奇   知   外   記

奇  知  外  記

PR

Free Space

にほんブログ村ランキング参加中
↓ 応援クリックお願いします ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

2022.11.25
XML





▲真の父母様、第13回「愛勝日」記念礼拝にて



「世界指導者会議での御言」

1996年1月2日
ニューヨークにおいて世界指導者会議が開かれ、その際に語られた内容。


    使命を残して死ぬことよりも恐しいことはない

 一九九五年は終わり、新しく一九九六年が始まりましたが、日々の生活は変わりませんが、年は変わったという事実を私たちは知らなければなりません。
 皆さんの年が五十歳になり、また、年を取って老いて死ぬとしても、一年、一年、変わっていく、その事実を記憶して死ぬ人はいないのです。年を中心として、国なら国のプロジェクトが変わり、個人なら個人のプロジェクトが変わりますが、それを知らずに、生きて死んでいくのです。
 大きな木を見れば、小さな芽が出て育ち、枝が生え、年ごとに枝が伸びたりします。北側に雪の降る国は、それがはっきりしているのです。年ごとに変化し、年輪が生じますが、その年輪と枝を記憶することができないというのです。
 皆さん、「死ぬ」ということを考えたことがありますか。人々は、自分が「死ぬ」と言いながら、死んでいく人はいないというのです。「死なない」と言いながら、死んでいくというのです。
 わが興進君が逝った愛勝日が、満十二年になりました。昨日のことのようですが、十二年になりました。そのようなことを考えると、お母様は「今また十二年たてば、先生が何歳になりますか……」と心配しますが、今になって私は感じるようになり、きょう反省をしてみました。
 ですから、摂理の御旨、今から展開される世界がどうだということを考える時、十二年間でこれをどのように収拾するかという問題は、非常に大きな事件であり、非常に大きな歴史的な問題であらざるを得ないという話なのです。
 さあ、今から十年。先生の年が今、七十六歳です。ところで、百歳まで何年残っていますか。(「二十四年、残っています。」)では、月で何か月ですか。(「二百八十八か月です。」)
 二百八十八か月というのは、とんでもなく短いです。子供たちが育つのを見れば、十年が昨日のことのようであり、二十年が昨日のことのようであり、「あの子たちがいつ大きくなって、結婚して息子・娘を生むだろうか」と言っていたのが、もうそのような時が来ました。
 皆さんは、御旨の前で、多くの決心をしてきました。皆さんが故郷を離れて「何年間なら成功するだろう」と、決心をして発った、その歩みが結実できずに、帰らなければならない立場ならば、どれほど情けないことでしょうか。「あの人が故郷を離れる時は、成功して帰ってくると大言壮語したのに、はだしで帰ってきた」と言うなら、どうしますか。
 さあ、このように見る時、皆さんは、どうせ霊界に行きます。霊界に行かない自信のある人はいますか。きょうの夕方、死ぬとしたら、どうなるでしょうか。それを考えなければなりません。自分が生きているのは、死の力を踏んで、その上にいるということを知らなければなりません。死と闘い勝ったので、生きているのです。この闘いに、いつも勝つということはできず、一度は負けます。その日が、皆さんの死ぬ日なのです。
 では皆さんが、自分が愛する顔、愛する自分を見て、鏡を見て、このように美人で、整った人が死んで水になり、元素に返って、そのすべての美しかった姿が、根本的になくなると思う時、気分はどうでしょうか。
 統一教会の舞台というものは、この世になかった舞台であり、歴史以来初めて、創世以後初めて現れたもので、人間として成功でき、霊界に入る時に表彰され得る歩みが可能であったにもかかわらず、家から反対を受け、環境から反対を受け、このようにして、何ら功績なく死んで霊界に行って、願っていたその基準と反対に行ってとどまった時、後日、近所の人たちや反対したすべての人が来て、「わあ! 統一教会の人は皆、あのようにいい所に行ったのに、あの人は、なぜあんな所にいるのか?」という立場になれば、どれほど悲惨かというのです。
 そのような立場に到達してしまったならば、どのような考えが浮かぶでしょうか。これは、深刻な問題です。自分が悲惨だといっても、戻って処理する道はありません。
 統一教会を誇りながら回り、周辺のすべての問題を起こした人々に反対を受け、押さえつけられたにもかかわらず、統一教会を信じなかった人たちよりも、悲惨な立場に立つようになる時、情けないではありませんか。死と闘って、打ち勝っていくのが信仰の道です。
 昨年は過ぎましたが、九五年を越える時、自分が一年を無事に過ごせたことを感謝しなければなりません。何に対してでしょうか。生き残っていることに対してではありません。その生きる中において、天の財産となることができ、天の実績となることができるものを残したということを、喜ばなければならないのです。
 ですから、自分の生涯において、天の前に残すべき実績のために、一日をどのようにより有益に使うか、一時間をどのようにより有益に使うか、明日の一時間をどのようにきょうにもってくるか……。
 夕方になって、きょうは寝なければならないという時間になったとしても、自分が今、一時間動けば、明日一日を得ることができるとすれば、当然、そのことを行動しなければならないというのです。一日を得て、何をするかという話です。その一日に、その国を動かし得る一人を私が感動させれば、国が助かるというのです。一日に備わった実績というものは、国を救うのです。
 そうならば、時間を惜しみ、そこに精誠を捧げる心をもち、天の実績を求める懇切なる心が私の生活を刺激し、導きを受けながら生きるべきなのが、信仰の道だということを、皆さんは知らなければなりません。それが何の話か分かりますか。
 毎日のように死を考えなければなりません。きょう、私が行って、ここで死ぬとすれば、どうするつもりかというのです。「その行く道が、一時間を通じて一日を見いだす」という懇切な心をもつ人は、そこで倒れるとしても、地獄には行かないだろうというのです。
 統一というものは、生涯を通してなるのではなく、瞬間になるのです。怨讐だった友、一生の間会わないことを願った友も、一言で感動する瞬間に、すべてのことが統一されるのです。それゆえ、何か、事を終える時は、「もう一つを加えよう。もう一つを残そう」、このように考えなさいというのです。
 年齢が七十歳を越え、八十歳を越えるようになれば、自分がいつ逝くかということが、だいたい分かるのです。普通の人たちは知りません。大きな責任をもった人が、どれほどせわしく、どれほど忙しいかということを、皆さんは知らないのです。志を抱いた愛国者として、国を建てようとして、失敗し、追放されて生きる人たちは、年を取れば、寝ることができないのが、正常であると思うのです。
 先生の生涯を見れば、監獄にもたくさん行き、拷問もたくさん受けましたが、「この場で死ねば、大変なことになる」と考えました。なぜでしょうか。傷つき、拷問の跡を残したその場、呻吟する場で死ぬならば、問題が大きいというのです。「このような蕩減復帰の道に、誰が責任をもつのか」というのです。
 その場で、死を乗り越えることのできる感動と衝撃の涙を流すようになれば、天がすべてのことを収拾してくださるということをたくさん感じました。それが、何の話か分かりますか。
 拷問が問題ではなく、自分の苦痛が問題ではないのです。使命を残して死ぬことよりも、恐ろしいことはないというのです。恐ろしいのです。そのようなことを考えたことがありますか。
 皆さんが、今まで活動したこと、精誠を尽くして天に記憶され得る日々をもって、そのような時があった、ということを忘れてはなりません。
 そのような心情的な場、そのような体恤的な場が、十年前、二十年前だったなら、「きょうの私は、なぜこのようになったのか」ということを、比較してみなければなりません。
 それはほかでもない、その時の皆さんの心情基準は、公的な御旨のために考えたのですが、その考えと、きょうの自分たちが御旨のためにする考えに、差異があるからそうだというのです。それは、間違いのない事実であることを知らなければなりません。

