きく立派です。御由緒です。寒川神社末社 宮山神社御祭神(合祀神社名と祭神、旧鎮座地)琴平社:大物主神:神戸鎮座八剱社:須佐之男神:八剱鎮座雷社:武甕槌神:雷鎮座若宮八幡社:十六代仁徳天皇(大鷦鷯命):旭鎮座祢岐志社:聖神:根岸鎮座稲荷社:宇迦之御魂神:中洲鎮座三峰社:伊邪那岐大神、伊邪那美大神:上合鎮座祭典日月次祭:毎月1日午前8時半例祭:9月29日:御前10寺御由緒 寒川神社末社宮山神社は、古くよりこの宮山地区に鎮座しておりました7社の小祠を、現在の社地に御社殿を建て合祀いたしております。 明治41年12月琴平社に八剱社・雷社・祢岐志社・若宮八幡社の4社が合祀され、大正3年9月稲荷社が合祀されました。 大正12年の関東大震災により、社殿が半倒壊するなどの被害を蒙りましたが、昭和5年国費を以って復旧いたしました。 昭和44年9月、三峰社が合祀されております。御神徳 宮山神社に白豆腐をお供えして祈ると母乳に恵まれる、と云われています。子供の安産の願い、母子の健やかな生育を願う祈願等の信仰が今に伝えられています。 また、御祭神の御神徳は厚く、家運隆昌・家内安全・無病息災・商売繁盛・五穀豊穣の神として、宮山地区の人々はもとより、広く一般に崇敬されております。この地区に祀られていた小さな祠の神格が集められ、宮山神社として祀られることになったようです。由緒は完全に村社のそれですね。何よりも面白いのが、白豆腐の奉納でしょうか。垂乳根ではありませんが、こちらも乳の出に神徳があるようです。再び参道に戻りまして、手水舎です。・・・デカくないですか?随神門まで来ました。正面には提灯が沢山掲げられております。この上に毎年ねぶたが飾られるそうなんですが、参拝した時にはありませんでした。津軽出身としては、出来栄えを直に見てみたかったところですが、残念。またの機会という事ですね。随神門を抜けると、これまでどこでも見た事ないような、超巨大社殿が建っていました。何よりもすごいのが社殿の幅で、とんでもなく横長です。更に社殿左右端からは瑞垣が伸び、随神門と繋がっています。そのため社殿の前の広場は外界とは隔てられた空間になっており、独特の神域感が味わえるんです。上方の神社も真っ青の豪華絢爛振り、最高です御由緒です。寒川神社祭神:寒川大明神(寒川比古命、寒川比女命を併せ祀ったもの) 寒川神社は、古くから関八州鎮護の神としてこの地方の名祠とあがめられています。具体的な創祀年代はわかっていませんが、総国風土記によると約1,600年前、雄略天皇の御代に幣帛を奉納せられたとあります。関八州とは、江戸時代における関東八カ国のこと。当時既に関東全域において、著名な神社として知られていたと考えられます。二柱の神を祀った寒川大明神 寒川神社の正確な創祀年代は、現存する資料には記載されていません。ただし、雄略天皇(456~479年)の御代に奉幣、また神亀4年(727年)社殿建立と伝える記録があり、少なくとも約1,600年の歴史を有することになります。 公の記録として残る最初のものは、仁明天皇承和13年(846年)神階従五位下を授けられたと『續日本後紀』に確認することができます。以来神階の授与が度々なされており、齋衡元年(854年)従四位下、元慶8年(884年)正四位下、延喜16年(916年)正四位上と進階されました。 また『延喜式』神名帳(927年編纂)によれば、相模國13社のうち、唯一の名神大社とされています。戦国武将も信仰 寒川神社の八方除は古くから全国に知られており、過去には源頼朝、北條義時、武田信玄等の武将、徳川家代々の篤い信仰を受けてきました。 伝承によると、武田信玄は永禄12年(1569年)10月の小田原城攻めの際、寒川神社へ立ち寄り、兜を奉納し、信玄芝原で兵を休めた、という逸話が残っています。その際に奉納された兜は寒川神社に現存しており、神奈川県の重要美術品として指定されています。相模國一之宮 寒川神社 / 御由緒 より引用続いて祭神の寒川大明神についての記述も見てみましょう。千六百年以上の歴史 寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)のニ柱の神を祀り、寒川大明神と奉称しています。寒川大明神は相模國を中心に広く関東地方をご開拓になられ、衣食住など人間生活の根源を開発指導され、関東地方文化の生みの親神様として敬仰されてきました。 寒川神社は江戸(東京)から見て南西(坤)の地に鎮座しており、江戸(現在の皇居)の裏鬼門にあたります。また、通常社殿は南向き、もしくは東向きに建てられるのですが、寒川神社は南西を向いています。そのため、古来より関八州の守護神として、また江戸の裏鬼門をお護りする神社として崇敬され、とりわけ八方除・方位除の神様として信仰されてきました。相模國一之宮 寒川神社 / 御祭神 より引用関東開闢の時に開創された霊場なんですね。祭神の寒川大明神は、衣食住や開拓祖神としての属性があるようです。ここだけ見ると、大国主神に似たような神格に感じられますが、男女一対である点が異なります。相模国造の祖神だとか、その他の神格に比定する説もありますが、結局のところ詳しいことは分からないのです。更に社殿の裏手には神嶽山神苑という庭園が広がっているんですが、かつては禁足地であったようです。この神苑の片隅にある”難波の小池”が、当神社の信仰において重要な場所とされているんです。公式サイトの説明を見てみましょう。難波の小池 古来より御本殿の真裏に位置し、寒川神社の起源に深く関わりがある神聖な泉として伝えられてきました。1月2日の追儺祭では、この池の水を竹筒に汲んで神前に供えたあと、境内に撒き一切の邪気を祓います。相模國一之宮 寒川神社 / 神嶽山神苑 より引用こんこんと湧く清水に神性を感じたのか、池の水は祓いの神事に使用されているみたいです。仏に供える水のことを”閼伽”といい、それを汲むための井戸を”閼伽井”と言います。難波の小池の趣は当にそれで、何かしら仏教の影響を受けて↑の神事は成立したんでは・・・と妄想しています。最後に年間祭祀について見てみましょう。1月1日:元旦祈祷祭・八方除祭2月3日頃:節分祭5月5日:國府祭6月30日:水無月大祓式、茅の輪神事、大祓祈願祭7月15日:浜降古式祭9月19日:商工祈願祭並献灯奉告祭、例祭宵宮祭、流鏑馬神事10月15日:人形感謝祭11月3日:明治祭12月14日:煤拂祭年間通して様々な祭祀がありますね。この中で一番気になるのが國府祭です。六所神社の公式サイトに詳細がありましたので載せますね。相模國府祭(さがみこうのまち)神奈川県無形民俗文化財 國府祭は毎年5月5日、六所神社が鎮座する神奈川県中郡大磯町国府本郷にて斎行される天下泰平・五穀豊穣を祈る祭典です。 相模国の一之宮である寒川神社をはじめ、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、一国一社平塚八幡宮、そして総社である六所神社が祭場である神揃山(かみそろいやま)、逢親場(おおやば)に参集し、祭典が執り行われます。 神奈川県指定無形民俗文化財に指定されており、古くは「端午祭」・「天下祭」と呼ばれておりました。天保年間(1831~1845年)に編纂された「新編相模国風土記稿」には、「此祭事は、養老年間(717~724年)に始むと云えど、未詳にせず」とあり、非常に古くから伝わる祭事であることが伺い知れます。また同時期に編纂された「相中留恩記略」では、「これ、当国第一の祭祀にして、諸人湊ひ来りて群詣す」とあり、多くの参詣者で賑わう様子が見てとられ、現在でも毎年たくさんの人で賑わいます。 國府祭は大きく分けて2つの神事から構成されています。1つは神揃山での古式座問答、もう1つは逢親場で行われます神対面神事・国司奉幣・神裁許の神事です。この2か所での神事を合わせて國府祭となります。 古式座問答は寒川神社と川勾神社の一之宮争いを儀式化したものと伝えられております。神事は一之宮・二之宮・三之宮が中心となり執り行われ、神前に向け一之宮と二之宮が交互に虎皮を敷き進め、これを三度繰り返すと三之宮の宮司が「いづれ明年まで」と仲裁に入り神事は終わります。 古式座問答が無事終わると、六所神社は125,000石の行列を整え、逢親場へ向けて出立します。五社の神輿も神揃山より逢親場へ向かいます。逢親場では、各社の神輿入場に合わせ「鷺の舞」が奉奏されます。 六社が逢親場に集まると、まず各社へ神饌を献上する七十五膳献上の儀が行われます。次に、各社の宮司は六所神社の鉾神輿の前に立ち並び自社の御分霊を祀った守公神を奉り拝礼する神対面神事。次いで大磯町長が国司として五社へ幣帛を奉る国司奉幣の儀、そして最後に総社宮司が各社へ拝礼する神裁許の儀が執り行われ、神事終了となります。相模國府祭「鷺の舞」 大化改新の後、日本の国々に国府が置かれ、国司が都から派遣されるようになると、相模国では国司が年に1度、相模国内の六社を国府に招き国の平和と繁栄を神々に祈願し、有力者達をもてなしたといわれております。当時の貴族達は来賓をもてなす際に庭先の池に船を浮かべ音楽を演奏し歓迎を致しました。 これが國府祭で奉奏されます鷺の舞の起源といわれており、舞台が船の形をしているのは当時の貴族文化の名残であります。当時は国司と共に都より同行した舞手、楽人が音楽を奏で鷺の舞を舞ったと伝えられております。 鷺の舞は「流し」と「舞路」の2つの曲で構成されます。流しは國府祭において逢親場へ入場する六社の神輿を歓迎する曲であり、舞路は七十五膳の献饌の儀より奉奏されます。舞路では天下泰平を祈る「鷺の舞」、五穀豊穣を祈る「龍の舞」、厄災消除を祈る「獅子の舞」が舞われます。 流し・舞路からなる鷺の舞は、当時の貴族文化を偲ぶ優雅な舞の中に、相模国国司が平和、豊作、繁栄の祈りを込めた舞であり、その祈りは現代にも通じ当時の人々の心も今に伝えております。相模國総社 六所神社 / 国府祭 県無形文化財 より引用古社であればあるほど、神話の一場面を再現する神事が多いようです。有名な所で言うと西国の古社中の古社 宗像大社などが挙げられます。相模国の場合は神話の一場面ではなく、国が新たに成立した時の一場面を再現する神事を行っているんですね。律令国家の習わしが良く残っており、非常に面白いです。一之宮から五之宮までが総社の地に集まり、神事を執り行います。寒川神社の公式YouTubeチャンネルに国府祭の映像が有りましたので、見てみましょう。・YouTube / 寒川神社公式チャンネル / 【寒川神社】國府祭(こうのまち)【公式】斜めから。相模国一之宮 寒川神社でした。古の姿をそのままに、境内は樹叢に被われ、あふれ出る神域感が半端ではありませんでした。詳細な創建年代さえ不明な程、遥か上古の昔に祀られし寒川大明神。坂東八洲を鎮護せんとする古社は、今でも参詣人で賑わっていました。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・相模國一之宮 寒川神社以上です。
2026年03月17日
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弘前というと、禅林街三十三ヶ寺を始めとして、津軽の主要な寺院が集められている仏都というイメージがあります。弘前城の南西の守りとして発展した禅林街に対して、もう1つ寺院が集められたエリアがあるんです。かつての堤跡のすぐ側に広大な境内を有する最勝院から、西の方にずーっと寺院が集中しているエリアがあり、これを新寺町と言います。津軽八十八霊場の札所の幾つかはここに集中しており、何れも歴史・伽藍全てが素晴らしい名刹ばかりです。今回紹介する寺院もこの新寺町に境内を構えています。禅林街は曹洞宗寺院だけなのに対して、新寺町はそれ以外の天台宗・日蓮宗・浄土真宗などの寺院もあるのです。このエリアはちょっとした京都感を味わえるので、お寺好きの皆さんは是非とも足を運んで見てください2025.9.21宝幢山 法立寺夏の暑さも治まる9月末、弘前の禅林街・新寺町の寺院をまわり、これで津軽でまわり残した所はほぼ無くなりました。後悔無く山梨に旅立てそうです。法立寺の境内に足を踏み入れると、入り口には曼殊沙華。弘前だと最勝院のものが有名ですが、花勢に関してはこちらも負けていません。少し進むと、奥の方に法立寺が見えていました。参道右手に建っているのは、末寺である本迹院。駐車場の方には南栄院もあります。駐車場の近くに説明書きがあったので少々見てみましょうか。境智窟 本迹院 当院は本寺 法立寺の第十世 本迹院日運が、正保2年(1645年)3月15日、寺内に隠居寺として開山、以来約350年、現在で第三十八世となる。南栄院 当院は寛文4年(1664年)本寺 法立寺の第十二世 日成の弟子 南栄院日浄によって創立されたが明治以前の歴世は不明。現在は第三十三世(法立寺副住)。由緒から察するに、独立した寺院というよりは僧坊の1つして存続していると思われます。本堂です。津軽では稀に見る荘厳な御堂で、格式の高さを物語っています。法立寺は津軽の日蓮宗寺院の中でも中核的な存在で、多数の末寺を有しています。どこかの寺の由緒書きで、津軽最古の日蓮宗寺院とあった気がしますが、もしそうだとすると、この寺院から日蓮宗の津軽布教が始まったことになります。御由緒です。宝幢山 法立寺日蓮宗 広宣流布山本願満足寺末寺開山:本満寺玉持院二世 日尋上人本尊:十界曼荼羅 日蓮宗法立寺の小野正光住職は、柴田高校の英語教師だ。お坊さんが学校教師という例は、少なくないが、担当教科はたいてい国語だ。英語と聞くと、珍しい気持ちが先に立つ。「大学を終えてブラジルへ布教に渡るなどしてきたのですが、こちらに落ち着いた時は父が現役で健在でしたし、私自身の生活もあり、就職してちょうど10年になります」と住職の話。 小野住職は50年7月、師父の威勇上人から後を引き継いだ。「寺は信仰でささえられ、また信仰は経営によってささえられる。現代はお寺といえども、あまりきれいごとばかり言っていては維持してゆけない」と住職は割り切っている。歴史の古い由緒ある寺だと檀家が多く、それなりの寺格の維持で費用もかかろう。法立寺は檀家とのきずなをがっちり維持してゆく手段として、43年10月から3ヵ月に1回、タブロイド判2ページのお寺の新聞「菩提樹」を発行している。若く現代感覚をもった住職ならではの着想だった。総本山や法立寺の諸行事をはじめ、法話、檀家の法事、法要など豊富な話題が読みやすく編集されている。住職1人の努力によるもので、毎号1,000部、52年2月で29号まで出している。「簡単に考えた寺報発行でした。これがなかなか骨の折れる仕事で投げ出したくなりますが、檀家が心持ちにしてくれるのにささえられてます。寺の記録を後世に残したいという気持ちでも、がんばっているんです」と住職は苦心談をポツリポツリ。このほか、檀徒の心得ともいうべき「信行手帖」も発行配布した。 また、28年に荒行を出て以来、52年で15年になるが、冬休みは返上、在方10数地区を巡回している。 法立寺は天文2年(1533年)に京都本満寺の玉持院二世だった日尋上人が大浦城下の賀田に創建したのに始まるといわれる。この寺も藩主の弘前への移転命令や類焼などで転々とし、慶安3年(1650年)、現在地に建てられた。 伝教大師(最澄)の真筆といわれる細字の写経など寺宝も多いが、裏話もあった。慶長17年(1612年)、八世日元上人が国外追放、寺禄没収廃絶を信枚公から命ぜられたのだ。美少年の小姓 八木橋専太郎をめぐって藩主と重臣との間に争いが起きたが、この間に巻き込まれた家臣 九里武兵衛は、寺に逃げ込んだ。上人は九里をかばったため信枚公の怒りにふれたわけ。後継八世は日正上人。末寺の弘法寺二世だったが、本寺の廃虚を憂え、津軽三代信義公に願い出て慶長19年(1614年)に再興したという。 明治17年、三十八世日諒上人は、京都本山本満寺へ栄進した。なお法立寺には末寺が6寺(中里町弘法寺、弘前市本迹院、同南栄院、藤崎町法光寺、大鰐町日精寺、金木町妙乗寺)あった。また、林崎新夢想流の居合術をはじめ武芸十八般を極め四代藩主信政に仕えた一戸三之介宗明の墓地、遺品がある。つがるのお寺さん 上巻 92.93ページ より引用日蓮宗本山 広宣流布山 本願満足寺の直末寺院です。県内では日蓮宗寺院は結構稀で、殆どが曹洞宗・真言宗諸派です。南部氏自体、曹洞宗・臨済宗を推していたため、日蓮宗寺院が増えにくい環境だったのは確かでしょう。そんな中でも、津軽・南部両地方に教線を拡大せんと京都から赴いたのが当山開山の日尋上人。彼無くして、津軽の日蓮宗繁栄は有りえなかったでしょう。斜めから。本当にうっとりするような美しさの御堂です。木材の下部だけ色が違うのは、長年の積雪によるためでしょうね。なんとも津軽らしい風情があるじゃぁないですか。こんな寺院に出会えた時の嬉しさは限り有りません以上です。
2026年03月16日
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山梨出張で初の神奈川県巡礼は相模国一之宮 寒川神社と決めていました。この日は寝坊しつつも何とか神奈川入し、出雲大社 相模分祀、次いで念願の寒川神社に詣でた後、帰り路にある四之宮にも立ち寄ることに。日も暮れかけてはいましたが、なんとか御朱印も間に合い、良きシメとなりました。2025.12.6前鳥神社一之鳥居が夕日に照らされていました。林の奥深くまで伸びる参道はここから始まり、最奥に前鳥神社が鎮座しています。この鳥居の近くに神社専用の駐車場があるので、車でも安心。参道を進んでいると、脇の方に小さな祠を見つけました。こちらは末社の東町稲荷社。名前からして、古くからこの町内で祀られて来た稲荷の社だと思われます。二之鳥居に到着。ここまで来れば拝殿はもう目の前です。鳥居脇には、何故か鐘楼と共に宝筐印塔が建っています。御由緒を確認したところ、かつては別当として雪霜山 鏡智院 神光寺という古義真言宗の寺院が置かれていた様なんです。これらはもしかすると、別当寺院の痕跡なのかも知れません。因みにこの別当寺院は、グーグルマップで調べてみても出てきません。もしかすると明治の廃仏毀釈の際に廃寺になった可能性があります。社殿も近くなると、社叢の中に祠を幾つか見つけることができます。こちらは祖霊社。この地域出身の英霊たちを祀ります。祖霊社の裏手には、謎の五輪塔が並びます。・・・この神社の社家の墓か、それとも別当寺院の歴住墓でしょうか・・・。不明です。石祠と石碑。右の石碑は荻原先生句碑で、東京神田出身の川柳作家 萩原夏絵の川柳が刻まれています。あるときは 羽織にほしい 雲の色夏絵石祠と共に置かれている道祖神は、顔が摩耗してしまっています。年号ももはや読み取れません。かなりの年代物であることは確かでしょう。手水舎です。・・・と言っても、前鳥神社の手水舎ではなく、末社の厄除稲荷社のものです。こちらには稲荷大神にちなんでか、眷属の宇賀神が水盤中にとぐろを巻いていました。この水盤について、面白い文化・風習があったようです。旧手水鉢と盃状穴 嘉永3年(1850年)から昭和16年(1941年)まて凡そ90年ほど使われていた手水鉢です。 鎌倉時代より、お参りをする際に祈願を込め、小石を持って念じながら手水鉢の縁へキリキリと揉み込むと願い事が叶うと言われており、鉢の縁に盃状の窪みか作られています。 明治以降にはその風習は無くなったようですが、この盃状穴の手水鉢は、地域住民が前島神社に古くより高い信仰を寄せていたことを証明する貴重な文化遺産です。参拝作法 先ず深く2回お辞儀をします。次に願いを込めながら宇賀神さまに柄杓で3回水を掛け、次に手水鉢の縁の穴に小石でキリキリと揉み込みます。最後に二拝二拍手一拝の作法にて参拝します。境内説明書き より引用古くは鎌倉時代からある風習らしく、他の神社でも行われていたのか気になります。津軽ではまず聞いたことは無いですねぇ。当地だけの風習なんでしょうか?末社:厄除稲荷社です。御由緒については、境内の説明書きを見てみましょう。厄除稲荷社 この神社は前島神社の鬼門(北東)を守護する神として、文化5年(1808年)に京都の伏見稲荷より動情されました。 棟札には「正一位除厄稻荷大明神」とあり、特に厄除・災厄消除に御利益があるとされています。