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信長が土地問題に対する天皇の口出しを好まなかったのも、暦の統一問題についても、「天下統一後」の天皇家の扱いについて一定の考えがあったことに起因しています。それはおそらく「ローマ教皇方式」とでも言うべきものでしょうか。「聖」と「俗」とでそれぞれの「権威」が並び立つ、といったような。天皇は世俗のことには一切口を出さず、その宗教的権威で典礼、儀式の為に存在すればよく、政治、経済の一切は信長が取り仕切る、といったスタイルです。多くの学者が、正親町天皇との対立から信長は自らの神格化に走り、天皇制の廃止まで考えていた、と主張していますが、そうであれば誠仁親王の囲い込みや三職推任(実際に信長は最終的にどれかの役職を受けたであろう証拠もある)の件はどうとらえるのでしょうか?意に沿わない天皇なら、かつて鎌倉幕府がしたように捕まえて島流しにでもすればよさそうなのに、信長はそこまでは出来ない。私が「お人よし」といったのはこんなところなのですが。ただ、洛中で何度も馬揃え(軍事パレード)をやるなど、圧力は加え続けてはいましたが…さて、天皇の立場で見たら、信長をどう捉えたのでしょうか?自らの居城に「清涼殿」を建てるし、その「清涼殿」を見下ろすような天守閣も作ってしまう。元来朝廷のみが行える仕事であるべき「改暦」にも口を出す。しかも天皇自らの進退である「譲位」まで要求する…まさにやりたい放題で不遜な奴、と思ったことでしょう。安土城の件については、足利義満が似たようなことをしてます。そして義満は足利家による皇位簒奪計画を進め、その成功の一歩手前で急死しました。(当然毒殺である可能性が強い)信長にもそのような邪心があるのではないか、との疑心も生じたことでしょう。ましてや「安土」です。京都はもともと「平安京」と呼ばれていましたが、まったく「平安」ではない都です。それに対して信長は自らの居城のある町を「安土」と呼ばせていることに、天皇以下朝廷の皆はあてつけを感じたのではないでしょうか?「安土」とは平安京の語源である「平安楽土」の「安」と「土」から来ていますから。さらに朝廷が不安に感じたのは、信長が全ての官位を辞して、無位無官の状態にあることです。官位を得ているということは、形式上ではありますが、少なくとも律令の範囲内にある、つまり天皇の臣下として立場にあるということです。それがないということは即ち自由に行動が出来るということ。朝廷を滅ぼしても「逆臣」とはいわれない立場にあるわけです。(悪逆非道と徹底批判されるでしょうが)(しかも信長は京都に自邸をもっていないのです。定宿は「本能寺」でした)ただ、注意すべきは皇太子は信長が「保護」しているわけで、最悪正親町天皇が譲位しても天皇家は継続する、という考えもあったでしょう。しかし皇太子が信長に「取り込まれている」とすれば…結局誠仁親王は天皇になれず、その子が後の後陽成天皇となったのには、信長に「取り込まれた」(と思われた)過去が朝廷の人々に納得をさせなかった結果だと推測されます。さらに、朝廷が滅ぼされれば、歌を詠むくらいしか取り得のない公家達の行き場も失われます。信長に近い立場にいる少数の公家は大丈夫でしょうが、それ以外の多数を占める公家達は天皇に不安を訴えたはずです。そして、その不安の解消(問題の解決を図るために)のために三職推任という形が取られたのです。ここに至るまでの間、正親町天皇と信長の確執はのっぴきならないものにまで発展していました。信長としては、天皇家に手をつけない代わりに、「俗」の部分で新たな権威を作りたかっただけだろうし、その結果、朝廷には「俗」には口をだすな、という恫喝にもなったのだと思います。それが、信長が朝廷に取って代わるつもりなのではないか、という疑念に変わり、さらにはある人物からの手紙が朝廷をある決意に追い込んだと思われます。次回からは信長最大の謎である「本能寺の変」について考察をしていきたいと思います。
2005/01/27
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さて、そもそも信長は幕末風に言えば「尊王」「佐幕」をスローガンに上洛を果たしたわけですが、結局のところ「佐幕」は義昭を追放したところでまさに「終幕」となり、信長の天下統一のスローガンは「尊王」、すなわち朝廷を中心とした国作りしかなくなってしまったかに見えました。ところが、その朝廷(というより正親町天皇個人か?)と信長の間柄は必ずしも芳しくはなかったようです。もともと、信長の父信秀は御所修復費用等を献上するなど勤皇の志が篤く、朝廷としてもその息子が戦乱で疲弊する京都を再興してくれるというのですから非常に安心しきっていたに違いありません。しかし、問題は朝廷の収入源についての考え方でした。朝廷には天皇の「私領」がありました。こう書くと「あれっ」とお思いになる方もいるでしょう。その方はかなりの歴史通です。そうです。もともとこの日本国は律令によって「公地公民制」が確立していました。つまり国土は全て国家(=朝廷)のもの。国民も国家のもの、というはずでした。ところがその後実権を握った藤原氏が「三世一身の法」「墾田永年私財法」という法律によって私有地を合法化すると、「荘園」という名の私有地が各地に発生してきました。さらにこれはもともとの「公地」にまで侵食し、いつの間にか「荘園」の方が「公地」を上回る状態になってしまったのでした。(ちなみにその「荘園」の私的なガードマンとして生まれてきたのがいわゆる「武士」です)平安時代後期には、皇居周りを修築する国家予算がないにもかかわらず、宇治平等院のような藤原頼道個人の別荘が建てられるような状態になっていたのです。摂関政治の実態とは、政治を行っていたわけではなく、天皇の外戚になることで位官を極めて、その名の元に自らの荘園を増やすことに汲々としていた、というのが実態でした。(ちなみに摂関家の荘園のガードマンが源氏だった)これではいけない、と荘園の整理に乗り出した(藤原氏と関係ない)後三条天皇でしたが、残念ながら志半ばで急死し手しまいました。その子の白河天皇は、まず天皇という規則で縛られた立場を早めにやめて(隠居して上皇となる)いわゆる院政をはじめたのです。ところが、その院政の実態とは、院自体も荘園を増やすことに力を尽くし、現実面で藤原氏に対抗しようとしたということでした。(ちなみに院の荘園のガードマンが平家だった)その結果、「天皇家(性格には院の)の荘園」が生まれるという笑えない現実が出来てしまったわけです。(余談ながら、南北朝の戦乱のそもそもの原因はこの天皇家の荘園の相続権争いだった(大覚寺統と持明院統とは分割相続した荘園の名前です。ですから後醍醐天皇がどんなに偉そうなことを言っても、結局はこの天皇家の荘園を独り占めしたかったから、両統迭立を進める鎌倉幕府が邪魔になり、結果としてあの戦乱→戦国時代の到来も南北朝という戦乱の為に室町幕府が弱体化してしまったためだとすれば、戦国時代すら→を後醍醐天皇が招いてしまったことは間違いない))そして、打ち続く戦乱の中、それらの荘園は地侍あるいは戦国大名に横領され、天皇家の財政状態は極度に悪化しました。後土御門天皇の葬儀もなかなか出来ず、その後三代の天皇の即位の礼も各地の大名からの献金によって、随分後になってから執り行われる有様でした。皇居は荒廃し、その日の暮らしの為に公家は内職に励み、女官は旅人の袖を引く有様でした。