    死を越える立場で、天を慰労

 皆さんは、「天宙復帰」という文字は知っています。それは、神様を完成させ、神様までも解放させなければならないという、とてつもない内容だというのです。そのような膨大な「天宙復帰」という内容を中心として、自分が主体の立場に立てる時があったか、これが問題だというのです。それが、自分と何の関係があるか、という話です。自分にある体と心をすべて投入し、死を越えるとしてもそれをなそう、という関係を結ばなくては、そのことが不可能なのです。
 それはどういう話かといえば、ここから水平に行けないのです。上がっていかなければならないのです。行けば行くほど楽であることを願い、昨日よりましなことを願い、易しいことを願ってはならないというのです。祭物の橋を架けて、行く道であることを知らなければなりません。それが何でしょうか。
 一つのはしごが、このように上がっていくとするならば、天をつかんで上がっていく所では、どこまでも、涙が先立たなければならないのです。今まで来たことに感謝し、残しておいた道を今から自分が行かなければならないのに、自分の力が足らないので、自分を見つめる天は、どれほど気が気でないでしょうか。
 勝利することを望んでいながら、それが可能な未来に自信をもてない自らに対して、涙が先立ち、天が同情し、慰労され得る立場にあってこそ、そのような道を行くことができるということを知らなければなりません。それが、何の話か分かりますか。
 だからといって、そこから落ちることもできず、下りてくることもできません。下りてくることはできないのです。公人が責任を果たせなくなれば、責任追及を受ける、そのような道だということを知らなければなりません。
 上がっていけなければ、どうしなければならないか、という話です。涙を流しながらも、ありったけの力を尽くし、手を差し出し、死ぬ覚悟をして、上がっていかなければならないというのです。
 そうしながら、神様は今まで、復帰路程で、再創造過程でアダムとエバを完成させることができず、このようなはしごの何百倍の困難な道を上がっていったということを考える時、自分がここで涙を流しながらも、自分よりも難しい、天の行かれた道があるということを知らなければならないというのです。
 そのような位置、神様が上がっていった道よりも難しい位置で、上がることのできない立場にあるならば、「自分が神様の心情を体恤できる、よい場面である」と考え、それを感謝する心で、「私は当然、こうでなければならない」と言えば、天が協助してくれるというのです。どこから力が来るのか分からないほど、力が湧き上がるのです。
 「死を越える立場で、天を慰労し、感謝できる立場を見いださなくては、神様の助けを受けることができない」というのが、先生の生涯の体験なのです。
 皆さん、私は五日にアルゼンチンに行って、海からすべてを調査しなければならないのです。朝出発する時には、夕方を考えながら、「疲れるだろう」と考えて行くのです。そのように考えながらも、「行けない」と考えてはならないのです。「疲れても行かなければならない」と考えるのです。
 私のような人が十人、一緒に船に乗るとしても、「私は、より大きな使命を負っているので、この人たちがすべて倒れたとしても、私は倒れてはならない」と考えるのです。天は、そのような人を好むのです。自分を考えるところでは、天が現れません。それは堕落圏内なのです。

