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天気が良く富士も見えツツジが満開であった。4月28日(日) 7:40西ノ丸畝堀沿いの帯曲輪を上り西ノ丸と西櫓の間にある障子堀。ここからの光景を何年も見たかった。富士も見事に顔を出していた。障子堀も綺麗に整備されていた。山中城一番のビュースポットではなかろうか。丸く刈られたツゲの木であったか、四阿の方がよいか。右奥には休憩用の四阿があるが。障子堀へは急斜面で立入禁止になっていたか。山中城へ何度も登城してようやく撮れた写真である。昼近くになると富士には雲がかかる。ツツジも赤一色なのであろうか。帯曲輪に立つ観光案内「← 西木戸口跡、西櫓跡 →」。畝の傾斜度が50度から60度と非常に急峻な西櫓堀。蟻地獄の如くに造られた畝である。西ノ丸畝堀を見下ろす。早期に復旧されることを祈る。令和元年の台風19号の影響で崩落した西ノ丸の法面、その後も長雨で崩壊。この法面にシバザクラを植えたらどうであろうかは。シバザクラは常緑で、地面を覆いつくすように密生し、土の流失も防ぐため、石垣、法面などで利用されていると。西櫓跡への通路から障子堀を見下ろす。前方上の ”西ノ丸物見台” には幟旗が立ち並ぶ。障子堀 (しょうじぼり)後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。西ノ丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪にむかって畝を出し、障子の桟のように区画されている。また、中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ排出される仕組みになっている。このように水堀と用水池を兼ねた堀が山城に作られることは非常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造である。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会西櫓跡から東奥に広がる二ノ丸(北条丸)、本丸を望む。左上は西ノ丸跡。右下の南側の帯曲輪に幟旗が立ち並ぶ。西櫓跡に立つ幟旗。北側には富士が見える。西ノ丸の北側の障子堀、奥に休憩用の四阿。西櫓跡堀立柱建物跡発掘調査の結果、南西の区画から堀立柱建物跡のものと思われる柱穴が二十本検出した。弓矢や鉄炮等を立て掛ける施設と思われるが、検出した柱穴は、柱間及び方向が不揃いで、どの柱穴がこの建物に伴うものか確定できないため、床面と思われる範囲についてのみ平面表示した。 平成二十七年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会 西櫓跡の一段高い櫓台から西方向の三島、沼津市街地を見下ろす。かつてはここから攻めてくる豊臣軍を見たのであろう。後北条氏の角馬出戦国時代の城で、二つの虎口(出入り口)と一つの広場が組み合わされたものを特に「馬出」と呼んでいる。馬出は、戦国時代の永禄年間に完成したと考えられているが、甲斐武田氏の城では、馬出の土塁と堀を丸く造ったので「丸馬出」と呼ばれ、堀が円弧を描くので通称「三日月堀」である。これに対して、後北条氏の馬出は、その形から「角馬出」と呼ばれている。西ノ丸から障子堀をこえて、前方に突き出たこの西櫓(広場)を四角(長方形)に造り、それに沿って土塁と堀を巡らしている。防御する時は、西ノ丸の虎口を中心に、攻撃に出る時には堀の外側の広場(西櫓)を起点として、堀の南端の土橋と北端の木橋を用いる。この馬出の築造により、攻める機能と守る機能が明らかに区分された。写真は、西櫓・西ノ丸鳥瞰図 平成十六年三月 三島市教育委員西櫓跡の櫓台からの富士。櫓台から東側の西ノ丸の物見台を望む。この辺りの標高は580メートル。西櫓と西ノ丸間の障子堀。高いので足がすくむ。関東に攻め込もうとする豊臣秀吉の大軍が、この山中城に襲いかかったのは、天正18年(1590)3月29日のことでこの時の戦死者の数は、障子堀の中にも多くの死傷者が。丸く刈られたツツジをズームアップ。更にズームアップ。西ノ丸の物見台。西櫓を後にする。西櫓入口の帯曲輪からこの光景を見納める。西櫓跡から南側の帯曲輪を西木戸口跡へ進み ”西櫓堀” を振り返る。右側の帯曲輪から西櫓を攻めるのは深い障子堀があるので至難の業であったのでは。西櫓堀(にしやぐらぼり)堀内には、ほぼ九メートル間隔に八本の畝が、堀の方向に対して直角に作られている。畝はローム層を台形に掘り残して作ったもので、高さは堀底から約二メートル、頂部の幅は約〇・六メートルで丸みを帯びている。畝の傾斜度は五〇度から六○度と非常に急峻である。平均した堀底の幅は二・四メートル、長さは中央で九・四メートル、堀底から西櫓までの高さは九メートルもある。現在は植栽されているが、四百年前はすべりやすいローム層が露出し樹木は全くなかったので、もし人間が堀に落ちれば、脱出することは不可能だったと推定できる。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会西櫓西側の堀。西櫓堀の平均した堀底の幅は2.4メートル、長さは中央で9.4メートル、堀底から西櫓までの高さは9.0メートルもある。 深い西櫓堀を見下ろす。廻り込むと富士が見えていた。サクラとのコラボもよさそうだが。ズームアップ。東方向を振り返る。山中城西側の展望地点に立つ観光案内板。トイレ施設もあった。現在地は右上で山中城跡の最西部に位置している。西木戸に建つ石碑には、「史蹟 山中城阯」と。側面には、「史蹟名勝天然記念物保存法ニヨリ 昭和九年一月二十二日文部大臣指定」と。南側の西櫓堀を振り返る。西櫓の北側斜面のツツジ。ここには数色のツツジが咲いていた。8:00急峻な斜面に植えられているツツジ ー 続く ー
2024.05.23
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日本100名城の「山中城」は自宅から片道50キロで、手頃なドライブコースになっておりもう何度も訪れている。ツツジが咲く時期に訪れていなかったため1週間前に案内所へ電話をし開花状況を聞いた。その後天気が不順で行く時期を考えていたが、この日は久しぶりに天気が良く富士も見えていたので、息子家族が来ているにもかかわらず朝食もせずに出かけた。”山中城からの富士山とツツジとのコラボ”、この写真が撮りたくて。4月28日(日) 6:25国道1号鳥井戸橋交差点から愛車ノートの車窓にうっすらと左富士が見えていた。西湘バイパスを走り箱根新道を上る。正面に箱根の電波塔が見える。前方の橋は、旧東海道の畑宿辺りにある「国指定史跡 箱根旧街道の石畳橋」。箱根峠神奈川県と静岡県の県境にある標高846mの箱根峠。国道1号を下りここを左折して旧国道1号へ入る。直進方向の笹原山中バイパスができてから左折する車が激減した。7:20山中城跡案内所・売店所在地:静岡県三島市山中新田410-4 ☎:055-985-2970営業時間:10:00 ~ 16:00 ※ 1 ~ 3月の平日は 10:30 ~ 15:30定 休 日 :月曜日 ※ 祝日の場合は営業、翌日休みここへ1週間前に電話をして開花状況を聞いた。営業が10時からでまだ開店前であった。朝食をとらずに出かけたので散策後そばでも食べることに。案内所前にはバス停「山中城跡」があるが1時間に一本か。既に駐車場には数台の車が停まっていた。山中城跡案内所前に立っている観光案内板。箱根西麓ハイキングコース無料 総距離 約7.5km ● 箱根西麓ウォーキングコース ● 箱根西坂富士美 (ノルディックウォーキング) コース有料 総距離 約8.5km ● 箱根西坂富士美 (ノルディックウォーキング) コースノルディックウォーキングとは、フィンランドでスタートした2本のポールを使ったウォーキングです。全身の筋肉の約90%を使用することにより通常のウォーキングに比べ運動強度が高く、消費エネルギーが2割り程度もアップするものです。(全日本ノルディック・ウォーク連盟認定コース)※ スタート・ゴールを山中城跡案内所・売店としていますが、どこからスタートしてもかまい ません。旧国道1号を下って来ると「国指定史跡・日本百名城 山中城跡」の看板が目に入る。旧国道を挟んだ向かい側にも、駐車場、トイレがある。右側は旧東海道の箱根からの下り道。交差点を渡り案内所を振り返る。道路脇には珍しく電話ボックスも。国指定史跡 山中城跡 (昭和九年一月二二日指定)史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(1560年代) 小田原防備のために創築したものである。やがて天正十七年(1589)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年三月、豊臣軍に包囲され、約十七倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和四八年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。 平成十一年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会写真は、畝堀 (左)、障子堀 (右)。史跡 日本百名城 山中城跡山中城跡の縄張り図探訪コース 2コースを案内しており所要時間は、 ① 戦国山城探訪コース 約2時間 ② 障子堀・畝堀探訪コース 約1時間リュックを背負い ”戦国山城探訪コース“ の約2時間に挑戦。三の丸堀越しに案内所を望む。ゴールデンウイークになり幟旗も立てられていた。三の丸堀三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は、大切な防御のための堀である。城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、畝を掘り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。この堀の長さは約180m、最大幅約30m、深さは約8mを測る。 平成八年十二月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会この三の丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。三の丸堀から二の丸方向へ緩い坂道を上る。オオムラサキはこれからの開花。右側は杉林で田尻の池からの排水路になっている。”田尻 (たじり) の池” の周りにも多くの幟旗が立っていた。田尻の池東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。山城では、水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。しかも、西側は「馬舎」と伝承されているところから、この池は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。築城時の池の面積は約148平方メートルであり、あふれた水は三の丸堀に流れ出ていたようである。 平成十一年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会田尻の池貴重な溜池の一つで西側は「馬舎」と伝承されているところから、この池は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。あふれた水は三の丸堀へと流れ出ていたようだ。幟旗が立つ坂道は二ノ丸へ。観光案内は「← 西の丸跡、宗閑寺 →」と。⇐ 西ノ丸・障子堀方面※ 崩落している箇所があります ※令和元年の台風19号の影響により崩落した場所は一度復旧しましたが、令和3年7月上旬の長雨により再び崩落し、現在は復旧手続き中です。西ノ丸・障子堀方面へ坂を登るがツツジの開花状況は・・・。右上は二ノ丸 (北条丸)。傾斜地に赤く咲いたツツジが見えてきた。ズームアップ。元西櫓下の堀西ノ丸への途中にある元西櫓の斜面に咲くツツジが朝日を浴びて開花していた。ズームアップするが他には花芽が付いていなかったようだ。元西櫓下の堀城の内部に敵が進入するのを防ぐため人工的に土地を深く掘り下げたものが堀である。掘りあげた土は曲輪の中へ運び、平らにならしたり土塁に積んだりするのに用いられる。山中城では、曲輪の四周は大体堀で囲まれている。堀の深さと幅とは地形と曲輪の重要度に深く関連している。また、山中城の堀に、石垣が用いられていないということは大きな特色である。ここは堀底に近いが、四百年前はローム層が露出し、もっと急斜面であった。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会説明板は「土橋」。土 橋土橋は城(曲輪)の虎口(入り口)の前を通路だけ残して、その左右に堀を掘って城への出入りの通路としてつくられる。この土橋から西の丸へ入るには、土橋を渡って正面の土塁の下を左へ折れ、西の丸南辺からのびてくる土塁との間の細い上り坂の通路を通り、更にこの二つの喰違い土塁に挟まれた通路に設けた木戸を通る。この土橋は第一の関所であり、また高い方の堀の水を溜めておくための堤防でもある。 平成十一年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会※ 台風19号の影響で崩落している箇所があります ※令和元年の台風19号の影響で、崩落している箇所がありますが、これは城の遺構(山中城本来の部分)を保護するための土が流れ出したものです。戦国時代の山中城本来の堀や土塁に大きな被害はありません。保護のための土が崩落している箇所については順次修復していく予定です。城内は問題なく散策いただけます。ぜひ障子堀や土塁を見学いただき、北条流の築城術をご体感ください!写真は、台風被害前の西ノ丸(東から) 三島市教育委員会西ノ丸の南斜面にもツツジが咲く。令和元年の台風19号の影響により崩落した場所は一度復旧したが、令和3年7月上旬の長雨により再び崩落し、現在は復旧手続き中であると。ここ数年訪れているがなかなか復旧が終わらずブルーシートで覆われている。土橋上から元西櫓の斜面に咲くツツジを見下ろす。午前中で逆光の元西櫓の斜面をズームアップ。赤いツツジをズームアップ。午後の順光では如何に。土橋を渡り、観光案内は「← 西の丸跡、元西櫓跡 →」。西の丸跡には後訪れることに。帯曲輪を上り西櫓へ向かう。右下は ”西ノ丸畝堀” で障子堀、西ノ丸の斜面と共に復旧中だが完成はいつに。復旧中の西ノ丸の斜面にもツツジが咲く。帯曲輪を上り前方に ”西櫓” 。この先からの富士の光景が楽しみだ。7:40西ノ丸畝堀西ノ丸内部に敵が進入することを防ぐため、完全に曲輪の周囲を堀によってとりまいている。山中城では場所によって水のない堀と、水のある堀、やわらかい泥土のある堀とに分けられる。この堀の中は、五本の畝によって区画されている。畝の高さは堀底から約二メートル、更に西ノ丸の曲輪へ入るには九メートル近くもよじ登らなければならない。遺構を保護するため、現在は芝生や樹木を植栽してあるが、当時はすべりやすいローム層が露出しているものである。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会 ー 続く ー
2024.05.22
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牛ケ谷戸諏訪神社から目的の「田中店」へ向かう。4月15日(月) 13:40南向院 (みなかたいん)所在地:埼玉県比企郡川島町三保谷宿354牛ケ谷戸諏訪神社の裏に車を止めたので、農道を走り県道74号線へ出る前にあった墓地。後方を横切る高架橋は圏央道。入口左手に立っていた新旧の六地蔵。入り口横には古い墓石が4基。新旧の六地蔵には ”地蔵札” が貼られていた。南光院阿弥陀堂真言宗智山派寺院の南光院阿弥陀堂の創建年代等は不詳ながら、江戸期には氷川山寂年寺南光院と号する真言宗寺院で、三保谷宿氷川神社の石鳥居(宝永3年1706年)に「別当南光院第九世住法印隆善代」と銘されていることから室町時代後期頃の創建が窺えます。不動明王を本尊とし、三保谷宿氷川神社、三保谷宿愛宕社の別当を勤めていました。年不詳ながら廃寺となり、阿弥陀堂として残されていますと。堂宇には「南光院 阿弥陀」と。墓地には移設されたのか笠付きの墓石が数多く並んでいた。墓石には、延享、享保等の年代が確認できた。中央の笠付き墓石には、正面に「為先祖代々一切菩提也」。側面に「三保谷宿 田中治郎右衛門應昇」と。宝篋印塔が一基立っていた。境内に建つ案内板は「ゴミの持ち帰りです」だけで他になかった。看板には「南光院共同墓地管理者」と。堂宇の扁額も「南光院」だがGoogleマップは「南向院」で、正式名称は???。南向院を後にする。南向院から県道74号線(日高川島線)へ出て北上。13:50田中店所在地:埼玉県比企郡川島町下八ツ林 244-1地元の雑貨店で店内ではパン、雑貨等を販売しており目的のものはなかった。店頭では地元の新鮮野菜の販売をしていたが、リーズナブルな価格でなかった。田中店から県道74号線(日高川島線)を引き返し、眼に入った神社へ立ち寄る。14:00氷川神社所在地:埼玉県比企郡川島町三保谷宿 572三保谷宿は、室町期から戦国期に見える三保谷郷の本郷の地といわれている。『平家物語』寿永四年(1185)二月十八日の屋島合戦に見える美尾屋十郎広徳の本拠地で、美尾屋氏の居館は現在の大字表にあり、光徳寺が菩提所であるという。境内のソメイヨシノは散り始めており訪れるのが数日遅かった。三保谷宿氷川神社の創建年代等は不詳ながら、当地は美尾屋十郎広徳の本拠地で、牛ヶ谷戸・山ヶ谷戸・表村・上下新堀・吉原・紫竹・三保谷の9ヶ村を三保谷郷と称され、当地はその本郷地とされている。当社は、武蔵国一の宮氷川神社を勧請して創建、地名も本社に倣い大宮と名付けられ、三保谷村の鎮守として祀られてきましたと。鳥居横に集会所が建っていた。入口には2枚の看板、左に「氷川神社々務所」右に「三保谷宿集落センター」と。境内の奥に杜に囲まれた社殿が建っていた。平成九年(1997)に着手完成した社殿。氷川神社 幣拝殿改築記念碑御 由 緒当社の創建年代は、不詳であるが、武蔵国一宮氷川神社より御分霊を奉祀したと伝えられている。社伝によると、元禄十年九月に社殿を再建し、内陣に金幣を納めた。その後、宝暦十年十二月、御神体に彩色を施し、安永五年七月本殿を改築、さらに、弘化四年十一月拝殿と覆屋を再建し、御神体に彩色を施したとある。その後、昭和三十三年火災に遭い、本殿、幣殿、拝殿を焼失したが、翌三十四年に再建している。しかし、幣殿、拝殿は仮復旧だったため、不朽が甚だしく、遠からず改築をと、氏子の崇神の念厚く一同で決議し平成五年から資金の積み立てを開始し、九年に着手完成したものである。 主な祭典祈 念 祭 二月二十四日例 祭 四月十日神輿渡御式 七月十五日新 嘗 祭 十一月三十日 右側の狛犬、阿形像。左側の狛犬、吽形像。拝殿の扁額「氷川神社」。社殿の右側に廻る。本殿は覆い屋で覆われていた。社殿前から南側の境内を見る。境内の西側に「境内社六社合殿社」。境内社浅間神社入口御祭神 木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)この浅間さまは、「初山」の名で親しまれ「子育ての神」としての信仰が篤く、この山に登り参拝することにより富士山に登山したのと同じになると言われております。「初山」とは、新生児の健やかな成長を祈るもので、神社では両親に抱かれて参拝したお子様の額に朱印を押して無事な育成をお祈りしております。浅間神社への登り口に「力石」。二つ置かれていたがどちらも「力石」であろうか。「力 石」この石は、力石と言って昔、力自慢の若者がこれを担いで御本殿の回りを一周した者が、姓名を刻んで社前に奉納したものと言われます。初山のお子様が健康に育つように、この力石に手を触れて下さい。鬱蒼とした階段を上り頂上に ”浅間神社” の石碑。紙垂で飾られていた。『風土記稿』には「氷川社村の鎮守なり、南光院の持」と載せられている。この南光院は、当社の南西400メートルほどの所にあった氷川山寂念寺と号する真言宗の寺院で、表村光徳寺の末寺であったと。先程訪れた「南向院」のことであろう。14:05まだ時間が早かったが、自宅まで約100キロあるので帰路につく。ルートはお土産の「福蔵最中」も買いたいので、一般道を走ることに。カーナビを「自宅」一般道優先にして、県道12号線(川越栗橋線)を南下。交差点は国道254号の「川越市 宮元町」。この交差点を左方向へ進み国道を南下。まだ時間が早く渋滞もなく順調に走る。ネットで「福蔵最中」を検索して販売店を調べるべきであったのだが。川越城の東側を南下、国道254号の小仙波交差点の ”小仙波跨道橋” 。カーナビの案内はこの先で右方向へ進み国道16号へと。国道16号を西方向へ進むがお土産は諦める。矢張りネットで調べるべきであったが頭が・・・。この先”脇田新町交差点”を左折して更に国道16号を進む。14:40道路標識では関越道の「川越I.C 1km」と。ここを入ると鶴ヶ島JCTから圏央道へ入れるのだが渋滞もなかったのでこのまま進むことに。八王子 34km、入間 10km。15:10このまま一般道を走ると八王子で渋滞するので「入間I.C」から圏央道を利用することに。入間I.Cを入り圏央道へ。事故の無いことを祈りながら。八王子方面へ。順調に走り八王子JCT。八王子JCTから南下、「上依知 (Kamiechi) 第一トンネル 長さ 589m)。お土産を購入しなかったので代わりに寒川にある ”日本一たい焼き” を購入するために寒川北インタで下りることに。しかしここも休日であった。15:50寒川北料金所ここ寒川北インタはETC専用で搭載していなければ下りれないのか。ゲートには「ETC」「ETC/サポート」とあったが。16時過ぎには自宅へ到着、往復約230キロのドライブであった。目的の ”日本五大桜の石戸蒲ザクラ” は予想通り見頃を過ぎていたが、”伝鎌倉街道” を知るドライブでもあった、また知らなかった石戸宿、三保谷宿と気になる地名も。機会があればまたいつか訪れたいと。 END
2024.05.21
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天神社、放光寺の後は同じ石戸宿にある「八幡神社」へ。4月15日(月) 12:45八幡神社所在地:埼玉県北本市石戸宿6丁目272カーナビの案内で来たが、桜堤通りからの入口がわからなかったがどうにか探し当てる。住宅街にひっそりとある神社で鳥居と拝殿がある。入口は桜堤通りの鈴木商店を荒川方面に曲がり百メートル程進むと右奥に鳥居が見える。木製の両部鳥居の扁額「八幡宮」。鳥居前から南側の狭い道を振り返る。鳥居を潜り参道を進むとタケノコの先端が芽を出していた。参道は綺麗に掃除されていた。Googleマップに載っていた神社だが詳細は不明。社殿右側に注連縄で飾られた石祠があり「稲荷大明神」と。鳥居前まで車で入ったがユーターンするスペースがなく入口までバックで。次の目的地へ、これも事前にチェックしていた「べに花畑」をセットし桜堤通りを南下。桜堤通りから県道57号線(さいたま鴻巣線)と合流、圏央道の手前に植え付け後の ”べに花畑” 。べに花畑沿いに社を見つける。13:00川田谷の庚申塔所在地:埼玉県桶川市川田谷べに畑の一角に立派な覆い屋の中に庚申塔が納められていたが、説明板がないのが寂しい。覆い屋の横には風化した石碑が置かれていた。覆い屋の中を覗き込む。笠付きの庚申塔が一基納められていた。側面には字が刻まれていたが判読できなかった。笠部をズームアップ。昼時を過ぎ昼食を考えたが適当な店が見つからず。県道57号線(さいたま鴻巣線)を南下 ”桶川市 川田谷(Kawataya)交差点”。ここを右折して県道12号線(川越栗橋線)を西方向へ走り意味深な ”太郎右衛門橋” へ。同交差点角に「東叡山勅願院泉福寺」の寺号標石。同寺はここから南約900メートルにあり、古くから天台宗の中心的な寺院の一つ。荒川に架かる ”太郎右衛門橋” の由緒等を確認したかったが道路が渋滞していたので諦める。事前にチェックしていた「石戸蒲ザクラ」周辺の目的地を一応散策し終えたので少々早いが疲れたので帰路につくことに。出発時に埼玉といえば「福蔵最中」が頭に浮かび、お土産にとスマホで取扱店を検索。近くにある「田中店」がヒットしたので立ち寄ることに。13:25田中店へ向かうため県道12号線の山ヶ谷戸交差点を右折県道74号線(日高川島線)を北上、直ぐに立派な神社があり立ち寄る。牛ケ谷戸諏訪神社所在地:埼玉県比企郡川島町牛ケ谷戸 669門前に新しい「村社諏訪社」と彫られた社号標石。門前を走る県道74号線(日高川島線)沿いに「遠山記念館」の案内板。因みに遠山記念館は、埼玉県比企郡川島町にある博物館。 日興証券創設者遠山元一の邸宅と美術コレクションをもとに、1970年に開館した。運営主体は公益財団法人遠山記念館で、歴史的建造物である遠山家の邸宅・庭園と美術工芸コレクションを保存公開し、文化芸術の振興に寄与することを設置目的としていると。境内に建つ石製の鳥居。鳥居には大きな注連縄がかけられていたが扁額はなかった。境内のサクラ散り始めていた。サクラの木の下には遊具施設もあった。社殿に前に聳える芽吹いたケヤキの高木。左から八坂社、諏訪社、天神社が並ぶ。境内右側に公衆トイレ、石碑が建っていた。石碑には、「皇太子殿下御成婚記念事業 諏訪社幣拝殿改築記念碑 竣工 平成六年三月二十七日」と。 御由緒御祭神 建御名方命 (たけみなかたのみこと)古文書に初代の神主は天文十三年(442年前)禰宜馬場帯刀とある。氏子中の馬場家先祖が信濃国御本社より御分霊を勧請し建立したと伝えられ、其の後寛永十三年七月(340年前)当地生れ鈴木三右エ門立願して社殿を造営されたと当時の棟札に明記されている。明治初年神仏分離に当り、諏訪大明神は諏訪大神社と改称し現在の諏訪社となった。明治三十年九月大暴風雨に社殿後方の御神木倒れ、同時に社殿も大破したので320円の経費を以って倒された大杉一本で改築された。昭和五十年十一月、御本殿大改修を経費75万余円を投じて完工し現在に至る。八坂社 大正元年十二月に牛ヶ谷戸字天王の地に鎮座せるを移転して境内社と改めた。天神社 古来より境内社として祀られている。御祭事 新年祭 三月二十七日 例 祭 八月二十七日 八坂祭 七月十三日 新嘗祭 十一月二十七日 昭和五十二年八月二十七日 川島町道徳教育振興会 諏訪社氏子総代入口には「諏訪パブリックトイレ」と。諏訪社の前に、右側の狛犬、阿形像左側の狛犬、吽形像。諏訪社の拝殿拝殿の扁額「諏訪社」。内陣を見る。壁面には賞状、写真が掲示されていた。諏訪社の本殿を左側から。諏訪社の前の対の狛犬。境内社の「八坂社」 。大正元年十二月に牛ケ谷戸字天王の地に鎮座していたものを移転した。八坂社の扁額「八坂社」。各社には多くの千社札が貼られていた。諏訪社の右側に建つ「天神社」。古来より境内社として祀られている。天神社の扁額「天神社」。天神社の内陣。八坂社の前から県道側の境内を見る。石碑には、「天皇陛下御即位十周年記念記念事業 八坂神社幣拝殿改築記念碑 竣工 平成十年十二月二十七日」と。八坂社の左側の県道沿いに覆い屋で覆われた石碑。石碑には「高天原 ○楽明神」と彫られていた。奥にも建物があったが。13:35境内の南側には幟旗用のポールが建つ。 ー 続く ー
2024.05.20
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桜堤通りを南下、石戸宿の寺社史蹟散策に。4月15日(月) 12:15桜堤通り沿いに建つ社号標石には「村社 天神社」と。道路脇に駐車スペースがあり駐車して散策。入口に立つ案内支柱には、石戸城跡 0.5km、北本市子供公園 0.5km。伝鎌倉街道をめぐる ~ 石戸宿の宿並と御茶屋(御殿)跡周辺の文化財 ~北本市の西部には、鎌倉街道と伝わる古街道が南北に通っています。この街道は当時の幹線である中道から浦和の秋ヶ瀬あたりで枝分かれして荒川沿岸を北上し、栃木県へと通じる支道であると考えられています。この街道沿いには戦国時代の石戸城跡や近世の御茶屋(御殿)跡をはじめとした文化財が数多く存在し、歴史的にも重要な道でした。また、街道の真ん中にはかつて水路が通っており、祭礼の時は東側だけを使っていました。この街道周辺は徒歩での歴史や自然散策にうってつけですので、ぜひ散策してみてください。 北本市教育委員会作成1 石戸城跡 (①) 石戸城は戦国時代の城郭で、岩付城主・太田氏の支城といわれています。永禄5(1562)年 11月、北条氏康・武田信玄の連合軍が松山城(吉見町)を攻めた際、これに対する岩付城主 ・太田資正が上杉輝虎(後の謙信)に救援を求め、翌年2月、輝虎は石戸城に着陣しています。2 御茶屋(御殿)跡 (②) 徳川将軍が鷹狩の際に休息をとった施設を御茶屋といいます。特に家康は鷹狩を好み、鷹 場のあった川越(川越市)から忍(行田市)を往復する際には鴻巣御殿に宿泊し、石戸の御茶 屋で休息をとったと考えられます。ここには現在も「御殿稲荷」が祀られており、地元で は「御殿」の敬称をもって呼ばれていたことがわかります。令和3年に北側の一部を発掘 調査したところ、施設を区画する堀跡と江戸時代初期の遺物を検出したことから、ここに 御茶屋があった可能性が高くなりました。3 神社仏閣と石造物 放光寺と天神社 (③) 放光寺は天台宗のお寺で、境内に中世の板碑があることからかなり古い創建と考えられ ます。同じ敷地内にある天神社は地域の氏神で、学問の神様である菅原道真を祭神とし ています。また、境内には樹齢約600年といわれる「ムク」や、江戸時代の石戸領第6代 領主・牧野贇成(よししげ)の揮毫による幟旗など、市指定文化財が5件所在します。 石造物 (④⑤) 石戸宿の宿並周辺には様々な石造物が残されており、それらを探しながら歩くのも楽し いものです。放光寺には地獄の番人である閻魔王(④)が祀られており、宿並の南端の庚 塚(かねづか)と呼ばれる地区には嘉永4(1851)年に石戸連の俳人15名が俳句の上達を願 って建てた「芭蕉句碑」があります (⑤)。 北本市教育委員会作成「宿並三六軒」と呼ばれた石戸宿の家並と屋号宿並は、間口が狭く奥行が長い地割りが特徴で、現在でも戦国時代からの区割りをよく留めていることがわかります。参道脇には咲き終わったウメの古木。天神社所在地:埼玉県北本市石戸宿6丁目64祭神は菅原道真で、石戸宿村の鎮守。江戸時代中期頃の創建と考えられている。10月の祭礼の日にはササラ獅子舞が奉納されていた。石刻絵馬「菅原道真」、「石戸宿の天神社幟」「天神社幟」などの指定文化財が奉納されている。石戸宿と天神社石戸宿の歴史は古く、鎌倉街道に沿って中世期から開かれていたという。また、江戸時代には、石戸領二十村の本郷といわれ、末期には毎年三月二日・五月二日・七月十一日・十二月二十七日の四回、市が立ち賑わっていた。街道に沿って民家が立ち並ぶという典型的な宿場の景観を今に伝えている。また、昔は道路の中央に排水溝が設けられていたという。天神社は、江戸時代の中期頃に石戸宿の鎮守として勧請されたと言われ祭神は菅原道真である。祭礼は、二月二十五日・十月十五日(現在は十月第二週の日曜日)で、この日には「ささら獅子舞」(市指定文化財)が奉納(上演)される。 昭和六十一年三月 埼 玉 県 北 本 市 朱色の鳥居が建ち、左右2本の主柱の前後を袖柱が支える「両部鳥居」構造になっている。鳥居の扁額「天満宮」。鳥居を潜ると右側に玉垣で囲まれた墓石。墓石には「奉納 大乗妙典日大〇國卒六部供養佛 享保十・・天」と。ムク(ムクノキ) 市指定天然記念物 昭和五十三年三月十五日指定ニレ科の落葉喬木で、山地に生えるが、人家付近に植えられることもある。天神社のムクは、根回り5.24メートル、高さ20メートル、樹齢は600年以上と思われる大木である。5月ごろ、淡緑色の細かい花が咲き、果実は10月頃に熟し、その果肉は甘いので子供が食べたりした。奉寄進石手水鉢元禄六年等の字が読めたが風化して。石燈籠、狛犬の奥に社殿。天神社 御由緒□ 御縁起(歴史)荒川の東沿いに位置する石戸宿は、戦国期には、河越から鴻巣・忍を経て上野国に至る街道と、岩付城へ至る街道上の要地に当たっていた。地内には、太田道灌が岩付城の支城として築いたとも、扇谷上杉氏の家人八右衛門が在城したとも伝える石戸城跡がある。この城は別名を天神山城とも呼ばれていた。太田道灌が、河越城を築いた際にも城の鎮守として場内に天神社を勧請したことを考え合わせると、当城にも同様に天神社が祀られたのであろう。当社は、かつて荒川の堤外地に祀られていたとされるので城が廃された時に、堤外に遷されたものが、移転を重ねた結果、現在地に遷されたと考えられる。氏子の口碑には「天神様は、荒川が流れを変える度に、三度も遷ってきた」とある。社蔵の、最後に現在地に遷座された時のものと思われる木札には「(梵字) 奉改社地天満宮天下泰平国土安全之所 天明三癸卯歳(1783)三月吉祥日 別当梅林院 放光寺現在宜範」と記されている。また、現在の本殿は、彫刻の裏に「宝暦癸酉八月」とあることから宝暦三年(1753)の造立である。この内陣には、天満天神座像が奉安されており、社蔵の木札には、「(梵字)奉刻天満大自在天神像 氏子繁昌守護 宝暦九歳次己卯(1759)十月摩訶吉祥日 別当放光寺」と記されている。□ 御祭神と御神徳 ・菅原道真公・・・学問成就、健康増進□ 御祭日 ・例祭(二月二十五日) ・お日待(十月第二日曜日)天神社ささら獅子舞 北本市指定無形の民俗文化財 昭和五十四年三月十五日指定獅子舞は、古くは「祓い」の信仰から起り発達して今日に至ったと考えられ、三頭の獅子 (関東では、このような三頭だてが多くみられる) が腰につけた太鼓をたたきながら笛・ササラなどの伴奏で舞い、五穀豊穣・家内安全等を祈願する民俗芸能である。獅子舞をささら獅子舞というのは、舞いの折に、花笠の役が持つ、丸竹の三分の一くらいをけずり、のこぎりのような歯をつけた竹に、もう一つの、先を細かくさいた丸竹をこすりつけて鳴らす楽器の名から出たものである。市内のささら獅子舞は、当神社のみであるが、後継者不足等により長い間中断していたが、昭和五十三年に復活した。獅子のほか、花笠・笛方等四十名で構成されており、毎十月十五日に上演される。 昭和五十五年十月 北本市教育委員会先端が切られた?市指定天然記念物の ”ムクノキ” を望む。境内の北側に建つ神庫と、右側に「排水工事記念碑」と刻まれた石碑。対の狛犬の後方に天神社の拝殿右側の狛犬、阿形像左側の狛犬、吽形像拝殿前から東側を望むが、右前方には墓地。左側は天神社への参道。拝殿は耐震補強でつっぱり棒が施工されていた。拝殿の扁額は薄くなった手書きの「天満宮」。社殿の右奥に、境内社、石祠が並んでいた。竹林の中を下る道があったので下りることに。タケノコを探すが・・・。竹林の中を下ると広いグランド。ここは ”天神下公園” で草野球も可能であると。天神社への道は仮設の手摺、ステップで整備されていた。天神社の社殿裏に根元が広がった ”ムクノキ” 。ムクノキはアサ科ムクノキ属の落葉高木。東アジアに分布する。単にムク、またはエノキに似るためムクエノキとも言う。果実は甘酸っぱく、ムクドリなどの小鳥が集まる木で知られる。ざらついた葉が漆器などの研磨剤に、かたい材は運動具などに利用されると。保護樹木指定標識保護樹木名 ムクノキ指定番号 第17号指定年月日 平成5年12月1日 北本市ムクノキを見上げるが樹径、樹高等は?であった。天神社の本殿。天神社の社殿で拝殿はつっぱり棒で耐震補強。苔むした古い墓石が立ち並んでいたが。境内と桜堤通りとの間には墓地が広がっていた。墓地の西側には新しい赤い頭巾の六地蔵が並んでいた。比較的新しい地蔵で台座には「六地蔵建立 平成八年十二月吉日」と。六地蔵に並んで右側には宝永年代の石仏。こちらには中央に「萬霊供養塔」。ソメイヨシノが満開であれば・・・。左の建物は、「放光寺念佛堂」。放光寺 (ほうこうじ)所在地:埼玉県北本市石戸宿6丁目262天神社に隣接する天台宗の寺院で、川田谷泉福寺の末である。新しい門柱には右に「青龍山梅林院」、左に「放光寺」と。石戸宿しだれ桜日本五大桜のひとつである福島県の ”三春の滝桜” の子孫であるといわれるシダレザクラが見事で、毎年多くの観光客が訪れる。この日は残念ながら既に咲き終わっていた。こちらもつっぱり棒で補強された ”放光寺本堂” 。放光寺本堂の左には「石戸宿集会所」。墓地の入口には古い石仏が並んでおり境内整備時に移設されたのであろう。真ん中に「板碑」。その中に ”放光寺の地獄の番人であるといわれる閻魔王” 。台座には「普門品三千巻 奉讀誦 二世安楽所 心経一千巻」 と。横顔をズームアップ。墓地の南側に放光寺への参道。右奥の桜堤通り沿いに車を止めた。葉ザクラのしだれ桜を見上げる。12:35駐車場から、しだれ桜、放光寺を振り返る。例年の見頃は3月下旬~4月上旬であると。 ー 続く ー
2024.05.19