令和5年(2023年)師走、境内北東の御本社より御分霊を勧請し、この地に鎮座しました。境内説明書き より引用なかなかに古い神社のようです。総本社からの直接の分霊ということもあり、崇敬の篤さはかなりのものだと思われます。境内東側にも2社あります。こちらは奨学神社。大学入試に関係ありそうな名前ですが、どのような由緒があるのでしょうか。いつごろ出来たのかは不明ですが、前鳥神社の主祭神関連の神格(百済の王子:阿直岐、博士王仁)と菅原道真公を祀っているようです。学者関連の人物がこれでもかと祀られているから奨学神社と言うんですね。他に類を見ない面白い神社です。隣には神戸神社。神明造の社殿が古雅な趣を放っています。祭神は天照皇大神、素戔嗚神。神明社と八坂神社を併せたものだそうです。いよいよ拝殿です。装飾の鮮やかさからも、篤く崇敬されていることが伝わってきますね。四之宮と謂えども、ここまで豪奢な社殿を有しているのは、現今の相模国の繁栄があってこそのことでしょう。地方の神社とは比較にならない程の氏子がいるものと思われます。御由緒です(一部加筆)。相模国四之宮 前鳥神社祭神・菟道稚郎子命(十五代応神天皇御子)、大山咋神、日本武尊境内社神戸神社:天照皇大神、素戔嗚神奨学神社:阿直岐(百済の王子)、博士王仁祖霊社:当地出身の英霊稲荷社:稲荷大神御由緒 前鳥神社の創祀は奈良時代以前、第十五代応神天皇の皇子 菟道稚郎子がこの地へ移り住み、後にこれを祭神として祀ったことに始まると伝えられ、1650年の歴史を有します。 奈良時代から10世紀半ばにかけて、この地には相模国府(現代の県庁)が置かれ、当神社は国府の鎮護として国司(県知事に相当)を始め官人により神拝がなされたと考えられます。10世紀初頭に醍醐天皇によって勅撰された『延喜式』神名帳では奉幣社の一社に挙げられ、10世紀末に大磯町国府本郷へ国衙が遷された後は国司巡拝社の第四番に列し、以来相模国四之宮と称されております。 鎌倉時代には源頼朝公より夫人 政子の安産祈願の神馬奉納に与り、将軍家御祈祷所と定められたことが『吾妻鏡』に記されます。続く室町・安土桃山時代の動乱を経て衰微しましたが、徳川氏の崇敬篤く、家康公より社領地十石の寄進と朱印状を得て再興いたしました。江戸幕府成立後は、将軍家武運長久の祈願所と定められ、「四之宮大明神」として身分の上下を問わず広く信仰されてまいりました。 現在は渡来人から最新の学問を学び、その技術を篤く庇護した御祭神の生涯に因み、学徳・就職・安全守護の前鳥大神として広く尊崇を集めています。年間祭典1月1日:歳旦祭2月3日:節分祭2月17日:祈年祭2月23日:天長節祭3月第二日曜日:奨学神社例祭5月5日:相模国府祭5月第三土曜日:崇敬会大祭6月30日:夏越の大祓7月第二日曜日:八坂神社例祭9月28日:御本社例祭11月23日:新嘗祭12月31日:師走の大祓每月1日・15日・28日:月次祭米年間行事は公式サイトに詳しい説明がありますので、興味のあるかたはこちらからどうぞ!実在が確実視されている十五代応神天皇の御子 菟道稚郎子命を主祭神として祀っているようです。これに大山咋神・日本武尊を併せ祀り、前鳥大神と称しているようです。大山咋神・日本武尊に関しては、近代になってから合祀されたもので、創建当時から祀られてるのは菟道稚郎子命だけなんだとか。中央から遠く離れたこの相模の地で、どうして応神天皇の御子を祀ることになったのか、非常に気になります。公式サイトには主祭神:菟道稚郎子命の説明があります。引用してみましょう。御神徳 前鳥大神(菟道稚郎子命)は、第十五代応神天皇の皇太子です。当時、百済から来朝していた阿直岐(あちき)から帝王への道を学ばれた後、博士王仁(わに)を師として学問の道をひらかれました。論語や千字文などの漢籍をわが国で最初に学ばれた方でもあります。このことから、古くより修学の神、学問の神、就職の神として広く尊崇されています。 また命は、帰化した渡来人技術者を篤く庇護し、産業技術の導入を計られ、日本の農業・土木建築等の急速な発展をなされました。 さらに、その俊秀の誉れから、皇太子と定められましたが、兄大鷦鷯命(おほさざきのみこと、後の仁徳天皇)と皇位を譲り合い、ついには兄君をたてて自らはお隠れになりました。この「謙譲の美徳」は、古今に関わらず範とされています。 なお菟道稚郎子命を祭神として祀る神社は極めて稀であります。延喜式内社 相模国四之宮 前鳥神社 / 前鳥神社について より引用民家から立ち上る煙が少ないのを憂いて税を免除した、という伝承で有名な仁徳天皇の兄弟であります。兄から帝位を譲られ、自らも譲り、どちらも帝位に付こうとしません。ついには菟道稚郎子命が自らの命を絶つという強硬手段で帝位を譲ります。そんな仁愛の物語が2人の間にはあったようですが・・・本当なんでしょうか?とはいえ、ここまで篤く祀られるということは、本当に仁徳のある人物だったんではないでしょうか。真実はもう分かりません。斜めから。祭神から由緒まで、全て面白かったですこうした面白い由緒を持つ神社が本当に好きで、見つけられるとすんばらしく気持ちよくなれます。これだから巡礼はやめられない・・・!今回の良き出逢いに感謝です今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・延喜式内社 相模国四之宮 前鳥神社以上です。
2026年03月15日
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青森の街なかに4ヶ寺が立ち並ぶ寺町通りが走っています。その内、最も西に位置するのが今回紹介する常光寺です。青森市内の曹洞宗寺院ではかなり規模が大きく、この地域の本寺にあたる寺であったと思われます。青森の街が造られ始めた頃から、この地に境内を構え、人々の心の拠り所となってきました。青森と共に歩んできた、そんな寺院です。2025.6.2青森山 常光寺境内のほとんどの堂宇は近代的なコンクリ造。寺門も例外でなく、この通り長年豪雪にいじめられてもピンピンしています。豪雪地帯の建築は、これが最適解なのかも知れませんね。山門手前、木に隠れるように御堂がありました。こちらは地蔵堂。六地蔵から水子地蔵、延命地蔵まで幅広く取り揃えております。山門です。江戸の増上寺本堂の様に、見事な鴟尾が屋根の両端に乗っています。建材は異なれど、昔ながらの山門の造りであり、外観も見事です。山門を抜けると、右側に鐘楼があり、吊るされている鐘楼は市内最古級のものだそう。今でも年越しには撞鐘の音を青森の街に響かせているんではないでしょうか。そして正面には、かなり大柄の本堂。こっちにも鴟尾が付いていますね。正面からは分かりにくいですが、通常の御堂と比べてかなり長く幅の広い向拝が付けられています。これも豪雪地帯に合わせた造りなんでしょうか。御由緒です。青森山 常光寺曹洞宗 太平山長勝寺末寺開山:祖外天芸上人本尊:釈迦如来 当寺開闢の祖外天芸禅師は若狭の人で、初め弘前高徳院の住持であった。寛永年中に青森派立成就し、戸口も殖えて来たが、青森地方の人々は未だ曹洞宗の寺院なきを憂ひ、一宇建立せんことを請ふたので、善知鳥の東、悪知鳥の北、前は海に接する処に一座具の地を得、草庵を結び化導に従事したが、僅か両3年にして檀越信徒となるもの4・500軒に及んだ。そこで仏殿・庫裡・大門等を建立し藩公の裁許を仰いで、常光寺と称することに至った。時は是れ慶安元戊子年(1648年)5月20日である。 雨来、青森町は日に月に繁栄を加へて来て、人口の増殖と民家の稠密は悪知鳥町より更に新町を作るやうになつて、境内の周囲は悉く人家となり、寺院に適せぬばかりでなく、檀越も多く集り来て折角経営した殿堂も、規模狭く殆んど用を便ずるに堪えぬ程になった。茲に於て更に移転拡張を感じたので、禅師自ら移転地を相せしに、東に貴船神社、西に毘沙門堂(※現乳井神社?)、南は妙見薩埵、北は善知鳥弁才天あり、前は海浜に臨みて日夕船舶の出入を眺め、後は八甲田山を仰ぎて深沢を一望にすべき地境を見出したので、草を鋤き、地を坦さば、巨に是れ勝景の地たるべきを思ひ、ここに東西40余間、南北75間の地をトし、移転の儀を藩庁に請願せしに、直に認許せられ、特に藩主の御思召で、奉行森山内蔵之助に命じて、移転改築の監督を仰せ付けられたのである。 始め青森地方の人々、事を長勝寺十四世聖眼禅師に請ふた。禅師之を執事に伝へた。執事是れを太守に伺ひしに、太守の謂はるに、「法の興る、是れ吾が土の吉兆である」と仰せられて、一座具の地を施された。時に禅師以為らく、およそ寺院の建立は小根劣気の輩の堪ゆる所でない。芸にあらざるよりは誰も其の事を幹するものがない。因て之を天芸和尚に命じたのである。 この工事の大工棟梁は東弥左衛門・吉田重右衛門(青森年代記)であって、檀徒の浄財亦多く、日成らずして四方棟の本堂(縦十間・横十一間)・大書院・小書院・方丈・室中客殿・大庫裡・衆寮・山門・大門・経蔵・文庫・善美を尽して竣成し、当時、地方稀に見る伽藍となった。そこで長勝寺十四世正眼和尚(雲祝)を勧請して開山の祖となし、義喚和尚(長祝)を二世とし、自ら第三位に下った。禅師の徳風弥々高く、檀信の帰崇益々深く、是れより青森山常光禅寺の号を賜り、開堂演法するに至った。時は承応2癸巳年(1653年)6月5日である。以後、御代々の藩公御下浜の折は、御香資金200疋づ、御供進御参拝あらせられ、元禄4年(1691年)8月境内竿入ありて東西45間・南北75間の境内確定し地租免除となる。享保年間、五世洞水和尚代より、安永年間、七世蘆山和尚代に至る間は尤も思盛を極め、当時、檀徒3,000と称するに至る。宝暦5年(1755年)の大凶作及び明和3年(1766年)の大地震等、当寺に及ぼせし影響甚大なるものありしが、九世大然和尚よく之を復興し、中興開山と称せらるるに至った。それより法燈永く耀き、十九世280年を経過して現今に至ったのである(浄土宗諸寺縁起志及び常光寺縁起)。青森寺院志 3~7ページ より引用長勝寺の孫末にあたる金毘羅山 高徳院の僧 天芸上人によって開創された寺院です。青森四ヶ寺の中でも相当に勇壮な伽藍を有していて、白が基調となっている諸堂の見ごたえは凄まじいです。以前は津軽三十三観音霊場二十二番札所(朱印所?)・津軽八十八霊場二十一番札所でしたが、今では正覚寺・東福寺にその任を託し、札所からは外れています。本堂正面には寺号額が懸かります。堂内正面には本尊の釈迦三尊・・・と言いたいところなんですが、通常の配置ではありません。須弥壇には中央:釈迦如来、左:阿弥陀如来、右:弥勒菩薩が祀られ、堂内の左右に文殊菩薩・普賢菩薩が置かれるという特殊配置です。須弥壇の三体の如来は、過去・現在・未来の救済を担う仏という事で、三世仏と呼ばれます。堂内右に脇侍の文殊菩薩。反対側には普賢菩薩が配されていました。これらは最近寄進されたものらしいです。作者は京仏師 須藤光昭師。次に位牌堂。こちらには千手観音が祀られます。宝冠・法衣の表現が秀逸です。位牌堂の最奥には、身の丈六丈はあろうかという巨大な聖観音が置かれていました。手前の燭台と比較しても、相当に大きいことが分かると思います。これがかつて津軽八十八霊場の札所だった時の札所本尊になります。優し気な表情と自然に差し出された手とが、仏の慈悲を表しているかのようでした。後ろには”こぎん差し”風のマンジ紋がならび、津軽らしさを感じられました。山号は青森山、それにふさわしい光景が広がっています。斜めから。港街青森の禅道場 常光寺でした。雪の様に白い、白亜の仏堂を是非拝みに来てください。青森駅からもそう遠くはありません。街ブラのついでに寄るも一興。青森を代表する画家 棟方志功氏の菩提寺でもある大寺に来てけろじゃ以上です。
2026年03月15日
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三十三番札所の品川寺を参拝し、徒歩にて番外札所の海雲寺に向かいます。かつての東海道ということもあり、道幅は狭いですが、商店街はかなり活気がありました。道の脇に建つカレー屋からスパイスの良い香りが漂ってきて、歩き通しの空腹な体をこれでもかと突いて来たのは今でもハッキリと覚えております。蕎麦屋やレストラン、団子屋などもあり、食には困らぬ、そんな街でした。2024.7.15江戸三十三観音霊場番外札所:龍吟山 海雲寺商店街の道の脇に、古めかしい寺門が建てられています。手前には”千体荒神王霊場”と刻まれた石柱もあり、当に打ち止めの霊場といった風情がありました。寺門には寺号額。初見じゃまず読めません。境内に進むとまず目につくのが巨大な鐘楼です。その脇には幾つかの御堂があるんですが、これもその内の1つです。堂内には烏枢沙摩明王が収められていました。大陸では火天・アグニなどとも呼ばれる神格です。悪業の悉くを焼き尽くし浄化する作用があるためか、この世で最も不浄な空間である便所に祀られていることが多いです。ある意味で掃除員の味方とも言えるのではないでしょうか。一説にはゾロアスター教の主神だったそうで、それが仏教に取り込まれて天部に編入されます。インド=ヨーロッパ語族の他の言語(ラテン語)でも、火のことはイグニと言い、かなり形が近いですね。そのため、共通する語形があるものと思われます。前後しますが鐘楼です。基部以外はかなり古めかしい外観です。境内の中央にはまたもや烏枢沙摩明王。こちらも信仰が篤いものと思われます。烏枢沙摩明王像の近くには、”平蔵地蔵”と呼ばれる地蔵尊像が置かれています。像容は一般的な延命地蔵尊のもので、錫杖と宝珠が持物です。平蔵地蔵について、説明書きを見てみましょう。平蔵地蔵にまつわる哀しい話 私はその日、千体荒神堂に上げていただいた後に、棟続きになっている隣の本堂の観音堂内に赴いた。祭礼の当日はそこが控え室になっており、観音さまの前の長机にお茶が置かれて、20数人の人々が茶をすすったり、観音さまにお参りしていた。お陰で観音さまを身近に拝することができた。観音さまはさして大きくはなかった。 参詣者は高齢者が多く、その9割は女性であった。どうしてこうも女性が多いのであろうか。知人の女性にそのわけをたずねると、「女性は出たがりで、群れたがりで、業が深いからでしょう」と笑っておられた。だがそればかりではないようだ。この荒神さまは竈の神さまでもある。防災の上でも、台所をあずかるご婦人は参詣して、火の神さまに祈願することを忘れないようにしているのであろう。 このお寺の境内のほぼまん中に、正直者の鑑とされた平蔵を弔う平蔵地蔵がお祀りされている。平蔵は、江戸末期のころ鈴ヶ森刑場の番人で乞食をしていたが、100両という大金を拾い、落とし主の仙台藩の武家を探して届けた。その武家が20両の礼をしようとしたところ、平蔵は2日分の日当にあたる600文しか受けとらなかった。平蔵は仲間の乞食たちから、「届けないで山分けすれば乞食から脱出できたものを」と殴られ、いじめられて凍死してしまった。これを聞いた落とし主の武家が哀れに思い、その亡骸を引き取り、近所の地に埋葬し、地蔵尊を立てて供養した。そして、後にこのお寺に移されたという。哀れな話であるが、観音札所にふさわしい話である。江戸三十三観音巡礼 新妻久郎 / 222、223ページ より引用正直すぎたが故に、同胞からボコボコにされ、そのまま亡くなった平蔵。そんな彼を弔った地蔵尊像なんですね。例えこのようなひどい目に遭ったとしても、胸を張って生きるため正直でいたいもんです。では進みます。本堂に向かう前に、この寺院の目玉とも言える荒神堂を参拝します。参道脇には新しい手水舎もあり、その崇敬の篤さが伝わってきます。手水の向いには役行者の像があります。珍しく前鬼・後鬼を伴わない単体のもの。ここも修験に関連する霊場だったんでしょうか?隣には橘右近の筆塚があります。落語家でもあり、書家でもあると言う才人所縁の筆塚です。荒神堂です。色味も暗く、建立からかなりの年月が経っているものと思われます。黒くくすんだ色合いは、火の神を祀る御堂に相応しきもの。何とも言えない魅力があります。ご由緒です。荒神堂本尊:千体三宝荒神 海雲寺の本堂に隣接して荒神堂があり、略縁起によると、そこに安置されている千体三宝荒神は、天竺(インド)の毘首羯摩の作といわれ、大日如来、文殊菩薩、不動明王の垂迹で、三面六臂の忿怒の形相のインドの神である。垂迹とは、仏や菩薩が人々を救うため、仮の姿で現れることである。 また、脇侍として、肌を救い衣食住に不足ないよう守る飢渇神。一切の障りを除き、愛敬を授ける障碍神。不正の財をむさぼる者を罰し、正直な者に福徳を与える貪欲神。それらの神々を安置してある。三宝荒神は火と水を守ってくれる神さまなので、台所に祀ると一切の災難から除かれ、衣食住に不自由しないといわれている。島原の乱に由来する千体荒神 この千体荒神は、もともとこの地にあったのではない。寛永14年(1637年)、島原の乱のとき、18歳の鍋島甲斐守直澄が江戸を出発して天草に出陣した。直澄が、天草郡の荒神が原に祀られてあった荒神王の祠に参拝し、戦勝祈願して出陣したところ、ほかの大名の軍勢が大敗しているのに、1,000人の神兵が直澄軍の先頭に現れ、敵をなぎ倒して大勝したという。直澄はその報恩のために、江戸に帰還したとき、千体荒神を江戸芝高輪の下屋敷にお祀りしたのである。それを因縁あって、明和7年(1770年)3月に鍋島家からこの寺に勧請したという。そのため、千体荒神祭の3月と11月の27日と28日には、かつては鍋島家から家臣がきて警護にあたったそうである。 この像を海雲寺に勧請して以来、不思議な霊験が数えきれないほど多く現れているという。それは、ご本尊の十一面観世音菩薩が千体荒神に姿を変えて、衆生の救済を行っているからであろう。私はある年の3月28日の祭礼の日に出向いた。僧侶の方も10人を超えて出仕していた。週日であったが、露天商が境内はいうに及ばず、交通止めになった旧東海道にも出て、とても賑わっていた。警察、消防団の方々が大勢警護にあたっていた。江戸三十三観音巡礼 新妻久郎 / 220~222ページ より引用もとは天草に祀られていて、それが鍋島氏によって江戸へと勧請されました。以来鍋島家にて篤く祀られてきましたが、後に当寺に遷されます。↑の御由緒では、三宝荒神はインドの神と有りますが、あくまでも日本産の神格になります。ただ像容に関しては、明王部の姿を基にしたのは確かで、大陸の影響は皆無とは言えません。荒神堂には数え切れない程の扁額が収められています。こんな感じに堂内にもたっぷり懸かっているんです。これらは崇敬者からの奉納で、どれも金字の豪華なものです。扁額について説明書きを見てみましょう。品川区指定有形民俗文化財 千躰荒神堂奉納扁額指定:昭和60年3月14日(有形民俗第十六号) 千林荒神王は火と水の神として、また台所の神としても有名である。 堂内に懸けられている扁額は信徒の奉納によるものであり、全部で27面ある。文字額及び雌雄二鶏図が多く、格天井の中央に龍の図が、その周りに纏図が描かれている。 文久元年(1861年)作の雌雄二鶏図は、ガラスの上に彩色された貴重な資料であり、また、昭和10年に奉納された浪曲家 廣澤虎造夫妻による文字额もある。平成14年3月28日 品川区教育委員会斜めから。寺院鎮守として三宝荒神を祀る曹洞宗寺院は幾つもありますが、ここまで篤く祀られているものは稀でしょう。大祭の日には堂内にて護摩が焚かれ、諸悪業を焼き尽くし、新たな日々を歩む節目と成ります。今でも祭りの日には参詣者が途絶えません。最後に本堂を見て締めたいと思います。御由緒です。龍吟山 海雲寺曹洞宗 補陀落山海晏寺末寺本尊:十一面観音「千体荒神」として名高い 山号を龍吟山と号する曹洞宗の海雲寺は、ご本尊が十一面観音である。だがこのお寺はどちらかというと、観音さまとしてより「千体荒神」として名高い。所在地は、第三十一番品川寺から50mほど旧東海道を横浜の方に歩いた、品川寺と同じ並びの商店街の一角にある。 寺の境内から見ると、京浜急行「青物横丁」駅はすぐ目の前にあるのだが、駅から直線でこの地に来ることができない。しかし、迂回しても3分とはかからない。 海雲寺は、江戸三十三観音札所の番外の寺である。番外には、定義があるのだろうか。