    自分の御旨! 自分の御旨7

 女性たちは、化粧をして出かけた時は気分がいいでしょう。化粧した顔を見て出かけ、道を歩いていて、かわいそうな女性が化粧をしないで、垢の化粧をし、肥やしの化粧をしているのを見た時、お母さんや自分の愛する娘のように思う、そのような心をどのように形成させるかというのです。神様は、そのように見ようとするのです。
 先生が監獄生活をする時、腹の減った人もたくさん見ました。今も追憶に残ることがたくさんあります。そばでご飯を食べながら死ねば、腹が減って、その口に入っているものを取り出して食べるのです。お母さんのような人、あるいは、夫のような人、妻のような人ならば、そうすることはできないというのです。
 そのような心情、そのような心をもてば、語らなくとも、その監房にいる人は、自分を父母より尊敬し、兄弟より尊敬するというのです。間違いなく、そのようになるというのです。
 冬、興南は、とても寒い所です。零下二十七度、三十度を、上下する所なのです。そのように寒いのに、囚人服は薄い服一枚です。そのような所で凍ってブルブル震えていれば、われ知らず自分の服を脱いで、あげることのできる心をもったものが、父母の心であり、愛する夫、妻の心だというのです。自分がそのような心で、どのように実践するかという問題なのです。
 天は、そのような対象を探しています。そのような人を探しているのです。そのように脱いであげたからといって、死にはしません。アメリカ二億四千万の中に、そのような人が何名いるかという話です。
 このような話をなぜするのかといえば、御旨を「自分の御旨だ」と考えたのか、「神様の御旨だ」と考えたのか、「ほかの人の御旨だ」と考えたのかというのです。
 神様のものでも、主体と対象の関係、距離があるのです。真の父母の御旨だとしても、距離があるのです。関係のある世界にいないというのです。自分の御旨! 自分の御旨7
 アダムとエバを創造できなかった神様が捜し求めるものが、神様の御旨というものですが、その御旨は「自分から捜し求める」ということを知らなければなりません。神様の御旨の中で捜すのではなく、「自分によって、御旨が満たされる」ということを知らなければなりません。
 皆さん、先生が堕落原理を、どのようにして探したと思いますか。堕落したその時の神様の心情圏内に至れば、その痛みが胸から始まり、痛いところに行くというのです。それが胸に行くのではなく、堕落したところに行くというのです。何の話か分かりますか。痛いところが連関関係で、主体と対象の関係としてなされるというのです。ですから、愛から堕落したということが分かるのです。
 それで、皆さんが御旨を中心として、どれほど胸を痛めたことがあるかというのです。そうすれば、すぐに相対できるのです。そうではないですか。原理には、「主体は対象を創造する」とあります。ですから、すぐに相対のことが分かるのです。
 それで、先生がこの摂理史において決定したことは、だいたいすべて合うのです。先生が占いをして分かるのではありません。自然に分かるようになっているのです。神様の心情を中心として、つらいのはどのようなことなのか、一番解決しなければならないことは何なのか、ということがすぐに分かるのです。
 この世に、神様の友がいません。先生に友がいません。私しかいないので、私が直接行動するのです。

    御旨のためにまっすぐに立った人は一人もいない

 さあ、昨年、南米に行って一年過ぎましたが、一年間で、どれほどたくさんの仕事をしたかというのです。
 多くの人たちは、何か会議をする日取りを中心として、すべて延ばそうとしますが、先生はすべて繰り上げようとするのです。この闘いです。先生が体恤したことを知り、自分たちが体恤して何かを知るようになれば、先生よりも多忙であるべきなのに、そうではありません。ですから、相対がありません。
 このような摂理の道を経ながら、統一教会の皆さんを、息子のように信じ、神様のように信じていたら、すべて失敗に終わってしまいます。
 皆さんが知っているとおり、ウルグアイには、銀行もあり、ホテルもあり、新聞社もありますが、十五年間、私は行きませんでした。十五年間、チェックをしませんでした。信じました。自分を信じる以上に、信じてあげたのです。信じてほうっておきましたが、全部だめにしました。
 責任を負った人が、すべてのものを自分の名前を中心として、自分の親戚関係を中心として連結させれば、すぐにだめになるというのです。責任者が会社を動かせば、法的環境圏がどれくらいできるか、ということを知らなければなりません。何も知らずに、自分が出発したその時の基準で、自分の思いどおりになると思っていたのです。
 皆さんに対してもそうです。皆さんの中で、御旨のためにまっすぐに立った人は、一人もいません。十年、二十年、ストレートですか! 根は多いのですが、中心の根は一つしかありません。一つの根から出てきた枝が二本あれば、それは半分の価値にしかならないのです。
 根から二本の枝が出てはいけません。一つにならなければなりません。中心の根は、中心の幹に垂直にならなければならないのです。二つになれば細くなります。中心の根、中心の幹、中心の枝です。一番短くなければなりません。
 では、皆さんが、御旨の世界に入ってきて、そのように生きてきましたか。御言を初めて聞いた時は、興奮して「これでなければならない」と言って、ありとあらゆることをしましたが、三年ほど過ぎれば、すべて沈むのです。
 中心の根、中心の幹、中心の枝を延長したそこに、神様が座っている御座があるというのです。分かりましたか。(「はい。」)
 これではだめなのです。天の国の王権をつなぐ人をつくるために、再創造をするのです。天の国の王権を相続させることのできる、直系の子女をつくっているというのです。そうでしょうか、そうではないでしょうか。
 アダム・エバが、まっすぐに立てなかったでしょう。アダム・エバの息子・娘も、そのようになったでしょう。ですから、問題なのです。これは、観念ではなく事実です。ここで神様が見つめる、中心の根から中心の幹、中心の幹というもの自体は、厳然と永遠に残っているのです。そこに合う人を、立てるというのです。
 キリスト教を信じる人が、十二弟子を中心として、自分勝手に教派をつくれますか。センターが一つなのに、枝をつくれば、これはすべて地獄に行くのです。
 統一教会において、長子権、長父母権、長王権を語っているということは、驚くべき事実です。それは人間として、軸をまっすぐにさせるのです。まっすぐに立たなければなりません。それが、縦的に立つようになれば、横的に連結されるのです。ぴったり合うというのです。
 なぜ先生が、今、このような話をするかといえば、今、一つの峠を越えていくのです。皆さんと先生が自由に会える時間が、だんだん遠くなると見るのです。長子権時代は、父母権とは異なります。長子の生活と、父母とは異なります。氏族となり、民族を編成し、国になる時は、縦的な神様と関係を結ぶのです。縦的になったので、家庭時代、父母時代とは異なるというのです。
 今、南北米のキリスト教指導者たちの会議が終わりました。それがアベル圏とするならば、国のカイン圏を修練しなければなりません。
 指導者たちを集めて教育するのですが、一月十四日に決めました。なぜ、十四日に決めたのでしょうか。国です。国の大統領です。七年、七年です。国を代表した基準だというのです。それで、十八日までやります。十八日に終わるのです。十八は青春時代をいうのです。
 そのような基盤を築いておけば、わが(教会の)若者たちが活動できる、自由舞台が生まれるというのです。そのような原理的観点を見て、そのようなことを定めるのです。ところが、責任者たちは、「三月にしなければなりません」と言っているのです。
 時間が短ければ短いほどいいのです。三か月延長すれば、それだけ怠惰になるのです。心に余裕をおくのです。目の前に入ってくれば深刻なので、短ければ短いほど、三倍短ければ三倍以上、努力しなさいというのです。
 自分の力が足りなければ、兄弟を連れてきて、父母を連れてきて、友達を連れてくるのです。そのようにして、伝道ができるのです。雷のようにやってのけるのです。そのようにすれば、絶対、成功できないことがないというのです。
 心情問題にかかっていることを知らなければなりません。心情問題にかかっているのです。

