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2022.01.01
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「公的生活」

1986年2月14日
ソウル本部教会にて


 皆さんの前に感謝いたします。先生とお母様の誕生を祝してくれる真心を感謝するとともに、神の前に感謝をささげます。

 きょうは、「公的生活」あるいは「公的生涯」というテーマで語りたいと思います。

 私たちの人間生活には、私的生活と公的生活とがあります。私的とは、自分を中心とした生活であり、公的とは、全体を中心とした生活であるということを私たちは知っています。

 このように見る時、私的な道に準じて生きる道、公的な道に準じて生きる道というように、私たちの人間生活においては二つの道があります。

 本来、人間が堕落しなかったならどうであったのでしょうか。堕落していなかったなら、公的な道、私的な道は一つであったはずです。私的な道がすなわち公的な道となり、公的な道がすなわち私的な道の代わりになるのです。今日人間生活において、私的生活と公的生活が分かれているということは、これは堕落の結果なのです。このように考えられます。

 では私的生活とはどのようなものでしょうか。私的なものを中心として回っている生活です。公的な生活とはいかなるものでしょうか。公的なことを中心として回っている生活です。このように見るのです。

 私たちがここで知らなければならないことは、私的なことは、堕落以後に、悪が土台になったのであり、公的なことは、善が土台となったということです。これが問題です。公的なことは、私を中心として相対的な方向、あちら側と連絡しなければならないし、私的なものはそうではありません。

 このように見ると、公的なものは遠い未来と連結する生活であり、私的なことは遠い未来ではなく、自分の家庭であれば家庭を中心とするものであり、せいぜいのところ、自分の国家を中心として生きているのです。国家を中心として生きていくその中においても、国家全体よりも自分の家庭を中心として生きる、家庭全体よりも自分たちの夫婦を中心として生きる、その夫婦よりも自分個人を中心として生きる、私的な生活というのはこのように分けられるのです。

 それでは、この動機はどこから来るのでしょうか。あくまでも堕落は、私たち人間の始祖がなしたのです。アダムとエバはそれぞれ、男性を代表し、女性を代表しているのです。そのように父母が折れ曲がっているのです。アダム、エバは本来、公的な生活、神を中心として回らなければならなかったのです。神を中心に一つとなった立場で回る生活をしなければならなかったのに、神を外して、自分たち人間のみを中心として生活するようになったのです。

 人間も、男性であれば男性を中心として、女性であれば女性を中心として、自分というものを中心として分かれているのです。自分という個人を中心としてみても、二つに分かれているのです。心と体があって闘っているのです。

 それでは今日、堕落の起源はどこにあったのでしょうか。自分の心から始まったのです。心から始まり、心を通して体と関係を結ぶのです。体と関係を結ぶ世界は外的な世界であり、心と関係を結ぶ世界は内的な世界です。このように二つの世界となったのです。

 本来堕落がなかったなら、このような二つの世界はあり得なかったのです。一つしかなかったのです。一つを中心として、すべてが一つを基盤として、それを根としたのです。一つの根によって生まれてきた幹は、結局のところ根に似ているのです。その幹からは幹に似た枝が生じ、葉は枝に似てできているのです。ですから今日皆さんが知っているように、植物の細胞繁殖をいっていますが、細胞を取って育てれば、植物それ自体が出てくるのです。

 現代においては動物までもが可能であるという報告を聞いています。いかに小さな細胞の一つであっても、その細胞の一つは全体を代表しているといえるのです。花の細胞であれば、その一つを取って植えれば、それ自体の内に葉、幹、枝、根すべてが入っているのです。赤い色の蘭であれば、その細胞は小さい中にすべてを備え、色までも備えて、蘭に似て出てくるという事実があるのです。

 本質は変わることができないものです。植物世界においてこれらのことを見ることができます。もちろん、人間が移植などをして改種していくことはできますが、本質においての色というのは、根本自体においては変わらず、永久性をもっているのです。

 それでは、心と体が完全に一つになっているそのような人、心と体が完全に一つになった人になっていたならば、また、心と体が完全に一つになった男性と女性が、もし完全に一つとなったならばどのようになったでしょうか。

 この宇宙を創造された主人がいるとすれば、男性、女性を造って見つめるとき、彼らが立っている位置と生活は異なりますが、それ自体が東西の遠くの距離に分かれて生活するようにはなっていないのです。近くにいるようになります。遠い距離にいるとすれば、だんだん近づいて一つになれるようになっているのです。

 例を挙げてみると、田舎に行くと、今はそういうものがないかもしれませんが、石臼があるでしょう。石臼は上と下があって石臼です。一方がいくら完全で、いくら黄金でできているとしても、一つだけでは役に立たないのです。たたえ黄金でなく、石で、それが浮かぶ軽石であったとしても、それが一つの双をつくって石臼になれば、完全なものとなるのです。それは役に立ちますが、そうでないときには役に立ちません。

 石臼で何をするかといえば、二つが一つになって粉を作り、物をつぶすようになっているのです。一方だけでは絶対にできないのです。人も同じです。男性、女性を見ても、いくら見ても分かれて生きるようにはなっていないのです。一緒に住むようになっているのです。

 生理的関係から見ても、皆さんが知っているように、男性のもっているものすべては男性を中心としたものではなく、女性を中心としたものです。女性が主人なのです。女性の生理的器官は男性のものです。その二つの器官が一つとなって、すべてが作動するようになっているのです。石臼もそうでしょう。

 このような話を不思議に思う人がいるとすれば、その人は俗なる人です。先生はなぜ誕生日からそのような話をするのでしょうか? そのように思う人は俗なる人です。自然の理法がそうなっているのです。

 人間世界において、男性、女性どちらが美しいかといえば女性が美しいのです。なぜ美しいのでしょうか。顔も美しいし、色も美しいし、唇も美しいし、声も、手足も、体もすべてが美しいのです。男性は美しいというより勝手にできているのです。それは不思議です。

 動物世界はどうでしょうか。人間も動物ですが、鳥類はどうでしょうか。鳥の泣き声を聞けば、雄と雌ではどちらがきれいですか。(雄です)。ですから公平なのです。男性を一列にずらっと並ばせ、女性を一列に並ばせれば、女性を美しくしなかったなら大変なことが起きるのです。男性が不平を言うのです。それは間違いないのです。それで、まだらに、入り混ぜているのです。男性を見ても、醜い人と美男の群れがあります。このように二つに分けて考えるとき、すべてが平均、調和できるように、神は考えて造ったのです。

 これを見るとき、今日自然科学を研究する人は、「世界は偶然にできたものである。力によってできたものである」と言います。力によって偶然にできているといえば、悪くなることもあり得るでしょう。そのようになっていないのですから、偶然という内容の中に、良くなれるという概念を入れて言っているのです。

 このように考えるとき、人間自体が堕落していなかったなら、どのようになっていたでしょうか。堕落したということを公認するとすれば、堕落していなかったなら、どのようになったでしょうか。これを考えなければなりません。

 病気になった人が不幸であるとすれば、病気になっていない人は幸福ということになります。病気になっていない幸福な人とはどのような状態でしょうか。病気になっている人の状態が分からなければ、病気になっている人を、治す必要を感じないのです。そうでないでしょうか。

 病気になっていない、健康で自分の思いどおりに活動できる自らの状態をはっきり知り、比較できる絶対的基準、そしてだれもが尊敬する基準となり、それを体験した人は、反対の立場、病気になった立場がどれほど悲惨で不幸であるかを比較をするとき、天地の差があるのです。病気になっていない状態をはっきり知ることによって、病気になったその状況を放棄して、逃れようと努力するのです。

 同様に今日、私たち人間が堕落しているとすれば、堕落していなかった状態はどうであったのでしょうか。人間始祖のその時から、その始祖が堕落したので、今まで堕落していなかった状態を考えようともしなかったのです。知ろうとしても、知るすべがなかったのです。なぜなら、堕落した人間始祖から、そこを根として生まれたので、その根の因縁に従ってすべての人類は始まったからです。その枝とか葉のような皆さんは、堕落以前の世界を知ろうとしても知ることができないのです。それゆえに今日、世界が一つにならないのです。

 世界が一つになることを願い、「一つになればいい」と言います。それでは、すべての万民は、一つになれる共通分母をもっているでしょうか。このように問うとき、万民、人生を生きているすべての人間、現在生きている四十億人類という全体の群衆は、共通分母をもっているでしょうか。一つにならなければならないといえる共通分母です。そのような歴史性を超越して、常に一つにならなければならないというそのような本質をもっているでしょうか。もしその本質が共通でなかったならば、一つになったその世界も、いつでも破れてしまうのです。

 ですから、一つの理想世界、一つの絶対的な幸福を追求するそのような人間であるとすれば、その人間がもっている共通分母、自分の体の内においての共通分母があるのだろうか、ということが問題です。それは歴史過程を通しても革命することができないのです。いくら歴史過程が変わり、革命がなされたとしても、私たちの心自体は革命できないのです。

 (私たちの心は)善を追求し、より良きものを願い、価値あるものを願うのです。うそではないでしょうか。幼い三歳、四歳の子供を見ると、良いもの、悪いもの二つを置いておくと、いつの間にか測定して、良いものを持つなと言っても、教えてあげなくとも、自然に良いものを持つようになるのです。

 また、女性と男性は何が違うのかといえば、女性は美しいもの、パールやダイヤモンドの指輪、ネックレス等が好みで、男性は呼称したタンクのほうがいいというのです。女性は真珠の首飾に手がいきますが、男性は見向きもしないのです。男性と女性は違うのです。生活必需品に対しても、このように違うのです。

 このような事実を見つめるとき、この四十億人類が一つとなって、すべての幸福の世界を追求し、幸福の世界を占める、その変わることのない共通分母は何でしょうか。これが問題となります。

 ですから、私たちが歴史において良心ということをいってきましたが、この良心は正しいのです。良心が正しいとか、正しくないとかということは、絶対的なある標準を置いて言うのです。正しいというのは、何を中心として正しいと言うのですか。これが問題です。それは私たち人間の良心が共通的に示す道は、正しい道です。その正しい道は、革命の条件にかかわらない、いかなる変化の作用にも影響を受けない、絶対的なものです。そうできる共通分母が必要なのです。

 概して、私たち人間は、過去の人、現在の人、未来の人であっても、良心は、正しい道、方向はより良い所、より価値あるものを追求していることは事実です。より少ない価値のことは嫌がるのです。そのような方向性を自己の内に、すべての人間はもっているのです。

 部屋に一つのテーブルをもっているとして、それに相対的価値をもっている装飾品があるとすれば、そのすべてが私と関係を結びたがっているのです。また、自然の景色がよければ、その自然自体と自分と、相関関係を結ぼうとするのです。

 そのように、一つの地域に責任をもつ、昔の言葉でいえば、酋長(しゅうちょう)、インディアンの酋長のような立場にいるとしても、酋長だけで満足するのではありません。より大きな酋長同士が闘うのです。闘いながらより大きな版図を要求するのです。それが国を形成し、国同士が闘ってより大きな国、このより大きな国を通して一つの世界を、外的にも願い、内的にも願うのです。

 それで人間自体の心の欲求に従って人類の歴史は、もちろん戦争だとか複雑多難な革命過程を経てきましたけれども、進んでいる一つの道は、より良い所へ行こう、より価値ある世界へと行こうとするのは間違いのないことですから、歴史はそちらに、遅いけれども従っていくようになるのです。ですから今の世界はどのような世界であるかといえば、一つの世界に最も近づいた立場にいる、二つの世界となっているのです。

 この二つの世界と何でしょうか。善と悪があるとすれば、それはだれに必要なのでしょうか。悪魔に必要でしょうか。神な必要でしょうか。善と悪はだれに必要なのでしょうか。

 神は、善と悪は必要ではありません。善が必要なのです。二つともは必要ないのです。一つだけが必要です。また、サタンは善は必要ではありません。悪が必要です。これが問題なのです。

 それでは悪魔とは何でしょうか。悪魔は善を絶対的に否定するのです。では、悪魔の反対は何でしょうか。善魔という言葉がありますか。そういう言葉がないので、その言葉の代わりに神と言うのです。

 悪なる悪魔は絶対的に悪なる側です。しかし、善は絶対に滅びません。悪魔は善を許すと自分自身に破滅です。善を許しただけ、自分自体の否定圏が生ずるのです。この否定圏が半分以上になると、自体が自滅します。歴史の発展はそのようになっていくのです。力の均衡は限界線を越え、飽和線を越えると、崩壊するか退化するのです。この飽和状態をいつも克服することができれば、無限に発展することができるのです。

 共産党の弁証法理論を、このような論法でやれば、論理の規定が合わなくなります。闘争しながら常に発展するのであるといいますが、一度闘争すれば必ず下がるようになっています。限界線を越えれば下がっていくのです。

 このように考えるとき、歴史は悪なる側を中心として勢力の均衡をなす時、善なる側に来て闘って、いつも悪なる側は位置を譲って、善なる側は継承していくのです。そのような歴史的な方向があるため、私たちの良心は本来、永遠なる素性をもっているのです。永生しようとする素性をもっているので、悪なる世界を越えて善なる世界へ行こうとするのです。歴史過程において、いかに闘争したとしても、人生の目的において善なる方向へ行こうとする限り、南のほうが神のみ旨が成就され、北のほうと一つになる時代が来るのです。それで、私たちの良心は善圏に立とうとして、善の方向に合わせようと努力するのです。このように考えます。

 そして、善なる世界となった時、東のほうの世界と西のほうの世界は、衝突するのではないのです。東で善なることは、西においても善なるものです。南で善なるものは、北においても善なるものとなるのです。

 今日、二十世紀の時代において、政治的な面、経済的な面、あるいは文化的面、宗教的な面において問題になるのは、南北の対決なのです。貧富の差を中心とした対決、それから文化の差からくる対決、西洋文化と東洋文化との差異に対しする対決をするのです。

 闘うのは良いことではなく悪い事ですが、北で善なるものは、南においても善でなければならないのです。善なる世界はどのような世界でしょうか。北の富者たちは南の貧しい人々をそのままにしておかないで、自分たちと同じようにしなければならないのです。西洋文明は、知識文明とか、社会制度の革新を加え、人間生活の便宜を計るこのようなすべての文化の背景が(東洋文明と)異なります。しかし善なる文化として西欧文明は、東洋文明を善化することのできる本質型をつくらなければならないと思うのです。

 そのようになる時、その世界の善というのはどこに行っても同じ価値を伴うことのできる内容をもっているのです。ですから、善なる側、悪なる側、このようになります。

 今日の世界の問題を解決するためには、善なる世界にならなければなりません。善なる世界はなぜつくらなければならないのでしょうか。

 本来の私たちの心は、善なる世界を追求するようになっているのです。ところがなぜ人間は初めから善なることができなかったのでしょうか。これが問題です。これは堕落したからです。本来心が善であったなら、その心の前に、自分を中心として、体も善化されなければなりません。心が善を追求すれば、体も善を追求する方向に行かなければならないのです。