お寺にうかがったところ、年に何回かそのような質問を受けることがあるそうだが、明確には回答できないということであった。『「観音の寺」の旅』(日本交通公社出版事業局 1980年)には、「番外とは三十三札所に数えられていない寺である。そのくせ三十三所霊場巡りのコースに必ず組み入られているという寺のことである」と記され、『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房 1994年)は、「番付以外という意味と思われる。開創者にゆかりがある地や、札所の近くか巡礼道沿いの霊場が番外になる」と書かれている。 山門をくぐると、向かって右手に朱印をいただく庫裡があり、中央の建物が観世音菩薩像を安置してある本堂で、左手に荒神堂が建っている。境内に入ると、荒神堂のほうが堂々として一般の人の眼には大きく映るので、知らない人は自然にそちらに足を向けてしまうようである。バスツアーのときは、観音堂が修復のため、 内部に大工さんが入っていたこともあり、ほとんどの人が荒神堂の前に集まって読経を始めようとした。そのとたん、庫裡にいて朱印を押されていた僧侶の方が、「観音さまは、こちらですよ」と声を発してくれた。そこで初めてみんな気がついて、観音堂の前に集合したほどである。鮫のお腹から出てきた観音さま いただいた略縁起によると、建長3年(1251年)に鎌倉建長寺の開山道隆の法嗣である不山東用和尚が、庵端林という草庵を海晏寺の境内に開いた。当時は臨済宗であったが、慶長元年(1596年)海晏寺五世の分外祖耕大和尚を開山として曹洞宗に改め、そのあと寛文元年(1661年)に海雲寺と名を変え、ご本尊として十一面観世音菩薩を安置したという。このご尊像は建長3年創立当時の像で、仏師春日の作といわれている。 京浜急行青物横丁駅の隣の駅は地名をとって鮫洲という。昔、鮫のお腹から観音像が出てきたので、その地を鮫洲といった。その話を聞いた北条時頼が、その辺りにお堂を建てると、荒れていた海が静かになったという。そこで海晏寺という寺号にしたと伝えられている。そこは海雲寺が創建されたところで、この寺から西南に200mと離れていない。 ・・・。 16年振りの参詣である。駅前の魚屋で道を尋ねたら「わからないから他の人に聞いてみて」と東南アジア系の女性の元気な声が返ってきた。かつての江戸も、今は様々な人種の方々が行き交うグローバルな都市である。 江戸三十三観音巡礼 新妻久郎 / 218~223ページ より引用本寺である補陀落山 海晏寺に置かれた御堂から始まった霊場です。やはりというか、鎌倉からも近いということで、当初は臨済宗寺院だったみたいですね。16世紀末には曹洞宗となり、現在の寺号となったようです。宗旨は変われど、本尊は創建以来一貫して十一面観音だったようで、江戸三十三観音霊場の札所本尊にもなっています。いかがでしたでしょうか。禅宗寺院というよりは密教的な雰囲気のある寺院でした。東海道沿いの古刹は、人の生活になくてはならない火を司る神を鎮守とし、今でも崇敬を集めておりました。江戸三十三観音霊場のシメの札所として、是非ご参拝ください御詠歌龍吟じ 品川の海に雲おこり み仏の慈悲 ありがたきかな本尊:十一面観音 एकदशमुख今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・品川千躰荒神王 曹洞宗龍吟山海雲寺以上です。
2026年03月13日
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神奈川県座間市の入谷に境内を構えるは坂東八番の札所なり。この日は鎌倉を発ち横浜へ、總持寺はまわれたんですが平間寺の方は駐車場が混みすぎて断念しました。それからも地獄のような渋滞に巻き込まれ、三連休の関東という恐怖を知ることになるのです。数時間単位の渋滞をなんとか抜け出し、座間市に着いたのは午後2時頃でした。谷戸山公園という大きな公園の脇を通って坂を下り、線路を渡ると星谷寺と書かれた大きな看板が建っていました。そこに吸い込まれるかのように入り、駐車してそそくさと朱印所へ向かいます。書いてもらっている間に線香をあげ、身体健康を祈願しました。2026.1.11坂東三十三観音霊場八番札所:妙法山 星谷寺では見ていきましょう。大きな山門はありませんが、参道の起点には迫力のある仁王像が建っています。こうして見ると、参道は低木や古木などの緑が豊かだと分かりますね。参道左手に建つ白亜の鐘楼堂。現代風の堂宇ではありますが、そこに吊ってある梵鐘は東日本最古級のものなんです。見た目とのギャップが凄いですよね。説明書きです。国指定重要文化財 嘉禄三年紀 梵鐘 一口昭和42年6月15日指定銘文 陽鋳(浮き出し)相州 星谷寺奉鋳 鐘一口嘉禄三年丁亥歳次正月廿一日大勧進金剛佛子 秀毫大檀越沙弥 西願大檀那源朝臣 信綱大工源吉国勧進金剛弟子秀範総高:129.3㎝重量:384㎏解説 嘉禄3年(1227年)銘の本鐘は、全国現存の梵鐘の中で50番目、関東以北では茨城県土浦市の等覚寺の建永年間(1206~1207年)に次いで2番目に古く、鐘を撞く際の撞座が一箇所のみであることから、江戸時代より「奇鐘」として有名でした。 優雅な平安時代の面影を残すとともに、鎌倉時代の特徴も備え、金工史上重要なものです。 銘文中の人名は全てが明らかではありませんが、「源朝臣信綱」は、有名な近江源氏の総本家をついだ佐々木信綱であることが当市文化財保護委員会の調査によって明らかにされました。信綱の祖父や父は、源氏に従っていたので、平氏が政権をにぎると一族は滋賀県下の所領を奪われ、現在の大和市南部あたりに住んでいた渋谷重国の許で20年あまりすごしました。 やがて源頼朝が兵を挙げたとき、北条氏とともに最も活躍し、一族の子孫は滋賀県から中国地方にかけ勢力を誇りました。 信綱は、父祖の縁によって寄進者として名を連ねたと考えられます。本線は「東鑑(あずまかがみ、「吾妻鏡」とも)」などの文献にみえる佐々木氏の相模国在住を裏付ける物的資料として唯一のもので、日本史の上でも重要な資料といえます。今和2年11月 座間市教育委員会資料によっては東日本最古の梵鐘と言われているんですが、境内の説明書きでは2番目とのこと。土浦市の等覚寺の梵鐘も見てみたいですねぇ。梵鐘には大檀那(奉納者)として源信綱の名が刻まれています。この刻名が故で、信綱が相模に拠点を持っていたことが明らかになったんだとか。こうして歴史的な事象を裏付ける証拠が見つかるというのは非常に稀ではないでしょうか。そういった意味でも貴重な梵鐘です。更に参道を進みます。参道右手には弘法大師像が建っています。その隣には市指定重要文化財の”咲き分け散り椿”が生えていました。星の谷七不思議の1つらしいですよ。これ以外にも、昼でも星が見えるという”星の井”などの不思議があるんだとか。そんで更に隣には、かなり立派な宝筐印塔が建っています。こちらも市指定文化財になっていますが、その大きさ故でしょうか。手水舎。現役です。遠巻きに本堂を眺めてみます。宝筐印塔がデカすぎるせいで感覚がマヒしますが、こちらも十分に大きく立派な御堂です。御由緒です。妙法山 星谷寺真言宗大覚寺派開山:行基菩薩本尊:聖観音法華経読誦の声 小田急線座間駅で下車、徒歩6分ほどで星谷寺に着く。『風土記稿』に「其地は山叡幽邃にして清泉せん湲たり、星影水中に映じ、暗夜も白昼の如なれば土人星谷と呼べり」とあるのは、現在地より少し離れた所、今そこには「本堂」の地名が残っている。寺伝によれば天平年間(729~749年)僧行基が来錫、「見不知森」の中に法華経読誦の声を聞いた。よく見ると、それは古木の根洞におわす観音の声であった。このことを「かの法華経を読みたるは正しく此尊像にてましますかと、感涙墨染の袖を絞り、土人に対し件の由を告げ玉へば、老若競い来たりて拝念し頻りに大悲殿を営構して、感得の霊像を安置し奉る」と『坂東霊場記』は記している。観世音の尊像が法華経を誦していたというこの奇瑞はまことに宗教的な発想であり、法華経流布につながる開創縁起といえよう。だからこそ山号を妙法山というのであろう。 座間市一帯は古墳時代の遺跡が多く、早くから文化の開けた地域。観音信仰の伝来も容易に受け入れたものと思われる。それに星影が水中に留まるという自然の瑞相、 一般に池泉の神秘によせる素朴な伝承は、寺院の開創にとって有力な条件であり、ここもそれらによって開かれたのである。撞座一つの梵鐘 創建より数百年を経て鎌倉時代の兵乱に伽藍の多くを失い、相模野の野火に観音堂を全焼するという悲運を迎えた。その時、本尊は火中より飛び出し給い、南の方600mほど離れた樹上に止り、光明を放たれたという。時の住僧理源が「南方補陀落山は大悲観世音の浄土なり、今や本尊南の方へ飛移り玉ふは度生有縁の地ならんと即ち其の地を占て殿堂を中興」(坂東霊場記)したのが今の霊域であるという。この話は信徒が本尊を火災から守って運び移したことをいうのであって、そこにここの観音さまによせる在地の人々の深い帰依を知る。すなわち旧堂から南の地、今の場所に本堂が再建されたのである。 のちに歴代北条氏の篤い保護をうけ、永正16年(1519年)箱根別当領目録には「十一貫五百文、ほしのや寺ぶん」とみえており、また徳川家康によって座間郷に寺領の寄進をうけてきた。 仁王門から境内に入ると右手に沙弥西願によって嘉禄3年(1227年)に勧進鋳造された梵鐘をかけた鐘楼がある。「相州星谷寺、大檀那源朝臣信綱、大工源吉国」との銘がある。東日本最古の鏡であるが「撞座が一つ」というのがめずらしい。平安時代の作風をとどめながらも、鎌倉期の形態をすでに完成しており、各部にせん細な特色をみせている名鐘といわれている。この鐘によって鎌倉期のこの寺の繁栄が偲ばれる。 この鐘と星の井・楠の化石・観音草・不断開花の桜・咲き分けの椿・根下り紅葉とを合わせて「七不思議」というが、乳房のように垂れた老木が今、本堂の中にあり、これに触れると乳の出が良くなるという「根下り紅葉」、これなど悲母観音の誓いに通ずるもので、庶民の願いの純粋さを物語っている。また「星の井」は夏になると井戸の内側に草が茂って、それを通す光が星のように水面に光るのだなどと分析せずに、観音さまの霊異と受け取りたい。不信の者には見えぬとか。 江戸から大山まで18里、徒歩で2日がかり、享保年間に「大山講」が設けられ、宝暦年間には約20万人の参詣を見たというが、その頃、この星ヵ谷寺も観音巡礼で大いに賑わったものと考えられる。観音さまのお加護で「旅」ができるというので民衆は喜んで札所を巡ったことである。朱鷺書房 改訂新版 坂東三十三所観音巡礼 60~65ページより抜粋行基菩薩開創と伝わる古刹です。面白い開創譚が伝わっていますが、これにも見える様に、何故か行基開創の霊場には木にまつわる話が多いような気がします。二戸の天台寺、須賀川の白山寺に於いても、木の洞に観音像を祀っただの、木の根元から清水が湧くだの枚挙にいとまがありません。関東にも中部にも行基菩薩開創の霊場は多いので、それらの巡礼を通して探っていきたいテーマです。本堂の彫刻も良し。特に懸魚の鳳は迫力あります扁額です。本堂左手には本坊へと続く山門があります。この脇に社務所があり、そこで各種手続きが可能です。ここの御朱印やお守りのシステムは面白く、自販機で商品名が記載された札を購入後、カウンターにて手続きするという現代的な方法なんです。斜めから。流石坂東札所といった感じの風格、なかなかに見ごたえがありました。ちなみに今年は坂東も秩父もご縁年、御開帳の年です。この年に関東至近に住めるという計らいは、この先の人生に於いて二度とないかも知れません。この好機を逃さずに、巡礼に精を出していきたいです。・・・しばらくは金欠で遠征は出来そうにないですが、また軍資金をしっかりと稼いで、どんどん古刹・古社をまわっていきますよ!御詠歌障りなす 迷ひの雲をふき払ひ 月もろともに 拝む星の谷本尊:星の谷観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。以上です。
2026年03月12日
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誰が呼んだか東北三阿弥陀堂。かつての陸奥国内に現存する、平安時代建立の3つの阿弥陀堂をそう呼びます。何れも奥州藤原氏やその縁者によって建立されたもので、有に900年以上もの歴史を持つ古刹中の古刹なんです。国宝2点、重要文化財1点とそうそうたる顔ぶれで、特に巡礼とかではないんですが、とてもまわり甲斐のある霊場です。北は平泉、南はいわきとかなりの距離を移動しなくてはいけません。こうしてみると、当時如何に奥州藤原氏の支配域が広かったのかを思い知らされます。一説には津軽も勢力圏に含まれていた様で、もしかすると陸奥国全土を掌握していたのかも知れません。話が長くなりましたが、歴史ある古阿弥陀堂を見ていきましょう東北三大阿弥陀堂平泉町:関山 中尊寺 金色堂区分:国宝建立者:奥州藤原氏初代清衡公建立年代:天治元年(1124年)霊場記事・特別霊場之一:関山 中尊寺 ①中心堂宇 天台宗東北大本山冠する名刹角田市:勝楽山 高蔵寺 阿弥陀堂区分:国指定重要文化財建立者:奥州藤原氏 または 安倍氏建立年代:治承元年(1177年)霊場記事・角田市:勝楽山 高蔵寺 宮城県最古の阿弥陀堂いわき市:菩提山 無量寿院 願成寺 白水阿弥陀堂区分:国宝建立者:平成衡の妻 徳尼(藤原清衡の娘)建立年代:永暦元年(1160年)霊場記事・いわき市:菩提山 無量寿院 願成寺 極楽浄土を模した古阿弥陀堂以上です。
2026年03月10日
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温泉で名高いいわき市湯本。江戸情緒が残る古湯 さはこの湯や、湯の神を祀る温泉神社など、まわり甲斐のある地域です。そんな湯本の町から一駅北に進みますと、こんどは平安の昔が息づく歴史の町 内郷に到着です。中心地から更に西の山地に向かうと、奥州藤原氏とも関係のある白水阿弥陀堂が堂々と建っています。今回はそんな白水阿弥陀堂とその別当を一気に見てみたいと思います。秋も深まる10月初頭、いわき市の式内社7社を巡り、次いでこの古刹もめぐることに。境内を目指していると、名も知らぬ小川に赤く古めかしい橋が架かっております。この橋は阿弥陀橋と呼ばれ、これを渡ればもう阿弥陀如来のお膝元(白水阿弥陀堂の境内地)に到着です。土手にはこれでもかと咲き誇る曼殊沙華。秋ならではの絶景に、思わず笑みがこぼれます。地図でそれぞれの位置を確認しておきましょう。阿弥陀橋の奥に阿弥陀堂、脇に別当(本坊)があるみたいです。周辺には不動堂や鐘楼堂もあるんですが、そちらの方は気づかずにまわり損ねてしまいました。ということで、まずは本坊の方から見ていきたいと思います。2024.10.6菩提山 無量寿院 願成寺石造りの寺門が参道の起点になっています。奥には山門を臨み、そこに至るまでの道の両脇には数多の墓が立ち並びます。この地域の住民の菩提寺であることは言うまでもなく、まさに山号通りといった感じです。六脚で切妻屋根を背負っています。木の色合いからしても、最近建立されたものだと思われます。本堂です。両脇に松や低木が生え、何とも風流な感があります。装飾は少なくシンプルな外観で、雰囲気は完全に禅宗です。御由緒を見てみましょう。菩提山 無量寿院 願成寺真言宗智山派開山:智徳和尚開基:平成衡の妻 徳尼(藤原清衡の娘)本尊:金剛界大日如来 草創・開山の史実を知る資料はないが、菩提山護法録によれば古く白水寺が、阿弥陀堂建立の永暦元年(1160年)以前既に、天台宗比叡山延暦寺の直末であった。 永承6年(1051年)、桓武平氏 平繁盛の孫に当る平成衡は、前九年の役に源頼義に従って陸奥にくだり、安倍頼時を討伐した。その軍功で康平5年(1062年)、後冷泉天皇より陸奥の国に岩城五郡を拝領し、岩城領主になり、岩城一族の祖となる。 成衡没後、妻 徳尼(藤原清衡の娘)は永暦元年(1160年)に亡夫の冥福を祈り、時の白水寺住職智徳和尚に帰依し、私財を投じて阿弥陀堂を建立し、周辺を浄土庭園とした。此の時菩提山 無量寿院 願成寺と改号したと見られる。開山主として前述の智徳和尚を立て、徳尼は開基となった。文治年間(1185~1189年)に、後鳥羽天皇から勅願寺の宣を受け、建久元年(1190年)、源頼朝は征夷大将軍を拝命後、深く当寺に帰依し、寺領を授けている。慶安元年(1648年)、徳川三代将軍家光は、御朱印十石の寺領を与え、以後歴代将軍がこれを継続している。 堂宇は願成寺棟札文の写しから、修造の年代を知るが、寺と阿弥陀堂の区別は不明である。正応4年(1291年)正月15日に再修理をしたが破壊し、元応3年(1321年)2月に修造する。また文和2年(1353年)11月15日に修理し、応永20年(1413年)2月15日に再々修理を加えた。 次の修繕は文明18年(1486年)2月21日に実施したと記している。本堂の方は元禄年間(1688~1703年)火災の為全焼し、昭和14年(1941年)に再度火災にあって焼失している。現在の本堂は昭和19年(1946年)に再々建されたものであり、前住職 興栄和尚が当たった。阿弥陀堂は明治の廃仏毀釈で、一時無住となり荒れるに任せたが、本尊他仏像は大越庄平・大越喜平両氏の保管により損失の難を避けた。 明治28年(1895年)赤井嶽山主旭 純栄師が当寺を兼務し、惨状救済の為内務省に修理を申請し修復した。明治36年(1903年)1月、暴風で半ば倒壊の状態になったが、既に前年7月国宝の指定を受けていたため、直ちに修築に着工し翌37年5月に竣工している。更に昭和10年(1935年)にも修理を加え、現在に維持されている。 一方浄土庭園は、昭和37年往古の庭園の全貌が解明され、昭和47年(1973年)、復元に着手した。現在昭和53年(1978年)、内苑復元を完了したが、今後外苑復元に入る。現在境域も国指定の史跡である。 願成寺本堂内に安置される本尊は、現宗派(真言宗)の大日如来像で作者不詳、江戸時代のものといわれる。当寺には市指定重要文化財である経文(法華経)の印刷用版木(下半分)が残されている。桜材・長さ84㎝、巾10.9~13.2㎝、厚さ1.9㎝のもので、楷書で彫ってある。末尾に刊記「印判藤原氏女」と刻まれ、後に同作版木から上に「当巻」の二字があった事が判明している。版式は中世に開版された春日版に属し、かつて陸奥国には印刷文化がなかったとされたものが、この版木で存在が明らかになった。製作は、元享3年(1323年)6月で、開版に重要な役割を果たした比丘善来(僧)は、住吉の保福寺・湯本惣善寺の仏像勧進者である。 当寺の境外仏に、磐城三十三所観音霊場 第四番札所「吊しの観音」がある。白水川弥勒橋に近い川下の岩層の中段に石宮が置かれ、小さな聖観音像が祀られている。此の石宮(石祠・石堂)は相当年代の古い貴重なものである。 阿弥陀堂バス停から隧道寄りに不動堂があり不動明王が祀られる。夜泣き症に功徳のある仏として信者が多い。犬に姿を変え幼児を救うといわれ、ぬいぐるみの犬が奉納される。この堂の後の途を昇ると、高野山遍照光院旧跡がある。 弘法大師が東北巡錫の途時ここに立寄り一刀三礼(一彫毎に三度仏を拝む)の不動明王を祀ったと伝えられる。天正2年(1574年)、純諭僧正は大師堂・女人堂・賽の河原地蔵堂を造営し、多くの信者に応えたという。由緒の霊地高野山の再興を発願した興栄老僧と現住職一家は、枯山水の河原庭園・凝念の底など諸堂を造り整備を急いでいる。 毎年8月24日の夜は、地蔵盆といい、水子万灯供養が実施される。万本の信者の燈明に霊地は、一層深い信仰への場と変わる。国宝指定の阿弥陀堂は願成寺の金堂として、平安時代後期浄土信仰の興隆にともなって建てられた。極楽浄土伽藍とも呼ばれ、貴族階級の寝殿造庭園をもとに、池泉と自然の風物を融合させた広大な庭である。流水を引き入れる遺水・中島・板橋・匂欄橋を取り入れ荒磯風の立石を配している。阿弥陀如来は極楽浄土の主であり、地嶽は地下に、極楽は水上にある連想を、現世に現わしている。 堂の屋根は美くしい匂配に、ゆるやかな反りが調和した方形造(宝形造)。