    現在の自分を殺し、未来の復活体を探し求めるのが信仰の道

 今、三六〇万双を九七年十一月にすると言いました。今年の十一月にすれば、どれほどいいかと、私は考えます。どれほど深刻ですか。深刻になるでしょうか、くたばってしまうでしょうか。死んでも行かなければならない道です。死んでもしなければならない道なのです。誰かがやってくれるのではありません。
 原子砲なら原子砲、大砲なら大砲は、すでに飛んでいるのです。考えてみなさい。ターゲットに合わさなければならないというのです。そうでなくては、四千年歴史を四十年で、どのようにして蕩減復帰しますか。百倍以上しなければなりません。そうしてこそ、天が協助するのです。「いつ、座ってご飯を食べる」と考えてはいけません。いつも、かがんで座り、行きながら仕事を処理すると考えるのです。
 どうですか。(「はい! )返事は上手です。返事が先ではなく、実践です。言葉の多い人は、弁明が多いのです。分かりましたか。
 大会のようなものを、時間を長く延ばしてすればいいでしょうか、一週間以内にすればいいでしょうか、二週間以内にすればいいでしょうか。長くて三週間です。三週間も、天は願いません。
 それゆえ、何かの大会をするようになれば、責任を負った部署は、三次戦までやることを、前もってみな組んでおけというのです。全部署が組んでおけというのです。「一週間以内にもでき、三日以内にもできます」と、こうでなければなりません。
 見なさい。十五年前に、私がウルグアイに莫大な投入をした時は、狂った人だと悪口を言いました。「ああ、こじきのような所に、何をするために、あのようなことをするのか」と言いました。ウルグアイは、自分の国が自分勝手にするものと考えたのです。とんでもありません7
 このウルグアイは、韓国と軸です。反対の軸(軸の反対側)です。毎日のように、中心の軸が必要だと言う人が、そのように考えないならば、ばかです。世界を収拾する道理がありません。
 それで、他の国は「自分の国はもっと大きいので、レバレンド・ムーンを引っ張ってくれば、よくしてくれるだろう」と考えるのです。ただでもらうことを好むのです。
 それを、どこで学んだのでしょうか。釣りの哲学に、そのような観念があることを知らなければなりません。餌を与えて待つのです。
 そのような人と天は、いくらやっても損害を見ないのです。そのように考え、大きな御旨を人類の前に残そうとする人は、絶対滅びず、失敗しないというのです。
 大きな魚を捕まえようとすれば、大きな餌が必要です。大きな餌を入れたといって、声を出してはいけません。人がいないかのように、ならなければなりません。そうしてこそ、魚が来て、それを食べるのです。
 では、皆さん、先生に従いたいですか、統一教会の地方の責任者に従いたいですか。(「お父様です。」)地方の責任者が蹴れば、「私はそいつのせいで、統一教会に通わない」という人は、げすの魚です。そのようなものは、まき餌にもなれないのです。皆さんは針につける餌ですか、まき餌ですか。何ですか。考えなければなりません。先生は、アメリカに座っていれば、会いたく、心が引かれていく人がありません。先生は普通の人とは少し違うのです。
 ソウルと野牧は、どれくらいの距離になりますか。三百里(注・韓国では「一里」が約四百メートル)になりますか。二百里になりますか。(「二百里です。」)二百里になりますが、そこにいる三人の姉妹が「先生、来てください」と、毎日のように精誠をずっと捧げているのです。その道は、歩いていける道です。自動車の道ではありません。
 懇切に祈祷すれば、現れて「私が明日行く」と言えば、餅も準備し、よく整えて待っているのですが、来ないのです。だからといって、「来なかった」と、投げ出すのではありません。それを何百回でも繰り返すのを、天は見るのです。何回ぐらいするかというのです。何回も続けるのです。皆さんはどうですか。一度だけやれば、不平を言い、「嫌だ」と言うでしょう。
 不平を言う人は、天の道から、いつでも落第しやすいというのです。
 先生が不平を言ったなら、どのようになるでしょうか。四十年間、どれほど大変だったことでしょうか。御旨がなされることを胸に抱き、話もできず、待ちこがれながら今まで来たのに、不平を言うとするならば、どれほどたくさん不平を言うでしょうか。
 この御言をもてば、世界が一つになるのはもちろん、アメリカやソ連を越えて、世界の中心になるのは間違いないのに、そうしているのが、どれほど大変か、考えてみなさいというのです。
 そうして、悪口を言い、この世の悪いものをすべてつまみ投げ、四方に行って、機関銃で射撃するならば、どうなりますか。不平を言ったら、どうなるでしょうか。そうしたならば、皆さんは、真の父母という名が分かるでしょうか、分からないでしょうか。
 昨日も、真の父母に対して、概略的な話をしました。蕩減の道が、どれほど難しいか、ということを話しました。細かくいえば、何千年かかります。それを知らなければなりません。
 先生の性格が、どれほど火のような性格でしょうか。火のような性格が、そのように耐えるので、効果があるというのです。
 皆さんは、今まで御旨の道に従いながら、不平を言いましたか、言いませんでしたか。言わなかった人、手を挙げてみなさい。