 ところが堕落することによって、体が善を追求する方向に和合できる環境でなく、内的、外的なものが一つになれる環境ではなく、内的な善なる要求と方向に、相反する舞台となったのです。相反する舞台、すなわち悪の基地がここに生ずるようになったのです。これが問題となるのです。

 本来、神が創造主として人間の心を中心に体を造る時、これらが二つにならないで、東において真であれば西においても真であるように、南の真なるもの、北の真なるものが同和一体理想を実現することのできる善の本質の内容から造られたとすれば、その善を中心とした良心は自動的に体を同和一体化させて、その方向が二つの方向ではなく、絶対により次元の高い善圏に前進しなければならないのです。そのような立場に立っていたならば、人間は堕落の概念というものを容認することのできない立場に立つのです。

 ところで今日、心を見ても心と体が闘っているのです。それはだれがそのようにしたのでしょうか。ヘーゲルのような人は、このような問題を中心として苦悶したのです。「人間とは何か」と探求して、心を分析してみると、心はある面においては善ですが、体との関係において心は悪なるものがあるのです。いつも闘争するのです。闘争ということを、人間生活から取り除くことはできないのです。これが一つの起源であり、人間の起源がこのようになっているとしたなら、その起源に通ずることのできる歴史発展、弁証法的発展をしなければならないと見るのです。闘争過程において、闘争を通して発展するという概念を植えつけたのです。

 本来、このような概念が人間にあってはならないのです。これが堕落によって植えつけられた歴史的根、歴史的報応であったのです。この舞台は何かといえば、悪なる舞台です。悪は絶対悪です。善も絶対善を追求するので、絶対的な善を追求するその神の前に、悪は対立的立場において絶対悪を追求するために、私たちの心と体においては衝突が起こるのです。

 心を中心として本来堕落していなかったなら、心がプラスであれば体はマイナスとなって和合し、自然に一つとなるようになっているのです。だれかが、「合いなさい」と言う必要もなしに、自然に一つとなるのです。しかし、心のプラスの前に別の悪魔のプラスが現れるのです。ですから、プラスとプラスで反発作用をするのです。

 あなたの行く目的と、私の行く目的が違うのです。反発的要因として凝結したものが堕落した私たち後孫であることを思うとき、私たちの先祖も私と同じ立場に立ったに違いないので、今日私自身が悪であることを認め、自分が生きている社会も悪であると認める限り、起源となる私たち人類始祖も、悪なる立場に落ちているという結論に至るのです。

 それはだれに似ているのでしょうか。私たちの先祖に似ているし、先祖は私たちに似ているのです。ですから、私がこうであるからアダム、エバもこのような苦痛の立場に立っていたのであり、その苦痛の場に立っている人間始祖自体が完成できなかったということは明白なことです。この意味において、私たち人類は堕落したということを結論づけることができるのです。

 統一教会の原理を知れば、堕落するようになった動機について全部知るようになりますが、私たちが知っている世界と一般の人々の知る世界とは、どれほど遠いか分かりません。あの月と地球よりも遠いのです。

 サタンは絶対に善を容認することができません。神は絶対悪を容認することができません。この地上において、悪魔の後孫となり、二つの群れになるのです。二つの群れに分かれる種を蒔いたので、これはどこに行っても東西南北、四方どこに行っても人類が満ちているのであり、それが二つの群れに分かれた戦場を成して生きているのです。

 個人戦場の世界型、東西南北四方、家庭の戦場の世界型東西南北、民族の闘いの世界型東西南北、民族、国家の闘いの世界型、全世界が一つとなって互いに闘い合うのです。悪魔の絶対的な世界、善の絶対的な世界を願う、その過程を経ていく人間世界は、悪魔側個人絶対型、善側の個人絶対型になります。そして歴史の時代は秋となったのです。

 今日の文明世界は、気候的に見ると温帯文明圏です。昔の古代文明は、熱帯文明型でした。人々が生活しやすいからです。しかし今は温帯文明圏です。あらゆる先進国家は温帯文明圏で、ほとんどが赤道以北にあります。その圏内にいるから、この温帯文明圏は気候的に見ると秋の文明圏です。秋の文明圏はやがて冬の文明圏とぶつかって、冷たい風に引き込まれるのです。

 では、あの北側をだれがもっているかといえば、悪魔がもっていて、神の温帯の文明圏に対し、冬を通じて寒帯文明圏となって、すべての温帯文明圏を打ってくるのです。それで葉が落ち、台風に吹かれて枝も折れ、どんなに多くの国が次々と折れていっていることでしょうか。このように、根が抜けてしまおうとしているのです。民主世界の根を、根こそぎ抜こうとするのです。それで北側の寒帯文明圏に追いやられているのです。

 しかしここに最も必要なものが何であるかといえば、善なる神側にいくら北風が吹き寄せたとしても、根こそぎ抜けない、節操を守っている竹のような木です。

 竹を見ると先生は気持ちがいいのです。いくら風が吹いても、竹は折れたりません。松竹と言いますが、なぜ松を先に言ったのでしょうか。竹松と言えばよかったのに。松の木は折れるのです。竹は折れません。そして竹は育つ時、一気に育つのであって、少しずつ育つのではないのです。それを知っていますか。一度に大きくなって、それから枝が出るのです。

 この悪魔の世界において、版図をどちらが先にもったかといえば、善なる側が先に版図をもったのではありません。自分の体と連結されたすべての今日の生活舞台である外的世界は、悪魔の舞台となっているのです。

 人はすべて物質と関係を結んでいます。物質の供給地が自然環境の世界であるなら、その環境世界は悪魔が主管する世界となっているのです。善なる世界は心の世界です。心の世界を焦点として心が主管する世界です。それゆえに、善なる世界は心の世界であり、悪魔の世界は物質の世界です。

 個人的悪魔の世界は、個人的物質、欲心、欲心、物質、欲心、お金、金、金というのです。また、善なる神の世界は、善を中心とする宗教などは愛、愛、愛というのです。善の本質は愛です。愛をなさない善なる道はないのです。目的は愛です。

 人間が生まれ、女性は美しく成長していくのですが、女性の美は何でしょうか。このようにおとなしく、美しく、純粋性をもった、内外共にいつでも触ってみたいし、夜見ても触ってみたいし、居眠りしながらでも触ってみたいし、思考しながらでも会いたい、そのような女性を造っておいたなら、その女性は善なる女性でしょうか。

女性がこのように足を投げ出して眠っているとすれば、それは善でしょうか。(笑い)なぜ笑いますか。アダム、エバを神が造られる時、服を作っておいて、アダム、エバを造ったのでしょうか。アダム、エバを造られてから、服を作ったのでしょうか。服を作ってアダム、エバが造られたなら、人が生まれる時、棺を作ってから生まれたということです。

 西洋の食口たちが来て、“先生は自分が見たこともない服を着ておられる”。これが韓国の服です。“洋服を着るのは嫌だったが、韓国服を着るといい”と、このようには考えないのです。両方とも外形がいいのですが、変化してはならない、一つのものがあります。それは何でしょうか。愛です。愛を真ん中に立てれば、赤も黄も、まだらなものもすべてがいいのです。形容詞や副詞を数千個付けてもいいのです。東西南北を回り、東西南北を自由に回ってもすべてが通じるのです。

 そして、善は善だけで定着することができません。幸福だけでも定着することはできません。幸福とは何でしょうか。幸福というのは、抽象名詞です。幸福を見たことがありますか。(見たことがありません)。見ていないのにどのようにして幸福を探しますか。(笑い)平和とは何ですか。ダイヤモンド一つを二人で見つめ合っていれば、それが平和ですか。平和を見たことがありますか。平和型は見ることができますが、平和自体は見ることができません。全部が抽象名詞です。

 これらのすべての美しい名詞、抽象名詞のすべては、網がいくら大きくとも、引き網に付いていくようになるのです。いくら太平洋全体に網を投げたとしても、引き網が引っ張るほうに網が付いてきますか。どうですか。いかに大きな波が西のほうにあっても、引き網が東のほうに行けばそちらに方向を合わせるようになっているのであって、自分は網であるから絶対に動くことはできない、ということは通用しません。

 同様に、今日の理想の要素や、幸福の要素、善の要素、すべての要素においての重りは何でしょうか。根になるものは何でしょうか。その根は、何よりも強く、より価値のあるもの、より変わらないもの、より絶対的なもの、それはいったい何でしょうか。

 服を全部作っておいて、すべてのものが整って、視線が合う時、顔を見た瞬間、そこに変わらないものを付けたいと思うのです。昔の人の顔を見ると鼻輪というものがありました。鼻輪を見ると、それは一段階上を考えた人です。鼻が一番高いのですけれども、いくら大きくても七十年から八十年たつとなくなってしまいます。しかし、鼻にかけた真珠とかダイヤモンドは変わらないのです。自分の鼻が変わらないものに近いのです。耳もそうです。お母様の耳も変わらないものに近いのです。(笑い) 手もそうです。

 では、体がそういうものを好むのに、心の指はそういうものを欲しがらないでしょうか。どうでしょうか、心(☆☆☆☆:心の俗語)という言葉がありますか。このように、先生は言葉をたくさんつくり出します。心(☆☆☆☆)はそのダイヤモンドが必要でしょうか。どうでしょうか。心のダイヤモンド、心の黄金板、心の耳飾り、それらはだれが作ってあげられるでしょうか。体(☆☆☆:体の俗語)のものは自分で作れますが、心の宝はだれが作ってくれるのでしょうか。(神様です)。そのように答えるのではなく、「神様だと思います」と言わなければ……。(笑い)

 同じなのです。変わることが嫌いなのです。変わらないものを願うのです。ですから心も変わらない善を願うのです。変わらないすべての美しさを願うのです。変わらないもの、千年万年後にも変わらない姿、その変わらないすべての根となり幹となり重りとなれるものが何であるかと問うならば、それは金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。世界の大統領でもなく、世界一の金持ちでもありません。世界の大学者でもありません。学者といえば、お母様の名前がそうですが(注:鶴子と同じ発音)(笑い)寛学者(注:同じ発音)というのは韓国に学者がお生まれになったからです。(拍手)

 なぜみんな口を開けているのですか。朝から気持ち悪くなるように。(笑い) 先生が気持ちよいのは分かりますが、皆さんがなぜ先生の誕生日にそのように喜ぶのですか。(笑い) 喜ぶべき人が喜ばなければならないのに、他の人が喜ぶと、当人は味がなくなるのです。(笑い)

 きょうの話のテーマは何でしょうか。公的生活と私的生活です。このように見てみると、私たちの心も変化しないことを追求するのです。私の目も、変わることを見るのを願いません。においも変わることを願いません。永遠に変わらないにおいとは、どんなものですか。香ばしく刺激的であるよりは、刺激的の反対は何ですか。それでも香気といえば香気といえるし、辛いといえば辛いのですが、それもいいのです。

 祖父、祖母について考えると、昔の変わらない顔を期待していたというのです。七十歳の老人は、私の目は変わっていないのに、あの祖母の顔はしわだらけになっているというのです。それを見たいと思うでしょうか、見たくないでしょうか。見たくないけれども、そこにはずらずらと愛の歴史の束がついているのです。昔は笑う時は一つの線しかなかったのに、八十歳になると線が二つになった。これは悪いことですか。笑う時の線が十本になった。一〇〇本になった、一〇〇〇本になった。ホ、ホ、ホ、ホと笑うその顔を笑いの線として見るとき、昔は口だけが笑っていたのに、頭のてっぺんから体全体が笑うようになった。このように思うとき、祖母のしわだらけの顔は、美しいでしょうか、醜いでしょうか。そうだろうと思えるでしょうか。(笑い)

 その祖母が腰を曲げて笑うとき、笑いの塊になってしまったのです。そのように見ることのできる祖父であれば、どれほど幸福でありましょうか。また、祖母もあの祖父の顔も私に似ている。私にどんどん似てくる。あのしわは私が思うのに、疲れてあのようにできたのだ。どれほど疲れて、あれほどしわになったのか。夜眠ることもできず、疲れてあのようにしわになって垂れてきたのだ。愛を中心として、何に結びついても、その内容を説明すれば、すべて、万事O何ですか、K、OKというのです。

 このように見るとき、天下自体が喜ぶことのできる共通分母は何ですか。分母を知っていますか。分母を知っているでしょう。万でも億万でもいいです。共通分母は何でしょうか。善自体は他を喜ばせますが、善自体は喜ぶでしょうか。幸福自体は人々を喜ばせますが、幸福自体は喜べますか。見たことがありますか。それは共通分母であるから、善自体は喜ぶことはできないし、幸福、平和自体も抽象名詞でその王であるとしても、朝昼夜を除くことなく、すべてが喜ぶことのできるのは、愛という再葉以外にはないのです。愛は見たことがないけれども、知っているし、説明が必要ないし、何かの介入が必要ではないのです。それは既に知識以上にあるのです。常識以上です。

 神は善なる方ですか。(はい)。見たことがありますか。(笑い) 善であって何になりますか。善自体が喜べる、神が喜べるものがありますか。神が喜ぶことは何ですか。神は全部自分で勝手に造ることができます。ダイヤモンドの王宮を造ることができ、ダイヤモンドの宇宙、あの星の世界にはダイヤモンドの星があるか知っていますか。数千億の星があるのに、どれほど膨大な宇宙なのでしょうか。二〇〇光年以上、宇宙が大きいというのです。それは平たいですか、どうですか。丸いのです。丸く楕円で、それで息をすることができるのです。地球も運動をします。地球運動が圧縮するのです。息をするのです。そういうことを知っていますか。大きくなったり、小さくなったりします。

 では、神自体が喜ぶことは何かありますか。会いたい時いつでも会えるし、触ってみたい時いつでも触れるし、持ちたくないものまで持つことのできる神が、願うすべてを自由にできる神が、何をもって喜ぶことができますか。神が喜ぶことができるのは何でしょうか。(愛です)。愛を、なぜ神が喜ぶのでしょうか。そのように答えてはいけません。愛は相対的関係がなくては成立されないからです。絶対神一人ではそのような愛に出会うことができません。相対者を立てなければ出会うことができないので、その絶対創造主の前に、絶対相対資格を備えるためのものが創造であり、その創造の傑作品がアダム、エバ、私たち人類の始祖でありました。それはなぜでしょうか。神も愛を必要とするからです。神も同じです。

 「神様、あなたも愛という分母が好きですか」。いくら復帰摂理にお疲れになっていた神であるとしても、「愛が必要ですか」と聞く人がいれば、目が明るくなってくるのです。疲れていた神が一気に飛び上がって、「そうだ、好きだとも」と答えるのです。今まではそのように聞いてくる人は一人もいなかったのに、文なにがしという人が聞くのです。文なにがしという私は、異端の魁首であり、詐欺師であると言われていますが、「神は愛が必要であることを知っている人です」と言えば、神は半分は笑わないで、右の半分だけが笑うのです。右側だけでも、笑わせるのは、笑わせないことよりはましです。仕方がなく、神も喜ぶのです。