末端に行って心持ち競り上がりを見せ水平で深い軒下に組まれた斗拱(斗は桝・拱は肘木)は一手先組の出組で、美事な総体の安定感を見せる。桧の柿葺(手の平大の薄板)の屋根、扉は和様の板唐戸である。中に入ると内陣を仕切る4本の円柱の来迎柱(四天柱)があり、半球形の丸鋲と宝相華紋を配した飾金具が打たれている。 黒漆塗の須弥壇上に国重文の阿弥陀如来・観音菩薩の三尊と持国天・多聞天の二天、5体が安置される。上を見上げると天井は折上小組格天井で、小格子の中に宝相華が絵描かれている。天井を支える内法長押の外部にも、宝相華唐草紋様が描かれていたが剝落がはげしい。正面の長押の下に建立当時の繧繝彩色を再現した電飾あんどんがあり往古を偲ばせてくれる。仏像背面の来迎壁には九品の阿弥陀来迎図が施されていたとされる。 その他来迎壁裏側及四囲の板壁にも極楽浄土を表わす装麗極美の彩色絵が配されていた。 本尊について菩提山護法録に、「行基菩薩の作で平泉の如来と一作である」、と記している。いわきの寺 68~70ページ より引用奥州藤原氏の縁者による建立という事で、当初は天台宗だったようです。当時としては辺境の地であった奥州でも、天台宗は盛んに信仰されていたようです。山がちな地形が功を奏してか、天台系(熊野系?)の修験が入り込み、各地に霊場が開かれていきました。そうした霊場の多くは、慈覚大師や行基菩薩の開創譚をうたっており、彼らの影響力の強さを伺い知ることができます。やはりというか、歴史の長い寺院は栄枯盛衰を繰り返すのが常ですが、この寺院もそうであり、幾たびもの修繕や援助を受けて現代まで命脈を繋いでいます。本堂に懸かる寺号額です。陸軍大将 板垣征四郎によって揮毫されたものです。堂内には本尊:金剛界大日如来を収めた荘厳な厨子が置かれています。護摩壇もキレイです。本堂右手には不動尊と弘法大師。斜めから。真言宗の古刹、願成寺でした。白水阿弥陀堂の本坊として、威風堂々の境内です。奥州藤原氏関連の寺院は廃寺になっているものが多いんですが、こうして現存しているところもあります。ひとえに地域住民の方々・歴代の方丈さん達の努力のたまものでしょうね今回貰った御朱印です。次はいよいよ阿弥陀堂を見ていきましょう。本坊の願成寺から徒歩数分、満面の水を湛えた池の上に、浮嶋がちらほら。それらを繋ぐようにアーチ型の橋がかかり、その奥に阿弥陀堂の屋根がチラ見えしていますね。浄土庭園と言うと、奥州では平泉の医王山 毛越寺のものが有名ですね。あちらも現世に極楽浄土を再現せんとした奥州藤原氏によって建立されたものです。戦死者の鎮魂と、今を生きる人々の救済とを願い、こうした霊場が奥州各地に作られたんでしょうね。橋を渡ると拝観受付があり、そこで御朱印をいただけます。浜のすぐ側に丁度良い大きさの岩が配置されています。磯を表現していると聞いたことがありますが、どうなんでしょう。池が凪いでいて、水面に鏡写しの様に色付いた木々が並ぶ様は風流の極みです。白水阿弥陀堂が見えてきました。なんとも言えない色合いの木材が、時代の風雪を耐え忍んできたことを表していました。途中にはこんな地蔵尊像も。石が幾重にも積まれており、賽の河原の風情が感じられます。近くで阿弥陀堂を眺めてみます。説明書き通り、何とも言えない絶妙な角度の屋根です。阿弥陀如来から放たれる無量の光が、背の一点で収束するように、この屋根も頂部の粽部分に寄り集まり、日本建築の美とは何ぞやという問いに対する一つの答えを出しています。堂内に入ると、中央須弥壇に黒く色あせた阿弥陀如来像が座しています。光背までもが輝きを失い、荘厳と言う表現をするには難しい状態でした。ですがなんでしょう、ジッと見つめていると、不思議と惹きつけられてしまうんです。その穏やかな表情のせいでしょうか、それとも数百年の歴史の重みからでしょうか、とにかく独特の色気ともいえるものが感じられます。蓮台は幾重にも重なる花びらから成り、そこにどっしりと腰を据えて座している阿弥陀像を見ていると、日々の不安や焦燥が霧散していく感が味わえます。カタルシスのようなものでしょうか。直に見ることを強くおすすめします。阿弥陀堂本尊や願成寺の寺宝などは、↓の書籍にてご覧になれます(カラー)。※ご覧になるには国立国会図書館デジタルコレクションのサービスに登録しなくてはいけません(無料)。ご覧になれるのは登録後1週間が経ってからですので、お早めにご登録ください。・いわきの寺 70.71ページ斜めから。戦乱の絶えない時代に、浄土を再現した庭園と共に建立された白水阿弥陀堂。現世救済の願いを託された古刹は、幾度もの倒壊を乗り越え、今でも威風堂々たるその姿を見せてくれます。いわきを代表する古刹、まわらない手はありません今回貰った御朱印です。以上です。
2026年03月10日
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ここでは、これまでまわった寺院・仏閣を各宗派ごとにまとめています。その際、寺院の本末関係が分かる場合は、箇条書き且つインデントを1つ下げております。例としては・・・總持寺末寺:正法寺末寺:寶鏡寺末寺:耕雲寺のようになっています。この場合インデントが高い方が本寺、低い方が末寺となります。總持寺の直末は正法寺・耕雲寺で、寶鏡寺は總持寺の孫末・正法寺の末寺ということになります。インデントの高さが、1つの指標となっておりますので、それで判断してください。そして宗派の草創時期に併せて↓の様に、複数ページに分けて記載しています。気になるものからご覧になってみてください。平安仏教(天台宗諸派・真言宗諸派)各宗派の本山と末寺 平安仏教編鎌倉新仏教(浄土宗・浄土真宗諸派・時宗・日蓮宗・臨済宗諸派・曹洞宗)各宗派の本山と末寺 鎌倉新仏教編その他・諸宗(慈恩宗・聖観音宗・黄檗宗・無宗派・単立仏閣)各宗派の本山と末寺 その他・諸宗編以上です。
2026年03月10日
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これまでまわった寺院を現行の宗派ごとにまとめてみました。本末関係が分かる場合はそちらも併せて載せたいと思います。本末関係といっても使用する資料は古めであり、現在の状態を必ずしも反映できているわけではありませんので、あくまでも参考までにご覧ください。それでも寺院間の関係性が見えて来て面白いのではないでしょうか※記事を書いたものから順次載せていきます。まわったけれども記事を書いていない寺院は載らない場合があります。各宗派の総本山・大本山は参拝できていないものには未と付いています。・・・というか殆どまわれていないので、未がついていないものの方が少ないですが。下に列挙している宗派も、主に東日本と関係があるものが殆どで、京都などに勢力を持つものは、もしも参拝出来たら順次載せていきたいと思います。・の下に一段落下がって付いている”・末寺”と書かれたものが末寺と堂宇です。諸寺院には総本山から直接本末関係を辿れない寺院などをまとめています。基本的に●のついている寺院(総本山から本山まで)は写真を付けたいと思っていますが、それ以外の寺院でもあまりにもお気に入り・素晴らしいものは写真付きで載せたいと思います。その辺の基準は僕がどれだけ贔屓しているかによります2026.1.1特に旧南部藩領の寺院に関しては↓の資料を基にしています。こちらの出版年自体が1973年と結構昔で、現在の状況とは食い違っている部分もあると思われますが、あくまでも参考ということで・・・。藩内のほぼ全ての寺院(18世紀までに創建されたもの)が列挙されており、かなり助かりました。種本の著者である故 横川良助氏、編纂に携わった全ての方に感謝を捧げます。●岩手史叢 第1巻 / 奥南旧記抜萃 / 寺社修験本末支配之記著者:岩手県立図書館 編出版者:岩手県文化財愛護協会出版年月日:1973年2026.1.31曹洞宗の寺院の本末関係は總持寺所蔵の”延享度曹洞宗寺院本末牒”が参考になりそうです。全国の曹洞宗寺院の本末関係が記されているんですが、いささか読むのに根気が要ります。後々これに基づいて編集していきたいと思います。●延享度曹洞宗寺院本末牒出版者:名著普及会出版年月日:1980年8月各宗派の本山と末寺 鎌倉新仏教編浄土宗総本山●京都府京都市:華頂山 知恩教院 大谷寺 未大本山●東京都港区:三縁山 広度院 増上寺 二十一番札所:三縁山 広度院 増上寺 西向観音堂 大伽藍と石の古仏末寺:岩手県盛岡市:亀通山 霊井院 大泉寺末寺:青森県五戸町:一向山 無量院 専念寺 五戸町:一向山 無量院 専念寺 仏沼から引き揚げられし御仏像末寺:青森県八戸市:紫雲山 来迎寺 一番札所:紫雲山 来迎寺 今は無き如意輪観音、焼け残るゆび観音堂宇:青森県八戸市:二十八日町地蔵堂 三十三番札所:二十八日町地蔵堂 直房公お抱えの地蔵堂と子安観音末寺:青森県八戸市:凉雲山 浄生寺 十六番札所:凉雲山 浄生寺 新井田の上の寺、浄生院の観世音末寺:青森県八戸市:法海山 天聖寺 五番札所:法海山 天聖寺 八戸の街中に座す名刹末寺:青森県八戸市:長者山寺(廃寺) 六番札所:長者山寺(廃寺) 今は無き、長者の小庵末寺:東京都文京区:東光山 見性院 定泉寺末寺:東京都文京区:湯嶹山 常光院 浄心寺●神奈川県鎌倉市:天照山 蓮華院 光明寺 末寺:大異山 高徳院 清浄泉寺●長野県長野市:定額山 善光寺 大勧進●京都府京都市:紫雲山 金戒光明寺 未●京都府京都市:長徳山 功徳院 百萬遍知恩寺 未●京都府京都市:清浄華院 未●福岡県久留米市:井上山 光明院 善導寺 未諸寺院青森県青森市:金台山 紫雲院 浄満寺 二十番札所:金台山 紫雲院 浄満寺 奥州街道の終点に座す油川の名刹末寺?:青森県青森市:仏法山 護念院 清岸寺青森県青森市:鷲尾山 佛宝院 当古寺 二十四番札所:鷲尾山 佛宝院 当古寺 奥州街道沿いの古仏擁する寺青森県板柳町:無量山 功徳院 大善寺 三十七番札所:無量山 功徳院 大善寺 子授けの伝説持つ地蔵尊、大善寺末寺:青森県木造町:出里山 無量院 七十八番札所:出里山 無量院 観音堂 土手から臨む大伽藍と観音堂青森県大鰐町:阿闍羅山 専稱院六十二番札所:阿闍羅山 専稱院 信仰の山、阿闍羅山麓のお寺津軽龍神霊場:十和田神社(阿闍羅山) 大鰐の霊山に祀られし十和田龍神明王青森県五所川原市:円通山 光明院 専念寺 一番札所:円通山 光明院 専念寺 打ち始め、津軽は広田の専念寺青森県つがる市:広大山 知恩院 浄円寺末寺:青森県木造町:十方山 光照寺青森県鶴田町:蓮池山 称光寺 三十八番札所:蓮池山 称光寺 駅裏の名刹、称光寺青森県浪岡町:行丘山 西光院青森県弘前市:月窓山 栄源院 貞昌寺末寺:青森県金木町:朝日山 照蓮院 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海満寺十四番札所:無縁山 観音院 海満寺 観音堂 海満たす無縁仏を弔わん 津軽西浜ここは観音院十八番札所:無縁山 観音院 海満寺 観音堂 船人供養の観音堂末寺:青森県市浦町:十三山 湊迎寺末寺:青森県つがる市:屏風山 正安寺末寺:青森県外ヶ浜町:一向山 悟真院 専念寺末寺:青森県弘前市:諸光山 竜泉寺 未末寺:青森県青森市:無量山 引接院 正覚寺 二十二番札所:無量山 引接院 正覚寺 青森市街に立ち続ける古寺末寺:青森県青森市:一光山 摂取院 阿弥陀寺 二十三番札所:一光山 摂取院 阿弥陀寺 青森市内屈指の美麗山門末寺:青森県青森市:善知鳥山 安方院 一念寺 青森市:善知鳥山 安方院 一念寺 善知鳥の怨念供養する古刹末寺:青森県青森市:矢倉山 観音寺 二十五番札所:矢倉山 観音寺 奇岩取り巻く三十三観音末寺:青森県五所川原市:千立山 願昌寺 八十六番札所:千立山 願昌寺 徳本上人の念仏供養塔が残る寺院末寺:青森県弘前市:無一山 専求院 五十八番札所:無一山 専求院 有名な閻魔・奪衣婆の像有する寺院末寺?:青森県つがる市:広須山 開地院 長福寺末寺:青森県木造町:廣長山 蓮光寺末寺:青森県むつ市:不退山 常念寺 二十四番札所:不退山 常念寺 下北一の阿弥陀如来坐像末寺:福島県桑折町:大悲山 弘誓院 観音寺 十二番札所:大悲山 弘誓院 観音寺 観音堂 2躰の聖観音護持する桑折の古刹福島県小野町:東堂山 満福寺 九番札所:東堂山 満福寺 観音堂(東堂山観音堂) 個性的な羅漢像と巨大な観音堂栃木県益子町:大澤山 虎渓院 圓通寺東京都江東区:道本山 東海院 霊巌寺 五番札所:道本山 東海院 霊巌寺 松平定信の菩提弔う寺の地蔵尊東京都新宿区:霞関山 本覚院 太宗寺 四番札所:霞関山 本覚院 太宗寺 霞ヶ関に座す地蔵尊東京都墨田区:諸宗山 無縁寺 回向院東京都台東区:化用山 常照院 浄念寺 未末寺:青森県小泊町:権現山 光成院 十二番札所:権現山 光成院 集落唯一の寺院、光成院東京都文京区:東梅山 花陽院 清林寺東京都文京区:無量山 寿経寺 傳通院東京都港区:三田山 水月院 魚籃寺東京都港区:周光山 長寿院 済海寺東京都港区:来迎山 道往寺山梨県甲府市:定額山 浄智院 善光寺 一番札所:定額山 浄智院 善光寺 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三門(仏殿は工事中~2028.8まで)法堂(横から)方丈前の唐門末寺:福島県玉川村:白華山 巌峯寺 十三番札所:白華山 巌峯寺 観音堂 陸奥石川氏の元菩提寺、白き花咲く観音堂諸寺院臨済宗円覚寺派大本山●神奈川県鎌倉市:瑞鹿山 円覚興聖禅寺 三門開基廟仏殿末寺:福島県須賀川市:獅巌山 普應寺 未末寺:福島県須賀川市:小倉山 大慈寺 十一番札所:小倉山 大慈寺 観音堂(島巡り観音堂) かつての名前を背負いし観音堂末寺:福島県須賀川市:埋平観音堂(廣澤山 甘露寺)臨済宗南禅寺派大本山●京都府京都市:瑞龍山 太平興国南禅禅寺 未諸寺院東京都港区:勝林山 金地院 二十八番札所:勝林山 金地院 家康公お抱えの僧が開いた禅寺臨済宗妙心寺派大本山●京都府京都市:正法山 妙心禅寺 未末寺:青森県八戸市:臥龍山 禅源寺 九番札所:臥龍山 禅源寺 根城南部時代よりの古刹、禅源寺末寺:青森県八戸市:月溪山 南宗寺 八番札所:月溪山 南宗寺 八戸南部氏の菩提眠る名刹末寺:岩手県盛岡市:大光山 聖寿寺 未末寺:青森県三戸町:福壽山 三光寺 未諸寺院宮城県松島町:松島青龍山 瑞巌円福禅寺番外札所:松島青龍山 瑞巌円福禅寺 伊達に庇護されし松島浦の大霊場二十八番札所:瑞巌寺五大堂 松島鎮護の明王祀る古き御堂六番札所:松島青龍山 瑞巌円福禅寺 三聖堂 遥かな旅の末、松島に往した聖観音参道周辺の石刻遺跡国宝の本堂宮城県松島町:富春山 大仰禅寺福島県会津美里町:左下山 観音寺 二十一番札所:左下山 観音寺(左下観音堂) 会津の名刹、懸造の観音堂福島県福島市:香積山 天王寺福島県柳津町:霊厳山 圓藏寺千葉県香取市:寶雲山 大龍寺 未末寺:山形県山形市:寶雲山 大龍寺 未末寺:福島県会津若松市:宝雲山 大龍寺山梨県甲州市:乾徳山 恵林禅寺 九番札所:乾徳山 恵林禅寺 禅の世界を表す晴信公菩提寺山門 安禅不必須山水 滅却心頭火自涼大伽藍末寺?:山梨県甲州市:大雄山 岩松禅院 甲州市:大雄山 岩松禅院 2躰の地蔵尊護持する禅寺静岡県浜松市:萬松山 龍潭寺 浜松市:萬松山 龍潭寺 浜名湖北部の山間部に境内を置く大古刹美しの本堂美しの庭園臨済宗向嶽寺派大本山●山梨県甲州市:塩山 向嶽寺 臨済宗方廣寺派大本山●静岡県浜松市:深奥山 方廣寺 三門大本堂奥山半僧坊権現堂曹洞宗大本山(旧含む)●岩手県奥州市:大梅拈華山 圓通 正法寺 奥州市:大梅拈華山 圓通 正法寺 奥州の山奥に鎮座する曹洞の古刹本堂と庫裏末寺:岩手県一関市:龍雲山 大祥寺末寺:宮城県石巻市:両峰山 梅渓寺末寺:宮城県気仙沼市:金仙山 圓光 寶鏡寺末寺:宮城県気仙沼市:白華山 補陀寺 三十番札所:白華山 補陀寺 観音堂 落ち着いた境内に建つ六角形の観音堂末寺:宮城県登米市:法輪山 大慈寺 十四番札所:法輪山 大慈寺 火伏の奇祭が行われる古刹末寺:宮城県登米市:太白山 長承寺●神奈川県横浜市:諸嶽山 總持寺 横浜市:諸嶽山 總持寺 大都会に開かれた禅刹の根本地末寺:青森県平内町:東方山 東福寺 二十一番札所:東方山 東福寺 福館城主が納めた延命地蔵尊とかっぱの物語末寺:岩手県金ヶ崎町:報恩山 永徳寺 未末寺:秋田県秋田市:亀像山 補陀寺 未末寺:秋田県大館市:鳳凰山 玉林寺末寺:秋田県能代市:高岩山 梅林寺末寺:秋田県能代市:萬年山 長慶寺末寺:秋田県湯沢市:大乗山 最禅寺 未末寺:宮城県登米市:舎那山 長谷寺 未末寺:山形県大石田町:黒瀧山 向川寺 未末寺:山形県鶴岡市:伝灯山 正法寺 未末寺:山形県山形市:解大山 安養寺 未末寺:宮城県名取市:那智山 紹楽寺末寺:山形県山形市:清水山 耕龍寺 六番札所:清水山 耕龍寺 観音堂 蔵王西麗、平清水の里の観音堂末寺:山形県遊佐町:劔龍山 永泉寺 未末寺:福島県喜多方市:護法山 示現寺 未末寺:福島県白河市:法石山 常在院 未末寺:福島県三春町:秋田山 龍穏院 未末寺:茨城県笠間市:恵日山 龍穏院 未末寺:栃木県那須烏山市:五峰山 大寂院 泉渓寺 未末寺:千葉県市川市:安國山 總寧寺 未末寺:岩手県陸前高田市:無量山 光照寺 未末寺:宮城県角田市:髙源山 長泉寺 未末寺:山形県真室川町:三弘山 正源寺 未末寺:福島県須賀川市:廣福山 長禄寺 未末寺:茨城県笠間市:五台山 玄勝院 未末寺:茨城県五霞町:六国山 東昌寺 未末寺:青森県むつ市:吉祥山 円通寺 一番札所:吉祥山 円通寺 慈眼堂 下北地域の中心的な古刹末寺:青森県佐井村:祥巖山 長福寺末寺:青森県東通村:禅定山 法林寺末寺:青森県むつ市:圓祥山 大安寺末寺:青森県むつ市:恐山 菩提寺 三十三番札所:恐山 菩提寺 本州最北の大霊場末寺;青森県むつ市:月照山 清澤寺末寺:青森県むつ市:獨峰山 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海雲寺 番外札所:龍吟山 海雲寺 竈の神と数百年の歴史有する十一面観音末寺:富山県富山市:常在山 自徳寺 未末寺:石川県羽咋市:洞谷山 永光寺 未末寺:山梨県富士川町:補陀山 南明寺末寺:山梨県市川三郷町:滝沢山 光岳寺 未末寺:山梨県身延町:巌龍山 慈観寺 未末寺:山梨県身延町:金松山 静仙院 未末寺:山梨県身延町:金龍山 常幸院 未末寺:山梨県身延町:龍湖山 方外院 未末寺:石川県輪島市:普藏院(總持寺山内寺院・現存していない)末寺:福島県いわき市:禅勝山 龍門寺 未末寺:福島県田村市:萬歳山 入水寺 八番札所:萬歳山 入水寺 観音堂(入水観音堂) 日ノ本一ヶ寺の珍しい寺号の寺院末寺:石川県輪島市:妙高庵(總持寺山内寺院・現存していない)末寺:神奈川県南足柄市:大雄山 最乗寺 未末寺:群馬県渋川市:最大山 春日院 雙林寺 未末寺:東京都板橋区:萬吉山 宝持寺 松月院 未末寺:埼玉県秩父市:三峰山 金剛院 未末寺:群馬県高崎市:大田山 良悟院 金龍寺 未末寺:埼玉県熊谷市:萬頂山 集福寺 未末寺:東京都豊島区:萬頂山 高岩寺 豊島区:萬頂山 高岩寺 万病平癒の観音と地蔵が居す寺院末寺:群馬県藤岡市:永源寺 未末寺:東京都文京区:諏訪山 吉祥寺 未末寺:東京都台東区:萬年山 祝言寺 未末寺:東京都台東区:洞雲山 東禅寺 二番札所:洞雲山 東禅寺 街なかに座する地蔵尊末寺:埼玉県越生町:長昌山 龍穏寺 未末寺:神奈川県南足柄市:大慈院(最乗寺山内寺院・現存していない)末寺:静岡県伊豆市:妙高山 最勝院 未末寺:山梨県甲府市:増福山 興因寺 末寺:山梨県甲斐市:般若山 金剛寺末寺:山梨県甲府市:長徳山 福寿院 末寺:山梨県甲府市:長松山 恵運院 末寺:山梨県韮崎市:萬松山 宗泉院 未末寺:山梨県韮崎市:海詠山 龍珠院 末寺:山梨県甲府市:古城山 興国寺 末寺:山梨県韮崎市:醫王山 正福寺 未末寺:山梨県韮崎市:武隆山 常光寺末寺:山梨県韮崎市:蕃竹山 大公寺末寺:山梨県北杜市:鳳凰山 高龍寺 末寺:山梨県北杜市:朝陽山 清光寺末寺:山梨県韮崎市:金龍山 光明寺 末寺:山梨県北杜市:雨寶山 泉龍寺 未末寺:山梨県北杜市:台原山 龍福寺 末寺:山梨県北杜市:徳雲山 龍岸寺末寺:山梨県北杜市:長松山 萬休院末寺:山梨県北杜市:霊長山 清泰寺末寺:山梨県南アルプス市:秀巌山 龍澤寺 未末寺:山梨県山梨市:信光寺 未末寺:山梨県北杜市:陽谷山 正覺寺末寺:山梨県南アルプス市:天沢山 深向院末寺:山梨県山梨市:耕雲寺 未末寺:山梨県山梨市:金峰山 洞雲寺 未末寺:山梨県笛吹市:妙亀山 廣巌院 三十五番札所:妙亀山 廣厳院 甲斐曹洞宗の大寺、廣厳院末寺:山梨県甲斐市:巨鼇山 天澤寺末寺:山梨県甲斐市:天台山 羅漢寺 六十四番札所:天台山 羅漢寺 山岳信仰と修験の地に建つ古寺末寺:山梨県甲府市:吉国山 龍華院 末寺:山梨県甲斐市:有富山 慈照寺末寺:山梨県甲府市:悟道山 安国寺 末寺:山梨県甲府市:天童山 福寿院末寺:山梨県甲府市:徳昌山 報恩寺 未末寺:山梨県中央市:吉久山 三星院 未末寺:山梨県中央市:富田山 歓盛院末寺:山梨県中央市:豊田山 永源寺末寺:山梨県笛吹市:金富山 龍安寺 末寺:山梨県富士河口湖町:石花山 龍泉寺 富士河口湖町:石花山 龍泉寺 古雅が出で立ちの湖畔の寺院末寺:山梨県都留市:大儀山 長生寺 未末寺:山梨県笛吹市:萬亀山 向昌院末寺:山梨県笛吹市:正法山 常楽寺 末寺:山梨県山梨市:龍石山 永昌院末寺:山梨県山梨市:蟹沢山 長源寺末寺:山梨県山梨市:吉国山 宗禅寺末寺:山梨県南アルプス市:大神山 傳嗣院末寺:山梨県南アルプス市:江悳山 隆昌院 未末寺:山梨県南アルプス市:充冨山 隆円寺 未末寺:岐阜県関市:祥雲山 龍泰寺 未末寺:群馬県館林市:青龍山 茂林寺 未末寺:埼玉県滑川町:醫王山 慶徳寺 未末寺:長野県佐久市:洞源山 貞祥寺末寺?