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2023.12.29
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​第34回「真の神の日」、年頭標語「解放された天地父母と子女が一心一体となって、真の愛の主体性である絶対、唯一、不変、永遠のみ旨が完成されますように」



第三十四回「真の神の日」記念礼拝の御言

成約九年 2001年1月1日
天宙清平修錬苑 天城旺臨宮殿 大聖殿


 何をするために、ここに集まったのですか? 騒ぐために集まったのですか、他の自分のことを考えるために集まったのですか? 家のことを心配し、故郷のことを考え、背後のさまざまな複雑な環境をすべて連結させて集まったのですか? 何の考えもなく集まったのですか、何かの考えを持って集まったのですか? (「持って集まりました。」)
 神様は、どのように考えられるでしょうか? 神様がここに参席されるとすれば、どのように考えられるでしょうか? そのことを考えてみましたか?
 (堕落した世界の)何かがあっては、再創造することはできません。堕落した世界のあらゆるものの中の、その一つでも持っていれば、再創造の成分を連結させることができないという事実を思うとき、皆さんの心にさまざまな考えを持たなければならないでしょうか、何もない心を持たなければならないでしょうか?
 たくさんの人が集まったので、「ああ、おしりが痛い。狭いのに、床に座って何をするのか。ああ、郭クアク錠煥が訓読会をして、それで終わればいいのに、先生が話をすれば何時間も話すのに、どのようにして耐えればいいのか? どうしようもない」と、このように考えてはいけません。
 三〇〇〇年を中心として出発する今日、先生が語るこのみ言は、皆さんがいつでも聞くことのできるものではありません。(これからは)いつでも先生に会うことはできなくなるのです。
 今から十年たてば、先生は何歳になりますか? (「九十歳です。」)九十歳ではありません。九十一歳です。それでは、二十年たてば何歳ですか? (「百一歳です。」)三十年たてば、何歳ですか? (「百十一歳です。」)四十年たてば、何歳ですか? (「百二十一歳です。」)
 モーセが百二十歳になり、ヨルダン川を越えてイスラエルの国に行くことができず、恨を残したままネボ山で死んだということを知っていますか? モーセは八十歳で出発しましたが、百二十年も生きずに八十一歳になる前にヨルダン川を越えていたならば、イスラエルの国に上陸していたでしょうか、できなかったでしょうか?
 六十万人のイスラエル民族を荒野に導きながら、出動命令を下したときは、希望に満ちて出動しました。しかし、一心一体となることができませんでした。それは何かというと、心の中にさまざまに複雑な考えを抱いた者たちが、どんどんと増えていったからです。
 そのことが、モーセの失敗をもたらしたという歴史の事実を、もう一度思い起こしながら、その前轍を踏まないように、再びこのことに光を当てなければならない時であると考えるのです。
 先生が何歳まで生きることを願いますか? (「何歳です。」と答えているのがよく聞こえず)分かりません。「いかなる考えも持たないように。」と言うのに、(先生は)何歳まで生きるという無用な考え……。「わたしには分かりません。先生は知っているかもしれませんが、わたしには分かりません。」と言えばよいのです。
 考えるべきことは、ひとえに神様のみであり、神様だけが考えの出発とならなければなりません。再創造されなければならないわたしたち人間においては、その他の考えというものは一切、許されません。
 そのような基準では、完全完成のためのものが創造されないということは、理論的であり、原理的であるということを知らなければなりません。分かりますか? 今、話したことが分かりますか? (「はい。」)
 複雑な心、複雑な事情、複雑な境遇に縛られて、ナイロンの糸を壁にかけ、「わたしを引っ張ってください。引き上げてください」というような一切のものは、よこしまな堕落の祭物であり、救いを受けることのできない地獄に送られなければならないものであるということを知らなければなりません。
 そのような一切のものを断ち切ってしまい、穴に挟まっていない本然の状態で、神様の手と創造の思いが介在する前の本然的原資材の姿を備えることを、神様がいかなる時よりも、この時間に願っておられるのです。(「アーメン。」)「アーメン。」と言いましたね。み言のとおりに成されます。(「アーメン。」)

 さあ、三〇〇〇年に向かって出発する今年の標語は、どのようなものですか? まず問題は何かというと、「解放」という言葉が出てきます。先生が、いくら苦労したとしても、苦労したことは忘れても、「解放」は忘れなかったという事実です。このように考えるとき、この場では他の何かを必要とするのではなく、「解放」を輝かせることのできる自らにならなければならないというのです。
 そのような場にすることができなければ、神様も「真の父母も解放することができず、真の父母の息子、娘や、天上世界にいる人類全体の先祖、すべての会員たちまで解放させることができる道がない。」とおっしゃるのですか、「ある。」とおっしゃるのですか? (「『ない。』とおっしゃいます。」)ありえないということを知らなければなりません。
 「解放」という言葉……。郭錠煥氏 (「はい。」)「解」という字は、どのように書くのですか? 一度きれいに書いてみてください。楷書で大きく書いてください。「放」という字も書いてください。「放」という字です。「解放」です。
 これは正しいですか、正しくないですか? (「解」のへんを指されて)これは何という字ですか?(「『角』という字です。」)「角」という字です。(笑い)「角」という字は、何ですか? 各自のことをいうのではありません。(韓国語で「角という字」と「各自」は同じ発音)
 「角になっている」、「役に立たない」、「『円形世界』は怨讐である」というのです。これをなくしてしまえばよいのですが、これをなくせば、ここに「羊」をもってくるのです。(「解」の俗字である「觧」のつくりを指されて)ですから、「羊」という字です。
 このように書いても「羊」という字なのです。「角」と「羊」は怨讐です。「放」という字には、「父」という字がありますが、「父」という字に「方」という字で「さまざまな方向、さまざまな所に父がいる」ということです。分かりますか?
 それでは、どのようにして解放されるのですか? 蕩減法によるのです。さまざまな方向の中でも、中心方向に沿って、角がなく、ぐるぐると回っていくことができる位置に入っていって、初めて解放が成されるのです
 それでは、反対せずに順応することができる代表的な動物は何ですか? (「羊です。」)反対せずに、昼も夜も一年じゅう、いつであっても、主人が来て「おい、わたしの言うとおりにするのか?」と言えば、「メェー、そうです。」と言うのです。「メェー、メェー、メェー、メェー」と、繰り返すのです。
 「そうです。そうするも何も、そのとおりにします。」と思って、「メェー」と言うのです。一度、言ってみてください。羊になりますか、頭をたたき割ることができるような角のあるものになりますか? 羊にならなければなりません。
 また、「放」という字は、「方」に「父」です。三百六十度に向かう父であるということですが、それでは混乱が生じます。ですから、一番の怨讐を包んであげるのです。「解放」という言葉を考えるとき、なぞなぞのような内容ですが、先生の話を理解すれば「ああ、理解できた。」となるのです。分かりますか?
 それでは、父のように三百六十度に行こうとする群れに、「主流に行きなさい。一つの道に向かう父を求めていきなさい。」ということが問題です。それは何かというと、零点です。
 皆さん、メーターを見れば、何度であっても、いつも零点に合わせるのです。全体の方向感覚の正誤を中心として、零点の中心にある位置が、量あるいは正しい方向を測定できる基準になっているのです。

 さあ、解放です 解放は良いことですか、悪いことですか? (「良いことです。」)監獄で暮らしていた人が出てくることを何と言うのですか? 解放と言うのですか、束縛と言うのですか、釈放と言うのですか? (「釈放です。」)釈放ですか?
 釈放と解放は、どのように違うのですか? 釈放される人が千人、万人いるとすれば、その人たちが釈放されて、父母の故郷に訪ねていくとき、千万に別れていくのです。それは釈放です。分かりますか?
 しかし、解放とは何ですか? 「八・一五(一九四五年八月十五日のこと)で南北が釈放された」と言うのは、正しいですか、正しくないですか? これは解放です。「邪魔になっていたすべてのものが順応する、自由還元運動することができる世界になった。上下も、左右も、前後も、すべて平等な価値で方向をとっていかなければならなく、角がなくなった丸い統一的世界になった」ということです。
 その日には、おじいさんが喜び、おばあさんも喜び、けんかしていたお父さんも、不平を言って、えんえんと泣きながらけんかしようとしていたお母さんも、泣きながら何ですか? (「喜びます。」)喜ぶのです。
 それから息子、娘、孫がいて、百人、千人、万人、国にいるすべての人が、解放されれば「万歳」を叫ぶのです。一度、「万歳。」と言ってみてください。(「万歳。」)
 解放の中で、「家庭が解放された。」とも言うことができるのです。共産主義治下において、皆が殺戮されていく中から家庭全体が生きて出てくれば、解放された家庭になるのです。解放された家庭、解放された氏族、解放された民族、解放された国家、解放された世界、解放された天宙、そして最も難しいのが何かというと、解放された天地父母です。
 さあ、このように考えるとき、今年の標語は何ですか? 解放された天地父母と子女が……。それでは、解放された天地父母だけが解放されたのですか? 子女はどのようになったのですか? (「解放されました。」)子女も解放されたのです。連結されているのです。何とですか? (「父母」と「子女」は)一つの文中にあるので、対等な価値を持つのです。解放された天地父母と子女が何ですか? (「一心一体となり……。」)
 それでは、その天地父母は何人ですか? 天地父母は、 天的父母も父と母であり 、地的父母も父と母ですから、何人ですか? 四人でしょう? そこに心と体を中心とすれば、八人と同じことであるというのです。分かりますか? そこに霊的世界を合わせ、地上世界を合わせて十六数になるのです。
 十六数がそのようになったので、十六数は、いつも解放できるのか、できないのか、成就したのか、できないのかという……。(朝鮮戦争のとき)韓国に何か国が来て解放しようとしましたか? (「十六か国です。」)第一次大戦も、十六か国が一つになって戦争を始めました。いつも十六数が問題になったという、このような原則について見るとき、天宙の解放圏のために生きようとすれば、必ず十六数が必要なのです。総生畜献納をすべて十六数に合わせて、どのくらいするのですか? 
 ここにいる国家メシヤたちは、「パンタナールで四種類の魚を百六十匹、釣らなければならない」という契約がなされているのですが、きょうまでに、すべて捕まえた人は手を挙げてください 私一人しかいませんね。(拍手)
 皆さんにそのようなことをさせましたが、先生は内的にそれを一瞬のうちにすべてしてしまいました。皆さんは、できませんでしたが、先生は成したということを知らなければなりません。
 成したと思いますか、できなかったと思いますか? パクーのような魚は、普通、一日で三十二匹、捕まえました。二日あれば、すべて終わるのではないですか? ドラドは、一日で十一匹、釣りました。ですから、それは問題になりません。
 このように見るとき、先生がそのようなチャンピオンの看板を掲げて、四年間で百六十匹、釣ることができませんか、できますか? 釣ることができないというのですか、この者たち。(「釣ります。」)(韓国語で「この者たち」と「相対、カップル」の発音が似ていることから)相対がいない者は、どこに行っても使う価値がありません。ですから、絵を描くにしても、名作を描こうとすれば、白黒がなければなりません。皆、黒を嫌いますが、黒がなければ名作になりません。
 きょう、ここに座っている人たちの色を見ると、三分の二が、どんよりして薄黒いです。どうしてでしょうか? 冬だからです。(冬は)太陽が遠くなるのですが、黒いものには太陽の光を吸収できる力があるので、自然に歩調を合わせるようになっているのです。わたしたちは、自然の中に生きていながら、だれかが命令しなくても、自然界に自ら合わせることを知っているので、七十、八十歳まで生きることができるのです。それは、理論に合うのです。
 さあ、このように話していては、きりがありません。