 何を喜ぶのですか。黄金、ダイヤモンド、大学出身、碩学、博士、そういうものが何の必要がありますか。ここに尹(ユン)博士がいますね。尹博士は、その博士の名称を投げ捨てても、愛の一片と交換しようというときには、間違いなく、博士の名称一〇〇個、一〇〇〇個を与えたとしても、愛のかけら一つと交換しようとするでしょう。尹博士、そうですか。(はい、そうです)。

 祖父の一番喜ぶことは何でしょうか。祖母の一番喜ぶことは何でしょうか。若い妻も一番喜ぶものは何でしょうか。若い夫も一番喜ぶものは何でしょうか。娘たち、子供たちは愛が好きでしょう。だれの愛ですか。父母の愛ですね。すべてが愛です。子供の時も父母の愛、力強く飛び跳ねるときも、お互いの妻や夫との愛。(注:新妻は韓国語でセクシといいますが、セクというのは色をいい、シは種を意味します。美しい色の中で最も美しい色の種だからどれほど美しいでしょうか)。韓国語は啓示的です。

 では、祖父母や死んで共同墓地に横たわっている者がもし感じることができるとすれば、愛する人たちが墓に来てくれればいいでしょうか、どうでしょうか。(いいです)。「いいです」と言うよりも、「いいだろうと思います」でしょう。死んで、いないのですから。

 共同墓地で腐敗するとき、愛する人たちが見守る中で、腐敗したいでしょうか。一人で、雪が積り、訪ねてくれる者もいない中で、春になり平地には雪が溶けて水になって流れていて、それも山の頂上の一番最後の氷が溶ける、そのような墓に横たわっていたほうがいいでしょうか。そこにも愛という言葉が必要です。愛する子女たちが訪ねてきて、墓のことを心配しながら雪を片づけるその場が、どれほど幸福でありましょうか。同様です。

 このように考えるとき、神が生活し、生きることができる世界は、いかなる世界でしょうか。神が最も喜ぶことのできるもので飾った世界です。それは何で飾ったでしょうか。愛を軸とする、万の種類の燦爛たる内容をもって、見るに良いだけではなく、美しいのであり、感じるのに良いだけでなく、喜ばしいのです。良いということと喜ばしいこととは違います。喜ぶことは笑うことをいうのであって、良いことはただ良いことです。

 良いのは基準をいうのであり、喜ばしいことは笑いをいうのです。

 見るに美しく、感じるのに喜ばしいし、暮らすのに素晴らしいのです。素晴らしく生きようということと、良く生きようということは違います。素晴らしく生きるということは、各層にいろいろとかかわっていますが、素晴らしい生活はそれらをすべて詩で消化することができ、踊りを踊りながら越えていく人です。ここにまた何かがあるのです。そして頭を上げるとき、踊りのリズムで越えていくのです。それが素晴らしいことです。ですから韓国の踊りは素晴らしい踊りです。幅が広いのです。

 どのように生きるといいましたか。素晴らしくです。神の国へ行って素晴らしく生きるのに、それは何を中心としてつくられる素晴らしさですか。(神様です)。趣を詩(うた)うのはどれほど素晴らしいでしょうか。それを愛で詩うのにどれほど素晴らしいことでしょうか。そのような天国を願うのです。先生が知っているのはそのような天国です。その感じる感覚を引っ張れば、神も引っ張られてくるのです。愛の綱によって。

 この世でもそうでしょう。このごろテレビ文学館があって、そこから伝説がたくさん放映されるでしょう。愛する人同士がやむを得ない事情から分かれて、どうすることもできずに死ぬようになりますが、自分の愛する人が死ぬときは、その時間を知っているのです。夢うつつの中に現れて、「私は行きます」と告げるので、知っているのです。それは何の綱でしょうか。(愛の綱です)。愛の綱は、すべての空間世界を動かすことができるのです。時空を超越して、自由自在の活動舞台をもつのです。

 では、一〇〇〇年前に亡くなった祖父に愛する人がいるとすれば、一〇〇〇年後には忘れることができるでしょうか。(忘れることができません)。知識とか、金とか、その他のもので栄えたのは十年経過することも難しいのですが、愛に栄えて感じたその感じと刺激は、一〇〇〇年の歳月であっても防ぐことができないのです。その偉大な力をもっているものを何といいましたか。

 それで、神も愛の前ではぐうの音も出ないし、いかなる暴君も愛をもっている忠臣の前では、ぐうの音が出ないのです。能力があり、知恵があり、聡明な忠臣であっても、ぐうの音が出ないのです。愛までは離すことはできないのです。

 統一教会ではこれまで、先生が愛の哲学についてたくさん教えてあげたでしょう。細胞も愛の細胞になったでしょう。そうなっていますか。それが必要なのです。どこに行っても、統一教会の人々は、この世の人々と違わなければなりません。

 アメリカと韓国との間は、どれほど遠いですか。足の真下がアメリカです。朝の今、アメリカでは何時になりますか。七時ですから、十三時間遅いのです。ですからアメリカは現在夕方です。ここできょうの夜になれば、アメリカでは朝になり、きょうの祝賀行事をするでしょう。それでこちらはプラス祝賀行事で、あちらはマイナス祝賀行事です。プラスとマイナスが愛を置いてそうなっているのです。私たちはそのように生活しているのです。

 私たちの結婚式は、韓国に一人の男性を立てて、アメリカに一人の女性を立てて、写真を置いて結婚式をすることができるのです。そういうことをだれから学びましたか。歴史にないのです。いかなる国の歴史にもないのです。両班(ヤンバン)の歴史にもなく、下層の人々の歴史にもないのです。しかし、統一教会の歴史にあります。統一教会のどの歴史ですか。文先生の粗雑な活動の歴史にですか。いいえ、そうではありません。愛の歴史にです。そこには異議がないのです。真の愛の歴史にあるのです。

 この世界、地球星が願うものは何でしょうか。一つの国を願うでしょう。一つの国を願い、その国の中で何を願うでしょうか。一つの中心者を願うのです。一つの宝座を願うでしょう。それはどのような宝座でしょうか。天地を動かせる、愛を中心とした宝座であるとすれば、万代変わることのない、統一王国が生じるのです。これは素晴らしいことでしょう。

 なぜそうでしょうか。神の国がそうです。そうなっているのです。心がプラスであれば、神の国がプラスであり、地上世界がマイナスにならなければなりません。この二つが、縦的には東洋、西洋が一つとなり、南、北が一つとならなければなりません。

 それは何によって一つにすることがてきますか。それは、お金ではなく、知識でもなく、権力でもありません。いかなる独裁者がいたとしても、歴史上に、成吉恩汗(チンギスハン)がいかに強いといっても、天下を統一することはできませんでした。いかに戦いの版図を広げ、歴史的に妖邪なことをやったとしても、イギリスならイギリス、フランスならフランス、各々の国はそのままです。全部占めることはできませんでした。

 第二次世界大戦がいかに大きな戦争であったとしても、その戦争で日本が敗戦しましたが、日本の国はなくなりましたか。国民がなくなりましたか。文化がなくなりましたか。なくなっていません。それらを統一することができません。力の世界には系列があります。強い力、弱い力、この力によって秩序が形成されるのです。だれもこれを一つにすることはできません。力をもっては、上と下を一つにすることはできません。東西南北をつづることはできません。力は回ろうとしません。力は直線作用をしようとするのです。ですから、神は知恵の王であるから、地上に引力というものをつくったので、地球星の動くすべては、放物線を描くのです。

 何が系列を通過させることができますか。上下、左右、前後を何によって連結することができますか。お互いに、相対同士が授け受けるように連結しなければなりません。授け受けるようにです。ですから力がある前に、作用が先になければなりません。作用がある前に、主体、対象がなければなりません。

 この宇宙は力によってできていると漠然と言いますが、その力が先か、作用が先か。電気が先ですか。電気の作用が先ですか。どちらですか。(作用です)。原理的には作用が先で、宇宙の力が先ではないのです。力の背後には作用があることを認めているのです。そして、作用は独りでにできますか。(できません)。作用の前には、プラス、マイナスの主体、対象概念を認めなければなりません。

 このようになるとすれば、論理的起源、原因が、そのような主体、対象として出発した作用拡大運動を標榜して一つの世界を歴史性を通してつくろうとする、その目的の世界も、主体、対象として統一圏世界なのです。

 ですから、今日の民主世界と共産世界は、一つは唯心世界、他は唯物世界として、主体、対象関係として現れてきたのです。これらがお互いに闘っているのです。一つになっていないからです。これを一つにしてこそ、本来一つになれる宇宙根本力の作用原則に和合されて、マイナス極とプラス極が、南にあるプラスと北にあるマイナスが一つになるのです。統一の世界が始まるのです。

 一つの世界を追求する前に、一つの作用を先に見いださなければならないし、一つの作用を探す前に一つの作用を起こすことのできる母体的社会、分母を探さなければなりません。それが何でしょうか。真の人です。どこまでも人です。理想も人を中心としていうのです。幸福もすべてが人を中心としてあるのです。人の中で、その分母とは何でしょうか。それは愛です。

 人間の心と体がこのように相対的立場に立って、愛という共同分母を中心として一回転したことがありますか。回転することができませんでした。皆さんの心と体はいつ一つになれるのでしょうか。神がいるとすれば、絶対的に神と一つになれる起源があるはずです。それがいつ一つになれるかという問題を知らなければなりません。

 皆さんの体は四〇〇兆の細胞からできています。この細胞に、見えない心の人がいるのです。見えない心の人と体の人がいるのです。主体と対象が一つとなって、あっ! という声を出しながら一つになるのです。体は心が自分のものであり、心は体が自分のものであるといえる。私はあなたを必要とするし、あなたは私を必要とするのです。

 ですから、私の貴い愛が私にあるのではなく、あなたにあるのです。ゆえに、男性の主人は女性がもっているのであり、女性の主人は男性がもっているのです。主人を換えてもっているのです。それなのに、男性は自分のものであるかのように浮気をしたりして、妖邪にもこの世を台無しにしてしまっているのです。女性も同じです。自分のものではありません。主人は一人です。主人は自分ではありません。夫が主人なのです。女性の主人は夫であり、夫の主人は妻です。

 何を中心とした主人でしょうか。愛です。愛がなぜ好きだというのでしょうか。愛する時には、すべての心と体の細胞が共に作動するのです。堕落した愛は作動しながら、だんだん落ちてきます。作動し始めると落ち始めるのです。悪なる愛は、位置が同じ所から出発しましたが、どんどん作用をしながら落ちてくるのです。それで幸福が招来されるのではなく、分裂と嘆息の連続、どんどん破壊分裂作用が起きてくるのです。破壊分裂作用が起こるのです。

 ほとんどの男性に、破れた愛のかけらが胸に入っていますので、自分勝手にそれを分けていくその作用をしているので、世界の人類は定着することができず、頭を振り、体を振って、やるだけやっているのです。そのような皆さんであると知っていましたか。

 祖父は、自分の家では自分が最高であるのに、そういう祖父もすべて壊れてしまったのです。国もそうであり、妖邪な国の中に住んでいるのです。ですから、これらを一気に清算しなければなりません。

 神がこの世を眺める時、悪魔の土台となってしまっているので、世界的な悪魔、国家的悪魔、社会的悪魔、氏族的悪魔、家庭的悪魔、夫婦的な悪魔、個人的悪魔、すべてが悪魔の世界となってしまったのです。闘っているのです。皆さん、心と体が闘っているのでしょう。(はい)。それが神側ですか。悪魔の側ですか。

 闘うことは死亡と境界線を接しているのです。和平は生命と繁殖です。発展です。ですから死亡的な愛は、地獄と通ずるのです。分かりましたか。

 ですから、いつ自分が一つになるかといえば、男性と女性がいなくては、心と体が一つになれる時がないというのです。なせ、女性は男性を探していき、男性は女性を探していくのかといえば、それは、宇宙の公的な法度の規格に合う男性、女性という人間になるためです。人間といえば、男性と女性です。ここを探して、この道において一つにならなければなりません。神の天理の大道の道は愛を紹介する道です。愛へ直行できる道です。その愛の道は、個人が行く道、家庭、氏族、民族が行く道であって、それらすべての栄養素は同じです。

 一つの木において、根に行く栄養素と枝に行く栄養素は違うでしょうか。芽に行く栄養素と根との栄養素の相反する要素は、根の深い所を求めていこうとするのです。そこには高低がありません。そこには東西の分立がありません。南北の格差があり得ないのです。それが合わさって一つの生命体を成し、その木が育っているのです。

 縦的に流れていたすべての樹液は、西側に来るな! 西側の樹液は東側に流れるな! このようなことがどこにありますか。西欧文明を主張していた現在のキリスト教文明が、西欧第一主義を主張していたすべての要素が、生命の要素が、東洋に流れてはならないとだれが言えるでしょうか。

 バラバラになりそうなので、レバレンド・ムーンが東洋から行って重りを付けて、前方の線は切れてもいいのです。後ろに線をかけて連結すればいいのです。そうすればあとから付いてくるのです。二世を通して、アジアに来なさい。ですから西欧社会の二世たちが全部、東洋、このごろでは、日本というのです。これは七年間だけです。七八年から八五年までです。七年が過ぎれば、韓国に連結しなければなりません。ですから、このごろ韓国は第二の日本であると、西欧社会で言っています。日本を消化することができるのです。日本も追いついていくことができません。なぜでしょうか。大陸を連結できる基盤がないからです。

 韓国が大陸に結ばれるその日には、東洋文明の定座時代、定着時代が来ると思うのです。先生は、そのことをやっているのです。

 歴史は何に向かっているのでしょうか。今まで死亡圏に向かっていると思われていました。そして、その死亡圏の中で朱鷺(とき)の息をしていたのです。朱鷺の息とは何かといえば、朱鷺は首が細く、息をすることも大変なのです。何か少しでも飲み込もうとすれば、息をする穴が塞がれるので、首をこのようにするのです(しぐさで示される)。そのような中であっても、朱鷺は愛を求めて行こうとするのです。

 愛する祖父の臨終時に、最も必要な人は誰でしょうか。それは祖母です。祖父と祖母の関係は何かといえばそれはたった一つ、愛の関係しかありません。今までは食べる物が異なり、生活も別々であり、遊びにおいても別々でありました。根が異なるため、今までの生活とすべてが違うのに、何が二人を結び付けたのかといえば、愛なのです。ですから愛が切れてしまったら終わりです。

 ところが今、その祖父が死にかかっているのです。愛する子供たちがみんな集まっていても、そこに祖母がいなかったならば、祖父は「お母さんはどこに行ったのか?」と問うのです。子供たちがいなくてもそばに妻(祖母)さえいれば、「これでいいのだ。いいのだ」と言うのです。妻一人と子供たち十人のどちらを選ぶのかというと、妻を選ぶのです。なぜですか。それは愛のゆえです。その愛は、子供たちから見いだすことはできません。夫婦の愛は横的な愛であり、子供たちとの愛は縦的な愛なのです。妻との横的な愛を整えてから、縦的な愛が連結されなければなりません。まず妻がいて、次に縦的なる子女たちが連結されなければなりません。