東京都文京区:金龍山 大圓寺末寺:福井県福井市:圓通山 禅林寺 未末寺:青森県弘前市:耕春山 宗徳寺 五十三番札所:耕春山 宗徳寺 禅林街に構える津軽曹洞宗の大本寺末寺:青森県鰺ヶ沢町:滝広山 高沢寺末寺:青森県弘前市:長雲山 藤先寺末寺:青森県弘前市:金華山 泉光院末寺:青森県弘前市:金屋山 永泉寺末寺:青森県弘前市:種里山 鳳松院末寺:青森県弘前市:金澤山 照源寺末寺:青森県弘前市:金龍山 盛雲院 五十四番札所:金龍山 盛雲院 乳井氏所縁の禅寺、盛雲院末寺:青森県弘前市:石流山 川龍院末寺:青森県弘前市:唐糸山 万蔵寺末寺:青森県五所川原市:梅田山 慈眼寺 二番札所:梅田山 慈眼寺 津軽は梅田の念仏道場、慈眼寺末寺:青森県弘前市:太平山 長勝寺 五十番札所:太平山 長勝寺 名実共に津軽一の名刹、長勝寺津軽随一の山門本堂と庫裏末寺:青森県青森市:青森山 常光寺 青森市:青森山 常光寺 港街青森の禅刹 常光寺末寺:青森県青森市:安養山 夢宅寺二十六番札所:安養山 夢宅寺 眼病平癒の薬師様二十三番札所:安養山 夢宅寺 浅虫の古寺に居わす聖観音末寺:青森県青森市:観音山 見道寺末寺:青森県金木町:金木山 雲祥寺 七番札所:金木山 雲祥寺 金木の地獄絵擁する古刹末寺:青森県木造町:瑞光山 全龍寺末寺:青森県木造町:木造山 正法寺末寺:青森県五所川原市:太伊山 長円寺 五番札所:太伊山 長円寺 飯詰の大寺、幸せ祈る幸福観音末寺:青森県弘前市:貴峰山 月峰院 五十六番札所:貴峰山 月峰院 火災逃れし十一面観音像末寺?:青森県五所川原市:喰川山 龍泉寺 八十五番札所:喰川山 龍泉寺 三十三観音居わす五所川原の寺院末寺:青森県弘前市:三嶽山 清安寺末寺:青森県鰺ヶ沢町:赤石山 松源寺 七十三番札所:赤石山 松源寺 津軽氏の家臣の菩提寺、赤石の松源寺末寺:青森県弘前市:津軽山 革秀寺 五十九番札所:津軽山 革秀寺 蓮咲き乱れる藩祖菩提寺末寺:青森県弘前市:松種山 正光寺末寺:青森県弘前市:頓川山 壽昌院末寺:青森県弘前市:大浦山 海藏寺末寺:青森県弘前市:蟠瀧山 隣松寺末寺:青森県黒石市:黒梵山 保福寺末寺:青森県弘前市:金平山 蘭庭院末寺:青森県弘前市:観音山 普門院五十二番札所:観音山 普門院 杉鬱蒼と繁るお山の観音堂三十三番札所:観音山 普門院 巡礼のシメとなるお山の観音堂末寺:青森県弘前市:赤倉山 寶泉院末寺:青森県弘前市:桜庭山 陽光院 五十一番札所:桜庭山 陽光院 花咲き松の千手観音が伝えられし古刹末寺;青森県弘前市:黒長山 福寿院末寺:青森県弘前市:石神山 勝岳院末寺:青森県小泊町:小泊山 春洞寺 十三番札所:小泊山 春洞寺 遥か南海からもたらされた聖観音祀る寺院末寺:青森県弘前市:金毘羅山 高徳院末寺:青森県弘前市:別処山 寶積院末寺:青森県弘前市:八重山 長徳寺末寺:青森県弘前市:龍負山 京徳寺末寺?:青森県深浦市:岩崎山 龍王寺 七十番札所:岩崎山 龍王寺 津軽の西浜守りし武将が眠る寺院末寺:青森県弘前市:嶺横山 梅林寺末寺:青森県板柳町:檛木山 龍淵寺 三十六番札所:檛木山 龍淵寺 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寶福寺 浅水城主南氏の菩提寺末寺:青森県南部町:法円寺末寺:青森県八戸市:石田山 光龍寺 十番札所:石田山 光龍寺 観音堂 八戸南部氏数代の菩提弔う名刹末寺:岩手県軽米町:醫王山 徳樂寺末寺:岩手県盛岡市:鳩峰山 報恩寺 未末寺:青森県五戸町:光明山 髙雲寺 五戸町:光明山 髙雲寺 職人技の木彫装飾が見られる寺院末寺:青森県田子町:牛尾山 耕田寺末寺:青森県野辺地町:日照山 常光寺末寺:山形県尾花沢市:祥雲山 龍護寺末寺:山形県尾花沢市:光沢山 円照寺末寺:福井県越前市:慧日山 金剛院 未末寺:福井県南越前町:普門山 慈眼寺 未末寺:群馬県安中市:青木山 長源寺 未末寺:長野県須坂市:臥龍山 興国寺 未末寺:長野県上田市:祟福山 安楽寺 上田市:祟福山 安楽寺 温泉地の奥に位置する平穏安楽の禅刹末寺:石川県輪島市:洞川庵(總持寺山内寺院・現存していない)末寺:宮城県登米市:白魚山 大徳寺 二十六番札所:白魚山 大徳寺 清水流れる小村に鎮まる大不動尊末寺:大分県国東市:妙徳山 泉福寺 未末寺:岩手県一関市:稲荷山 宝持院 未末寺:岩手県一関市:中興山 徳寿院●福井県永平寺町:吉祥山 永平寺 末寺:茨城県古河市:正源山 鮭延寺 未末寺:熊本県熊本市:大梁山 大慈寺 未末寺:静岡県浜松市:廣澤山 普済寺 浜松市:廣澤山 普済寺 東海道の禅の名刹 白亜の大堂 普済寺末寺:愛知県豊川市:圓福山 妙嚴寺 豊川市:圓福山 妙嚴寺 豊川の 稲荷と称せし荼枳尼天 妙厳の法が 招くは圓福大本殿霊狐塚諸寺院青森県浪岡町:梵珠山 元光禅寺 二十五番札所②:梵珠山 元光禅寺 信仰の山を山号に背負う寺院岩手県花巻市:萬疊山 大興寺 未末寺:岩手県大船渡市:法量山 洞雲寺末寺:岩手県陸前高田市:海岸山 普門寺秋田県秋田市:永福山 嶺梅院秋田県鹿角市:大盛山 圓通寺宮城県栗原市:円通山 観音寺以上です。
2026年03月10日
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これまでまわった寺院を現行の宗派ごとにまとめてみました。本末関係が分かる場合はそちらも併せて載せたいと思います。本末関係といっても使用する資料は古めであり、現在の状態を必ずしも反映できているわけではありませんので、あくまでも参考までにご覧ください。それでも寺院間の関係性が見えて来て面白いのではないでしょうか※記事を書いたものから順次載せていきます。まわったけれども記事を書いていない寺院は載らない場合があります。各宗派の総本山・大本山は参拝できていないものには未と付いています。・・・というか殆どまわれていないので、未がついていないものの方が少ないですが。下に列挙している宗派も、主に東日本と関係があるものが殆どで、京都などに勢力を持つものは、もしも参拝出来たら順次載せていきたいと思います。・の下に一段落下がって付いている”・末寺”と書かれたものが末寺と堂宇です。諸寺院には総本山から直接本末関係を辿れない寺院などをまとめています。基本的に●のついている寺院(総本山から本山まで)は写真を付けたいと思っていますが、それ以外の寺院でもあまりにもお気に入り・素晴らしいものは写真付きで載せたいと思います。その辺の基準は僕がどれだけ贔屓しているかによります2026.1.1特に旧南部藩領の寺院に関しては↓の資料を基にしています。こちらの出版年自体が1973年と結構昔で、現在の状況とは食い違っている部分もあると思われますが、あくまでも参考ということで・・・。藩内のほぼ全ての寺院(18世紀までに創建されたもの)が列挙されており、かなり助かりました。種本の著者である故 横川良助氏、編纂に携わった全ての方に感謝を捧げます。●岩手史叢 第1巻 / 奥南旧記抜萃 / 寺社修験本末支配之記著者:岩手県立図書館 編出版者:岩手県文化財愛護協会出版年月日:1973年各宗派の本山と末寺 その他・諸宗編慈恩宗本山●山形県寒河江市:瑞宝山 本山 慈恩寺 末寺:山形県寒河江市:西方山 神宮寺 寒河江市:寒河江八幡宮 寒河江総鎮守の八幡宮聖観音宗総本山●東京都台東区:金龍山 浅草寺十三番札所:金龍山 浅草寺 お江戸浅草の聖観音一番札所:金龍山 浅草寺 江戸観音巡礼の打ち始め、浅草の大古刹浅草寺末寺:東京都中央区:大観音寺 三番札所:大観音寺 首だけの黒鉄観音を祀る寺院黄檗宗大本山●京都府宇治市:黄檗山 萬福寺 未末寺:岩手県盛岡市:福聚山 大慈寺諸寺院青森県黒石市:宝巌山 法眼寺二十九番札所:宝厳山 法眼寺 古色残した黒石の名刹、法眼寺二十六番札所:宝巌山 法眼寺 黒石市街の古刹、茅葺の大堂青森県黒石市:琉璃山 薬師寺無宗派●長野県長野市:定額山 善光寺 単立の仏閣青森県青森市:茶屋町延命地蔵尊堂 青森市:茶屋町延命地蔵尊堂 火防の縁ある地蔵尊青森県今別町:高野山観音堂 二十番札所:高野山観音堂 円仁御作の仏像が収められた観音堂青森県今別町:袰月海雲洞釈迦堂 二十一番札所①:袰月海雲洞釈迦堂 釈迦滝の脇に座す観音堂青森県今別町:鬼泊巌屋観音堂 二十一番札所②:鬼泊巖屋観音堂 波打ち際の観音堂青森県三戸町:目時薬師堂 三戸町:目時薬師堂 岩壁に建つ薬師堂青森県三戸町:野瀬観音堂 二十一番札所:野瀬観音 旅の博徒の観音堂青森県市浦町:春日内観音堂 十七番札所:春日内観音堂(相内飛龍宮) 津軽の古霊場に座す観音堂青森県七戸町:山屋薬師堂 七戸町:山屋薬師堂 県内最古の地方仏擁する薬師堂青森県田子町:釜淵観音堂 二十七番札所:釜淵観音 生涯仏師の観音堂青森県南部町:相内観音堂 十七番札所:相内観音 陸奥統治の足掛かりとした観音堂青森県南部町:作和外手洗観音堂 十八番札所:作和外手洗観音 名久井岳の山裾にある観音堂青森県南部町:矢立観音堂 二十番札所:矢立観音 矢に指し示された観音堂青森県南部町:早稲田観音堂 二十三番札所:早稲田観音 永福寺跡の観音堂青森県南部町:古町隅ノ観音堂 二十四番札所:古町隅ノ観音 細道の奥にある観音堂青森県階上町:寺下観音堂一番札所:寺下観音① 寺下観音の近くでジャズライブがあるそうな一番札所:寺下観音② そばをすすりながら聴くジャズは・・・青森県八戸市:白浜観音堂 五番札所:白浜観音 庭園内の花に囲まれた観音堂青森県八戸市:白銀浜清水観音堂 六番札所:白銀浜清水観音 古井戸のある線路わきの観音堂青森県八戸市:根城隅ノ観音堂 十二番札所:根城隅ノ観音 住宅地にポツンとある観音堂青森県八戸市:櫛引観音堂 十四番札所:八幡郷三十三観音 火災から逃れし観音像青森県八戸市:弘法大師堂 三十二番札所:弘法大師堂(常海町大日堂) 市街地中心にポツンとある大師堂岩手県一関市:松澤山 六角堂岩手県一関市:新山観音堂 十九番札所:新山観音堂 修験と地域住民により護持されて来た観音堂岩手県一戸町:鳥越観音堂 二十九番札所:鳥越観音 岸壁に鎮まる懸造りの観音堂岩手県軽米町:観音林観音堂 三十一番札所:観音林観音 主街道脇の観音堂岩手県二戸市:白鳥観音堂 二戸市:白鳥観音堂 白鳥川沿いに鎮座する古観音岩手県二戸市:岩谷観音堂 二十八番札所:岩谷観音 絶壁の岩窟に鎮座する観音堂岩手県二戸市:朝日観音堂 三十番札所:朝日観音 白馬伝説の観音堂岩手県洋野町:幸魚藍観音堂 洋野町:幸魚籃観音堂 令和年中の創建、種市の観音堂宮城県名取市:名取千手観音堂 五番札所:名取千手観音堂 どこから来たのか名取の千手観音長野県上田市:北向観音堂 客番札所之一:北向観音堂 火口から出る星見の観音堂以上です。
2026年03月10日
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宮城県名取市の西方、高舘山が悠々とそびえ、その麓には多数の神社仏閣がひしめいています。名取熊野三山もさることながら、奥州三十三観音霊場の札所も多く、ここだけで3ヶ所もあるんです。その内の1つ、三番札所:川上観音堂は、古くは慈覚大師作の仏像を護持する古刹であり、その法量は2mにも及ぶんだとか。そんなあらたかな仏閣の別当として、当地に境内を構えていたのが、今回紹介する金剛寺です。2025.3.22桑島山 金剛寺今熊野神社から更に西に進むと、直ぐに御堂が見えてきます。冬枯れした林を背に、寺門も無く、本堂以外に御堂も無く、ポツンと建っている様は少々寂しげです。御由緒です。桑島山 金剛寺真言宗智山派 熊野山新宮寺末寺本尊:金剛界大日如来・・・。 往時の別当寺は金剛寺で、観音堂から南西500m先にあるが、無住で文献も少なく由緒は不明である。聞き伝えによると、用明天皇時代(585~587年)の創建らしい。岩手・宮城・福島 奥州三十三観音の旅 改訂新版 河北新報出版センター 24~26ページ より引用由緒通りならば相当な古刹なんですが、余りにも資料が少なく、実態がつかめない寺院です。無住であることも手伝って、由緒のほとんどが謎に包まれています。とは言え、熊野山 新宮寺の末寺という事で、元は熊野神社(新宮)の神宮寺の塔頭であった可能性も考えられます。この寺院も名取熊野三山に関連した霊跡だと思われます、知らんけど。本堂の隣には、古い石碑が集められており、その手前に三界萬霊と刻まれた石碑有り。堂内を見てみましょう。半分集会場のような感じになっていますが、今でもしっかりと本尊や仏具が揃っていました。須弥壇は花で溢れています。本尊の金剛界大日如来です。・・・皆様、1つ前の写真に戻って見てください。大日如来の像の手前に、女神の姿を描いた板が置かれていますね。日輪を背負うこの姿、おそらく天照皇大神ではないでしょうか。これは面白い・・・!なんと本地垂迹を一緒に祀っているんですねぇ!修験の霊場の可能性も出て来たんではないでしょうか。更に謎が深まります。そして一番気になっているのが、須弥壇後方のこちらの古仏。怒髪天を衝き忿怒相であることまでは分かるんですが、手足の欠損がひどく、どの仏尊なのか判別は出来ません。個人的には馬頭観音か蔵王権現の何れかだと思うんですが、皆さんはどう思いますか?蔵王権現であれば、はるか蔵王の方から修験僧が流れて来て勧請した・・・なんてエピソードが妄想できちゃうんですが・・・。斜めから。面白そうなのにほとんど由緒が分からない寺院でした。こうした謎多き寺院ほど、面白い由緒を持っているもんです。恐らくは修験の霊場で、明治の神仏分離で熊野山新宮寺と共に真言宗寺院になった・・・とか考えておりますが、はて。以上です。
2026年03月09日
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宮城県角田市の西方、白石市との境辺りに宮城県最古の木造建築と言われる高蔵寺阿弥陀堂が置かれています。この辺りは山深い土地で、少々南方に足を伸ばせば奥州の古刹 安狐山 斗蔵寺などもあるんです。この日は斗蔵寺参拝後に、夕暮れギリギリ境内に滑り込み、なんとか参拝出来ました。渓流がすぐ脇を流れ、せせらぎにて心落ち着かせ、いにしえの昔に建立された仏堂に見とれていました。2024.10.26勝楽山 高蔵寺石造りの寺門があります。こっちは近代に建てられたんだろうなという風情なんですが、参道の石畳はと言うとかなりの年代物のように感じます。宮城県最古の仏堂は伊達じゃない、そんな気骨を感じられます。期待に胸を膨らませ、境内の奥へと進みました。参道の脇には石碑が並びます。庚申や地蔵尊が主です。奥には聖観音像もありますね。反対側にもこの通り。真ん中の石碑には出羽三山が刻まれていました。東北での信仰はかなり篤いです。むっ、阿弥陀堂が見えてきましたね。大取を見る前に、周辺の堂宇を見ておきましょう。阿弥陀堂から左側に進むと、高蔵寺の本坊が置かれています。寺務などはこちらで行われるんではないでしょうか。本坊の手前には旧佐藤家住宅という古民家が置かれています。国指定重要文化財にもなっており、大変貴重なものです。説明書きを見てみましょう。国指定重要文化財 旧佐藤家住宅昭和46年8月13日指定 この住宅は、江戸時代(18世紀中期~後期)に建てられた旧仙台領内の中規模農家の典型的な建物で、間口15m、奥行き8mの直屋(すごや)様式をとっている。 屋根は、寄棟造りの茅葺きで、東北の農家らしく重々しい。 佐藤家の由緒については、古記録、史伝記等もなく明らかではないが、「車屋」の屋号を持ち、庄屋をつとめ、古来修験者が住んでいたところと言い伝えられている。 この頃の農家の基本的な間取りの1つである広間型三間取りの単純な構成で、土間が全体の四割を占め、天井は、煙り出しのためと藩の禁止令により設けられず、太い荒削りの柱は鳥居建てという古式な構造で、木材の曲がりを巧妙に利用している。 間取りは、長方形の建物を梁間に四分六分に区分し、右四分は土間一室、左六分は、三室の居室部となり、居室部は、さらにいろりを構えた「ひろま」と奥に「なんど」と「なかま」二室を構えた変形間取りで、この地方の直屋の基本的な建て方である。 建物に残された修理改変の痕跡から、江戸時代後期頃には、東面及び北面を半間拡張し、北面にはさらに物置を突出した改変がされ、明治初年頃には「ひろま」を桁行に中央通りで仕切り、「ござしき」「かげのま」の二室に改めて、土間への床張りが行われ、昭和初期の頃までにかけて、建具の改造、柱外に雨戸が建て込まれて現在に至っていることが知られる。 しかし、こうして過去3回ほどの修理が施されてはいるが、軸部、小屋組など主要部分についての改変はまったくなく、よく当時の形式を残している。近年の生活様式の変化と建物の老朽化に伴い、所有者である佐藤源氏から住宅を新築したい意向があったため、江戸時代の生活の様子を伺い知ることの出来る貴重な文化財として後世に残し、保存活用を図りたく、市に寄贈いただくことになり、昭和46年8月13日国の重要文化財に指定を受け、同年9月に解体工事を実施し、翌47年7月にこの地に移築復元したものである。平成11年8月建立 角田市教育委員会修験者が暮らしていたというのは驚きですが、山深いこの地ではそれもあり得そうです。角田市の中心地からは少々離れており、修験の拠点とするには持って来いの場所ではないでしょうか。それでは大取の阿弥陀堂を見ていきましょう。鳥居の様に、両側に起立した古杉がなんとも趣深く、古色残す石段も相まってか、当時に立ち返ったかのような錯覚をしてしまいそうです。参道を置くまで進むと、阿弥陀堂手前に大きな御神木の杉の木が生えていました。樹齢は800年(推定)とも言われており、本当であれば、阿弥陀堂建立の時に植えられた事になるでしょう。こちらも県指定天然記念物となっています。ドンッ、阿弥陀堂です。茅葺きの屋根がなんとも言えませんねぇ千年近くの時を経て、今まさに僕の眼前に建っているのです。東北の歴史はかなり血なまぐさいですが、そのような動乱さへも乗り越えてきたのでしょう。現存していることに感謝しかありません。御由緒です。勝楽山 高蔵寺真言宗智山派開山:徳一上人本尊:阿弥陀如来 勝楽山高蔵寺は、平安時代初頭の弘仁10年(819年)に、徳一上人により開山されたと伝えられています。また、平安時代末期の治承元年(1177年)に、藤原氏や安倍氏の寄進により伽藍(建物)の修理が加えられ、その際、阿弥陀堂が建立されたと伝えられています。 この阿弥陀堂は、宮城県最古となる木造建築物で、宇治の平等院、大原の三千院、東北地方では平泉の中尊寺金色堂や福島県いわき市の願成寺阿弥陀堂と並ぶ貴重な文化遺産で、国の重要文化財に指定されています。 御本尊の阿弥陀如来坐像は、お堂が作られた平安時代末期に平泉藤原三代秀衡公とその妻が作らせたと伝えられています。像高2.68mの寄木造りで蓮華座に安置され、透かし彫りの飛雲光背を合わせると全高は5.18mにもなります(国指定重要文化財)。 勝楽山高蔵寺の開山以来、時の流れにより栄枯盛衰を繰り返して今日に至っていますが、かつては、阿弥陀堂を中心として、付近には、「大門坊」「入ノ坊」「清水堂」の三坊を有して栄えたということです。しかし、現在では境内に阿弥陀堂を残すのみで、往時を偲ばれるのは地名のみとなっています。奥州南部で圧倒的な知名度を誇る徳一上人によって開山されたと伝わります。奥州藤原氏や安倍氏の庇護を受け、複数の僧坊からなる大霊場へと発展します。今では阿弥陀堂が現存するばかりですが、当時の繁栄ぶりを伺わせる美しい造りは健在です。本尊の阿弥陀如来像は宮城県のホームページからご覧になれます。↓にリンクを貼りますね。・宮城県 / 指定文化財一覧 / 木造阿弥陀如来坐像阿弥陀堂斜めから。もう一度、斜めから。ホントに素晴らしく美しい阿弥陀堂でした。装飾が無いのがかえって良く、山中に開かれた霊場の趣が存分に味わえます。古色蒼然の字のごとく、数百年の時を経た阿弥陀堂が今ここに居します。以上です。