 「解放」という言葉を歓迎する人は、目を見開いて両手を挙げてください。十感があるとすれば、目を見開いて心の五感を見ることができますか? わたしが一等だと思う人は、何か一つ……。指でも、このようにしてみてください。このように挙げても、このようにして、何か一つでも違わなければなりません。すべて同じであることを願いますか、違うことを願いますか? 顔かたちは皆、違うでしょう? しかし、(解放は)心の一番底にあり、底は水平なので、そこに根を下ろさなければなりません。
 解放されましたか? (「はい。」)本当ですか? (「はい。」)どのくらい解放されましたか? 国の基準を中心として解放されましたか、世界を中心として、天宙を中心として解放されましたか?
 解放された天地父母、天地父母というかたが、自分たちだけで解放できますか、できませんか? 神様がお一人で解放されるとすれば、救援摂理は必要ありません。救援摂理は、即刻完成することができたというのです。神様も思いどおりには解放できないのです。
 地上にメシヤとして来られたイエス様も、真の父母として来られましたが、解放の道を行くことはできませんでした。解放するために何が必要なのかというと、子女がいなければなりません。
 なぜ、子女がいなければならないのでしょうか? 堕落とは何かというと、神様が堕落したのではありません。真なる天地父母が現れて堕落したのではありません。真なる天地父母の希望を未来においたまま、息子、娘が一つになることができなかったので解放できなかった、という事実です。
 息子、娘が完全に一つになることによって、神様以上に解放の希望を願い、神様以上に解放の限界線を願うことができる息子、娘がいたとすれば、堕落したとしても神様を解放することができる日が、すでに何千万年前にあったかもしれないという事実を、皆さんは知らなければなりません。
 それでは、今、この堕落した世界において、天地父母も解放されなければなりません。そして息子、娘、万民、六十億の人類、天上世界の何千億にもなる一つの先祖の血族として残っている存在が、すべて解放されることを願うとすれば、いつ解放が成し遂げられるのでしょうか?
 この解放を成し遂げるためのものが宗教であったというのです。拘束されている心と体を解放するために、心を強めて神様の代身の位置に立て、体を自由自在に統治します。そして、そこから脱線する存在がないようにするということが、救援摂理出発の目的であり、神様の思いを救援にとどめておくための出発であったという事実を知らなければなりません。
 解放の根と解放の起源が何であるのか分からずに、解放を叫ぶ者は、愚かで、でたらめな人です。そのような者に解放はありえません。解放の根源は、すべての天地に包囲された囚われの身となっている体なのです。体が囚われの身となっているという事実を、だれが解放しなければならないのですか?
 (これが)問題です。神様が、神様ご自身を解放することはできず、真の父母として、メシヤとして送ったそのかたも、メシヤによって解放することはできません。何によって解放することができなくなったのですか?
 子女が過ちを犯したのです。分かりますか? 子女に当たる者が、子女として未完成の段階から完成していたならば、アダムとエバは結婚して息子、娘を生んでいたはずなのですが……。その器官をいくら分析してみても、息子、娘を生むためにできたものであることは間違いありません。
 男性一人で息子、娘を生んだでしょうか、女性一人で息子、娘を生んだでしょうか? 息子、娘を生んでこそ神様に似る者となるのです。一人で息子、娘を生むことができる女性という動物もいないのであり、男性という動物もいないのです。それでは、どのようにすれば息子、娘が出てくるのでしょうか? 分かりますか? 
 男性の心があれば、その男性の心に合うのは、別の男性ですか、別の女性ですか? ええ、何ですか? 赤ん坊を生もうとすれば、男性同士で結婚するホモの家庭に赤ん坊が生まれるでしょうか?
 偽りの愛を中心として、肉体の情欲をすべて満たしたとしても、そのレズビアンの家庭に赤ん坊が生まれますか? 「生まれる」と言う者たちは、よこしまな者たちです。よこしまな者たちは、方向がなく、上下や高低もなく、どこにも立つことのできる位置がありません。そのような者たちを通して、息子、娘が出てきますか、出てきませんか? 
 「永遠に願い、さらに願います。天地を創造された大能力の主宰であられ、全能であられ、父の立場にいらっしゃる神様よ。わたしたち男性同士で一つになって結婚するので、息子、娘を生むことができるようにしてください。」と、このように言うのは狂った者たちですか、正常な者たちですか? 狂った者たちですか、正常な者たちですか? (「狂った者たちです。」)
 それが、はっきりと分からない男性と女性たちは、狂った者たちですか、正常な者たちですか? 狂った者たちです。「一人で暮らす。」と言う人がいるとすれば、それは狂った者ですか、滅びる者ですか。「滅びるな。」と言っても滅びます。一代ですべて終わってしまうのですから、「滅びるな。」と言っても滅びるのです。

 ですから、男性と女性が赤ん坊を生むためには、ふたりが一つにならなければなりません。どのようにして一つにならなければならないのですか? 夫婦がいて、宇宙を動かすことのできる全能なる神様が、両手でこれを引き離そうとしても引き離すことができず、神様の腕が伸びてしまっても、一つになったものが引き離されないことを願いませんか、願いますか?
 夫婦が一つになってくっついているものを、神様が激しく引き離そうとして腕が折れたとすれば、神様が裁判官として、どのような罪を与えるでしょうか? 百点の罪を与えるでしょうか、千点の罪を与えるでしょうか、億万点の罰を与えるでしょうか? (「罰は与えません。」)
 億万倍の賞を下されば、賞をもらえない人は、だれもその前に行くことはできないということなのです。億万倍あれば、百倍でその前に顔を出せますか? 角度が合いません。
 色で言えば、真っ赤で「ああ、見ることもできず、触ることもできず、死ぬこともできないほど真っ赤になった」ということです。赤でも神様が訪ねてきて、ポケットに入れるのです。このような話は初めて聞くでしょう? 
 神様も、赤い人が必要でしょうか、白い人も必要でしょうか? 三大元素の中に赤が入っていますか、入っていませんか? (「入っています。」)私よりも優秀ですね。では、真の赤い元素があるというとき、神様がポケットに入れるでしょうか、入れないでしょうか? わたしは入れないと思います。あなたたちはどうですか? (「……。」)このことも知らないのですか?
 それで、何ができるというのですか? 学校に行けば、昼も夜も転げ落ちて落第生になってしまいます。落第生になって役に立たず、方向感覚のないそのような者が、何をするのですか? 家門を滅ぼし、国を滅ぼすのです。無用の長物ですか、有用の長物ですか? ええ? ここに集まっているのは有用の長物ですか? 日本の女性、韓国の女性、西洋の女性、すべて来ていますね。
 男性と女性が本当に息子、娘を生もうとすれば、神様までもどうしようもなく……。引き離すことができません。引き離そうとしても、神様の腕のほうが折れるのであって、(夫婦を)引き離すことはできません。
 そのようにして息子、娘を生めば、神様よりも強い息子、娘が出てくるでしょうか、弱い息子、娘が出てくるでしょうか? ええ、何ですか? はっきりと答えてください。(「強い息子、娘が出てきます。」)原理を広めるために苦労した先生は、(皆さんの)力のない声を聞いても、全く興味がわきません。
 神様の腕が折れても、引き離すことができなかったとすれば、そのような愛で一つになった夫婦から、神様が本物の赤ん坊として「やあ、これは本物だ。」と拍手し、万歳を叫ぶことのできる息子が出てくるでしょうか、「ああ、落胆した。」と言われる息子が出てくるでしょうか?
 そのようになれば良いと思うでしょう? あなたたちは、そのようになれば良いと思うでしょう? (「はい。」)どうしてですか?
 万歳解放です。神様の中に入っても、神様の血統的精子の中の王の精子として入っていったとしても、神様が期待に胸を膨らませて踊りを踊られるのです。
「ああ、そのような父に一度なってみたい」と思う人は、手を挙げてください。手を挙げたら、神様を見詰めていなければならないでしょう。なぜ地を見詰めているのですか? 手を挙げてください 向こうのほうは何も分からないのですね。こちらのほうは韓国人で、あちらのほうは日本人ですね。なぜ、日本人がこのようにたくさん来たのですか? 生きることのできる道が、ここにしかないので、ここに来たのでしょう。生きるためにです。
 それでは、このような観点から見るとき、原色の中でも一つになった、真の原色である赤のような父親と母親を、神様の腕が折れても分けることができず、そこに赤ん坊の種ができ、そして生まれた息子、娘がいるとします。神様が彼らをごらんになるとき、「おい、おまえ。わたしにあいさつしなさい。」と言わなければならないでしょうか、神様が、あいさつしなければならないでしょうか?
 なぜ、不思議そうにしているのですか? そのような息子が……。神様が本当に力を尽くしても引き離すことができなかったので、その中から生まれた息子、娘は、神様よりも、もっとりっぱでしょうか、りっぱではないでしょうか? (「りっぱです。」)神様もその前に行かれれば、頭を下げなければならないのです。
 絶対的な神様は、頭を下げることができませんか、できますか? 「ええい、やめよう。頭を下げれば、絶対が壊れてしまう。」と言われますか? 愛には、神様も頭を下げなければなりません。国を救った忠臣の中の忠臣の前には、王も頭を下げなければならないのです。王は、忠臣の力によって王の振る舞いができるときが、よくあります。
 そのようなときには、「あなたのおかげで王になった。ありがとう。」と、言うようになるのです。「ありがとう。」と言いながら、ひげがボタンに引っかかって抜けたりすることも起きるのです。そのような可能性がありますか、ありませんか? (「あります。」)
 先生の話が間違いなければ、私はあると思います。皆さんは、ないと思うでしょう? ないと思っているではないですか、この者たち。(「あります。」)