信長の上洛により、織田領である尾張、美濃にある天皇家の荘園は返還され、さらに信長からの莫大な献金で天皇家の財政事情は大きく潤うようになったのですが、その後、信長は正親町帝の希望である畿内の領地の返還に必ずしも賛成せず、軋轢が生じていた用でもあります。さらに朝廷がキリスト教の布教に難色を示したときも、信長と朝廷は対立しました。前にも書きましたが、全国まちまちであった暦を三島暦(信長の本拠地で使われていた暦)に統一したい、という信長の希望についても朝廷は難色を示しました。暦の制定は朝廷の独占的な仕事だったからです。信長は、「なんて分からず屋の天皇だろう」と思ったことでしょう。実際の政治は自分がやるのだから、政治自体には口を出さずに伝統にのっとった儀式だけを執り行ってさえいれば、朝廷(天皇家+公家)位食わせてやるのに、とも思ったことでしょう。そこで信長は、皇太子である誠仁親王を二条御所に囲い込み、正親町天皇に譲位(隠居)を迫りました。分からず屋の天皇にはやめてもらって、物分りのいい天皇に代わってもらおうとしたのです。ここから天皇と信長の闘争(結局のところ信長最後の闘争のなった)が始まったのでした。
2005/01/26
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ここのところ信長の文化的側面について述べてきましたが、そろそろ本筋に戻りたいと思います。本願寺との戦いは、天正八年に朝廷の仲介による和睦という決着がつきました。本願寺側が本拠地である石山から退去したので、一応信長の勝利といっていいでしょう。内憂を片付けるのであれば一度に膿を出し切りたいと考えたのかどうか…その年、信長は突然累代の家臣である林通勝と佐久間信盛の追放を発表しました。(前述してますが…)林ははるかに十年以上前に弟信行の謀反に加担した罪であり、佐久間は石山攻めの不手際がその罪状でした。おそらく家臣団全体が震え上がったことでしょう。家臣団の殆どが脛に傷を持つ身なのだから。柴田勝家は信行の謀反に一度は加担しているし、羽柴秀吉は無断で北陸から撤退したことがある。明智光秀とて佐久間とともに本願寺攻めを担当していた訳で、こんな理由によって追放されてはたまったものではありません。将たち全員が戦々恐々となったこの事件には、例の村重の謀反が関わっていたのです。もともと、戦国時代は他人を信じることがなかなか出来ない世の中でした。信長も血を分けた兄弟を含め、一族親戚とも戦争を繰り返してきています。しかしながら、信長は極力人を信じようと努めたはずです。実際、信行も一度は許しているし、信長の敵ナンバーワンであり、元亀年間の信長の危機を作り上げた足利義昭も助けている。巷間言われているほど、信長は冷徹な人物ではなかったようなのです。(むしろお人よし!?)しかし荒木村重の謀反によって何かが変わったようなのです。家康の嫡男信康を、難癖をつけて殺し、またまた今回は(使えないとはいえ)裸一貫で追放する…人間不信が信長の脳裏を駆け巡っていたのでしょう。もともと母からの愛情が薄く、青春の真っ只中で唯一の理解者である父を失い、後は戦争に明け暮れる毎日。さらに唯一愛した女性である吉乃は早死にし、人から受ける愛情が少なかった信長には、人間不信になる基礎(?)は十分すぎるほどありました。それだけに信じようとした家臣の裏切りは、彼の乾いた心を罅割らせるのに十分でした。あそこまで恩をかけてやったのに、何故裏切ったのか?結局信じられるのは自分だけである、と。もともと道具は使えなくなったら捨てるだけのもの。家臣も使えなくなったら捨てればいい。(林や佐久間)自分の後継者(城介信忠)の邪魔になりそうな家康の子供も、妻として送り込んだ自分の娘の告発文(もともとの内容は些細な夫婦喧嘩の延長線上でしかなかったが、その中に武田勝頼云々とあるのを信長は見逃さなかった)を証拠に、切腹に追い込んだ。これに一番早く反応したのが秀吉でした。天正九年の暮れ秀吉は史上最大級のお歳暮を信長に進上しました。彼はこの時点で中国筋の総大将であり、難敵毛利と対峙していたわけで、信長にお歳暮を届ける余裕などなかったに違いありません。しかし、相次ぐ追放劇など衝撃的事件の続発に危機感を覚えたのでしょう。派手好みの信長を意識した、史上最大のお歳暮作戦を展開したのです。このお歳暮行列の先頭が安土城の大手門に差し掛かっているのに、行列最後尾が秀吉の屋敷をまだ出ていないというくらいの量でした。量ばかりではなく内容も凄い。信長に直接進上するものだけで、太刀一振り、銀子千枚、小袖百、鞍置物十疋、播州産杉原紙三百束、なめし皮二百枚、明石の干し鯛千枚、野里鋳物いろりろ、蜘蛛蛸三千連…その他近習、侍女に至るまで、お歳暮は城内全ての人々に行き渡るように配慮されていました。人間不信を極めて、孤独の中にいた信長の心もさすがに和んだと見えて、秀吉を客としての茶会を催した上に、織田家の家臣団の前で秀吉の頭をなでながら「侍ほどの者はこの筑前にあやかりたく存ずべし」といったとか。(このシーンは太閤記の中で私が一番好きなシーンです。先年の大河ドラマ「秀吉」で秀吉役の竹中直人が渡哲也の信長に頭をなでられながら、鼻水混じりの涙をこぼしていたシーンでは思わずもらい泣きしました)こうして秀吉は演出を重ねて信長の信用を再確認したわけですが、家臣も皆が秀吉ほどの人間通であるわけでもなく、当然このころの信長の行動に恐怖を感じていたもの達も少なからず存在していたと思われます。これを念頭に入れていただいた上で、義昭追放後の朝廷と信長の関係について書いていきたいと思います。
2005/01/25
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茶と南蛮趣味の二つを取り上げて、信長の考え方をおさらいしてきましたが、今度は彼の美意識に迫ってみたいと思います。信長が清廉な人物であることは、彼自身が下賎の出ではない(少なくとも守護代の家老の家柄で、なおかつ城持ちの身分だった)ことが原因だとは思います。そして、経済感覚の優れた父や祖父を持ち、型にはまらない教育を受けた(剣術、弓術、鉄砲術の師匠の名はあるが、いわゆる「学問」の師の名前はない)せいでもあるでしょう。だからこそ、旧態依然とした澱んだ空気には敏感に反応し、その澱みの一層に全力をあげて来たわけです。(旧勢力である寺社、それと結託した商人、つまり私の関や市や座など)反対に新しい物が好きであることも事実でしょう。(これは南蛮趣味にも通じている)彼の美意識を象徴しているのが安土城です。まず驚かせるのが、幅六メートルの大手道(急勾配で約180メートルあったという)。石段であるここをまっすぐ登っていくと正面に大手門、その先には天守閣が見える。そう、この城は本来の城の役目である「防衛」を一切念頭に入れていない城なのです。本当であれば門に通じる道は曲がりくねっていなければ、攻めあがってくる敵に対抗できません。(この三十年以上後に建設された現在の姫路城を見てもわかります。)つまり安土城は、「天下に敵なき」天下人の居城なのです。麓から山頂にかけては緑が少なく、石段と漆喰で固められた塀の白さが一層目立ったことでしょう。あたかも、南欧の都市の街路を思わせるような…塀や櫓の屋根は黒瓦、そして天守閣は目にも鮮やかな金箔瓦。天守閣自体の建築も信長の発想によるものが大きかったと思います。これまでの研究で、天守閣という大型の物見櫓は信長以前にもあり、それを天主閣あるいは天守閣と称していたようですが、これほど大規模な天守閣(五層七階建て)は史上初めて登場したものでした。さらに城郭建築に瓦が用いられたのもこれが始まりのようです。(これまでは一流の寺社のみが瓦を使っていました)天守閣の内部の構造についてはさらに驚かされるつくりになっています。一階部分から四階部分までが吹き抜けになっていたのです。今でこそ珍しくもない建築法ですが、信長が安土城を建設したのは今から430年も前のことなのですから。そして一階には仏教で言う「宝塔」が置かれました。二~三階には吹き抜けを中心に多くの部屋があり、狩野永徳が描いた襖絵も数多くあったと思われます。(信長自身は三層目で執務していたらしい)四階には植物の画を描いた部屋があり、信長の家族を含めたプライベートルームといったところでしょうか。問題は六階と七階です(五階は物置でした)八角形の六階部分には仏教絵画が描かれ、緑を基調とした色彩で包まれており、七階部分には孔子を含めた古代中国の賢人、皇帝の絵が描かれ、色彩は金と柱の漆の黒。この金と黒のコントラストが、信長の美意識を図る貴重な要素ではないでしょうか。天正九年七月盂蘭盆会の夜、信長は天守閣をあまたの提灯でライトアップし、先ほど述べた大手道では松明で沿道を飾り、さながら光の帯が城下から天に舞い上がる様を演出しました。その光景は今よりも夜をよるとして認識していた当時の人々全てを驚嘆させたはずです。この幻想的な光景は、安土に滞在していた宣教師達の口から、遠くヨーロッパに伝えられたことは想像に難くありません。いずれにしても安土城は、信長の最大勝つ唯一の自己表現の場であり、信長の死後ほどなく全てが灰燼に帰したことをとってみても、信長の心象そのものだったように感じられてなりません。さて、このような巨大建築を一大名が行えたのは、もちろん信長自身が経済感覚に優れ「金持ち」だったからですが、この後多くの大名が真似をしています。今残っている五層以上の天守閣だけでも十指に余ります。中規模の大名でも大建築が可能になって行ったのは、戦国時代の最盛期に諸大名がこぞって「富国強兵」政策を取り続けた結果、日本国全体のGNPが向上したからなのでしょう。つまり戦国時代は「高度成長期」であり、その最後に登場した信長、秀吉はその果実を味わえる恩恵に浴したのです。そしてその遺産が、中規模大名達の築城ブームを支えたともいえるのです。(余談)安土城に「清涼殿」があったことはご存知ですか?ご存知の方も多いとは思いますが、「清涼殿」は天皇の御座所です。なぜそのような場所が城内にあるのかといえば、天下人となった信長が天皇の行幸を仰いだときに使用する目的で作ったものと推定されます。しかし、平屋の「清涼殿」に対して、天守閣は五層七階。天皇の御座所を見下ろす建物を建築する信長が、天皇家を廃するのではないか、とかいずれ天皇に取って代わるのではないか、とあらぬ疑いをかけられても仕方ないことでしょう。(天皇家との問題については後述します)
2005/01/24
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信長の趣味といえば「茶」と「鷹狩り」そして「馬」…ある作家が信長を評して「合理的な考えの持ち主で何物も(人間ですら)道具としての使い勝手でその出来を判断する」とありましたが、茶道具にしても鷹にしても馬にしても同じような感覚だったのでしょう。最近非常に面白く読んだ本に「天下人の自由時間」(荒井魏著:文春新書)がありますが、この著者と私の見解には差があるものの信長、秀吉、家康の趣味を詳しく紹介されていて面白かったですね。その中で、信長のファッションについても言及しています。南蛮趣味。信長が南蛮人にはじめて会ったのは、義昭を奉じて上洛した永禄年間だったと思われます。二条城の建設を陣頭指揮していた信長と宣教師フロイスの出会いは、この建設現場だったと伝わっています。よくテレビや映画などで南蛮渡来の甲冑を身に着けたり、マントをまとってみたり、ビロードの帽子をかぶってみたり…なかなか信長にはファッションセンスがあったように見えます。戦国時代の言葉で「かぶき者」という言葉がありました。これは珍奇なファッションで独自の個性を表現した人たちのことを指す言葉で、信長の家臣である前田利家など、犬千代といっていた青年時代には「かぶき者」と呼ばれていました。さらにその甥にあたる快男児前田慶次郎利太などは戦国かぶき者の具現者でした。当然「たわけ」時代の信長も、機能性重視ではありましたが、この「かぶき者」でありました。であるから南蛮人のファッションを自らに取り入れることについて抵抗感は全くなかったと思われます。そして、信長の中の価値観でしょうが、苦難を乗り越えたものたちに対する賞賛は大きいものがありました。大洋の波濤を乗り越えて布教の為に日本にやってきた南蛮人宣教師たちを厚遇したのもその現れです。(安逸な日々を送り現世の利益追求に汲々としている仏教界へのあてつけもあったでしょうが)こうなると、信長自身はキリスト教に帰依することはありませんでしたが、家臣の中にもキリシタンになるものが出てくるのも当然です。後にこの頃キリスト教に帰依した人々は苦難の道を歩むことになるのですが、信長はキリスト教布教についてどのように考えていたのでしょうか?まず、宣教師に対する純粋な尊敬といったものもあるでしょう。そして、宣教師を保護することによって得られる南蛮貿易の実利もあったでしょう。それからもう一つ。キリスト教徒が多い地域に対して、今後日本が進出する際にキリシタンの武将が必要だったから…とは考えられないでしょうか?信長が勝頼を撃破した天正三年以降、あるいは謙信が死んだ天正六年以降、「天下統一後」のビジョンを策定する必要が出てきたはずです。それは、秀吉が後に行った朝鮮への侵攻かもしれないし、東南アジアに対する経済進出かもしれない。信長が死んだ今となっては全ては憶測の域を出ませんが、少なくとも、宣教師から送られた地球儀や地図を見て、日本の小ささを痛感するとともに、今後の展開(海外進出)を検討していたことは間違えありません。そのときにキリシタンたちが有効に機能する…そう考えていたのかもしれません。(ただ、信長はスペインとポルトガルの地球分割条約の存在を知っていたかどうかはわかりませんが)信長は宗教政策の一環として「宗論」を行ってもいます。法華宗とキリスト教の宗論など、きわどい対立に発展したものもありました。しかし、結局信長が進めたかったのは、宗教が宗教の域を出なければ(政治や経済活動にくちばしを入れさえしなければ)一律に保護するが、言われもなく他教を貶めるようなことは断じて許さない。信長(=天下)の前では平等なのだ、という姿勢を見せたわけなのです。つまり、信長はキリスト教の導入によって仏教界の引き締めを行い、延暦寺焼き討ち、一向一揆の根切りと続いた「宗教改革」の完成を目指したのです。(余談1)キリスト教宣教師に贈られた黒人奴隷は「弥助」と名づけられ、信長の小姓としてその最後まで傍らにあったと伝えられてます。(余談2)信長の近臣に南蛮人武将がいたという伝説もあります。(余談3)良く知られていることですが、信長は地球儀を見て宣教師の説明を受けると、「地球は丸い」という事実を即座に理解したということです。(江戸時代でもそう信じていた人はきわめて少数だったでしょうね)
2005/01/23