2026年03月08日
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八戸に来て間もないころ、街中を走っている時に何やら高台に大きな寺院が有るなと思っていたんです。それがまさか八戸御城下三十三観音霊場の札所だったとは・・・!見つけてから数ヶ月経った今、やっとこさ初めて参拝します。2025.1.25八戸御城下三十三観音霊場十番札所:石田山 光龍寺 観音堂八戸市立図書館から、ゆりの木通りを挟んで向かい、高台の上に境内の入口が開かれています。一応車で上まで来れるので、車でも安心。この不思議な風格のある山門は、もとは八戸城の東門だったんだとか。今では八戸城は廃城となり、跡地には市役所・公園などが置かれています。当時を偲ぶことができるのは築山と石垣、三八城神社くらいのものでしょうか。山門の向いには小祠が置かれております。祠の中には女性型の木像が収めてあり、沢山べべっこ着せられで、たんだ温かそうです。はっきりしたことは言えないんですが、もしかすると淡島大明神とかなのかもしれません。山門には山号額がさがります。かなりの美文字です。山門くぐり、すぐ左手には札所の観音堂が置かれています。まずは観音堂の周りから見ていきましょう。観音堂左の小堂。中には僧侶?もしくは宝珠地蔵尊の石像と・・・。未開の蓮を持つ変わった像容の地蔵尊が収められています。そんで供養塔でしょうか。八戸は獣害による飢饉が多く、その犠牲者を供養した供養塔が多く存在します。当地方では飢饉のことを”ケガジ”と言いますが、これは”飢渇(きかつ)”がなまったものです。観音堂右側も見ていきます。こちらには当山中興開山の西有穆山和尚像があります。これは昭和57年(1982年)に、台風で壊れた像に替わって建立されたものです。隣には西有穆山和尚の墓も。当寺院を宿寺から寺院へと格上げせしめた名僧です。それでは観音堂の方に戻ります。まずは御由緒から。光龍寺観音堂・・・。 その隣に白い土蔵風の観音堂が構えており、格子の戸を開けるとさまざまな表情をした木彫33体の観音像が安置されている。まるで、京都の蓮華王院(三十三間堂)の観音像を連想させる豪華さと威徳感がある。ほとんどが立像で、下段に8体(うち6体が座像)。中段に12体。上段に12体あり、その中央に大きめの千手観音立像が安置されている。少し伏し目がちで端正な面長の面相。真手は合掌印で、後手の上左手には錫杖、上右手には鉾を持っている。瓔珞は朱色で、全体像の金色の中に目立って輝いている。 また、周りの32体の観音像は円光背であるのに対して、唯一、雲文の舟形光背である。像全体は切れの鋭い鮮やかな彫法で作られている。これらの観音像は、宝永4年(1707年)4月8日に京都で製作されたもので(体内より古文書が発見)、秩父三十三観音のお寺に安置されていたものである。それを西有穆山和尚が、明治3年(1870年)の廃仏毀釈の際、当寺の本堂へ移安したものである。 ところが、昭和43年5月の十勝沖地震の際、須弥壇から落ち、バラバラになってしまった。そこで、京都の仏師に頼み、修理し、金箔を塗っている間、高森米三郎氏が中心となり、観音堂を新築した。翌年、遷座式を行い、今日に至っている。デーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」滝尻善英著 55.56ページ より引用観音堂の装飾は県内随一のクオリティで、かなり華やかです。そんで堂内です。千手観音を中心とした三十三観音が収めてあります。観音像上部の組木も相当細かく、かなり気合の入った装飾具合ですよ!観音堂斜めから。近代的な感がありますが、それでも当巡礼の札所の中でも、特に見ごたえのある堂宇でした!御詠歌ひとすじに 頼みをかくる石田山 大慈大悲の 深きめぐみは現代新御詠歌金色に かがやく三十三観音 穆山禅師 ひらきしみ寺に本尊:千手観音ふくめた三十三観音 (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩それでは、お次は本堂を見ていきます。寄棟の大堂で、外観は近代的です。左手前に生える松の古木が御堂を飾ります。御由緒です。石田山 光龍寺曹洞宗 白華山法光寺末寺開山:法光寺十三世 峰山光雪和尚開基:八戸南部二代直政公中興開山:西有穆山和尚本尊:釈迦三尊 九番札所禅源寺を出て、左手すぐに石田山光龍寺が鎮座している。現在は、目前に八戸バイパス(通称ゆりの木通り)が走っているが、大正13年(1924年)のころまでは、池が広がっていた。そのため大正13年の八戸大火の際、火難を逃れたのである。そして、現在の参道の坂がメーン通りで、当時そこを三年坂と呼んでいた。その三年坂が当時の巡札礼道で、眼下には上組町桝形や近辺の堤を眺めることができた。藩政時代、ここからの眺めは絶景で、上り街道沿いの上組町桝形がよく見えた。 树形とは、八戸域下へ入る大事な関所であり、参勤交代の際、足軽がこの桝形に入り、人数をひと目で把握できるように工夫された場所である(『南部八戸城下町』)。今では、マンションやビルが建ち並び、桝形を見ることはできないが、树形稲荷神社の境内に、その土塁跡がかすかに残っている。 三年坂を上りきったところに昭和12年(1937年)、元八戸市助役の故久保節氏から寄贈された、八戸城東門を山門として使っている。この山門をくぐって左側に、西有穆山和尚の等身大石像が立っている。よく見ると首が折れた跡が痛々しく残っている。昭和3年6月10日に故林孫太郎氏らが中心となって寄進し、風雪に耐えていたが、昭和56年(1981年)8月の台風で銀杏の大木が倒れ首をかすめてしまったのである。そこで、翌年、新たに台座つきの西有穆山和尚銅像を建て、5月16日、入仏式を行っている。 従って2体の西有穆山和尚像が境内にある。その間には、和算で知られる真法恵賢和尚の石像が安置された祠がある。白手ぬぐいを首に巻いた座像である。恵賢和尚は、法光寺で出家し、当寺で算数の勉強をし、高次方程式解術・だ円形の計算法・正十二面体正二十面体などを発見した人物である。 ・・・。 当寺は、八戸南部二代直政公が開基している。そのころは、城下の人々の中に、名久井法光寺の檀信徒が多く、名久井まで足を運ぶのには遠すぎて、不便さを感じていた。そこで、元禄5年(1692年)2月1日、杉沢村(現在・福地村)で廃寺となっていた光龍寺を現在地に復興したのである(『八戸藩史料』)。 従って、法光寺末寺となり、十三世峰山光雪和向により、宿寺として建立された(『御領内寺院来由全』)。『文政年間八戸城下絵図』には、糠塚「法光寺」と記されている。ところが文久3年(1863年)7月14日の火災のため、貴重な文献や仏像等、すべてを焼失してしまった(『八戸藩日記』)。その後、本尊の釈迦三尊像を、藩の御典医であった織壁氏が寄贈している。そして、明治初期に西有穆山和尚が中興開山し、正式に光龍寺と名のるようになったのである。現在の本堂は昭和42年に完成されている。このように観音像をはじめ、光龍寺は西有穆山和尚あっての寺院ともいえよう。デーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」滝尻善英著 53~57ページ より引用なんと八戸南部二代直政公の開基です。南部町の法光寺宿寺から始まり、近代になって格式を上げて寺院となりました。御堂の入口には寺号額。力強い筆致です。堂内にも額が懸かりますが、達筆過ぎて読めませんでした・・・。もっと書の知識があれば読めるんですが・・・。恐らく”**菩薩”と書かれているんではないでしょうか。堂内には八戸南部氏当主の位牌が並びます。左から・・・八戸南部三代通信公八戸南部四代広信公八戸南部六代信依公八戸南部七代信房公八戸南部八代信真公八戸南部九代信順公信順公室 鶴姫と、なっています。八戸南部氏の菩提寺は月溪山 南宗寺ですが、こちらにも何代かの菩提が収められているようです。常々気になっている事なんですが、位牌ではなく、あくまでも墓地がある所を菩提寺と言うんでしょうか?武将によっては菩提寺が複数ある者もあるようですが、その辺の事情を知りたいですね。位牌の隣には威徳殿という小祠が置かれています。これについては由緒不明です。最後に本堂後ろの墓地を見てみましょう。この墓地の一画には、”姫塚”という供養塔があるんです。これは八戸南部九代信順公の正室 鶴姫を供養した塚です。法名を常行院殿寂空妙照大姉といい、没年は元治元年(1864年)12月23日、享年29歳。斜めから。八戸南部氏数代の菩提所でした。この寺院も八戸の寺町的な区画の中にあり、周辺寺院と絡めてまわるのが面白いと思います。八戸御城下三十三観音霊場の札所も数ヶ寺あるので、是非とも天気の良い日に徒歩でまわっていただきたいところです。以上です。次の記事・十一番札所:三級山 龍源寺 かつての水郷に建つ古刹
2026年03月08日
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遠江国と三河国との国境に、井伊谷と呼ばれる山間の一地域があります。浜名湖の北岸に位置するこの土地には、古くは縄文時代から人が居住していたとされています。上古に於いても”井の国”と呼ばれ、名前の通り水に関連した祭祀が執り行われていたんだとか。今でもこの辺りは田んぼが多く、当時からこのような風景が広がっていたんではないでしょうか。そんな水郷とも言えるような集落に根付いたのが、”井伊の赤鬼”と名高い井伊直政を輩出する井伊家です。徳川四天王として旧武田勢力をまとめ上げ、天下統一に大きく貢献した猛将ですが、今回紹介するのは、その井伊家の菩提寺 龍潭寺です。2026.2.22萬松山 龍潭寺井伊谷のほぼ中央に境内を構える龍潭寺。井伊家の菩提寺であると共に、後醍醐天皇の御子である宗良親王の菩提寺でもあります。そのため宗良親王の位牌を護持し、陵墓である井伊谷宮とも境内を接しています。参拝時は井伊谷宮から向かったんですが、ブログでは総門の方から見ていきましょう。こんな立派な総門が、境内の入口には置かれているのです。ククク・・・。やはり禅宗は最高です。素朴な装飾・落ち着いたカラーリング、全てを加味しても趣深いの一言に尽きます。令和6年に行われた修復工事によって墨書きが見つかり、享保19年(1734年)に再建されたことが分かりました。加えて総門の山号額は、朝鮮通信使:雪峯が揮毫したものなんだとか。彦根井伊氏のもとで揮毫されたものが、当寺に奉納されたそうですよ。総門をくぐると、参道は2つに分かれています。↓の写真は右側の道。どちらを通ってもすぐに合流するんですが、こちらは堂宇の入口に直通となっています。詳しい境内の様子は、↓の公式サイトを参照してみてください。・遠州の古刹 龍潭寺 / 境内案内参道折り返してここに至ります。このまま右に行くと拝観入口。奥に進むと山門が見えてきます。石垣や白壁が続くので、ちょっとした城郭の様でもあります。山門に向かって歩いていくと、参道の左側に御神木と小さな祠が置かれていました。大きなこぶの有るこの木は”梛(なぎ)の木”。読みから”凪”に通じ、厄災封じの意味があったそうです。境内の説明書きも有ったので、見てみましょう。浜松市制百周年記念事業「湖北五山古木・御神木巡り」龍潭寺「棚の木」・樹種:いぬまき科の常緑高木・樹齡:400年(推定)・樹高:19m・幹周:2.67m(直径85cm) 井伊家二十四代井伊直政(幼名虎松)幼少の頃井伊家の安泰を念じて植えられた御神木です。 1560年(永禄年間)当時の井伊家は、二十二代直盛の戦死、二十三代直親が誅殺され、家老小野但馬の謀反など受難の時期でした。 直政母子は龍潭寺松岳院に身を寄せ、お地蔵様を祀りその傍らに「なぎの木」を植えて我が子の安泰を日々念じたといわれます。 「なぎ」は風や波が穏やかになる例えで、昔から厄除け災難が収まるとも云われています。平成23年5月 奥浜名湖観光連絡協議会境内説明書き より引用井伊直虎公が、井伊家の安泰を願って植えたものだったんですね。今でも樹勢盛んであることは言うまでもありませんが、傍らの地蔵堂も現存しているというのは驚くべきことです。堂内には素朴な感のある地蔵尊の石像が収められています。像様は延命地蔵尊ですが、説明書きには子育て地蔵とあります。通常子育て・水子などの地蔵尊は、傍らに赤子を伴う例が多いんですが、こちらはその例とは異なっていました。井伊直虎公が息子である直政公の平穏無事・井伊家繁栄を願った祈願仏なのです。御神木と地蔵堂がある細路地を抜けると、これまたヨロしい山門が建っていますねぇ!正面の扁額には”護法”、裏面の扁額には”龍吟窟”と揮毫され、これより先は仏法・禅の世界であることを示しています。門には白壁が付随しており、これによって境内がグルりと囲われています。この山門は昭和62年(1987年)清山和尚代に建立されたもので、両脚には仁王像と共に阿吽の狛犬が収められています。この山門の周辺には、もともと丈六の釈迦如来像を本尊とする釈迦堂があったそうですが、廃仏毀釈によって失われています。ただ、本尊の釈迦如来像(丈六)は、今でも本像の右側に大事に安置されています。後から見てみましょう。そんでもって山門の手前には、井伊直虎母子が身を寄せた、龍潭寺塔頭の松岳院が置かれていたようですね。今では跡地であることを示す石柱が残るのみです。山門を抜けると、扁額の文字通り禅の世界が広がっていました。参道の両脇は苔と低木によって飾られ、奥には白砂が広がる前庭と、格式の高さを示す大伽藍が置かれていました。もうね、初見は本当に感動しちゃいましたというのも、龍潭寺は仁王3の舞台でもあり、その聖地に来られたんですからねぇ!感動も一入ってなもんです。本堂に近付いてもう1枚。御堂の前に広がるこの白砂と、それを囲う苔や低木、荘厳な伽藍が混然一体となって、僕の心をぶっ叩いてきました。ゲーム中の龍潭寺とは、大きさこそ異なれど堂宇の造りや境内の雰囲気はそのままで、ホントに参拝出来て良かったです因みにゲーム中でも、鴬張のギミックがあるという驚くべき再現振りです。こちらの本堂は延宝4年(1676年)当山七世 喝岩和尚代に、井伊二十七代(彦根井伊四代)直興公の寄進により再建されたものです。仁王3にて見られる本堂は、年代的に再建前のものを再現したものなんですかねぇ?ここまで結構書いてきましたが、まだまだ止まりませんよ。御由緒も行っちゃいましょう!萬松山 龍潭寺臨済宗妙心寺派開山:行基菩薩中興開山:黙宗瑞淵和尚中興開基:井伊二十代直平公本尊:虚空蔵菩薩御前立本尊:釈迦三尊 風光明媚な奥浜名湖その北に位置し、豊かな自然、緑と花に抱かれた町、浜松市井伊谷、そこに萬松山 龍潭寺がある。 この井伊谷地域は、古くは「井の国の大王」が聖水祭祀をつとめた「井の国」の中心で、浜名湖の注ぐ井伊谷川、神宮寺川の沿っての台地には縄文・弥生の遺跡、古墳が数多く残され、水にまつわる伝説も多い。 特に当地の歴史と、当寺の縁起にゆかり深いのが、「共保出生の井戸」である。共保公とは、平安時代から戦国時代までの600年にわたり当地方を治めた名門井伊氏の元祖。 井伊氏は保元の乱で源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では後醍醐天皇皇子、宗良親王を迎え北朝と戦い武勲をなしている。室町時代、今川氏に仕え「桶狭間の戦い」で戦死をした井伊二十二代直盛公の戒名をとり龍潭寺と寺号を変えた。戦国時代、二十四代直政が浜松城主 徳川家康に仕え、"井伊の赤鬼"と呼ばれ大活躍、やがて徳川四天王の筆頭となり彦根に出世する。そして、幕末に井伊三十六代直弼が開国の偉業をなしとげるのである。 こうした元祖共保公より四十代に到る祖霊を祀る菩提寺として歴代当主に深く帰依されて来たのが龍潭寺である。 当寺の歴史は古く、天平5年(733年)に行基菩薩によって開創されたと伝わる。 禅宗となったのは室町時代末期、井伊二十代直平公が帰依された黙宗瑞淵和尚を開山として迎えてからである。後の遠州地方の臨済宗妙心寺派の法源となった。 10,000余坪の境内には江戸時代に建立された県指定文化財の本堂、開山堂、総門、庫裏、霊屋などの貴重な建物が立ち並び、国指定名勝、小堀遠州作「龍潭寺庭園」が四季折々の風光と調和しながら、悠久たる「井の国」の歴史と文化と信仰を今日に伝えている。遠州の古刹 龍潭寺 / 龍潭寺の歴史 より引用行基開創の古刹が禅宗に改められて中興されるという王道展開です。井伊氏は後に滋賀県彦根へと領地替えになりますが、初代から四十代までの当主の菩提寺として、井伊家からの崇敬はかなりのものだったんではないでしょうか。それではボチボチ堂内に向かいましょうか。本堂を正面に据えて、右の方に進むと立派な鐘楼堂が建っています。こちらは昭和46年(1971年)に再建されたもので、正月5日までは実際に撞くこともできるんだとか。鐘楼堂の傍らには、”井伊直政公出生之地”と刻まれた石柱が建っていました。青森では戦国史に関わる史跡は皆無ですが、激戦地であった中央周辺はこうした史跡が豊富に残っているようです。こちらに来られたことを改めて感謝しました。更に拝観入口の方に進むと、東門と呼ばれる小門が建っています。形状からも察せられるんですが、これは元の鐘楼堂であり、境内では最古の堂宇となっています。今では鐘楼としての役目を終え、鐘の代わりに門本尊の聖観音像が置かれています。拝観入口はコチラの庫裏からどうぞ。東海の古刹 龍潭寺と雖も、仏殿(本堂)の右側に御堂入口、庫裏が連結するという臨済宗特有の構造から外れることはありません。こちらの庫裏は文化12年(1815年)に当山十四世 仲山和尚によって建立されたものです。間口は九間、奥行き十四間ともなる大堂であります。本堂入ってすぐに、床がギシギシと音をたてました。なんと鴬張になっているみたいです。なんでも左甚五郎が手掛けたものなんだとか。忍ばりに足音を消しながら、そろそろと堂内を進んでいると、丈六の釈迦如来像が静かに鎮座していました。享保14年(1729年)に霊長によって作仏されたもので、かつては先ほど見た山門傍らの釈迦堂に納められていました。特筆すべきは大きさだけに非ず。仏像の表面に幾筋も残る”丈六”という傷跡、金箔の剥がれなども重要です。これは明治の廃仏毀釈の痕跡で、近所の子供たちによって刻まれたんだとか。日本から仏教を排斥しようというムーブメントの中にあっても、この釈迦像は雪辱に耐え続け、それを乗り越えて、今日にいたるのです。本堂からは先ほどの白砂の枯山水が臨めます。日々の管理の賜物か、かなりの美しさです。堂内須弥壇中央には、御前立本尊の釈迦三尊(大迦葉尊者・阿難尊者を脇侍に採るタイプ)が置かれていました。おそらくその手前の厨子に本尊の虚空蔵菩薩が収められているんではないでしょうか。虚空蔵菩薩を本尊とする寺院は各宗派にありますが、中でも臨済宗妙心寺派は特に多い気がします。東北で言うと、会津の霊厳山 圓藏寺や八戸の瑞雲山 高松寺 福一満虚空蔵菩薩堂とかですかね。