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"石戸城と一夜堤" を後にし、桜堤通りへ戻る。4月15日(月) 11:35狭い路地を抜け ”石戸城跡説明板” 前へ。ここ桜堤通りを右折し北上。道路脇に「桜堤通り」と。Googleマップに載っていた「モチの木」。石戸城跡説明板前から北上し直ぐにある ”モチの木” を振り返る。木の根元にプレート。保護樹木指定標識保護樹木名 モ チ指定番号 第64号指定年月日 平成7年2月1日 北本市この辺りは桜堤通りの東側で、石戸城の ”三の郭” であろうか。桜堤通りを北上、サクラ並木の ”城ヶ谷堤 (桜土手)” の南側入口。右下が先程車を止めた場所である。天神下公園駐車場所在地:埼玉県北本市石戸宿7丁目128約二百メートル程城ヶ谷堤(桜土手)を走り、左下に駐車場があり立ち寄る。ここは城ヶ谷堤(桜土手)の西側にある駐車場(無料)で公衆トイレもあった。この日は天気が良く車内気温が上がるので日陰を探して駐車。城ヶ谷堤(桜土手)をズームアップ。駐車場ではテントの撤収が行われていた。前日まで”桜まつり”が開催されていたのか。石屋下沼駐車場下にある沼で右側 (西) を荒川が流れている。沼の周りには多くの釣り人が楽しんでいた。駐車場の北側の竹林前に案内板を見つける。Googleマップでこの辺りに「横田薬師堂下湧水」があると。横田下の湧水群は、市内でもっとも水量の豊富な湧水地で、1991年(平成3年)の調査では毎分262㍑を記録し1日に 377t(トン)もの水量になりました。湧水の水源は、雨水です。地下に浸透した雨水は、長い時間をかけて地層を巡り再び地面に噴出し、湧水となります。湧水が、夏は冷たく冬は温かく感じられるのは、雨水が長い時間温度の一定な地中にあるためで、その水温は年間を通して常に15℃前後です。市内には湧水地が10か所ほど確認されており、いずれも豊かな動植物を育む源になっています。ここ横田下の湧水群の周囲はヤナギやハンノキが小さな林を形成し、コムラサキなどの蝶類をはじめ、サラサヤンマやオオアオイトトンボなどのトンボ類の貴重な生息地になっています。 北 本 市案内板の手前には、野生のケシの花が咲いていた。我が家でも咲いているが他の花の色に影響するからと妻からじゃま者扱いにされている。そんな花も群生すると綺麗だが。駐車場から下り木道の遊歩道へ。竹林の中に「横田薬師堂下湧水」の標識柱。下の方は草に覆われていた。この時期、草むらへ入るのも嫌で。草むらから水が湧き出ていた。駐車場へ戻る。天神下公園駐車場から桜堤通りへ上がり ”城ヶ谷堤 (桜土手)” の南方向を望む。天神下公園駐車場のすぐ北側に目的地があり車を道路脇へ停める。北本ウオーキングマップ(北本市全域)桜堤通りの道路脇にあった案内板、現在地は黄色の丸辺りで川島町に近い。現在地辺りをズームアップ。この日動いている地域になる。北本ウォーキングマップ北本は、住宅地の庭木から、里山の面影を残す雑木林や荒川の田畑まで多様な緑を感じることができるまちです。この北本ウォーキングマップは北本の農業と結びついた文化的景観と市内の主要な施設を案内するものです。石戸蒲ザクラ D-4 一夜堤 D-5エドヒガンザクラ C-4 北本市子供公園 D-4北本市役所・文化センター B-2 北本中央緑地 C-1埼玉県自然学習センター D-4 城ヶ谷堤 D-5真福寺 B-3 高尾さくら公園 B-5高尾宮岡ふるさとの緑の景観地 B-4 野外活動センター B-5 北本市産業観光課石戸谷の庚申塔所在地:埼玉県比企郡北本市石戸宿7丁目案内板の近くにあったが、Googleマップで住所が比企郡と。北本市であるので修正が必要。座にも三猿が彫られている。側面には「享和元○○二〇吉祥日」と。車を止め歩いて「横田薬師堂」へ向かう。道路の左側にも紙垂で飾られた”笠付き庚申塔”であろうか一基あった。横田薬師堂所在地:埼玉県北本市石戸宿7丁目121番地辺り桜堤通り沿いにある門柱に「横田薬師堂」と。北本市石戸宿にある横田薬師堂は、薬師如来像の安置に際して、宝暦二年(1752)川越の宮大工により建立されたという。また、薬師堂墓地は、明治初期に各家の屋敷地近辺にあった個人墓地を寄せ集めて造られたものという。そのため、薬師堂前の墓石は移設された感がする。昭和三十七年十一月に建てられた「薬師堂改修記念碑」には、「薬師堂は江戸時代中期宝暦二年九月御本尊薬師如来の安置に際し、武州川越の住、宮大工星野入右エ門重春の作とあり、間口二間、奥行ニ間半、草葺の堂宇と、間口三間、奥行二間半の庫裡は遠く江戸時代より幾星霜を経て、漸く類廃著しく、茲に地区民相計り、今後公会堂として改修使用致すべく、祖先の霊眠る墓地関係者はもとより、広く区内一般の努力により、本堂草葺屋根を瓦葺に、庫裡を亜鉛葺に改修す」とある。冷暖房の室外機があり利用されているようだ。境内に入ると左側に建つ「薬師堂改修記念碑」。昭和三十七年十一月に建てられた石碑で裏面に上記文言が彫られている。横田薬師堂の東側百メートル程の農道脇に石碑。ここもGoogleマップに載っていた「馬頭観世音 (石戸宿)」。石碑には「馬頭観世音 明治二十年一月立之 願主 矢部平吉」と。畑越しに桜堤通り沿いに咲くサクラを望む。Googleマップに載っていた北本市石戸宿8丁目辺りにある「供養塔 (県道標)」を探す。カーナビの案内で進むが住宅街に入り道が行き止まりになり引返す。その片隅にあった2基の墓石。12:10供養塔(県道標)は見つからなかったが、左側の碑の側面には「明治丗六年一月吉日」と、お酒も供えられていた。 ー 続く ー
2024.05.18
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阿弥陀堂の次は近くにある「コッホ・北里神社」を目指す。4月15日(月) 10:35事前のチェックで ”北里大学 北本キャンパス” を知り立ち寄った。ここにもソメイヨシノの木があったが残念ながらピークを過ぎ葉ザクラになっていた。道路脇の看板に、「第一三共株式会社 第一三共バイオテック株式会社」。所在地: 埼玉県北本市荒井6丁目111番地同社のHPから高品質なワクチンを低コストでタイムリーに供給することで、保健衛生の向上に貢献しています。また、ワクチンで培ったバイオ基盤技術を活用することによって、世界中の人々の健康で豊かな生活に貢献していきますと。今回の新型コロナでも貢献したのであろう。ソメイヨシノの中に ”コッホ・北里神社” の鳥居を見つける。道路脇に車を停め参拝することに。サクラ並木の参道を進む。満開なら最高のロケーションであろう。ピークを過ぎていたソメイヨシノを見上げる。コッホ・北里神社所在地:埼玉県北本市荒井6丁目102番地辺り日本の細菌学の父といわれ、近代医学の大功労者である北里柴三郎博士と、彼がドイツ留学中に学んだロベルト・コッホを祭った神社。コッホを深く敬愛していた北里は、彼の髪を持ち帰りコッホ亡き後、日本において祀った。東京白金の北里研究所に鎮座していたがその後、1994(平成6)年には北本キャンパスにも分祠され現在に至る。鳥居の扁額「コッホ北里神社」。右側には「北里柴三郎博士没後九十周年事業募金」。多くの方の名前、企業名が刻まれていたが募金額はなかった。コッホ・北里神社の由来北里柴三郎は、ベルリン留学時代(1886~1891)ドイツの細菌学者ローベルト・コッホ博士に師事し、当時、不可能と考えられていた破傷風菌の純培養に成功、さらに免疫抗体や血清療法の発見など数々の輝かしい業績を挙げ、その名を世界に知られるまでになった。北里はこれを全てコッホ博士のお陰とし、心からの尊敬と信頼を捧げた。1910年5月27日、コッホ博士の訃報を受け、北里は深い悲しみにくれ、間もなく、国立伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)の一隅に博士の遺髪をご神体として総檜造りの祠堂(コッホ祠)を建て、没後一年祭を挙行し恩師を偲んだ。1914年11月5日、北里は国立伝染病研究所所長を辞し、即日、新たに北里研究所(現東京都港区白金)を創設して所長となり研究事業を続行した。そして、翌1915年、このコッホ祠堂を北里研究所構内の東南隅に招来し、同年5月27日、例祭を兼ねて遷座報告の祭典を挙行した。1931年6月13日、北里が逝去すると、門下生らは、北里の御霊を北里研究所内に祀ることを願い、間もなく、コッホ祠の傍らに北里祠を設け、コッホ祠と共に北里研究所の守護神として崇敬報恩のしるしとしてきた。1945年5月25日、戦災により北里祠は焼失したが、幸い難を免れたコッホ祠にそれを合祀し、以後現在まで毎年6月13日の北里の命日に例祭を行っている。また、5月27日のコッホ博士の命日には献花を捧げている。1980年、この祠堂は北里本館屋上の一隅に遷座されたが、1993年、当初北里祠の在った位置に移すことになり、これを機にコッホ・北里神社と呼ぶことになった。1994年3月、創立75周年記念事業として1989年から始められた当地の一連の事業の完成を記念し、前記のコッホ・北里神社の分社としてこの地に奉った。 2007年 6月13日 旧、社団法人 北里研究所 2013年 4月1日 学校法人 北里研究所手水鉢をサクラの花びらが飾る。これぞ花手水。コッホ・北里神社内へは施錠されていた。今年から新千円札になる北里柴三郎の名も再認識されるのであろう。外国人の名前を冠した神社は日本ではここだけだという「コッホ・北里神社」。ドイツ人のローベルト・コッホ博士に関連する石碑が稲村ヶ崎公園にある。 興味のある方は「茅ヶ崎市自転車貸出し」👈 をくクリック願います。白金キャンパスにある ”コッホ・北里神社” (パンフレットから)。この道路脇に車を止めコッホ・北里神社を参拝したが後方に咲き終わったしだれ桜。道路脇の植え込みに「北里大学看護専門学校」の案内板。大村記念館所在地:埼玉県北本市荒井6丁目102番地大村智先生の数々の研究業績や栄誉を顕彰するために、2012(平成24)年11月1日、北里大学の北本キャンパス内に「大村記念館」が開設された。北本キャンパスには、大村先生が北里研究所所長の時に設立した、北里大学メディカルセンターと北里大学看護専門学校がある。大村記念館は、北里大学看護専門学校の「附属棟」の1階にある。この日は月曜日で「開館中」。受付で館内は撮影禁止と。大村博士は2015(平成27)年 ノーベル生理学・医学賞を受賞された。10:55展示室には、大村先生の胸像や国内外の賞状・メダル、抗生物質の分子模型や菌の電子顕微鏡写真・寄生虫感染症・抗寄生虫薬イベルメクチン等の開発・研究プロセスが紹介されていた。北里大学の北本キャンパスを後に西側の ”桜堤通り” へ。桜堤通りを北上、道路脇に ”石戸城跡説明板” 。発掘調査の結果この辺りは ”五の郭” 、道路を挟んで西側は ”四の郭” 。埼玉県選定重要遺跡 石戸城跡 (いしとじょうあと) 昭和四十四年十月一日選定石戸城は別名「天神山城(てんじんやまじょう)」ともいわれ、十五世紀後半頃に築かれたと考えられている。当時は戦国大名が覇権を争う群雄割拠の時代であった。城は上杉氏の家人・藤田八右衛門によって築城されたとされ、北上する北条氏の勢力に備えるため、岩付城から松山城、川越城を結ぶ防衛線の一部を担っていたと思われる。永禄六年(1563)二月、北条・武田の連合軍が上杉方である松山城を包囲した際、雪の上越国境を越えて援軍に駆けつけてきた上杉輝虎(謙信)が、短期間ではあるが石戸城に逗留している。その後は北条氏の支配を経て、徳川氏の関東入国以降、城としての役割を終えるようである。現在では発掘調査などによって土塁や堀が良好に保存されていることが確認され、堅牢な城郭の姿が復元されつつある。 平成二十九年三月 北本市教育委員会石戸城の縄張り図”石戸城跡説明板” から狭い道を走り桜堤通り下まで入り車を止めた。縄張り図によるとこの辺りは ”一の郭” の北側であろうか。車を止め桜堤通りへ上る。ここから北側はサクラ並木の観光名所 ”城ヶ谷堤 (桜土手)” といわれている。既にサクラは散り菜の花だけが残っており、一週間前なら絶景であった。桜堤通り西側の荒川低地には駐車場があった。桜堤通りに「河川における行為の規制」。桜堤通りの東側斜面にもサクラ。北本市自然遊歩道入口入口に立つ「北本自然観察公園」「北本市自然遊歩道案内図」の案内板。ここは一夜堤口です 埼玉県自然学習センターまで 950mこの公園は、埼玉県の「里地里山」の自然環境を残しながら、野生の生きものがくらしやすいよう、また来園される方が自然に親しめるように整えられた公園です。北本市自然遊歩道案内図 遊歩道を歩き ”史跡・一夜堤" へ行くことに。現在地は黄色矢印。 遊歩道脇は低湿地帯になっており、右側は ”北里の森” 。遊歩道の先の ”史跡・一夜堤” 方向。埼玉県自然学習センター・北本自然観察公園の看板この時期の観察ポイント 2024.01何に見える! オニグルミの冬芽と葉痕葉が落ちた跡の葉痕と冬芽がなんとも可愛いオニグルミ。葉痕の形により、ヒツジやサルの顔にも見えてきます。姿によっては手をあげているようにも・・・。さて、何に見えますか?静寂な遊歩道を歩く人もおられたが、野鳥の鳴き声も。波静かな湿地に水鏡。この先が ”一夜堤” 。湿地帯を振り返る(北側)。左奥は ”高尾ふるさとの森” 。一夜堤に建つ説明板石戸城と一夜堤石戸城は、室町時代長禄年間(1457~60)ころ、岩付・松山・川越の各城との連絡のために築かれたものと伝えられている。扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門の居城に始まり、永禄六年(1563)松山攻めの時には、上杉謙信が石戸まで進入してくるなど、いくたびかの変遷をみたという。謙信の松山攻めに先立つ永禄五年北条氏邦は、北条氏政の命により秩父・鉢形勢を率いて上杉方のこの城を攻め、時の城主毛利丹後守とのあいだに激しい攻防戦を演じたことが「関八州古戦録」にみえている。毛利の守りは固く、北条勢は多くの死傷者を出したが、この時氏邦は、暗夜に乗じて城の東側の谷地に一夜にして土橋を築き一気に城へ攻め上って勝利したという伝承がある。この土橋が現在「一夜堤」と呼ばれている。「一夜堤」は、石戸城跡と谷をへだてた東側の台地とを結ぶ、長さ45メートル、幅5メートルほどの堤で、自然散策の遊歩道として市民に親しまれている。 平成元年三月一日 北本市一夜堤から南側の湿地帯。北本自然観察公園この公園内には、貴重な動植物を守るための保護区域があります。保護区域内は園路、木道から外れて中に立ち入らないようお願いします。 彩の国 埼玉県現在地は黄色矢印。湿地帯に蝶。ズームアップ。一夜堤から北側の ”高尾ふるさとの森” を望む。11:25一夜堤を後にし遊歩道を戻る。 ー 続く ー
2024.05.17
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川田谷諏訪神社参拝後は、北側にある庚申塔、石仏めぐりに。4月15日(月) 9:50石戸の庚申塔所在地:埼玉県北本市石戸上1505番地田園風景の農道脇に建っていた庚申塔。畑にはビニールハウス、太陽光発電が建ち、ハウスではトマト、イチゴの生産販売。庚申塔を挟んで右側は北本市、左は桶川市になる。交通量が少ないので農道脇に車を止める。庚申塔は覆い屋で覆われ、前には木製の鳥居も建っていた。背丈もありひときわ目立つ庚申塔だが説明板がなく詳細は不明。移設されたのか、覆い屋も簡素なものだが。ネットでヒット。建立年:宝暦4年(1754)形式等:舟型・浮彫り、高さ119、幅50銘 文:宝暦四甲戊天九月吉日 願主 下石戸上村講中彫刻等:穏かな顔、瑞雲日月、一面六臂、戟、輪宝、矢、弓、合掌、2鶏、邪鬼、3猿馬頭観音所在地:埼玉県北本市石戸9丁目石戸の庚申塔から東へ走り数百メートルの所にある馬頭観音。馬頭観音を撮影していると散歩中の地元の方から「この先の桜が綺麗だよ」と。覆い屋の下に2基の馬頭観音。地元の方から綺麗だといわれたサクラ。農道の先に ”石戸の庚申塔” 。また「荒川沿いの吉見のサクラも綺麗だ」と。馬頭観音・6体地蔵尊所在地:埼玉県桶川市川田谷6286馬頭観音から更に東へ走り数百メートル先の墓地の中にある。左に新しい馬頭観世音、右に6体地蔵尊。両サイドに字が刻まれていた、右側には「○大僧○龍清法印 〇先祖菩提」左側には「○大僧○龍清法印 正徳二壬庚二月十六日」と。敷地内に枯れた大きな古株があり、かつては杜の中にあったのであろう。馬頭観音・6体地蔵尊から県道33号線(東松山桶川線)を北上、サクラの森が見えていたので右折し立ち寄る。埼玉県のこの辺りは関東平野のど真ん中で目標とする山がなくカーナビがたより。天台宗 大藏寺所在地:埼玉県北本市石戸6丁目206天台宗寺院の大藏寺は安楽山無量院と号します。大藏寺の創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に「同宗同末(放光寺と同じく天台宗、川田谷村泉福寺の末)、安楽山無量院と號す、本尊阿彌陀開山玄秀。阿彌陀堂」とありますと。県道33号線(東松山桶川線)から見たときは綺麗に見えていたが既に散っていた。葉ザクラのソメイヨシノを見上げる。参道の左側に地蔵。ここの地蔵の台座にも「地蔵札」が貼られていた。また台座には「奉造立地蔵尊像 昭和四十七年三月吉日」と。葉ザクラが散る下に山門。山門を潜ると正面に本堂。路面にはサクラの花びらが飛び散っていた。天台宗総 本 山 比叡山 延暦寺高 祖 天台大師 智 顗宗 祖 伝教大師 最 澄立教改宗 桓武天皇 延暦二十五年(平安時代の初期)本 尊 法華経に説かれている久遠実成の釈迦如来とすべての諸佛・諸菩薩等は同類一体 である。よって、それぞれの縁に随って奉安敬信する。教 義 法華経に述べられている一乗真実の教説を根本として、密教・禅法・念佛等をそ の実践門とする。教 典 法華経に示されている諸法実相の立場を基本としてひろく大乗経典を讃仰・読誦 する。当山本尊 阿弥陀如来 本堂のご本尊さまに先ず合掌大藏寺本堂境内に咲いていたボタンの花。いつの間にか咲いていたボタンだ。境内に赤い頭巾、前ダレをした地蔵が何体もあった。本堂改築 庫裡新築 竣工記念碑本堂前から山門を望む。葉ザクラのソメイヨシノを見上げる。ソメイヨシノの樹径も大きくなり大木に。この後、大藏寺を後にし西側へ移動。県道57号線(さいたま鴻巣線)沿いにあった古い墓石。いつかこの県道57号線(さいたま鴻巣線)を北上し鴻巣方面へ行きたいが。この後カーナビを「北本市の阿弥陀堂」にセット。阿弥陀堂への途中、Googleマップに庚申塔等があり探す。石戸宿1丁目の庚申塔所在地:埼玉県北本市石戸宿1丁目カーナビの案内では近くに来たが北側に古民家風の建物。入口の立て看板に「株式会社 アジアメデカ元気事業団」と。アジアメデカ元気事業団の本社は東京千代田区内神田にありここは北本オフィス。日本からアジアへ、医療機関の開業・運営支援・介護施設の開業・運営支援・さらには優秀な人材を育む教育システム等のご提案を通している。敷地内を探し庚申塔らしきものを発見。道路から10メートルほど入り撮影。庚申塔には「宝永二・・・」と刻まれていた。三猿の彫り物も。八雲神社所在地:埼玉県北本市石戸宿1丁目110辺り道路脇に小さな社殿が建っていた。廻りは新地になっていたが。八雲神社といえば北本市には8丁目にも ”石戸八雲神社” がある。境内は新しく整備されたのか、また詳細については説明板もなく不明。社殿の扁額は手書きの「八雲神社」。内陣を覗き見撮影。道路を挟んだ南側に石碑が建っていた。石碑には「愛蚕之碑」と。愛蚕之碑昭和六年春蚕條桑育ニ際シ長野懸萩原千太次氏ノ考案ニカカル蚕病豫防剤○〇ホサンヲ試用セシニ其ノ効果絶大ナリシニ〇ニ且東京高等蚕糸學校波多野岩吉先生並ニ静岡懸古橋正一郎先生ノ學理的研究ニ合致セルニ深ク感ジ爾後十有三年○○ニ普及セン。努力セリ然ルニ此ノ○○ノ使用極メテ簡便殺菌力大ニ而ニ食欲ヲ増進セシムル特効アルニヨリ業界ニ歓迎セラン其ノ目的ヲ達スルニ至レリ今ヤ大東亜決戦下繊維不足ノ折柄益々之ガ普及ヲ圖リ蚕糸ノ増産ニ寄興セント欲ス茲ニ散〇普及セル記念トシテ之ヲ建ツ愛蚕之碑前から西側を望むと目的地の「阿弥陀堂」が見えていた。阿弥陀堂は道路の北側にあり地蔵も北向きであった。阿弥陀堂所在地:埼玉県北本市石戸宿1丁目110辺りここにも説明板がなく、創建年代等詳細は不明。左側に”石戸宿阿弥陀堂の青面金剛”10:35道路拡張で移動されたのであろう、その際に阿弥陀堂は改築されたか。 ー 続く ー
2024.05.16
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北本市の善照寺から東へ走り桶川市の諏訪神社へ。4月15日(月) 9:30川田谷諏訪神社所在地:埼玉県桶川市川田谷 6710川田谷諏訪神社の創建年代などは不詳ながら、天正十九年(1591)には徳川家康より社領三石の御朱印状を拝領、石戸領の総鎮守だったという。明治六年村社に列格、明治四十年雷電社を合祀、明治四十二年(1909)神饌幣帛料供進神社に指定されている。東側の駐車場から戻り西側の参道入口へ。参道入口に立つ社号標石には「村社諏訪神社」と。こちらの石碑は風化して読みずらかったが。 定一、軍馬 乗入事一、魚鳥 補事一、〇木 伐事右・・・・・・・・ 以下わからず。 境内での禁止事項が刻まれているのであろうか。参道入口に建つ石鳥居。諏訪神社 御由緒□ 御縁起(歴史) 『風土記稿』川田谷村の項に、「諏訪社 社領三石天正十九年賜ひし御朱印の文に足立郡河田 谷郷の内とあり、石戸領の総鎮守なり」と載り、境内に建つ文化十三年(1816)の敷石供養塔 にも「石戸領二十一ヶ村氏子中」と刻まれているように、当社は古来、石戸領二十一か村の 総鎮守として崇敬されてきた。この「石戸領二十一か村」とは、滝馬室・原馬室・原馬室枝 郷小松原・上日出谷・下日出谷・川田谷・川田谷枝郷樋詰・菅原新田・領家・藤波・藤波村 枝郷古泉・中分・畔吉・小敷田・小林・石戸宿・下石戸上・下石戸下・高尾・荒井・荒井村 枝郷北袋の諸村である。 鳥居に掛かる扁額の銘文によると、当社の社殿は天保八年(1837)七月に再建されたが、同十 五年正月に火災に遭って全焼したため、氏子の各村相計り、社殿を再建した。『明細帳』に よれば、明治六年に村社となった。祭神は建御名方命である。 また、江戸時代には当社の西方五〇〇メートルほどの所にある天台宗の普門寺(山号は諏訪山) が別当であった。□ 御祭神 ・建御名方命□ 御祭日 ・元旦祭(一月一日) ・祈年祭(三月二十七日) ・春祈祷(四月一日) ・大 祭(八月二十六・二十七日)参道を進むと木製の ”二の鳥居” が建っていた。参道左側に建つ石碑。石碑には、「戦勝紀念」と。右書きで「幟〇确寄附連名 明治卅九年 竜集丙午七月吉日」。金拾円からの寄附者の名前が刻まれている。 二の鳥居は左右2本の主柱の前後を袖柱が支える「両部鳥居」構造になっていた。扁額には「諏訪神社」と。参道の両側には石燈籠、石碑が並ぶ。左側に並ぶ石碑。手前の石碑には、「明治三十七八年役 戦利品奉納記念碑 埼玉懸知事 島田剛太郎謹書」と。今まで各地の神社に参拝したがこのような「戦利品の碑」は始めてであった。明治三十七八年役とは、「日露戦争」のことで戦利品はどこからであろうか。また、具体的な品物は。次の石碑には、「皇紀二千六百年 社殿改築記念之碑 埼玉懸知事 従四位勲三等土岐銀次郎謹書」と。社務所改築記念碑 平成元己巳年三月多くの社務所改築資金寄付芳名が刻まれていた。境内右手前に大きな窪みがあったが池であったのか周りには手摺。境内から参道を振り返る。境内の南側に建つ ”社務所” 。境内の北側に建つ ”神楽殿、倉庫” であろうか。左側に境内社の三峯社。社に「三峯社」と。石祠と右側に「廣前敷石供養塔」。その側面には「別當諏方山普門寺 ・・・・・」と。境内の東側に建つ社殿。諏訪神社の御由緒から鳥居に掛かる扁額の銘文によると、社殿は天保八年(1837)七月に再建されたが、同十五年正月に火災に遭って全焼したため、氏子の各村相計り、社殿を再建したと。手水舎鬱蒼とした杜の中に拝殿右側の狛犬、阿形像。左側の狛犬、吽形像。拝殿の扁額「諏訪神社」。拝殿前から境内を見下ろす。左に社務所、西側の参道の先には ”二の鳥居”、”一の鳥居” が建つ。市指定文化財 諏訪神社本殿 平成9年10月1日指定諏訪神社は、江戸時代に旗本牧野家の所領であった旧石戸領(現在の上尾市北西部から鴻巣市南西部にかけての一帯)五千石の総鎮守として信仰される神社でした。天正19年(1591)には社領として三石拝領の朱印状を受けた記録が「新編武蔵風土記稿」に見ることができます。これにより諏訪神社は天正19年以前の創建であることがわかります。諏訪神社本殿は、一間社流造という造り方です。身舎(もや)と呼ばれる社殿の主体部分の長さは一間 (約1.82m)で、屋根は杮葺と呼ばれる薄い板を葺いたものです。身舎は、複雑な組物と彫刻で隙間なく飾られています。造られた年代については、棟札が発見されていないため確定はできません。しかし、社殿細部に施された建築様式や発見された関連資料などから、19世紀中頃の建築であると推測され、大工は地元の棟梁・新井家が深く係わっていると考えられています。市指定文化財 川田谷・下日出谷の万作(諏訪の万作) 平成15年6月2日指定「万作」は、埼玉県をはじめとした関東一円に分布する民俗芸能として知られており、桶川では川田谷と下日出谷の地域で伝承されています。鉦(かね)や拍子木と歌で調子がとられ、「銭輪」「きっさき」「伊勢音頭」「下妻」「口説」などの手踊りが演じられます。かつては、歌に加え台詞を述べる「段物」と呼ばれる芝居の要素が入った演目もありましたが、現在では手踊りが主になりました。市場地区で伝えられている「諏訪の万作」は、昭和30年代の町村合併時に地区の交流を目的として、薬師堂喜楽連から教わり始められました。現在は、「伊勢音頭」や「銭輪」など花笠や手ぬぐいを使った手踊りの演目が、毎年8月に行われる諏訪神社の祭礼などで披露されています。 令和6年2月 桶川市教育委員会 説明板の写真から ”諏訪神社本殿” 。諏訪神社本殿は、一間社流造という造り方です。身舎(もや)と呼ばれる社殿の主体部分の長さは一間 (約1.82m)で、屋根は杮葺と呼ばれる薄い板を葺いたものです。身舎は、複雑な組物と彫刻で隙間なく飾られてる。拝殿の右側から廻り込む。諏訪神社本殿は覆い屋で保護されていた。本殿を後方から。隙間から覗き見る。身舎(もや)は、複雑な組物と彫刻で隙間なく飾られてる。彫刻をズームアップ。本殿裏にある境内社。右から「桶川市指定文化財 諏訪神社本殿」中央は「奉納 永代修繕費費及燈明料 一金壱百円 願主名 明治廿五年九月十五日」左は、風化して判読できなかった。この石碑も読みずらかった。どうにか上段に「鳥居敷石奉納○○」と。下にも字が刻まれているのか判読できなかった。本殿を北側から。境内の北側に建つ境内社の ”白幡社” 。社には「白幡権現神社」と。北側から広い境内を見る。大祭の八月二十六、二十七日には、「伊勢音頭」や「銭輪」など花笠や手ぬぐいを使った手踊りが披露され賑わうのであろう。境内の隅には「阿夫利神社御神燈」と刻まれた新しい燈籠が建っていた。こちらには新しい境内社と右側には石祠。社には「稲荷社」と。9:45川田谷諏訪神社の参拝を終え次の場所へ移動することに。 ー 続く ー
2024.05.15
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石戸蒲ザクラの後はこれも咲き終わっている「普門寺のしだれ桜」を訪れる。4月15日(月) 9時過ぎ目的地を「普門寺」にしカーナビの案内に従って県道57号線(さいたま鴻巣線)を南下。ここを斜め左方向の国道17号(上尾道路)へ進む。石戸蒲ザクラから ”普門寺” へのルート。Googleマップより。今日の目的地がこの辺りに集中しており、電動アシストの愛車リンちゃんがあればと。インタは今朝下りた圏央道の ”桶川北本I.C” 。この辺りは桶川市と北本市の境界地になっている。桶川市桶川市は東西約8km、南北約4kmで埼玉県の中央に、また日本列島のほぼ中央に位置し、東は元荒川をへだて久喜市および蓮田市に、西は荒川を境に川島町に、南は上尾市および伊奈町に、北は鴻巣市および北本市に隣接している。昭和45年(1970)に市制施行。人口は約7万5千人。市の木:ケヤキ、市の花:ツツジ。その昔、江戸から10里、近隣からの農産物の集散地という地の利を得て、人々が自然に集まってくるため、中山道の宿場町として栄えた。普門寺へはこの交差点を左折。正面は桶川北本インタの北側。交差点名は「桶川市 川田谷(市場)東」。9:10川田谷(市場)東交差点を左折して直ぐにある、普門寺参道。参道沿いに赤い頭巾をかぶった地蔵が並んでいた。天台宗 普門寺所在地:埼玉県桶川市川田谷(かわたや)6663天台宗寺院の普門寺は、諏訪山福聚院と号す。普門寺は、慈覚大師が当地巡錫の際に飢餓に苦しむ人々を助けたことを後世に残すため、食物を給した小屋の跡に一寺を建立したと伝えられ、貞享5年(1688)に再建した旨の棟札が残されていたという。江戸期には川田谷諏訪神社の別当を務めていた。当寺の枝垂れ桜は市文化財に指定されている。足立坂東観音霊場18番である。境内の堂宇は1棟で「普門寺観音堂」のみ。参道の北側には満開のソメイヨシノが聳えていた。右側には予想通り咲き終わったしだれ桜。先程の交差点を振り返る。道路脇には小さいが「普門寺のしだれ桜」の案内板が立っている。境内に並ぶ石仏、頭巾をかぶった六地蔵であろうか。二つの地蔵に頭がない、六地蔵。地蔵には、戒名?が書かれた白い札が貼られていたがこの地方の風習であろうか。ネットで調べると「地蔵札」と。参道側にも古い地蔵があり紙が貼られていた。観音堂の裏から北方向には右側に市文化財に指定されている ”しだれ桜” 。ズームアップするが同時に咲くことは・・・。観音堂前に並ぶ地蔵群。咲き終わった普門寺のしだれ桜。普門寺のしだれ桜は、エドヒガンザクラの変種でイトザクラとも呼ばれている。高さ11.5m、推定樹齢約190年とされるこのしだれ桜は、毎年3月中~下旬ごろ小振りで、可憐な花を無数に咲かせ近隣の人が訪れる。見学、駐車料金は無料。ソメイヨシノは満開、しだれ桜は葉が滝の如くに。しだれ桜の周りはロープが張られ立入禁止。満開のしだれ桜を見たかった。例年の見頃は3月末と。石柱には「普門寺のしだれ桜」と。周りは竹林が迫る。桶川市指定文化財 天然記念物 普門寺のしだれ桜 平成八年五月二十八日 指定東叡山泉福寺の末寺である諏訪山福聚院普門寺(ふくじゅいんふもんじ)は、平安時代にあたる天長年間に慈覚大師がこの地を訪れ、 飢饉に苦しむ人々を助けたことの記憶をとどめるために、後世、食物を給した小屋の跡に一寺を建立したと、開山の由緒を伝えています。現在は堂宇を失っている普門寺ですが、江戸時代には幕府より寺領三石の朱印地を与えられ、また、石戸領総鎮守であった諏訪神社の別当としても栄えました。枝垂桜は、エドヒガンザクラの変種であり、イトザクラとも呼ばれています。普門寺のしだれ桜は、毎年三月末、枝垂れた枝に付く無数のつぼみが花開き、小ぶりの花が咲き連なるその豊かな彩りは、人々に春の盛りの到来を告げてくれます。 樹 齢 180年 樹 高 11.5メートル 枝張長 11.4メートル(東西) 13.6メートル(南北) 胸高直径 65.3センチメートル 根元径 102.0センチメートル 平成十年三月 諏訪山福聚院普門寺 桶川市教育委員会 樹高が11.5メートルのしだれ桜を見上げる。西側から手前にソメイヨシノ、後方にしだれ桜。ソメイヨシノの樹齢も何年であろうか。満開のソメイヨシノ。しだれ桜の下から観音堂を望む。しだれ桜の根元は立入禁止で養生。駐車場に戻り振り返る。電線が景観を失うと。次の目的地は近くの北本市にある「善照寺」に。日蓮宗 善照寺所在地:埼玉県北本市石戸宿4丁目190普門寺の西側にあり県道57号線(さいたま鴻巣線)沿いにある新しい寺院である。門前に掲げられていた表札。日蓮宗寺院の善照寺は、北辰山と号する。善照寺は、試諦院日尊(昭和15年寂)を開山として、昭和44年(1969)に創建したという。県道沿いの門扉は閉まっていたが施錠されていなかったので中へ、観音菩薩であろうか。善照寺本堂境内、墓地であったか本堂へは施錠されていたのでここで引返す。9:30諏訪神社交差点善照寺から東へ走り普門寺前を通り抜け次の目的地「諏訪神社」へ。交差点手前右側に駐車スペースがあったので駐車して参拝することに。 ー 続く ー
2024.05.14
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寒川町へ花を買いに行った帰りに伊勢原に立ち寄ったブログです。春先のサクラシーズンが終わると次は「シバザクラ」が各地を彩る。近場では相模川沿いの堤に咲く「相模原市南区新戸地区」のシバザクラがある。外に関東地方では、① 富士芝桜:山梨県本栖湖、② 羊山公園:埼玉県秩父市 が有名である。①については昨年訪れた「富士芝桜まつり」👈 をクリック願います。4月20日(土) 11:40渋田川の芝桜所在地:神奈川県伊勢原市上谷738春になると伊勢原市を流れる渋田川の土手に赤や白、ピンクのシバザクラが約350mに渡り咲き誇ります。渋田川沿いのシバザクラは昭和45年(1970年)ごろ、地元の方の趣味で1株のシバザクラを植え始めたのが始まりと言われており、平成9年(1997年)には上谷芝桜愛好会も発足しました。今では「かながわ花の名所100選」にも選ばれています。渋田川のシバザクラ北側には石田牧場のジェラート屋めぐりがあります。ジェラートを片手に花々を楽しみましょう(伊勢原市観光協会公式HPより)。無料駐車場の右後方には石田牧場の牛舎が建つ。県道605号線(下糟屋平塚線)の西川橋交差点。ここから下流側の渋田川沿い約350mにシバザクラが植えられている。川沿いはサクラ並木にもなっているため、サクラとシバザクラの共演を鑑賞できるぜいたくで写真映え抜群なスポットです。美しい景観を維持するために、地元の有志が協力し、川の清掃や草取りなどの取り組みも行われています。例年シバザクラの見頃に合わせて「芝桜まつり」も開催され、多くの人が思い思いにお花見を楽しむ様子が見られますと。西川橋上から下流側を望む。シバザクラは左側の県道605号線(下糟屋平塚線)に沿って流れる渋田川の西側に植えられている。渋田川は、神奈川県伊勢原市と平塚市を流れる金目川水系の二級河川である。川沿いにはサクラの木もありサクラとの競演もよさそうだ。西側は遊歩道になっているが手摺がないので転ばぬよう注意を!美しい景観を維持するためにシバザクラのまわりは柵で仕切られている。ズームアップ。県道側は交通量が多いので狭い遊歩道が設けられている。橋の上には若い家族連れ。ご婦人がこの光景をスケッチしておられたが。上流側の西川橋を望む。今回はこの橋で折り返し駐車所へ。下流側はサクラ並木になっているようだ。振り返り上流側を望む。シバザクラの花壇にはネームプレート。「伊勢原ロータリークラブ このエリアの芝桜は私たちが育成管理しています 上谷芝桜愛好会・伊勢原市」と。赤、白、ピンクのシバザクラをズームアップ。シバザクラはハナシノブ科の多年草。別名、ハナツメクサ。 英名は「モスフロックス」といい、同属をまとめてフロックスと呼ぶ。花期をずらして混植されることもある。フロックス・ストロニフェラ、フロックス・ドラモンディー、フロックス・パニクラータ等あるがそれぞれ別種である(ウィキペディアより)。一面に花を咲かせる様子は、花の絨毯のようで圧巻であると。こちらのエリアは、「株式会社 高井工務店」さんが育成管理。シバザクラは常緑で、地面を覆いつくすように密生し、土の流失も防ぐため、花壇の縁取りや石垣、のり面などで利用されている。株が混んでくると枝枯れすることがあるので、秋に株分けして植え替える。急斜面を降り見上げる。贅沢だが対岸にもあればと思うが・・・管理が大変か。こちらのエリアは、「学校法人向上学園 向上高等学校」さんが育成管理。咲き終わったソメイヨシノであろうか。芝桜寄贈 公益財団法人 小田急財団 令和2年3月全てのエリアが団体で育成管理されているようだ。斜面が急な為足元に注意しながら川渕へ降り下流側を望む。赤、白、ピンクのシバザクラをズームアップ。11:50滞在時間約10分ほどのつかの間の散策であったが、シバザクラを楽しんだ。駐車場には露天商も出ていたが。この周りには寺社史跡もあり、自宅から13キロ、愛車のリンちゃんで約1時間のためまたいつか訪れたいと思いながら帰路についた。 END
2024.05.13
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いよいよ「日本五大桜の石戸蒲ザクラ」へ。4月15日(月) 8:45駐車場から進み道路の角に石碑。石碑には「成田山不動明王」と。東光寺&石戸蒲 (いしとかば) ザクラ所在地:埼玉県北本市 石戸宿3丁目119 東光寺境内石戸蒲ザクラはカバザクラの古木で、東光寺の境内にて生育している。 1922年10月12日、国の天然記念物に指定された。また日本五大桜の1本に数えられている。2000年5月5日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。聳えているのはソメイヨシノで予想どうり満開を過ぎていた。東光寺の前にも駐車スペースがあった。東光寺前広場カバザクラの原木は埼玉県北本市石戸宿・東光寺境内にあり、エドヒガンとヤマザクラの雑種と推定されている。鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟、蒲冠者 源範頼がこの地に来たときについてきた杖が根づいたのがこの桜で、蒲冠者の名に因んでこの名が付いたともいわれていると。階段の右横には社もあったが。階段下右側には、東光寺の地蔵尊・庚申塔等が並んでいた。東光寺の周りにはソメイヨシノも聳える。ソメイヨシノも木によっては咲き終わり葉ザクラに。保護樹木指定標識保護樹木名 ソメイヨシノ指定番号 第59号指定年月日 平成7年2月1日 北本市階段を上ると右側に前ダレをした地蔵。石柱には「石壇再建之碑」と。左側にも前ダレをした地蔵と墓石。字が刻まれていたが判読できなかった。境内の中央に東光寺本堂。境内には散ったサクラの花びら本堂の扁額「東光寺」。階段を上がると右側に立っていた説明板。東光寺の文化財東光寺は川越市東明寺(時宗)の末寺で、西亀山無量院東向寺とも号し、伝説によると蒲冠者 源範頼の開基といわれている。境内には、国指定天然記念物「石戸蒲ザクラ」をはじめ、県指定考古資料「板石塔婆」や、市指定彫刻「銅造阿弥陀如来坐像」など多数の文化財が所在している。また、寺域及び周辺地域は鎌倉時代の館跡であることが知られている。国指定天然記念物 石戸蒲ザクラ 大正11年10月12日 指定「石戸蒲ザクラ」は、福島県三春の滝桜・山梨県山高の神代桜・静岡県狩宿の下馬桜・岐阜県根尾谷の薄墨桜と共に、日本五大桜に数えられる名木である。「蒲ザクラ」の名称は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟蒲冠者源範頼の伝説による。一説には、範頼が石戸に来た時についてきた杖が根づいたのがこの桜で、蒲冠者の名にちなんで「蒲ザクラ」と名付けられたという。天然記念物に指定された当時は四本の大きな幹に分かれ、根元の周囲は十一メートルもあったと記録されている。現在開花する幹は老木の株分けで、いわば二代目「蒲ザクラ」である。品種はエドヒガンザクラとヤマザクラの交配種とされ、四月上旬に開花する。県指定考古資料 板石塔婆 昭和40年3月16日 指定市指定歴史資料 東光寺板石塔婆群 昭和53年3月15日 指定板石塔婆は、板碑・青石塔婆とも呼ばれ、鎌倉時代から室町時代末期にかけて多数つくられた供養塔である。東光寺には二十二基の板石塔婆があり、かつては蒲ザクラの周囲に立てられていた。県指定の「板石塔婆」は、貞永二年(1233)の銘をもち、全国第四位の古さである。表面上部に梵字で阿弥陀三尊(阿弥陀・観音・勢至)を配し、その下部に「光明遍照 十方世界 念佛衆生 摂取不捨」の偈(仏の功徳をたたえる詩)が刻まれ、周囲には円と半円の装飾が刻まれている。国の認定重要美術品である。この他にも寛元四年(1246)銘や建長三年(1251)銘等の比較的古いものが多く、当市の歴史を知る資料として貴重である。これらは一括して「東光寺板石塔婆群」として指定し、現在は市教育委員会で管理・公開している。 平成五年三月 埼玉県教育委員会 北本市教育委員会左:滝沢馬琴著「玄同放言」に渡辺華山が描いた蒲ザクラ。右:天然記念物に指定された当時の蒲ザクラ左:東光寺板石塔婆群(現在は収蔵庫にて保管)右:貞永の板石塔婆既に葉ザクラになっている「石戸蒲ザクラの原木」。石戸蒲ザクラの樹高は高木で樹形は傘状。一重咲きの中輪の花を咲かせ花弁の色は白色。東京の花期は4月上旬でソメイヨシノより数日遅く咲くとのことであるが既に咲き終わっていた。石柱には、正面に「天然記念物石戸蒲櫻」側面に「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依〇 大正十一年十月内務大臣指定」と。樹齢800年と言われている。和名を「カバザクラ」という世界でただ1本の品種。蒲ザクラの根元にある五輪塔は源範頼の墓と伝えられていると。既に葉ザクラの石戸蒲ザクラを見上げる。訪れるのが1週間遅かったか。東光寺本堂と左奥に収蔵庫。収蔵庫前の木柱には、「市指定歴史資料 東光寺板石塔婆群 平成四年三月 北本市教育委員会建之」と。東光寺本堂と石戸蒲ザクラ。境内に建つ二基の石碑。右側の石碑「高松宮同妃両殿下御成記念碑」。左側には、「東光寺新築記念碑 昭和四十三年十月竣功」と。見上げるとソメイヨシノの花も後わずかに。境内から見下ろす。普段はここまで車で来れるようだ。東光寺の東側下に2軒の覆い屋。手前には六地蔵がおさめられていた。小さい覆い屋には「庚申塔」であろうか。説明板がなく詳細は不詳。東光寺の南側にある「堀の内集会所」。堀の内集会所にはトイレ施設があり、蒲ザクラが満開時には来場者の利用に。そのためのバリアフリーの仮設通路であろうか。仮設通路の横には遅い出番の八重桜が満開に。ズームアップ。こちらの樹にはネームプレート。ネームプレートには「石戸蒲ザクラ 後継樹 平成14年度植樹」と。植樹してから22年経った平成14年度(2002)植樹の ”石戸蒲ザクラ後継樹” 。八重桜と葉ザクラの石戸蒲ザクラ後継樹。堀の内集会所でトイレを借用。こちらのソメイヨシノは散り始め。カバザクラはソメイヨシノより数日遅く咲くとのことであるが既に咲き終わっていた。ソメイヨシノも木によっては花が残っている。駐車場へ戻る。元々は世界に1本しか存在しないサクラであったが、北本市のまちおこしによりその子孫が市内に植樹されている。ここ駐車場にも石戸蒲ザクラの後継樹が植えられている。9:05駐車場から東光寺のソメイヨシノを望む。ガマザクラは一週間ほど遅かった。地元の方の話では「ソメイヨシノに比べ綺麗でない」と。 ー 続く ー