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今回の話は全然違うところから書かせていただきますね。茶道は日本ならではの性格を持っています。なぜ、欧州の国(だけではなく平たく言えば日本以外の国)では好んで茶(紅茶)を飲むのでしょうか?そして16世紀から19世紀にかけてお茶と香辛料の交易の為にあれだけのパワーを注ぎ込んだのでしょうか?大航海時代というもの自体が、この茶と香辛料を得るためにあったといっても過言ではありません。(あとは絹織物や黄金など)香辛料は西欧人の主食である肉の調理(保存)に欠かせない物であることはわかります。しかし茶は、嗜好品として飲んでいる我々日本人にはわかりづらいとは思いますが、やはり彼等にとって必需品だったのです。海外旅行マニュアルなどを読むと真っ先に書かれていることがあります。「水道水は飲めません」そうです。日本以外の国では飲料水は貴重品だったのです。当然飲むときには煮沸します。しかし煮沸してもまずい水はまずいままです。これを何とかして飲みやすくするものが「茶」だったのです。(一部はコーヒーになったけど)飲料水が人間にとって必要不可欠なものである以上、それをいかに飲みやすくするか、ということが彼等にとって差し迫った問題であったことがお分かりになったでしょうか?ところが日本は、特に江戸時代以前の日本ではいたるところでおいしい水が飲めました。川でも井戸でも…我々の先祖にとって「茶」は必需品ではありませんでした。もともと中国から交易で入ってきた「茶」は貴族たちの嗜好品として、非常に限られた範囲でしか流通していませんでした。それが、鎌倉時代に禅僧が「薬」として宣伝し、その栽培を奨励したところから武士階級にも、そして町人階級にも「茶」が広がっていきました。そして「茶」に含まれるカフェインの覚醒効果が、(日々眠気との戦いである)禅僧の修行にもってこいだったので、益々茶は広がりを見せていきました。武士階級や商人たちの間でまず広がったのが「闘茶」。今で言う利き酒みたいなもので、茶の産地や種類を当てるゲームのようなものでした。そしてその「闘茶」パーティの会場はどんどん華美になり、特に唐物といって中国製の什器で飾られていったのです。ところがその風潮に異議を唱えたのが村田珠光です。もともと禅宗から発した喫茶の席は、禅の思想で統一されるべき、という考えで、「茶席」のありかたを改革して言ったのです。そして武野紹鴎が「わび茶」という概念を考え出し、千利休が完成に至ったというのが、いわゆる「茶道」の歴史です。そう、西欧人の必需品が、日本では「道」にまで至ってしまったわけです。水のおいしさがここまで文化に大きな影響をあたえたという好例でしょう。なぜくどくど茶の話を書いたかというと、千利休が「わび茶」を完成させる過程で、大きく彼を支えた人物が二人います。一人は最終的に彼を自殺に追い込んだ豊臣秀吉であり、もう一人は言うまでもなく信長でした。信長は「茶道具狂い」というほど茶道に造詣が深く、また、茶道の保護発展に努めていったわけですが、それは何故だったのでしょうか?宗教についても、傍から見れば無宗教ともみえる程の独自の宗教観を持ち、さらには既存の価値観を完全否定できる強烈な個性を持ち、根っからの合理主義者である信長がここまで茶道にのめりこんで行ったのには、何か理由があるはずです。少々先走りますが、天正十年に関東への進出を果たした滝川一益は、褒美として上野一国を賜り、さらに関東管領にも任命されるという栄誉を得たわけですが、全然嬉しそうではなったそうです。「褒美であれば名物茶器のほうがいい」と。信長は「茶道」を「天下人」の立場で極めると同時に、「茶道」の相対的価値を高め、その道具に過ぎない「茶器」を一国と引き換えにするほどのものに仕立て上げていったのです。それは、褒美として与える土地にも黄金にも限界があることを理解していた為に、土地や黄金以外に価値の高いものを作り上げなければならないという差し迫った事情もあったでしょう。ただ、さすがに最初から信長が「茶道」をそこまでのものにしていく考えがあったとまでは、「フリーク」の私にも言えません。少なくとも利休を含めた堺の商人との交わり、当然茶会が中心でしょうが、その中で「茶道」の持っている魅力を分析し、少しずつ自分の政策に含めて行ったのではないでしょうか?そして、信長から自らが主催する茶会の開催を許された日の感激を憶えていたからこそ、秀吉も茶道に傾倒しました。さて、話が茶道に傾いていってしまいましたが、荒木村重です。元亀年間の苦戦を乗り越え、長篠で武田軍を撃破した信長にとって、自らの家臣の本格的反乱は初めてのことでした。「何かの間違いだろう」最初は本当にそう思ったことでしょう。村重も本気で反乱を企てていた気配はありません。秀吉や光秀の説得に応じて信長に謝罪と弁明をしに行こうとさえしました。しかし家臣である中川清秀や高山右近に「信長が許すはずがない。行ったら殺される」といって引きとどめ、ついに実際の反乱に踏み切ってしまったのです。(ここで注意して欲しいことは、ここで村重を反乱に踏みきらせた張本人の中川や高山が信長に許されていることです)荒木村重は関西の武将で、もともと摂津の地侍でしたが、その寄親である池田氏を通り越して信長と直接結びついてから戦功を重ねて、ついには摂津一国の国持ち大名になった人物です。少なくとも信長から受けた恩はかなりのものでした。また、信長の家臣の中でも武断派よりも文治派である明智光秀や細川藤孝と親しく、光秀の娘と村重の息子は結婚しています。そんな村重を反乱に走らせたのは何だったのでしょうか?一説には村重の家臣が、無断で敵方である本願寺に兵糧を売ってしまったことが露見した為、といわれてます。確かに利敵行為は信長が一番嫌うところであり、処断を恐れたとしても仕方のないところです。しかし、考えられるのは毛利の調略あるいは陰謀にはめられたというのが実情ではないでしょうか?秀吉以下の軍勢が毛利との対決に入っているこの時点で、摂津の隣国播磨では三木城の攻防戦が佳境に入ってきていました。三木城の陥落は播磨の陥落であると考えた毛利(考えたのは安国寺恵瓊でしょう)が村重を嵌めたのが実際でしょう。行き場を失った村重は絶望的な抗戦を続けた末に単身逃亡。その結果妻子家臣全てが虐殺されるという結末で、この反乱劇はピリオドを打ちました。単身逃亡した村重は、信長の死後ひょっこり堺に現れ、その後御伽衆として秀吉に仕えたことは後日談です。このビジョンのまるでない(ように見える)反乱はさらに繰り返すことになりますが、信長の人間不信はこれにより増大したものと推測されます。ちなみに、光秀と秀吉の説得に応じて謝罪、弁明したならばあっさり許された可能性が高かったと思います。村重は利休七哲の一。名のある茶人と知られ、キリシタンであった為自殺できずに単身逃亡したわけです。余談茶道の話で思い出したのですが、畳敷きの和室(床の間のある)も茶道の影響から発生していますし、茶席で出される懐石料理があらゆる和食の元祖です。ある文化学者が言ったように、文化史的に見ると現代になってようやく室町時代が終わりを告げようとしているのだそうです。
2005/01/22
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天正年間に入ると「戦国天下取りレース」は決勝トーナメントに突入したといえる状態になってます。まずは本命として織田信長次に西国の実力者である毛利輝元そして北陸の雄である上杉謙信少し遅れて東国の王である北条氏政さらに遅れて長篠の大打撃から立ち直れていない武田勝頼その他は九州の島津、大友、竜造寺の三強と東北の葦名、伊達、最上、南部…この程度しか生き残ってはいませんでした。つまり応仁の乱から約百年でどうやら全国的に統一の方向性が見えてきていたのです。信長を別とすれば、この中で実力的にぬきんでていたのが毛利と上杉で、特に上杉謙信は戦争に勝つために妻も娶らず、毘沙門天に願をかけていたほどの人物でした。殆どの戦争に負けることもなく、まさに「軍神」といえる存在だったのです。この「謙信西上」の報に、毛利に亡命した足利義昭は狂喜したことでしょう。ついに信長は負けるであろう、と思ったに違いありません。しかし信長はそれほどの脅威を感じていなかったものと思います。なぜなら、いくら強くても上杉軍は「農民兵」だからです。農繁期になれば戻らなきゃならないし、雪が降っても北陸兵は退路を断たれる前に撤退するだろう、と冷静に読んでいたはずです。実際上杉軍は強かった。手取川で織田、上杉軍は激突し、あの猛将柴田勝家に率いられた織田軍は大敗します。しかし、信長の予想通り上杉軍は追撃戦を行わず、能登を掌中にしただけで引き上げてしまいました。(余談:秀吉は柴田勝家の援軍要請に渋々応えて北陸に出陣したが、柴田勝家と意見対立の末無断で撤退し、危うく処分されるところであった。秀吉も上杉軍は農繁期には撤退するという読みをしていたが、それを理解できない勝家と衝突したらしい)ところが、程なく上杉謙信は脳卒中(?)で急死します。信玄の死ほどインパクトはありませんでしたが、これも信長の強運といえるでしょう。しかも謙信には妻がない=実子がいないため後継者は養子となるわけですが、間の悪いことに養子が二人いたのです。当然のことながら二人の養子は謙信の後継者の座を狙って対立します。一人(景虎)は北条家の出なので北条家が後押しし、もう一人(景勝)は後ろ盾がない為昨日の敵である武田勝頼を頼ります。この上杉家内の内紛により、結局は加賀、能登は織田領になり、越中の一部も回復することが出来たのでした。(謙信の後継者の座は結局景勝が勝ち取り、その結果上杉家と北条家は断交し、上杉の力は大いに衰えた)さて、こうなると抵抗を続ける本願寺を別にすると、大敵といえる存在は毛利以外はなくなってしまいました。毛利輝元は若年ですが、吉川元春、小早川隆景という叔父二人が良く補佐し、人材も豊富で「鉄の結束」を誇っていました。そして、信長は毛利との戦争を秀吉に委ねたのです。ところが思っても見ない事態が発生してしまったのです。秀吉の領国である近江と中国戦線を結ぶ経路上に領地を持つ荒木村重が謀反を起こしたのです。まさに青天の霹靂でした。
2005/01/20
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伊勢長島や越前の一向一揆を殺戮で消滅させた信長でしたが、長期戦に備えて篭城に徹した石山本願寺を壊滅させるには至りませんでした。結局、勅命で和睦するまでの数年間を本願寺攻城戦に費やしてしまいました。さて、信長は浅井、朝倉攻めあたりから越前一向一揆にかけて三人の武将を城持ち大名に取り立てました。越前には柴田勝家、北近江には羽柴秀吉、南近江には明智光秀。柴田は譜代の家臣ですが、秀吉と光秀は氏素性もはっきりしない流れ者です。さらにこの時点で北伊勢を治めている滝川一益も、鉄砲一挺を引っさげて仕官したと言われる浪人ものです。逆に累代の家臣である林通勝や佐久間信盛らは、はるか過去の罪状や怠惰を理由に放逐されています。これは明らかに信長の「天下布武」の構想が新たな段階に入ったことを示しています。信賞必罰が信長の唯一無二の原理原則であり、「天下布武」に尽くして功績を挙げたものには思い切った褒賞を与えるが、何一つ役立っていないものはすぐにリストラする、という断固とした姿勢の表れです。実際、柴田以下の将には与力の小大名を付属させており、その戦力は他の独立大名でも対抗不能なものに膨れ上がってました。たとえば柴田勝家率いる北陸の「柴田軍団」には前田利家、佐々成政など、「明智軍団」には細川藤孝、筒井順慶など、「羽柴軍団」には蜂須賀小六、竹中半兵衛など…そして独立大名ながら「織田体制」に組み込まれている徳川家康や東国を伺う滝川一益を含めると、五個の軍団を信長は組織したのです。わずか数年前には廃滅の危機にあった信長が、さらに急成長を図ることができた原因は何だったのでしょうか?それは堺を直轄地として貿易その他の収入が激増したことと、東方の最大の脅威である武田軍を完膚なきまでに撃破できたことでしょう。この二点は密接に関連してます。もともと経済感覚に優れ銭の大切さを知っていた信長は、上洛と同時に堺を手に入れ、その巨万の富を手にしたわけですが、その銭を武器の購入に費やしたのです。国産に成功したとはいえ、当時の火縄銃は大変高価なものでした。さらに火薬の原料はすべて輸入であり、堺を握っているということは(火薬の原料である)硝石の輸入を独占できるということにもつながります。こうして多数の鉄砲をそろえた織田軍(兵の力自体は最弱と言われる尾張兵が主体)は、戦国最強の武田軍を木っ端微塵に粉砕しました。これが長篠の合戦です。三千挺とも言う鉄砲が武田軍に火を噴き、武田の名だたる将が次々に戦死すると言う有様でした。(これは武田家の将来を悲観した将たちの集団自殺であるという説があるが、それでは勝頼画あまりに可哀想だろう)完膚なきまでに打ち破られた武田勢は、回復不能とも思われる打撃を受けて占領地である遠江東部から撤退していきました。こうして東方の脅威を消滅させた信長は、その戦線を家康と一益に任せ、北部戦線(北陸)は勝家、西部戦線(中国)は秀吉、近畿北部から山陰戦線は光秀と、戦闘の主体を信長本人から家臣たちに委譲して言ったのです。しかし、最後の脅威が迫っていました。軍神といわれる上杉謙信がついに西上の途についたのです。
2005/01/17
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目を遠くヨーロッパに転じてみると、やはり宗教問題が渦巻いています。16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパでは、活版印刷術の普及により、より多くの人々が直接聖書に触れる機会が出来たため、ローマ教皇主導のカソリック・キリスト教に疑問を持つ人々が生まれてきました。そして、それはマルティン・ルターの出現とともに宗教改革のうねりとなってヨーロッパを駆け巡りました。プロテスタントという言葉も、もともとカソリックに対する新教(宗教改革)推進派の立場を表したものが語源になっています。新教の勢いに脅威を感じ始めたローマカソリック教会は、カソリック教徒の増加を図るべく海外進出を盛んに図りました。そのなかのイエズス会に所属するフランシスコ・ザビエルが日本にやってきたのもこうした経緯からです。そして、新教とカソリックとの争いは血を血で洗う長期的な戦争や大虐殺を招き、ヨーロッパの近世はこうして幕を開けたわけです。私が言いたいのは、我々日本人から見れば兄弟関係のようなカソリックとプロテスタントですら血みどろの抗争を繰り返しているということが解せないことですよね?ましてや同じ日本人同士で、宗教観の違いから大虐殺という結果を招いたのはいったい何故だったのでしょうか?まず、宗教というものを狂信的に信じている人々は、他の宗教を信じている人々を「人間」だとは思っていない、ということです。