 皆さん、それを知らなければなりません。宗教というものは、死の道を越えるためのものです。死んだ後に目的があります。死ぬ前には、不平を言えないのです。ですから、聖書の「死なんとする者は生きる」という話は、合う話なのです。
 女性たちが、御旨の道に忙しく、髪をとかすのを忘れ、一週間でも、一か月でも活動したとすれば、狂った人のようですが、神様は「狂っている」と言うでしょうか、祝福してくれるでしょうか。(「祝福してくれます。」)「狂った人だ」と言えば、それをたたきつぶし、その福をすべて奪ってしまうというのです。
 皆さん、先生が、サタンの作戦法と神様の作戦法を教えてあげました。神様は、打たれて損害賠償を求めるのであり、迫害されるというのは、迫害する人のすべての所有権を相続させてくれるためのものだ、というのです。どれほど、ありがたいことでしょうか。サタンは、打って失ってしまうのです。言葉も、受けることも、行動も、先にしてはならないのです。
 先生がきょう話したことを中心として、「死の道を選び、生命の道に変えていくのが復帰の道だ」ということを知らなければなりません。自分を犠牲にして、行ってこそ、「生きる」ということが生じるのです。生きながら、死んでいかなければなりません。そうしようとすれば、ただ悲惨ですか。神様が投入して忘れるので、その神様の相対になろうとするのですから、仕方がないのです。天は、投入して忘れるのです。
 ですから、「現在の自分を殺し、未来の復活体を探し求めるのが、信仰の道だ」ということを知らなければなりません。これをはっきりと知らなければなりません。
 それゆえ、御旨の道で一番恐ろしいことは、責任者になることです。何の話か分かりますか。自分を投入しなければならないというのです。

    自然に帰る

 先生がアメリカで成功したので、上院議員や世界的に名のある人で、私に会おうとする人が、たくさんいることを知っています。それゆえ、誰も振り返らない南米の谷間、農村に行って、引きこもるのです。水がある所、草がある所、神様が創造する時のような、いちばん原始的根源を探し求めるのです。自然に帰るのです。復帰です、復帰。
 その水を愛し、草を愛するのです。神様が、それを一つ一つつくるのに、どれほど苦労したでしょうか。そこの川にありとあらゆる種類の魚がいますが、神様がそれをつくって、悲しんだのではなく、すべて喜びました。
 私たち統一教会は、一か月、魚を捕り、食べたならば、その代わりに穀物や食料を一包みずつもってきて、(魚に)食べさせなければなりません。循環法度です。
 ですから、先生は、最初に取る魚を全部、祭物として逃がしてあげるのです。では、一日に一匹しか捕まえられなければ、どのようにするかというのです。そのようなときは、一か月なら一か月、一月一日なら一日に、条件をかけて祈祷をするのです。「これを何日かの条件として逃がしますので、その時まで、天よ、お受けください……」と祈るのです。その代わり、最初に捕まえたものを二匹、三匹、逃がしてあげるのです。そのようなことをするのです。
 そのようにすれば、魚たちが私の餌のところに来て、しきりに食いつきます。ですから、一緒に釣りをすれば、「先生の餌には鬼神のように食いつくのに、私の餌には、なぜ一日中食いつかないのか」と言うのです。
 動物も、魚も、心情が通じるということを知らなければなりません。じっとしていれば、大きな魚が食いつくのを、あらかじめ心に知らせてくるのです。「わあ、大きなやつが来て食いつく」と教えられるのです。それが分かるのです。ですから、おもしろいのです。人々は疲れるといって逃げますが、おもしろいのです。夜明かしして釣りをしても、おもしろいのです。好みが違います。
 私が今、指示して、各国に船を四隻ずつ造って送るようになりますが、それをもつようになれば、その責任者たちは必ず、釣りの訓練をしなければならず、船の訓練をしなければならず、修理の訓練をしなければなりません。よくやる人がいれば、今後、その国に、そのような工場が生まれることでしょう。
 先生がやっていることは、皆さんの先祖の中の先祖がやっていることなので、「私が一番に相続しよう」という考えをもたなければなりません。そのような考えをもたなければなりません。そのような考えは皆、嫌がるでしょう。
 私は、最近、ほかの仕事をすべてやったので、水産事業もできるのです。世界のために、私でなければならないので、このような仕事をしたのです。未来に成ることを話せば、ここにいる人が全部、気が狂ってしまうので、話をしてあげません。(笑い)
 今、脱落するようになれば、十年後に「このようになると、誰が知っていたか……」と言うでしょう。今、離れる連中が、皆そうなのです。「ああ、先生が、あのようにするのを知らなかった……。二十年前に、ああであったなら、離れなかったのに……」と、後悔しているのです。
 そのようにして、自分が二十年間、お金もうけしたのを、「すべて捨ててしまいたい」と言いながら、「これで何をするのか! 死ぬ時にもっていけないもので、何をするのか」と言いながら、黄泉路を行くのです。先生の道に従わなければならないということを知った後には、今、情けなく思っているというのです。それがすべて、怨讐の条件です。