 皆さんが誕生した時、その生命はどこからきましたか。皆さんの生命の根はどこから生まれたのですか。それは愛からです。父母の愛の根から生命が生まれたのです。生命があとなのです。では何が先かといえば、まず父母の内外の要素がぐらぐらと煮立っているのです。水が百度になって沸騰し、蒸発するような爆発的な瞬間なのです。そのような男性の罐(かま)と女性の罐に蓋(ふた)がしてあって、この罐を互いに近づけると暴発するので、何で連結するかというと愛の穴で二つを連結するのです。するとお互いの蒸気の力が沸き出るはずなのに、二つをくっつけてしまうとザーッと音を立てながら授け受けするのです。その時、この二つの罐がどれほど揺れ動くことでしょう。考えてみてください。互いにこのように回るのです。こちらは上に、こちらは下に回って、回転するのです。男性と女性もこのようなのです。

 宇宙という罐の中に入られて、神の蓋をしっかりとされ、神の内的なものと外的なものが完全に一つとなり、「穴を合わせなさい」と言われて、ぴったり合わせ、「空気が入らないようにハンダづけをしなさい」と言われたのが、私たち人類始祖の結婚式なのです。(笑い) なぜ笑うのですか。そこで、主体と対象は全く同じであってはなりません。上が強いために下へ流れる本然の流れがあるのです。ですから回り始めると誰もそれを止めることはできません。神様にもできません。愛の旋風が入っているので、神様もそこで見物するしかありません。(笑い)そのようなパイプ罐は何ですか。これが男性と女性が結婚式をする、愛のパイプ罐です。分かりますか。

 宇宙の圧縮空気が半分ずつに分かれて入っても、その体と心が暴発しない愛とはどれほど大きいのでしょうか。宇宙を抱いても、宇宙を消化しても余りある力をもち、包容力をもっているのです。これがもち運動を始めると、それに従い台風圏が生まれるのです。天と地の間に台風圏が起こる時、その台風圏にこの地球上のすべての動物、生物がみんな巻き込まれ、すべてがその方向に頭を向けて行こうとするのです。行く途中で雷が落ちたとしてもいいと言うのです。このようなことを皆さんが忘れないように、先生は誕生日のきょう、このようなショーをしているのです。

 誕生日は、座って楽にしていて、誰かが舞いを舞ったりすればいいのに、これは何ですか。(笑い) お金が入るのでもなく、何も入ってこないのです。(笑い) でも喜んでいるんですね。美しい人、醜い人、しわくしゃの人、艶のいい人、すべてが喜んでいるんですね。先生がこのようなことをやっているのは、愛の風が吹きつけるからなのです。それは美しいことでしょうか、醜いことでしょうか? (美しいことです)。

 あなた方の父母が一つになったその愛に、神様までもが酔って、吸い込まれてくるのです。そのような愛から生まれることができたならば、それは不幸だったでしょうか、幸福だったでしょうか? (幸福でありました)。そうです。幸福だったのです。これまで皆さんが生まれた生命の根は、堕落した父母の因縁によるものです。

 天地のすべてを包括できる軸となる頂点、平衡の基点、そのアダム・エバの愛から、この垂直の神の愛に連結されて限りなく相対圏を包括していくのです。この作用が回れば、電気がこうなるのです(しぐさで示される)。このように下ってくれば縦的な作用は自然に生ずるようになります。物理を勉強する人はよく知っているでしょう。すべての存在の作用は、球形運動に似るのです。必ず、平面的作用に球形的作用が一つの核を中心として連結されるので、球形運動がなされるのです。愛のすべての力の作用が、直結する中心の位置が絶対的な神の愛であり、私たち人類の本性が願ってきた理想的愛なのです。分かりましたか? (はい、分かりました)。

 お母様に約束して話し始めてもう何時間たちましたか。何時から話し始めましたか? (九時三十分からです)。九時四十分からではありませんか。九時三十分からでも、あと十分たてばもう一時間半話したことになりますね。

 私的な道とは何でしたか。それは自分を中心として上がっていく道ではなく、自分を中心に喜びつつ下がっていく道なのです。なせ私的な道を行ってはならないかということを、よく知っていなければなりません。人間にはすべて商人の心理があります。先生の誕生日に朝早くから青坡洞に来て、座っているのも、自分のためになる何かが得られるからであり、ポケットにちり紙の一枚でも入るものがあると思うから来ているのです。もし自分から何かが奪われていくようならば、「また来てください」と言っても、決して再び来ないでしょう。(笑い)

 では何が得られましたか。(韓国では俗語として「□□」(スープ)がふるまわれることを、何かの得をするという意味で使う)これからはスープと言わないで、骨と言いなさい。(笑い)スープより骨がいいのです。骨を煮込んだらスープになるでしょう。(笑い) 私たち統一教会では、これからスープよりも、骨が得られたのかということが大切です。皆さんは今朝ここに何をするために来たのですか。損をするためにですか、得をするために来たのですか。結局は先生一人を立てて、この数百人が利益を求めに来たのでしょう。(笑い) そうですよ。先生は皆さんが利益を得ることを願っています。先生がどんどん与えれば、あなた方の益となります。先生は与えれば与えるほど、どんどんなくなってしまうのですが、「もっと与えなさい」と何かが先生を押し出すのです。それが真の愛なのです。

 生水(わき水)は汲めば汲むほどますます溢れてくるのですが、渇水(ため水)は汲めば汲むほどなくなってしまうのです。同じように私的なこととは何かといえば、使えば使うほどなくなってしまうのですが、公的なこととは使えば使うほど増えてくるのです。分かりましたか。私的生活をした人は、自分の好きなことをやって悲しみの中で死んでいき、公的生活をした人は笑いながら死んでいくのです。ですから人間は、私的生活を選んではならないのです。人間は公的生活を選ばなければなりません。公的な仕事は難しく、悲惨で涙が出るし、迫害されますがその人は喜びの明日を迎えることができるのです。

 文なにがしという人がこれまで生きてきた内容を話しましょう。先生が六十六歳まで生きてきたその生活はどうだったのでしょうか。先生は自分のために生きてきたのではありません。公的なことのために生きてきたのです。公的なこととは、大韓民国のためにということでも、世界的なことのためにということでもありません。宇宙的公的なことを追求したのです。それは思想の善を追求する道義的な目的であります。今日、価値問題において、哲学的価値では真善美というのですが、そこには愛がありません。ですから今日の知識を基盤とした論理的理論体系を追求していく世界は、索漠な広野を行くようなものです。博物館を建てて、展示物をすべて陳列したのですが、人がいないのです。そのような世界です。愛がないのですね。

 動物たちも春になると、愛の相対を求めてさまよいます。鳥もそうですね。夏になり昆虫の泣き声を聞くと、それは二種類しかないのです。お腹が空いて鳴く声と、相対を求めて鳴く声です。それしかないのです。食べ物を求める、その信号は簡単です。先生は田舎に住んでいたので、昆虫の世界をよく知っています。先生が捕まえたことのない昆虫はありません。獣も先生が捕まえたことのないものはありません。虎はまだ捕まえたことはありませんが、山猫、狸、兎など、数多く捕まえてみました。とても興味があるのです。それらは一匹で生きているのかと思っていましたが、みんなカップルをなしているのです。私たちの両親よりも、もっと立派なカップルではないかと思えるほどなのです。

 それらの昆虫世界も、動物世界もすべて何によって生きているかというと、愛です。彼らの愛なのです。愛を中心として永遠に継続しなければならない紐を残さなければならないのです。その紐が子女なのです。愛の道は必ず永遠に向かって働くので、愛を通して子女が繁殖するのは、未来と永遠に連結する道を残すためなのです。ですからその道のない人は、未来を得ることができないので、不幸な人です。父母は過去に対して授け受けすることができるのであり、夫婦は現在に対して授け入けることができるのであり、子女は未来に対して授け受けることができるのです。過去、現在、未来に対して授けようとしても授けることができず、受けようとしても受けることのできない人はかわいそうです。宇宙の合格者にはなれないのです。

 宇宙の合格者とは、何を中心としているのかといえば、それは愛を中心としてです。だから孤児はかわいそうだというのです。夫がいない女性はかわいそうな人です。いくら美人であっても、立派な人であっても寂しいのです。女性は生理的構造からしてもそうなのです。もしそうでなければ、その人の生理的構造が間違っているのです。女性は情緒的に男性よりも早く感じるようになっているのです。情的なのです。涙を流していても、すぐにその態度が変わるのです。情緒的な面における変化が早いのです。自然の法則がそうなっているのです。

 それでは、公的な道とは何かというと、男性が女性のために死ぬほど頑張る道でしょうか。それは自分のための道ではなく、二人の公的のためです。父母が子供のために死ぬほど苦労することも私的でしょうか。それは公的です。分かりますか。父母が子供のために命を尽くしていく道は私的な道ではありません。何の道でしょうか? 公的道でしょう。

 このように見る時、この宇宙史を綴っていく人間生活とは、愛の版図を基本公式として、前後左右、四方を整えて訓練を受けて生きるべきだということを、私たちは発見できなければなりません。愛を中心として父母のために生きていく、これ以上の公的な生涯はないという結論が出ます。そのような法度を万宇宙に通過させれば、宇宙が歓迎するようになっているのです。

 年老いた父母と世界の国境を越えて、その国で初めて会う人であっても自分の両親のように対してあげるのです。自分の両親を愛することを学んだのですから、その愛を世界万民の両親の年齢にあたる人に対して行える人は、すべての天地を無事に通過することのできる覇権を持った人となるのです。これが分からなかったのです。

 第二次世界大戦がいかに大きな戦争であったとしても、その戦争で日本が敗戦しましたが、日本の国はなくなりましたか。国民がなくなりましたか。文化がなくなりましたか。なくなっていません。それらを統一することができません。力の世界には系列があります。強い力、弱い力、この力によって秩序が形成されるのです。だれもこれを一つにすることはできません。力をもっては、上と下を一つにすることはできません。東西南北をつづることはできません。力は回ろうとしません。力は直線作用をしようとするのです。ですから、神は知恵の王であるから、地上に引力というものをつくったので、地球星の動くすべては、放物線を描くのです。

 何が系列を通過させることができますか。上下、左右、前後を何によって連結することができますか。お互いに、相対同士が授け受けるように連結しなければなりません。授け受けるようにです。ですから力がある前に、作用が先になければなりません。作用がある前に、主体、対象がなければなりません。

 この宇宙は力によってできていると漠然と言いますが、その力が先か、作用が先か。電気が先ですか。電気の作用が先ですか。どちらですか。(作用です)。原理的には作用が先で、宇宙の力が先ではないのです。力の背後には作用があることを認めているのです。そして、作用は独りでにできますか。(できません)。作用の前には、プラス、マイナスの主体、対象概念を認めなければなりません。

 このようになるとすれば、論理的起源、原因が、そのような主体、対象として出発した作用拡大運動を標榜して一つの世界を歴史性を通してつくろうとする、その目的の世界も、主体、対象として統一圏世界なのです。

 ですから、今日の民主世界と共産世界は、一つは唯心世界、他は唯物世界として、主体、対象関係として現れてきたのです。これらがお互いに闘っているのです。一つになっていないからです。これを一つにしてこそ、本来一つになれる宇宙根本力の作用原則に和合されて、マイナス極とプラス極が、南にあるプラスと北にあるマイナスが一つになるのです。統一の世界が始まるのです。

 一つの世界を追求する前に、一つの作用を先に見いださなければならないし、一つの作用を探す前に一つの作用を起こすことのできる母体的社会、分母を探さなければなりません。それが何でしょうか。真の人です。どこまでも人です。理想も人を中心としていうのです。幸福もすべてが人を中心としてあるのです。人の中で、その分母とは何でしょうか。それは愛です。

 人間の心と体がこのように相対的立場に立って、愛という共同分母を中心として一回転したことがありますか。回転することができませんでした。皆さんの心と体はいつ一つになれるのでしょうか。神がいるとすれば、絶対的に神と一つになれる起源があるはずです。それがいつ一つになれるかという問題を知らなければなりません。

 皆さんの体は四〇〇兆の細胞からできています。この細胞に、見えない心の人がいるのです。見えない心の人と体の人がいるのです。主体と対象が一つとなって、あっ! という声を出しながら一つになるのです。体は心が自分のものであり、心は体が自分のものであるといえる。私はあなたを必要とするし、あなたは私を必要とするのです。

 ですから、私の貴い愛が私にあるのではなく、あなたにあるのです。ゆえに、男性の主人は女性がもっているのであり、女性の主人は男性がもっているのです。主人を換えてもっているのです。それなのに、男性は自分のものであるかのように浮気をしたりして、妖邪にもこの世を台無しにしてしまっているのです。女性も同じです。自分のものではありません。主人は一人です。主人は自分ではありません。夫が主人なのです。女性の主人は夫であり、夫の主人は妻です。

 何を中心とした主人でしょうか。愛です。愛がなぜ好きだというのでしょうか。愛する時には、すべての心と体の細胞が共に作動するのです。堕落した愛は作動しながら、だんだん落ちてきます。作動し始めると落ち始めるのです。悪なる愛は、位置が同じ所から出発しましたが、どんどん作用をしながら落ちてくるのです。それで幸福が招来されるのではなく、分裂と嘆息の連続、どんどん破壊分裂作用が起きてくるのです。破壊分裂作用が起こるのです。

 ほとんどの男性に、破れた愛のかけらが胸に入っていますので、自分勝手にそれを分けていくその作用をしているので、世界の人類は定着することができず、頭を振り、体を振って、やるだけやっているのです。そのような皆さんであると知っていましたか。

 祖父は、自分の家では自分が最高であるのに、そういう祖父もすべて壊れてしまったのです。国もそうであり、妖邪な国の中に住んでいるのです。ですから、これらを一気に清算しなければなりません。

 神がこの世を眺める時、悪魔の土台となってしまっているので、世界的な悪魔、国家的悪魔、社会的悪魔、氏族的悪魔、家庭的悪魔、夫婦的な悪魔、個人的悪魔、すべてが悪魔の世界となってしまったのです。闘っているのです。皆さん、心と体が闘っているのでしょう。(はい)。それが神側ですか。悪魔の側ですか。

 闘うことは死亡と境界線を接しているのです。和平は生命と繁殖です。発展です。ですから死亡的な愛は、地獄と通ずるのです。分かりましたか。

 ですから、いつ自分が一つになるかといえば、男性と女性がいなくては、心と体が一つになれる時がないというのです。なせ、女性は男性を探していき、男性は女性を探していくのかといえば、それは、宇宙の公的な法度の規格に合う男性、女性という人間になるためです。人間といえば、男性と女性です。ここを探して、この道において一つにならなければなりません。神の天理の大道の道は愛を紹介する道です。愛へ直行できる道です。その愛の道は、個人が行く道、家庭、氏族、民族が行く道であって、それらすべての栄養素は同じです。

 一つの木において、根に行く栄養素と枝に行く栄養素は違うでしょうか。芽に行く栄養素と根との栄養素の相反する要素は、根の深い所を求めていこうとするのです。そこには高低がありません。そこには東西の分立がありません。南北の格差があり得ないのです。それが合わさって一つの生命体を成し、その木が育っているのです。

