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2026年03月21日
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歴史と文化の街、岩手県南部奥州市周辺には、古刹から延喜式内社まで、数百年に及ぶ歴史を持つ霊場が溢れています。多くの霊場は坂上田村麿・慈覚大師円仁・奥州藤原氏・源義家など、様々な有力者による開創譚を持ちますが、東北の他の地域と異なるのは、それらが混然一体としていることです。行基が開基し坂上田村麿が再興しただの、複数の系統の伝説が折り重なっているのです。それはこの土地が、歴史的に見ても大規模な戦闘の舞台に何度もなっているからでしょうか。蝦夷と田村麿に始まり、中央権力と安倍氏、源頼朝と奥州藤原氏・・・、戦国の頃には大崎氏と伊達氏など、挙げるとキリがありません。
極楽浄土を模した華々しい仏教文化とともに、漂ってくるのはいつも戦火からのぼる煙の匂い。様々な勢力が隆盛と没落を繰り返す様は当に諸行無常。常なるものなど無しと思えよ。

2024.11.2
岩手三十三観音霊場三十二番札所:岩谷堂山 多聞寺


カッコつけて始まりましたが、今回紹介する札所は奥州の町の北東、川の側の高台に境内を構えています。ぱっと見は札所よりもこちらの建物が目立ちますが、奥に行くと小さな仏堂があり、境内を示すかのように石碑類が現存します。



↑の建物は岩谷堂共立病院。今では病院としての役目は終えていますが、その建築美は健在です。それが現存しているともなれば、大変貴重なため県指定有形文化財に登録されています。
※説明書きは省略。画像を載せるだけに留めます。



札所の近くを細い小川が流れています。こちらにも、なにやら伝承が残っているみたいです。↓に説明書きを載せますね。




人首川(ひとかべがわ)の名称の由来

 今からおよそ1,200年の昔、大和朝廷の命を受けた坂上田村麻呂は蝦夷征討のため大軍を率いて奥州に攻め下った。
 田村麻呂は延暦20年(801年)、西磐井郡平泉町の​ 達谷窟 ​を拠点とする蝦夷の大豪族 悪路王(大墓公阿弖流為)を討伐したが、その弟の大武丸の子人首丸は、この川の上流にある米里(旧人首村)の大森山まで逃げ延びて抵抗を続け、遂に田村麻呂の女婿 田原阿波守兼光に討たれた。
 大森山には、今も人首丸の墓といわれるものが残されている。
 人首川はこの大森山を源流とし、このような歴史的背景が、その名称を生んだものと伝えられている。
江刺市



東北のみならず、東日本の山々には、”おおたけまる”と坂上田村麿の伝説が残っています。おおたけまる=在地の蝦夷有力者と考えれば、そうした勢力が息づいていた所に、そうした伝説が残るのも頷けますが、伝説の域を出るものではありません。
蝦夷と絡めた説以外には、室町時代に成立した”田村の草子”に関するものが挙げられます。この御伽草子が各地に広まるにつれ、田村麿の事蹟が民衆の知る処となりました。そうした中で「うちの神社・寺は田村麿が建てたものだ」などと箔付けしはじめた者がいたんではないでしょうか。それが今日に残る田村麿創建伝説に繋がっていると思うんです。これ自体も確たる証拠は無いんですが、田村麿が訪れていない青森県などにも伝説が残っているのは、こうした”文学作品の広まり”という背景があるように感じます。

それでは境内の方も見ていきましょうか。
境内の端の方には、新しめの観音像。参拝者をあたたかく迎えます。



毘沙門堂です。多門寺のこれ以外の堂宇は明治初期の火災によって焼失しているので、今では実質本堂となっています。



​御由緒を見てみます。
岩谷堂山 多聞寺

真言宗智山派 ​ 愛宕山興性寺 兼務
開山:慈覚大師
本尊:毘沙門天

 嘉祥3年(850年)慈覚大師開基、当初岩谷堂城本丸直近に建立。江戸時代(明暦年中・1655~1658年か)に南町現在地に移転(南町の地名は多聞寺の南なので南町と称された)。江戸時代は巡検使立寄の寺院として、また、末寺 重染寺・大麟寺・常光院の3ヵ寺を数えた。
 平泉へ源義経のお供をしてきた鈴木重家が、文治5年(1189年)4月平泉を逃れた義経に随順し岩谷堂まできて、投宿のお礼に鎧をおき義経は北行を続けたと伝える。
 明治8年(1875年)、組合病院として境内に建てられた建物は、昭和30年代まで町役場に転用されていた。菊田一夫の「鐘の鳴る丘」のトンガリ帽子の時計台のモデルがこの病院の三階の塔であったことは、菊田一夫が岩谷堂へ疎開当時の連想であると、本人によっていわれていた。