2024.05.13
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日本にはサクラの名所が全国に多々あり、その中でも日本五大桜と言われる一つが埼玉県北本市にありその「石戸蒲桜(いしとかばざくら)」を訪れたブログです。日本五大桜で私にとってまだ訪れていないところが3ヶ所ありかねてから行きたいと。サクラの開花期が近いため、一度に数ヶ所訪れることができないのでネットで「石戸蒲桜」の開花情報を入手。情報では満開は既に過ぎているとのことであったが、自宅から一番近いので愛車のノートで出かけた。併せて、いつものように近郊の寺社史蹟を訪れることにした。因みに ”日本五大桜” は、1922年(大正11年)10月12日に国の天然記念物に指定された5つの桜を指す呼び名である。 1) 福島県田村郡三春町の「三春滝桜」 2) 埼玉県北本市の「石戸蒲ザクラ」 3) 山梨県北杜市の「山高神代桜」 4) 静岡県の「狩宿の下馬ザクラ(駒止めの桜)」 5) 岐阜県本巣市の「根尾谷の淡墨桜」既に訪れているのは 1)、3)の2ヶ所のみ。4月15日(月) 7:15自宅を6時45分に出発。首都圏中央連絡自動車道(以降圏央道)を利用し北上することに。カーナビの案内は目的地までは約100キロ、1時間半と。圏央道は3月27日(水)にも ”城山かたくりの里” へ行く時利用したが、この時は事故で渋滞したので事故のないことを祈りながら運転。横断幕からインタによっては利用料金は「ETC専用化」されるようだ。小倉山トンネル入口には、「小倉山トンネル 長さ2100m」「ETC専用 相模原IC」の道路標識。事故が多発するトンネルである。小倉山トンネルを出ると直ぐにある相模原インタ。”城山かたくりの里”の最寄インタである。ETC専用であるようだ。城山トンネル 420m道路標識には「高尾山 4km、八王子JCT 6km、鶴ヶ島JCT 46km」。トンネル出口には「高尾山インタ出口」。圏央道沿いには民家があるのであろうか防音壁を設置。相模原八王子トンネル 3580m神奈川県相模原市緑区と東京都八王子市にまたがる圏央道のトンネル。圏央道で最長のトンネルでもある。 名称の由来は、相模原市と八王子市を跨ぐことから。建設時の仮称は「城山八王子トンネル」であった。高尾山インタ出口、ここもETC専用。八王子JCTまで、2km。7:30八王子JCTこの先は八王子城跡トンネルで、全長2382m(内回り・外回りとも)。トンネルのある城山には日本100名城の”八王子城”がある。サービスエリア、パーキングエリアまでの距離標識。インタ、JCTへの距離標識。7:50狭山PA(外回り)所在地:埼玉県狭山市笹井 2363-2自宅を出てから約1時間、いつもトイレ休憩で立ち寄るパーキングである。土産物店、レストランもあるパーキングエリア。圏央鶴ヶ島インタ出口。鶴ヶ島JCT目的地は直進して「桶川北本インタ」へ。圏央道は、都心から半径およそ40km ~ 60kmの位置に計画された、延長約300kmの高規格幹線道路である。圏央道は、首都圏の道路交通の円滑化、環境改善、沿線都市間の連絡強化、地域づくり支援、災害時の代替路としての機能など多くの役割を担う目的で建設された。そのため物流関係のトラックが多い。ただ道路幅が狭いのがネックである。8:15鶴ヶ島JCT自宅から1時間半、今日は渋滞もなく順調に来れた。カーナビの案内は次の「60 桶川北本 4km」を降りる。内回りの車線は渋滞。以前の愛車ジュークのカーナビは、道の無い空中を走っていたが。今の愛車ノートはカーナビが新しいので道のあるルートを案内してくれた。初めて下りる”桶川北本インタ”。8:2560 桶川北本料金所埼玉県桶川市大字川田谷にある、圏央道のインターチェンジである。当初上尾道路の自動車専用道路(新大宮上尾道路)と接続するジャンクションでの供用を予定していたため、仮称が桶川JCTとなっていたが、上尾道路の自動車専用道路部分の開通の目途が立たないことから、当面一般道路と接続しインターチェンジとして運用されていると。目的地の「石戸蒲ザクラ」は桶川北本インタの北側にあるのだが、カーナビは南方向を案内。インタから上尾道路(国道17号)を南下、ここの交差点を右折。上尾道路(国道17号)を南下すると「池袋 36km、さいたま 20km、上尾 8km」と。今日の訪問先をGoogleマップで事前にチェック。主目的地は ”日本五大桜の石戸蒲ザクラ” 。北本市埼玉県の中東部に位置する市。 人口は約6万5千人。江戸幕府による宿駅整備以前の1602年までは中山道の宿場、鴻巣宿があったことが地名の由来である。昭和46年(1971)に市制施行。市の木:サクラ、市の花:キク。8:35カーナビの案内で県道57号線(さいたま鴻巣線)、桜堤通りを北上。進行方向に散り始めているソメイヨシノ、芽生え始めたエノキが目に入り道路脇に駐車。福禄寿所在地:埼玉県北本市石戸宿4丁目113北本市の七福神は線路の西側エリアに6つ、線路の東側エリアに1つありここは西側エリアに。市内の南部ののどかな風景の中に庚申塔と句碑が三差路に並んで立っている。庚申塔 (猿田彦大神) は本来中国の道教の神様を祀ったもので、北本市内には数え切れないほどの庚申塔が残されていると。右側のエノキの樹齢は何年であろうか。エノキの根元に芭蕉の句碑。北本ウォーキングマップ近郊の案内マップ。現在地は下の黄色矢印。覆い屋の中には赤い前ダレを着用した地蔵。猿田彦大神は【幸運と長寿の神 福禄寿】である。 七福神の隣には1851年(嘉永4年)に建立された ”松尾芭蕉の句碑” 。この句碑は、嘉永4(1851)年に石戸連の俳人15名が俳句の上達を願って建てた「芭蕉句碑」。芭蕉句碑 所在地 北本市大字石戸宿松尾芭蕉は、江戸時代前期の俳人であり、各地を旅して多くの名句と紀行を残した。有名な作品として「野晒紀行」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などがある。埼玉県には約百基の芭蕉句碑があるといわれているが、この石戸宿所在のものも、その一つである。この句碑は、嘉永四年(1851)の建立で、表面に芭蕉の、 原中(はらなか)や 物にもつかず 啼雲雀(なきひばり)の句を四行に刻み、裏面には地元や川越等の俳句同好者の句が二十句刻まれている。この句碑は、高さ81センチメートル、幅158センチメートルの大きさで、一部破損しているが、ほぼ完全な形で残っており、江戸時代末期の地方文化を証明する資料として貴重である。 昭和六十一年三月 埼玉県 北本市ソメイヨシノがピークを過ぎていたのが残念であった。福禄寿を後にしカーナビの案内で進み、道路標識「感動桜国きたもと 国指定天然記念物 石戸蒲ザクラ」。8:45石戸蒲ザクラ駐車場駐車スペースは120台で無料だが、花見時期を過ぎ一台もなかった。ここに植えられているサクラはカバザクラの子孫だと。駐車場脇に「北本ウォーキングマップ」。案内板にサクラの枝の影が映り込む。北本ウォーキングマップ北本は、住宅地の庭木から、里山の面影を残す雑木林や荒川の田畑まで多様な緑を感じることができるまちです。この北本ウォーキングマップは北本の農業と結びついた文化的景観と市内の主要な施設を案内するものです。石戸蒲ザクラ B-2 一夜堤 B-1エドヒガンザクラ C-2 北本市子供公園 A-2北本市役所・文化センター D-4 北本中央緑地 C-5埼玉県自然学習センター B-2 城ヶ谷堤 B-1真福寺 D-3 高尾さくら公園 D-1高尾宮岡ふるさとの緑の景観地 D-2 野外活動センター D-1 北本市産業観光課駐車場から「石戸蒲ザクラ辺り」を望む。駐車場から歩いて蒲ザクラがある東光寺へ向かう。 ー 続く ー
2024.05.12
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最明寺史跡公園は人里離れた松田山山頂付近にあり、海抜550mの地に広がる静謐な公園である。春には色とりどりの花が咲き乱れ桃源郷のようであり、池の周りはいろんな種類のサクラの木に囲まれ、水面を草花や樹木が彩る。4月10日(水) 14:25最明寺史跡公園の南側に咲く八重紅しだれ。広場の周りには古木になったソメイヨシノが咲く。満開のソメイヨシノを見上げる。松田町の麓から狭い道を上って来るため意外と人は少なかった。こちらは八重紅しだれであったか。最明寺史跡公園 管理事務所約30分の散策で最明寺史跡公園を後にすることに。サクラの開花状況もグッドタイミングであった。公園には売店がないので飲み物、食料品は持参する必要がある。傾斜地に咲くオオシマザクラをズームアップ。この上からの景観も素晴らしいと。管理事務所周りで咲くオオシマザクラ。まだ蕾もあり数日は楽しめるようだ。他の枝も、三分咲き。14:35管理事務所から緩い坂道を上り数分で駐車場へ戻る。まだ時間が早かったので御殿場線山北駅へ向かうことにしカーナビをセット。国道246号へ下るルートをどうするか思案、前回と同じ狭い林間コースを選択。前回は ”時光窯” 辺りで右折し農道が狭かったので今回は直進。酒匂川の先には 相模湾。更に農道を下り、サクラが咲き視野が開けたので道路脇に車を停める。カメラを左に振り、松田町、大井町方面を見下ろす。夜景撮影にも良い場所では。ソメイヨシノが満開で路面に花びらが散る。酒匂川の河口。酒匂川の流れをズームアップ。何本もの橋が架かっている。JR御殿場線の松田駅をズームアップJR御殿場線をズームアップ松田駅の先で ”ロマンスカーあさぎり” が小田急線へ入り新宿駅へと。小田急小田原線が走る。酒匂川の堤にはサクラが満開。山道から下り東名高速道路の山側を並行して西へ走る。一般道は山の傾斜地にありアップダウン。15:10地蔵尊所在地:神奈川県足柄上郡山北町向原カーナビの案内で山側から下り、国道246号と県道76号線(山北藤野線)の合流点に建っている。交通量が多く車窓から撮影。場所的に交通安全のための地蔵尊と思ったが。15:20JR御殿場線山北駅県道76号線(山北藤野線)の山側に寺社史蹟があったので行こうとしたが、新東名高速道路関係の工事車両が多かったので今回は諦め、後日訪れることに。駅前にはレトロなバスが2台駐車、車のナンバーは「11-22」。後方の建物は ”町立ふるさと交流センター(観光協会)” で屋根はSLをイメージしている。今日の目的地を全て終え帰路につくことに。国道246号沿いのキロポストには、「246 三宅坂まで80km 山北町山北」と。左側の中腹には新東名高速道路の工事現場。令和9年度(2027)の開通を目指して工事中の ”高松トンネル西側” をズームアップ。手前下は東名高速道路の防音壁。国道246号の前方は松田山。15:35国道246号を走りいつも見る看板「山ちゃん」。前回立ち寄ったが16時で閉店時間であった。この日は閉店前であったので立ち寄ることに。山ちゃん所在地:神奈川県足柄上郡山北町向原 1823-1地元農家の方がとれたての野菜を販売している。営業時間:9:00 ~ 16:00 定休日:月、木曜日?売店のおばあちゃんから勧められ採れたての大きいタケノコを2,000円/個で購入。ぬかもつけて頂き帰宅後茹でて2軒で食した。15:50国道246号の桜観音前交差点信号手前左の ”桜観音堂” のサクラが綺麗に咲いていたので急遽立ち寄ることに。ここには今年1月18日(木)に”松田寄ロウバイ”の帰りにも立ち寄った。長谷観音寺 (桜観音)所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子1035前回と同じ場所に車を停め国道沿いから境内へ入いる。境内はサクラの花びらで絨毯状態。境内のしだれ桜が満開。長谷観音寺前へ進む。境内には石碑等があったが今回はサクラのみを追った。サクラの絨毯。長谷観音寺前から振り返る。左下は国道246号が走る。前回入らなかった裏側の墓地へ上がる。墓地に建つ「宝寿聖観音」。台座に「宝寿聖観音 納骨堂」と。長谷観音寺裏から酒匂川を望む。長谷観音寺の裏。宝寿院 (ほうじゅいん)を望む。宝寿院、長谷観音寺(桜観音)、については「足柄上郡の寺社史蹟巡り」👈をクリック願います。16:25長谷観音寺から国道246、255号、県道72号線、国道1号を走り、橘インター入口交差点から西湘バイパスへ入る。自宅へは17時に到着。この日の歩行数は、12,250歩であった。今日一日、松田町寄五大しだれ桜を堪能した日であった。全国の観光地ではオーバーツーリズムが問題になっているが、今日一日外国人には一度も会わなかった穴場である。 END
2024.05.11
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ここ最明寺史跡公園は1月に「松田町寄ロウバイ園」の帰りに立ち寄った時は誰もいなかった。史跡公園は、毎年4月上旬になると「ソメイヨシノ」や「花桃」などたくさんの春の花が咲き乱れる、知る人ぞ知る花見の名所であることを知り2度目の訪問。4月10日(水) 14:05途中の駐車場に車を停め、歩いて公園へ下る。最明寺(さいめょうじ)史跡公園所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田庶子最明寺史跡公園は人里離れた松田山山頂付近で、海抜550mの地に広がる静謐な公園である。この日は4月10日の「最明寺例祭」で関係者等の多くの車が停まっていた。最明寺史跡公園 管理事務所表札は逆書きになっていた。また入口横には公衆電話が設置されていた。最明寺史跡公園案内図■ 最明寺跡 人里はなれた山中で、密教の奥義を追求した真言宗の名刹として、鎌倉時代の承久三年(西 暦1221年)松田郷を治めていた大庭平太景義がこの地に招いた源延という僧侶が、現在地 に建立したものである(当時は西明寺)。 その後、文明元年(西暦1469年)となりの大井町金子に移転しており(現最明寺)なぜ移転し たかなど謎も多い。 毎年4月10日には、庶子地区の信徒により「施餓鬼会(せがきえ)」(供養の行事) が盛大に 行なわれ、極めて仏縁の深い地である。最明寺史跡公園 花マップ春には色とりどりの花が咲き乱れ桃源郷のようであり、池の周りはいろんな種類のサクラの木に囲まれ、水面を草花や樹木が彩ります。野鳥がさえずる散策路を歩き池をひとめぐりすれば、心が解き放たれるような不思議さを覚えますと。サクラの種類も、咲く時期が異なるオオシマザクラ、河津桜、寒緋桜、おかめ桜、紅しだれ桜、ソメイヨシノ、関山、大寒桜、手弱女、ウコン桜、楊貴妃、東錦、気多白菊桜と多種である。山の斜面が白く染まっていた。管理人?の方がオオシマザクラが数十本植えられていると。1月に訪れた時は河津桜が数輪咲いている程度であった。池の周りのいろんなサクラが満開になっていた。南側広場の八重紅しだれも満開に。広場にはテーブル席もあり宴会中であった。いろんな色のサクラが咲き、池の対岸にはこれから咲く「ウコン桜」が数本あると。紅白の花桃であろうか。湖面に浮かぶ花びら。八重紅しだれも咲く。傾斜地に咲くオオシマザクラ。湖畔の木は開花前のウコン桜。頭上を見るとモミジの花が咲いていた。満開の八重紅しだれとソメイヨシノ。鮮やかな菊桃と花桃が満開。ズームアップ。赤い菊桃をズームアップ。キクモモはバラ科サクラ属の落葉小高木でモモの1品種。名前は、花弁が細長くキクに似ていることに由来する。別名はゲンジグルマ。 濃い紅色の八重咲き。花期は3月下旬から4月上旬ごろ。江戸時代に中国北部より渡来し観賞用に改良され、現在に至る(ウィキペディアより)。初めて見た菊桃、右に八重紅しだれ。菊桃を見上げる。花桃と菊桃の競演。これから咲く幹に「欝金(ウコン)」と。オオシマザクラ系のサトザクラであり、江戸中期以前に人の手によって作られた品種と考えられている。花弁が香辛料で知られるウコン(鬱金)に似た萌黄色になることからウコンザクラと名付けられた。黄色い花を咲かせる唯一のサクラであり、清酒「黄桜」はこの花にちなむと。対岸に八重紅しだれと手前にウコン桜。急斜面にオオシマザクラが咲く。公園からハイキングコースの斜面を上がって行くと富士山や相模湾も見渡せると。満開の八重紅しだれの水鏡を期待したが。手前左側の幹には「関山(カンザン)」と。関山は東京府江北村(現・東京都足立区)の荒川堤で栽培されていた品種です。花色が濃紅色で美しく、生育もよいので海外でも広く栽培されています。また、お祝いの席で出される桜湯にはこの花の塩漬けが多く用いられている。八重紅しだれが満開に。湖畔に咲く八重紅しだれ。最明寺史跡公園の西側に「鐘楼跡」があるので行きたかったが。木の根元に倒れた案内板、「寄自然休養村 1時間30分 松田山入口 40分」「最明寺史跡公園 3分」。 八重紅しだれが水鏡に。さざ波が立つ湖面に八重紅しだれの水鏡。満開の八重紅しだれの下を散策。八重紅しだれの樹齢は何年であろうか。ソメイヨシノに比べ成長が遅いのでは。スマホで撮影。多くの人が訪れていた。スマホで撮影八重紅しだれと後方の山にオオシマザクラ。幹に「八重紅(ヤエベニ)しだれ」と。幹の苔から樹齢は・・・。八重紅しだれをズームアップ。公園入口の管理棟の横に数台の駐車場。スマホで撮影最明寺護摩堂跡覆い屋の下に平成六年に寄進された石碑。この日は4月10日で「最明寺例祭」が行われたのか紙垂で飾られていた。綺麗な花も供えられていた。最 (西) 明寺跡の由来伊豆山の別当浄蓮上人源延は、夢のお告げを受け、信州善光寺の一光三尊善光寺如来の尊像を模写して越前の仏師海縄にたのんで金銅の仏像を鋳造して承久三年(1221)松田の郷庶子山に安置し、寺を西明寺といった。源延は源頼朝の重臣加藤左衛門尉実長斎といい、出家して、天台の澄憲の門に学び、のちに伊豆山の別当となって活躍した。第二位覚阿上人円浄の時に最明寺入道北条時頼は、善光寺如来を深く信仰し、寺領一千五百石を寄進したので、この時寺門は隆盛であったと伝える。応仁・文明の戦乱のため、最明寺は次第に衰えた。文明年間、鎌倉八正寺宮尊賢親王は、弟子の賢昌を住持として寺の復興を計ったが、山道険しく、人ともに困難であるため、寺を金子の郷に移した。庶子山西明寺の田地は、庶子村の信徒にまもられ、数百年の間、毎年四月十日の 施餓鬼会と善光寺如来の戸ごとの巡行供養が行われてきた。その後、松田町庶子戸主会、現在の庶子自治会が継承して昭和の今日に至っている。 昭和六十三年十月吉日 松田町教育委員会一段高いところにいくつもの石仏。14:25八重紅しだれとオオシマザクの競演である。 ー 続く ー
2024.05.10
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虫沢のしだれ桜を見た後、Googleマップでチェックしていた箇所が今朝一番に訪れたかつての萱沼村にあることがわかり寄からの返る途中再度訪れた。明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた ”寄村”。その七つの村とは萱沼、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。その寄村も、昭和30年(1955)に松田町と合併して名前は消えた。このため今日訪れた「寄五大しだれ桜」の住所は全てが「松田町寄」となっている。名残りとしてかつての村名が ”五大しだれ桜” の名として残しているのであろうか。4月10日(水) 12:45県道710号線(神縄神山線)を南下、富士急バス停「萱沼入口」。萱沼地区はここを左折して小田原ゴルフ倶楽部松田コース場方面へ上る。バス停から坂道を上ると”小田原ゴルフ倶楽部松田コース”のコース間の橋。車窓の左側に朝見た ”萱沼(かやぬま)のしだれ桜” 。萱沼のしだれ桜から更に進むとスマホで「目的地に到着」と。馬頭観世音 (文字塔/擁壁上)所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄?番地見上げると民家の庭先にしだれ桜、古木の欅であろうか聳えていた。民家の擁壁を見ると ”馬頭観世音の文字塔”。道路整備時にここへ移設されたのであろう。先程訪れた虫沢地区にもあった。擁壁の中に「馬頭観世音」。近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていった。なお、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものであると。更にゴルフ場への道を進むと、今度は擁壁の上に。ズームアップすると「馬頭観世音」と。なお、ご利益は、無病息災、動物救済、厄除け、旅行安全のご利益があるとされている。更に進むと三叉路にバス停「萱沼上」。傍にポスト、石碑も。記念碑此ノ萱沼部内ヲ通ズル道路ハ古ヨリ大雨ゴトニ人馬ノ往来殆ド杜絶シ住民不便ヲ感ジ幾度カ改善ヲ試ミラレタル〇其ノ〇容ラ〇ク○得○○○今回住民ハ村長ノ提案ニ賛同シ更ニ道路○○○ノ○○○○ノ篤志ニ依リ協力一致昭和五年八月起工シ翌春三月竣功ス而シテ総工費五千圓内縣補助二千四百円ヲ以テ積年ノ希望ヲ達成シタレハ将来洵ニ便〇ナラント云〇昭和六年三月 寄小學校長 安藤庫之助 撰〇書 〇起人 寄村長 安藤溝十郎 村會議員 石井奥 助 世話人 區 長 安藤林之介 石井新次郎 副区長 安達安兵衛 飯山惣次郎 工事設計〇土木技手 〇 廣 吉 安藤源次郎 工事監督者 神部北之助 野口政 吉更に坂道を進み、萱沼地区の最奥部に。突き当りに「小田原ゴルフ倶楽部 松田コース」の看板。看板前から上って来た道を振り返る。クラブハウスへの道には満開のサクラ並木。ソメイヨシノの花びらが絨毯の如くに散っていた。ゴルフ場入口から折り返すと道路脇に石碑。石碑には「堅牢地神」であろうか。石碑の裏面には、世話人の名前が刻まれていた。ここにも安藤、石井の名字がありこの辺りの名主であったか。次に訪れたのがGoogleマップに載っていた「子乃神社」。道路脇に案内板がなく車を道路脇に停めて探す。スマホの案内で路地を入り正面に階段。階段下から振り返る。子乃神社所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄?番地萱沼を見下ろす傾斜地に建ち南東方向を向く神社である。説明板がなく詳細は不詳。Googleマップ上では萱沼には他に神社がないので村の鎮守であろう。社殿前のスペースがなく鳥居も社殿前に建っている。社殿の左側に石祠。境内に北側、ここまで車で来れたようだが途中の道が狭い。北側の道を進むとかつての中山村?にある「福昌院」へ。子乃神社から戻る途中の民家の庭先に咲いていた紅白の花桃であろうか。断りもなく撮影したが。道路へ戻り ”子乃神社” を振り返る。この道は普通車にとってギリギリである。萱沼地区を後にし県道へ向かう。右側車窓に ”萱沼のしだれ桜” を見納める。13:15萱沼地区の目的地を見、県道710号線(神縄神山線)へ戻り、正面に富士急バス停「萱沼入口」。富士急バス停「萱沼入口」から南下、次の目的地「最明寺史跡公園」へ向け国道246号を走る。ここを右折して山道へ。国道246号沿いには”チェックメイト・カントリークラブ” の案内板。国道246号からの山道は九十九折、サクラ並木の間から東の方向が開けたので駐車。スマホで撮影、知人へ送信。東方向には ”大山”、”塔ノ沢” が見えていた。手前の山にはいくつかのゴルフ場。新東名高速道路の新秦野料金所から出た国道246号との立体交差をズームアップ。山道を上りきりヤシの木が立つチェックメイト・カントリークラブ入口。チェックメイト・カントリークラブ所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領 3033-1松田山の山頂という抜群の立地に広がる会員制ゴルフコース。四季折々の表情も豊かな富士山や、相模湾沖に浮かぶ島々の絶景を一望できる絶景のロケーションである。ただし、スコアーが良ければだが。クラブハウスでくつろぐ上質なひとときも、心ゆくまでご堪能できると。この日も多くの車が停められていた。チェックメイト・カントリークラブ前から、最明寺史跡公園への道路。最明寺史跡公園への道路脇には数多くの”松明の台”が並んでいた。この辺りは松田山の頂上部で車の量も少なく、サイクリングコースになっている。右前方から自転車が突進。13:55西方向に富士が顔を出していたので道路脇の駐車スペースに車を停める。菜の花とのコラボ。この日は気温も高く時間的に多少霞んでいたようだ。今朝一番にここへ来るべきであったか。酒匂川の右側には山北町が広がる。カメラの露出が難しい。カメラを左に振ると、右側に標高870mの矢倉岳、中央に標高1212mの金時山。手前下には、旧アサヒビール神奈川工場跡地、南足柄市運動公園が広がる。酒匂川の左側には足柄平野が広がる。この辺りは今後の散策コースに。かつては暴れ川と言われた酒匂川の ”文命堤” 辺り。旧アサヒビール神奈川工場跡地(右側)辺りをズームアップ。手前の足柄平野には開成町の「あじさい公園」もありここも今後の散策コースに。酒匂川の下流を望む。酒匂川沿いには足柄平野が広がり遠く真鶴半島が望める。酒匂川には多くの橋が架かっている。上流側から新十文字橋、十文字橋、小田急線の橋梁、更に下流に足柄大橋。県道78号線(御殿場大井線)の足柄大橋をズームアップ。高層ビル群は小田急小田原線開成駅前の集合住宅 ”開成庭園の杜パレットガーデン” 。ここは富士を望む絶景ポイントである。早朝の朝焼け、夕焼けも良いのではと。13:55足柄平野を見下ろし、次の「最明寺史跡公園」へ。スマホで撮影。 ー 続く ー
2024.05.09
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”虫沢のしだれ桜” を目指したが、その前に1月に見落とした道祖神めぐりを行なうことに。今はもうない集落の名 ”寄村”。明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた村である。七つの村は萱沼、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。1955年に松田町と合併し、寄村の名前は消えた。4月10日(水) 12:05前回は山側を走って来たが今回は虫沢川に沿って上って来た。目的地の傍に車を停め虫沢川の下流を望む。ほうき桃をズームアップ。手前には野鳥の巣箱が設置されていた。庚申塔・馬頭観音・石仏所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 5995かつての虫沢村にある石仏群で花ダイコンに囲まれていた。庚申塔・馬頭観音・石仏で今でも供え物があった。虫沢川に架か虫沢橋。12:15寄虫沢向組双体道祖神所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 6130先程の石仏から上流にある道祖神で道に迷いながらどうにかスマホの案内で到着。擁壁の壁の中に設けられた道祖神だが道路拡張時に擁壁中になったのであろう。双体道祖神の前を流れる虫沢川。ソメイヨシノも満開で風に煽られて散っていた。橋の名は、”長寿橋” と。長寿橋から虫沢川の上流側を望む。ここにもしだれ桜が植栽されていた。寄五大しだれ桜5番目の「虫沢のしだれ桜」へ向かう。12:25虫沢地域集会施設所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 6430平成23年(2011)4月23日(土)に虫沢地域集会施設の完成落成式が開催された。この新集会施設は、神奈川県産の木材を使用し、木の香りをほのかに感じる、暖かい造りとなっています。また、耐震性に優れた建物となっており、今後は、虫沢地域の防災拠点として、重要な役割を担っていきますと(まつだ広報より)。広いスペースがあり車を停めさせていただいた、右側には電話ボックスもあった。広場に石碑が建っていた。記念碑石碑を撮影するも判読できなかった。集会所に車を停めスマホの案内で進むとひと際大きいしだれ桜が目に入った。虫沢のしだれ桜所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 6433これも民家の庭にあるのか大きなしだれ桜が聳えていた龍王寺の近くにあり周りは畑等に囲まれており、のどかな春の風情を満喫できる。北側の民家の庭先ではご婦人たちが談笑しておられた。ちょうど昼時で花見酒でも・・・。満開のしだれ桜を見上げる。どこのしだれ桜もピンク色が良かった。散り始めていた。道路脇にあった墓石は ”馬頭観音” であろうか。ここも説明板がなかったが、”松田町寄五大しだれ桜”と呼ばれるだけに説明板が欲しい。種類はエドヒガン (シダレザクラ) のようだが、樹齢、樹高、枝張り等。電線が入らないようにするが。一日で「松田町寄五大しだれ桜」を巡ったが、”宇津茂のしだれ桜” を除いて満開で堪能した。願うならば、「寄しだれ桜まつり」が三日間だけというのはもったいない感がするが。かつての寄村にはいたるところに”しだれ桜”が植えられており町おこしの一環に!係の方の計画、実施等が大変であろうが。また、古木になると根回りの養生も必要になり桜守も大変になる。既にしだれ桜の幹には他の木も絡み、手入れが必要かと。車のウインドーに映えるしだれ桜。五大しだれ桜の見納めに見上げる。駐車料金、花見も無料であった。ロウバイの時は入園料が500円であったが。”虫沢のしだれ桜” から駐車場へ、正面の山はタケ山(710m)であろうか。民家の庭先でライラックの花が咲いていた。タケ山(710m)はハイキングコースになっている。ライラックをズームアップ。虫沢地域集会施設へ戻る。集会所前にご婦人がおられ何か言いたそうな顔つきで、「無断で駐車してすみません」と謝るが、「さっき人の家の花を撮影しておられたが家主に断った方がいいのでは」と。家主が庭先におられたら撮影の許可を願うが、誰もおられなかったのでわざわざブザーを押すのもと思いながら、取り敢えずご婦人に謝ったが。12:35いろいろと考えながら、龍王寺の門前下を下る。 ー 続く ー
2024.05.08
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土佐原休憩施設から土佐原遊歩道を下る。4月10日(水) 10:45寄土佐原道祖神から林道へ下り立ち県道へ向かって下る。林道沿いに民家があったが空き家状態になっていた。林道を下ると道路脇の壁面に石仏、洞。石仏脇には覆い屋の下に旗らしきものがあったが。ズームアップ。菊が供えられていた。石仏の直ぐ先に、覆い屋の中に石祠があった。中には石祠と狐が多くあった。下ってきた林道を振り返る。宅急便の車が来たが静かでのどかなものだったこの木もしだれ桜か見とれていると、この先は民家とのことで折り返す。民家の庭先でタケノコを採った人が「今年のタケノコは遅い」と。購入したかったのだが、豊作ならもらえたかと。しだれ桜を見上げる。古木の先は切断されていたが新芽が伸び咲いていた。幹まわりを見ると相当な樹齢を感じるが。この辺りの裏山に「土佐原のしだれ桜」がある。林道沿いに新しい建物の ”土佐原地域集会施設” があった。トイレの表示があったが施錠されていた。引き続きマイナスイオンの多い林道を下る。林道沿いの斜面に ”マムシグサ (蝮草) ” がたくさん芽吹いていた。マムシグサとはサトイモ目サトイモ科テンナンショウ属マムシグサ種の多年草です。別名:マムシソウ(蝮草)、カントウマムシグサ(関東蝮草)、ムラサキマムシグサ(紫蝮草)。よく似たもので ”ムサシアブミ (武蔵鐙) ” があるが。ズームアップするが。秋にはつぶつぶの赤い実をつける。こちらの斜面には幹に苔が付いた古木の栗の木が聳えていた。枝先をズームアップすると落下しなかった栗の実。民家、人影のない林道を下りようやく県道710号線(神縄神山線)へ。この先を右折して車を停めている、”みやま運動広場” 向かう。正面の建物は ”宇津茂地域集会施設” 。この辺りの集会所の呼び名は「地域集会施設」と。手前右側の穴は?。石垣の一画を掘られていた。洗い場かと思ったが。県道脇にあったマップ(現在地は赤丸)。このマップ内にも ”地域集会施設” が7カ所ある。今はもうない集落の名 ”寄村”。明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた村である。七つの村は萱沼、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。1955年に松田町と合併し、寄村の名前は消えた。宇津茂地域集会施設の向かい側に寄郵便局。寄郵便局から県道710号線を北上してみやま運動広場へ。ソメイヨシノは満開で散り始めていた。ソメイヨシノも花の蕊が赤くなり終盤に。寄自然休養村管理センター西側のバス停「寄」広場のソメイヨシノも満開。11:15みやま浜膳寄自然休養村管理センター内にあるお食事処。まだ12時までには時間があったが、9時20分に歩き始め2時間歩いたのでお腹が空き昼食をとることに。入口には「まぐろ丼」の幟旗も。店内は広く寄自然休養村管理センターへの宿泊者の食堂にもなっているようであった。おすすめメニューは ”みやま浜膳” であったようだがメニューも見ず、好きな ”天丼” をオーダー。海老が2匹入った天丼 1,000円 (税込)。タラの芽も入り美味しかった。食事を終え太陽に輝くサクラの花びら。寄自然休養村管理センター前にあるオブジェ。オブジェの台座に「やどりきの塔 寄自然休養村の地 平成九年 ○○町長」と。寄自然休養村管理センターの2階は宿泊施設になっている。センターの前にオブジェの「やどりきの塔」が建つ。この後、車を停めていた ”みやま運動広場” を出発して次の目的地へ。11:50中山のしだれ桜所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 3308民宿「せど」の目の前にある大きなしだれ桜。県道沿いの土手の上にあり、満開の時期を迎えると空から桜の花びらが舞い降りてくるように見え、あまりの美しさに桜の木の下で立ち止まり思わず目を見張ってしまう。寄五大しだれ桜の4番目の ”中山のしだれ桜” 。駐車場が見当たらなかったので民宿「せど」の脇に車を停めさせていただき散策。県道710号線を北上してくると曲がり角の先の土手の上に聳えておりビックリする。下から見上げるが、多くの電線が横切る。土手の上に上がり、満開のしだれ桜と菜の花を望む。樹齢、樹高等の詳細は不明。種 類:エドヒガン (シダレザクラ)墓石があったが個人のものであった。満開のしだれ桜を見上げるが樹高は約20mと高木では。中山のしだれ桜の先にGoogleマップで道祖神があったので坂を登る。民家の角地に古い道祖神であったか。ガラスコップが一つ置かれていた。道祖神から車を停めている民宿せどへ下る。二本のしだれ桜が聳えていた。このロケーションでも電線が上空を走り、工場の看板も・・・。上空を見上げれば二本のしだれ桜の枝が覆う。12:00”中山のしだれ桜” を後にし5番目の「虫沢のしだれ桜」へ。 ー 続く ー
2024.05.07
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”松田町寄ロウバイ園”の上にある寄展望台から今日の目的地「土佐原のしだれ桜」へ下りる。今はもうない集落の名 ”寄村”。明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた村である。七つの村は萱沼、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。1955年に松田町と合併し、寄村の名前は消えた。4月10日(水) 9:55土佐原遊歩道入口に立つ案内板。土佐原遊歩道から ”満開の土佐原のしだれ桜” を見下ろす。この絶景をスマホで撮影、知人へ送信。狭い坂道を下り民家の庭先に。ここは1月にも訪れており今回が二度目である。下の道からは右側を登ってくる。土佐原のしだれ桜所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 3571宇津茂農道側に建つ民家の庭先に見事な桜の木がある。樹齢約250年とも言われる寄を代表する大きなしだれ桜である。庭先にはテーブル、椅子が用意されていた。しだれ桜は樹齢約250年になり枝には添え木。樹高12m、枝ばり14m、幹回り2.5mで「寄五大しだれ桜」では最も古いしだれ桜である。種 類:エドヒガン (シダレザクラ)満開のしだれ桜と菜の花とのコラボが素晴らしかった。10時頃であったが民家の方もおられず独り占めした空間であった。猫の目視線で見上げる。頂上部は枯れているのか。幹をズームアップ。満開のしだれ桜。しだれ桜の根元には石祠が置かれていた。しだれ桜をズームアップ。庭先にはミツバツツジも咲いていた。出来れば民家の方と”しだれ桜”について話をしたかったのだが。ロウバイの新芽と丸いのは実であろうか。誰もいなかったので約15分ほどの滞在で ”土佐原のしだれ桜” を後にした。土佐原のしだれ桜の裏山に登り見下ろす。ほうき桃とのコラボ。急な坂を登り土佐原遊歩道へ戻り、土佐原のしだれ桜を見下ろす。土佐原遊歩道を進み、路面にサクラの花びらが散っていた。急なカーブを曲がると目の前の斜面にしだれ桜が咲き乱れていた。絶景だ!今年も行けなかった甲府盆地の桃源郷を思い出す景観だ。土佐原休憩地に広がるしだれ桜。斜面に、ハナカイドウも咲き始めていた。ハナカイドウの科名 / 属名は、バラ科 / リンゴ属。ハナカイドウは一般に「カイドウ」とも呼ばれて、日本では広く北海道南部から九州まで栽培されています。リンゴと同属の落葉果樹で、原産地の中国でも古くから栽培され、その花の美しさは、中国の唐の玄宗皇帝が酔って眠る楊貴妃をハナカイドウにたとえたように、昔から美人の代名詞として使われるほどです。4月から5月の庭に新緑が目立ち始めるころに枝を埋めるようにして咲くピンク(淡紅色)の花が目に鮮やかですと。ズームアップ。土佐原休憩施設所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 3563施設に「土佐原休憩施設 平成2年度 新農村地域定住促進対策事業」と。土佐原遊歩道の上に建つ施設で建屋には上らなかった。トイレ施設があったか。斜面に咲き乱れるしだれ桜。傾斜地には、茶畑が広がっていた。茶畑が多かったがブランド名は?土佐原遊歩道の西側。土佐原休憩施設の下に数台の駐車スペースであったか。土佐原遊歩道下の斜面。自然遊歩道土佐原路線案内図 延長726m案内板には、鍋割山方面表丹沢県民の森 3.5km 1時間15分土佐原しだれ桜 0.4km 10分 寄自然休養村管理センター 1.2km 30分この先に”道祖神”があったのでスマホの案内で土佐原遊歩道を進む。遊歩道脇の斜面に朝露が付いたスミレが咲いていた。名前はわからないが。スミレは春先に可憐な花を咲かせる。シャガも咲いていた。根が広がり群生地を作るシャガである。ズームアップ。振り返ると斜面にピンク色のしだれ桜が聳える。ハナカイドウにも朝露。ズームアップ山野草が咲く道路脇の斜面に ”イチリンソウ” の群生地があった。イチリンソウの科名 / 属名は、キンポウゲ科 / イチリンソウ属(アネモネ属)。イチリンソウは本州から九州の野山に生える代表的な「春植物」で、人里でも見られ、春に咲くかわいらしい白い花は多くの人に愛されている。道を間違えた先にもしだれ桜が聳えていた。寄五大しだれ桜に負けじと聳えていたが。ここでも電柱・電線が景観を損なう。道祖神を探してスマホの案内で進むが近くに来てもそれらしきものがなく。ちょうど散歩中のご婦人がおられ聞くと「この上です」と。寄土佐原道祖神道路から数十メートル上ると廻りをきれいに清掃された広場に道祖神があった。双体道祖神は覆い屋の下に並べられていた。道祖神の前にはお供え物もあり、広場も整備されていたので集落の方の信仰心が伺える。10:45林道への坂道の除草をしている人がおられたが挨拶をしても。下の林道沿いの家は空き家に。 ー 続く ー