   人生の妙味

 さあ、死の道(生きていく道)をつくっていくのに、小道をつくるのですか、ハイウエーをつくるのですか。千人を横に立てて行く道をつくるのですか、一人で行く小道をつくるのですか。(「ハイウエーです。」)知っていることは知っているのですね。やってみなさい。易しいですか、難しいですか。遊びながら、人のように生きてできると思いますか7
 皆さんが築き上げた道を、神様と先生が行かれると考えてみなさい。神様が行かれ、先生が行かれる時、ハイウエーで行くことができるように、いくつの国を築いていこうと考えてみましたか。
 さあ、皆さんの国に、先生が一度行けばいいでしょうか。皆さんが「私が築き上げた道を、先生がお行きになり、神様がお行きになり、わが国に来ていただけるようにしよう」と考えてみましたか。どうですか。先生が行く所には、神様がついてこようとするでしょうか、ついてこようとしないでしょうか。
 ところで、谷間の狭い所に、どのようにしてハイウエーをつくりますか。楽しくなければなりません。何か喜びがあり、魚が捕れるという、楽しい所をつくらなければならないのです。
 そして、神様が来られて、侍り、説明する時、ご自身がつくられた創造の妙味が、この魚の世界にもあると言って、神様も一緒に釣りをする、そのように楽しく、神様も笑い喜ぶのを見たいというのです。そのためには、苦労を顧みず準備しなければならないというのです。
 それゆえ、雨が激しく降る日に神様が訪ねてくる時は、私が釣りをしていた所にお連れし、楽しくするためにはどのようにし、洪水になった時にはどのようにし、夜にはどのようにするか、そのようなことを全部訓練しなさいというのです。
 ゆえに、昨年、南米に行ってやったことは、なぞなぞのようなことです。先生が朝から出ていきますが、何が楽しみで、そうするのかというのです。そのようにして、何が生まれるのかというのです。
 にわか雨が降りしきるのに、釣り竿をもっていることが、どれほどエキサイティングでしょうか。傘もなく、雨に打たれるのを忘れて釣っているのです。それがすてきなのです。これくらいの魚を釣って、引っ張り上げれば、「これをもって家に帰れば、妻が大騒ぎし、近所の人が大騒ぎするな」と思うのです。(笑い)そのようなことを準備し、入っていき、堂々と大きな魚を取る時、その味は比較にならないというのです。人生の妙味が、そこにあるのです。
 いつも無愛想な夫が、その日だけは、雨が降るのに笑いながら現れれば、妻にとっては追憶が残り得る時間だというのです。そのような体験が多ければ、自由自在に環境をコントロールでき、大衆も支配でき、泣く人の耳をつかんで打って、笑わせることもできるというのです。(笑い)
 なぜ、そうでしょうか。「ちょうど、自分の兄さんのようなのです。自分が昔、兄さんにそのようにしたら笑いました。その追憶ゆえに、そうしました」と言う時、どれほどおもしろいかというのです。(笑い)そのようにして友達になるのです。どれほどいいでしょうか。(笑い)
優れているという人は、押し上げられるのです。
 それゆえ、先生を誰でも皆、好むのです。労働者も好み、商売人も好み、牛を飼う牧童も好み、泥棒していくやつも、私の話を聞いて、休んでいくのです。皆、好むのです。皆さんは、好まないのです。(笑い)それが、どれほどすてきな生活でしょうか。
 先生が釣りにいくのに、ついていきたい人、手を挙げなさい。(「はい。」)その代わり、五十名ずつクラブをつくりなさい。五十名以上です。最小が五十名です。多くなった人は、飛行機に乗り、どこにでも来いと言えば、その時は、船や釣り竿のようなものは、もってこなくてもいいです。私がすべて、準備してあげるでしょう。
 そして、釣り竿を垂らせば、考えてもみなかった魚を取ることのできる所に案内してあげます。どうですか。チケットは買ってこなければなりません。(笑い)それまでしてあげれば、行儀が悪くなります。後で泥棒になります。(笑い)
 「私は間違いなく、フィッシング・クラブをつくろう」という人は、目を閉じて手を挙げてみなさい。私は目を開けています。どれくらいになりますか。もう一度、挙げなさい。
 日本のメンバーは、何の話か分かりますか。ここに参席した女性も男性も同じです。「帰ったならば、必ずフィッシング・クラブを五十名以上、編成しよう」と決心した人は、目を閉じて、力強く手を挙げなさい。本当に自信のある人は、もう一つの手を挙げなさい。これは世界的です。下ろしなさい。
 船が四隻ずつ行くようになれば、何人まで乗れるかといえば、三十名乗ることができます。それで訓練をするのです。そして、先生に報告しなさい。報告するようになれば、何の魚だといえば、ここの人を即座に送って調査し、そこに観光客を誘致することでしょう。
 今、世界を見れば、将来、先生が語る趣味産業が、世界の大きな産業になるというのです。