 さあ、このくらい話せば、「解放」という言葉が分かったでしょう。(「はい。」)
 解放とは何かというと、神様と真の父母が天地父母になったということです。 神様は縦的父母 であり、真の父母は何ですか? (「横的父母です。」)なぜ、天地父母と言うのですか? これは、すべての相対関係における九十度の原型です。核心です。この根本に合わなければ、すべて離脱していくのです。いくらたくさんあっても、同じ価値として認めるのです。
 それゆえに、「解放された天地父母と解放された子女」となるのです。分かりますか? 「一心一体」、心も体もあるでしょう? 「一心一体となり、真の愛の」、一心一体とならなければ、真の愛になりません。真の愛が出てこないのです。「真の愛の主体性である」、これは主体です。
 何が主体ですか? 真の愛の核があるのです。真の愛の主体性である絶対性、唯一性、不変性、永遠性のみ旨、「永遠の」でも「永遠な」でもよいのです。
​では、み旨とは何ですか? 四位基台の完成です。 天を見ても天の父母 であり、地を見ても地の父母であり、 天の国と地の国、この二つの国を相続した三代 が、 天の父母 の位置に立つことができることによって、それが主体性なのです。分かりますか? ​
 お父さんの角度も、おじいさんの角度も、わたしの角度も、千々万々の角度が、すべて神様とぴたっと当てはまるのです。そして、どの方面にこれを回してもモデルとなり、上弦と下弦を取り替えても合い、右弦と左弦を取り替えても合い、前弦と後弦を取り替えても合い、十二片のどこに合わせても、ぴたっと合う関係です。そのような「四位基台のみ旨が完成されますように」です。
 これが全宇宙の希望であり、全体の唯一の核であり、一つの体となっているので、三〇〇〇年時代に、この標題を中心としていくことによって、神様が自らを主張することができる世界にならざるをえないというのです。
 三〇〇〇年は……。三数の解放数であり、旧約時代、新約時代、成約時代です。成約時代の家庭理想を標本として、全宇宙が、新しい構造を編成することのできる時代になったので、このようにしなければ、どこに行っても合わせることができません。ですから、このような標題による主体性に対する絶対、唯一、不変、永遠な愛のモデル家庭を成し遂げなければなりません。
 それでは、きょうからも必要であり、二一〇〇年から三〇〇〇年を越え、三万年を越え、永遠に必要な標題を持ったという事実を誇らなければなりません。(「アーメン。」)拍手。(拍手) 
 拍手するときには、皆さんが喜んでするのではありません。拍手は、三回以上しなければなりません。神様の拍手、 神様の母の拍手 、父の拍手、母の拍手のわたしの拍手、それから、孫の拍手で六つの拍手です。三回から六回以上しなければなりません。長過ぎてはいけません。それも原理数に合わなければなりません。
 (口、鼻、目を順番に指されながら)蘇生、長成、完成です。
 腹中時代、水を飲むでしょう? 空気を吸いますか、水を飲みますか? 鼻で空気を吸いますか、水を飲みますか? 水を飲むのが腹中時代です。鼻の時代は鼻で呼吸するのです。ですから、ヘソは必要ありません。ヘソで食べることもでき、鼻の穴で呼吸し、二つの世界で生きることができるのです。母親の腹中でも生きることができ、空気世界でも生きることができるのです。
 そして、これも主体と対象です。空気世界でも生きることができ、水の世界でも生きることができます。地上では、鼻で呼吸しながら、天の国とともに暮らすことができるのです。すべて二重になっています。これは、東西南北の四方を意味するのです。分かりますか?
 鼻が好きですか、口が好きですか、目が好きですか、耳が好きですか、手が好きですか? (「すべて好きです。」)すべて好きだと言うのならば、目と鼻と口と耳と手、この五つに「あなたたちは何が好きですか?」と尋ねてみれば、どのように答えるでしょうか?
 雄の鼻は、「雌の鼻。」と言うのです。そうですか、そうではないですか? 雌の鼻は、目があっても何があっても「すべて嫌だ。」と言い、「雄の鼻。」と言うのです。そうですか、そうではないですか? (「そうです。」)口はどうですか? 
 郭錠煥氏の口は、雄の口ですか、雌の口ですか? (「雄の口です」)。雄の口なので、「雌の口はどこにある? キスしよう。」と思えば、そこに訪ねていかなければならないでしょう。鼻にするのですか? 目にするのですか? 耳にするのですか? キスをするのに、雄の口が雌の口を訪ねていかない人は、狂った者たちです。
 雄の手が最も好むことは、雌の手とくっつくことだというのです。男性たちは、握手することができる道があれば、男性の手を求めていきますか、女性の手を求めていきますか? 女性だからといっても、何でも求めていくのではありません。方向を一致させることができる自分の妻の手を求めていくのです。
 文総裁が、このように自信を持って話しているのに、ここに集まった一万近い人たちが、「それは違う。」と言うのならば、「違う」と思う人は、死んでみなさいというのです。
 わたし一人が、「そうだ。」と言っていますが、先生の言うことが正しいのか、一万近い人たちの言うことが正しいのか? 霊界に行ってみれば、間違いなく、わたしが一万の人に勝つことができるので、堂々と前に立っておなかを突き出し、「この者たち、私の言うことを聞きなさい。」と言うのです。聞きますか、聞きませんか? (「聞きます。」)本当に聞くのですか? (「はい。」)
 「聞かない。」と言う人は、手を挙げてください。「聞かない。」と言う人は左手を挙げて、「聞く。」と言う人は右手を挙げてください。聞くという人は、右手も左手も挙げてください。それでは、先生は話さなくてもよいということです。それでは、これで終わりましょう。さようなら。(拍手) 
 ああ、「休みなさい。」ということではないですか? 先生の話を聞くよりも、雄の手が雌の手を訪ねていって愛し合うほうが喜ぶのです。愛の味がおいしいですか、先生のみ言の味がおいしいですか? ええ、何ですか? 赤ん坊は、自分のお母さんのオッパイがおいしいですか、隣の家のおばあさんのオッパイがおいしいですか? (笑い) (「お母さんのオッパイがおいしいです。」)
 それを尋ねる必要がありますか? 系統に従って拍子を合わせていくのです。先生は、言葉を好む先生ですか? すべての人が愛を好むということであり、この愛の内容がなければ、まぜこぜの餅なのです。(純粋な)もち米の餅ではないというのです。

 それでは、わたしたちは解放を願うのですが、どのような解放が一番ですか? 目の解放、鼻の解放、耳の解放、口の解放、五感の解放が一番ですが、その中で第一の解放は何ですか?
 愛とは何ですか? 生きてゆらゆらとするのが、愛です。そのように解釈しておけば、狂っても愛は理解することができるのです。愛というものは何かというと、ゆらゆらするのです。かげろうのようにゆらゆらすれば、その中で寝たいという気持ちになり、世の中のすべてのものに「わたしの懐で眠りなさい。」と言いたくなりませんか? 愛とは何ですか? (「ゆらゆらするものです。」)ゆらゆらするものは何ですか? 
 春の季節になれば、かげろうが、ゆらゆらするのです。愛のように、ゆらゆらしています。角の角度があるので、絶妙にゆらゆらするのです。
 では、愛に酔いますか、酔いませんか? 愛に酔うのですか、酔わないのですか? (「酔います。」)賞を上げるので、「愛に酔ってみた」という人は、手を挙げてください。どのような愛ですか? 真の愛です。
 愚かな人は、恋愛しながら地獄に行く贈り物にしがみついて、「生きる」とか「死ぬ」とか言う人が多いのですが、神様にしがみついて「生きる」とか「死ぬ」とか言う人を見たことがありません。
 若い息子、娘たちは、恋愛するのを好みますか、礼拝堂に行って、お尻を天に突き出して、「私は死にます、生きます。」と、泣きわめきながら祈祷するのを好みますか? 神様に会って、「恋愛しましょう。」と言うのが良いですか、若い息子、娘同士で「恋愛しましょう。」と言うのが、もっと良いですか?
 統一教会の教会員は皆、神様と恋愛するために来たのでしょう? (「はい。」)天のお父様ですか、天のお兄様ですか? (「お父様です。」)ええ、何ですか? (「お父様です。」)天のお父様なのに、どのようにして恋愛するのですか? (笑い)上下というものは、水が流れるようになっていて授け受けすることができません。水を注げば、落ちるのです。この相対的基準を成した水平世界において、お互いに授け受けすることができるというのです。
 さあ、それでは解放とは、どのような解放ですか? 神様 どのような解放を好みますか? (「愛の解放です。」)どのような愛ですか? (「真の愛です。」)真の愛の種類はいくつあるのですか? 上下、左右、前後、そして王です。
 王というものは、一人で王になることはできません。上下、前後、左右、この六つのものを率いて王の位置で愛するとき、そこで「千年万年、暮らしたい」と思うのです。神様は欲望を持っておられるので、神様は王の愛を好むのです。分かりますか? 王の愛であり、核の愛です。言ってみてください。核 (「核」)。どのような愛ですか? (「核の愛です。」)