なにか関係があるんでしょうか。そして本尊を囲むように、あの、有名な、誰もが知る奥衾絵が飾ってありました!!!こちらは龍。そんで反対側は虎です。どちらも旭英筆の手になる物と伝わっております。表情もそうですが、肉体の動き方がなんともリアルに再現されていて、自然と見とれてしまいました。本堂左手には、琵琶湖出現仏と宗良親王の位牌が置かれていました。琵琶湖出現仏について、境内の説明書きを見てみましょう。ほほえみ観音菩薩さま 江戸時代はじめの頃のお話です。近江の国(今の滋賀県)琵琶湖で投網をしていた漁師が湖底より次々と三体の仏像を引き上げました。それはそれは尊いお顔をした観音菩薩さまでした。びっくりした漁師はすぐに御領主である彦根のお殿さまへ差し出しました。お殿さまは傷んだ仏像を修理させ、井伊家の菩提寺に寄進されました。その1体がこの十一面観音菩薩像です。 話は戦国時代にさかのぼります。元亀2年(1571年)9月、織田信長は比叡山を攻め、湖畔の寺もことごとく焼き払いました。火をつけられたお寺では、御本尊様を湖水に沈め火災より守りました。そうした仏さまのなかには、引き上げられることなく、湖底に眠ったまま江戸時代にいたった仏さまがあったのです。 この十一面観音様は、火難・水難にあいながら、奇跡的に再びこの世に出現されました。 合掌し、静かに拝顔ください。仏さまの口もとにかすかな笑みが現れてきます。モナリザの微笑を連想させる神秘的なほほ笑みです。ほほ笑みのある日暮しを大切にしたいものです。境内説明書き より引用近江と言えば天台宗という感じがありますが、この十一面観音像がかつて祀られていた寺院は何宗の寺院だったんでしょうか。数十年の時を経て人々の御前に舞い戻った十一面観音に、今はただ思いを馳せるばかりです。続いて寺院左手の堂宇をまわってみましょう。禅宗寺院にありがちなんですが、最終形態までいくと堂宇と堂宇が連結され、歩いて見て回ることができるんです。便利なんですが、堂宇それぞれの外観は少々見づらく、また撮影しずらいです。こちらは萬松稲荷堂。祀られている稲荷大明神は、別名正夢稲荷とも称され、心願成就の利益があるんだとか。寛政8年(1796年)十四世仲山和尚の代に再建されました。稲荷堂隣には開山堂。二重構造の御堂で仏塔のようにも見えます。歴代住職の位牌・黙宗瑞淵和尚子弟の木像などが収められています。元禄15年(1702年)に当寺八世 徹叟和尚によって建立されました。それ以外にもこんな地蔵尊像や・・・。井伊家所縁の籠なども収められています。なんとこの籠も赤備となっていました!開山堂の後ろには井伊家歴代当主の位牌が収められています。奥の木像は右から、井伊初代共保公・井伊二十二代直盛公・井伊二十四代直政公という構成です。井伊家御霊屋の壁面には、井伊家歴代の当主名が書かれた木板が懸てありました。こうしてみると初代から三代までは”共”が通字だったようですが、三代からそれ以降は”直”が通字となっていますね。これはなぜなんでしょうか。再び堂内に戻ると、幼い直正公と次郎法師(直虎)殿が並び立っていました。母子が並び立つなんとも微笑ましい一場面です。本堂の裏手に出ました。こちらには国指定名勝にもなっている龍潭寺庭園が広がっています。別棟からも見てみましょう。本堂裏手の縁側で、この麗しの庭園を眺めながら、ゆっくりお茶といきたいところですね。臨済宗の庭園はやはり最高か・・・!この別棟(庫裏)には寺宝の数々が展示されていて、中には織田信長の遺品である天目茶碗などもあります。龍潭寺の寺宝は公式サイトにてご覧になれますよ!↓のリンクからどうぞ・遠州の古刹 龍潭寺 / 寺宝・文化財次は本堂を出て境内西方の墓地に向かいます。開山堂の脇を通ることになりますが、こちらにも古めかしい石像群が並んでいます。幾つか見てみましょう。修行大師。庚申塔。よく見ると三猿もしっかり付いています。役小角像。行基開創ということもあってか、修験関連のものもあるんですねぇ。龍潭寺墓地に到着です。ここには歴代住職・井伊家家臣団の墓が並んでいるんです。古めかしい宝塔が林の中に幾つも並んでいる様は当に古くからの墓地といった感じです。こちらも幾つか見てみたいと思います。まずは被葬者の説明書きからどうぞ。徳川家康の遠州進攻を援けた井伊谷三人衆この地に眠る●鈴木重時:永禄12年(1569年)2月5日堀江城合戦で戦死、享年42歲●菅沼忠久:天正10年(1582年)没●近藤康用:天正16年3月2日井伊谷で没、享年73歲 永禄11年(1567年)12月15日、徳川家康は、井伊谷三人衆の先導で豊川・宇利を経て三河遠州境の陣座峠を越え、奥山へ入り井伊谷城を攻めます。当主不在の城はあっさり落ちます。家康は兵を整え瀬戸・三方原を経由し12月18日引馬城(浜松城)を攻略、念願の遠州進攻を果たし、いよいよ天下取りに向け大きく一歩を踏み出しました。 この時家康を援けたのが、のちに井伊谷三人衆とよばれた奥三河の土豪 鈴木重時(新城市山吉田城主)、菅沼忠久(都田在・田峯菅沼の分家)、近藤康用(新城市宇利城主)です。 3人は今川の配下で、この時期井伊氏の与力として仕えていましたが、今川氏真が井伊氏を滅亡させようとする仕打ちに腹を立てていました。そこへ家康が恩賞を厚くし、徳川方につくよう誘います。そこで3人は家康に内応し、家康の遠州進攻を援けたのです。 三人衆は龍潭寺で葬られ、この墓所の奥に祀られています。井伊氏が彦根に移りますと、三人衆のうち近藤家が幕末までここ井伊領を治めていました。境内説明書き より引用更に追加でもう1つ見てみます。戦国期の井伊家を支えた武将の墓 戦国初期ここ井伊領では、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、三河の徳川氏が三つ巴で覇権(支配力)を争いました。遠江の代表的国人領主(在地領主)であった井伊氏にとって受難の時代でした。この井伊家を懸命に支えた武将たちがここに葬られています。◆桶狭間合戦戦死の墓 永禄3年(1560年)5月19日、井伊二十二代直盛公に従って戦死した武将16名を祀ります。◆新野左馬助の墓 永禄5年(1562年)井伊二十三代直親公が今川氏真の手で殺害され、その子直政も命をねらわれます。時の家老 新野左馬助が命にかえ、氏真に訴え直政の命を救いました。◆中野氏の墓 井伊氏の一族 中野氏の墓です。中野三代信濃守は幼い直政に代わり井伊谷城代を務め、永禄7年引馬城攻めで戦死しました。・・・。境内説明書き より引用これは井伊谷三人衆の1人、近藤康用の墓です。没年は天正16年3月2日、井伊谷で亡くなりました。齢は73歳とかなりの長寿だったようです。こっちは菅沼忠久・忠道父子の供養塔です。長い時を経たせいか、宝塔がかなり小さくなっていますね。そんでもってこっちは、手前:新野左馬助の墓、奥:鈴木重時の墓となります。皆井伊家のために命を賭した豪傑たちです。そんで本日のメイン、井伊家の墓です。奥の一対の柱状墓石は、右が井伊初代共保公、左が井伊二十二代直盛公の墓となっています。それらを囲むようにして、歴代の井伊家当主たちが眠っているのです。墓地の詳細な配置は公式サイトをご参照ください。↓にリンクを貼りますね。・遠州の古刹 龍潭寺 / 龍潭寺境内墓所図右側には6基の墓石。1つに複数人祀ってあるみたいです。左側です。こちらは1基につき1人が祀られています。ちなみに一番左が井伊二十四代直政公の墓みたいですね。斜めから。うーむ、遠州の古刹を心ゆくまで堪能できましたやはり禅宗特有の落ち着いた雰囲気はかなり好みで、今回も満足度はもう高い高い!最高です今年度は特に勝負の年となりそうなので、苦難を乗り越え立身出世した井伊直政公、生涯を南朝再興のために費やした宗良親王にあやかろうと特に篤く必勝を祈ってきました。業務に関わることなので、これ以上は言えないんですが、今の問題を無事解決できた時に、もう一度お礼参りに行きたいです!所長と共に、この勝負に打ち勝ちたいのです・・・!今回貰った御朱印です。グフフフ・・・恍惚の笑いが止まりません公式サイトのリンクです。・遠州の古刹 龍潭寺以上です。
2026年03月07日
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冬の空というのはなんとも良く澄んでいてキレイなもんです。どこまでも続くかのような深い青色を背景に、近代的な造りの寺院が建っていました。これが今回紹介する龍源寺です。八戸市街から根城の方に向かって車を走らせ、細路地を入ったところに境内の入口がありました。2025.2.1八戸御城下三十三観音霊場十一番札所:三級山 龍源寺御堂手前の駐車場に車を停めて、本堂と向かいあいます。デザインは古風でも造りはしっかり雪国の耐寒家屋となっていますね。雰囲気的には市内の浮木寺や常現寺と似ているでしょうか。早速ですがご由緒です。三級山 龍源寺曹洞宗 貴福山對泉院末寺中興開山:對泉院二世 活厳円龍和尚本尊:釈迦三尊 光龍寺の三年坂を下りて、市内のバイパスであるゆりの木通りを西に向かう。平中町内を過ぎると、急な下り坂となる。この一帯は水はけが悪く、雨が降ると、すぐに床下浸水となってしまう場所である。それもそのはず、もとは「沢里堤」と呼び、豊かな水を湛えていた。明治のころまで水車が動いていたり、藩政時代には、夏の暑い盛りに、日影の水を切って藩主に献上したという記録も残っているほど、規模の大きい堤であった(『致力』)。 その沢里堤の北側には、道を挟んで、売市堤もあった。売市堤とは現在の桜木町がグラウンド一帯で、間の道は現在の国道104号である(『文政年間八戸城下絵図』)。昭和初期ころまで堤はあったが、それ以降、埋め立てられ、根城地区の区画整理によって、今はその姿を変えている。 龍源寺は、もともとは、現在地にあったのではなく、この両堤の西側(新組町)三差路の三軒屋に鎮座していた。 ここは、その名の通り、人家は三戸ほどしかなく、堤守(管理人)もいたということである。ここに鎮座していたのは、根城南部時代ころまでで、「柳元寺」と称していた(『沼舘愛三氏遺稿』)。 そして、根城城の東の構えとしての要素も含んでいた。それが寛永4年(1627年)の根城南部氏遠野国替により、柳元寺も遠野へ遷座し、ここは廃寺となってしまった。 その後、寛永10年(1633年)対泉院二世の活厳円龍和尚が中興開山し、現在地へ再建して、対泉院の末寺となった(『新撰陸奥国誌』)。山号は、中国の碧厳録七言絶句の「三級波高くして魚龍と化す」という鯉の滝登りからとっている(『龍源寺由来記』)。沢里堤との関係も深く、龍神を祀っていた。 区画整理が済み、すっきりした境内に入って、最初に目につくのが、左側の積み重ねられた無縁仏のとなりには当時八戸の学者 家文先生(伊右衛門)の石碑。その横には、文化11年(1814年)建立の上野家文碑がある。彼は、天明の大肌極の悲惨さを記した『天明卯辰築』の著者としても名高い。正面には、昭和55年に新築された白壁の本堂が構えている。本堂中央には本尊の釈迦如来座像。脇侍に普賢・文殊両菩薩が安置されている。従って曹洞宗であるが、傍らに阿弥陀如来像も安置されているところをみると、根城南部時代は浄土宗だったのかもしれない。 本堂奥の院には、歴代住職の位牌堂があり、その右側に由緒ありそうな仏像が安置されている。その中でひと際目立つのが、木彫聖観音立像である。 明治初期の『新撰陸奥国誌』によると、観音堂は本堂東側、西向きに建てられ、一間四方の小さな祠であったという。それが本堂新築の際、管理上の問題もあり、廃棄され、観音像はこの場所に移安された。観音像は、右手が上品施無畏印。左手は蓮華を持っていたようだが、欠損し、茎の部分だけが残っている。宝髻は全体に比べて細長く、髪が緑色で、ふっくらした面相をしている。眉は切れ長で、白毫が白く彩られており、いかにも慈悲深さを感じさせる。 しかし、真肌の金箔がはがれ、宝冠・胸飾・瓔珞などが、はげ落ちているのは残念である。岩座の上に反蓮があるが、岩座が欠け、右足の甲や左足の親指が欠損し痛々しい。雲文舟形光背の頭光・身光は朱色で、裏に少しひびが入っているが、小振りながらも像容はすこぶる端正で、天衣は切れが鮮やかで、みずみずしさを感じさせる。一説によると、この観音像は工藤祐経の子孫が明治初期に奉納したと伝えられている。 本堂を出て、アスファルト敷きの境内に立つと、西側に根城小学校校庭が見える。明治末期から大正にかけては、競馬場としてにぎわったこの一帯も、今は子供たちが走りまわる教育的環境となっている。 また、龍源寺は、文化10年(1813年)岩井重良兵衛愛秀御城下巡礼第二十一番札所に定められており、御詠歌は次の通りである。よき程に 陸奥のちまたを逃れ来て 影澄む月を 拝む澤里デーリー東北出版「八戸御城下三十三番札所巡り」滝尻善英著 58~62ページ より引用根城南部氏時代からあった古刹のようですね。もとの寺号は”柳元寺”とのことですが、実際に遠野の方では今でもこれに近い”柳玄寺”という寺号を使っているんです。大慈寺しかり、對泉院しかり、根城南部氏と関りの深い寺院はみんな遠野に遷ってしまいましたが、何れも元の境内地に再建されており、同一の山寺号の寺院が、八戸と遠野には多いです。寺院は有力者と共に移動することが多いですが、この札所もそうした流れの中にあるのです。入口には寺号額。堂内に入ってまず最初に目にするのが、この龍頭観音像です。人の背丈ほどもあろうかという巨像であり、装飾もなかなかに凝っています。他にも境内左手には、四天王に守られた十六羅漢像が置いてありました。いずれも表情やしぐさがいきいきとしており、本当に個性的な像です。堂内右手には地獄絵が飾られていました。人が死んでから十王のもとで沙汰を受け、地獄行か天国行かが決まるという場面を描いたもので、十王曼荼羅などとも呼ばれます。以前、滋賀県の多賀大社至近にある真如寺に参拝した際、廃仏毀釈の影響で滋賀県には地獄絵が少ないという話を聞かせて頂きました。やはりというか、権力の中枢から遠く離れた陸奥国北部には数多く現存しており、これもその1つです。県内では他にも、金木町の雲祥寺のものが有名です。おっと、これが由緒にあった竜王像でしょうか。おそらく八大龍王の難陀龍王だと思われます。衣服の表現が秀逸ですねぇ!更に奥の方にはこんな仏像群が。手前の石造りのものは白衣観音でしょうね。左右に一対並んでいます。奥には右から聖観音・地蔵菩薩・聖観音・十一面観音?が並んでいます。右奥のこちらが札所本尊です。よく使う表現ですが、衣服が本当に滑らかに表現されているんです。表情も柔らかく慈悲に満ちています。厨子入りのこちらの聖観音も相当に古そうですが、なにか御由緒はあるんでしょうか?斜めから。根城南部氏と関りのある寺院でした。古くは根城の東の守りとして、現在は地域住民の墓守として、この地に鎮座しています。地獄絵や羅漢像など、当時の人々の生死感に影響を与えていたであろう信仰の片鱗が、今でも良く見られるのも面白いところです。札所本尊も素朴な信仰をあらわしているようで、非常に見ごたえがありました。是非ともご参拝ください御詠歌こひねがふ 今はさわさと龍源寺 二世安楽を いのるこの寺現代新御詠歌白毫の 光りかしこし観世音 さやけく立てる龍源禅寺札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर以上です。次の記事・十二番札所:八坂神社(田向村観音堂) 疱瘡除の信仰を集める元観音
2026年03月06日
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飛騨と共に大工の町として有名な気仙沼。この町の大工たちは気仙大工と呼ばれ、気仙沼市内や陸前高田・大船渡などに素晴らしい御堂を幾つも残しているのです。そんな素晴らしい御堂を味わうには、気仙三十三観音をまわるのが一番なんですが、札所以外にも彼らの作品が見られる寺院があります。それが今回紹介する補陀寺です。2025.7.12奥州三十三観音霊場三十番札所:白華山 補陀寺 観音堂気仙沼市の駅北に曹洞宗の古刹が境内を構えています。境内の入口には落ち着いた雰囲気の寺門が建ち、それが竹や木々に囲まれている様は、本当に曹洞宗らしい風情があって好みです。山門をくぐる前に、右に少しいった所に建つ御堂を見ておきましょう。墓地の一画に建つこの小堂には、太子堂の扁額が懸かっています。堂内にはまるで山伏のような姿をした仏像が収められています。これも聖徳太子なんでしょうか?それでは山門に戻り、境内を見ていきましょう。山門をくぐるとこんな感じで堂宇が配されています。奥にあるのが本堂と位牌堂?で、その手前には御神木クラスの巨木が繁ります。この巨木は補陀時のモミと呼ばれており、樹齢はなんと500年とも言われています。市指定天然記念物となっているようです。巨大なモミの木を横目に、左の方を見てみると、何とも麗しい六角形の御堂が建っています。写真では伝わりづらいんですが、一般的な観音堂と比べても大柄な御堂です。この六角堂に奥州三十三観音霊場の札所本尊が収められています。六角堂の縁起を見てみましょう。補陀持六角堂・・・。 三十番札所の御本尊如意輪観世音菩薩は、坐像の木彫り走りで恵心僧都(942~1017年)の作といわれている。それを安置する六角堂は、奥州三十三番札所の再興に尽力した八世智膏和尚が宝暦12年(1762年)に現行の札所を復活させたという大願成就を記念して発願し、弟子遼天(当寺九世)の代に完成したと伝えられている。六角の建築は八角に比べて辺と辺の交叉部や軒を支える組み物が難しく、屋根組みの構築には特に技巧を要するため全国でも非常に稀な建築物とされている(県指定文化財)。 御堂の内外とも朱塗りで、一辺の長さ2.7mの六角形、高さは宝珠上端まで8.2m、屋根は六角錐体で赤瓦葺き。堂内天井には墨絵の龍が描かれ、唐様の須弥壇に家形厨子をのせて御本尊を安置している。御開帳は33年に1度。 ・・・。岩手・宮城・福島 奥州三十三観音の旅 改訂新版 河北新報出版センター 134ページ より引用ふむ、奥州三十三観音霊場再興巡礼の大願成就を祝して建てられた御堂だったんですね。堂内には札所本尊の如意輪観音と共に、三十三観音が収められています。如意輪観音像は恵心僧都作と伝わる秀作で、御影は奥州三十三観音霊場のガイドブック(御由緒引用元)にてご覧になれます。丸顔で肉付きの良い像容が特徴的です。黒く錆びた姿に反して、宝冠や胸飾り・舟型光背は今でも金色に輝いておりました。六角堂の左手にはこのような石碑が建っています。碑面には”菊地英二先生之碑”と刻まれていました。特に詳しく調べてはいませんが、竹林を背景にして建つその様は趣深いの一言に尽きます。六角堂斜めから。それでは次は、本堂の由緒などを見ていきましょうか!本堂です。よくある感じの造りなんですが、窓や向拝の意匠に気仙大工達の魂が表れています。御由緒です。白華山 補陀寺曹洞宗 金仙山圓光寶鏡寺末寺中興開山:宝鏡寺六世 周庵文懊和尚本尊:釈迦三尊 JR大船渡線気仙沼駅と線路を隔てて北側わずか200mに三十番札所の補陀寺がある。道路から七段の石段を上ると山門、さらに石段十八段を上ると本堂の前庭に出る。その左手に六角形の観音堂があり、右側は池を配した庭園になっている。裏山の竹林を背にした本堂は八間(14.4m)四面、 正面向拝の彫刻の精緻さにいわゆる気仙大工の技の神髄を見せられたような思いがする。手入れの行き届いた境内の庭園は心やすらぐ静寂の中にあり、人々の往来の激しい駅のすぐ近くとは思えないほどである。 寺伝によると補陀寺の開山は寛平2年(890年)。補陀落寺という天台寺院で同市赤坂の小沢田にあったと伝えられている。その辺り一帯はかつて入り海だったため時化で海が荒れると境内が波に洗われることも多く、次第に寺も廃れてしまった。葛西家臣で細浦館主の熊谷直元がその衰退を嘆き文亀元年(1501年)に正法寺九世の虚窓良巴禅師を招き、細浦の地に曹洞宗補陀寺を開創、天文7年(1538年)に宝鏡寺六世の周庵文懊和尚が現在の地に移して中興開山したと伝えられている。以後、寺運安定して今に至っている。 山号は、当時本堂の前庭に柏の大木があったことから柏華山と号したが、後にこれを白華山に改めたという。 ・・・。 補陀寺歴代の住職の中には後世に名を残した名僧も少なくない。前述の通り八世梁有智膏和尚は、奥州三十三観音の再興のために有志の僧とともに巡礼をして札所復活の大願を果たした。その再興巡礼にあたり作ったという「奥州れい仏順礼三十三番札所融通歌記」と札所創設者「名取の神子旭絵像」の木版は寺宝として今に伝えられている。 九世日東遼天和尚は六角堂の完成後、北野天満宮の勧請や市内新町・三日町・八日町を結んだお日市を創設し、商売の活性化に貢献した。また、自ら木食遼天を名乗って諸国を遍歴し、独自の作風で仏像を彫り各地の信者に分け与えた。散在する仏像は発見されているものだけでも60体。美術家や歴史家の注目を集めている。岩手・宮城・福島 奥州三十三観音の旅 改訂新版 河北新報出版センター 132~135ページ より引用もとは天台宗寺院だったんですね。一時衰退するも、この地の有力者である熊谷直元公、奥州曹洞宗の根本寺院 正法寺などの援助を受けて16世紀に再興を果たします。ではお待ちかね、気仙大工の真髄を見てみましょう。こちらは本堂向拝の彫刻です。・・・何というか一目で凄いと分からせるすんばらしい仕上がりですよね!懸魚の鳳凰は長い尾羽がたなびき、蟇股の龍は鱗1つ1つがさざめいているかのようです。虹梁では3匹の獅子が戯れ、毬や花々・蔦がそれらを飾っています。木鼻は一般的な獅子と象の構成ですが、表情は柔らかく、生き生きとしています。うーむ、良いですね。ここまで上等な木彫にはなかなか出会えないでしょう山号額。繊細な筆致です。本尊です。中央の釈迦如来に文殊菩薩・普賢菩薩が脇侍として附く一般的な三尊スタイルでした。斜めから。カラーリングといい、樹叢と調和した境内といい、禅宗寺院の何たるかを体現しているかのような寺院でした。何気に気仙沼市は面白い神社・仏閣ばかりで、それらには素晴らしい彫刻が付随しているんです。こちらに来た時には、是非とも直にご覧になっていってくださいね!美しい本堂にウットリしつつ、締めたいと思います。御詠歌あつまぢや かかれる罪と補陀洛の 寺居に澄める 月よ心よあつまじや かかれるつみとふだらくの てらいにすめる つきよこころよ本尊:如意輪観音 चिन्तामणिचक्र今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・三十一番札所:江峰山 聖福寺 白坂観音堂 七面の仏を祀る観音堂