    趣味生活

 先生がつくった一和天馬サッカーチームが三連覇し、アジアのチャンピオンになったことを、皆さんは知っていますか。(拍手)そのチームが、アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイなどと試合をするために来るのです。
 アメリカが、どうして世界に名の知られた国になったのか、考えたことがありますか。アメリカの人たち、手を挙げてみなさい。考えたことがありますか。それは、名前がそうなのです。U・S・Aです。U(=You)S(=Yes)A(=Number one)。名前がそうなのです。(笑いと拍手)
 そのような話でもすれば、どこかに行って、ご飯をもらって食べることができるのです。これゆえに、アメリカが一番好きだと言うのです。
 どうですか。遠い距離を、先生と一緒に行くのがいいですか、近い距離の近所に行くのがいいですか。(「遠い距離です。」)一日、二日、三日? (「一週間の距離です。」)(「世界一周です。」)それで、「世界一周するのがいい」と言う人たち、手を挙げてみなさい。明日から実践するのです。それでも、それがいいならば手を挙げなさい。(笑い)なぜ、手を挙げません。それをつくるのです。
 今年、間違いなく呼び出し、一週間に四チーム、五チームは来るでしょう。その代わり、ホテルの費用は半分しかもらいません。そして、魚を釣ったのは、買ってあげます。市場で買う値段で、買ってあげます。
 ですから、皆さんが、計算が速くて、これをして、十分に食べて暮らすことができる、という自信をもつようになれば、やりなさい。世界のどこに行っても、船を一つ借りるのに、それほど出さなくていいので、一週間借りて、一か月食べて暮らすことのできるお金をもうけることができるのです。そのような考えをもちなさい。
 そうして、五百名以上で移動した人には、私たちがつくることのできる、船の技術を教えてあげるでしょう。そして、百六十三か国で、私たちのボートをつくることのできる技術を教えてあげなければなりません。それを売りなさい。皆さんの国で売って、宣教費として使いなさいというのです。
 そこで実績がよければ、木浦にある造船所、本格的な造船所です。オイルタンク船、科学船までもつくり、何でもつくることのできる、その技術を与えることでしょう。アフリカならアフリカ、六大州を中心として、そのような工場をつくらなければなりません。
 将来は、水の中でどこでも暮らすことのできるもの、五人が入って暮らすことのできる潜水艦をつくって、暮らす時が来るというのです。そのような船までつくって、世界的に私たちが、すてきに暮らさなければならない、という話です。
 乗っていったその潜水艦が、一か月たっても現れないので、死んだと思っていたのに、生きているのです。ボタンさえ一つ押せば、横から釣り竿が出て、魚を釣って、焼いて食べることができるのです。水の中で、魚以上に趣味生活をすることができるという話です。そのような時が来るのです。(笑い)いや、問題ありません。

    車時代が過ぎ去り小型飛行機時代が来る

 おもしろいですか。その次には何でしょうか。
 今、各国では、遠距離走行する国家の飛行場を使っていますが、国家の飛行場は使わないのです。
 上流階級の人は、世界の有名な所には、全部行ってみたのです。もう、行くべき所がないのです。有名な海水浴場に、数十万名が海水浴に来れば、男性でも、女性でも、水の中でおしっこをするのであって、出てきて便所に行ってする人は一人もいないのです。(笑い)
 私たちが、それをビンに採取して、何パーセントがおしっこであると、新聞に出さなければなりません。一度だけ新聞に出せば、観光客は一週間以内に皆、帰るというのです。(笑い)どこに行きますか。個人のビーチを訪れるのです。
 ですから、小さな船を誰でももたなければならず、小さな飛行機を誰でももたなければならないというのです。小さな船が必要で、小さな飛行機が必要な時代が来るのです。これは、常識に合う話です。
 ですから、世界の名のある所に、ここにいる人たち、三百名なら三百名が、「今年、飛行場を一つずつつくろう」と言えば、三百か所が、今年中に生まれます。気分が悪いですか、良いですか。(「気分が良いです。」)
 どのような飛行場をつくりますか。(「小さな飛行場です。」)それは問題がありません。南米のような所は、ブルドーザーで一度、行ったり来たりすれば、飛行場になるのです。自然に着陸することもできるのです。
 それで、私たちがすべて飛行場をつくるのですが、飛行場を管理できる責任者になっても、食べて暮らせるのです。このように考えてみなさい。どれほど気分がいいですか。行きたい所にも、いくらでも行けるのです。それは、いつでも満員になりません。全部、知っているので、乗ってどこにでも行き、思いどおりに巡ることができるのです。それは、どれほどいいでしょうか。
 百六十か国に、国の飛行場はありますが、小型飛行場がないのです。今から小型飛行機時代になり、車時代は過ぎ去るということを知らなければなりません。
 百六十か国で間違いなく小型飛行場をつくって、やることでしょう。景色のいい所は、大きな都市ではありません。深い山中にあるので、そこに飛んでいって、プールをつくって沐浴もし、釣りもするのです。今からは、もうそれだけが残りました。