2024.05.06
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寄五大しだれ桜の「宇津茂のしだれ桜」の後は3番目の「土佐原のしだれ桜」を歩いて訪れる。今はもうない集落の名は、寄村。明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた村である。七つの村は萱沼、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。1955年に松田町と合併し、寄村の名前は消えた。4月10日(水) 9:15寄自然休養村管理センター周りのソメイヨシノは満開。ソメイヨシノは満開で散り始めていた。寄自然休養村管理センター前から ”松田寄ロウバイ園” を見上げる。寄自然休養村管理センター受付管理センターは寄地区の観光に関するパンフレットを扱うほか、「寄テニスコート」、「みやま運動公園」などのスポーツ施設の予約、手続き、受付を行っている。また、宿泊施設と食堂が併設されており、地元のとれたて野菜や手作り品などの販売も行っている。2階が宿泊施設になっている。寄自然休養村管理センター内に飾られている「松田町寄五大しだれ桜」。9:25”寄(やどりき)しだれ桜まつり” が開催される3/24(日)、30(土)、31日(日)はバス停「寄」から土佐原のしだれ桜まで送迎車が運行(片道300円)された。その日以外は”みやま運動広場”から歩いて約18分。水・食料をリュックにいれ歩いて登ることに。今年1月の ”松田町寄(やどりき)ロウバイまつり" の時も歩いて登った。正面の傾斜地は ”松田町寄ロウバイ園” 。廻りには茶畑も広がっている。右上が”寄展望台”で、土佐原のしだれ桜はその向こう側にあるのだが開花状況は・・・。ロウバイ園の周りにはしだれ桜が咲いていた。遊歩道から寄集落を見下ろす。右側は咲き終わったロウバイ。ロウバイが芽吹いていた。我が家でも今年種を蒔いたが発芽率は3/9であった。何年後に花が見れるか楽しみだが。松田町寄ロウバイ園の入口へ到着。”しだれ桜まつり”も終わり人影もなく閑散としていた。左の建屋には ”やどりきかあさんの店” があるのだがロウバイまつりの時だけの営業か。松田町寄ロウバイ園ムスカリが咲いていた。ロウバイ園の出店横に2本のしだれ桜が満開になっていた。ロウバイ園の遊歩道脇にはレンギョウも綺麗に咲いていた。遊歩道から ”みやま運動広場”、介護施設の ”特別養護老人ホーム レストフルヴィレッジ” を見下ろす。中津川沿いにはしだれ桜並木が満開。更に遊歩道を上り、レンギョウに絡まったこのつる性の花は ”あけび(木通)” であろうか。まだ時間が早く花には露がついていた。更にズームアップ。更に上部から先程の ”みやま運動広場”、介護施設の ”特別養護老人ホーム レストフルヴィレッジ” を見下ろす。中津川の両岸にしだれ桜並木。満開のしだれ桜並木をズームアップ。ロウバイ園の遊歩道を上るが他の人の人影はなく。南側の傾斜地には咲き終わったロウバイと満開のしだれ桜。遊歩道の北側斜面にはしだれ桜。遊歩道を上り振り返る。サクラの木の根元に「平成十七年度 宝くじ桜植栽地」の石柱。数年後にはロウバイに続いて ”しだれ桜まつり” がもう少し長く行なわれるのでは。平成十七年(2005)に、宝くじ桜植栽が行われてから約20年。傾斜地には20年経たない若木も植えられている。9:50寄展望台へ到着。撮影しながら登ったので約25分を要した。展望台から寄集落を見下ろす。しだれ桜、ソメイヨシノが満開。右に ”寄自然休養村管理センター” 、左側に車を停めている ”みやま運動広場” を見下ろす。”寄自然休養村管理センター”、手前にはロウバイ園の売店。ズームアップ。展望台のベンチに座りのんびりしたかったが上着を脱ぎ水を一杯飲んで目的地へ出発。展望台からの東側の斜面にしだれ桜が咲き乱れていた。いろんな色のサクラが咲き癒してくれる空間である。絵になる画題であるが。菜の花とのコラボもまたきれい。このエリアには民家が数軒あったか。東側の下を見下ろすと目的地の「土佐原のしだれ桜」が満開であった。ズームアップ。1月にもロウバイの撮影で訪れた。9:55遊歩道から下り「土佐原しだれ桜」への入口。 ー 続く ー
2024.05.05
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萱沼しだれ桜の次はこれも寄五大しだれ桜のひとつ「宇津茂しだれ桜」へ。今はもうない集落の名 ”寄村”。明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた村である。七つの村は萱沼、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。1955年に松田町と合併し、寄村の名前は消えた。4月10日(水) 8:35萱沼のしだれ桜から数百メートル下り県道710号線(神縄神山線)と合流。ここを右折して北上、次の目的地「宇津茂のしだれ桜」へ向かう県道710号線を北上、宇津茂のしだれ桜への途中左折して中津川沿いへ。田代公衆トイレ所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄橋は中津川に架かる田代橋。小さな広場にとんがり帽子型のトイレ施設がありここへ駐車。ここから上流側の両岸にしだれ桜が植栽されている。まだ若木だが満開のしだれ桜。朝日を浴びてピンクが映える。この辺りのしだれ桜は満開で見頃であったようだ。鍋割山を源流とする中津川の上流側。川面から反射して。逆光で丘の上のサクラの後方には1月に参拝した高根神社がある。二本のサクラが見事に咲いていた。白色は満開のソメイヨシノであろうか散り始めていた。丹沢山系からの水量が多い中津川。田代公衆トイレ周りのしだれ桜を後にする。8:50寄弥勒寺双体道祖神所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄1782福昌院の裏手にある道祖神で、前回見落としていたので訪れた。双体道祖神を中央にいくつかの五輪塔が並べられていた。左側には「馬頭観世音菩薩」。曹洞宗 福昌院 (ふくしょういん)所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄1781福昌院の境内入口に立っていた観音像。1月に参拝しているが再度参拝した。境内の北側から本堂前へ入る。本堂の扁額「少林山」。本堂前で石楠花が綺麗に咲いていた。いつの間にか石楠花の咲く時期に。ズームアップ。水鉢にはスイレン。境内から民家に咲くサクラを望む。山の稜線も綺麗に見えるが山の名は?。山門から本堂を望む。車を左手に止め県道710号線(神縄神山線)へ。河戸川(かわどがわ)に架かる少林橋。山門を振り返る。県道710号線(神縄神山線)の左側に石碑があった。石碑には「記念碑?」と。読みずらかった、「○○路線〇当〇寄村道・・・・・ 結ぶ唯一の道路であったが昭和三十一年に○○○○〇 ○○○野峠を経て隣村神縄へ通ずる道路として神 縄○○○○○○県道として○○○された。 ○○当地に至る間延々八村九十九所の悪路も局部 改良により昭和四十一年より大型バスの乗入れも実 現され至難とされた当弥勒寺部落内の○○道路も 交通〇策事業に○○○昭和四十年度より拡張工事に ○○同四十三年三月無事完成し交通安全の目的 が達成され関係者〇しく感謝の〇を表し此処に記 念碑を建つ」と。県道710号線(神縄神山線)沿いに建つ案内板には「曹洞宗 少林山 福昌院」と。県道から参道を戻り、正面に苔むした階段の上に山門。山門は江戸時代中期に建立され、寄地区で現存する最古の木造建築といわれている。境内には天気が良かったので天日干しの座布団。ミツバツツジが綺麗に咲いていた。深紅の石楠花も。9:05寄みやま運動広場所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 3111寄自然休養村管理センター前にある駐車場で、今回もここへ駐車(無料)して散策することに。まず向かったのが、宇津茂しだれ桜。左側には台車に載せられた車。中津川に架かる大寺橋から見下ろす。残念ながら寄五大しだれ桜のひとつ「宇津茂のしだれ桜」は満開を過ぎていた。しだれ桜の袂に説明板がないので種類がわからないのが残念。宇津茂のしだれ桜大寺橋のたもとにある推定樹齢80年の大きなしだれ桜です。満開の時期を迎えると、中津川のほとりに「滝」があらわれたかのごとく、桜の枝から花々がほとばしり川面へ流れ落ちるように咲く姿が見られますと。種 類:エドヒガン (シダレザクラ)樹 齢:推定80年大寺橋の上から東方向を望む。寄自然休養村管理センター周りのサクラが満開。中津川の上流側。右側は県道710号線(神縄神山線)で山道を登り、丹沢湖へと至るのでいつかドライブしたい。宇津茂のしだれ桜はピークを過ぎていたが、しだれ桜並木は満開。ズームアップ。右側には「ホタルの里」がありここにもしだれ桜が植栽されている。河川敷に下り桜並木を見上げる。下流側数百メートルに田代橋がある。中津川沿いには約1キロに渡って、約220本のしだれ桜が植えられており、美しいしだれ桜並木を見ることができる。9:15大寺橋の下流側から ”宇津茂のしだれ桜” を見る。 ー 続く ー
2024.05.04
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今年1月18日(木) に「松田町寄のロウバイ」を見に行った時、「五大しだれ桜」を知り、その時、しだれ桜の見頃は4月上旬と聞いていたので数日前に松田町観光案内所へ開花状況を問い合わせ愛車のノートで出かけた。寄(やどりき)しだれ桜まつり開 催 日 :3/24(日)、30(土)、31日(日)開園時間:午前9時 ~ 午後4時土佐原のしだれ桜は樹齢250年とも言われ、淡紅の花が天から降り注ぐかのような雄大さがあります。また、近くを流れる清流・中津川沿いには220本のしだれ桜並木があり、桜を愛でながらの散策やハイキングも楽しめる。土佐原のしだれ桜 別名 みやま淡彩桜(たんさいざくら)寄五大しだれ桜は、① 土佐原、② 萱沼、③ 宇津茂、④ 虫沢、⑤ 中山、で主役は ”土佐原のしだれ桜” 。4月10日(水) 7:35菜種梅雨で3月末の天候が不順であったので、天気が良かったこの日に出かけた。今回も圏央道、新東名高速道路を利用することに。圏央道から新東名高速道路へ進む。新東名高速道路の先には富士山が見えていた。厚木南インタ出口まで1km。厚木南インタ出口。前方は、長さ3,855mの高取山トンネル。高取山の手前の山には山桜が咲く。車内のカーナビ長さ2,906mの羽根トンネルを出たらそこは秦野市の ”秦野丹沢スマートインタ出口” 。前方は、長さ666mの小原トンネル。トンネルを出ると終点の ”新秦野・松田インタ” 。 小原トンネルを出ると、山の上に ”小田原ゴルフ倶楽部 松田コース” がある。新秦野インタ出口。この先は3年先の令和9年度 (2027年度) の開通を目指している。右側のトンネルは既に完成している上り線1,358m、下り線1,351mの萱沼トンネル。7:55新秦野料金所自宅から約40分で到着。新秦野料金所から国道246号へ向かって更に下る。左車線は伊勢原・秦野方面。直進すると国道246号を走り東名高速道路の大井松田インタへ5km。この先の ”寄入口交差点” を右折。寄入口交差点から県道710号線(神縄神山線)を北上。松田事業PR館手前の道路脇に車を停。める。県道の眼下には令和9年度(2027)の開通を目指して工事中の ”高松トンネル、中津川橋” 。高松トンネル工事は軟弱地盤等で最難関工事と言われ、2020年度、2023年度、そして現在は2027年度と何度も繰り延べられた。道路脇のサクラが満開であった。更に車を進め前回停めた ”松田事業PR館” 傍に車を停める。工事中の高松トンネル、中津川橋を見下ろす。高松トンネルが完成すると長さが上り線2,851m、下り線2,864mになる。高松トンネル坑口の下り側(左)が上り側に比べて大きくなっている。中津川橋の本来の橋脚の基礎を施工するはずの岩盤が、破砕地盤で複数の非常にもろい地質によって構成されていたことが判明し、やむなく橋脚の基礎の位置を安定強固な位置へずらした結果、トンネルの中に橋台を設置する必要が出て、トンネルの開口部を大きくすることになったとのこと。8:10朝の朝礼も終わり工事開始でトラックが工事現場へ下りる。新東名高速道路 松田事業PR館【予約制】所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄萱沼入口高松トンネルと中津川橋の工事について、建設現場を間近に見ながら解説をして頂ける。松田事業PR館を後にし最初の目的地「萱沼(かやぬま)しだれ桜」へ向かう。ここ県道710号線(神縄神山線)の萱沼入口を右折。入口に「小田原ゴルフ倶楽部松田コース 右折1km」の看板。今はもうない集落の名 ”寄村” は、明治9年(1876)に近隣の七つの村が合併してできた村である。その七つの村は萱沼(かやぬま)、弥勒寺、土佐原、宇津茂、大寺、中山、虫沢。昭和30年(1955)に松田町と合併し、寄村の名前は消えたと。そのため全ての住所が「松田町寄・・・番地」となっている。「松田町萱沼・・・番地」としてほしかったのでは。8:15萱沼のしだれ桜所在地:神奈川県足柄上郡松田町寄 911萱沼地区入口の民家の庭先に立つこの大きなしだれ桜は、周りの景色の中でもひときわ目立ちゴルフで訪れるゴルファーの目にも。まだ時間が早く人影がなかった。駐車場も分からず道路脇の広いスペースに車を停め散策。満開のしだれ桜をズームアップ。道路脇に咲いていたヤマブキ。南側のゴルフ場への道路から望む。左奥にも見事に刈りこまれたツゲの木であろうかしだれ桜に負けずと聳えていた。敷地外からズームアップ。種 類:エドヒガン (シダレザクラ)樹 齢:不明満開のしだれ桜を見上げる。庭に誰もおられなかったので敷地内へ入らせていただいた。西側から撮影。庭先はピンクの花びらで染まっていた。東方向にも坂道がありまた違った光景が撮れたのだが。しだれ桜もピークを過ぎピンクの花びらが庭に散っていた。満開のしだれ桜を見上げる。風があれば飛び散って花吹雪になったのだろうが。樹高は20メートル近い高木であったか。上空を見上げてズームアップ。枝振りも見事で手入れが大変ではと。樹齢等の説明板が目に入らず詳細がわからず、人影もなく聞くこともできず。庭先のミツバツツジも綺麗に咲いていた。見事な樹形をしている。道路を挟んだ南側の高台へ。高台から下り再度道路から望む。人影がなく約15分程の滞在で、萱沼のしだれ桜を見納める。8:30萱沼のしだれ桜を後にし次の目的地「土佐原のしだれ桜」へ向かうことに。前方の橋は、小田原ゴルフ倶楽部松田コースのコース間の橋。 ー 続く ー
2024.05.03
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ビッグパレードも後半に。4月21日(日) 14:25頭取・組頭・纏(まとい)持ち・梯子持ち・平人(へいにん/鳶口[とびぐち]持ち)が続く。続いて尺八を吹く ”虚無僧 (こむそう)” 。虚無僧とは、禅宗の一派の僧侶のこと。剃髪ぜずに半僧半俗の形態で、天蓋(てんがい)という深編笠を被り、尺八を吹きならしながら托鉢をする。越前行列撮影場所が悪く ”越前行列” の後方からの撮影になった。大岡越前守忠相公の旗に続いて ”忠相公” の登場。今年の大岡越前守忠相公役は「岸市議会議長」。かつてはTVで南町奉行の大岡忠相役をやっていた俳優の加藤剛さんが登場していた。現在の大岡越前守役は市長、市議会議長、? 三役の持ち回りになっていると。忠相公役の岸市議会議長。かつては馬に騎乗していたが。茅ヶ崎駅北口に ”越前行列” が勢揃い。越前行列で観衆の注目を集めるのが「奴頭」。駅北口と南口で奴装束をまとい、「見得」を切る姿は圧巻であると。その「奴頭」を務めるのは昨年に引続き、女性がその大役を担っている。担当するのは茅ヶ崎青年会議所(JC)メンバーで、飲食店経営の田中ことみさん(39)。ズームアップすると ”奴頭” が奴装束をまとい、「見得」を切っている。撮影ポイントが悪かった。奴隊(やっこたい)に見得を切る奴頭。奴隊の毛槍を投げるパフォーマンスは見せ場である。また、奴(やっこ)とは、武士が外出する時の荷物を運ぶなどいろいろな雑務を行っていた人で、主に農民や町民が雇われていることが多かったという。奴隊の毛槍を投げるパフォーマンスが終わり後続が続く。始めての撮影でベストポイントがわからなかった。茅ヶ崎一輪車協会当協会は昭和55年(1980)に発足、平成3年(1991)に茅ヶ崎市体育協会に加盟、現在茅ヶ崎梅田めーごーらんど支部、藤沢北部支部の3団体で活動を行っていますと。茅ヶ崎は一輪車競技が強く、昨年は世界大会で優勝したと。一輪車もいろんな乗り方があるようだ。低学年クラスであろうか、簡単なように乗っているようだが。高学年であろうか一段と高い一輪車に乗って登場。右奥には「パレード最後尾」のプラカード。左上には、観光協会新谷会長、茅ヶ崎FMのパーソナリティー杉山玲子さん。高い一輪車の乗り方は?。どのように乗ったのか目の前を通る。昨年もビッグパレードの最後尾を盛り上げていた一輪車。その最後尾は女性群。14:40最後尾に「救護車」「パレード最後尾」のプラカードを持つスタッフ。放送で「ビッグパレードは終了しました。まもなく交通規制は解除されます」と。トラックで引き上げる「湘南連合神輿保存會」の神輿。同じく「暁禊睦会」の神輿。”茅ヶ崎神輿康” のトラックに「南湖」の神輿。神輿康は、茅ヶ崎市に工房を構え、神輿の製造・製作・修復、提灯の製作をしている。14:45多くの人が茅ヶ崎市役所前広場へ。第一カッターきいろ公園で、16時まで ”ちがさき産業フェアー” が開催されているので向かう。新名所になった「加山雄三氏の銅像」Googleマップでみると既に記載されていた。台座にはクラウドファンディング支援者の名前が刻まれている。出来れば住所(市名ぐらい)が欲しかった。市役所前広場ではマルシェも。地元野菜の販売も。萩園の無農薬野菜300円と。銅像前には ”大岡越前祭” 帰りの人が立ち寄っていた。15:00ちがさき産業フェア 場 所:第一カッターきいろ公園 (中央公園) 開催日:4月20日(土) 10時 ~ 15時、21日(日) 10時 ~ 16時 市内企業の製品・物産等の展示や販売、キッチンカー、ゆかりのまちのブースなどが展示。ちがさき産業フェア配置図出展者名&内容ゆかりのまちエリアブースの左から、岩手県陸前高田市:いちご煮、ふのり、すき昆布、あおのり、わかめなど 完売御礼と!大阪府泉佐野市 :物産品相互取扱協定都市/水なすの浅漬け、泉州タオル愛知県岡崎市 :ゆかりのまち/特産品「八丁味噌」をはじめ、地元民に愛される菓子・雑貨 展示・体験エリア 公園の東側にはキッチンカーエリアそれぞれ沖縄料理、たこ焼き、タコスの販売をしておりキッチンカーの前には行列。HOMIE キッチン/タコス他、SITA/台湾まぜそばの前には長い列。茅ヶ崎ビールも販売していた。いい香りがしていたが高齢者が一人で並ぶのは・・・。いい香りの元は「焼鳥トサカ」の焼鳥。焼鳥トサカは北茅ヶ崎駅前にあり行きつけの焼鳥屋である。わたかし ¥300、ラムネ 300円、BIGフランク ¥300、焼き鳥類、かき氷を販売。焼鳥類も、もも 5本盛り 800円、つくね 5本盛り 800円とリーズナブルな価格で販売。右側の物産エリアには、日本精麦、㈱ミツワライス、㈲北村水産、としだ漬物店、パン教室。左側が技術伝承エリア、右側に物産エリア。本部テントに、先程までビッグパレードを紹介していた新谷会長と杉山さんが到着。入口には、自動車展示エリアEVの電力を家電機器へ【パワームーバー】⇒ 実演中 車の電気を取り出す可搬型給電器、コンパクトで車に収納可能 動作音が静かで、排ガスゼロトヨタ車エリア公園の一角の切り株の上に。これも今回のフェアで展示されたのであろうか。プレートには「Melty Works DAIICHI CUTTER」と。いろんな厚肉サボテンが植えられていた。芽吹いた ”ラクウショウ(落羽松)” 。見上げると実が付いたまま新芽が出ていた。この時間帯には曇り空になってきたが、第69回大岡越前祭は無事終了した。 END
2024.05.02
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引き続きビッグパレードを楽しむ。メインの ”越前行列” の前にいろんな団体の ”マーチングバンド” の行進が続く。因みに ”マーチングバンド” とは、もっとも広義においては、歩きながら楽器演奏し、ときにはダンスチームやカラーガードなどと行進するバンドのこと。トルコのメフテルやヨーロッパの鼓笛隊といった古典的な軍楽隊、フットボールのハーフタイムショーを行うスクールバンド、青少年教育団体として発展してきたドラム・アンド・ビューグル・コーなど、幅広い種類のバンドをマーチングバンドという言葉は内包している。用語があいまいに使われており、上記のように様々な編成の楽団を指すが、概ね管楽器、打楽器を中心とした編成である。楽器演奏のみならず、カラーガードの演技や大道具などの視覚効果を含むことも多い。ウィキペディア(Wikipedia)より。4月21日(日) 14:05次いで「神奈川県立湘南台高等学校吹奏楽部 White Shooting Stars 」。同校は藤沢市円行にあり、1998年(平成10年)に吹奏楽からマーチングへと活動内容を変えた。自分たちのマーチングバンドは金管楽器・打楽器・カラーガードで編成されていると。カラーガード(Color Guard)部隊ドラム&ビューグルコーやマーチングバンドにおいて、フラッグ、ライフル、セイバー(サーベル)などの手具を用いて、視覚的表現を行うパートである。金管楽器部隊この重い金管楽器を持って行進するのも大変な体力が必要であろうと。神奈川県立湘南台高等学校吹奏楽部の最後部には予備軍であろうか制服で参加。竿の先にはカメラ、撮影は活動動画であろうか。次いで「茅ヶ崎市 消防団」。女性団員が持つ横断幕には「消防団員募集中 茅ヶ崎市消防団」と。次いできたこのグループは?。プラカードが確認できなかった。女性群がフラフープを持ち。報道カメラマンであろうか。カラフルな衣装を着た老若男女の人が踊りながら行進。後方には「ちがさきプロレス」のメンバー。次いで「ホノルル市民応援団」。茅ヶ崎市がホノルルと姉妹都市になってから今年で10年目。今年は佐藤光茅ヶ崎市長もホノルルを訪れた。湘南には ”フラダンス教室” も多い。次いで「カロケメレメレフラスタジオ/トカリガ」。スタジオは市内中海岸3丁目10-56 にあり、2歳〜年齢性別問わず楽しく過ごしており、イベント等にも積極的に参加していると。”湘南祭” にも参加、湘南地区・茅ヶ崎市を中心に活躍している。幅広い年齢層のメンバーが参加。次いで「レインボースターチア」。藤沢市、鎌倉市、厚木市で活動しているキッズチアダンススクールであると。コーチの笛に合わせて踊っていた。小学生の集団で手を振りながらの行進。オープンカーが登場。車上には右側に手を振る佐藤市長。シートベルトは。車上には左から、姉妹都市岡崎市の市議会議長、岡崎市副市長、佐藤市長。防災協定都市の長野県佐久市関係者の車。茅ヶ崎市は現在、下記国内3都市の ”ゆかりのあるまち” と災害時相互応援協定を締結している。岡崎市(愛知県)、佐久市(長野県)、関ヶ原町(岐阜県)が参加。14:12続いて防災協定都市の岐阜県関ヶ原町の関係者の車。14:17車両が通過してから5分後に現れたのが賑やかなグループ。プラカードには「GRESアカデミコス・ダ・グローリア」と。GRESアカデミコス・ダ・グローリアは、2017年10月に誕生したチームで、浅草サンバカーニバル(S1・S2リーグ)への出場経験を持つメンバーを中心に結成されたと。G.R.E.S(Grêmio Recreativo Escola de Samba)はポルトガル語で「サンバの学校」(=団体)のこと。Acadêmicosは「学院・学院生」という意味で、サンバの音楽・ダンスをより真剣に追及したいと。そしてGloriaは「栄光」だと。白いドレスを着た人とのコラボは。目の前に美女が並ぶ。踊り子の後にカラフルな鼓笛隊が続く。重たいドラムを持ち。サンバは華やかさがあり見応えがあり、パレードも最高潮になる。日本人の方か日系の方か目の前で踊りを披露。古代の白い衣装を着た集団が「下寺尾遺跡部会 小出地区まちぢから協議会」の幟旗。次いでエメロードへ来たのは「圓蔵祭囃子保存會」の車。提灯には「茅ヶ崎市指定 圓蔵祭囃子」と。 前方では先程のサンバチームがロータリーの中央でサンバを披露していた。チームの紹介もしており撮影場所を移動すべきであったようだ。ズームアップ。演奏隊もドラムをたたき盛り上げ。サンバの披露も終わり、「下寺尾遺跡部会 小出地区まちぢから協議会」が続く。サンバの踊りを待っていた「圓蔵祭囃子保存會」の車。小学生の子の顔にはお面。車体には「茅ヶ崎市指定重要無形文化財 圓蔵祭り囃子」と。ロータリーに入り「圓蔵祭り囃子」のお披露目。この場所がメインステージであったのか。階段上から茅ヶ崎FMのパーソナリティー杉山玲子さんが紹介しているのであろう。次いで「下町祭ばやし保存会」の車。車上の演奏者の背には「住吉」と。南湖の ”住𠮷神社” であろうか。続いての車には「堤太鼓保存会」と。行列の提灯には「神鳶連」と。大岡越前祭の大岡越前守忠相といえば、享保3年(1718) 10月、町奉行であった大岡越前守忠相により「町火消設置令」が出され、火消組合(町火消)が結成された名残りから登場する。14:25結成された町火消には、組ごとに階級があった。上から、頭取・組頭・纏(まとい)持ち・梯子持ち・平人(へいにん/鳶口[とびぐち]持ち)・人足(土手組ともいい、火消には直接加われない)で、このうち纏持ちが最も辛い役目であった。こうした火消作業に直接当たる人々を「鳶」とも呼んだ。鳶は火事の際に燃え盛る屋根の上で纏を振った。 ー 続く ー
2024.05.01
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朝から茅ヶ崎FMで「大岡越前祭」に関連する報道。茅ヶ崎市の四大イベントのひとつ「大岡越前祭」が開催されるので、昼食後出かけた。四大イベントとは、 ① 大岡越前祭 江戸時代の名奉行大岡越前守忠相公の墓所が、大岡家の領地であった本市北部の浄見寺 にある。越前守は、人格、見職共に優れ、時の将軍徳川吉宗公の信任を得て、江戸町奉 行、寺社奉行の要職を歴任するなど、司法官としても偉大な足跡を残す一方で、経世家、 文化人としてその偉業は数多く知られている。 忠相公は1751年(宝暦元年)、75才で亡くなっているが、数々の功績に対して1912年(大 正元年)、従四位(じゅしい)が贈られ、翌2年に忠相公の墓前で贈位祭が行われた。これ が大岡越前祭の始まりとなったと。 江戸時代の人物が大正時代になって”従四位”が贈られのは珍しいのではと思うが。 ② 湘南祭 ③ 茅ヶ崎海岸浜降祭 ④ サザンビーチちがさき花火大会茅ヶ崎市は東西を藤沢市、平塚市に挟まれ企業も少なく居住都市になっており市では街おこしの一環でいろんなイベントを計画開催している。昨年は4月29日(土)、30日(日)に4年ぶりの ”第68回大岡越前祭” が開催された。4月21日(日) 12:30旧東海道の松並木。街道沿いには今でも約300本の松が聳えていると。イオン湘南茅ヶ崎の駐輪場へ愛車を預ける。料金は3時間無料で超えても100円。イトーヨーカ堂の前に掲示されていた「第69回大岡越前祭御芳名」。最高額は、一金 二十万円也 地元企業の亀井工業、大村紙業、日本精麦、アルバックの4社。主流は一万円で全てが支店名で協賛金。個人名はなかった。第69回大岡越前祭パレードルート・MAP&イベントスケジュール□ ビッグパレード (越前行列) 茅ヶ崎小学校 ~ エメロード茅ヶ崎 21日(日) 13時 ~ 15時 (小雨決行) 13時 ~ 出発式:茅ヶ崎小学校 12時30分 神輿パレード:厳島神社前出発□ 駅前コンサート ペデストリアンデッキ 特設ステージ 20日(土) 10時 ~ 市内高校・大学の吹奏楽部の演奏□ ちがさき産業フェア 第一カッターきいろ公園 (中央公園) 20日(土) 10時 ~ 15時 21日(日) 10時 ~ 16時 市内企業の製品・物産等の展示や販売、キッチンカー、ゆかりのまちのブースなど□ 茶 会 イトーヨーカドー茅ヶ崎店前 20日(土) 10時30分 ~ 浄見寺越前そば (先着25本) 販売 21日(日) 10時 ~□ 越前守遺跡写真展 茅ヶ崎市民文化会館展示室 20日(土) 10時 ~ 17時 21日(日) 10時 ~ 15時□ 墓前祭・大岡越前浄見寺地元まつり 浄見寺 20日(土) 10時 ~ 17時 10時 ~ ステージ企画 12時 ~ 野だて (浄見寺庭園) 15時 ~ 大岡越前法要4月20日(土)も開催されたが所用がありスルーした。撮影場所を駅北口ロータリー北側に取る。交通規制 4月21日(日) 12:30 ~ 15:00このため駅前からのバスの発着は国道1号北側の市役所北側からに。ペデストリアンデッキの階段には茅ヶ崎市観光協会新谷会長、参加者の説明をする茅ヶ崎FMのパーソナリティー杉山玲子さんの姿が。新谷会長は午前の茅ヶ崎FMに登場、”大岡越前祭” の説明をしておられた。12:50ようやく神輿が北口ロータリーへ。参加神輿は3基で12時30分に厳島神社前を出発。ここまで約二百メートル程だがゆっくりと。一番目は他に比べ一周り大きく感じた「湘南連合神輿保存會」の神輿。いろんな神社の法被を着た担ぎ手がいた。男性陣に交じって女性の担ぎ手も。鈴、神輿を叩いて気勢をあげていた。湘南連合のジャンボ神輿は昨年修復されたようだが。二番目の神輿には「暁禊睦会 祝 大岡祭」と。湘南連合に比べ一周り小さい感がした。一番目の「湘南連合神輿保存會」。鳳凰をズームアップ。二番目の提灯には「暁禊睦」と。三番目の神輿には「南湖 祝 大岡祭」と。神輿の提灯は「南湖」と。南湖地区には5社ほどの神輿があるのだがどこの神社かは不明。担ぎ手もいろんな神社から集まっていた。13:10駅前広場を去り行く三基の神輿。北口ロータリーに現れてから30分近く披露していた。13:35神輿が去ってから20分ほど待つがパレードが南口とのことでペデストリアンデッキへ上がる。下のロータリーをパレードが通るのでデッキの西側は立入禁止になっていた。茅ヶ崎駅改札口駅南側のコンコースから見下ろす。雄三通りから駅南口へパレードが行進していた。次いで子供たちのパレードを確認。この後、JR東海道本線のツインウエイブ越えて北口ロータリーへ来るので引き返すことに。13:45北口エメロード入り口。パレードは前方左側から来るのだが。ビッグパレードには約2,000人が参加する。北口バスターミナルには既に人だかり。エメロード入り口にある”長谷川書店”の店先に。銅像と同じような「加山雄三 俺は100歳まで生きると決めた」と書かれたパネル。4月11日の銅像除幕式で先着何名かに本人がサインしたと。13:55ようやく「茅ヶ崎市消防本部」の車が、後方にはパトカー。ビッグパレードの開始。神奈川県警察パトカーの後方に3台の白バイ。茅ヶ崎小学校からのパレードは狭い道を進むのでパトカーが必要であったか。白バイの先導は男性で後方に2台の白バイ。2台の白バイは女性で、華奢(きゃしゃ)な体で運転。後続の行進が遅いので運転速度が遅く大変なようであった。13:58最初の行進は「茅ヶ崎湘南マリンバトン」。平成27年度より昭和53年に結成された、茅ヶ崎バトン協議会から茅ヶ崎湘南マリンバトンと個人団体名に変更。茅ヶ崎市・藤沢市を中心に活動をし市内外の行事に積極的に参加している。バトンを回しながら行進、年齢層は10代からで、現在はバトン技術だけでなく、ポンポン・チアも行っており、イベントオファーを待っていますと。次いで「鵠沼高校マーチングバンド部 Albireo Nova」。1956年(昭和31年)創部のバンド。マーチングバンド連盟関東、Japan Cupなどに出場しており、マーチングバンド連盟の全国大会出場を目指し活動していると。パレードの後方には管楽器も。最後部には打楽器。小雨決行だと雨対策が大変であったろうと(市観光協会新谷会長談)。後方には「湘南ドルフィンズマーチングバンド」。地域と保護者が支えるマーチングのクラブバンド。藤沢市を中心に近隣の公立・私立36校の小学生により構成されていますと。ユニホームでの参加ではなかったが。小学生の管楽器集団。後方には打楽器集団。後方には保護者も行進。次いで「SUN マーチングスクール湘南 Fatina」。平塚市岡﨑に拠点を置く団体である。2020年には埼玉で行われた「第45回全日本バトントワーリング選手権関東支部大会」で5選手が全国大会へ進んだと。バトンを回しながら飛び跳ねているお二人はコーチであろうか。年齢層が違うような感じがしたが。後続の小中学生たち。バトンを回しながら行進。次いで「大磯マーチングバンド・マリンエンジェルス」。大磯MB・マリンエンジェルスは、湘南地区を中心に活動する生涯学習バンド。ミュージックフェスタ in 湘南への出演をはじめ、大磯出初式やお祭りのパレードなどに参加する、地域密着型のマーチングバンドですと。行進のメンバーにドッキリ。ネットで調べ活動が ”生涯学習バンド” だけに納得。14:05ユニホームを揃えたメンバーは小学生からお父さん、おじいさん?までと幅が広い。音楽は年齢を越えて楽しめるのだと認識した。 ー 続く ー
2024.04.30
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満開のサクラを追って愛車のリンちゃんで小出川を上流へ走る。このルートはもう何度も走りウメ、河津桜、ソメイヨシノをブログアップしている。4月7日(日) 14:30新鶴嶺橋(赤橋)の下流に咲いている枝垂れ桜。ここは1週間前の3月30日(土)に訪れているがその時は咲き始めであった。正式名称はわからないがいつも癒してくれる。咲き始めから1週間経つと満開に。ここの枝垂れ桜ももう何度も見て、ブログアップしている。このサクラは私にとって春を告げる枝垂れ桜である。近くで色違いの花桃が咲いていた。ズームアップ。新鶴嶺橋(赤橋)をバックに枝垂れ桜。右側へ進むと数百メートルで鶴嶺八幡宮の二之鳥居へ。満開の枝垂れ桜。種類が違うのかピンクが濃い枝垂れ桜。鶴嶺通りを横切り上流へ。秋には紅葉を楽しめるドウダンツツジが咲いていた。釣り鐘のような感じの花をズームアップ。この先の上流は1週間前の3月30日(土)に訪れている。新湘南バイパスの下に架かる浜園橋の橋梁が見えなかった。新湘南バイパスの下へ。浜園橋の橋梁は、3月30日は仮設の上であったが基礎の上に置かれていた。工事用看板工期は、令和6年8月30日まで浜園橋の仮設橋上から新しい橋梁を見る。新橋を渡って右方向(東)への道がなかったので、新湘南バイパスの下へ大きく左折するのか。向田緑地へ向かい、浜園橋を振り返る。河川敷には放棄されたバイクが。バイクには注意書きの貼紙が見られた。上流側から浜園橋をズームアップ。1週間前の3月30日(土)に訪れた時は、ソメイヨシノはまだ蕾であった。その後の暑さで満開になっていた。品 種 ソメイヨシノ (染井吉野)科 名 バラ科植栽日 平成20年3月2日管理No ・・・管理者 萩桜会向田緑地一週間前の3月31日(日)に、「第12回桜まつり」が5年ぶりに開催された。桜まつり時には蕾であったが満開になっていた。猫の目視線で見上げる。公園のベンチでは宴会中であった。見上げる。ズームアップ。満開のサクラの下で前撮り写真を撮影するカップルも。最近はスマホで撮影する人が主流になっているのでは。ピンク系の枝垂れ桜も交じって咲いていた。ズームアップ。ソメイヨシノに交じってオオシマザクラも満開。オオシマザクラをズームアップ。白が濃いオオシマザクラ。向田緑地を後にする。この日も富士は薄雲で見れなかった。日曜日で多くの人が撮影に、一週間遅れのサクラ満開であった。萩園橋から下流側の向田緑地を望む。上流側には ”小出川の河津桜” 。早咲きの河津桜も来年のために生い茂っている。萩園橋の東側から向田緑地の堤に咲くサクラ並木を望む。15:05下流方向にカメラを振る。後方には新湘南バイパスの高架橋。15:15茅ヶ崎中央通りへ戻り、ここのサクラ並木も綺麗だがサクラの種類が?。木にネームプレートが欲しい。路面には花びらが散っていた。満開を過ぎたサクラ。第一カッターきいろ公園の北側のサクラ並木へ戻る。サクラのトンネルである。路面にも花びらが散り。15:25今年も愉しませてくれた茅ヶ崎のサクラでした。 END
2024.04.29