 さあ、解放された天地父母と解放された子女が心身一体となり、そのようになれば、その中に神様がいらっしゃるでしょうか、いらっしゃらないでしょうか? (「いらっしゃいます。」)父母もいて、天地父母がいるのです。息子、娘がいますか、いませんか? (「います。」)
 だれ一人として欠くことができないように、すべているのです。すべているので、神様が福を与えてくださらなければならず、周辺におじいさん、おばあさん、自分の夫、兄弟が周辺にいれば、神様が福を下さるので、その家は安着することができるのです。
 一時ではなく、永遠にそれを表題として、一つのモデルとして選択することのできる家庭が……。自分の町内すべての家庭がそのようになり、部落に百軒の家があれば、百軒すべてがそのようになり、村を越え、村々を越え、全国津々浦々までそのようになり、千万の部落ともども、国を越えて、万国すべてが一つになることができる可能性があるということなので、万民が歓迎しなければなりませんか、反対しなければなりませんか? (「歓迎しなければなりません。」)
 歓迎しないときには、どのようにするつもりですか? 離婚でもしなければなりませんか、してはなりませんか? (「してはなりません。」)会いたくないのに、なぜ離婚しないのですか? 統一教会の教会員は、会いたくなくても、このようにしています。神様の前で血統が変わり、怨讐の子女となった者を、神様がはしで火の穴に放り込みましたか、そのままにしておきましたか? (「……。」)
 きょう、その答えを知ろうとすれば、答えなければならないでしょう。はしで放り込むとすれば、この地上でその地獄の火で焼かれない人がいると思いますか、いないと思いますか? (「いません。」)なぜですか?
 わたしたち人類は、怨讐の血がエバの子宮に入っていって、できた赤ん坊なのです。女性の子宮や胸やお尻は、怨讐の血筋によって生まれた子女を保護し、育成するために、そのようにできているのですか? 怨讐がこの胸を吸ってくれることを願ったのですか? だれが吸ってくれることを願ったのですか? 
 主人です。億万年の主人です。天地が変わるとしても、この主人は変わらないようにするためです。そのかたのために、そのようにできているのです。それは何ですか? 神様の家門のためです。分かりますか? 
 あなたたちは皆、嫁いで家門に入っていったでしょう? きょうはなぜ、このように女性ばかり集まったのですか? なぜ男性はいないのですか?
 男性が一人で騒いでいるので、「女性ばかり相手にして、悪口を言いながら、苦しめるために、あのような話をするので、初めから文総裁は怨讐として生まれたようだ。」と思うかもしれません。だれが愛の道に怨讐を引き込んだのですか? 女性です。
 先に女性が目覚めるので、男性を誘惑するようになっているというのです。化粧を始めれば、一時間も二時間もアイシャドウやルージュを塗っているのです。結婚する年ごろの十七、八歳になれば、朝から夜まで一日じゅう、そのようにして座っています。(笑い)笑っているのを見ると、身に覚えがあるようですね。
 さあ、十五、十六、十七、十八歳になって、化粧品を買うのは男性ですか、女性ですか? (「女性です。」)日本語で、化粧のことを何というのか知っていますか? 「けそ」ですか? (「けしょうです。」)化粧をすることを何というのですか? 「かそ」ですか? (「けしょうです。」)「けしょう」ですか? 「火葬」ということです。

 皆さんは、何によって生まれたのですか? 神様によって生まれたのですか、愛によって生まれたのですか? (「愛によってです。」)何ですか? (「愛によってです。」)本当ですか? (「はい。」)やあ、わたしも学びました。わたしは、神様によって生まれたと思っていたので、愛によって生まれたとは知りませんでした。今、あなたたちから学んだので、悪口を言われずに暮らす時が来たということです。(「アーメン。」)(笑い)
 解放された天地父母と解放された天地子女が一つとなり、心身一体となる日には、天下のすべてが自分のものになるのです。おじいさんの愛がおばあさんの愛であり、おじいさんとおばあさんの愛が、お父さんとお母さんの愛であり、お父さんとお母さんの愛が孫の愛であり、孫の愛がおじいさんとおばあさんの愛です。
 おばあさんが孫を見て、「ああ、わが子よ。」と言うのを聞いたことがありますか? (「はい。」)そうではないですか。自分の息子、娘に対して、「ああ、どうしようもなく愛らしいわが子よ。」と言う若い父母を、わたしは見たことがありません。ただ「かわいい。」と言って、キスしてぶつぶつ言うだけであって、「ああ、わが子よ。」とは言わないのです。
 そこから横的に広がっていくのです。収穫なのです。孫は、愛に対する収穫なので、一つの種から十双も生まれてくるのです。わたしの友達の中には、一人の母親が三十六人の息子、娘を産んだという人がいます。少ししか産んでいないでしょう? (「たくさん産みました。」)私は、「四十六人くらい産めばよい」と思うのですが。あなたたちもそうですか?
 何ですか、悪いことがありますか? その息子たちが皆、天才的な頭をしていれば、「嫌だ。」と言っても、自然に大統領や長官になるのです。その国の大統領や官僚を率いて、「おお、よし。よし。」と言えば、その国全体が春になって花が咲き乱れる園になり、(草木が)生い茂る夏の季節が訪れるのに、どうして「嫌だ」と思うことがあるでしょうか? 「嫌だ」と思いますか、「良い」と思いますか? では、息子、娘を育てることが大変なことでしょうか、大変なことではないでしょうか? 
 このように考えるとき、神様が今日の人類に対して、「あなたの父だ。」と言われ、その神様を(わたしたちが)「父として侍ります。」と言えば、神様は、あなたたちをどのようにされるでしょうか? 骨が出るほど、こき使って苦しめる父ですか、骨は出ずに、食べさせる父ですか? 食べさせる父です。
 その父の農地が、どこにあるのか知っていますか? 夫婦というものは、赤ん坊を生む農地であって、食べさせる農地ではありません。食べさせる農地は、天の国にあるのです。愛が結実するときには、食べるものは無尽蔵です。願いどおりです。
 神様の愛を受けることができ、同居し、同参することのできる位置に立つようになるので、神様が「食べたい」と思われるものを、すべて持つことができるように、わたしたちも願うとおりに、すべてのものを持つことができるのです。
 天の国に農地があるでしょうか、ないでしょうか? 土地がありますか、ありませんか? 土地はありますが、農作業する農夫は、見たことがありません。面白いでしょう? そこにパンをつくる工場がないでしょうか、あるでしょうか? 自動車をつくる工場がないでしょうか、あるでしょうか? あるとすれば、神様が、毎日のように出勤され、自動車工場やその付属品を監督するチャンピオンになられるということですか?
 (そのような)必要はありません。真の愛さえあれば、十分です。分かりますか? 今、何と言いましたか? 真の愛で十分です。(それは)どういうことですか? できないことがないのです。真の愛の中には、考えであるとか、感想であるとか、そのような空想的な理念を実体として現実化させることができる能力があるのです。愛のためにつくられたのが、万物です。

 赤ん坊を好むのは、男性ですか、女性ですか? (「女性です。」)私は、男性のほうが好むと思います。(男性のほうが)女性よりも、もっと大きな胸をしているからです。(笑い)「わたしは、女性よりも大きなお尻を持っているので、赤ん坊を産むときにも無事通過だ。ああ、わたしには子宮ではなく王の子宮がある」と言えば、男性のほうが女性よりも赤ん坊を好むと思いますか、女性のほうが男性よりも赤ん坊を好むと思いますか? (「女性です。」)
 お父様の話が事実ならば、男性のほうが、もっと赤ん坊を好むということになるのですが、事実がそうではないので、問題なのです。いくら真の父母だとしても、それでは偽りの父母に落ちるしかないので、賢い人は「ぺっ」と、つばを吐いて背を向けるようになっています。一度、つばを吐いて背を向けてみてください。
 女性たちは、自信があるでしょう? 先生よりも、もっと赤ん坊を好むでしょう? (笑い)それは、生理的にそうなのです。どのようになっていますか? 胸は、だれのためにあるのですか? 先生のためにあるのですか? (「赤ん坊のためです。」)それは、赤ん坊のためにあるのです。お尻は先生のために大きいのですか? (「赤ん坊のためです。」)赤ん坊のためです。
 先生と何の関係がありますか? それから、子宮は先生のためにあるのですか? ああ (笑い)どれほど、うっとうしいですか? その場で殺されたほうがよいでしょう? 赤ん坊のためにあるのではないですか? 自分が持っているすべてのもの、その根本から付属品まで、すべてのものは、赤ん坊が必要とするようになっています。
 女性の手は大きいですか、小さいですか? 男性の手のように頑丈で、骨のようですか、ふっくらしていますか? なぜ、女性の手はふっくらとしているのですか? (「赤ん坊のためです。」)赤ん坊が泣くからです。腹中にいる赤ん坊につめがありますか、ありませんか? つめがありますか、ありませんか? つめで引っかくようになっていますか、どのようになっていますか? どうだと思いますか?
 このように握ってみてください。つめをこのようにすれば、引っかかるではないですか? (親指を中に入れて)ですから、このように握っているのです。この女性たち、このようなことも知らないのですね。(笑い)このように握っていれば、いくらやっても、つめが引っかかりません。このように握っていれば、どのようになるでしょうか? 引っかいてしまうというのです。
 これ(親指の二つの関節)は何かというと、神様の二性性相であり、これ(残りの指の三つの関節を合わせたもの)は、十二か月です。それぞれ三か月を中心として一年を表しています。
 天地の度数の中で、王となられるかたは、どのようにしますか? (右手の親指を立てながら)一等は、このようにするでしょう? そのような話をすれば、面白いのです。話をしてあげればよいのですが、そのような話をするには、きょうは、日の運が良くありません。
 解放。解放を願いますか? (「解放。」)では、目はどのようにしますか? (「目の解放です。」)それでは、「抜き出してみなさい。」と言うのです。耳も解放ですか? 目の解放とは何ですか? いくら抜き取ったとしても解放できません。男性の目の解放がなされるのは、女性の目を見詰めるときです。
 男性が笑うときに、女性がにこっと笑えば、手足が踊るのです。そうですか? 夫が何か不満で、むっつりしているときは、にこにこ笑いながら、「ああ、きょうは朝から太陽が出ているのに、私の夫には雲がかかっていますね。何が悪くて雲がかかっているのですか? 何か気分が悪いことがあるのですか? 会社で何か失敗でもしたのですか?」と言うのです。
 そして、会社の女性のために気分が悪いのならば、「私がその女性に贈り物を贈ってでも、良くしてあげるのに……。」と言い、それが男性ならば、「ああ、その人は、上司になろうとしてなれなかったので、気分が悪くて部下を苦しめたのですね。少し待ってください。私がその人よりもりっぱな息子を生んで、父親の恨の峠を越えさせてあげます。」と言いながらほほえむとき、その話を聞いた夫の、かたくなな心は解けるでしょうか、解けないでしょうか?
 木石のような女性は、だれですか? いくら無感動な女性であっても、そのようなことは基本常識として分かっているというのです。そのようなことを知りながらも、かみついて責め立てるような人は、追い出される女性です。追い出される女性とは、どのような人ですか? (「冷遇される女性です。」)
 疎んじられて冷遇される女性です。そのような女性が通るときには、町内の犬もほえません。「この女め、早く行け。こいつ。ほえるのも恥ずかしい」と思って、犬もほえず、鶏も猫も鳴かず、ネズミまでも穴に入ってぐるぐると回るというのです。千年万年の恨があったとしても、一人の夫に仕えるのです。それが女性の行くべき鉄則です。

 整った顔をしていますが、あなたたちはどうですか? 先生が、世界で一番の美男子と祝福をしてくれると思ったでしょう? 絵を描いてきてくれれば、そのようにすることができます。
 考えてみてください。一万人の男性と一万人の女性がいるとすれば、九千九百九十九人の女性は、一万人の男性の中の十人の美男子を奪おうと、首を絞め合うのです。見た目で良いかどうか判断するのです。顔立ちの整った男性は、皆、浮気心のある男性なのです。
 「五人の男性の名前を書きなさい。」と言えば、五人とも、すべてそのような男性を選ぶのです。高ければ、低いものがあるではないですか? 高い山には深い谷があり、深い谷には、頂よりも岩がたくさんあるのです。でこぼこなものが、もっとたくさんあります。金剛山の奇岩、怪石を見てください。
 すべてそこに合わせることができ、花であれば、自分の花を春夏秋冬、美しく咲かせることができれば、飛んでいったちょうや虫たちが訪れるのであり、自分の王に侍るために王宮に向かう旅人も、それを貴く思って王に進呈しようと根こそぎ……。
 折っていくのではなく、根こそぎ掘り出して、王宮に持っていき、そこに植えようとするのです。そこにおいて、完全な価値を現し、完全な美貌を装って、千年歴史……。自分一代でできなければ、千代、万代、そのようにすることができる花は、王宮に移されていく日が訪れるのです。(「アーメン。」)
 いくら夫が醜くても、赤ん坊の種を持っているということは、間違いないというのです。(笑い)分かりますか? 赤ん坊の種があって、血統の法則が通じるとすれば、先祖に黒い人がいれば、いつかは黒い人が出てくるのです。だれかが、先生のような人を夫として迎えれば、血統の中にその種を受けて、何代目か、何千代目にそれが出てくるというのです。それはどういうことかというと、先祖の血と先祖の細胞が死んでいないということを意味するのです。
 父と母の愛は、一代です。父と母の愛は横的であり、一代です。水平です。垂直ではありません。おじいさんとおばあさんも一代であり、お父さんとお母さんも一代であり、自分の代でも一代です。三代をかけて愛する人がいません。
 それでは、おじいさんのような人と一度結婚し、お母さんのような年齢の人と結婚し、自分の相対のような人と結婚し、娘のような人と結婚し、そのようにしようとすれば、何百歳まで生きなければなりませんか?
 人間の年齢は、八十歳を超えるのが難しく、八十を超えれば九十を超えるのが難しく、九十を超えれば百を超えるのが難しく、百を超えれば百十を超えるのが難しいのです。
 先生の歳に三十年を加えれば、何歳になりますか? (「百十歳です。」)百十歳ですが、今から百十歳まで生きる可能性が……。いくらあなたたちが、「ああ、ご長寿されますように。」と言っても……。
 きょうも元旦ですが、二〇〇〇年を越えて三〇〇〇年に向かって出発する二〇〇一年の元旦なので、韓国では、新年のあいさつをする日です。この多くの人たちに一万ウォンずつ上げたとすれば、いくらになりますか? 一億ウォンが飛んでいくというのです。十万ウォンずつ上げれば、十億ウォンかかります。
 新年のお年玉で十億ウォン上げなければなりませんか、来る人の足が切れても門を閉めなければなりませんか? しかたがありません。ですから、地の果てから飛んできて苦労し、重い荷物を背負ってきた人を呼んで、お年玉を上げました。
 その時間が、どのくらいかかったのかというと、一時間です。それで、きょう、わたしが何分、遅れたのか知っていますか? 二十五分から三十分、遅れたのです。「約束しておいて、三十分、遅れた先生……。ああ、わたしたちには『報告時間をきちんと守りなさい。』と言ったのに、なぜ先生が時間を守らないのか?」と思って裁判にかけたいでしょう? ああ、一万人に三十分なら、どのくらいですか? 五千時間を失ってしまうのです。一ドルずつだとしても、五千時間で五千ドル、十ドルずつなら五万ドルが飛んでいくのです。十ドルで済みますか?
 今日のアメリカでは、十ドルと言えば……。一時間で三十ドルなら、いくらですか? 三(三十ドル)×五(五千時間)=十五で、十五万ドルが飛んでいくのです。先生に給料をくれましたか? (「はい。」)(笑い)給料をくれましたか、くれませんか? わたしは、統一教会の皆さんから生涯、一度も給料袋というものをもらったことがありません。夢にでも一度もらってこそ、あの世に行って、「統一教会の人たちが給料もくれたし、献金もした。」と言うことができるのですが、「献金をした」という話は聞いたのですが、「給料をくれた」という話は、聞いたことがありません。(笑い) 

 さあ、神様の解放とは、何を願うことですか? 万国にお金がないので、豊かに食べさせてあげることができる、お金のふろしきです。アーメンですか、ノーメンですか? (「ノーメン。」)知識のふろしきです。(「ノーメン。」)天地のバランスを取ることができる空中エンジンを開発して、空中オリンピックを開催することができる、技術の大王陛下です。それですか、何ですか? 権力ですか? 
 この辺りの人は、なぜ居眠りしているのですか、この者たち。昼食の時間になったので、おなかがすいたのですか? 神様は、どのような解放を願われるのですか? どのような解放ですか? 政治解放、大統領、博士、お金の包み、そのようなものを願われるのですか?
 神様は、お金をつくることができ、知識の王であられ、権力の王であられるのです。すでに、すべてのものを持っておられ、持っておられるものがあまりにも重いので、引きずって歩くこともできません。男性たちにすべて分けてあげたいと思うのですが、顔を見てみると、分けてあげれば喜びそうですね。
 神様が、最も願われるものは何だというのですか? (「愛です。」)物乞いして暮らしている女性でも、美人がつくったもち米の餅よりも、乞食のような男性がつくった、ばらばらと落ちるアワ飯のほうに、もっと関心があるのです。なぜですか? 美人だからですか? 愛に従っていくのです。そうでしょう? 
 わたしが美男子なら良いでしょう? わたしは、このように顔が良くないのです。それでも、まあまあでしょう。もっと顔が良ければ、壁を越えてくる人が、どれほどたくさんいたでしょうか? わたしが統一教会の教主なのですが、絞首台の主人なのかも分からないというのです。
 このようにしながら、女性のあらゆる姿をすべて見てきました。裸で壁を越えようとして、犬にほえられて見つかり、それで文総裁が悪口を言われたり、三角パンツ一つで道を歩いてバスにひかれて病院に行かざるをえず、それでまた悪口を言われたりしました。ありとあらゆる群像をすべて見たのです。
 人間世界において、女性が起こすあらゆる問題は、すべてわたしが世話をして処理したのです。それで、女性たちが、わたしを好むのかもしれません。お金がなければ、借金して、病院で治療を受けさせてあげ、あらゆることをすべてしたというのです。
 総括的に見れば、悪いことはしていないのです。わたしも、夜でも昼でも、突然、目を開けて、「わたしは悪いやつか、良いやつか?」と言えば、「良いやつだろう」という言葉が、さっと出てくるのです。
 わたしは今、どのような話をしましたか? 夜、突然、目が覚めて、「あなたは、良い人か、悪い人か?」と言えば、「ああ、良い人だ」という言葉が、自分の口から出てくるというのです。ですから、「良いことをした」ということを、この四肢が分かっているということですか、分かっていないということですか?
 神様が、最も好まれるものは何ですか? 何ですか? (「愛です。」)愛ですか? 愛を好む人は、手を挙げてください。あなたたちが好む愛を、神様は一度も好んだことはありません。今まで、なかったというのです。
 その愛ではなく、真の愛です。きょうの題目は、何ですか? 真の愛の主体性である、絶対なる真の愛、唯一なる真の愛、不変なる真の愛、永遠なる真の愛です。絶対、唯一、不変、永遠に変わらない、そのような愛が、真の愛です。
 結婚している人は、手を挙げてください。祝福を受けて結婚したという人は、手を挙げてください。あなたたちは、生涯、自分の妻や夫のことだけを思いますか、行ったり来たりしますか? 行ったり来たりしますか、行ったり来たりしませんか? なぜ下ろすのですか? 下ろさないでください。行ったり来たりしますか、行ったり来たりしませんか? (「行ったり来たりしません。」)
 何ですか? 行ったり来たりするということは分かっているのに、行ったり来たりしないと言うのですか? 祝福を受けて結婚し、しかたなく自分の新郎と暮らしながら、「ああ、あの夫が死んで、もう一度、祝福を受ければ、わたしが愛する人、結婚したい人とするはずなのに……。」と、このようなことを考えたことはないのですか? 本当ですか? 
 あの醜い男性と花咲く青春を消費しても、感謝するのですか? (「はい。」)それは、問題が大きいのです。ああ、知りません。今から一時間くれればよい、今からでも考えなさい、一時間で……。できなければ、条件的にでも一度してみなければならないでしょう。
 条件は嫌いですか、好きですか? わたしが一時間、自由を与えるので、そのようなことを考えても罪にならないとすれば、考えてみますか、考えてみませんか? 考えないという人は、手を下げてください。何のことか分からないのですね。(笑い)
 耳が宝です。心は宝ではないのですが、耳が宝になるときが、本当に多いのです。心よりも、目のほうが宝になるときがあります。心はそうではありませんが、目がそのようなときがあるのです。鼻もそうです。
 五感が、心と違うときが多いということは、皆さんが生活の中でたくさん感じるでしょう? それは、何に違反した心なのかというと、愛の法です。解放的な愛の法度に違反した心です。それは、完全に切ってしまいますか、そのままにしていますか?