 縦的に流れていたすべての樹液は、西側に来るな! 西側の樹液は東側に流れるな! このようなことがどこにありますか。西欧文明を主張していた現在のキリスト教文明が、西欧第一主義を主張していたすべての要素が、生命の要素が、東洋に流れてはならないとだれが言えるでしょうか。

 バラバラになりそうなので、レバレンド・ムーンが東洋から行って重りを付けて、前方の線は切れてもいいのです。後ろに線をかけて連結すればいいのです。そうすればあとから付いてくるのです。二世を通して、アジアに来なさい。ですから西欧社会の二世たちが全部、東洋、このごろでは、日本というのです。これは七年間だけです。七八年から八五年までです。七年が過ぎれば、韓国に連結しなければなりません。ですから、このごろ韓国は第二の日本であると、西欧社会で言っています。日本を消化することができるのです。日本も追いついていくことができません。なぜでしょうか。大陸を連結できる基盤がないからです。

 韓国が大陸に結ばれるその日には、東洋文明の定座時代、定着時代が来ると思うのです。先生は、そのことをやっているのです。

 歴史は何に向かっているのでしょうか。今まで死亡圏に向かっていると思われていました。そして、その死亡圏の中で朱鷺(とき)の息をしていたのです。朱鷺の息とは何かといえば、朱鷺は首が細く、息をすることも大変なのです。何か少しでも飲み込もうとすれば、息をする穴が塞がれるので、首をこのようにするのです(しぐさで示される)。そのような中であっても、朱鷺は愛を求めて行こうとするのです。

 愛する祖父の臨終時に、最も必要な人は誰でしょうか。それは祖母です。祖父と祖母の関係は何かといえばそれはたった一つ、愛の関係しかありません。今までは食べる物が異なり、生活も別々であり、遊びにおいても別々でありました。根が異なるため、今までの生活とすべてが違うのに、何が二人を結び付けたのかといえば、愛なのです。ですから愛が切れてしまったら終わりです。

 ところが今、その祖父が死にかかっているのです。愛する子供たちがみんな集まっていても、そこに祖母がいなかったならば、祖父は「お母さんはどこに行ったのか?」と問うのです。子供たちがいなくてもそばに妻(祖母)さえいれば、「これでいいのだ。いいのだ」と言うのです。妻一人と子供たち十人のどちらを選ぶのかというと、妻を選ぶのです。なぜですか。それは愛のゆえです。その愛は、子供たちから見いだすことはできません。夫婦の愛は横的な愛であり、子供たちとの愛は縦的な愛なのです。妻との横的な愛を整えてから、縦的な愛が連結されなければなりません。まず妻がいて、次に縦的なる子女たちが連結されなければなりません。

 皆さんが誕生した時、その生命はどこからきましたか。皆さんの生命の根はどこから生まれたのですか。それは愛からです。父母の愛の根から生命が生まれたのです。生命があとなのです。では何が先かといえば、まず父母の内外の要素がぐらぐらと煮立っているのです。水が百度になって沸騰し、蒸発するような爆発的な瞬間なのです。そのような男性の罐(かま)と女性の罐に蓋(ふた)がしてあって、この罐を互いに近づけると暴発するので、何で連結するかというと愛の穴で二つを連結するのです。するとお互いの蒸気の力が沸き出るはずなのに、二つをくっつけてしまうとザーッと音を立てながら授け受けするのです。その時、この二つの罐がどれほど揺れ動くことでしょう。考えてみてください。互いにこのように回るのです。こちらは上に、こちらは下に回って、回転するのです。男性と女性もこのようなのです。

 宇宙という罐の中に入られて、神の蓋をしっかりとされ、神の内的なものと外的なものが完全に一つとなり、「穴を合わせなさい」と言われて、ぴったり合わせ、「空気が入らないようにハンダづけをしなさい」と言われたのが、私たち人類始祖の結婚式なのです。(笑い) なぜ笑うのですか。そこで、主体と対象は全く同じであってはなりません。上が強いために下へ流れる本然の流れがあるのです。ですから回り始めると誰もそれを止めることはできません。神様にもできません。愛の旋風が入っているので、神様もそこで見物するしかありません。(笑い)そのようなパイプ罐は何ですか。これが男性と女性が結婚式をする、愛のパイプ罐です。分かりますか。

 宇宙の圧縮空気が半分ずつに分かれて入っても、その体と心が暴発しない愛とはどれほど大きいのでしょうか。宇宙を抱いても、宇宙を消化しても余りある力をもち、包容力をもっているのです。これがもち運動を始めると、それに従い台風圏が生まれるのです。天と地の間に台風圏が起こる時、その台風圏にこの地球上のすべての動物、生物がみんな巻き込まれ、すべてがその方向に頭を向けて行こうとするのです。行く途中で雷が落ちたとしてもいいと言うのです。このようなことを皆さんが忘れないように、先生は誕生日のきょう、このようなショーをしているのです。

 誕生日は、座って楽にしていて、誰かが舞いを舞ったりすればいいのに、これは何ですか。(笑い) お金が入るのでもなく、何も入ってこないのです。(笑い) でも喜んでいるんですね。美しい人、醜い人、しわくしゃの人、艶のいい人、すべてが喜んでいるんですね。先生がこのようなことをやっているのは、愛の風が吹きつけるからなのです。それは美しいことでしょうか、醜いことでしょうか? (美しいことです)。

 あなた方の父母が一つになったその愛に、神様までもが酔って、吸い込まれてくるのです。そのような愛から生まれることができたならば、それは不幸だったでしょうか、幸福だったでしょうか? (幸福でありました)。そうです。幸福だったのです。これまで皆さんが生まれた生命の根は、堕落した父母の因縁によるものです。

 天地のすべてを包括できる軸となる頂点、平衡の基点、そのアダム・エバの愛から、この垂直の神の愛に連結されて限りなく相対圏を包括していくのです。この作用が回れば、電気がこうなるのです(しぐさで示される)。このように下ってくれば縦的な作用は自然に生ずるようになります。物理を勉強する人はよく知っているでしょう。すべての存在の作用は、球形運動に似るのです。必ず、平面的作用に球形的作用が一つの核を中心として連結されるので、球形運動がなされるのです。愛のすべての力の作用が、直結する中心の位置が絶対的な神の愛であり、私たち人類の本性が願ってきた理想的愛なのです。分かりましたか? (はい、分かりました)。

 お母様に約束して話し始めてもう何時間たちましたか。何時から話し始めましたか? (九時三十分からです)。九時四十分からではありませんか。九時三十分からでも、あと十分たてばもう一時間半話したことになりますね。

 私的な道とは何でしたか。それは自分を中心として上がっていく道ではなく、自分を中心に喜びつつ下がっていく道なのです。なせ私的な道を行ってはならないかということを、よく知っていなければなりません。人間にはすべて商人の心理があります。先生の誕生日に朝早くから青坡洞に来て、座っているのも、自分のためになる何かが得られるからであり、ポケットにちり紙の一枚でも入るものがあると思うから来ているのです。もし自分から何かが奪われていくようならば、「また来てください」と言っても、決して再び来ないでしょう。(笑い)

 では何が得られましたか。(韓国では俗語として「□□」(スープ)がふるまわれることを、何かの得をするという意味で使う)これからはスープと言わないで、骨と言いなさい。(笑い)スープより骨がいいのです。骨を煮込んだらスープになるでしょう。(笑い) 私たち統一教会では、これからスープよりも、骨が得られたのかということが大切です。皆さんは今朝ここに何をするために来たのですか。損をするためにですか、得をするために来たのですか。結局は先生一人を立てて、この数百人が利益を求めに来たのでしょう。(笑い) そうですよ。先生は皆さんが利益を得ることを願っています。先生がどんどん与えれば、あなた方の益となります。先生は与えれば与えるほど、どんどんなくなってしまうのですが、「もっと与えなさい」と何かが先生を押し出すのです。それが真の愛なのです。

 生水(わき水)は汲めば汲むほどますます溢れてくるのですが、渇水(ため水)は汲めば汲むほどなくなってしまうのです。同じように私的なこととは何かといえば、使えば使うほどなくなってしまうのですが、公的なこととは使えば使うほど増えてくるのです。分かりましたか。私的生活をした人は、自分の好きなことをやって悲しみの中で死んでいき、公的生活をした人は笑いながら死んでいくのです。ですから人間は、私的生活を選んではならないのです。人間は公的生活を選ばなければなりません。公的な仕事は難しく、悲惨で涙が出るし、迫害されますがその人は喜びの明日を迎えることができるのです。

 文なにがしという人がこれまで生きてきた内容を話しましょう。先生が六十六歳まで生きてきたその生活はどうだったのでしょうか。先生は自分のために生きてきたのではありません。公的なことのために生きてきたのです。公的なこととは、大韓民国のためにということでも、世界的なことのためにということでもありません。宇宙的公的なことを追求したのです。それは思想の善を追求する道義的な目的であります。今日、価値問題において、哲学的価値では真善美というのですが、そこには愛がありません。ですから今日の知識を基盤とした論理的理論体系を追求していく世界は、索漠な広野を行くようなものです。博物館を建てて、展示物をすべて陳列したのですが、人がいないのです。そのような世界です。愛がないのですね。

 動物たちも春になると、愛の相対を求めてさまよいます。鳥もそうですね。夏になり昆虫の泣き声を聞くと、それは二種類しかないのです。お腹が空いて鳴く声と、相対を求めて鳴く声です。それしかないのです。食べ物を求める、その信号は簡単です。先生は田舎に住んでいたので、昆虫の世界をよく知っています。先生が捕まえたことのない昆虫はありません。獣も先生が捕まえたことのないものはありません。虎はまだ捕まえたことはありませんが、山猫、狸、兎など、数多く捕まえてみました。とても興味があるのです。それらは一匹で生きているのかと思っていましたが、みんなカップルをなしているのです。私たちの両親よりも、もっと立派なカップルではないかと思えるほどなのです。

 それらの昆虫世界も、動物世界もすべて何によって生きているかというと、愛です。彼らの愛なのです。愛を中心として永遠に継続しなければならない紐を残さなければならないのです。その紐が子女なのです。愛の道は必ず永遠に向かって働くので、愛を通して子女が繁殖するのは、未来と永遠に連結する道を残すためなのです。ですからその道のない人は、未来を得ることができないので、不幸な人です。父母は過去に対して授け受けすることができるのであり、夫婦は現在に対して授け入けることができるのであり、子女は未来に対して授け受けることができるのです。過去、現在、未来に対して授けようとしても授けることができず、受けようとしても受けることのできない人はかわいそうです。宇宙の合格者にはなれないのです。

 宇宙の合格者とは、何を中心としているのかといえば、それは愛を中心としてです。だから孤児はかわいそうだというのです。夫がいない女性はかわいそうな人です。いくら美人であっても、立派な人であっても寂しいのです。女性は生理的構造からしてもそうなのです。もしそうでなければ、その人の生理的構造が間違っているのです。女性は情緒的に男性よりも早く感じるようになっているのです。情的なのです。涙を流していても、すぐにその態度が変わるのです。情緒的な面における変化が早いのです。自然の法則がそうなっているのです。

 それでは、公的な道とは何かというと、男性が女性のために死ぬほど頑張る道でしょうか。それは自分のための道ではなく、二人の公的のためです。父母が子供のために死ぬほど苦労することも私的でしょうか。それは公的です。分かりますか。父母が子供のために命を尽くしていく道は私的な道ではありません。何の道でしょうか? 公的道でしょう。

 このように見る時、この宇宙史を綴っていく人間生活とは、愛の版図を基本公式として、前後左右、四方を整えて訓練を受けて生きるべきだということを、私たちは発見できなければなりません。愛を中心として父母のために生きていく、これ以上の公的な生涯はないという結論が出ます。そのような法度を万宇宙に通過させれば、宇宙が歓迎するようになっているのです。

 年老いた父母と世界の国境を越えて、その国で初めて会う人であっても自分の両親のように対してあげるのです。自分の両親を愛することを学んだのですから、その愛を世界万民の両親の年齢にあたる人に対して行える人は、すべての天地を無事に通過することのできる覇権を持った人となるのです。これが分からなかったのです。

 男性と女性が互いのために生きる公的な道はそうでなければなりません。その道は、愛を伴って、女性のために生き、生命を尽くしていく道です。それは最高の宇宙のいかなる公的なるものよりも貴いというのです。そのように生きた男性は、その年齢の世界の女性たちが自分の体の上を踏み越えて行っても、歓迎するのです。それ以上の公的な道はないということを知らなければなりません。反対に、妻が夫のために愛の心をもって尽くすことも公的な道です。そのような心を、自分の夫ぐらいの年齢のすべての男性に対して、夫を愛する愛の心を連結することができるなら、それ以上の女性としての公的な道はありません。

 宇宙の道は一つです。子供が父母に対して孝行するその道以上に貴く価値のある公的な道はないという結論を下すことができます。それは、この愛が東西南北、前後左右を備えているからです。上下に対しては父母がおり、左右に対しては子供がおり、前後に対しては夫婦がいるのです。東西南北、四方を備えておく愛の公式の中に生きている人以上に貴い公的な道はないということを、世界の人々は知らなかったのです。

 子供を愛することにおいて父母以上に愛し、父母を愛することにおいて子供以上に愛すれば、その愛はすべてに通じるのです。子供はこちら側で愛すれば、あちら側では父母を愛するようになります。子供を愛するように父母を愛することで、天理の球形の世界の東半球、西半球を包括することができるのです。分かりますか。妻を愛し、夫を愛することは反対に垂直で九十度を中心として東西を抱くことができます。ですから、宇宙を測定するすべての公的な最高のモデルはどこにあるのかというと、それは皆さんが生活している家庭にあるのです。アーメン。(アーメン)。それが核です。全世界の人々を父母のように愛したその愛の力もどこを通らなければならないかというと、この核を通らなければなりません。みすぼらしいおじいさん、その祖、祖、租、祖父が神様ですが、神様もここを通らなければなりません。

 私たち子孫万代に、この愛の紐を通じて因縁を結んだその世界は、神が自由に通じることができる男性、女性を中心として縦横に連結された全人類はこの愛の核を通して関係を結ばなければなりません。それが宇宙創造の本分の土台であり、それは地上世界の本分であると同時に天上世界の本分となり、地上の愛の宝座であると同時に、神の国の宝座と通じることができるのです。地上の真の父母の宝座とともに、天上世界の無形の天の父母の宝座が直結される位置です。それが縦横無尽というのです。壁がないのです。この核を中心として、東西南北の四方と、前後左右に授け受けすることのできるハンドルが私たちの家庭です。このハンドルを握ると、神もその中に入るし、すべてが入るのです。

 それでは、年老いたおじいさんはどうですか。不幸ですか? (幸福です)。おばさんも幸福であり、父母も幸福であり、自分自身も、子供たちみんなも幸福なのです。おばあさんが「ハッハッハッ」と笑う時、「あのおばあさんは早く死ねばいいのに、なぜ早く死なないのか」と言うような、姑に仕えたくない多くの妖邪な女性たちは、自分たちが地獄行きの列車に乗っているということを知らず、また途中でめちゃめちゃになって無くなってしまうことも知らないで生きている、かわいそうな分子たちです。消えてしまえ! アーメン。(アーメン)。その反対も同じです。子供を尋ねて永遠に探し求めて行かなければならないにもかかわらず、子供を否定する父母もやはり同様に地獄行きの列車で、最終においてはめちゃめちゃに壊れてしまうのです。祖父がいかに立派であっても、そのような息子、娘がいて、それに従っていては滅びるのです。息子や娘、孫がいくら大勢いたとしても、一人でもそのような孫がいて、それに従えば滅びるのです。どんなに仲良くしている夫婦でも、そのような両親、そのような子供がいたならば、これは滅びます。九十度を見いだすことのできない変則的な存在は消えてしまわなければなりません。宇宙が許可しません。分かりましたか、分かりませんか? (分かりました)。

 公的な道の中でも最も貴い道は何かといえば、祖父母に侍り、父母と共に兄弟同士が愛を中心として、「ハッハッハッ」「ヘッヘッヘッ」「ヒッヒッ、ヘッヘッ」と笑いながら生活する家庭です。おじいさんは「ハッハッハッ」、お父さんは「フッフッフッ」、私は「ヘッヘッヘッ」と笑うのです。笑いの節がみんなジグザクで、高低、強弱があって、愛の笑いの花が咲く幸福な家庭です。神様もその家庭を見物したくて、訪問せざるを得なくなるのです。「神神!」と宇宙に向かって叫ぶ時、「私はここにいるんだよ」と神様は答えるのです。

 天国はどこにあるのでしょうか。イエス様は、あなた方の心の中にあると言われましたが、その心とはどんな心ですか。夕陽のような真っ赤な心ですか、商人のような心ですか? それは天地と和動したい心です。その心が重要なのです。そのような愛の核があれば、その場には神が臨在されるはずです。このように考えなければなりません。

 これで私的な道と公的な道について、はっきり分かりましたね。自分を中心として、「祖父母も自分を愛せよ。父母も自分のためにやれ!」と言ったら、唾を吐きたくなります。そんな人は追い出してしまうのです。宇宙が追放するのです。反対に公的な道を愛する人は、祖父母が一生懸命に抱こうとするし、父母も抱こうとするし、夫も抱こうとするのです。自分を中心とした愛はさらにまた一つの作用を起こし、破綻し、侵犯するので、追放されるのです。心がその目のような作用をするのです。神様は本当によく人間を造ったのです。

 愛を中心としても、自分のための愛は、初めは良いようであってもだんだん落ちていくのです。しかし、より公的な愛のために行く道は無限に発展して、家庭から氏族的な愛へと繁殖するのです。さらに民族的な愛へと枝を張るのです。そして国家的愛、世界的愛へと無限に発展するのです。「あの終点に着いたら、もう戻って来るな」と言っても戻って来るのです。ですからそのような愛の共通分母を中心として、私たちは共に世界の端と連結するのです。すべての核の中に立っている私たちはあの端のほうでも回るのです。この中だけで回ろうとしてはいけません。回るときにはあちらの端でも回るのであり、目の前の一点で回っていてもおもしろくないのです。

 この核を中心として、遠い位置に行ってこそ素晴らしいことです。自分が回っていながら、この世界を見た時、宇宙が自分のゆえに回っていると思えるのです。自分が回っているとは思えず、宇宙が自分のゆえに回っていると思うのです。そのような愛の心の人は、最後まで行けるのです。避雷針のようなものです。愛は端のほうを求めていくのです。それだから人間は愛を中心とした本然の欲望があるのです。その愛の欲望は最高なのです。神様の愛までも占領しようとするのです。神様も貴い愛が必要なのですが、その愛までも占領しようとするのです。そこにおいて回るようになっているのです。

 私たちは他に必要なものはありません。願うものはありません。どんな苦労があろうとも世界を回るのです。生活水準の低い世界を回っても不幸に感じるのではなく、幸福に感じるのです。その道は愛においてのみ可能なのです。これはお金ではできません。皆さんの中でも、ある人は新婚の夫を紹介する時に、美男子でなければ恥ずかしいと思っているのです。(笑い)あなたの夫はどこの大学を出ましたかと問われたら、「○○大学です」「○○大学院出です」と答えるのですが、さらに博士の前に出たら恥ずかしく思うのです。では、博士と宇宙の大統領のどちらが偉いのかというと、それ以上に飛び上がる力を持っている愛の人なのです。分かりましたか? (はい!)。

 きょう、なぜこのような話をするかといえば、先生は六十六歳の誕生日を迎えて、年を取るだけ取りました。(韓国では年を取ることを、年を食べるという)年を食べるだけ食べたので、これからは吐き出さなければなりません。食べ物も同じです。食べるだけ食べたのちに、それ以上食べる時は先に食べたものは出さなければなりません。それは何のことかといえば、人生を終えてこれからは、あの世に行く準備をしなければならないということです。

 自分が生まれた愛の動機を中心として成長しつつ、まだ成し得てないその部分を埋めることにより、本然の基準が満ちさえすれば、神の心から人間の心に本然の宇宙愛が発動して、スパークするようになるのです。プラスとマイナスが合えばスパークするように暴発するのです。そして変化が生じ、完全に四方が球形になります。完全球形、完全抱囲です。愛のみがそうするのです。そのような個人を探し出し、そのような相対圏を探さなければならないのです。この世界は無秩序にできているのではありません。歴史上のすべてに塞がれていたものを解き明かさなければなりません。そのように混乱し、反対になっている世界の一角において、それを解き明かすためにそのような個人として生まれたのが、先生であり、一九二〇年代のきょうなのです。

 そのように神に反対する世界、愛に反対する悪の世界に生まれたので、先生は行く先々で衝突するのです。先生が現れると、悪なる世界が黒雲のような力で先生を追い出そうとするのです。今日までその戦いをしてきました。目に見えない世界の悪の勢力圏と、目に見える実体世界が相対圏となった悪主管圏と、たった一人で戦ってきたのです。一生の間、この世界のどこに行っても先生は憎まれるのですが、しかしそのように憎まれたのちには、必ず先生を好きになる人が現れるのです。本当に公式的です。一度打たれて、後ろを振り返ると打たれた価値より立派なものが与えられるのです。

 例を挙げると、今先生が皆さんを見ると、この中に先生が昔遊んでいた好きだった友十人がいるのです。姿形も、声も動作も同じなのです。また先生はあるおばさんを尊敬していたことがありますが、統一教会に入ってくる婦人はそのような人が多いのです。真実さにおいても、またすべての面において優れているのです。先生のために尽くすことにおいても優れているのです。すべてが蕩減復帰なのです。分りますか。

 先生は今、西欧社会に行って反対を受け、一回りしながら、大韓民国は滅びてぼろぼろになるのではないだろうかと思っていましたが、こうして帰国してみる時、西欧社会よりも良いのです。明洞(ミヨンドン)街のロッテビルやデパートに行ってみると、免税の春風が吹いて苦菜の花が咲くのです。皆さんは苦菜の根が薬になるということを知らないでしょう。

 西欧社会はすべてに破綻が生じています。大韓民国に帰ってくると、再び行きたい気持ちはなくなってしまいます。(拍手)服を買うにしてもこちらのほうが便利です。西欧社会は先生に合うものがありません。お母さんもそうですし、子供たちもみんなそうなのです。上から下まで探しても合うものがありません。西欧社会の服は自分たちに似せて、胴体部分が短くて足の部分が長いのです。ですから西洋の女性を見ると、三分の一の胴体なのです。足が長いので、男性が足の先から見ると、“ああ遠いなあ”と思うほどです。東洋の人は足が短いのでちょこちょこと歩くのですが、西洋の人はのっしのっしと歩くのです。

 先生は悪口を言われながら西洋を回っていましたが、韓国に帰って来ると西洋の青い目の金髪の女性たちが韓国の方向を見つめながら、「先生いつ帰ってこられるんだろう」と自分の夫よりも、父母よりも懐しく思っているのです。韓国に行こうにも旅費がないし、でももしどうしても行こうと思えば、前線活動をすれば飛行機で行けるのだが、と思っているのです。先生が「来なさい」とさえ言えば、みんな二週間以内に飛んで来るのです。先生は西欧社会でそういう風を巻き起こして回っているんです。それはムーニーの群れにとって良いことですが、アメリカの国から見るとき、それは良いことですか、悪いことですか。アメリカの国から見ると先生は魁首の代表であり、憎くて憎くて、また憎いのです。それで監獄に押し込めてしまえば死んでしまうと思っていたのですが、先生は監獄から復活して、大平洋を渡って帰国して今こうしてお話ししているのです。先生はどこへでも飛んで回るのです。

 アメリカからの報告によると、先生はいつお帰りになるのだろうと、自分の母親が、夫が、子供が死にかかっていることも忘れ、先生の帰国を待ち望んでいるというのです。ですから、サタン世界から見ると「これらの妖邪な病が人間世界に広まり始めたのは、誰によるものなのか? それはレバレンド・ムーンだ。一番悪者はレバレンド・ムーンなのだ!」と言うのですが、神側から見ると「ああ、文なにがしという人、鮮明とか何とか明のつく人、よくやっている。あの愛の旋風は大変なものだ。あのように堅固に建設されたニューヨークのエンパイヤ・ステート・ビルディングすら吹き抜ける力をもっている。アメリカも持ち上げることができるし、飲み込んでしまうことのできる力をもっている。地球星すら一気に飲み込んでしまう力だ」と言うのです。十五夜になるとお汁粉の中に餅を入れて食べるように、一気に飲み込んでしまうのです。どこに行っても統一教会の人々は消化されるのではなく、何でも消化してしまうことのできる能力があるのです。

 西洋の女性たちは風にうかれています。何の風ですか? (愛の風です)。何の愛ですか?(真の愛です)。それが真の愛なのか、それとも偽りの愛なのか味わってみましたか。(笑い)先生一人が行き来することによって、五色の人種が涙を流すのです。先生は、黒人の涙、白人の涙、黄色人の涙を流させることのできる人です。なぜそういうことをしているのでしょうか。なぜですか。

 人間の心は共通なのです。心は共通なのです。太陽が春の陽ざしをもって訪れる時、すべての眠っていた植物も新芽を出すのです。その新芽はどこに向かうかというと、太陽に向かうのです。それと同様に、皆さんの本心に新芽が芽生えなければなりません。その新芽は新しい芽を出す力の作用を受けなければ出ることはできません。統一教会の文先生に出会うことによって、人間は人類歴史において初めて愛の陽ざしを呼吸することができるのです。そのような時代圏を迎えたのです。この味を知った人は、どんなにサタン世界に戻りなさいと言っても、もう戻らないのです。しかし、統一教会から自分の子供を拉致していく人がいます。父母が子供を拉致していくとは何ということでしょうか。しかし拉致していくのです。先生はじっと立って、拉致していった父母の所からその人が戻ってくるのを待っています。拉致された人たちはそこを飛び出して、どこに行くのかというと、自分の親戚の家でも、自分の知人の家でもなく、まっすぐに先生の所に訪ねて来るのです。それでどんなことが起きるかといえば、自分の家から飛び出してくる時、ただで飛び出してくるのではありません。

 かつてイスラエルの人々に、カナンの福地に愛の理想を探しに行くためにエジプトのすべてのものを持って出発する準備をしなさいと神が命令したのですが、その時は持って出発しないことが罪になったのです。では何を持って出るのですか。すべての愛の宝物です。四三〇年間というものイスラエル民族がエジプトの地で血と汗とを流し、蹂躙されつつ受けた苦行、その愛の犠牲の代価は、国をいくつ与えられても代えることのできないものです。そのような宝物を築き上げてきたのです。

 先生がモーセの立場だったなら、座ったままでエジプトの国を全部吸収することができました。なせモーセはエジプト人とイスラエル人が喧嘩をするのを見て、イスラエルの味方になってエジプト人を殺したりしたのでしょう。数十年だけ待つことによって、自分が王となり、王権によりエジプトのすべてのものをイスラエル化させて、イスラエル人をエジプトに迎え入れなければならなかったのです。そのために神がヨセフを通して準備し、死の境地を七十二部族を率いてエジプトに入っていったのです。四三〇年間の苦労の上にエジプトの国をイスラエルの文化圏に吸収させてイスラエルの民がエジプトの国を治めていったならば、イエス様は殺されたでしょうか。

 モーセが荒野で銅の蛇を作ったことが、イエスが十字架にかかることになる遠因となったのです。救世主はそこから現れるのではありません。それはいけないことです。神は四三〇年間かけて、国を迎え入れ、国を治めようとされたのに、この国があまりにも反対するので、この国からすべての貴い物を持って出ようというのが神の命令でした。多くのキリスト教信者たちはそういうことが分からないのです。ただ聖書だけ見て、歴史がどのように渡り石を越えて行くのか分からないのです。これを知らない人たちは滅んでしまいます。知る人のみが残るのです。無知から完成はあり得ません。それだから滅びながら統一教会を恐れているのです。覚醒をしたり、悔い改めをしないのです。それでは誰が同情すると思いますか。

 沈む夕陽を見つめて、それを歌い、それを讃美する人には明日を迎える資格がありません。沈む夕陽は、朝の太陽ととして戻ってくることを知ってこそ讃えられるのです。朝の太陽として戻ってくることを知らないで、ただ夕陽を讃えている人は背道主義者です。朝それは営利主義者です。自分たちの西欧社会の文明が夕陽のようになってくるのに、朝の太陽がどこから来るのかも知らずまだ西欧文明を讃えるのですか。滅びながらまだ讃えるのですか。そういう面においてレバレンド・ムーンは賢明です。その気配をいち早く感じることができるのです。

 先生は今までに、すべてのことをやってきました。まず乞食からやってみました。もしこの世界が反対する時は、乞食の王様になってでも今日のような神様の世界的版図を築くために、山に入って炭を焼くことも学びました。先生がやらなかったことはありません。農村に行っても、すべてできないことはありません。このように壇上で話をしていても、働く所に行けば先生を追い抜ける人はいません。どこに行っても三年間たてば、すべてのトップになるのです。大西洋の東部地域グロスターでも、ツナ釣りにおいて三年以内で先生はチャンピオンになったのです。先生の式にあなた方がついてくることはあっても、あなた方の式に先生がついていくことはありません。先生は賢明です。そういう先生に出会ったことは良かったのですか、悪かったのですか? (良かったです)。

 (先生は)生まれは良かったのですが、サタン世界に拉致された王子として生まれたのです。サタン世界であって、サタン家庭ではありません。それを越えていくためには跳躍できる条件を立てていかなければなりません。それが蕩減復帰です。

 統一教会は、はしごを架けて越えていくのであって、ただで越えれるのではありません。「統一教会を信じます」と言って、すべてが完成するのではありません。ここに提示するすべての法的項目を越えて。天意的勝利的宗教にならなければなりません。