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この日は、先日(4月6日)の茅ヶ崎市観光協会が開催した「春の東海道をゆくツアー」に参加、野暮用が発生したため、愛車のリンちゃんで「旧相模川橋脚」を訪れた。その後、小出川沿いを上ることに。4月7日(日) 13:20千の川沿いのサクラ並木は満開近くに。今年は新学年の入園式、入学式に花を添えるサクラとなったようだ。昨年より1週間遅れであった。私の生れは広島県備後地区だが、入学式にはサクラが満開であったような気がするが。約70年でサクラの開花も2週間近く早くなっているのかと。北茅ヶ崎前にある「中華 のんち」は相変わらず行列。TVで放送以来いまだ毎日行列で夜の部は閉店になっている。第一カッターきいろ公園(中央公園)北側のサクラ並木。1週間前の3月30日(土)の開花はチラホラであったが満開に。第一カッターきいろ公園(中央公園)北側を西へ走る。路面にはサクラの花びらが。まだ絨毯にはなっていなかったが。満開のソメイヨシノをズームアップ。この日は風もあり花びらが散っていた。子供たちは最後の春休みを楽しんでいた。レンズの前を花びらが舞う。第一カッターきいろ公園(中央公園)には多くの人が訪れていた。この日のイベントは何であったか。ネットで調べると、4/6、7日開催 さくら祭り 今年で7回目だと!右側では、わなげ、ポップコーン、わたがしと大人も子供も楽しめるイベントを行っていた。奥にはひときわデッカイ大型遊具の「キングベルふわふわ」。”キングベルふわふわ” は湘南ベルマーレオリジナルの遊具で一日貸し切りできる。費用は約80万円?、大きさは、幅6m×奥行7m×高さ8m。公園の中央には ”やぐら” も設置されていた。ステージ上では、ライブ、ハヤシダンス、フラダンス等が行われたようだ。満開のサクラの木の下では子供連れの家族がシートを広げお花見を楽しんでいた。キングベルふわふわの中では子供達が飛び跳ねていた。盆踊りのようなやぐら、周りではいろんな出店も。多くのキッチンカーも出店。店先には長い行列。茅ヶ崎ビールも販売していた。第一カッターきいろ公園(中央公園)を後にし「旧相模川橋脚」へ向かうことに。茅ヶ崎中央通りを渡り、”さくら祭り" で賑わう第一カッターきいろ公園を振り返る。13:50途中、市役所前広場へ立ち寄る。幟旗は「茅ヶ崎カフェ」。加山雄三氏の銅像予定地に像が建ちブルーシートで覆われていた。加山雄三氏の誕生日4月11日(木)に開催される除幕式が楽しみだ。茅ヶ崎市役所入口に建つ「旧寛永寺石灯籠」。石灯籠4基の周りにはサクラが植えられている。旧寛永寺石燈籠 四基 昭和四十九年一月二十三日 茅ヶ崎市指定重要文化財 (大八木信昭・信義氏寄贈)東京都台東区上野公園内にある寛永寺に納められていた燈籠の一部が本市にもたらされたものです。寛永寺は徳川将軍家の菩提所で、各地の大名たちは、代々の将軍の供養のために、競ってこのような大きな石燈籠を寄進しました。本市では、この歴史的な建造物を重要文化財に指定し、保護しています。並んだ四基の燈籠の竿には、向かって右から、後に記した文字が刻まれています。これらの銘文から、二番目の燈籠は「嚴有院」というおくりなを付された四代将軍徳川家綱の供養のために、西暦1681年に寄進されたもので、一番目と三及び四番目の燈籠は「浚明院」のおくりなを付された十代将軍徳川家治の供養のために、西暦1786年に寄進されたものであることがわかります。満開のソメイヨシノ。市役所から国道1号(旧東海道)の自転車専用道路を西へ走る。昨日はこの道を歩いてきたが。左側は神輿を寄付したという旧家であったか。14:15旧相模川橋脚野暮用で来たが・・・・・。24時間も経つと目的のものは・・。昨日のツアーでは時間の制約があったが今日は単独でフリー。満開のサクラを見上げる。保存池の周りには日曜日で多くの人が訪れていた。サクラは満開だが風もなく花吹雪にはなっていなかった。サクラの木の下では高齢の人が集まり宴会中。ズームアップ。保存池の周りを廻り込む。保存池への水鏡を期待したが。池上に出ている橋脚はレプリカで、旧橋脚は保護ピットで覆われ地下に保存されている。青空に映えるソメイヨシノ。数日後には花びらが池面を染めるのであろう。旧相模川橋脚から国道1号を横切り小出川(東側)を上ることに。護岸に咲いていた ”オキザリス” 。オキザリスはカタバミの仲間で800~850種があり、世界に広く分布している。科名 / 属名:カタバミ科 / カタバミ属(オキザリス属)。下町屋ポンプ場横の排水溝。小出川の河川敷では菜の花が満開に、左は新湘南バイパスの茅ヶ崎西インタ出口。菜の花をズームアップ。14:30上流には新鶴嶺橋(赤橋)が映える。 ー 続く ー
2024.04.28
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旧東海道を歩きゴールの「茅ヶ崎一里塚」まで、後約1キロになる。4月6日(土) 11:40歩道橋上から北側に第六天神社の境内を見下ろす。第六天神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市十間坂3丁目17-18境内には境内社や石仏などが安置されている。また、社殿の裏には御神木である直径95センチ程の黒松がある。境内のサクラが満開であった。一段高いところに拝殿。時間の関係か拝殿への参拝はなく、説明がなかったのが残念であった。浜降祭に参加する神社である。拝殿の扁額は、山岡鉄舟(山岡鉄太郎)書の「第六天神社」。山岡鉄舟は幕末から明治時代に活躍した幕末の三舟(勝海舟、高橋泥舟)の一人で、単身にて敵陣に向かい西郷隆盛と面談して交渉し、江戸無血開城への道が開かれた。玉垣に、例大祭 令和六年四月二十九日(祝) ・大祭式・・・・ 九時開式 (雨天斎行) ・神輿渡御・・・ 十時二十分ごろ ~ 十七時ごろ (小雨決行) ・演 芸・・・・ 十八時十五分開演サポーター募集 準備段階と例大祭のサポーター募集 4月20日(土)、4月29日(祝、月曜) 無給と ツアーガイドの案内で境内の裏側へ廻る。案内板には「第六天さんの黒松 パワースポット」と。パワースポットの、「第六天さんの黒松」。社殿裏の一段低いところに聳える樹齢が200有余年と推定される御神木の松。松の幹回りは約2メートルと。見上げるが松の先端は落雷で折れていた。もう少し第六天神社に関する説明が欲しかったが次の目的地へと移動。12:05高野山真言宗 円蔵寺所在地:神奈川県茅ヶ崎市十間坂1丁目3-39国道1号(旧東海道)側からも入れるが、南側の山門から入り参拝。境内には相模国準八十八ケ所十五番、七十六番の祠をはじめ、六地蔵や修行大師像、乃木将軍像、護国忠魂碑などが祀られている。山門を入ると右側に建つ「護摩堂」、若木だが枝垂桜が満開に。ツアーがまず向かったのが境内の南東部奥へ。護国忠魂碑と乃木希助大将の像忠魂碑は、茅ヶ崎村兵事会が明治38年10月16日に建立したもので、日清・日露及び日支事変における戦没者13柱(日清役2柱、台湾土匪征役2柱、日露役8柱、日支事変1柱)が合祀されている。 当初、茅ヶ崎小学校に建立されたが、戦後同寺へGHQの指示で移設されたと。忠魂碑の隣には、昭和10年に建立された乃木将軍石像がありいずれも御影石製。乃木希助大将の右横前には ”水師營のなつめの木” と ”石碑”。立札には「水師営のなつめの木」と。水師營の会見旅順開城約なりて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の所はいづこ水師營庭に一本なつめの木 弾丸跡もいちじるくくずれ残れる民屋に今ぞ会見る二将軍 乃木大将はおごそかに 御恵深き大君の大詔伝うれば 彼かしこみて謝しまつる 昨日敵は今日の友 語る言葉もうちとけて 我はたゝへつ彼の防備 彼はたゝへつ我が武勇 礼正して言い出でぬ この方面の戦闘に二子を失い給いつる閣下の心如何にそと 二人の我子をそれぞれに死所を得たるを喜べり これぞ武門の面目と大将答へ力あり両将畫餉共にして 尚も畫せぬ物語 我に愛する良馬あり 今日の記念に献ずべし 好意謝するに余りあり戦の掟に従いて 他日我手に受領せば 永くいたわり養わん さらばと握手ねんごろに 別れて行くや右左 つゝ音絶へし砲台にひらめき立てり日の御旗 平成十九年十二月建立 中澤 菊治乃木将軍像は、碑高370㎝、幅93㎝、厚さ47㎝、台石50㎝、基壇110㎝。”水師營” については、令和元年(2019)6月25日(火)に旅した「中国・東北地方八日間の旅」👈 をクリック願います。円蔵寺本堂寺伝では永享元年(1429)創建、開山は善誉上人とされています。元和八年(1622)に法談所となり、慶安二年(1649)将軍徳川家光より朱印状を受けました。近世には十三ヶ寺の末寺を持つ中本山として栄えましたが、大正十二年(1923)関東大震災によって倒壊、旧地に観音堂(本村5丁目)を残し、昭和四年(1929)現在の地に移った。本尊は、薬師瑠璃光如来、日光菩薩、月光菩薩、および厄除秘鍵大師(秘仏)。ツアーは参拝もせず次の場所へ。円蔵寺の詳細は以前ブログアップした「円蔵寺」👈をクリック願います。次の説明は国道1号沿いの歩道の ”おすいマンホール蓋”。マンホール前に立ち「デザインがまともに見える方向が汚水管の下流側です」と。デザインは烏帽子岩とカモメ。国道1号(旧東海道)の北側(上り線)を東へ向かう。かつての旧東海道沿いの茅ヶ崎市内には約1,000本の松があったが現在は約300本だと。前方は国道1号茅ヶ崎駅前交差点。今回のツアーは女性の方が多かったか。Googleマップには「東海道を200年以上見守ったクロマツ」と。所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎1丁目2茅ヶ崎観光協会の前にある松の切り株にプレート。東海道を200年以上見守ったクロマツこの切り株は、高さ20m、太さ2.5m、樹齢は約200年(江戸時代後期から生息)で、茅ヶ崎地区に植栽されたクロマツの中で一番の巨木でした。平成21年(2009)3月に腐朽のため伐採させましたが、茅ヶ崎駅北口周辺特別景観まちづくり地区のランドマークであった証をモニュメントとして残し、その記憶を継承します。 平成24年3月 茅ヶ崎市茅ヶ崎市観光協会扉に、「OPEN AM8:30~PM5:00 定休日 土日・祝祭日」。Googleマップでは、不休で営業時間:9時00分 ~ 19時00分 とあったが。駅構内にもある。クロマツのモニュメントを後にする。次に訪れたのがヤマダデンキの敷地内にある「純水館茅ヶ崎製糸所跡」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市新栄町12-33かつて、1917年(大正6年)から1937年(昭和12年)のわずか20年程だが、当地に高品質な生糸を生産する製糸工場があった。このことを知る市民は10%も満たないことから、この記念碑を建てる運動が起きた。私もこの運動に賛同、1,000円を寄付したので招待状が届き令和4年(2022)12月14日(水)に純水館記念碑の除幕式があり参加した。”純水館記念碑 (歴史掲示板)” の表面純水館茅ヶ崎製糸所跡 ~ 世界屈指の技術を誇る製糸工場 ~ 大正六(1917)年 ~ 昭和十二(1937)年純水館茅ヶ崎製糸所は、現ヤマダデンキ茅ヶ崎店LABIを中心とした敷地約一万二千坪、約三百五十名が働く大工場として、館長の小山房全により大正六(1917)年に繰糸(生糸生産)を開始しました。 この地に純水館を開業した理由一、南湖院に小山久左衛門 (長野県小諸で純水館を創業した実業家) の家族が入院し、南湖に 別荘を構えたため茅ヶ崎と縁があった。二、茅ヶ崎町長をはじめ町の有志や地主が積極的に工場誘致をして、茅ヶ崎駅近くに広大な土 地を確保できた。三、茅ヶ崎が生糸輸出港の横浜に近く、鉄道で生糸を輸送できた。四、高座郡が養蚕地帯であり茅ヶ崎に大きな製糸工場がないため、良質の繭を確保できた。五、掘り抜き井戸により大量の水が確保できた。 ・・・・・ 以降省略。”純水館記念碑 (歴史掲示板)” の裏面純水館茅ヶ崎製糸所外観図1923(大正12)年2月、第2回国際絹物展覧会(ニューヨーク)出品時の英文パンフレットから。純水館に関する資料が少ないため写真も古く折れている。この場所は国道1号の茅ヶ崎駅前交差点南西部角地にある。除幕式のブログは「純水館除幕式」👈 をクリック願います。因みに国道を挟んだ北側には「旧寛永寺石灯籠」4基がある、又その先に「加山雄三」の銅像も。12:30ゴールの「一里塚交差点」へ到着。まず歩道を渡り前方の「平成の一里塚」へ。一里塚交差点の向かい側には南東方向にある江戸時代の「一里塚」。直進するとJR茅ヶ崎駅へ。平成の一里塚かつては旧東海道を挟んだ北側にも対の一里塚があった。現在は狭いながらもベンチが置かれ休憩場所になっている。『平成の一里塚』一里塚は、慶長9年(1604年)、徳川家康が息子の秀忠に命じ、旅人たちの目安となるよう東海道や東山道、北陸道の沿道に一里(約4km)ごとに設けられました。塚は、沿道の両脇に築き、大きさは5間(約9m)四方と決められていました。市指定重要文化財である一里塚は、起点である江戸の日本橋から14番目のものです。現存する一里塚の向い側にあたるこの近辺に、塚があったといわれています。しかし、昭和に入って、道路の拡張に伴い取り除かれてしまいました。参勤交代の大名行列もとおり、多くの旅人たちが行きかった東海道。記録によると、塚の右側からは姥島(烏帽子岩)が見えたと伝えられています。また、エノキが植栽されていたことが、延享2年(1745年)の『東海道巡覧記』や幕府の道中奉行が江戸後期に作成した『東海道宿村大概帳』などに記されています。この場所は、歩道整備工事の一環として平成22年、ポケットパークとして整備され、江戸時代の一里塚と同様にエノキが植栽されています。一里塚は、市内でも数少なくなってしまった近世茅ヶ崎の東海道の面影と、当時の素朴なぬくもりを伝えてくれる貴重な文化財です。南側の史跡「一里塚」とともに「平成の一里塚」として、末永く市民に愛される場となることを願っています。 茅ヶ崎市 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 平成23年10月 寄贈:茅ヶ崎湘南ロータリークラブ南側に江戸時代の一里塚茅ヶ崎一里塚 昭和三十六年八月十五日 茅ヶ崎市史跡指定徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年慶長六年(1601)、東海道に伝馬の制を制定し以後江戸を中心とした交通網の整備にとりかかりました。慶長九年(1604)、徳川幕府は東海道などの一里(約四キロ)ごとに塚を築き、旅人の目安にしました。東海道は江戸の日本橋を起点にしています。茅ヶ崎の塚は日本橋から十四番目にあたります。かつては道の両側にありました。 茅ヶ崎市教育委員会塚の周りは柵で囲われており中には入れない。一里塚交差点から茅ヶ崎駅までの通りを「一里塚通り」と名付けられている。今日の目的地は全て終了、この後は昼食と。12:40割烹寿司 魚重 (うおじゅう)所在地:神奈川県茅ヶ崎市元町3-24今回のツアーの案内で「昼食は新鮮な魚を使った茅ヶ崎市の老舗で特製ランチをご用意いたします」と。落伍者もなくちょうど昼時に到着した。茅ヶ崎駅の北口から200メートル程の所にあり和食を楽しめる。外から見ると高級感があり訪れるのは今回が始めてであった。店先に置かれていた ”ランチメニュー”各 1,100円 (税込) リーズナブルな価格である。店内はカウンター席、座敷。我々は座敷のテーブル席へ。ここまでの歩行数は13,500歩であった。料理が出てきたが、他に、魚のフライがあるとのことで撮影のため待つが・・・・。ぶりの西京漬け、刺し身もマグロ・ぶり・アジ・生しらす。遅れて出てきた魚のフライ (ぶり・ワカサギほか)。どれも美味しかったのでお代わりで軽くご飯を依頼した。食事後恒例のアンケートを提出。今回のツアーに参加して、藤沢宿と平塚宿の間にある間宿として栄えた茅ヶ崎をより知る事が出来たことに感謝申し上げます。初めての企画で予定時間に到着しなければがあったようだが。敢えて言うなら、① 旧東海道沿いにある寺社の紹介 (但し、沿道100メートル以内)。② 金剛院内の旧茅ヶ崎役所跡、市役所入口の旧寛永寺石灯籠。③ 旧東海道沿いの道祖神 (中島)。④ リーフレットが欲しかった。13:55昼食を終え家路につく。14:00愛車のリンちゃんを預けたイオン湘南茅ヶ崎の駐輪場へ。歩けるかどうか心配したがどうにか遅れることもなく安堵した半日であった。ミモザもご苦労様と。因みに、今回歩いた旧東海道は平成30年(2018)10月20日(土)に歩いておりその時のブログは「茅ヶ崎から大磯宿」👈 をクリック願います。 END
2024.04.27
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お土産の ”でかまん” を頂き、百メートル程戻り「旧相模川橋脚」へ。4月6日(土) 10:45前方は新湘南バイパスの高架橋で茅ヶ崎西インタ出口がある。国道1号(旧東海道)の下町屋橋の東京側に建っている標柱。標柱には「国指定史跡 旧相模川橋脚」と。史跡 旧相模川橋脚所在地:神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目もう何度も訪れている史跡で、ちょうどソメイヨシノが満開であった。国指定史跡 旧相模川橋脚旧相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定された。写真は「出現時の様子」 仮指定段階の橋脚 整備前の様子保存池精査の様子 保存方法の概念図床面に「写真と説明が書かれたタイル」がはめ込まれていた。□ 橋脚出現状態の再現 本史跡は、1923(大正12)年に発生した関東大震災によって、地中より出現した鎌倉時代の 橋遺跡です。ご覧になっている橋脚は精巧な複製品で、実物は腐朽が進まないように地下 3m65cmのところで保存されています。橋脚は複製品ですが、地震によって発生した液状 化現象で橋脚が出現した状態は忠実に再現されており、地震のすごさを物語っています。□ 大正期保存池の復元 本史跡は、1926(大正15)年10月20日に国の指定史跡となりました。橋脚(複製品)10本を 囲っている池の形は、大正時代に指定された後に整備された初期保存池の平面形を復元し ています。池は木柵を作りその外側には土盛りした周堤が築かれていたことが発掘調査な どから明らかになっており、当時の人々が保存に向けて努力をされていたことが感じられ ます。池上に出ているのはレプリカで旧橋脚は保護ピットで覆われ地下に保存されている。保存池の周りのサクラは満開。3次にわたる発掘調査では、新たに見つかった橋杭1本を含めヒノキ製の橋杭が合計で10本確認され、2m間隔で3本からなる1列の橋脚が、10m間隔4列に配置されていた。橋杭については年輪年代測定により西暦1126年から1260年に伐採されたことが判明したと。満開のソメイヨシノを見上げる。後方の建物は「神奈川県衛生研究所」。当研究所は、さまざまな健康危機の懸念や発生に対して、関連の行政機関や試験研究機関などと連携して、県民の皆さんの健康の保持増進、健康被害の発生予防・拡大防止など、健康危機管理に係る業務の充実に積極的に取り組んでいますと。耕地整理記念碑小出川と千の川の流域一帯を美田化する目的で行われた耕地整理を記念する碑。事業は湘東耕地整理組合が組織され、大正十四年(1925)から開始され昭和十五年(1940)に竣工したと記されていた。現在の小出川は、この耕地整理により今の流れとなったものであると。古木の幹から芽が出てサクラが開花していた。この頃には気温も上がり出発前に上着を一枚脱ぐ。しばし休憩後、集合時間になる。昼時になると弁当を持ち癒しの空間になる。この日は土曜日で家族連れが訪れていた。旧相模川橋脚を後にし「茅ヶ崎一里塚」へ向けて出発。11:10国道1号(旧東海道)沿いを歩き約2.5km先にある終点「茅ヶ崎一里塚」へ。ツアーガイドから右側に「神明神社」と言われたがスルーして先へ。神明神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目6-19ツアーの説明が欲しかったが。境内への入口にある石碑には「清明井戸」と。石碑の裏面には、「当地の古老が伝えるところによると、神明大神の境内には平安時代の陰陽師、安部晴明(921 〜1005) が東国へ下行のおり喉の渇きを癒した清水が湧き出ていた、名付けて『清明井戸』 と称す。 平成二十三年十月吉日」と刻まれている。道路脇には下り線側を歩いているので「日本橋から 60km」と書かれたキロ標柱。近くに ”明治乳業神奈川工場” がありツアーガイドから「ここでもブルガリアヨーグルトを製造しておりここで製造したものにはパックに『Kナ』が印字されている」と。その事実を後日確認したのである(黄色内標示)。余談だが、他のヨーグルトがフードロス対策から「半値」と標示、皆さん物価高の中複数購入しておられた。最近の値下げ表示は「10% ~ 半値」とあるがその基準が気になる。会社勤務時代は「半値の60%引きでも原価はキープしている」と言っていたものだが。鳥井戸橋交差点に建つ ”鶴嶺八幡宮大鳥居”。鳥居の右側には社号標石「鶴嶺八幡宮」が建っている。ツアーは交差点を渡り国道の北側へ移動さてどこへ?。弁慶塚所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷843-1訪れたのは民家の敷地に隣接?、案内板がないので入口がわかりづらい。石碑だけが置かれた ”弁慶塚”。弁慶塚の由来武蔵国稲毛(川崎市)の領主、稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、建久九年十二月二十八日その落成供養を行った。源頼朝は多数の家臣を引きつれてこの式に参列、盛大な落成式が行われた。頼朝はその帰途鶴嶺八幡宮附近にさしかかったとき、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年一月死去した。後年里人たち相計り義経一族の霊を慰めるため、ここに弁慶塚を造ったと伝えている。 昭和五十七年十一月一日 茅ヶ崎ロータリークラブ 茅ヶ崎郷土会説明板もそろそろ新しいものに。鶴嶺八幡宮大鳥居ここから北側に800メートルの参道が続き両側は松並木になっている。鳥居下の路面に埋められたタイルには「大正初年頃の鳥居付近」。鳥居は石製であろうか、関東大震災で倒壊したのでは。鳥井戸橋交差点を再度下り線側へ横切り、鶴嶺八幡宮大鳥居を振り返る。南湖の左富士之碑交差点を渡った千の川に架かる鳥井戸橋と石原橋の頂点にあるスペースに石碑が建っている。南湖の左富士の由来浮世絵師安藤広重は天保三年(1832)に東海道を旅し、後続々と東海道五十三次の風景版画を発表した。その中の一枚に南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並の見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いている。東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。この場所は「関東の富士見100景」に指定されている。鳥井戸橋の欄干に取り付けられているネームプレート。千の川の下流側。橋は石原橋。この方向に左富士が見えるのだがこの日は一日富士は見えなかった。”南湖の左富士之碑” から更に東へ進む。旧東海道沿いの ”ふれあい医療福祉研修センター” のフェンスに掛けられていた道案内板。今まで何度もこの辺りを走っているがこの案内板には気が付かなかった。南湖鳥井戸歴史街道1, 鳥井戸 御霊神社 鎌倉権五郎景正公、源義経公を祀る2, 浄土宗 御霊山西運寺 「白浪五人男」のひとり南郷力丸の供養碑があり、相模三大十夜の「お十夜寺」としても 賑わった。3, 浜降祭 神輿渡御コース 昭和期浜降祭へ渡御する各神社の神輿は、鳥井戸中央通りを通過して南湖浜へと進んで 行った。4, 寒川神社の神輿救った石井家 茅ヶ崎海岸へ流れ着いた寒川神社の神輿を仲町の孫七等と引上げ、寒川神社より感謝を 授かる。5, JR 臨時停車駅 関東大震災で東海道線が壊され、南湖院への通院の為、鳥井戸踏切に臨時停車場が仮設 された。6, 茅ヶ崎八景 鳥井戸 茅ヶ崎八景 (南湖青風・鳥居戸夕陽・松原夜雨・高砂秋月・鶴嶺暮雪・大六天晩鐘・柳 島落雁・姥島帰帆) 茅ヶ崎が誇る景観である。更に進むと「亀井工業ホールディングス㈱」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖1丁目4-25ツアーガイドから、東海道の立場であった「南湖の茶屋町」には、茶屋だけでなく旅籠もあった。「萩藩」や「加賀藩」などの大名行列も南湖の「松屋」という茶屋で休憩したという記録が残る。ほかにも「橘屋」「藤屋」「江戸屋」「布袋屋」といった茶屋があった。今でも茶屋町の地名が残っており ”茶屋町自治会館” もある。また、かつてこの辺りには ”湯屋” があった、この関係からか亀井工業はJR北茅ヶ崎に「野天湯元 愉快爽快」を経営していると。亀井工業は2020年に創業130年を迎えた茅ヶ崎の地元企業である。この木も樹齢が100年以上なのであろう。更に国道1号(旧東海道)を進む。お気に入りに登録している「だるま食堂」。一度立寄ったがリーズナブルな価格で美味しかった。次回は「チャーハン」を食べたいと思っているが。茅ヶ崎には旧家の脇本陣があった。 江戸時代の茅ヶ崎は、藤沢宿と平塚宿の間にあり、間の宿と言われた。文化3年(1806)に江戸幕府が作成した『東海道分限延絵図』を見ると、沿線に菱沼村、小和田村、茅ヶ崎村、浜之郷村、下町谷(屋)、今宿村、中島村があり、牡丹餅立場、一里塚、南湖立場、姥ヶ島(姥島)、などが描かれている。そのころの東海道の道幅は、旧小和田村付近で約11m、南湖立場付近で約7m、馬入川付近が一番狭く約6mであったという。また、南湖立場は、市内の東海道筋では最も賑わっていた。そこには本陣(松屋)と脇本陣(江戸屋)があり、松屋は間口20間(約36m)ほどの構えであったといいますが痕跡を留めていませんと。松屋は別の場所で「和風レストラン」を営業していると(以上ガイドの説明から)。このお宅も南湖茶屋町の旧家で ”脇本陣” であったと。向かい側に「茶屋町バス停」。この辺りの南湖立場は、市内の東海道筋では最も賑わっていた。この為、東海道本線の茅ヶ崎駅もこの辺りに計画したが路線がカーブしていたので東寄りの現在地に変更されたと。茅ヶ崎市内の旧東海道は現在国道1号になっていると。この辺りは道幅も広く電線もモール化され自転車優先道路がある。11:40歩道橋を渡り北側へある「第六天神社」へ。 ー 続く ー
2024.04.26
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弘栄堂で ”ちょんまげ最中” を頂き次の目的地へ。4月6日(土) 9:30ホテルサンライフガーデン所在地:神奈川県平塚市榎木町9-41弘栄堂の直ぐ東側にあるホテルで、落ち着いた雰囲気の客室を備え、結婚式場を併設している。敷地内には英国から輸入された築140年の教会があり結婚式場に使用されている。ホテル入口左横に建つ石碑に「明治天皇馬入御小休所跡」と。遺跡の由来平塚市榎木町ホテルサンライフガーデンの敷地はわが平塚市の文化史、経済史の上で特筆されるべき遺跡だといわれている。大住郡公所村の大官端山家に生まれた杉山久五郎は、若い頃江戸に出て生薬を学習。縁あって杉山家を襲い、この場所で薬種商を営んで大成功を収め、子息泰助を大阪に遺し緒方洪庵に就いて医学を学ばせたという。かくて父子協力して家業の発展に努め財を成す。又、折柄、明治の新時代を迎えて、石油と砂糖の需要の増加を予測し、馬入川(相模川)の舟行を利用して、上流各地に広く販路を拡大していった。更に陸路は馬力を利用し神奈川県中央部で石油と砂糖の大問屋となって、大成功を遂げ、豪壮な家屋を建築した。屋敷の周囲には石垣を構築みずから「石垣」と称し、世間もまた「石垣」と敬称した。明治六年八月三十日、天皇(明治)皇后(昭憲)お二方が東海道御通行の時、ここに立寄られ休息されたのは天皇二十二歳、皇后二十四歳のときである。又、明治十一年十一月八日には明治天皇の再度御立寄の光栄に浴した。明治十五年七月、この石垣の邸内に株式会社江陽銀行が開業したが、同行は神奈川県中央地域に於ける最初の銀行で頭取は杉山泰助、江陽の名は耕餘塾小笠原東陽の命名である。「明治天皇馬入御休所跡の碑」は昭和十五年皇紀二千六百年記念に泰助の孫久吉が建立した。揮毫は子爵金子堅太郎である。 平塚市文化財保護委員 八十三叟 高瀬慎吾馬入渡川會所跡所在地:神奈川県平塚市榎木町9ホテル前からの馬入川側に移動道路脇に建っている石柱。川会所跡 (かわかいしょあと)川会所は、江戸時代に川越を取り締まった役所で川役所とも言いました。川会所には川役人(川名主と年寄)が在勤し、川の深浅を計り、川留・川明を決めたり、渡船の管理や渡賃の徴収などを行っていました。通行人は渡賃を払って、川越をしていました。元禄三年(1690)当時の旅人一人の渡賃は十文 (現在では約300円) でした。馬入の川会所は、間口一間半、奥行二間ほどの家で、馬入川渡し場の西川端にありました。馬入の渡しには渡船が常備されていて、定掛り村が須賀と柳島村、定助郷村が馬入村ほか四か村、加助郷村が田端村ほか十か村で、それぞれの村々が渡しの業務の負担をしていました。 平成十九年(2007)三月 平塚市説明を聞くメンバー。後方南側の建物は馬入ポンプ場。植込みの中に「史跡 東海道 馬入の渡し跡」と書かれた木柱。ズームアップするが見落としやすい場所に建っている。馬入の渡し跡へ移動。昨年の秋紅葉を楽しんだ ”馬入ふれあい公園のメタセコイア並木”。馬入川の西側の堤に上がり「馬入の渡し跡」へ。今年の開花が例年より一週間ほど遅れたソメイヨシノが我々を出迎えてくれた。オオシマザクラは散り始めていた。馬入の渡し跡石碑、説明板が建っている。満開のソメイヨシノ下を遅れた後続組が。堤下のグランドでは湘南ベルマーレが練習中。説明看板を見ながら説明を受ける。天気が良ければ富士が見えるのだがこの日は・・・。東海道五十三次 平塚 馬入の渡し跡茅ヶ崎から馬入川を渡る際、一番の目印であったタブの木が繁る当時の馬入の渡し。中央の狂歌は、「大磯へいそぐ えき路のすずのねに いさむ馬入の渡し船かな」。初代廣重画東海道五十三次之内平塚「馬入川渡船」天保末期(1842年頃) (株)サン・ライフ蔵東海道 馬入の渡し江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけることを禁止しました。そのため、相模川(馬入川)や多摩川(六郷川)は「渡し船」、酒匂川は「徒歩(かち)渡し」などで渡っていました。相模川には六十以上の渡し場がありました。大動脈である東海道は「馬入の渡し」と呼ばれ、幕府が管理し、周辺村々の負担によって成り立っていました。当初、船は須賀村だけで用意していたようですが、元禄五年(1692年)に対岸の柳島村が加わりました。また、渡船賃の徴収などを扱う「川会所」の運営や船頭の確保は、馬入村など5か村が務めました。川会所や、渡船額などの情報を掲示する「川高札」は馬入村にありました。渡し船には「小舟」と「馬船」がありました。小舟は人を乗せる船で定員二十人ほど、馬船は大型で馬が荷物を積んだまま横向きに乗ることができる船です。このほかに、将軍や大名用の「御召船」などが常時用意されていました。また、将軍の上洛など特別の大通行があった場合、幕府は「船橋」を架けさせました。 平成十六年(2004年)三月 平塚市説明を聞き終え主催者が集合写真を撮影するがスマホ。この写真は機関誌に掲載すると。下流側にはこの後渡る馬入橋が架かる。馬入川 (相模川) の名前の由来源頼朝の家臣で武蔵の国を治める稲毛重成が、亡き妻(北条政子の妹)の供養のために架けた橋がここから茅ヶ崎方面へ約2km行くと国指定史跡になっている「旧相模川橋脚」がある。その「橋供養式」に参列した源頼朝の乗る馬が突然暴れだし、川に入り込んだことから、この辺りの相模川を「馬入り川」と呼び、やがて「馬入川」と呼ばれるようになったと。青空が出ておればよかったのだが。馬入橋の現在の橋は4代目であったか。相模川には数人が乗る、SUP (スタンドアップ・パドル・ボート) であろうか。9:57馬入橋の平塚側の袂までが平塚のガイドさんの担当エリア。私にとっては弘栄堂からここまでは既に何度か訪れていたコースであった。橋の袂の南側には ”陸軍架橋記念碑” があったのだが。以下2枚は以前の写真。陸軍架橋記念碑大正十二年(1923)九月一日、関東大震災によって馬入橋が倒壊し、交通が途絶しました。地元の消防組・在郷軍人会・青年団によって即日渡舟が運行されましだが、数日後の豪雨で流失し、しばしば中断してしまいました。九月十七日、陸軍第十五師団(豊橋)所属工兵大隊と、第十六師団(京都)所属工兵大隊が急きょ派遣され、架橋工事が開始されました。橋の全長四五○メートルのうち、馬入側の三○○メートルを第十六師団、茅ヶ崎側を第十五師団が担当して、同年十月三日に完成しました。この記念碑は馬入側を担当した第十六大隊の事績を称えたものです。石碑の碑文(略) 平成十八年 (2006年) 三月 平塚市馬入橋上から上流側に ”馬入排水樋管” 、更に上流側に ”馬入の渡し跡” がある。左側には英国から輸入されたという築140年の教会。現在は結婚式場に使用されている。茅ヶ崎側のガイドさんの説明を聴きながら風の強い馬入橋を渡る。かつての馬入川はここより茅ヶ崎側約2kmを流れていたため、茅ヶ崎側上流に平塚市の飛地がある。このため子供たちはこの橋を渡って平塚側の学校へ通学したと。馬入橋上には「日本橋まで 62km」のキロ標柱。JR東海道本線の馬入川橋りょうの下には大正十二年(1923)の関東大震災により被災、完成状態だった下部工が崩壊した状態で今でも残っていると。その崩壊した下部工(以前撮影した写真から)。下り線の歩道上からは見えるのだが、上り線からは見えない。馬入橋を渡った先の右側に「茅ヶ崎市」と。ここより北側約1kmに「平塚市立須賀夕映え公園」があり平塚市。馬入橋を渡り新田入口交差点から振り返る。ここのバス停「新田入口」から二つ先の「今宿」までバス移動。下り線の道路標識には「馬入橋、相模川」と。次のバスまで10分程あるので国道1号の南側の「中島川ガード」を見学すると。JR東海道本線の「中島川ガード」。新しいコンクリート桁は昭和40年(1965)。煉瓦積みは明治20年(1887)に単線で開業した際の橋台、他にも明治33年に複線化した際の橋台の遺構だと思われる煉瓦があると。朝夕 ”中島川ガード” を車が通るので道幅の関係で一部煉瓦は削られていると。10:19新田入口バス停から2つ先の「今宿」までバス移動。この先数十メートルに「中島西町の男女双体道祖神と文字道祖神」、またその先にも「中島東町の男女双体道祖神」があるので「道祖神」についての説明が欲しかった。10:32各自で支払い今宿バス停で下車。この区間バスも混んでおり、今宿から乗車する人も多かった。新田入口から今宿バス停までは1キロで途中「道祖神、お寺」も有り歩いても良かったのではと。後のスケジュールもあるので担当者は各ポイントの時間をチェックしておられた。トイレに行きたい人はLAWSONを利用して下さいと。この後、ここ今宿から茅ヶ崎一里塚まで約2.5kmを歩く。小出川の向かい側にサクラ並木。随行のガイドから茅ヶ崎には企業が少ないが、そんな中茅ヶ崎は音楽界に寄与している尾崎紀世彦、加山雄三、サザンオールスターズなどを輩出している。また、”赤とんぼ”を作曲した山田耕筰も茅ヶ崎から東京への汽車の中で作曲したと。途中「国指定史跡の旧相模川橋脚」があったが先に「でかまん菓子舗」へ向かった。10:45でかまん菓子舗所在地:神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目6-5昭和26年(1951)創業の老舗和菓子店でこしあんをベースに和菓子を販売しているようだ。お土産の ”でかまん” を各自一個頂く。帰宅後食べたが私はつぶあん派であるので ”ちょんまげ最中”、妻に ”でかまん” を。店内ではいろんなものを販売。お赤飯:400円、手づくりだんご:250円、栗むし羊かん:230円、おはぎつぶあん:160円、夫婦鮎最中:130円と。でかまんの大きさは30cm!。 ー 続く ー
2024.04.25
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茅ヶ崎版タウンニュース 3月22日(金)号で下記ツアーを知り申し込んだ。右足に不安があったが興味があったので挑戦してみることに!主催は「一般社団法人 茅ヶ崎市観光協会」。なお、"旧東海道を歩く”は令和2年(2020)3月23日に旅友と京都三条大橋まで、約二年間・延べ32日をかけて完歩している。因みに、この区間は平成30年(2018)10月20日(土)に茅ヶ崎駅から大磯駅まで単独で歩いている。この時の所要時間は約5時間、36,500歩であった。送られてきたパンフレットから。湘南茅ヶ崎ガイドツアー 春の東海道をゆく ~ 茅ヶ崎・平塚の一里物語 ~ 2024年4月6日 (土) 8:30 ~ 14:00参加代金(おひとり様 ※ 大人・こども共/税込) 3,700円 ※ 食事代・保険代・資料代込み 江戸時代の主要街道である東海道。茅ヶ崎は藤沢宿と平塚宿の間にあり、旅人の休憩場所「立場(たてば)」として栄えました。今回は平塚から茅ヶ崎の一里を歩きます。春の訪れを感じながら東海道をツアーガイドといっしょに巡りませんか?【募集人員】20名様(先着)※ 最少催行人数8名【申込方法】茅ヶ崎市観光協会オンラインショップよりお申込みください。【申込締切】4月1日(月) ※ 定員に達し次第、受付終了。※小雨決行、荒天中止 ※ 詳細については、申込み確認後改めてご案内いたします。【注意事項】※ 集合場所はJR平塚駅東改札口横 JR茅ヶ崎駅近くの魚重で昼食を取り解散となります。 ※ お申込み1件につき 150円の通信連絡費がかかります。 ※ 路線バス代は料金に含まれておりません。 2区間計大人 420円を参加者ご自身でお支払いください。 ※ 約6.0kmの長いコースです。体調管理にご留意ください。当日の予定スケジュール8:30 JR平塚駅 出発 ==(路線バス乗車)== 馬入一里塚 ⇒ 馬入の渡し跡==(路線バス乗車)==旧相模川橋脚 ⇒ 茅ヶ崎一里塚 ⇒ 魚重(昼食)14:00頃解散ツアーの見どころをご紹介!● 馬入の渡し跡● 旧相模川橋脚● でかまんとちょんまげ最中● 魚重(うおじゅう/昼食)4月6日(土) 7:35この日は曇り空で朝方の気温は10度と肌寒かった。平塚駅集合が8時半前であったので早めに愛車のリンちゃんで出発、 ”イオン湘南茅ヶ崎” の駐輪場へ愛車を預け歩いて茅ヶ崎駅へ。イオンスタイル湘南湘南茅ヶ崎前のモニュメント。黄色いミモザが満開になっていた。私の好きな春先を彩る黄色のミモザ。国道1号(旧東海道)の一里塚交差点。今日のツアーではここまで歩いてくる。一里塚交差点の南側にある ”茅ヶ崎一里塚”。ここは江戸の日本橋を起点にして十四番目にあたる。今回のツアー参加にはカメラは軽いソニーを持参。この日は土曜日で通勤者も少なかった。JRに乗車するのは昨年小田原へ行って以来になる。スイカの残金がわからず念のためオートチャージになっているか改札横で確認。平日のこの時間帯は通勤客でいっぱいだが。久しぶりにホームへ立つ。線路を見下ろすと昨年の草が枯れたままになっていた。人手不足なのか管理整備が遅れているのではと。相模川(馬入川)を渡る。下流側のトラスコ湘南大橋。曇り空で富士は見れそうになかった。もう何年ぶりになるか久しぶりに平塚駅へ下車。西方向には高麗山(湘南平)。集合場所の東口改札口。改札口を振り返る。この改札口を出たのも何十年ぶりか。集合時間まで時間があったので南口へ。南口は卒業した会社の事務所が昭和50年(1975)まであったので利用した出口。連絡通路も水垢で汚れていた。8:10集合場所の東口改札口に参加者が集まる。受付を行い、イヤホーン、参加ネームプレートを与えられる。参加者は20名の予定であったが直前のキャンセルで19名だと。”馬入一里塚” までバスを利用するので、受付後北口へ下りる。星たちの明日平塚駅北口の階段を下りたところのバスターミナルの前にあるオブジェ。七夕まつりの40周年記念として据えられたようで、作者は、峯田義郎氏。木谷道場があったまち ”囲碁のまち ひらつか”「囲碁のまちひらつか」記念塔近代囲碁に大きな功績を残した木谷實九段(1909~75)は、平塚の地に住居を構え、全国の才能豊かな子どもたちを自宅に招き育てました。いつしか人々はその家を「木谷道場」と呼ぶようになり、弟子の数は70人近くにもなりました。その多くが現代の囲碁界を代表する棋士になっています。そのような縁から、市では囲碁を貴重な文化資源として位置付け、囲碁文化の普及・振興を推進しています。この「囲碁のまちひらつか」記念塔は木谷實九段生誕100年を記念し設置しました。 平成21年(2009年)8月 平塚市バスターミナル下への階段、エスカレーター。8:30時間になりツアー事務局から挨拶。イヤホーンは事前に取り扱い方の説明を受ける。事務局は「一般社団法人 茅ヶ崎市観光協会」で、このようなツアーは今回はじめて開催するので何かと不行き届きがあることをお許しくださいと。茅ヶ崎市観光協会の新谷(しんたに)会長の挨拶。茅ヶ崎FMに時々出ておられるので名を知る方である。平塚市の観光協会の方も来られ挨拶。茅ヶ崎駅行 8:50 に乗車することに。バス料金は各自が負担。土曜日の9時前で人通りは少なかった。茅ヶ崎行きのバスはツアー参加者19名と事務局員4人で満席に。観光協会のお二人はバスを見送り「気を付けて」と。旧国道1号(旧東海道)の平塚駅前交差点を右折して茅ヶ崎へ。道路脇の木には鳥除けのネットが張られていた。8:57馬入橋バス停で下車。向かい側に平塚側の ”馬入の一里塚” の石碑。平塚駅からは1.2キロ程度で待ち時間等を考えるなら十分に歩ける距離であったが。平塚側のガイドも合流され移動。この後歩いて渡る東方向の国道1号の馬入橋。石碑には「東海道 馬入一里塚跡 江戸 十五里 京 百十一里 大坂 百二十二里」と。平塚側のガイド斎藤氏から説明受け。平塚には塚はないと。東海道 馬入の一里塚慶長九年(1604年)、徳川幕府は東海道など五街道を整備し、江戸日本橋からの距離が分かるように一里塚を整備しました。一里塚は街道に一里(約四キロメートル)ごとに造られ、築造時の資料によれば、五間(約九メートル)四方の塚でした。塚の上には、目印として主に榎が植えられました。旅人にとって一里塚は、旅の進み具合を知らせる目印であるとともに、木陰は休憩場所にもなりました。 馬入の一里塚は、この付近にありました。江戸日本橋から数えて十五番目の一里塚で、旧東海道をはさんで南北に一つずつの塚がありました。文化三年(1806年)に出版された「東海道分間延絵図」には、北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれています。 平成十六年(2004年)三月 平塚市絵は「東海道分間延絵図 <部分> (東京国立博物館所蔵)」。一里塚の説明を終わり交差点を渡り北側へ移動。まだ気温が低く曇り空で寒かった。丁髷塚 (ちょんまげつか)所在地:神奈川県平塚市榎木町5-7国道1号から北側へ百メートル程の所にある塚で数年前に一度訪れている。丁髷塚むかし相模国府祭(さがみこうのまち)の日の夕暮、東海道を帰還途中の一之宮寒川神社の神輿をかつぐ若者たちと平塚八幡宮の神輿をかつぐ馬入村の若者たちが、ささいなことから喧嘩を起し、馬入の若者たちが、一之宮の神輿を奪い取って馬入川の深瀬に投げこんでしまうという事件が起った。当時の馬入川は大変水量が多かった。この喧嘩で双方にたくさんの怪我人を出したが、相模国の一之宮の神輿に対し乱暴をはたらいた馬入村の若者たちは、代官江川太郎左衛門の厳しい取り調べを受けることになり、下手人の16名は打首断罪の判決を受けたが、処刑の日、代官はその丁髷だけを斬り落し、打首に代えた。罪を憎んで人を憎まぬ名代官の名処置に16人はもちろんのこと村民たちは涙にかきくれたという。その丁髷を埋めたところに、この碑を建てたものである。 平塚市観光協会前回、令和4年(2022)11月12日(土)に訪れた時の説明板は一部読めなかったが補修されていた。相模国府祭(さがみこうのまち)について説明。有力相模五社の下記神輿が総社である六所神社に集結した。総 社 :六所神社 大磯町国府本郷一之宮 :寒川神社 寒川町宮山二之宮 :川勾神社 二宮町山西三之宮 :比々多神社 伊勢原市三ノ宮四之宮 :前島神社 平塚市四之宮五 宮 :平塚八幡宮 平塚市浅間町この資料はガイドさんから撮影。丁髷塚から歩いて次の目的地の「弘栄堂」へ。9:25弘栄堂所在地:神奈川県平塚市榎木町 9-45創業明治40年の老舗和菓子屋の弘栄堂。小豆・餅米・砂糖等、高品質な材料をこだわり使用した御菓子は、幅位広い層に大人気。なかでもバター入りのどら焼は当店売り上げ1位です。毎朝搗きたての力餅もオススメですと。店長から「自分は三代目で現在60歳、後継ぎがいないので70歳まで営業し後は・・・」と。いつまでも営業して欲しいものだが。参加者全員、”ちょんまげ最中” を一個頂きました。帰宅して食べたが粒あんで美味しかった。店内では他にも赤飯等を販売しておりお土産で購入する人も。最中好きな私は以前にも立ち寄り購入した。 ー 続く ー
2024.04.24
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サクラが散ってから約一か月、正月が明けウメ、早咲きサクラを追っている間に早5月に!今年は暖冬でサクラの開花は早いと思っていたが例年より1週間遅れで開花。日々の寒暖差が激しいのでサクラも開花を迷ったか。これも地球温暖化なのか。この日は、タウンニュースで5年ぶりに「3月31日 向田緑地で第12回桜まつり開催」とあったので開花状況を見に愛車のリンちゃんで出かけた。3月30日(土) 14:20圏央道下の西久保橋を渡りいつもの小出川の河津桜会場へ立ち寄る。この日は薄曇りで富士は見えていなかった。上流の圏央道、西久保橋を振り返る。茅ヶ崎JCT小出川の菜の花も終盤に。河津桜も終わり足元にはいろんな花が咲いていた。ズームアップ。下流側に萩園橋、その先に目的地の「向田緑地」がある。ハナニラの群生ネギ亜科ハナニラ属に属する多年草で原産地はアルゼンチン。道端や花壇に植えっぱなしにしておいても、春に藤青色からピンク、白の星形の花をよく咲かせる、非常に丈夫で手間いらずな植物です。葉や球根を傷つけると、その名のとおりネギやニラのようなにおいがします。向田緑地所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園小出川沿いにある小さな公園で、平成20年(2008)にNPO法人萩桜会の手によってソメイヨシノが数十本植えられ、15年も経ちサクラも巨木になっている。公園内には四阿、仮設トイレもある。明日3月31日(日)に、コロナ禍の関係で5年ぶりに開催される。ふるさとふれあい 第12回桜まつり地域の風物詩として親しまれてきたが、コロナ禍で中止が続き5年ぶりの開催となる。当日の会場では祭ばやしやフラダンス、楽器演奏、民謡、カラオケの披露が予定されているほか、焼きそば、焼き鳥、豚汁、フランクフルト、だんごやミニトマトなどが販売される。各種キッチンカーの出店もあると。上流側の萩園橋。まつりは向田緑地を主会場に萩園橋南側で開かれ、時間は午前10時から午後2時頃と。この堤はいつも走っている道である。会場には多くの幟旗が立てられていた。サクラの木にネームプレート。品 種 ソメイヨシノ (染井吉野)科 名 バラ科植栽日 平成20年3月2日管理No ・・・管理者 萩桜会会場では明日の桜まつりに向けてNPO法人萩桜会のメンバーが準備中であった。メンバーの皆さんは高齢者が主。昨年は満開であったが、肝心なサクラは ”つぼみ” 状態であった。夜桜用の提灯も用意されていた。夜桜鑑賞も良いのだが。かたいつぼみのソメイヨシノ。開花までにはまだ数日であろうか。会場の上流側を望む。サクラは咲いていないがまつりに地元民が集まり交流も大切だ。当日の会場では子供たちの祭ばやしやフラダンス、楽器演奏、民謡、カラオケの披露が予定されていると。植栽後15年ほどで幹回りも1メートル近くに成長。常備設置されている仮設トイレ。公園南側の看板には、50年先の子供達へ豊かな桜並木や自然を引き継ぐために荻園の地(小出川他)の自然や環境を守りながら、桜や萩を地域の人や次代を担う子供達と一緒に植えて、将来に誇れる自然と環境が調和した住みよい地域づくりを目指して活動を進めていきます。 ~ 萩桜会設立趣意書より抜粋 ~ 平成19年11月 茅ヶ崎市 萩桜会こちらにも看板。傍にはまだ若い ”ほうき桃” であろうか。数年後が楽しみである。花の小径 (はなのこみち)小出川に親しむ会は、2007年に植樹したこの場所を「花の小径」と名付けました。小出川が、草木も、鳥も、昆虫も、魚たちも、それぞれの生き物が共存できる環境になるように配慮した草刈り等の手入れをしております。皆様には、ご理解の上、散策を楽しんでいただければ、幸いです。 小出川に親しむ会・茅ヶ崎市・藤沢土木事務所並木になっていると見応えがあるのだが。ズームアップ。更にズームアップ。向田緑地を後にし下流へ進む。浜園橋の橋梁はまだ仮設台の上にあった。令和5年度の予算はここまでなのかと。3月初旬には既にこのような状態になっていたと思うが。小出川沿いのウメ並木を更に南下、鶴嶺通りを過ぎいつもの ”枝垂れ桜"。小出川沿いに5~6本植えられている。咲き始めであった。可憐なピンク色で好きな枝垂れ桜であるのだが木の名前は?。15:00鶴嶺通りに戻り ”鶴嶺八幡宮” へ。境内の大イチョウ(県指定天然記念物)は芽吹き前であった。境内はスルーして帰路に。15:15茅ヶ崎市役所前広場へ立ち寄る。この場所に名誉市民の加山雄三氏の銅像が建ち4月11日に除幕式が開催される。15:25第一カッターきいろ公園(中央公園)北側の道路沿いのサクラ並木。将来はこの先はJR相模線を潜る道路になるのだが。3月30日(土)の開花状況。これでは「開花宣言」になるのであろうか。ズームアップ。日々の寒暖差が激しくサクラも迷っているのではと。 END
2024.04.23
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金剛山普門寺の参拝を続ける。3月27日(水) 16:00山門(仁王門)横から境内を見る。観音堂の前には回向柱。手前は枝垂桜。本 堂普門寺は真言宗智山派寺院の寺院。天平年間(729〜749年)行基菩薩により開山した。その後、江戸時代までの経緯は不明であると。慶安元年(1648年)徳川幕府より17石7斗の御朱印を賜り、元禄十一年(1698年)頼真により中興開山された。本堂前に常香炉。御本尊は、不動明王で江戸時代の作。武相卯歳観音霊場四十八ヶ所25番札所である。本堂の扁額は「不動学」であろうか。境内の東側からの本堂、観音堂。本堂の東側では客殿の改修工事中であった。工事看板に「金剛山普門寺 本堂・観音堂・客殿改修事業のお知らせ」。謹啓 檀信徒の皆さまにおかれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。日頃より当山へ別格のご支援とご協力をお寄せいただき厚く御礼申し上げます。さて、当山は奈良時代の天平年間に行基菩薩により創建され、爾来約1250年の歴史を刻み、現住職で35代目を数えます。この永い歴史の中で、当山は檀信徒並びに地域の人々にとって「ご祈願の場」また「ご供養の場」として深く心のよりどころとなってまいりました。こうして永年大切に守られてきた本堂・観音堂等の建造物も、現在に至っては経年劣化が不安視される状況となっております。2017年、専門業者による調査を行った結果、基礎・土台における蟻害・腐朽などにより木組みが不安定な状態であり、建物内部における柱の傾斜・劣化・ねじれなども確認され、早急に修繕すべき点が多数見つかりました。また、客殿におきましても以前より皆さまから頂いていたご指摘ご要望に沿い、利便性を高め、世代を問わず多くの檀信徒の皆さまに安心して利用していただくための施策を検討してまいりました。当山総代・世話人会に於いて、檀信徒の皆さまにとってどのような寺であるべきか、また本堂をはじめとした伽藍を次世代に継承してゆくためにはどのようにお守りすべきかについて、慎重に協議を重ね、2017年5月の「総代・世話人会総会」にて、本堂・観音堂・客殿を「改修」するとの結論に至りました。以降「金剛山普門寺 本堂・観音堂・客殿改修事業 」として建設委員会のもと進められている当事業につきまして、2018年末時点で本堂・観音堂の改修設計案を順調に取り纏める事ができました。ひとえに檀信徒の皆様のご賛同・ご厚志によるものと、心より感謝申し上げます。この2つのお堂は2019年秋の着工を目指し、引き続き工事内容の精査・調整を進めて参ります。また同工事の着手と合わせて、客殿建替え計画も本設計へと展開して参ります。今後ともにご理解・ご支援の程よろしくお願い申し上げます。 合掌右下に「本事業は2023年4月に行われる『第23回武相卯年観音御開扉』に合わせた整備完了を目指します」 とあったが。御開扉(おかいひ)とは、普段は閉じている秘仏を収める御厨子(おずし)の扉を、特定の日に限って開くことです。武相観音霊場は、12年に一度、卯歳の春だけ御開扉し、秘仏の観音様をお参りすることが出来ますと。上 建物全景イメージ:お堂本来の美しい佇まいを生かした外観に整備します。 ※ 客殿は計画案の一例です。左下 本堂内観イメージ:内陣を3方から囲むレイアウトに変更し、現状の広さを 最大限に活用できる状態へと改修を行います。右上 本堂内観イメージ:内外陣・広縁の床段差を解消し、堂内のバリアフリー 化を図ります。右下 観音堂内観イメージ:文化財としての美観を維持しながら、補強・修繕を 行います。観音堂と枝垂桜の古木。鐘楼跡山門(仁王門)東側には、かって鐘楼堂があったが戦争中に供出され、その後お堂も伊勢湾台風で倒壊。今はその石積みだけが残されている。山門(仁王門)横から南西方向を望む。普門寺を後にし駐車場へ戻ることに。駐車場へと坂を下るが誰とも合わずのんびりとした空間であった。広い駐車場には我が愛車のみ。16:10普門寺は見るべきところが多々あったのだが、急ぎ足での参拝であった。普門寺から下る途中に神社があり立ち寄る。広場の隅に石柱。下は ”首都圏中央連絡自動車道(圏央道)” の防音壁。石柱には「旧川尻字畑久保の地」、側面には「題字 城山町長 北島厚」と。今は相模原市となっているが、かつての城山町にはこのような石柱が至る所に建っている。外には「旧川尻字谷津の地(きゅうかわじりあざやつ)」。石柱の近くの角地に道祖神であろうか建っていた。一段高いところに建っていた。先程参拝した「普門寺」の案内板、200mと。慈眼寺所在地:神奈川県相模原市緑区城山4丁目9-22普門寺の案内板の向かい側の丘の上に建っているお寺。祭礼がある時には幟旗が並ぶ階段。慈眼寺観音堂慈眼寺は武相四十八観音霊場第38番札所である。観音堂の扁額には「観世音」と。何故か観音堂の前の石燈籠には「八幡宮」、台座には「村内安全」と。境内の北側に並ぶ境内社。境内は地元の方々の奉仕で綺麗に整備されていた。観音堂の左側に建つ境内社。説明板がなく詳細は不明であるが社の中には小さい社殿が祀られている。こちらにも境内社が二社。境内の南側に並ぶ地蔵菩薩には赤い帽子とよだれかけ。赤い帽子とよだれかけは、お地蔵さんが「子供を守る神様」として信仰されてきたことから、人々が「自分の子供が健やかに育つように」という願いを込めてよだれかけを奉納するようになったと。裏側には「安永九?子年 供養佛」と。境内に西日が浴びる。地蔵菩薩前の古木が一本切断されていた。観音堂を見上げるとヤマザクラが綺麗に咲いていた。ズームアップ。ズームアップ。16:20慈眼寺を後にし帰路につくことに。カーナビを「自宅」にセット有料道路を使用し到着は18時前と。事故がないことを祈る。16:25慈眼寺から下り、圏央道の防音壁。南側に相模原インタがあるが今朝下りた相模原愛川インタへ向かうことに。16:45前方は国道129号の田名赤坂交差点。国道129号を南下左車線に入り相模原愛川インタへ。16:55相模原愛川インタ入口。料金所から相模川に架かる”相模川渡河橋”を渡り圏央道へと入る。車窓左側には国道129号の”新昭和橋”。相模川を渡り左の”海老名”方面へ。相模原愛川インタ辺りまではトンネルが多く事故多発地帯である。前方の高層ビル群は海老名駅周辺であろう。上空は圏央厚木インタ高架橋。説明が足らないが海老名南JCTを利用すれば「名古屋方面は新東名もご利用できます」と。海老名駅周辺のビル群。海老名JCT。左側車線の東名高速道路への車が渋滞。渋滞情報。海老名JCTはいつも渋滞。我が車は圏央道を直進して南下。名古屋方面の方は直進して海老名南JCTを利用すればよいのだが。順調に走り寒川南インタへ。17:20寒川南料金所で圏央道を出る。自宅へは17時45分に到着、今日の走行距離は約83キロであった。歩行数は約9,000歩。相模原の歴史散策をまたしたいものだと思った一日でした。 END
2024.04.22
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城山湖に立ち寄り目的地の「普門寺」へ到着。3月27日(水) 15:45金剛山普門寺 (ふもんじ)所在地:神奈川県相模原市緑区中沢 200昔から「中沢の普門寺」といえば、「飯縄さま」あるいは「観音さま」そして檀家にとっては「お不動さま」の霊場として常に近隣の人々の信仰の中心としてあがめられていると。普門寺の広い駐車場。奥にも別の駐車場があったがこれだけの広さが必要なのかと。入口を振り返る。駐車場入口に建つ寺号標石「金剛山 普門寺」。駐車場から普門寺へ。正面右が普門寺の境内で「本堂・観音堂・客殿の改修工事中」で工事車両が数台入っていた。相模原市のマンホール蓋。市の木ケヤキをデザイン。下部に「さがみはら おすい」の文字が入っている。普門寺の歴史普門寺は真言宗智山派に所属し、天平年間(729〜748)に行基により創立されたと伝えられています。その後江戸時代に至るまでの歴史は明らかではありませんが、近年発掘された板碑の年代等を見ても、霊域として常に重要な場所であったであろうことは想像できます。慶安元年(1648)徳川幕府より十七石七斗余りの御朱印地を賜り、元禄十一年(1698)頼真により中興開山されました。寺伝、資料によれば、往時の構えは、未寺に東福寺、大悲山慈眼寺、智恩寺の三ケ寺(共に廃寺)を従え、背後の山上に飯縄権現社、更に三島社と、地元中沢村の鎮守神の別頭寺院として、豪壮な堂社、伽藍を構え、霊威赫々たる真言宗の祈願道場として隆盛を誇っていたということです。このことは、現在に残される広大な寺域や境内の古木、凡そ三百年前に造営されたと伝えられる仁王門、観音堂、飯縄権現堂、本殿などの建造物の見事な結構、手の込んだ細工などからも一見してそれと伺い知ることができるものですと。駐車場からの道を進むと右上に山門(仁王門)。山門(仁王門)への階段は新しい玉垣。新しい玉垣には奉納者の名前が刻まれていた。右側の親柱には「武相卯歳観音霊場 第二十五番目札所」左側の親柱には「真言宗智山派 金剛山 普門寺」と。山門 (仁王門)観音堂の正面に建つ仁王門は、江戸の頃は権現堂に上る階段の途中にあったということだが、現在の場所に安置されたのは二百四十年以前と伝えられている。山門(仁王門)の扁額「金剛山」。山門(仁王門)の左右にそれぞれ仁王様が立つ。仁王様は運派系の仏師、全慶の作といわれ、顔立ち、姿とも力強さがあふれる作風です。今から三十年程前、ミツバチがこの仁王様に巣をつくり、巣を取るために仁王様のお腹を開き、修理修復がほどこされたという逸話がある。左側の仁王様。仁王門を入ると正面に観音堂、右側に本堂観音堂は五間四面流れ向拝の総欅造りで、四面板戸、丸住の上には出組化粧折上げに桁が載せられている。堂内は斗拱の上に桁を受け、格天井が廻らされており、床は内外陣共に鏡板張りですが、現在は畳が敷き込まれている。内陣来迎柱前の須弥壇、宮殿の造りは、端正で剛健な構えを示している。向拝柱の頭貫・木鼻には龍、獅子の彫り物がほどこされている。向拝の中央に下げられているのは、鰐口(神奈川県重要文化財)であろうか。であれば、以前は観音さまの向拝に下げられ打ち鳴らされていたものであると。観音堂の扁額「○○殿」。山門(仁王門)から左前方を見る。右側の六角堂は「永代供養墓」。左側の墓地入口には2基の宝篋印塔。山門(仁王門)を入って左側に建つ二基の宝篋印塔。2基とも頭部の笠が取り外されている。右側の一基は「天保御用金事件」の犠牲者供養塔と伝えられている。天保二年(1831)、諸国飢饉、幕府の財政悪化の折、上川尻村に課せられた御用金をめぐって領主の用人と名主が不正を働くという事件が起こりました。不正に抵抗した村人は相談し、天保三年、勘定奉行、老中目付に駕寵訴という非常手段で訴え出ます。しかし関係した両者は共に捕えられ、伝馬町の牢で伝染病にかかり、事件の結着も見ず怨みを残して死んでしまったのです。しかしその後も村内の内粉は納まらず、弘化二年(1845)犠牲者達の十三回忌に至ってようやく和解が成立、三月、人々の冥福を祈り宝謹印塔が建立されました。以後三月二十八日を命日として、明治維新まで関係者、上川尻村一統は施餓鬼会を営んで供養を捧げたということですと。説明板が建っていたが消えて判読できなかった。左側の宝篋印塔。後方に置かれている宝篋印塔2基の頭部。墓地入口に並べられていたのは石像、双体道祖神であろうか。新しい六地蔵も。墓地から東方向の境内を見る。歴代住職の墓であったか。石碑の字が判読できなかった。裏山に広がる墓地に建つ新しい墓塔。墓地からのどかな南方向を見下ろす。境内へ戻り入口に頭部のない宝篋印塔。山門(仁王門)の左側に並ぶ像、石塔。水子地蔵基壇に「水子地蔵」と。右側の石柱正面に「梵字」、側面に「南無大師遍照金剛」。左側には「萬霊塔」と。こちらの石碑には、「武相第二十五札所 聖観世音菩薩 真言宗 普門寺」と。六角堂の永代供養墓観音堂の左側を裏側へ進み、左側の石碑には「飯縄大権現参道口」と。”飯縄権現堂” は観音堂左手奥の石段を登ること百四十七段、御神木のスダジイの木をはじめ老木のうっそうと繁る中に「飯縄大権現」のお社が祀られているが今回はスルーした。立入禁止になっていたが、観音堂裏のこの新しい穴は。木製の祠の中に「お舎利さま」。宝暦三年(1753)川尻村小松の生まれで、生きながら成仏(入定行者、即身仏)を志す者がありました。三十四才の時に、普門寺の法印快誉と契約し、土中に入り断食して、念仏を唱えながら眠るように成仏したということです。— 七月四日入室、八月二十一日夜中に往生し願成就し ー と過去帳に記されています。このお沙弥さま梵蓮社・・・と云わ〇る人に小松の・・・・・この説明板も字が消えて読みとれなかった。祠の中にはお舎利さまとよばれる石造阿弥陀如来座像が鎮座しています。元はおしゃり山と呼ばれる裏山にありましたが大正六年に遷座されましたと。延命地蔵尊右側の基壇には「延命地蔵」。左側の石碑には「自聞龍神」の文字と龍の浮き彫り。南方向に山門(仁王門)。16:00山門(仁王門)東側には、かって鐘楼堂があったが戦争中に供出され、その後お堂も伊勢湾台風で倒壊。今はその石積みだけが残されている。山門(仁王門)横からその石積みを見る。相模原市指定有形文化財(彫刻)普門寺の木造聖観音菩薩立像普門寺の木造聖観音菩薩立像は、像高105cm、観音堂内の宮殿型厨子内に本尊として祀られています。頭部に宝髪(ほうけい)を結い、面部は丸く頬に張りがあり、眉目は弧形が延びやかで、優美な印象です。体部はすらりとして、胸部は薄く、衣文は浅く繊細で、全体に平安時代後期の本格的な藤原様式を示しています。この像は、十二年に一度の卯年に開帳されることから、卯年観音と呼ばれ親しまれています。相模原市登録有形文化財(建造物)普門寺の観音堂普門寺の観音堂は宝形造、正面三間、奥行四間で、手前一間のみを外陣、奥三間を内陣とするいわゆる小型の密教本堂形式で、観音霊場寺院に多く見られます。内陣は開口部が少なく閉鎖的とするのが通例ですが、この堂は内陣まわりに多くの開口部を設けているのが、特徴的です。建立時期は、十八世紀中頃と考えられます。※ この立像は平成十年に、観音堂は平成十八年に旧城山町の指定文化財となり、合併により相 模原市指定文化財、および登録文化財となりました。指定・登録年月日 平成二十年四月一日 相模原市教育委員会山門(仁王門)の東側側面に「仁王門建立山内整備寄付者芳名」。平成十八年十一月吉日仁王門建立山内整備寄付者芳名一、金伍拾萬円也 2名一、金参拾萬円也 24名一、金拾萬円也 2名 ・・・最低額でも、一、金八萬円也 多くの人が ー 続く ー
2024.04.21
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城山かたくりの里、川尻八幡宮の散策を終え次の目的地は近くにある寺社史蹟巡りに。3月27日(水) 14:55セブンーイレブン 相模原城山川尻店所在地:神奈川県相模原市緑区川尻4030-1駐車場から出て、近くのコンビニに立ち寄り飲料水、食料を補給し次に訪れる場所を確認。事前に訪れる所をチェックしていたが渋滞で到着が遅れ、15時になったので近場だけにする。まずセブン-イレブンの近くにある「熊野三社」を訪れることに。スマホの案内で進み目的地近くの道路脇に車を停める。熊野三社所在地:神奈川県相模原市緑区川尻 4042-6道路脇から小松川に架かる橋を渡り鳥居の前へ。階段の上に社殿。鳥居の手前に立っていた注意看板。「私有地につき 立入禁止」と。ちょうど高齢の方がおられ「参拝はOKか」と尋ね「参拝のみならOK」との了承を得て参拝。私有地の参道を入ると傾いた鳥居。鳥居の扁額「熊野三社」。落ち葉が積もった階段を上り境内へ。境内の奥に一間四方の社殿が建ち扁額には「熊野三社」と。社殿の左奥の高台に別の社が建っていた。説明板等が無く詳細は不詳。境内から南方向に「城山かたくりの里」を見る。道路脇の車へ戻る。この場所は「城山かたくりの里」の北側数百メートルにある。15:05高野山真言宗 松風山寶泉寺 (ほうせんじ)所在地:神奈川県相模原市緑区川尻 4562門前に建つ寺号標石には「高野山真言宗 松風山寶泉寺」。門前に立っている石碑には、「史蹟 相模国小松城址 城山元町長小磯武二書」と。新しい六地蔵が並んでいた。境内地に入ると直ぐ右側に駐車場。駐車場脇にあった簡易トイレ施設と、汚水処理装置制御盤。駐車場下に設けられた汚水処理設備の制御盤であろう。駐車場から参道を進むが全てが新しい建物であった。境内の西側に建つ「本堂」。ネットで見ると猫が多いお寺であると、猫嫌いの私の目にも数匹いた。本堂の東側に建つ「法要施設」。建物への車寄せもありまるでホテルのような建物であった。法要施設の左側に「手水舎」。手水舎の龍の水口。宝泉寺の由緒久安四年(1148)に入寂された宥正上人が開山された。過去帳附記によると開山当寺山号は小松山であった事、二度火災に遭い再建が果たされたのが天保元年(1830)である事が記されている。開山当時堂字は現在地から田をはさんで南側の丘に有ったと伝えられる。再建以降に現在地の小字松風と山号を改めたと考えられている。現在堂字は小松城址に有り、城は由来によると、1300年代に長井大膳大夫広秀という武将が片倉城の出城として築いたと伝えられる。付近には、片倉城、津久井城、小松城の武将が落城について相談したという評議原、小松城落城の折、寺も民家も焼かれ一族が自害したという自害谷戸等、城にまつわる地名が残っている。本 堂ネットで調べると本堂他は平成20年(2008)頃に再建されたようだ。本堂の右奥に背丈3メートルほどの観音像?。基壇には、「令和三年十一月吉日建立 奉納者 西東京石材株式会社 代表取締役 山田健一 浅川利雄 卅二世 智泉代」とペア―の地蔵も。本堂前に立たれる「弘法大師修行像」。台座には、「碑 文 松風山寶泉寺 本堂落慶の吉日と相俟ち 高野山金剛流金剛講寶泉寺支部講員一同が積 年の念願とした御祖師弘法大師修行像の寄進建立が茲に成就す。 関係者各位の奉加喜捨に深謝し 未来永劫に亘り 菩提寺の興隆と檀信徒一同の安寧を 祈念する。 合掌 平成二十一年七月吉日 高野山金剛流金剛講 寶泉寺支部講員一同前に廻り込み正面に「南無大師遍照金剛」。立札には「この砂の下にお四国霊場八十八ヶ寺と高野山のお砂が入っています」と。左側側面には、「高祖弘法大師御詠歌 第一番 有り難や 高野の山の 岩蔭に 大師はいまだ 在しますなる」と。本堂前左右には烏天狗の像が二体。本堂の守護役であろうか。本尊は釈迦如来。本堂左側の墓地入口に無縁仏と石像が立っていた。宝泉寺の石灯籠相模原市登録有形文化財に指定されているので風化を恐れ建屋の中に置かれていた。念には念に消火器も。相模原市登録有形文化財(建造物)宝泉寺の石灯籠宝泉寺の石灯籠は、高さ約218cmの凝灰岩製です。形態は上から宝珠、笠、火袋、中台、竿、基礎の各部からなりますが、宝珠は五輪塔の空風輪を代用とし、火袋と中台は近年の作と考えられます。竿には「応永十七年(1410)」の銘があります。宝泉寺には多くの応永年間の石造物が残されており、その当時に地域に根ざした石造文化圏が成立していた可能性が考えられます。相模原市登録有形文化財(歴史資料)宝泉寺の板碑 (いたび)宝泉寺の板碑は、高さ86cm、幅37cmの緑泥片岩製です。基礎部分は欠落していますが、上部2本の切り込みははっきりしています。また、蓮華座上に阿弥陀如来種子(梵字)を表しており、鎌倉時代後期のものと考えられます。蓮華座の下に「正嘉二年十二月十二日(1258)」と刻まれていますが、風化度の具合より、後の時代に刻まれた可能性が高いと考えられます。※ この2つは昭和四十五年に旧城山町の指定文化財となり、合併により相模原市登録文化財と なりました。登録年月日 平成二十年四月一日 相模原市教育委員会石灯籠横から本堂を望む。墓地を進むと西側の山の上に「史蹟 小松城址」があるのだが時間の関係で今回はスルー。15:20駐車場へ戻り帰路にある「金剛山 普門寺」へ行くことに。15:30城山湖の石碑城山発電所から上ってくると建っている石碑。城山湖 展望台所在地:神奈川県相模原市緑区川尻 4454-3宝泉寺からカーナビの案内で、松風都井沢線を西へ走り「城山湖」の標識があり立ち寄った。城山湖昭和40(1965)年、純揚水式の城山発電所建設にともなって、境川支流、本沢渓谷に上池として誕生した「本沢ダム」の人造湖で、「かながわの探鳥地50選」や「かながわの公園50選」にも選定されている。城山湖展望台にある四阿。四阿の屋根、横には太陽光パネルが設置されていた。四阿の隣に説明板が建っていた。城山湖にようこそ城山湖と本沢ダム城山湖は相模川総合開発事業の一環で、純揚水式の発電をするために昭和40年に誕生した人造湖です。城山湖の水は、標高の低い津久井湖の水を汲み上げたものです。この湖は、ロックフィルタイプの本沢ダムによってせき止められていて、ダム周辺の良質の土砂が多く使われ築造されました。城山湖 集積面積 0.6k㎡ 湛水面積 0.21k㎡ 総貯水容量 3,927,000m3 有効貯水容量 3,835,000m3 利用水深 28m 常時満水位 EL.280.0m本沢ダム 形 式 ロックフィルダム 高 さ 73.0m 長 さ 234.0m 堤体容積 1,852,000m3城山発電所城山湖と津久井湖を延長1.5kmの水路で結び、この間の落差153mを利用して発電しています。最大出力は25万kwで、これは約12万戸の家庭で使う電気に相当します。発電所は地表から230mの地下室(約1850㎡)に設置された4台の発電機をはじめ、地上の制御所、変電施設等から構成されています。城山発電所透視図城山発電所 形 式 日調整純揚水式 最大出力 25万kw 最大使用水量 192.0m3/s 有効落差 153.0m 年間可能発生電気量 3億7,600万kwh城山湖・本沢ダム周辺図右上写真:建設中の本沢ダム右下写真:完成間近の本沢ダム揚水発電所ってなあに?電気の使われる量は一日のうちで大きく変わります。昼間は工場や事務所などでたくさんの電気が使われ、水力発電所もいっせいに発電をします。しかし、夜になると電気の使われる量は昼間の半分くらいになります。かんたんに止めることのできない火力や原子力発電所では電気が余ってしまいます。そこで、この余った電気を送ってもらい下の津久井湖の水を上の城山湖にくみ上げます。そして昼間再びこの水を利用して発電をします。この発電方法を揚水発電といいます。城山発電所もこの方法で発電していますが城山湖に川から流れ込む水が全くないので純揚水式発電所といいます。お願い:城山湖は、発電のため1日に28mも水位が上下することがあり、危険ですので絶対に 立入禁止区域には入らないでください。本沢ダムを見下ろす。山の法面に「しろやまこ」と。北東方向をズームアップ。高層ビルは八王子駅辺りであろうか。左奥の高層ビル群はどの辺りになるのか。さいたま市か。また中央奥にかすかに見える山は筑波山であろうか。15:35この城山湖には川から流れ込む水が全くない。因みに、江ノ島に流れ込む境川は、県北部の城山湖付近を源として都県境を南下し、相模湾に注ぐ流域面積約211平方キロメートル、延長約52キロメートルの二級河川である。いつか城山発電所の見学をしてみたいものだ。 ー 続く ー
2024.04.20
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引き続き川尻八幡宮の参拝を続ける。3月27日(水) 14:15老朽化で再建が待たれる社務所。この後右側の通路を抜け北側へ進む。境内の北側に広いスペースがあった。立札に「八幡神社 古墳 → 」と。スペースの隅に石碑が建っていた。川尻八幡神社古墳(翁塚)この古墳は昭和四年城山町の神藤一松先生が苦心して発見、掘り出されたものである。河原石を組合せて石室が作られ、室内から直刀三振、小刀二口、宝珠型の鐔(つば)一個、鉄製のヤジリ二〇数本などが出土した。出土品や墓の構造から、奈良時代(八世紀)の様式の墳墓と推定されている。神社の伝説によると「平安時代の初期、舎人(とねり)親王(天武天皇の皇子)の子孫が奥州に下向の際、この地で病に倒れ奉戴(ほうたい)していた石清水八幡宮の御分霊をまつった」という。この墳墓がその墓であろうと伝えられている。 昭和五十七年十月古室は木の柵で囲われていたが立入禁止にはなっていなかった。石室は、崩壊を防ぐため砂が入れられているそうだが、さらに落ち葉が積もっていて、石室の状況は確認できなかった。川尻八幡宮境内遺跡石室(翁塚)出土の直刀類 模型出土したとされる直刀や小刀などの遺物は、散逸して所在がわからなくなっているようですが、古墳の前には「川尻八幡宮境内遺跡石室(扇塚)出土の直刀類模型」と題して、この所在不明の直刀や小刀の竹製のレプリカが公開されている。川尻八幡神社古墳から南方向を望む。広場に「車祓所 川尻八幡宮」があった。社殿下の境内へ戻る。授与所の扉に、「銀杏は皮付きのまま持ち帰えり下さい。境内地を汚して行かないで。神様は見ています」と。現在地に移された「旧一之鳥居」と「燈籠」。鳥居の高さ 360cm、幅 290cm。江戸時代には、一之鳥居から二之鳥居まで東西に伸びる参道が松の並木となっていたことから並木八幡とも呼ばれ、祭礼の日には相撲興行などが催されて、近郷の人たちでおおいに賑わったといわれていますと。旧一之鳥居の扁額「八幡宮」。旧一之鳥居から参道を見る。左側の石燈籠の竿には「明治十四辛己年月」、基壇には「石攻北原祥重」と。”一之鳥居” から県道48号線(鍛冶谷相模原線)沿いに建つ ”二之鳥居” への参道。参道に立つ、川尻八幡宮社務所建築 氏子崇敬者奉賛者御芳名金参百九拾伍萬円也 武内博恵金壱百伍拾萬円也 安西圭市、小坂義和、八木敏夫金壱百拾壱萬円也 川尻八幡宮氏子総代会 柴田正剛金壱百萬円也 (株)エスアール (代)渋谷清心 (株)津久井フォーライフ (代)平本恵美子金伍拾萬円也 今井順子、平田智泉、八木信次金参拾萬円也 ・・・・・・・・・・・ ・・・当初の予算額は5,000万円とあったが目標額に届いているのか。奉賛金額は1口1万円からで何口でも可能ですと。旧一之鳥居を振り返る。社殿に向かって参道左側に建つ石碑には、「社殿修改築寄附者芳名 多くの奉賛者の名前と金額が刻まれていた 昭和五十九年十一月 落成」。社殿に向かって参道右側に建つ石碑には、「一之鳥居再建並拝殿修復寄附者芳名碑 多くの奉賛者の名前と金額が刻まれていた 昭和五拾年拾壱月参拾日 落成」。一之鳥居が現在地に移設された時の奉賛者の芳名碑。注連縄がまかれたこの古木は。県道48号線(鍛冶谷相模原線)沿いに建つ ”二之鳥居” 。鳥居の前の両側の石燈籠には「伊勢屋」と。二之鳥居の扁額「八幡宮」。神社の案内板掲示板に、川尻八幡宮に刻まれた太陽と星の記憶 ~ すべての謎はヤマトタケルに向かう ~ 令和6年2月19日 プラネタリウム解説員 伊藤雄一● 30回目の雨水の日の日の出鑑賞会 平成7年2月19日から始まった「雨水の日の日の出鑑賞会」は、雪の日も曇りの日も欠かす ことなく令和6年2月19日で連続30回目を迎えます。 相模原市での雨水の日の日の出の時刻は6時24分です。● 参道の終点 川尻八幡宮の長さ約1200メートルにおよぶ参道は、障害となる山や川等がないにも関わ らず、一の鳥居から約210メートルの地点で止まっています。参道の終点の位置を地図で 調べたところ、鶴岡八幡宮(鎌倉市)と武蔵御嶽神社(青梅市)を結んだラインと接する地点 で止まっていることがわかりました。 武蔵御嶽神社はヤマトタケルと縁が深い神社で、鎌倉武士から篤く崇敬されていました。 「坂東武者の鑑」と称えられた畠山重忠(秩父平氏)が大鎧を奉納したことで知られています。 ※ 鶴岡八幡宮(八幡神)と武蔵御嶽神社(ヤマトタケル)を結ぶ関係が見られる。● 隠された北斗七星 相模原市の境川周辺の七つの神社を結ぶと、北斗七星とよく似た形になります。ひしゃく の柄の先に当たる川尻八幡宮を起点とすると、終点は中央区上矢部の御嶽神社です。 御嶽神社は市内でも珍しい「湯花神事」が行われ、祭神はヤマトタケルです。 北斗七星のデザインには、しばしば「剣」の意味が込められています。 ※ 川尻八幡宮(八幡神)と御嶽神社(ヤマトタケル)を結ぶ関係が見られる。● 八幡神は星と繋がる 平安時代以前に創建されたいくつかの八幡系の神社には、北斗星や北斗七星を神格化した 妙見信仰のある場所と川尻八幡宮の参道と同じ角度(東西軸に対して15度よりわずかに浅 い)で結ばれる位置関係にあることがわかりました。代表的なものとして、能勢妙見山 ⇔ 石清水八幡宮、妙見岬(福岡市西区小戸) ⇔ 筥崎宮、妙見山(福岡市西区西浦) ⇔ 宝満山、 都内では妙見山(日の出町) ⇔ 金王八幡宮(渋谷区)があります。 この関係をアレンジしたものとして、東大寺大仏殿 ⇔ 手向山八幡宮、御岳山(青梅市) ⇔ 大宮八幡宮(杉並区)、高尾山 ⇔ 畠山重忠屋敷(町田市小山町片所)、創建時の江戸城天守 ⇔ 富賀岡八幡宮 (江東区)にもこの関係が見られます。 ※ 高尾山も周囲の神社や史跡との位置関係から妙見信仰やヤマトタケルと関係があると 考えられる。県道沿いに建つ社号標石の「川尻八幡宮」と「伊勢屋奉納の石燈籠」。右側に広い駐車場があったのでここまで車で来ればよかったのだが。駐車場入口に古木。川尻八幡宮創建は大永五年(1525年)と伝えられ、戦国時代小田原北条氏が武蔵・相模に勢力をのばしていたころのことです。祭神は応神天皇。江戸時代には南東にのびる参道に松の並木があったことから、並木八幡と呼ばれ、祭札には湯ばな・相撲興行などが催され、近隣の人たちでおおいににぎわったといわれています。境内には、古墳の石室(七世紀前半の古墳)もあり、古代より鎮守の森とともに、神の宿る聖域として村人の信仰の場として今日に伝えられています。なお、本殿は宝暦十年(1760年)の再建で、この地域で最も古い木造建築です。また、境内には八坂神社、春日神社、金刀比羅宮、天満宮などが祀られておりますが、明治四十二年(1909年)の合祀令により統合されたものです。 平成十七年三月 城山町教育委員会川尻八幡宮の参拝を終え、かたくりの里の駐車場へ戻ることに。県道沿いの川尻八幡宮の駐車場入口に「↑ P かたくりの里」の看板。道路の向かい側に庚申塔と道祖神。ズームアップ。歩行者用の道案内「 ← 徒歩7分」。広い民家の庭先に板で囲った花壇であろうか。よく見ると野菜も植えられており収穫しやすいのでグランドレベルより20センチほど嵩上げ。民家の片隅に石碑。右側の石柱は欠けて補修されていたが「竹本仲儀太夫之碑」と。側面には「明治三十?年十月建之」。竹本義太夫をネットで調べると「江戸時代の浄瑠璃語り、義太夫節浄瑠璃の創始者」であると。ここ川尻との関連は?。住宅街を抜け、”城山かたくりの里” へ。城山かたくりの里の「おみやげ広場」。地元野菜、饅頭、弁当等が販売されていたがこの時間には弁当は完売。日本かたくり、雪割草等の販売も。”日本かたくり”、”紅ミツマタ”はそれぞれ1500円と高価。雪割草は700円。古い蔵が現存しており何か展示しているようだったが「休館」の札がぶら下がっていた。。裏の駐車場は満車状態。駐車場脇に咲いていた ”陽光桜” 。 14:45約4時間の城山かたくりの里、川尻八幡宮の散策を終え次の場所へ行くことに。 ー 続く ー