「人間」だと思っていないから、未だに首を切ったり残虐なことを平気で出来る訳ですよ。イラクを見てください。多くの狂信的イスラム教徒は未だにアメリカ軍に自爆テロを仕掛けているではないですか?パレスチナを見てください。イスラム教徒とユダヤ教徒の戦争は、イスラエル建国後絶えることはありません。この問題に終止符を打つには、まさにどちらかが「いなくなる」ことが必要です。イラクであればアメリカ軍を含む多国籍軍が撤退すればすむでしょう(イスラム教内部の対立もあるので一概には言えないが…イラン・イラク戦争の再現も考えられる)。しかしパレスチナの紛争は、アメリカを含むキリスト教国家がいかに仲介に入ろうとも、おそらくはどちらかが滅びない限り根本的解決は出来ないと思います。もともとユダヤ問題(シオニズム)をもっとも安易な方法で解決しようとしたイギリスのつけが、いま現代社会の一番の危険地帯を作り上げてしまったわけです(ちなみにイスラエルには「ここでハルマゲドンが起こる」と預言されている場所があるらしい)話がそれてしまいましたが、十字軍がイスラム教徒と凄惨な戦いを繰り広げてから今までの間に、宗教的対立の解決方法は何一つ進歩していないということを理解して欲しいです。宗教に関する考え方について、我々日本人は世界から見ると異端児です。正月は神社やお寺に初詣し、バレンタインデーがあって、クリスマスがあるものの、結婚式やお葬式は教会、神社、お寺なんでもござれ。こんな「無宗教」な国は他にはないでしょう。しかし昔はもちろん違いました。といっても、今でもそうなのですが、神社とお寺が並立して存在していたのです。神社については天皇家につながるものですので、ここでは割愛します。(武力も特になかった)問題は寺社です。戦国時代の仏教の土台は鎌倉時代に形成されました。武士や上流階級に受け入れられた禅宗圧倒的な個性から徐々に勢力を高めた法華宗そして一般大衆に受け入れられた浄土(真)宗これはすべて鎌倉時代に基盤が出来たのです。そしてその教祖にはある共通点があります。何だと思いますか?実は栄西も日蓮も法然も比叡山延暦寺で学んだ同窓生だったのです。つまり、(天皇-神社というものを別にすれば)日本の国家宗教は比叡山延暦寺を中心とする「天台宗」だったわけです。(これは徳川家康によってさらに深められ、日光東照宮を造営し、幕府による保護の下明治維新まで続いた)しかし、既存の宗教に飽き足らなかった彼等は比叡山を飛び出し、それぞれの中で新しい仏教を作り上げていったわけです。このように日本ではヨーロッパよりも早く「宗教改革」が進んでいたわけですね。ところが問題は、他宗に対し非常に戦闘的だった日蓮宗よりも浄土真宗(=一向宗)にありました。この信者の大部分が貧者であること。そして「講」というグループがあり、「仏の下では皆平等」という思想がありました。「南無阿弥陀仏を唱えれば皆平等」というわけです。他の宗派は基本的に世俗の階級などにはまったく干渉しないものですが、加賀の一向一揆や三河の一向一揆を見ても城主級の武士が一平卒として参加していることから見ても、一向宗の「平等思想」は明らかです。そして、宗徒達は年貢を領主には納めず教団(=本願寺)に収めてしまうわけです。これは当時自らの手による天下統一を目指す信長にとってはきわめて危険な思想でした。この対立は足利義昭によって煽られた感がありますが、いわば必然的なものだったのです。信長自身の宗教観は、あくまで「現世利益」。生きているときにいいことがなければ仕方ないではないのか?死んでしまったら灰になるばかりなのだ。という非常にシンプルな(当時としては非常に特殊な)考えです。しかし一向宗は違います。「南無阿弥陀仏」と唱えていれば、死んだときに極楽浄土に行ける、という「来世利益」。信長の目には「見たこともない死後の世界を餌に生きている邪教」と映ったことでしょう。ちなみに信長は後に総見寺という寺を作ります。なんと本尊はただの石(信長自身だったとも)で拝んだものは必ず幸せになる、と言い切りました。つまり世間の宗教を信じているより、俺自身を信じている方がはるかに幸せになるよ、というアピールまじりのジョークだったように思えます。また、来世利益しか謳えない一向宗へのあてつけとも取れますね。そして、一番大事なことは、信長が一向一揆に勝利する為の方法をしっかり理解していたことです。天正二年(1574)弟を戦死させるほど盛んだった伊勢長島の一向一揆を攻撃した信長は、砦に火をかけ老若男女を問わず二万人以上を虐殺しました。さらに朝倉滅亡後に越前を席巻した一揆でも、織田勢は数万人を虐殺しました。これは叡山焼き討ちの比ではありません。これらの残虐行為をもって「信長嫌い」になる人も多いそうですが、それならばその方々に問いたい。相容れない宗教の狂信者をどうすれば共存できるか、決定的な方法を示して欲しいです。私は絶対に出来ない。解決する為にはどちらかがいなくなるしかないでしょう、としか答えられません。(オウム真理教の人間が近所に越してくるのは誰でも嫌でしょう?)信長は、自らが「魔王」の悪名を受けることを承知で、一向宗を根切りにしていったのです。
2005/01/12
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酒色の溺れ、惰性で対陣を続けていた朝倉勢は、まさに電光石火の攻撃をかけてきた織田勢になすすべもなく敗北、あっという間に領国を席巻され、さらには部下の裏切りにも遭い、朝倉義景は自刃に追い込まれるわけです。ただ、越前を信長が完全に掌握したのはそれから数年後のことです(理由は改めて書きます)。朝倉を滅ぼした信長勢は返す刀で浅井家の居城である小谷城を完全に包囲しました。さすがの信長も力攻めに踏み切れなかったのは、浅井長政の奥方が妹のお市の方だったからです。それをまたしても秀吉は大活躍!無事お市の方と三人の姫の救出に成功しました。もちろん浅井長政は自刃。浅井家も朝倉家もあっけなく滅亡しました。こうして、元亀年間(1570年~73年)の危機は去りました。もともと、信長はこの「元亀」という年号には反対で、「天正」という年号を使いたかったのですが、足利義昭に押し切られたという経緯があります。信長は晴れて「天正」という年号を使うことが出来たのでした。さて、これで敵がいなくなったというわけではありません。信玄なき武田もまだまだ健在だし、一時良好だった上杉とも、上杉にとって宿敵だった武田家との和解が進み(これは信玄が息子勝頼に遺言している)その結果関係が冷えてきています。さらに義昭に同情的な本願寺も不気味な沈黙を続け、西には毛利も控えている状況です。しかも、彼等は再び連携の機会をうかがっていました。もちろん策謀者は、追放された義昭です。彼は毛利家に引き取られ、そこから「将軍」として全国に下知を飛ばしているのです。「信長を倒せ」と。実力のない義昭ですが、名ばかりでもまだ「将軍」です。「将軍」の命令は、利害関係で信長と対立する者達にとっては十分すぎる大義名分でした。特に宗教勢力である本願寺にとって、信長の宗教と実利(関所や座等による経済活動)を隔離する政策-比叡山延暦寺もこの対立で焼き討ちされた-では打撃を受けてます。また、本願寺について信長が特に嫌悪感を抱いたのが、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽浄土へ行ける、と謳いながらお札を買わせたり、税を取ったりしていた事です。実際北陸の加賀の国では約百年の間一向宗徒が国を治めてました。しかも現在の民主主義のように合議制で!(この事実が戦後共産主義者によって歪曲されて、教育にも使われた)しかし、その指導層の対立によって、本願寺の祖である蓮如は加賀を追われ、現在の大坂に本願寺を建てるに至ったのです。信長は宗教自体を否定していたわけではありませんでした。民衆の心の拠り所までには干渉する意味を見出せなかったのでしょう(彼自身は無宗教、あるいは独自の宗教観があったとは思える節がありますが)しかし、来世利益を訴えている宗教が現世で利益追求しているという矛盾が、彼を宗教との戦争に踏み切らせたことは間違いありません。以前書いたように、今でも続くイラクでの自爆テロと一向一揆は非常に性質も似ています。これを解決する為には方法は一つしかないのです。しかし現在はその方法が使えないのでアメリカは苦労しているわけですが…(ブッシュも本当は早く解決したいでしょうが)そして、信長はその方法を断行しました。それは「根切り」という名の「皆殺し作戦」だったのです。
2005/01/11
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結局のところ、浅井、朝倉も三好、六角の残党も独力では信長とは対決できません。それがわかっているからお互いに連携し合い、信長を疲れさせることに専念したわけです。そして、信長に止めを刺すのは信玄の役割でした。ですから義昭の期待もかなり大きかったと思います。そして信玄の勝利を信じて疑わなかったとも考えられます。現に、義昭は「信長後」の政治のイニシアチブを握る目的で、わざわざ自らが「打倒信長」を旗印に挙兵までしたのですから。兵力を殆ど持たない義昭が実力行使に出た裏には、もちろん信玄が必ず勝つという確信があったからです。しかも、兵力で劣っているはずの義昭に対し、信長はへりくだって和睦を要請しています。もちろん信玄が勝つと信じている義昭はその和睦を蹴りました。(のち天皇の仲介で一旦和睦)ところが、その頃信玄は病んでいました。三方が原で勝利した後、野田城を攻撃していたのですが、この攻城戦に日時を費やしすぎたばかりではなく、落城の後もそれ以上の西進の動きを見せなくなったのです。信玄がやってくる、と戦々恐々としていた信長にとっては不審な行動でした。おそらく信長は数多くの諜者をはなち、信玄の動静を探らせたはずで、信玄が重病であることをかなり早い段階で知っていた可能性があります。1573年に入ってのことです。なので、信長の義昭との和睦交渉には信長一流の政治判断がありました。まず義昭への弾劾状を用意し、世間に義昭の「悪将軍」ぶりを宣伝する。挙兵した義昭に対し、兵力で隔絶した力を持ちながらへりくだって和睦を申し入れる→信長が「悪将軍」に対してもへりくだるほど伝統と格式を重んじ、礼節を持った武将であると世間に認知させるしかし、義昭は信玄の西上が遅れていると見るや、毛利と通じ再び挙兵します。ここで初めて、信長は義昭を討つのです。世間の目には「止むに止まれず、仕方なく義昭と戦った」というようにうつったはずです。つまり「室町幕府を力ずくで滅ぼした男」という悪名を残さずに済んだわけです。そのために信長は周到な準備をしていたということなのです。ちなみに義昭が再度の挙兵をしたとき、すでに信玄はこの世の人ではなくなっていました。信長はその事実を知っていたので、ためらわず義昭を倒し(追放する)たわけです。こうなると、当初義昭が画策した信長包囲網は、三好、六角の残党(義昭挙兵に参加するものが多かった)も崩壊し、残るは浅井、朝倉だけになってしまったわけです。ところが必死の気持ちで信長を裏切った浅井家は、わずか二年の間に大変なことになってしまっていたのです。美濃攻めでも猛威を振るった、秀吉の活躍です。防衛戦であるがゆえに、戦っても戦っても褒美のもらえない浅井家家臣に対し、秀吉は「織田家に来ればもっと褒美がもらえるぞ」とか甘言を持って釣り、わずか二年で浅井家家臣団を崩壊に追い込んだのです。しかも、最前線である横山城の城代であった秀吉は積極的な戦闘を控え、あくまで戦闘は受身に徹しながら、じわじわと真綿で首を絞めるように浅井領を圧迫していったのです。実際この1572年は、農民が根こそぎ動員された為に浅井領での収穫は少なく、朝倉からの援助を受けなければ飢える危険性もあったのですが、この食糧運搬部隊に対して秀吉は容赦ない攻撃を加え、援助物資が浅井家に届かないようにしたわけです。前に述べたとおり、織田家以外の大名の場合、家臣といっても、結局は独立した地侍の集合体です。先がない「理事長」についていっても無駄、と見限るのも無理はないでしょう。結局、浅井家は大規模な戦闘をしないまま(つまり負けているという意識がないまま)やせ衰えてしまったのです。義昭が追放され、室町幕府が事実上崩壊(追放されても義昭は「将軍」をやめてはいないので厳密に言えば幕府は義昭の隠居まで続く)時点で、浅井家についてはこんな状態になっていたのです。ちなみに朝倉家では、実りのない戦争(防衛戦だから仕方がない)に当主である義景自体が飽きてしまい、酒と女に逃避するような状態でした。それでもこの時点まで自壊しないで済んだのは、「いずれ信玄がやってくる」という希望があったからです。しかし、信長は信玄の死を知るや、電光石火の行動に移ったのでした。
2005/01/08
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信長からすれば裏切り者の浅井、朝倉に対する復讐戦はすぐに行われました。「姉川の戦い」です。この戦いの詳細は別として、ここで勝利した信長が両者(特に浅井)に止めを刺せなかったのが後々まで影響します。敗れたとはいえ浅井の領地は近江(滋賀県)にあり、岐阜から京都への途中にあります。結果として信長が上洛する際に、わざわざ隘路を選ばざるを得なかったのもこれが原因です。そして、この間道で信長が狙撃され、負傷するという事態も発生しました。(運良く軽傷で済んだものの、危うく命を落とすところでした。狙撃した杉谷善住坊は鋸引きの刑にされました-余談)この時点で信長も浅井、朝倉に全力投入したかったでしょうが、そうは問屋が卸しませんでした。義昭が画策したように、すでに石山本願寺(本山は大坂、他に一向宗徒が伊勢長島にもいる)、紀州根来寺、三好の残党、さらには六角の残党らが畿内で信長と敵対していました。そして、尾張では伊勢の一向宗徒に、近江では浅井、朝倉勢に攻められて、信長は二人の弟をあいついで失っています。こんな四面楚歌の状況から、どうやって信長は立ち直ったのでしょうか?信長はそれぞれに対して、違う対策を立てました。本願寺(一向宗)に対しては朝廷に間に入ってもらい和睦。浅井、朝倉に対しては積極攻勢には出ず、持久戦の構えを崩さない。そして辛抱強く調略で崩していく。(もちろんその方面の司令官は秀吉)三好、六角らの残党は全力で撃滅する。この結果1571年の危機はとりあえず回避できたのですが、弟を殺した浅井、朝倉をかくまった比叡山を許すつもりは毛頭ありませんでした。もちろん先に述べたように経済政策上の対立が原因ではありますが、この「弟殺し」を匿ったことが信長に火をつけたのかもしれません。また、仏教徒を忌み嫌うキリスト教宣教師(ルイス・フロイス:海を渡ってやってきたキリスト教宣教師を信長は優遇しました。が、本人は無宗教です。