 堕落以降、神様は、この人類に対して何の未練も持っておられないのです。このことを知らなければなりません。だれにも未練は持っておられないというのです。
 神様ご自身が、未練を持とうとされるのは、この人類を再び取り戻す道です。取り戻すためには、世の中の人が好み、世の中の人が持っているすべてのものを一つもなくした立場を越え、(再び)所有することができるようにする、そのような方法しか救う道理がない、ということを知らなければなりません。何のことか分かるでしょう? はっきりと理解しなければなりません。
 神様は、宇宙をつくられた主人でしたが、すべてを失ってしまいました。失ってしまったものに未練を持ったまま、それを見詰めて泣くのではありません。そこには、宇宙が入っているのです。力の世界、知識の世界、物質の世界、お金の世界がすべて入っているというのです。そのようなすべてが入っている世界を失ってしまいました。その中で神様が願われるのは、愛だけです。
 愛を理解することができるのは、草木でもなく、動物でもなく、血統が一つになった息子、娘なのです。しかし、今まで血統が連結されていませんでした。
 神様が一代ならば、アダムは二代であり、三代が連結されてこそ、神様の縦的な血統と父母の横的な血統を連結させることができる種ができるはずなのです。ところが、三代を失ってしまった神様は、天の国を否定し、地上天国を否定し、すべてを失ってしまいました。失ってしまった世界に求めるものはないというのです。
 そこで、万物圏を抜け出し、息子圏を抜け出て、この地上で最も貴いと思う父母圏までも否定する立場を越えて、越えて、さらに越えて、否定に否定を重ね、一つも未練がないという立場に立たれます。そして、再び所有権を持つことを待ち焦がれるのが、再創造の主人であられる神様の立場であるということに間違いないということを、はっきりと知らなければなりません。
 この世界を(再び)所有しようとされるので、「怨讐を愛しなさい」という言葉を言わざるを得なかった、神様の立場を考えてみてください。億千万世の怨讐を愛する、その内実をだれが知っていたでしょうか?  縦的な真の父母の立場にいらっしゃる神様 が、持っているものがないのです。
 そこで希望を持つためには、カイン、アベル、怨讐の兄の立場、怨讐の父の立場、怨讐の王の立場を愛さなくては、その世界の一つの万物も、息子、娘も取り戻すことができないということが神様の恨だった、ということをこの時間に知らなければなりません。
 それで、救援摂理においては、「長子権、父母権、王圏を成したサタン世界を愛しなさい。」と言うのです。代々受け継がれていく怨讐の血を、独身生活を強調しながら(再び本然の血として)取り戻そうとされ、その血統を清めようとされる神様の立場が、どれほど無念であるのかを考えてみてください。
 そこにおいて、どこに万物があり、どこにイエス様がいますか? イエス様も成し遂げることができませんでした。それに対して、再臨主もみ旨の定着を成すことができませんでした。それを所有するためには、サタン世界の万物の前に恥ずかしさがあってはならないのです。
 万物が愛の恩恵に酔い、「お返しする道がないので、神様が求めたいと思われた以上に、生命までもささげます。」と、言うことができる、愛の感動を成しえていない基台の上においては、真なる愛の救援摂理の道が開かれないということを、この時間に全員が悟らなければならないのです。
神様はかわいそうですか? かわいそうですか、かわいそうではないですか? (「かわいそうです。」)そのようなかわいそうな神様を解放してあげようという、統一教会の解放的子女の立場に立ったわたしたちにとって、万物が貴いのですか? この者たち。子女が貴いのですか? 堕落圏内の国と世界にいて、いまだに神様の位置に上がることができていない夫が貴いのですか? 
 「神様の恨の影を消すことができないという怨恨を抱いた万物を、わたしたちが愛することができる、ということに対して、恥ずかしさを持つ姿勢を忘れてはならない」という決意を、この時間に再び、しなければなりません。
 神様は、個人を中心としてそのような信念を持って、千万回も岩の峠を越えてこられたのです。そして、心と体の闘いを止めるために、何千万年の受難の道を越えてこられたのですが、闘いの道を行く万民の心と体を止めることはできませんでした。
 体は体で自己主張し、心は心で自己主張し、だれも神様と同じ立場で、自分を完全に屈伏させる心になることができず、そのような体にもなることができなかったので、(自分は)恨の実体であるということを知らなければなりません。それを見詰められながら、福を祈っている人に福を与えようとされる、そのようなつまらない神様ではありません。
 サタンの血統、サタンの風習、サタンの愛の血統に変わってしまったものを愛することが、どれほど難しかったかということを知らなければなりません。
 継母と連れ子の逸話を、よく知っているでしょう? 自分の直系の子女よりも、継母の子女を何十倍、何百倍、何千倍愛さなくては、人類の怨讐の血統を乗り越えることはできないという、そのような囚われの身となられた神様を思うとき、だれがその神様を解放してさしあげるのですか? 考えてみてください。
 瞬間史よりも千年史が、もっと怨讐です。長いほど怨讐であり、困難であるほど怨讐です。休むことができる道では、神様や天国との関係を結ぶことはできない、という事実を知らなければなりません。

 悲痛な歴史です。無念で恨めしい歴史です。どうして神様が、そのような立場に立たれ、人類の真の父母がこのような無念な立場に立たれ、そのような囚われの身で呻吟されるのでしょうか? 一体、その理由は何でしょうか? この愛のゆえです。何がこのようにしたのですか? 男性と女性という二つの動物であり、この体です。分別がつくようになる前に、火遊びをしたというのです。
​​ あと一年半か二年だけ過ぎれば、神様が親しくアダムの心の中に、エバの心の中に入っていかれて、結婚式をさせるのです。その結婚式は、アダムとエバの結婚式ではありません。 縦的な真の父母であられる神様の結婚式であり、横的な実体としての真の父母であるアダムとエバの結婚式 なのです。​​
 この二つの愛の結婚式となり、縦的と横的が決着する一点が九十度です。決着できなければ、神様の理想的な愛と人間の理想的な愛は、永遠に巡り合うことはできないというのが、理論的なのです。
 九十度に合わなければなりません。神様は、いつでも九十度にいらっしゃいますが、人間が八十九度や九十一度にいれば、一つになりません。欠陥品です。それを合わせるために、メシヤを送られ、真の父母を送られたという事実を知らなければなりません。
 メシヤと真の父母が来るために、旧約時代においては万物に血を流させました。腹を割き、命を絶ち、最も純潔な動物の血を流して分け合ったのです。右側は神様のものであり、左側はサタンのものとして二等分する恨みの穴が生じたのは、血統が変わってしまったからです。
 このようにして、零の点から始めて人類全体に対したのですが、同じ位置から出発して零点に入っていくのです。そして、「わたしがあなたたちよりももっと愛し、より愛したものが、良心を中心として完成するとき、その愛の基準は、体を中心とした愛よりも高くなることができるので、本然の基準で精誠を尽くして、神様を愛するために訓練をした愛になれば、このサタン世界の愛を越えることができる。」と言うのです。これが、宗教がすべき召命的責任であり、使命的責任であったということを知りませんでした。
 良心に力を与えなければなりません。七〇パーセントは良心から力が出て、三〇パーセントは体から出る、このような基準にあるとすれば、心と体は自動的に一つになることができるのですが、良心の呵責を受けながら……。
 南北を指している磁石を、東西に向ければ力が加わるように、そのような呵責を受け、自分自身の存在位置がなくなることを感じながらも行動することができる、そのような強い力の起源は、愛の道しかありません。
 あなたたちの父母も、あなたたちが分別がつくようになる前に浮気すれば、問題にするでしょう? 「時になる前に火遊びしてはいけない。」と言うでしょう? 間違いを犯せば、一代ではなく一国、天地を滅ぼすのです。アダムとエバがそのようなことをして、天下を滅ぼしてしまったのです。根こそぎ引っ繰り返して、神様を追放してしまったのです。
 神様は、それを中心として所有が連結され、因縁的な連体関係と相応的な対応関係によって連結された万宇宙の根が沈んだので……。鉛の重りが沈んだので、そこにつながっている網は沈むようになるのです。
 サタンの所有になったものを救う道理はありません。怨讐を自分の息子、娘よりも愛するまでは、より愛するまでは救う道がないのです。ですから、神側の長子として立てたメシヤであるイエス様を十字架にかけて、天の側に取り戻してくるようにしたのです。
 万物を犠牲にして開いた道に、神様がひとり子のイエス様を息子として送られ、真の父母となることができるかたを送ってくださったのです。そのかたを結婚さえ、させてあげていたならば、天下を一時に、一つのところに抱くことができたにもかかわらず、イスラエルの国とユダヤ教が……。
 国がカインだとすれば、ユダヤ教はアベルです。二つが一つになってメシヤをお迎えして侍り、絶対信仰、絶対愛、絶対服従していたならば、ローマ帝国が問題ではありません。
 それを中心として立て、三〇パーセント、二〇パーセントだけでも一つになれば、それを岩に結びつけるようにして一体化させるのです。そのようにすれば、ローマがぶつかってきても、ローマの頭が割れ、足が折れ、四肢が裂かれていくようになっているのです。それがふらふらとするので、問題なのです。
 それを接ぎ木し、固定された力を中心として、神様の愛の血統を万国に連結することができる、キリスト教と立体的祝福圏をつくっていたならば、天下統一は問題ではないというのです。
 そのことができずに死んだので、二千年の受難の道を行くのです。牛の子や動物の子が死んでも、恨はありません。それは間違いなく、そのようになるべきものです。これは、自分よりも高い存在の前に生命をささげなければならないのです。
 ところが、 天地を創造された主人の中の主人、王の中の王、師の中の師、父母の中の父母であられる神様 が、僕よりも、もっとかわいそうな立場に立つようになったのです。そのようなことが、ありえますか?
 しかし、怨讐の子女を自分の子女よりも、もっと愛するところからは、サタンがぶるぶると震えながら離れていくのです。そのような道を行かれる神様は、喜んでそのようにされたのか、ということです。