2024.04.19
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川尻八幡宮、境内社の参拝を続ける。3月27日(水) 14:00拝殿の左側に建つ境内社。手前に「稲荷社」、左に「天満宮」。稲荷社 ご祭神は、宇迦能御魂神左側の狛犬の狐。社の中には四つの石祠。天満宮 ご祭神は、菅原道真。社の前には合格を祈願した絵馬が掛けられていた。拝殿の南西方向奥にも境内社が2社。祖霊社 先祖の霊が祀られている。不動明王堂 拝殿前に建つ石燈籠、歌碑。歌碑には「扇塚」と。「扇は帰る人の 道を開き 要は私を持って 舞ふ人の 心を成る 秀斎」。昭和四十六年奉納の石燈籠。左前方から社殿を見る。拝殿の前に聳える御神木。立札には「御神木 椎の木 樹齢五百年以上」と。根元が朽ち添木で支えられた御神木を見上げる。拝殿には太い注連縄。曲線美の海老虹梁は一本ものであろう。左前方から見上げる。拝殿前の立札には、合祀された各社の祭神名が、春日神社 天児屋根命、斎主命、武甕追命、比売命八 幡 宮 応神天皇八坂神社 素戔嗚命 厳島神社 市杵島姫命、田心姫命、端津姫命金刀比羅宮 大物主神 社宮神社稲荷神社 宇迦能御魂神御嶽神社 日本武尊 天満宮 菅原道真不動明王拝殿とつながる幣殿、本殿。本殿の八坂神社。本殿の裏側は綺麗に整備されていた。本殿裏から「金毘羅社」を望む。本殿の春日神社。相模原市登録有形文化財(建造物)川尻八幡宮本殿川尻八幡宮本殿は一間社流造、桁行六尺(1.84m)で、一般の一間社よりやや横長な平面を持っています。屋根正面には千鳥破風(ちどりはふ)を置き、向拝には軒唐破風(のきからはふ)を設けています。建立年代は十八世紀中期と推定されます。川尻八幡宮の春日神社本殿春日神社本殿は、桁行四.三尺(1.3m)の中型社殿で、下川尻村の鎮守社でしたが、明治期に合祀されました。流造でありながら正面に千鳥破風をつけ、向拝の屋根幅を狭めるなど、春日造を意図しています。建立年代は十八世紀中期と推定されます。 ※ 両本殿は非公開になっています。 ※ 両本殿は平成十八年に旧城山町の指定文化財となり、合併により相模原市登録文化財とな りました。 登録年月日 平成二十年四月一日 相模原市教育委員会川尻八幡宮右側に建つ「金刀比羅宮」。扁額には「金毘羅社」と。神輿庫中には4基の神輿が祀られている。毎年8月27日の神幸祭では全9地区を1日かけて担ぎまわる。施錠されていたが中が撮影できるようにか、施錠のためであろう2枚のガラスが取られていた。そののぞき窓からカメラを入れ撮影。正面の神輿。右側に2基。左側に1基納められていた。神輿庫の右奥、境内の西側は森になっており、その中に注連縄で祀られた木が聳えていた。木の根元に立札。津久井の名木 ホソバタブ科 目 くすのき科タブノキ属樹 高 30メートル樹 齢 推定 450年特 徴 暖地の山地に自生する常緑高木。高さ 10 ~ 15メートルになる。 材は、軽く柔らかで、家具、建築などに用いられる。所在地 城山町川尻4171管理者 川尻八幡宮 (財)かながわトラストみどり財団 津久井地区推進協議会 城 山 町 平成十三年三月設置ホソバタブの葉川尻八幡宮の本殿方向の森。根元から4~5メートル程シートで覆われ保護されていた。川尻八幡宮の北側。立札に「八幡神社古墳 当宮パワースポット」と。神輿庫前から、南方向に川尻八幡宮が建つ。川尻八幡宮の拝殿前へ戻る。14:15拝殿前から階段下の境内を見下ろす。正面に旧一之鳥居。 ー 続く ー
2024.04.18
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城山かたくりの里で約2時間半の散策を楽しみ、近くにある「川尻八幡宮」へ歩いていく事に。3月27日(水) 13:30入口には「お帰りの案内板」。城山かたくりの里の出入口。まだこの時間でも次から次と来ておられた。出入口にこの日の開花状況。毎日担当の方が修正しておられる案内板。黄花かたくりは日本かたくり(紫色)のあとに咲き見頃は4月上旬です。出入口を振り返る。崩れ落ちた物置の ”土壁” 。土壁は日本で古くから利用されてきた壁のひとつで、土に藁や砂を混ぜて水で練ったものを塗り固めた壁のこと。起源は正確に分かっていないようだが、江戸時代にはお城や蔵、一般住居まで広く使われていた。今でも、古い町並みを残す地域では土壁がよく見られる。城山かたくりの里にも掲示されていた「うどんの里山」案内板。AM11:00 ~ PM4:00 毎月曜日定休日メニューの看板も生姜が香る魚介出汁大根おろし入り 中華そば ¥950 ~中華とインドの融合 スパイス麻婆カレー ¥1100 13:40脇道に入り直進すると「うどんのさと山」。休憩がてら寄ろうと思ったが道路脇に、「品切れごめんなさい」と。人気店で平日に行った方が良いとの書き込みがあったが、PM4:00まで営業にもかかわらずこの時間に品切れとは。仕方がなく緩い坂道を上り「川尻八幡宮」へ向かう。北方向に見えるのは「都営武蔵岡アパート」。下の広場は ”相模原市立城山ふれあい広場”。野球、サッカーはできないと。竹林の手前に「うどんのさと山」がある。竹林の手前に朱色の鳥居。ここより北側に「稲荷社」があったようだが。丘を越え南東方向に見える高層ビル群はJR橋本駅辺りであろうか。下の建物は、”相模原市城山保健福祉センター”。相模原市城山保健福祉センターの裏に広場があり多くの石碑が建っていた。敷地内には4基の石碑が建っていた。右側から「表忠碑」、「殉○○霊碑」、「○○○霊碑」、「表忠碑の裏面の上段に、明治三十七八年戦役殉難者下段には、明治十年西南役従軍者 明治二十七八年戦役従軍者 明治二十七八・三十七八年戦役従軍者 の氏名が刻まれていた。明治三十七八年戦役殉難者 陸軍三等正八位・軍醫勲六等 竹越 玲 歩兵一等卒勲八等・功七級 田中熊次郎 同 勲八等 神藤伸次郎 輜重輸卒 押田文七二基の石碑の裏側、左側は「殉○○霊碑」、右側は「○○○霊碑」。左側の表には「殉○○霊碑」。裏面には、「○○○」、日露戦争、日支事変、大東亜戦争の氏名、階級が刻まれていた。 昭和二十八年三月二十一日右側の表には「〇○○霊碑」。裏側には「○○○」、 西南役、日露戦争、支那事変、大東亜戦争の氏名、階級が刻まれていた。 昭和三十一年十月十八日城山町建之表は苔むして判読できなかった。裏面の建之年月から大正十二年に発生した関東大震災関連であろう。裏側には、大正十四年三月建之川尻八幡宮所在地:神奈川県相模原市緑区川尻 4171石碑群の北側にある川尻八幡宮境内へ入り左上に社殿が建つ。川尻八幡宮は、上川尻及び下川尻両村の鎮守社で、広大な境内を有する神社である。この建物は何であった。境内に入ると正面に「社務所」。現在の社務所は、昭和初期に建築されたもので老朽化が激しく使用が困難な状況になっている。このため、来年4月までの完成を目指している。当初の予算額は5,000万円。社務所の建築、設計、管理監督料、給排水設備工事、電気設備工事などが含まれる。奉賛金額は1口1万円からで何口でも可能ですと。右側から入って来たが、神楽殿であろうか。左は移設された”旧一之鳥居”。創建500年 令和7年(2025年)記念事業ご奉賛のお願い当宮の創建は室町時代大永5年5月5日(1525年)勧請。境内樹木が物語っている様に永い歴史をもった地域の神社であり、鎮守の杜であります。平成から令和の時代に入り、令和7年(2025年)には500年という佳節の年を迎へるに当り社務所・神社会館又境内整備事業をを計画、ここに建設委員会を立上げ準備段階に入っております。既に社務所・神社会館の老朽化は著しく経過しており、時代の変化と共に新時代に相応した建物、境内地として次世代に真の地域の伝統文化を伝達する事が出来たらと思っております。氏子、崇敬者の皆様には何卒、趣旨をご理解の上、ご支援ご協力の程宜しくお願い申しあげます。 川尻八幡宮建設委員会● 境内神社の神様 この鎮守の森は明治四十二年十一月、国家管理のもと神社整備という形で、神社合祀が行 われ、近隣地域(旧川尻村)の各々神社が地域の中央に位置し条件の良いこの八幡宮の地に 合わせ祀られたといわれています。● 合祀された神社(神様)は次の通りです。 春日神社(城北) 琴平宮「金刀比羅宮」(小松) 天満宮 (町屋) 社宮神社(町屋) 御岳神社(町屋) 祖霊社 (町屋) 稲荷神社(向原) 不動明王(向原) 八坂神社(谷ヶ原) 厳島神社(城北)社殿に向かって左下の境内に3基の石碑。中央に「頌徳碑」、左には「一金五拾圓也 奉賛者氏名住所」、右にも奉賛者氏名。社務所の前に手水舎。その奥に「古御札 納所」。社 殿御祭神 応神天皇 (誉田別命) 第15代天皇由 緒 創建は大永五年五月五日(1525年)。伝承では、舎人親王の子孫が奥州に下る途次、病 に倒れ亡くなられた為、共の者がこれを悲しみこの地に手厚く葬りました。その時護 持していた石清水八幡宮の御分霊を御神体として祠に建てお祀りしたのが、今の川尻 八幡宮であるとされています。例祭日 八月二十六日 神幸祭 (令和五年に限る) 八月二十八日 例大祭社殿右前に聳えるスギの木。川尻八幡宮社殿拝殿の扁額「川尻八幡宮」。拝殿には多くの千社札が貼られていた。右側の狛犬、阿形像。左側の狛犬、吽形像。板碑には「川尻八幡宮」と。拝殿前の立札には、各社の祭神名が、春日神社 天児屋根命、斎主命、武甕追命、比売命八 幡 宮 応神天皇八坂神社 素戔嗚命 等々。 ー 続く ー
2024.04.17
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引き続き「城山かたくりの里」のかたくり、山野草、花木を楽しむ。3月27日(水) 13:00工房ゆう (陶芸)城山かたくりの里の花マップに記載されているエリア「15」に「キブシ」が咲いていた。キブシ (木五倍子)キブシは、キブシ科キブシ属に属する雌雄異株の落葉低木。山地に生える。別名、キフジ、コメブシともいう。和名は果実をヌルデの虫えいでつくる五倍子の代用品として、黒色の染料に用いたことから名付けられている。また、花穂がフジの花に似ていることから「藤」となり、転訛したという説もある。近くにいたご婦人が「舞妓さんのかんざしのようだ」と。黄花かたくり (黄花片栗)ユリ科カタクリ属、開花期は3月~5月。別名、西洋カタクリ、洋種カタクリ。分布は、北米の亜高山帯の山地に自生、日本へは園芸用に渡来した。二株あったが片方が一輪咲いていた。開花期は紫色に比べ遅く4月に咲く。黄花かたくりの花言葉は、上品、私だけを見て、嫉妬。花の形はカタクリとよく似ているが、茎が長めで背丈が30~40㎝になる。キバナカタクリも開花後1ヶ月程度で葉が枯れてきて長い休眠期に入るといったサイクルを有するということで、春の妖精の仲間になると。紫色の日本かたくりも負けじと咲いていた。工房ゆう (陶芸)陶芸体験が、2024年5月25日から12月1日予定で「いちから」できると。工房内ではセンスのあるお皿やお椀、織物などが販売されていた。ストーブは薪で。工房内から城山市街地を見下ろす。お皿にはいろんな花を浮かべ水盤。工房ゆうの東側は傾斜地になっており、御殿場桜、ほうき桃等が植えられているのだが今年は開花には早かった。ベンチも用意されており市街地を見下ろしながら休憩もできる。ほうき桃が咲いていると最高なのだが。工房ゆう(陶芸)の隣にある ”UNI・MAR CAFE” 。店内では雪割草の販売もしていた。”UNI・MAR CAFE” にはテラス席もあり、散策後はコーヒーを飲みながらいっぷく。外のベンチでもコーヒーを飲める。ショウジョウバカマとかたくりの競演。かたくりをズームアップCanon EOS 70D、100mm、f/5.6、1/160、ISO400。露出調整、縦にトリミング。”ヒダカソウ” と ”大岩うちわ” のネームプレート。大岩うちわ (大岩団扇)イワウメ科 イワウチワ属で日本固有種である。岩場に多く、葉がまるくてうちわのような形なのでこの名がある。高さ3~10センチの花茎の先に淡紅色の花を横向きに一個つける。”日本かたくり群生地” 下には多くのカメラマンが三脚をセットして撮影。皆さん一眼レフに望遠レンズを装着して座り込んで撮影。女性の方には雨合羽のズボンを着て座り込む人も。私は膝当てをしていたので膝をつけ撮影。Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO2500雨やくもりの寒い日は花は開かず、うつむいたままだと。Canon EOS 70D、87mm、f/5.6、1/160、ISO400Canon EOS 70D、87mm、f/5.6、1/125、ISO400日本かたくり群生地に咲き誇るかたくり。開花してから一週間は持つというかたくり。膝元には ”アズマイチゲ” のネームプレートがあったが、雪割草が咲いていた。雪割草場所を変えて撮影。Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO800Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO400。縦にトリミング。Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO400三脚がないので手振れに注意しながら最大望遠の300mmで撮影。Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO400白の ”いちげ?” との競演。この花は?。Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO500逆光に映えるかたくり。Canon EOS 70D、110mm、f/6.3、1/160、ISO4160遊歩道から ”日本かたくり群生地” を見上げて撮影。腰に悪い姿勢で撮影するので老人にはきつい。斜面に「白花かたくり」のネームプレート。白花と紫色の競演。”白花かたくり” は突然変異で咲く大変珍しいものだと。双子の如くに咲くかたくり。雪割草との競演。おばゆりと小野小町 ・・・・・津久井郡城山・・・・・むかし、津久井郡城山町川尻の小野という村に、ある日とても上品なおばあさんがやってきて、そこがたいへん気にいったのか、やがて住みついたということです。年のころは五十歳前後で、どこから、どうやってきたのか、村の人たちはだれも知りませんでした。村人たちが、根ほり葉ほりして、おばあさんたずねましたが、おばあさんは、「わたしは西国の生まれなのです。」といって、にこにこわらうだけで、それ以上のことはなにもわかりませんでした。おばあさんは近所の家の手伝いなどし、親切な村人たちの助けを受けてくらしていました。ところがちょっとした病気がもとで、ねこむようになってしまいました。村人たちは、一人ぐらしのおばあさんに、毎日、食べ物などを運んでやってめんどうをみていました。ある日、村人の一人がいつものように食べ物を持っていくと、おばあさんのすがたが見えません。そこで近くをさがすと、おばあさんはカキの木の下で息をひきとっていました。村人たちは、この上品でやさしいおばあさんが死んだのを悲しみ、手あつくほうむってやりました。すると、その後、このあたり一帯にめずらしいカタクリ草が生えるようになり、春先になるとそれはみごとに花を咲かせました。村人たちは「この花は、きっとあのおばあさんの生まれかわりにちがいない。」といって、だれいうとなく、その花を「おばゆり」というようになりました。それからしばらくして、このおばあさんは、あの美人で有名な小野小町だったといううわさが都から伝わり、村人たちも、そうだったのかといまさらのようにおばあさんをなつかしく思いました。そしてそれ以来、この地を小野とよぶようになりました。また「おばゆり」でなく「おばいろ」とよぶのだという話もありますが、小野小町にふさわしく、今でも春になると、まるで小野小町の生まれかわりのように、カタクリの花がそれはみごとにさくということです。 採集・杢代 勝 再話・佐藤 英夫13:30約2時間半の散策を終え入口へ。今回は開花が遅かったようでほうき桃(花桃)も見れず残念であった。 ー 続く ー
2024.04.16
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引き続き「城山かたくりの里」のかたくり、山野草、花木を楽しむ。3月27日(水) 12:15雪割草を代表する種類の「オオミスミソウ (大三角草)」であろうか。かたくりの中で可憐に咲いている花である。桜玄海つつじ本州の岡山~九州の日当たりの良い岩場などに自生する樹木である。また、ゲンカイツツジが玄界灘に接する地域に自生し、サクラの花に似るということからサクラゲンカイツツジの名で呼ばれる。ゲンカイツツジと同じく、ツツジの仲間の中で最も早く花を咲かせる。八重菊咲いちげキンポウゲ科イチリンソウ属、開花期は3 ~ 4月。早春を彩る山野草キクザキイチゲには様々な変種が発見されている。こちらは佐渡で発見された、純白で非常に花弁数の多い個体である。開きかけのときは千重咲と見間違えるほどの弁数で非常に美しい個体。純白の花をズームアップ。同じような純白な花は ”菊咲いちげ” であろうか。ズームアップ。”アネモネ” であったか土佐水木 (とさみずき)トサミズキは葉が出るよりも先に、3月下旬から4月に、5~7個の丸みのある黄白色の小花が連なり花序になって下垂する。ミツバチも蜜を求めて紅みつまた城山かたくりの里の最高地に水道局の配水池がある。石碑には「小松配水池 神奈川県企業庁水道局」と。左側の機器に「自動水質測定装置」のネームプレートが付いていた。城山かたくりの里からは立ち入り禁止に。石碑には「県営上水道通水記念 城山町長小磯武二書」と。今年は暖冬であったが、この辺りの開花は遅れているようであった。木の枝に「陽光桜」のネームプレート。ヨウコウ (陽光)) は日本原産の交雑種のサクラで、愛媛県に在住していた高岡正明氏がアマギヨシノ(天城吉野)とカンヒザクラ(寒緋桜)を交雑させて作出した栽培品種である。別名「陽光桜」で、1981年に種苗法により登録された。満開前の ”陽光桜” を見上げる。駐車場脇に咲いていた陽光桜は既に満開を過ぎていたが。陽光桜は鮮やかな紅紫色で一重咲き、大輪の花を下向きに咲かせます。花付きが良く、大きく成長すると大変美しく見応えがある。満開の数輪をズームアップ。高台に咲く陽光桜を見ながらベンチに座り持参したパンを食べる。こちらのサクラも満開前。根元にネームプレートが立っていた。ネームプレートには「岐阜県根尾 うすずみ桜」と。”根尾のうすずみ桜(薄墨桜)” は、日本三大桜として有名である。因みに日本三大桜は、① 山高神代桜(山梨県北杜市)、② 三春滝桜(福島県田村郡)③ 根尾谷薄墨桜(岐阜県本巣市)で、③のみに行っていないので今年行きたいと。木を見上げるとチラホラと開花。ズームアップ。枝によっては開花の進んだものも。タイワンドウダンツツジ敷地内に一本のみ咲いており木の周りには高齢の女性が一眼レフを持ち撮影。ドウダンツツジは白い花をつけるが。ピンク色の小さなシャンデリアのようだと。ズームアップ。さんしゅゆサンシュユは、ミズキ科ミズキ属の落葉小高木。中国原産で、春先に葉が出る前に黄色い花を咲かせ、秋にグミに似た赤い実をつける。別名でハルコガネバナ、アキサンゴ、ヤマグミとも呼ばれる。季語は春。庭園樹や公園樹として多く植栽されている。果実は漢方に使われる。さんしゅゆの花をズームアップ。トンネルの先には多くの人が休憩中。黄色の花が咲くトンネル。高台から下る。以前は高台に ”ほうき桃 (ハナモモ)” があったのだが。下の段から中央に ”うすずみ桜” を見上げる。ズームアップ。斜面には枯れた木。その朽ちた木に苔が生えていた。斜面には新しい樹々が植えられていたがネームプレートはなかった。その一角に「ひとりしずか」が植えられていた。ヒトリシズカ(一人静)は、センリョウ科チャラン属に属する多年草の1種である。茎の先端付近に4枚の葉が輪生状につき、中央から白いブラシ状の花序が1本伸びる。花は花被を欠き、3本の雄しべが白く目立つ。日本を含む東アジア北部に分布する。上から撮影。カメラ目線を地面に下げる。ブラシ状の花序をズームアップ。斜面には ”ふきのとう” が芽吹いていた。春めき桜2000年3月に品種登録されたサクラの品種。南足柄市発祥であり、別名「足柄桜」と呼ばれている。 カンヒザクラとシナミザクラの交雑種とされている。花は一重咲きで、淡紫ピンクに紫ピンクのぼかしが入ったような色をしている。開花期は3月頃で、花の香りが強いことも特徴である。春めき桜をズームアップ。発祥の南足柄は今年3月21日(木)に訪れ楽しんだばかりだが各地へ広げているようだ。13:00サクラの下に紫色のダイコンの花。ズームアップ。 ー 続く ー
2024.04.15
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引き続き「城山かたくりの里」のかたくり、山野草、花木を楽しむ。3月27日(水) 11:40傾斜地にある ”日本かたくり群生地” を下から見上げる。イナバウアーの如く反り返るかたくり。Canon EOS 70D、100mm、f/5.6、1/125、ISO640雪割草Canon EOS 70D、100mm、f/6.3、1/160、ISO100上記一部をトリミングCanon EOS 70D、100mm、f/6.3、1/160、ISO100日向オオレンキンポウゲ科:オウレン属和名:ヒュウガオウレン(日向黄連)、原産地:宮崎県・鹿児島県名前のとおり「日向の国」の山地に自生、両県とも絶滅危惧種に指定している。早春、花茎の先に一個の花をつける。草丈8cm、花の直径1.5cmである。雪割草Canon EOS 70D、300mm、f/6.3、1/400、ISO1000日本かたくり群生地の周りには多くの老若男女のカメラマンが座り込み撮影。ショウジョウバカマ所々に咲いている ”ショウジョウバカマ”。花の直径が1.0cmと可憐な花であったが。ネームプレートがなく花名が不祥ながらズームアップ。白いツツジこちらもネームプレートがなく花名が不祥ながらズームアップ。キクザキイチゲ (菊咲一華)キクザキイチゲは、キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。キクザキイチリンソウ(菊咲一輪草)とも呼ばれる。花期は3~5月で、白色~紫色の花弁状の萼片を持つ花を一輪つける。花弁はない。ズームアップ。キクに似た花を一輪つけることからこの名がついた。いろんな色の雪割草が咲いていた。それぞれ花の種類があるのであろうがネームプレートがなかった。ネットで調べると総称してユキワリソウ(雪割草)と呼ばれますが、オオミスミソウ(大三角草)、ミスミソウ(三角草)、スハマソウ(州浜草)、ケスハマソウ(毛州浜草)とがあり、自生地や花色、葉など、厳密には4種類に区別されています。園芸店に入る雪割草は、オオミスミソウ(大三角草)がほとんどであると。ここの園の開花情報でも「オオミスミソウ (大三角草)」と書かれていた。自生しているものもあったが中には移植されたものも。中段の”日本かたくり群生地”を見下ろす。多くの方が座り込んで撮影。撮影者をズームアップ。ここにもショウジョウバカマが咲いていた。”白花かたくり” のネームプレートがあったのだが。まだ白花は開花前か紫色のみが咲いていた。菊咲いちげ先程は「キクザキイチゲ」とカタカナで書かれていた。キクザキイチゲは白色~紫色の花弁状の萼片を持つ花を一輪つけ、白色が咲いていた。紫色のキクザキイチゲ。”みつばつつじ”も満開に。坂道の遊歩道を上ると、工房ゆう(陶芸)の一角に ”UNI・MAR CAFE” がオープンしていた。”UNI・MAR CAFE” の隣に写真館。いろんな写真が展示されていた。左:黄花カタクリ、右:カタクリとショウジョウバカマ隣の ”UNI・MAR CAFE” からコーヒのいい香りがしていた。豆を挽く音も、オーダーごとに挽いてくれる本格的なカフェであったのだが。西洋・オキナ草キンポウゲ科に属する顕花植物の一種で、ヨーロッパの石灰質草原で地元で見られ、庭で広く栽培されている。それは密接に関連しているアネモネ属の一部と見なされている。アネモネに似た ”セイヨウオキナグサ” 。ズームアップ。ヒダカソウ (日高草)ヒダカソウはキンポウゲ科キタダケソウ属の多年草。高山植物である。分布は、北海道日高山脈南部のアポイ岳に特産する固有種で、かんらん岩・蛇紋岩等のアルカリ性土壌の草地に生育する。移植されたのであろうか。花茎の高さは10~25cmで、先端に直径約2cmの白い花をつける。萼片は5枚あり、さらに8~12枚の花弁がある。花期は5~6月。葉が展開するよりも先に開花。Canon EOS 70D、73mm、f/5、1/100、ISO125 をトリミング。斜面に咲く雪割草。可憐な雪割草である。タッタ草 (竜田草)タツタソウは日本では、古くから春の山野草として親しまれ、たいへん人気がある植物です。野生のものは中国東北部や朝鮮半島北部に見られ、主に山地の明るい林床に生える、東アジアの野草である。メギ科、タツタソウ属の落葉性多年草。草丈は20~30cmほどで開花期は3~4月ごろ。雪割草であったか。開花前の ”黄花かたくり” であろうか。いろんな色の雪割草の群生。ズームアップ。ズームアップ。12:15シュンラン (春蘭)シュンランは、単子葉植物ラン科シュンラン属の蘭で、土壌中に根を広げる地生蘭の代表的なものでもある。名称の由来は「春蘭」で、春に咲くことからついた。この仲間は古くから東洋ランと呼ばれ、名花・秀花の選別も多く行われ、古典園芸植物としても親しまれている。 ー 続く ー
2024.04.14
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茅ヶ崎市出身の俳優・歌手で昨年、名誉市民に決定した加山雄三氏のモニュメント(銅像)の除幕式が、同氏の87歳の誕生日に合わせて市役所前広場で開催された。タウンニュース 茅ヶ崎版 2024年4月5日(金)号銅像製作は、加山氏がこれまで茅ヶ崎に残してきた功績をたたえ未来につなげていこうと、茅ヶ崎商工会議所が中心となり、加山氏の賛同と茅ヶ崎市の協力を得てプロジェクトがスタートした。2022年12月から昨年2月にかけ、クラウドファンディングを通じて全国から支援が集まり、目標額の1,500万円達成。銅像は半年余りをかけて完成した。設置場所は当初海岸であったが、潮風等による劣化を考慮し市役所前広場に決定した。除幕式には加山氏のほか、クラウドファンディングの出資者らが出席。式典開始は午後2時。併せて開催される名誉市民証贈呈式では、茅ヶ崎市民文化会館入口に展示される加山氏の肖像画も披露される。4月7日(日) 14:00既に加山雄三氏のモニュメント(銅像)は設置されていたがビニールシートで覆われていた。4月11日(木) 13:00第一カッターきいろ公園(中央公園)北側のサクラ並木。ソメイヨシノは満開を過ぎ路面には花びら。見上げるとまだ花は残っていた。茅ヶ崎中央通りの第一カッターきいろ公園(中央公園)入口。こちらのオオシマザクラは満開に。式典会場の市役所前広場には多くの人が待機。上の橋は茅ヶ崎市民文化会館への連絡通路。手前は茅ヶ崎中央通り。式典会場の周りにも既に多くの人が待機していた。茅ヶ崎FMがスタジオからこの広場が見えるので昼前から人出状況を放送していた。式典会場にはテントも張られていた。モニュメント(銅像)と肖像画は白い幕で覆われていた。橋の上から下がよく見えるので最高なのだが規制されていた。右から、東横イン、市役所別館、本庁舎。東横イン前の平屋には茅ヶ崎カフェ、茅ヶ崎FMが入居している。撮影場所をどこにするか下見で動き回る。茅ヶ崎市民文化会館への連絡通路は規制されていたので他の場所を探す。茅ヶ崎駅から国道1号の地下通路を抜け市役所前広場。階段を上ると茅ヶ崎市民文化会館へ。市役所への入り口にある ”旧寛永寺石燈籠 四基” 。ここのソメイヨシノも満開を過ぎていた。テントには「支援者受付」と。クラウドファンディングで一口3万円を支援した方の受付。来賓受付は「東横インの前です」と。茅ヶ崎中央通り沿いの通路へ移動。柵があり一般の方は柵の外から。モニュメント前には来賓者の椅子が用意されていた。この後このエリアにクラウドファンディングの支援者が入って来られた。多くの人が並ぶので見れないだろうと移動することに。式典に参加する小学生は椅子席に。式典開始まで40分前だが既に佐藤市長も。式典司会は茅ヶ崎FMのパーソナリティー杉山玲子さん。式典会場の北側へ移動。多くの人が集まって来た。係員の方が「加山氏はここまで車で来られるので下がって下さい」と。13:50暫くすると市役所の本庁舎方向から白い車が式典会場近くへ。茅ヶ崎カフェには多くの人が。式典会場の西側へ移動。既にテントの中には加山雄三氏の顔が。手を振る高齢のファン。望遠でズームアップ。テントの下には元気な顔が。この後、前の人が前へ移動したため見えなくなり、他の方が「座ってくれ」と言うが効果がなく。仕方がなく移動することに。14:00時間になり式典が始まる。茅ヶ崎のキャラクターえぼし麻呂も参加。茅ヶ崎市民文化会館への連絡通路上に多くの人がいたので立ち止まりテント内を撮影。係員の方が「止まらないで下さい」と言うが。ズームアップ。亀井商工会議所会頭に次いで、佐藤市長の挨拶。加山雄三氏の挨拶。茅ヶ崎市民文化会館への連絡通路上には多くのファン。この頃には係員の方も「立ち止まらないで下さい」と言っても効果がないのでお手上げ状態に。最初から連絡通路への立ち入りは禁止にしないとと思うが。後方のファンの方から「若大将360度廻ってヨ」の声に加山氏も。最後は両手を挙げて「このような誕生祝い、ありがとうございました」と。いよいよ除幕式。加山氏、佐藤市長、商工会議所会長、他一名が引き綱を持つ。14:20金色のモニュメントが現れる。この像を見て加山氏は「加山金三だ!」と言ったと、茅ヶ崎FMで紹介。小学生は肖像画の除幕式に参加。撮影場所を移動して連絡通路上から撮影。最初からこの場所におればよかったのだが正直者は・・・。モニュメントの基盤に支援者の名前が彫られている。右側に市民文化会館に展示される肖像画。像をバックに小学生と加山氏との記念写真。来賓者の記念写真。最後は、クラウドファンディングの支援者との記念写真。加山氏も入り、連絡通路にいるカメラマンを見上げる。加山氏、亀井商工会議所会頭をズームアップ。前にいる親父さんは目立つ姿で「祝 87th I ❤ ゆうぞう」のプラカードを持ち。この親父さんは最後まで目立っていたが。14:36式典が終わり加山氏は退場。近くまで迎えの車が来る。人混みに囲まれながら車へ。多くの人が見送る。この後別会場でサイン会があった。クラウドファンディングの女性で一番乗りであった。手には短い横断幕を数名で持ち、加山氏の歌を合唱して見送っていた。報道関係者も、この女性達といつの間にか目立つ親父さんも撮影していた。式典が終わり支援者に配っていた資料を頂く。加山氏の挨拶僕の故郷・茅ヶ崎に銅像が建つと聞いた時、ものすごく驚きました。まさか自分の銅像が建つなんて・・・長いこと生きているとびっくりするようなことがあるもんですね。しかも87歳の誕生日である4月11日にお披露目できるなんて、こんなに嬉しい誕生日プレゼントはありません。クラウドファンディングでご寄付いただいた支援者の皆様、建立にあたりご尽力いただいた商工会議所の皆様、銅像をご作成いただいた宇野様、そして茅ヶ崎市民の皆様、本当にありがとうございました。感謝の気持ちでいっぱいです。これから何十年・何百年先も、この銅像が茅ヶ崎の街を見守っていってくれることを願います。そして音楽の街・茅ヶ崎と共にたくさんの方々に愛される銅像になってくれたら嬉しいです。 加山雄三ご協賛者数 個 人 515名 事業者 47者 商工会議所 15所この日の茅ヶ崎FMの放送では、支援金は 1,938万円集まったと。裏面には、音楽のまち 茅ヶ崎の記念すべき日 茅ヶ崎商工会議所会頭 亀井 信幸加山雄三さんモニュメントの制作にあたって 宇野 務モニュメントの前には多くの人がスマホを掲げて撮影。茅ヶ崎FMのスタジオにも加山雄三氏のジャケット。スタジオの中から銅像の背後が見えると。市役所前広場。別館に掲げられた幕。幕には「47年ぶり名誉市民に決定 加山雄三様」と。モニュメントを後方から。いつの日かもう一つ増えるのであろう。今日一番目だった親父さん。高齢のおばさんも自撮りで撮影。モニュメント前では往年の女性ファンが記念写真。若い女性達も。肖像画が展示される茅ヶ崎市民文化会館へ。加山氏の肖像画が展示される場所を確認に訪れた。併せて、5月12日(日)の「茅ヶ崎交響楽団/第81回定期演奏会」のチケットを購入した。1階フロアーには今まで受賞された4名の名誉市民の肖像画が展示されている。一番手前が空いていたのでここへ展示されるようだ。2番目に「添田 良信 (昭和51年3月26日議決)」3番目に「小山 敬三 (昭和51年3月26日議決)」今までの方の肖像画は奥側に。5番目に「牧野 英一 (昭和41年3月11日議決)」4番目に「磯崎 貞序 (昭和51年3月26日議決)」ここから2枚の写真は翌日の4月12日(金) 13:40に撮影。一番手前に展示されていた。肖像画の下に「加山 雄三 (令和5年9月1日議決)」名前の下に来歴等の説明があるのだがまだ未展示であった。15:10式典を終え家路につく。開催者の発表では3,000人が集まったとのことであったがまだ多かったのでは。今後この ”加山雄三氏のモニュメント(銅像)” も新しい市の観光スポットになるのであろうか。加山雄三氏関連のものは、 ① 駅北口ペデストリアンデッキにある ”手形” ② 市役所前広場にある ”モニュメント(銅像)” ③ 市民文化会館1階にある ”肖像画” ④ 駅南口から湘南海岸の国道134号までの ”雄三通り” ⑤ 鉄砲道の雄三通り中央交差点にある ”加山雄三デビュー60周年記念モニュメント” END
2024.04.13
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城山かたくりの里を訪れるのは三度目になるか。3月27日(水) 11:05入口には「開園 9時 ~ 日没、ペットを連れてのご入園は御遠慮下さい 園内禁煙」と。看板には「かながわの花の名所100選 城山かたくりの里」。多くの高齢者の方が訪れていた。入場券には通しナンバーがなく「入場者?万人」とかの記念品はないようだ!入園料:500円(小学生以下無料)入口の看板には、3/20(祭) ~ 4/7(日)まで 直通バスが運行しています。 ・往復バス+入園券 1,500円 ・片道バス+入園券 1,000円 ・お帰りのバス (500円) のみもご利用できます。JR・京王線橋本駅南口徒歩7分「アリオ橋本店前」←→「城山かたくりの里」。3/27(水) 開花状況「かたくりの花」は6割 ~ 咲き※ 突然変異で咲く大変珍しい「白花かたくり」が咲いています。昨日までの恵みに雨と今日の好天で開花が進み見頃になりそうです。「かたくりの花は」朝、お日様を浴びて花びらが開き、夕方になると閉じます。雨やくもりの寒い日は花は開かずうつむいたままです。花の寿命は一週間です。・「黄花かたくり」の最初の一輪が陶芸工房の入口で咲きました。黄花かたくりは日本かたくり(紫色)のあとに咲き見頃は4月上旬です。 ※ 昨年(2023年)の満開は 3/22 一昨年(2022年)の満開は 3/27 でした。 毎年、見頃は異なります。今年は遅めです。下段には現在園内で咲いている、山野草や花木がリストアップされている。頂いたパンフレットかながわの花の名所100選 城山かたくりの里城山かたくりの里 花マップ反時計まわりで黄色の矢印方向から巡った。周辺のハイキングコース。入園受付の横には休憩所であろうかストーブが置かれていた。入口辺りにトイレ施設園内のトイレはこちらだけです。山の上にはありません。カタクリの生殖カタクリは多年草で、実生苗から有花個体になるまで7~8年を用し花を咲かせるまでには長い長い準備期間が必要であり花を咲かせた後も長く生き続け環境さえ良ければ数年連続して花を咲かせると言われています。カタクリの好適地は、排水の良いやや湿り気の多い適度に光のさす比較的乾燥しない土壌を好むとの事。カタクリは雪とのかかわりの深い植物であり、東北地方に自生地が多いと言われています。入口方向を見る。昨日が雨だったので多くの人が訪問。城山町総合環境保全条例により指定されている保護植物「カタクリ」原野や山地にはえる多年草。早春に細く柔らかい花茎を出し、その中央部に通常2個の葉をつける。花被片は6個、紅紫色でそりかえる。寿命は 15年 ~ 20年といわれ、そのうち 7 ~ 8年は成長段階である。保護植物の種類 科 名:ユリ科 属 名:カタクリ属 種 名:カタクリ 学術名:エリスロニウム ジャポニカム指定年月日 平成9年3月1日保護区域内の 保護区域内で指定された保護植物を、町長の許可を受けた場合を除きそれ行 為 制 限 を採取、損傷することはできません。たとえ、種子でも同様です。 ※ 違反をしますと罰則が科せられます。保護区域面積 1,934㎡ 城山町川尻字小野4275-1 面積 1,503㎡ 城山町川尻字小野4301 面積 431㎡町内で希少、貴重となったカタクリを皆さんの手で大切に保護しましょう。 城 山 町だんこうばい (壇香梅)ダンコウバイは、クスノキ科クロモジ属の落葉低木、小高木の一種。別名でウコンバナ、シロヂシャともよばれる。和名の由来は、実や葉、また材が檀香のように香り、花がウメに似ていることによる。丸みのある浅く3裂した葉が特徴である。だんこうばい 壇香梅(ウコンバナ) クスノキ科紅みつまたみつまた可憐な雪割草ユキワリソウは、サクラソウ科サクラソウ属の多年草。高山植物で日本全土の亜高山帯から高山帯に自生する。下から ”かたくり” を見上げるかたくりは背丈が15センチほどで個体が低いため膝を地面につけ撮影。前回ズボンの膝を汚したため膝当てを購入していたので今回使用。かたくりは朝お日様を浴びて花びらが開き、夕方になると閉じると。また、花の寿命は一週間と長い。かたくりの撮影はカメラ目線を下げ地上から。色違いの雪割草雪割草は春一番に雪をわって春の到来を知らせてくれる山野草。種類の多さからもファンも多い魅力的な山野草である。バイカオオレンバイカオウレンはキンポウゲ科オウレン属の多年草。別名、ゴカヨウオウレン。既に咲き終わったバイカオオレンであろうか。ショウジョウバカマショウジョウバカマは、メランチウム科ショウジョウバカマ属の多年草。北海道から九州までの、やや湿った場所に生える。垂直分布が広く、人里近くの田んぼの畦道から高山帯の高層湿原まで生えている。ズームアップ。長寿桜 (ちょうじざくら)ジンチョウゲ科 ジンチョウゲ属。開花時期は 3月 ~ 4月。落葉性の沈丁花の仲間で、ほのかに香る青紫色の花を咲かせる。株元から枝を茂らせ、満開時には花で覆われる。盆栽仕立てや切花としても重宝される。ズームアップ。園内には ”日本かたくり” の群生地が3カ所あり一番下の群生地。ズームアップ。カメラ目線を下げ撮影。廻りでは皆さん座り込んで撮影。ズームアップ。ショウジョウバカマズームアップ。更に花をズームアップ。雪割草を上から撮影。カメラ目線を下げ雪割草を撮影。かたくりも撮影。露出を下げて撮影Canon EOS 70D、63mm、f/5、1/80、ISO160Canon EOS 70D、100mm、f/5.6、1/125、ISO160マムシグサマムシグサは、サトイモ科テンナンショウ属の多年草で有毒植物である。雪割草ここからは幻想的に雪割草を撮影。Canon EOS 70D、60mm、f/5.6、1/100、ISO100Canon EOS 70D、60mm、f/5、1/80、ISO16011:40Canon EOS 70D、60mm、f/5.6、1/100、ISO100 ー 続く ー