 慈覚大師以来、 江戸初期まで天台宗系であったが、天和2年(1682年)から真言宗になった。
 現在残っているものとしては、南北朝時代の聖天さまがある。上野の東京博物館で鑑定していただいたところ、現在のところ日本一古い金銅聖天像だとのことであった。筆塚は、 仙台藩大橋・養賢堂(東北大学前身)教授、当地出身 志村五城書である。
 明治5年(1872年)11月23日、岩谷堂大火に類焼し、大檀那岩城家、岩谷堂町商家ともに、版籍奉還、大火による体力不足など時代による没落などにより再建がかなわず、大正11年(1922年)毘沙門堂のみ信徒により再建されて今日に至る。昭和62年には講中始め地域住民の絶大な支援により改修工事を行った。
 平成12年開創1,150年。記念事業:講中 法被新調、講中 輪袈裟新調、講中 門先提燈新調、講中 旗立基壇設置。

【歴代住職】
・開基:慈覚大師
・江戸中期文化年間(1804~1818年)は宥潮
・明治初期:宮城義延
・大正年中(1912~1926年):白井憲阿
・昭和年中:司東眞雄
・昭和52年9月12日:現住 司東和光就任

【霊場札所】
・岩手三十三観音霊場三十二番札所
・江刺八十八ヶ所霊場奥の院

【年中行事】
・旧曆正月3日
・旧曆6月3日
・きうりこ天王
岩手三十三観音霊場へのいざない 岩手三十三観音霊場会 72.73ページ より引用

円仁開基の霊場でした。慈覚大師開創の霊場は、やはりもとは天台系の寺院だったんでしょうね。青森県にも慈覚大師創建の伝承は数例残っていますが、何れも天台宗的な風情が残る霊場です。
例を挙げると、東北の大霊場 ​ 恐山 菩提寺 ​、浅虫の名刹 ​ 安養山 夢宅寺 があるでしょうか。円仁開基の霊場は、今でこそ曹洞宗や浄土真宗など、他宗の霊場になっている所が多いんですが、本尊からも元は密教系の寺院であったことは明白です。

そして札所本尊ですが、十一面観音となっています。堂内を覗くことは出来なかったんですが、ガイドブックにその御影が載っていました。厨子に入った小さな像で、頭に対して化仏が大き目なのが特徴です。光背は舟形を2つ重ねたような造りで、像の膝から化仏頂上を覆う位の大きさです。
特に由緒の方も語られてはいませんが、巡礼の札所本尊になっているからには、長年巡礼者の崇敬を集めてきたことは確かでしょう。

更に当霊場、義経北行伝説の舞台となっています。
説明書きを見てみましょう(黄文字手前は省略)。




伝説源義経北行コース  多聞寺

 ・・・。
 ・・・「平泉を脱出した義経主従は、その途中、この多聞寺に投宿し、その謝礼として鈴木三郎重家の「笈」を置いて去った。」と伝えられている。
 この多聞寺は、明治5年の火災ですべてが灰になったため、今はその「笈」も見るすべもないが、広い境内には「弁慶の腹掛の松」と名付けられた老松などもあったという。



↑の御由緒の方では、鈴木重家の”鎧”でしたが、ここでは”笈”になっていますね。かくも伝説と言うのは、こうして様々な異説を生むものです。在地の人々がこうした伝説を口伝で伝えてきたことの表れではないでしょうか。

斜めから。
今でこそ小さな仏堂しか残っていませんが、かつては3ヶ寺の本寺を務めた大寺院ということで、歴史のはかなさに想いを馳せずにはいられません。義経北行伝説の舞台にもなっており、岩手や江刺の観音巡礼とからめてまわるのも面白そうです。




ふるくより 伝えられたる法灯に 今新らしき 願い立てまし

札所本尊:十一面観音 एकदशमुख

今回貰った御朱印です。
※朱印所は三十三番札所:愛宕山興性寺



以上です。

次の記事
・三十三番札所:愛宕山 興性寺 江刺の煌めく十一面観音

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最終更新日  2026年03月21日 10時46分12秒
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