 今日、このような統一教会の群れを通して、真の父母に侍り、国境を越え、怨讐世界のすべての国境を撤廃し、一つの血肉として連結された血統に通じる一族を成しているのです。そのような天の眷属(親族)を取り戻すということが、神様のみ旨ではないのかというのです。
 ですから、皆さんの過去の負債とは、この宇宙にある万物の半分を祭物としたということです。そして、ひとり子をこの地上に送って犠牲にされたのは、あなたたちを救うためであったということです。
 真の父母を迎えて、国の統一、氏族、民族、すべてを統一していたはずであるにもかかわらず、キリスト教が反対することによって、先生の家庭が完全に分かれてしまったのです。南北が分かれ、一族が分かれ、父母と妻子がすべて分かれてしまったのです。
 それゆえに、統一教会の歴史の中に「離婚」という言葉が生じたのです。離婚が生じたというのです。鉄則のような天理を知っている先生は、死んでもそのようにすまいとしたのですが……。(そのままでは)世界をすべて滅ぼしてしまうので、しかたなくこのようにしているというのです。
 それゆえに、「主人であられる神様が、解放された天地父母と子女が心身一体となって、真の愛の主体性である絶対、唯一、不変、永遠の理想的四位基台完成をモデル型家庭からモデル型国家、モデル型世界、モデル型天宙の基盤の上に成すことができる時なのです。
 ですから、神様に侍って、そのかたの恨を解き、解怨成就して、主導的な本然の天地創造の主人となられ、王の中の王となられ、父母の中の父母となられ、長子の権限をもって千年万年、次子を治められる、太平盛大で永遠不変、公明正大の世界に転換されますように」という、このことを成すために、今から一月十三日まで、神様をお迎えして侍り、王の位置に推戴するのです。
 言葉では簡単でしょう。文某の名によってするからと言って、できると思いますか? 言葉だけでできると思いますか? 霊界に行った先生の四人の息子、娘がいるのです。彼らは皆、途中で死に、自分の寿命を全うすることができませんでした。統一教会と統一教会に反対する歴史的なすべての罪を背負って蕩減の道を行った、かわいそうな人たちです。全員、客死です。
 世の中は嘲弄して、「文総裁の息子、娘は、皆まともな死に方ではなく、ぽっくり死んで、その息子を祝福して、天上世界の長子権だ何だと、ぺてんにかける詐欺師の中の詐欺師だ。」と、悪口を言うのを聞きました。それは、だれのゆえですか? 日本が責任を果たすことができず、韓国が責任を果たすことができず、アメリカが責任を果たすことができなかったというのです。
 世界が責任を果たすことができなかったので、先生はすべてを捨てて出ていったのですが、(本来は)門を閉じて番人となり、蘇生的旧約時代、長成的新約時代、完成的成約時代、家庭が金城鉄壁のように……。
 人類の第一イスラエル、第二イスラエル、第三イスラエルまで、すべての民とすべての国を一つにして、侵犯されないように金城鉄壁を成さなければならないのに、門をすべて開いてしまいました。主人が山うさぎを捕まえに行っていて留守なので、その間に虎が、家のうさぎを食べていったのです。そのようになったというのです。
 怨讐を愛さなければ帰る道がないという、神様の流れ者のような立場を、だれが理解してくれましたか? 聖書にあるでしょう?
 「『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』」(マタイによる福音書二十五章34~36節)
 イエス様が十字架に付けられたのは、神の国とその義のためです。神様の故郷と神様の祖国のためです。先生が苦労したのは、先生の故郷と神様の故郷と神様の祖国と先生の祖国のためです。
 皆さんの代わりにしたのです。あなたたちは、故郷がなく、祖国を失ってしまった群れです。故郷の地を刀でめった切りにした寄生の群れと同じです。こちらに行って吸い上げ、あちらに行って吸い上げて寄生する虫が、寄生虫です。
 皆さんは、鉄や石のように堅い約束をして、祝福結婚をしたのに、再び堕落するのですか? ダイナマイトを設置して爆破してしまったとしても、すっきりしません。三時代の動物と植物と息子、娘、父母まで祭物にした基盤で、再び犯罪を犯し、罪を犯すのですか?
 自分を中心として、「好きだ」、「嫌いだ」と言うことができますか? 神様は、怨讐の子女を自分の息子、娘よりも、自分の父母よりも、自分の妻子よりも、もっと愛さなければ、復帰することができないのです。帰る道がないというのです。
 そのような神様の前に、チャンピオンになり、旗手として旗を掲げた先生に対して、真の父母に対して、世界はありったけの力を注いだのです。日本もありとあらゆることをすべてしました。しかたがないので、今、お尻を隠して……。「どれ、だれが勝つか見てみよう。」と、力で来れば、私は力で対します。外交で来れば、外交で対します。
 私は、押さえ込んでも余りある力を持っている人です。無力な人ではありません。アメリカが恐れ、ソ連が恐れ、中共が「恐ろしい。」と思っているのです。恐ろしいと思われているからといって、力で押したことはありません。愛でしたのです。
 血と汗を流した自分の息子、娘の血肉を抜いて祭物とし、それを売った血の代価を彼らのためにまき、教育して大会をしながら、天に接ぎ木しようとする師の心を、だれが知っていましたか?

 皆さんも同様です。神様の存在圏を超えて、怨讐の子女を自分の息子、娘、自分の父母よりももっと愛さなければ復帰できないという天理を知り、天地の門を開かれた天地父母を知ったので、その父母と一心一体となって……。一つになってです。ぴたっと同じ……。
 神様が、すべてを失われてしまって……。このように立っているのですが、自分の前には一人もいません。怨讐に抱かれたすべてのものを取り戻そうとされるので、後ろを向いて、王圏を持った立場で自分の息子、娘よりも、父母よりも、主人の中の主人としてだれよりも努力したその位置において、その怨讐が……。天使長が堕落しましたが、天使長は、本然の神様を知っています。主従関係を知っています。「あなたが愛の道を否定すれば、否定した愛よりも、わたしがもっと愛する。」と言うのです。
 サタンは、「愛の血統を通して支配することができるのですが、あなたの一族は、愛の血統を失ってしまい、怨讐以上に愛する神様の血統を否定するのですか?」と言います。それは、否定できないのです。神様は、持っているものが一つもありません。ただひとえに、血が煮えくり返るように、子女である愛するアダムの家庭を、どれほど呼ばれたか、考えてみてください。
 「アダムよ」。昼も夜も、季節が変わり、日が変わり、移りゆく日々の中でも(アダムのことを)考えない日がない、そのようなアダムを失ってしまったのです。どれほどアダムを呼ばれたことでしょうか? アダム一人を再創造するために、今まで数千万年間かけてきたのです。先生が現れなかったら、大変なことになるのです。
 アダムを取り戻し、イエス様が失敗したことまでも取り戻すために、世界的版図において生きる道を築いていく中で、アダムは何をしなければならないのですか? エバを失ってしまいました。女性が怨讐です。これは怨讐たちです。あらゆる群れが、わたしを誘惑してしまおうと、ありとあらゆることをすべてしたのです。女性たちが、です。
 お金で誘い、権力で誘ったというのです。権力者の妻たちに、通行禁止時間に追われながら、あらゆる脅迫、恐喝を受けた男です。お金が必要ならばお金を、何が必要ならば何を、言うとおりにするはずなのに……。通行禁止五分前のサイレンが鳴る直前に、「死にそうなので出てきてください。どこどこにいるので出てきてください。」と、言うのですから、出ていかないわけにいくでしょうか?
 無念で悔しく、ふんまんやる方ない事実が、どれほど多いか分かりません。(しかし)それがだれかというと、妹の立場にいるのです。妹の立場なのです。主管圏を転覆されたのは、アダムの責任です。「それを避けようとするなら、統一教会の教主という名前、真の父母という名前をほうり投げてしまいなさい」と言うのです。神様を知っているがゆえに、ほうり投げることができません。
 それには、お金も、権力も、知識も、何も必要ありません。千万の恨の峠、それもはるかに高く、はるかに深いのです。どのようにして平地をつくるのですか? 怨讐の子女を自分の息子、娘よりも、自分の父母よりももっと愛さなければ、行く道がないのです。このことを知らなければなりません。
 そうであるにもかかわらず、自分の貯金通帳にお金を隠しておいて、「先生が、そう言うならそうであり(先生は先生で、自分は自分、というニュアンス)、行かれても、また、昔のように訪ねてくるだろう。」と、言ってはいけません。最後の道です。分かりますか? (「はい。」)
 所有している立場では、真の父母の血統を受け継ぐことはできません。お金があり、物があり、土地があり、家がある立場ではいけません。神様は、お金もなく、土地もなく、家もありません。
 「アリラン、アリラン、一人きりのアリラン」「一人きりのアリラン」という獨ク島(竹島)の歌も、韓国の人は、よく分かるでしょう。その心情です。
 わたしは、どのようにして、一月十三日に神様の前に立つのですか? どれほど、とてつもないことですか? どれほど不足でしょうか? できることならば……。わたしは、それをすることを願いません。逃げていきたいと思います。逃げて解決することができるのならば、すでに逃げています。逃げることはできない、その道を越えていかなければなりません。
 いくら恐ろしい岩石に押されても、それを処理してから行くべき道を行かなければなりません。そうでなければ、そこに乗って跳んででも、行く道があれば、飛んで川を越えてでも行かなければなりません。
 運命の道ではありません。宿命の道です。父と子を代える道理はなく、売ることもできません。父子関係ではないですか? 神様は、わたしの父です。間違いなく、わたしの父なのです。その父を捨てて、世の中に未練を持ち、サタンの血統によって汚された、ぼろぼろのふろしきを抱えて踊りを踊るのですか、この者たち。それをきれいにして越えていかなければなりません。
 「このような罪を犯した、すべてのふろしきを領置して、記載し、何十倍にしてあなたたちに返してあげるので、教会のものとして保管しなさい。」と言っても、そのとおりにしない、この者たち。泥棒のような者たち。それで入籍だと言うのですか? 神様は、今まで入籍できませんでした。

