PR
Keyword Search
Comments
Calendar
Category
この個所(原理講論>キリスト論> 重生論と三位一体論 )を読んでいてtomy様が私の意図を誤解されていることに気付きました。統一原理(以下「原理」)の見解としての「三位一体論(三位一体説)」に関しては、 第7章 キリスト論 全体、特にはその「 第4節 重生論と三位一体論 」に書かれています。「重生」は原理独自の用語ですが、古い「原理講論」では「新生論と三位一体論」のタイトルで書かれていました。
神学用語としての「神性」を説明させてもらいますと「神であることの状態または質」を意味しますがその点についての説明文を入れるべきであったと反省いたしました。お許しください。
神性と神学の違い - との差 - 2020 (strephonsays.com)
それ故、我々キリスト者の認識では「イエス様は神様そのもではない」という主張は神性を否定することになるのでございます。
それから「三位一体”説”」といっても所詮は「諸説の一つ」に過ぎないということをご理由に三位一体説は聖書に書かれていないとのことですが私に弁解の機会をお与えください。
確かにおっしゃられる通り、聖書には三位一体という言葉こそ使用していません
しかし、その概念は多くの個所で見られます。
(一) 重 生 論 (新生論)イエス様は、ニコデモにキリスト教の奥義ともいうべき「新生」の内容 を語られていたものでした。イエス様の使命は十字架ではなく、人類は「重生(新生)」させることにあったというのが原理の解釈であり、十字架を前に再臨の約束をされたのもまた、その使命をこの地上で完遂しなければならないという理由からでした。
① 重生 (新生) の使命から見たイエスと聖霊
イエスは、自分を訪ねてきたユダヤ人の官吏ニコデモに、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないと言われた(ヨハネ三・3) 。重生 (新生) とは二度生まれるという意味である。では、人間はなぜ新たに生まれなければならないのであろうか。我々はここで、堕落人間が重生しなければならない理由について調べてみることにしよう。
アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。
「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 」(第一コリント15:3-8)12名、そして、500名に同時にイエス様がどのように現れることが出来るというのでしょうか。忍者のような「分身の術」でも使われたとでも……
tommy様はイエス様ご自身が「人の子」と言われているから「イエス様は神様ではない人間だ」というお考えでしょうか?これについては前書の記事「 家庭連合は異端?--「三位一体”説”」は諸説に過ぎない 」で原理講論からの引用をもって応えていたはずです。そのお考えが間違われていることは先にも述べさせてもらいましたとおりです。
イエス様は人ではありますが神様でもあるのです。
少なくとも聖書をありのままに読めばそう読み取れます。
イエスは創造目的を完成した人間として、神と一体であられるので、彼の神性から見て彼を神ともいえる。 しかし、彼はあくまでも神御自身となることはできないのである。神とイエスとの関係は、心と体との関係に例えて考えられる。体は心に似た実体対象として、心と一体をなしているので、第二の心といえるが、体は心それ自体ではない。これと同じく、 イエスも神と一体をなしているので、第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない。ほか、いくつかの聖句を取り上げては「三位一体説」の聖書的根拠を説明しようとされておられたようです。そのいくつかを確認してみましたが、御子(イエス様)も万物被造世界を創造される前からおられた、複数形はそれを意味しているということでした。残念ながら、それらもまた「諸説の一つ」から脱却するだけの力がないことは、kimagure-orさんの方がはるかに聖書を読まれていることと思います。
神性と神学の違いつまり神性とは、神様、あるいは、それに類する聖なるものの状態や属性(永遠、絶対性、愛等)を指し、神”学”はその学問ということでしょうか。
神性 神、神などの超自然的な力や神から来て、それゆえに神聖で聖なるものと見なされるものの状態を指します。
神学 宗教的信仰、実践、そして経験に関する研究を指す。 特に 神と世界との関係の研究
最初にそれを説かれたのは2000年前のイエス様でした。当時、神様はイエス様ただ一人を「独り子」と呼ばれました。そのイエス様を仲介として神様を知るようになったクリスチャンたちはというと、直接的な血統のつながりはないにしても、養子養女の位置だと言われています。
聖書を見れば
ローマ人への手紙/ 08章 15節~23節
それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
と霊的には「子たる身分」を授けられたことを喜んではいても、なおも、「心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること」「からだのあがなわれることを待ち望んでいる」と更なる願いを吐露したりもしていました。つまりは、養子養女の位置からイエス様のような神様の実子となることへの願いでした。また、
へブル人第 11 章1節~40節 過去の義人聖人らの信仰(願い)が必ずやクリスチャンたちによって成就されることへの確信も書き記したりもしていました。
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。信仰によって、 アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
…(略)…
さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。
一休さんのような機知(トンチ)ではありません。
奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵
世界平和を願う 奇知の外の凡人
が徒然なるがままに書く日記です。
↓↓ にほんブログ村
ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
ブログデザイン変更、「デスバレー特別聖… 2024.03.24
「反対派が流布する〝血分け〟の風聞」 2022.11.04
『奇知外記』記事人気ランキング・ベスト… 2022.08.28