信長の宗教観については改めて述べます)に示唆を受けたのかもしれません。いずれにせよ、信長は比叡山延暦寺の根本中堂をはじめ山王二十一社をことごとく焼き払い、老若男女を問わず虐殺した訳です。(これには異説があり、最近比叡山を発掘調査したところ、虐殺された人骨どころか、焼け焦げた後も少ないという報告がありました。世間一般で言われているほど、この焼き討ちの規模は大きくなかったとの調査結果だったと思います。信長が、自分を恐れさせる為に自ら宣伝したのか、後世の人物が信長の「第六天魔王」ぶりを謳ったのかは定かではありませんが…)ただ、この時点では何も解決していないのです。本願寺とは和睦したけれども、いつそれが破約になるかはわからない。尾張の喉首にある伊勢の一向宗(願証寺)も健在。浅井、朝倉はやや弱体化したものの健在。三好、六角の残党も撃滅には至っていない。こんな状況で1572年を迎えました。するととんでもない人物が信長打倒に立ち上がったのでした。甲斐、信濃、上野、駿河の太守であり、戦国武将の中でも最強軍団を率いる武田信玄です。兵力の集中もままならない信長にとって、武田軍約三万を迎え撃つことはまったく不可能事としか思えない状況でした。義昭は笑いが止まらなかったでしょうね。ただ、この信玄の西上計画についても、義元と同じように考えられます。そう、上洛を目的とはしていないということです。前も書いたように、信長以外の戦国武将が率いている兵は農民兵です。農閑期しか戦えません。長期の遠征は不可能でしたから、せいぜい遠江、三河、行けても尾張まででしょう。だからこそ武田軍の矢面に立った同盟軍の家康に、信長は「篭城していれば、いずれ武田軍はいなくなる」と助言したわけです。ただ、家康は非常にプライドが高く、さらには「名声」というものに敏感だった為に(それが彼の美徳であり、ここで果敢に戦ったことが将来大きく作用したわけですが)領内を我が物顔で通過しようとする武田軍に戦いを挑む道を選択してしまったわけです。三方が原の合戦は、円熟期に達した武田信玄に、若き家康が挑戦するという構図だったのですが、当然のごとく家康軍は大敗しました。そうです。ついに武田信玄の前をさえぎるものは信長だけになってしまいました。その直接対決の日が刻々と近づいてきていたのです。そしてもし戦えば…信長は勝てなかったでしょうね。(直接対決はひたすら避けると思いますが…)しかし、信長はあまりにも強運でした。信玄は病気だったのです。
2005/01/07
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足利義昭が馬鹿だとはとても思えません。特に1571年の段階で、あれだけの「反信長包囲網」を独力で作り上げた才幹は見上げたものです。しかしながら、真に賢いものであれば信長に担がれて将軍になることが出来たのだから、信長にずっと乗っかっていればいい、と考えるのではないでしょうか?義昭にはそれ(愚かさを装う賢さ)が出来なかった。彼の目からすれば、信長は結局のところ守護代の家老の息子に過ぎず、家来の家来のそのまた家来という意識が絶えずあったことと思います。また、室町将軍の本質は「理事長」あるいは「組合長」といったものなので、絶えず強力な大名の対立のバランスの上で将軍の必要性を保っていたわけですから、信長一人が突出することは避けたかったのかもしれません。義昭と信長の対立は、実は上洛に成功した直後からありました。それは、上洛の功績を賞して義昭が信長に管領職か副将軍職に就任するよう要請したところ、言下に断ったことです。信長にしてみれば、名目だけで飾り物の将軍の家来にわざわざなる必要もないし、名前だけとはいえ旧勢力に取りこまれた格好になるのには抵抗もあったでしょう。さらに、進んで考えるといずれ義昭を完全にお飾りにして、室町幕府を自然消滅に追い込む(武力で滅ぼすと世間体が悪い)ことも念頭にあったかもしれません。しかし、少しは賢さもある義昭にもその信長の意図は感じられたはずで、ここら辺から二人の関係はギクシャクしてきます。先ほども述べたとおり、室町将軍は「理事長」「組合長」といった性格なので、主な仕事といえば利益団体同士(大名、寺社、公家)の問題発生時の調停役です。ところが、旧来の利益団体の利益源である「市」「座」「私有地」を片っ端から破壊しているのが信長なのですから、根本的な部分で義昭と信長が相容れることはないわけです。結局、実際の「調停役」の仕事が果たせない→将軍としての権威を保てない義昭は、旧来の利益団体(大名と寺社)に片っ端から声をかけて「信長打倒」を呼びかけました。これが最終的に信長を倒せなかったのは、今ひとつ連携にかけていたことと、信長にツキがあったことです。最初に信長打倒に立ち上がったのは、浪々の身であった義昭をかくまっていた朝倉家(もともと織田家とは仲が悪い)であり、朝倉に義理がある浅井家でした。浅井長政は、信長の妹を嫁に迎え三人の姫が誕生するほど仲が良く、しかも先年の本圀寺の戦いでは、信長不在の中奮戦し、最終的に三好三人衆を追い落とす原動力になっていたわけですが、信長嫌いで朝倉贔屓の父久政に引きずられる格好で打倒信長に立ち上がったのです。そんなこととは露知らず、信長は将軍の名による上洛命令を無視した朝倉を攻撃すべく兵を進めましたが、金ヶ崎城で浅井長政の裏切りを知りました。完全に敵地に孤立した信長は、全てを捨てて京に向かって逃げました。ここで戦っても勝ち目は薄く、敗残の姿で京に帰ったら世間体が悪い。(ここで言う世間とは朝廷を含む京の人々をいう)ひたすら無傷で逃げ帰り、整然と入京すれば誰も危機に陥っていたことに気がつかない、という計算でした。後年、秀吉が天下を取ったあと寝物語に面白い話をしています。「もし一万の兵を率いた蒲生氏郷(信長の婿で名将といわれる)と千の兵を率いた右府様(信長のこと)がいたらどちらに味方するか」というもので、秀吉はこう言ってます。「自分は絶対に右府様に味方する。氏郷の兵が百人倒れたらその中に氏郷の首が混じっているかもしれないが、右府様の兵が残り一人になってもその一人が必ず右府様で、一人生き延びて必ず再起をするからだ」と。この話は、金ヶ崎の撤退戦で殿軍を務めた秀吉が言っているのだから説得力があります。秀吉の奮戦(口先だけの男といわれた秀吉に大きな武功をもたらした)によって信長軍主力はほぼ無傷で京に帰ることができました。そしてこれがまさに始まりだったのです。
2005/01/05
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明けましておめでとうございます。昨年は台風に大地震、さらには世界的な大洪水と天変地異が相次ぎ、犠牲者も数多くに上りました。さらには、イラクでも、パレスチナでも戦闘は絶え間ない状態であり、真の意味における「平和な世界」を未だに我々が手にしていないことを改めて実感しています。今こそ、「政治」に求められることは強力な指導力とその基盤になる「理念」ではないでしょうか?私が信長を追い続けているのも、結局は現代の政治家がはるか昔に失ってしまったものを、私も追い求めているからに他なりません。今年も私の駄文にお付き合いいただきますよう、お願い申し上げますとともに、お読みいただいている方々全てのご健康とご多幸をお祈りいたします。
2005/01/01
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