2024.04.12
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新聞で「城山かたくりの里のカタクリ」が開花との情報を知り、久しぶりに訪れることに。いろいろと家事をしていたので出発が1時間ほど遅れ9時に愛車のノートで出かけた。3月27日(水) 9:15カーナビをセット、圏央道を利用して10時には到着と。ここ菜種梅雨で天気が不安定であったが、この日は天気が良く富士が綺麗に見えていた。3月25日の朝日新聞の朝刊から。いつもの西久保橋からの富士。圏央道高架下の県道44号線(伊勢原藤沢線)。寒川南インタから圏央道へ入る。圏央道の車窓からの富士。新東名高速道路起点の”海老名南JCT”。東名高速道路の”海老名JCT”まで、1.2km。カーナビが「東名高速道路、中央高速道路で交通事故発生で渋滞」と。海老名JCT入口。東京・名古屋方面は左側車線へ。渋滞の情報があったがこのまま圏央道を直進。海老名インタを過ぎて渋滞に。圏央厚木インタで下りることを考え車線変更したが出るにも渋滞がひどく元に戻り直進。厚木インタ高架。順調に走るが直ぐに渋滞に。本来は”相模原インタ”で出るのだが、手前の”相模原愛川インタ”で下りることに。カーナビで「この先20キロ渋滞」と。大型トラックが多く配送遅れになるのであろう。相模原愛川出口まで 700m。入口の横断幕には「圏央道 寒川北IC・高尾山IC 3月22日ETC専用化へ」と。相模原愛川 町田出口。ここで下りる車は少なくスムーズに出口へ。この先八王子方面は大渋滞。ここから20キロ近くノロノロ運転に。我慢我慢のドライバー。料金所への車線。相模川に架かる”相模川渡河橋”の橋長は420mと。ここで下りる車は少ないようでスムーズに料金所へ。9:55相模原愛川料金所料金所の先を国道129号(厚相バイパス)が横切る。既にここまで55分を要しており予定では現地へ到着しているのだが。八王子 橋本方面 国道129号へ。国道の渋滞が確認できた。1時間早く出発しておれば交通事故渋滞に遭遇しなかったのであろう。国道129号も渋滞しているので迂回ルートを考えるがカーナビ任せに。この先の”田名赤坂交差点”を斜め左方向の下九沢方面へ。田名赤坂交差点からメタセ白雨通りを走り、県道63号線の”葛輪(くずわ)交差点”と合流。県道63号線(相模原大磯線)も渋滞していた。九沢橋交差点この先の”塚場交差点”を左方向の県道508号線(厚木城山線)へ。県道508号線(厚木城山線)も渋滞していた。県道508号線を北西方向へ進み”六地蔵交差点”。カーナビの案内。この先1.7km向原交差点を右折。到着予定は10:40と。目的地まで約3キロ。11:00ようやく会場の「城山かたくりの里」へ到着。所要時間は約2時間で1時間遅れであった。城山かたくりの里 ~ 開園期間 ~ 毎年3月第2土曜日 ~ 4月第3日曜日マデ(今年は4月21日まで)所在地:神奈川県相模原市緑区川尻 4307城山かたくりの里は私有地の里山に整備された山野草園。「かながわ花の名所100選」にも選定されており、春の山野草のシーズンに限って敷地が開放されている。駐車場は満車であったが向かい側にも増設していた。駐車場は無料。既に散策を終え土産物を持って帰る人も。駐車場脇で咲いていた ”陽光桜” 。駐車場の係の方から「既に満開を過ぎた」と。ピンク色に染まった花柄、既に散ったものも。こちらには ”さんしゅゆ” が満開に。花をズームアップ。更にズームアップ。城山かたくりの里入口。幟旗には、「かながわ 花の名所100選 城山かたくりの里」と。ペットを連れての入園はご遠慮下さい。11:05種を蒔いてから八年 ~ 九年かけて花が咲きました ー 続く ー
2024.04.11
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弘済寺のご住職の奥様から紹介された「広町パークゴルフ場の春めき桜」を見に行くことに。3月21日(木) 15:10県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道) を戻り言われた「カードック矢野」から左方向へ。坂を下ると狩川へ。橋の名は小川口橋。橋の手前に道案内で「広町パークゴルフ場/最終処分場」と。また橋の手前右側に”道祖神”であろうか、供え物もあった。古い橋の親柱には「小川口橋」と。橋の手前に「重量制限 この先、小川口橋は、6tを超える車両は通行できません」と。広町パークゴルフ場の春めき桜所在地:神奈川県南足柄市広町 231小川口橋から狩川に沿って下り前方対岸に ”春めき桜並木” が満開になっていた。狩川の右岸に約50本植えられている。この辺りからも遠く相模湾が見える。下流側に春めき桜の「春木径・幸せ道」がある。観光客も少なく隠れたスポットになっているのでは。まだ樹齢は若いようだが。狩川の下流をズームアップ。途中案内板を見て気になっていた「最終処分場」へ行くために上流側へ戻る。左折し狩川に架かる新上河原橋を渡る。最終処分場までは500mと。南足柄市最終処分場所在地:神奈川県南足柄市雨坪 595一般廃棄物の種類:焼却残さ・焼却飛灰・破砕残さ ・・・。埋立処分の期間 :平成17年 月 ~ 令和10年 月門柱には「南足柄市最終処分場」と。外の道路脇に車を停め敷地内へ。受入れ棟であろうか。眼下には浸出水の貯留槽であろうか。15:25南足柄最終処分場から下り、広町パークゴルフ場の駐車場へ。駐車場は広く無料であった。満開になっている春めき桜。南足柄市広町パークゴルフ場パターゴルフを楽しむ高齢者グループ。下流側に同じ春めき桜の「春木径・幸せ道」があるが訪れる人も少ない。こちらは約50本だが、下流は171本植えていると。狩川沿いの遊歩道は砂利道。ペットのワンちゃんも綺麗な洋服を着せられ記念写真。飼い主に「双子ですか」と聞くと「NO」と。まだ樹齢は10年ぐらいか、10年後にはどのような光景になっているのであろうか。ぼんぼり状に花をつける春めき桜。薄いピンクの春めき桜をズームアップ。この辺りの狩川は急流であるので堰堤が設けられている。スローシャッターで撮影するが三脚が必要。15:30広町パークゴルフ場の春めき桜を最後にし帰路につく。狩川沿いにあった「道祖神」。狩川に沿って下る。県道723号線(関本小涌谷線)の大雄橋交差点。左折すると大雄山駅前、大井松田インタだが、右方向へ進み一般道を選択。交差点角に鎮座する「地神」。所在地:神奈川県南足柄市飯沢 飯沢(バス停)富士フイルム南門前から東方向へ走り、小田急小田原線の柏山(かやま)駅へ。栢山駅前で県道720号線(怒田開成小田原線)と合流して南下。県道720号線(怒田開成小田原線)を南下、尊徳記念館前を走る県道720号線の飯田岡入口交差点の南を左折して県道717号線(沼田国府津線)を東へ走る。東富水小学校入口交差点、右前方は小田原テニスガーデンの照明灯。前方は県道717号線の小田原アリーナ入口交差点。交差点を左折すると「小田原アリーナ」。小田原アリーナは、小田原市中曽根にある屋内競技施設である。Fリーグ、湘南ベルマーレが本拠地として使用している。メインアリーナは3400m²の広さがあり、バスケットボールコートなら4面同時に確保できる。富士見大橋西詰往路は東詰を右折して北上した。前方の建物は「鈴廣かまぼこ株式会社恵水工場」。直進すると西湘バイパスに入り有料になるので左折して国道1号へ。16:10ここ国道1号の親木橋交差点を左折して橘インター入口交差点へ向けて走る。この先のコンビニに立ち寄りおにぎりを購入。橘インターから西湘バイパスを走り大磯港辺りで渋滞、自宅へは17時に到着した。 この日の走行距離は、90キロ、歩行数は約11,000歩であった。 END
2024.04.10
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足柄神社から道幅1間ほどの狭い足柄古道を下り県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道)へ 。3月21日(木) 14:25左方向は県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道) の御殿場方面。右側が下って来た足柄古道。道路脇に、「宗教法人 足柄神社入口」「足柄古道入口」の案内板。下って来た足柄古道の道路脇に石碑が建っていたので歩いて引返す。足柄神社へはこの先を左方向へ。道幅が狭いので所々にすれ違いのスペースが設けられていた。弘西寺堰碑所在地:神奈川県南足柄市苅野 191-1弘西寺堰碑漢字カタカナで刻まれていたが判読できなかった。 昭和戊辰二月 猪瀬博愛書ネットで調べるとこの石碑は大正関東地震の被害についての石碑であるが、安政年間の地震についても記述がある。この時期に、南足柄周辺で大きな地震は知られていないが、上流の ”川入堰の碑” にも安政6年に被害を被ったとの記述があると。石碑前から足柄古道を歩いて下る。この先の道路脇に車を停め散策した。向かい側手前には ”松田警察署 苅野駐在所” があったが、駐在所は不在で、交通量も少なく。駐在署前から五百メートルほど下り、カーナビの案内で狭い道を左折して広場へ駐車。参道入口に多くの石碑が建っていたので県道へ戻る。参道入口に「大門通り」と。一段高いところに左から「浅間大神」「堅牢地神」「○○○佗佛」。右奥には「庚申塔」「双体道祖神」、一番奥には「南無大師遍照金剛 木食観正」と。その側面には「文政二己卯年二月現任實乗代造立之」と刻まれていた。因みに ”木食観正(もくじきかんしょう)” は、文政の頃(1818 ~ 1830年)、小田原宿に滞在して、酒匂平野一帯で諸人救済の生仏(いきぼとけ)として崇敬された遊行僧であると。県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道) の大雄山駅方向に立つ案内板。振り返れば矢倉岳。県道から弘済寺への参道。入口両側に石碑が建っている。右側の石碑。石碑には「四國八拾八箇所順○○○」と。参道を入り民家の庭先に綺麗に咲いていたツバキ。直径10センチほどの大輪であった。道幅一間ほどの狭い参道であった。右側の塀際に石碑。車はこの先の広場に停めた。石碑には「南無○○」と。スマホで目的地の弘済寺を調べるとまだ先であったので車で移動。民家の敷地に「馬頭観世音」の石碑。年月が刻まれていたが読みとれなかった。14:40弘済寺の駐車場へ到着。西方向に矢倉岳。弘済寺 (こうさいじ)所在地:神奈川県南足柄市弘西寺 131弘済寺は、東寺真言宗の寺院で山号は法雨山、院号は金剛幢院。本尊は不動明王。南足柄七福寺めぐり預かり寺である。弘済密寺とも称される。弘済寺地蔵堂山門前左側に建つ地蔵堂。毎年7月23日に子ども達の健やかな成長を願って、おじぞうさんのお祭り【弘済寺地蔵まつり】が行われますと。かつては ”木造地蔵菩薩座像” が安置されていた地蔵堂。地蔵堂前に建つ説明板。木柱には「市指定文化財 木造地蔵菩薩座像」と。木造地蔵菩薩座像 (弘済寺)本像は像高三八センチ、寄木造、玉眼、肉身は漆箔、着衣は褐色漆塗、裳裾を台座よりさらに下にたらしている法衣垂下像である。白毫・玉眼・台座・光背は後で補修されている。ひきしまった顔、バランスのとれた体躯などよくまとまった作である。胎内には次の意味の修理銘札が納められていた。「地蔵尊の再興施主雨坪村後藤太郎右衛門、鎌倉仏師後藤勘弥、元禄一三庚辰年(1700) 六月上旬相模國足柄上郡苅野荘弘済寺村法雨山弘済寺金剛憧院現住法印権大僧都大阿闍梨覚源欽修」この時、前記の白毫・玉眼等の修理がされたのであろう。法衣垂下形式の地蔵座像は大変珍しい。鎌倉時代末から南北朝時代の作である。 昭和六十三年十二月 南足柄市教育委員会地蔵堂前に並ぶ石仏群。大きな石碑には「光明直言供養」と。一番奥(南側)には、古い石祠、庚申塔。地蔵堂の境内に聳える二本のコウヤマキ。片方は「高木になるので先端を切った」と。コウヤマキの下に並ぶ石仏。どれも苔むして歴史を感じさせる石仏である。左側には「南無大師遍照金剛」と刻まれた石碑。地蔵堂前から山門。弘済寺の山門山門の扁額「法雨山」。本堂前に満開の春めき桜が咲いていた。丁度ご住職の奥様が出て来られ談笑。春めき桜を頂き植え樹齢は5年と。本堂に修復された「木造地蔵菩薩座像」が安置されているので見て下さいと。本堂の扁額「弘濟寺」。奥様の案内で本堂に上がる。本堂内?にはユニークな ”田中太山のふすま絵” があり、言えば見せていただけると。住職の法話は「仏は私の中に・・・」と(以上、ネットから)。地蔵菩薩及び二童子像真言宗立教開宗1200年記念事業令和5年(2023)、弘法大師空海様により真言宗が立教開宗されて1200年を迎えます。 弘済寺では当山地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像の大修復を行うことといたしました。そして繋がりのある方々、参拝される方々の格別の真心でお地蔵様と深いご縁を結んでいただき、造像当初の尊容を復元するため文化財的手法による保存修理事業にご協力を賜りました。 先人たちが、その大いなる信心で私たちに残してくれた弘済寺のお地蔵様を次の世代に継承していくことは、この時代にここに生きる私たちの勝縁と捉え、この貴重な事業にご賛同賜りありがとうございました。 合掌 住職 玉野 真永 (ネットから)修復に当たって台座後背、地蔵の金泥が一部剥がれていたが住職から「30年見慣れたままでとの要望から今のままで修復した」と。修復は栃木県鹿沼市の三人の女性が営む「三乗堂」へ依頼。修復作業をネットから「700年前の仏像の中から」👈 をクリック願います。地蔵菩薩及び二童子像 木造 [地 蔵]鎌倉~南北朝時代14世紀 [二童子]南北朝時代 14世紀 南足柄市・弘済寺弘済寺地蔵堂の本尊。地蔵菩薩は左手に宝珠をのせ、右手に錫杖を持つ。二童子は、中尊よりも後に造り足されたと考えられる。掌善童子と掌悪童子は日本で撰述された儀経『仏説延命地蔵菩薩経』に説かれる。彫像の掌善・掌悪童子では最も古い作例となるかもしれない。足柄地域では鎌倉時代以降、多くの地域菩薩像が造られた。 地蔵菩薩座像地蔵像の中にはかつて修理された際の修理銘札元禄13年(1700)に鎌倉仏師 後藤勘彌による修復が行われた事が残されていたと。今回の修復後には新しい巻物に「疫病退散」等を記載し納めたと。本堂から降り立ち山門を望む。境内に立たれる弘法大師像。台座には「南無大師遍照金剛」と。15:05弘済寺の駐車場から、満開の春めき桜と矢倉岳とのコラボ。この後、ご住職の奥様から紹介された「広町パークゴルフ場脇の春めき桜」を見ることに。 ー 続く ー
2024.04.09
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人の気配がしない静寂とした足柄神社の散策を続ける。3月21日(木) 14:10足柄神社社殿は平成二十年に調査が行われ、いくつか特徴的なことが分かった。現在の社殿は、本殿と拝殿、幣殿とを廊下でつないでいるが、もとは独立して建っていたと。また、本殿は県内でも数少ない大型社殿であるとのことで、時計回りに廻ることに。拝殿から廊下でつながる本殿。本殿は三間社入母屋造で、桁行十五・五尺、梁行十一・七尺あり、県内でも数少ない大型社殿。材質は欅の素木仕上げで、堅固さと優美さを備えています。本殿の建築年代は、境内の由緒碑によれば、慶応二(1866)年三月と記されてる。本殿の懸魚 (げぎょ)。各所には、獅子や龍など良質で細部にわたる彫刻や陽刻による装飾が施されている。本殿の海老虹梁 4本を見上げる。本殿左側の脇障子には、松・唐獅子・2匹の子獅子。本殿、幣殿、拝殿と繋がる立派な社殿である。スギの木を見上げる。ネームプレートには「南足柄の、古木、名木、ゆかりの木 スギ スギ科」と。本殿の裏側も唐破風の形状に。本殿の座の木組みも匠の技。本殿右側の脇障子には、松・唐獅子・子獅子。右側からの社殿。社殿を一周したが綺麗に清掃されていた。拝殿右側から境内、鳥居を望む。足柄神社から右下にある、「苅野観音堂」へ向かう。この道は足柄古道。階段を下り、「苅野観音堂 (本地堂)」 へ。所在地:神奈川県南足柄市苅野 274観音堂は足柄神社の参道左側にあり、本地堂という名前で呼ばれている。昔の神仏混淆がそのまま残っている状態です。お堂の前には、幾つかの石造物が並んでおり、その一つには高遠石工の銘が刻まれていると。観音堂 (本地堂)足柄明神の本地仏聖観世音菩薩像を祀った堂です。平安時代末期から鎌倉時代にかけて盛んだった本地垂迹(すいじゃく)説 (仏が人々を救うために神に姿を変えて現われたとする神仏同体の考え)によって建てられたお堂なので、昔は矢倉明神の別当寺弘斉寺が管理していました。現在は旧苅野岩村57軒で管理しています。縁日は、8月9日で、昔は苅野岩村地区の念仏講中が念仏を催し、若者講中が燈籠をつけるなどして賑わったそうです。境内には300年もの庶民信仰を語ってくれる庚申塔などの石仏、石祠群があります。入口右側に並ぶ庚申塔群。庚申塔群が並び中央に笠付庚申塔。後方の階段を上ると足柄古道、足柄神社へ。左から「寶暦八戌寅年 南無阿弥陀佛」、中央に「三界萬霊」、「笠付庚申塔」。入口左側に並ぶ、笠付庚申塔、石碑。一番右側が、高遠石工の銘が刻まれている「読誦塔」。石塔には「法華経四千託供養塔」。裏面に「石工 信ノ有光 文政四年十二月」と。現在も旧苅野岩村地区で管理されているので、境内は綺麗に整備されていた。観音堂の扁額「聖観世音」。外陣は板の間に。外陣の奥に内陣。扉には注連縄、折り鶴が飾られており定期的に開放されているのか。観音堂の南側。聳える樹々も枝が下ろされ管理が行き届いていた。昔は苅野岩村地区の念仏講中が念仏を催し、若者講中が燈籠をつけるなどして賑わったようだが。現在はどうなのかと気になるが・・・。この雰囲気で巫女さんが踊る姿も見てみたいものだが、又神楽も。境内は苔むして絨毯の如くにふんわりと。入口左右に、南無阿弥陀佛、念仏供養塔、三界萬霊搭、笠付庚申塔等が祀られている。観音堂入口から南側の参道を見下ろす。鳥居前の道路は県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道) 。参道を少し下り鳥居をズームアップ。途中で折り返し足柄神社境内へ上る。足柄古道の京都側。由緒にも書かれていたがかつてはここが馬場であったと。(この後参拝した ”弘済寺” の住職の奥様からも)。足柄神社の拝殿、神輿庫。神輿庫の左奥に「足柄神社石祠群 十二基」が並ぶ。この後、次の目的地「弘済寺」へ向けて足柄古道を下る。14:20地元の氏子の皆さんの手で整備された足柄神社を後にする。 ー 続く ー
2024.04.08
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右上の南足柄市運動公園から怒田の丘陵地を走り、南側の県道78号線(御殿場大井線)へ。南足柄市の市域のほとんどはスギを中心とした森林が広がる山間部である。左下が現在地の狩川に架かる「一色橋」。3月21日(木) 13:40交通量が少ないスギ林の中を走り県道78号線(御殿場大井線)と合流、狩川に架かる一色橋。親柱に「一色橋」。南足柄市運動公園からの道を振り返る。農道のため交通量が少なかった。この辺りのMAP(現在地は赤丸)「農林水産省補助事業 広域営農団地農道整備事業 地 区 名 :小田原-南足柄線 延 長: 21.2Km 幅 員: 5.5 m 受益面積: 1.044ha みかん栽培が多い」。県道78号線(御殿場大井線)の足柄峠、御殿場方面。この道は箱根仙石原の帰り、足柄峠へ向かうために何度か走った道であるが交通量が少ない。この先の道路脇に石碑が建っていた。石碑は苔むして字が読み取れなかった。石碑の下に施設があり階段を下りる。施設にあった制御盤には「苅野調圧池テレメーター (子局) 盤」と。石碑から県道78号線(御殿場大井線)の大雄山駅方向を望む。一色橋の下を流れる狩川 (かりがわ) 。狩川は、足柄平野西部を流れ酒匂川に合流する二級河川。二級河川部分の延長は13.64kmである。南足柄市の金時山東斜面に源を発し北上、その後足柄街道(県道78号線)に沿って流れる。一色橋この一色橋は広域農道建設事業で架けられた橋。下の橋は役目を終えた「前田橋」。橋の手前に「重量制限 この先、前田橋は、3tを超える車両は通行できません」と。他の方のブログから昭和30年頃に造られたと。前田橋から一色橋を見上げる。一色橋から県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道) の坂道を大雄山駅方向へ向けて下る。目的地を「足柄神社」にセットして走り、道路脇に石碑群があり車を停める。足柄街道沿いの石碑群所在地:神奈川県南足柄市苅野 北幼稚園前バス停近く五基の石碑が建っていた。右側から「成田不動尊 百番観世音菩薩 河﨑弘法大師」二番目は、歌碑であろうか三番目は「富士〇」と。四番目の小さな石碑には「御中道十三度 登山三十三度大願成就」五番目には「登山三十三度大願成就」と。左の四番目には「御中道十三度 登山三十三度大願成就 御内八湖修行 社長○○○」と。北幼稚園前バス停、後方にはおにぎり形の矢倉岳。この後、カーナビの案内で左折し坂を登り足柄神社へ向かう。14:00足柄神社所在地:神奈川県南足柄市苅野 274県道78号線 (御殿場大井線:足柄街道) から狭い道を上り足柄神社境内へ。下って来たこの道は足柄古道であろうか。境内に車を停め散策開始。足柄神社からまず足柄古道を下り神社の杜を振り返る。左側には矢倉岳。いつもは遠くから見ている矢倉岳をズームアップ。この辺りの足柄古道は直線的に坂を登っている。この道はかつて、流鏑馬、鉄砲馬場として使われたようだ。右斜めに進むと足柄神社の鳥居。鳥居の手前に手水舎。鳥居を入ると正面に足柄神社社殿。護衛艦「あしがら」No.178 (イージスシステム搭載)艦名「あしがら」の由来日本では、護衛艦の名称を付与する標準として天象、気象(月、日、雨、霧、雲、四季等)、山岳、河川、地方の名から採用されていますが、本艦の名称は、神奈川県と静岡県の県境近くにある、箱根連山の足柄山に因んで命名されています。本艦「あしがら」は二代目になりますが、初代「足柄」は、日本帝国海軍において大型重巡洋艦に命名されております。また、就役にあたり天照大御神や日本武尊が祀られている、当地の「足柄神社」で安寧を祈願されており、その分霊が護衛艦「あしがら」に祀られております。護衛艦「あしがら」は、海上自衛隊が建造した六番目の「イージスシステム」搭載の護衛艦で「こんごう」型の改良型です。「あたご型」の二番艦として、平成二十年三月に就役しました。本艦は、優れた対空戦闘能力を有すると共に対水上戦、対潜水艦戦においても、最新の装備を導入し、広範な任務に対応できる護衛艦であります。海上自衛隊は、「海上からの侵略に対して、我が国土を防衛するとともに我が国周辺の海域における海上交通の安全確保」の任務を主としており「あしがら」もこの一翼を担うべく、装備の全能力発揮をめざし訓練に励んでおります。海上自衛隊 護衛艦「あしがら No.178」 (2006年)【艦 暦】 進 水 2006年8月30日 就 役 2008年3月13日【性能諸元】 揚水量 基準 7,700トン 兵員 300名 満載 10,000トン 兵装 Mk45 Mod4 5インチ60口径 全 長 165m 単装速射砲 1門 全 幅 21m SSM-BSSM 4連装発射機 2基 喫 水 6.2m 324mm3連装短魚雷発射管 2基 機 関 COGAS 2軸 GIWS MK-15BlockIB 2基 石川島播磨重工業製 Mk41 VLS 96セル LM2500ガスタービン スタンダードミサイル(SM-2MR) 4基 100,000ps アスロック対潜ロケット 最大速 30ノット以上足柄神社の由緒足柄神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊東征の帰路に白鹿に化けて顕れた神とされ、足柄明神(足軽明神)と称し足柄峠に鎮座、「神奈川県神社誌」ではその創建を天慶3年(940)としています。足利尊氏と新田義貞とが争った建武2年(1335)頃には新田義貞が足柄明神の南にある原野に陣取ったと「梅松論」に記載されていますが、いつしか矢倉岳に遷座、矢倉明神社と呼ばれていました。最乗寺を応永元年(1394)に開山した了菴禅師の頃には既に当社は矢倉澤へ遷座していたとされます。矢倉沢郷と称される当地一帯18ヶ村の総鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し郷社に列格していました。昭和14年(1939)足柄神社と改称、南足柄の総鎮守です。唐破風の拝殿。見事な龍の彫り物。木鼻も。拝殿の扁額「足柄神社」。右側からの海老虹梁、木鼻。足柄神社社殿足柄神社は、かつて坂の神として足柄峠に祀られたとされる足柄明神が矢倉岳、更に現在の苅野に遷座し矢倉明神社と呼ばれていました。昭和十四(1939)年に足柄神社に改称されて、今も南足柄の総鎮守として信仰を集めています。平成二十年に社殿の調査が行われ、いくつか特徴的なことが分りました。現在の社殿は、本殿と拝殿、幣殿とを廊下でつないでいますが、もとは独立して建っていました。本殿は三間社入母屋造で、桁行十五・五尺、梁行十一・七尺あり、県内でも数少ない大型社殿です。材質は欅の素木仕上げで、堅固さと優美さを備えています。本殿の各所には、獅子や龍など良質で細部にわたる彫刻や陽刻による装飾が施されています。本殿の建築年代は、境内の由緒碑によれば、慶応二(1866)年三月と記されています。今回の調査から、この記述が妥当であることが分かりました。 平成二十二年三月 南足柄市教育委員会拝殿前左側には「足柄神社 恒例の儀」が掲示されていた。木柱には「市指定文化財 足柄神社社殿」と。拝殿前から鳥居を見る。護衛艦「あしがら」の説明板が立つ。護衛艦「あしがら」の説明板の左側に立つ石碑には、由緒碑御祭神 日本武尊御創立は天慶五年足柄峠に奉斎建武二年矢倉嶽に遷祀治承四年現場所え再遷座せらる明治六年郷社と定められ同四十年幣帛供進社に指定昭和四年巡洋艦足柄に御霊代を奉斎す 御社号は足柄大明神矢倉大明神矢倉神社昭和十四年後足柄神社と称す 御祭典は当初正月十八日なりしが地理的関係から地域を上中下の三番割となし明治十六年より三月三日四日に変更秋祭は十月九日春は神輿渡御秋は競馬を奉仕の外祈年祭新嘗祭を以て恒例としている 現社本幣拝殿は慶応二年三月権現造として総欅を以て造営される 境内地は四百八十六坪馬場は流鏑馬鉄砲馬場として徳川中期より由縁を以ている 氏子は矢倉沢平山内小市上怒田下怒田塚原日向駒形炭焼所和田ヶ原中沼狩野飯沢浦山猿山関本雨坪福泉弘西寺苅野の二十地区で氏子は千三百七十四戸である尊は足柄峠より南海に開けし海を逆波と呼称され又新羅三郎義光は大食入〇の二曲を〇神に祈〇伝授したことは記紀に明晰〇あり古より家相鬼門〇生産○○の守神として爾来郷土の信仰と崇敬の的となっている 昭和三十四年己亥歳四月十日建之 社殿の右側から。足柄神社 神輿庫境内の右側に石祠が並んでいた。足柄神社石祠群 十二基この石祠群は散乱していたものがいつの頃からかここに集まってきたようです。苅野には二百余年前の村明細帳に山神社・山王社・金山社などがあったと記されています。どの神様がどの祠か今になって○○○ませんが、よく見ると文字が刻まれている祠が三基あります。右から一番目 三番目 願主 杉田○○○ 瀬戸○○ 建之 六番目 當村講中 十五人 文化二乙丑年四月〇日このような石祠群は珍しく大切な遺跡です 平成十七年六月 足柄史談会 調査研究部足柄神社石祠群14:10こちらには「文字道祖神」。 ー 続く ー
2024.04.07
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動物霊苑としても知られている珠明寺(しゅめいじ)の参拝を始める。3月21日(木) 13:00参道を上がり山門へ。山門の石柱には左側に「山色清浄身」、右側に「○○○○〇」。山色清浄身(さんしょくしょうじょうしん)の意味は、この禅語は「山の姿そのものが 清浄な仏さまの心であること」を意味しますと。境内入口の標柱に「伝 上杉憲実一族の宝篋印塔群(南足柄市重要文化財)」と。珠明寺の歴史珠明寺は、室町時代中期の武将・上杉憲実(のりざね)が、父・上杉房方(ふさかた)の供養のために建立しました。そのため寺の紋は上杉家と同じ「竹に飛び雀」です。寺伝には上杉安房守憲基、その子安房憲実、その子右京亮憲忠の三人が開基となり、応永二(1395)年の創建とされています。上杉憲実は当寺の建立にあたり、初代開祖として蘭室妙薫和尚を招いたとされています。蘭室妙薫は京都の出自で、応永年間に円覚寺の第一一七世山主として活躍しています。その後、円覚寺を追放される形で上杉憲実の援助の下、現在の班目下河原に当寺を建立し開山となりました。応永二七(1420)年、“暴れ川”と呼ばれる酒匂川の氾濫によって寺社一帯が流されてしまいました。それ以降、当寺は水害のために移設を繰返しました。江戸中期の享保一八(1733)年、現在の場所に移設され、今に至ります。本尊は聖観世音菩薩像本堂の扁額「紫金光」。本堂前の境内に手水舎、鐘楼 (鐘は寶暦七年の鑄造)、四阿と並んで建てられていた。手水舎の南側には稲荷神社であったか。嵩上げされた鳥居、左側には石を彫り込んだ焼香台。社の前に「○○宮」と。南側の墓地から本堂を見る。裏山の西側にも墓地が広がっていた。西側の墓地の入口には ”水子地蔵尊” 。本堂裏の高台に広がる墓地。南東方面の国府津方向を望む。左奥は小田急線の開成駅辺りであろうか。酒匂川沿いに広がる足柄平野を見下ろせる絶景ポイントである。同場所からカメラを北方向に振ると、東名高速道路が走る松田町方向。河津桜が咲き終わった西平畑公園をズームアップ。手前には酒匂川の堤。墓地の一角に「月光山珠明寺歴代墓地」。歴代住職の墓地に標柱があり「市指定文化財 伝上杉憲実一族の宝篋印塔群」と。伝上杉憲実一族の宝篋印塔群(珠明寺墓地)当寺の開祖と伝えられている蘭室妙薫は、京都の出自で応永年間に円覚寺の第一一七世山主となり、活躍された。その後円覚寺を追放され、上杉憲実の援助で現在の班目下河原に当寺を建立し開山となった。寺伝には上杉安房守憲基、その子安房守憲実、その子右京亮憲忠の三人が開基となり、応永二年(1395)の創建とある。それ以後当寺は水害により移住を繰返した。石塔は向かって左側から憲基、憲実、憲忠の三代の管領の墓と言われている。向かって左の塔は相輪の一部が欠けてはいるが、その他の部分はよく整った立派な宝篋印塔である。中央と右側の塔の相輪はなくなり、五輪塔の空・風輪の部分がのせられている。全体的な形からは室町期頃の造立のものと思われる。 昭和六十三年十二月 南足柄市教育委員会上杉憲実一族の宝篋印塔群向かって左の塔は相輪の一部が欠けてはいるが、その他の部分はよく整った立派な宝篋印塔である。中央と右側の塔の相輪はなくなり、五輪塔の空・風輪の部分がのせられている。北東方向の松田山を見る。山頂の右側には ”チェックメイトカントリークラブのクラブハウス”。麓を東名高速道路が走る。右側は ”大井松田インタ” 。墓地を振り返り下山することに。珠明寺は高台にあり絶景ポイントであるが、富士は後ろ側に。本堂の右側に寺務所。バリアフリー化された立派な寺務所である。ペットの受付もしているのであろうか。前日に予約をして火葬もしてもらったと。寺務所は ”唐破風(からはふ)” の建築。唐破風とは、日本の城郭建築などにみられる頭部に丸みをつけて造形した破風の一種。唐と付くが日本特有の建築技法である。寺務所の扁額「順徳」。境内の南側。左側には四阿があり休憩もできる。四阿から境内を見る。境内から坂を下り下の駐車場へ。上の駐車場へはここを上る。境内を振り返る。珠明寺を後にし、近くの「南足柄球場」へ。13:25南足柄市運動公園所在地:神奈川県南足柄市怒田 1734当公園は南足柄市が所有する運動公園で、株式会社アグサ (旧社名:足柄グリーンサービス) が指定管理者として管理・運営を行っている。南足柄市運動公園案内図この日は生憎休みで駐車場も閉鎖されていた。公園内には、ピクニックトリム広場・芝生広場・野球場・テニスコート・多目的広場等がある。広い園内には、春めき桜、ソメイヨシノの他、しだれ桜や寒緋桜などたくさんの桜が植樹され、梅林や秋にはリコリス(彼岸花)で赤く染まる斜面もあり1年中季節の花を楽しむことができる。この施設は指定管理者である株式会社アグサが管理・運営を行なっています。南足柄球場両翼92m、センター120m、収容人数3,000人の本格的野球場で、磁気反転式スコアボードや放送施設も整っている。かつて ”県央中高年齢者野球愛好会” で何度か試合を行った。この施設は平成18年(2006)4月1日より指定管理者である、株式会社アグサが管理・運営をしてまいります。皆様と共に、今まで以上に魅力ある施設づくりに努力してまいります。ご支援、ご協力よろしくお願い申し上げます。 株式会社 アグサ2020年よりベースボール・チャレンジ・リーグ (ルートインBCリーグ) に加入した神奈川フューチャードリームスが公式戦を開催している。13:30南足柄球場1997年7月に野球場が落成し、1999年4月に全面オープンした。2006年度から指定管理者制度を導入している。毎年10月に南足柄市少年スポーツ大会の会場に使用するなど、市民の屋外スポーツ拠点として利用されている。 ー 続く ー
2024.04.06
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荒れた ”朝日観音堂” の散策を続ける。3月21日(木) 12:15朝日観音堂の西側墓地から。右側の木は開花前のソメイヨシノ。ボケが綺麗に咲いていた。春先の花「ボケ」。朝日観音堂の本堂を背景に、本堂の頂きには箱棟。収蔵庫は自治会長さんに事前に予約すると中を拝観できると。葺替えのための募金のお願いはなかったが、次回来た時は本堂の葺替えは終了しているか。次の目的地は近くにある「若宮八幡宮」へ。カーナビの案内で丘陵地を上る。畑の中に石碑があったが字は風化して読めなかったが道祖神であろうか。カーナビの案内で狭い道路を上る。目的地を通り過ぎたので路肩に駐車。廻りはミカン畑でのどか。上って来た丘陵地にはミカン畑が広がっていた。アサヒビールの神奈川工場の敷地もこのような場所に開発されたと。丘の上にソメイヨシノの木が聳えていた。農道から階段を上ると新しい社殿が建っていた。若宮八幡宮所在地:南足柄市怒田長尾天神社・若宮八幡宮合殿の創建年代等は不詳ながら、長尾天神社が若宮八幡宮社地に遷され合殿で祀られている。社殿の扁額は「若宮八幡宮」。境内に建つ石碑には、「寄附 若宮八幡宮参道○○ 一式 永田組社長 永田〇雄殿」と。境内の左奥には新しい石祠も。境内の斜面には春の味覚 ”ふきのとう” が花びらいていた。頂こうかと思ったが遅かったようだ。境内の右奥に石碑。木の根元に新しい「文字道祖神」。道祖神には「昭和四十六年一月吉日再建 若宮講中」と。丘の上の「若宮八幡宮」を振り返る。若宮八幡宮の後、事前に調べていた「平等寺」を見落としていたので ”朝日観音堂” へ戻る。朝日観音堂の東側にある「平等寺」の山門は閉ざされていた。山門には「東寺真言宗 朝日観音 平等寺」と。東寺真言宗寺院 平等寺の概要平等寺は南谷山奥蔵院と号す。平等寺は、尊觀(延慶2年1309年寂)が嘉元2年(1304)に開山、明治維新まで朝日観音堂や長尾天神社、若宮八幡神社などを擁していたと。山門は閉ざされていたが現在はどうなっているのか。山門前から朝日観音堂を見る。12:50平等寺から次の目的地「南足柄球場」方向へ北上。昼食時を過ぎ店らしきものがありこの先で車を停め引返す。道路脇に石灯籠、石碑があり坂道を上るが何もなく折り返す。石碑には「堅牢地神尊」と彫られていた。来た道を戻り三差路に石碑が建っていた。近寄ってみるが字は確認できなかった。喜加久堂菓子舗所在地:神奈川県南足柄市怒田1458肝心な店へ戻るが店は閉まっていた。店先にはいい香りが漂っていたのだが。窓に貼られていた貼り紙には、<閉店のお知らせ>平素より ”きかく堂スウィート” をご利用いただきありがとうございました。誠に勝手ながら、当店は3月31日を持ちまして閉店することとなりました。開店以来のご愛顧、誠にありがとうございました。 店主13:00何も買えず”喜加久堂”から北上。道路脇に立派なお寺があり参拝することに。坂を上ると境内の駐車場へ行けるのだが道路脇の駐車場へ車を停める。臨済宗珠明寺 (しゅめいじ)所在地:神奈川県南足柄市怒田1528珠明寺動物霊苑としても知られているお寺である。参道下に多くの石仏が並んでいた。階段の参道右側に並ぶ石仏群。左側の石碑。左側は「萬霊寺」、右側には「臨済宗円覚寺派 月光山珠明寺」と。13:00参道から見下ろす。 ー 続く ー
2024.04.05
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