 そのような観点から見る時、一九二〇年以後、サタン世界に神の愛の紐を引っ張ってきて、作動させたのです。そのように先生が作動させるのでサタン世界は大変なのです。総攻撃をかけてきて、先生の土台を無くそうとするのです。

 幼い時、先生の家庭は、先生が生まれたころには家庭が散り散りばらばらになったのです。先生が物心つくころには、先生の家庭を完全にごみ箱に押し込んだのです。それは先生を打つためなのです。先生の垣根となっている両親、愛の園である家庭の外的なものを打ち、兄弟を打ち、祖父母を、全部打ったのです。そのような中に置かれれば、先生すら消えてしまうはずだったのです。悲惨な、食べるにも窮し、生きることも難しい中に押し込めたのです。先生はそのような立場から、十代の少年として、み旨の道を知ったその時から自分の行くべき道を定めて、三十代までは準備時代としてすべての準備をしたのです。台風に流されていく泰山があれば、その泰山よりも高くなり、台風圏を防ぐことに三分の二を、あとの三分の一は世界を覆っても余りある心構えで出発したのです。分かりますか、何の話か。

 (一九四五年)大韓民国の南地が解放されたと言って、人々は大騒をしましたが、先生は万歳もしませんでした。先生の行く道はさらに遠くにあったのです。南北韓の統一を終えたならば、次にアジアの統一圏をつくり、世界の統一圏へと越えていかなければなりません。そのような道が残っていたので、今受けている喜びよりも明日訪れてくる受難の道に準備しなければなりませんでした。ですから、喜びのその環境が先生には悲しみだけであったということを誰も知ることはできなかったのです。周りの人々が喜ぶ時にも、先生は反対の立場で、未来にも喜ぶことのできるような歴史的な伝統の基盤をつくることに汲々としていたのです。

 物心ついてからの先生は、大韓民国の日本統治下において、誰よりも愛国者としての道を行かなければなりませんでした。そのためには、日本を知らなければなりませんでした。日本を知るために先生は日本に渡り、貧民窟から訪ねて行ったのです。今回行って見ると、すべてが都市化されてしまっていて、昔の姿はほとんど見られませんでしたが、数カ所だけが残っていました。怨讐の国であるこの日本民族を滅ぼすのではなく、次の章においてこの本が終われば、第二巻では日本民族を愛さなければならない道があったのです。ですから第一巻のこの章において、怨讐であるという記録を残すことはできないのです。記録を残さず、行動の実績も残ることのない道を行かなければなりませんでした。黙々と困難な環境の中にあって、迫害が加重されれば、先生は誰も抜くことのできないほどの釘を作って、「打て、打て、深く打て! 柱ほどの釘を打ち込みなさい。日本人よ! 打て! 打て! あなた方が打ち込んだ釘を日本民族の一億二〇〇〇万が抜くことができなければ、先生を認めなければなりません」。そして打った後においては、「早く入りなさい。反対しないで」と、このようなことをやってきたのです。「世界よ、打ちなさい。打ちなさい。この頭を打て! 打て! 打ちなさい。打って四十億人類がその釘を私から抜くことができない時には私を認めなさい」と。素晴らしい男の話ですね。女性であれば誰しもそういう男と暮らしたいと思うでしょう。

 その時が、一九七六年でした。全世界の自由世界が統一教会のレバレンド・ムーンを打ってきたのです。「打て! 誰が滅びるのか、打て!」。先生の頭は何と硬いことでしょう。打っても跡が付かないのです。棒が折れてその人の足を傷つけることはあっても、先生の頭はびくともしないのです。打って、あのダンベリーまで押し込めて、「すべて終わった。すべて闇になった」と言って、レバレンド・ムーンは死ぬと思っていたのです。しかし、天と地が一つになり、レバレンド・ムーンが出てくる時には、あなた方は疲れ果てて既に倒れていました。死んだようでした。二億四〇〇〇万の人口のアメリカがいかに大きくとも、先生に反対する人は一人もいなかったのです。

 初めて、皆さんは大変な目に遭ったのですね。しかしそのために皆さんと先生が結んだ因縁は解くことのできないものです。これから先生が行く先々で世界は先生の前にひざまずかなければなりません。そんな基盤をつくっている間に、長い歳月が流れ去りました。ですから三十歳まで訓練をし、四十五歳まで実践するのです。これが天倫です。天倫の歴史なのです。それで先生は四十五歳の時、初めて聖地を探したのです。そして六十歳までに全民主世界において、レバレンド・ムーンを取り除くことのできない世界的基盤をつくったのです。ですから、いかにアメリカの民主党が共和党が大きいとしても、もはや先生を取り除くことはできません。共産世界の思想的根を取り除くことはできても、レバレンド・ムーン思想の根は残るのです。そしてレバレンド・ムーンの思想の枝が出て、実を結ぶのです。共産主義は実を結ぶことはできません。

 それで今回帰国することによって、新しい春がきたのです。そこで大韓民国が、世界が一つになれる愛の種を、世界のすべての民族と世界の歴史と伝統をすべて消化することのできる愛の種を今この韓半島に植えるために先生の帰ってきたその喜びの足どりが今回の旅行なのです。(拍手)そこで先生は何をしたかというと、先ほどまては学界に植え、今回は特別な済州道の人々に植えてあげたのです。今まで済州道はどれほど孤立していたことでしょうか。大陸に対して済州道は島国です。島国を愛さなければなりません。済州道には六〇〇の村があり、その村長たちを呼んで慰労してあげたのです。次は三〇〇〇名です。そして里、村、班長まで先生が接することができるようになりました。そして教授たちが伝道するのです。

 また今回、ソウルも加えて、全国一六六都市を講演しましたが、これは蕩減復帰なのだと思います。一六六の中の一〇〇は一ではないのです。六十六として考えるのです。そのようなことをやってきました。韓国において死んでいった人たちを接ぎ木するのです。統一思想を中心としてレバレンド・ムーン主義に接ぎ木するのです。神の愛を中心としたこの主義に接ぎ木するのです。接ぎ木は春の季節にしなければなりません。そこで接ぎ木するための風を巻き起こしているのです。このような風はいい風ですか、悪い風ですか? (いい風です)。この風を嫌がる人は何でしょうか。この風に反対する群れがあればそれは何ですか。何の群れですか。真の群れですか、偽りの群れですか。神が真の群れの側であれば、偽りの群れは何ですか? (サタンの側の群れです)。ですからレバレンド・ムーンの話に従えば神も生きられるのです。では何をするのですか。南北の統一はレバレンド・ムーンでなければできません。金日成ではできません。金日成がいくらやっても偽りの父なのです。金の父よりも文の父のほうがいいですよ。(笑い、拍手) 金の父は「お金を象徴していますが、文の父は「文字」を象徴しているのです。父母は子供に文字を教えてあげることが良いでしょうか、お金を集めてあげることが良いでしょうか。お金は先に使うものですが、文字はあとから使うものです。ですから父母は、文字を教えてあげなければなりません。お金を与えては早く滅びるのです。未来を切ってしまうことになるのです。文字を教えてあげれば未来が生まれてきます。勉強することは難しく、お金を使うことはやさしいのですが、反対の結果が出てくることが分かるので、文の父のほうが、金の父よりも優れているというのです。(拍手と笑い)

 父が二人できました。終わりの日には二つの世界が衝突して、お互いが正しいと言う時が来るのです。二つの群れが愛を中心として戦う時が来るのです。奸臣と忠臣が愛を中心として戦うのです。どちらも王様を自分がもっと愛そうとするのです。分かりますか。忠臣も王様をもっと愛そうとするのですが、その忠臣を踏みにじってより自分が王様を愛そうとして、忠臣の首を切ったのが奸臣なのです。また、忠臣の道は歴史性がありますが、奸臣の道は歴史性がありません。忠臣は歴史性、時代性をもって、民が歓迎する立場から王様を愛そうとするのです。歴史的に先祖から引き継いだ伝統と文化背景で王様を愛そうとするのですが、奸臣は歴史性を否定し、時代性を否定し、未来性を否定しながら愛そうとするのです。王と民、過去、現在、未来を中心として愛そうとはせず、自分を中心として王様を愛そうとするので、悪となるのです。統一教会の中でも、このような奸臣的信者、忠臣的信者がいるでしょう。この原則は、完成の世界となるまで、一つの世界となるまで、皆さん個人を中心として作用し、境界線をつくって戦っていることを知らなければなりません。一歩踏み間違えば地獄であり、一歩正しく踏み出せば天国なのです。一度誤れば地獄ですが、一度良くやれば天の側になります。このような立場に統一教会は立っているのです。皆さんを中心として世界が善悪二つに分かれるのです。

 この善悪の世界は何を中心として生まれたのかというと、愛を中心として生じたのです。では、善と悪の愛の中心として分かれたのはなぜかというと、サタンの父母の愛から、サタンの愛の子女が生まれるという堕落が生じてきたからです。今まで神の愛を中心とした夫婦、父母、子女の基準が出てこなかったので、サタン世界の愛以上の愛の基準を立てなければ、神の世界の愛の基盤が生まれてこないのです。イエスの言われた「だれでも、父、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ福音書一四章二六節)という言葉は、このような天理を通して結論づけられたものだったのです。ですからイエスは、「あなたの家族が怨讐である」とも言ったのです。この世の自分の一族と家族を否定して出たイエスはさらに、「神を最も愛し、神から送られた人をもっと愛せよ」と言うのです。夫のいる婦人が、夫よりもイエスを愛するので、その婦人の夫と争いが始まるのです。母親は自分の子供よりもイエスを愛するので、子供が反対するのです。家庭の中で一番の家長としての扱いを受けていた祖父の言うことも聞かずに他の道に行こうとするのです。すべての家庭の家族が怨讐になるしかなかったのです。

 今日、統一教会において、神側に立っているとするならば統一教会の怨讐は、皆さんの家庭の中で最も愛する夫であり、最も近い血縁関係にある人たちです。そしてまた、血縁関係にある国が統一教会に反対するのです。そればかりでなく、アジアが反対し、人類が反対する道を行かなければならない立場に立っているのです。それはイエスが「愛を中心とした弟子となりなさい」と警告した道理と相通じるものです。

 真なるキリスト教の愛の理想を完成する宗教が出てくる時には、その個人の家庭が、国家が、全世界、地球星に住んでいる人々が総動員して「打ち殺せ!」と反対するような宗教でなければなりません。そして、その宗教は反対を受けても、勝利して、世界が屈服することのできる歴史的清算の道を経なければ、神が願う一つの世界、愛を中心とした統一世界は顕現することができないというのが結論であるということを知らなければなりません。

 そのような使命を背負って、統一教会は歴史を経ながら世界から追われ追われて、地獄の霊からも追われる立場に立って、その総動員した追われる立場から、その環境を踏み越えて押しのけて、それ以上の立場に立たなければなりません。下がっていくのではなく、飛躍して本然の世界を指向し、永遠なる神の国と直通する天国への道を拓(ひら)いて越えて行く時となったのです。

 私たち統一教会の今年の標語は「天国創建」です。再建ではありません。この地上に天国を再建できる所は一つもありません。アメリカも、韓国も天国ではなく、歴史上のいかに優れた人であっても、天国の大統領にはなれないのです。天国を再建できる人はいません。新しくつくらなければなりません。ですから一九八六年、先生が韓国に来て通告したのが「天国創建」なのです。分かりましたか? (はい)。

 では、天国創建をどこから始めますか。それは今、話した公的な愛を中心とした家庭からです。その家庭は、宇宙と社会の迫害圏を越えて、探し出された家庭からです。これまでの世俗の伝統の因縁によるそのような基盤に存続し、関係するような家庭ではなく、それを克服跳躍して、新しい天地に、父母様の伝統を受け継いで始まる新しい歴史時代の、新しい家庭なのです。

 先生が六十六歳まで願ってきたことは何かというと、万民が国境を越えて自由の環境の中から、このような家庭的因縁を結ぶことのできる土台を準備することでした。これが真の父母のやらなければならないことでありました。先生はそれを完成しました。

 皆さん、男性は神の二性性相から、男性を中心としたすべての物質が、鉱物世界、植物世界へと拡大して、ここにすべての理想的モデルとして入っているのです。この男性の中には動物も、植物も、鉱物もすべて入っているのです。私たち自体もそうです。肺は木の葉です。血管は木の幹のようなものです。胃は木の根です。すべてが入っているのです。神の二性性相の一方の性のすべての理想的要素を神が想像し、理想としたすべての実体を結実させなければなりません。この男性が、愛の理想で実を結ぶようになる時、この宇宙存在の世界の男性圏が結実するのです。男性圏の結実は誰によってなされるかというと、人類の始祖であった、真の父となるべきアダムからです。その反対の女性の始祖は誰かというと、エバです。そしてこの二つの実が、この二人が一つにならなければなりません。皆さん、種をよく見ると一つの胞子の中に二つの片が入っているのです。それは誰に似ているのかというと、神に似ているのです。それから自分に似ているというのです。

 皆さん一人一人の中にも、心と体の二つがあるでしょう。この間に生命の種が入っているのです。ですから、女性は男性に出会わなければならないし、男性は女性に出会わなければなりません。その男性の片方と女性の片方を見ると、その中に自分を中心としての男性、女性の性稟が入っているのです。すべてが神の性相に似ているのです。それが一つにならなければならないのです。そして一つになったその中から初めて子女が生まれることにより、神の願いの天国が始まるのです。それが生まれてこないうちには横的な世界が出てきません。愛を中心としての横的な世界が出てこないのです。皆さんに悪魔が入り込んでくるのです。個人的な悪魔圏、家庭的な悪魔圏、世界を代表する世界的悪魔圏、宇宙史的、天宙史的悪魔圏がつながっているのです。これに勝る、これを切ってしまうことのできる刀があるとすれば、その刀はどんな刀でしょうか。お金の刀では、いくら切っても切れません。知識の刀でもいくら切っても切れません。力の刀でも切れません。それを切ることのできる刀はただ一つです。それは真なる愛の刀です。他にありません。真の愛の刀で切ってしまえば、永久に悪魔は入り込めないのです。神の圏となるのです。統一教会によって、神圏が始まるのです。

 このような家庭を世界的に平面基準につくっておくのです。もう先生が黙っていても統一氏族圏がどんどん増えていくのです。統一教会で祝福を受けた夫婦が愛し合うことは、子女が増えることです。種を蒔いたら育てなければなりません。種を蒔いたのに除去してしまうことは大きな罪です。