 入籍する国と世界を持たなければ、再び神様を訪ねて、お迎えすることはできないので……。その責任は、地にいる父母である真の父母と興進君の二人が持ちました。
 世界に広がっている人たちは、たくさんいますが、父母と子女が二代を通して果たすべき「責任的復帰」という言葉が残っているので、霊界と肉界の父子関係をまとめ、人類罪悪史のアダム時代、イエス時代、再臨時代、三時代を越えて、怨讐の子女を三倍以上、十倍以上に愛することができる心がなければ、サタンを屈伏させる道がありません。
 サタンはそれを知っているので……。神様は、一九九九年三月二十一日に勧告されたのです。「文総裁の性格と文総裁がしてきたことを見れば、後でおまえの首を切り、影も形も見たくないので、絞首台で声も出せずに火で燃やしたいという思いがある。時が来る前に勧告する。」と言われたので、(サタンは)中間で降伏宣言をしたのです。
 神様の前に、真の父母の前に降伏をしたので……。サタンが支配していた霊界、楽園や地獄を撤廃してしまわなければなりません。
 (二〇〇〇年)十二月三日、先生が原理原則を中心として、地獄撤廃と楽園撤廃という、とてつもなく暴動的な運動を提示したのです。
 彼らを中心として、釈迦や四大聖人を兄弟圏に詰め込んだのです。教派はありません。仏教、儒教、イスラム教、キリスト教、すべて解体です。霊界は解体されました。それで、蘇生、長成、完成の完成圏は天の圏なので、三分の一、三〇パーセントを祝福してあげなければなりませんでした。昨年の十二月まで、地獄に行った霊人たちをすべて解放です。
 地獄にいる人にも、親族の兄弟たちにも橋を架け、そこに絶対信仰、絶対愛、絶対服従すれば、その基準を中心として連結し、橋をすっと上がっていくことができる道をすべて連結させておいたというのです。地獄にいる人たちも、天国に行くことができる門が開かれました。
 先祖を先祖と思い、子孫を子孫と思い、天を理解して、その道を行けば、いくらでも上がっていくことができるので、努力すれば……。もし、言うことを聞かなければ、行って教えてあげ、逆さまに引っ張って、強制的にでも上がっていくことができるというのです。
 旧約時代の霊形体二千年、生命体二千年を通して待ちわびてきた、その環境をいっぺんに結んでおきました。分かりますか?
 旧約時代撤廃、新約時代撤廃です。一九九七年から二〇〇四年四月までの七年路程です。アダム時代にアダム一代で完成することができなかったことを二千年間延長しました。そして、イエス様の国家的時代においてアダムの失敗を(再び)成就しようとして失敗し、再び二千年間延長しました。世界的基準のこの時代において、六千年目にして、このすべてを一度に連結させたのです。
 成約時代、祝福時代の完成を予告することができる時代が来たので、その全権的な内容を中心として、霊界と肉界を教育して、分派をつくっていた国境線を撤廃し、宗教という宗教をすべて、中心的主流思想に連結させることができるように、祝福してあげました。
 祈祷してみてください。孔子の相対は、どこにいますか? イエス様の相対は、どこにいますか? 釈迦の相対は、どこにいますか? マホメットの相対は、どこにいますか? 他の所にいるのではありません。すべて統一教会にいるというのです。
 何千年前に死んでいった人たちは、結婚を知りません。天使長世界は、相対圏が許されていません。これを先生の時代になって……。宗教は、独身生活を強調し、すべてを放棄しなければならないのです。国を否定し、自分の愛まで否定しなければ、天に帰る道がありません。
 しかし、ペアシステムによって、天国に入っていくようになっているのです。ゆえに、文総裁が現れて、真の父母の伝統を立てたので、家庭救援と国家救援、世界救援を一時にすることができるのです。
 この国の大統領が、私の言うことさえ聞けば、公表して一週間以内に四千万が、一度に天国の民として入籍することができるのです。六十億人類が、一週間以内に復帰される時が来ました。なぜですか? 家庭さえ祝福してあげれば、編成は問題ではないというのです。分かりますか? (「はい。」)
 あなたたち祝福を受けた家庭は、今から何かというと、祈祷の題目が変わると言ったでしょう? どのように祈祷するのですか? 「祝福の中心家庭◯◯の名前」で祈るのですが、それは祈祷ではありません。報告です。
 祈祷時代は、罪があり、その赦しが必要なので祈祷するのであって、今は、赦しが必要ありません。すべて先生が代わりに成して、ただで天国を所有することができる権利書を上げました。
 南北統一をしなければなりません。しなくてはならないのです。アメリカが、それを協助しなければならないようになっています。協助しなければ、どうなるか見ていましょう。
 国連が協助しなければなりません。協助しなければ、どうなるか見ていましょう。国連を攻撃してしまうのです。「この者たち。十六か国を送って、『南北統一をしなさい。』と言ったのに、そのようにしないのか。今までわたしが引っ張ってきたのに、言うことを聞かないのか、この者たち」と言えば、びくともできずに、わたしに引っ張られてくるようになっています。
 NGO(非政府組織)総会を通して、教育すべきことは、すべてしました。昨日(昨年)の十二月までに、百九十一か国での教育を終え、最高の指導層で名のある人たち三百六十人の教育を、すべて終えたのです。
 いくら自分たちが話が上手で、あらゆる乱雑な者たちに会って大騒ぎしながら自己主張しても、先生が教えるように、青少年問題と家庭破綻を解決することはできません。マフィアも、ヤクザも、すべてそれを証言するようになっているのです。これは、文総裁が持っている特権です。特権であると同時に、特許権です。真の父母の特許権です。
 それを知ろうとすれば、天を知らなければなりません。神様を知らなければならず、天の国を知らなければならず、血統が貴いということを知らなければなりません。血統が貴いということを知らなければならないのです。この者たち。この三角地帯を、自分勝手に使うことはできません。

 この韓国の男性、女性たち 「日本人に負けるな。」と言うのです。ええ? (「はい。」)分かりますか? (「はい。」)努力しなければなりません。韓国が政治問題を解決すれば、ここに世界的に投入された人たちを、すべて日本に投入して兄姉の役割を果たすのです。何十倍犠牲になったとしても、堂々と進んでいくことができる姉にならなければなりません。
 ヤコブの妻には、レアとラケルがいます。ラケルが受け継ぐべき家系を、すべて奪ったのはレアです。姉です。日本人を働かせようとする人は、レアと同じです。そのような人は、姉になることはできない、ということを知らなければなりません。僕になるのです。分かりますか? (「はい。」)
 レアが、祝福を祈ってあげるという、姉としての責任を果たさなければならないのです。負債を負って生きることを願う者たちは……。今から、韓国は韓国が責任を持たなければなりません。
 先生は、離れていくのです。責任を果たせなければ、離れていきます。南北に世界の人員を動員し、会議をすべて行い、どこにも一つの山峡もなく、山脈もなく、谷間もありません。海もありません。平地をつくっておいたのです。ここに世界を指導することができる、万全の準備を急ぐこの時に、自分の家で大小便をするようなことをし、山猫や狂った犬のようなことをしている人たちは、役に立ちません。
 それゆえに、荷物をまとめて、アメリカでもどこにでも行き、自分が自主的な権限を持って、神様と真の父母を解放し、万物を解放し、真の愛の主体的な主体性は絶対愛であり、絶対、唯一、不変、永遠な家庭の主人にならなければなりません。神様が訪ねてこられる「わたしの家庭」、真の父母が訪ねてくることができる「わたしの家庭」、そのような家庭にならなければなりません。
 そのようになるためには、神様以上に、真の父母以上に……。すべて失ってしまいました。今まで、一度も所有したことがありません。それを理解して、どのように処理すべきなのか、はっきりと分かりましたか、分かりませんか? (「分かりました。」)郭錠煥氏から責任者たち、分かりましたか、分かりませんか? (「はい、分かりました。」)日本のメンバー、分かったでしょう? ヨーロッパのメンバー、先生の言うことが分かったでしょう?
 さあ、分かったならば、実践躬行しなければならないでしょうか? 躬行とは何ですか? 不可避的に行うということです。躬行の反対は何ですか? 「蛮行するな。」と言うのです。こちらで反対し、あちらで反対し……。
 きょうの標題、主体性です。分かりますか? (「はい。」)真の愛の主体性、真の神様の真の愛の主体性、真の父母の主体性……。
 今まで、この所有観念がありませんでした。どのようにして、きちんと祭物にして峠を越えていくのか、ということです。どのようにして精誠を加えて峠を越えていくのか、ということです。
 持っているものがあれば、最高のものを積んで火をつけ、それを神様が総生畜献納物として受け入れてくださるのか、ということが問題です。総生畜献納物として割かずに、それを自分の父母から子女、万物……。
 旧約時代は万物であり、新約時代は子女であり、成約時代は父母です。三時代が祝福家庭にかかっているのですが、そこには何もありません。あなたたちの所有は、神様の所有であり、真の父母の所有です。それは、愛の所有です。それさえ持っていれば、どこに行っても、食べて生きていくことは心配ないというのが、エデンの事情であったということを知らなければなりません。
 国がなく、孤独単身で闘う真のご父母様の影をなくしてあげなければならないのに、もっと影をつくるのですか?
 白ペク頭ウ山のような怨讐の影を抱いて、先生が行くべき太陽の光に照らされた道を影の道にしてしまう、そのような悪党の群れになってはなりません。そのような者は、わたしの手で処理します。
 わたしは、とても厳しい人です。このような話はしないようにしようと思うのですが、しなければ、霊界に行ってから、わたしを恨むのではないかと思って、はっきりと教えてあげるので、極端な言葉で結論を下して勧告するのです。分かりますか? (「はい。」)全員、分かりましたか? (「はい。」)分かったら、両手を高く……。立ってください。立ってください。拍手で歓迎してください。(拍手)
 さあ、真の愛の主体性です。分かるでしょう? (「はい。」)絶対なる真の愛、唯一なる真の愛、不変なる真の愛、永遠なる真の愛を成し、四位基台圏を成して、それぞれの家庭が解放され、歴代の先祖の血統を清めて垂直に伝授することができる民族、そのような国となってこそ、神様の祖国光復と真の父母の祖国光復が成就され、解放圏が成し遂げられるのです。アーメン。(「アーメン。」)
 さあ、そのようにすることを誓ったので、それを信じて、きょうの集会を終わります。分かりますか? (「はい。」)(拍手)(「万歳。」)​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。
奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵
世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2023.12.29 00:33:18
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