2026年03月03日
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青森市街から車で数十分の所に、津軽でも指折りの温泉地 浅虫の町が広がっています。三日月型の小さな町で、2本のメイン通りに沿って家々が並んでいます。高架下をくぐると町の奥に向かえます。かなりの細路地で、昔の地割のまま道路だけが近代化されたような風情があるんです。津軽三十三観音霊場・津軽百八霊場の札所にもなっている安養山 夢宅寺もこの集落に境内を構えており、巡礼をしている方は避けては通れぬ道なのです。込み入った集落に対して、浜べりの方はかなり開けていて、晴れた日であれば津軽半島の東岸や下北半島までもが臨めます。青森ってホント面白い形してるなぁと思わぬ人はいないでしょう。浜辺からふと山手の方に目を向けると、山間に大きな建物がポツンと建っているのが見えます。あそこが今回紹介する札所の陸奥護国寺です。2024.6.9津軽弘法大師霊場十八番札所:浅虫高野山 陸奥護国寺東北の大道 国道4号から逸れた所に、山門がひっそりと建っています。ここから境内に向かうことができるんです。門に付随する木塀は、何だか関所のようにも見え、俗世と境内を別けるかのような趣が感じられます。山門の先にはかなりキツそうな上り階段。久渡寺程ではありませんが、こちらもなかなかに根気がいります。休みながらでも良いでしょう。鬼のような石段を登り切ると、地蔵菩薩が出迎えてくれます。願わくばこの足の乳酸を取り去ってください・・・と一心に願いました少し進んだ所には不動明王もありました。なかなか迫力のある表情をしていますね。勢いよく湧き上がる迦楼羅炎も見事です。浅虫高野山 陸奥護国寺は、ぱっと見普通の民家なんですが、高野山 遍照尊院の青森別院という格式高い寺院なのです。まずは御由緒から見てみましょう。浅虫高野山 陸奥護国寺高野山真言宗準別格本山 高野山遍照尊院末寺?中興開山:堤隆興本尊:弘法大師 当寺は青森にある高野山真言宗の密教寺院でございます。 そもそも当寺の開山は、紀州高野山塔頭の遍照尊院が津軽に別院を置いたことを起源としています。遍照尊院は高野山塔頭の中で鎌倉時代中期に開創された寺院であり、青森津軽家の菩提所となった寺院であります。ところが、のちに諸事情によって僧の派遣が滞り、別院を一時閉鎖することとなり、当寺は史上から名を消すこととなります。 大正に入り、遍照尊院に弟子入りした青森出身の尼僧堤隆興が、地元に一庵を築きたいと申し入れたことから、当時の住職 目黒隆見僧正が尼に別院再興の悲願を託し、その後押しもあって大正末年、青森は港町に一庵を建立して、高野山遍照尊院別院の中興に到ったのであります。 昭和10年(1935年)には、旧津軽藩主の遊山地で住昔蝦夷の籠城があったとされる現在の地に、仏縁を頂き移転しました。移転時、裏山境内地に八十八ヶ所石仏霊場を開場し、更なる聖地をしての威厳を高め、今日も荘厳な雰囲気を保っております。 本堂に祀っている毛綱(女性の髪の毛を編んだ綱)は、この八十八ヶ所の石仏を配置するのに使われたもので、難航を極めた工事の中で丈夫で切れることがなく、工事完了に到ったのは髪に宿る女性達の強い信心のお陰だと賞賛されたそうです。 その後、遍照尊院の末寺で岡山の豊楽寺向井坊を委譲され、別院と統合することで昭和15年(1940年)、陸奥護国寺の寺号認可を受け、昭和23年には、本山より高野山真言宗準別格本山の寺格を賜りました。そして、本州最北の高野山霊場として現在に到っております。高野山真言宗 浅虫高野山 陸奥護国寺 / 陸奥護国寺のご紹介 より引用20世紀前半に中興された寺院です。寺格に比例してか、本堂内には色々な仏像が置かれています。まず右手には千躰水子地蔵。中央の黒鉄の水子地蔵の両脇を囲むように、黄金の水子地蔵小像が幾つも置かれているのです。ここまでズラリと地蔵尊が並んでいるのは、津軽広しと言えどなかなか拝めないのではないでしょうか。左手には白衣観音や不動明王など、寄進されたような仏像がチラホラ。そして堂内中央には、荘厳な厨子に安置された本尊:弘法大師像が居わします。他地域ではどうか分かりませんが、津軽では弘法大師が篤い崇敬を受けており、宗派問わず祀っている所が見られます。特に面白いのが、子安大師など地蔵尊のようなバリエーションが見られる事です。本来の弘法大師信仰から派生した独特の信仰が、津軽には根付いているのです。参拝を終えて本堂を出ると、眼前には満面の水を湛える陸奥湾が広がっています。津軽と南部に分かれていた時でさえ、この陸奥湾を介して密かな交流があったというから驚きです。波は穏やかで豊富な海産物をもたらしてくれる陸奥湾は、津軽ひいては青森になくてはならない内湾なのです。陸奥護国寺から臨むこの景色を、じっと目に焼き付けました。御詠歌そう聞きて たどる高野の坂道を のぼれば高き 大師御徳そうききて たどるこうやのさかみちを のぼればたかき だいしおんとくまた見んと のぼりて拝む浅虫の 大師とわれと 深き縁ぞまたみんと のぼりておがむあさむしの だいしとわれと ふかきえにしぞ寺院本尊:弘法大師 (御宝号)南無大師遍照金剛以前貰った御朱印です。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・高野山真言宗 浅虫高野山 陸奥護国寺以上です。
2026年03月02日
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奥州札所には時々目が飛び出るほど昔に創建された寺院などがあるんですが、今回紹介する札所もその1つです。境内を構えているのは、奥州街道から津軽方面に直接抜けられる鹿角街道の起点 八幡平。岩手県有数の温泉地として知られ、疲れを落とすには持って来いの土地と言えそうです。街道を抜けた先の鹿角・津軽南部共に行基開創の伝説を持つ札所が散らばっており、なにか行基菩薩を崇敬する集団がこぞって入って来た土地なんではないでしょうか。2025.7.20奥州三十三観音霊場三十一番札所:江峰山 聖福寺 白坂観音堂うだる暑さの中、古風な建物が残る街道を走り、丁字路付近で細路地に抜けました。小川に架かる橋の先には杉並木が伸びており、どうやらお寺の参道のようです。墓地の駐車場に車を停め、勇み足で境内へと向かいました。大体の曹洞宗寺院(他宗の寺院でも)では境内入り口に六地蔵が置かれています。この寺院も漏れなく六体並んでおりました。本堂を前にして、チラリと右を見てみると札所の白坂観音堂が置かれていました。今でこそ聖福寺境内に置かれていますが、もとは七時雨山の麓に置かれていたんだとか。聖福寺に遷ったのは近代になってからのようです。先にこちらを見たいところですが、まずは本堂の方を見ていきましょう。聖福寺本堂です。木々に囲まれて見えずらいですが、所々の木彫装飾は見事で古雅な風格が漂っています。禅宗らしい落ち着いたカラーリングも好みです。では、ご由緒です。江峰山 聖福寺曹洞宗 盛香山永泉寺末寺開山:永泉寺二世 尽室長春大和尚開基:北愛一彦助(北定愛とも)本尊:釈迦三尊 江戸時代に南部盛岡藩により整備され、鉱物資源や塩などを運ぶ重要なルートだった鹿角街道。岩手では津軽街道とも呼ばれ、現在の西根区には宿場町があり、多くの人や物資が交流した歴史の街だ。 県道から少し入ると染田川が流れ、橋を渡ればそこが聖福寺の境内である。墓地の間を通り抜けると、正面に本堂があり、前庭の右角に観音堂が立つ。聖福寺は、慶長3年(1598年)に初代の寺田城主である北愛一彦助の開基で、 盛岡市永泉寺二世尽室長春大和尚の開山と伝えられている。 本堂は七間(12.6m)四面、 明治24年(1891年)に再建されたもので、その後も何度も補修を重ねてきた跡がうかがえる。 御本尊釈迦牟尼仏は平安末期の作で由緒ある仏と伝えられ市指定文化財である。寺内にはこのほかにも市指定文化財が数点あり、大切な市の歴史を今に伝えている。 ・・・。岩手・宮城・福島 奥州三十三観音の旅 改訂新版 河北新報出版センター 136ページ より引用豊臣秀吉に喧嘩をうった漢、九戸政実の乱後に建立された寺院です。寺院裏手にあった寺田城は、元は津軽郡代 石川高信によって築城されたと言われています。政実の乱以前は一戸氏の持城として機能していた様ですが、一戸氏が九戸方に付いて戦ったため、乱後は主無き城となります。そこに三戸南部氏の庶流である北氏が入城。その時の創建となります。本尊の釈迦三尊像です。鍍金が剥がれ、漆が露出したかのような黒光りを見せております本像は、なんと平安時代末期の作と言われており、市指定文化財となっています。堂内には釈迦三尊の他にも面白い仏像があります。黄金の厨子に入った古めかしい地蔵尊像で、光味地蔵菩薩と呼ばれております。こちらも平安時代末の作であり、かつては南部藩家老 楢山佐渡の守り本尊であったと言われています。今では県指定文化財になっているようです。以下のサイトにて、その御影をご覧になれますよ(サイト内では木像地蔵菩薩立像と表記)!・八幡平市観光協会 / 八幡平市の文化財↑のサイトでは、当寺院の他の文化財もご覧になれます。斜めから。素晴らしき本堂、しかと拝見しました。続いて観音堂を見ていきましょう。小振りながらも年季のいったその姿、数百年の歴史を持つ奥州三十三観音霊場の札所にピッタリの仏閣です声を掛ければ堂内にてお参りすることも可能です。御由緒です。白坂観音堂開山:行基菩薩開基:桑原将監吉事本尊:七面聖観音・・・。 三十一番札所の観音堂は別名白坂観音堂と呼ばれ、神亀5年(728年)に行基菩薩の創建によるもので聖武天皇(724~748年)の勅願所として勅使 桑原将監吉事が派遣されたと伝えられている。その後の延長8年(930年)朱雀天皇(930~945年)が再興して寿応山 沢両寺を建立。その証しとして直径1m余、重さ12km余の鋳造の大鏡が秘蔵されている。 御本尊はとても珍しい鋳造の七面観世音立像で、台座とも50cm余、作者も年代も明らかではないが、かなり古い時代のものと推測され、大鏡とともに市の文化財に指定されている。御開帳は毎年7月17日、縁日も一緒に行われる。 8世紀という大昔に、都から遙か遠いこの辺境の地に、なぜかくも朝廷と深く関わりのある寺があり、仏教文化が花開いたのかは日本史の謎のひとつ。また、創建が行基菩薩で聖武天皇の勅願所だったことなども不思議ではあるが、その事情については何も伝えられていない。 聖福寺がこの札所を護持するようになったのは明治8年(1875年)以降で、それまでは現在の上寺田バス停の町裏、田圃のほとりにあったといわれている。さらにその前は、東田川の上流5kmの白坂というところにあり、それが一名 白坂観音と呼ばれるゆえんである。もっと時代をさかのぼって草創当初は、さらに北の七時雨山(1060m)の麓にあったと伝えられているが、場所は特定できない。 藩政時代までの白坂観音は、修験 南岳院が別当を務めていた。明治維新の神仏分離によって南岳院は還俗し、御本尊はじめ一切の寺宝は聖福寺に移管された。 昭和49年に大改修された現在の観音堂は、二間(3.6m)四面に欄干のある二尺(60cm)の濡れ縁をめぐらしている。本堂に安置されている県指定文化財の光味地蔵菩薩は、桂材で彫刻された総丈75cm、平安末期の作とされている。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ、その穏やかな表情にだれもが心を和ませる。岩手・宮城・福島 奥州三十三観音の旅 改訂新版 河北新報出版センター 136~139ページ より引用行基菩薩開創の伝説を持つ霊場です。最初は七時雨山の麓にあったようですが、数回の移転を繰り返し、今では聖福寺境内に落ち付いています。もとは南岳院という修験僧が別当を務めていたんですね。それが明治の修験禁止令に伴い還俗し、管理者を失った白坂観音堂は聖福寺に遷されます。修験というと神仏混淆が特徴ですが、今でも堂内には神鏡などが多く、その時の名残りが見られます。御堂の入口には古めかしい鰐口と、かっこいい扁額が懸かっています。堂内です。3つの厨子がありますが、中央以外の厨子には何が収められているのかは分かりません。厨子手前の神鏡は”白坂の大鏡”と呼ばれるもので、市指定文化財です。この神鏡に本尊の七面観音が取り付けてあった(懸仏だった)という説もあり面白いです。本尊の七面観音自体も市指定文化財になっており、金属製の仏像としては大きく、法量は50cmもあります。像容は完全に聖観音なんですが、化仏が6つ付いており、パッと見は十一面観音の様にも見えます。七面観音という名前は、この特徴的な見た目から来ていることは言うまでも無いでしょう。七面観音の御影は、以下のリンクからご覧になれます!・八幡平市 鹿角街道WEB / 歴史・文化資源 / 七面観世音菩薩七面観音について、↑のサイトの説明書きも載せておきます。七面観世音菩薩 頭頂部の二段に六面の化仏(けぶつ)を配し、天衣(てんね)、条帛(じょうはく)をまとい、右手は念じ、左手は蓮華を挿した宝瓶を持っています。腰裳を身に付け、蓮華座に直立する御姿は、観音経の七難即滅を現しています。 後頭部・背面は無いことから、かつては大鏡と一体化した『懸仏(かけぼとけ)』だったとの言い伝えがあります。斜めから。いつ頃持ち込まれたのか、かなり古い仏像が収められている札所でした。特徴である七面も、背部が神鏡とくっついていたから、化仏を付けていなかったと考えれば合点がいきそうです。このブログでは懸仏説を推したいと思います。御詠歌紫の 雲を染田の観世音 ただ十念の おこたらぬ身をむらさきの くもをそめたのかんぜおん ただじゅうねんの おこたらぬみを本尊:白坂観音(七面聖観音) आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・三十二番札所:北上山 正覚院 大河の一滴を生む観音堂
2026年03月01日
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名取熊野三山の根本地とも言える高舘山。名取市の西方にある御山ですが、この高舘山を中心として、紀州熊野三山に倣い、熊野各神社が三社勧請されているのです。神社もあれば別当もあるという事で、熊野三社の別当だったとされる寺院も幾つかあるようです。奥州三十三観音霊場の札所の内、3つはこの名取熊野三社と関連する物となり、奥州巡礼も熊野信仰と関りが深いものと言えそうです。2025.3.22奥州三十三観音霊場三番札所:桑島山 金剛寺 観音堂(川上観音堂)今回見ていくのは三番札所の川上観音堂です。名前の通り、今でも川沿いに境内を構えています。今でこそ集会場と公園とに飲み込まれていますが、鐘楼や観音堂は現存しており、往時の姿を思い起こさせるかの様相でした。観音堂向かって左側には鐘楼。古めかしい銅鐘が吊ってあり、今でも時折その雄音を響かせてくれます。鋳造されたのは宝暦10年(1760年)であり、明治の金属供出を逃れて現存しているんでしょう。観音堂です。二間四面の小堂で、屋根は仏堂としては一般的な宝形造です。外観からして、現在の観音堂はそれほど古いものでは無いでしょうが、本尊の十一面観音は慈覚大師作と伝わる古仏で、なんとその法量(大きさ)は2mだそうです御由緒をまとめてみました。桑島山 金剛寺 観音堂(川上観音堂)旧別当:桑島山 金剛寺現別当:熊野山 新宮寺本尊:十一面観音 高館山の東麓に境内を構える小さな観音堂です。地域の集会場の一画に建てられており、その近くには遊具なども並んでいます。どのような伽藍を構えていたのか、どんな歴史を持っていたのかなどは不明で、かつての姿を思い起こさせるのは鐘楼のみとなっています。 鐘楼堂の釣鐘は宝暦10年(1760年)の銘が刻んであり、これは奥州三十三観音巡礼の再興巡礼(1761年)の前年にあたります。この再興巡礼によって、現在の札所構成になったため、少なくともそれより以前から、この観音堂が存在していたことは確かなんではないでしょうか。 本尊は十一面観音。慈覚大師の作と伝わる作品で、法量は2mにも及ぶんだとか。普段は厨子に納められ直に拝むことは出来ないようです。慈覚大師は比叡山三代座主ということで、この霊場も天台宗の影響を強く受けていた可能性があります。 名称は川上観音堂・金剛寺観音堂などいくつかあるようです。この内、金剛寺観音堂と呼ばれるのは元別当の桑島山 金剛寺に倣ったからでしょう。現在は金剛寺の本寺である熊野山 新宮寺が別当を務めており、こちらで御朱印がいただけます。いつ御開帳とかは不明なんですが、厨子の前には御前立の十一面観音像があります。斜めから。謎の多い観音堂でしたが、再興巡礼(1761年)以前から存在する古仏堂ということは確かそうです。今では往時の繁栄ぶりを見ることは出来ませんが、伝承上は慈覚大師の作ということになっている十一面観音像が本尊として祀られ、古刹の風格は十分です。・・・というか、この様な小堂で実は数百年の歴史がある、みたいな由緒は大好きです装飾こそ少ないですが、御堂自体はかなりキレイに管理されており、東北の素朴ながら篤い観音信仰の風情を大いに味わいつくすことができるんですよ!新山観音堂しかり、奥州札所の中でも特に気に入っている札所です。是非ご参拝ください御詠歌後の世を 頼めや頼め諸人を すぐに導びく 法の教えぞのちのよを たのめやたのめもろひとを すぐにみちびく のりのおしえぞ本尊:十一面観音 एकदशमुख今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・四番札所:安狐山 斗蔵寺 山の上の鎮守と別当、斗蔵山の古社・古刹
2026年03月01日
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