 私たちはサタン世界を救わなければなりません。伝道して、接ぎ木して神の民にしようとしたのに、接ぎ木した根に悪質要素が残っているのです。先生が祝福した統一教会の群れは百パーセントでなければなりません。そうでない人は何かが間違っているのです。それは歴史的蕩減が残っているのです。しかし普通の基準の、先生が祝福してあげた夫婦は、出産率百パーセントです。また出産できないとしてもそれを百パーセントの型に満たして埋めていける方法も教えているのです。養子を入れても良いというのです。自分の子女を一〇〇名生んで、東西南北に養子として一〇〇の国家に分けて与えるのは、どれほどいいことでしょうか。(笑い) なぜ笑いますか。見てみなさい。もう少したてば、「七十二家庭の祝福の子女を私の家庭に与えてください」と喧嘩するように求める日が訪れます。「自分の村に、韓国の一六〇〇家庭の中の一人を迎えて、その方を王として侍って、その言葉に従いますので、一人を送ってください」と言ってくる部族が多く出ることでしょう。そうなれば、そこに配置してあげざるを得ません。今、既にそうです。この前、日本からある人をイギリスの責任者として送ったのです。すると「先生、あのような人を責任者として送ってくださ中  韓国の人であれば良いんですが、韓国の人がいなければ日本人を送ってください」と言ってきたのです。本物がなければ似ているものでもってでも穴埋めをしなければなりません。それは数日しか保たないのですが、そうでもしなければ飢えてしまうのです。

 ですから、もしお母様が子女を約三〇〇人ほど出産できたらどれほど素晴らしいことでしょうか。(笑い) 各国ごとに、真の子女を迎え入れたいと思うでしょうか、思わないでしょうか。それはどの国でも同じです。先生の直系の子女を、「どろぼうして連れていってもいい」と言ったなら、お互いが奪い合いをして、韓国の祝福の子女たちは全部奪われてしまうでしょう。そこで韓国の人が言うのに、「先生はこのままにしておくのですか? 先生の民族はどこに行ってしまうのですか。先生、私たちは共に住むべきです」。とんでもないことです。もう倍達(ペーダル)民族の時代は過ぎ去りました。これからは王達(ワンダル)民族時代です。配達(ペーダル)とは(倍達と配達の韓国語の発音が同じ)配達してくれることですが、王達というのは配給してもらえないということです。配達民族というのは、神が配達してあげるので、分か与えるための民族です。それだから選民なのです。これは一脈相通じる言葉です。配達、配達、配達は好きですか。配達するには良いものを分けますか、悪いものを分けますか? 最も良いものを分けて与えるのが神様であります。最も悪いものを分けて与えたらそれは悪魔です。統一教会の三十六家庭の中に、これから黒人のお婿さんを迎えるようにしてあげようと思います。それで今探しているのです。先生は人がやらないことよやるチャンピオンですね。(笑い) 人のやらないことを始めて、今までやっているうちに、このような年齢になってしまったのです。年を取って死ぬと思っていたのにまだ元気なのですね。お母さんは、おじいさんという話をするだけで嫌がります。先生よりも、もっと嫌がります。なぜそうなのでしょう? 先生を愛するからです。愛は永遠なものであり、愛する人と永遠に共に歩きたいからです。

 それでは、文先生は今まで何を与えながら回っている人でしょうか。何ですか。愛ですか。先生はうまい話をするので、詐欺師なのでしょうか、どうでしょうか。分かりますか。よく御覧なさい。目が小さいのは、遠くを見ることができるのです。いつも望遠鏡のように絞りを絞って見るのです。あの者は何をしていたのか、統一教会に入ってもしばらくすれば落ちてしまう者かどうか、よく分かるのです。そして頭が大きいのですね。よく思考するため悩みも大きいということです。(笑い) ですから、先生について妖邪なうわさもありました。悪いうわさ、良いうわさいろいろありましたが、良いうわさより悪いうわさのほうが多かったのです。

 しかし、世界一のアメリカ司法省(法務省)が調査をしてみても、先生について悪いことは何一つ見つけ出すことができず、反対に良いことばかり見つけました。それでどういう結論を出したかというと、今レバレンド・ムーンを起訴すれば、アメリカに戻ってこないだろうと思ったのです。それに対して先生の答えは、こうです。「先生がどうして戻ってこないと思ったのか。そのように思うのはサタンの考えだ」。

 もう三時間たってしまいました。それでは結論づけましょう。今まで話したように、公的な道を行かなければなりません。先生がこのように公的な道を整えて、すべてに愛の力を通して紐を付けました。この紐を引っ張りさえすればすべてが引きずられてきます。これから先生が島国に行って住むようになれば、そして「統一教会の群れよ、島国に来なさい!」と言えば、すべてが島国に集まってくるでしょう。「すべての統一教会信者は、島国で自由に住むことができる」と言ったら、その島国を天国にすることも簡単です。今大韓民国の人口は何千万ですか? (四〇〇〇万です)。それでは私たちの統一教会の人口六〇〇〇万がそこに集まってくればどうなりますか。六〇〇〇万と四〇〇〇万とで一億になります。その時、統一教会の信者は今の韓国の人口にあらゆる面において負けるでしょうか。勝つでしょうか? (勝ちます)。絶対に負けません。それはなぜかというと、韓国がどこに行けばいいのか知っているからです。ムーニーたちは韓国がどのようにすれば生きれるのか知っているのですが、南韓の人たちは大韓民国だけが良くなればいいとだけ思っているのです。金日成はどうかといえば、たとえ北韓の人々が減るとしても南韓と一つにならなければならないと言っているのです。それでは北韓の人々を消化することができますか。南韓の人々が消化することができますか。南韓の人々が消化されることがあっても北韓の人々を消化することはできません。北では南北韓の統一基盤の上に一つの国を願ってあらゆる訓練を重ねているのに、南韓の人々は、南韓だけが一番だ、自分たちの国土で生きていこう、と南韓だけしか知りません。

 先生は悪魔の提唱を知っています。なぜ北韓が南韓を統一してくれるのか。なぜ南進統一を願っているのか知っているのです。「金日成、この者よ!」と、国の指導者たちが、この国の民四〇〇〇万がなぜ南韓の北進統一を示さないのですが。北韓の地は私たちの地であることは間違いないことです。一〇〇〇万の離散家族を中心として、北韓の人たちが一つになれば、金日成が指導する国民は半分にもならないのです。その人たちが先頭に立てば金日成以上にやれるのです。なぜしないのですか。そうすれば、残りの三〇〇〇万南韓の民がわずか七〇〇から一〇〇〇万の人々に責任を果たせないほど無能ではありません。

 皆さんは知らなければなりません。いかに成吉思汗(チンギスハン)が世界を征服したとしても、一つの国だけは征服できませんでした。それが韓国なのです。皆さんはそのことを知っていましたか。優秀なこの民族なのです。神が背後にあってこの民族を育成してきたことは金日成を恐れるような民にするためではありません。金日成も一気に飛ばされるのです。北進統一です。戦わず包囲作戦によって、サンドイッチにしてぺちゃんこにして、横から取り出してシベリヤの広野に行かせるのです。なぜできないのですか。その力がないのですか。それほどまでに無力なのですか。先生はそのことを厳命し、祈祷しました。神の前に、金日成のことを祈祷したので、追放してしまわなければなりません。これは偽りの者です。ですから、南北統一のための準備を急がなければなりません。それが嫌ですか。そのような者がいたら、この民族の逆賊です。

 先生は今までに誰よりもこの民族を愛した歴史性をもっています。今日年 偉いと言われる人々にも、国を愛したという歴史性においては先生に勝る人はいないと思っています。神が保護し給うて幾星霜を経て、忠臣が道理を果たしつつ行った死の境地を越えて、生きて帰ってくる時、勝利の冠をかざし、解放の旗のぼりを持って帰ってくることを夢見ながら訓練してきたのです。そうした莫大な歴史的内容を清算して、愛の旗を掲げて帰国してきたのです。今民族の難局を統合することのできる一つの愛の種として認定させるのです。今日の民主と共産で戦うこの世界を消化することのできる、国家的出発起源となる一つの国の種を植えようとしているのです。

 先生は今日の連続的な民主と共産の戦いをすべて消化することのできる未来の統一世界は、愛を中心として、天と地と世界が愛の伝統文明を通して老幼男女、過去、現在、未来、天上世界の霊人であってもすべての人たちが両手を挙げて歓迎することのできるものであり、そのような真の愛の分母を中心とする公的生活の世界版図を助成するために、このようなことをやっているのです。

 先生の生涯を讃える以前に、皆さんは先生の伝統の歴史を受け継がなければなりません。皆さんが住んでいる家庭にこの伝統の根を下ろさなければなりません。皆さんが生活しているこの国に、南韓の地に伝統の根を下ろして、北韓を消化して、そこに枝を伸ばし繁殖させなければなりません。そこから新しい国を出発できるのです。戦わずに勝利するのです。先生はアメリカと戦いませんでした。打たれて奪ってきたのです。これが神の作戦なのです。ですからこのような戦法により、善は打たれて奪ってくるのです。善を打ったならば損害賠償を支払わなければなりません。そのようになっているのです。十の基準の人を打ったならば、その倍を支払わねばならないのです。レバレンド・ムーンは神からの使命を受け世界を治め、世界を指導する責任をもって来たのです。このレバレンド・ムーンの世界の価値基準ぐらいは支払わねばなりません。それにはサタン世界の全部を与えられたとしても足りないのです。

 先生がダンベリーから出て来たその日から、西欧文明圏とアジアの文明圏の潮流が交差したのです。交差したこの潮流をアジアの韓国にもってきて、ここを中心として共産世界と自由世界が完全に一つになる種が蒔かれたのです。その根と幹と芽が連結できる道を整えなければなりません。そこから無限に、数知れないほどの民族が伸びていき、四十億の人類が一本の愛の共通なる木となり、世界の村々に神が臨在されて平和の世界となるのです。

 先生は愛の公的生涯と、愛の公的世界観を打ち立てるために、誕生以来今まで、六十六年間、生涯を捧げてきた生活が公的生活であり、今や世界的に有名になったのです。これから大韓民国も先生の手が必要であり、アメリカ、日本、中国もみんな先生の手を必要とするようになりました。残っていることは教育です。

 それでは結論を出しましょう。今日、私的生活圏、公的生活圏、私的に行く道、公的に行く道、これらを考える時、何を中心として生活すればいいのかというと、愛を中心として生活すれば、私的な生活もそれは公的になるのです。分かりますか。これほどおもしろいことはありません。今までは、愛といえば私的なものとしてすべてにサタンが作用したのに、今や愛を中心とした心と体が一つになった位置は、自分のために生きることが公的なことに通じるのです。それはなぜかといえば、愛がすべての力の接触分母となるからです。すべての作用の主体となるために、その相対的作用を経ればすべてが善なるものであり、すべて統一圏内に存在するのです。ですから自分の心と体が一つとなり、このような宇宙愛を土台とするとき、自分のために生きることもその生活自体が善なる結果をもたらしてくるのです。それ自体が公的な生活となるのです。そのように生活する人は、一人で生きていても天国に行けるのです。

 個人が、このような愛の理想を中心として、父母兄弟と共に生きれば、堕落することはなくそのまま天国に行けるのです。人間は天国に行くために精誠を尽くして愛を知るようにはなっていないのです。愛というものは誰かが精誠を尽くして教えてくれるので知ることができるのではありません。人間が成熟すれば、男は男になったことを知り、女は女になったことを知るのです。教えてあげなくても自然に分かるようになっているのです。自然を見て学べるようになっているのです。学ばなくとも誰もがもつことのできる共同所有権となっているのが愛なのです。

 堕落しなかった立場において、このような本然の勝利圏に立って、家庭をもてる神側の男性と女性が、愛を懐しく思いつつ、一人で生きていてもそれは私的生活ではなく、公的生活に通じるのです。分かりますか。そのような立場にあれば、どのような人に従っていても天国に行けるのです。

 学問を愛し、そこに酔って生きたとしても、それが公的であれば愛と通じるのです。すべて自分の本心と精心を尽くして愛の軌道を見つけて動くとき、それは本郷に行ける資格ができるのです。本郷の倉庫に貯蔵される貴い物になるためには、この愛の論理以外にはあり得ません。このようになれば、サタンも他に足を下ろすことができないという結論になります。そこから、天国創建という言葉が生まれてくるのです。

 先生は今、六十六歳です。これは創造数から考えると終わりなのです。サタンの数です。六十六数はサタンの長成期完成級の数です。蘇生、長成、完成級で堕落したので三段階圏のその圏に該当するのですから、サタン世界は統一教会を侵犯できる勢力圏が塞がれてしまいました。これからは統一教会の時代が訪れます。人があまりにも多くなるからです。

 お母様も四十三歳です。それは婦人を中心としての新しい世界、カナン復帰のための受難の時代を越える数なのです。先生においても新しい時代へ越えていく数であり、お母様においても四十三数は妊娠して、子供を生んで苦労することから逃れるという数です。今年が先生の六十六数と、このように合うということは、蕩減復帰摂理史から見た時、すべてが数理的になっているということです。これから統一教会の信者たちは、愛を基盤とした心と体をもってすれば、いかなることをやっても天国に通じるのです。これ以上の公的なことはありません。分かりましたか? (はい!)。

 愛するということは平安な道ではなく、苦難の多い道ですが、またおもしろい道なのです。苦難の道であることが貴く、やりがいのある道なのです。そのような意味から、この新年に皆さんは多くの恵みを受けてください。では祈祷しましょう。

 愛するお父様、流れていく歴史時代において、私たちの立つべき所がいかなる所であるかを知りました。本然の愛を中心として、心と体が一つなり得ない悲痛なる歴史をもっていた、歴史時代の悲しい事情が、この境界線によって、あらゆる事縁がつづられてきたということを知りました。悲しみは人類ばかりではなく、主体であられるお父様であられたことをよく知っています。このような環境を収拾するのにどれほどお疲れになり、どれほど御苦労が多かったことでしょうか。

 そうしているうちにも、この哀れな五〇〇〇年の歴史をもつ韓民族を捨てないで、この民族を中心として終日の歴史的な終着点を標準として、数多くの歴史的な宗教を興亡の道へと導きながら、この韓国を中心として思想的対峙線、宗教的対峙線により、全体が韓国を中心として方向転換するという宇宙史時代に臨みましたので、統一教会がなすべきことは、他の公的な道以外を取ってはなりません。神と人とが完全に愛を中心として一つになれるのであり、歴史的なすべてが一つの渦巻きとして、ここで渦巻いて、死亡圏を水の下へと取り除き、善の流れのみがこれから新しい基準に向かって悠々と流れる、理想世界が私たちに近づいてきていることを見つめながら、行く道がいかに苦しくとも、今日のみ旨を中心として愛を中心として、私が生きている生活のすべては公的なものと通じ、宇宙摂理史的理想郷、地上天国と天上天国を統括することのできる基本的な生命であることをはっきり知って、どうかこの道に酔い、この道に生き、この道で消えながら明日への希望に満ちた誇らしい神の国を受け継ぐことのできる後継者となれますように、祝福してくださることを懇切にお願い申し上げます。

 残れるその国と、その世界に恥ずかしくない今日の姿勢を取って、勝利の天国に直行することのできる愛の王子、王女たちになれますように、祝福してください。許諾された日を感謝しながら、今日を祝賀する全世界の統一の群れを共に愛の園で抱いてくださることをお願い申し上げます。イーストガーデンにいる幼い子供たちも、父母様のために祈祷しているその場を神共に祝福してくださることを、すべてを真の父母のみ名を通し、祝願いたします。アーメン。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
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Last updated  2022.01.01 21:42:18
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