    旅行しながら暮らせる時代が来る

 皆さんの部落、皆さんの都市で、案内できる観光地が百六十か所あるならば、観光案内の本をつくり、百六十か所のいい所は全部、私たちの思い通りに行けるのです。そのように見る時、皆さんが五十名ずつになり、一年に一度ずつ行ってきて、ヨーロッパに行ってきて、アフリカに行ってきて、アジア、北極にも行ったり来たりするのです。そうなれば、五年以内に、観光しようという数を、何百名も集めることができるのです。(拍手)
 そこに行くと、おかずもいいし、ご飯もおいしいし、魚を釣って料理をするのもいいし、何でもできるといえば、評判になるようになっています。
 さあ、それで、航空母艦を知っているでしょう。その大きなものに、潜水艦何十隻、小型ヘリコプター何十機を積んでいくのです。船はゆっくり行きますが、ここで案内して一週間前に(小型ヘリコプターなどで)行って、釣りをして、船が来れば乗り、また、船で島のような所に渡って行き乗る、そうすることのできる時代が来るということを考えなければならないのです。一隻の船でも、行く道が分かれば、一週間先に行くことができるのです。
 お金がある人は、船に乗っていきません。コンピューターがあるので、事務をすることができ、旅行しながら暮らせる時代が来るということを知らなければなりません。
 会社のようなところで、二十名分のチケットがあれば、ドイツに行っている人は、ドイツから乗って、どこにでも行けるのです。その会社の名前さえあれば、二十枚のチケットを買っているので、どこにでも行ったり来たりできるのです。会社で二十枚のチケットを買い、一人がすべて使わなかったならば、世界一周する路程を、会社の重役たちが、それを切り離して使えるという話です。
 ですから、船が数隻あれば、どこにでも、行ったり来たりできるのです。このように行ったのが、このように帰る船に乗ることもできるし、南に行って、北にも行くことができるのです。そのために、先生が、ハンティングまで準備をするのです。ハンティングする獣たちは飼育するのです。全部、飼うのです。トラも飼うことができ、オオカミも飼うことができ、何でも飼うことができるのです。
 水の多い所では、穴を深く掘って、周辺にはいい住宅もつくり、そのそばでは釣りをし、さまざまな種類の釣りをするように、釣り場をつくることができるのです。川の水が流れるように、いくらでもつくるのです。一か所に三種類がいれば、十五の魚の種類をすべて解禁にしておいて、一度に捕まえることができるのです。
 そこに、飛行場があり、ボート場があり、その次に運動器具、サッカー場があり、テニス場があり、バスケットボール場があり、もう少し大きい所には、遊園地までつくるのです。
 それゆえ、サッカー選手たちが訓練に行っても、そのようなボートに乗り、巡回をしながらサッカーもできるのです。旅行しながら訓練ができ、旅行しながらサッカー競技大会をすることができるのです。
 そのためには、国境があってはなりません。潜水艦は、なぜつくらなければならないかといえば、国境をなくしてしまうためです。アメリカの港に入ってきて、いくらでも陸地に上がって、思い通りに行き来することができるのです。
 ですから、学校がなくなります。中・高等学校もなくなり、大学まですべてなくなります。ビデオで(勉強し)行き来しながら、国家試験を受けるのです。事務室も同じ階級、同じ職種になって、世界のどこに行っても、六か月ずつ変わって働くことのできる時代が来るのです。ビデオのようなものをリュックサックに入れ、小学校卒業、大学まですべてできるのです。
 それで、先生が世界的な学者たちを皆、束ねるのです。新聞組織、世界を中心として宣伝するのです。おもしろいですか。(「はい。」)男性として生まれるのがいいでしょうか、女性として生まれるのがいいでしょうか。(「男性。」)(「女性。」)
 アメリカの女性たちは、「女性だ」と言うので、アメリカの女性たちには、船を操縦する方法を教えてあげなければならないというのです。(笑い)女性たち、それがいいですか。(「はい。」)それを準備しなさい。これは、話だけではありません。

    「真の父母」の貴さ

 さあ、今年の標語は何でしょうか。(「真の父母様を誇り愛そう。」)
 昨日が、正月の一日ですが、先生の御言を聞いて、「真の父母」が、初めて貴いと思いましたか、思いませんでしたか。(「思いました。」)「真の父母」が現れるまで、どれほど苦心し、どれほど犠牲になり、どれほど多くの人たちが殉教し、どれほど血涙を流してきたか、ということを知らなければなりません。
 「真の父母」という言葉は、神様の創造前からの標準です。それをつくるためのものが、創造理想的マスター(主流)になっているというのです。それを、堕落することによって失ってしまったので、神様の悲しい胸が、どれほど痛かったか、それを考えてみなさい。それは、言葉だけのことではなく、事実です。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う 奇知の外の凡人 が徒然なるがままに書く日記です。
↓↓ にほんブログ村 ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.11.25 02:53:56
コメント(0) | コメントを書く
[文鮮明先生み言葉選集(講演文)] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: